2023-12

2023・12・9(土)上岡敏之指揮読売日本交響楽団&二期会合唱団

       東京芸術劇場 コンサートホール  6時

 これは読響の主催ではなく、東京二期会&二期会21の主催。二期会創立70周年記念の一環となっている。
 プログラムは、ストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」と、モーツァルトの「レクイエム」(ジュスマイヤー補筆版)。
 協演の声楽ソリストは盛田麻央(S)、富岡明子(A)、松原友(T)、ジョン・ハオ(Bs)。コンサートマスターは日下紗矢子。合唱指揮は根本卓也。

 二期会主催であるからには、主役は声楽陣ということになるが、実際に聴いたところでは、映えたのは合唱団、それも「レクイエム」における歌唱━━と思えたのだが、如何だったろう。ただこれは、私の聴いた席が、前半の「詩篇交響曲」が残響の極度に長く聞こえる1階席後方、「レクイエム」がクリアな音に聞こえる2階席前方、という具合に異なっていたので、あまり明確な判断というわけにも行かない。

 いずれにせよ、特に「レクイエム」での上岡敏之の指揮がかなり劇的で、「キリエ」からすでに異様なほど速いテンポで驀進し(ここでの合唱がよくついて行ったと思うのだが)、しかも文字通りのアタッカで「怒りの日」で突入した時のデモーニッシュな迫力は凄まじいものがあった。楽曲全体を完璧なバランスで構築するという点でも、彼の指揮は卓越していただろう。

2023・12・9(土)カーチュン・ウォン指揮日本フィル 12月東京定期

       サントリーホール  2時

 桂冠指揮者アレクサンドル・ラザレフは結局来日できなかったが、代役として首席指揮者カーチュン・ウォンが自ら登場したとは豪華な話。
 外山雄三の交響詩「まつら」、伊福部昭の「オーケストラとマリンバのための《ラウダ・コンチェルタータ》」(マリンバのソロは池上英樹)、ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」を指揮した。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 「ラウダ・コンチェルタータ」での池上英樹のマリンバ・ソロはさすがにスケール感があり、しかも刻々と変化するような色彩感まで感じさせるといった演奏で、この曲をさらに面白く聴かせることに成功していた。

 ウォンの指揮のもとで、日本フィルが新境地を開拓したと感じられた演奏は、やはりショスタコーヴィチの「5番」だった。これは白眉であったろう。特に日本フィルの弦楽器群がこれほど怜悧で鮮烈な音色を響かせるなど、一昔前には考えられなかったことである。

 ウォンはその弦楽器群を、内声部を明晰に浮き上がらせ、曲全体を驚くほど豊かな和声感を以て包み込んで行った。第1楽章の頂点の個所や、第4楽章の熱狂の部分など、普通の演奏なら金管楽器群を痛烈に鳴らしまくるものだが、今日のウォンはむしろ弦楽器群を強靭に響かせ、金管はその奥の方から聞こえて来る、というバランスを構築していた(これは2階RC席で聴いた音響バランスである)。これがいっそう和声感を強くする要因にもなっていたと思われる。

 といって、ウォンの指揮が音響的に茫洋としていたわけではない━━弦のアクセントの強烈さ(例えば第1楽章第12小節最後のヴァイオリンの2分音符。総譜ではフォルテひとつなのに、ほとんどフォルテ三つで切り込んだようにさえ感じられた)、クレッシェンドの鋭さなどは並外れなものがあった。
 これほど隅々まで神経を行き届かせた「5番」の演奏も、滅多にないだろう。テンポは全体に速めで、終楽章の冒頭や大詰めでの昂揚も凄まじく、エンディングは総譜通りリタルダンドなしで、猛然と終った。

 カーチュン・ウォンという指揮者、やはりただものではない。日本フィルは、いい人選をしたものだ。

 4時15分終演。池袋の東京芸術劇場へ移動。

2023・12・5(火)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 前常任指揮者・現桂冠指揮者のシルヴァン・カンブルランが登場。
 11月30日の「名曲シリーズ」ではモーツァルトやドヴォルジャークの作品と一緒に武満徹やシチェドリンの作品を指揮していたが、今日の12月定期では、ヤナーチェクの「バラード《ヴァイオリン弾きの子供》」と序曲「嫉妬」、リゲティの「ピアノ協奏曲」、ルトスワフスキの「管弦楽のための協奏曲」という、すこぶる意欲的なプログラムを指揮した。
 その上、協奏曲ではピエール=ロラン・エマールがソリストを務めるという豪華キャスト。コンサートマスターは日下紗矢子。

 1曲目と3曲目にそれぞれ置かれたヤナーチェクの作品は、「ヴァイオリン弾きの子供」のほうは━━美しいソロを弾いてくれた日下さんには悪いけれども━━綺麗な曲ではあるが、それほど面白いとは言えないものだった。やはり「嫉妬」の方が、この作曲家の美点のひとつである鮮烈な感性がより強く表出され、劇的な力にあふれた作品に感じられてしまう。

 この「嫉妬」が当初の案通りにオペラ「イェヌーファ」の序曲か前奏曲として使われていたらどんな効果を生んだであろう、と想像すると興味も尽きないが、あのオペラ本編の音楽を思い浮かべて対比してみると、この作品の方は、やはり激しすぎ、重すぎる感がしないでもない。

 ともあれ期待通りだったのは、リゲティとルトスワフスキだ。
 前者のピアノ協奏曲は1988年完成の、25分弱の作品だが、複雑精妙なリズム、楽器の特殊な演奏法による音色の多彩さ、千変万化の和声の響きなど、目も眩むばかりの世界が展開する。そして、目を閉じて聴いていると、その感覚的な衝撃がいっそう凄まじいものになる。鋭角的なソロで快演したエマールもさることながら、カンブルランと読響の演奏の、縦横無尽に音が飛び交う鮮やかさは、実に見事なものだった。

 なおエマールはそのあと、アンコールとして、同じリゲティの「ムジカ・リチェルカーレ」からの第7番と、一度引っ込んでからまたもうひとつ、第8番なる曲を弾いた(もし拍手が続いていたら、あの勢いでは、もっと弾いたかもしれない)。

 この日のプログラムを締め括ったのはルトスワフスキの「管弦楽のための協奏曲」だったが、これまた見事と言うほかはない濃密な演奏。1954年完成の作品だから、これまでにも何度か聴いているはずだが、今日の演奏は、これほど多彩で面白い曲だったか、と改めて感動してしまうほどの快演だった。各楽器の「協奏」━━というより「飛び交う音群」が、些かも「ごった煮状態」にならず、鮮明に、明晰に交錯して行く面白さ。カンブルランの優れた手腕。そして、やっぱりこの曲はナマで聴くに限る、と改めて痛感する。
 この曲のあとで沸き起こったブラヴォーの声は、先ほどのコンチェルトでのそれを凌ぐ勢いだった。カンブルランも、ソロ・カーテンコールされた。彼の人気は今なお衰えていない。

2023・12・4(月)クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル

        サントリーホール  7時

 今年のクリスチャン・ツィメルマンのリサイタルは、11月4日の柏崎に始まり、12月16日の所沢まで、全10回にわたるものだという。例のごとく、すべて同じプログラムによるものだそうな。

 前半にショパンの「夜想曲」から作品9-2、15-2、55-2、62-2の4曲(「2」を揃えたわけでもあるまいに)と、「ソナタ第2番《葬送》」。後半にドビュッシーの「版画」と、シマノフスキの「ポーランド民謡の主題による変奏曲ロ短調」。アンコールがラフマニノフの「前奏曲ニ長調作品23-4」。
 ショパンの作品を入れたのは4年ぶりのことになるか。「版画」は、11年前のちょうど今日行なったリサイタルでも弾いているので、お気に入りの作品なのだろう。

 ショパンの「夜想曲集」が始まった瞬間から、その音色の透明清澄な美しさに魅了させられる。今回の楽器は良いようである。
 どの曲においても晴朗な音色と表情があふれているのだが、ただしその一方、陰翳といったものを全く排したような演奏でもある。それゆえ、何か不思議に単調なショパンに感じられてしまうのだが━━。もともと情緒的なものを抑制した彼の演奏スタイルのため、いっそうそのような印象が強くなってしまう。

 後半のドビュッシーは、そういった演奏によっても映えるという曲想を備えているので、あたかも清涼剤のような印象を与える。そして何と言っても圧巻は、シマノフスキの変奏曲だったであろう。この作曲家の壮大な叙情美はツィメルマンの演奏によって最高に生きると感じられたのは、これが初めてではない。

 ホールは満席(欠席によるものらしい空席は若干見られる)。こういうピアノの演奏会の時には、若い人たち、特に女性が多い。レセプショニストたちが「今日は写真撮影お断り」と盛んに注意しながら巡回していた。

2023・11・28(火)アラン・ギルバート指揮NDRエルプ・フィル

       サントリーホール  7時

 ハンブルクに本拠を置くNDRエルプ・フィルハーモニー管弦楽団(旧称北ドイツ放送交響楽団)が、2019年秋から首席指揮者を務めるアラン・ギルバートと共に来日した。今回は22日の大阪を皮切りに30日の秋田まで、計5回の公演というスケジュールだ。
 だしものは全ブラームス・プロで、初日の大阪のみ「ピアノ協奏曲第1番」と「交響曲第2番」、あとの4回は交響曲が「第1番」に替わる。ピアノのソリストは反田恭平。

