2023-12

2016年3月 の記事一覧




2016・3・30(水)多賀城版オペラ 絵本音楽劇「魔法の笛」

    多賀城市文化センター大ホール  6時30分

 東北新幹線から仙台駅で仙石線に乗り換え、約20分で多賀城駅に着く。陸奥国の国府でもあった、歴史的にも有名な、あの多賀城である。

 今回のオペラは、「多賀城世界絵本フェスタ」のフィナーレを飾る行事として、多賀城市の情熱と意欲のもとに企画されたとのこと。内閣府の地方創生の交付金を受け、ホール(客席数最大1120)に観客が抽選で無料招待された。
 こういう「文化まちづくり」にモーツァルトのオペラ「魔笛」の上演を組み込んだということに、まず最大の敬意を払わなくてはならない。いかにも「史都」にふさわしい試みというべきである。

 構成と演出をも手がけた志賀野桂一氏(多賀城世界絵本フェスタ総合プロデューサー、宮城県文化芸術振興審議会会長)によれば、制作にあたっては、ミヒャエル・ゾーヴァの絵本からイメージを出発させ(ただし著作権上の問題から、今回は絵本の内容を舞台に取り入れていない)、かつ物語を原作のフリーメイソン的要素から切り離し、「愛の物語」というコンセプトにまとめたという。

 そして物語の舞台を日本の陸奥に設定、主人公の多賀の王子タガーノ(タミーノ)と葉水奈姫(パミーナ)が体験する「火と水の試練の克服」を東日本大震災の「災害(火災と津波)の試練からの復興」に、また「試練を乗り越える勇気」を「子どもの教育」に重ね合わせるなど、今日的な話題性をも注入した。これも、東北での上演として意義ある解釈であろう。
 そういう点では、「魔笛」というオペラは、音楽の親しみやすさも含め、この種の企画にはぴったりの作品である。いいオペラを選んだものである。

 上演は、原則的には原曲に忠実だが、全曲の一部をカット、あるいは繰り返しを省くなどの縮小が行なわれ、さらに編曲(杉山洋一)による楽器編成の縮小も施されていた。
 進行はドイツ語歌唱(字幕付)と、日本語のセリフ(脚本・潤色は小山高生)との組み合わせだ。セリフは当然ながらかなり変更されている。
 ストーリーには、序曲の間に、夜の女王の「娘への依存症」を危惧した夫王(背登修/セトス)が、自らの亡き後の統治を親友ザラストロに託す、というパントマイムが設定されていた。また全曲の最後には、ザラストロと夜の女王が和解するといった解釈も挿入されていた(これは特に目新しい解釈ではない)。

 衣装が面白い。タガーノの衣装は、オペラの原作のままに「日本の狩衣」とし、その他、古代の日本を連想させるいくつかのタイプの衣装も取り入れている。この衣装は全てすこぶる凝ったもので、さぞやカネがかかったろうと思ったが、実は地元の多賀城市で保存されている「万葉衣装」を借り、能装束風の衣装を製作あるいは借用、蛇や獅子も地元の民族舞踊のそれを使用するなどして調達したとのことである。巧い方法だ。また合唱団は、自前の服を利用したという。

 演奏は、杉山洋一指揮の仙台フィル。志賀野桂一の構成と演出で、沙羅修登呂(ザラストロ)を倉本晋児、タガーノ(タミーノ)を新海康仁、葉水奈姫(パミーナ)を文屋小百合、夜の女王を早坂知子、「鳥人パパゲーノ」を高橋正典、「鳥女パパゲーナ」を齋藤翠が歌った。
 他に、「3人の魔女」(夜の女王の侍女)は申寿美・在原泉・松岡朋美、3人の童子をヒューレット・マリ・及川亜紀子、佐藤瑛利子、異人(モノスタトス、歌無し)を樋渡宏嗣、鎧の男(弁者、歌無し)を渡部ギュウ、といった人々が出演している。合唱は「多賀城魔笛有志の会」。

 歌唱面では、タガーノ(新海)、パミーナ(文屋)、パパゲーノ(高橋)が好演していた。演技とセリフ回しでは、鎧の男(渡部)と異人(樋渡)が迫力を利かせていた。渡部ギュウは4月半ば、仙台フィルの現地定期及び東京公演「レリオ」(ベルリオーズ)でナレーター役を務める人なので、これは期待が持てる。

 但し、問題も無くはない。現代音楽の指揮の領域で定評のある杉山洋一の指揮するモーツァルトは初めて聴いたが、予想外に重いリズムとテンポで進めていたのには首をひねらされた。モーツァルトの音楽が持つスピリット、登場キャラクターの闊達さなどを考えれば、演奏はもう少し引き締まって緊迫感を持つべきだったと思う。

 演出の面でも、もし再演するならばだが、改善すべき点が多い。全体に場面転換や台詞の「間」をもっと刈り込み、また音楽と台詞との「間」ももっとテンポ感のある進行にして、リズミカルに流れる構成にすることが不可欠だろう。演技の面でも同様、いくら主旨が意義あるものであっても、ぞろぞろと出て来て客席の方を向いて並び、おもむろに歌い出すといったような学芸会的な動きでは、目の肥えた観客にアピールすることは出来ない。

 だがともあれ、これは本当に立派な企画であり、実行に携わった全ての関係者に、大きな賛辞を捧げたい。
 敢えて言えば、ここまでやるなら思い切って、動物たちの登場する場面や、大団円の場面にご当地の踊りを入れてみるとか、そのくらいの独自色を打ち出してみるのも面白いだろう(旧い時代のオペラでは、大団円の場面にしばしばバレエを入れていたものだ)。
 名作オペラの「品位」や「様式」に遠慮するあまり、中途半端な舞台を創ってしまっては、単なる真似事に終ってしまう。むしろ、今回のようにしっかりしたコンセプトがあるなら、その上に、通常の上演を超える自由な発想で特色を出した、真の「多賀城スタイル」を創った方がいい。その方が、存在感もいっそう増すというものである。

 ホールから多賀城駅を超えて海側にあるキャッスルプラザ多賀城というホテルに宿泊。目の前の交差点の電柱に━━その1メートル70センチよりさらに上に、「津波浸水線」というマークがついているのを見て、改めて慄然とする。見渡した範囲は一応復興してはいるが、5年前の3月を思うと、心が痛む。

2016・3・29(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 桂冠指揮者エリアフ・インバルの指揮。モーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番」とショスタコーヴィチの「交響曲第15番」が演奏された。コンサートマスターは矢部達哉。

 モーツァルトの協奏曲を弾いたのはクンウー・パイク(白建宇)である。
 彼の演奏をナマで聴いたのは本当に久しぶりだ。生真面目に、確然と音楽を組み立てる彼の演奏は少しも変わっていない。今日のモーツァルトでも同様で、第1楽章カデンツァの部分など、その良くも悪くも真面目な一面が如実に表れていただろう。
 往年の名レコード評論家あらえびすが、エドウィン・フィッシャー(1886~1960)の演奏した初期のレコードを聴いて「素晴らしい。が、こいつは矢張りプロフェッサーだ」と言ったという話があるが(「名曲決定盤」中央公論社刊、)何となくその言葉が頭の中をよぎったのは事実である。

 しかも、インバルが都響を指揮して引き出す音楽がまた理路整然たるものだから、格調は高いけれども何となく肩の凝るモーツァルトになっていた感もあった。もっともパイクはそのあと、アンコールとして「トゥーランドットの居間」(ブゾーニ)を弾いたが、こちらは極めて密度の高い演奏だった。こういう生真面目(?)な作品の方が彼には合っているようである。

 ショスタコーヴィチの「15番」は、これもインバルらしく森厳荘重な指揮で、最後まで端然たる姿勢を崩さぬショスタコーヴィチ、とでもいったような趣だったが、その分、終楽章のあの鬼気迫るような幕切れが、少々即物的に構築された印象もあるだろう。
 何しろ、このホールはあまり残響がないから、音のすべてが白色の光の中に曝されるという感じになり、それが演奏の印象にも影響して来る。金管に少し聞かれた不揃いも、サントリーホールで聴けばそれほど気にならなかったかもしれない。

2016・3・27(日)藤岡幸夫指揮静岡交響楽団

     静岡市清水文化会館マリナートホール 2時

 東海道線清水駅は、静岡駅からは3つ目、15分とかからない。
 その東口、つまり「みなと口」に、改札口から回廊が伸びている。富士山が目の前に見え、広がる海から潮風が吹きつけて来る。また風は冷たいが、紛れもなく春の空気だ。
 80年代前半、FM静岡(現K-MIX)の立ち上げ業務のために4年ほどFM東京から出向して浜松に住んでいた頃を思い出す。当時、電通の某氏から聞かされた「静岡の春は一気に来ますよ」という素敵な言葉が、今でも懐かしく頭の中に残る。

 その回廊は、駅よりもう少し海の近くに建つ、立派なホールに繋がっている。4年前に開館した新しいホールだ。静岡県ならではの明るい外光をいっぱいに取り入れた明るいホワイエと、明るい木目調の舞台と客席。席数は1500というから、なかなかの規模だ。ただし今回は、1階客席(977)のみが使用されていた。

 静岡交響楽団は、1988年に静岡室内管弦楽団「カペレ・シズオカ」として創立され、1994年から現名称となったオーケストラである。常任指揮者は昨年秋から篠崎靖男が務めているが、今日の第63回定期演奏会は、藤岡幸夫の客演指揮である。
 プログラムは、吉松隆の「鳥は静かに・・・・」、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」(ソリストは遠藤真理)および「交響曲第8番」。なお、アンコールとして遠藤がカタロニア民謡「鳥の歌」を弾き、藤岡と静響はグリーグの「過ぎし春」を演奏した。

 このオーケストラを聴いたのは、実は今回が初めてなのだが、弦が驚くほど良い。コンサートマスターに青木高志、ヴィオラの首席に渡邉信一郎、チェロの首席に川上徹、という錚々たるツワモノが座っているせいもあろうが、とにかく弦全体が良い音を出す。少し地味な音色だが、しっとりして柔らかく、最強奏でもヒステリックにならないのがいい。

