2023-03

2023・3・29(水)小泉和裕と名古屋フィルの東京公演

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 小泉和裕は、2016年4月から務めていた名フィル音楽監督の任期をこの3月で閉じるが、その最終演奏会が、この東京公演となった。
 今日、彼が指揮したのは、ベートーヴェンの「交響曲第1番」と「交響曲第3番《英雄》」。シンフォニーをちゃんと演奏できるオーケストラにしたい、ということをシェフとしての旗印に掲げていたマエストロ小泉。今日の演奏はまさにその理想を実現させたという感のある、見事なものだった。

 特に「英雄交響曲」は、真摯な力と、揺るぎない構築性と、豊かな感情とを備えた、稀有な演奏だったのではないか。第1楽章の再現部あたりから音楽はみるみる力を増し、第2楽章のミノーレ個所での昂揚は壮大を極めた。この「葬送行進曲」がこれほど深い感情をこめて演奏されたのを、少なくともこの30年来の日本の指揮者とオーケストラからは、私は聴いたことがない。
 彼の指揮を聴き始めて今年で48年になるけれども、聴いた範囲で言えば、この「英雄」は、その中で最高の演奏だったと断定したい。おそらく彼自身にとっても、最高のものに属するのではなかろうか。

 荒井英治をコンサートマスターとした名古屋フィルの演奏が、また素晴らしかった。アンサンブル全体の均衡も卓越していたし、3本のホルン(首席・安土真弓)も完璧で、第4楽章最後のクライマックスでの演奏などは壮烈な力に満ちた。
 弦楽器群の豊かでしっとりした響き━━これは昔から小泉和裕のお家芸だったが━━もよく、中低弦の内声部の動きも明晰そのもの、ベートーヴェンの管弦楽法における見事な音の精妙な絡み合いの面白さを、改めて示してくれたと言えるだろう。私がこれまで聴いて来た名古屋フィルハーモニー交響楽団の演奏の中でも、これはベストの出来である。

 ━━何だか手放しの礼賛みたいで、少々照れるけれども、しかし私は本当に、今日の演奏には感心したのである。

2023・3・28(火)大野和士指揮東京都響&コパチンスカヤ

        サントリーホール  7時

 プログラムは、リゲティの「虹」(アブラハムセン編曲)および「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはパトリツィア・コパチンスカヤ)、バルトークの「中国の不思議な役人」全曲(合唱に栗友会合唱団)、最後に再びリゲティの「マカーブルの秘密」(ソロはコパチンスカヤ)という、面白い選曲と配列。
 コンサートマスターは、この日が在任最後の定期となる四方恭子。

 コパチンスカヤ節が炸裂したと言ってもいい今日の演奏会だったが、いや全く凄かった。この「ヴァイオリン協奏曲」は、彼女は2010年にアルミンク指揮の新日本フィルと協演して東京で演奏していたはずだが、私はそれを聴いていなかったので、彼女のこの曲の演奏を聴くのは、今回が初となる。
 独特の見事な技巧を駆使した演奏もさることながら、とりわけ最終楽章でのカデンツァの多彩さ━━楽器を弾きつつ歌い、奇声を発し、踊り、足を踏み鳴らし、ステージを動き回り、オーケストラの奏者たちを挑発するといった「身体運動」による演奏を展開するさまは壮烈だ。

 だが、そんな凄まじい奇行(?)を演奏の中に注入しながらも、音楽の形を崩すことが決してない、というのが凄い。
 このパフォーマンスは、「マカーブルの秘密」で更にエスカレートし、奇抜な扮装をして、サングラスをかけ、何事か奇妙なことをわめきながら登場し、演奏には笑いや足踏みやステージ疾走なども折り込み、演奏面で都響の奏者たちを挑発し応酬させ、果ては客席をも挑発するといった騒々しさをつくり出す。指揮者は途中で「もう耐えきれない、誰か代わって指揮して下さい!」と悲鳴を上げるという具合だ。

 こういった荒業はコパチンスカヤならではのものだろうが、それが白々しい大芝居にならず、ひとつの演技として完成されていて、しかも音楽を失わせない、というところが彼女の彼女たる所以でもあろう。
 しかも今夜は、これが最終ステージとなる四方恭子を巧みに立て、何度もパフォーマンスに巻き込み、協奏曲のあとではアンコールとして2人でリゲティの「バラードとダンス」を演奏するという演出も見せたのだった。

 こうしたコパチンスカヤの「怪演」に、ふつうなら指揮者とオケも食われてしまうところだろうが、そうならなかったのが今の大野和士と東京都響の快調さの所以である。
 バルトークの「中国の不思議な役人」全曲でのオーケストラは驚くほど精緻で、シンフォニックともいえるほどのバランスの良さを打ち出していた。それは不思議に節度を保った演奏で、この曲に関して言われるバーバリズムとか、原始主義とか、怪奇な雰囲気とかいったものは薄められてはいたものの、むしろこの曲のしなやかな美しさを浮き彫りにしていたと言ってよいだろう。

 だいいち、前後のリゲティの毒々しい作品の間で、この「中国の不思議な役人」までが荒々しい演奏になっていたら、聴く側でも耐えられないだろう。いい緩衝地帯━━と言っては不穏当なら、今日のプログラムの中でシンフォニー・コンサートとしての風格を保つ役目を厳然と果たしていたのがこのバレエ曲での演奏だった、と言っていいかもしれない。
 それにしても、コーラスの加わる全曲版をここに加えるとは、何と豪華な。
 この凝りに凝ったプログラミングは、以前の若杉弘音楽監督時代の都響を思い出させる。

 最後のカーテンコールは、四方恭子への感謝と労いの拍手で盛り上がりを極めた。

2023・3・27(月)東京・春・音楽祭 シューベルトの室内楽

       東京文化会館小ホール  7時

 シューベルトの室内楽を弦楽合奏編曲版で演奏する一夜。
 曲は、「弦楽四重奏曲《死と乙女》」と、「弦楽五重奏曲ハ長調」。加藤知子(ヴァイオリン)をリーダーとし、小林美恵、佐分利恭子、松野弘明、城所素雅、篠崎友美、木越洋、石川滋らの他、若手たちをも加えた錚々たる顔ぶれのアンサンブルにより演奏された。

 「死と乙女」の冒頭から、エネルギッシュで激しい、鉄桶の如く引き締まった硬い音色の攻撃的な音楽が疾走しはじめる。こういう演奏は昔、桐朋系の気鋭の若手たちがよく聴かせたスタイルだなと思ったが━━私はこのようなガリガリした演奏はちょっと苦手なのだが、演奏者たちがこれを「死と乙女」というアジタートの性格が強い作品から得たイメージとして表現しているのであれば、それはそれで仕方がない。

 第2部でのシューベルト晩年の「五重奏曲」では、その本来の曲想に従い、落ち着いた表現の演奏に変わった。ひとつのコンサートのプログラムが2つの大曲で構成されている場合には、両者を対照的な表現で構築して聴かせるのはよくある手法であり、その意味では今日のプログラム構成も演奏スタイルもその流儀に従っていたと考えてよいだろう。

 それにしてもこの「弦楽五重奏曲ハ長調」の第2楽章(アダージョ)の主部は、シューベルトがもはやどこか遠い別の世界に足を踏み入れてしまっているかのようで、美しくも不気味だ。それはあの「ザ・グレイト」の第2楽章中間部と共通するところもある。この弦楽合奏版では、その神秘的な部分は、楽器編成を減らしてほとんどオリジナルの弦楽五重奏の編成に近い形で演奏されているが、賢明な手法である。アンコールでは、第3楽章の一部が演奏された。

2023・3・25(土)上岡敏之と新日本フィルのブルックナー「8番」

      すみだトリフォニーホール  2時

 第4代音楽監督(2016~2021年)の上岡敏之が客演、ブルックナーの「交響曲第8番」(ハース版)を指揮した。コンサートマスターは崔文洙。

 新日本フィルから久しぶりに聴く壮大な音である。第1楽章、全管弦楽が初めてffで爆発した瞬間から、アルプスあたりの巨大な山脈の容を連想させられるような、壮大な気宇が演奏に漲っている。
 上岡の指揮もいつもながら曲の隅々まで神経を行き届かせたもので、第1楽章も終結に近い390小節前後、最後の最強奏のあとに長い緊張感をもった総休止をおき、感情の昂揚の意味を自らじっくりと問い直すといったような時間をつくり出すなど、細かい設計に富んだ指揮を聴かせてくれた。第2楽章での同一音型を執拗に反復しつつ頂点へ追い込んで行く個所なども、すこぶる迫力に富んだものになっていた。

 新日本フィルも好演したが、特に後半、アンサンブルが些か粗くなってしまったような感がなくもない。先日の大植英次との協演の際にはあれほどの均衡の美を生み出していたのに、残念である。
 これは昨年10月の演奏会の際にも見られた現象でもあるが、新日本フィルのようなオーケストラの場合、上岡敏之のような個性を持った指揮者と組む時には、やはりある期間継続して共同作業を行わないとその成果が表れて来ない、ということがありそうだ。かつて上岡が音楽監督だった頃には、両者が実に呼吸の合った演奏を聴かせてくれた時期もあったのである。

 今日の演奏時間は88分ほど。遅めではあるが、まず普通のテンポの範疇に属する。会場は上岡ファンでいっぱいのように見えた。

2023・3・23(水)小澤征爾音楽塾「ラ・ボエーム」

      東京文化会館大ホール  3時

 2000年に始まった「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」の「ⅩⅠⅩ」、今年はプッチーニの「ラ・ボエーム」。
 このオペラは、2004年にロバート・カーセン演出(小澤征爾指揮、ムゼッタにアンナ・ネトレプコが出ていた)で上演されたことがあったが、今回はデイヴィッド・ニースによる新演出である。

 指揮がディエゴ・マテウス(小澤征爾音楽塾首席指揮者)、装置と衣装がロバート・パージオーラ。
 主役歌手陣は、エリザベス・カバイエロ(ミミ)、ジャン=フランソワ・ポラス(ロドルフォ)、アナ・クリスティ(ムゼッタ)、デイヴィッド・ビズィック(マルチェッロ)、デイヴィッド・クロフォード(ショナール)、ウィリアム・トマス(コッリーネ)、フィリップ・ココリノス(ベノワ、アルチンドーロ)。それに小澤征爾音楽塾オーケストラと同合唱団、京都市少年合唱団━━という顔ぶれ。