 アラン・ギルバートがこのオーケストラを指揮するのを初めてハンブルクで聴いた時は、たまたま当日のプログラムのせいだったこともあろうが、いったいこの両者、水と油なのじゃあるまいか、と思ったほどの演奏だった(☞2009年11月16日)。ところが私のいい加減な予想に反して、両者はその後うまく行っていたらしく、首席指揮者就任を1年後に控えた来日公演(☞2018年11月2日)では、このオーケストラの美点を充分に引き出した演奏を聴かせてくれるようになっていたので、大いに感嘆させられた次第なのである。

 そして今回も同様、「第1交響曲」の序奏が響きはじめた時には、なにか久しぶりにドイツのオーケストラの良き伝統的な個性を味わっているような気持にさせられたのだった。少しくすんだ音色で、いかにも北の街ハンブルクの、ちょっと野暮ったいほどの素朴な情感を漂わせたブラームス。
 最近はヨーロッパの多くのオーケストラがお国柄の味を失い、インターナショナルな色合いの音に変貌している中で、これは今どき貴重な存在だなと思わせる。

 しかもそんな音を引き出しているのが、日系アメリカ人のアラン・タケシ・ギルバートなのだということは、ますます興味深い。この「第1交響曲」の演奏は、久しぶりで「北国のブラームス」を蘇らせてくれたような懐かしさを感じさせてくれた。

 ただ、オーケストラのアンサンブルという点では、今回は何故か少し荒っぽいものがあって、よく言えば自由な感興を溢れさせた演奏、ということになろうか。しかし、曲が高潮して大きく息づく個所で、弦楽器奏者たちが一斉に音楽へ没入するように身体を波打たせながら弾く光景はちょっと感動的だし、こちら聴く側でも演奏に引き込まれてしまう。少しくらい音がずれようが何しようが、そんなことよりもずっと大切なものがある、という思いになるだろう。

 第1部でのピアノ協奏曲では、最初のうちオーケストラの音が不思議に薄く感じられて、どうしたことかと訝るほどだった。交響曲が弦16型だったのに対し、協奏曲は弦14型で演奏されたのは事実とはいえ、そういう理由からだけではなかっただろうと思うのだが、よく解らない。第3楽章に至って、オーケストラには少し重量感が生まれて来たように感じられたということもあるし━━。

 反田恭平のピアノは驚くほど清涼感と透明感に富み、この「北のドイツ人作曲家」の音楽の中に流れる澄んだ叙情美を浮き彫りにするような演奏になっていた。そうしたブラームスはあまり聴き慣れぬものではあるが、ひとつのアプローチとして興味深い。
 もしかして、アランがこの協奏曲の提示部を軽やかにスタートさせたのは、反田のこのピアニズムへの「序」という意味だったのか? 反田がソロ・アンコールで弾いたシューマン~リスト編の「献呈」の音色の美しさも感銘深かった。

 今日のホールはまさに満席だったが、雰囲気からすると、どうやら大半が反田恭平を聴きに来たお客さんだったのではないか、という印象である。あまりドイツのオケのブラームスを聴きに来たような感じではなかったが、もちろんみんな「第1交響曲」の演奏のあとには、熱狂的な拍手で応じていた。
 オーケストラは最後にブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」を演奏したが、冒頭で暫くは手拍子が交じるという部分が続いた。アランが後ろを振り返って微笑したのが印象的だった。

2023・11・26(日)バッハ:「ヨハネ受難曲」クリスティ指揮

      東京オペラシティ コンサートホール  3時

 名匠ウィリアム・クリスティが率いるレザール・フロリサン(管弦楽団と合唱団)が来日してたった1回の公演。バッハの「ヨハネ受難曲」を演奏した。

 声楽のソリストはバスティアン・ライモンディ(エヴァンゲリスト)、アレックス・ローゼン(イエス)の他、レイチェル・レドモンド、ヘレン・チャールストン、モーリッツ・カレンベルク、マチュー・ワレンジクが務めていた。ライモンディを除く5人は合唱にも参加する。

 瑞々しくあたたかく、バッハの音楽が陶酔的な美しさを以て響いて来る。「マタイ受難曲」よりもこちら「ヨハネ受難曲」の方がいい曲だ、と思ってしまうほど、今日の演奏は心に響くものだった。
 もちろん、美しいとは言ってもそれは言葉の綾に過ぎない。このキリスト教の歴史における恐るべき悲劇を描く音楽の鬼気迫る迫力を余すところなく再現したクリスティとレザール・フロリサンの凄さは、並みのものではなかったのだ。感動的なコンサートである。
 客席もほぼ満席の状態。

2023・11・25(土)東京芸術劇場の「こうもり」

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 先日、びわ湖ホールで上演された(☞2023年11月19日)阪哲朗指揮、野村萬斎演出の「こうもり」と同一プロダクションで、歌手陣は全く同じ。但しオーケストラはザ・オペラ・バンドに、合唱は二期会合唱団に変わった。

 びわ湖ホールと違ってこちらはコンサートホールだが、舞台美術(松井るみ)や、黒子集団が手際よく小道具をアレンジして行くシステムもほぼ同じに出来ていた。共同制作オペラとして巡回公演をするのに便利なよう、巧くつくってあるのだろう。

 詳細は先日の項で書いてしまったので━━ネタバレは避けると言いながら、結構細かいところまで書いてしまったようで━━今日はその他の細かいことを一つ二つ。
 まず黒子が舞台の雛壇のようなものを運んできて、拡げたり積んだりする所作を、第2幕の序奏個所などでは音楽とぴったり合わせているところ。足で道具をぱっと蹴上げるのと、曲がどんと最強音でリズムを入れるのがぴたりと合っているさまには笑い、感心させられた。演出指導か、所作指導(伊佐山明子)によるものかは判らないけれども、細かいところに趣向を凝らしている舞台だと思う。

 東京のお客さんの反応は、意外に柔軟だった。「カエルの歌」の替え歌の輪唱に参加した歌声が少なくなかったのには驚いたが、今日は所謂オペラ・ファンだけでなく、広い層のお客も多かったのだろう。席は完売に近かったそうな。
 5時5分終演。

2023・11・24(金)イゴール・レヴィット ピアノ・リサイタル

        紀尾井ホール  7時

 レヴィットのベートーヴェンのピアノ・ソナタ・ツィクルス、昨年の第1回・第2回に続く今年は第3回と第4回。「2年間全4回シリーズ」とプログラム冊子には記載されていたので、今年でおしまいのようである。
 今日は第3回の日で、前半に「第17番《テンペスト》」と「第8番《悲愴》」、後半に「第9番」「第10番」「第14番《月光》」が演奏された。

 昨年聴いた演奏はすこぶる剛直で、強靭な意志の力を漲らせたものだったが、今日は一転して━━作品の性格ということもあるだろうが、どうもそれだけではなさそうだ━━沈潜して思索に耽りながら進んで行く、というタイプに近い演奏になっていた。
 レヴィットの演奏は同一曲でも毎回異なった表現になる例が多い、とは既に指摘されていることだが、それにしても「テンペスト・ソナタ」の冒頭2小節など、随分凝った弾き方をしているものだ。全音符のアルペッジョをひとつひとつゆっくりと弾き、次の二つの四分音符を更に切り離すようにして、止まってしまうほど長い「間」を取りながら弾く。

 楽譜の指定はたしかに「ラルゴ」で、そのあとのアレグロと対比させるように書かれているのは事実だけれど、このパターンをその後も毎回同じような形で繰り返されると、聴く側でも少々苛立たしい気持にさせられてしまう。もしそれがレヴィットの作戦だったのなら、こちらはまんまとそれに嵌ったことになるのだろう。何だか、ポゴレリッチを聴いているような錯覚にも陥らされた。面白いと言えば面白いのだが━━。

 そして、「作品10」の二つのソナタ(第9、10番)での不思議なほど柔らかい軽やかさ。「月光ソナタ」の第1楽章での重くうごめく暗さは、「幻想曲風ソナタ」という作曲者の表現にぴったりだろう。もちろん、「月光を浴びたルツェルン湖の‥‥」などという伝説とは遠いところにある、もっと不気味なイメージだ。

2023・11・23(木)東京二期会制作 ヘンツェ:「午後の曳航」

       日生劇場  5時

 三島由紀夫の原作にハンス・ヴェルナー・ヘンツェが作曲したオペラ。
 2003年に、ゲルト・アルブレヒト指揮読響によりセミステージ形式で日本初演されているはずなのだが、私にはどうもその時の記憶がはっきりしない。いずれにせよ、今回のものは、改訂ドイツ語版による日本初の舞台上演ということになる。

