2022-05

2022・5・15(日)宮崎国際音楽祭 広上淳一指揮の「ローマの祭&松」

メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場)
アイザック・スターン・ホール  3時

 音楽祭最終日。「祝賀の舞~ここに集い、明日を音祝ぐ」という、「言祝ぐ」をもじった題名が付けられていて、今日は広上淳一が指揮。
 この腕利きのオーケストラを、大野和士と広上淳一というわが国のトップ指揮者が連続して指揮するのだから、この音楽祭も豪華なものである。

 プログラムは前半に尾高惇忠の「音の旅」という曲集からの10曲と、サン=サーンスの「交響曲第3番」(オルガンのソロは加藤麻衣子)、後半にはレスピーギの「ローマの祭」と「ローマの松」。
 実はそのあとにもアンコールとしてマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲が予定されていると事前に聞いていたのだが、空港行きのタクシー予約時間との兼ね合いのため、聴かずに失礼しなくてはならなかったのは残念の極み。

 前半の2曲は1階席28列で聴いていたが、ここは2階席の屋根の下に入った位置の所為か、ヴァイオリン群が硬く鋭く聞こえ、低音楽器もほとんど聞こえずといった具合で、オーケストラ全体をハイ上がりの安物のオーディオ装置を聞いているような印象。スーパーオケなのにこんなはずはあるまいと思い、職業上の理由から、レスピーギの2曲は、中2階のバルコニー席の下手側後方の位置に移って聴いてみた。

 予想通り、そこで聴くと、前半の2曲の時とはまるで別のオーケストラのように聞こえる。弦は柔らかく拡がって豊麗な音色となり、低音部の響きも増して重量感もたっぷりとしたものになり、音楽そのものが豊かな瑞々しさを湛えて、腕利き奏者たちを揃えたオーケストラの本領が存分に発揮されていたのである。

 レスピーギの色彩的な管弦楽法の魅力も、これなら充分に堪能できる。「ローマの祭」では、凶暴な祭、明るい祭、底抜けの陽気な祭などの色合いの違いも、見事に浮き彫りになった。「ローマの松」でも、「アッピア街道の松」がこれだけ重量感豊かな、豪壮華麗な底力を備えた音楽に感じられたことは、これまでになかった。

 オーケストラの各パートのソロも見事で、「祭」でのホルンのソロも胸のすくような鮮やかさだったし、コンサートマスターのライナー・キュッヒルが実に色っぽいソロを披露したのも印象的であった。
 近年のキュッヒル氏は、ベートーヴェンの四重奏曲などを弾くと、やたら荒っぽく弾き飛ばす癖があって、やはりもうトシなのかなと思わされていたものだったが、このように自由さが認められている曲を弾くと、余人にはとても真似できぬような滋味と巧さを発揮する。流石の年輪である。

 それにしても、この宮崎国際音楽祭管弦楽団の力量はたいしたものだ。最盛期のサイトウ・キネン・オーケストラにも退けは取らないだろう。そして、あれよりも柔らかく、あたたかい雰囲気を備えている。こうした名手オケを制御するマエストロ広上淳一の気魄も壮烈であった。

 20時10分発のANAで帰京。楽員さんたちも大勢乗っていて、満席に近い状態と最初は見えたが、何故か最後部の数列はガラガラで、独りで席を3つ占領できるという快適さ。21時40分羽田空港着。

2022・5・14(土)宮崎国際音楽祭 大野和士指揮の「ヴェルレク」

   メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場) 
   アイザック・スターン・ホール  3時

 伊丹から宮崎へ飛び、4年ぶりに宮崎国際音楽祭を訪れる。今年が第27回。徳永二男を音楽監督として4月29日から開催されており、明日が最終日だ。今日は大野和士が指揮するヴェルディの「レクイエム」で、「喪失と悲哀を越えて」という演奏会タイトルが付けられている。

 オーケストラは例年通り国内屈指の奏者たちを集めて編成されており、ソリストをはじめ各楽団の首席奏者たちが名を連ねているさまは壮観である。特に第1ヴァイオリン・セクションには、国内オケのコンサートマスターが10人以上も参加しているという驚異的な陣容で、しかも今日は懐かしや、ライナー・キュッヒルがコンマスの椅子に座っているという華やかな光景だ。
 合唱には新国立劇場合唱団が来ている。そしてソリストも中村恵理(S),池田香織(Ms)、宮里直樹(T),妻屋秀和(Bs)という強力な面々が揃う。

 白熱の快演ともいうべき今日のヴェルディの「レクイエム」の中で、やはり特筆すべきは大野和士の見事な指揮であろう。
 1時間半に及ぶ長い全曲を一分の隙も無く緊迫感を持続させつつ完璧に構築し、歌手の声を全く打ち消すことなくオーケストラを巧みに響かせる。何よりも、この曲が備えている「宗教曲」というよりも「オペラ的」といっていいほどの強いヒューマンな喜びと哀しみの情感を、あくまでも明快に浮き彫りにした演奏に、私は心を打たれた。

 こういうオペラ的な曲を指揮する時の大野和士は、やはりただものではない。わが国の指揮者で、これだけの「ヴェルレク」を演奏できる人は、他には見当たらないだろう。それはまさに「喪失と悲哀を越えて」というコンセプトに━━ただ言葉上の建前のみにとどまらず、感情の面からいっても、相応しい演奏だったのである。

 新国立劇場合唱団(合唱指揮者・三澤洋史)はステージ後方および左右のバルコニー席に拡がって配置されていたが、予想以上にバランスよく、緻密な合唱を聴かせてくれた。
 また、ステージ前面に各々距離を取って位置した4人のソロ陣も充実の歌唱を披露。特に最後の「リベラ・メ」での中村恵理の劇的な感情表現は素晴らしく、その中に挿入された「怒りの日」へ転換して行く個所での激しい感情の変化の個所など、欧州の歌劇場でキャリアを積んだ歌手ならではの巧味を感じさせていた。

2022・5・13(金)山下一史の大阪交響楽団常任指揮者就任記念定期

      ザ・シンフォニーホール(大阪)  7時

 山下一史は2016年4月から千葉交響楽団の音楽監督を務めているが、この4月からは、愛知室内オーケストラの音楽監督と、この大阪交響楽団の常任指揮者を兼任することになった。大変な忙しさだろう。
 今日の大阪響定期はその就任記念。ワーグナーの「ジークフリート牧歌」、R・シュトラウスの「4つの最後の歌」(ソプラノは石橋栄実)および「英雄の生涯」を指揮した。コンサートマスターは森下幸路。

 このところ何故か「英雄の生涯」がかち合うが、どれも指揮者とオーケストラが腕に縒りをかけて取り組んだだけあって、立派な演奏ばかりだ。今日の山下と大阪響も、かなり念入りなリハーサルと積んだのだろうが、両者の最良の部分が示されていたのではないかという気がする。

 山下一史が描き出したこの「英雄」は、私が感じ取った範囲で言えば、すこぶる折り目正しく端然とした、ノーブルな「英雄」ではなかろうか。先日、大野和士が描いた闘争的な「英雄」とも、広上淳一が描いた円熟の境地に入った「英雄」とも違う、そこのところが面白い。
 例えば、冒頭からして山下の「英雄」は落ち着き払っているし、「伴侶」との対話の個所では紳士然とした「おとな」の夫といった表情なのである。

 オーケストラは均衡豊かなアンサンブルを響かせ、豊麗さも、劇的な壮烈さをも十全に備えた演奏となっていた。
 ホルンは、「4つの最後の歌」における演奏ともども、いいソロを聴かせてくれた。また、コンマスの森下幸路は、「4つの最後の歌」で美しいソロを披露した後、「英雄の生涯」ではコケットで駄々っ子的な、噂に聞くR・シュトラウス夫人その人を想像させるソロを弾いた━━この手に負えぬ「妻」(ヴァイオリン)と、泰然としたおとなの主人公(低音の金管他)とのやりとりのくだりが、今回の演奏では実に巧く描写されていたと思う。

 そして、全曲の終結を為す「英雄の隠遁」の部分で、シュトラウスの旧作の各モティーフが走馬灯のごとく流れて行き、曲が次第に終りに近づいて行くあたりでの柔らかい安息の情感も、オーケストラの均衡に富む響きによって、見事な世界となっていたのである。

 だが、そこまではいいのだが、━━こういう丁寧な構築で、そして優しく深みのある音で「英雄の生涯」以外の2曲も演奏されていれば━━「ジークフリート牧歌」はともかくとしても、「4つの最後の歌」のオーケストラ・パートがもっと優しく官能的に演奏されていれば、折角の石橋栄実の歌もいっそう映えたと思うのだが、如何なものか。リハーサルの大半を「英雄の生涯」に注ぎ込んでしまったのか、他の2曲でのオーケストラの演奏が何とも無造作で密度に不足し、愛情が感じられなかったのだ。それが惜しまれる。
 こういうギャップをどう埋めて行くかが、今後の大阪響の評価の分かれ目となるのではないか?