 デイヴィッド・ニースの演出だから、舞台は伝統的で写実的、穏健なスタイルであることは予想通り。第2幕のカフェ・モミュスの場など、結構な舞台装置と大人数の合唱団員を揃えているのだから、もっと群衆の動きに華やかな活気があれば━━人々が舞台装置の一つのように佇立したままの光景が多く観られたのがもどかしい。
 ただ第4幕では、ミミの死を悼む若者たちの演技にもかなり精微な表現が見られ、泣かせどころとして綿密につくられていただろう。

 歌手陣は、ムゼッタが第2幕で叫び過ぎていたことを除けば、バランスよくまとまっている。一方、「音楽塾生」によるオーケストラは、「コーチたち」がどの程度加わっていたのかは知らないけれども、最強奏の音などはかなり粗っぽく、「下町のラ・ボエーム」という感である。指揮のディエゴ・マテウスも、昔に比べて最近はかなり情熱的な表現を採るようになっているから、これが地なのかもしれないが。

 会場は満席。滅多にオペラになど来ない人も多かったような雰囲気である。カーテンコールには小澤征爾音楽塾塾長・音楽監督も登場して熱狂的な拍手と歓声を浴びていた。

2023・3・22(火)広上淳一指揮OEK東京公演

        サントリーホール  6時30分

 OEK(オーケストラ・アンサンブル金沢)が、昨年9月より「アーティスティック・リーダー」という肩書で事実上のシェフに就任している広上淳一と東京公演。
 シューベルトの「交響曲第5番」、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調」(ソリストは米元響子)、ベートーヴェンの「交響曲第2番ニ長調」というプログラムだった。ソリストのアンコールはパガニーニの「24の奇想曲」からの「第24番」、オケのアンコールはレスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア第3番」からの「イタリアーナ」。コンサートマスターはアビゲイル・ヤング。

 広上淳一と、このOEKとのコンビの演奏は、私は(多分)初めて聴く。岩城宏之や井上道義によって独特の個性を築いて来たOEKが、新しいシェフの広上の指揮のもとでどのような特徴を持つオーケストラになるか、興味津々なものがあったが、予想通り、これまでとは全く異なるような、精微なニュアンスと柔らかい音色を備えた、完璧に近い均衡を示す管弦楽団としての姿が立ち現れた。

 弦は8-6-4-4-3という編成でしなやかに美しく、これを囲む管楽器群がまた実に絶妙のバランスで鳴っているのもいい。ダイナミックなベートーヴェンの「2番」でもその音の均衡は見事で、特に第4楽章での、故・朝比奈隆氏がいみじくも表現した「いきなり悪魔が飛び出して来るような」フォルティッシモを含むデュナミークの頻繁で急激な交替のさなかさえ、音楽の容が全く崩れずに動いているのにも舌を巻かされた。

 ただ、余計な印象をひとつ言わせていただくなら、実に見事な均衡であることは事実なのだが、あまりに整い過ぎていて、何かもう一つ、どこかに残されたものがあるんじゃないか━━ということを意識させられてしまうのである。もっともこれは、以前からOEKの東京公演を聴くたびに感じることだったのだが。断っておくが、それは冷たい演奏だったというのでは全くない。

 開演前には、例の如くロビーにずらりと鶴翼状に拡がって、入って来る客たちを見つめるスーツ姿のビジネスマン軍団。以前、金沢の鮨屋だったかで同席(井上さんもいたと思う)した大スポンサーのレンゴーのお偉方が、「あれは感じ悪い」との私の意見に「そりゃいけない。すぐやめさせる」と同意して下さり、直後の東京公演ではその通りになったこともあったが、1,2年経ったらまた元の木阿弥になってしまったようで。

 また今日は、2階席の私のすぐ前の席に座っていた紳士が、いかにも「音楽好きの奥様」に引っ張られて無理に来たという雰囲気で、特にベートーヴェンの間じゅう、数枚のチラシを音を立てて何度も「大きくめくって」読むわ、隣の奥様に「まだか」と言わんばかりに顔を寄せるわで、気を散らされること夥しく、演奏に集中するには大変な努力が要った。奥様はプログラムの楽章説明の個所を指して「今ここ」と教えてやっていたが、‥‥しかし考えてみるとこの紳士、つくづくお気の毒な立場の人ではある。もっとチラシがたくさんあったら、せめて退屈しのぎになったろうに。

2023・3・21(火)大野和士指揮東京都交響楽団

       サントリーホール  2時

 大野和士音楽監督と東京都響のコンビは、いま、これまでのいかなる時期をも凌ぐ高みに達しているように思われる。先日の豪壮な「復活」に感銘を受けた私は、今回の精微なバルトークとフランスもので、再びその演奏に舌を巻くことになった。
 今日のプログラムは、バルトークの「舞踏組曲」と「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストはジャン=エフラム・バウゼ)、およびラヴェルの「クープランの墓」とドビュッシーの交響詩「海」である。コンサートマスターは「復活」の時と同様、矢部達哉。

 バルトークのコンチェルトでは、打楽器陣は作曲者の指定に近く、ステージ前方のピアノと並ぶような形で配置され、この音のバランスはなかなか良かった。バウゼのソロもすこぶる温かい味にあふれていたが、いずれにせよ前半のこの2曲のバルトーク作品での演奏は、今の大野と都響なら当然このくらいはやってくれるだろう、と思わせるもので、それは曲の性格の故もあったかもしれない。
 なお、バルトークの後のアンコールとして、バウゼと大野とは連弾でラヴェルの「マ・メール・ロワ」から「妖精の園」を弾いてくれた。

 私が驚き、ひときわ感銘を受けたのは、後半のフランスのレパートリー2曲での演奏である。
 洒落た優雅さとか、官能的な色彩感とかいう点では、それはもうフランス系の指揮者やオーケストラの演奏とは全く異なった路線上にあることは確かだが、しかし今日の「クープランの墓」が━━特に「前奏曲」と「フォルラーヌ」での、風のように走り抜ける軽やかさをはじめ、これだけふくよかに、ふくらみのある音を以って響いた演奏は、日本のオーケストラからはなかなか聴けないものだろう。典雅さというよりはスピーディな快さといったタイプの演奏ではあったが、それはそれで好かった。
 そしてドビュッシーの「海」もまた精緻さとダイナミズムとを併せ持った快演で、「風と海との対話」の最終部分での均衡豊かな昂揚など、実に魅力的なものだった。

 こうなると、来週のリゲティ、4月のマーラーの「夜の歌」なども聞き逃せなくなって来るというものだろう。

2023・3・19(日)沼尻竜典指揮京都市交響楽団 マーラー6番

      滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール  2時

 沼尻と京響によるびわ湖ホールのマーラー・シリーズ、今回は「交響曲第6番《悲劇的》」で、これが沼尻竜典のびわ湖ホール芸術監督としての最後の公演になる。
 フィナーレのプログラムが「悲劇的」とは、何とも派手なシャレだが、とにかく「栄光に包まれて」退任する沼尻芸術監督には、満腔の賛辞を捧げたい。もっとも、この8月26日には、彼はまた京響とここでこのシリーズの続きの「第7番《夜の歌》」を演奏することになっているのだが。

 それはともかく、今日の「6番」は、沼尻も京響も、全身全霊を籠めた入魂の快演であった。特に第3楽章(アンダンテ)と第4楽章とは、私がこれまでナマで聴いた同曲の演奏の中でも屈指の名演だったと言えよう。
 第3楽章では、沼尻の自然で伸びやかな叙情性が、底光りのするような美しさと陶酔感を醸し出す。

 第4楽章は、所謂マーラーの私小説的な、力を振り絞って立ち上がろうとしてはハンマー(運命)の一撃に打ち倒されるという標題音楽的な表現よりもむしろ、明と暗の音楽が入り乱れて交錯しつつ、怒涛の如く全てを席巻して行くといった音楽となっていたが、それがまた一種の新鮮さ、爽やかさを感じさせ、心地よい後味を残すことになる。

 そしてまた、その指揮を受ける京都市響の上手さと言ったら! 特にホルンとトランペットの素晴らしさは、傑出していただろう。オーケストラの中から何度か轟然と巻き起こるホルン群の咆哮は、その都度、デモーニッシュな迫力を感じさせたのだった。

 このびわ湖ホールのステージでオーケストラの演奏を聴く機会は私にはこれまであまりなかったのだが、その響きのバランスの良さには感心した。京響が巧いからでもあろうが、例えば第4楽章のオーケストラの怒号の中で、下手側のチェレスタの向こう側に配置されていた2台のハープのグリッサンドがこれほどはっきりと聞こえ、オーケストラに柔らかい音色を与えているのが聞こえたのは、これが初めてであった。石田泰尚をコンサートマスターとする弦のアンサンブルも鮮やかである。

 なお、第4楽章のハンマーは、現行版の楽譜通りの2回。膂力勝れて逞しい男性奏者がやるのかと思いきや、ほっそりした女性奏者が力強くハンマーを振り上げ、豪快に打ち下ろしたのには、何故か感心させられてしまった。

 ロビーから観る琵琶湖が、快晴の空に映えて美しい。今日は日帰り。

2023・3・18(土)東京・春・音楽祭
リッカルド・ムーティによる「仮面舞踏会」作品解説

      東京文化会館大ホール  7時

 恒例の上野の「東京・春・音楽祭」が今日開幕。その一環、「イタリア・オペラ・アカデミーin東京」の初日。
 呼びもののムーティ指揮するヴェルディのオペラは、今年は「仮面舞踏会」だ。その初日として、ムーティ自らが作品について解説する一夜が設けられている。

 「解説」と言っても、今回は東京春祭オーケストラ(コンサートマスターは長原幸太)をステージ上に配置し、ムーティが自ら曲について解説したり、ヴェルディのオペラの演奏スタイルについて語ったりしながら、しかも自ら歌いながら指揮して公開リハーサルを行なう、といったような形になっている。
 何しろムーティの話の面白さ、声の良さ、指導の明快さは天下一品だから、魅力抜群の「解説付き演奏会」と言ってもいいだろう。

