2017年7月 の記事一覧
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2017・7・31(月)ゲルギエフ指揮PMFオーケストラ川崎公演
2017・7・29(土)東京二期会 R・シュトラウス「ばらの騎士」
2017・7・28(金)エリアフ・インバル指揮大阪フィル マーラー「6番」
2017・7・27(木)ガブリエル・フェルツ指揮大阪交響楽団
2017・7・25(水)フルシャ指揮東京都響 スメタナ「わが祖国」
2017・7・23(日)チョン・ミョンフン指揮東京フィル マーラー「復活」
2017・7・22(土)フェスタサマーミューザKAWASAKI ノット指揮東京響
2017・7・19(水)レナード・スラットキン指揮デトロイト交響楽団
2017・7・17(月)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団
2017・7・16(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団
2017・7・15(土)佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ「フィガロの結婚」
2017・7・14(金)井上道義指揮大阪フィル バーンスタイン「ミサ」
2017・7・13(木)IL DEVU リサイタル
2017・7・10(月)マルク・ミンコフスキ指揮東京都交響楽団
2017・7・9(日)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団
2017・7・7(金)飯守泰次郎指揮読売日本交響楽団
2017・7・6(金)オペラ「鑑真東渡」日本公演
2017・7・6(木)パスカル・ロジェ×束芋
2017・7・5(水)エチェバリア指揮 関西フィルハーモニー管弦楽団
2017・7・3(月)ハーゲン・クアルテット
2017・7・2(日)ベルリーニ:「ノルマ」
2017・7・1(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団
2017・7・31(月)ゲルギエフ指揮PMFオーケストラ川崎公演
ミューザ川崎シンフォニーホール 7時
ワーグナーの「タンホイザー」序曲、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストはダニエル・ロザコヴィッチ)、シューベルトの「交響曲第8番《ザ・グレイト》」という、PMFオーケストラの首都公演としてはちょっと珍しいプログラムである。
PMFオーケストラによるブルッフの「第1協奏曲」は、4年ほど前に、準・メルクルとワディム・レーピンがやったのを東京公演で聴いたことがある。だが、メイン・プロにマーラーやショスタコーヴィチの交響曲など、巨大編成・巨大音響の作品でなく、シューベルトの交響曲を選んだという例は、稀有のケースではないか。
「タンホイザー」序曲にしたところで、打楽器陣にも僅かの出番はあるものの、それほどの大編成という作品ではない。だから、アカデミー生の活躍の場はいくらか制限されてしまうのではないかと、他人事ながら多少気になっていた。ただ、札幌でのコンサートでは、準・メルクルや大山平一郎の指揮で大編成のいろいろな作品を演奏しているから、PMFとしても、教材としては特に不足はなかったのであろう。
ゲルギエフが指揮するシューベルトの交響曲というのは、初めて聴いたような気がする。もちろんこれも弦15型で、木管は倍管編成が採られていた。分厚く壮大な、堂々たる「ザ・グレイト」であったが、特にロマンティックな演奏スタイルというわけではない。
だが、第1楽章と第4楽章におけるソナタ形式の扱いは、いかにもゲルギエフらしくて面白い。彼は、再現部では同じ主題群にもいっそうの力感を持たせ、デュナミークの起伏や対比を更に増大させて演奏させ、常に音楽の劇的な展開と昂揚感を増して行く、という手法を採る。ゲルギエフはかように、ソナタ形式にさえも劇的な展開という要素を導入する指揮者なのだな、ということが判って、興味深かった。
ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」でソロを弾いたダニエル・ロザコヴィッチは、ストックホルム生れの16歳とのことだが、非常に清楚で純な表情の演奏を聴かせる、注目すべきヴァイオリニストだ。
北欧の清澄透明な音色、などとこじつけるつもりはないけれども、いかにも透き通って美しい音色と叙情性が印象に残る。ゲルギエフが採る遅めのテンポを楽々と保たせ、沈潜した第2楽章でもじっくりと歌い上げる。
アンコールでのバッハの「無伴奏パルティータ第2番」の「アルマンド」でも、清廉な息吹が好ましい。また、独りで弾くロザコヴィッチを、ゲルギエフが下手のドア近くに立ったまま終始じっと見つめていたのも、若手の育成に熱意を燃やす彼の姿勢を垣間見せ、印象的だった。
今年のPMFオーケストラ、金管セクションには多少の不慣れな雰囲気が感じられないでもないが、弦楽セクションには瑞々しく張りがあって、なまじのプロ・オケの心胆を寒からしめるだけのものがあるだろう。9時15分終演。
ワーグナーの「タンホイザー」序曲、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストはダニエル・ロザコヴィッチ)、シューベルトの「交響曲第8番《ザ・グレイト》」という、PMFオーケストラの首都公演としてはちょっと珍しいプログラムである。
PMFオーケストラによるブルッフの「第1協奏曲」は、4年ほど前に、準・メルクルとワディム・レーピンがやったのを東京公演で聴いたことがある。だが、メイン・プロにマーラーやショスタコーヴィチの交響曲など、巨大編成・巨大音響の作品でなく、シューベルトの交響曲を選んだという例は、稀有のケースではないか。
「タンホイザー」序曲にしたところで、打楽器陣にも僅かの出番はあるものの、それほどの大編成という作品ではない。だから、アカデミー生の活躍の場はいくらか制限されてしまうのではないかと、他人事ながら多少気になっていた。ただ、札幌でのコンサートでは、準・メルクルや大山平一郎の指揮で大編成のいろいろな作品を演奏しているから、PMFとしても、教材としては特に不足はなかったのであろう。
ゲルギエフが指揮するシューベルトの交響曲というのは、初めて聴いたような気がする。もちろんこれも弦15型で、木管は倍管編成が採られていた。分厚く壮大な、堂々たる「ザ・グレイト」であったが、特にロマンティックな演奏スタイルというわけではない。
だが、第1楽章と第4楽章におけるソナタ形式の扱いは、いかにもゲルギエフらしくて面白い。彼は、再現部では同じ主題群にもいっそうの力感を持たせ、デュナミークの起伏や対比を更に増大させて演奏させ、常に音楽の劇的な展開と昂揚感を増して行く、という手法を採る。ゲルギエフはかように、ソナタ形式にさえも劇的な展開という要素を導入する指揮者なのだな、ということが判って、興味深かった。
ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」でソロを弾いたダニエル・ロザコヴィッチは、ストックホルム生れの16歳とのことだが、非常に清楚で純な表情の演奏を聴かせる、注目すべきヴァイオリニストだ。
北欧の清澄透明な音色、などとこじつけるつもりはないけれども、いかにも透き通って美しい音色と叙情性が印象に残る。ゲルギエフが採る遅めのテンポを楽々と保たせ、沈潜した第2楽章でもじっくりと歌い上げる。
アンコールでのバッハの「無伴奏パルティータ第2番」の「アルマンド」でも、清廉な息吹が好ましい。また、独りで弾くロザコヴィッチを、ゲルギエフが下手のドア近くに立ったまま終始じっと見つめていたのも、若手の育成に熱意を燃やす彼の姿勢を垣間見せ、印象的だった。
今年のPMFオーケストラ、金管セクションには多少の不慣れな雰囲気が感じられないでもないが、弦楽セクションには瑞々しく張りがあって、なまじのプロ・オケの心胆を寒からしめるだけのものがあるだろう。9時15分終演。
2017・7・29(土)東京二期会 R・シュトラウス「ばらの騎士」
東京文化会館大ホール 2時
グラインドボーン音楽祭の、リチャード・ジョーンズ演出によるプロダクション。
指揮にセバスティアン・ヴァイグレ、ピットには読売日本交響楽団。
配役はダブルキャストで、今日の組は、林正子(元帥夫人)、妻屋秀和(オックス男爵)、小林由佳(オクタヴィアン)、幸田浩子(ゾフィー)、加賀清孝(ファーニナル)、栄千賀(マリアンネ)、大野光彦(ヴァルツァッキ)、石井藍(アンニーナ)、斉木健詞(警部)、菅野敦(テノール歌手)ほか多数。
私はグラインドボーンでは観ていないので、今回初めてこのプロダクションにナマで接した次第だが、なかなか面白い舞台だ。日本に紹介する価値、充分にあり、という気がする。
幕開きでは、元帥夫人が全裸でシャワーを浴びていたり、その他少々エロティックなシーンがあったりして、いかにも今風のやり方だなという感を与えるが、そのあとは比較的まっとうなスタイルで進められる。
が、それよりも全体を通じて強く印象に残るのは、演劇的要素を充分に発揮させながら、音楽との関連を疎かにしていない演出である、ということだ。
時には、主役人物の身体の動きを、音楽の動きと完全に合致させることもある。オペラの演出において、演劇的な要素と音楽的な要素とが肉離れを起こさずに構築された舞台は、観ていても心地よいものだが、今回の演出もその成功例と言っても良いのではないか。
第3幕は、舞台装置(ポール・スタインバーグ)と照明(ミミ・ジョーダン・シェリン)とを含めて、洒落たものであった。
細かい部分を言えば、終結近く、元帥夫人が舞台を去って行く場面の演出が興味深い。
一般的な━━オクタヴィアンが彼女の手に口づけし、彼女が背中の動きで衝撃を表わす、という、昔から行われて来た「見せ場」的な演出は、最近あまり行われなくなったようである。今回のジョーンズ演出でも、元帥夫人は、若い貴族を相手の恋が終った感慨を一瞬滲ませた━━ここでの林正子の演技は瞬時だが巧かった━━のみで、あっさりと手前の(!)ドアから姿を消す。これは、まだ年齢的に「若い」元帥夫人が、すぐまた別の恋を得るだろう、と暗示しているのはもちろんである。
だがそれよりも、そのあとをオクタヴィアンが足早に追って行き、ドアからいったん姿を消す・・・・という、ちょっとした演技が面白い。2人の別れをこれまでのようにセンチメンタルに描かず、「一場の夢」として描いたのがミソだろう。
そうした演技を、日本の歌手たちは細かく行ない、ジョーンズの演出意図に応えていたと思う。大切な脇役や黙役たちの中では、元帥夫人に付きまとう小姓(というより召使)モハメッドを演じたランディ・ジャクソンと、男爵の腹心でイカレた男ふうのレオポルドを演じた光山恭平━━この2人は文学座からだそうだ━━が目立っていた。
それはいいのだけれど、問題は衣装(ニッキー・ギリブランド)だ。オクタヴィアンやゾフィーの衣装といい、あるいは第3幕でのマリリン・モンローばりの元帥夫人の衣装・扮装といい、どうも日本人歌手の体型や顔にしっくり来ないところがあって・・・・このあたり、もう少し日本人向けの微調整が必要なのでは、という気がするのだが、如何なものだろうか。
