2024-03

2024・3・3(日)R・シュトラウス;「ばらの騎士」

     滋賀県立劇場びわ湖ホール  2時

 びわ湖ホールのステイタス、春の「プロデュース・オペラ」のシリーズが、今年は新・芸術監督の阪哲朗の指揮で、「ばらの騎士」を以て、そして久しぶりの舞台上演形式で、2日と3日に開催された。この劇場としては、この「ばらの騎士」は沼尻竜典芸術監督の就任時に取り上げられて(☞2008年2月3日の項)以来の上演である。
 今回の演出は中村敬一、舞台装置は増田寿子、管弦楽は京都市交響楽団。

 主役陣はダブルキャストで、今日は田崎尚美(元帥夫人)、斉木健詞(オックス男爵)、山際きみ佳(オクタヴィアン)、𠮷川日奈子(ゾフィー)、池内響(ファーニナル)。
 また共演陣は2日間共通で、船越亜弥(マリアンネ)、高橋淳(ヴァルツァッキ)、益田早織(アンニーナ)、松森治(警部)、清水徹太郎(テノール歌手)、晴雅彦(公証人)、山本康寛(料理屋の主人)ほかの人たち。
 合唱はもちろんびわ湖ホール声楽アンサンブルだが、前出のソリストたちの中にはそのアンサンブルの登録メンバーも何人かいて、この合唱グループの活動の充実ぶりを実証している。

 演奏の面では、まず何よりも第一に、阪哲朗の指揮の素晴らしさを挙げなくてはならない。R・シュトラウスの音楽の官能的な、かつ叙情的な美しさをこれほど魅力的な語り口で見事に再現した指揮者は、日本の指揮者の中でも稀であろう。
 第1幕最後の元帥夫人の物思いの場面や、第3幕大詰めの三重唱と二重唱の場面での陶酔感に富んだ表情はもちろんのこと、第2幕と第3幕で大勢の人物が早口で応酬する部分でのオーケストラの起伏感、劇中で何度か意味ありげに「オクタヴィアンの動機」が再現する直前での微細な「矯め」などにおける彼の指揮の「もって行き方の巧さ」には、本当に感心した。

 この人はもともと一瞬の客演指揮で要領よく成果を上げるというタイプの指揮者ではなく、じっくり腰を据えて時間をかけ、丁寧に練り上げて良い演奏をつくり上げるという指揮者だから、このびわ湖ホール(もちろん山形響もそうだが)でのような制作体制の場所では、彼の本領が最良の形で発揮されるはずである。初代芸術監督・若杉弘が基礎を築き、二代目芸術監督・沼尻竜典が発展させたびわ湖ホールのオペラ制作体制は、これからも盤石であろう。

 そして、今回は京都市交響楽団の快演にも賛辞を捧げたい。いつぞやの「フィガロの結婚」とは天と地との違いの演奏だったと言っていい。第1幕の幕切れなど、あのゆっくりした音楽を入魂の演奏で紡いでくれたのはうれしかった。

 歌手陣は、みんな充実していた。初日(3月2日)の森谷真理、妻屋秀和、青山貴、石橋栄実、八木寿子の組も見事だったという噂を聞いたが、今日の人たちもそれぞれ良さを発揮していたと思う。田崎尚美は第3幕で元帥夫人としての気品と威厳を示し、斉木健詞は持ち前の長身と深みのある低音でオックスを厭味なく歌い演じていた。ファーニナルの池内響は、第2幕でのオタオタしている新興貴族から第3幕で元帥夫人に愛想よく腕を差し出す紳士への大きな変わりっぷりもいい。𠮷川日奈子もゾフィーを愛らしく歌い演じていた。
 そしてオクタヴィアン役の山際きみ佳は、今回の大収穫ではないかと思うが、素晴らしく魅力的なズボン役だ。以前にもこのホールでの「ドン・キホーテ」や名古屋での「ヴァルキューレ」で聴き、観たことがあるが、このオクタヴィアン役では、目覚ましい花形に成長していたと思う。

 演出は中村敬一で、手堅く、かなり微細なニュアンスを感じさせる演出で解り易い。歌手に客席の方へ顔を向かせて歌わせる手法や、怒った時に流し目を使わせる手法(今回はオクタヴィアンがやっていた)などには、あの大御所たる栗山昌良の影を感じさせるけれども、それを除けば、好感が持てるオーソドックスなスタイルである。
 終り近く、元帥夫人は若い2人の結びつきを認めてやると、あとをも見ずに部屋を出て行くという「腹立たしい」表現の演技が展開するのは珍しいものではないが、今回は最後に彼女が帰って行く時に差し出した片手を見てオクタヴィアンが暫し躊躇うような様子を示し、その手にキスし終わる頃にはもうゾフィーの方を振り返って、彼の関心がすでにどこに集中しているかということを示していた。この設定の演出は、面白かった。

 舞台装置は伝統的なスタイルだが、ファーニナル家の広間で、上手側に日本の端午の節句の兜や、ひな祭りの人形ひとつなどが飾られ、下手側には屏風も並んでいたのには笑いを誘われる。

 しかし最後に一言、字幕についてだけは些か不満を申し述べたい。特に第3幕後半など、登場人物の思惑が入り乱れるくだりなどでは、あの字幕では、ストーリーの進行さえ、解り難い。たとえば元帥夫人がオックス男爵に退去を命じる際の一種の詭弁的論理や自身の動揺などについても、もう少し観客の立場に立って文章をつくることが必要である。ドラマの本質が一目瞭然解るように伝えるのも字幕の使命なのだから━━。それに、「高身分」の人物みんなを「閣下」と呼ぶのは、不自然ではないか。ましてや元帥夫人までを。

2024・2・28(水)東京二期会 「タンホイザー」初日

      東京文化会館大ホール  5時

 昨日のGPの際に、キース・ウォーナーによく似た頭の人がいたので、てっきりご本人が来日しているのだと思い、それをブログに書いてしまったのだが、二期会のY氏に確認すると「その予定だったが結局来られなかった」とのこと。その代わり、再演演出担当のカタリーナ・カステニングら「御一統様」の何人かが来日して直接指示を出しているとのことで、「あの頭の人」はそのうちのだれかだったようである。

 ともあれ、昨日も書いたことだが、このプロダクションは3年前にも上演されたことがあり(☞2021年2月17日、☞2021年2月18日)、舞台はそれと基本的に同一なので、詳細は省略する。
 ただ、前回時は新型コロナ大流行の真っ只中だったため、演出指導もZOOMによるものだったそうで、そのゆえ徹底を欠いていたとのことだ。その点今回は御一統様の直接指示のおかげで、特に人物の動きや照明の変化などの面では3年前の上演よりも引き締まっていたような印象を受けた。

 とはいえ、昨日のGPに比べてオヤオヤと思ったのは、第3幕の幕切れ場面、逆さ吊りのエリーザベトの不気味な姿が天上から下がって来る個所で、その人形(と言ってしまっちゃミもフタもないが)を下すタイミングがちょっと遅かったのではないか? あれでは上階席の観客にはよく見えなかったのではないかという気もする。(※人形ではなくて生身の役者さんだったのですか、M.K.さん!)

 いずれにせよキース・ウォーナーのこの演出では、タンホイザーは「恩寵」のきざはしの中に入って救済されたのかもしれないが、無惨にも自死した「聖なるエリーザベト」は悲惨なことになる。つまり、いかにも身勝手極まるタンホイザーという男━━この男は、彼女の棺が運ばれているのを見たその期に及んでさえ、「エリーザベト、悪かった」ではなく「俺のために祈ってくれ」などと、まだ自分本位のことを言っているのである━━を非難しているように感じられるのだが如何。(そう言えば、エリーザベトが縊死した姿は、客席半ばより後ろの方では、よく見えなかった)。

 今日の初日の歌手組は、サイモン・オニール(タンホイザー)、渡邊仁美(エリーザベト)、林正子(ヴェーヌス)、大沼徹(ヴォルフラム)、加藤宏隆(領主ヘルマン)、高野二郎(ヴァルター)、近藤圭(ビーテロルフ)、児玉和弘(ハインリヒ)、清水宏樹(ラインマル)、朝倉春菜(牧童)という顔ぶれである。

 不思議なことに今日は、歌手たちの声が妙に散って、客席にまっすぐ届いて来ない。舞台はほぼ一貫して狭い部屋の構造になっているので、反響板としての役割は充分だと思われたのだが‥‥天井が空いていたのか? しかし、昨日のGPの時にはそれほどの印象はなかったのだが‥‥。二期会合唱団も、いつもだったらもう少し厚みのある響きを出していたものだが‥‥。

 だがその中でも、今日のサイモン・オニールは、やはり一段と抜きん出た声量で、他の邦人歌手陣を圧倒していたのである。かなり癖の強い声質と歌い方だが、ビンビンと響く声は力強く、「ローマ語り」の個所では凄まじい迫力を聴かせて、「怒れる自暴自棄のタンホイザー」としての性格を見事に表現していた。

 今回の収穫のひとつは、アクセル・コーバーの巧みな指揮だ。読売日本交響楽団の弦(12型と聞く)を豊かな厚みを以て響かせ、全管弦楽を最強奏の個所でも比較的バランスよく鳴らしてくれた(ティンパニだけはあまり全合奏に溶け込まないのが気になったが)。
 感心したのは音楽の起伏のつくり方で、特に第2幕後半の大アンサンブルにおける緊迫感に富んだ盛り上がりは見事なものだった。
 彼の指揮する「タンホイザー」は、2013年のバイロイトでも聴いたことがあるが、音楽の持って行き方の巧さでは、今回の方が遥かに上を行っていると思う。