 話の内容には、以前のこの「講座」でも語られたようなこと━━ヴェルディのオペラがふだん如何に歪められて演奏されることが多いか、スコアに無い誇張を歌手や指揮者が勝手に行なっていることが如何に多いか、そして自分が如何にその悪しき風習と戦い続けて来たか、などといったことも含まれていたが、これらをユーモアをも交えて語るムーティの話術の見事さは相変わらずである。
 なお彼の話は聴衆全員に配布されたレシーバーで同時通訳により伝えられていた。イタリア語と英語がチャンポンに使われるのだが、通訳はイタリア語だけは見事に訳してくれるけれども、英語の部分は完全にスルーしてしまうというのはちょっと問題だ。

 それにしても、彼の指揮でまとめられて行った「仮面舞踏会」の音楽の、何と素晴らしいこと。前奏曲ひとつとっても、これだけ登場人物の性格表現をすべて織り込んだ感のある、表情豊かな表現を以って演奏された例を、かつて聴いたことがない。
 今日はオーケストラだけのリハーサル(歌はムーティ自身が受け持つ)だったが、ヴェルディのオペラのオーケストラが如何に雄弁で素晴らしいものであるかを、改めて教えられるような「演奏会」であった。

 本番は28日と30日に、アカデミー生たちによる本番は4月1日に行われるが、これらは絶対聞き逃せぬという気になる。
 休憩なしの2時間、濃密の極みのアカデミー初日。

2023・3・18(土)大植英次指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

       すみだトリフォニーホール  2時

 仙台は天気予報が当たり、朝から小雪が舞っていて、猛烈に寒い。10時31分の「はやぶさ」で帰京。東京は強い雨だ。品川駅近くの駐車場に預けておいた自分のクルマにキャリー・バッグなど邪魔な荷物を積み込み、錦糸町へ向かう。

 こちらは新日本フィルの「すみだクラシックへの扉」の2日目。大植英次の客演指揮で、最初に新日本フィル創立50周年記念委嘱作品、小曽根真作曲の「ピアノ協奏曲《SUMIDA》(ピアノ:小曽根真、ベース:小川晋平、ドラムス:きたい くにと)が演奏され、第2部ではワーグナーの「ローエングリン」からの「エルザの大聖堂への行進」(編曲版)と、ブルックナーの「交響曲第9番」が演奏された。コンサートマスターは崔文洙。

 小曽根真の新作は、演奏時間も30分を超える力作で、プログラム冊子掲載の小室敬幸さんの解説によれば、第1部では下総国と武蔵国が、第2部では復興と再生が描かれているとのこと。だが私にはやはり、小曽根のピアノと、トリオともいうべき3人によるジャズのパートが、最も魅力的なものに感じられた。小曽根がアンコールで弾いた叙情的な小品(「Asian Dream」の由)も美しい。

 ブルックナーの「第9交響曲」は、まさに大植の「入魂の演奏」だったのではないか。
 第1楽章は非常に遅いテンポではあったが、スコアの冒頭にある「Feierlich,Misterioso」(厳かに、神秘的に)という指定が、その序奏だけでなく、同楽章全体にわたって徹底して貫かれ、それによりこの楽章が荒々しい嵐の起伏ではなく、滔々たる大河の流れにも似た壮大な世界として描き出されていたことに、改めて感じ入った次第である。彼がよく口にする「全部スコアの指定通りにやったんだよ」という言葉が、今回も聞こえて来そうな気がする。

 この日の演奏の圧巻は第3楽章。そこで彼がオーケストラから引き出した深沈たる音楽は、私がこれまで30年以上にわたって聴いて来た大植英次の指揮の中でも一、二を争う出来のものではなかったか、という気がする。

 この曲での新日本フィルの演奏も、久しぶりに聴く素晴らしさだった。たとえば第1楽章での、内声部の━━特に中低音域の━━動きの明確な響きは、ブルックナーが晩年に到達した精緻な管弦楽法の妙味を見事に再現していただろう。そして特に第3楽章における弦楽器群の陰翳豊かな、情感に富んだ音色と表情の良さ。
 これで最後の最後、4小節間の全音符で長く延ばされたホルンの最後の4分音符での、ほんのわずかな「揺れ」さえなかったら━━。これがナマの演奏会の宿命だ。だがあの4分音符、素人目には、ちょっと延ばし過ぎではなかったのか、という気がするのだが如何。

 終演後、錦糸町から上野へ向かう。

2023・3・17(金)飯守泰次郎指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団

     日立システムズホール仙台・コンサートホール  7時

 この3月で仙台フィル常任指揮者としての任期を完了する飯守泰次郎━━その彼の最終定期を聴きに行く。
 18日との2日間にわたり、極め付きのワーグナーとブルックナーがプログラムに組まれている。「トリスタンとイゾルデ」からの「前奏曲と愛の死」と、「交響曲第7番」(ノーヴァク版)である。コンサートマスターは神谷未穂。

 会場は最初から何か異様な熱気に包まれていたが、これに応えるように、「前奏曲と愛の死」は、強い緊張感を以って演奏されて行った。
 私がナマで聴いた演奏の中で、これほど「前奏曲」と「愛の死」のそれぞれが巨大な「弧」を描くような姿で立ち現れたのを聴いたことがない。それは揺るぎなく強靱な力に満ち、しかも官能的な感覚にも事欠かない演奏だった。円熟の飯守泰次郎がついに到達したワーグナーの世界は、かくも凄いものだったのかと、改めて感動した次第である。
 仙台フィルも、ちょっと荒っぽい演奏ではあったものの、厚みのある弦楽器群を中心に、飯守のこの指揮に完璧に応えていただろう。

 次のブルックナーの「第7交響曲」も、飯守のこの強靱極まる気迫が充分に表された演奏ではあったが━━ただし今日の仙台フィルは、いつもに似合わず(と言っても私は年に1回か2回くらいしか聴きに来られないのだけれども)不思議に荒っぽい。特に「7番」ではそれが著しかった。
 もともとマエストロ飯守は、縦の線がどうとかこうとかをやかましく言う人ではなく、それよりももっと大切な音楽の情感そのものを優先する指揮者なのだが、それゆえにこそ、オーケストラ自らがアンサンブルを完璧につくって行かなくてはならないだろう。

 しかしそれを別にしても、今日は金管楽器群の一部とティンパニが、いかにも粗かったのが残念である。特にティンパニの、「トリスタン」の音楽の精緻な官能美を打ち壊してしまうほどの狂暴な叩き方には唖然とさせられた。私がこれまで聴いて来た仙台フィルは、こんな演奏をしていなかったのに━━。
 翌日(18日)の公演の時には、これらは改善されているよう祈りたい。

 だが、今日の「7番」の中で、第2楽章最後のホルンとワーグナー・テューバによる挽歌が見事に「決まっていた」ことは讃えたい。それに弦楽器群のしなやかな歌も魅力的であった。

 演奏前のプレトークで、事務局から「今日からはブラヴォーも解禁です」と告げられ、客席からも拍手が起こったが、ブルックナーのあとで、私のうしろにいる人がマスクなしでブラヴォーを喚いていたのには少々驚いた。この人は、「愛の死」が終ったあとに大きな感動の吐息を漏らしていた人でもある。
 一方、終演後の「分散退場」は相変わらず行われており、楽員のだれかが聴衆とオケに「分散退場」を指示し、その間楽員が手を振って聴衆を送り出す、という仙台フィル独特の温かい光景もまだ続いている。今日は神谷さんが読み始めた「まず何列目から何列目のお客さまから」という案内が、このホールの客席表示(ABC順)とは全く違うものになっていて、聴衆がポカンとし、私のうしろのブラヴォー氏など「どういうこと?」と呟いていたのが可笑しかったが、神谷さんも途中で気がついて「変ですね、なにこれ?」と自分で呆れるという爆笑の光景。しかしこれ、どうも仕組まれた演出ではなかったのかと後で思ったのだが如何? とにかく仙台フィルには、このような聴衆との温かい交流があるのだ。

 寒いだろうと思い、厚手のコートを用意して行ったのだが、幸いであった。予想以上に寒い。

2023・3・16(木)大野和士指揮東京都交響楽団「復活」

       サントリーホール  7時

 音楽監督・大野和士が東京都交響楽団を指揮して、マーラーの「交響曲第2番《復活》」を演奏した。
 前夜の東京文化会館での「定期」に続く2回目の演奏で、こちらは「都響スペシャル」である。新国立劇場合唱団(合唱指揮・冨平恭平)と、ソリスト2人(中村恵理、藤村実穂子)がP席に並ぶ。コンサートマスターは矢部達哉。

 大野と都響の、これは指折りの快演の一つだろう。所謂「情念の翳り」などといった要素の全くない、明快そのものの割り切った演奏で、それはひたすら「生」を信じて突き進む青年像といったものを思わせる。この交響曲のスペクタクルな要素が余すところなく表出された演奏であり、第5楽章最後のクライマックスはそれに相応しく壮大を極めたが、それを生み出したのは、大野と都響の隙なく引き締まった音響構築であったろう。

 藤村実穂子の健在ぶりも嬉しい。彼女が第4楽章の「原光」を歌い出した瞬間、ホール全体が彼女の存在に支配されたかのような雰囲気が感じられた。そういう体験は30年ほど前、マリインスキー劇場でマリス・ヤンソンスがサンクトペテルブルク・フィルを指揮したリハーサルの際、オリガ・ボロディナが歌い出した瞬間に、客席で掃除など準備をしていた大勢のスタッフたちが一斉に動きをやめ、彼女の歌に聴き入っていたという場面に出逢った時以来である。

 今日のホールは満席状態。カーテンコールでの拍手は久しぶりに聞く大音量の熱烈さだった。藤村実穂子にはブラヴォーの声も少なからず飛んだ。合唱団もマスクなしで量感ある声を響かせた。延々と続いたカーテンコールのあと、ロビーに出て来た聴衆の中から「これがコロナ終結の証し、って感じだな」という声も聞こえたのは、ひとえにこの昂揚感に満ちた演奏ゆえだろう。

2023・3・15(水)新国立劇場 オッフェンバック:「ホフマン物語」初日

      新国立劇場オペラパレス  6時30分

 ノヴォラツスキー芸術監督時代の2003年11月にプレミエされたフィリップ・アルロー演出・美術・照明によるプロダクション。今回が5度目の上演になる。

 ノヴォラツスキーは、在任時代には随分あれこれ言われたけれども、彼のもとで新制作されたプロダクションの中には、アンドレアス・ホモキ演出の「フィガロの結婚」、ジョナサン・ミラー演出の「ファルスタッフ」や「ばらの騎士」など、現在でも再演に堪える優れたものが少なくない。この「ホフマン物語」もそのひとつで、アルローの華麗な、洒落た舞台装置はなかなかの魅力だ。