といっても、皆が皆そうだというわけではなく、巨体の妻屋秀和などは衣装もサマになっており、脇役や黙役たちの中にも「決めている」人たちもいたのだが━━。まあ、これは、泰西ものを日本人が演じる所謂「バタ臭さ」をどうするかという、昔からある難しい問題の一つなのかもしれぬ。
歌唱の面では、オクタヴィアンの小林由佳が伸びのある声で映えていたし、オックスの妻屋秀和はバスの音域に伸びが少し足りないとはいえ、良い意味での暴れ役を巧く歌っていた。その他の人々も、全力を尽くしていたと思われる。
ただ、━━唯一惜しかったのは、そしてどうしようもなく残念だったのは、最高の聴きどころであったはずの第3幕の「二重唱」と「三重唱」の個所である。今回は、3人の女声歌手の中に1人だけヴィブラートの極度に強い人がいたために、あの有名なハーモニーの美しい音色のバランスが完全に失われてしまっていたのだ。
実際、私がこれまで接した「ばらの騎士」の中で、これほどあの夢幻的で陶酔的な和声の美しさが感じられず、声がただばらばらに重なるだけで、雑然たる印象のままに終ってしまった二重唱と三重唱を聴いたのは、初めてである。これは、歌手の起用と組み合わせにも問題があるだろう。だが一方、重唱の場合に歌手はどう歌うべきか、という姿勢を問われることにもなるだろう。
その他の演奏の個所では結構良いものがあっただけに、この部分はかえすがえすも残念であった。もう一つの組のほうは、実に見事なアンサンブルだったという評判を聞いたのだが━━。
グラインドボーン音楽祭の、リチャード・ジョーンズ演出によるプロダクション。
指揮にセバスティアン・ヴァイグレ、ピットには読売日本交響楽団。
配役はダブルキャストで、今日の組は、林正子(元帥夫人)、妻屋秀和(オックス男爵)、小林由佳(オクタヴィアン)、幸田浩子(ゾフィー)、加賀清孝(ファーニナル)、栄千賀(マリアンネ)、大野光彦(ヴァルツァッキ)、石井藍(アンニーナ)、斉木健詞(警部)、菅野敦(テノール歌手)ほか多数。
私はグラインドボーンでは観ていないので、今回初めてこのプロダクションにナマで接した次第だが、なかなか面白い舞台だ。日本に紹介する価値、充分にあり、という気がする。
幕開きでは、元帥夫人が全裸でシャワーを浴びていたり、その他少々エロティックなシーンがあったりして、いかにも今風のやり方だなという感を与えるが、そのあとは比較的まっとうなスタイルで進められる。
が、それよりも全体を通じて強く印象に残るのは、演劇的要素を充分に発揮させながら、音楽との関連を疎かにしていない演出である、ということだ。
時には、主役人物の身体の動きを、音楽の動きと完全に合致させることもある。オペラの演出において、演劇的な要素と音楽的な要素とが肉離れを起こさずに構築された舞台は、観ていても心地よいものだが、今回の演出もその成功例と言っても良いのではないか。
第3幕は、舞台装置(ポール・スタインバーグ)と照明(ミミ・ジョーダン・シェリン)とを含めて、洒落たものであった。
細かい部分を言えば、終結近く、元帥夫人が舞台を去って行く場面の演出が興味深い。
一般的な━━オクタヴィアンが彼女の手に口づけし、彼女が背中の動きで衝撃を表わす、という、昔から行われて来た「見せ場」的な演出は、最近あまり行われなくなったようである。今回のジョーンズ演出でも、元帥夫人は、若い貴族を相手の恋が終った感慨を一瞬滲ませた━━ここでの林正子の演技は瞬時だが巧かった━━のみで、あっさりと手前の(!)ドアから姿を消す。これは、まだ年齢的に「若い」元帥夫人が、すぐまた別の恋を得るだろう、と暗示しているのはもちろんである。
だがそれよりも、そのあとをオクタヴィアンが足早に追って行き、ドアからいったん姿を消す・・・・という、ちょっとした演技が面白い。2人の別れをこれまでのようにセンチメンタルに描かず、「一場の夢」として描いたのがミソだろう。
そうした演技を、日本の歌手たちは細かく行ない、ジョーンズの演出意図に応えていたと思う。大切な脇役や黙役たちの中では、元帥夫人に付きまとう小姓(というより召使)モハメッドを演じたランディ・ジャクソンと、男爵の腹心でイカレた男ふうのレオポルドを演じた光山恭平━━この2人は文学座からだそうだ━━が目立っていた。
それはいいのだけれど、問題は衣装(ニッキー・ギリブランド)だ。オクタヴィアンやゾフィーの衣装といい、あるいは第3幕でのマリリン・モンローばりの元帥夫人の衣装・扮装といい、どうも日本人歌手の体型や顔にしっくり来ないところがあって・・・・このあたり、もう少し日本人向けの微調整が必要なのでは、という気がするのだが、如何なものだろうか。
といっても、皆が皆そうだというわけではなく、巨体の妻屋秀和などは衣装もサマになっており、脇役や黙役たちの中にも「決めている」人たちもいたのだが━━。まあ、これは、泰西ものを日本人が演じる所謂「バタ臭さ」をどうするかという、昔からある難しい問題の一つなのかもしれぬ。
歌唱の面では、オクタヴィアンの小林由佳が伸びのある声で映えていたし、オックスの妻屋秀和はバスの音域に伸びが少し足りないとはいえ、良い意味での暴れ役を巧く歌っていた。その他の人々も、全力を尽くしていたと思われる。
ただ、━━唯一惜しかったのは、そしてどうしようもなく残念だったのは、最高の聴きどころであったはずの第3幕の「二重唱」と「三重唱」の個所である。今回は、3人の女声歌手の中に1人だけヴィブラートの極度に強い人がいたために、あの有名なハーモニーの美しい音色のバランスが完全に失われてしまっていたのだ。
実際、私がこれまで接した「ばらの騎士」の中で、これほどあの夢幻的で陶酔的な和声の美しさが感じられず、声がただばらばらに重なるだけで、雑然たる印象のままに終ってしまった二重唱と三重唱を聴いたのは、初めてである。これは、歌手の起用と組み合わせにも問題があるだろう。だが一方、重唱の場合に歌手はどう歌うべきか、という姿勢を問われることにもなるだろう。
その他の演奏の個所では結構良いものがあっただけに、この部分はかえすがえすも残念であった。もう一つの組のほうは、実に見事なアンサンブルだったという評判を聞いたのだが━━。
2017・7・28(金)エリアフ・インバル指揮大阪フィル マーラー「6番」
フェスティバルホール(大阪) 7時
エリアフ・インバルが客演。大阪フィルへは、昨年のマーラーの「第5交響曲」他を振って以来、2度目。今回は「第6交響曲《悲劇的》」1曲のみ。今日は2日目。
インバルは今回、第1楽章と第2楽章(スケルツォ)の間、第3楽章(アンダンテ)と第4楽章の間とを、それぞれアタッカ同様の形で指揮した。オーケストラも大変だったろう。
2日目だったせいなのか、あるいは、まだそれほど馴染みのない大阪フィルとの仕事だった所為なのかは定かでないが、今日の「6番」は、インバルの指揮するマーラーとしては、不思議なほど力任せにエネルギーを解放した演奏に感じられた。金管も打楽器も、鳴らすこと、鳴らすこと。
特に第4楽章は怒号咆哮の連続で、もともと凶暴な性格を持ったこの楽章が、いっそう凶暴さを増して聞こえたのである。
都響を振った時のインバルは、たとえ全管弦楽を怒号させた時でも、決して厳しい構築を崩さない指揮者だった。聴き手に息苦さを感じさせるほど、引き締めた演奏になる。同じ凶暴さでも、厳然たる強面の凶暴さ(?)という印象があった。それが近年のインバルのマーラーだと受け止めていたのだが━━。
組む相手のオーケストラによって意図的にアプローチを変える人とも思えないから、やはりこれは、気心知れた都響と、客演僅か2度目の大フィル相手の呼吸の違いから生まれたものだろう。
もちろん今回の演奏も、歯止めの利かない暴発といったものではなく、インバルらしい制御を随所に利かせ、均衡を保持した演奏だったのは事実である。第3楽章での起伏の大きな、しかし情感に溺れぬ叙情美など、インバルならではのものがあった。
そして大阪フィル(コンサートマスター崔文洙)は、このオーケストラらしいパワーを全開してインバルの指揮に応じていた。かなり荒っぽいところも多かったけれど、それは特に非難されるべき質のものでもないだろう。昔、朝比奈時代には、東京のファンからは「野武士の如く豪快な荒々しい迫力」と言われ、それが人気だったことさえあるくらいだ。
管のソロも概して好調、打楽器陣も活躍。
第4楽章でのハンマー(2回)は女性奏者が受け持っていたが、このハンマーは意外に小型のもので、残念ながら「たかだかと振りかぶり、風を切って打ち下ろす」(アルマ・マーラー回想録)という光景にはならなかった。ただ、小さいせいか、音は所謂「鈍い威圧的な衝撃音」ではなく、軽いバチンという音にとどまっていたのには、少々拍子抜け。インバルの好みではないだろう。以前の演奏ではもっと重々しい音を出させていたから。
開演前には毎回、ホワイエで、大阪フィルの福山修氏(事務局次長兼演奏事業部長)のプレトークが行われている。マイクは使っているがPAの音量が非常に小さい上に、離れたエスカレーターの近くで場内案内をする男のレセプショニストの不必要なほどの大きな声がこだまして響いて来るため、演壇の周囲の数十人にしか聞こえない。だが始まる前から既に人が集まっている。今日はいつもより多く、100人近くが集まっていた。
話のあとで質問を受け付けるやり方だが、質問をぶつける人の多いこと、活発なこと。東京では、こんなに反応が返ってくることはあまりない。福山さんも「関西ではこうなんですよ」と言っていた。羨ましい参加意識だ。
☞別稿 モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews
エリアフ・インバルが客演。大阪フィルへは、昨年のマーラーの「第5交響曲」他を振って以来、2度目。今回は「第6交響曲《悲劇的》」1曲のみ。今日は2日目。
インバルは今回、第1楽章と第2楽章(スケルツォ)の間、第3楽章(アンダンテ)と第4楽章の間とを、それぞれアタッカ同様の形で指揮した。オーケストラも大変だったろう。
2日目だったせいなのか、あるいは、まだそれほど馴染みのない大阪フィルとの仕事だった所為なのかは定かでないが、今日の「6番」は、インバルの指揮するマーラーとしては、不思議なほど力任せにエネルギーを解放した演奏に感じられた。金管も打楽器も、鳴らすこと、鳴らすこと。
特に第4楽章は怒号咆哮の連続で、もともと凶暴な性格を持ったこの楽章が、いっそう凶暴さを増して聞こえたのである。
都響を振った時のインバルは、たとえ全管弦楽を怒号させた時でも、決して厳しい構築を崩さない指揮者だった。聴き手に息苦さを感じさせるほど、引き締めた演奏になる。同じ凶暴さでも、厳然たる強面の凶暴さ(?)という印象があった。それが近年のインバルのマーラーだと受け止めていたのだが━━。
組む相手のオーケストラによって意図的にアプローチを変える人とも思えないから、やはりこれは、気心知れた都響と、客演僅か2度目の大フィル相手の呼吸の違いから生まれたものだろう。
もちろん今回の演奏も、歯止めの利かない暴発といったものではなく、インバルらしい制御を随所に利かせ、均衡を保持した演奏だったのは事実である。第3楽章での起伏の大きな、しかし情感に溺れぬ叙情美など、インバルならではのものがあった。
そして大阪フィル(コンサートマスター崔文洙)は、このオーケストラらしいパワーを全開してインバルの指揮に応じていた。かなり荒っぽいところも多かったけれど、それは特に非難されるべき質のものでもないだろう。昔、朝比奈時代には、東京のファンからは「野武士の如く豪快な荒々しい迫力」と言われ、それが人気だったことさえあるくらいだ。
