2024-03

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2007・5・18(金)ウィーン(2)ブーレーズ指揮、シェロー演出「死の家から」

   アン・デア・ウィーン劇場  8時

 数年ぶりに訪れるアン・デア・ウィーン、改築新装成ってからはこれが最初になる。
 席は最前列の5番。指揮しているピエール・ブーレーズが、すぐ目の前、左側に見える。歳を感じさせぬ、集中力に富んだすばらしい指揮を聴かせ、全曲1時間45分、休憩なしで振った。彼の指揮にかかると、オーケストラの細部まで聴き取れ、この曲が実に新鮮に聞こえる。

 演出はパトリス・シェロー。冷たい牢獄の壁を活用したモノクロームの舞台によるストレートなもの。囚人同士の間に暴力的な啀み合いを作っているのは、台本の読みの上である程度納得できるものだろう。全体としては特に変わった仕掛けはなく、極めて安定した演出である。際立ったプリモのいないこのオペラでは、それゆえ各囚人が個性的に描かれる必要があるだろうが、その点でもさすがシェローというべき、要を得た巧さが光る。

 歌手陣では、ルカ役のシュテファン・マルギータ、スクラトフ役のジョン・マーク・エインズリーが光っていた。シャプキン役のペーター・ヘーレは少し小型だろう。アレイヤはエリック・シュトクローサというテナーが歌った。ペトロヴィッチは、懐かしいオラフ・ベーア、特に長い持ち歌がないので分が悪いが、旦那然とした雰囲気だけはあった。
 オーケストラはマーラー・チェンバー・オケ、コーラスがアーノルト・シェーベルク合唱団。いずれも立派な出来である。

 この演出では、舞台にいろいろなものを落下させる。第2幕冒頭で天井から大量の紙屑が落下、パントマイム場面では大立ち回りがあり、同幕の最後は垂れ幕まで落下する。そのたびに、猛烈な埃が舞い上がる。オケ・ピットもひどいことになったろうが、われわれ前列の客たちも大変な被害だ。膝に乗せていたプログラムの上がザラザラになった状態だから、頭から服から、凄い埃を被ったわけだろう。かぶりつきも善し悪しだ。
 終演後にレストランで山崎睦と会食した際、この埃の話をし、「ほら」とばかりに髪をさらさらと触ったら、細かいチリのようなものがテーブルにバラバラと舞い落ちた。山崎睦が「やめて下さいよ」と飛び上がった。

2007・5・17(木)ウィーン(1)小澤征爾指揮ウィーン・フィルのマーラー「復活」

    ウィーン国立歌劇場  8時

 前日、ウィーンに入る。

 客の半分は日本人ではないかと思われるほどだ。私の席の周辺にも、ズラリと日本人グループがいる。
 今回入手できた席は、前から5列目だ。オペラならいいけれども、オーケストラ演奏会では、こんな位置では音楽のバランスなどさっぱり判らない。しかも、ただでさえドライなアコースティックの歌劇場だ。オーケストラの量感などは全く味わえない。
 とはいえ、演奏にはある種の緊張感があって、クライマックスでの高揚など、充分に聴きごたえがあったという気がする。両端楽章のテンポは速めだし、表情も相変わらず直截。彼のオペラよりは遥かに良かったことは間違いないだろう。

 終演後に、現地のジャーナリスト、山崎睦に案内されて楽屋を訪れたが、客は日本人の「知り合い」ばかり。かつて小澤の終演後の楽屋といえば、世界の有名なアーティストやマネージャーが殺到していて、私など近づけないほどだったのに、これはどうしたことか。これが、ウィーンでの小澤の状況なのだろうか。音楽監督ともあろう人の楽屋がこういう状態なのか。
 山崎の表現によれば、最近はいつもこんな状態だとのこと。そして、彼がこれまで振ったモーツァルトやシュトラウスのオペラがことごとく不評で、特にダ・ポンテ三部作での失敗は致命的だとのこと。さりとて彼が得意とするレパートリーはウィーン国立歌劇場のレパートリーとなる種のものではないので、結局来季のように、チャイコフスキーのオペラを、それもわずか1本だけ指揮する程度のことになってしまうのだと。

 だから言わないことではない。小澤さんはウィーン国立歌劇場などという古い伏魔殿のような場所に来るべきではなかったのだ。
 彼が同歌劇場の音楽監督になると発表された時、私は「音楽の友」の鼎談などで、「アニキ、何ちゅうことをするんだ、という気持だ。彼のレパートリーから言って、彼はウィーンには向いていないのだ。パリとか、フランスの歌劇場なら成功間違いなしなのに」と嘆いたことがある。それでももしかしたら・・・・と仄かな望みを抱いていたのは事実だが、やはり不幸にしてその予感は的中してしまった。
 われわれの愛するスーパースターが、ウィーンでこんな立場に追い込まれているのを見るのは、本当に辛い。いても立っても居られないような気持である。

2007・5・14(月)ルドルフ・ブッフビンダー・リサイタル

    東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ベートーヴェンのソナタによるリサイタル。「17番」「18番」「3番」「21番」というプログラムだ。
 いずれも低音域に重心を置き、和声の厚みと内声部の動きを重視するどっしりとした豪壮な演奏である。細身の演奏の多い当節、このような逞しいベートーヴェンは、作曲者特有の強靭な意志を再現するものだろう。
 ただ、どれもがアレグロ・コン・ブリオ的な演奏であり、プログラム全体を単調に感じさせてしまう傾向もあったようだが━━。

2007・5・13(日)宮崎国際音楽祭

    宮崎県立芸術劇場演劇ホール  4時

 シャルル・デュトワが指揮する宮崎国際音楽祭管弦楽団(小編成)と、人形劇団バンバリーナが上演する「ペドロ親方の人形芝居」を目当てに行ったのだが、残念ながら期待外れ。2階席から見たせいもあるのか、人形芝居が冴えない。歌い手の声もオーケストラに消されがちであった。

 むしろその前に演奏されたストラヴィンスキーの「ダンバートン・オークス協奏曲」と、バッハの「ブランデンブルク協奏曲第1番」で、腕利きの演奏家たちが聴かせたアンサンブルに聴きごたえがあった。とりわけ後者での古部賢一らオーボエ・セクションと松崎裕らホルン・セクションの見事なアンサンブルには舌を巻いた。

 この日は日帰り。演奏会の前に宮崎観光ホテルの温泉につかり、英気を取り戻そうと図るが、逆に気持良すぎて眠くなる。最終便(夜8時発)で帰京。流石に疲れ甚だし。

2007・5・10(木)アレクサンドル・ドミトリエフ指揮日本フィル

    東京オペラシティ コンサートホール  7時

 前半はモーツァルトの「魔笛」序曲と「交響曲第36番《リンツ》」。
 分厚い音ながら非常に引き締まった整然たる構築で、どっしりと重厚な安定感もあり、内声部を含めてよく響く。最近ではほとんど聞けなくなったタイプのモーツァルトだ。
 ただそれは、最初のうちは小気味よい気持に浸らせてくれるが、ドミトリエフの指揮が終始イン・テンポで、かつ同じような表情で進むため、次第に単調さを感じてしまうようになる(ドミトリエフはサンクトペテルブルク響を指揮しても音色が単調で面白くない人だ)。

 こういう指揮者が、エリック・ハイドシェックのようなピアニストとコンチェルトをやったら、どうなるか。
 今日はベートーヴェンの「2番」が演奏されたが、思い切りルバートを多用して伸縮自在の音楽をつくるハイドシェックと、どうあっても自分のイン・テンポを曲げないドミトリエフとの協演は、けだし珍品であった。
 ハイドシェックのルバートに合わせられる指揮者など、滅多にいないだろうから、オーケストラを左手、ピアノを右手と考えれば、理屈では所謂ルバート奏法ということになるわけだが━━所詮音色の違いは争えず、アンバランスの極み。しかし、指揮者もソリストも不思議にすこぶるご機嫌の様子であった。

 最後はチャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」。これはドミトリエフの本領発揮━━のはずであったが、ここでも彼の音楽の表情の単調さが、物語性を薄めてしまう。
 日本フィルは、全体としては悪くない。

2007・5・5(土) ラ・フォル・ジュルネ  小曽根真

   国際フォーラム ホールA  2時30分~3時30分

 12時半からカンテレの演奏とカレワラの朗読があるというので行ってみたが、これはキッズ・プログラムだった。カンテレの音色は素晴らしいが、幼児向けの話にはついて行けず、途中で退出。
 そして小曽根真は、井上道義指揮する東京都交響楽団との協演で、ガーシュウィン・プログラムである。こういう曲になると、彼の演奏もガーシュウィンの音楽にストレートに向き合ったものになるから、モーツァルトを演奏する時などと異なって、むしろ意外性のないものになる。
 それより都響の、特にクラリネットやトランペットやトロンボーンなどが、サントリーホールでなら絶対やらないような自由放埒な、大音響の演奏をするので、その方がよほど面白い。客の入りも上々。
 が、これだけ聴けば、もういい。3日間で19本の演奏会を聴いたと豪語している同業者がいるらしいが、こんな騒々しいごった返す会場で3日間を過ごすのは、よほど強靭な神経の持主でないと無理だ。

2007・5・4(金) ラ・フォル・ジュルネ  ウラル・フィルハーモニー管弦楽団

   国際フォーラム ホールA  9時15分~10時

 庄司沙矢香とボリス・ベレゾフスキーがそれぞれチャイコフスキーのコンチェルトを弾くということで、これも満席。この盛況はとにかく感動的である。
 ただし演奏はどうもいただけぬ。庄司は普段に似合わず荒っぽく、叩きつけるように弾いたが、多分この会場の広さを克服しようと思ったのかもしれない。彼女の演奏なら、普通に弾いていても聞こえるだろうに。ベレゾフスキーの方も、それに輪をかけて強引で雑なソロを聴かせた。TVが入っていたが、こんな演奏を放送しようというのか?

2007・5・4(金) ラ・フォル・ジュルネ  ミシェル・コルボ

   国際フォーラム ホールA 7時~7時45分

 あまりにも巨大なホールではあったが、コルボ指揮するオーケストラとコーラス、ピーター・ハーヴェイ(Br)とアナ・キンタンシュ(S)の声は、非常に遠いとはいえ、よく会場を通った。合唱の弱音はさすがに聴き取りにくいとことがある。
 ほぼ満席(6000人近い)の聴衆も、全神経を集中して聴き入る感。「ピエ・イエス」では会場は水を打ったように静まりかえっていた。演奏も温かく、すばらしい。

2007・5・4(金) ラ・フォル・ジュルネ  ミシェル・コルボ

   国際フォーラム ホールC 0時45分~午後1時35分

 ミシェル・コルボが指揮するローザンヌ声楽アンサンブルとシンフォニア・ヴァルソヴィア(弦は4人、管とハープ)によるフォーレの合唱曲(小ミサ曲、ラ・シーヌのための雅び歌他)。
 こういうレパートリーで、こんな大きなホールを埋められるのだろうかと気になっていたのだが、幸い杞憂に終った。普通のクラシックのコンサートでは、とてもこれほどの客は入るまい。クラシックでも低廉な入場料で、気軽に入れ、しかもいい内容であれば、これだけの客を吸収することができるのだということ。われわれはこれを真剣に考えるべきだろう。ただしこれだけ大きな、しかも残響の少ないホールだ。裸の音になるのは致し方ない。

2007・5・3(木)METライブビューイング プッチーニ3部作

    銀座ブロッサム  5時30分

 昼夜上映のうち夜の部を見る。実によく客が入っている。ほとんどが中高年齢層だが、これだけオペラ愛好者がいるというのは祝着である。ジャック・オブライエンの演出が全く平凡なので、「外套」と「修道女アンジェリカ」のみ見ただけで失礼した。レヴァインの指揮もさっぱり面白くない。彼は何かこの数年、スランプなのではなかろうかと思う。
 歌手は「外套」のファン・ポンス、マリア・グレギーナ、サルヴァトーレ・リチートラ、「アンジェリカ」ではバルバラ・フリットリがいい歌唱を聴かせていた。

2007・4・29(日)藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団

      ザ・シンフォニーホール  3時

 朝一番のANAで羽田に着き、品川から新幹線で大阪に向かい、3時からの関西フィルを聴く。札幌から大阪までの直行便は、なぜこんなに少ないのか?