 敢えて難点を言えば、その舞台が賑やかなために、時として主人公たちの存在を見極めにくくなってしまう個所があることだろう。特に「ジュリエットの場」ではそれが著しく、プレミエの時から既にそういう印象を受けた記憶がある。

 なおこのプロダクションでは、「ジュリエットの場」を最後に置く構成の、所謂エーザー版が使われており、従ってラストシーンでは、全員が詩人の芸術を讃える大合唱を繰り広げるという光景になる。このアルローの演出ではホフマンが自殺するという設定で、このテは以前にもどこかの劇場で観た記憶があるのだが・・・・。

 今回の歌手陣は、レオナルド・カパルボ(ホフマン)、エギルス・シリンス(リンドルフ、コッペリウス、ミラクル博士、ダペルトゥット)、小林由佳(ニクラウス、ミューズ)、安井陽子(オランピア)、木下美穂子(アントニア)、大隅智佳子(ジュリエッタ)、谷口睦美(アントニアの母、ステッラ)、晴雅彦(スパランツァーニ)、須藤慎吾(シュレーミル)、伊藤貴之(ルーテル、クレスペル)そのほかの人々。
 今日の印象では、題名役のカパルボがえらく癖の強い歌い方で、聴いていると少々疲れて来るのと、木下美穂子の声がジュリエッタ役としては少し重いのではないかということを除けば、概して満足すべき出来だった。安井陽子の人形オランピアは今回も秀逸だっただろう。

 三澤洋史が率いる新国立劇場合唱団は今回も見事だった。不満を残したのは、マルコ・レトーニャの指揮と、東京交響楽団だ。オーケストラの音が今回もやはり薄いのだが、そもそもレトーニャの指揮が平板で、活気も今一つなのである。
 終演は10時20分。

2023・3・13(月)河村尚子 サントリー音楽賞受賞記念コンサート2

       サントリーホール  7時

 9日の「室内楽」に続く今日は、「協奏曲」。山田和樹が読売日本交響楽団を指揮して協演するという、豪華な記念コンサートとなった。
 前半にアメリカの女性作曲家エイミー・ビーチ((1867~1944)の作品を二つ、オーケストラ曲の「仮面舞踏会」と、「ピアノ協奏曲嬰ハ短調op.45」。そして後半にブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」が演奏されるというプログラム。

 ビーチの作品はいずれも19世紀末に書かれたものだが、曲のスタイルはまるで19世紀前半のそれ。どんなスタイルを採ろうと結構だが、肝心の曲が、美しいけれども、甚だつまらない。特に演奏時間も40分近いこの協奏曲、見事暗譜で演奏した河村さんには申し訳ないが、些か辟易させられた。

 したがって今日は、やはりブラームスの「2番」が全てである。河村尚子の実に気宇の大きな、しかも瑞々しい活気にあふれた演奏。胸のすくように爽やかな息吹に満ちている。イタリア旅行と避暑地プレスバウム滞在から得たというブラームスの「明るい気分」なるものが、ここでは良い意味で文字通り開放的に、しかも若々しさを伴って歌われて行った。

 それに山田和樹の指揮のシンフォニックな推進力が目覚ましい。表情も豊かで、ピアノが快活に歌う音楽をオーケストラが引き取り、いっそう煽り立てておき、その勢いでさあどうぞとピアノに返す━━という感。両者の丁々発止の演奏には、甚だスリリングなものがあった。良き協演者を得て、今日の河村尚子のブラームスは大成功を収めたと言えよう。
 読響の演奏も緻密で壮大で、第3楽章のチェロのソロも力に満ちて爽やかだ。

 ソロ・アンコールは、クララ・シューマンが編曲した夫ロベルト・シューマンの「献呈」。今回のテーマの一つ「女性作曲家」の、これが美しい締め括り。

2023・3・11(土)ケリ=リン・ウィルソン指揮NHK交響楽団

     BUNKAMURAオーチャードホール  3時30分

 「N響オーチャード定期」の「コンサートホールで世界旅行」と題されたシリーズの一環。
 今日は「イタリアの幻想」というタイトルで、チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」、パガニーニの「ヴァイオリン協奏曲第1番」、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」の第2組曲というプログラムだった。
 指揮にはケリ=リン・ウィルソン、ゲスト・ソリストにはHIMARIを迎えての演奏。コンサートマスターは伊藤亮太郎。

 ケリ=リン・ウィルソンは長身痩躯の美女指揮者。すでに新国立劇場で「蝶々夫人」を指揮していたはずだが、私は今回が初めて聴く機会となる。カナダの人らしいが、ルーツはウクライナなのだとか。あのMETの総帥ピーター・ゲルブの夫人だということは、今回初めて聞いた話であった。
 女性指揮者によくある、思い切りのいい、ダイナミックな表現を多用する人という印象で、N響を整然とした明るい音色で響かせた。ただ、イン・テンポで押し切る指揮のために、演奏の構築が単調になる傾向なきにしもあらず━━というところか。

 コンクールを片端から制覇して評判になっているHIMARIは、何と未だ11歳で、本名は吉村妃鞠さん━━あの有名なヴァイオリニスト吉田恭子さんのお嬢さんであることは周知の通り。
 パガニーニのコンチェルトを、いとも軽々と弾いてのけるが、テクニックをことさら誇示するというところは全くなく、素直に、率直に音楽に対しているという姿勢は良いことだろう。音楽の背後にあるものを勉強して、本当に生きた演奏をするようになるのはこれからのことだ。

2023・3・10(金)大井剛史指揮名古屋フィル アーノルドの「5番」

      愛知県芸術劇場コンサートホール  6時45分

 ジェニファー・ヒグドンの「ブルー・カテドラル」、シューマンの「序奏と協奏的アレグロ」、酒井健治の「ピアノ協奏曲《キューブ》」(委嘱新作の世界初演)、マルコム・アーノルドの「交響曲第5番」━━という、東京のプロ・オーケストラがとてもやらないような「とてつもない」(?)プログラムに釣られて、とんぼ返りで聴きに行ってみた。
 ゲスト・ソリストはフィリッポ・ゴリーニという、初来日の27歳のピアニスト。コンサートマスターは植村太郎。

 大井剛史(現・東京佼成ウィンドオーケストラ正指揮者)の指揮は、これまでにも大阪フィルとの信時潔の「海道東征」(☞2016年10月3日)や、群響とのマーラーの「6番」(☞2021年3月20日)でも聴いたことがあり、その誇張も外連もない率直な指揮の裡に、オーケストラを自然に美しく響かせ、真摯な音楽を聴かせてくれたことが強く印象に残っている。今日も同様、名古屋フィルの美しい音色の演奏が際立った。
 因みに今回のプログラミングには、事務局から聞いたところによれば、大井自身の選曲で、ちょうどこの時期ということで「追悼」のコンセプトが織り込まれているとのこと。

 ヒグドン(1962年ニューヨーク生まれ)の「ブルー・カテドラル」は、作曲者自身の夭折した弟への祈りが込められた曲で、前半はオネゲルの「夏の牧歌」を大がかりにしたような田園的な曲想が美しく、後半は敬虔な祈りの高まりになる。すこぶる耳あたりの良い作品だ。

 次の「序奏と協奏的アレグロ」は、当初はガジェヴがショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」を演奏する予定だったのが変更になったもの。
 フィリッポ・ゴリーニという初来日のこの若いピアニストを、私は初めて聴いたが、この若さに似合わず、たっぷりとした豊かな音で、スケールの大きな音楽を弾き出す人であるのには驚いた。カンタービレも際立っていて、例の「赤とんぼ」そっくりの主題の美しさを存分に楽しませてもらった、という次第である。
 なおマネージャーは、その山田耕筰の「赤とんぼ」を、わざわざゴリーニに聴かせてやったというから、ケッサクである(彼、なるほどと感心したそうな)。

 続く酒井健治の「ピアノ協奏曲《キューブ》」は、いわば「改訂版初演」であろう。この作品の活気とエネルギーは、すこぶる新鮮に感じられる。
 ゴリーニは代役として弾いたことになるが、譜面を見ながらよく弾いたと思う。作曲者はどう思ったか知らないけれども、少なくとも私には彼の演奏とこの作品の双方を愉しめた。

 このゴリーニという若者、大いなる収穫ではないかという気がする。休憩時間に客席で紹介され、彼がALPHA-CLASSICSに録音したベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」と、バッハの「フーガの技法」のCDをもらった。帰京してから早速前者を聴いたけれども、その活力の旺盛さと、若さを迸らせたような勢いに富んだ演奏には心を打たれた。

 最後は、お目当てだった肝心のアーノルドの「第5交響曲」だ。が、この曲、いいところもあるのは事実ながら、ナマで聴いてみたらむしろ些か辟易させられた、というのが正直なところである。4つの楽章に、ホフヌング(例のホフヌング音楽祭をやった人)、デリック・サーストン、デイヴィッド・パルテンギ、デニス・ブレインといった早世した人々へのイメージが織り込まれているということだが、そうですか、というところであろう。
 第4楽章の行進曲のさなかに、昔コロムビアの10吋LPで繰り返し聴いた、あの「戦場にかける橋」のサントラの音楽のマルコム・アーノルド節がチラリと姿を見せていた。

 8時45分頃終演。9時半頃の「のぞみ」で帰京。

2023・3・9(木)河村尚子 サントリー音楽賞受賞記念コンサート

      サントリーホール小ホール ブルーローズ  7時

 第51回サントリー音楽賞を贈られた河村尚子の記念コンサート。「室内楽」と「協奏曲」の2回にわたって行われるが、今日はその「室内楽」の方。
 最初に彼女が矢代秋雄の「ピアノ・ソナタ」を演奏し、次にドーリック弦楽四重奏団(英国)のメンバーとの協演でレベッカ・クラークの「ピアノ三重奏曲」を、休憩後に四重奏団とシューマンの「ピアノ五重奏曲」を演奏した。

 矢代の「ソナタ」は1961年の作で、ベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア・ソナタ」に影響を受けて書かれたとのこと。曲の出だしなど「影響を受けた」どころか、まさにそれをモデルにして書かれた感があって面白い。
 それはともかく、河村尚子が描き出したこの曲は何と表情が鮮烈で激烈で、しかも音色が些かも混濁せず、清冽に響いていたことか。特に第3楽章での曲の流れの構築の明快さには、舌を巻かされるほどだった。これ1曲で既に、最近の彼女のいっそうの成長が疑いないものであることが証明されたように思われる。