管のソロも概して好調、打楽器陣も活躍。
第4楽章でのハンマー(2回)は女性奏者が受け持っていたが、このハンマーは意外に小型のもので、残念ながら「たかだかと振りかぶり、風を切って打ち下ろす」(アルマ・マーラー回想録)という光景にはならなかった。ただ、小さいせいか、音は所謂「鈍い威圧的な衝撃音」ではなく、軽いバチンという音にとどまっていたのには、少々拍子抜け。インバルの好みではないだろう。以前の演奏ではもっと重々しい音を出させていたから。
開演前には毎回、ホワイエで、大阪フィルの福山修氏(事務局次長兼演奏事業部長)のプレトークが行われている。マイクは使っているがPAの音量が非常に小さい上に、離れたエスカレーターの近くで場内案内をする男のレセプショニストの不必要なほどの大きな声がこだまして響いて来るため、演壇の周囲の数十人にしか聞こえない。だが始まる前から既に人が集まっている。今日はいつもより多く、100人近くが集まっていた。
話のあとで質問を受け付けるやり方だが、質問をぶつける人の多いこと、活発なこと。東京では、こんなに反応が返ってくることはあまりない。福山さんも「関西ではこうなんですよ」と言っていた。羨ましい参加意識だ。
☞別稿 モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews
2017・7・27(木)ガブリエル・フェルツ指揮大阪交響楽団
ザ・シンフォニーホール 7時
ベルリン生れ、40歳代半ばのガブリエル・フェルツが客演。
プログラムが実にユニークで、面白い。R・シュトラウスの「死と変容」で開始され、シューベルトの「交響曲第4番《悲劇的》」が続き、休憩を挟んでシューベルトの「未完成交響曲」、最後に再びR・シュトラウスの「4つの最後の歌」で締める、という選曲。これは、あまり他に例をみない配列ではなかろうか。
ソプラノ・ソロは木澤佐江子(関西二期会)、コンサートマスターは林七奈。
シュトラウスの2曲を最初と最後に置いたのは、「死と変容」の主題が「4つの最後の歌」の最終個所で回想されることに着目したゆえだろう。また、「死と変容」を受けてシューベルトの「悲劇的」が始まるという流れも、聴いていると、それなりに納得できるものがある。
ただ、オーケストラの編成がその都度大きく変わり、シュトラウスの2曲は弦14型、「悲劇的」は8型、「未完成」は10型による演奏だったので、ステージの配置換えに、些か時間を要した。演奏終了は9時15分になった。
フェルツの指揮を聴いたのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。派手な存在という印象ではないし、また洗練された味とか器用さとかには少々乏しい人のようにも思えるが、しかし、これは注目していい指揮者だ。極めて丁寧に念入りに、精魂こめて指揮をする。
最も印象に残ったのは、最弱音の美しさへのこだわりと、金管や木管を中心とする和声の構築の卓越した巧さだ。それは「死と変容」の終結や、「4つの最後の歌」の「夕映えに」の終結で、見事に発揮されていた。
実際、この「夕映えに」の最後の弱音の流れがこれだけ和声的な美しさに満ち、しかも情感豊かに演奏された例は、これまで私の聴いた範囲では、稀有のものといってよい。それは「未完成交響曲」第2楽章のエンディングでも同様だったし、またその第1楽章でも管のハーモニーのバランスの良さは見事だった。━━何か今日は、こういう曲ばかり意図的に選ばれていたような気がするが・・・・。
こういうところを、今日の大阪交響楽団は、驚くほど美しく演奏してくれた。
もう一つ、「4つの最後の歌」の第3曲「眠りにつくとき」の中ほどでの、ヴァイオリン・ソロ(林七奈のソロが素晴らしい)の背景でゆっくりと移り変わって行く最弱音のオーケストラの叙情美も、印象に残る。フェルツはここを極めて遅いテンポで、ロマンティックな陶酔感をこめて歌い上げていた。そして、大阪響もそれに見事に応えていたのである。
このところ、大阪のオーケストラをいくつか続けて聴く機会に恵まれているが、本気度の高い演奏に出会うことが多いのは、嬉しい。
このフェルツの指揮、「死と変容」での激烈な個所はそれなりに劇的な表現で、リズム感も鋭い。特に後半での息の長い盛り上がりの個所は、壮大な迫力感を示して成功していた。
遅いテンポの部分では非常に念入りに構築し、前述のような個所では、良い効果を生み出している。ただ、音型が断続する個所(「死と変容」の序奏や、「悲劇的」でのいくつかの個所)では、そのテンポの遅さがしばしば緊張感を希薄にしてしまう時がある。
また、シューベルトの交響曲へのアプローチは、基本的にはロマンティックなスタイルと言えようか。音は分厚く、暗く、重い。「未完成」では、スタッカートも柔らかく穏やかで、全体にミステリオーゾな雰囲気さえ漂わせる。
ソロを歌った木澤佐江子は、一昨年「ノルマ」のアダルジーザを聴いて、綺麗な声の人だな、と感心したことがあるが、今日も同様であった。ただ、彼女の声は、かなり明るい。深々と歌っているつもりでも、この曲の持つ「黄昏」的な性格━━人生の終りに近づいた感慨を歌い上げる作品の性格からすると、どうしてもまだ人生の真っ只中にいる女性の「青春の光と影」のような雰囲気を感じさせてしまうのである。もう一つ工夫が望まれるところだろう。
☞別稿 モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews
ベルリン生れ、40歳代半ばのガブリエル・フェルツが客演。
プログラムが実にユニークで、面白い。R・シュトラウスの「死と変容」で開始され、シューベルトの「交響曲第4番《悲劇的》」が続き、休憩を挟んでシューベルトの「未完成交響曲」、最後に再びR・シュトラウスの「4つの最後の歌」で締める、という選曲。これは、あまり他に例をみない配列ではなかろうか。
ソプラノ・ソロは木澤佐江子(関西二期会)、コンサートマスターは林七奈。
シュトラウスの2曲を最初と最後に置いたのは、「死と変容」の主題が「4つの最後の歌」の最終個所で回想されることに着目したゆえだろう。また、「死と変容」を受けてシューベルトの「悲劇的」が始まるという流れも、聴いていると、それなりに納得できるものがある。
ただ、オーケストラの編成がその都度大きく変わり、シュトラウスの2曲は弦14型、「悲劇的」は8型、「未完成」は10型による演奏だったので、ステージの配置換えに、些か時間を要した。演奏終了は9時15分になった。
フェルツの指揮を聴いたのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。派手な存在という印象ではないし、また洗練された味とか器用さとかには少々乏しい人のようにも思えるが、しかし、これは注目していい指揮者だ。極めて丁寧に念入りに、精魂こめて指揮をする。
最も印象に残ったのは、最弱音の美しさへのこだわりと、金管や木管を中心とする和声の構築の卓越した巧さだ。それは「死と変容」の終結や、「4つの最後の歌」の「夕映えに」の終結で、見事に発揮されていた。
実際、この「夕映えに」の最後の弱音の流れがこれだけ和声的な美しさに満ち、しかも情感豊かに演奏された例は、これまで私の聴いた範囲では、稀有のものといってよい。それは「未完成交響曲」第2楽章のエンディングでも同様だったし、またその第1楽章でも管のハーモニーのバランスの良さは見事だった。━━何か今日は、こういう曲ばかり意図的に選ばれていたような気がするが・・・・。
こういうところを、今日の大阪交響楽団は、驚くほど美しく演奏してくれた。
もう一つ、「4つの最後の歌」の第3曲「眠りにつくとき」の中ほどでの、ヴァイオリン・ソロ(林七奈のソロが素晴らしい)の背景でゆっくりと移り変わって行く最弱音のオーケストラの叙情美も、印象に残る。フェルツはここを極めて遅いテンポで、ロマンティックな陶酔感をこめて歌い上げていた。そして、大阪響もそれに見事に応えていたのである。
このところ、大阪のオーケストラをいくつか続けて聴く機会に恵まれているが、本気度の高い演奏に出会うことが多いのは、嬉しい。
このフェルツの指揮、「死と変容」での激烈な個所はそれなりに劇的な表現で、リズム感も鋭い。特に後半での息の長い盛り上がりの個所は、壮大な迫力感を示して成功していた。
遅いテンポの部分では非常に念入りに構築し、前述のような個所では、良い効果を生み出している。ただ、音型が断続する個所(「死と変容」の序奏や、「悲劇的」でのいくつかの個所)では、そのテンポの遅さがしばしば緊張感を希薄にしてしまう時がある。
また、シューベルトの交響曲へのアプローチは、基本的にはロマンティックなスタイルと言えようか。音は分厚く、暗く、重い。「未完成」では、スタッカートも柔らかく穏やかで、全体にミステリオーゾな雰囲気さえ漂わせる。
ソロを歌った木澤佐江子は、一昨年「ノルマ」のアダルジーザを聴いて、綺麗な声の人だな、と感心したことがあるが、今日も同様であった。ただ、彼女の声は、かなり明るい。深々と歌っているつもりでも、この曲の持つ「黄昏」的な性格━━人生の終りに近づいた感慨を歌い上げる作品の性格からすると、どうしてもまだ人生の真っ只中にいる女性の「青春の光と影」のような雰囲気を感じさせてしまうのである。もう一つ工夫が望まれるところだろう。
☞別稿 モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews
2017・7・25(水)フルシャ指揮東京都響 スメタナ「わが祖国」
ミューザ川崎シンフォニーホール 7時
「フェスタサマーミューザKAWASAKI」の一環。ヤクブ・フルシャと東京都交響楽団の「わが祖国」は、今回はこの日しかない、ということもあって、1997席を擁するホールもほぼ満席に近い。
彼の指揮する「わが祖国」は、「ブラニーク」だけは以前にも聴いたことがあるけれども、全6曲での演奏に接するのは、今回が初めてだ(※)。
期待通りの快演で、全体にパンチの利いた、躍動的な「わが祖国」である。民族的な郷愁や田園的、伝説的な温かい味を浮き彫りにするよりも、作品の持つエネルギー性に重点を置き、ひたすらダイナミックに押した「わが祖国」と言ったらいいだろうか。
何しろリズム感がいい。ホールのアコースティックが明晰なので、演奏の性格もそれに影響されて聞こえ、鋭く硬く構えたものに過ぎるかな、と感じられる向きもあるだろう。ただその一方、「モルダウ」での、「月光を浴びて水の精が踊る」あたりの夢見るような美しい描写は、何とも見事であった。
欲を言えば、「シャールカ」での男をたぶらかす女主人公を表すクラリネットには、もう少し色気が欲しかったところ。シャールカがアマゾネスの大軍に合図する角笛の音も素っ気なく(秘かに合図をする、という雰囲気が無かったということ)、女軍がなだれ込んで来るくだりなども、殺到━━急襲━━大殺戮といったような段階的な変化があまり明確でなく、ただ勢いに任せた激しい演奏になっていたのには、ちょっと違和感がある。だが、「ターボル」や「ブラニーク」などでの追い込みはさすがのものであった。
フルシャも、オーケストラが引き上げた後で、独りでステージに呼び戻され、聴衆の熱狂的な拍手を享けていた。彼が都響を指揮した演奏会で、これまでこういうソロ・カーテンコールが起こったことがあったかどうか?