 これは藤岡幸夫の「関西フィル首席指揮者就任記念定期」である。これにもプログラムにエッセイを書いた関係で急遽聴きに行った次第。1階後ろから2列目の席を貰って聴いたが、オーケストラのバランスの良さの点では大阪フィルを凌ぐほどと言ってもいい。楽員の張り切りようは目覚ましく、演奏の充実という点でも、大阪フィルに決して劣らぬ出来を示していたといって間違いない。

 マーラーの「第1交響曲《巨人》」は、特に誇張もあざとさもない演奏だったが、しかし最後のクライマックスではホルンだけでなく金管全員を(!)次々と起立させるという派手な舞台上の演出を行なっていた。

 ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」は黒川侑のソロ。音は美しく技術もしっかりしていて、大変良いものを持っているという印象だが、何か優等生っぽい面もあり、今後は「音楽」を学んで行って欲しいもの。第1楽章冒頭などテンポを極度に遅く取っていたが、だれに指導された解釈か。

 藤岡は、大阪ではやはり目覚ましい人気の持主のようである。マスクも受けているらしい。今日はほぼ満席。オーケストラの西濱秀樹事務局長とのプレ・トークなど、ちょっと漫才的なところもある雰囲気で、面白い。

 終演後、ホールから新大阪までタクシーに乗ったが、その運転手氏が「いつもここから客を乗せるので、その人たちの話を何となく聞いているうちに、指揮者のことが解るようになって来ましたよ」と言う。広上淳一が以前ここで指揮したこと、テレビで大野和士のドキュメントをやっていたこと、大植英次がバイロイト音楽祭に出たが1年しか指揮できなかったこと、などなど、実によく知っている。ちょっとした「門前の小僧」か。驚嘆。

2007・4・28(土)広上淳一指揮札幌交響楽団

      札幌コンサートホールkitara  3時

 プログラムにエッセイを書いたこともあって、聴きに行く。
 広上と札響の顔合わせは初めて聴いたが、どうやら最高の相性らしい。カーテンコールでの楽員の反応は極めて良く、何より演奏がそれを証明していた。もしかしたら将来の常任指揮者最有力候補か?

 ヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」序曲では、金管を開放的に咆哮させ、札響からはあまり聞いたことの無いような激しさを引き出していた。それは迫力十分ではあったけれど、少々雑であり、札響がこのような音楽にあまり慣れていないのではないかという気にもさせた。
 2曲目には、小菅優が弾くベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」。彼女のピアノの瑞々しさは魅力である。

 聴かせどころはやはり後半の「幻想交響曲」。
 第1楽章後半における内声部の明晰な交錯が素晴らしく、特にチェロとコントラバスの音色に艶があり、この曲はこんなにも色彩的な管弦楽法を備え、こんなにも多彩な音色を持っているのだという新しい発見をもたらしてくれた。これまでいろいろな指揮者とオケで聴いていた「幻想」が、いかにベルリオーズの対位法の面白さを蔑ろにしたモノフォニックな演奏であったろうか、とさえ思えるほどである。

 第2楽章では、トランペットにコルネットのパートを吹かせていたのは面白い。第3楽章でのオーボエは、上手客席上段に配置されていたが、ホールがよく響きすぎるために遠距離感が全く出ず、これは必ずしも成功とは思えなかった。
 最終楽章の大詰では、テンポはむしろ抑制され、熱狂的な頂点とは言い難い。「葬礼の鐘」もオルガン前に配置され、これは音量が巨大すぎてむしろ耳障り。金管はよく鳴ったが、いかに最強奏となった場合でも、音色はもう少し美しくあるべきだろう。
 所々で交じる理解しがたい雑音もそうだが、札響が一流のオケたるにはあと一歩と思わせる所以である。ほぼ満席。

 終演後、上野葉子氏(前札響事務局、現・井関楽器札幌支店長)のコーディネイトで、三浦洋氏〔音楽評論家〕、古家昌伸氏(北海道新聞記者)、閔鎭京(みん じんきん)氏(北海道教育大学芸術課程講師)とグランドホテルで会食した後、伏見にある宮越屋珈琲店を訪れる。
 そこの御主人、蔵隆司氏が、1974年にFM東京が放送したライヴ番組「TDKオリジナル・コンサート」の、小澤征爾指揮札幌交響楽団による「幻想交響曲」のエアチェック・テープ(4トラ19)を保存しておられたのである。これは、私が制作した番組だった。思いもかけぬ33年前の世界へのタイム・スリップに感動も一入。

 そして、その録音で聴く33年前の小澤と札響の「幻想交響曲」の演奏の素晴らしさに、一同、感動して聴き入った。「昔の札響、悪くないじゃないか」と、みんな口々に言う。
 この店のオーディオ装置には、マッキントッシュのアンプ、スチューダーのCDプレーヤー、CS-PCMのミュージックバードのチューナーなども揃っている。「ミュージックバード」の放送は全国カバーなので、私が喋っている「新譜紹介」などの番組もよく聴いて下さっている由。蔵氏は以前、神奈川芸術文化財団におられたという。
 新千歳の三井アーバン・ホテルに宿泊。

2007・4・26(木)佐渡裕指揮東京フィルハーモニー交響楽団

      東京オペラシティコンサートホール  7時

 2階正面2列目の席で聴いたが、ドヴォルジャークの序曲「謝肉祭」の演奏の、あまりの乱暴さと音の汚さに耳が痛くなる。この指揮者個人に対しては、人間的にも好感を持っているし、大きな音を要求することに共感もするのだが、音の美感というものにもう少し気を使ってもらいたいと思うことがしばしばある。

 お陰で、リディア・バイチが弾くメンデルスゾーンの協奏曲の時にはほとんど失神状態(?)。後半の、レスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」は表情の大きな弦楽合奏で、今日のプロの中ではこれが最も良かった。

 最後はレスピーギの「ローマの松」で、「カタコンブの松」と「ジャニコロの松」が壮麗で出色の出来。「アッピア街道の松」は、まあこのくらい勢いのいい音で鳴らないと面白くないのは事実だが、それにしてもやはりもっと綺麗な音でやって貰わないと。

2007・4・23(月)ドリーブ:オペラ「ラクメ」

      東京文化会館大ホール  6時30分

 オーストリアとイタリアの隣国にあたる小国スロヴェニアから来日したスロヴェニア国立マリボール歌劇場の「ラクメ」。
 主催は大阪フェスティバルを含む朝日新聞グループだが、招聘したのはどうやら永竹由幸らしい。実に珍しいレパートリーで、日本での上演は80年ぶりだとかいう記事をどこかで読んだ。

 とはいうものの、これは実につまらないオペラである。だらだらと同じような曲想の羅列で、ドラマティックな変化というものが全くといっていいほど無い。「シルヴィア」や「コッペリア」などであれほど魅力的な躍動を聴かせたドリーブなのに、不思議なことだ。フランチェスコ・ローザなる指揮者のせいもあるかもしれぬ。

 それに、鳴り物入りで来日したソプラノ、デジレ・ランカトーレも、何とも平凡な出来だ。低音域と高音域とで発声の仕方が全く異なり、別人のような声に聞こえるのも不思議である。
 客席は満員、関係者やサクラも多いらしく、演奏の水準にあまりふさわしくない拍手やブラヴォーが乱れ飛んでいた。

2007・4・20(金)大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

      ザ・シンフォニーニーホール  7時

 初めてV-1という1階最後列のL側を貰って聴いた。どんな格好をしていてもいい席だから、実に気軽で楽である。遅れて入ってきた人が横に立つのだけが迷惑だが。
 屋根の下にあたるため、音がやや遠く聞こえるし、直接音が来ないせいで柔らかくも聞こえる。ショスタコーヴィチの「交響曲5番」がどちらかといえばおとなしい演奏のように感じられたのは、この席の関係でもあろう。
 ただ、あるマネージャーが「彼も大振りしなくなった」と感心していたから、演奏のスタイルが多少変化してきたとも考えられる。

 1曲目はラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」。大植がオレグ・マイセンベルクのソロに神経質なほど合わせ、オーケストラを殆ど鳴らさなかったのには意外な感がしたが、実はマイセンベルクがこの曲を覚えておらず(!?)リハーサルの時にも2、3回止まるなどしたため、指揮者もオケも薄氷を踏む思いだったんだそうな。信じられない話だ。
 オーケストラはよかったが、トランペットに弱点がある。

2007・4・18(水)新国立劇場 プッチーニ「西部の娘」

       新国立劇場  6時30分

 アンドレアス・ホモキによる新演出。特に傑出しているというほどではないが、「新国もの」としては悪くない部類に入るだろう。
 ウルフ・シルマーが東フィルをよく鳴らし、オーケストラがドラマをリードするスタイルを採ったが、ドレスデンでの公演などを聴いてきた耳にとっては、このくらいオーケストラが雄弁でないとドラマが引き締まらないように思える。

 ジャック・ランス役のルチオ・ガッロ(いかにも仇役の保安官らしい存在感だった)を除く主役歌手が小粒だったため、このオーケストラの鳴りっぷりはありがたい。
 ミニー役のステファニー・フリーデは一所懸命やってはいるけれど、賭博の場面やジョンソンを救出に入ってくる場面などでいかにも迫力に乏しい(昔のステッラのあの迫力が忘れられない、と、隣席の三善清達氏と囁き合った)。ジョンソンのアティッラ・キッシュは歌唱が雑である。アシュビーの長谷川顕は存在感あり。

 ホモキの演出は、舞台を米国西部から現代の移民社会へ読み替えた。コンセプトとしてはいいと思うが、舞台の作り(フランク・フィリップ・シュレスマン)はそれを明確に反映しているとも感じられぬ。ダンボール箱の積み重ねがいいか悪いか、場面がスーパーの倉庫みたいに見えることの善し悪しなどは別として━━だが。

 「移民」たちのメイクや衣装は、よくあれだけいろいろなタイプ(刺青男からモンゴル人まで)を並べたと感心する。山場のギャンブル場面は、実に平凡で迫力を欠く。

2007・4・17(火)スクロヴァチェフスキ指揮読売日響

      東京芸術劇場コンサートホール  7時

 お馴染みのスタニスラフ・スクロヴァチェフスキが読売日響第8代常任指揮者に就任して初の定期。ベートーヴェンの「大フーガ」(弦楽合奏版)と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」が演奏された。

 後者はノーヴァク版と表示されていたが、第4楽章の前半では強打のシンバルを、コーダでは弱音のタムタムを使用するというスクロヴァチェフスキ独自の解釈が加えられたものである。すべて暗譜で指揮し、かつエネルギッシュな音楽を創る。
 読売日響の弦特有の厚みと力感が両曲ともに発揮され、特にブルックナーでは明確で力強いトレモロが壮大感を生み出していた。山岸博のホルン・ソロもいい。

 だが総じてオーケストラの音はガサガサしている。もともとスクロヴァチェフスキは綿密なアンサンブルを要求する人ではなく(ザールブリュッケン放響との演奏でも同様であった)音楽の情感に重点を置く指揮者で、それはそれで実に味があることは事実だが、わずか2週間のうちに前任者ゲルト・アルブレヒトによって築き上げられた精緻さが消え去ってしまっていることには、些かの危惧を抱かずにはいられない。
 だれかほかに、高齢の彼を補う人がいないと読売日響としては危険なことになるだろう。アンサンブルに関する限り、90年代前半までのこのオケに逆戻りしそうな兆候が感じられるのである。