 だがまあ、それはそれとして、この「英雄の生涯」1曲だけでも、こういう演奏を可能にしたという点で、山下一史の常任指揮者就任は大成功だった、と今日は申し上げよう。児玉宏によってレパートリーを開拓され、外山雄三によってアンサンブルを厳しく整備された大阪響が、今後どのような展開を見せてくれるか。期待してまた聴きに来よう。

 昼間の土砂降りの雨も、夜にはどうやら小降りになった。明朝の移動に備えて、伊丹の大阪空港ホテルに投宿。この空港も昔に比べ、綺麗になった。

2022・5・12(木)藤岡幸夫指揮東京シティ・フィル

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の定期。首席客演指揮者の藤岡幸夫が振る。今年になってから彼の登板が多くなった。
 今日は前半にラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲と「ピアノ協奏曲ト長調」(ソリストは角野隼斗)、後半に黛敏郎の「シンフォニック・ムード」と「BUGAKU」。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 「角野人気」は流石に凄く、チケットは完売の由で、実際に客席もほぼ埋まっていた。シティ・フィルの定期でこれだけ満席に近い状態になったのは、飯守泰次郎がワーグナーを指揮した時以来だろう。

 それ故、些か主客転倒の雰囲気はあったものの、藤岡とシティ・フィルの演奏の熱気も並々ならず、特に黛敏郎の2作品でそれは最高潮に達した。
 「シンフォニック・ムード」は1950年(21歳)の作品、「BUGAKU」は1962~63年の作品で、いずれもその管弦楽法の濃密さ、多彩さは驚くべきものだが、今日の藤岡とシティ・フィルはそれを十全に再現したと言ってもいい。

 前者では内声部の特徴ある動きも明確に聴き取れたし、後者の舞のリズムも明晰に響いていた。見事な熱演であり、曲も素晴らしかったが、━━しかし、この2曲を続けざまに聴くのは、些か根性と体力が要るだろう。最強奏で轟き続ける分厚い音楽が50分以上も続くのだから‥‥。

 「マ・メール・ロワ」は、藤岡が思い入れたっぷりに指揮し、シティ・フィルをたっぷりと歌わせ、結尾のフェルマータをも長く長く延ばして盛り上げた。美しくはあったものの、プログラム冒頭の曲としては少しく凝り過ぎ、沈潜した雰囲気になったかもしれない。
 一方、コンチェルトでは角野隼斗の「抒情の躍動」が聴けたが、その細身のピアニズムがオーケストラに覆われる傾向無きにしも非ず。ソロ・アンコールの「スワニー」(この選曲はいいが)を含め、演奏にはもっと色彩感と、息づく表情の変化が欲しいところ。

2022・5・11(木)飯森範親指揮パシフィックフィルハーモニア東京

      サントリーホール  7時

 「東京ニューシティ管弦楽団」改め「パシフィックフィルハーモニア東京」と、4月にその新音楽監督に就任した飯森範親。

 4月定期は客演の鈴木秀美が指揮していた(☞4月8日)が、この5月定期がいよいよその「就任記念公演」となった。ロビーには花輪が並び、招待客も賑やかで、客席も結構な入り。
 今日のプログラムは、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは牛牛)とショスタコーヴィチの「交響曲第1番」、メイソン・ベイツの「マザーシップ」(ソリストはマーティ・フリードマン、高木凛々子、藤原道三、牛牛)。コンサートマスターは執行恒宏。

 牛牛(ニュウニュウ、本名・張勝量)の演奏を聴くのは2年ぶりで、前回聴いた時には柔らかく美しい音色と劇的な表現力を兼ね備えた青年ピアニストだという印象を受けたのだが、今日のチャイコフスキーでは、かの伝説的ピアニスト、ホロヴィッツもかくやとばかりの猛烈なテンポと、自在に変動するデュナミーク、光と翳が不断に入れ替わるような変化に富んだ音色、という演奏で、ヴィルトゥオーゾ的な演奏を繰り広げた。

 いつからこういうタイプの演奏家になってしまったのかと訝らざるを得ないが、まあとにかく、物凄く煌びやかで激烈な、しかもスピード感満載のチャイコフスキーだったことは確かで、呆気に取られて聴いていた次第だ。解釈はともかく、祝賀演奏会の幕開きとしては、良くも悪くも、派手な花火のように効果的だったかもしれない。
 しかもソロ・アンコールには、リスト編曲のベートーヴェンの「運命」第1楽章を弾いたが、これまたおそろしく勢いのいいのなんの。

 ショスタコーヴィチの「1番」は、いつも聴くよりはやや分厚い響きの物々しい演奏に感じられ、この作品が持っている軽妙洒脱なアイロニー感には些か乏しいようにも思われたが、これは多分飯森の解釈にもよるものなのだろうから、そのまま受け取るしかない。
 ただしオーケストラは━━今日聴いた席がいつもと違う1階席中央やや後方だったので、しかとは断定できないが━━弦の響きにあまり力がなく、管楽器ばかりが強く響いて来て、しかもその管に緻密さが不足しているように思われたのだが、どうなのだろう?

 この曲に続いて演奏されたのが、アメリカの作曲家メイソン・ベイツ(1977年生れ)の「マザーシップ」という曲。
 ステージ上のオーケストラの他に、黒いシートで覆われたP席の上方にエレキギター、エレキヴァイオリン、尺八が配置され、ピンスポットを浴びながら躍動的な演奏を繰り広げる。ステージ下手のピアノには何と牛牛が座っていた(という話だ)が、プログラム冊子に予告が載っていなかったところを見ると、これはサプライズだったのかもしれない。
 照明演出も加えられ、正面オルガンから左右LB・RB席後ろの壁面にかけ、整理された構成の眩いデザインの映像が音楽に合わせて乱舞するという趣向も入っている。音楽に合わせて光が舞う、という趣向はスクリャービンも試みたもので、これはこれで興味深い。
 ただ、この映像演出についてはプログラム冊子に全く言及がなく、製作スタッフも明らかでない。曲が終る頃、オーケストラのロゴが壁面のあちこちに投映されたのには苦笑を抑え切れなかったが・・・・。

 音楽そのものについては、言っちゃ何だが、面白いだけで、あまり音楽的な感銘を受けるほどのものではなかった。「独奏パートがオーケストラ(母船)に結合したり離れたりしながら音楽は進んで行く」(プログラム冊子、オーケストラ事務局による解説)というのも、さほど珍しい切り口ではないだろう。キワモノと言っては失礼だが、まあ一瞬激しく妖しく燃えて燃え尽きる、といった性格の音楽に感じられた。

 ただしかし、こういう珍しい作品を、しかもショスタコーヴィチの「第1交響曲」という若い気負いの精神があふれた曲と一緒にプログラムに乗せる、という方針そのものは、支持したいと思う。マエストロ飯森とこのオーケストラは、こういうプログラミングも加味して大海に乗り出そうという方針らしいが、そのこと自体は興味深いことだ。さしあたりは、もっとPRに力を入れて欲しいところである。

2022・5・7(土)飯守泰次郎指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団

       日立システムズホール仙台・コンサートホール  3時

 飯守泰次郎は仙台フィルの常任指揮者を2018年の4月から務めているが、私はこの顔合わせによる演奏会を聴いたのはこれまで1回しかない(☞2019年2月8日)。
 今回はブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは菊池洋子)と「交響曲第4番」というプログラムで、それは彼らのブラームス・ツィクルスの最終回にあたることもあって、日帰りで聴きに行くことにした。コンサートマスターは西本幸弘。

 今日の飯守と仙台フィルの演奏は、2曲とも、非常な力感を迸らせていて、むしろ荒々しさを感じさせたほどである。
 コンチェルトの方は、ブラームスの若き日の気魄にあふれた作風のものだから、それも一理ある解釈だったろう。菊池洋子のソロもそれに呼応し、この人のいつものスタイルからはちょっと想像できないほど、豪放で、時には力づくという印象も受ける演奏だったように思われた。
 彼女はアンコールにブラームスの「子守歌」を演奏したが、こちらは優しさにあふれた世界だ(アンコールの曲名を場内アナウンスで告知したのは親切な方法である)。

 だが、ブラームス晩年の落ち着いた思索的な交響曲たる「4番」が、後半2楽章に於いて、時に凶暴なほどの勢いを示して演奏されたのには、少々面食らった。よく言えば、最後まで闘争的な精神を失わぬブラームス像を描き出した演奏、ということになるだろうか。それはそれで、一つの解釈であろう。

 実は前半2楽章が意外に単調な演奏で━━例えば第2楽章第87~88小節前後の、全合奏で激動的に進んで来た音楽が一転して幅広い弦の主題に移るくだりが、あまりに表情の変化なしに淡々と進められてしまったところなど、これまでのマエストロ飯守らしくないな、と、ちょっと心配になっていたのである。
 それゆえ、ティンパニを狂気の如く豪打させつつ嵐の如く突き進んで行く第3楽章や、何かに怒りをぶつけるようなエネルギーを変奏ごとに高めて追い込んで行く第4楽章を聴いた時には、解釈の問題は別として、とりあえず安心させられたのは事実だった。

 氏の個人生活における御不幸などが、氏の音楽への没入度を高め、その音楽にむしろ情熱を加えたのか、という気もした。ともあれ、今日の飯守&仙台フィルの、全体に少々「荒っぽい演奏」が、この二つの楽章での昂揚を通じて、音楽との肉離れを起こさずに済んだ、とも言えるかもしれない。