2010年から務めていた首席客演指揮者のポストも今シーズンいっぱいというのが残念だが、また来て振ってもらいたいところだ。以前、彼が故国チェコの某オーケストラを指揮したのを聴いたことがあったけれど、どうみても彼は都響との演奏の方が遥かにいい、と思えたからである。
※O様から「聴いてるはずだろ」と指摘を受け、そういえば・・・・と思い出したのが、2年前に彼がフィルハーモニア・プラハと来日した時のプログラムが実は「わが祖国」だったこと。「某」と言いつつバラシてしまいましたが、あれは何とも散漫極まる演奏で、記憶にすら残らないような「わが祖国」でありました・・・・。「都響との演奏の方がよほどいいはずだ」と、その時にもすでに書いていました。
「フェスタサマーミューザKAWASAKI」の一環。ヤクブ・フルシャと東京都交響楽団の「わが祖国」は、今回はこの日しかない、ということもあって、1997席を擁するホールもほぼ満席に近い。
彼の指揮する「わが祖国」は、「ブラニーク」だけは以前にも聴いたことがあるけれども、全6曲での演奏に接するのは、今回が初めてだ(※)。
期待通りの快演で、全体にパンチの利いた、躍動的な「わが祖国」である。民族的な郷愁や田園的、伝説的な温かい味を浮き彫りにするよりも、作品の持つエネルギー性に重点を置き、ひたすらダイナミックに押した「わが祖国」と言ったらいいだろうか。
何しろリズム感がいい。ホールのアコースティックが明晰なので、演奏の性格もそれに影響されて聞こえ、鋭く硬く構えたものに過ぎるかな、と感じられる向きもあるだろう。ただその一方、「モルダウ」での、「月光を浴びて水の精が踊る」あたりの夢見るような美しい描写は、何とも見事であった。
欲を言えば、「シャールカ」での男をたぶらかす女主人公を表すクラリネットには、もう少し色気が欲しかったところ。シャールカがアマゾネスの大軍に合図する角笛の音も素っ気なく(秘かに合図をする、という雰囲気が無かったということ)、女軍がなだれ込んで来るくだりなども、殺到━━急襲━━大殺戮といったような段階的な変化があまり明確でなく、ただ勢いに任せた激しい演奏になっていたのには、ちょっと違和感がある。だが、「ターボル」や「ブラニーク」などでの追い込みはさすがのものであった。
フルシャも、オーケストラが引き上げた後で、独りでステージに呼び戻され、聴衆の熱狂的な拍手を享けていた。彼が都響を指揮した演奏会で、これまでこういうソロ・カーテンコールが起こったことがあったかどうか?
2010年から務めていた首席客演指揮者のポストも今シーズンいっぱいというのが残念だが、また来て振ってもらいたいところだ。以前、彼が故国チェコの某オーケストラを指揮したのを聴いたことがあったけれど、どうみても彼は都響との演奏の方が遥かにいい、と思えたからである。
※O様から「聴いてるはずだろ」と指摘を受け、そういえば・・・・と思い出したのが、2年前に彼がフィルハーモニア・プラハと来日した時のプログラムが実は「わが祖国」だったこと。「某」と言いつつバラシてしまいましたが、あれは何とも散漫極まる演奏で、記憶にすら残らないような「わが祖国」でありました・・・・。「都響との演奏の方がよほどいいはずだ」と、その時にもすでに書いていました。
2017・7・23(日)チョン・ミョンフン指揮東京フィル マーラー「復活」
Bunkamuraオーチャードホール 3時
第1楽章の原典版「葬礼」を含めれば、今週は「復活」を3度も聴いたことになるか。
私も、昔ほどにはこの曲に現を抜かしているというほどでもないけれど、自分の気に入ったタイプの演奏にぶつかれば、やはりそれなりに酔うし、特に全曲最後のクライマックスで、合唱のパートに独唱者も参加して「・・・・wirst du,Mein Herz,in einem Nu!」と絶唱する個所━━つまりソプラノならG-F-Esのあと髙いBに上がり、次いでG-F-Es-D-Es-Fと歌って行く個所などで覚えずジンとしてしまうような感覚は、まだ持ち合わせているつもりである。
独唱者たちが合唱とほぼ共通したパートを一緒に歌うのは、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」第1部最後の「学生たちの合唱」にファウストとメフィストフェレスが参加するという例もあるが、不思議に迫力を感じさせるものだ。
余談だが、20年近く前、サンクトペテルブルクでゲルギエフがこの曲を指揮した時には、ソリストたちには一緒に歌わせず座らせたままだったので、すこぶる迫力を欠いた。ちなみにその時のソプラノは、未だ無名時代のアンナ・ネトレプコだった。
それはともかく、今日のチョン・ミョンフンと東京フィル(コンサートマスター三浦章宏)、新国立劇場合唱団、安井陽子(S)、山下牧子(Ms)によるマーラーの第2交響曲「復活」は、率直な演奏ながら、なかなか心に迫る温かい、味のある演奏であったと思う。
このところ、チョン・ミョンフンの指揮するドイツ・ロマン派の作品は、先年の「トリスタンとイゾルデ」でもそうだったが、誇張やハッタリなどの手練手管を一切排した、極めてストレートな表現になって来ているようである。第5楽章での練習番号【14】の前の打楽器による猛烈なクレッシェンドなど、「Molto riten.」の指定もさほど強調されず、意外にあっさりしたものだった。
だがそのストレートなタッチが、むしろ凄味を生む場合もある。第3楽章での、あの「魚に説教する聖アントニウス」の主題が快適なテンポで流れて行くその中に、しばしば強烈な音の一閃を繰り返して聴き手の度肝を抜くマーラー独特の仕掛け━━それが、これほど自然に、無造作なほど率直に再現されながら、しかも劇的な衝撃が生み出されていた演奏を、私はかつて聴いたことがない。
チョン・ミョンフンはいま、指揮の身振りも、もはや無駄な動きを一切なくした、簡略なものにして、最小限の身体の動きでオーケストラを燃え立たせることのできる境地に達しているようにみえる。
第1楽章の原典版「葬礼」を含めれば、今週は「復活」を3度も聴いたことになるか。
私も、昔ほどにはこの曲に現を抜かしているというほどでもないけれど、自分の気に入ったタイプの演奏にぶつかれば、やはりそれなりに酔うし、特に全曲最後のクライマックスで、合唱のパートに独唱者も参加して「・・・・wirst du,Mein Herz,in einem Nu!」と絶唱する個所━━つまりソプラノならG-F-Esのあと髙いBに上がり、次いでG-F-Es-D-Es-Fと歌って行く個所などで覚えずジンとしてしまうような感覚は、まだ持ち合わせているつもりである。
独唱者たちが合唱とほぼ共通したパートを一緒に歌うのは、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」第1部最後の「学生たちの合唱」にファウストとメフィストフェレスが参加するという例もあるが、不思議に迫力を感じさせるものだ。
余談だが、20年近く前、サンクトペテルブルクでゲルギエフがこの曲を指揮した時には、ソリストたちには一緒に歌わせず座らせたままだったので、すこぶる迫力を欠いた。ちなみにその時のソプラノは、未だ無名時代のアンナ・ネトレプコだった。
それはともかく、今日のチョン・ミョンフンと東京フィル(コンサートマスター三浦章宏)、新国立劇場合唱団、安井陽子(S)、山下牧子(Ms)によるマーラーの第2交響曲「復活」は、率直な演奏ながら、なかなか心に迫る温かい、味のある演奏であったと思う。
このところ、チョン・ミョンフンの指揮するドイツ・ロマン派の作品は、先年の「トリスタンとイゾルデ」でもそうだったが、誇張やハッタリなどの手練手管を一切排した、極めてストレートな表現になって来ているようである。第5楽章での練習番号【14】の前の打楽器による猛烈なクレッシェンドなど、「Molto riten.」の指定もさほど強調されず、意外にあっさりしたものだった。
だがそのストレートなタッチが、むしろ凄味を生む場合もある。第3楽章での、あの「魚に説教する聖アントニウス」の主題が快適なテンポで流れて行くその中に、しばしば強烈な音の一閃を繰り返して聴き手の度肝を抜くマーラー独特の仕掛け━━それが、これほど自然に、無造作なほど率直に再現されながら、しかも劇的な衝撃が生み出されていた演奏を、私はかつて聴いたことがない。
チョン・ミョンフンはいま、指揮の身振りも、もはや無駄な動きを一切なくした、簡略なものにして、最小限の身体の動きでオーケストラを燃え立たせることのできる境地に達しているようにみえる。
2017・7・22(土)フェスタサマーミューザKAWASAKI ノット指揮東京響
ミューザ川崎シンフォニーホール 3時
恒例の「フェスタサマーミューザKAWASAKI」が開幕した。オープニングの演奏を受け持ったのはもちろんホストオーケストラの東京交響楽団で、昨年に続き、音楽監督ジョナサン・ノットがみずから指揮。開幕公演に全力投球、というところだろう。
プログラムはシェーンベルクの「浄められた夜」と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。コンサートマスターは水谷晃。
真夏のフェスティバルの幕開けの曲が、こともあろうに「冬枯れの木立の中を、月光を浴びて歩いて行く1組の男女」の深刻な会話(R・デーメルの詩)を題材にした作品とは、何ともユーモア感覚に富む選曲というか。
ノットの指揮も、演奏時間31分というかなりの遅いテンポで、重苦しく男女の苦悩を描き出した。最初の部分など、あたかも女が意気消沈、歩くのもやっとという様子で男に秘密を打ち明けはじめる━━といった表現の演奏だったが、全体を通して聴けば、2人の心理の変化は出ていたであろう。
拍手とブラヴォ―は盛ん。この川崎では、ノットと東響は、どんな演奏であっても聴衆から熱狂的に歓迎されるようである。
後半は「春の祭典」。これはもう、ノット特有の鋭いデュナミークの対比と、筋金入りの剛直なサウンドによる、どっしりした強面の演奏である。ただし、どれほどオーケストラを激しく咆哮させても、どこかに冷静な節度を保っていて、決して魔性的な感情に陥ることがない━━というのも、ノットの指揮の特徴だろう。
東京響も、剛直な演奏でこれに応えていた。ホルン・セクションにちょっと不安を感じさせるところがなくもなかったが、その他のセクションは安定していた。
ティンパニはすこぶる強力で、しばしば他の楽器のパートを圧倒したほどだが、これはノットの指示に由るのだろう。そういえばノットは、いくつかの個所で、スコアにおけるデュナミーク指定を逆転させて演奏させていたが、これは時に主題を他の楽器の咆哮の裡に埋没させる結果を招いており、些か賛成しかねるケースもある。
最後の「いけにえの踊り」の頂点は壮烈な昂揚。満席近い客席からの拍手と歓声もそれに相応しかった。アンコールは無し。ノットは先週の定期と同様、今回もソロ・カーテンコールでステージに呼び戻されていた。川崎でのノットの人気は凄まじい。
恒例の「フェスタサマーミューザKAWASAKI」が開幕した。オープニングの演奏を受け持ったのはもちろんホストオーケストラの東京交響楽団で、昨年に続き、音楽監督ジョナサン・ノットがみずから指揮。開幕公演に全力投球、というところだろう。
プログラムはシェーンベルクの「浄められた夜」と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。コンサートマスターは水谷晃。
真夏のフェスティバルの幕開けの曲が、こともあろうに「冬枯れの木立の中を、月光を浴びて歩いて行く1組の男女」の深刻な会話(R・デーメルの詩)を題材にした作品とは、何ともユーモア感覚に富む選曲というか。
ノットの指揮も、演奏時間31分というかなりの遅いテンポで、重苦しく男女の苦悩を描き出した。最初の部分など、あたかも女が意気消沈、歩くのもやっとという様子で男に秘密を打ち明けはじめる━━といった表現の演奏だったが、全体を通して聴けば、2人の心理の変化は出ていたであろう。