2007・4・16(月)ダニエル・ハーディング指揮ロンドン交響楽団

      東京オペラシティコンサートホール  7時

 今回はアジア・ツアーの一環のようで、日本では東京2日間のみの公演になっている。

 前半は、ラン・ランをソリストにしたモーツァルトの「ピアノ協奏曲第17番」だった。
 彼は先日のザルツブルクでのプロコフィエフと同様、弱音を重要視し、囁くように、軽く来たっては軽く去っていくがごときフレーズの作りで、美しい夢のように作品を語ろうとする。近年の彼はスタイルをさまざまに変えて演奏することが多いが、東洋人たる彼が西洋のクラシック音楽において、一つの様式や型にとらわれずに何か新しいものを模索していこうとする姿勢の表れなら、極めて興味深いことだろう。
 ハーディングも、モーツァルトの交響曲を指揮する時とは全く異なり、ストレートな表情で柔らかくソロを支えた。

 後半はマーラーの「交響曲5番」。
 このホールでのマーラーの交響曲は、音響空間的な容量からいっても少し無理なところがあり、時に音が硬質に聞こえたのはそのためもあろう。
 だが、以前ここで東京フィルを振った時に比べると、ハーディングは明らかにこのホールでのマーラーの響かせ方を解決したように思われる。オーケストラのさまざまな声部がくっきりと明晰に浮かび上がって交錯していく演奏は、アルミンクなどと共通するタイプである。

 オーケストラは強力に統率され、激しく怒号したり忘我的な熱狂を示したりするはずの箇所においても、知的に制御されている。それはまるで、アポロに変身したマーラーといった感もある表現が、この作品の別の側面を新しく発見させてくれる演奏であったことは疑いない。

2007・4・14(土)別府アルゲリッチ音楽祭

    iichikoグランシアター  6時

 第9回別府アルゲリッチ音楽祭の「オーケストラ・コンサート」。

 今年は11~21日の開催だが(必ずしも毎日ではない)、アルゲリッチが出るのはこの日と最終日の「室内楽マラソン・コンサート」のみで、その他は公開マスタークラスが3日間、彼女推薦のネルソン・ゲルナーのリサイタルと大分県出身若手演奏家コンサートが各1日。
 他に関連コンサートが数回あるものの、メイン行事の点では、比較的小規模になったのではないかと思われる。組織が変わって「県の役人」が入って来たり、補助金も少し苦しい状況になったりで、予算縮小に追い込まれた、などという話も聞く。

 この日の出演は、ユーリ・バシュメットが指揮する桐朋学園オーケストラ。少なくとも3年前に聴いた東京芸大の、無気力で覇気の感じられない学生オケよりはずっと良い。アンサンブルも慣れているようだし、活気もある。
 バシュメットが指揮した「ホルベアの時代より」はきれいで丁寧な音楽づくりではあったが、バシュメットらしい最弱音の多用は、ここの大きなホールではあまり生きたとも思えない(もっとも彼はサンクトペテルブルクのフィルハーモニーホールのようなところでさえ、平気で最弱音を多用する人だ)。

 バルトークの「第3ピアノ協奏曲」に至って、アルゲリッチがピアノの前に座っただけで、オーケトラの音色には見違えるような生気ときらきらした光が輝き始めた。彼女の演奏も、光を放射するかのような鮮やかな生気にあふれたものだ。昔のように強烈な力と激した情感を迸らせることはなくなったが、しかしこのバルトークには、明晰さと温かさが二つながら備わっている。

 休憩後は、バシュメットが編曲したヴィオラ・ソロと弦楽合奏によるブラームスの(クラリネット)五重奏曲。モスクワ・ソロイスツよりも今回の方が編成も大きいため、第1楽章などは「浄夜」を先取りしているかのように聞こえた。編曲も演奏も悪くないと思う。
 アンコールに武満の「ワルツ」。

2007・4・9(月)ザルツブルク・イースターフェスティヴァル 「ラインの黄金」

     ザルツブルク祝祭大劇場  6時30分

 イースター注目のヴァーグナーの「ニーベルングの指環」がついに発進。
 
 演出と装置とビデオ制作(流行る!)は、シュテファーヌ・ブラウンシュヴァイク。
 舞台は至極シンプルで、小さな窓が一つある牢獄のような空間。奥にセリが多数生じて変化を持たせるが、その他は照明および3面の壁に映写されるビデオで動きを出すのみ。この種の舞台は、近年とみに増えてきたような気がする。今回のビデオは、ライン河の場では水、ヴァルハルの場では雲、ローゲ登場の場では焔が映写される。そして、アルベリヒが化ける場面では大蛇のウロコ、最終場面では雲と山の峰が映される、といったエフェクト的なもので、まあ書き割りより少しはイメージが良いというところだろう。

 ライン河の場面では、奥のセリの段差の間で演技が行なわれる。曲の開始前から椅子に一人の男が寝ているが、これはアルベリヒかと思いきや、ヴォータン(ウィラード・ホワイト)であった。彼は一貫してクール・ビズみたいな背広姿である。ローゲ(ロバート・ギャンビル)は、金ピカのいでたちのホモ男。巨人2人(ファーゾルト=イアイン・パターソンとファーフナー=アルフレッド・ライター)は、きちんとした服装のビジネスマンで、これは債権取り立ての銀行員というところか。
 アルベリヒ(デイル・デューシング)は、最初ホームレスのような格好をしているが、財産を得ると羽振りのいい軍人になる。エルダ(アンナ・ラーソン)はセリの端から歩いて登場し、ヴォータンを愛しげに説く。ニーベルングのこびとたちは、ここでは工員であり、宝物はすべて札束だ。
 大詰では、ヴォータンとフリッカ(リリー・パーシキヴィ)が手を取り合って背景の壁に向かって進むという、ケレンも何もない、あっさりした舞台になっている。こういう傾向の舞台は、費用節減路線か。

 面白くない舞台だね、とぼやいていたら、情報通の知人いわく、共同制作のエクサン・プロヴァンス音楽祭(昨年夏)での上演の際に旧い小さな劇場を使わなければならなかったので(新劇場の竣工が遅れたとか)、舞台上の制約が生じ、それでこういう舞台装置にならざるを得なかったのだ、と。次年の「ヴァルキューレ」に期待するか。

 ラトルの指揮には、実に興味津々たるものがある。冒頭ではコントラバスの持続音にさえ軽いリズムとアクセントが付されており、ラインの乙女たちの歌のオーケストラのモティーフには、弾むような躍動感が与えられていた。最近の彼の録音「ドイツ・レクィエム」でも聴かれた、あの独特のリズム感と共通するだろう。
 しかも、演奏にあふれる叙情性が見事だ。ふっくらと拡がる豊かな柔らかい木管の和声など、惚れぼれするほどの美しさにあふれている(きっと「ヴァルキューレ」第1幕など聴きものになるのではないかと思う)。多くのモティーフはあまり浮き出さずに、きれいに流れる。もともとこの作品では、モティーフが裸で登場するため、ゴツゴツと、かつバラバラな音楽のイメージになりかねないのだが、今回は希有なほどに流れが良い。

 だがその一方、ニーベルハイムへの下降と帰還の音楽や、終結のヴァルハル入城の音楽などでは、まさに総力を揚げた大強奏となる。その凄まじい咆哮は、さすが巨艦ベルリン・フィルだ。テンポは非常に遅く感じられたが、手元の時計では大体2時間35分位ではなかったかと思う。
 総じて、舞台は平凡ながら、演奏は新鮮そのもの、というところ。

 今年のザルツブルク・イースター・フェスティヴァル体験はこれで終了。めずらしく滞在期間中は好天に恵まれた。

2007・4・8(日)ザルツブルク・イースターフェスティヴァル
ベルナルト・ハイティンク指揮ベルリン・フィル

     ザルツブルク祝祭大劇場  6時30分

 ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」が演奏された。
 冒頭の和音から早くも温かい、心の奥底にまで染み通ってくる音楽が始まる。ラトルやチョンの指揮の時にはどこか一つ充たされなかった心の空白を、流れ出るような暖かさが充たしてくれた。今回のイースターにハイティンクが出演していて良かった、と心底から感じてしまうような演奏会であった。

2007・4・8(日)ザルツブルク・イースターフェスティヴァル
チョン・ミョンフン指揮グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラ

     ザルツブルク祝祭大劇場   午前11時

 ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」でのオーケストラの音色もなかなかに渋く厚みがあり、聴きごたえがあったが、何といってもルノー・カピュソンとゴーティエ・カピュソンの若々しく張りのある、胸のすくようなソリが圧巻であった。若く優秀なソリストとオーケストラの性格が完全に一致し、しかもチョンの指揮が情熱的であるということになれば、ブラームスの音楽は見事な説得力にあふれたものとなる。
 後半はバルトークの「管弦楽のための協奏曲」。若い腕利きの集団らしく、唖然とさせられるほどのヴィルトゥオージぶりだ。ただ、20型(と思われる)の大編成のため、音はかなり厚ぼったく、明晰さは間引きされてしまう。

2007・4・7(土)ザルツブルク・イースターフェスティヴァル
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル 

     ザルツブルク祝祭大劇場  6時30分

 1曲目、ショスタコーヴィチの組曲「黄金時代」のユーモアを覗かせる曲想に、客席から軽い笑いも漏れる。演奏もそれにふさわしく明るかったが、そこがベルリン・フィル、何か一つまじめくさった表情が残っていて、冗談と皮肉を自分では一所懸命愉快そうに話してみせるのだけれども・・・・という感じだ。ロシア人の音楽家が演奏するときのような、一種の粗野なユーモアのようなものは微塵もない。そこがまた微笑ましいのだが。

 イェフィム・ブロンフマンがラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」を弾く。これも出だしは意外に几帳面な表情で、しかも彼の音がオーケストラの豊麗な主題の響き(特にヴィオラが見事だった!)に埋没してしまう状態だったから、どうなることかと思わせたのだが、そのうちに己れのペースを取り戻したようだ。ラトルの「もって行き方」も実に巧い。フィナーレ最後の「決め」でのハッタリをかませた鮮やかさたるや、ベルリン・フィルの巧さも加わって、かのゲルギエフとマリインスキー管の演奏をも凌ぐほどであった。とは言っても、こういう時だけ瞬時にして総立ちの熱狂を示すというのは、ザルツブルク・イースターに来る欧米人客のレベルも落ちたものである。

 最後のブラームスの「第4交響曲」では、ラトルとベルリン・フィルの目覚ましい進化が示されたと思われる。ラトルの神経の行き届いた音楽の構築、ベルリン・フィルの超絶的な巧さとの結合が生み出す、艶やかな弦の音色と緻密に交錯する声部の美しさには舌を巻くほどであった。ドイツのオーケストラらしくないブラームスであり、また陰影のほとんどないブラームスではあるが、ラトルが最近よく口にしている「リニューアル」なるものは、ここでも達成されていると思ってよかろう。
 このオーケストラは、見事に巨艦として蘇った・・・・と私は思ったのだが、客の拍手は通り一辺のものである。2階席で聴いていた知人たちには、全く正反対の、硬くケバ立った耳障りな音に聞こえたという。この劇場の、席による音の違いは今に始まったものではないけれども・・・・。

2007・4・7(土)ザルツブルク・イースターフェスティヴァル
ラトルとベルリン・フィルの公開GP

    サルツブルク祝祭大劇場  午前11時30分

 今夜のプログラムから練習して聴かせたが、常にサービス満点のラトルのこと、それだけでは面白くなかろうと考えたのか、愛妻マグダレナ・コジェナーをわざわざ登場させ、マーラーの歌曲を2曲歌わせた。これがまさに絶品で、オーケストラの最弱音は実に豊かで美しく、ラトルの感性豊かな叙情性を垣間見せた。

2007・4・6(金)ザルツブルク・イースターフェスティヴァル
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル

       ザルツブルク祝祭大劇場  6時30分

 昨年に続きザルツブルク・イースター・フェスティヴァルの第2ツィクルスに。天気予報が外れ、快晴となっているのはありがたい。
 プログラムは、ドヴォルジャークの「金の紡ぎ車」、プロコフィエフの「第3ピアノ協奏曲」にヤナーチェクの「シンフォニエッタ」。