 終演後の、「オーケストラ主導による聴衆の分散退場」方式がまだ続いているのには心を打たれた。今日はコンマス(指揮者がやる場合もあったはず)が客席に退場の順序をユーモラスに指示し━━「間」を保たせるためにPRも折り込むサービスの良さだ━━オーケストラの楽員全部がステージ上から笑顔で手を振りつつそれらを送り、客席が半分くらいになった時点で今度は楽員も「分散退場」に移るという独特のやり方だ。

 国内でこういうアットホームなことをやるプロオケは、他にないだろう。客席の実際の状態や聴衆の心理状態も考えずただ機械的な場内アナウンスでのろのろとした「分散退場」を強制する各ホールのやり方は、私にはナンセンスだと思え、その進行の遅さに苛々して帰りを急ぎたい客が自主判断で動いてしまうのは無理もないという気がするのだが、この仙台フィルのやり方なら、お客たちも笑って従う雰囲気も生まれるというものである。

 このホールは客席数800だが、今日は満席。事務局の話によれば、金曜(夜)土曜(マチネー)の2日制定期のうち、土曜は完全に「入りを回復」したとのこと。相次ぐ地震となかなか熄まないコロナの中で頑張っているオーケストラを応援したいものである。

 9時2分の「はやぶさ」で帰京。連休の終りにもかかわらず空いていたのが意外。

2022・5・1(日)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(終)
グランド・フィナーレ 沼尻竜典指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

          滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール  5時

 これが結びの一番。指揮者として当初発表されていた大植英次が降板、沼尻竜典が指揮することになった。しかし、この音楽祭のテーマから言えば、沼尻芸術監督が指揮するのが妥当というものであろう。

 プログラムは、チャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」(ソロは上村文乃)、プッチーニの「蝶々夫人」からの「ある晴れた日に」(伊藤晴)、モーツァルトの「フィガロの結婚」からの「訴訟に勝っただと?」(晴雅彦)、沼尻竜典の「竹取物語」のかぐや姫の「帝に捧げるアリア」(冨平亜希子)、プッチーニの「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」(宮里直樹)━━と進み、最後はレスピーギの「ローマの松」で豪壮に締め括られた。

 沼尻が大阪フィルから引き出した音は、清楚で美しい。「ロココ」の冒頭など、チャイコフスキー独特のあの澄んだロシアの雪の光景を思い出させるような美しい音色に満ちていてハッとさせられたし、「フィガロ」では弦の透明な響きに陶然とさせられたほどだ。

 但しその「ロココ」では、オーケストラの落ち着いた音色と上村文乃のブリリアントなチェロの音色とが、あまりに異質な感を生んでいたのではないか。
 一方、宮里直樹は、今日こそは大ホールという音響空間を生かし、強大な朗々たる声で本領を発揮した。また晴雅彦が「伯爵のアリア」を劇的に歌い、シリアスな役柄での実力を遺憾なく発揮していたのもいい。
 「ローマの松」は、当初の予定だったチャイコフスキーの「1812年」から変更されたものだが、作品の質から言ってもそれは極めて妥当な選曲であった。

 6時過ぎ、音楽祭は成功裡に幕を閉じた。お客さんの反応も上々だったのは祝着。京都を7時半に出る「のぞみ」で帰京。

2022・5・1(日)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(8)
「いざ傑作の森へ!2」 児玉麻里

      滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール  4時

 プログラムは、ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第17番《テンペスト》」と「同第26番《告別》」の2曲。

 前者は1802年の完成、後者は1810年初頭の完成だから、いずれも「傑作の森」の時期とは微妙にずれているんじゃァないか?という気もするが━━それはともかく、彼女のトークによれば、「告別ソナタ」は、例の音楽祭テーマに関連させての、沼尻芸術監督からの提案に基づく選曲だったとのこと。
 「この曲の題名の《告別》とは、近いうちに再会できることを願う、という意味ですよね」と彼女は語り、隈取りの明確な、強靭な演奏を繰り広げた。

2022・5・1(日)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(7)
「オペラ合唱名曲選」河原忠之とびわ湖ホール声楽アンサンブル

          滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール  2時20分

 河原忠之の指揮とピアノで、定評あるびわ湖ホール声楽アンサンブルが、オペラの合唱曲を歌う。ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「タンホイザー」、ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」と「ナブッコ」、カタラーニの「ワリー」など。

 合唱の編成は計14人(男声・女声7人ずつ)で、それはもうしっかりした演奏、見事なソロだったことは確かだが、その豊かな声は、河原のピアノの━━この回に限って何故か乱暴な━━大音響とともに、とてもこの小ホールで聴かせる演奏ではない。昨日の宮里直樹のリサイタルと同様、会場とのアンバランスが著しい。

2022・5・1(日)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(6)
高関健指揮京都市交響楽団&牛田智大

          滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール  午後1時

 午前中にも2つのコンサートがあったが、体力を考えて午後からの4つの公演のみ聴く。つい10年ほど前まで、あれほど夜討ち朝駆け、各地転戦、各国転戦の旅を平気でこなしていたのに、最近ではホテルの枕かベッドが変わっただけでよく眠れぬ、という状況になってしまったのは情けない話だ。

 朝の強い雨も昼頃には上がる。ホワイエに並んでいる売店を冷やかしたり、中ホールでオーストリアの音楽祭やウィーンの街々の光景を紹介した映像を眺めであれこれ思い出に浸ったりした後、大ホールに向かうと、ちょうど小ホールでの演奏会を聴き終った人たちがどっと押しかけて来て、長蛇の行列を作っているところ。とにかく、賑やかなのは目出度い。

 皆さんのお目当ては当然、牛田智大がソロを弾くショパンの「ピアノ協奏曲第2番」にあったことだろう。だが私の方は、高関健が━━最近はまた、とみにブルックナーやマーラーの交響曲などシリアスな大規模作品の指揮者というイメージを強めている、あの高関さんが━━指揮する、ビゼーの「アルルの女」第2組曲の方に多大な興味があった。
 期待と予想通り、恰もシンフォニーを聴くような、堂々たるスケールの「アルルの女」だ。終曲の「ファランドール」は、重厚に轟く太鼓の威力も凄まじく、オーケストラは文字通り怒涛の進撃。

2022・4・30(土)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(5)
「晴れ晴れコンサート」晴雅彦(T)と伊藤晴(S)

          滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール  5時

 朝からの強行軍で少々疲れ(トシは争えぬ)、聴かずにホテルへ帰ろうかと思っていたのだが、音楽祭事務局のH氏から「こんな面白いコンサート、聴かなきゃいかんです」と煽られて小ホールに向かう。

 晴さんと晴さんとのデュオで「晴れ晴れ」コンサート、などという趣向を誰が考えたのかと思っていたら、2人のステージトークによれば、発案者は沼尻芸術監督だったとか。
 プログラムは45分枠で、ロルツィングの「密猟者」、プッチーニの「つばめ」、コルンゴルトの「死の都」、レハールの「メリー・ウィドウ」、メンケンの「美女と野獣」、メサジェの「仮面をつけた愛」、バーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」からのアリアやナンバーが歌われ、最後は「メリー・ウィドウ」からの二重唱で華やかに幕を閉じた。ピアノは、これも河原忠之。

 コンサートは専ら晴雅彦のトークで進行され、それはややSpeak too muchのような気もしたが、H氏から「関西ですからね」と言われて、それもそうかと思う。とにかく、この明るいコンサートで体調も回復、気分も「晴れ」た。

2022・4・30(土)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(4)
鈴木優人指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

          滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール  3時30分

 1時間枠でのプログラムは、シューベルトの「未完成交響曲」とベートーヴェンの「運命交響曲」。
 昔のLPレコード時代には定番の組み合せだったが、今日では、こういうプログラムはCDでも演奏会でも、むしろ珍しいだろう。当初指揮する予定だった大植英次に代わり、鈴木優人が登場した。会場はもちろん満席。

 両曲とも、予想していたよりも更に柔らかい響きで、しかも驚くほどストレートに演奏されて行ったのには、初めは些か拍子抜けさせられた。が、ベートーヴェンの「5番」の第4楽章で、それまで抑えていたエネルギーを一気に解放するという仕掛けがあったのを知り、なるほどと感心した次第である。
 鈴木優人は第4楽章の最初の3小節を、殊更遅くすることなく、ほぼイン・テンポで轟かせ始めたが、それは勝利の大行進というよりもむしろ、勝利の舞踏のように感じられたのが面白い。

 この第4楽章は極めて壮烈で情熱的な演奏で、若い鈴木優人が精魂籠めてバトンを振り続ける姿と併せ、すこぶる感動的なものがあった。全曲の大詰めでの確信にあふれた演奏も見事である。鈴木優人と大阪フィルとの相性は良い、という話をある筋から聞いたが、そうだろうな、と思う。

2022・4・30(土)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(3)
「至高の二重奏」戸田弥生と清水和音

         滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール  2時30分

 大ホールでのオーケストラは1時間枠、小ホールでのリサイタルや室内楽は45分枠、というのが今回の音楽祭の公演の構成だ。それぞれの公演時間がクロスすることなく設定されているので、充分にハシゴをすることができるというのが有難い。

 ただし前項のテナー・リサイタルからこの室内楽演奏会の開演までには75分間の「間」があったので、明るい琵琶湖畔を歩いたり、ウィーンの風景の映像が上映されている中ホール(出入り自由)で休んだりしながら、時間を潰す。とにかく人出が多くて賑わっているので、レストランも満席、並ぶのも諦める。