 指揮はアレホ・ペレス、管弦楽は新日本フィルハーモニー交響楽団、演出は宮本亜門、舞台美術はクリストファー・ヘッツァー。
 26日までのダブルキャスト4回公演の今日は初日で、出演は山本耕平(登)、林正子(彼の母、黒田房子)、与那城敬(塩崎竜二)、友清崇(1号)、久保法之(2号)、菅原洋平(4号)、北川辰彦(5号)、市川浩平(航海士)ほか、12人のダンサーたち。

 少年(登)が母に対して抱く愛のような感情、英雄視していた航海士の塩崎が新しい父親となったことへの嫉妬、そして彼が次第に英雄としての輝きを失って行くことに対して起こる軽蔑と憎しみ、不良グループに唆されて突き進む父親殺し━━といった、暗いけれども心理描写に富むストーリーなのだが、これを宮本亜門が実に明快に描き出した。

 黒子により素早く処理される舞台装置の転換の中に、細微な演技がスピーディに展開され、ダンサーたちの激しい動きがストーリーに緊張感を添える。まるでよく出来たブロードウェイ・ミュージカルのような快速の舞台だ。宮本亜門ファンの私としては、彼がまたしても見事にやってくれたな、という印象を持つのだが、いかがだろうか。文字や墨彩を鮮やかに投映した映像演出(バルテック・マシアス)も面白い。

 そして何より、新日本フィルを指揮して、このヘンツェの複雑極まる音楽を手際よく再現したアレホ・ペレスの指揮がよかった。アルゼンチン出身のこの若い指揮者は、これまでにも「ファウスト」や「魔弾の射手」、読響との演奏会などをいくつか聴いて来たが、いつも水際立った指揮だなと感心させられる(但し今春の新国立劇場の「タンホイザー」はどうも感心しなかったが、あれは使用の楽譜のカットだらけの版にぺレスが共感していなかったのではないかという気もする)。
 歌手陣、ダンサーたち、みんな好演。

2023・11・22(水)ネルソンス指揮ゲヴァントハウス管弦楽団

        サントリーホール  7時

 ドイツの名門の大オーケストラを2つ続けて聴けるなど、普通ならヨーロッパのどこかの音楽祭でなければ不可能なことだろう。
 アンドリス・ネルソンスがカペルマイスターを務めるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、これもベルリン・フィルに負けず劣らず、強靭で雄大で、しかも壮烈な演奏を聴かせてくれた。

 今日のプログラムはワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」、ブルックナーの「交響曲第9番」(ノーヴァク版)の2曲。因みに、今回の来日公演は東京で2回、札幌で1回の計3回のみだった。

 前回来日した時に演奏したブルックナーの「第5交響曲」(☞2019年5月30日)が、意外なことに金管群の咆哮を抑え気味にし、たっぷりとした弦楽器群の響きを前面に押し出したものだったので、もしや「9番」でもその手法を使うのかなとも思ったのだが、幸いにも(?)今回は管も弦も豪壮に響かせる、すこぶるスリリングな演奏になっていた。

 ただ、その豪壮な響きは、ちょっと度を越しているのではと思われるくらい、むしろ凶暴に近い域にまではみ出していたのではないだろうか? 
 第1楽章や第2楽章は、ブルックナーにしては珍しい、烈しい感情を爆発させる悪魔的な世界という性格の濃い音楽だから、そういう荒々しさは当然あってもいいと思うのだが、今日の演奏はアンサンブルを含めて、どうも激烈に過ぎていたような気もする。

 もっとも、以前出た彼らのCD(グラモフォンUCCG-1843~4)でもこれに近い演奏をしていたから、これがネルソンスの考える「9番」のイメージなのだろう。いずれにせよこの演奏で聴くゲヴァントハウス管弦楽団からは、もはやかつての「古都の雰囲気を伝える」ような陰翳の濃い音色は、聞かれたとしてもかなり微量なものになっているようである。

 「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」も、どちらかと言えば骨太で、ごつごつした音楽構築に感じられた。ただ正直なところ、今日は客席がやや騒々しく、私自身は気が散ってこの演奏にあまり深くのめりこめなかったので、あまり具体的なことは言えないのだが。

2023・11・21(火)キリル・ペトレンコ指揮ベルリン・フィル

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が来日。14日から25日までの間に10回の公演を行なうというヘヴィなスケジュールだが、後半の6回は東京と川崎での連続公演だ。

 2019年秋から首席指揮者(Chefdirigent)を務めているキリル・ペトレンコとは、これが初めての来日である。今日のプログラムは、モーツァルトの「交響曲第29番」、ベルクの「オーケストラのための3つの小品Op.6」(1929年改訂版)、ブラームスの「交響曲第4番」。

 キリル・ペトレンコの指揮は、もうオペラではかなりの数を聴いているけれど、ベルリン・フィルを指揮するのを聴くのは11年ぶりだ。あの頃(☞2012年12月19日)の遠慮がちな指揮ぶりに比べると、さすがに彼の成長は目覚ましく、まるで別人のような勢いでこの超大戦艦オーケストラを制御している。
 冒頭のモーツァルトの弦の引き締まった、それでいて瑞々しさを失わない響きは、このオケが、サイモン・ラトルの時代よりももっと前に戻ったような感を抱かせるのではなかろうか。ペトレンコの自信満々の指揮に嬉しい驚きを味わったその最初が、このモーツァルトを聴いた時だった。

 めったにナマでは聴けないベルクのこの作品を持って来てくれたことは、実に有難かった。ステージを圧せんばかりに並んだ超大編成のオーケストラを使いながら、合計20分足らずの演奏時間とは、何ともコスト比の悪い作品ではあるが、それはともかく、ここでの演奏は、まさにベルリン・フィルの「不滅の威力」を余すところなく発揮したものだったろう。
 特に第3曲での、ハンマーの打撃3回を伴う威圧的な音楽は、こういうオーケストラで演奏されてこそ、作品がその本来の力を顕すのではないかと思わせたほどだ。この曲のあとに大きなブラヴォーが飛んでいたことは、ペトレンコや楽員たちを喜ばせたのではないかという気がする。

 ブラームスの「4番」は、ペトレンコがベルリン・フィルを存分に振り回した演奏と言えるだろう。それは北国の冬の憂愁とか、作曲者晩年の諦念などといったものを感じさせる演奏ではなく、おそろしく強靭な力にあふれたものである。
 特に後半の2つの楽章は、━━第3楽章をこんなに速いテンポで爆走する演奏というのは私もこれまでにあまり聴いたことのないタイプのものであり、第4楽章もまるで嵐のような推進力に満ちている。かのフルトヴェングラーとベルリン・フィルのライヴ録音にもそういう個所はあったけれども、ああいう暗い情熱が渦巻いているような演奏とは違い、もっとエネルギッシュで荒々しい。
 中間部のフルートのソロの個所でさえ、晩年のブラームスが感慨深く物思いに耽っているといった雰囲気からは遠いだろう。

 だが、ペトレンコはその「もって行き方」がすこぶる巧いのである。第1楽章を、各フレーズに神経を行き届かせつつ憂愁に満ちた遅いテンポの演奏で開始しておき、全曲の後半からはぐいぐいと盛り上げて行くのだが、その劇的な高潮点のつくり方や、追い上げて行く呼吸の見事さなどには、彼がオペラで場数を踏んだ経験と、特にあのバイロイトで複数年間「ニーベルングの指環」を指揮して、ドイツの作曲家ワーグナーの音楽にじっくりと取り組んだキャリアがものを言っているのではないだろうか。
 シェフに就任してから未だわずか4年、ペトレンコはまだこのオケ相手に充分な個性を発揮できていないかもしれないが、しかし彼とベルリン・フィルとの相性は、私が当初危惧していたのとは違い、結構うまく行きそうな感じがする。

 それにしても、今日のベルリン・フィルのしなやかで、しかも巨大な起伏に富んだ演奏は、さすがのものがあっただろう。時たま顔を覗かせる威圧感をもった響きは、やはり昔ながらのベルリン・フィルだ。このオーケストラは、やはりこうであった方が面白い。

 アンコールはなし。カーテンコールも3、4回程度やっただけでさっさと引き上げる。それも、いかにもベルリン・フィルらしい。

2023・11・19(日)びわ湖ホールの「こうもり」

       滋賀県立劇場びわ湖ホール  2時

 全国共同制作オペラ、J・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」が上演された。阪哲朗指揮、野村萬斎演出で、歌唱はドイツ語、セリフは日本語(台本は野村萬斎による)という形である。

 今日の出演は以下の通り━━福井敬(アイゼンシュタイン)、森谷真理(妻ロザリンデ)、幸田浩子(女中アデーレ)、大西宇宙(ファルケ博士)、山下浩司(刑務所長フランク)、与儀巧(歌手アルフレード)、藤木大地(オルロフスキー公爵)、晴雅彦(弁護士ブリント)、佐藤寛子(イーダ)、桂米團治(フロッシュ、狂言回し)。日本センチュリー交響楽団とびわ湖ホール声楽アンサンブル。

 かなり奇抜な趣向を凝らした舞台だ。このプロダクションは、今月25日に東京、12月17日に山形でも上演されるので、ネタバレを避ける意味で詳細を記すのは控えるが、演出家のノートによれば「日本人が演じてもおかしくない自然なシチュエーションという発想」に基づく舞台だという。従って今回の情景は、第1幕が日本橋界隈の質屋の茶の間、第2幕が鹿鳴館、第3幕が牢屋というわけ。