 なお今回は、パリ版楽譜を基本とし、一部ドレスデン版を入れているという触れ込みだった。序曲途中から「バッカナール」に移行し━━これは厳密にはウィーン版と呼ぶべきだと主張する人もいる━━以降パリ版は第1幕第2場のタンホイザーとヴェーヌスの場面から第3場冒頭の「牧童の歌」途中までの個所、同第3場のアンサンブルの中の1ヵ所、第2幕および第3幕の終結個所などが全て生かされている。
 ただし、第2幕の歌合戦の場での「ヴァルターの反論の歌」は、ドレスデン版のそれが復活されていた。謂わば折衷版による演奏、であろう。
 このパリ版、第1幕はチト長いが、第3幕終結部分は絶対このパリ版の壮麗な昂揚感の方が素晴らしい。

 25分程度の休憩2回を挟み、終演はほぼ9時。

2024・2・27(火)東京二期会 ワーグナー「タンホイザー」GP

        東京文化会館大ホール  2時

 フランスのラン歌劇場との提携公演、キース・ウォーナー演出のプロダクションで、これは3年前に上演されたことがある(☞2021年2月17日、☞2021年2月18日の項参照)。管弦楽は前回同様、読響がピットに入っているが、指揮はアクセル・コーバー(意外にも初来日)になった。

 本番の上演は28日、29日、3月2日、3日の4回で、A・Bのダブルキャストだ。ただ私は、B組の出る日はスケジュールの関係で観られないので、今日はそのB組の方のGPを取材しに行った次第である。
 こちらはタンホイザーを片寄純也、エリーザベトを梶田真未、ヴェーヌスを土屋優子、ヴォルフラムを友清崇、ヘルマンを狩野賢一、そのほか━━という顔ぶれで、今日は片寄純也が本番に備え声を徹底的にセーヴしていたものの、梶田真未が清純で力強いエリーザベトを聴かせるなど、いい総練習が繰り広げられていた。

 このプロダクション、キース・ウォーナーにしては「まともな」演出に属するだろう。とはいえ、ヴェーヌスが第2幕の歌合戦の場に現れてタンホイザーに声援を送るそぶりを続けたり、ヴォルフラムのエリーザベトに対する愛を強調したりするなどの趣向は織り込まれている(いずれも目新しいものではないが)。ただし、大詰め幕切れの場面は、少々ぞっとさせられる光景と言えようか。

 音楽の面では、ドレスデン版とパリ版との折衷版が使用されていることは前にも書いたが、事実上は二期会の言うとおり、パリ版基本だ。パリ版は第1幕が少し長いけれど、魅力的な個所を多く含んでいて、私はこの方が好きである。アクセル・コーバーの指揮も手堅く、読響がなかなか豊かな音を出していた。

2024・2・26(月)METライブビューイング「ナブッコ」

         東劇  6時30分

 今シーズンのライブビューイングは冒頭の3作が現代もので、しかも恐ろしく重い内容だったので、このヴェルディの名作「ナブッコ」で久しぶりに解放的な気分にさせられたという感。

 これは今年1月6日に上演されたライヴ映像だ。ストーリーは実に大雑把なものだが、何しろ音楽が素晴らしい。ダニエレ・カッレガーリの指揮が手馴れていて、しかも全曲の大半を占める合唱部分をMETの合唱団が見事に歌っているので、結構楽しめる。

 題名役のバビロニア王ナブッコをジョージ・キャグニッサ、その娘フェネーナをマリア・バラコーワ、その恋人イズマエーレをソクジョン・ベク、王位簒奪のバビロニア女性アビガイッレをリュドミラ・モナスティルスカ、祭司ザッカーリアをディミトリ・ベロセルスキーという配役。
 第1幕と第2幕は続けて演奏されていたが、モナスティルスカは第1幕での劇的な歌唱にすぐ続いて、第2幕冒頭のあの長大なアリアをもカットなしで楽々と歌っていた。
 彼女はウクライナのキーウ出身、ライバル役のフェネーナ役バラコーワがロシア出身(しかも2022年にMETデビュー)というキャリアには、少々複雑な思いを抱かされる。なお、有名な合唱曲「行け、わが想いよ、金色の翼に乗って」はアンコールなし。助かったという感である。

 この演出はイライジャ・モシンスキー、豪壮な舞台美術はジョン・ネイピアで、舞台の景観からすると、20年ほど前にMETで2度ほど観たプロダクションだと判るのだが、どうも演出の詳細についてはさっぱり記憶が残っていないのである。
 ただ一ヵ所だけ、最初に観た時には、バビロニア軍が中央の大門をバリバリと打ち破って侵入して来るという猛烈な演出だったが、2度目に観た時には門を壊さずに、ただ押し開けて入って来た‥‥ことを覚えている。いちいち派手に破壊していては大道具の製作費がかかってたまらないからだろう、などと勘ぐったわけだが、今回の上演では、更に簡略化(?)して、何となくあちこちからナブッコ軍団が入って来た。それゆえ迫力には欠ける。

 余談だが、私がMETで最初にその「ナブッコ」上演を観たのは2003年3月22日、折しもアメリカがイラクへの攻撃を開始して3日後のことだった。それゆえ、そのバビロニア軍の殴り込みの場面が殊更リアルに感じられてしまったわけである。ニュースを聞いた時には、よりにもよってエライ時にニューヨークに来てしまったものだ、と思ったが。
 因みに、攻撃開始(東部時間3月19日夜)の時刻に上演されていたのは、ひとを信じられなくなった人間の悲劇を描くヴェルディの「オテロ」で、指揮はワレリー・ゲルギエフだった‥‥。深夜にそれを見終わってリンカーン・センター前の広場に出た時、マンハッタンの空に月が鮮やかに輝いていて、この静けさがいつまで続いてくれるのか、と憂鬱な物思いに耽ったことは覚えている。

2024・2・24(土)鈴木優人×BCJ×千住博 モーツァルト:「魔笛」

        めぐろパーシモンホール 大ホール  2時

 これは「Bunkamura 35周年記念公演 Orchard Produce 2024」として制作されたもの。オーチャードホールが日祭日以外は使えないので、東横線都立大駅から徒歩10分足らずの場所に在るこのホールが使われたようだが、客席数1200前後というこの会場は、バッハ・コレギウム・ジャパンの小編成管弦楽と合唱による「魔笛」の上演にはむしろ適していると言えるだろう。
 椅子がやや狭いのと、階段が多いのが難点と言えば難点だが、舞台は見やすいし、音響もいい。

 今回の「魔笛」は4回公演で、今日は3日目。指揮を鈴木優人、演出を飯塚励生、美術を千住博、映像をムーチョ村松。
 主な配役は、王子タミーノをイルカー・アルカユーレック、鳥刺しパパゲーノを大西宇宙、その恋人パパゲーナを森野美咲、ザラストロを平野和、弁者を渡辺祐介、2人の僧侶・武士を山本悠尋・谷口洋介、夜の女王をモルガーヌ・ヘイズ、その娘パミーナを森麻季、奴隷モノスタートスを新堂由暁、3人の侍女を松井亜希・小泉詠子・坂上賀奈子、3人の童子を望月万里亜・金持亜実・高橋幸恵。

 舞台で目立ったのは、たくさんの白布に投映されたイラストや映像の美しさだ。冒頭での「大蛇」に替ってタミーノを脅す「吹雪」の映像というアイディアもさることながら、ザラストロの国の場面で、舞台一面に乱舞する冷たいデジタル的な無数の数字群が、タミーノが新しい指導者に選ばれた瞬間に溶解して行くという発想は、現代社会への風刺としても面白い。登場人物たちがみんな客席の方へ顔と身体を向けて歌うという演出には演劇性という面から見て大いに不満はあるものの、闊達な動きそのものは観客を楽しませただろう。

 パパゲーノが背負ったバックパックにUber Eatsのマークの文字を入れ、その前に「Za」を加えて「Zauber」(Zauberflöte)としたシャレには笑った。ラストシーンで夜の女王とザラストロが━━モノスタートスとパパゲーノたちもが━━和解するあたりは、特に新味のある解釈ではないものの、当節の「願望」としても意味がある。歌唱もセリフももちろん原語だが、時たま日本語を入れて洒落ていた手法も悪くない。

 歌手陣では、やはりパパゲーノの大西宇宙が役者ぶりを発揮、闊達な歌唱と陽気な演技で舞台をさらっていた。彼が登場すると舞台が明るくなる。実力・人気ともに「進撃のバリトン」に相応しい存在だろう。
 次いでパミーナの森麻季の安定した歌唱。彼女は━━先日の「ジュリオ・チェーザレ」のクレオパトラ役でもそうだったが、このところ素晴らしいステージが続く。

 夜の女王役のモルガーヌ・ヘイズは最高音をやや力を抜いて出していたようだが、声質そのものはいい。有名な第2幕のアリアでは一か所、ちょっとおかしなところはあったものの、これはものの弾みかもしれない。ザラストロ(この指導者は、今回の演出では必ずしも全幅の信頼を集める存在ではないように描かれていた)の平野和の厳かな演技は良かったが、彼の声はやはりバリトン系か。タミーノのアルカユーレックは、あまり若者っぽくない風貌だが、歌唱のよさで聴かせていた。

 日本指揮界のホープ、鈴木優人の指揮に関しては、今回は些か異論を申し上げなければならない。特に第1幕での音楽の動きのなさ、ドラマとしての闊達な起伏を抑制したスタティックな演奏構築は、彼の意図的なものだったかもしれないが、モーツァルトの微細な感情の動きの豊かな「生きた音楽」に対する解釈としては、それは全く成功しない手法ではないかと思うのだけれども如何。
 正直言って、第1幕の音楽がこれほど平板に、長々しいものに聞こえてしまったことは、かつてなかった。ロビーで出逢った同業者たちもほぼ同意見だったし、帰りの道で私を追い越して行った2人の若者が「前半、長げえなと思ったな」と語りあっている声も聞こえたくらいなのである。

 そう言えば、先年「セイジ・オザワ松本フェスティバル」で「フィガロの結婚」を指揮した沖澤のどかも「オーケストラをできるだけ動かさないように」と語っていたようだけれども、何かそういう流行が日本の若手指揮者の間には生れているのかしらん?