 この室内楽演奏会では、モーツァルトの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ホ短調K,304(300c)」と、ベートーヴェンの「ソナタ第10番ト長調」がプログラムに組まれていた。後者など、滅多に演奏会で聴ける機会がない曲だし、しかも旅先のこういう演奏会で聴くと、この曲はこんなにいい曲だったか、などと改めて感じ入ってしまうという良さがある。

 戸田弥生と清水和音は、ステージでのトークによれば、意外にも今回が初めての協演である由。戸田の凛としたソロは予想通りだが、清水がバランスのいいピアノで合わせていたのには感心した。昔はあんなにも豪快なピアノで鳴らした彼が、「ヴァイオリンのオブリガート付きのピアノ・ソナタ」としての性格がやや残るモーツァルトのソナタで、今はこういう巧みな演奏を聴かせてくれるのだ、などと私は勝手な物思いに耽りながら聴かせていただいたわけで━━。

2022・4・30(土)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(2)
「プリモ登場」宮里直樹と河原忠之

          滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール  0時30分

 今回の音楽祭は、大ホールと小ホールで演奏会が行われ、中ホールではオーストリア政府観光局の協力による映像上映やグッズ販売などが開催されている。とにかく大変な人出なのは目出度い。当節、公演が予定通り開催され、しかも人出で賑わっているなら、それだけでも成功と思わねばなるまい。
 しかも今日は快晴好天なので、ホールから望む琵琶湖と周辺の緑や、坂本や比叡山の遠景などは、全く嘆賞したくなる美しさだ。

 さてこちらのリサイタルは、河原忠之の練達のピアノに支えられての、テノールの宮里直樹の満々たるパワーの歌唱だ。ヴェルディの「リゴレット」と「ルイ―ザ・ミラー」、プッチーニの「蝶々夫人」、グノーの「ロメオとジュリエット」および「ファウスト」からのアリア等が歌われた。

 すべてフル・ヴォイスで歌われたこのテノールの声には、このホールはいかにも小さすぎるだろう。それも、まるまる45分間、休みなしだ。「歌う方も結構疲れますが、聴く皆さんもお疲れになるでしょう」と宮里ご本人もステージから喋って満員の客を笑わせていたが、正直なところ私も耳がびりびりとして来た。
 しかも彼はそのあと、アンコールとして、ドニゼッティの「連隊の娘」からの、例のあの「ハイ・C」を連発するアリアを歌ってみせたのだから、その馬力たるや物凄い。

2022・4・30(土)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(1)
オープニング・コンサート 沼尻竜典指揮京都市交響楽団

         滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール  午前11時

 朝早く起きて新幹線に飛び乗り、10時前に京都駅へ着いたまではよかったが、琵琶湖線が事故とかで混乱している。それでもどうやら大津駅に辿り着くと、今度はタクシーが出払っていて、乗り場には30人以上が延々長蛇の列。バスも姿なし。仕方なくびわ湖ホールまでとぼとぼと歩く羽目になった。
 快晴好天、琵琶湖と新緑とが映え、空気も爽やかという環境のおかげで、いい散歩にはなったが━━開演時間にはついに間に合わず。

 今年の「びわ湖クラシック音楽祭」は、昨日午後から明日夜までの規模で開催されている。テーマは「さようなら、故郷の家よ」というもの。何だか音楽祭が今年で終ってしまうのか、はたまた会場が他のホールへ変わるのか、などと錯覚を起こさせるようなタイトルだが、実際は沼尻芸術監督が退任するということをテーマ名に反映しただけのことだそうな。

 そのマエストロ沼尻が京都市交響楽団を指揮する「オープニング・コンサート」は、彼自身の「トゥーランドットのファンファーレ」と、砂川涼子を迎えてのカタラーニのオペラ「ラ・ワリー」からの「さようなら、故郷の家よ」(!)で幕を開けたが、前述のような次第でこの2曲は聞き逃した。聴けたのは、3曲目に置かれたラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」のみ。

 少々疲れた状態のまま客席に滑り込んだ直後ではあったが、ソリスト小山実稚恵によるラフマニノフのコンチェルトの冒頭の豪壮なクレッシェンドを聴いて、一瞬のうちに演奏に引き込まれる。それ以降は、彼女のピンと張り詰めたブリリアントなソロと、画然たる造型を保った沼尻竜典と京響の音楽に浸った。客席は満杯の盛況だ。

2022・4・28(木)大野和士指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 定期演奏会Cシリーズで、R・シュトラウスの「オーボエ協奏曲」と、マーラーの「交響曲第5番」の組み合わせ。大野が振ったもう一つの4月定期(A)との関連性が感じられるプログラムで、このあたりの曲目編成はなかなかいい。コンサートマスターは今回も矢部達哉。

 協奏曲では、都響首席の広田智之が美しいソロを吹いた。「仲間がソロを吹く」際にオーケストラに生れる独特のあたたかい表情は、理屈では説明できぬもので、今日もそういう雰囲気が都響の演奏の中に感じられる。

 一方、マーラーの「5番」は、先日の「英雄の生涯」と同様に16型編成の威力を発揮させた情熱的な快演ともいうべきもの。特筆すべきはその強靭な推進力であろう。とりわけ第2楽章におけるそれは息を呑ませられるほどの力で、今日の演奏の中でも強く印象に残るものだった。トランペットに不安定な個所が散見されたのは痛恨の極みだが、ホルンの快進撃がそれを補う。
 なお、第4楽章で活躍するハープには、特別出演扱いで名手・吉野直子が登場。友情出演なのかもしれないが、こういう趣向も面白い。

2022・4・26(火)METライブビューイング
R・シュトラウス:「ナクソス島のアリアドネ」

     東劇  6時30分

 3月12日メトロポリタン・オペラ上演生中継ライヴの映像。

 映像の冒頭では、ピーター・ゲルブ支配人が、いつものにこやかな顔でなく、厳しい表情で挨拶。ウクライナの人びとへの激励のメッセージを送り、ウクライナの犠牲者を悼み、さらに「戦争に巻き込まれたロシアの人びと」への同情の念をも述べた。そして「プーチンがウクライナに侵攻した」直後のMET公演の際に、METの合唱団とオーケストラがウクライナ国歌を演奏し、観客が起立してそれに聴き入る光景の映像をも織り込んでいた。

 さて、このR・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」は、エライジャ・モシンスキー演出による再演プロダクション。ほぼ30年前に制作された舞台だから、やはり古さを感じさせることは否めない。
 だが、悲劇と喜劇が同時に上演される設定の「オペラ」の場面で、双方の主役たるアリアドネ(リーゼ・ダーヴィドセン)とツェルビネッタ(ブレンダ・レイ)が微妙な突っ張り合いを見せるあたりの演技がすこぶる巧く表現されているあたりは、2人の歌手たち自身の工夫もあるのだろうが、結構楽しませる。この2人の歌唱と演技には、私も今回初めて接したが、なかなか華やかだ。

 指揮はマレク・ヤノフスキ。METのピットでの雰囲気は少々地味な印象を与えるものの、オーケストラをよく引っ張って、全曲大詰めの叙情的なシュトラウス節を聴かせていた。
 主役歌手陣では他に、作曲家役のイザベル・レナードが完璧な歌唱と演技を示し、音楽教師役のヨハネス・マルティン・クレンツレも流石の巧味を披露している。

 執事長役には、当初トーマス・アレンが発表されていたが、この日は懐かしやヴォルフガング・ブレンデルが登場、コミカルで滋味豊かな舞台を披露した。確か75歳になるはずで、今はもっぱら先生家業とのことだ。公式SEASON BOOKのArtist Rosterにも名前が載っていなかったところからすると、急遽助っ人を買って出たか、頼まれたか━━だったののかもしれない。
 なお、バッカス役のブランドン・ジョヴァノヴィッチ(アメリカ出身)という人は初めて聴いたが、いい声だ。

 このオペラは、私も何度もレコードで聴いたし、ナマ上演にも接してきたが、今日のように映画館の大音量のPAを通して聴くと━━決して過剰な大音量というわけではなかったのだが━━第2部の前半で、R・シュトラウスはよくもまあこのように長時間、高音域のソプラノ(つまりアリアドネとツェルビネッタだ)の声ばかりを連続して使ったものだなと、改めて思わされる。この音に些か疲れたのは事実。ダーヴィドセンの声がひときわビンビンと強く来るから、尚更だ。バッカスが登場する場面に至って、やっとオーケストラが柔らかい甘美な音を響かせ始め、ゆったりとしたテナーの声も聞こえ始めて、やれやれと思う。こんなことは初めてだ。
 9時20分終演。

2022・4・24(日)広上淳一指揮札幌交響楽団

      札幌コンサートホールKitara  1時

 札幌で午後1時から始まる演奏会を聴くには、遅くとも午前9時のフライトに乗らなければならず、それには自宅を7時に出なければならず、それには‥‥という、今の私には極めてきついスケジュールだったが、とにかく予定の時間にはKitara に着いた。
 不思議なことに、この2か月間ばかり悩まされていたある不快な体調不良の症状が、札幌に着いたとたんに、ほとんど消えてしまった! 北海道とは、実に不思議な所である。