 アイゼンシュタインは和服姿の質屋の主人、ロザリンデは逸品の着物を召した奥様、アデーレは可愛い働き者の女中、ファルケ博士は西洋かぶれの立派な口髭(カイゼル髭とは少し違うらしい)をたくわえた紳士━━と、いずれも日本人キャラになっており、それぞれを福井、森谷、幸田、大西が見事に決めている。
 就中、お公家様に設定されたオルロフスキー公爵は傑作中の傑作で、これを歌い演じた藤木大地の超絶的な怪演は、まさに舞台をさらった感があろう。なお山形出身の佐藤寛子(イーダ)が東北弁をちらりと出していたが、山形公演ではこれが活用されるのかもしれない。

 今回は、桂米團治が狂言回しのような形で上手側に位置し、筋書を語る。彼はクラシック音楽に精通し、オペラと上方落語とを合体させた「おぺらくご」というジャンルを確立させている、とプロフィールに載っていた。
 冒頭では、オケ・ピットにいる三味線とともに登場する。当然、牢番フロッシュは彼の役割だ。ただし、長い独り芝居はやらなかった。講釈師のように机をたたきながらストーリーを紹介する個所もあるが、時に少し長すぎる感が無きにしも非ず。関西では受けるだろうが、東京や山形ではどうかしらん? 観客の反応も楽しみだ。

 それにまた、今日の観客は彼の話に笑いや拍手などで闊達に応じ、第3幕では彼の煽りに応じて「カエルの歌」の替え歌(これは些か趣味が悪い)を一緒に歌う人も大勢いたが、これが関西のノリというものだろう。東京ではどうかな? いずれにせよこのテは、かつて桂ざこばが舞台を切り回した「メリー・ウィドウ」(☞2008年6月23日の項)を思い出させる。

 「鹿鳴館」での合唱団員は、「慣れない洋服姿」を皮肉る意味か、黒子のような服装で、洋服をデザインした横断幕で首から下を覆うという姿で並んでいたが、これはなかなか気の利いたアイディアだろう。この黒子は、舞台転換の際に小道具を運んで大活躍、実に要領がいい。それに面白かったのは「字幕」のスクリーンにおけるさまざまな趣向。これは傑作だ。

 音楽面ではまず第一に、阪哲朗が日本センチュリー響を巧く鳴らし、特に序曲では、彼得意の甘い色気のあるウィーン情緒を聴かせることに成功していた、と言えるだろう。また歌手陣も揃っていて、とりわけ森谷真理と幸田浩子が聴かせ場をつくっていた。

 総じて、読み替えとしてもかなり細かいところまで手を尽くしたプロダクションで、私は大筋では気に入ったのだが、東京ではどうせまた様式的にどうの、落語はどうの、とかいろいろ批評するマジメな人もいるんじゃなかろうか。

2023・11・18(土)井上道義指揮読響「復活」

     東京芸術劇場コンサートホール  2時

 「引退」まであと1年(という)井上道義が、マーラーの「交響曲第2番《復活》」を指揮。読売日本交響楽団(コンサートマスターは長原幸太)、ソプラノ・ソロが高橋絵里、メゾ・ソプラノが林眞暎、合唱が新国立劇場合唱団。

 「井上道義、最後の《復活》」だとか宣伝文句には入っていたようだが━━。
 いろいろ病を体験したとはいえ、とても77歳とは思えぬようなしなやかな身のこなしを見せて指揮する道義サンのことだから、引退宣言はしたものの、いざとなるとまた「現役1年延長」などということになるのではないか、と私などは思っているのだが、プログラム冊子に載った彼のコメントには、「俺はまじめな話、・・・・なれの果てのヨレヨレじじいをこれ以上経験したくないので引退しますが、今回の復活は道義のことではないので皆さん誤解なさらないように」とある。「安易に復活復活と言うなかれ。有り得ない出来事なのだから」とも宣うておられた。

 とにかくまあ、1年後にはまたどうなるか。かのロリン・マゼールのように、「50歳になったら引退する」が「60になったら」に変わり、結局生涯現役のままで通してしまった、という例もあるし。

 それはともかく、大ホールをいっぱいに埋め尽くした聴衆の前で彼が指揮した「復活」は、徒に興奮昂揚を重ねるといったタイプの音楽ではなく、一つ一つの音符を大切に演奏し、音楽を心から慈しむ、というもののように、私には感じられた。
 特に第1楽章など、かなり遅いテンポで、マーラーの音の意味をじっくりと考えながら歩を進めて行く、という姿勢を思わせたのである。

 最終楽章での高潮も見事で、入魂の演奏を感じさせたのは事実だったが、それも体当たり的な熱狂ではなく、一種の感慨をもって「復活」を歌い上げて行くという感を抱かせられた。もちろんこれは私の印象に過ぎない。
 もし彼がこの《復活》を指揮するのはこれが最後と決めているのなら、一種の涅槃の境地にも近い解釈にもなるのかな、などと勝手に思いをめぐらせていたゆえの印象だったのかもしれないが。

 読響も重量感たっぷりの響きでマーラーを表出していた。冒頭のコントラバス群の唸りからしてただごとではないような感がしたほどである。
 なお、メゾ・ソプラノのソロに当初予定されていた池田香織さんは体調不良の由で降板とか。早い復活を祈りたい。

2023・11・16(木)バッティストーニ指揮東京フィルのチャイコフスキー

         東京オペラシティ コンサートホール  7時

 イタリアの熱血指揮者アンドレア・バッティストーニが、チャイコフスキーを振る。幻想曲「テンペスト」、「ロココの主題による変奏曲」(ソリストは佐藤晴真)、幻想序曲「ハムレット」、幻想序曲「ロメオとジュリエット」というプログラムだ。
 東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターは三浦章宏。

 変奏曲を除く3曲━━テンペスト、ハムレット、ロメジュリは、いずれもシェイクスピアの戯曲を素材としたものだ。巧い選曲である。こういう選曲は、ラジオ番組では時々やる手だが、演奏会ではあまり行わない類のものだろう。
 しかし、このようにまとめて演奏されたのを聴くと、やはり「ロメオとジュリエット」の良さが再認識されるというもので、他の2曲は滅多に演奏会のプログラムに乗せられないという理由もまた、再認識させられてしまうのは事実だ。
 ただ、「テンペスト」にしろ「ハムレット」にしろ、主題に所謂「チャイコフスキー節」の魅力が感じられるのは確かで、私にとっては以前訪れた真冬の雪世界のロシアの光景も思い出され、不思議な懐かしさに引き込まれてしまうのである。

 バッティストーニと東京フィルは、やはり「ロメオとジュリエット」で獅子奮迅の演奏を聴かせてくれた。この熱狂的で劇的な演奏は、今日のプログラムの中でも随一のものだったし、また最近聴いた同曲のナマ演奏の中でも、群を抜いて凄まじいものだったと言えるだろう。終わり良ければ総て良し、という感である。

 なお、それとは別に、2曲目に演奏された「ロココの主題による変奏曲」(原典版)での、バッティストーニと東京フィルの柔らかく優しい表情に富んだ演奏は、他の3曲でのそれとの見事な対比を為していた。ここでの佐藤晴真の瑞々しいソロは、アンコールとして演奏したバッハの「無伴奏チェロ組曲第6番」からの「サラバンド」とともに、この上なく魅力的なものだった。

2023・11・15(水)新国立劇場の「シモン・ボッカネグラ」初日

       新国立劇場オペラパレス  7時

 ヴェルディのオペラ「シモン・ボッカネグラ」を新国立劇場が制作したのは、今回が初めてである。
 フィンランド国立歌劇場とテアトロ・レアル(マドリードの王立歌劇場)との共同制作によるものだが、嘆かわしいレパートリーの穴を埋めるものとして、しかも音楽的にも演出の上でも高い水準のプロダクションとして上演されたのは有難いことであった。

 まず第一に、大野和士の指揮する東京フィルハーモニー交響楽団が、極めて緻密な、バランスの良い演奏を聴かせていたことを挙げなくてはなるまい。
 冒頭の弦の叙情的な美しさなど、これまでの「オケ・ピットにおける東京フィル」からはあまり聴けないものであった。大野和士が芸術監督になってから、特にこの1年ほどの間に、「新国立劇場のオーケストラ」の演奏水準は、目に見えて向上して来たように思われる。

 そして今回の歌手陣━━これも充実していた。
 顔ぶれは、ロベルト・フロンターリ(ジェノヴァの総督シモン・ボッカネグラ)、イリーナ・ルング(シモンの娘アメーリア)、ルチアーノ・ガンチ(その恋人ガブリエーレ・アドルノ)、シモーネ・アルベルギーニ(総督の腹心パオロ・アルビアーニ)、リッカルド・ザネッラート(アメーリアの祖父ヤコポ・フィエスコ)、須藤慎吾(パオロの同志)、村上敏明(隊長)、鈴木涼子(侍女)。