 イングランド出身の女性作曲家レベッカ・クラーク(1886~1979)の「三重奏曲」は、私は今回初めて聴いたのだが、これまた驚くべき強靭な気魄に満ちた作品である。1921年の作というから━━35歳の作ということ? 第3楽章では何となくアルメニアあたりの民謡みたいな主題が出て来るが、その辺の経緯については私には判らない。しかし第2楽章での沈潜した美しさは絶品で、この女性作曲家の並々ならぬ才能を感じ取ることができた。
 この楽章での河村尚子とアレックス・レディントン(第1ヴァイオリン)の深々とした演奏にも心を打たれる。

 実はこの2曲がなんとも鮮烈で、印象も強烈だったので、そのあとのシューマンの「五重奏曲」が何故かえらく地味なものに聞こえてしまい━━いや、もちろん卓越した演奏に違いなかったのだが。

 アンコールには、その「五重奏曲」の第2楽章の中の、現在の出版譜には載っていない、クララ・シューマンの提言によりカットされた短い部分(河村さん自らの説明による)が演奏された。言っちゃ何だが、これは確かに、クララの勝ちだったであろう。
 最後に第3楽章がもう一度演奏されて、コンサートは終った。ホールは文字通りぎっしり満員、という感であった。

2023・3・7(火)METライブビューイング「フェドーラ」

     東劇  6時30分

 ジョルダーノの「フェドーラ」。デヴィッド・マクヴィカーの新演出によるプロダクションで、去る1月14日のメトロポリタン・オペラ上演のライヴ映像。
 マルコ・アルミリアートが指揮、フェドーラをソニア・ヨンチェヴァ、ロリス・イバノフをピョートル・ベチャワ、オリガをローザ・フェオラ、デ・シリエをルーカス・ミーチェム、ほか━━という配役。

 ヴェリズモ・オペラの歴史上ではかなり有名な作品だが、あまり観る機会がない。METでも25年ぶりの上演だとか。
 25年前の舞台と言えば、舞台上でピアノを弾く「ポーランドの名ピアニスト」の役に、あのジャン=イヴ・ティボーデが出演した時だろう。私がPMFで彼にインタヴューした際、彼がその時の話を詳しくしてくれて、「あれが私のメット・デビューでした」と大笑いしていたことを思い出す。今回出演したピアニストは、もちろん彼ではない。METの専属ピアニストだそうである。

 ストーリーはヴェリズモ・オペラらしくリアルで刺激的で、陰惨極まりないものだが、とにかく、よく「歌う」オペラだ。ヨンチェヴァは出ずっぱりで声をビンビン響かせ、役柄も気位の高いロシアの皇女だから、しばしば居丈高な態度になり、歯をむき出して相手を威嚇する表情を見せるという具合で、その恐ろしいほどのエネルギーは見事なものだ。対するベチャワも、第3幕で怒りに荒れ狂う場面などでは迫力満点の歌唱。
 こういう音楽は「アンドレア・シェニエ」などにおけると同じく、ジョルダーノのお家芸である。アルミリアートの指揮はさすがにツボにはまっている。

 終映は9時10分頃。オペラは正味2時間と少しの長さ。「マイスタージンガー」などに浸った後では、随分短く感じられる。やはり、短い方が有難い。

2023・3・6(月)メッツマッハー指揮新日本フィル&テツラフ

      サントリーホール  7時

 メッツマッハーがかつて新日本フィルの指揮者だったことなど、今では想像もつかないことのように思えてしまうが、振り返ってみるとあれは、僅か10年足らず前のことに過ぎなかった。

 ともあれ、メッツマッハーという人は、私には何か強面の指揮者というイメージが抜けないのだが、今回も彼は強面のプログラム━━ウェーベルンの「パッサカリアop.1」、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、シェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」を指揮してくれた。しかもコンチェルトでの協演がクリスティアン・テツラフだから、これは何となく「恐怖のコンビ」という雰囲気かもしれない。
 最近の新日本フィルの定期の中では極めて強気な、意欲的な選曲だが、その分、客足は少し落ちていたか。だが、非常に熱心な愛好者たちが集まっていたように感じられる。コンサートマスターは西江辰郎。

 「ペレアスとメリザンド」が、日本のオーケストラから、これほど豪快に、しかも色彩的に、時には官能的な音色を以て響いたのを聴いたのは、カンブルランが読響の常任指揮者就任定期で指揮した時以来のことである(厳しい構築性という点では、スダーンと東京響のそれを挙げる)。あの「浄夜」の一節を想起させられる官能的な個所が、今回ほど濃厚に再現されていたのを聴いたのも初めてだ。新日本フィルの演奏をも讃えたい。全体に荒々しく、劇的な側面が強調された凄まじい演奏ではあったが、とにかく面白かった。

 ベルクの協奏曲を弾いたテツラフも、メッツマッハーの押しの強い指揮に対し一歩も退かず、これも強面の緊迫感に富む演奏を聴かせてくれた。この曲の標題的な内容から言えば、先日のカプソンの演奏の方がそれに合致しているように思われるけれども、しかし今日の「恐怖のコンビ」の演奏は、ベルクの音楽の「強さ」を感じさせて、聴きものだった。
 ソロ・アンコールで弾いたバッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番」の「アンダンテ」も、快いほど明晰で透徹した表情に富んだ演奏だったのも、いかにもテツラフらしい。

2023・3・5(日)びわ湖ホール プロデュースオペラ
ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」2日目

       滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール  1時

 今回の歌手陣はシングル・キャスト、初日と同一の顔ぶれだ。人間だから、日によってその演奏の雰囲気や出来が異なるのは当然のこと。
 初日にはあまり本調子と言えなかったらしい福井敬も、今日はベテラン本来の実力を発揮し、役柄に気品と安定感を取り戻させていた。

 またハンス・ザックス役の青山貴は、前回よりも更にスケール感を増し、この役柄に相応しい風格を備えるに至っていた。日本のザックス歌手がまた一人誕生した、と言っていいだろう。
 ベックメッサー役の黒田博も、前回よりも三枚目的な性格を強くして、更に可笑しみを誘う演技を見せてくれた。この役柄としてはこれまで観たことがなかったような解釈表現であることは先に触れた通りで、極めて興味深いものであった。それにしても、まさか黒田さんがこういうキャラを披露するとは━━。

 大西宇宙がえらくカッコいいパン屋の親方を、平野和が不気味なほど凄味のある夜警を、妻屋秀和が滋味豊かな父親ポーグナー(金細工師の親方)を、八木寿子が優しいマクダレーネを、清水徹太郎が元気な徒弟ダフィトを演じていたのも前回通り。森谷真理は中盤から尻上がりに愛らしいエファを演じて行った。歌唱はみんな、もちろん満足すべき出来にあったし、京都市交響楽団も前回をさらに上回る豊麗なワーグナーを聴かせてくれた。従って、沼尻竜典の指揮のもと、音楽的にも極めて水準の高い上演であったことを特記しておきたい。時に生じたオケと歌との音のずれは、それぞれの位置の問題ゆえで、仕方がないだろう。本格的な舞台上演においてさえ、そういうことは起こり得るものだ。

 沼尻竜典芸術監督がびわ湖ホールとともに、2010年10月の「トリスタンとイゾルデ」を皮切りに取り組んで来たワーグナーのスタンダード・レパートリー10作品上演シリーズも、今回の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を以って、こうしてついにめでたく千秋楽を寿いだことになる。その偉業を讃えたい。
 東京方面からも多くのワグネリアンたちが「びわ湖ホール詣で」を行なったが、特に西日本のオペラ愛好者たちにこれだけの水準のワーグナー上演が提供されて来たことの意義は大きいだろう。今日はチケットも完売で、当日売りも出なかったとか。熱心の極みだ。素晴らしい。

 終演後に帰京。東海道新幹線、小田原駅で人が線路に入ったとかでまた遅れる。それでも25分程度の遅れで済んだのは有難い方だ。今までは交通トラブルに遭ったことはほとんどなく、たいてい間一髪ですり抜けていたのだが、どうも昨年9月23日の例の一件以来、ツキが落ちたようである。

2023・3・4〈土〉飯森範親指揮パシフィックフィルハーモニア東京

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 かつて東京ニューシティ管弦楽団といったオーケストラが名を変え、音楽監督に飯森範親を迎えて活動中。
 今日は通算第155回定期演奏会で、ドイツの作曲家イェルク・ヴィトマン(1973~)の「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは神尾真由子)と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」(ノーヴァク版第2稿)が演奏された。コンサートマスターは塩貝みつる。

 飯森の指揮するブルックナーは、私も以前には山形響を指揮しての「弦10型編成規模スタイル」による「6番」以前の曲の演奏を盛んに聴いたものだった。今回は彼が14型大編成のオーケストラを指揮してのブルックナーを━━久しぶりだったか初めてだったか━━聴けたわけである。
 そこでは、飯森の若い頃の指揮の特徴の一つだった筋肉質の音楽が、今なお健在であることを知ることができる。しかし、それにしても、今回の演奏は、随分野性的なブルックナーではあった・・・・。

 飯森のその強靱な力感は、前半に演奏されたヴィトマンのコンチェルトにおいての方が、やや効果的だったと思われる。そしてまた、約30分の長さのこの曲では、ヴァイオリンのソロはほぼ最初から最後まで弾き通しといった激務(?)だが、神尾真由子は見事なエネルギーでその激烈な音楽をつくり上げて行った。

 夜、また大津に移動。

2023・3・2(木)びわ湖ホール プロデュースオペラ
ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」初日

    滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 1時

 びわ湖ホールが芸術監督・沼尻竜典とともに進めて来たワーグナーのスタンダード・レパートリー10作(W10)の上演(年1作ずつ)が、ついに千秋楽を迎えた。

 このうち、直近の3作は感染症の影響でセミ・ステージ上演形式とはなったが、ひとりの指揮者がひとつの歌劇場で全10作をほぼ連続年で手がけて来たという例はわが国では初めてであり、それは偉業と言ってもよい。そしてこの「マイスタージンガー」は、沼尻が芸術監督としてこの劇場で最後に指揮するオペラ上演ともなった。