 で、今日の札響の定期は、「友情指揮者」(そういう肩書なのだ)の広上淳一の指揮で、武満徹の「群島S.」、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストは小山実稚恵)、R・シュトラウスの「英雄の生涯」。コンサートミストレスは会田莉凡。

 先日、素晴らしい「英雄の生涯」を大野和士と東京都響で聴いた直後に、今度はそれに勝るとも劣らぬ名演の「英雄の生涯」を、広上と札響で聴くことになった。
 この2人の名指揮者のストーリーの描き方は、対照的である。大野が鋭角的な音づくりでオーケストラをダイナミックに鳴らし、気性の激しい英雄が愛や戦いを経て勝利をおさめ、やがて穏やかな隠遁生活に入るといった「生涯」を逐次描き出していったとすれば、広上のそれは、札響を遅めのテンポで豊麗に響かせ、既に落ち着いた境地に入っている英雄が己の「生涯」を感慨深く回想する‥‥といったような表現の違いだろうか。

 冒頭の「英雄の主題」も、大野は戦闘的な激しい英雄像を描きつつ開始したが、広上は総譜指定通りのフォルテで、悠然たるテンポで、落ち着き払った英雄の姿を描き出す。
 また例えば、「英雄の業績」の部分でシュトラウスの過去の作品の断片が次々に流れて行くあたりでは、大野が各々のモティーフを明確に際立たせて「英雄の仕事」を誇示したとすれば、広上はそれらを豊麗な全合奏のあたたかい響きの中に、影のように浮かんでは消えて行くように演奏させ、それらを懐かしい思い出のように描く━━という具合だ。

 とにかく、オーケストラをここまで巧みに制御した広上の力量には、改めて感銘を受ける。
 16型の大編成で鳴り渡る札響の音も、豊かで壮大で、美しい。各パートのソロもいい。ホルンの1番(𡈽谷瞳)は副首席奏者だそうだが、すべての個所で、見事であった。

 そして最も感心させられたのは、4月に正式入団し、今回が定期で初めてのコンマスだったという会田莉凡である。「英雄の伴侶」でのヴァイオリンのソロが、これほどシナをつくるような、甘えるような、色っぽい「伴侶」として表現されたのを、これまでに聴いたことがない。
 なお、もう一人のコンマスである田島高宏は、今日はトップサイドに座って彼女を支えていた。

 ベートーヴェンの「第3協奏曲」では、来日できなかったデジュ・ラーンキの代わりに小山実稚恵がソリストとして登場したが、この彼女のピアノの輝かしさ、きらきらと大粒の清らかな真珠のように煌めく音の美しさ、それに強靭な意志力を漲らせた音楽の高貴さは、これまで聴いたことがなかったほどのものだった。第3楽章など、もう一度この楽章だけでもやってくれないかな、とまで思ったほどである。
 最後にオーケストラだけが終結和音を叩きつける時に、彼女も一緒に気合を入れていたところを見ると、やはり今日は十全に「乗っていた」のだろう。これもいい演奏だった!

 1曲目の武満徹の「群島S.」。武満に「縁の深い」札響も、この曲は今回が最初だとのこと。2本のクラリネットは、今回は客席ではなく、ステージ手前の両翼に立って演奏した。計21人の奏者による演奏は、整然として、あまりにも明快そのもの。

 終演後は、北海道新聞関係のおなじみの知人たちと会食。私がFM東京時代に収録した1976年12月の岩城宏之&札響の最初の「オール・タケミツ・プログラム」の際のエピソードなどを話す。翌朝8時半の帰京フライトに備え、新千歳空港のエア・ターミナル・ホテルに投宿。

2022・4・23(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

      ミューザ川崎シンフォニーホール  5時

 午後2時からの神奈川県民ホール「沼尻竜典の神奈川フィル音楽監督就任記念定期演奏会」とのダブル・ビルを予定していたのだが、このところの妙な体調不良のためそれには間に合わず、5時からの川崎での日本フィルのみ、辛うじて聴くことができた。横浜から回って来た知人の話では、「沼尻&神奈川フィル」の演奏は素晴らしかったとのこと。次の機会には是非聴きに行きたい。

 さて、こちらインキネンと日本フィルは、ベートーヴェン・ツィクルスの第3回にあたる演奏会。「第2交響曲」と「第4交響曲」が取り上げられ、更に冒頭にシベリウスの交響詩「エン・サガ」が演奏された。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 インキネンのベートーヴェンは、これで6曲を聴けたわけだが、各々の曲想に応じ、スタイルをかなり大きく変えるアプローチのようである。仮にブラインドで聴いた場合、この人の指揮だな、とすぐ判るような一種の癖というものは全く━━というか、ほとんどない。それはそれで、一つのやり方であろう。
 ただ、今日の2曲を聴いてある程度明確に感じられた共通の特徴は、やはり明朗闊達で率直で、ひたすら押しに押す若々しい推進性と、たっぷりした和声的な量感とにあふれ、そして人間的なあたたかさを備えたベートーヴェン━━ということだろうか。

 「第2番」は、見事なほどの威容を感じさせ、特に第4楽章での頂点への追い込みは、荒々しさや魔性的な凄さというものではないけれども、聴き手をぐいぐいと煽り立てる力を持っていた。それはベートーヴェンの若き日の、純な気魄を充分に再現した演奏と言えるだろう。この曲の良さを存分に表出した演奏で、もう一度聴いてみたいと思わせる「2番」であった。またもや何処からかブラヴォーの声が飛んだのも無理からぬことだろう。

 この「2番」が非常な快演だったため、休憩後の「4番」が、ちょっと気が抜けてしまったような気がしたのは、もちろん私個人の集中力が欠けた所為もあるだろうが、しかしこの前半の2つの楽章では、演奏も多少「通常の出来」に留まっていたのではなかったろうか? 特に第1楽章の、再現部へ向かってのクレッシェンド個所と、終結部での「興奮度」など、「2番」で聴かせたような勢いがもっと欲しかった。

 第4楽章は、作曲者のメトロノーム指定テンポに多少近い快速で演奏されたため、木管の一部がそれに対応し切れなかった個所もあったものの、まあ「締め」としては結構だったでしょう。現の響きは、前回同様に、美しい。

 冒頭の「エン・サガ(ある伝説)」は、私の好きでたまらない曲だが(全曲終結の余韻嫋々として茫漠たる寂寥感!)、今日の演奏は、この曲に不可欠な神秘性が不足しているように感じられて、少々腑に落ちないものがあった。
 もともとインキネンのシベリウスは、森と湖と霧の奥から響いて来るようなタイプではなく、もっと近代音楽としての鋭い性格を強く打ち出したスタイルであることは承知しており、それは交響曲での彼の指揮においては納得できているのだが━━。

2022・4・22(金)高関健指揮東京シティ・フィルのブルックナー

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団と常任指揮者・高関健が、三善晃の「交響三章」とブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」で、前月定期に続く快演を聴かせてくれた。コンサートマスターは特別客演の荒井英治。

 前半に演奏された三善晃の「交響三章」は、私個人の受容体験からすればだが、あの渡邉暁雄と日本フィルによる1960年の初演の際の印象とは全く別の作品のように思えるほどに、音楽が輝かしく雄弁で、壮麗かつ精妙なものに感じられた。
 もちろん当時の私の理解力が乏しかったことは間違いない。しかし、現在の日本のオーケストラの水準の高さが、作品本来の特質をいっそう明確に浮き彫りにしているのも事実なのではないか。この曲の良さを改めて強く感じさせる演奏であった。


 休憩後には、ブルックナーの「第4交響曲」。今回取り上げられたのは、最近話題になっている「コーストヴェット校訂版」である。
 やれハース版だ、ノーヴァク版だ、レーヴェ改訂版だ、と、ただでさえややこしい話が付きまとうブルックナーの交響曲に、またコーストヴェット版などというのが出て来た。私のように、筋金入りのブルックナー・マニアを自称する者にとっては興味津々だが、他方、プログラム解説を書く商売という立場からすると、「またかい」と辟易させられるのも事実なのだ。

 ただ、このコーストヴェット版というのは、全く新しい別の版ではなく、大雑把に言えば、これまで在った3種の版━━①「1874年版」(初稿)、②「1878/80年版」(本人による第2稿、ハース版とノーヴァク版の基で、所謂現行版)、③「1888年版」(レーヴェ他による改訂稿)とを、最近の研究に基づき再校訂したようなものだとのことだから、さほど神経質になる必要もなさそうである(注、このコーストヴェット版3種の演奏を1セットにした面白いCDが最近出た━━キング・インターナショナル KKC―6613~6)。

 今日のマエストロ高関のプレトークによれば、今日演奏する「コーストヴェット校訂による第2稿」は、ほぼハース版に近いものの由。
 ただし高関自身がオリジナルの筆写譜を含めて研究した結果を織り込んでのものになるという注釈がついて、「今日は、基本的にはハース版で演奏しようと思いますが、怪しいと思ったところは直しました。ですから途中で、アリャ?と思うところがいくつかあるはずです」と解説された。ということは、高関校訂版か。

 確かに、私も聴いていてアリャと目を丸くしたところがある。
 例えば、ハース版総譜(ブライトコップ&ヘルテル出版)第1楽章の第73~75小節と、第435~437小節におけるホルンの全音符等が消えて、完全なゲネラル・パウゼになっていたこと!