 このような作品を演奏する際に、ベルリン・フィルが再び柔らかい響きを出せるようになっているのがうれしい。一頃のような「力み」がなくなっているのかもしれない。弦は驚くほどふくよかで、力強い音を出す際にも全く威圧的にならない。この演奏で唯一物足りない点があるとすれば、演奏の音色に陰影というものが備わっていないことであろう。それはまるで、再開発が進む現代都市ベルリンのインターナショナルな雰囲気を反映しているかのようである。

 最も拍手を浴びたのはラン・ラン。やや線の細いピアニズムであり、時にオーケストラに埋没する向きも少なくなかったが、これは聴く席の位置により異なった印象を得るのではないかと思う。彼の人気はすばらしい。最後の和音が終ると同時に、ブラヴォーと拍手が爆発、1階はスタンディング・オヴェーションと化した。

2007・3・31(土)ゲルト・アルブレヒト指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 いよいよこれが、アルブレヒトの常任指揮者としての読売日響との最後の演奏会。
 プログラムは一昨日と同じで、演奏の特徴も全く変わらない。
 一つの時代が終りを告げた感。この足掛け10年、東京在住のわれわれにとり、アルブレヒトと読売日響の存在がいかに大きかったかを今改めて想う。
 終演後に簡単なパーティが行なわれたので、その席上、アルブレヒトに感謝の言葉を述べておいた。

2007・3・29(木)ゲルト・アルブレヒト指揮読売日本交響楽団

    サントリーホール  7時

 ゲルト・アルブレヒトの常任指揮者としての最後の定期演奏会。マーラーの「交響曲第9番」。

 第1楽章冒頭がいささかも散漫にならず、引き締まって緊張感に溢れたまま進んで行ったのは見事だったし、また第4楽章での、あふれんばかりの厚みと壮麗で艶のある弦の響きと、驚異的なほどに豊かな表情も、息を呑むほどに素晴らしい。

 読売日響がつくり出しているこの音楽は、まさしくアルブレヒトが常任指揮者になってから植え付けられたものにほかならない。それ以前のこのオーケストラには、とてもこのような緻密で豊かな音は出せなかった。アルブレヒトの功績は限りなく大きい。この9年間は読売日響にとって最も輝かしい時代であった。彼の名は、日本のオーケストラ界の歴史において不滅のものとなるだろう。

2007・3・25(日)新国立劇場 プッチーニ「蝶々夫人」

     新国立劇場  2時

 栗山民也演出の再演。基本は同じだが、ある部分、改良されて解り易くなっているような気もする。

 アメリカ人と日本人の演技は詳細に対比されて描かれており、特に日本人合唱団はさすがにサマになっている。日本の人形のようなポーズをとって立つ女性もおり、すでに行なわれない風習でありながらも日本人的なものとしてわれわれに意識されているさまざまな立ち振舞いが見られて楽しい。

 奥の米国国旗は、ピンカートンが舞台にいるかぎりずっと翻っていると思っていたが、第1幕後半の愛の二重唱の際には消えていた。これは理に叶っているだろう。
 それにしても蝶々さんは、最後に彼方の米国国旗に正面から相対して自決するのだから、相当なこれはアメリカへの抗議というべきであろう。今回はシャープレスに人間味を持たせて重要な動きをさせていることが印象に強く残った。

 今回は、本格的な日本デビューとなった岡崎他加子に注目が集まった。いい声をしている。やや太めの声で、ドラマティックな役柄もこなせそうだ。ただしヴィブラートが大きく、それも少し旧式なタイプなのが気になる。
 ピンカートンはジュゼッペ・ジャコミーニ、シラノみたいな鼻をした情熱的なテノールだ。シャープレスはクリストファー・ロバートソン、前述のように細かい演技を見せていたが、一般の観客には解らないだろう。

 さて、指揮は次期芸術監督の若杉弘。えらく重い。しかも、音楽に色がないのだ。シノーポリやカラヤンの指揮でこのオペラを聴くと、オーケストラ・パートが実に色彩的で雄弁なものであることが感じられるけれど、今回は何故かいっこうに面白くない。彼が以前オーチャードホールで指揮した時は、もっと劇的なものが音楽にあったのだが、どうしたことか。日本のメロディが全く日本的に聞こえないという不思議さ。

2007・3・24(土)アルミンク指揮新日本フィル「ローエングリン」

     すみだトリフォニーホール  3時

 今月はワーグナーの前期のオペラ3つが、それも作曲年代順に上演━━という、日本オペラ上演史上稀なるケースと相成った。

 今日のはセミ・ステージ形式上演で、アルミンクと新日本フィルが「サロメ」「レオノーレ」「火刑台上のジャンヌ・ダルク」に次いで放つ力作である。すでに熱烈なファンも多くなっており、アルミンクも盛んに拍手を浴びていた。

 それでも一応の演出は有り、飯塚励生が担当している。中央に大規模な二手に分かれた階段を造り、主役たちはそれなりの衣装を着け、白鳥は客席通路から登場するダンサーたちにより描かれる。ローエングリンも客席からだ。

 ローエングリン役のスティー・アナーセン、オルトート役のアレクサンドラ・ペーターザマーの2人は体調が悪いと断りのアナウンスがあった。アナーセンは何とか薄氷を踏む思いで逃げ切ったが、後者は大詰で持ち堪えられなかった。
 結局、エルザのメラニー・ディーナー(随分背が高い)とテルラムントのセルゲイ・レイフェルクスが全体を引き締めたようなものだが、演技の面ではレイフェルクスだけが几帳面に舞台をこなしていた感がある。

 国王のトマシュ・コニチュニーは馬鹿でかい声で、喚くと品のないこと夥しく、先日のシルヴェストレッリをふと連想してしまったほどだ。
 伝令官の石野繁生はハノーヴァー・オペラのアンサンブル歌手として活躍している人だというが、きわめて力のある引き締まった歌唱を聴かせた。儲け役ではあるけれど。

 アルミンクの指揮は例のごとく淡白で薄味のワーグナーだが、それはそれでよかろう。第3幕前半は妙に緊張力に不足したような感があったが、疲れたわけでもあるまいに。オーケストラのバランスもいい。
 ただ、第2幕前半における弦のトレモロの音量が、あまりに楽譜の指示に拘りすぎ、弱音を強調したために、夜や不安や魔性や陰謀といった暗黒面が浮き彫りにされずに終った。これが浮き彫りにされないと、そのあとの昼や婚礼の喜びとの対比が明確にならないのである。このオペラの音楽から、昼と夜の対比、グラールと魔性との対比を取り去ったら、その重要な意味の大半が失われてしまう。

2007・3・21(水)東京のオペラの森 ワーグナー;「タンホイザー」

     東京文化会館大ホール  3時

 小澤征爾の指揮、ロバート・カーセンの演出、ポール・スタインバーグの装置デザインとカーセン及びペーター・ヴァン・プラットの照明デザイン。
 すべてパリ版(序曲~バッカナールはウィーン版とでもいうべきもの)による演奏で、第2幕後半も基本的にノーカットで行なったのは立派(ただしコーラスのパートに一部慣習的なカットがあった)。

 小澤とオーケストラは、第1幕ではか細くて、余韻も余情もない軽量の演奏で、ドレスデンの壮大な音に浸った直後とあっては退屈この上もないものであったが、不思議なことに第2幕では音楽に柔らかさと量感を増し、劇的な緊迫感も充分に高まり、比較的テンポの遅い第3幕でもその緊迫感は失われなかった。
 全曲最後のテンポやオーケストラのバランス感、またパリ版特有の音の華麗さにおいても、これまで聴いた同種の演奏の中でもトップクラスといっていい程の音楽になっていた。
 小澤は明らかに成長している。彼が今まで聴かせたロマン派オペラのうちでも、最高の部類に属するといってもいいだろう。うれしい驚きである。

 合唱もなかなかの力量で、特に第2幕以降では迫力も充分であった。演技の点ではやはりバタ臭さは抜けないが。

 歌手では、タンホイザーのステファン(シュテファン、でなければスティーヴン)・グールドが、適度の野性味も交えて素晴らしい。容姿体躯のまともなワグネリアン・テノールとして貴重な存在になるだろう。彼はアメリカ人である。本拠のメットに間だ出たことがないというのは意外だ(2010年に予定されているという)。
 ヴォルフラムのルーカス・ミチェムはあまり個性がないが、手堅い。エリーザベトのムラーダ・フドレイは新しい発見。ヴェーヌスのミシェル・デ・ヤングは文句なし。
 少々ひどいのは、ヘルマンを歌ったアンドレア・シルヴェストレッリで、以前エスカミッロを歌ったときのことを思い出した。様式云々に拘るわけではないが、こんなガラガラしたワーグナーは信じられぬ。

 カーセンの演出は、吟遊詩人たちを画家に置き換えた(歌詞では「歌い手」と言っているのだから、読み替え演出特有の強引さである)。ヴェーヌスもエリーザベトも、タンホイザーにとっては単なる「対象物」になっているらしい。
 カンバスを持ったヴェヌスブルクの踊り手たちは、絵具を体中に塗ってのたうち回って陶酔する。歌合戦は絵を競う場所になる。
 タンホイザーの荒れ果てたアトリエに来たエリーザベトは、彼が書き散らかしたままの絵を見て、自分だってとばかり衣類を脱いでベッドで悶える。遅れて入って来たヴォルフラムは彼女を写生しかける。

 最終場面では、エリーザベトとヴェーヌスは同じような姿となり、タンホイザーを鼓舞して去る。彼は優れた画家として認められ、古今のヌードの名画が飾られた部屋で一同の祝福を受けるという寸法。
 客席も利用し、エリーザベトはホール全体を「歌の殿堂」として見、「画家」たちも客席の通路から登場するという方法だが、これは陳腐といえば陳腐な手法であろう。全体にある程度筋の通っている部分もあるものの、ヴェヌスブルクへ行ったと聞いて激怒した大衆が、何故突然タンホイザーの絵を受け入れるようになったのか、それが理屈に合わぬ。

 読み替えには常にいい加減な、不条理な解釈が伴うが、それを読み替えだからといって許すのはやはりおかしいのではないか。
 いずれにしても今回はカーセンがついに日本で本性を現わし、やりたい放題やったという感がある。

2007・3・18(日)ドレスデン・リヒャルト・シュトラウス・ターゲ
 「影のない女」

         ザクセン・ドレスデン州立歌劇場  6時

 今回初めてパルケット席に入る。12-30という位置で、ここではオーケストラもあまりガンガン来ないでやわらかい音になるだろうと思いきや、マルク・アルブレヒトがオケを鳴らすこと鳴らすこと。怪獣のごとき咆哮で、しばしば声をかき消してしまう。新国立劇場の何ともかぼそいオーケストラの音に比べると、恐ろしくなるくらいに巨大なサウンドだ。アラン・タイトゥス(バラク)の声だけがそれを突き抜けて聞こえてくる。
 だが、昨夜のレンネルトの指揮みたいに金太郎飴的ではない。起伏があって、叙情的な箇所ではそれなりに美しく聴かせる。激しい箇所では、このオペラが20世紀の現代音楽としての鮮烈さを充分に備えているのだということを改めて思い起させた。

 舞台装置と衣装はロザリエ。例のごとく奇抜なデザインによる、キッチュでカラフルな舞台だ。彼女の舞台装置は、以前のバイロイトの「指環」でもそうだったが、常に演出まで左右してしまうらしい。これまで凡庸な演出家と組んだものばかり観せられたからかもしれないが。今回の演出を担当しているハンス・ホルマンもまた、型通りのことしかやっていない。

 ラストシーンで乳母が独り本を読んでいたのは、彼女を語り部として設定したのか。リーンドラ・オーヴァーマンというあまり冴えない乳母役のいかつい顔は、まるで「あなた方はこんな話を信じますか?」と言っているみたいに見えるが、そこまでの伏線が何もなかったので、真意は定かでない。
 第2幕大詰の、大洪水にバラクの家も人間たちも巻き込まれるという場面にも、所謂ケレンはなく、乳母と皇后が一緒に退場し、一方バラク夫妻は、蝿みたいな格好をした霊界の兵士たち(?)に連れ去られるという演出で、面白みも何もない。演技の上での心理描写もあまり詳細に行なわれていないので、バラクにとっては、なぜ自分まで罰を受けねばならないのか、おそらく納得できないのではなかろうか。
 敷居の護衛者はコップを捧げて皇后に飲めと勧めるのみ。生命の水を飲むか、影を諦めるかといった切羽詰まった状況を描くには迫力が皆無である。こういう舞台を観ると、つくづく、あの猿之助の演出した舞台がいかに凄まじく大がかりで、見せ場に富んでいたかと改めて懐かしくなる。
 