 木管群も安定している。但し金管と打楽器は、最強奏の際に響きがやや詰まった感じになるが、これはホールのアコースティックも関係しているだろう。
 それゆえ今日は3曲とも、柔らかい響きの楽想の部分がとりわけ印象に残った。しかし最強奏の場合でも、藤岡の情熱的な制御による弦と管のバランスの良い個所では━━協奏曲では第2楽章以降、交響曲も第1楽章中盤以降など━━極めてまとまりの良さを示していたのだった。特に交響曲では、第3楽章での弦のカンタービレが澄み切って美しく、第4楽章では追い込みの突進に見事な勢いが感じられた。聴き応え充分である。

 協奏曲では遠藤真理が、相変わらずスケールの大きな演奏を繰り広げた。爽やかで清々しいドヴォルジャークである。「鳥の歌」も、率直な演奏が美しさを生んでいた。
 彼女がNHK-FMでDJをやっていることは周知の事実だが、今日もプレトークでは、例のごとく歯切れの良い、リズミカルで筋道立った話しぶりを披露してくれた。これが、藤岡氏のちょっとヤーさまチックなトークと、なかなか面白い対照を為していた。

 4時10分頃の終演で、そのあと楽屋に行って少し雑談をしていたのだが、間に合わないだろうと思っていた4時半過ぎの東海道線下り列車に乗れ、しかも静岡駅では券売機で少し手間取ったにもかかわらず、4時52分の「こだま」に乗れてしまった。早いものである。

2016・3・26(土)山田和樹&日本フィルのマーラー&武満ツィクルス

     オーチャードホール 3時

 早朝の新幹線で帰京。
 今日から、指定席は原則として車内検札は無し、になったそうである。まあ、東海道新幹線はこれまでにも早めに検札に来ていたから、さほどのことはない。昔、東北新幹線がまだ検札をやっていた頃、乗車してから1時間以上も経って、ウトウトしはじめた時に、わざわざこちらの肩をゆすって揺り起こして検札をした中年の車掌がいたが━━あれは思い出しても腹が立つ━━当節ではそのようなことは流石になくなっていたし。

 このツィクルスも回を重ねて、早くも第6回。武満徹作品は「ノスタルジア~アンドレイ・タルコフスキーの追憶に」、マーラーは「交響曲第6番《悲劇的》」という組み合わせ。前者でソリストを、後者でコンサートマスターを務めたのは扇谷泰朋。前者でコンマスを務めたのは千葉清加だった。

 マーラーの「6番」は、どちらかといえば明るい音色の演奏だ。悲劇性を感じさせる演奏というより、若々しい、止まるところを知らぬエネルギーに沸き返った演奏といったらいいか。ホルンをはじめ、金管群の快調さが、今日は印象に残る。なお、第2楽章にスケルツォを置いた楽章配列が採られていた。

 第1楽章は、マーラーの指定は「アレグロ・エネルジーコ、マ・ノン・トロッポ」(快速にエネルギッシュに、ただしあまり速すぎることなく)だが、山田はやや速いテンポで、「マ・ノン・トロッポ」よりも「エネルジーコ」に重点を置いたようなアプローチで指揮していた。
 その推進力はまことに良かったけれども、オーケストラのバランスという点では、やや粗いものがある。トランペットによるあのイ長調からイ短調への一瞬の変化が、ティンパニの豪打とオーボエの大きなフォルティシモ、それにテンポの速さにより、かなり無造作に片づけられ、しかもほとんど聞こえない状態にあったというのは、疑問がある。ただしこれは、意図的に行われたものだろうと思う。

 これを含め、前半2楽章は、勢いで押しまくった傾向なきにしもあらず。
 私の主観では、むしろ最も優れていたのは第3楽章(アンダンテ)であった。緻密でまとまりがよく、各声部も明晰に響き、精妙な表情にあふれた出色の演奏で、このマーラー・ツィクルスの中でも最高の出来の一つだったのではないかという気がする。

 フィナーレはもう阿修羅のごとき突進で、つくづくこれは大変な曲だという思いを新たにさせられるが、しかしその分、どこに本当の頂点があるのか判らないような構築の演奏になっていたのではなかろうか。
 そのフィナーレでのミスター・ハンマーは、なかなかの芝居巧者だ。早めに大きなハンマーを振り上げて、構えている。このハンマー、奏者によっては、照れなのか真面目なのか、何かさり気なく打ち下ろしてしまうことがある。それはそれで悪くはないが、しかしやはりここは、大見得切って打ち下ろす方が面白い。

 「ノスタルジア」は、もちろん静謐で、独白するような叙情的な美しさにあふれた演奏であった。昔、日本の陶器美術の写真集を見ながらこの曲をラジオで聴いていて、形容しがたい陶酔に引き込まれたことがあったが、今日も山田和樹と日本フィルの演奏を聴きながら、ふとそれを思い出していた。ただし、この静謐さは、この大きなホールの後方では、どう響いたろうか?

 余談だが昔、井上道義さんが東京文化会館で新日本フィルを指揮した時、ハンマーを下手側の舞台前面に配置して猛烈に打ち下ろさせたことがある。そのたびごとに第1ヴァイオリンの後方プルトの女性何人かの腰がフワッと浮き上がる(本当である)光景は、実に可笑しかった。
 練習の時、井上さんに「いっそ本番で自分が指揮台で叩くのはどう?」とけしかけたら、「やってみようか」とノリノリになり、腕まくりをして両手にペッペッと唾を吹きかけ、ハンマーを握るジェスチュアをしてみせたことがあったっけ。そういえば彼はロイヤル・フィルへのデビューでこの曲を指揮した時には、日本でハンマーを自作してロンドンまで持って行ったことがあった。3回公演をやって、本番の最後の1発でそれは壊れたそうである。

 ツィクルス、次の「7番」以降は、来年5~6月になる。

2016・3・25(金)飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団

      ザ・シンフォニーホール  7時

 第207回定期演奏会で、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはヤン・イラーチェク・フォン・アルニン)と、チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」。指揮は首席指揮者・飯森範親、コンサートマスターは首席客演コンマスの荒井英治。

 ソリストのフォン・アルニンが、ラフマニノフをなんともクソ真面目に、整然と古典派作品的に弾くのには驚いた。ウィーンで国立音大教授や国際ベートーヴェン・ピアノ・コンクール芸術監督・会長を務める人となれば、なるほどという感じである。こういう、いわゆるヴィルトゥオーゾ的でないスタイルのラフマニノフ像というのも、それはそれで興味深いアプローチの仕方だが、実際に聴いてみると、やはりどうも面白味に欠けるというのが正直な感想。しかし、ブラヴォーは少し飛んでいた。

 私の目当てだった「マンフレッド交響曲」では、予想以上にきっちりと構築された演奏を聴くことができたのが嬉しい。特に細かい音型が連続することの多い中間の2つの楽章では、緻密なアンサンブルが発揮され、曲に織り込まれている標題性も的確に再現されていた。こういう精密なアンサンブルは、飯森がこのオーケストラの首席指揮者に就任した直後のブラームスなどではあまり聞かれなかったものだ。

 これはおそらく、あの「ハイドン・ツィクルス」がもたらした成果ではなかろうか。
 飯森はかつて山形響で8年間にわたりモーツァルトの交響曲ツィクルスを実施、その過程で山響のアンサンブルを飛躍的に高めて行ったことがある。その彼が日本センチュリー響でハイドンのツィクルスを実施すると発表した時、それがアンサンブルの整備を隠しテーマとしていることは、オケに詳しい人ならすぐに解ったはずである。オケにとって、モーツァルトやハイドンをきちんと演奏することがいかに大切であるかは、世界のオーケストラ界の常識だからだ(ハイドンがモーツァルトに比べて客に受けるかどうかは、また別の問題だが、もう始まっている以上、云々しても仕方がない)。

 こういう成果が表れているからには、このまま進めばいい線に行くのではなかろうか? 今日はホルンも充実していたし、他の管楽器セクションも充実していた。弦楽セクションも、カンタービレの個所では美しく澄み切った音色を紡ぎ出していた。

 ただし、弦も管も、大きな課題は「量感」であろう(音量のことではない)。
 その弱音のカンタービレの個所は大変綺麗なのだが、しかし、そこにもたっぷりした膨らみのある音がもっと欲しい。最強奏になった時は、なおさらである。第1楽章終結部や第4楽章の大半での最強奏の音は、残念ながら決して綺麗とは言えない。いっそうの明晰さと豊麗さが欲しいところである。
 そうした豊かさが音の中に生まれれば、全体の演奏にも「陰翳の濃さと多彩さ」や、チャイコフスキーの音楽特有の「白夜的な透明さ」が備わって来るのではないか。たとえば第2楽章中間部などには、音楽の色合いに「明」と「翳り」の対比がもっと欲しいのである。これからに期待したい。

 今回の「マンフレッド交響曲」は、最後は第1楽章コーダを再現して最強奏で終る版ではなく、オルガンを交え、悲劇的に静かに結ばれる版で演奏された。やはりこれが一番良い。それにしてもこの第4楽章は、何度聴いてもヘンな曲である━━。

(注)最後を阿鼻叫喚の修羅場で終る「原典版」は、1992年10月にスヴェトラーノフがロシア交響楽団を指揮して日本で演奏したことがある。ライヴCDもポニーキャニオンから出ていた。
           ☞別稿 音楽の友5月号 Concert Reviews

2016・3・24(木)夢幻能「月に憑かれたピエロ」

    東京文化会館小ホール  7時

 大ホールでの「夕鶴」が終演して2時間半後、今度は小ホールでの「東京・春・音楽祭」公演を聴く。

 シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」と能とを結び合わせた、注目すべき意欲的な企画だ。ソプラノの中嶋彰子さんがコンセプトを作り、自ら歌いつつ演出も行なっている。
 シェーンベルクの世界と、その中に挿入される能の世界とが、実に自然に、違和感なく結びつくさまが素晴らしい。両者の音楽が交錯して行く過程も、巧くできるものだな、と感心させられるところが多い。ほんの一例だが、能の笛の音がそのまま「ピエロ」のフルートに受け渡されるという手法の個所もいくつかある。これも巧みなアイディアだ。