 因みに、前出のフルシャ指揮の同じ「第2稿」の演奏では、ハース版総譜と同様、ちゃんと(?)ホルンが3小節にわたり長い音を吹いている。ここでホルンが吹いていないのは、1874年の初稿版総譜(ノーヴァク校訂・国際ブルックナー協会出版)のほうなのである‥‥。となるとこれは、やはり高関校訂版━━というわけか?

 版の問題は別として、高関とシティ・フィルの演奏は、極めて格調の高い、立派なものだった。1階席後方下手寄りで聴いた印象では、響きも豊かで重厚で、ブルックナーの交響曲の演奏としても、良い意味での王道を往くものだったであろう。

 ただ、やたら出番の多いホルン群は実によく頑張っていたものの、しかしやはり、少し苦しい。この辺はプロなのだから、やはりもっとできるだけ完璧に吹いてもらわなければならない。とはいえ、第3楽章でホルンがトランペットおよびフルートと対話を交わし絡んで行く個所のように「ぴたりと決まった」部分も非常に多く、そこは実に素晴らしい調和を為していたのだから、もう一息というところである。

 それにしても、高関健は、シティ・フィルをよくここまで引っ張った。彼の指導力と、それにこのようなレパートリーを手がけて聴衆を惹きつける力量は、絶賛されるべきである。

2022・4・21(木)大野和士指揮東京都交響楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 予定されたシューマンの「ピアノ協奏曲」とR・シュトラウスの「英雄の生涯」の前に、ウクライナ出身の作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフの「ウクライナへの祈り」という曲が追加され演奏された。
 友部衆樹さんの解説ブリーフによると、これは2014年の反政府デモ「尊厳の革命」に際し流血の犠牲となった市民を悼んで作曲された合唱曲集の一つをもとにした管弦楽編曲版である由。「主よ、ウクライナを守り給え」という原曲の歌詞をそのまま忍ばせる叙情的な曲想をもつ小品で、その美しさゆえに聴き手の心を締めつける。
 今年3月にデンマークで初演されているとのことだが、今回の日本初演も時宜を得た企画であろう。

 プログラム本体の前半はシューマンの「ピアノ協奏曲」で、ソリストは藤田真央。両者の一種くぐもった音色が、シューマンの翳りある心理状態といったものを的確に描き出していた。
 ただ、藤田真央の弾き方はかなり「個性的」になっていて、時にぎくりとさせられるところがある。聴き慣れたこの曲が新鮮なイメージで蘇ると言えば言えようが、安心して聴いていられるような演奏というわけには行かない。ソロ・アンコールでのモーツァルト「K.545」の第1楽章での後半の装飾豊かな演奏はその補完ともいうべきか。

 後半は、R・シュトラウスの「英雄の生涯」。大野と都響の「英雄の生涯」を聴いたのは、私にとっては14年ぶり(☞2008年9月13日以来)だと思う。
 コンサートマスターはあの時と同じ矢部達哉だったが、しかし今日の彼の演奏は、あの時とは最早比較にならぬほどの表情の豊かさ━━つまり「英雄の伴侶」役としての表現がより多彩に、しかも官能的になっていたのに魅惑された。

 この「英雄の伴侶」の場面でのヴァイオリン・ソロを、恰もコンチェルトのように弾きまくるコンサートマスターは意外に多いのだが、矢部達哉はそんな愚を繰り返さない。ゆえにこの場面では、大野の起伏豊かな指揮と相まって、英雄とその伴侶が本気で口喧嘩をし、本気で睦みあうといった光景も、すこぶる見事に描写されていたのである。

 大野の指揮は、殊更に矯めをつくるような演出を避け、滔々と流れるストレートな構築を採っていた。冒頭の低弦からしてメリハリが強烈だし、その後のさまざまなモティーフの交錯なども全て明晰なので、曲が実に面白く感じられる。「英雄の戦い」での壮烈な推進力は目覚ましく、実に流れがいい。
 そして、「英雄の引退」から最後の終結にかけての叙情的な部分でもオーケストラは均衡豊かに歌い続け、極めて美しい。矢部のみならず各パートのソロがすべて見事に決まっていたことも、この曲をいっそう表情豊かに、微細なニュアンスを以て聴かせてくれた一因であろう。

 以上は、2階席正面で聴いた印象だ(このホールは、1階席と2階席でかなり音響が違うので、演奏の特徴まで異なって聞こえることがある)。

 ともあれ、今日の演奏は、私がこの30年ほどの間に聴いた多くの「英雄の生涯」の中でも、屈指のものではないかという気がする。ただ、━━このホールは、この演奏には小さすぎたろう。もっと大きなステージと音響空間を持つホールで聴きたかったな、と思わせる演奏であった。

2022・4・17(日)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 2019年10月に開始されながら、新型コロナ蔓延のため中断されていたインキネンと日本フィルの「ベートーヴェン交響曲ツィクルス」がついに再開。今日は「第6番《田園》」と「第5番《運命》」が取り上げられた。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 「田園」を端整かつしなやかに、「運命」を劇的かつ重厚に、というように対照づけた指揮は予想通り。

 「田園交響曲」での弦のふくよかな美しさは以前の日本フィルからはあまり聴かれなかった類のもので、これはやはりインキネンによってもたらされた美点であろう。今日の演奏はこの弦の爽やかで優麗な音色を基盤として、快速のテンポで進められ、第4楽章と第5楽章をダイナミズムの頂点として構築されていた。
 ただ欲を言えば、第1楽章はあれほど精妙緻密につくられながらも、流れがやや平板に感じられたような・・・・。これはオーケストラが何故かえらく緊張していたように聞こえたこととも関係があるかもしれない。管楽器群にも些か不安定な個所がいくつか。

 「第5交響曲」では、第4楽章での熱烈な演奏が興奮を呼んだ。提示部が反復され始めた個所でのエキサイティングな盛り上がりなど、なかなかのものだったし、展開部でのひたすら押して行く昂揚や、終結部で和音をこれでもかと叩きつけるくだりでの隙のない緊張力も見事なものである。
 全曲最後のハ長調の終結和音を激しく叩きつけるかと思いきや、一捻りして少し柔らかめの響きで入るという手法は、以前にも誰だったか、ブラームスの交響曲で使った指揮者がいたが━━思い出せないが、凝ったやり方だ。

 この演奏のあとでは、「(感染対策上)御遠慮下さい」と言われているブラヴォーが何処からか飛んだ。気持は解る。私も、もうそろそろ、あの壮烈に湧き上がるブラヴォーの声のハーモニーが聞きたくなって来た。

2022・4・16(土)4オケの4大シンフォニー

      フェスティバルホール(大阪) 2時

 所謂「大阪4オケ」のシリーズ。今年で8回目とか。大阪のメジャーな4つのオーケストラが一堂に会し、順に熱演を披露するという奇抜なイヴェント。東京ではまず無理な企画だろう。
 今日出演した尾高忠明氏も、「こんなことをやるのは(世界でも)大阪だけですよ」と言って客席を笑わせていたが、何にせよ、1回の演奏会で4つのオーケストラを聴けるというのだからトクなことは間違いない。今日は完売の盛況。

 最初に藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団がシューマンの「第1交響曲《春》」を、次に外山雄三指揮大阪交響楽団がモーツァルトの「ジュピター交響曲」を演奏する。
 休憩後には尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団がチャイコフスキーの「第5交響曲」を、秋山和慶指揮日本センチュリー交響楽団がドヴォルジャークの「新世界交響曲」を演奏するというプログラムだ。

 曲の間には、4つのオーケストラの演奏会を聴ける招待券を計8組に贈呈する抽選が、司会進行役の三代澤康司と、演奏を終ったばかりの指揮者とで行なわれるというわけで、この趣向も毎回人気を集めている。この抽選の間にステージのセット替えが猛烈な勢いで行なわれるわけである。

 さて演奏の方だが、各オケが各々の面目にかけて競い合うだけあって、すこぶる聴き応えのある演奏になることは例年通りである。
 まず藤岡幸夫と関西フィルが、シューマンの「春」を、よく言えばやや豪快な音色で、言い方を変えれば、さながら不良青年の如き闊達な表情で演奏した。第1楽章など意外にイン・テンポの演奏だったが、もう少しテンポを流動的に設計すれば更に音楽が躍動的になったのではと思われる。だが、第2楽章の主題のフレーズの膨らませ方は魅力的だった。コンサートマスターはギオルギ・バブアゼ。

 入れ替わりに登場した大阪響の演奏では、来月には91歳になる外山雄三の元気な指揮に感銘を受ける。「ジュピター」の両端楽章の提示部を反復するという長丁場を椅子も使わず立ち続けて指揮、そのあとも休みなく抽選の作業を行い、司会者への毒舌とツッコミも相変わらずなのだから、大したものである。
 演奏の方は、悠然たるイン・テンポではあったが、終楽章ではひときわ力感を強めてクライマックスを構築したのは立派だ。大響の瑞々しくしっとりしたアンサンブルも印象的で、これはコンサートマスターの森下幸路のリーダーシップによるところも大きいだろう。

 休憩後に登場した尾高と大フィルは、4オケのうち唯一の⒗型編成(コンサートマスターは須山暢大)で、どうだと言わんばかりの豪壮な演奏を誇示した。さすがの威容で、大フィルは毎年こういう調子だ。使い慣れたフェスティバルホールの空間を楽々と満たした量感たっぷりの「5番」。
 尾高は、桐朋学園時代の恩師・齋藤秀雄からこの曲の指揮で褒められたという話を披露、客席の拍手を誘う。お客の笑いや拍手などの反応の早さは流石に大阪ならではのもので、羨ましい。