拍手とブラヴォ―は盛ん。この川崎では、ノットと東響は、どんな演奏であっても聴衆から熱狂的に歓迎されるようである。
後半は「春の祭典」。これはもう、ノット特有の鋭いデュナミークの対比と、筋金入りの剛直なサウンドによる、どっしりした強面の演奏である。ただし、どれほどオーケストラを激しく咆哮させても、どこかに冷静な節度を保っていて、決して魔性的な感情に陥ることがない━━というのも、ノットの指揮の特徴だろう。
東京響も、剛直な演奏でこれに応えていた。ホルン・セクションにちょっと不安を感じさせるところがなくもなかったが、その他のセクションは安定していた。
ティンパニはすこぶる強力で、しばしば他の楽器のパートを圧倒したほどだが、これはノットの指示に由るのだろう。そういえばノットは、いくつかの個所で、スコアにおけるデュナミーク指定を逆転させて演奏させていたが、これは時に主題を他の楽器の咆哮の裡に埋没させる結果を招いており、些か賛成しかねるケースもある。
最後の「いけにえの踊り」の頂点は壮烈な昂揚。満席近い客席からの拍手と歓声もそれに相応しかった。アンコールは無し。ノットは先週の定期と同様、今回もソロ・カーテンコールでステージに呼び戻されていた。川崎でのノットの人気は凄まじい。
2017・7・19(水)レナード・スラットキン指揮デトロイト交響楽団
東京オペラシティ コンサートホール 7時
諏訪内晶子が芸術監督を務める「国際音楽祭NIPPON」(第5回)の一環。
前半の2曲、武満徹の「遠い呼び声の彼方へ!」およびコルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」では、彼女がソリストを務めた。後半のプログラムは、チャイコフスキーの「交響曲第4番」だった。
やはり聴きものは、最初の2曲である。
とはいっても、「遠い呼び声の彼方へ!」でのオーケストラの無造作なほどの荒っぽさには、少々驚く。武満の静謐な音の美は、荒々しいダイナミズムの中に消え失せた。外国のオケが演奏するタケミツ作品は概してメリハリが強く、造型のしっかりした音楽になることが多く、それはそれで面白くなるのだが、今日のはかなり極端だったのではないか。叙情美を歌う諏訪内のソロさえ、しばしばオーケストラの強音に打ち消されてしまっていた。
スラットキンは、これまでにも武満作品を少なからず指揮しているし、こんなに荒っぽい演奏をすることはなかったはずなのだが━━。
その点、次のコルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」でのデトロイト響の演奏は、曲想からしても、まったく違和感はない。諏訪内晶子のソロも伸びやかで、スケール感も豊かであり、大きな起伏を以ってオーケストラと拮抗し、快演を聴かせてくれた。このコルンゴルトの協奏曲は、彼女の定番曲となり得るのではないか? それにしても彼女は、特にこの十数年来、本当に素晴らしいヴァイオリニストになっている。
チャイコフスキーの「4番」は、このホールを揺るがせんばかりの大音響。別に大きな音がいけないと言っているわけではないが、この演奏には、正直言って、少々疲れる。
アンコールは菅野よう子の「花は咲く」。今回の大編成の管弦楽への編曲はかなり長く、しかも豊麗だ。これを取り上げたのは、彼らなりの精一杯のサービスだろうから、有難く拝聴させていただいたが、どうもある種の違和感がある。
その点、アンコール2曲目に演奏されたフェリクス・スラットキン(レナードの父君)の「悪魔の夢」とかいう、題名とは裏腹の陽気なウェスタン調の小品の方が、いかにもアメリカのオーケストラが「地」を出したという雰囲気が感じられて、よほど楽しかった。
ちなみに、レナード・スラットキンは、2008年からこの楽団の音楽監督。また、プログラムにはメンバー表が載っていないのだが、コンサートマスターはヨーンシン・ソンという、韓国出身の女性奏者である。
→別稿 音楽の友9月号 Concert Reviews
諏訪内晶子が芸術監督を務める「国際音楽祭NIPPON」(第5回)の一環。
前半の2曲、武満徹の「遠い呼び声の彼方へ!」およびコルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」では、彼女がソリストを務めた。後半のプログラムは、チャイコフスキーの「交響曲第4番」だった。
やはり聴きものは、最初の2曲である。
とはいっても、「遠い呼び声の彼方へ!」でのオーケストラの無造作なほどの荒っぽさには、少々驚く。武満の静謐な音の美は、荒々しいダイナミズムの中に消え失せた。外国のオケが演奏するタケミツ作品は概してメリハリが強く、造型のしっかりした音楽になることが多く、それはそれで面白くなるのだが、今日のはかなり極端だったのではないか。叙情美を歌う諏訪内のソロさえ、しばしばオーケストラの強音に打ち消されてしまっていた。
スラットキンは、これまでにも武満作品を少なからず指揮しているし、こんなに荒っぽい演奏をすることはなかったはずなのだが━━。
その点、次のコルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」でのデトロイト響の演奏は、曲想からしても、まったく違和感はない。諏訪内晶子のソロも伸びやかで、スケール感も豊かであり、大きな起伏を以ってオーケストラと拮抗し、快演を聴かせてくれた。このコルンゴルトの協奏曲は、彼女の定番曲となり得るのではないか? それにしても彼女は、特にこの十数年来、本当に素晴らしいヴァイオリニストになっている。
チャイコフスキーの「4番」は、このホールを揺るがせんばかりの大音響。別に大きな音がいけないと言っているわけではないが、この演奏には、正直言って、少々疲れる。
アンコールは菅野よう子の「花は咲く」。今回の大編成の管弦楽への編曲はかなり長く、しかも豊麗だ。これを取り上げたのは、彼らなりの精一杯のサービスだろうから、有難く拝聴させていただいたが、どうもある種の違和感がある。
その点、アンコール2曲目に演奏されたフェリクス・スラットキン(レナードの父君)の「悪魔の夢」とかいう、題名とは裏腹の陽気なウェスタン調の小品の方が、いかにもアメリカのオーケストラが「地」を出したという雰囲気が感じられて、よほど楽しかった。
ちなみに、レナード・スラットキンは、2008年からこの楽団の音楽監督。また、プログラムにはメンバー表が載っていないのだが、コンサートマスターはヨーンシン・ソンという、韓国出身の女性奏者である。
→別稿 音楽の友9月号 Concert Reviews
2017・7・17(月)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団
東京芸術劇場 コンサートホール 2時
マーラーが続く。今日のプログラムは、前半に「葬礼」、後半に「交響曲《大地の歌》」。「葬礼」は、言うまでもなく「第2交響曲《復活》」の第1楽章の原典版である。
昨日のノットのマーラーは、あまりに剛直に過ぎて、さながら鋼鉄の如き「復活」というイメージだったが、その点、今日のインバルの指揮するそれは、やはり中庸を得たスタイルに感じられる。感情と形式感とが肉離れを起さずに均衡を保っている、と言ったらいいか。何となく安堵させられる気持になる。
とはいえ、このインバルのマーラーだって、ある傾向の指揮者のそれに比べれば、随分強面の演奏のはずである。まして、そのかみのワルターやバーンスタイン━━この2人だって、当時はかなり違う傾向と感じられたものだが━━の指揮するマーラーがスタンダードな存在たる時代だったら、インバルのこのようなマーラーは、味も素っ気もない演奏、と言われたに違いない。
ともあれ、そのインバルが指揮した「葬礼」と「大地の歌」━━都響(コンサートマスター四方恭子)の、これも揺るぎない演奏に反映された2曲は、いずれも見事なものだった。
「葬礼」は、都響がこれを取り上げるのは、実に1990年の若杉弘の指揮(あの時には、「第2交響曲」の第1楽章として演奏されていた)以来27年ぶりになるが、オーケストラの能力も、あの頃とは桁違いに高くなっている。エンディングでの轟然たる引き締まった下行など、格段に凄味がある。
「大地の歌」では、ダニエル・キルヒ(T)とアンナ・ラーション(A)がソリストに迎えられていた。
この曲では、テノール歌手は、全く同情すべき役回りだ。どう上手く歌ったところで、声はオーケストラにマスクされてしまうのだから(マーラーがもし生前に一度でもこの曲を指揮できていたら、必ずやオケ・パートを改訂したであろう)。
従ってキルヒのことは措くとして、やはりラーションが素晴らしい。「告別」での深みのある歌唱は感動的である。そして最後の、「Ewig・・・・ewig・・・・」という言葉が繰り返されつつ音楽が消えて行く個所━━インバルと都響による情感にあふれた演奏と併せ、美しく浄化された幕切れとなっていた。
マーラーが続く。今日のプログラムは、前半に「葬礼」、後半に「交響曲《大地の歌》」。「葬礼」は、言うまでもなく「第2交響曲《復活》」の第1楽章の原典版である。
昨日のノットのマーラーは、あまりに剛直に過ぎて、さながら鋼鉄の如き「復活」というイメージだったが、その点、今日のインバルの指揮するそれは、やはり中庸を得たスタイルに感じられる。感情と形式感とが肉離れを起さずに均衡を保っている、と言ったらいいか。何となく安堵させられる気持になる。
とはいえ、このインバルのマーラーだって、ある傾向の指揮者のそれに比べれば、随分強面の演奏のはずである。まして、そのかみのワルターやバーンスタイン━━この2人だって、当時はかなり違う傾向と感じられたものだが━━の指揮するマーラーがスタンダードな存在たる時代だったら、インバルのこのようなマーラーは、味も素っ気もない演奏、と言われたに違いない。
ともあれ、そのインバルが指揮した「葬礼」と「大地の歌」━━都響(コンサートマスター四方恭子)の、これも揺るぎない演奏に反映された2曲は、いずれも見事なものだった。
「葬礼」は、都響がこれを取り上げるのは、実に1990年の若杉弘の指揮(あの時には、「第2交響曲」の第1楽章として演奏されていた)以来27年ぶりになるが、オーケストラの能力も、あの頃とは桁違いに高くなっている。エンディングでの轟然たる引き締まった下行など、格段に凄味がある。
「大地の歌」では、ダニエル・キルヒ(T)とアンナ・ラーション(A)がソリストに迎えられていた。
この曲では、テノール歌手は、全く同情すべき役回りだ。どう上手く歌ったところで、声はオーケストラにマスクされてしまうのだから(マーラーがもし生前に一度でもこの曲を指揮できていたら、必ずやオケ・パートを改訂したであろう)。
従ってキルヒのことは措くとして、やはりラーションが素晴らしい。「告別」での深みのある歌唱は感動的である。そして最後の、「Ewig・・・・ewig・・・・」という言葉が繰り返されつつ音楽が消えて行く個所━━インバルと都響による情感にあふれた演奏と併せ、美しく浄化された幕切れとなっていた。
2017・7・16(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団
ミューザ川崎シンフォニーホール 2時
細川俊夫の「嘆き」と、マーラーの「第2交響曲《復活》」が演奏された。これは、なかなか機微に富んだ組合せではないかと思う。「嘆き」は、作曲者の意図によれば、津波でわが子を失った母に捧げられた作品であり、「復活」は、改めて言うまでもなく、最終楽章で「死せる者は蘇る」と歌われる交響曲である。