 この「中嶋彰子の夢幻能」は、2012年12月10日にもすみだトリフォニーホールで観たことがあるので、詳細はその日の項に譲る。
 ただ今回は、演出と、特に能の部分が、以前のものとかなり異なっている。前回は謡の部分がかなり多く、「ピエロの愛と生涯」のような「物語性」が具体的に感じられたが、今回は舞に重点が置かれていたようである。そのため物語の具体性や、劇的な面白味といったものは希薄になったけれども、舞台の幻想味はむしろ増したかもしれない。外国で上演する場合には、この形の方が良いのではないかと思われる。

 背景に投映される映像(高岡真也)はほぼ前回と同じで、巨大な月、詩の内容を少しイメージ化した日本語がデザイン化された字体で幻想的に投影されて行く。いわゆる字幕とは違うので、「シュプレヒゲザング」される言葉がすべて映し出されるわけではなく、曲の内容すべてをここから理解できるということにはならない。前回はこれについて少々疑問を呈した次第だが、映像動画に幻想味をもたせるという点からすれば、これはやはりこのままの形が正解だろう。

 今回の協演は、指揮がニルス・ムース、ヴァイオリンとヴィオラが水谷晃、チェロが上野通明、フルートが齋藤和志、クラリネットがコハーン・イシュトヴァーン、ピアノが斉藤雅昭、シテ役が渡邊 之助、笛が松田弘之、太鼓が望月太喜之丞、地謡が佐野登、藤井雅之、高橋憲正。何人かは前回の上演の際と共通した顔ぶれだ。

2016・3・24(木)團伊玖磨:「夕鶴」

   東京文化会館大ホール  2時

 市川右近の演出、千住博の美術、成瀬一裕の照明、森英恵の衣装、現田茂夫の指揮、佐藤しのぶの主演による「夕鶴」のプロダクションの再演。今年は2月14日から3月27日まで、10都市計11回の公演である。

 1952年に初演されたわが国のオペラの定番、「夕鶴」が、囲炉裏とか野良着とか、鍋とか茶碗とかが出て来る伝統的な演出スタイルから解放され、大道具も小道具もほとんどない、照明と映像を中心にした舞台で演じられるようになったのは、ある意味で目出度い傾向であると言えるだろう。
 もちろん、民族的な香り豊かな農村の光景による「夕鶴」の舞台も、それはそれで魅力はあるけれども、そうでない抽象的な舞台演出にも耐え得るオペラであるということが証明されたわけだからだ。いずれは、これがどこか昭和の町を舞台にした設定で上演される日が来るかもしれない。

 このプロダクションについては、プレミエの2014年3月(14日)のところで書いたので、詳細は省く。市川右近の演出は、動きを抑え、静的な緊張感を保たせて物語を進めるという、まさに日本の歌舞伎か能のような手法を採っている。とはいえ、これが完全に成功していたかどうかは一概には言い難く、特に全曲の幕切れの場面などは些か「間」が保てない感がないでもなかった(そこでの子供たちの動きが妙にアンバランスな感を与えた所為もあっただろう)。だがこれは、好みにもよるだろう。

 出演は、佐藤しのぶのつうの他、倉石真の与ひょう、原田圭の運ず、高橋啓三の惣ど。ピットには東京シティ・フィルが入り、子供たちは杉並児童合唱団が歌い演じた。
 佐藤しのぶの舞台姿には今も流石に華があるが、1人のスター歌手に頼り過ぎるのは無理を生じる━━ということも考えなくてはならぬ時期になって来たかもしれない。
 男声陣で舞台姿が市川右近の演出意図に合っているように感じられたのは、やはり高橋啓三だ。仁王立ちになった姿からして、サマになっている。
 シティ・フィルは、時に弦が透明な音色で美しさを出すこともあるのだが、概して音の響きが薄い。

2016・3・23(水)「ナイトミュージアム」コンサート

   国立科学博物館地球館・常設展示室  7時

 「東京・春・音楽祭」公演のひとつで、これは同音楽祭実行委員会と国立科学博物館の共催の由。
 国立科学博物館の地球館・常設展示室の3階から地下2階までを使い、各々のフロアで5種類の演奏会(各15分~20分)と2種類のスペシャルトークを編成、客は好みのものを順に聴いて歩く、という趣向だ。

 各展示室も大半は昼間と同様に公開されているので、演奏を遠く近く聴きつつ、恐竜や古代人など地球史の展示を見ながら歩くことができるというオマケもついていたのは有難い。
 ただし、「ナイトミュージアム」とは言っても、館内あまねく煌々と照明がついているから、不気味な雰囲気など全然ない。例の映画のようには行かないのが、残念といえば残念か。

 それでも、巨大なティラノサウルスやアパトサウルスの骨格の横で篠崎和子さんがハープの演奏をしたり、古代生物の標本の傍で三村奈々恵さんがマリンバの演奏会をやったり、零戦の飛行機を背景に小林壱成さん(ヴァイオリン)と鳥羽亜矢子さん(ピアノ)がデュオを繰り広げたり、という趣向は、聴覚と視覚の不思議な不均衡と、同時に不思議な調和を感じさせ、一風変わった音楽会として面白さを生む。
 もっとも、折角の綺麗なハープの演奏に、近くのエスカレーターのうるさい注意アナウンス「ヨイコノミナサン・・・・」なんてのが混じって来るなどというのは興醒めで、こういうところには規則一辺倒でなく、もっと神経を使って欲しいものである。

 どの会場も椅子はごく僅かしかないので、長時間歩きまわり、しかも立ったまま聴く、というのは、些か疲れる。むしろ、恐竜やミイラが動き出しそうな暗い会場で不気味な雰囲気に浸りつつ、1時間ほどゆっくり座ったまま落ち着いて演奏を聴く、という趣向もあっていいと思うのだが、しかし、そんな展示室はなさそうだ。もともと音楽会場ではないのだから仕方がない。

 なお演奏会としてはその他にも、大田智美のアコーディオン・コンサート、若林かをり(フルート)と小暮浩史(ギター)のデュオ・コンサートがあった。
 また6時半から8時まで中2階のドリンクコーナーが開かれ、配布プログラムに添付された無料チケットによるドリンクが供され、有料のサンドウィッチやミニ・ソーセージドッグやミニ・パイなどが食べられるというサービスもあった。

2016・3・21(月)アンナ・ネトレプコ スペシャル・コンサート

     サントリーホール  6時

 テノールのユシフ・エイヴァゾフと、ヤデル・ビニャミーニ指揮の東京フィルが協演してのオペラ・コンサート。

 アンナ・ネトレプコがソロで歌ったのは、チレアの「アドリアーナ・ルクヴルール」から「私は神の卑しいしもべです」、ヴェルディの「トロヴァトーレ」から「穏やかな夜」、プッチーニの「蝶々夫人」から「ある晴れた日に」、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」から「亡くなった母が」、アンコールでのカールマンの「チャールダシュの女王」から「山こそ我が故郷」。

 一方、エイヴァゾフがソロで歌ったのが、チレアの「アルルの女」から「フェデリーコの嘆き」、「トロヴァトーレ」から「見よ、恐ろしい炎を」、プッチーニの「トスカ」から「星は光りぬ」、「アンドレア・シェニエ」から「5月の晴れた日のように」、アンコールでのプッチーニの「トゥーランドット」から「だれも寝てはならぬ」。

 そして、2人がデュオで歌ったのが、ヴェルディの「オテロ」から第1幕の2重唱「すでに夜も更けた」と、「アンドレア・シェニエ」から第3幕の2重唱、アンコールでのクルティスの「忘れな草」。

 さらに、オーケストラだけの演奏が、ヴェルディの「運命の力」序曲と「アッティラ」序曲、プッチーニの「マノン・レスコー」間奏曲。━━こういう、盛りだくさんのプログラムだった。

 ネトレプコは、本当に上手くなった。20年前の可憐な新人ソプラノの時代から取材かたがた聴いて来ている者にとっては、感無量のものがある。つい数年前までは気になっていた低音域の声も、ほぼ完璧になった。あの独特のまろやかな声の響きと表情、それに輝かしい存在感は、歌手としての最高の魅力である。

 ただし、絶賛してばかりもいられない。こうしてリサイタルの形でいろいろな役柄を聴き比べてみると、どうも、どのキャラクターも全て同じような歌唱の表現になってしまうのが気になる。豊麗さのみが目立って、やや単調な印象を免れないのだ。
 たとえば、アドリアーナやレオノーラ(「トロヴァトーレ」)は見事な表現だと思うが 蝶々夫人はあまりに滑らかすぎて苦悩の表情に不足するだろうし、マッダレーナ(「アンドレア・シェニエ」)にも、もう少し感情の襞の表現といったものが欲しい。

 とはいえ、昨年ザルツブルクでレオノーラを聴いた時には、舞台での演技があったためか、かなり感情の起伏の激しい、劇的な歌い方をしていたのは事実である。生来のオペラ女優たる彼女のことだから、舞台で芝居をしながら歌えば、他の役柄でももっと劇的で感情豊かな歌唱を聴かせるようになっているかもしれない。「山こそ我が故郷」での華やかなエンターテイナーぶりは、何ものにも替えがたい才能だ。

 共演のエイヴァゾフは、大スターのネトレプコに比べ、拍手も最初はちょっと薄くて損な役回りかという気もしたが、いざ歌い出すとこれがなかなかのもの。マンリーコでは高音を鮮やかに決めて大拍手を浴び、最後の「だれも寝てはならぬ」ではついに場内を熱狂させた。アンドレア・シェニエも、デル・モナコ的な英雄的詩人のタイプでなく、叙情的な詩人の役柄と解釈すれば、適役のうちに入るだろう。
 ただ、彼の声質と表情からすると、どうみても、英雄オテロのガラではない。それにしてもこのテノール役が付け足し的存在にならず、堂々ネトレプコと張り合うパワーを発揮していたことは幸いだった。