2024・2・22(木)チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団

        サントリーホール  7時

 東京フィルハーモニー交響楽団も1000回定期への秒読みに入って、今日は第996回のサントリー定期。
 名誉音楽監督チョン・ミョンフンの指揮で、ベートーヴェンの「田園交響曲」と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」とを組み合わせるという、ちょっと不思議なプログラムが組まれた。3回の同一プログラムによる公演の、今日は初日である。コンサートマスターは三浦章宏。

 「田園」では、珍しくブライトコップ版の楽譜が使われたようだ━━見たわけではないが、第3楽章でのホルンの強烈なアクセントで、それと判る。現在主流となっているベーレンライター版ではもう聞かれなくなった響きだ。あのワルターとウィーン・フィルの名演レコード以来、われわれの世代のファンにとっては、長年にわたって聴き慣れていた、印象的な音だったのである。
 今日のチョン・ミョンフンの指揮では、そうした音とともに、全曲にわたって流麗で壮大な「田園」の絵巻物が大河のように展開されて行った。曲の開始個所から妙に懐かしいような、昔初めてこの曲を聴いた時のような陶酔感に包まれはじめていたと思ったのは、その所為かもしれない。

 「春の祭典」は、全曲にわたり速めのイン・テンポで、荒々しい急流のごとく全てを一気呵成に押し流して行く、といった感の演奏となった。ロシア音楽のように華麗な色彩感を誇示するわけでもなく、近代音楽としての明晰な音の構築を聴かせるわけでもなく、オーケストラをむしろ鷹揚なアンサンブルで豊麗に構築して行く「春の祭典」だったと言っていいか。

 初日ゆえにこのような演奏になったのかもしれないとも思われるが、こういう直截な演奏構築をチョン・ミョンフンはオペラなどでもよくやることがあるので、それは近年の彼の美学なのだろう。実はさっきの「田園」も、どちらかと言えばそれに近い直截タイプの演奏だったのである。

 8時35分頃には演奏が終ってしまったので、終演時間が早すぎると思ったのか、チョンと東京フィルは、「春の祭典」の第1部の終曲(大地の踊り)をアンコールとして演奏した(この手は以前誰かもやったことがあるが、誰だったかは思い出せない)。
 チョンがスタンバイした途端に楽員たちが「何番から?」と笑い出したり(そう聞こえたのだが、聞き違いかもしれない)、いざという瞬間に打楽器奏者のひとりが何かをひっくり返したのかガシャガシャンという大音響が聞こえ、お客と周囲の楽員がゲラゲラ笑い出したり、私は昔からこういう「人間的な」雰囲気の演奏会がたまらなく好きだ。
 中学生の時の音楽教室で、ティンパニ奏者の椅子が壊れ、大きな音とともに奏者が後ろへのけぞり、暫し生徒たちの爆笑が止まらなかったのがそのきっかけかもしれない。

 因みに、東京フィルの第1000回定期は、6月23日のオーチャードホールでの定期がそれで、今日と同じくチョン・ミョンフンが登場、メシアンの「トゥランガリーラ交響曲」を取り上げるそうである。

2024・2・22(木)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

       東京芸術劇場コンサートホール  2時

 1000回定期までのカウントダウンに入っている東京都響、今日は第995回定期演奏会。桂冠指揮者エリアフ・インバルの指揮で、マーラーの「交響曲第10番」の、デリック・クック補訂完成版が演奏された。コンサートマスターは矢部達哉。

 インバルは、今月の都響への登場では、3種のプログラムによる5回の演奏会を指揮している。
 1936年生まれだから、今年で88歳になるわけだが、驚異的に元気だ。背筋をピンと伸ばしてすたすたと歩く。今日はこのマーラーの「10番」1曲だけだが、1時間15分ほどの長さの大曲を、椅子も使わず立ったままで精力的に指揮する。終演後も元気いっぱいカーテンコールに応え、楽員たちを各パート別に何度も起立させ、自らも何度も袖とステージを往復して、最後は聴衆に手を振って袖に引っ込む、という具合だ。

 彼が都響から引き出す音楽も引き締まって、些かも弛緩を感じさせない。前半でこそ演奏にしなやかさがやや不足していたような、もどかしさを感じさせる個所も聞かれたものの、第3楽章のあの「少年の魔法の角笛」の一節に似たリズミカルな曲想が現れたあたりからは、オーケストラ全体に揺れ動くような陰翳が満ち始めた。明日の2回目の演奏では、おそらく冒頭から深みのある世界が聴けるのではなかろうか。

 因みに、第1000回定期は今年の6月4日、同じくインバルの指揮により、ブルックナーの「第9交響曲」の第4楽章最新補訂版(SPCM版)の日本初演を以て開催されるそうである。

2024・2・20(火)アカデミー「ホール音響 アコースティックな響きとは」

      リーデンローズ(福山芸術文化ホール)大ホール  7時

 篠崎史紀(vn)をリーダーに、倉富亮太(vn)、村松龍(va)、市寛也(cb)というN響メンバーからなる弦楽四重奏が、まず反響板を取り去ったステージで演奏し、そのあとに今度は反響板を設置したステージで演奏する。その音響のあまりの違いに、客席からは嘆声とどよめきが起こる。━━クラシック音楽の演奏ではホールの音響がいかに大切かということを実証してみせる面白い試みだ。
 これは「リーデンローズ・アカデミー」という一般公開のイヴェントで、開催したのは広島県の福山市にある福山芸術文化ホール、愛称「リーデンローズ大ホール」である。

 1994年に開館したこのホールは、あの世界に名の轟く豊田泰久が音響設計したもので、かねがねアコースティックがいいという評判を聞いてはいたが、今回実際にこのホールを訪れて聴いてみると、多目的ホールとは信じられぬほど音が良いのに驚嘆した。反響版なしの状態で演奏された音さえもが━━楽器の音が少し遠い感になるだけで━━美しい音色に聞こえる。

 もっともこれは、演奏者の腕がいいということもあっただろう。篠崎マロさんは、反響板がないと自分たちお互いの音はさっぱり聞こえないのだ、と聴衆に語っていたけれども・・・・。
 このイヴェントでは、豊田・篠崎の両氏がそういう音響の微妙な問題と、それに対応する演奏者側の立場などを、さまざまな角度から説明してくれた。そして弦楽四重奏団は、ドヴォルジャークの「アメリカ」全曲と、モーツァルトの「ディヴェルティメントK.136」の一部を演奏した。これはまた実にいい音の、いい演奏だった。

 そもそもこの「アカデミー」の本当の狙いは、新しく福山芸術文化財団の常務理事に就任した豊田氏と、リーデンローズ館長の作田忠司氏とが「この音のいいホールで大オーケストラを響かせよう」という企画を開始する、そのためのPRにあったようである。
 その企画とは、広島交響楽団と京都市交響楽団を、当面は年に3回ずつ招聘し、「定期演奏会」としてレギュラー化するものである由。

 具体的には、まずこの4月14日にアルミンク指揮広響で「皇帝協奏曲」と「アルプス交響曲」、6月23日に井上道義指揮京都市響でショスタコーヴィチ・プロ・・・・という具合に進めて行くのだという。たしかに、このリーデンローズの音響の良さを考えると、広響などはこちらのホールで聴いた方が、オーケストラの音色が映えるかもしれない。聴きに行ってみよう。

2024・2・19(月)諏訪内晶子芸術監督 国際音楽祭NIPPON(続)

       紀尾井ホール  7時

 コロナ・ワクチンの第7回を先週金曜日に実施、昨年は初めてモデルナに当たって(選んだわけではない)翌日短時間の発熱(37度6分程度)が出たが、今回はファイザーだったせいか、幸いに発熱は無し。ただし眠気と寒気に襲われ、先週末は演奏会やオペラを二つ、棒に振った。もっともその間を縫って、ラジオでの小澤征爾さん追悼番組の生出演やら録音打ち合わせなどに忙殺されていたのだが━━

 今日聴いた演奏会は、諏訪内晶子が主宰する「国際音楽祭NIPPON」の一環で、「AKIKO Plays CLASSIC & MODERN with Friends」と題された2回シリーズの室内楽演奏会の初日。19世紀初頭のウィーンを舞台にした作品群によるプログラムが組まれている。
 演奏は、諏訪内晶子を中心に、ベンヤミン・シュミット(vn)、鈴木康浩(va)、イェンス=ペーター・マインツ(vc)、池松宏(cb)、ポール・メイエ(cl)、秋元孝介(pf)という顔ぶれだ。

 プログラムは、ベートーヴェンの「2つのオブリガート眼鏡付きの二重奏曲」からの「アレグロ」、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」、パガニーニの「モーゼ変奏曲」(原曲はロッシーニのオペラ「エジプトのモーゼ」の一節)、パガニーニ~クライスラー編の「ラ・カンパネラ」、シューベルトの「ピアノ五重奏曲《ます》」。

 面白いプログラムだったが、中でも度肝を抜かれたのは、諏訪内晶子が弾いたパガニーニの2曲である。彼女がこれほど「荒々しい凶暴な美しさ」を前面に押し出して演奏したのを、私はこれまで聴いたことがなかった。その前のモーツァルトの五重奏曲から一転しての荒技だから、聴衆も驚いたはずである。諏訪内晶子というヴァイオリニストの既存のイメージを覆すかのような、こういう思いがけぬ演奏を聴けるのが、ナマの演奏会の利点のひとつでもあろう。

 もっとも今日の演奏では、そのモーツァルトも含め、しっとりしたアンサンブルの妙味が披露されるよりも、ほぼ全員が、オレがオレが、といった調子で張り合うという面白さの方がより強く印象に残ったと言えなくもない。
 第2回は21日に開催される。

2024・2・14(水)工藤重典と東京チェンバー・ソロイスツ

       紀尾井ホール  7時

 「東京チェンバー・ソロイスツ」というと、もう50年以上前になるか、1971年頃に岩崎洸(vc)と中川良平(fg)が旗揚げしたアンサンブル(私はその旗揚げ公演をFM東京で録音、放送したことがある)を思い出すのだが、現在のこれは工藤重典(fl)が昨年旗揚げした室内合奏団で、コンサートマスターに森下幸路を迎え、18世紀音楽をレパートリーの中心に据えて活動している由。