 これらの人たちが全員、完璧なほどの歌唱で活躍していたのが嬉しい。初日ということもあってか、一部の歌手は立ち上がりが悪かったけれども、このくらいは仕方のないことだろう。特にザネッラートは歌唱・演技とも堂々たるもので、この「シモンの政敵」をすこぶる公平な、むしろ立派な人物として描き出していたのが面白かった。

 そして第三に、ピエール・オーディの演出とアニッシュ・カプーアの舞台美術である。
 このすこぶる入り組んだ人物構図と複雑極まる筋書きを、オーディは徒な装飾を排し、極めてシンプルな形で、人物の性格表現にのみ重点を置いて構築していた。ただ、それでもプロローグと第1幕の間に長い年月があったこととか、舞台上の人物の判別とかなどの点で、いささか解り難いものがあったことは事実で━━しかしこれはもう、観客みずからが予め人物関係を調べて覚えておく以外に方法はないだろう。何しろ、どう説明したところで、ややこしいストーリーなのだから‥‥。

 私が舌を巻いたのは、プロローグの最後の場面で遺体として横たわっていたマリア(シモンの妻、フィエスコの娘)の姿を、25年後の舞台たる第1幕で、そのまま娘のアメーリアに引き継がせ、そこから起き上がらせて次のドラマに入って行くという発想だ。アメーリアがマリアの娘で、洗礼名もマリアだったことが、このすり替えによって象徴させているというわけである。

 カプーアの抽象的な舞台美術も印象に残る。総じて暗いが、黒色と赤色が効果的に対比されていて、特に天から逆さに吊られている火山が「対立抗争、憎悪」の象徴とされ、ラストシーンなどで平和が訪れた時にはそれが姿を消す━━といったような構図が面白い。

 これは、近年の新国立劇場のプロダクションの中でも、ベストの部類に入る上演ではないかと思う。大野和士芸術監督の努力の成果であることは疑いないだろう。
 30分の休憩1回を含め、上演時間は約3時間。

2023・11・14(火)河村尚子&アレクサンドル・メルニコフ

       東京芸術劇場 コンサートホール  7時

  第1部は連弾で、シューベルトの「幻想曲ヘ短調」とドビュッシーの「海」(作曲者による4手版編曲)。第2部は2台のピアノによる演奏でラフマニノフの「交響的舞曲」。シューベルトとラフマニノフでは河村が「第2」を受け持っていた。

 いずれも本当に見事なピアノ・デュオだった。ピアノ・デュオというものの良さ、快さを久しぶりに味わった気がする。
 河村とメルニコフは、シューベルトの「幻想曲」では、シューベルト最後期の哀愁の情感を、これ以上はないほどに深々とした演奏で聴かせてくれた。あのハンガリー風の主題が、何と憂愁に満ちて聞こえたことか。

 「海」は、さすが作曲者自身の編曲による強さというべきか、バランスの良い編曲で、管弦楽版に勝るとも劣らぬ精妙な響きを持っている。
 以前、アンドレ・カプレが編曲した版を永井幸枝とダグ・アシャツの演奏によるBISのCDで聴いたことがあったが、あれは随分華やかな編曲で、面白いけれども原曲のイメージとは全然違うな、と思ったものだった。今回のドビュッシー版を聴いて、なるほどと感心した次第である。充実の演奏だった。

 ラフマニノフの「交響的舞曲」は、前述の通り2台のピアノで演奏された。ただ、それなりの意図はあったのだろうが━━メルニコフが弾く下手側の第1ピアノには蓋が付いており、正規の角度に開いたままになっているので、河村が弾く上手側の第2ピアノ(当然蓋は外されている)とのバランスがどうもよくないのが気になった。
 なんせメルニコフが猛烈に叩くので、彼の大音響の方が目立ってしまう。まるで、大暴れする彼の音を河村尚子が優しくあたたかく受け止める、といった雰囲気だ。もちろん演奏そのものは素晴らしかったけれど。

 アンコールでは、再び連弾(河村が「第1」)で、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」から「美女と野獣」が弾かれた。彼女が短いスピーチをやり、その曲名をすこぶる意味ありげにアナウンスした時には、客席の一部から軽い笑いが起こったのだが、シンとしていた大半の人々は「生真面目な」お客さんであろう。

2023・11・12(日)トゥガン・ソヒエフ指揮ウィーン・フィル

       サントリーホール  4時

 R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」と、ブラームスの「交響曲第1番」というプログラム。アンコールにはJ・シュトラウスⅡの「春の声」と「トリッチ・トラッチ・ポルカ」が演奏された。

 プログラム冊子によると、ウィーン・フィルの来日は、今回が38回目になるという。最初の来日はもう67年前のこと━━1956年4月で、それは私も覚えている。もちろんチケットを買って聴きに行ける身分ではなく、ラジオ(AM)や新聞だけでその噂を知るだけだったが、とにかく世の中は、まるで音楽の神様が降臨したような騒ぎだった。

 何しろ、それまでに日本の音楽ファンは、外来オーケストラと言えば、1955年5月に来たシンフォニー・オブ・ジ・エア―(元NBC交響楽団)の強大なパワーに仰天驚嘆し、1956年4月に来日したミュンヒンガー指揮シュトゥットガルト室内管弦楽団の気品に感動し━━これらの時の音楽界の興奮は、今では想像もつかぬほど凄かった━━というだけの状態だけだったのだから、「世界最高の音楽の都」から来た「高嶺の花」ともいうべきウィーン・フィルがどんなに熱狂的に迎えられたかは推して知るべし、である。
 その時は、オーケストラは小編成で、指揮はヒンデミットだったが、その演奏は典雅な気品に満ちて、とか、黄金のような美しさ、などと言われ、みんな大騒ぎしていたものだった。

 しかし、それから半世紀以上。いつ頃からか、あのウィーン・フィル独特の「音」は、次第に薄れて行ったのではなかろうか。現代ではさまざまな理由により、世界各国のオーケストラは、おしなべてインターナショナルな音色に変貌してしまっているだろう。
 今日のウィーン・フィルを聴いてみると、良かれあしかれ、このオーケストラの音も変わったな、と思わないではいられない。以前は、どんな指揮者だろうと━━カラヤンでもベームでもショルティでも、あるいはティーレマンだろうとゲルギエフだろうとラトルだろうと、だれが振っていてもウィーン・フィルのあの独特の音色は毅然として守られていたものだったが‥‥。

 「ツァラトゥストラはかく語りき」は、もちろん壮大な演奏ではあったものの、昔のウィーン・フィルだったら、もっと甘美な、官能的な表情も響かせていたはずである。それに今日は、オーケストラも何となく座りが悪く、あまりリハーサルをしていなかったのかなという気もした(今回の日本ツアーでは、この曲を演奏したのは今日が最初だった)。

 だが、ブラームスの「1番」はすでに名古屋で演奏していた所為もあっただろう、これはこれで、音楽の上ではすこぶる立派な風格を備えた演奏になっていた。ただ━━ソヒエフは私の御贔屓の指揮者のひとりなので、こんなことを言っては申し訳ないのだが━━彼がリーダーシップを発揮したというよりは、天下のウィーン・フィルを巧く鳴らした、という気もしないではないが‥‥もちろんそれだって指揮者の大きな才能でもあるのだが。

 アンコールの2曲。もはや昔のウィーン・フィルじゃない、とつくづく思わせられたのは、この2曲での演奏だった。

2023・11・11(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

       サントリーホール  6時

 めずらしくベートーヴェンのみのプログラムで、前半に、ゲルハルト・オピッツをソリストに迎えての「ピアノ協奏曲第2番」、後半に「交響曲第6番《田園》」。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 音楽監督ノットと東京響は、国内でいま最も良い関係を確立しているコンビではなかろうか。演奏がそれを実証する。
 今日のベートーヴェン2曲では、いずれも羽毛のように柔らかく軽やかな音色のアンサンブル、微細なエスプレッシーヴォに満たされた精緻精妙な響きの演奏が聴かれた。それは、先代の音楽監督ユベール・スダーンがシューベルト・ツィクルスの際に実現した、隅々まで神経を行き届かせた演奏にも匹敵していただろうと思う。それに応じた東京響もまた、見事なものだった。

 協奏曲では、久しぶりに聴くオピッツのいかにもドイツの正統派といったピアノ━━和声の積み重ねの妙味を明確に出して転調の素晴らしさを利かせ、そして飾り気はないけれども真摯で血の通った情感をたたえたソロに心を打たれたが、それに応えるノットと東京響の、内声部の交錯すら定かにならぬほど柔らかく溶け合ったサウンドにも舌を巻いた。
 気鋭の青年ベートーヴェンが放った意欲作というイメージとは違った解釈の演奏ではあったけれど、この音の美感には別の意味で魅力を感じないではいられない。

 「田園交響曲」は、さらに精緻で、軽やかで、柔らかな演奏だった。弦や管の音符の随所に細かいクレッシェンドやデクレッシェンドを付し━━「嵐」でのティンパニでもそうだった━━そのような細かい動きの中で主題を美しく歌わせて行く見事な呼吸。第2楽章ではやっと聞こえるほどの最弱音まで落とした響きの裡に、フルートとオーボエがささやくように歌って行く。