 なお「アンドレア・シェニエ」の最後で、2人の名を呼ぶ係の役を歌った狩野賢一は、たった2声だったが、結構力強い声を聴かせていた。
 東京フィルは好演。指揮のビニャミーニは、まだ経験が浅い人らしく、コンサート形式で歌とバランスを取ってオーケストラを鳴らす技術は、あまり上手くないようである。

2016・3・20(日)大友直人指揮群馬交響楽団の「トゥーランガリラ」

     すみだトリフォニーホール  3時

 音楽監督・大友直人が指揮する群馬交響楽団の演奏を聴くのは、一昨年の3月23日の高崎以来、2年ぶり。あの時はその東京公演が何かとダブっていて聴けなかったので、わざわざ高崎まで聴きに行ったのだった。

 今回はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」というプログラムなので、このトリフォニーホールで聴く方が、私の好みには合う。
 後者での協演は、おなじみの名手、児玉桃(ピアノ)と、原田節(オンド・マルトノ)である。コンサートマスターは伊藤文乃。

 曲目を見た時、もしかしたらこの2曲を切れ目なしに演奏するのかと思ったが━━「牧神」が夢のように溶解して行ったあと、すぐ続いて「トゥーランガリラ」が轟然と幕を切って落とすというのも劇的でいいだろうと思うのだが━━大友さんは多分そういう「演出」は嫌いな人だろうから、「牧神」1曲で休憩を入れるだろうなと予想し直した。
 結果はその通り。10分足らずの曲一つやっただけで休憩というのも、ちょっと落ち着かない。
 だが、フルートのパヴェル・フォルティン(第一奏者)のソロをはじめとする群響の醸し出す音色はすこぶる豊麗で、このオーケストラが高関時代から引続き高い演奏水準を保ち続けていることが直ちに感じ取れたのであった。

 総譜の指定通りの大編成で演奏された「トゥーランガリラ交響曲」は、3階のバルコン席で聴いたが、まさに大友直人ならではの、完璧なほどの均衡を備えた壮麗な音の構築による快演だ。殊更に刺激的ではなく、また殊更に官能的な陶酔に走ることなく、しかし豊かなふくらみのある、オーケストラの内声の動きまで聞き取れる明晰な音色で、メシアンの色彩的な響きを充分に再現して行く。オーケストラを制御する大友の手腕は、相変わらず巧みである。

 そして、彼の指揮で聴くと、この大交響曲も、斬新な「現代音楽」としての役割をすでに終え、フランス音楽史の系列の中にどっしりと落ち着いて位置するに至った20世紀の名曲━━というイメージで私たちの前に立ち現れて来るのだった。
 ホールを揺るがす大音響という点を除いては、スリリングな要素はそれほどない演奏だが、しかし最終楽章の幕切れでの、均整を保ったままクレッシェンドして行った見事な音響美は、やはり熱狂的な拍手を呼ぶにふさわしいものであったろう。

 群響も、今日のような大編成ではエキストラもかなり多いはずながら、しっとりと溶け合ったアンサンブルで、見事な演奏を聴かせてくれた。このオーケストラの東京公演はこれまで何度も聴いているが、失望させられた記憶は無い。

2016・3・19(土)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

     みなとみらいホール  6時

 神奈川県民ホールでの「さまよえるオランダ人」がはねたあと、近くのみなとみらいホールに移動しても充分時間に余裕がある。
 こちらは日本フィルの横浜定期だ。広上淳一が客演指揮して、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは南紫音)とベートーヴェンの「交響曲第7番」。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 チャイコフスキーが始まった瞬間、日本フィルの弦の音の良さに魅了される。
 何でも最近、ここの舞台の表面をどうとかして改良したので、音が良くなったらしい・・・・とかいう話も聞いたが、たしかにその影響もあるのかもしれないけれども、やはりこれは広上のオーケストラの制御の巧さと、日本フィルの演奏水準の向上によるところが多いのではないかという気がする。
 その協奏曲で、南紫音の正確かつ明晰なソロを豊麗に支え、リードして行った広上と日本フィルの演奏は鮮やかそのもの、特に第2楽章の夢見るような哀愁美は絶品であった。

 「第7交響曲」では、やや遅めのイン・テンポで大河のごとく進められるストレートな音楽構築の裡に、随所でティンパニや金管のアクセントが烈しく強調され、この曲の「リズムの饗宴」としての性格が多彩に際立たせられる。その一方、第2楽章では驚くほどミステリアスで玲瓏たる音の世界が繰り広げられたのには、本当に感心した。

 南紫音の演奏は、北九州音楽祭以降、何度か聴いているが、確実に成長を重ねているようである。透徹した音色と澄んだ叙情性が見事で、これに温かい情感が加わって来れば申し分ないだろう。ソロ・アンコールには、グラジナ・バツェヴィチの「ポーリッシュ・カプリッチョ」を弾いたが、これも活気のある躍動にあふれた好演だった。

 なお広上と日本フィルも、アンコールでバッハの「アリア」を演奏したが、どうもこれを聴くと、あの「3・11」直後の演奏会が思い出されてしまい━━。

2016・3・19(土)ワーグナー:「さまよえるオランダ人」

      神奈川県民ホール  2時

 びわ湖ホール、神奈川県民ホール、iichiko総合文化センター、東京二期会、京都市響、神奈川フィル、九州響が共同制作として名を連ねる「さまよえるオランダ人」。
 指揮は沼尻竜典、演出はミヒャエル・ハンペ、装置と衣装はヘニング・フォン・ギールケ。
 3月5日と6日にびわ湖ホールで観たものと同じなので、詳細は省く。

 今日は横浜の初日公演。びわ湖ホールで2日目に出演した人たちが、こちら神奈川県民ホール公演では初日に歌う。ロバート・ボーク(オランダ人船長)、斉木健司(ノルウェー船長ダーラント)、横山恵子(その娘ゼンタ)、樋口達哉(狩人エリック)、竹本節子(乳母マリー)、高橋淳(舵手)。
 合唱は全日同じで、二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部。
 オーケストラは、こちらでは神奈川フィルが担当した。

 ホールが異なり、それも初日公演となると、慣れないことも手伝ってか、プロジェクション・マッピングの映像や照明にも、若干のずれが出るものらしい。
 今日の映像には、残念ながら、びわ湖ホールの2日目公演(6日)におけるような完璧さを見ることは出来なかった。特に第3幕での幽霊船の映像では、びわ湖ホールにおける2日間の上演ではついぞ無かったような、不自然なぎこちなさが目立ってしまった。見せ場だっただけに、惜しいことこの上ない。明日の公演では改善されるだろう。

 歌手陣では、ゼンタ役の横山恵子が、びわ湖ホール公演を遥かに上回る、見事な歌唱だった。力み返ったような感じも消え、伸びの良い声を聴かせてくれた。彼女は以前の「ヴァルキューレ」の時もそうだったが、2回目の公演での方が、飛躍的に良くなるようである。ただ今回、びわ湖ホールの時よりも類型的な「手の動き」が増えたように見えたのは、演技に厳しいハンペ親方がいないため、ふだんの癖が出てしまったのか? 

 これに対しオランダ人役のボークは、びわ湖ホールでの方が、遥かに迫力があった。今日は体調でも悪かったか? 第3幕の「Segel auf! Anker los!(帆を揚げよ!錨を上げろ!)」の個所で落ちてしまったのは、声が一瞬出なくなったためだろうか? 遠目に見ると伊吹吾郎に似た侍っぽい顔付の、押し出しも良い人だけに、今回はちょっと惜しかった。

 神奈川フィルは、ホルンに難があったものの、全体としては予想以上に頑張っていた。京都市響の密度の濃い響きに比べると、どうしても随所に音の薄さが感じられてしまうのは残念だが、とにかく、ピットの中でワーグナーをこれだけたっぷり聴かせてくれたのだから、善しとしよう。
 オーケストラをここまで引っ張った沼尻竜典の指揮は、実に見事であった。今回の上演の成功の最大の功績者は彼であったことに間違いはない。

 4時半終演。

 ※第1幕でずっと続いていた「異音」、私も閉口していましたが、「感動人」様がホール側から得た回答によれば、高齢の観客が健康上の理由で携えていた「酸素ボンベの異音」だったということ(☞コメント)で、少々驚いております。そういうケースは、これからも増えてくるかもしれませんね。といって、対策もなかなか難しく・・・・。

2016・3・18(金)下野竜也指揮東京混声合唱団

    第一生命ホール  7時

 今年が創立60周年にあたる東京混声合唱団(音楽監督・山田和樹)の第239回定期演奏会。
 今日の指揮は客演の下野竜也で、イルデブランド・ピツェッティの「レクイエム」、三善晃の「トルスⅡ」、ブルックナーのモテット4曲(「うたえ、舌よ」「この場所は神によりつくられた」「エッサイの枝が」「王の御旗が翻る」)、松村禎三の「暁の讃歌」━━というプログラム。
 協演の器楽奏者は浅井道子(ピアノ)、大竹くみ(エレクトーン)、高橋明邦&加藤博文(打楽器)。

 ブルックナーでのハーモニーの美しさは圧巻で、さすが「東混」の面目躍如たるものがある。また萩原朔太郎の詩による三善晃の「トルスⅡ」も、透明な不気味さが巧みに表出されていた。いずれも下野竜也の「持って行き方の巧さ」を含めて素晴らしい演奏だった。
 冒頭のピツェッティは、テノールのパートの弱音にちょっと気になるところもあったけれども、珍しい作品を聴かせてもらったという充足感の方が大きい。「暁の讃歌」は、大変な曲で、声の負担も大きいだろうが、極めて野性的な、劇的な演奏がつくられていた。

 かように、演奏の面ではどれも聴き応えがあったが、今日は何やらエレクトーンの接続端子が不良だったとかで、本番中、修理にかなりの時間を費やした。間繋ぎとしてマエストロ下野が丁重にお詫びコメントを述べたついでに、彼独特のユーモアたっぷりの話を披露して客席を笑わせ、和ませたのはたいへん結構であった。とはいえ、そもそも、お詫びを客演指揮者に言わせるのは筋違いであろう。それは東混側がやるべきものである。