 今回が第2回の演奏会とのことで、工藤重典の吹き振りに、ジャン=ルイ・ボーマディエ(picc)とリチャード・シーゲル(cem)をゲスト・ソリストに迎え、前半にパッヘルベル~パイヤール編の「カノン」、C・P・E・バッハの「ピッコロ協奏曲ニ短調wq.22」、J・S・バッハの「ブランデンブルク協奏曲第5番」、後半にモーツァルトの「フルートと管弦楽のためのアンダンテK.315」、「ロンド ニ長調K.Anh184」、「フルート協奏曲第2番」というプログラムが組まれた。

 なお冒頭に、小澤征爾さんを追悼してのバッハの「アリア」(管弦楽組曲第3番からのもの)が演奏され、演奏会最後のアンコールとしては、グルックの「精霊の踊り」と、イベールの「2つの間奏曲」からの「Allegro vivo」(とのことだったが、フルート、ピッコロ、チェンバロ、ヴァイオリンというあまりに雰囲気の違う編曲だったので、別の曲かと思った)が演奏された。

 シーゲルの長いチェンバロ・ソロが映えた「ブランデンブルク」も良かったが、合奏団の演奏が、それまでの━━よく言えば慎重さから脱して突然生気満々となったのは、工藤の指揮ぶりが突然大きくなったモーツァルトの1曲目の途中からではなかったろうか。そして「フルート協奏曲」では、流石に工藤の本領発揮、オーケストラも活気充分で、この演奏会を見事に締め括った。

 お定まりのホールの場内アナウンスを、今日は工藤さんがみずから陰アナで担当。最近はこういうのが流行るのかしらん。コンサートが親しみやすい雰囲気になるし、いいものだ。ただ、あんな陰々滅々(?)たる声でなく、いつもの工藤重典さんらしく、もうちょっと明るい声で呼びかけてくれればもっと良かったのだけれど。舞台袖裏でナマで喋っていたのかと思ったら、録音だった。「コンディションの良くない時に録音したので、すみません」と、ナマのトークの際に注釈あり。

2024・2・13(火)山田和樹指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 山田和樹の、ほぼ6年間に及んだ読響首席客演指揮者としての最後のシーズン、その東京最終公演が今日の「名曲シリーズ」になる。R・シュトラウスの「ドン・ファン」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストはシモーネ・ラムスマ)、フランクの「交響曲ニ短調」というプログラムが組まれた。コンサートマスターは長原幸太。

 山田和樹、ますます大きく、いい指揮者になって来たな、ということが、演奏会を聴くごとに感じられる最近である。音楽の構築の仕方に明確な方向と確信が感じられ、オーケストラの制御にも一段と強靭さが加わって来た。小澤征爾亡き後、国際的な活動を最も活発に繰り広げる日本人指揮者としての期待がかかる存在だろう。

 「ドン・ファン」の演奏での猛烈な推進性は、この曲の主人公をいっそう闊達な、エネルギッシュな人物として描き出していただろう。
 一方、フランクの「交響曲」では、この渋い曲が驚くほど豪壮華麗な響きと激しいエネルギー感で演奏されたのには驚かされたが、なるほどこの交響曲には、こういう要素も内含されていたのかもしれない、と思い直しながら聴いていた。

 昭和16年に初版が出たあらえびすの名著「樂聖物語」の中で、フランクのこの交響曲について「構造の雄大壯麗さと・・・・」と形容され、「レコードはストコフスキーがフィラデルフィア管絃團を指揮した豪華な演奏を以つて第一とする」(原文のママ)と書かれてあったのを読んで、そんな演奏でこの曲が成り立つのかな、とこれまで訝っていたのだが、今日の山田和樹と読響の演奏を聴いて、何となくその文章の意味が解ったような気がする。

 面白かったのは、ラムスマをゲスト・ソリストにしたブルッフの協奏曲だ。このオランダの女性ヴァイオリニスト、ラムスマは、驚くほどゆったりとした濃厚な、しかし深みのあるソロでこの曲を弾いたが、これをサポートした山田和樹が、実に風格豊かなスケールの大きな、しかも陰影に富んだ表情を読響から引き出し、ラムスマのユニークなソロに応じていたのである。私の印象では、今日のヤマカズさんの指揮の中で、最もただものでない才能を感じたのは、このブルッフのオーケストラ・パートの扱いなのだった。

 ラムスマは、もちろんソロ・アンコールを弾いた。ブルッフでのようなしんねりとした重い演奏がまた出て来たらちょっと閉口だな、と身構えたのだが、いざ弾き出したイザイの「ソナタ第2番」の第4楽章の奔放激烈で強靭なこと。ブルッフの時とは別人のようなスタイルの演奏である。客席もこの時は一気に沸いた。

2024・2・12(月)倉本聰原作 渡辺俊幸作曲 オペラ「ニングル」

      めぐろパーシモンホール 大ホール  2時

 日本オペラ協会の公演で、「日本オペラシリーズ」のNo.86。倉本聰の原作を吉田雄生が脚本化、渡辺俊幸が作曲した全2幕のオペラ「ニングル」の初演。

 物語は如何にも倉本聰の作品らしく、自然破壊の風潮への強烈な抗議というコンセプトに満ち満ちており、森が伐採されたことから起こる鉄砲水、渇水などの災害や、「今からでも遅くはない」と新しい生命の育成を願う「希望」などが交錯する内容だが、それらが叙事詩的な描き方でなく、そこに住む人々のドラマとして展開して行くという、ヒューマンであたたかい物語になっているところが特徴である。
 原作が書かれたのはほぼ40年前の由で、あの「北の国から」の連続ドラマと共通したコンセプトも感じられるし、効果的な「泣かせ」の手法にも事欠かないようだ。

 「ニングル」とは、プログラム冊子掲載の倉本聰本人のコメントによれば「富良野の森に住む、体長15~20センチ、200~300年の寿命を持つという小さな人間」なのだそうで、早い話が「森の樹々の精」を意味するのかもしれない。
 そのニングルがカムイの老人の姿を借りて「森の樹々は2百年も3百年も黙々として生き、豊富な水をも生み出して来た。だが人間たちはたった5分でその命を絶ってしまう」と非難するくだりなど、すこぶる感動的である。このドラマを彩る渡辺俊幸の音楽もまた実に叙情的で美しく、物語のコンセプトに相応しい。

 今回の初演では、田中祐子が引き締まった見事な指揮で音楽面をまとめ、最近の著しい成長ぶりを示していた。また岩田達宗も極めて解り易い明快な演出で「農村の物語」を描き出したが、登場人物の長いモノローグ━━所謂アリア的な性格を持った個所では、常に客席の方へ顔を向けて歌うという、栗山昌良スタイルの手法を多用し続けていたのが、私としては些か気になる。

 10日、11日、12日の連続3回公演で、出演陣はダブルキャスト。今日は、主人公のユタ(勇太)を須藤慎吾、その妻かやを丸尾有香、ユタの父・民吉を久保田真澄、ユタの義弟・才三を海道弘昭、その妻ミクリを別府美沙子、民吉の亡き長女かつらを佐藤美枝子、その娘スカンポを中桐かなえ、ニングルの長を江原啓之が歌い演じ、その他大勢の歌手たちも好演していた。
 合唱は日本オペラ協会合唱団、管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団。上演時間は正味2時間20分ほど。

2024・2・9(金)追補 山田和樹指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 「ノヴェンバー・ステップス」が演奏されたあと、すぐロビーに戻り、3曲目のベートーヴェンの「第2交響曲」は失礼し、共同通信の配信記事について打ち合わせをしてただちに帰宅、留守電に入っていた読売新聞、信州毎日新聞、産経新聞などとの「談」や打ち合わせを続けるなど、「打ちのめされ」てばかりもいられないような状況に追い込まれたのは事実だが、ここで当日の本来の取材対象であった山田和樹指揮読響の演奏に触れておかないのは、さらに礼を失することになるだろう。

 1曲目は、バルトークの「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」だったが、山田和樹は全身を躍動させつつ音楽を盛り立てようとしていたものの、オーケストラの方はやはりシリアスな、つまり生真面目な、敢えて言えば何となく沈んだ感の演奏に終始していたという印象が拭えなかった、というのが正直な印象である。
 彼が指揮する「弦チェレ」は、以前にオーケストラ・アンサンブル金沢と仙台フィルの合同演奏によるものを金沢で聴いたことがあり(☞2021年9月12日)、熱気としては、むしろそちらの方に分があっただろう。

 不思議なことに、私はその演奏を聴きながら、20年ほど前にサイトウ・キネン・フェスティバル松本で、小澤征爾がサイトウ・キネン・オーケストラを指揮した時のこの曲の演奏を思い出し、あれはあのコンビの最高の演奏といってもよかったな、などということばかり考えてしまっていたのである。何か虫の知らせだったのか。

 そして「ノヴェンバー・ステップス」。琵琶と尺八それぞれのソリストの世代は既に新しくなり、昔の2人のようなスケールの大きさと、名人同士の突き詰めたような丁々発止の応酬などというイメージの代わりに、気負いのない自然体の協演というイメージを感じさせられたのも、また時代の変遷ということになるのかもしれない。

2024・2・9(金)「ノヴェンバー・ステップス」と小澤征爾さん逝去

           (サントリーホール 7時)