 アラン・タイトゥス(バラク)とルアナ・デヴォル(妻)は、19年前に日本でやったミュンヘン・オペラの時と同様、強力である。皇后は、2日前にダナエを歌ったスーザン・アンソニー。役柄の性格を見事に使い分けて、こちらは可憐さを見せ、いずれも魅力的であった。オーヴァーマンは声は有るが、演技はあまり冴えない。皇帝のヨン・ケティルソンはヤサ男で、調子も良くなかったらしく、存在感はほとんどゼロに近い。今回観に来た5本の内では一番のお目当てだったのだが、期待外れというところか。

 この翌日以降、「カプリッチョ」「ナクソス島のアリアドネ」「エレクトラ」「ばらの騎士」という魅力あふれる作品が並んでいたのだが、東京でのロバート・カーセン演出と小澤征爾指揮による「タンホイザー」をどうしても観たかったので、涙を呑んで帰国するスケジュールになった。

2007・3・17(土)ドレスデン・リヒャルト・シュトラウス・ターゲ
 「サロメ」

      ザクセン・ドレスデン州立歌劇場  7時

 主役の変更も、時にはありがたい場合もある。サロメがエヴァ・ヨハンソンに変わっていた。馬力のある人だから、安心して聴ける。
 ヘロデのヴォルフガンク・シュミットも、ヨハナーンのアラン・タイトゥスも力強い。2 Rang 1-24 の席にさえ、オーケストラを強烈に突き抜けて声が響いて来た。

 ただヴォルフガンク・レンネルトという指揮者は、オケを鳴らしすぎる傾向があるだろう。鳴らすのはいいとしても、一本調子で変化がないのが問題だ。冷たい音色も耳を疲れさせる一因である(平土間で聴いていた知人たちも、バランスはよかったと言う人、やはり鳴りすぎだと言う人、さまざまだ。聴き手の感覚の問題もあるだろう)。

 演出・装置はペーター・ムスバッハ。アレクサンダー・コッペルマンの照明ともども、非常にモダンで冷徹である。前方下へ向けて極度に傾斜した舞台(歌手も大変だったろう)の中央に冷たい光(つまり蛍光灯色)に輝く建物のようなものが在る。舞台には枠のようなものがあり、上手の一角にプールサイドの手摺りのようなものがある。

 白いつなぎを着たヨハナーンが、最初からその手摺りに掴まったまま、足を手前に下げて腰掛けている。あたかもプールサイドに腰掛けたまま「救世主が来るであらうぞ」と、物々しく繰り返しているようなものだ。したがって彼は古井戸の中にいるのではなく、常に「地上」に居て、時にはあちこち歩き回る。
 サロメは、ややはすっぱなドレス姿。彼女とヨハナーンだけが白い服で、その他ヘロデ側の連中は黒の衣服だ。ナラポートは自殺するのではなく、サロメを殺そう(もしくは脅かそう)と手にしていたナイフが、ヨハナーンに偶然ぶつかられたはずみに胸に刺さってしまうという具合である。読み替えだが、この方がずっと筋が通るだろう。
 
 「7つのヴェールの踊り」は字義どおりではなく、ヘロデがサロメを犯す場面として扱われる。サロメとヘロデとヨハナーンとヘロディアス(ダグマール・ペッコーヴァ)の4人の相関関係が複雑に絡む。
 ヨハナーンは結局地上で殺され、その死体にかけた白い布の中へサロメも潜り込む。ヘロデは「その女を殺せ」と叫びつつ、自ら斧を手にして駆け寄るが、サロメの恐ろしい形相にたじろぎ、後退りするところで暗転。

2007・3・16(金)ドレスデン・リヒャルト・シュトラウス・ターゲ
 「ダナエの愛」

      ザクセン・ドレスデン州立歌劇場   7時

 ザルツブルク音楽祭との共同制作と銘打たれているように、2002年夏にザルツブルク祝祭小劇場で上演されたプロダクションと同じ舞台のはずだったが、豈図らんや、似て非なるもの。舞台装置も、人物の動きも、大幅に異なる。
 舞台上方の回廊は殆ど使われず、メルキュールはロイヤルボックスに出現。

 ラストシーンでは、ザルツブルク版と共通しているのは、ユピテルが山荘の一室で寝てしまうことと、窓外に山の光景が拡がっていることのみ。その光景が大きく転回し、山荘もろとも地上に落下するようなシーンや、新生を決意したダナエが独り傘をさして雨の戸外に出て行くあの印象的な光景は一切なく、ダナエが紗幕越しにミダスと見つめあう場面が挿入されるに止まっていた。演出担当のギュンター・クレーマー自ら手直ししたのだろうか?

 ユピテルのヴォルフガング・ネヴェルラ、ダフネのスーザン・アンソニー、メルキュールのマルティン・ホムリッヒらが手堅い。ダナエの分身たるダンサーのアンナ・フランツィスカ・スルナという美女は、黄金色の薄ものを纏って水浴したり転げ回ったり、第3幕では30分近くも身動きせず舞台手前に座り続けていたりと、ご苦労なことである。

 指揮はヨハネス・フリッチという人。ザルツブルク上演におけるファビオ・ルイジの、あの瑞々しさと生気に満ちた指揮を知る者にとっては歯痒いかぎりだが、しかしこのシュターツカペレ・ドレスデンは、誰が振ろうと素晴らしい音を出す。R・シュトラウスの音楽を演奏したら自分たち以上の存在があろうかという誇りと自負がこのオーケストラにはあふれているように感じられる。たとえ演出の面では他の歌劇場に一歩を譲ることがあっても、音楽では揺るぎない王座を占めるという自負だ。これに拮抗できるのは、ただウィーン国立歌劇場だけだろう。

2007・3・15(木)ドレスデン・リヒャルト・シュトラウス・ターゲ
 「アラベラ」

       ザクセン・ドレスデン州立歌劇場  7時

 昨年のバイロイトで感激したピエチョンカの歌うタイトルロールを楽しみにしていたのに、リイカ・ハコラというソプラノに替わっていた。容姿も好いし声も良いのだが、これからというタイプの人だろう。最初のうち声が伸びなかったが、それでも次第に改善されていった。彼女の声が出てきたためか、指揮者のペーター・シュナイダーがベテランの腕でオーケストラをうまく制御してくれたためか。最後のカーテンコールではブラヴォーももちろん出たが、ブーもいくつか飛んだ。
 だがウテ・ゼルビッヒのズデンカは悪くなかったし、特に最後に女性に戻ってからはの歌唱と演技は、主役のアラベラを食ってしまうほどの存在感を示していた。
 ヴォルフガンク・シェーネのマンドリーカは文句なしで、演技の面でもクマと格闘できるくらいの野性味をもほどほどに交え、大成功。

 ハンス・ホルマンの演出は、ごくまっとうで、可もなく不可もなしといったところか。この演出では、アラベラとマンドリーカはめでたく結ばれるが、ズデンカとマッテオは危ないらしいという解釈である。台本には確かにこの2人の行末についてはそれほど明確に語られているわけではないし、マッテオの言葉にもそれを具体的に示唆するものは無いのだから、彼が絶望とこだわりとをあからさまに示しつつ退場して行くこの演出も当を得ているだろう。
 ハンス・ホッファーの装置は、黒と赤を基調にして、暗い。第2幕のフィアカー舞踏会の場面では、階段を挟むようにして、恐ろしく大きな馬が3つ4つ。幕が上がった途端に客席もざわめいたが、1人早くもブーを飛ばした客もいた。1992年プレミエのプロダクションだから、そう新しいものでもない。

 最近好調のペーター・シュナイダーが指揮するこのオーケストラの音色は、昨日にも増して素晴らしい。私の聴いた席は、日本なら4階席にあたる場所で、音も少し硬く聞こえるはずなのだが、それでも並みのオケとは比較にならぬほどしっとりとして美しい。もし今、世界一良い音を出すオケを挙げろといわれたなら、ウィーン・フィルを凌ぐ存在として、私もこのドレスデン・シュターツカペレを挙げるだろう。

2007・3・14(水)ドレスデン・リヒャルト・シュトラウス・ターゲ
 「平和の日」

     ザクセン・ドレスデン州立歌劇場  8時

 前日ドレスデンに入る。もともとエコノミー・チケットだったが、アップグレードでビジネス席に変えて貰えたのが何より有難い。今年からペットボトルの持ち込みがやたらうるさくなった。ヒルトン・ホテルに投宿。
 以前には瓦礫の山だったあのフラウエン教会が、ついに立派に再建されている。感動的な光景だ。外観は思いのほかくすんだ色になっているのと対照的に、内部が金ピカになっているのに驚く。 3階、4階の席まであるのも凄い。観光客がやたら多い。

 今回のドレスデン滞在は、ザクセン・ドレスデン州立歌劇場におけるR・シュトラウス・ターゲ、オペラ10連発のうち、2日目から6日目までを観るためのもの。
 今日は「平和の日」。短いオペラなので、8時開演。
 ペーター・コンヴィチュニーの演出としてはかなりストレートなものだ。1995年のプレミエというから、あのシノーポリも指揮した(CDにもなっている)プロダクションである。

 長い戦争が終結した大詰近くの場面では、舞台後方にそびえたっていた「壁」が取り払われる。90年代前半の発想による演出で、「季節モノ」は時代が変わると旧く見えるというけれど、致し方ない。そうすると、司令官が錦の御旗のように振りかざしていた「皇帝の手紙」は、ウルブリヒトかモスクワの指令書ということになるわけか。
 壁が無くなると、そこに出現するのは一面の十字架の墓。そこに転がっていた「死体」が一斉に起き上がって合唱に参加するわけだが、死者が蘇るなどという野暮なことをコンヴィチュニーがやるわけはないから、これは死者の子供たちということになるのかもしれない。

 ハンス・ツィマーの指揮は、やはり凡庸の部類に属するだろう。最後の合唱とオーケストラの空前の大咆哮は、よほど巧い指揮者の手によらないと、カオスに陥ってしまう。しかしシュターツカペレ・ドレスデンは、常に全く硬くならず、惚れぼれするほどいい音を響かせる。すばらしいオーケストラである。

 司令官役のハルトムート・ヴェルカーが出られず、アルベルト・ドーメンが代役を勤めたまではよかったが、いくらDGGのCDでこの役を歌っていた彼でも、突然では無理らしく、舞台下手袖で譜面を見ながら歌う仕儀となる。司令官役は他の歌手だか役者だかが演技だけ行なったが、この人が冴えず目立たず、従って舞台はあまり引き締まらないものになった。
 マリア役のエヴァ・ヨハンソンと、市長役のランス・リアンが凄い馬力を出した。特に前者は、最後の大音響のカオスの中でも堂々と声を浮き上がらせていた。

2007・3・11(日)地方都市オーケストラ・フェスティバル
高関健指揮 群馬交響楽団 東京公演

    すみだトリフォニーホール  3時

 今年はマーラーの「交響曲第7番《夜の歌》」を持って来た。
 3階席で聴いたが、実に見事な重量感と、そして壮大さ。マーラーの陰影を余すところなく表出した。前日に高崎でも演奏したとのことだが、あの音の悪いホールでこれだけの音楽が創れたというのは驚異的、奇蹟的である。

 オーケストラは、トランペットに少々難がある(昨年の「復活」でも同様だった)とはいえ、立派なものである。高関も、中間3楽章における怪奇な音楽を実に巧く創っていたし、フィナーレでの頻々と変わるテンポの扱いも変幻自在、マーラーのヒステリックな感情の変化を見事に再現していた。

 今年の「地方都市オーケストラ・フェスティバル」はわずか4団体の出演ではあったが、きわめて充実していた。それも、あたかも各オーケストラが、前日に出たオーケストラの演奏を更に上回ろうと気負いあっていたかのように、演奏は尻上がりに熱を帯びて水準を向上させていたのである。

2007・3・7(水)ワーグナー「さまよえるオランダ人」

      新国立劇場  7時

 幽霊船の舳先に屹立したゼンタが、船とともに沈んでいく。陸に残されたのは、オランダ人の方である。彼が茫然と地に伏すとき、オーケストラには「救済の動機」(久しぶりに聴く版だ)が響く。彼は救済されたのか、長い妄想か悪夢から覚めただけなのか? 