 大トリは秋山と日本センチュリー響だ。「チャイコの5番」と「新世界」とを休憩なしに続けて聴くなどという体験は初めてで、これはまさに体力勝負である。
 秋山の指揮は緻密で、実にバランスがよく、第2楽章のしっとりした郷愁感などは練達の秋山ならではの至芸であろう。
 だが、何しろその前に尾高と大フィルがあまりに豪壮なクライマックスをつくってしまったので、ちょっと損な役回りになったのでは、という気がしないでもない。ただしそう思ったのは私が気力体力共に些か消耗していたからかもしれず、他のお客さんは演奏に充分堪能したかもしれない。

 なお、電車少年の秋山はドヴォルジャークの鉄道好きの話を披露し、これも客席を喜ばせた。抽選の際は秋山の指揮でドラムロールとシンバルを入れて盛り上げたが━━どうでもいいけれど━━その使い方のタイミングは、あれは違うんじゃなかろうか。
 終演は5時45分頃。

2022・4・15(金)東京・春・音楽祭「トゥーランドット」

       東京文化会館大ホール  6時30分

 「東京春祭プッチーニ・シリーズvol.3」と銘打たれているが、vol.1にあたる2020年の「3部作」とvol.2にあたる「ラ・ボエーム」とは、コロナ禍の煽りを喰らい、いずれも中止になっているので、少々紛らわしかろう。
 だがともあれ、今年「トゥーランドット」が予定通り上演されたのは有難いことであった。予定されていた外国歌手勢も揃って来日、迎え撃った日本勢とともに壮烈な声のバトルを繰り広げた。

 配役と演奏は、リカルダ・メルベート(中国の姫トゥーランドット)、ステファノ・ラ・コッラ(韃靼の王子カラフ)、セレーネ・ザネッティ(奴隷女リュー)、シム・インスン(韃靼の前王ティムール)、市川和彦(中国皇帝アルトゥム)、萩原潤(中国の役人ピン)、児玉和弘(同パン)、糸賀修平(同ポン)、井出壮志朗(役人)、東京オペラシンガーズ、東京少年少女合唱団、読売日本交響楽団、ピエール・ジョルジョ・モランディ(指揮)という顔ぶれ。
 演奏会形式だが、若干の身振りによる演技は付いた。ただ、歌手たちは歌う時しかステージに現れず、歌い終わるとすぐ引っ込んでしまうので、初めて聴く人たちはストーリーを想像するのに少々不便を感じたかもしれない。

 その歌手たち、全員が冒頭からパワー全開で飛ばすこと、飛ばすこと。主役から脇役に至るまで、ここぞ己が聴かせどころとばかり、声の饗宴を繰り広げる。痛快な演奏だ。
 カラフ王子のラ・コッラは少し強引な歌い方のところもあり、少し走り気味(「だれも寝てはならぬ」の締めの個所あたり)になったりしたところもあるが、そんな瑕疵は微々たるものだ。
 儲け役たるリューを歌ったザネッティは予想通り、芯の強い声の裡に清楚可憐な表現をこめて映える。

 そんなこんなで、第2幕中盤に満を持して登場する題名役のリカルダ・メルベートが少し霞む感じになってしまったのは痛し痒し。これまでワーグナーものなどで聴き慣れて来た彼女の声が、このトゥーランドットに向いているのかどうか、正直のところ私には判断がつきかねるのだが、ただ、感情表現の巧味という点では、確かにそれなりの力はあるだろう。

 モランディの指揮は、全てをダイナミックに鳴らし、速めのテンポで全曲を一気呵成に押し通すスタイルで、劇的な迫力は充分だ。
 第2幕前半の、ピン、パン、ポンの3役人があれこれ望郷の念や愚痴をこもごも語り合う場面は、指揮者によっては同幕後半のスペクタクルな「謎解き」場面への序奏か間奏曲のような扱いにされてしまい、時に退屈になることもあるのだが、モランディはここをもリズミカルに指揮し、3人の歌手たちのやりとりを華やかに浮き上がらせ、彼らに主役同様の存在感を与えることによってドラマを引き締めていた。

 そして、彼の指揮のもと、読響が持ち前の馬力を生かして豪快に鳴り響く。オペラのオーケストラはこのくらい劇的にドラマを語った方がいい。
 それに東京オペラシンガーズの合唱も強力で、オケの咆哮をすら圧するほどの勢いで「群衆」の存在感を出した。この合唱団は先日の「ローエングリン」でも素晴らしい合唱を聴かせたし、見事な本領発揮であった。
 東京少年少女合唱隊のコーラスも可憐だったが、あんなに出たり入ったりを繰り返す舞台進行にされては、チト気の毒だ。

2022・4・12(火)東京・春・音楽祭 アンドレアス・シュタイアー

        東京文化会館小ホール  7時

 アンドレアス・シュタイアーが、モダン・ピアノでシューベルトを弾く。プログラムは、「即興曲ハ短調Op.90-1」と「楽興の時」(6曲)、および「ソナタ第21番変ロ長調D960」。

 「即興曲」の冒頭、付点2分音符の和音がペダルいっぱい引き延ばされ、そのエコーの中に最初の4小節がテヌートで響きはじめたと思うと、続くスタッカート付きの4小節は、今度は突然踊るように軽快な、弾むような行進曲調に変わる━━という実にユニークな開始。ここからすでに、何か新鮮な感覚が演奏全体にあふれはじめているのが感じられる。

 もっとも、そのあとの演奏が全てこういった趣向で進められたわけではない。むしろ目立ったのは、シュタイアーの演奏が、モダン・ピアノを使用しながらも、それを恰もフォルテピアノで弾いているかのような印象を生み出していたことだろう。
 しかもその明快な響きに加えて、彼はこの長大なソナタに、画然とした形式感、構成感といったものを蘇らせる。

 ロマンティックで陶酔的に演奏された場合、このソナタは、特に第1楽章など、かなりだらだらとした曲になってしまう(それゆえ、所謂「眠くなる」)ことが多いが、シュタイアーの演奏では、曲の長さを感じさせない。その上、あくまで切れが良く、明晰な光に照らされているような音楽でありながら、シューベルト特有の巧みな転調がつくり出す光と影の変化といったものは、余すところなく具現されているのである。こういう「変ロ長調ソナタ」はいい。

2022・4・10(日)東京・春・音楽祭 マーラー「3番」

      東京文化会館大ホール  3時

 マーラーの「交響曲第3番」を、アレクサンダー・ソディ指揮、東京都交響楽団と東京オペラシンガーズ(女声)、東京少年少女合唱隊、清水華澄(Ms)の演奏で聴く。

 これは「東京春祭 合唱の芸術シリーズvol.9」と題されたプログラム。
 周知の通り、100分近くに及ぶこの6楽章制の長大な交響曲の中では、合唱はただ第5楽章のみ、4分足らずの時間しか登場しない。なのに何故「合唱の芸術シリーズ」の一環になるのか解せないが━━しかしその2つの合唱団の演奏が、実に軽やかで爽やかで歯切れよい快演だったのには感心した。
 重苦しい第4楽章のあとに突然合唱がリズミカルに入って来た時の、涼風がさっと吹き抜けて行くような爽快感。出番は短いが、存在感という点では、見事に演奏会のテーマに相応しい責任を果たしていた。

 指揮者のアレクサンダー・ソディという人は、私はナマでは初めて聴いたが、この人もなかなか切れのいい演奏をつくる。オックスフォード生れで、未だ39歳なる由。現在マンハイム国立劇場の音楽監督を務めている。その劇場のオーケストラを指揮した「トゥーランガリラ交響曲」のCD(ナクソス)でも割り切った精力的な演奏をしているが、今回のマーラーの「第3交響曲」の演奏でも、すこぶる若々しい、覇気に富んだ指揮を聴かせてくれた。

 それは、冒頭のホルン群の主題の明晰なリズム感、それに続いて全管弦楽が叩きつける和音の勢いのよさなどから、早くも感じ取れただろう。全体に速めのテンポが採られ、部分的には素っ気なさを感じさせるところもあるが、この長大な作品に弛緩を全く生じさせなかったという良さもあった。
 ゆっくりと昂揚して行く終楽章では、陶酔的な感激に浸るというよりは、力づくで盛り上げて行くといった感もないではなかったが、長く延ばされた和音で全曲が閉じられた瞬間の快さは充分である。
 東京都響と清水華澄も、もちろん快演だった。

2022・4・9(土)東京・春・音楽祭 シュタイアー&メルニコフ

      東京文化会館小ホール  6時

 アンドレアス・シュタイアーとアレクサンドル・メルニコフが、モダン・ピアノの連弾でシューベルトの作品集を弾く。

 第1部では「6つの大行進曲」第3番、「4つのレントラー」、「6つのポロネーズ」第1番、「2つの性格的な行進曲」第1番、「フランス風の主題によるディヴェルティスマン」第2番、「ロンドD951」という6曲を演奏したが、━━多分3曲弾いて1回「引っ込む」ステージ進行だろうと思っていたら、何と御両所はこの6曲を続けざまに弾いてしまった。計45分。長い。