 よりにもよって、武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」が、山田和樹指揮読売日本交響楽団と藤原道山(尺八)および友吉鶴心(琵琶)の演奏で始まる直前に、この曲の誕生に大きな力を与せ、かつこの曲をニューヨーク・フィルとともに世界初演した小澤征爾氏の逝去の報に接するとは。
 休憩時のロビーでは関係者の口から口へとその情報が伝えられ、みんな沈んだ表情で話を交わしていた。間もなく始まった第2部では、山田和樹がマイクで聴衆にその報を知らせると、客席からは驚きのどよめきが起こった。「小澤先生はみんなに悲しみを要求するような方ではないと思うので、黙祷などはしないでおきます」と山田和樹は語り、それから演奏に移った。
 私はと言えば、かつてFM放送時代に小澤さんと多くの仕事をした時のことや、海外で小澤さんの演奏会を聴いた時のことなどの思い出が次から次へと蘇り、暫し何も手につかないほどの衝撃に打ちのめされた状態だったが‥‥。

2024・2・7(水)METライブビューイング「アマゾンのフロレンシア」

     東劇  6時

 メキシコの作曲家ダニエル・カターン(1949~2011)が1996年に作曲したオペラ「アマゾンのフロレンシア Florencia en el Amazonas」を、メトロポリタン・オペラが初めて取り上げた。

 今回放映されたのは昨年12月9日の上演ライヴで、メアリー・ジマーマンが演出、ヤニック・ネゼ=セガンが指揮、題名役の歌姫フロレンシアをメキシコ系のソプラノ、アイリーン・ペレスが、客船エルドラド号船長をグリア・グリムスリーが歌っているほか、マッティア・オリヴィエリ、ガブリエラ・レイエス、マリオ・チャン、マイケル・キオルディといった歌手たちが出演している。

 ストーリーは、南米のジャングルに消えた蝶ハンターの恋人を探してフロレンシアが客船でアマゾン河をさかのぼり、最後は自らを蝶に変えて・・・・というようなもので、音楽はひと頃の映画音楽のように極めて耳あたりの良いタイプである。所謂アリア的なモノローグが多く、物語自体の進展の遅いのが問題だろう。ただ、この幻想的な物語に相応しく、舞台は非常に美しい。
 今回は珍しくロランド・ビリャソンが案内役に登場、恐ろしく賑やかな声と身振り手振りで切り回していた。ちょっと疲れる。
 2幕制で、上演時間は正味1時間50分ほど。

2024・2・6(火)アクセス数400万への御礼

 有名タレントのブログでもないし、有名政治家でのブログでもない、こんな見かけも内容も地味なブログなのに、いくら16年継続の故とはいえ、400万アクセス(左上カウンター、これまでの訪問者数欄)などという数字に達することができたのは、ひとえに立ち寄って下さる方々のおかげです。ありがとうございます。
 ブログを始めた初日のカウンターは、たしか「000006」だったか「000008」だったか・・・・どうせ100万なんてあり得ないよ、と管理人を引き受けて下さっている友人の女性と相談して、最初はカウンターも3ケタしか用意していなかったほどですから。
 この日記、いつまで続けられるか判りませんが、まあ、書ける間はやって行こうと思います。心から御礼申し上げます。

2024・2・6(火)高関健指揮富士山静岡交響楽団 東京公演

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ブルックナーの「交響曲第8番」を携えて乗り込んだ富士山静岡交響楽団。旧静岡交響楽団(1998年創立)が、2021年4月より一般財団法人として現名称になっていることは周知の通り。英語表記名称はMt.Fuji Philharmonic Orchestraである。本拠地は静岡市清水文化会館マリナート大ホールだが、アクトシティ浜松の中ホールでも定期公演を行なう。
 現在の首席指揮者は高関健。

 私もこのオーケストラを以前から何度か聴いているが、あの静響がついにこんな大編成の「ブル8」をやる時代になったか、と今日は一人で勝手に感慨に浸っていた次第だ。なにぶんあの編成だから、客員奏者を多く入れているのはやむを得ないが、しかしこういうレパートリーへ手を拡げるといった姿勢そのものに大きな意味があるだろう。

 もっともそこには、ブルックナーの「版」の研究にこだわる高関健の思惑も絡んでいるのではないかと思われるフシもあって━━彼はこの秋、シティ・フィルの定期(9月6日)で、例の新全集版ホークショーの校訂版第1稿を演奏すると発表しており(何と今日のプレトークでもそれを言った!)その前哨戦として今日は「ハース版」を演奏することにしたのではないかと・・・・。

 なおこの「ハース版」という言葉にもマエストロ高関はやかましく、「ハース校訂による原典版」と呼ぶべきだ、と言って譲らない。私も以前、彼の演奏会のプログラム解説を書いた際に、そう注文をつけられたことがある。

 余談はともかく、今日のその演奏では、流石に高関健らしく、この富士山静岡響から厚みのある力感豊かな演奏を引き出していた。全曲の演奏構築の持って行き方、繰り返される起伏を以ってクライマックスに導いて行く手法など、実に巧いものだと思う。
 オーケストラの方も、第1楽章(彼の独自の研究に基づき、冒頭5~6小節目のクラリネットはカットされた)ではホールに少し馴染まないような感もあったものの、楽章を追うごとに緻密な響きを増して行った。

 藤原浜雄がソロコンサートマスターを務める弦楽器セクションも、第3楽章では瑞々しく美しいアンサンブルを聴かせてくれたし、オーケストラ全体がこの楽章での演奏を今日の白眉としていたような感さえあったのである━━終結個所における弦とホルンおよびワーグナー・テューバ群との対話も情感にあふれていた。他にオーボエの1番奏者もなかなか見事だったと思う。

2024・2・3(土)山田和樹指揮読売日本交響楽団

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 山田和樹は今シーズンで読響の首席指揮者を退任するので、今月の一連の演奏会が取りあえずその締め括りということになる。

 今日はその第1弾、2回にわたる「マチネーシリーズ」の初日で、グラズノフの「演奏会用ワルツ第1番」、ハイドンの「交響曲第104番《ロンドン》」、カプースチンの「サクソフォン協奏曲」(ソロは上野耕平)、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」というプログラムを指揮した。コンサートマスターは日下紗矢子。

 ハイドンの「ロンドン」が、弦16型編成、木管が倍管(各4本)という大編成で演奏されたのは近来稀なる出来事であろう。マエストロご本人の言によれば、「最近ああいうのはだれもやってないから、ちょっとやってみようと思って」とのこと。
 ピリオド楽器スタイルの中編成での演奏が主流になっている今日では、それは確かに「反時代的」な演奏スタイルではあるのだが、だからといって何が何でも流行に合わせる必要はないのであって、このような「大編成によるハイドン」も成立する権利を充分に持つだろう。あとは好みの問題である。

 というわけで、私としてもこの「懐かしい」━━まるでトマス・ビーチャムあたりが指揮したレコードを聴くような━━響きを充分に楽しんだ。重いし、厚ぼったい音だけれども、不思議に鷹揚な、実に威風堂々たるハイドン像である。「久しぶりに聴く」のも悪くない、という感。

 さらに面白かったのは後半の2曲である。
 ウクライナ出身のニコライ・カプースチンによる「サクソフォン協奏曲」(2002年モスクワ初演)は、ジャズの手法を存分に取り入れたもので、ドラムスやギター、ベースギターも使用された曲だが、上野耕平の鮮やかなソロにリードされて闊達に響きわたるこの音楽の、何というリズミカルな快さ。

 そして「ラ・ヴァルス」。しばらくはやや遅めのテンポで重々しく演奏されながら、後半ではぐいぐいと勢いを増し、最後の熱狂的な頂点に達して行くあたりの、山田和樹の設計の巧さと、読響のエネルギッシュで表情豊かな演奏。

2024・1・31(水)札幌交響楽団の東京公演

      サントリーホール  7時

 首席指揮者マティアス・バーメルトの指揮で東京公演。
 ブリテンの「セレナード」(ホルン:アレッシオ・アレグリーニ、テノール:イアン・ボストリッジ)と、ブルックナーの「交響曲第6番」というプログラムを披露した。
 コンサートマスターは田島高宏。

 バーメルトは2018年4月から首席指揮者を務めて来たが、この3月で任期終了の由。演奏後に花束が贈呈されたところをみると、今日が最終公演というわけか。

 彼と札響との演奏は、私はこれまで東京公演を3回ばかり聴いたのみだったが、あまり機能的な響きにこだわらない、あたたかい演奏を引き出す指揮者としての印象が強かった。今日も同様、穏健で素朴で、闘争的にならぬブルックナー像といったものを感じさせる演奏だが、しかし決めるべきところは厳然と決める剛直な精神を備えた音楽が響きわたるところも、これまで聴いた演奏に共通している。この「6番」の両端楽章の終結など、実に立派な風格を感じさせたのではなかろうか。こういうタイプの指揮者は、今日ではもうあまりいなくなっているので、彼の存在は、そういう意味では貴重と言えよう。

 だが、今日の演奏の中で光っていたのは━━客演ソリストの素晴らしさという強みもあるだろうが━━やはりブリテンの「セレナード」だったのではなかろうか。サンタ・チェチーリア国立アカデミー響の首席ホルン奏者アレグリーニの伸びやかなソロと、ブリテンの歌曲を手がけたら今日一、二を争う存在であろうボストリッジの精緻な歌唱とがこの曲を生き生きと再現してくれたし、控えめな役割に徹した札響も爽やかな弦の音色を響かせてくれた。

 なお、札響はバーメルトの後任として、2025年4月から若手のエリアス・グランディを迎えるという。ハイデルベルクの歌劇場とオーケストラのシェフを最近まで務めていた若手で、PMFにも参加していたそうだから、札幌には縁のある指揮者ということになる。そういえば私も今になって、2020年の1月に札幌で「カルメン」を観た時に指揮していたのが彼で、それも非常にいい指揮だったということを思い出した。この7月には読響をも振るはずである。

2024・1・27(土)イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル

        サントリーホール  7時

 ポゴレリッチ、1年ぶりの日本リサイタル。今年は、大阪、豊田、東京の3回のみのようである。
 プログラムは、ショパンの「前奏曲嬰ハ短調Op.45」、シューマンの「交響的練習曲」、後半にシベリウスの「悲しきワルツ」、シューベルトの「楽興の時」全6曲という、ポゴレリッチにしてはちょっとユニークなプログラムだ。アンコールにはショパンの「夜想曲Op.62-2」。