 第3楽章のスケルツォのリズムと来たら、まるでそよ風が吹き抜けて行くような軽やかさだ。
 内声部の細かい動きさえ柔らかい流れの中に溶け込ませてしまうアンサンブルは協奏曲での演奏と同様だったが、それでいながら、第5楽章の、あの通常はよく聞こえないようなヴィオラの素晴らしい旋律(【I】の個所と【L】の個所)が、はっきりと聞こえて来たのには驚いた。

 そしてこの見事な演奏は、最後に壮麗な夕陽の頂点を築いたあと、日が沈んだ後の安息にゆっくりと向かって行く。
 かくして「そよ風の田園」の1日が終る━━なんかこんな光景は、あの映画「ファンタジア」でも視たような気がするのだが、ふだんは全く連想しないそのような標題音楽的な要素が、何故か今日は最後に至って頭の中に浮かんで来てしまったのである。

 ノットと東響の巧さ、そして━━ベートーヴェンの巧さ。

2023・11・11(土)NISSAY OPERAのヴェルディ「マクベス」

      日生劇場  2時

 指揮・沼尻竜典、演出・粟国淳によるヴェルディの「マクベス」。
 ダブルキャストによる今日の歌手陣は、今井俊輔(マクベス)、田崎尚美(マクベス夫人)、伊藤貴之(バンクォー)、宮里直樹(マクダフ)、村上公太(マルコム)、森季子(侍女)その他の人々。合唱がC.ヴィレッジシンガーズ、管弦楽が読売日本交響楽団。吉崎裕哉(ダンカン王)らダンサー陣も重要な役割を果たす。

 紗幕を活用して、照明(大島祐夫)に趣向を凝らし、暗い霧の彼方あるいは神秘な幻想の中で悪夢が展開されて行くといったような、暗い舞台ですべてが語られる演出は、これなりに効果的だ。もともと亡霊やら魔女やらが活躍するオペラだから、妙にリアルにやるよりは、こういう暗い舞台の方がより怪奇な雰囲気がつくれるはずで、好ましい。

 沼尻竜典と読響は、大団円の場面━━今回は戦いから一気に勝利の合唱に続く版が使用されていた━━でスペクタクルな効果を生み出したが、前半ではもう少し音楽にスムースな流れをつくって欲しかったところ。
 歌手陣ではマクダフ役の宮里直樹が一貫して快調な歌唱を聴かせてくれた。休憩1回を含み、終演は4時55分頃。

 この上演は、「日生劇場開場60周年記念公演」と銘打たれていた。もう60年! ベルリン・ドイツオペラがやって来て、ベームやマゼールらの指揮で「フィデリオ」「フィガロの結婚」「トリスタンとイゾルデ」「ヴォツェック」を上演した、あの沸き立つような開館記念公演のことが、昨日のことのように思いだされる。劇場の内部があの頃と全く同じ鮮度を保っているのも嬉しく、暫し客席から周囲を眺め回し、センチメンタルな感情に浸る。

 終演後、サントリーホールへ向かう。

2023・11・9(木)内田光子とマーラー・チェンバー・オーケストラ(2)

        サントリーホール  7時

 内田光子がソロを弾くモーツァルトのピアノ協奏曲は、今日は「第17番ト長調K.453」と「第22番変ホ長調K.482」。その間にオーケストラだけでイェルク・ヴィトマン(1973~)の「弦楽四重奏曲第2番《コラール四重奏曲》」の室内オーケストラ用編曲版が演奏された。
 プログラムの最後に内田光子がアンコールとして演奏したのは、モーツァルトの「ソナタ第10番ハ長調K.330」第2楽章。

 「K.453」が彼女の指揮で開始された瞬間、オーケストラのあまりにもなだらかな、平板とも言えるような音に、首をひねる。彼女のピアノそのものは決して平板ではないのだから、いっそオーケストラの自主性に任せておいたら如何、とまで考えてしまう。だが意外なことに、第3楽章のアレグレットに入ると、音楽は突然活気を帯び始めて美しくなった。

 一方、「K.482」では、音楽が冒頭から威容を以て聳え立ち(先日の川崎での「ハ長調」がどうしてこういう音楽にならなかったのかと不思議でならない)、それゆえ内田光子のソロとの「調和を保った対照」が見事に実現していたのである。

 ヴィトマンの「コラール四重奏曲」の管弦楽編曲版は、これが日本初演の由。ステージ上に弦楽オーケストラが位置し、客席の上手側と下手側及び後方に僅かな管楽器が点在するという配置で演奏されたこの曲。最弱音で断片的に聞こえはじめる冒頭のコラール主題、そこからゆっくりと時間をかけて高潮して行く音楽の、突き詰めた緊張感の魅力。これも、このマーラー・チェンバー・オーケストラの本領を発揮する印象的な演奏になった。

2023・11・7(火)ルイージ指揮コンセルトヘボウ管弦楽団(2)

      サントリーホール  7時

 ファビオ・ルイージとロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の今回の日本ツアーは、今日が最終日。
 ウェーバーの「オベロン」序曲、リストの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはイェフィム・ブロンフマン)、チャイコフスキーの「交響曲第5番」というプログラムが組まれていた。アンコール曲は、ブロンフマンがショパンの「夜想曲Op.27-2」、オーケストラは3日と同じチャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「ポロネーズ」である。

 コンセルトヘボウ管のチャイコフスキーの5番というと、私はいまだに昔のパウル・ファン・ケンペンが指揮して入れたモノーラル盤の、豪快無比な風格を持った演奏が忘れられないのだが、今日のルイージの指揮した「5番」は、思いがけなくそのダイナミックな豪壮さを思い出させるような演奏に感じられた。
 アクセントが極めて強く、第2楽章で「運命の主題」が再現する個所での最強奏など、叩きつけられるように激しい。昔のルイージからは想像もできなかったような強靭な音楽だが、これはコンセルトヘボウ管の威力を尊重しての指揮だったのか? 

 とにかくオーケストラは巧い。ハイティンク時代ほどではないにしても、立派なオーケストラであることは間違いない。楽団の特徴を一言で言えば、「気品のある風格」とでも形容したらいいのか。
 第2楽章冒頭で主題を吹いたホルンの1番奏者(女性)の柔らかく美しい音色が印象に残る。このホルンは、「オベロン」序曲冒頭でも、遠くから響いて来るような弱音の歌を聴かせていた。そしてルイージとコンセルトヘボウ管は、この序曲では妖精の音楽に相応しく、軽快な演奏を聴かせてくれたのであった。

 ブロンフマンが弾く協奏曲は、実に落ち着いたリストである。こういうゆったりとした、殊更に騒ぎ立てない、品のいいリストは、久しぶりに聴いたような気がする。

 客席の入りがいいのには安心。これだけ名門の外来オケが殺到しているのに、東京のお客さんは強い。

2023・11・5(日)ボローニャ歌劇場 ベルリーニ「ノルマ」

       東京文化会館大ホール  3時

 ボローニャ歌劇場の現在の音楽監督は、あのバイロイトで「さまよえるオランダ人」を指揮したことで話題になった女性指揮者、オクサーナ・リーニフである。その彼女が指揮する「トスカ」と、ファブリツィオ・マリア・カルミナーティが指揮する「ノルマ」とが、今回の引越来日公演のプログラムだ。
 今日は4回の東京公演の最終日、「ノルマ」である。このあと7日から12日までの間に、高崎・名古屋・岡山・びわ湖・大阪での公演がある。

 ところでこのカルミナーティという指揮者、ベテランらしいが、所謂昔タイプのおっとりした指揮で、雰囲気はあるけれども、引き締まった劇的な緊迫感という点では甚だ物足りない。第2幕後半など、音楽がさっぱり高潮しないのだ。ノルマが激怒して一同を扇動する個所で銅鑼が3回鳴らず、中途半端な総休止になってしまっていたのは事故か意図的なものか(それとも版?)判らないが、いずれにしても迫力を欠くもとになったのは確かである。

 ステファニア・ボンファデッリの演出にも似たようなことが言えるだろう。舞台装置はなく、照明の変化と幕の動きと僅かなスモークとでドラマを語って行く手法だが、群衆の動きに表情が不足するなど腑に落ちぬところがあり、特に第2幕後半のドラマが急展開するはずの個所など、もどかしいほどの舞台にとどまった。

 最後はノルマがポリオーネを刺殺し、返す短剣で自らをも刺すという設定に変えられていたが、この場面などももっと凄味が欲しいところだ。
 ノルマとアダルジーザのあの素晴らしい「友情の二重唱」で背後に要らざるチャンバラの場面を入れたり、2人を左右に大きく分けたりして音楽への注意力を削ぐなどの手法は、元ソプラノ歌手がやる演出とは思えないようなやり方である。

 という訳で、指揮と演出に対しては辛辣なことを言わせていただいたけれども、歌唱面は実に好かった。
 題名役のフランチェスカ・ドットはやや細身の歌唱だったが、所謂神秘的で猛女的な巫女というイメージのない、どちらかと言えば可憐さの残るノルマ像ということで、これはこれでひとつのあり方だろう。
 ポリオーネ役のラモン・ヴァルガスは相変わらずの泰平な演技で、声も昔ほどの明るさはなく、ローマ軍司令官としてのカッコ良さには不足するけれども、安定感はある。