 もともと1曲として作られたものを45分間聴くのと、別々の小品集を45分間続けて聴くのとは、受容の感覚が根本的に違う。シューベルト好きの私も、これには些か疲れた。まあしかし、この場合は、作品群の出来、質━━ということも、無関係ではないだろう。

 第2部では「創作主題による8つの変奏曲」と「幻想曲ヘ短調」が続けて演奏されたが、後者の曲と、その演奏の素晴らしさは、疲れを一気に吹き飛ばしてくれた。この第2部ではメルニコフが低音の方に回ったためもあって、和声の響きの重心が下がり、しかもあの魅惑的なハーモニーがいっそうの膨らみを以て響くことになったとも言えようか。この「幻想曲」1曲だけで、今日の演奏会は充分満足、という思い。

2022・4・8(金)パシフィックフィルハーモニア東京

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 東京ニューシティ管弦楽団が「パシフィックフィルハーモニア東京」と改称、指揮者陣も一新してスタートを切った。シティからパシフィックへ拡がったわけで、名古屋にセントラル愛知響あれば、東京にパシフィックフィルハーモニアあり、ということになりますか。
 いや、余談はともかく、このオーケストラのこれまでのイメージを全面的に変えるためには、この改称は必然的な方法だったかもしれない。

 今日は、その新しい船出の定期演奏会。
 パシフィックフィルハーモニア東京(以下PPTと略させていただく)の音楽監督は飯森範親だが、今日は彼の指揮ではなく(ご本人は客席で眼を、いや耳を光らせて居られた)、鈴木秀美の客演指揮である。
 コンサートマスターは執行恒宏。プログラム冊子に掲載されているメンバー表によれば、正規楽員による編成は弦8型のようだが、今日は10型(と見えたが)で演奏が行われていた。

 プログラムは、ハイドンの「交響曲第103番変ホ長調《太鼓連打》」と、ベートーヴェンの「交響曲第3番変ホ長調《英雄》」という「狙いの明白な」組み合わせ。
 開演早々、指揮者がまだ出て来ないうちにティンパニがいきなり猛烈な勢いで曲冒頭のカデンツァを叩き始め、そのドラムロールの中でやおら指揮者が登場して来るという、まさにハイドンの総譜指定の「イントラ―ダ(入場)」の語を具現化したような演出が行われたのはいかにも鈴木秀美の演奏会らしく、ニヤリとさせられる。

 演奏はピリオド楽器スタイルのノン・ヴィブラート奏法によるものだったが、オケはそれにまだあまり慣れていないのか、あるいは緊張のためでもあるのか、ハイドンでの演奏は何かガサガサとして、音色が非常に荒っぽく、音楽全体が平板で、緊迫感も希薄なものに感じられてしまったのは惜しい。
 それにこれはマエストロ鈴木秀美の演奏設計が意図的にそうだったのかもしれないが、第2楽章と第3楽章との音楽の性格分けが━━テンポ感も含め━━あまり明確に感じられなかったこともあって、交響曲全体の演奏が画一的な流れに終始してしまった、という印象を与えられてしまったのだが‥‥。

 しかし、休憩後の「英雄交響曲」に入るや、演奏にこめられた気合たるや並々ならず、気迫のこもった音楽が展開された。ノン・ヴィブラート奏法特有の鋭い音のぶつかり合いにより、この曲の革命的な性格も余すところなく浮き彫りにされる。オーケストラのバランスと音色も楽章を追うごとに密度を高めて行き、鈴木秀美がオケにかける猛烈な揺さぶりにもますます柔軟に応えて行ったように感じられた。これはいい演奏だった。
 特にホルンとティンパニの快演は光る。これでオケ全体の音色がもっと美しくなるよう、しっかりした指揮者がトレーニングすれば、このPPTへの期待もいっそう高まって来るだろう。

 あとは、いかにしてもっと多くのお客さんを動員するかだ。名曲主義のプログラムで人集めを狙うか、個性的なプログラム編成で独自の存在感を打ち出すか。それは音楽監督とオケの運営者との選択如何によるが、さしあたりPPTは後者を目指しているものと見える。いずれにせよ「良い演奏」を続けていれば、東京シティ・フィルがそれを実現しつつあるように、温かい心を持ったお客は次第に集まって来るものだ。

2022・4・7(木)東京・春・音楽祭 アレクサンドル・メルニコフ

       東京文化会館小ホール  7時

 モスクワ生まれのピアニスト、メルニコフが、予定通り来日。今回はモダン・ピアノでシューベルトの作品を演奏するというリサイタルだ。
 プログラムは、「ソナタ第13番イ長調D664」、「3つのピアノ曲D946」、「ソナタ第18番ト長調D894」。

 重低音に基盤を置き、分厚い和声をずしんずしんと響かせ、考え深く、一歩一歩を確認するように進んで行く。メルニコフって、以前はこういう演奏をしていたっけ?と面食らわせられるようなシューベルトだが、とにかくそのデュナミークの幅の大きさと、遅めのテンポを微細に伸縮させての感情の動きの表出は、シューベルトの演奏としてはユニークなスタイルのひとつだろう。

 「第18番」のソナタなどでは、時にびっくりするような最強音を爆発させるのだが、それが少しも攻撃的な音楽になっていないところも面白い。
 この曲の終楽章では、あの特徴あるリズムを繰り返し強靭に叩きつけて音楽を煽って行く。それゆえに全曲の最後にそのリズムを突然柔らかく穏やかな再弱音にし、「これで私の話はお終いです」といった雰囲気で結んだあたりの呼吸が、何とも絶妙に感じられるのだった。

2022・4・6(水)新国立劇場「ばらの騎士」(2日目公演)

      新国立劇場オペラパレス  6時

 ジョナサン・ミラーの演出、イザベラ・バイウォーターの装置・衣装によるR・シュトラウスの「ばらの騎士」。
 ノヴォラツスキー芸術監督時代の2007年にペーター・シュナイダー指揮でプレミエされて以降、2011年にマンフレッド・マイヤーホーファー、2015年にシュテファン・ショルテス、2017年にウルフ・シルマーの指揮で上演されて来た。
 今回が5度目の上演で、指揮はサッシャ・ゲッツェルである。オケは東京フィルハーモニー交響楽団。

 新型コロナ蔓延時期のため、来日できた歌手は元帥夫人役のアンネッテ・ダッシュのみで、その他全員が日本人歌手という今回の布陣。しかし、その日本勢も、特に演奏の面では充分な水準を確保していた。
 主要歌手陣は以下の通り━━小林由佳(オクタヴィアン)、妻屋秀和(オックス男爵)、安井陽子(ゾフィー)、与那城敬(ファーニナル)、森谷真理(マリアンネ)、内山信吾(ヴァルツァッキ)、加納悦子(アンニーナ)、大塚博章(警部)、晴雅彦(公証人)、宮里直樹(テノール歌手)他。

 アンネッテ・ダッシュは、前記のこれまでの上演における4人の元帥夫人━━カミッラ・ニールント、ベーンケ、アンナ・シュヴァーネヴィルムス、リカルダ・メルベートらに勝るとも劣らない歌唱と演技だ。大人っぽく、ややストレスを秘めているような、少し性格のきつい(これはメイクの関係もあったかもしれない)元帥夫人像である。
 第1幕の幕切れの孤独なモノローグの場面の演技は比較的あっさりしたものだったが、全曲のラストシーンにおける、若い恋人を諦めねばならぬ苦悩(三重唱)や、ファーニナルに「若い人たちはこういうものなんですかね」と言われて侘しく「ja,ja!」と受けるくだり、あるいはオクタヴィアンから手に別れのキスを受けた瞬間など、複雑な精神状態に陥る場面での演技の微細さと巧妙さは、流石に卓越したものであった。

 オックス男爵の妻屋秀和は、まさに大奮闘といった感だろう。大きな体格を駆使して横柄に振舞いながらも、野卑になることなく、やや人の好い、愛すべきキャラとしての性格を残した演技は納得が行く。こういうオックスは2011年のフランツ・ハヴラタも演じていたから、ジョナサン・ミラーの演出の特徴なのかもしれない。

 オクタヴィアンの小林由佳も、若く気負った少年貴族を充分に演じていた。安井陽子が演じるゾフィーは2011年の上演以来だが、平民の娘というべき役柄を可愛らしく表現している。
 ただし、このオクタヴィアンとゾフィーは、毎回そうなのだが、どうもメイクが悪い。みんな、何故か老け顔になってしまうのである。

 サッシャ・ゲッツェルの指揮は、テンポも速めで切れが良く、ワルツの表情も好く、闊達で小気味よい音楽をつくる。それ自体は大変結構なのだが、演奏全体に、もう少し詩情といったものがあってもよかったであろう。それにオーケストラの最強奏個所での鳴らし方がワイルドで、序奏などけたたましい限りだったし、特に第3幕の三重唱部分など、陶酔を打ち壊すようなオケの響かせ方だったのには少々辟易した。

 オケの音色が美しくない━━というより、特に管楽器群の音色が汚いのが問題なのだが、これは東京フィル自体にも大きな責任があるだろう。ゲッツェルのこんなに荒々しい指揮を聴いたのは、初めてだ。東京文化会館のピットで東京フィルと「フィガロの結婚」を演奏した時だって、もっと綺麗な音を出していたのである。
 終演は10時20分。

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