ただし、「嘆き」で使用されている歌詞は、第1次世界大戦時に世を去った詩人トラーケルのもので、細川はこれを大震災の津波の犠牲者を悼む意味に重ね合わせている。そしてこの曲はザルツブルク音楽祭からの委嘱で、ソプラノと管弦楽のための作品として書かれ、デュトワ指揮N響により2013年に同音楽祭で初演されたが、そののち、藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)のために一部改訂された。今日演奏されたのは、その藤村がソリストを務めた版である。
だが、彼女が歌ったことで、この作品のイメージは、まさに大きく変わったと言ってもいいのではなかろうか。それは実に並はずれて深みのある、スケールの大きな歌唱であり、そのため、作品全体に身の毛のよだつような凄味があふれる結果となった。彼女の深々と響く声は、時には大編成のオーケストラをさえ圧倒したのである。
一方、オーケストラはマーラーの「大地の歌」の終楽章冒頭にも似た重々しい響きで開始され、暗く波立ちながら大きな起伏を繰り返す。管楽器による「吹き抜ける風の音」など、細川俊夫特有の語法により進められて行った。その重量感に満ちた慟哭は凄まじく、これは聴き応えのある作品であった。
後半はマーラーの交響曲「復活」。
音楽監督ジョナサン・ノットと東京響の最近の充実ぶりを示すように、一分の隙もなく堅固に構築された演奏となった。鋭い強弱の対比や、音響の激烈さは見事なほどだが、その半面、どろどろした情念の爆発や沈潜といったものは一切排除されている。こういうソリッドな演奏は、近年のマーラー演奏の一つの典型的なタイプと言えるのだろう。音響的には極めて立派だが、決して酔うことのないマーラーなのである。
いや、もっとも、今ではこういうダイナミズム優先のマーラーに陶酔する聴き手も多いようだから、既存の感性だけを基準にしてあれこれ断じてしまうのは、危険かもしれない。
コンサートマスターは、グレブ・ニキティン。「復活」での声楽ソリストは天羽明惠と藤村実穂子で、指揮者の方に顔を向けて上手側に(つまり斜めに)位置。この配置は、第5楽章では良し悪しを生んだかもしれない。だが第4楽章での藤村のソロはやはり圧倒的であった。そして第5楽章では、天羽の歌い出しが、コーラスの中からゆっくりと浮かび上がって来るようなこの曲本来の効果を巧く再現していた。合唱は東響コーラス。
また今回は第5楽章で、ステージ外で奏されるバンダが、その都度あちこち異なる位置から━━多分フロアの位置も変えて━━響いて来るのが、面白い効果を生んでいた。
細川俊夫の「嘆き」と、マーラーの「第2交響曲《復活》」が演奏された。これは、なかなか機微に富んだ組合せではないかと思う。「嘆き」は、作曲者の意図によれば、津波でわが子を失った母に捧げられた作品であり、「復活」は、改めて言うまでもなく、最終楽章で「死せる者は蘇る」と歌われる交響曲である。
ただし、「嘆き」で使用されている歌詞は、第1次世界大戦時に世を去った詩人トラーケルのもので、細川はこれを大震災の津波の犠牲者を悼む意味に重ね合わせている。そしてこの曲はザルツブルク音楽祭からの委嘱で、ソプラノと管弦楽のための作品として書かれ、デュトワ指揮N響により2013年に同音楽祭で初演されたが、そののち、藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)のために一部改訂された。今日演奏されたのは、その藤村がソリストを務めた版である。
だが、彼女が歌ったことで、この作品のイメージは、まさに大きく変わったと言ってもいいのではなかろうか。それは実に並はずれて深みのある、スケールの大きな歌唱であり、そのため、作品全体に身の毛のよだつような凄味があふれる結果となった。彼女の深々と響く声は、時には大編成のオーケストラをさえ圧倒したのである。
一方、オーケストラはマーラーの「大地の歌」の終楽章冒頭にも似た重々しい響きで開始され、暗く波立ちながら大きな起伏を繰り返す。管楽器による「吹き抜ける風の音」など、細川俊夫特有の語法により進められて行った。その重量感に満ちた慟哭は凄まじく、これは聴き応えのある作品であった。
後半はマーラーの交響曲「復活」。
音楽監督ジョナサン・ノットと東京響の最近の充実ぶりを示すように、一分の隙もなく堅固に構築された演奏となった。鋭い強弱の対比や、音響の激烈さは見事なほどだが、その半面、どろどろした情念の爆発や沈潜といったものは一切排除されている。こういうソリッドな演奏は、近年のマーラー演奏の一つの典型的なタイプと言えるのだろう。音響的には極めて立派だが、決して酔うことのないマーラーなのである。
いや、もっとも、今ではこういうダイナミズム優先のマーラーに陶酔する聴き手も多いようだから、既存の感性だけを基準にしてあれこれ断じてしまうのは、危険かもしれない。
コンサートマスターは、グレブ・ニキティン。「復活」での声楽ソリストは天羽明惠と藤村実穂子で、指揮者の方に顔を向けて上手側に(つまり斜めに)位置。この配置は、第5楽章では良し悪しを生んだかもしれない。だが第4楽章での藤村のソロはやはり圧倒的であった。そして第5楽章では、天羽の歌い出しが、コーラスの中からゆっくりと浮かび上がって来るようなこの曲本来の効果を巧く再現していた。合唱は東響コーラス。
また今回は第5楽章で、ステージ外で奏されるバンダが、その都度あちこち異なる位置から━━多分フロアの位置も変えて━━響いて来るのが、面白い効果を生んでいた。
2017・7・15(土)佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ「フィガロの結婚」
兵庫県立芸術文化センター 2時
恒例の「佐渡裕のオペラ」。今年はモーツァルトの「フィガロの結婚」。
14日から23日までの間に全8回のマチネー公演が行われている。歌手陣はダブルキャストで、5回が外国人中心組、3回が日本人中心組。ただし後者は26日の姫路と29日の篠山の公演でも歌う。指揮がもちろん佐渡裕、演出がまたデイヴィッド・ニース、舞台美術がロバート・パージオラ。
今日は日本人中心組の初日で、高田智宏(アルマヴィーヴァ伯爵)、並河寿美(伯爵夫人ロジーナ)、町英和(フィガロ)、中村恵理(スザンナ)、ベサニー・ヒックマン(ケルビーノ)、志村文彦(ドン・バルトロ)、清水華澄(マルチェリーナ)、渡辺大(ドン・クルツィオ/ドン・バジリオ)、晴雅彦(アントニオ)、三宅理恵(バルバリーナ)という顔ぶれ。兵庫芸術文化センター管弦楽団、ひょうごプロデュースオペラ合唱団。字幕付き上演。
外人組の方はどうか知らないけれども、わが日本人組の出来は、なかなか立派なものである。
中村恵理の才気煥発タイプのスザンナは相変わらず魅力的で、先頃の新国立劇場での同役よりも━━演出の関係もあるが━━開放的で生き生きしており、観ていて楽しく、歌唱も完璧だ。
また、キール歌劇場専属歌手として活躍している高田智宏も風格のある安定した歌唱で「中庸を得た封建領主」たる伯爵を描き出していた。
他にも、並河寿美の声の柔らかい美しさ(昔トゥーランドットで凄味を利かせた同じ人とは思えないほどの)は印象的だし、清水華澄の先日のジークリンデとは打って変わったコミカルな温かさもいいし、晴雅彦のいつに変わらぬどぎついアントニオも面白い。ところどころ声が聞こえにくくなるという人も中にはいたけれども、何よりアンサンブルという面で実に良いバランスが構築されていたことは、日本人歌手集団ならではの美点であろう。
佐渡とオーケストラは、序曲がまず極度にワイルドな演奏だったのには仰天。さながら「フィガロの怒り」とでも喩えたくなる序曲だった。その後は落ち着いたものの、基本的には「激動の一日、嵐の人間ドラマ」といったアプローチというか。
それがこのオペラの音楽に適しているかどうかは考え方次第だが、私はこの「フィガロの結婚」の音楽の本質は、決して「優雅典麗」なものではなく、生々しい人間ドラマをあからさまに表出したところに在ると思っている。
だが、デイヴィッド・ニースの演出はいつもの如くで、生々しい人間ドラマとはほど遠く、全くのトラディショナルなスタイルだ。「ここのお客さんには、こういう解り易い演出がよい」というのが、劇場側の本音のようである。ただし、その範囲内では極めて細かく、演技的にも隙なく作ってあり、「解り易さ」という点では申し分なく、ほぼ満席の観客から明るい笑いを誘っていた。
一つ、これはニースのアイディアか、佐渡のアイディアか聞き漏らしたが(※)、第3幕の結婚式の場面で、祝いの歌を歌う「2人の少女」の役を、バルバリーナとケルビーノに受け持たせていたのが注目された。ここではバルバリーナが、「ご機嫌を取っときなさいよ」とばかりケルビーノを煽り、ケルビーノは渋々歌詞カードを見ながら面倒くさそうに歌うという設定らしくて、なかなか面白く、気に入った。
※劇場からあとで教えてもらったところによれば、これはニースのアイディアだった由。
休憩は第2幕のあとに1回のみ。5時30分頃終演。
恒例の「佐渡裕のオペラ」。今年はモーツァルトの「フィガロの結婚」。
14日から23日までの間に全8回のマチネー公演が行われている。歌手陣はダブルキャストで、5回が外国人中心組、3回が日本人中心組。ただし後者は26日の姫路と29日の篠山の公演でも歌う。指揮がもちろん佐渡裕、演出がまたデイヴィッド・ニース、舞台美術がロバート・パージオラ。
今日は日本人中心組の初日で、高田智宏(アルマヴィーヴァ伯爵)、並河寿美(伯爵夫人ロジーナ)、町英和(フィガロ)、中村恵理(スザンナ)、ベサニー・ヒックマン(ケルビーノ)、志村文彦(ドン・バルトロ)、清水華澄(マルチェリーナ)、渡辺大(ドン・クルツィオ/ドン・バジリオ)、晴雅彦(アントニオ)、三宅理恵(バルバリーナ)という顔ぶれ。兵庫芸術文化センター管弦楽団、ひょうごプロデュースオペラ合唱団。字幕付き上演。
外人組の方はどうか知らないけれども、わが日本人組の出来は、なかなか立派なものである。
中村恵理の才気煥発タイプのスザンナは相変わらず魅力的で、先頃の新国立劇場での同役よりも━━演出の関係もあるが━━開放的で生き生きしており、観ていて楽しく、歌唱も完璧だ。
また、キール歌劇場専属歌手として活躍している高田智宏も風格のある安定した歌唱で「中庸を得た封建領主」たる伯爵を描き出していた。
他にも、並河寿美の声の柔らかい美しさ(昔トゥーランドットで凄味を利かせた同じ人とは思えないほどの)は印象的だし、清水華澄の先日のジークリンデとは打って変わったコミカルな温かさもいいし、晴雅彦のいつに変わらぬどぎついアントニオも面白い。ところどころ声が聞こえにくくなるという人も中にはいたけれども、何よりアンサンブルという面で実に良いバランスが構築されていたことは、日本人歌手集団ならではの美点であろう。
佐渡とオーケストラは、序曲がまず極度にワイルドな演奏だったのには仰天。さながら「フィガロの怒り」とでも喩えたくなる序曲だった。その後は落ち着いたものの、基本的には「激動の一日、嵐の人間ドラマ」といったアプローチというか。
それがこのオペラの音楽に適しているかどうかは考え方次第だが、私はこの「フィガロの結婚」の音楽の本質は、決して「優雅典麗」なものではなく、生々しい人間ドラマをあからさまに表出したところに在ると思っている。
だが、デイヴィッド・ニースの演出はいつもの如くで、生々しい人間ドラマとはほど遠く、全くのトラディショナルなスタイルだ。「ここのお客さんには、こういう解り易い演出がよい」というのが、劇場側の本音のようである。ただし、その範囲内では極めて細かく、演技的にも隙なく作ってあり、「解り易さ」という点では申し分なく、ほぼ満席の観客から明るい笑いを誘っていた。
一つ、これはニースのアイディアか、佐渡のアイディアか聞き漏らしたが(※)、第3幕の結婚式の場面で、祝いの歌を歌う「2人の少女」の役を、バルバリーナとケルビーノに受け持たせていたのが注目された。ここではバルバリーナが、「ご機嫌を取っときなさいよ」とばかりケルビーノを煽り、ケルビーノは渋々歌詞カードを見ながら面倒くさそうに歌うという設定らしくて、なかなか面白く、気に入った。