2016・3・17(木)ムーティ指揮のヴェルディとボイト

      東京芸術劇場コンサートホール  7時

 恒例の「東京・春・音楽祭」が昨日開幕。そのオープニング・プログラムは、巨匠リッカルド・ムーティの指揮である。

 前半はヴェルディの作品からで、「ナブッコ」から序曲と第1幕冒頭の合唱、「アッティラ」からアッティラのアリアとカバレッタ、「マクベス」からの舞曲、「運命の力」序曲、「第1回十字軍のロンバルディア人」から「エルサレムへ、エルサレムへ」。後半にアッリゴ・ボイトの「メフィストーフェレ」から「プロローグ」というプログラムだ。

 合唱は東京オペラシンガーズと東京少年少女合唱団、バスのソロがイルダール・アブドラザコフ。オーケストラは、日本のプロ・オケのメンバーで構成されている「東京春祭特別オーケストラ」と、2004年にムーティが設立したイタリアの若手楽員のみによる「ルイージ・ケルビーニ・ジョヴァニーレ管弦楽団」の合同で、「日伊国交樹立150周年記念オーケストラ」と号している。コンサートマスターは、長原幸太とAdele Vigliettiが、前半と後半を分け合って担当していた。

 今日が2日目のはずなのだが、そうは思えぬほど、最初のうちはオーケストラがガサガサしていて、アインザッツは合わぬ、音色は綺麗でない、など、いかにも臨時編成オーケストラ丸出しの雰囲気ではあったものの、3曲目あたりからは次第にまとまって来て、量感もたっぷりの演奏になって行った。ただ、合唱(かなりの大編成)は、最後までアタマだけがしばしば合わぬという状況だったが。
 しかし、この日のプログラムは、そういうことをうるさく言う必要のない作品ばかりだし、それにあのムーティの鳴らしっぷりの良さを聴けば、その威勢のいい、沸き立つような華麗な演奏に、心も躍るというものである。

 今日は聴いた席が1階の最後列の隅に近い位置で、弦があまり聞こえて来ないわりには、トロンボーンなど金管がガンガン飛んで来て、最初の「ナブッコ」の2曲など耳を劈くばかりの大音響(しかも音が汚い)なので些か閉口した。
 だが、2階席で聴いていた知人何人かに訊いてみると、上階ではこれと全く異なる印象だったそうである。したがって、どうこう即断することは出来ない。

 それにしても、「メフィストーフェレ」の「プロローグ」をナマで聴けたのは、嬉しい。
 この曲、かつて吉田秀和氏がトスカニーニの指揮するこの曲をカーネギーホールで聴き、演奏に「ローマ的な威圧感」を感じた(つまり「ローマ帝国」的ということ)と書いておられたのを読んで、トスカニーニの指揮ならさもありなん、と憧れたこともあった。事実、良い演奏で聴けば、そのように凄まじい迫力だけでなく、マーラーの「千人の交響曲」の最終頂点個所を上回るほどの、本当に壮麗極まる音楽になるのである。

 今回は、合唱団の後方に金管のバンダが計17人もずらりと並ぶ大がかりな管弦楽編成で、メフィストーフェレ役のアブドラザコフが張りのある歌唱を聴かせた。
 上手手前に位置した「小天使たち」の合唱はやや粗く、空中を浮遊して歌う「蜜蜂のような」イメージが全く出て来なかったのは残念だったが、合唱団本体の方は全力をあげた絶唱で、クライマックスではバンダを含む大編成の管弦楽の咆哮の中で、声をいつまでも長く延ばし続けていた。

 すこぶる荒っぽい(何度も言うが1階席最後列での印象)演奏だったが、ただしそれは、表面だけのこと。作品そのものに対するムーティのアプローチは、あくまでも真摯で、正確で、丁寧である。そして、だれよりも熱っぽいムーティの音楽なのである。

2016・3・16(水)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時15分

 上岡敏之の音楽監督への着任は今秋だが、とにかく「新日本フィルのこれからを占う」という意味もあって、かなりの注目を集める演奏会だった。いくつかの商売敵(?)のオケの事務局スタッフも来ていたほどである。

 プログラムは、シューベルトの「第1交響曲」とマーラーの「第1交響曲《巨人》」。
 前者では、木管の和声の音色を重視し、それらをしばしば前面に浮かび上がらせ、かつ和音のアタックを柔らかめに響かせるという、ユニークな音の構築が採られていた。
 いかにも上岡らしい手法だが、このタイプの音づくりにはあまり慣れていないらしい新日本フィル━━正反対の音を持ったアルミンクらの指揮者たちを長年シェフとして戴いて来たのだから、それも仕方ないかもしれない━━としては、些か演奏がぎこちない。第1楽章などは少々無理をしているなという感もあった。

 それでも、楽章を追うごとにまとまりがよくなって行ったようにも思われ、特に第2楽章と、第3楽章のトリオと、第4楽章の大詰では、上岡の個性もオーケストラにうまく反映していたようである。
 いずれにせよ、上岡のようなタイプの指揮者を迎えた場合には、いっそうオーケストラの楽員自体に明確な自発性が求められるだろう。コンサートマスターの崔文洙の手腕が要求されるところである。

 マーラーでは、上岡らしく、スコアの再現にかなり細かい読みが示されていた。第1楽章でのチェロと、第2楽章でのヴィオラとに指定されているグリッサンドをこれほどはっきりと浮かび上がらせた演奏は初めて聴いたが、これらは妖艶な雰囲気を醸し出し、この曲に更なるエクセントリックな側面を感じさせる基となっていた。こういうスコアの読みの面白さを出してくれるのが上岡の指揮における一例である。

 ただ、このマーラーでは、上岡の本領は、まだ充分に発揮されていなかっただろう。とりわけ響きの透明さに関しては、理想的な段階からきわめて遠い。彼と新日本フィルとの呼吸が合い、各々の個性が良いレベルで結びつくには、今後それなりの時間を要するのではないか。

 だが、このオーケストラに新風を吹き込むという意味では、彼の音楽監督就任は大いに歓迎される出来事であることはもちろんである。
 日本人指揮者にしては非常に個性の強い音楽をやる人だから、聴衆の好みも分かれるだろう。それもいい。ある程度物議を醸すような指揮者が登場しないと、オーケストラ界は面白くならない。

2016・3・13(日)高関健指揮京都市交響楽団

    京都コンサートホール  2時半

 マーラーの交響曲第6番「悲劇的」が演奏された。
 京都市響(ゲスト・コンサートマスターは荒井英治)の演奏が素晴らしい。今やわが国のオーケストラの中でも、上位の五指グループに入る水準であろう(細かい順位付けは避ける)。

 常任首席客演指揮者・高関健の制御が鮮やかだったことはもちろんだが、オーケストラの力量も驚異的である。
 ホルン・セクションは相変わらずパンチの利いたパワーだし、トランペット・セクションも輝かしく強力だ。その他の管セクションも充実している。弦の内声部の明晰なしなやかさも見事で、これがマーラーの複雑なオーケストレーションを明晰に交錯させ、音楽をいっそう劇的なものとする基となっていただろう。

 高関健は、全曲を速めのテンポで進め(演奏時間は80分を少し割り込んだ)、しかも鋭く攻撃的に構築して行った。たとえばハープのグリッサンドなどのさまざまな挿入句を鮮烈に浮かび上がらせ、衝撃的な音楽をつくる。
 それは荒々しい奔流のごとき演奏で、第1楽章における「イ長調からイ短調への転換」もことさらに強調されることなく行われたし、また第4楽章でも「英雄の悲劇的な闘争、苛烈な打撃」といったような標題的な要素に思いをめぐらす余裕など与えないといった、ひたすら音楽のエネルギーを求めた音楽づくりだったのである。

 この辺りは、聴き手により、好みを分けるだろう。私も、今日のようなタイプの演奏を聴くと、マーラーもちょっとやり過ぎではないか、何故そんなに怒号し続けるのだ、という疑問が頭をもたげ、もう少し感情の襞も欲しいな、と思わないでもない。
 とはいえ、「第6交響曲」の中にある恐るべきエネルジーコな要素を浮き彫りにする手法として、こういうスタイルが一つの考え方として成り立つことには、納得せざるを得まい。それに、これだけ熱っぽい演奏をする上手いオーケストラを西日本で聴けたことが、何よりうれしい。

 今回は、第2楽章にアンダンテを、第3楽章にスケルツォを置いた演奏だった。国際マーラー協会は、現在ではこの順序を公認の決定版としている。
 とはいっても私はやはり、スケルツォ楽章のあとに緩徐楽章を置くスタイルの方になじみがあるのだが、━━しかし今日の高関さんの、まさにアンダンテのテンポによる指揮を聴いて、なるほどと思わされたのは、この緩徐楽章を第2楽章として演奏した方が、マーラーのその指定のテンポが、感覚的にも納得できるような気がする、ということであった。
 つまり、この緩徐楽章を第3楽章に持って来ると、それまでに荒々しい楽章を2つも体験して来ているので、アンダンテよりも、沈潜したアダージョのテンポを気分的に求めたくなってしまうのではないかと。
 ━━もちろんこれは私の単なる個人的な、情緒的な気分の話だから、論理性はないだろうと思うが。

 以前の演奏会の時にも書いた記憶があるが、カーテンコールの時に、特に弦の女性楽員たちが客席に向けて自然に見せている笑顔が素晴らしい。いかにも力いっぱい、愉しんで演奏したという表情である。こういう雰囲気を持つオーケストラは、日本では、京響だけである。

 それにしてもこの数年来、京都市響の演奏は、本当に良い状態に在る。今年に入って聴いたものだけでも、ロームシアター京都での「フィデリオ」しかり、びわ湖ホールでの「さまよえるオランダ人」しかり。
 こうなると、大いなる功績のあるシェフの広上淳一(常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザー)が振った1月24日の定期を都合で聴きに行けなかったのが悔やまれるが、また聴く機会もあるだろう。その他にも、秋の「トゥーランガリラ交響曲」(高関指揮)、シュトックハウゼンの「グルッペン」(広上、高関、下野指揮)など、聴きたいプログラムが揃っている。