 前回(☞2023年1月11日の項)と同様、彼としては昔よりは「まともに」なっては来たものの、普通よりは遥かにユニークな解釈を楽譜から引き出していることは、相変わらずである。内声部を異様に浮きだたせたり、その内声部にあるふだんは目立たないリズムを恐るべき勢いの最強奏で叩きつけたりと、ただの1小節も通常の演奏と同じように弾くことがないのがポゴレリッチだ。
 テンポは昔のように異常に引き延ばすことはなくなったかもしれない━━他のピアニストなら33~35分で演奏する「謝肉祭」を40分でやったなどというのは、まあかつてのポゴレリッチを思えば、ずっとまともな方だろう。

 最強奏での音量も、凄まじい。私は彼のフォルティッシモを聴くと、以前から何故か恐怖感に襲われるのだが━━実際、この人の最強奏の音ほど、悪魔的な威圧感を覚えさせるものはないだろう。ただ、そのような巨大な音を弾きながら、その音が全く濁ることなく、常にまっすぐにこちらに迫って来るというのも、驚くべきことではある。

 彼は今回、ステージへの出入りの際に杖を突いて歩いていたが、梶本社長から聞いた話では、あれは「トシ」の所為ではなく、北京だか何処かで氷に滑って転倒して膝を痛めたから、とのことであった。

 私はといえば、オペラを観ている間から貧血気味になり、咳も出て気分が悪く、サントリーホールまでは来たものの欠席の挨拶をして帰ろうかと思ったが、梶本社長から「すぐ出られるようにドアの傍の席をやるから聴けるところまで聴いて行け」と勧められ、2階RB席の後方に席を貰う。不思議なことに、ポゴレリッチの強烈な個性の演奏を聴いているうちに、いつの間にか体調がよくなってしまった。
 そう言えば、ポゴレリッチは終演後にサイン会をやるというアナウンスがあったが、どんな情景だったか。彼も変わったものだ。

2024・1・27(土)藤原歌劇団 グノー:「ファウスト」

        東京文化会館大ホール  2時

 グノーのオペラ「ファウスト」が上演された。指揮は阿部加奈子、演出はダヴィデ・ガラッティーニ・ライモンディ、美術と衣装はドメニコ・フランキ。
 28日との2回公演、ダブルキャストで、今日の出演は、村上敏明(ファウスト)、アレッシオ・カッチャマーニ(メフィストフェレス)、砂川涼子(マルグリート)、岡昭宏(ヴァランタン)、向野由美子(シーベル)、大槻聡之介(ワグネル)、山川真奈(マルト)。それに東京フィルハーモニー交響楽団とNNIバレエアンサンブル。

 ライモンディの演出は、演劇的にはさほど掘り下げたものではなく、長いドラマをやや単調なものに感じさせたきらいがあるだろう。「演出は調整役である」とライモンディ自身が語っているからには仕方がない。しかし舞台装置は、巨大な屏風のような何枚かのパネルを移動させて構成する仕組みで、これに投映される映像がすこぶる変化に富んで美しく、壮観を極めていた。
 「ワルプルギスの夜」の場面のバレエ(伊藤範子振付)は悪魔的なものからは遠く、すこぶるシンプルかつ穏健優雅なもので、このへんが東京二期会とは正反対の、藤原歌劇団の趣味を物語るのかもしれない。

 出色だったのは阿部加奈子の指揮だ。東京フィルから明晰で流れの良い均衡豊かな音楽を引き出し、オペラの指揮におけるこの人の優れた才能を感じさせてくれた。ただ、たとえばヴァランタンとファウストとの決闘場面の音楽で、弱音部分をもっとよく聞こえるように響かせてくれれば、あの音楽に一層の緊張感が生まれていただろうと思う。

 歌手陣では、ひときわ体格の大きなカッチャマーニが悪魔役として存在感を示し、有名な「セレナード」では、例の高笑いも含めて貫禄を示していた。
 だが題名役の村上敏明は、今日は何故か絶不調、終り近くの「ワルプルギスの場面」や「牢獄の場面」などでは、声も満足に出ず、実に気の毒だった。アンダーが控えていたのだから、第5幕だけでも替わることはできなかったのかという気もするが、現場での対応としてはそうも行かなかったのだろう。

 大詰めのファウスト、マルグリート、メフィストフェレスの三重唱では、砂川涼子が体当たり的な絶唱を聴かせてオペラを「救った」。彼女が最も映えた上演と言えよう。

2024・1・26(金)カーチュン・ウォン指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 首席指揮者カーチュン・ウォンが指揮。音楽における西洋とアジアとの出会い━━といった主旨のプログラムで、これは実によく出来た選曲であった。
 最初にカンボジア生れのアメリカの作曲家チナリー・ウン(1942~)の「グランド・スパイラル:砂漠の花々が咲く」、次にプーランクの「2台のピアノのための協奏曲」。休憩後にカナダの作曲家コリン・マクフィー(1900~1964)の「タブー・タブーアン~オーケストラと2台のピアノのためのトッカータ」、最後にドビュッシーの「海」。
 ピアノの協演は児玉麻里と児玉桃。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 なるほど、チナリー・ウンはカンボジアにルーツを持つ人だから当然だろうし、事実この作品ではガムラン音楽のイメージや、ある個所には5音音階の沖縄民謡みたいなフシさえ顔を見せる。プーランクのコンチェルトは植民地博覧会で得たイメージが反映していると言われるし、ガムラン音楽に似た響きも出て来る。
 コリン・マクフィーはガムラン音楽を研究し、それをこの作品にも応用した。そして「海」もまた、ドビュッシーがガムラン音楽に浸っていた頃の作品であり、初版総譜の表紙に葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」が使われていたことともまんざら無関係ではない。

 ━━というわけで、作品の解説をするのがこの日記の役割ではないけれども、とにかくこのようなコンセプトをテーマにしてプログラムを構成するというのはなかなかいいアイディアであると思われる。かつての故・若杉弘氏に肉薄する選曲センス、と言ってもいいかもしれない。

 実際の演奏では、ウォンはどの曲でも日フィルを朗々と鳴らし、作品のダイナミズムの面での魅力を存分に発揮させた。20分の長さの曲の前半は絶えず音楽が耳を聾するほど沸騰していた、というケースもあったけれど、このくらい解放的な雰囲気をあふれさせた作品と演奏による定期公演というのも、日本のオーケストラにはめずらしいだろう。児玉麻里と児玉桃のピアノも、素晴らしく闊達で表情豊かだった。

 それにしても、ドビュッシーの交響詩「海」は、なんともまあ、豪壮で劇的な演奏だった。[波の戯れ」にせよ、「風と海との対話」にせよ、まさに「強風波浪」だろう。だが音色も音楽の表情も実に明るいので、さしづめあの名文句「天気晴朗ナレドモ波高シ」と言ったところか。

2024・1・25(木)METライブビューイング「マルコムⅩ」

       5時  東劇

 このところメトロポリタン・オペラは、ボスのピーター・ゲルブの方針により、目覚ましく現代オペラに力を入れはじめたようだ。今シーズンの「ライブビューイング」でも、全9作のうち、最初の3作が現代もの、それもMETのハウス・プレミエの作品なのである。
 第2回の今日は、アンソニー・デイヴィス(1951~)作曲、カジム・アブドラ指揮、ロバート・オハラ演出による「マルコムⅩ」というオペラ。昨年11月18日上演のライヴ映像だ。

 マルコムⅩとは、1965年に暗殺された急進的な黒人解放運動指導者のアフリカ系アメリカ人、マルコム・リトルのこと。ネイション・オブ・イスラムという団体の中核として人種平等を説いていたが、運動方針をめぐってリーダーのイライジャ・ムハンマドと激しく対立するようになったという。
 劇中ではイスラム教の主張、アラーへの賛美、メッカでの祈祷の光景などが描かれ、また白人と黒人の対立に関してかなりリアルな、きわどい表現なども出て来るので、こういうオペラをMETがよく上演したものだという気もするが━━まあ、METに来るほどの観客だから、リベラルな感覚で観ていたのだろうし、カーテンコールでは歌手たちへの拍手も熱狂的ではあった。だがそれでも場面転換の幕の際の拍手には、やや戸惑ったような、勢いのなさといったものが感じられた。

 音楽は、所謂クラシック調ではなく、ジャズやスウィング、ビ・バップなどといった傾向の曲調が盛り込まれ、パーカッションが活躍、トランペットやサックスのジャズ的なソロも多く登場する(どこだったか、金管のリズムが漸強・漸弱を繰り返す、「古畑任三郎」の音楽とそっくりの形が使われているのに驚いた。このオペラは1986年にニューヨーク・シティ・オペラで初演されている)。
 METのオケもさすがアメリカだけあって器用なものだが、指揮するアブドラ(1979年アメリカ生れ)もなかなかノリがいい。

 登場人物は、合唱団を含め、ほとんど全部が黒人である。マルコム役はウィル・リバーマン、この人は先年のMETライブビューイングでの「Fire Shut Up in My Bones」でも歌っていたが、いい歌手だ。その他、リア・ホーキンズ(ルイーズ/ベティ)、ビクター・ライアン・ロバートソン(イライジャ)ら。

2024・1・24(水)新国立劇場「エフゲニー・オネーギン」初日

       新国立劇場オペラパレス  6時

 2019年10月のシーズン開幕公演としてプレミエされたチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」(劇場の表記はエウゲニ・オネーギン)が再演された。新国立劇場にはロシア・オペラのレパートリーが僅か数作品しかないので、これは貴重な存在ということができよう。演出はドミトリー・ベルトマンである。