 最大のヒットは、アダルジーザを歌った脇園彩である。伸びやかで張りのある声による輝かしい歌唱と表情豊かな演技とで、役柄の上で僅かに控えめな存在を保ちながらも、ドット相手に一歩も譲らず正面から渡り合ったのは見事だった。
 その他、オロヴェーゾのアンドレア・コンチェッティ、クロティルデのベネデッタ・マッツェット、フラヴィオのパオロ・アントニェッティといった人々も安心して聴けた。

2023・11・3(金)ルイージ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  5時

 この10年間近く、マリス・ヤンソンス、グスターヴォ・ヒメノ、ダニエレ・ガッティ、パーヴォ・ヤルヴィというそれぞれの指揮者とともにほぼ2年ごとに来日していたアムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。コロナで1回抜けのような形で、今回は4年ぶりの来日となった。

 首席指揮者は空席のため(マケラが就任するのは2027年だから、随分先のことだ)、ファビオ・ルイージが客演で帯同して来た。プログラムは、ビゼーの「交響曲」に、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」である。

 伝え聞くところによると、最初はメインに「幻想交響曲」をやるとオケ側が言ってきた由。それなら同じフランスものをと、ビゼーの交響曲をリクエストしておいたところ、あとからメインを「新世界」にする、と言って来たのだという。

 ━━まあ、コンセルトヘボウの日本公演に何も「新世界」でなくても、と思われるが、実際に聴いてみると、演奏はなかなか立派なものだった。もちろん、往年のハイティンク時代のような独特の豊潤無比で気品ある個性的な音色とは全く異なる、インターナショナルな響きではあるけれど、たっぷりとした量感を備えた機能的な「新世界」としての良さはあるだろう。
 先日聴いたチェコ・フィルのそれとは別の、西欧のオーケストラによるドヴォルジャークの音楽としての色合いは実にはっきりと出ていたし、スケールの大きな「新世界交響曲」としての愉しさは充分に味わうことはできた。

 ただし、前半のビゼーの交響曲での演奏は、意外にエスプリも洒落っ気も乏しく、あまりリハーサルをしていなかったのかな、という気がしないでもなかったが。

 アンコールは、また「スラヴ舞曲ホ短調」をやるのではないかと冷や冷やしていると、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「ポロネーズ」が華やかに始まった。

2023・11・1(水)セミョン・ビシュコフ指揮チェコ・フィル

      サントリーホール  7時

 チェコ・フィル、4年ぶりの来日。今回はサントリーホールで3回、みなとみらいホールで1回、というだけの日程のようである。4回とも全ドヴォルジャーク・プロということで、今日は序曲「自然の中で」と「ヴァイオリン協奏曲」、「新世界交響曲」が組まれている。うちサントリーホール公演ではソリストが日替わり出演、今日はギル・シャハムが登場した。

 前回の来日公演(☞2019年10月28日)は、セミョン・ビシュコフが音楽監督・首席指揮者に就任した直後の時期だった。あれから両者の呼吸も合って来たのか、それともビシュコフが成長してチェコ・フィルの伝統的な音色を尊重することができるようになったのか、とにかく演奏スタイルはかなり変わったように思われる。

 「自然の中で」では演奏も少々荒っぽかったが、「新世界交響曲」で聴かせたビシュコフとチェコ・フィルの演奏は、久しぶりでこの曲の本来の美しさを再現してくれた快演だったと言ってもいいだろう。
 最も印象的だったのは、「チェコ・フィルの弦」がまた蘇っていたこと。それは往年のカレル・アンチェルらチェコの名指揮者たちの時代のそれとは大きく異なる種のものではあるものの、トゥッティには豊かな膨らみがあり、ヴィオラなど内声部の動きと、チェロやコントラバスの低音弦の動きなどが、まるで大きな空間に木霊するようにたっぷりと響いていたことだ。そのため音楽全体にいっそう厚みが出て、素晴らしく多彩になっていた。すべての主題が、豊かなハーモニーの中で流れて行く。
 ドヴォルジャークは本当に何という美しい魅力的な音楽を書いたのだろう、と、改めて強い感銘を受けた━━ブラームスが羨んだのも尤も至極だ、と。

 「ヴァイオリン協奏曲」でのギル・シャハムとの顔合わせは、今日だけだったようだが、リハーサルの時間はどのくらいあったのかしらん? 彼のソロは、相変わらず魅力的である。なお彼は、ソロ・アンコールとして、スコット・ウィーラーの「アイソレーション・ラグ」という小品を弾いてくれた。
 一方チェコ・フィルは、ホ短調の「新世界交響曲」のあと、アンコールにお定まりのホ短調のドヴォルジャークの「スラヴ舞曲Op.72-2」と、さらにブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」を演奏した。終演は9時25分頃になった。

2023・10・31(火)内田光子とマーラー・チェンバー・オーケストラ

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 内田光子の弾き振りで、モーツァルトのピアノ協奏曲の「第25番ハ長調K.503」と「第27番変ロ長調K.595」。その間にオーケストラのみでシェーンベルクの「室内交響曲第1番Op.9」が挟まれた。

 モーツァルトのコンチェルトは、良くも悪くも、まさに最初から最後まで、「ピアニスト・内田光子」の感性によって染め尽くされた演奏、と言ってよかっただろう。
 良くも悪くも━━などという言葉は、わが国の生んだこの大ピアニストに対してはあまり使いたくない表現なのだが、正直に言うと、私は今日のモーツァルトには、些か疑問を抱いたのである。

 つまり、コンチェルトには、ソロとオーケストラによる琴瑟相和す悦びという要素の一方、ソロとオーケストラとのせめぎ合いの面白さという面も大切だったはずではないのか、という思いが頭の中をよぎり続けていたのだ。
 もともと内田光子の音楽は、モーツァルトの快活さという側面よりも、その音楽の底に流れる精神の光と影、時には魔性的な感性までを強く浮き彫りにするといったタイプの演奏であり、特に近年はいよいよその傾向が強くなって来たと思われる。今日の演奏でも、特に「第27番」ではそれが強く感じられ、この曲の陰翳の濃さをこれほどまでに浮き彫りにした演奏は稀ではないかとさえ感じられた。その点では彼女のピアノに賛辞を惜しまない。

 だが、彼女の指揮のもと、オーケストラが単独で語る個所においてまで最弱音が強調されたり、大きなリタルダンドが繰り返されたりといった手法が使われるとなると、モーツァルトが書いた音楽の対比、変化、移行の妙味が失われてしまい、曲そのものが単調で一本調子の印象になってしまうという結果を招くのではないか、ということ。

 「第25番」の第1楽章でも、総譜に指定されている「アレグロ・マエストーゾ」という言葉に含まれる威容や快活さ(アニマート、あるいはブリオ)といった要素が全く感じとれず、━━まことに申し訳ない言い方だが、彼女の指揮でオーケストラが演奏し始めた瞬間、その沈んだ無表情な、単調な音楽にびっくりさせられてしまったのである。

 そもそもコンチェルトは、「オーケストラのオブリガート付のソロ・ソナタ」であっては面白くない。やはりこの場合は、ソロとの対比を形づくる指揮者がいてくれたらな、と思わざるを得ない。
 従ってこの2曲のコンチェルトでは、内田光子のピアノのパートのみが映えた演奏だった。特にカデンツァの個所は圧巻で、できるならこのまま彼女のソロだけ聴いていたいな、と思わせたほどだったのである。なお彼女のソロ・アンコールはシューマンの「告白」。これも良かった。

 マーラー・チェンバー・オーケストラの本領は、シェーンベルクで発揮された。緻密に入り組み、寸時も緊迫感を失わないこの音楽の構成の凄まじさを余すところなく再現したこの見事な演奏は、腕達者な彼らならではのものだろう。
 聴衆は沸き、カーテンコールは「25番」と同じ数の3回にわたり、拍手は「25番」の演奏のあとより大きかったほどだった。しかも「25番」のコンチェルトのあとでは聞かれなかった最上階席からのブラヴォーが、このシェーンベルクでは爆発したのである。川崎のお客さんの受容力の幅広さを示すものと言えようか。

2023・10・30(月)オスモ・ヴァンスカ指揮都響のシベリウス

       東京文化会館大ホール  7時

 フィンランドの巨匠オスモ・ヴァンスカが客演、シベリウスの交響曲第5番、第6番、第7番というプログラムを指揮した。コンサートマスターは矢部達哉。
 ホールはほぼ満席状態で、ロビーの雰囲気も熱気にあふれていた。シベリウス愛好者も多く詰めかけていたと思われる。「ヴァンスカのシベリウス」がこれほど人気を集めているのは嬉しいことだ。

 東京都交響楽団が素晴らしい演奏をしてくれた。
 総じて言えば、北欧の空気━━実に曖昧な言葉であるのは承知しているが、幸いにもあのスカンジナヴィア半島を何度か訪れることができた私の勝手な感覚ということでお許し願いたい━━を如実に想起させる演奏という点では、先日のマケラとオスロ・フィルのシベリウスに一歩を譲るが、演奏の密度の濃さによりシベリウスの音楽の素晴らしさを感じさせてくれた点から言えば、このヴァンスカと都響の演奏の方が上回っていたような気がするのだが、如何だろうか。