 今回の「マイスタージンガー」は、「ステージング」に粟國淳を迎えての舞台。
 オーケストラ(京都市交響楽団)はステージ上の正規の位置に並び、合唱(びわ湖ホール声楽アンサンブル)はその後方に階段状に並ぶ。ステージの背景に設置された巨大なスクリーンその他には、中世のニュルンベルクを連想させるさまざまな映像、空、月、あるいは楽譜の断片などが投映されて雰囲気を出す。ソロ歌手陣(後出)は全員がステージ前方に並び、合唱団とともにそれぞれ必要最小限の演技を加えつつ歌う。

 反響板の位置の所為か、1階席中央で聴いた印象では、オーケストラの音は少し散り気味で、第1幕前奏曲の冒頭などあまりに柔らかくフワリとした響きとなっていたのには驚かされたが、声楽とのバランスは音量的にも音色としても適正で、極めて聴きやすかったと言えよう。

 ソロ歌手陣は次の通り━━青山貴(ハンス・ザックス)、黒田博(ベックメッサー)、福井敬(ヴァルター)、妻屋秀和(ポーグナー)、清水徹太郎(ダフィト)、森谷真理(エファ)、八木寿子(マグダレーネ)、大西宇宙(コートナー)、村上公太(フォーゲルゲザング)、近藤圭(ナハティガル)、チャールズ・キム(ツォルン)、チン・ソンウォン(アイスリンガー)、高橋淳(モーザー)、友清崇(オルテル)、松森治(シュヴァルツ)、斉木健詞(フォルツ)、平野和(夜警)。

 これだけの顔ぶれが揃うと、壮観である。
 「びわ湖リング」のヴォータンで圧倒的な存在感を示していた青山貴がザックスに挑むのがまず注目の的だったが、この役にしては演技も歌唱も少々若い雰囲気ではあったものの、少なくとも歌唱の上では真摯な親方としての役割をよく果していたという印象である。
 一方、ベテランの黒田博は大学教授か大会社の部長みたいなメイクで、横暴ではあるけれど知的な、「イヤらしくない」ベックメッサーを歌い演じていた(この役柄表現は、ベックメッサーの性格にかなり幅広い解釈を与えるものとなろう)。

 同じく大ベテランの福井敬は、スター騎士ヴァルターをかなり荒っぽく歌い演じており、ちょっとユニークな解釈と言えただろう(あるいは本調子でなかったのかもしれない)。また森谷真理が、ワーグナー作品の女性役としては「あまり目立った働きをしない」エファを魅力的に歌い演じていたのが印象的だ。
 他に、若い大西宇宙と清水徹太郎が爽やかな歌唱と演技を示し、出番は少ないが平野和の凄んだ夜警も目立った。

 合唱も素晴らしかったが、マスクをせずに歌ってくれていればさぞや強力な合唱となったろう。
 そして沼尻は、これらの歌唱陣を見事にまとめ、京響(コンサートマスター・石田泰尚)をも刺激的な音に陥らずに響かせ、この「マイスタージンガー」をすこぶる美しい音楽作品として再現してくれた。

 1時開演で、30分の休憩2回を挟み、終演は7時予定━━と掲示されていたので、まさかそんな、と思ったが、案の定、6時35分には演奏が完結した。
 次の公演は5日(日)に同一キャストで行われる。

2023・2・28(火)ミハイル・プレトニョフ ピアノ・リサイタル

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 今から33年前、プレトニョフがロシア・ナショナル管弦楽団を創設してその指揮者となり、時のエリツィン大統領らを招いて颯爽と旗揚げ公演を開催し、所謂「ニュー・ロシア」の寵児のひとりとなっていた頃、ロシアの音楽ファンの間ではプレトニョフについて「指揮者になろうと何になろうと構わないけれど、ピアノだけはやめないでくれ」という悲痛な声が上がっていた、という話をモスクワ在住のロシア人通訳から聞いたことがある。
 その後、一時は本当に「おれはもうピアノは弾かない」と言っていた時期もあったが、数年後に「SHIGERU KAWAI」のピアノと出会ったのをきっかけにピアニストとして復活したことは周知の通りである。こうして今でも指揮とピアノの両面で活躍してくれているというのは、本当に有難いことだ。

 この日のリサイタルの客席はほぼ満杯、聴衆の反応も熱狂的だった。どうやら今でも日本では、プレトニョフのピアニストとしての人気は、指揮者としてそれよりもかなり高い、といった雰囲気である。
 確かに、指揮者プレトニョフは先日の東京フィルを指揮した演奏会に聴く如く非凡な人ではあるが、今日のピアノ・リサイタルなどを聴くと、やはり彼はまさに世界屈指の個性的な名ピアニストである、という印象を得るだろう。

 今日のプログラムはスクリャービンの「24の前奏曲Op.11」と、ショパンの「24の前奏曲Op.28」。前者における演奏は、重々しく翳りのある色合いを湛えた音が驚くほど表情豊かに変化しつつ進んで行くように私には感じられたし、また後者での演奏は、これほど沈潜して憂いに富んだ音色のショパンは稀だろうという印象さえ受けてしまう。
 妙な表現になるが、今日プレトニョフがカワイのピアノで紡ぎ出していたこのショパンの「前奏曲集」の音は、ポリーニやピリスの演奏のそれに比べると、まるでオクターヴ低い音で弾いているかのような、そんなイメージにさえ感じられるほど翳りが濃く、個性的な表情のものだったのである。

 60歳代半ばに達し、かつての「自由な故国」を失ったに等しい状況にあるであろうプレトニョフの、これが今の心境が投影された演奏なのだろうか? こういうショパンは、些か恐ろしく感じられるが、また興味深くもある。

2023・2・26(日)hitaruオペラプロジェクト「フィガロの結婚」

      札幌文化芸術劇場hitaru  2時

 札幌文化芸術劇場hitaru(札幌市芸術文化財団)が、新たなオペラ活動を創造・発信するプロジェクトを開始している。2021年にそのプレ公演として「蝶々夫人」を上演し、今回はいよいよその第1弾として、モーツァルトの「フィガロの結婚」を取り上げた由。
 前回は北海道二期会との共同主催とのことだったが、今回はhitaruの単独主催となり、「協力」という形で北海道二期会や札幌室内歌劇場や札幌オペラシンガーズなどの名がクレジットされている。

 いずれにせよ、北海道最大の、いや首都圏以北では最大規模の劇場であるhitaruが、北海道のオペラ活動を積極的に支援するとともに、自らもオリジナルの制作活動を行うことは、当然の責務と言えよう。今回の企画がその力強い第一歩となるよう期待すること切である。

 この「フィガロの結婚」は、指揮が奥村哲也、ピットには札幌交響楽団。合唱はhitaruオペラプロジェクト「フィガロの結婚」合唱団。演出は三浦安浩、美術は松生紘子。
 歌手陣は主に北海道出身の人たちをオーディションにより選んだとのこと。ダブルキャストの今日の初日には、大塚博章(フィガロ)、三浦由美子(スザンナ)、岡元敦司(アルマヴィーヴァ伯爵)、倉岡陽都美(伯爵夫人)、川島沙耶(ケルビーノ)、葛西智一(バルトロ)、小平明子(マルチェリーナ)、岡崎正治(バジリオ)、その他の人々が出演している。大塚さんはゲストかと一瞬思ったが、彼も北海道の岩見沢出身なのだそうだ。

 東京から(日帰りで)観に行ったからには、全曲を楽しく味わうつもりだったのはもちろんだが、後述のような理由で、第2幕までしか観られなかったのは甚だ残念であった。
 札響はなだらかながら綺麗な音で演奏していたし、歌手陣も第2幕ではケルビーノをはじめ、みんな格段に調子を上げて行っていた。緊張がほぐれるにつれ、おそらく後半では尻上がりに闊達になって行ったのではないかと推察する。

 三浦安浩の演出は、ト書きではその場に指定されていない人物をも多数登場させるという手法で、特に第1幕では各主要人物にもクロスフェイドするように「出番でないところで」盛んにその場を徘徊させるという手法だった。それが果たして舞台上の視覚的変化を狙ったものなのか、あるいは登場人物の意識下の現象を表現するものだったのかどうかは、少なくとも前半においては解り難かったというのが正直なところ。後半まで観ていれば、それが判明するのかもしれなかった。

 4層の客席(最大2302席)は、今日はほぼ満席と見えた。この盛況を一場の夢とすることなく、北海道にも本格的なオペラが根付いて行くようになれば幸いであろう。

 なぜ第3幕以降が観られなかったのか? 実は第2幕のあとの休憩時間に、ANAからの緊急メールで、新千歳空港の大雪のため、私の乗る夜の羽田行きの988便が欠航になるとの連絡が入っていたのを知った。代替として翌朝8時半の羽田行き052便を利用されたし、とある。今朝午前中に札幌に来る時も3時間近くの遅れだったから、嫌な予感はしていたのだが━━。
 そもそも日帰り予定だったためホテルも予約していなかった上に、その場で空港のターミナルホテルに問い合わせてみても既に「満室です」と断られてしまっては、パニック状況になるのは已むを得まい。かくて路頭に迷わぬための対応に追われ、そのあとは電話にかかりきり、客席に戻る余裕すらなくなった、というのが実情なのだった。

 結局万策尽きて、旧知の北海道新聞の田中秀実さん(折しも自宅前の雪かきをして風呂に入っていたという)に救けを乞い、然るべきホテルを市内に取ってもらい、翌朝のANAからの指定便で帰京できたという次第であった。
 それにしても、ニュースによれば、夜の新千歳空港は大変だったらしい。350人ほどが空港で夜明かししたと報じられていた。私のような高齢者が採るべき道ではない。劇場で隣席に座っておられた東京のオペラ関係者のS氏は、第2幕のあとで「帰りが心配だから、私はこれで失礼して空港に行きます」と先に出て行かれたが、如何されただろうか。

※当初掲載の記事のデータの一部に誤りがありました。コメントで指摘して下さった方にあつく御礼申し上げます。

2023・2・24(金)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル

      サントリーホール  7時

 第1部では、昨年のヴァン・クライバーン国際コンクールで優勝したイム・ユンチャンをソリストに、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」が演奏された。そして第2部は、チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」。コンサートマスターは依田真宣。