 終演は4時。引き続きホワイエでは楽員と聴衆との交流レセプションが行なわれるようだったが、私はそのまま失礼した。17:05の新幹線に乗る。
     別稿 モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

2016・3・12(土)「クラシック・コンサート制作基礎講座」第2回

     昭和音楽大学  1時

 これはコンサートではなく、「公開音楽講座」。一般社団法人日本クラシック音楽事業協会が昭和音大の全面的協力のもとに、2日間にわたり開催している大規模な講演会である。

 手っ取り早く言えば、クラシック音楽界のマネージメントを志す人々、あるいはすでに現場でその仕事に従事している人々のための、クラシック音楽の制作現場の第一線で活躍している人々によるゼミナール━━という趣旨だ。

 第1回の今日は、石田麻子・昭和音楽大学教授による基調講演に続いて、入山功一・AMATI代表取締役、桑原浩・日本オーケストラ連盟常務理事、乾美宇・ジャパン・アーツ海外事業部長が、それぞれクラシック音楽の企画制作現場の仕事について、密度の濃い講演を行なった。受講者は100人近くいたろうか。熱心にメモを取る姿が印象に残った。

 まあ、私もかつては放送現場に身を置いていた関係で、大体はすでに承知している内容ではあるが、それでも現在の最前線で活躍する業界人たちが熱っぽく語る「アーティスト・マネージメント」関連のレクチャーを聴いていると、久しぶりに現場に戻ったような感覚になり、面白い。

 明日も林伸光・兵庫県立芸術文化センターゼネラルマネージャーや、中井孝栄・インタースペース代表取締役、吉田純子・朝日新聞社編集委員の公演や、ピアニスト・小川典子の特別講演があり、更にパネル・ディスカッションと「修了証書授与」(!)もあるそうだが、あいにく私の方は、明日は京都へ京響を聴きに行くことになっているので、講座の見学取材は今日のみ。

2016・3・11(金)ロータス・クァルテット

     サルビアホール・音楽ホール  7時

 JRと京浜急行の鶴見駅前、横浜市鶴見区民センターの中にあるサルビアホールの音楽ホールで行われている「クァルテット・シリーズ」を、先月に続いて聴きに行く。

 今日の出演は、シュトゥットガルトに本拠を置くロータス・クァルテット。1992年に結成された小林幸子、マティアス・ノインドルフ、山碕智子、斎藤千尋の4人からなる、あの名門メロス・クァルテットに師事した弦楽四重奏団である。
 プログラムはベートーヴェンの「第14番 作品131」と、シューベルトの「弦楽五重奏曲」だったが、後者には彼らの先生たる元メロス・クァルテットのチェリストだったペーター・ブックがゲストとして加わった。

 さすが四半世紀のキャリアを持つ団体にふさわしく、強靭なアンサンブルと正確な技術に支えられた厳しい造型の音楽をつくる。
 「作品131」など、とかくナマの演奏会では所々いい加減な弾き方になる四重奏団が多いものだが、ロータス・クァルテットは、実に隙のない合奏で、このベートーヴェン晩年の難曲をがっちりと構築して行った。あまりに見事なほど強面の表情なので、その点に多少の疑問もないではないが━━しかし立派な演奏であることに変わりはない。

 一方「五重奏曲」は、大先生みずから参加しているとなれば、さらに引き締まらざるを得ないだろう。これも厳しく堅固に聳え立つ演奏で、驚異的な集中力に満ち、長さを全く感じさせぬ音楽となっている。
 全曲大詰の個所は、良い演奏で聴くと慄然とさせられるものがあり、死を間近にしたシューベルトの魔性的な感性を思わせるところなのだが、今日もそこまでの演奏があまりに集中力に富んでいたために、最後の破局的で不気味な、轟然と響く暗い和音には、まさにとどめを刺された思いになった。

2016・3・11(金)東日本大震災チャリティコンサート

    HAKUJU HALL  3時

 白寿生科学研究所が主催、HAKUJU HALLを満席にしてのチャリティコンサート。開演前の2時46分には、黙祷が捧げられる。

 本番における出演は大萩康司(ギター)、小林美恵(ヴァイオリン)、川本嘉子(ヴィオラ)、長谷川陽子(チェロ)、三舩優子(ピアノ)、林美智子(メゾ・ソプラノ)に、平野公崇・田中拓也・西本淳・大石将紀からなる「ブルーオーロラ サクソフォン・カルテット(BASQ)」━━という賑やかな顔ぶれ。民謡、日本歌曲を含む多様なプログラムが、デュオやアンサンブルなどで演奏された。

 盛り沢山のプログラムなので、予想通り演奏時間は延び、大トリの聴きものだった三舩・小林・川本・長谷川・BASQによるガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」は、次の取材時間の関係で、聴かずに失礼しなくてはならなくなった━━。

2016・3・10(木)ローター・ツァグロゼク指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 久しぶりにツァグロゼクが来日。しかし読響初客演だったとは意外な感。
 彼がシュトゥットガルト州立劇場音楽総監督だった時代には、「神々の黄昏」とか「モーゼとアロン」とか「魔笛」とか、いろいろ聴いたことがあったので、懐かしい。今日はブラームスの「悲劇的序曲」と「交響曲第1番」の間にR・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を挟んでのプログラム。

 いかにもツァグロゼクらしい、速めのテンポの、リズム感の明快な、きりりと締まった演奏である。全く誇張のないストレートな構築だが、「第1交響曲」第4楽章序奏の「ピウ・アンダンテ」のホルンを、スコアの「sempre e passionate」の指定に従ってかなり激しく吹かせ、しかも2番ホルンをこれもスコアの指定どおりに大きく膨らませるといったように、曲の隅々まで神経を行き届かせた指揮だ。

 各声部を明晰に対比させ、ブラームスの網の目の如く入り組んだスコアを、鮮やかに解き放つ。これには、読響(コンサートマスターはダニエル・ゲーデ)の柔軟さも大いに寄与していただろう。第4楽章第1主題などで響かせる弦の張りつめた、爽やかな美しさも印象的だった。
 決して派手ではないが、手堅く密度の濃いツァグロゼクの指揮━━聴き終って充実感。

2016・3・9〈水〉新国立劇場 R・シュトラウス「サロメ」2日目

     新国立劇場オペラパレス  7時

 これは2000年にプレミエされたアウグスト・エファーディング演出のプロダクションで、新国立劇場の定番であり、これまで2002年、04年、08年、11年にも上演されている。
 今となっては穏健に感じられる舞台だが、イェルク・ツィンマーマンの美術・衣装ともども、写実的でまとまりのいいものであることは事実だろう。

 今回はカミッラ・ニールントが題名役を歌い演じ、クリスティアン・フランツがヘロデ王を、ハンナ・シュヴァルツが王妃ヘロディアスを、グリア・グリムズレイが預言者ヨハナーンを、望月哲也が隊長ナラボートを、加納悦子が小姓を受け持った。

 昨夜「ブリヤ家の女主人」を歌っていたハンナ・シュヴァルツが今日も登場して、ビンビン響く声でヘロディアスを歌っていたのは、その御年を考えれば偉とすべきだろうし、舞台での演技と存在感もさすがのものがあった。とりわけクリスティアン・フランツとの応酬の場面は素晴らしい。
 しかもこのフランツがまた当たり役だから、慌ただしく畳み込んで歌って行くその迫力が、隙間の全くない緊張感を音楽に与えていて、これが今夜の最高の聴きものであった。

 グリムズレイも、彼を聴くのは、私は3年前のびわ湖ホールでの「ヴァルキューレ」のヴォータン以来だが、声の馬力はたいしたものである。これらに対しニールントは、この演出におけるサロメ役にしては、ちょっと品が良すぎるのではないかという気もするけれども・・・・。
 なお「儀典長」なる黙役(王の意志を読みとって配下たちに指示を出す役)には、今回も原純が扮して実に芸の細かい演技をしていた。

 管弦楽は昨夜に続き東京交響楽団。メンバー表を見ると、コンサートマスターは、昨夜は水谷晃、今日はグレブ・ニキティンの由。この日はダン・エッティンガーの指揮で、昨夜同様、量感とダイナミズムに富んだ、なかなかいい演奏を聴かせていた。
 ただし(昨日もそうだったが)演奏に、もう少し柔らかい官能的な表情があればなおいいのだが━━。それでも、2夜続けて、ふだんのこのピットから聞こえるのとは違う、ある程度雄弁で、しかも引き締まった演奏が聴けたのは、善しとすべきだろう。

2016・3・8(火)新国立劇場 ヤナーチェク「イェヌーファ」(4日目)

     新国立劇場オペラパレス  6時30分

 ベルリン・ドイツオペラのプロダクションを持ってきたもの。
 クリストフ・ロイの演出とディルク・ベッカーの美術による極めてシンプルな舞台で、白色の閉鎖的な箱のような空間の中に繰り広げられる心理劇といった趣を呈する。

 背後の壁は時たま開け放たれ、外部世界との接触も描くが、物語は概して圧迫された閉鎖的空間の中で進んで行く。第2幕後半での吹雪も視覚的には行なわれず、そこでの激しい音楽はただコステルニチカ(ジェニファ・ラーモア)の心の内面の嵐=苦悩を象徴するのみになる。
 ラストシーン、困難を乗り越えて結ばれたイェヌーファ(ミヒャエラ・カウネ)とラツァ(ヴィル・ハルトマン)が手を取り合って出て行く開放された空間は、明るい野原ではなく、ただ暗い、何も見えない闇である。それは2人の行く手が決して明るくないことを暗示するかのようで、ここは実に印象的な幕切れであった。

 歌手陣は、今回は粒ぞろいで、優れていた。ブリヤ家の気位の高い女主人を歌い演じたハンナ・シュヴァルツの、鋭い歌唱でありながら、ただ権柄づくでない、どこかに温かみのある演技は見事だった。こういう人の存在が、音楽と舞台を引き締める大きな要因になるのだ。

 事実上の主役ともいうべき前出のコステルニチカ(教会のおばさん)にジェニファ・ラーモアを配したことも成功で、プライドは高いが非常に温かい人間味を感じさせるというこの演出の描き方を、この上もなく素晴らしく具現させていた。オペラの冒頭、彼女が殺人容疑で取り調べ室に送られて来たという設定で開始されるのだが、そこでの演技から早くも彼女の「考え深い、悩める義母」の性格が浮き彫りにされていたのではないだろうか。