 マティアス・フォン・シュテークマン演出によるこの幕切れ場面は印象的だったが、その大詰に向かうための伏線らしきものは、特に見当らない。全体的にストレートな演出だ。
 幕切れ場面に「救済の動機」が出現していたわりには、序曲では「救済の動機」のない初期版の終結が使用されているという、不思議なアンバランス。したがって、最初にドラマの結末が暗示されていたわけでもなかったのだ。

 主人公たちにエクセントリックな性格が付与されていたわけでもない。
 が、第2幕最後でオランダ人(ユハ・ウーシタロ)に人懐っこい笑顔を示し、第3幕ではエリック(エンドリック・ヴォトリッヒ)の口説きに屈伏しかけるほど「ふつうの女性」だったゼンタ(アニヤ・カンペ)が、最後に突然、超自然的な存在へ変貌し、それとは対照的にオランダ人の方は、日常的で平凡な男に戻る。
 この反転には、一種の読み替え的な要素もあって面白いが、オペラの重要なテーマである超自然性と日常性との対比を全篇にわたり描く手法が採られていれば、大詰場面はさらに衝撃的になったかもしれない。

 3人の主役たちはいずれも高い水準の歌唱を聴かせた。ダーラント役の松位浩も声が豊かで、演技に経験を積めばすばらしいオペラ歌手になるだろう。
 他に、高橋淳(舵手)、竹本節子(マリー)らが出演。新国立劇場合唱団は、特に男声に充実感があった。
 しかしその一方、堀尾幸男の舞台美術は、屋根に飾りをつけた牧場小屋のようにしか見えない幽霊船をも含め、いつものセンスに不足した。

 何より、ミヒャエル・ボーダーの指揮と東京交響楽団の、密度が低く粗い演奏は、上演の出来に対し最大の責任を負うべきだろう。管弦楽パートは、「総譜のすべての頁から吹きつける」と昔から評されている潮風をも、あるいは宿命の嵐に嘲弄される人間の苦悩をも感じさせなかったのである。

2007・3・4(日)地方都市オーケストラ・フェスティバル
小松長生指揮セントラル愛知交響楽団東京公演

     すみだトリフォニーホール  3時

 この常任指揮者でこのオーケストラを聴くのは初めてだが、弦はたっぷりした音で豊かに鳴り、しかも音量が大きく感じられるのが印象に残る。怒号しないで、しかも音を大きく聴かせるというのは、東京でも読売日響あたりだけができるワザである。
 ドヴォルジャークの「謝肉祭」序曲、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」という、カラフルな作品がすこぶる映えた。うれしいことだ。

 ただ、ゲスト・ソリストに出た小曽根真の自作のピアノ協奏曲「もがみ」なるものは徒に長く(40分近い)、閉口の極み。彼の類い稀な才能を発揮するテリトリーは、もっと他にあるだろう。しかもアンコールで15分近い「タンゴ」を弾くとは、リサイタルならともかく、オーケストラの演奏会としては言語道断。
 ところが驚いたことにこの日の客は、彼の演奏には熱烈な拍手を贈るが、本体のオケの演奏には通り一遍の拍手しかしないという状態なのである。オーケストラにとってみれば、庇を貸して母屋を取られる、のたぐいだ。

2007・3・3(土)地方都市オーケストラ・フェスティバル
パスカル・ヴェロ指揮仙台フィル

     すみだトリフォニーホール  6時

 常任指揮者パスカル・ヴェロのもと、仙台フィルには、明らかに色彩感が生まれている。昨年仙台でフランスものを聴いた時に早くもその感触を得ていたが、今回の演奏を聴いて、それがさらに強められているという印象を持つにいたった。

 昔、新星日響を指揮して演奏会形式上演「ペレアス」他、多くの端倪すべからざる演奏を残したヴェロも、合併後の東フィルを指揮しては不思議に生彩を欠き、オーケストラとの相性の悪さを感じさせていたのだが、幸いなことに仙台フィルとの相性はすこぶる良いようである。東フィルを相手にするよりも、彼の意図をよくオーケストラに浸透させることが可能になったようだ。
 地方のオケに行って成功した指揮者の例は少なくないが、オケの方も「すれて」いないために、指揮者の言うことをまっすぐに聞く、ということなのであろうか。いずれにせよ、祝着なことではある。

 最初のドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は、この日の白眉。豊麗でふくよかな音色、明確な輪郭を持った自然で伸びやかな叙情のまどろみ。
 次のモーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番」では、冒頭の管弦楽からしてリズムが波打っており、モーツァルトの協奏曲でこれだけ多彩な表情を聴かせた日本のオーケストラは稀ではなかったかまでと思わせた。ソロは小菅優で、これもすばらしい。

 後半は、サン=サーンスの「交響曲第3番」。生気溌剌、鋭気颯爽という感のある熱演で、ヴェロの大きな身振りの指揮がそのまま音と化したような、火と燃える演奏である。これで、金管が加わった時の最強奏に濁りが生じなければ文句のないところなのだが。フィナーレなどは、ヴェロとしてはもっと光彩陸離たる響きと、柔軟なテンポの変化を求めていたのではないかと思われるが、それらが実現するには未だ少し時間が必要だろう。

 アンコールで、フィナーレをもう一度、途中の大部分を省略して演奏したが、この時の演奏の方がよほど解放的で生き生きしたものだった。
 ヴェロと仙台フィル━━このままスムースに協演を重ねて行けば、地方オーケストラとしては稀な「色のある」存在になるだろう。

2006・8・31(木)広上淳一指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 藤川真弓の演奏を久しぶりに聴く。モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番」は、奇しくも彼女がチャイコフスキー国際コンクールで2位(1位はクレーメル)になってから間もない頃、インバルが指揮したこの読響と協演したコンチェルトだった。
 広上の指揮も久しぶりに聴くものだ。彼は「そのうち徐々に復活しますからね」と笑ってはいたが・・・・。

2006・8・30(水)サントリー音楽財団サマーフェスティバル

      サントリーホール 小ホール  7時

 今回のサマーフェスティバルで、唯一聴けたのがこのテーマ作曲家「マーク=アンドレ・ダルバヴィ」の日だ。ダルバヴィ自身の指揮と、アンサンブル・ノマドの演奏で、室内楽を4曲。「乱れた拍子の前に」「タクトゥス」「三重奏」「移ろいの進行」。
 最後の曲では柴山洋がベテランの味。アンサンブル・ノマドの演奏がすこぶる良い。リズムをずらせる手法が諸所に登場し、これが目くるめく効果を生む。

2006・8・27(日)バイロイト祝祭(終)「神々の黄昏」

     バイロイト祝祭劇場  4時

 前日の午後には、体調もほぼ復調した。だが今日、劇場で逢った何人かの日本人の知り合いたちが、何故かみんな私の「ラーメン事件」を知っていて、「大丈夫ですか」と冷ややかな笑いを浮かべながら話しかけて来るのには閉口した。
 若山弦藏さんなどは、遠くから手を挙げて近づきながら「なに、あそこのラーメン食って腹こわしたんだって? ワハハハハハ」という具合である。
 M氏のように「僕も昨夜、試しにそのラーメンを食べに行ってみたけど、何ともなかったよ」という剛の者もいた。やはり、私が食べたのは「試作品」だったとみえる。

 余談はともかく、今日は「指環」の最終日。
 オーケストラには、ホルンなどに少々の取りこぼし(これは「ジークフリート」でのホルンにもあった)が聴かれたものの、弦を中心に、その威力はやはり物凄い。
 特に感心させられたのは第2幕後半だ。特に「ホイホー・ハーゲン」や「グンターの帰還」の箇所などが予想外に抑制気味だったので、後半のブリュンヒルデの怒りを中心とするアンサンブルと三重唱の場面での轟々たるオーケストラが効果を発揮する。ティーレマンがここにクライマックスを持ってくるという構築を考えていたのは明らかで(勿論それはこの作品における必然的なコンセプトであったはずだが)それがまた見事に達成されていた。

 本プロダクションでは「間奏曲」としての性格を持たされた「葬送行進曲」でも、ティーレマンは、「死の動機」を含む箇所の長い4分音符をクレッシェンドさせて迫力を強調する。
 しかし更に圧倒的な感銘を受けたのは、「自己犠牲」の冒頭部分。限りない闇の空間に拡がっていくかのようなオーケストラの響きは、かつて耳にしたことがないほど壮大なものであった。ブリュンヒルデの声はオーケストラに埋没せず、同化もしていない。大波のごとき管弦楽の上に、すっくと立つ彼女の毅然とした姿が、まさしく音で表現された稀な瞬間である。

 それまでの3作では全くといっていいほど使わなかったあのG・Pを、ティーレマンはついに「黄昏」で多用した。特にヴァルトラウテの場面。ここではテンポも音量も落すことが多かったが、藤村実穂子がこれを堂々と持ち堪えたのも素晴らしい。クライマックスをつくる箇所と、その伏線となるべき箇所、そしてその両者間を移行する箇所、これらの設計におけるティーレマンの巧みさは、その表情が大きいだけに、レヴァインやバレンボイムよりも遥かに際立っている。

 歌手では、当初グートルーネに予定されていたガブリエーレ・フォンターナがエディト・ハラーという人に替わり、第1幕ではちょっと自信無げな歌唱に終始したが、第3幕では孤独感を表現する歌唱に力を増した。
 グールドも第2幕終り近くでは少し疲れ気味だったようで、例の「はしゃぎすぎ」の箇所では少々いい加減な歌い方になってしまったが、全体としては申し分ない。魔薬を飲まされた後の人格の変化を表現するにはまだとても無理な演技力のように見えるが、これは演出のせいでもなさそうだ(思えば、この場面でのルネ・コロの演技は絶品だった!)。いずれにせよこれからの課題だろう。
 彼がグンターに化けて岩山に押し入る場面では、ロボットのように言葉を一つ一つ区切って叩きつけるように歌うという手法を採った。おそらくティーレマンとの相談の上でだろうが、興味深い解釈である。それに彼は元バリトンだけあって、特に低音域の声が太いので効果的だ。

 リンダ・ワトソンは最後まで力を失わず、ブリュンヒルデとしての使命を完璧に果たした。ハーゲンのハンス・ペーター=ケーニヒはこの役にふさわしく豪力無双の趣きだが、独りになって悪の本性を剥出しにするはずのモノローグでは、意外に表現の幅が狭く、前プロダクションでのジョン・トムリンソンの底知れぬ凄味には遠く及ばない。
 総じて歌手の世代が若返っているためだろうが、そのパワフルな声にもかかわらず、歌にも演技にも陰影が乏しかったのは事実である。

 だがその中で、ヴァルトラウテを歌った藤村実穂子だけは暗いアルトの声を巧みに使って悲劇性を充分に表出していた。劇場の空気をびりびりと震わせる声━━という表現は誇張でも何でもない。彼女は本当に凄い歌手である。カーテンコールで素晴らしい称賛を浴びていたのも当然であろう。

 演出のドルスト━━神々の世界よりは人間を描く方が多少は上手いようだが、それでも散漫なイメージを拭えない。
 ギビフング家の階段に腰掛けて終始本を読んでいる男、ライン河(といってもこれは「ラインの黄金」で神々の世界だった「屋上」に「下水の排水溝」をしつらえた舞台で、乙女たちは今や下水道暮らしというわけだ)のコンクリートの堤防の上で涼んでいるカプル、走り回る子供━━こういう手合いがウロチョロしているので、大詰のカタストロフ場面で火事に慌てて荷物を抱え、子供を連れて館から逃げ出す連中の存在が、何となく曖昧になってしまうのである。