※劇場からあとで教えてもらったところによれば、これはニースのアイディアだった由。
休憩は第2幕のあとに1回のみ。5時30分頃終演。
2017・7・14(金)井上道義指揮大阪フィル バーンスタイン「ミサ」
フェスティバルホール(大阪) 7時
1971年にワシントンのケネディ・センター杮落し記念として初演された、レナード・バーンスタインの「歌手、奏者、ダンサーのためのシアターピース」。
今回は「第55回大阪国際フェスティバル2017」の新制作で、大阪フィルハーモニー交響楽団創立70周年記念としての上演。
井上道義が総監督・指揮・演出・字幕訳のすべてを自ら行うという、彼としても渾身、入魂のプロダクションだ。演奏会形式やセミステージ形式の上演ならともかく、本格的な舞台上演としては世界でもめったに観られない作品であり、日本でも20年以上前に彼が京都市響を指揮した時以来の上演だという。私はそれも観ていないので、ナマで観るのは実はこれが初めてになる。
今回の出演と演奏は、大阪フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスター崔文洙)、大阪フィルハーモニー合唱団(指揮・福島章恭)、キッズコールOSAKA(指揮・大谷圭介)。
主役の司祭に大山大輔、少年に込山直樹(ボーイソプラノ)。さらにストリートコーラス(ソロも受け持つ)として小川里美、小林沙羅、鷲尾麻衣、野田千恵子、幣真千子、森山京子、後藤万有美、藤木大地、古橋郷平、鈴木俊介、又吉秀樹、村上公太、加耒徹、久保和範、与那城敬、ジョン・ハオという錚々たる顔ぶれ。
合唱団は、群衆として動き、あるいはコーラスとして背景に並ぶ。ストリート・コーラスの面々も歌い、踊るが、ふだんオペラで拝見している高貴な歌手の皆さんが、こういうタイプのダンスもおやりになるとは━━まあ、当然のことだろうけれど━━大いに感心した次第だ。小林沙羅さんの言によれば、「いろんなことやるのよ、私たちは」ということになる。ただ、普通の演技に切り替わると、ちょっと緩いところが出る。これは演出の問題だろう。
主人公の司祭を歌い演じる大山は出ずっぱりで大奮闘、よくやったと称賛したいが、欲を言えばもう少しよい意味でどぎつく、あくどい演技が欲しいところで、今日の段階ではストリート・コーラスの歌手たちとの区別が━━舞台上の存在感の区別がつきにくいというのが、惜しかった。
ボーイソプラノの込山が素晴らしい。
なお、ダンスが堀内充バレエプロジェクト、大阪芸大舞台劇術学科舞踊コース。振付は堀内充、美術は倉重光則である。
バーンスタインの音楽は、伝統的なスタイルのオーケストラ・サウンドや聖歌などはごく僅かで、ほとんどはロックやジャズやブルースなど━━手っ取り早く言えば「ウェストサイド・ストーリー」などのミュージカルで示されたような、彼の独特の音楽スタイルで構築されているものだ。
これは、ミサ曲という伝統的なジャンルに切り込みつつも、あくまでバーンスタイン自身の「立ち位置」を明確にするという姿勢で、所謂クラシック音楽に阿らない手法として、立派なものであったと思う。その上、和声的にもリズム的にも、すこぶる複雑な性格をも備えた音楽なのだから。
ピットに大阪フィル、舞台上にロックバンド、ブルースバンド、その他管楽ソリストたちが並び、副指揮者の角田鋼亮まで行進リーダーとして舞台に登場するという趣向が凝らされていた。
そして御大・井上道義は、ピットの中で文字通り獅子奮迅の指揮。演奏全体は荒削りだったかもしれないが、何せ大規模上演、ここまで行けば立派なものだろうと思う。
歌はもちろん、器楽にも一部にPA使用。時に過剰なところもあったようだが、何しろ原作では会場のあちこちから響く4チャンネルのテープによる音楽の再生もミックスされることになっているから、この音量バランスの設定は難しかったろう。上手く出来ていた方だと申し上げたい。
舞台美術と演出。
字幕が、正面十字架の横板に映写されるというのが洒落ている。宗教関係者はどう言うか知らないが、われわれアウトサイダーから見れば面白い。
ギターを手に司祭が登場するという幕開きシーンでは、冒頭のテープ再生による音楽をジュークボックスが鳴らすという演出になっていて、このジュークボックスにコインを入れた「普通の男」がいつの間にか司祭の役にされる、という演出になる。
これはもちろん、オリジナルのト書きにはない演出だが、ラストシーンへの伏線としては理屈に合っているだろう。つまり大詰めでは、ミサや宗教に疑問を持ちはじめた一同の怒号に遭遇した司祭が、ついに「私には無理です」と絶望し、聖杯を床にたたきつけ、祭壇の布を引きちぎり、自ら司祭の衣装を剥いで倒れ、結局は「普通の男」に戻るというストーリーだからである。
この2時間近い流れの演出の中では、神は本当に存在するのか、敢えて言えば宗教はいったい平和を創れる力があるのか、という疑問まで含むこのドラマトゥルグは、よく出ていたであろう。
正直言って、時には散漫に見え、思いつきのアイディアのようにも感じられた演出個所も、ないわけではない。しかし、プロの演出家にやらせたら━━といったところで、このキリスト教の宗教劇を、それも時には反宗教性を含んだ舞台劇を、思い切りよく、遠慮会釈なく視覚化できる演出家が、日本にいるかどうか。とすれば、もともと破天荒な、傍若無人なアイディアを持つ井上道義が自ら演出を試みるのが、やはりベストだったのである。
歌詞は英語、ところどころ日本語訳の歌が入り、それもところどころ関西弁の歌詞になる。これも井上の訳らしいが、なだらかな標準語と違い、関西弁というものが意外に洋楽のリズムに合う「弾み」を持っているものだということを発見した(もっとも、本当の関西弁とはどんなものなのかは、私には判らない)。
字幕の訳語も井上によるもので、かなりくだけたものにしているのも彼らしいが、あまりくだけすぎると、逆に何だか解り難いところが出る。
今回の公演では、佐渡裕がバーンスタインの弟子として「ミュージック・パートナー」を務め、昼間の西宮での「フィガロの結婚」の指揮を終えてすぐ、こちらに駆けつけていた。彼自身もおそらく、ゆくゆくは兵庫県立芸術文化センターかどこかで、この恩師の曲を上演したいところだろう。
明日との2日公演。客席はほぼ満席(明日は満席とか)。20分の休憩1回を入れて演奏終了は9時20分、カーテンコールはそれから15分ほども続いていた。
→別稿 モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews
1971年にワシントンのケネディ・センター杮落し記念として初演された、レナード・バーンスタインの「歌手、奏者、ダンサーのためのシアターピース」。
今回は「第55回大阪国際フェスティバル2017」の新制作で、大阪フィルハーモニー交響楽団創立70周年記念としての上演。
井上道義が総監督・指揮・演出・字幕訳のすべてを自ら行うという、彼としても渾身、入魂のプロダクションだ。演奏会形式やセミステージ形式の上演ならともかく、本格的な舞台上演としては世界でもめったに観られない作品であり、日本でも20年以上前に彼が京都市響を指揮した時以来の上演だという。私はそれも観ていないので、ナマで観るのは実はこれが初めてになる。
今回の出演と演奏は、大阪フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスター崔文洙)、大阪フィルハーモニー合唱団(指揮・福島章恭)、キッズコールOSAKA(指揮・大谷圭介)。
主役の司祭に大山大輔、少年に込山直樹(ボーイソプラノ)。さらにストリートコーラス(ソロも受け持つ)として小川里美、小林沙羅、鷲尾麻衣、野田千恵子、幣真千子、森山京子、後藤万有美、藤木大地、古橋郷平、鈴木俊介、又吉秀樹、村上公太、加耒徹、久保和範、与那城敬、ジョン・ハオという錚々たる顔ぶれ。
合唱団は、群衆として動き、あるいはコーラスとして背景に並ぶ。ストリート・コーラスの面々も歌い、踊るが、ふだんオペラで拝見している高貴な歌手の皆さんが、こういうタイプのダンスもおやりになるとは━━まあ、当然のことだろうけれど━━大いに感心した次第だ。小林沙羅さんの言によれば、「いろんなことやるのよ、私たちは」ということになる。ただ、普通の演技に切り替わると、ちょっと緩いところが出る。これは演出の問題だろう。
主人公の司祭を歌い演じる大山は出ずっぱりで大奮闘、よくやったと称賛したいが、欲を言えばもう少しよい意味でどぎつく、あくどい演技が欲しいところで、今日の段階ではストリート・コーラスの歌手たちとの区別が━━舞台上の存在感の区別がつきにくいというのが、惜しかった。
ボーイソプラノの込山が素晴らしい。
なお、ダンスが堀内充バレエプロジェクト、大阪芸大舞台劇術学科舞踊コース。振付は堀内充、美術は倉重光則である。
バーンスタインの音楽は、伝統的なスタイルのオーケストラ・サウンドや聖歌などはごく僅かで、ほとんどはロックやジャズやブルースなど━━手っ取り早く言えば「ウェストサイド・ストーリー」などのミュージカルで示されたような、彼の独特の音楽スタイルで構築されているものだ。
これは、ミサ曲という伝統的なジャンルに切り込みつつも、あくまでバーンスタイン自身の「立ち位置」を明確にするという姿勢で、所謂クラシック音楽に阿らない手法として、立派なものであったと思う。その上、和声的にもリズム的にも、すこぶる複雑な性格をも備えた音楽なのだから。
ピットに大阪フィル、舞台上にロックバンド、ブルースバンド、その他管楽ソリストたちが並び、副指揮者の角田鋼亮まで行進リーダーとして舞台に登場するという趣向が凝らされていた。
そして御大・井上道義は、ピットの中で文字通り獅子奮迅の指揮。演奏全体は荒削りだったかもしれないが、何せ大規模上演、ここまで行けば立派なものだろうと思う。
歌はもちろん、器楽にも一部にPA使用。時に過剰なところもあったようだが、何しろ原作では会場のあちこちから響く4チャンネルのテープによる音楽の再生もミックスされることになっているから、この音量バランスの設定は難しかったろう。上手く出来ていた方だと申し上げたい。
舞台美術と演出。
字幕が、正面十字架の横板に映写されるというのが洒落ている。宗教関係者はどう言うか知らないが、われわれアウトサイダーから見れば面白い。
ギターを手に司祭が登場するという幕開きシーンでは、冒頭のテープ再生による音楽をジュークボックスが鳴らすという演出になっていて、このジュークボックスにコインを入れた「普通の男」がいつの間にか司祭の役にされる、という演出になる。
これはもちろん、オリジナルのト書きにはない演出だが、ラストシーンへの伏線としては理屈に合っているだろう。つまり大詰めでは、ミサや宗教に疑問を持ちはじめた一同の怒号に遭遇した司祭が、ついに「私には無理です」と絶望し、聖杯を床にたたきつけ、祭壇の布を引きちぎり、自ら司祭の衣装を剥いで倒れ、結局は「普通の男」に戻るというストーリーだからである。
この2時間近い流れの演出の中では、神は本当に存在するのか、敢えて言えば宗教はいったい平和を創れる力があるのか、という疑問まで含むこのドラマトゥルグは、よく出ていたであろう。
正直言って、時には散漫に見え、思いつきのアイディアのようにも感じられた演出個所も、ないわけではない。しかし、プロの演出家にやらせたら━━といったところで、このキリスト教の宗教劇を、それも時には反宗教性を含んだ舞台劇を、思い切りよく、遠慮会釈なく視覚化できる演出家が、日本にいるかどうか。とすれば、もともと破天荒な、傍若無人なアイディアを持つ井上道義が自ら演出を試みるのが、やはりベストだったのである。
歌詞は英語、ところどころ日本語訳の歌が入り、それもところどころ関西弁の歌詞になる。これも井上の訳らしいが、なだらかな標準語と違い、関西弁というものが意外に洋楽のリズムに合う「弾み」を持っているものだということを発見した(もっとも、本当の関西弁とはどんなものなのかは、私には判らない)。