 このプロダクションについては前回(☞2019年10月1日の日記)に詳しく書いてしまったので重複を避けるが、念のためにその一部を引用すると━━

 今回の演出の最大のポイントは、演出家ベルトマンの「Production Note」によれば、あの伝説的なロシアの演出家コンスタンチン・スタニスラフスキーによる「1922年のプロダクション」を基本にした舞台、ということにあるようだ。そういえば今回のイゴール・ネジニーによる舞台装置も、手許のジーン・ベネデティ著「スタニスラフスキー伝」(高山図南雄・高橋英子訳、1997年晶文社刊)の320頁に見られる「2対の柱がある」という記述と共通している。
 また今回は第1幕前半の、農民たちがラーリン家に集う場面の合唱が根こそぎカットされていたが━━これは私には大いに不満であった━━これも前掲書の321頁に「第1幕の農夫の場面で、うたったりおどったりするところが容赦なく切りつめられた・・・・そのままだとかえって演技を停滞させる月並みな芝居になりそうな気がしたからだ。人間のドラマに集中したいと思ったからだ」という記述があるので、この音楽カットも、スタニスラフスキーの発案だったことが判る。(とはいえ、これを今日そのまま踏襲することは、いかにも時代遅れの所業であり、私は断じて同意できない)。
 その前後の場面における母と乳母、タチヤーナとオリガの人物の巧みな配置関係なども、同書321頁で述べられていることと符合しており、こちらの方は、スタニスラフスキーが声楽的なバランスに綿密なアイディアを持っていたことの証明になるだろう。

 その他、演出面で、どこまでがスタニスラフスキーの指示だったのか、どこからが今回のベルトマンのアイディアなのかは定かではないが、私がとりわけ興味深かったのは、オネーギンとレンスキーの決闘の場面だ。ト書きや通常の演出と違って、ロシアのインテリゲンチャであり、ニヒルな性格のオネーギンが決闘などという行動に馬鹿々々しさを感じ、自嘲の空虚な高笑いととともに(注、この高笑いの演技は今回なかった)、そっぽを向いたままピストルをあらぬ方に向けて発射する。ところがこの弾丸が、不審そうにオネーギンに近づいてきたレンスキーに偶然命中してしまい、オネーギンは呆然とする━━という設定になっているのだ。
 これがもしスタニスラフスキーの演出だったのなら、当時としては画期的な読み替えだったというべきだろう。だがもし、ベルトマンの発想だったら、先年ボリショイ劇場で制作されたチェルニャコフ演出の━━同劇場来日公演でも上演されたが━━前場のパーティでのオネーギンらを含む出席者全員がレンスキーの激怒を泥酔による冗談だと思い込んで爆笑し、その中でオネーギンが笑いとともに投げ出した銃が暴発してレンスキーを・・・・という、あのユニークな演出設定にも劣らぬくらいの、面白いアイディアだと思うのだが。

 という次第だが、今回の上演には、前回の演技とは異なるところが各所に観られる。これは再演演出であることと、出演歌手が異なることなどから仕方がないと言えるだろう。ただ私の朧げな記憶を参照(?)するに、前回の方が演技のニュアンスがもっと微細だったような気もするけれど。

 今回の指揮はヴァレンティン・ウリューピン。この人の指揮は初めて聴いたが、ピットに入った東京交響楽団から引き締まった音を引き出し、チャイコフスキー独特の白夜的な叙情美をかなりの程度まで再現していて、なかなかいい指揮者だという印象を受けた。ラストシーンでのオネーギンとタチヤーナの激しい感情の動きを描くオーケストラをもう少し盛り上げてくれていたら、文句のない出来だったろう。
 東響も、響きがやや薄くて軽めという感はあったが、チャイコフスキーの音楽の良さを味わわせてくれるという点では、私にはかなり満足できる段階に達していたと言っていい。

 歌手陣は、ユーリ・ユルチュク(オネーギン)、エカテリーナ・シウリーナ(ラーリン家の長女タチヤーナ)、ヴィクトル・アンティペンコ(詩人レンスキー)、アンナ・ゴリャチョーワ(タイヤ―の妹オリガ)、アレクサンドル・ツィムバリュク(タチヤーナの夫となるグレーミン公爵)、郷家暁子(ラーリン家の夫人ラーリナ)、ヴィタリ・ユシュマノフ(決闘立会人ザレツキー)、升島唯博(フランスの歌人トリケ)他。

 このうち、抜きん出た長身のユルチュクは、もう少しオネーギンらしい横柄な性格と、それが崩れ去った終場面の感情表現とをうまく描き分けてくれれば━━という気もしないではないが、まだ若いらしいので、今後に期待することにしよう(故フォロストフスキーの名演技と比べては可哀そうだ)。

 タチヤーナのシウリーナは、声楽の面では聴き応えがあり、「手紙の場」では豊かな声を聴かせてくれた。水車小屋の河畔の場で情熱的なテナーを聴かせたレンスキーのアンティペンコ、豊かなバスを披露したグレーミン公爵のツィムバリュクもいい。トリケ役の升島唯博の怪演ぶりも前回に同じ。オリガ役は、今回はロシアの歌手が歌ったため、前回のようなバカ娘的表現ではなく、コケットなはしゃぎ娘として表現されたのは好ましい。

 なお、ロシア出身の歌手たちと、ウクライナ生れの歌手たち(ユルチュクとツィムバリュクの2人)とが一緒にステージを踏んでいる光景にも心を打たれた。

 もう一つ、黙役なので助演者と思われるが、お名前が判らないので失礼するけれども、第3幕の舞踏会場面で睨みを利かせていた高官(スペイン大使?)を演じていた人のメヂカラには並外れた凄味がある。この演技だけでも、かつての名助演役、原純さんに匹敵するだろう。
 休憩1回を含み、9時45分終演。

2024・1・23(火)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル

      サントリーホール  7時

 シベリウスの「カレリア」組曲と「交響曲第2番」との間に、グリーグの「ピアノ協奏曲」(ソリストはマルティン・ガルシア・ガルシア)を挟んだプログラム構成。コンサートマスターは依田真宣。

 プレトニョフの骨太で豪壮な音楽づくりの良さが発揮された見事なシベリウスが聴けた演奏会であったと言えよう。「カレリア」はやや武骨な演奏だったが、「第2交響曲」での雄渾壮大な起伏は、その均衡の豊かな響きとともに、この曲に籠められた作曲者の強靭な意志力を十全に再現していたと思う。特別客演指揮者プレトニョフと東京フィルとの結びつきは、このところますます快調のようだ。

 もう一つ素晴らしかったのは、1996年スペインはヒホン生れのピアニスト、マルティン・ガルシア・ガルシアだった。ファツィオリのピアノを使用しての演奏の、これはまた何という雄大で爽快なグリーグ! この曲がこれほど快活な美しさを以て聞こえたことはこれまでになかった。彼のソロ・アンコールでのアルベニスの「ナバーラ」は、更に雄弁な表情だった。注目すべきピアニストである。

2024・1・22(月)尾高忠明指揮大阪フィル東京公演

     サントリーホール  7時

 大阪フィルハーモニー交響楽団を、今回は東京公演で聴く。音楽監督・尾高忠明の指揮で、プログラムは武満徹の「波の盆」と、ブルックナーの「交響曲第6番」。コンサートマスターは崔文洙。

 「波の盆」は、もともと日本テレビのドラマ(倉本聰脚本、実相寺昭雄演出)のために書かれたためもあって、この上なく美しい曲だ。この曲を尾高は札幌交響楽団とレコーディングしたこともあり、ことのほか愛しているようである。私も好きな曲で、これを聴いていると、不思議な、何か恐ろしくなるくらいの懐かしさに引き込まれてしまう。

 今回も大フィルの弦が陶酔的に歌ってくれたが、しかしその演奏には、かつての札響とのそれに比べ、耽美的な旋律美、弦の音色の優しさ、深みのある叙情感などといった要素がやや薄らいでいたようにも感じられた。これは、最近の彼の指揮が、しばしば荒々しいほどの激しさを聴かせるようになっているという特徴との関係もありそうだが・・・・。

 後半のブルックナーの「6番」では、まさにその特徴が発揮されていたようだ。尾高と大フィルはこのところ東京公演でブルックナーの交響曲を続けて取り上げているが、その演奏が何となく次第に激しさを増しているような印象を受ける(フェスティバルホールで聴くと、必ずしもそうは感じられないのだが)。

 特に第1楽章は、総譜指定の「マエストーゾ」というよりもむしろコン・ブリオで、アジタートで、しかもかなりアグレッシヴと言ってもいい演奏である。金管楽器群の咆哮も壮烈だし、第1楽章最後の最強奏の和音を鋭くスパッと切ってみせたところなど、昔の尾高さんだったらこんなことをやるかな、と苦笑させられたほどだ。

 第4楽章も「あまり速くなく」という総譜の指示に比べると、やはり猛烈な演奏という感があっただろう。総じて、ブルックナーの中期以降の交響曲の中では珍しくリズム性の強いこの曲が、ますます狂暴に響いたような印象を受けた。
 だがこういう演奏の方が、お客さんの受けは良いらしい。私としては、第2楽章第2主題の個所での、深みのある落ち着いた演奏に、ブルックナー独特の魅力を感じることができた。

 なお事務局から聞いたところによると、ゲネプロの時にはフェスティバルホールでのいつもの演奏と同じくらいの音量で演奏してみたが、「大きすぎて、うるさくてたまらなかった」ので、本番ではその音をかなり抑えた由。興味深い話ではある。
 この日の終演後の楽屋には、井上道義、大植英次ら、歴代の大フィルのシェフたちも顔を揃え、賑やかだった。

2024・1・20(土)沖澤のどか指揮京都市交響楽団

      京都コンサートホール・大ホール  2時30分

 久しぶりに京都コンサートホールを訪れる。京都市響の1月定期演奏会。常任指揮者の沖澤のどかがフランス音楽を振る。
 先日、彼女が東京シティ・フィルを指揮したのを聴いた日の日記に、彼女にはフランス音楽が合いそうだ、などと書いた時には、1週間後に聴く予定のこの京響のプログラムを意識していたわけではなかったのだが━━。