 このラストシーンはシェロー版をもっと乱雑にしたような光景で、せっかくの音楽から注意を逸らされてしまうほど原が立つものだ。それにまた、のべつ幕を下ろすのも気に食わない。なお岩山での炎の環は、「ヴァルキューレ」ではさほど気にならなかったものの、「黄昏」になると単に小さな魔法の円陣に見えてしまい、安物の演劇のイメージになってしまった。

 この演出、「神話」と「現代」が交錯するというアイディア自体は大いに結構である。「神々は今でもあらゆる場所を彷徨っている」というドルストの言葉を鍵として考えれば、現代のわれわれがいるこの場所で、現代人の目には見えぬ神話のドラマが繰り広げられており、ごく少数の感受性の鋭い、純粋な心を持った子どもたちだけがそれを視ることができるということになるのだろう。
 また、現代の日常に起こる様々な出来事が、今なお存在している神々の気まぐれや争いにより引き起こされる━━というギリシャ神話的発想が応用されているとすれば、この演出もいっそう面白く思われる。

 ただ、それにしては今回の舞台は、ただ神話と現代が何となく共存しているという印象もあって、それが甚だ雑然たるイメージを生んでいるのは事実だろう。今年がプレミエだから、まだ未整理の部分も多いかもしれない。来年以降、この面白いコンセプトがどう巧く練り上げられて行くか、それに期待をかけるしかなかろう。

 これで、今年のバイロイト旅行を終る。なお、9月23日の日本ワーグナー協会の例会(東京芸術劇場大会議室)では、私が舩木篤也さんおよび鈴木伸行さんとともにこの公演について詳細に報告した。

2006・8・25(金)バイロイト音楽祭(3)「ジークフリート」

     バイロイト祝祭劇場  4時

 前日、市内の某人気料理店で食べた「新製作」のラーメンに食あたりし、今日は惨憺たる体調。12時頃までホテルで呻吟し、ふらふらになりながら、とにかく着替えて劇場に向かう。しかも今日は猛烈に寒い。第1幕途中で貧血症状に陥りながらも、何とか長い全曲を持ち堪える。
 それにしても、こういう体調不良の状態で聴くには、ワーグナーのオペラの、何とまあ長いこと! 愛を歌い始める前に何故あんなに理屈をこねまわすのか、と腹立たしくさえなる・・・・。

 が、そんな状態でさえ、ティーレマンとオーケストラが編み出す、あふれんばかりの多彩で豊麗な第3幕の音楽には魅惑されて止まるところが無い。登場人物の心理の変化に即応して虹のごとくその色彩を変えていく鮮やかさたるや、ティーレマンの驚くべき牽引力を示すものだ。
 モティーフが裸の状態で羅列されるがごとき趣のある第1幕および第2幕の大部分でも、「ラインの黄金」で採られた手法同様、流れのいいバランスの完璧なオーケストラの響かせ方により、音楽をバラバラでない、全体を一つの関連のある構築に仕上げてくれる。もっともその解け合った、あまりに物分かりの良すぎるバランス構築には時として物足りなくなる時がないとも言えないのだが。

 歌手陣は全員が好調で、強力だ。シュトルックマンは、ジークフリートとの応酬のほんの一ヶ所で声がかすれたが(壁の蔭に引っ込んで水でも飲んだらしい)それ以外はビンビンと声を響かせて存在を全うした。
 リンダ・ワトソンも今日はいくつかの高音を無理なく乗り切った。アンドルー・ショアとゲルハルト・シーゲルはここでも巧者であり、藤村実穂子も暗黒の闇に響くエルダを悲劇的に聴かせた。イェリク・コルホネン(ファーフナー)とロビン・ヨハンセン(小鳥)は際立った歌唱力ではないが、悪くはない。

 昨年タンホイザーをノーカットで歌って気を吐いていたステファン・グールドが、今年はジークフリートを歌う。自由奔放な野性児といった雰囲気は多少乏しく、さりとて高貴な英雄というわけではなく、役の彫り下げには未だ発展途上の人のようだが、もっともこれは演出次第でまた解決できるだろう。声は充分にある。ロバート・ディーンス・スミスといい、グールドといい、新しいヘルデン・テノールの出現は喜ばしい。

 第1幕から第3幕まで、序奏は常に幕が指定どおりに下ろされている。ただ、第3幕でエルダが消えたあとに幕が下り、そこでヴァルキューレの岩山へ転換し、ジークフリートとヴォータンの場があって、更に幕が下りてブリュンヒルデの場に変わるというのは、些か煩わしい。全く、幕を下ろすのが好きな演出家だ。

 第1幕のミーメの仕事場は、ちゃんと掃除をすればさぞや立派な居間になるであろう大きなスペースである。あとで気がついたのだが、これは廃校の教室らしい。ジークフリートは例のごとく、いつ剣を溶かし、いつ鋳るのか、明確ではないが、とにかくノートゥングは完成する。最後に何も破壊的行為に出ないのが、思いのほか暴れん坊でないイメージを生む一因か。
 第2幕は、巨大な切り株がやたら沢山並ぶ。寺か神社の境内を連想させるが、上部に未完成の高速道路らしきものが横切っているのが面白い。自然破壊の象徴か。ただ、その道路の上では明かりがチラチラして工事関係者の姿さえ見えたり、最初のうち隅の方で子供が遊んでいたりするのが、少々煩雑ながら面白い。

 演出家へのインタビュー(モーストリー・クラシック)では、神々は現代でもあらゆるところを彷徨っているのだということだが、どうもこの演出では、むしろ現代人が神話ランド体験ツァーを楽しんでいるといった趣にも見える。
 「時代を交錯」させるならもっとマジックを使うなりして巧くやる方法だってあるだろう。ドルストにはいっそ、戦前の日本で言われていたような、八百万の神々が鎮守の森、川、山、すべての場所に鎮まる━━といった思想を参考にしてもらったほうがいいのではないかとさえ思ってしまう。

 そういう問題の前にはどうでもいい話だが、ヴォータンがジークフリートと最後の対決をする時、さあ折ってくれといわんばかりに槍を横にして若者の鼻先へ突き出すという行為はいかがなものか。

 終演後、誘われていた真峯紀一郎さんとの会食を諦め、ホテルのバスで一目散。医者の西尾博士の勧めに従い、血糖値を下げるために角砂糖を水に入れて飲み、糖分を摂る方法を講じたが、このおかげで元気が出て、実に爽やかな気分になった。

2006・8・23(水)バイロイト祝祭(2)「ヴァルキューレ」

     バイロイト祝祭劇場  4時

 ティーレマンの音楽づくりは更に魅力的になる。弦の瑞々しく豊麗な音色を軸に、実に叙情的で、流れの美しい音楽が全編を満たす。それは勿論ワーグナーの音楽の中に初めから存在する要素なのだが、それを見事に再現してみせる腕の冴えが彼には人並み以上に備わっているというわけだ。昔のような生気の無いG・Pは影を潜めた。もっともその一方で、大きな見得を切ることもなくなったのは、少々拍子抜けさせられることも無くはない。

 第1幕では、ジークリンデ役のアドリエンヌ・ピエチョンカがひたむきな意志を持った女性を演技でも描き出し、歌唱でもリズムの明確な、歯切れのいい表現を聴かせた。彼女は全幕にわたり素晴らしい。フンディングのクヮンチュル・ユンも底力のある声で、暴力的な夫を演じる(マルケ王も含めて連日の出演だ)。

 ジークムントのエントリク・ヴォトリッヒは、開演前から「体調不良」の掲示が各ドアの入口に出ていて、声は最初から荒れ気味ではあったものの一応大過なく進んでいたが、「ヴェルゼ!」をほとんど延ばさずに先へ急ぎ、指揮者とオケが後から慌てて追い掛けるあたりから不安が増した。
 「冬の嵐が過ぎ去りて」の直前ではついに危機的状況になり、その後はもう綱渡り状態で、第1幕終結の聴かせどころでもリズム感はいい加減なものと化してオケに乗らず、オケも彼をカバーするあまりに、どたばたと突進する。ティーレマンの大見得を楽しみにしていた私たちとしては残念至極。第1幕後のカーテンコールではヴォトリッヒに大きなブーイングが彼に浴びせられたが、少々酷な感もある。

 だが第2幕の前に、主催者側スタッフが現われ(姿を見せた瞬間からすでに拍手を始めた奴がいた)、ロバート・ディーン・スミスが歌うことを告げた時には、場内はこれ見よがしの大拍手と歓声。
 たしかにこれは、拾い物であったろう。特に6月に大植英次の日本公演で彼のジークムントを演奏会形式で聴いたわれわれとしては、願ったり叶ったりであった。実に若々しい、まだ少年の面影を残す、ひたむきな性格のジークムント像が第2幕では描かれ、非常な清潔感も与えた。カーテンコールでも絶賛の嵐で、これで彼のバイロイトでの存在感は更に増したのではないだろうか。

 ファルク・シュトルックマンは、前夜に続きフル・ヴォイスの大力演。声もよく伸びて爽快だが、そのあまりのパワフルな声のおかげで、「ラインの黄金」から年月が経ったはずのヴォータンの性格上の変化があまり出ていないのは善し悪しである。「魔の炎」の場面では槍を持たず、両手を高く拡げての大音声。最後の「nie!」も指定の2倍、2小節間一杯に(実際には3小節の最初の4分音符まで)フル・ヴォイスのまま延ばす大見得。これだけ威勢のいいヴォータンも近年稀であろう。
 ブリュンヒルデのリンダ・ワトソンも、それほど個性的なイメージではないけれど、まず安全圏内の出来。但し第2幕冒頭の「ホーヨー・ト・ホー」の最後の高いH音は何度やっても下がり気味。

 ドルストの演出は、素人芝居的で苛々させられる。第2幕最後の悲劇的場面は、スミスとの打ち合せ不十分の所もあったろうが、基本的に皮相的なものに止まっているのが問題だ。ヴォータンは、愛する息子を自ら殺すに際して何ら迷いはなかったというのか?(この場面は、クプファー演出もフリム演出はよかった)。
 ノートゥングが刺さっているトネリコは、ここでは戸外から壁を壊して倒れこみ、二つに折れている電柱。神話の世界と、現代のメカニックな文明との交錯を狙う点から見れば、トネリコが碍子のついている電柱であっても一向に構わないのだが、この壁が修理されずにそのままになっているのが奇怪しい。ヴォータンがノートゥングを差し込んだのが昨日今日の話ではあるまいに。もしやヴォータンは、剣を戸外の電柱に差し込んで帰っちゃったとでも? しかしこの電柱は、倒れこんで来るには天井まで破壊しなければならぬほどの長さなのに、天井はちゃんとしている。

 客席を向いて両手を拡げて歌うイタリア・オペラみたいな類型的な身振りは、この日もフリッカに見られた。ワーグナー上演にこんな身振りが許されるというのか。登場人物相互の間に緊迫感が不足しているのは、そんなことも原因しているのだろう。
 第2幕で後方に自転車を止めて座っている男がいたり、フンディングの家に自転車を携えた子供たちがいて、その一人がジークリンデを不思議そうに見ていたり、ヴァルキューレの岩山に現代人が一人舞台をうろついていたり、━━神話と現代の混合を表す様々な手法が使われており、それは非常に面白いアイディアだが、実際の出来栄えという点では、何かちぐはぐな雰囲気が残る。