 特に「5番」は、あのオスロ・フィルの方は、私の聴いた18日の演奏は、来日して最初のステージということもあってか、些か散漫な印象を免れなかったのだが、それに比べれば今日のヴァンスカと都響の演奏の方が、より強さに満ちていたように思う。
 第1楽章の終結部で、ひたすら追い上げて行く個所での緊迫感、第2楽章での霧の中を進むような主題の美しさ、終曲でひたすら高潮する音楽の強靭な力など、見事なものだった。
 ただ欲を言えば、最後の断続する和音群のパウゼの部分━━この総休止の静寂の雄弁さという点では、もう一つ何かが欲しいところではあったけれど。

 「6番」は、私の好きな曲なのだが、今日の演奏は、久しぶりにこの曲の良さを味わわせてくれたような気がする。ヴァンスカの指揮は、概して歯切れよく、リズム感も明快で、叩きつけるような激しさを感じさせるものだが、それがこの交響曲の一種茫漠とした雰囲気の音楽を程よく引き締め、円熟の「7番」を先取りしたような作品に仕上げていたのではなかろうか。私の印象では、今夜最も見事だったのは、この「6番」の演奏だったような気がする。

 この「6番」の演奏の印象があまりに強烈だったため、最後の頂点のはずの「7番」が、なんとなくエピローグのように感じられてしまった。いや、そんなふうに思ったのは、多分私だけだろう。非凡な演奏であったのはもちろんである。

 ヴァンスカのシベリウスは、やはりいい。今月は、久しぶりでいいシベリウスを受容することができた。

2023・10・28(土)佐渡裕指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

       すみだトリフォニーホール  2時

 今年4月に新日本フィルの音楽監督となった佐渡裕、彼の新シーズンの定期第1弾は、ハイドンの「交響曲第44番《悲しみ》」と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」というプログラムで始められた。コンサートマスターは崔文洙。

 2曲とも、オーケストラの柔らかい響きが快い。音楽は佐渡裕らしく骨太で豪壮な構築だが、昔の彼のような力任せの演奏といった雰囲気はもう消えて、何か楽々とした余裕のようなものが増して来たことが感じられるようだ。
 今回は、1階席の上手側後方入り口に近い、バルコニー席の屋根がかぶさった所の端の席で聴いたのだが、ハイドンの交響曲では、オーケストラがこの上なく豊潤な音に聞こえた。

 ブルックナーも同様、第1楽章冒頭ではステージの奥の方から響いて来るホルンのソロがたっぷりと伸びやかな音だったのにまず魅惑され、次いで最強奏で轟きはじめたオーケストラの重量感と、厚みのある豊かな拡がりを持った音に、言いようのない安堵感を覚えた次第である。
 このトリフォニーホールは、場所によってかなり音が違うので、別の席で聴けばまた異なった印象を得たのかもしれないが、とにかく前述の席で聴いた限りでは、私は新日本フィルから久しぶりで安定した、かつスケール感のある演奏が聴けた━━と、そう思ったのは確かなのである。

 ただ、欲を言えば、この演奏には未だに大味なところもないとは言えず、それがこれからの課題だろうな、と思わないでもなかった。ともあれ、佐渡と新日本フィルの今後の共同作業に期待しよう。

2023・10・24(火)大西宇宙バリトン・リサイタル

         東京文化会館小ホール  7時

 「飛ぶ鳥落す勢い」にある大西宇宙のリサイタル。これは東急文化財団の主催で、「五島記念文化賞オペラ新人賞研修成果発表」と銘打たれている━━つまり留学成果報告リサイタルのようなものだ。ピアノの協演はブライアン・ジーガ―。

 彼のトークによれば、今回のリサイタルには「旅」のイメージが籠められている由で、その作品も仏、墺、英、独、露、伊━━と多岐にわたっていた。即ち、イベールの「ドン・キショットの4つの歌」で始まり、マスネの「ドン・キショット」からサンチョ・パンサの歌、コルンゴルトの「死の都」から「ピエロの歌」、ヴォーン・ウィリアムズの「旅の歌」、マーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌」、プロコフィエフの「戦争と平和」からアンドレイ公爵の歌、ヴェルディの「ドン・カルロス」(フランス語版)からロドリーゴの最後の歌、というプログラムである。

 しかもアンコールでは、ブロードウェイ・ミュージカルの「ラ・マンチャの男」━━ドン・キホーテということで今日の冒頭の2曲と呼応する━━と「ウェストサイド・ストーリー」から歌ったところが、ニューヨークのジュリアード音楽院に学んだ大西宇宙の面目躍如たるものがあるだろう。これで前記の「旅」には「米」も加わったことになる。

 今回のリサイタルでは、彼はオペラでは暗譜で、ヴォーン・ウィリアムズとマーラーの歌曲では譜面を前に歌った。
 オペラではドラマティックな歌唱が流石に迫力充分で、特にサンチョ・パンサが人々の嘲笑から主人を守って歌う「笑いたければ笑え、お前たちの言うこの気の毒な理想家を」や、ロドリーゴが親友ドン・カルロスに別れを告げる場面の歌などでは、客席を沸かす歌唱が聴かれた。

 一方、歌曲では当然ながらオペラよりは抑制された表現が聴かれたが、しかし「リュッケルトの詩による5つの歌」での、孤独の哀しさを囁くような最弱音で歌ったり、神の力を信じる個所を確信に満ちた最強音で表現したりという、歌詞の内容に応じた劇的な表現の変化は実に興味深く、魅力的なものを感じさせてくれた。

2023・10・23(月)レイフ・オヴェ・アンスネス ピアノ・リサイタル

        東京オペラシティ コンサートホール  7時

 久しぶりに聴くアンスネスのソロ・リサイタル。
 今日は、シューベルトの「ソナタ第14番」、ドヴォルジャークの「詩的な音画Op.85」から5曲、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」、ブラームスの「7つの幻想曲Op.116」というプログラムが組まれた。

 ソナタ形式のように流れの良い4つの作品の配列にまず感心させられたが、それら各々に当てられたアンスネスの表現の多彩さの、なんとまあ見事なこと。
 冒頭のシューベルトのソナタがやや暗い、たっぷりした陰翳のもとに弾かれて行ったのを聴くと、アンスネスのこの数年来の特徴ある音色がますます個性を発揮して来たな、という思いを強くする。だが、そういう音色が引き継がれたドヴォルジャークの「詩的な音画」には、何という色っぽさがあふれていたことか。

 そして更に感動させられたのは、「悲愴ソナタ」での表現の細やかさだ。短いフレーズや音型が反復されつつたたみかけるようにクレッシェンドし昂揚して行く個所では、そのひとつひとつに異なる表情が籠められていて、その反復が音楽の展開として明確な意味を感じさせるように演奏されて行くのである。アンスネスも凄いピアニストになったものだ、と思う。

 この演奏にあまりに聴き惚れてしまったために、最後のブラームスの印象がどこかに飛んでしまったのだが‥‥。

 アンコールはドヴォルジャークの「詩的な音画」から、先ほど演奏されなかった「春の歌」、ショパンの「マズルカOp.33-2」と「マズルカOp.17-4」が演奏された。このショパンも、いかにもアンスネスらしく、陰翳が濃い。

2023・10・21(土)尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

       フェスティバルホール  3時

 10月定期公演で、音楽監督・尾高忠明が指揮、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」(ソリストは岡本誠司)と、ウォルトンの「交響曲第1番」を演奏した。コンサートマスターは崔文洙。

 比較的小さな編成で演奏されたモーツァルトのコンチェルトでの、オーケストラの音色の軽やかで清楚なこと。昔の大フィル━━いまだにあの朝比奈隆さんの時代と比較されて云々されるのがこのオケの宿命だろう━━とは全く違う音を響かせるようになったこのオケのカラーを如実に示す例だ。岡本誠司の、光にあふれた闊達なモーツァルトとは対照的ながら、いい対話を繰り広げている。
 その岡本はアンコールで、モーツァルトの「トルコ行進曲」の賑やかなヴァイオリン編曲版を弾いてくれた。

 後半は、ウォルトンの「第1交響曲」。16型編成の大阪フィルが、怒号咆哮するその凄まじさ。このあたりは往年の大フィルを彷彿とさせる力感だろう。
 下手側の高所のバルコニー席で聴くと、金管群と打楽器群がひときわ強く響いて来るように感じられるが、とにかくこの「1番」は、極端に言えば最初から最後までフォルティッシモが続くといったような曲だから、ひたすらその轟音に精神を委ねるほかない。

 制御の巧みさでは定評のある尾高忠明の指揮だし、彼の十八番のレパートリーでもあるので、怒号も咆哮も、割れんばかりの大音響も、全て緻密に設計された演奏のはずである。
 それにしても面白い曲だ。もともと今回の大阪行きの目的のひとつは、これを聴くことにあったのだから。

 新大阪18時始発の「のぞみ」で帰京。

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