 開演前に、彼女がプレトークを行なった。曰く、10年ほど前、彼女が広上淳一と井上道義のセミナーだかを受講した際、井上に気に入られ、「きみ、オーケストラ・アンサンブル金沢で僕のアシスタントにならない?」と言われて大喜びし、早速金沢に家を借り、張り切って乗り込んだ。ところがその話はまだ「井上先生の思いつき」の段階で、事務局にはまだよく伝わっていなかったらしく、「ウチにはそんなシステムはないし、払うおカネもないよ」と言われ落胆。事務局も気の毒に思ったのか、「とりあえず事務局員として雇ってあげよう」と。彼女としては、「指揮者になりたいと思って来たのに、どうしてエキストラの部屋の掃除の仕事なんかやる羽目になったのかしら?」。貧乏暮らしだったので、「可哀想だと言って、楽団員の方がお弁当を作ってくださったりした」こともあったそうな。「でも今から考えると、その体験は凄く有益だった。オーケストラの裏の裏を知るのに役立ったから」。

 彼女のこの体験談は、私には全く初耳だったので、大いに楽しかった。率直で飾らぬ彼女の話しっぷりが、実にいい。だが、彼女がなぜこんな話を持ち出したのか、それはあとで判る。

 さて肝心の演奏会だが、プログラムは、オネゲルの「交響曲第5番《三つのレ》」で開始され、タイユフェールの「ハープと管弦楽のための小協奏曲」(ソリストは吉野直子)、イベールの「寄港地」、ラヴェルの「ボレロ」という構成だ。
 そしてアンコールには、徳山美奈子の「交響的素描《石川》~加賀と能登の歌による」の第2楽章「山の女 山中節より」が演奏された。このアンコールが、プレトークの中段で出た「私の第二の故郷と言ってもいい石川県が、今とても大変なことになっていて・・・・」という話に結びつくわけだろう。設計が巧い。

 オネゲルの「第5交響曲」は、作品の性格に相応しく、剛直で厳しい構築をもって演奏された。また、彼と同年の女性作曲家ジェルメーヌ・タイユフェール(1892~1983)の「小協奏曲」は滅多に演奏されることのない曲なので、こういう機会に聴けたことはうれしい。吉野直子が実に美しいハープを聴かせてくれた。ソロ・アンコールで弾いたトゥルニエの「朝に」も、うっとりとさせてくれるほど色彩感に富んでいた。

 休憩後の2曲は、沖澤と京響の今の良さを発揮した演奏だったろう。特に「寄港地」での陰影に富んだ音色、大きな起伏を繰り返しつつ昂揚して行くあたりの呼吸は魅力的であり、第2曲「チュニス、ネフタ」でのオーボエ・ソロも素晴らしい。

 一方、「ボレロ」は、彼女がプレトークで「テンポはあまり速くなく、スコアの指定通り=66でやります。でも、メトロノームでチェックなんかしないでくださいね」と宣言しての演奏で、これは確かにやや遅めのテンポではあった(少し前までのデュラン版では=72になっていたが、最新のラヴェル・エディションでは66に改められている)。ただ、最初のテンポが全曲の最後まで維持されたため、曲の昂揚感は専ら音響の増大の過程に頼られるという具合で、これは些か好みを分けるだろう。

 京響は快調のようだ。今日のコンサートマスターは特別客演の会田莉凡。

 明日のびわ湖ホールでの「ばらの騎士」入門講座講演のため、琵琶湖ホテルに投宿。

2024・1・19(金)鈴木雅明指揮BCJの「ドイツ・レクイエム」

        東京オペラシティ コンサートホール  7時

 鈴木雅明が音楽監督として率いるバッハ・コレギウム・ジャパン(管弦楽団・合唱団)が、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」を演奏した。今日のコンサートマスターは寺神戸亮。協演の声楽ソリストは安江みく(S)とヨッヘン・クプファー(Bs)。

 冒頭にハインリヒ・シュッツの無伴奏合唱曲「主に会って逝く死者は幸せだ」という5分ほどの作品が置かれ、そのまま切れ目なく「ドイツ・レクイエム」の演奏に続く。この流れはまことに美しいもので、シュッツの清澄無比な合唱の響きが、そのままブラームスの音楽を引き出して行く、といった印象になる(2曲の間に答礼拍手を入れるなどという野暮なことをやらないセンスがいい)。

 しかも事実、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」が、これほど清澄透明な音色で歌われ、演奏された例は、そう多くはないであろう。ドイツ・ロマン派の重々しい音で響きわたる「ドイツ・レクイエム」もそれはそれで悪くないが、中世の教会音楽のエコーとでもいったような演奏で聴くと、聴き慣れたこの大曲が実に新鮮なイメージを以って感じられるものだ。

 極端な言い方をすれば、バッハの「マタイ受難曲」の演奏において、メンゲルベルクやフルトヴェングラーが指揮したような重厚なスタイルがすでに過去のものになったのと同じように、19世紀半ばのブラームスの宗教曲にも、重厚一色の演奏スタイルではなく、おのずから異なる演奏のタイプが生まれて来たとしても不思議はない。━━こんなことは周知の事実であり、改めて尤もらしく書く必要もないことなのだが、私の好みからして、ナマの演奏の方がその醍醐味が味わえると思っているからなので。

2024・1・18(木)ジョン・アダムズ自作自演、東京都交響楽団

       サントリーホール  7時

 1月定期のBシリーズ、ジョン・アダムズが自作3曲を携えて客演指揮。
 「アイ・スティル・ダンス I Still Dance」(2019年、日本初演)、「アブソリュート・ジェスト Absolute Jest」(2011年)、「ハルモニーレーレ Harmonielehle」(1984-85年)というプログラム。
 なお2曲目にはエスメ弦楽四重奏団が協演し、更にアンコールとしてベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第13番」からの「プレスト」を演奏した。

 この定期は私も以前から楽しみにしていたのだが、作曲者自身が指揮するということもあって、演奏としても大スペクタクルの様相を呈した。
 圧巻だったのはやはり「ハルモニーレーレ」である。この曲は、私はこれまでにナマで2回、下野竜也が京都市響と読響をそれぞれ指揮した演奏で聴いたことがあるだけだが、今回の作曲者ジョン・アダムズ自身による指揮で聴いてみると、作品への印象そのものが全く変わってしまうのには驚いた。前者ではむしろ音の豊麗さということに魅力を感じさせられたのに対し、今回は、恐るべき巨大な力にあふれた、怒涛の狂乱の坩堝に巻き込まれて圧倒される、といった印象である。

 なにしろ全曲にわたってアクセントが非常に強烈で、すべての音が粒立ち沸き返っているので、彼のミニマリズムが著しく攻撃的な要素を帯びたものとして迫って来る、という訳だ。全曲40分、水谷晃をコンサートマスターとする超大編成の東京都響も存分に沸騰し、聴衆を法悦の虜にして行き、熱狂させた。

 前半の2曲における演奏は、都響のノリもいまひとつ、といった印象がなくもなかったが、それでも「アイ・スティル・ダンス」では繰り返される音が生み出す法悦感は少なくはなかったし、「アブソリュート・ジェスト」ではベートーヴェンの「弦楽四重奏曲Op.135」ほかいくつかの作品からの引用が面白い効果を生み出していた。

 だが、こういう趣旨の中で聴きながらあれこれ思いをめぐらせていると、なるほどミニマル・ミュージックの歴史という点では━━たとえばベートーヴェンの「作品135」第2楽章でのチェロの連続54回に及ぶ同一音型の反復、「田園交響曲」第1楽章展開部におけるモティーフの前後72回に及ぶ反復、あるいはシューベルトの「ザ・グレイト」第4楽章第2主題での連続88回に及ぶ同一音型の反復、その他にもブルックナーの「第8交響曲」のスケルツォ、シベリウスの「エン・サガ」、古くはパッヘルベルの「カノン」などなど、━━「繰り返しの恍惚」としての意味を含めて長い「前史」(?)があったのだなあ、と今更ながら感じ入ってしまうのである。

2024・1・16(火)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 これは1月定期。常任指揮者ヴァイグレの指揮で、ワーグナーの「リエンツィ」序曲、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはダニエル・ロザコヴィッチ)、R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」。コンサートマスターは林悠介。

 常任指揮者のヴァイグレは、今月はこの定期を含め5回の演奏会の指揮を受け持っているが、そこで指揮する3種のプログラムは全て彼の母国、ドイツの作品のみで構成している。
 今日取り上げた3曲でも、如何にもドイツ人の指揮だなという手堅いシリアスな雰囲気の演奏で━━「ツァラトゥストラ」の「学問について」の個所とか、ワルツの個所とかでの構築など、生真面目そのものの指揮に微笑ましくなる。

 読響もいつものように量感たっぷりの響きでこれに応えていたが、ただ、ワーグナーとR・シュトラウスでは、今回は少々緻密さに不足していた感もなくはないだろう。特にこの2曲では━━故意にそういう曲を選んだのか、あるいは偶然そうなったのかは知らないが━━いずれも冒頭でトランペットが重要な役目を果たすのだが、その肝心のトランペットには、2曲とも、もう少し自信たっぷりに安定して吹いていただきたかったと思う。
 それにまたその2曲ではピッコロが強すぎて、それぞれのフレーズにおける荘重な雰囲気を失わせていたようにも感じられたのだが‥‥。
 一方、オーボエは、極めて美しい。

 ストックホルム生れの若いロザコヴィッチの演奏を聴くのは、7年前にゲルギエフが指揮するPMFオーケストラとの協演(☞2017年7月31日)以来だ。この人は、やはり並外れた感性を備えたヴァイオリニストだという気がする。
 ベートーヴェンの協奏曲はもちろんだが、ソロ・アンコールで弾いたバッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番」第1楽章での、ゆっくりしたテンポによる沈潜した演奏も驚くべき美しさにあふれていた。このように、バッハをセイレーンの歌声のように弾いてのけるなどというヴァイオリニストは、やはりただものではない。

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