2006・8・22(火)バイロイト祝祭(1)「ラインの黄金」

      バイロイト祝祭劇場  6時

 前日バイロイトに入る。昨年に続く訪問だが、今年は新演出の「ニーベルングの指環」が呼びものであり、それだけを観るためにやって来たというわけ。

 予約していた成田からのルフトハンザのミュンヘン便が3時間遅れと発表され、一時は頭を抱えたが、もともとビジネスクラス予約だったためか、あるいはルフトのゴールドカード・メンバーだったためか、先方でANAのフランクフルト便からルフトのニュルンベルク便を利用するよう変更してくれたのは有難い。
 21:50にニュルンベルク空港に着き、タクシーに飛び乗り行く先を告げたら、運転手氏は長距離に大喜びで「バイロイトだ!」と大声で周囲に触れ回った。ただその割に地理には詳しくないようで、バイロイト市内に入ったものの、ホテルのARVENA KONGRESSの場所が判らず大騒ぎ、駅前まで行って他のタクシーの運ちゃんに教えてもらうという始末。駅からはむしろ私の方が道を知っているという具合で、彼氏は平謝り、料金を少々だが値引きしてくれた。
 ホテルには夜の11時頃に着いたが、折しも今夜の「トリスタンとイゾルデ」を観た連中がぞろぞろ戻って来るところで、その光景を見たとたんに、もう1日早く来るべきだった、という、訳の解らぬ後悔に襲われたという次第。

 それはともかく、今夜からは今年の「指環」の最終ツィクルスである。今年は、バイロイトとしては、指揮者の話題が演出家のそれよりも先行した珍しい例だろう。バイロイトの「指環」には初登場となったクリスティアン・ティーレマンは、今やドイツ音楽界の帝王的存在だが、その名声にふさわしく、われわれの期待にもたがわず、演奏は実に素晴らしいものになった。

 彼は音量をやや抑制して響きを柔らかくし、最強奏の個所でも殊更音楽を咆哮させたりはしない。もともとこの曲では、モティーフは極めてシンプルな形で提示されている。それが無闇に強調してダイナミックに演奏されると、むしろゴツゴツして流れの悪い、散漫な構成の作品というイメージになってしまう(ショルティの指揮などその代表だろう)。そこまで極端にはならずとも、この作品を流れよく構築した演奏は、そうたびたび実現されるものではない。

 だがティーレマンは、驚くべきセンスを以てこの全曲を流れよく纏めている。音量を抑えて叙情味を強調し、流れるような、調和のとれた美しい「ラインの黄金」を創り出しているのである。
 だがこれは、調琢されて滑らかなものと化している、という意味ではない。必要なモティーフはすべて聴き取れるし、それらが起伏を以て充分に劇的な表情で語られるのだ。「ローゲの物語」ではその内容にふさわしく、官能的なロマンティシズムが溢れるが、この厚みある豊麗な音色は、どんな演奏にも増して効果を上げている。

 ドラマの変化に応じて音楽が移行していく過程も見事だ。第2場の最初で、巨人たちがまもなくやってくるだろうという予感が神々の間に起こる瞬間に、低音部にかすかに予告される巨人の動機のリズムは他の演奏では例がなかったほど不気味に現われて消える。「剣の動機」が初めて劇的に出現する箇所では、その直前から不穏なものを感じさせる暗い音色がうごめき始めている。
 こうした「劇的な予感」は、もちろんワーグナーの音楽に内在するものなのだが、それをかくも鮮やかに浮き彫りにできるティーレマンの業は並みのものではないだろう。それに応じられるオーケストラもまたたいしたものだ。

 今回のオーケストラの響きは例年にも増して弦が前面に押し出されている。音楽は弦を主力にして語られるといった趣だ。その分、金管さえも少し遠い感じになっている。全曲最後のオーケストラの怒号など、これほど弦の和音が前面に出た演奏は、バイロイトと雖も珍しいかもしれない。一体、金管はどの位の強さで吹いているのだろう?

 これに対し、タンクレード・ドルストの演出の方は、問題だ。当初予定されていた映画監督トリーアが降板したため急きょ演出を引き受け、わずか1年半の準備期間でここまで仕上げた点は評価されるべきかもしれないが、基本的なコンセプトを表現するテクニックにおいては、些か問題があるのではなかろうか。

 フランク・フィリップ・シュレスマンの装置と絡めて見てみると、まず「ラインの河底」の場面では、奥の上方から手前に湾曲して設置されている大きな河底の石群、それに反射して流れを表す光の幻想的な効果、位置は動かないが身振りは大きい乙女たち、上方の水面に投影される泳ぐヘアヌードの女の映像(アルベリヒの妄想?)などには面白さもあるが、太古の自然の美しさはこれですべて終りといった感じで、そのあとには大きな対比が生じてくるというか、全く異質なものばかりになるというか。

 第2場と第4場はすべて薄汚いビルの屋上の場面で、単調そのもの。彼方に見えるヴァルハルらしきものはレンガの真ん中に大きな「眼」みたいなものを持っている(2000年マリインスキーのシャーフの二番煎じという感だ)。ニーベルハイムでは工場の通路みたいな光景に、突然紗幕が揚がると割れた壁の内部に宝の魔窟が出現。現代の怪談というべきか、巨大産業とその内部に潜む魔境を対比させるアイディア自身は面白いが、それにしてはアルベリヒとミーメが終始「化物」スタイル(これもマリインスキー・リング的)のままであるのが理屈に合わない。
 しかし、「屋上」において、巨人やエルダがすべて下方から出現するにもかかわらず、神々がヴァルハルに入城する際に奥の階段を降りて行くというのはどういうわけか。神々が没落するのを暗示する手法にしては、もう少し何かやり様があるのではないかと思う。

 ラストシーンで、子供達が突然前面に出てきて「ファフナーとファゾルトごっこ」をやってみせるのも、意図は解るのだが、唐突で稚拙で煩わしい。
 そもそも神話と現代とが交錯するコンセプトを打ち出すのなら、その両者の存在がはっきりと明確にされていなければ成功しない。思い付きで舞台の上にチョコチョコと両方を出すのでは駄目だ。また、総じて演技はいろいろ手を尽くしてやっているようだが、それにしては客席を向いて手を拡げて歌うという類型的で陳腐な身振りも多いのはお粗末だ。

 ヴォータン役のファルク・シュトルックマンは全力投球。若々しい気迫と張りのある声は「ラインの黄金」でのこの役柄にこれ以上ないほど合っている。悪役的な声ではないがアルベリヒのアンドルー・ショアは、狡猾さが滲み出れば更によくなるであろう。
 その他、ローゲのアルノルト・ベズイエン、後半が楽しみなミーメのゲルハルト・ジーゲル、最近活躍目覚ましいファゾルトのクヮンチュル・ユンらが好調。期待のわれらの藤村実穂子はこの日は必ずしも本調子ではなかったかもしれない。

2006・8・16(水)バーンスタイン「ウェストサイド・ストーリー」

     Bunkamuraオーチャードホール  7時

 ジョーイ・マクニーリーの演出と振付、ポール・ガリスのセット・デザインということで、もちろんオリジナルのジェローム・ロビンズの舞台とは異なり、アパートを模した簡略な木製の装置を左右に、正面奥にニューヨークの摩天楼やスラム街の写真を投影している。

 45年前、映画化されたこのミュージカルを観た時には、その新鮮さと強烈さに震撼させられたものだが、その後刺激は薄れ、映画を見直しても妙に古さを感じてしまうことが多かった。ただ、改めてこの舞台上演を観てみると、装置が変わっただけでもある程度の新鮮さを味わうことができる。レナード・バーンスタインの存在は、今なおこの舞台を大きく蔽っている。

 出演者はすべて外国人。歌はまあまあの水準だろう。オーケストラは日本人。指揮のドナルド・ウィング・チャンの棒のせいかもしれないが、音楽全体が一本調子でさっぱり面白くない。
 PAは、最初はいい音量とバランスだったが、途中から修正したのか、ヴォーカルもヴァイオリンも高音域がキンキンするようになり、不愉快極まりないものになった。トニーやマリアの声には気の毒というほかはない。このPAの煩い音に耐え切れなくなり、第1幕だけで帰る。

2006・8・13(日)フェスタ・サマーミューザKAWASAKI

      ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 首都圏のオーケストラを総動員した大フェスティバルの最終日。ホスト・オーケストラの東京交響楽団が、音楽監督ユベール・スダーンの指揮で出演した。

 ただしプログラムは、このコンビにはめずらしいロシア音楽。グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」、ムソルグスキー~ラヴェルの「展覧会の絵」。
 予想通りスダーンらしい、きちんとまとまった演奏になった。そのアプローチは興味深いが、古典派作品のようなスタイルの演奏では、このあたりの曲は、やはり面白味に欠けてしまう。

 アンコールにJ・シュトラウス1世の「ラデツキー行進曲」とスーザの「星条旗よ永遠なれ」を演奏したが、前者ではトリオ演奏中に、弦などがトリオの反復をしているのに、金管群が反復を無視してダ・カーポするという珍事が出来した。
 これはまさに、カルショウが伝えているクナッパーツブッシュの録音中の出来事そのままではないか。クナは「だれもわかりゃしねえよ」と笑ったというが、さて今回はどうだったろうか? 
 それにしても最近、このような珍事に巡り合うことが続く。

2006・8・7(月)ラ ヴォーチェ公演 ヴェルディ「椿姫」

      新国立劇場中劇場  6時30分

 この「椿姫」をつい先日、モンゴル国立劇場で観たばかりなので、今回の舞台がとてつもなく美しく豪華に見えた。川口直次の舞台装置はきわめてオーソドックスだが丁寧に作ってある。アントネッロ・マダウ・ディアツの演出も、イタリア・オペラの舞台にしてはニュアンス豊かで細かく施されている。

 ヴィオレッタ役のマリエッラ・デヴィーアもこれなら充分の出来、一方ジュゼッペ・フィリアノーティ(アルフレード)は役柄にふさわしく大根役者だ。
 その中でやはりレナート・ブルゾン(ジェルモン)が圧倒的な存在感を示し、尊大さと弱さとを併せ持った父親像を演技の上でも歌唱の上でも見事に表現して全体を引き締めた。ヴィオレッタとの二重唱の部分でも、音楽的な情感の濃さが実に素晴らしい。

 ブルーノ・カンパネッラの指揮はどこといって破綻はないのだが、やはり歌手に合わせたのんびりした音楽づくり。総じてこれは、いかにも五十嵐公演監督の好みのスタイルである。

2006・8・6(日)飯森範親指揮東京交響楽団

     サントリーホール  2時

 第1部はモーツァルトの「フィガロの結婚」からの二重唱やアリア、同じく「レクィエム」から「怒りの日」などがあって、休憩後はマーラーの「復活」。
 飯森にしては珍しく遅いテンポを採ったが、このテンポは持ち堪えられたとはいえず、しばしば緊張度を欠き、曲を冗長にさえ感じさせる(特に前半楽章)結果さえ招いた。
 これまでの飯森のマーラー路線とはかなり傾向を異にする。彼は何を考え始めているのだろう?

2006・8・3(水)PMF東京公演 ゲルギエフ指揮PMFオーケストラ

     サントリーホール  7時

 モーツァルトの「ファゴット協奏曲」での演奏は、マツカワのソロを含めてどうも心に迫るものがないが、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」と、チャイコフスキーの「交響曲第5番」は、もはや入魂の演奏だ。この見事な仕上がりは、大阪と名古屋で本番を重ねてきた成果である。
 これほど沸騰した迫真的な演奏の「ペトルーシュカ」は、ちょっと聴けないだろう。テンポもアゴーギグもエスプレッシーヴォも柔軟自在、響きも音色も豪華絢爛、「これは凄い」と息を呑ませられる瞬間さえ何度かあった。

 「5番」では、特に第2楽章が怒涛のように揺れ動く。たとえマリインスキーのオーケストラでも、ましてウィーン・フィルなら、これほどゲルギエフの思う通りには動くまい。その意味では、今回の演奏こそゲルギエフが真に主張したかったものであるに違いない。

 経験の少ない若者ばかりのオーケストラをかくも燃え上がらせ、物凄い演奏をさせてしまうゲルギエフは、やはり並み外れたカリスマ的指揮者である。楽屋へハローを言いに行った際に「信じられない演奏だ!」と口走ったら、「Thank You!」と嬉しそうに笑っていた。

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