 イム・ユンチャンは韓国生まれ。未だ18歳か、19歳だろう。素晴らしく個性的なピアニストだ。奇を衒うタイプではないが、音符の一つ一つに新鮮な解釈を施す演奏家である。
 「皇帝」冒頭のカデンツァは、まあ何と愉し気な表情に溢れた演奏であることか。これに続く第1楽章全体の演奏が、溌溂として躍動している。

 最近グラモフォンから出た彼のライヴ録音の「皇帝」(UCCG-1899)のライナーノーツに、「この曲で一番好きなのは第2楽章から第3楽章へのアタッカのところ」と彼が話しているインタビュー記事が掲載されていたので、今日はどんな演奏をするのかと注目していたのだが、果たしてこれは、予想を上回る面白さだった。

 イムは第3楽章のアレグロに入った瞬間をメゾ・フォルテで開始し、クレッシェンドしてフォルティッシモに持って行く、という設計を採る。それがまた、如何にも解放された愉悦感で沸き立っている、という雰囲気なのである。しかもプレトニョフがそれを受けるように、そのあとのオーケストラのトゥッティの2小節目のsfのついた4分音符2つを猛然とクレッシェンドさせて煽り立てるものだから、音楽はいよいよ活気づくというわけだ。

 イム・ユンチャンのソロはその後ますます表情豊かになり、ロンドの主題が回って来るごとにニュアンスを変え、時には低音部を強調して豪壮なアクセントを付ける(これはCDのライヴでも聴かれたが)など、愉しげな千変万化の演奏を試みる。この曲の第3楽章をこれほど面白く聴いたのは、私には初めての体験だった。このピアニストはいい。
 昨年10月録音の前記のCDでの演奏よりも遥かに表情が多彩だったのは、彼の進歩の故か、それとも大ピアニスト・プレトニョフとの共同作業の故だったろうか?

 ソロ・アンコールには、バッハの「ピアノ協奏曲第5番」の第2楽章と、マイラ・ヘス編曲の「主よ人の望みの喜びよ」とを弾いた。これまた詩的な美しさに満ちた演奏で、魅力充分ではあったが、オーケストラ・コンサートのゲスト・ソリストという立場なら、アンコールは1曲だけでよい。彼に対するブラヴォーと歓声が凄かったのは、韓国から聴きに来た人々も多かったのだろうか? 

 「マンフレッド交響曲」は、プレトニョフは、かつてロシア・ナショナル管弦楽団を指揮して素晴らしい演奏のCDを作ったことがある(グラモフォン)。それはロシアの白夜の美しさを連想させるような詩情豊かな名演だった。
 今日の東京フィルとの演奏は、そこまでロシアの雰囲気を感じさせるようなものではなかったが、しかし驚くほど豊かな色彩感に溢れていたと言えるだろう。中間の2つの楽章では、特にそれが印象深かった。

 そして第4楽章では、チャイコフスキーにしては野暮ったい主題が何度も反復されるというあの欠点が、プレトニョフの落ち着いたテンポと、精緻なアンサンブル構築のおかげで、見事に解決されていたのには舌を巻かされた。プレトニョフは、やはりロシアものを手がけると天下一品の強みを発揮する人だ、ということが証明づけられた演奏であった。この「マンフレッド」は、近年ナマで聴いた演奏の中でも、最も気に入ったものである。
 なお全曲の終結には、オルガンの入る浄化的な版が使用されていたが、この方がよほど作曲者の意図に叶っていると思われる。

2023・2・23(木)東京二期会「トゥーランドット」初日

       東京文化会館大ホール  6時

 東京二期会の今回のプッチーニの「トゥーランドット」は、ジュネーヴ大劇場との共同制作によるダニエル・クレーマー演出によるものだが、最大の特徴は、ステージデザインを創造集団チームラボの「チームラボアーキテクツteamLab★Architects」が受け持っていることと、第3幕後半が通常の華やかなアルファーノ版でなく、比較的静かなルチアーノ・ベリオ版で演奏されることだろう。

 4回公演の今日は初日。ディエゴ・マテウスの指揮、ピットは新日本フィルハーモニー交響楽団。
 歌手陣はダブルキャストで、今日は田崎尚美(中国の姫トゥーランドット)、樋口達哉(だったんの王子カラフ)、竹多倫子(奴隷女リュー)、ジョン・ハオ(カラフの父ティムール)、牧川修一(中国皇帝アルトゥム)、小林啓倫(大臣ピン)、児玉和弘(大臣パン)、新海康仁(大臣ポン)、増原英也(役人)。それに二期会合唱団とNHK東京児童合唱団、多くのダンサーたち。照明にはシモン・トロッテ、振付にはティム・クレイドンの名がクレジットされている。

 「光と影のトゥーランドット」━━いや「光と闇のトゥーランドット」というべきか、レーザー光線を交えた光の乱舞による舞台がまず見ものだ。かつて「ニーベルングの指環」の舞台で名を轟かせたラ・フラ・デルス・バウスのそれに勝るとも劣らぬ大がかりな目映い光の演出で、しかも更に精緻なつくりである。
 見事なものではあるが、一方それに眼が奪われてしまうと、前景の暗闇の中で行われている主人公たちの存在が定かでなくなるという傾向がなくもないだろう。幕開き直後など、カラフやティムールやリューは、声はすれども何処にいるの?という感だったことは確かだ。
 ただ、それも一種の慣れというか、第2幕以降では次第に主人公たちの存在も認識できるようにはなって行く。

 皇帝やトゥーランドットは舞台の天井近くに登場し、輝かしい光を受けた高所で歌うので(怖いでしょうねえ)存在感は明確だが、カラフは大部分を暗い地上で歌うので、客席後方で観ていると、人相風体も定かならずという感がある。なお「謎解きの場」で、カラフが一つの謎を解破するごとに、トゥーランドットの乗ったゴンドラ(?)が高所から地上に向け次第に引き下ろされて来るという設定は、解りやすい仕組みだろう。

 これに対し第3幕では、リューとティムールがそれぞれ空中の透明なゴンドラの中に閉じ込められていて、地上でカラフが酷い拷問に遭うという設定に読み替えられているが、これはあまり納得できる解釈とも言えない。だが自決したリューと、それを追って自らも命を絶つティムールのゴンドラが赤い光に染まって行くという設定は無惨ながらも美しいものがあった。

 舞台で目立ったのはもう一つ、強烈なダンスだ。第1幕の幕開きからそれは舞台を圧する勢いで繰り広げられ、第3幕前半に至るまで、群衆や戦士、処刑人などの役割を以て激しく展開されて行く。
 その迫力もなかなかのものだが、しかしこれも、物語の主人公たちの存在を目立たなくしてしまう傾向無きにしも非ずだ。ドラマの真の主人公は群衆にあるという論拠は、このオペラでは成り立たないだろう。その群衆役の合唱団は舞台奥の暗黒の中に位置したままなので、われわれ観客の眼には触れることがない。

 オーケストラはめずらしく新日本フィルが受け持ったが、音にもう少し厚みが欲しいところではある。2日目以降にはもっと演奏にしなやかさが生まれて来るかもしれない。

 歌手陣は大熱演だったが、いずれも何となく力み過ぎといった印象があり━━田崎尚美さんなど、昨年のゼンタ(新国立劇場)、クンドリ(びわ湖ホールと東京二期会公演と)をはじめとするこれまでのワーグナーものでの彼女の快唱を聴いて来た側からすると、今日は些か彼女らしからぬ歌い方としか思えなかったほどである。だが一方、樋口達哉テナーが、こういうドラマティックな歌を聴かせてくれたというのは、私には嬉しい驚きであった。

 つい先日、日本オペラ協会(藤原歌劇団系)が壮麗な演出の「源氏物語」を上演して気を吐けば、東京二期会は、日本ではこれまでなかったような舞台の「トゥーランドット」で応戦する。先月には東京芸術劇場も関西弁の字幕と文楽にヒントを得た奇想天外な「カヴァレリア・ルスティカーナ」&「道化師」を試みたばかり。あらゆる新機軸は進歩に通じる。今後も議論を巻き起こしていただきたい。

2023・2・23(木)デイヴィッド・レイランド指揮東京都交響楽団

        サントリーホール  2時

 ベルギー出身の指揮、デイヴィッド・レイランドが客演。シューマンの「マンフレッド」序曲と「交響曲第3番変ホ長調《ライン》」の間に、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番ニ短調」(ソリストはティル・フェルナー)を配したプログラム。コンサートマスターは四方恭子。

 レイランドが都響に客演するのは、2021年9月に次ぐ2度目とのことだが、私は前回の客演を聴いていなかったので、今日が彼のナマを聴く最初となる。
 まだ若い世代に属する人だろうと思うが、思いのほかオーケストラから柔らかく温かい響きを引き出し、陰影に富んでしっとりとした和声感を備えた演奏をつくり上げていることに強い印象を受けた。

 特にシューマンの2曲━━暗く悲劇的な「マンフレッド」だけでなく、楽章によっては田園的な解放感を湛えた「ライン」においてさえも、シューマンの「憂いのロマン」を随所に滲ませた音楽を引き出している。最近の指揮者にしては面白い個性の持主、と言えるのではなかろうか。

 モーツァルトもいい。古典的な端整さの裡にロマン的な陰影を滲ませた指揮とでもいうか。所謂ガリガリとした鋭角的なモーツァルトでない、こういうウォームなスタイルのモーツァルトを守り抜いている若い世代の指揮者が今なお居るのだと思うと、好みは別として、何となく安心してしまう。しかも協演のティル・フェルナーが明晰な音の動きでオーケストラと対峙しながら際立つ存在感を示しているので、両者のバランスも絶妙だ。

 フェルナーはそのあと、ソロ・アンコールとしてシューベルトの「即興曲作品142の2」を弾いたが、これまた絶品。ただ、オーケストラを差し置いてのソロ・アンコールとしては、些か長めだったか。

2023・2・22(水)アンナ・ラキティナ指揮読響&ルノー・カプソン

       サントリーホール  7時

 ウクライナ人の父とロシア人の母のもとにモスクワで生まれた指揮者、アンナ・ラキティナが初来日。未だ30歳代前半の、スラリとした美女だ。近年はアメリカで活躍し、2019年からはボストン響のアシスタント指揮者を務めている由。