 シュテヴァはジャンルカ・ザンピエーリで、遊び人というタイプに見えないのはちょっと問題かもしれないが、村の成金青年という感じはよく出ている。前述のハルトマンは、いかにも素朴で純情な村の青年というラツァの役柄をよく描き出した。
 かんじんのイェヌーファを歌い演じたカウネが、歌唱はいいのだが、演技がちょっと迫真力を欠くのが気になる。が、この人はバイロイトの「マイスタージンガー」のエーファでも大体こんな調子だったから、仕方がなかろう。

 脇役の日本人歌手たち━━萩原淳、志村文彦、与田朝子、針生美智子、鵜木絵里、小泉詠子、吉原圭子といった人々も、こういう東欧の民族色のあるオペラでは、嵌った歌唱を聴かせてくれる。ただ、芝居はちょっと力み返ってオーバーなところもあるけれど。

 トマーシュ・ハヌスの指揮する東京交響楽団が、今回は良い演奏をしてくれた。少し硬質ではあるものの、引き締まって量感もある快演である。
 この指揮者は、聴いたのは多分初めてだが、さすがお国柄というべきか。大きなパウゼを活用しつつ、ヤナーチェクの音楽のモダンな要素と、民謡調丸出しの要素とを巧みに対比させ、起伏の大きな演奏を形づくっていた。

 この上演に対し、ベルリン・ドイツオペラからの借り物を使っているようでは新国立劇場の名が廃れるとか何とか、怒号している人もいるようだ。が、新国立劇場だろうと二期会だろうと、ヨーロッパでのこういう良いプロダクションをわが国に紹介してみせるのに、何の不都合があろう? 今日では、良い舞台を世界の歌劇場で回し使いすることは、別に珍しいケースではないのだ。むしろ世界中で上演されるのが良いプロダクションの証なのである。
 もしこの「イェヌーファ」の舞台がつまらない出来であったならそのように罵ってもいいだろうが、良かったのなら、別に目くじら立てることもあるまい。それはそれとして賞賛すればいいだろう。オリジナルをもっと制作すべきだという問題は、それとは切り離して行うべき議論である。

2016・3・7(月)佐渡裕指揮東京フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 ジョン・アダムズのオペラ「中国のニクソン」から「議長(=毛沢東主席)は踊る」と、キース・エマーソンの「タルカス」(吉松隆編曲)、ラフマニノフの「交響曲第2番」という、なかなか面白いプログラム。

 プログラムは面白いが、ラフマニノフではオーケストラの鳴らし方に大いなる疑問がある。テンポも起伏感も実に結構なのだが、全ての声部がこれほど混然と響いてしまい、明晰さを欠いた演奏は聞いたことがない。つまり、どの楽器も同じ音量で響いているために、主題の旋律と背景のハーモニーとの区別がつかぬ、ということなのである。

 ただそれが決して乱雑にガンガン鳴っているのではなく、むしろ逆で、全体が完璧に均衡を保った響きになっていたのだ。となれば、これは明らかに佐渡の意図的な解釈であることは明らかであり、そうなると一度、ポリフォニーの扱い方についての考えをマエストロに尋ねてみたいところだが・・・・。

 「タルカス」が、シンフォニックではあるけれど、この作品にしてはどうも重く感じられてしまったのは、佐渡のそのオーケストラの鳴らし方によるのかもしれない。
 ただ一方、ミニマリズム的な音の反復が前面に出ているアダムズの作品では、混然一体となったオケの響きが、むしろ飽和的な空間ともいうべき面白さを生んでいたのだった。
 三浦章宏をコンサートマスターとする東京フィルは、今日はすこぶる量感たっぷり、見事な音を響かせていた。

2016・3・6(日)びわ湖ホールの「さまよえるオランダ人」2日目

    びわ湖ホール  2時

 午前10時から、ホールで「ワークショップ」があった。ハンぺとギールケが今回の演出について交々語り、そのあとにバックステージ・ツァーがあって、200人ほどの客が舞台の「船の甲板」や奈落を見学した。私もついて行く。
 私としては、今回の見事なプロジェクション・マッピングの仕組や、映像の幽霊船とその赤い帆の組み合わせ、幽霊船水夫の空中アクロバットの仕組みなどについて説明を聞きたかったのだが、どうもこれらは、「内緒」らしい。

 その映像の精妙さが、やはり今日の2日目にも眼を惹いた。
 幽霊船が出現し、沖合から怪獣のように突進して来て、いまにもこちら側のノルウェー船にぶつかるんじゃないかと思わせ、観客の肝を冷やさせるあたりは実にうまく出来ているし、第2幕でゼンタの優しい言葉に触れたオランダ人の心に安息感が生まれた時、突然視界が開け、背景いっぱいに穏やかな海と星空が拡がるくだりなども幻想的だろう(星空がもっと綺麗だったらなおよかった)。

 第3幕でのオランダ人水夫連中はゾンビのごとき扮装だが、その背景に大波が荒れ狂い、幽霊船が猛烈に揺れ動くあたりの光景は、何度観ても凄まじい。その波の物凄さは、あの津波の恐怖を思い出させるかもしれない。
 しかし、穏やかに打ち寄せる波の光景も良く出来ている。私は子供の頃に神奈川県の七里ヶ浜に住んでいて、体が弱かったために家の庭から目の前に広がる海と打ち寄せる波(それに江ノ電も)ばかりを毎日眺めていたため、海には特別な思いがあり、この映像は何故か心に沁みた。

 なお昨日、おかしいと思った大詰めシーン、今日は、ゼンタが海に飛び込んだ「あとに」、疾風のように沖へ去りつつあったオランダ船も沈んで行く、という段取りに変わっていた。これなら辻褄が合う。
 だがラストシーン、舵手が目を覚まして起き上がり、ダーラントはじめノルウェーの水夫たちがそれを笑って見守る最終場面は、相変わらず取って付けたような不自然さを感じさせ、それまでのシリアスなドラマを、すべて絵空事として貶めてしまう結果を生む。

 沼尻竜典のテンポが、今日は昨日に比べて少し遅くなっていたような印象も受けたが、これはこちらの気のせいかもしれない。いずれにせよ、当今の「オランダ人」としては、ゆったりとした重厚なタイプの演奏である。

 それにしても、京都市交響楽団の演奏の良さには本当に感心した。弦も美しい。量感もある。この楽団が西日本随一の水準にあるということが、今回の演奏でも証明されていた。これだけピットの中でシンフォニックなワーグナーの音楽をつくれるオーケストラは、わが国では他に読響あるのみだろう。もちろん、沼尻の鳴らし方も巧かったのだろうが。この分なら、来年からの「指環」は大いに期待できる。

 今日の配役は、オランダ人をロバート・ボーク、ゼンタを横山恵子、ダーラントを斉木健司、エリックを樋口達哉、マリーを竹本節子、舵手を高橋淳。
 題名役のボークは長身で押し出しも立派だし、声も強靭に響き、いかつい顔に中世風のメイクがサマになっている。ただ、その他の歌手の皆さんは、もちろん手堅い出来で良いのだけれども、何か力が入り過ぎているというか、歌唱にある種の物々しさが感じられてしまった━━もう一度、19日の神奈川県民ホール上演を聴いてみよう。

2016・3・5(土)びわ湖ホールの「さまよえるオランダ人」初日

     びわ湖ホール  2時

 ト書きに基づいたストレートな演出の舞台に、最新のプロジェクション・マッピングによる大規模な3D映像を加味して、極めて解りやすく、しかも視覚的なスリルと面白さをつくり出す━━それが今回のびわ湖ホール制作によるワーグナーの「さまよえるオランダ人」の舞台だった。
 演出は老練ミヒャエル・ハンぺ、装置と衣装はヘニング・フォン・ギールケ、映像(プロジェクション)はヒビノ、映像製作と操作はCOSMICLAB。

 この映像はすこぶる精巧に出来ていて、逆巻く波濤だけでなく、ノルウェー船に激突せんばかりに接近し、揺れ動き、あるいは遠ざかり、沈没するといった、怪獣のごとき威圧感を与える巨大なオランダ船を、実に鮮やかに描き出す。
 しかもそれらが音楽にぴたりと合った動きをするために、特に第3幕でオランダ人水夫たちの合唱が炸裂するオカルト的なシーンでは、見事な視覚的スペクタクルをつくるのである。
 ドラマ全体を通じて背景のスクリーンの一部には、打ち寄せる波がずっと見えており、それはこの曲が「スコアのすべての頁から潮風が吹きつけて来る」と評された「海の雰囲気」を如実に描く点でも、意味があるだろう。

 この海の映像は━━演出家の佐藤美晴さんを通じてギールケから聞いたところによれば━━ノルウェーではなく、ポルトガルで撮影されたものだという。しかし、プロジェクション・マッピング全体は、日本側が製作したものだそうだ。こういうものを作ったり、音楽とタイミングを合わせて操作したりするテクニックは、あちらの歌劇場のスタッフより、日本人の方がはるかに器用で上手いのだそうである。

 この映像の活用によって、先頃の東京二期会の「魔笛」と同様、舞台転換も瞬時に行なわれる。便利な時代になったものである。どこまでが舞台装置で、どこからが映像なのか判別しがたいくらいに巧く出来ている。
 これにより、今回の舞台は予想を上回る出来となった。これまでのハンぺやギールケの舞台のイメージとは、かなり趣を異にする。芝居が細かいのはハンぺの昔からの流儀で、従って登場人物の動きは写実的だが、舞台全体に視覚的なスペクタクル性が加わったので、また一味違ったものが出る。