 今回はエレナ・ランガーの歌劇「フィガロの離婚」組曲(日本初演)、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲《ある天使の思い出に》」(ソリストはルノー・カプソン)、チャイコフスキーの「交響曲第1番「冬の日の幻想」」というプログラムで、読売日本交響楽団の定期に初登場した。極めてメリハリの強い、やや細身のイメージの音ではあるけれども強靭な力を感じさせる音楽をつくる女性指揮者である。
 今日の読響のコンサートマスターは日下紗矢子。

 「フィガロの離婚」の作曲者エレナ・ランガー(1974~)は、ロシア出身の英国人とのこと。エデン・フォン・フォルヴァートの同名戯曲(これは日本でも上演されたことがある)に、ボーマルシェの「罪ある母」を組み合わせ、あのデイヴィッド・パウントニーが台本を書いたオペラの由(プログラム冊子の柴辻純子さんの解説に拠る)。筋書も、更にややこしくなっているようである。
 この組曲は、それを世界初演したマクシム・エメリャニチェフが2021年9月に読響を指揮して日本初演するはずだったが、彼が来日できなかったために中止されていたもの。20分弱の長さで切れ目なく演奏され、管弦楽編成は大きく、アコーディオンからボンゴまで様々な楽器も含まれるが、曲想はむしろ暗鬱な色合いが支配的だ。

 この曲の後に、ルノー・カプソンがソロを弾いたベルクの協奏曲を聴くと、それが随分清涼ですっきりしたイメージの曲に感じられるから不思議だ。このあたりがプログラミングの面白さというものであろう。
 カプソンは例の如く身体を大きく動かし、片足を上げたり体を弓なりに反らせたりして、阿修羅のごとく演奏する。当初予定されていた誰やらの新作の日本初演が流れたのは残念だったが、このベルクの協奏曲をかくも優麗さを含んだ劇的な演奏で聴けたのは、それはそれで有難かった。アンコールでのカプソンの演奏は、前衛的なスタイルに変容されたグルックの「精霊の踊り」。

 休憩後のチャイコフスキーの交響曲「冬の日の幻想」では、金管の強奏の音色など、いかにもロシアの指揮者だなと思わせる強靭な力に満ちていた。全曲に流れるロシアの冬の静かな雪の光景を思わせる曲想を、読響から(少し粗削りながら)明確に引き出した手腕も、この指揮者の力量を感じさせる。
 今日の演奏には、もしかしたら、ラキティナの望郷の想いが強く籠められていたのではないか。第2楽章の、まさにロシア=チャイコフスキーといった雰囲気の音楽とその演奏が、今日は指揮者の心情を想像してしまったせいか、いつも以上に心に沁みた。

 ロシアの雪の冬の光景というのは、私は30年ほど前にモスクワとサンクトペテルブルクのそれらを一度しか体験したことがない(その他は夏ばかりだった)のだが、チャイコフスキーのこの曲は、それを不思議なほどリアルに思い出させてくれる。平和なロシアは素晴らしいところだった。懐かしい思い出が一杯だが、私にはもう二度と訪れる機会は得られないだろう。

2023・2・20(月)加藤拓也脚本・演出「博士の愛した数式」

      東京芸術劇場シアターウエスト  2時

 まつもと市民芸術館(総監督・串田和美)が制作した、小川洋子の同名原作による舞台。
 出演は、主人公の数学者「博士」を串田和美、家政婦の「私」を安藤聖、その息子「ルート」を井上小百合、博士の義姉「未亡人」を増子倭文江、家政婦派遣の「組合長」を草光純太、「語り手」を近藤隼、音楽(舞台上で演奏)を谷川正憲。90分ほどの上演時間である。

 交通事故のため80分間しか記憶が保てなくなった数学者が、家政婦およびその息子と温かい絆で結ばれるという━━最後は哀しい流れに終るものの、ヒューマンな情感にあふれたストーリーだ。
 以前映画化されて評判をとったものは観ていないし、また加藤拓也が数年前に「劇団た組」で演出した(と聞く)舞台と同一のものかどうかも、このジャンルに詳しくない私は把握していないのだが、ともあれ今回は、串田和美がほのぼのとして、かつ寂しさを滲ませた演技を見せてくれたことと、安藤聖が演じた清純で真摯な家政婦像がとりわけ強く印象に残った。

 夜に同じ東京芸術劇場で行われるピアノ・デュオのコンサート、「藤田真央✕務川慧悟」をも聴くつもりでいたのだが、シアターウエストの出口でばったり出会った劇場スタッフから「関係者急病」のため中止になった、と聞かされ、落胆して帰る。

2023・2・18(土)三木稔「源氏物語」日本語版全曲日本初演

      Bunkamuraオーチャードホール  2時

 2000年6月にセントルイスで世界初演され、2001年9月に日生劇場で日本初演された、このコリン・グレアム台本、三木稔作曲による3時間に及ぶ大作オペラ「源氏物語」━━それらはいずれも英語版によるものだったが、今回は日本語版で全曲が上演された。

 三木稔は英語版と、自ら考えていた日本語歌詞版との両方を念頭に置いて作曲した、と伝えられるが、確かに歌詞に違和感はない。
 私は22年前の日生劇場での上演を観ていなかったので、今回は初めての体験なのだが、岩田達宗の演出と、田中祐子の指揮で紡ぎ出されたその壮麗な舞台と音楽には、ひたすら驚嘆するのみであった。

 第1幕が約100分、第2・3幕は計約75分。その構成の中で、全ての場面が切れ目なしに展開される。
 音楽は平安の壮麗な絵巻物といったような構築で、実に緻密に書かれている。西洋音楽のオーケストラにいくつかの和楽器が加わり、雅楽の手法も取り入れられている(これが実に美しい!)。総じて極めて細かいニュアンスで登場人物の性格やドラマの変化が描かれていて、作曲者の優れた力量が窺われるだろう。

 ただし、絵巻物のよう、ということは、ドラマの面でも音楽の面でも、圧倒的なクライマックスという場面がないということにも通じる要素があって━━それは原作の性格からしてやむを得ないと思われるのだが、舞台ものとしては多少のハンデを負うかもしれない。
 光源氏が流罪を許されるきっかけとなる「須磨の嵐」の音楽は、叙情的な全曲の中ではそれなりにかなり激しいものだが、西洋オペラのようにドラマの転回点として猛烈なクライマックスとして印象づけるというほどのものにはなっていない。そこが日本的な、過度にならぬということなのか‥‥。

 舞台美術はシンプルだが美しい。紗幕と背後の階段とを巧く使った岩田達宗の演出により、同一平面上での演技でありながら、場面の移り変わりはよく理解できる。
 平安時代の衣装が極めて美しい。特に女声陣は、妍を競うという感だ。登場人物は遠距離から一見すると、それぞれ衣装の色に違いがあるとはいえ、誰が誰だか判りにくい、という傾向はあるが、これを解決するには、紫式部の原作をある程度頭に入れておく必要があるだろう。

 終結近く、赦免された光源氏が明石を去り、紫上と再会するさまを、捨てられた明石の姫がじっと悲し気に見守る(ここは紫式部の原作とは異なる)余韻嫋々たる設定や、その明石の姫が前景に位置し、光源氏らが後景に位置しているという光景がいい。つまりそこでの主人公は、{明石の姫}のほうなのだ。このあたり、岩田達宗の演出も、なかなか泣かせる術を心得たものである。

 それにしてもこの台本、原作の全篇に流れる真摯で強烈な無常観が、外国人のグレアムの手にかかると、光源氏という人物が、多少ドン・ジョヴァンニ的な性格を帯びてしまったようだ。日本人の私たちはそれを感じることができるのだが━━西欧の観客にはどうだったろうか。

 配役はダブルキャストだが、これだけ多くの歌手陣を揃えるとはたいしたものである。
 今日(初日)は、岡昭宏(光源氏)、桐壺帝(山田大智)、佐藤美枝子(六条御息所)、向野由美子(藤壺)、相樂和子(紫上)、丹呉由里利子(葵上)、長島由佳(明石の姫)、森山京子(弘徽󠄀殿)、海道弘昭(頭中将)、江原啓之(明石入道)、市川宥一郎(朱雀帝)、河野めぐみ(少納言)、和下田大典(惟光)。
 東京フィルハーモニー交響楽団、山田明美(二十弦筝)、叶桜(中国琵琶)、日本オペラ協会合唱団。松生紘子の舞台美術、大塚満の衣装、大島祐夫の照明━━ほか。

 田中祐子の指揮がいい。
 六条御息所を佐藤美枝子(別キャストでは砂川涼子)が歌い演じるというのは意外だったが、この舞台では彼女の怨念の所業には、音楽でも舞台でもことさら怪談じみて描かれるという要素はなく、むしろ光源氏の心変わりの生き方を非難し叱咤する役割として描かれているので、納得できるというものだ。
 また、弘徽󠄀殿のほうは、アンチ光源氏のヒステリックな母后として描かれていたが、ベテラン森山京子の怪演(?)が、なだらかな人物像が並ぶ舞台における一つのアクセントとして光っていた。

 5時半終演。日本オペラ振興会の力作で、極めて意義深い上演として記憶されるだろう。主催者としては、他にBUNKAMURA、日本演奏連盟、東京都(都民芸術フェスティバル)、東京都歴史文化財団が顔を揃えている。

 なお余談だが、昭和22年に出版された島津久基著「鎌倉つれづれ草」の中に、「須磨巻」の突然の天変地異について触れた部分がある。
 須磨のみならず京都にも吹き荒れたこの嵐は、光源氏の流罪が許される機会となったドラマの大転換の場なのだが、紫式部がここで嵐の場面を投入したのは、「己の心に己の所業を問うてみよ」という天の怒りとも解釈できる出来事という劇的効果を狙っていたのは確かだが、そのほかにも、春先(3~4月)にはそのような天候急変がしばしば起こるという科学的な根拠を知悉していたからではなかったか、という見解を、春のいろいろな嵐の例を弾いて説明している。つまり、単なる「あーら怪しや、一天俄に掻曇り」といった安手の効果を狙ったものではなさそうだ、として、紫式部の知識の幅広さを指摘しているのである。
 その嵐に怯え、光源氏の赦免を提言した朱雀帝に、母の弘徽󠄀殿が「凄い雨の晩などには、始終心に思っていることが恐ろしい夢になって来るもの。軽率に御驚きになってはなりませぬ」と諭すのも、迷信に囚われぬ自由な女性の存在を描いている(この辺は当オペラとは全く異なる設定だが)のも、紫式部の近代的な科学精神を窺うことができる、というのである。興味深い指摘である。

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