 敢えて呈したい疑問は二つ。まず、ドラマ全体を通じて、舵手を舞台中央に寝転ばせ、夢を見ているような身振りをさせる。これはもう、第1幕から手の内が見え見えになっているのだが、結果としてもこれはいかにも木に竹を接いだようなものになり、策に溺れたという感を拭えない。
 「オランダ人」の演出の中には、全てをゼンタの幻想として描く手法がしばしば見られるけれども、その場合には、ゼンタも登場人物もすべて真剣に生きて苦悩し破滅して行く模様が描かれている。だが今回のは━━あのひたむきに苦悩していたオランダ人とゼンタは、いったい何だったのか、というすっぽらかしのようなものがラストシーンには感じられてしまうのである。

 そもそも、スパイスのつもりで変な読み替え解釈を取って付けたように入れるのは、ハンぺらしくもない。やはり彼は彼なりのスタイルで、明快なストレート路線で、自らの道を貫いてもらいたいものである。
 もう一つ、今日は大詰場面で、ゼンタが飛び込む前にオランダ船が沈没しはじめていたが、これでは辻褄が合わない。もしかしたら手違いだったのか。

 だがいずれにせよ、こういったプロジェクション・マッピングによる映像の活用は、舞台芸術にさまざまな新しい可能性をもたらすだろう。舞台をややこしく読み替えて新規性を出したりスキャンダルを狙ったりするのも、それはそれで一法だが、トラディショナルなスタイルでもまだいろいろなことができる、ということを、今回のプロダクションは証明したのであった。

 配役は、例によってダブルキャストである。初日の今日は強力だ。主役から脇役まで粒のそろった顔ぶれで、歌唱も聴きごたえ充分である。
 題名役は青山貴。びわ湖ホールでのワーグナーは、ヴォータン(2013年)に次いで二つ目になる。今回はさらに声が素晴らしく伸びて、比較的若々しい感じの、厭世的というよりはひたむきな性格を備えたオランダ人船長役をつくり出していた。ただし・・・・メイクにはちょっと疑問がある。

 ゼンタは橋爪ゆか。飯森=山響の演奏会形式上演の時に次いで二度目のゼンタである。ワーグナー歌唱としてはどちらかというとまろやかな声の、温かみのあるゼンタ表現だろう。よくある「憑り付かれたような」狂女的なゼンタとは全く異なった表現で、このトラディショナルな演出の舞台にはぴったり合っている。
 第2幕ではこの2人がハンぺの演出に従い、ほとんど客席を向かずに互いに見合ったまま歌い続けるという場面があるが、それでも声が客席によく届いていたのは立派であった。これなら演劇的な表現も可能になる。

 ダーラントの妻屋秀和は、貫録充分の押し出しと、温かみのある演技と、底力ある歌唱とでドラマを引き締めた。彼と並ぶと、青山のオランダ人が従順な息子のように見えてしまうのが何とも可笑しかったが、致し方なかろう。
 狩人エリックには福井敬、乳母マリーには小山由美、という、この日は実にぜいたくなキャスティングだった。こういう味のあるベテランがしっかりと脇を固めていると、演技的にも音楽的にも上演が引き締まるものである。
 なお舵手役を歌った清水徹太郎は、歌唱の出番は短かったが、第3幕で若々しい声を聴かせて爽快だった。

 指揮は、芸術監督・沼尻竜典。京都市交響楽団を指揮して、極めて密度の濃いワーグナーを聴かせてくれた。
 ドイツのリューベック歌劇場の音楽総監督を兼任するようになってから、彼の指揮にはスケール感と、良い意味での安定感が増してきたように思われる。今回の「さまよえるオランダ人」でも、いいテンポを採っているな、と思う。序曲の冒頭ではもう少しデモーニッシュな強靭さがあってもいいかなと感じたが、第3幕では見事な劇的昂揚感をつくり出していた。
 ただ、これは事前に判っていたことでもあったが、第2幕と第3幕での合計3つのカットは━━伝統的なカット個所とはいえ━━私はやはり賛意を表しかねる。

 京響も充実した演奏を聴かせてくれた。

 水夫たちや娘たちの合唱には、二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部が出演、三澤洋史が指揮した。こういう合唱団が一つの舞台に乗るなどというのは、びわ湖ホールならではの豪華さだろう。
 第3幕のオランダ船水夫の合唱をも、よくあるようなPA再生でお茶を濁すことなく、ナマで歌わせるという豪華な形が採られていた。これは、沼尻芸術監督の自慢の種である。 
 ただ今日の合唱は、弱音の個所をはじめ、アンバランスな個所がいくつか聴かれたのは事実だったろう。それに女声合唱が「背景」のオランダ船の方を向いて歌う際に、声があまり響かず、バランスが弱くなっていたことには問題が残った。

 全3幕連続上演で、終演はほぼ4時半。

2016・3・4(金)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

    サントリーホール  7時

 シューベルトの「未完成」とベートーヴェンの「運命」━━この2大名曲の間に、これが世界初演にもなる尾高惇忠の「ピアノ協奏曲」が挟まれるという珍しいプログラミングとなった。
 この新作は、2006年を最後に途絶えていた新作委嘱シリーズ「日本フィルシリーズ」の10年ぶりの作品(第41作)でもある。

 プレトークでの広上淳一の話によれば、今回の定期のプログラミングには、「現代音楽の初演の際には、たいてい同時代の現代作品とか、『そういう傾向の』曲を集めてプログラムが組まれることが多い、だが『そういう曲』ばかりやると、『そういうお客さん』しか聴きに来ない、だからお客さんの層が拡がらない、今回のようなプログラムでやれば、これまで名曲しか聴いて来なかったお客さんにも現代音楽を聴いてもらえるいい機会になるだろう」という狙いがあるという。

 良いアイディアである。今日は平日だが、昔の日本フィルの平日定期とは比較にならぬほど客の入りがよかったので、今回の狙いも充分に生きたと思われる。とはいえ、尾高の作品のあとの休憩の間に、客席にいくらか隙間が増えたようにも見え、━━もしかしたら『そういうお客さん』は、「《運命》など今更」などと言って帰ってしまったのかもしれない・・・・。

 広上が最初に指揮したシューベルトの「未完成交響曲」は、堂々たる演奏であった。16型編成による分厚い響きだが、もちろんそこにはロマン的な感傷性などはさらさらなく、ダイナミックなアクセントを駆使して厳然と構築された演奏だったのである。
 引き締まった演奏を繰り広げた日本フィル(コンサートマスターは木野雅之)も見事だった。

 またベートーヴェンの「第5交響曲」も同様に正面切った剛直な演奏で、重厚だが胸のすくような推進性に満ちあふれていた。今どき、こういう英雄的なスタイルのベートーヴェンは、むしろ新鮮に感じられて好ましい。

 第3楽章の後半は非常に暗い音色で演奏され、それが第4楽章に入るや、一気に開放的な明るい音色へ変わる広上の「持って行き方の巧さ」には舌を巻かされた。もちろん原曲にはそのような性格があるのだけれど、現代の指揮者たちは往年の巨匠と違い、ブリッジ・パッセージをあっさりと通過し、第3楽章も第4楽章もアレグロに変わりはないじゃないか━━と言わんばかりの演奏を行なう人が多いのである。今日は久しぶりに、しかもこれ見よがしの小細工など一切ないストレートな演奏で、この2つの楽章における暗と明、陰鬱と輝かしさの対比に浸ることができたのだった。
 この第4楽章に、もう一つアンサンブルの緻密さが加われば文句のないところだったが━━しかし音楽のエネルギー感は立派なものだったので、善しとしよう。その方がはるかに重要だからだ。

 この名曲2作に聞かれた広上淳一の指揮は、緊迫度も極めて高く、オーケストラを完璧に掌握していることの証しである強靭な音楽にあふれていた。私の主観だが、彼はこの世代における最もノリのいい指揮者の一人ではないかと思う。

 尾高のピアノ協奏曲は、演奏時間も32分近くにわたる大作である。ソリストは野田清隆。そのピアノのパートには、やはり尾高がかつてパリ音楽院で学んだものが色濃く刻まれているように思われる。ドビュッシーやメシアンの作品の遠いエコーが、その音楽の中に美しく残っており、また部分的には、矢代秋雄の音楽を思い出させるところもある。
 一つの音型を反復しつつ押して行くあたりはメシアンのそれを連想させるが、オーケストラの色合いの方はむしろ暗く重く(この辺りは演奏によるのかもしれない)、しかも激烈な力にも富んでいる。近々、ご舎弟の尾高忠明も札響を指揮してこの曲を演奏するので、それも併せて聴くと、また異なった側面が浮かび上がって来るかもしれないが━━。
    別稿 音楽の友5月号 Concert Reviews

2016・3・1(火)METライブビューイング 「トゥーランドット」

     東劇  6時30分

 1月30日のMET上演ライヴ。
 30年前からおなじみのフランコ・ゼッフィレッリ演出による豪華絢爛たるプロダクションである。今どき、こんなカネのかかるプロダクションを上演する余力のある歌劇場は、METくらいだろう。87年のMET上演映像(レヴァイン指揮、ドミンゴ、マルトン他)のDVDは私のご贔屓盤だし、現地でナマも観たことがあるが、今でもあの舞台装置の鮮度は失われていないようである。

 今回のライブビューイングの休憩時間映像では、METの多面舞台の機構を活用して舞台装置が袖からスライドして来て入れ替わる模様が写されていたが、見事なものだ。
 舞台スタッフは総勢100人とか。彼らが一糸乱れぬ作業で、巨大な舞台をたった30分の休憩の間につくり変えて行く模様も、少し写されていた。ああいうワザができる歌劇場でないと、このゼフィレッリ・プロダクションの「トゥーランドット」は、とても上演できないだろう。

 指揮は、パオロ・カリニャーニ。きびきびしたテンポ運びの演奏がいい。題名役はニーナ・ステンメ、カラフはマルコ・ベルティ、リューはアニタ・ハーディグ、ティムールはアレクサンダー・ツィムバリュク。みんな悪くはないけれども、カラフが少し小粒か。それにハーティグだけが妙にわざとらしく手を動かすのが気になった。
 それよりも問題だったのは、録音であろう。合唱の量感が全く捉えられていないだけでなく、ソリストの声などは部分的に強引なクローズアップが施されており、音響的操作が露骨に感じられて不自然であった。

 終映は9時45分頃。お客さんの入りがいいのは祝着。

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