字幕の訳語も井上によるもので、かなりくだけたものにしているのも彼らしいが、あまりくだけすぎると、逆に何だか解り難いところが出る。
今回の公演では、佐渡裕がバーンスタインの弟子として「ミュージック・パートナー」を務め、昼間の西宮での「フィガロの結婚」の指揮を終えてすぐ、こちらに駆けつけていた。彼自身もおそらく、ゆくゆくは兵庫県立芸術文化センターかどこかで、この恩師の曲を上演したいところだろう。
明日との2日公演。客席はほぼ満席(明日は満席とか)。20分の休憩1回を入れて演奏終了は9時20分、カーテンコールはそれから15分ほども続いていた。
→別稿 モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews
2017・7・13(木)IL DEVU リサイタル
HAKUJU Hall 7時
4人の男声歌手と1人のピアニストによるグループ、「イル・デーヴ」。5人の合計体重が500キロ近いとか、あるいはそれ以上とか。確たることは知らないけれども、とにかく巨漢ぞろいのグループゆえに「デーヴ」と名乗ったという、明るい男たちだ。
女声歌手のグループでは、とてもこんな明け透けな名前は付けられないだろう。昔、ある大柄な女声歌手4人のグループが出来る時に、グループ名で何かいいのはありませんかと訊かれ、ロッシーニのオペラの題名をもじって「タンクレディース」はどうですか、などといい加減な返事をしたことがあるけれど━━結局そのグループ結成は流れてしまい、それきりになったが・・・・。
余談はともかく、その「IL DEVU」は、望月哲也(テノール)、大槻孝志(同)、青山貴(バリトン)、山下浩司(バスバリトン)、河原忠之〈ピアノ〉というメンバー。遠くから見ても、巨体であることが判る。最近は大神ヴォータンが当り役の青山貴さんが、何だか一番軽く(?)見えるのだから、推して知るべし。
このグループ、すでに毎年コンサートを開催し、今回の演奏会も昨年中に完売してしまったというほどの人気の高さである。聴衆には、やはり老若の女性が多い。
今年のコンサートタイトルは「魂のうた」。冒頭で河原がシューベルトを弾き、次いで4人がそれぞれソロでR・シュトラウス、リスト、メンデルスゾーン、ヴェルディの作品を歌うという、非常に重々しい雰囲気で開始されたが、そのあとは信長貴富、木下牧子、菅野よう子らのオリジナル曲や編曲歌曲を歌うという、愉しいプログラムが続いて行った。久しぶりに聴く日本の合唱曲の数々が、実に美しく感じられる。
何しろ4人とも朗々たる声だし、しかもこのホールは満席でも素晴らしくよく響くアコースティックなので、最後列で聴いていてさえ、耳にビリビリ来る迫力。2時間は瞬く間に過ぎる。男たちの声も歌もいいが、そのわりにトークが何故かとつとつとして、喋り方があまり論理的でないのも微笑ましい。
4人の男声歌手と1人のピアニストによるグループ、「イル・デーヴ」。5人の合計体重が500キロ近いとか、あるいはそれ以上とか。確たることは知らないけれども、とにかく巨漢ぞろいのグループゆえに「デーヴ」と名乗ったという、明るい男たちだ。
女声歌手のグループでは、とてもこんな明け透けな名前は付けられないだろう。昔、ある大柄な女声歌手4人のグループが出来る時に、グループ名で何かいいのはありませんかと訊かれ、ロッシーニのオペラの題名をもじって「タンクレディース」はどうですか、などといい加減な返事をしたことがあるけれど━━結局そのグループ結成は流れてしまい、それきりになったが・・・・。
余談はともかく、その「IL DEVU」は、望月哲也(テノール)、大槻孝志(同)、青山貴(バリトン)、山下浩司(バスバリトン)、河原忠之〈ピアノ〉というメンバー。遠くから見ても、巨体であることが判る。最近は大神ヴォータンが当り役の青山貴さんが、何だか一番軽く(?)見えるのだから、推して知るべし。
このグループ、すでに毎年コンサートを開催し、今回の演奏会も昨年中に完売してしまったというほどの人気の高さである。聴衆には、やはり老若の女性が多い。
今年のコンサートタイトルは「魂のうた」。冒頭で河原がシューベルトを弾き、次いで4人がそれぞれソロでR・シュトラウス、リスト、メンデルスゾーン、ヴェルディの作品を歌うという、非常に重々しい雰囲気で開始されたが、そのあとは信長貴富、木下牧子、菅野よう子らのオリジナル曲や編曲歌曲を歌うという、愉しいプログラムが続いて行った。久しぶりに聴く日本の合唱曲の数々が、実に美しく感じられる。
何しろ4人とも朗々たる声だし、しかもこのホールは満席でも素晴らしくよく響くアコースティックなので、最後列で聴いていてさえ、耳にビリビリ来る迫力。2時間は瞬く間に過ぎる。男たちの声も歌もいいが、そのわりにトークが何故かとつとつとして、喋り方があまり論理的でないのも微笑ましい。
2017・7・10(月)マルク・ミンコフスキ指揮東京都交響楽団
東京文化会館大ホール 7時
ハイドンの「交響曲第102番」と、ブルックナーの「交響曲第3番」(1873年初稿版)。
インバルの向こうを張ったようなプログラムだ。そういえば今日はインバルもホールに来ていたという話だが、もし客席にいたのなら、どんな顔をして聴いていただろう。
それにしても今日は━━いや今日も、というか、聴衆はよく入っていた。ほぼ満席といっていい状態だろう。それはめでたい話ではあるが、満席になると音が吸われて、この残響の少ない大ホールが、ますますドライな音響になる。ミンコフスキの指揮する音楽は、本当はもっと響きのたっぷりしたホールで聴きたい類のものであった。コンサートマスターは矢部達哉。
「102番」の演奏は、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルとの水際立った演奏が頭に残っている聴き手にとっては、どうしても物足りなくなるのは否めまい。
冒頭のあの弱音から始まって漸強━━漸弱になる全管弦楽の和音は、同オケとの演奏ではあれほど神秘的で不気味でさえあったのに、今日の演奏ではどうしても淡彩で一面的なものになってしまう。第4楽章での木管のリズミカルなエコーが、洒落たエコーとして響いて来ないのも、オーケストラとホールの響きとの双方に原因があるだろう。
このあたり、都響もよくやっていたには違いないが、たった1回だけの客演指揮者を相手では、やはり呼吸が合うというわけにも行くまい。
ブルックナーの方は、先入観なしに聴いたし、だいいち曲が曲(?)だから、もう少し別の視点から聴くことができる。
ミンコフスキはかなり速めのテンポでたたみかけており、演奏時間も何と60分を切っていたようだが、残響の少ないホールでは、このくらいのテンポ(総休止の間の長さを含む)の方がむしろ望ましいかもしれない。
先年の都響とのブルックナーの「0番」では、極めて精緻に彫琢された演奏を聴かせてくれたので、今回も同様の手法によるものかと思っていたら、思いのほか剛直で力感の豊かな音づくりだった。全管弦楽の最強奏の個所などでの咆哮ぶりは凄まじく、さながら仁王のようなブルックナー。
これ見よがしの手練手管や誇張など一切感じられないにもかかわらず、聴き慣れたブルックナーの和声的な響きが、突然ギョッとさせられるような異様なバランスの音色で響きわたることがある。それゆえ、もともと粗削りなこの初稿版が、いっそう刺激的で劇的な色合いを以って聞こえて来て、ミンコフスキの一筋縄では行かぬ感性に舌を巻かされる、ということになるだろう。
ともあれ、この初稿版は、のちの第2稿や第3稿に比べると、荒っぽくて、あちこちヘンなところがたくさんあるのだが、それがまた独特の面白さを感じさせる。第2楽章での「タンホイザー」の巡礼の合唱の引用など、ブルックナーがワーグナーに心酔していた時期の佳き里程標でもあるのに、何故のちにカットして書き換えてしまったのか。
━━同じ曲を何度も大幅に書き直すのは、必ずしもいい趣味とは思えないけれども、しかし私たちはそのおかげで、ブルックナーのシンフォニーを、付けられた番号以上の数で愉しめる、という恩恵に浴することができるわけである。
ハイドンの「交響曲第102番」と、ブルックナーの「交響曲第3番」(1873年初稿版)。
インバルの向こうを張ったようなプログラムだ。そういえば今日はインバルもホールに来ていたという話だが、もし客席にいたのなら、どんな顔をして聴いていただろう。
それにしても今日は━━いや今日も、というか、聴衆はよく入っていた。ほぼ満席といっていい状態だろう。それはめでたい話ではあるが、満席になると音が吸われて、この残響の少ない大ホールが、ますますドライな音響になる。ミンコフスキの指揮する音楽は、本当はもっと響きのたっぷりしたホールで聴きたい類のものであった。コンサートマスターは矢部達哉。
「102番」の演奏は、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルとの水際立った演奏が頭に残っている聴き手にとっては、どうしても物足りなくなるのは否めまい。
冒頭のあの弱音から始まって漸強━━漸弱になる全管弦楽の和音は、同オケとの演奏ではあれほど神秘的で不気味でさえあったのに、今日の演奏ではどうしても淡彩で一面的なものになってしまう。第4楽章での木管のリズミカルなエコーが、洒落たエコーとして響いて来ないのも、オーケストラとホールの響きとの双方に原因があるだろう。
このあたり、都響もよくやっていたには違いないが、たった1回だけの客演指揮者を相手では、やはり呼吸が合うというわけにも行くまい。
ブルックナーの方は、先入観なしに聴いたし、だいいち曲が曲(?)だから、もう少し別の視点から聴くことができる。
ミンコフスキはかなり速めのテンポでたたみかけており、演奏時間も何と60分を切っていたようだが、残響の少ないホールでは、このくらいのテンポ(総休止の間の長さを含む)の方がむしろ望ましいかもしれない。
先年の都響とのブルックナーの「0番」では、極めて精緻に彫琢された演奏を聴かせてくれたので、今回も同様の手法によるものかと思っていたら、思いのほか剛直で力感の豊かな音づくりだった。全管弦楽の最強奏の個所などでの咆哮ぶりは凄まじく、さながら仁王のようなブルックナー。
これ見よがしの手練手管や誇張など一切感じられないにもかかわらず、聴き慣れたブルックナーの和声的な響きが、突然ギョッとさせられるような異様なバランスの音色で響きわたることがある。それゆえ、もともと粗削りなこの初稿版が、いっそう刺激的で劇的な色合いを以って聞こえて来て、ミンコフスキの一筋縄では行かぬ感性に舌を巻かされる、ということになるだろう。
ともあれ、この初稿版は、のちの第2稿や第3稿に比べると、荒っぽくて、あちこちヘンなところがたくさんあるのだが、それがまた独特の面白さを感じさせる。第2楽章での「タンホイザー」の巡礼の合唱の引用など、ブルックナーがワーグナーに心酔していた時期の佳き里程標でもあるのに、何故のちにカットして書き換えてしまったのか。
━━同じ曲を何度も大幅に書き直すのは、必ずしもいい趣味とは思えないけれども、しかし私たちはそのおかげで、ブルックナーのシンフォニーを、付けられた番号以上の数で愉しめる、という恩恵に浴することができるわけである。
2017・7・9(日)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団
東京芸術劇場 コンサートホール 2時
コンサートを聴きに行くのも億劫になるくらいの壮烈な猛暑。着いた時には、暑さのために、既に眠気に襲われていて━━。
だが広上淳一の指揮はやはり魔術的で、モーツァルトの「魔笛」序曲の最初の和音が響きはじめた途端、その豊かな拡がりと深みを感じさせる濃密な音の素晴らしさに、眠気もいっぺんに吹き飛んでしまう。
今日は、そのあとのラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」でも、第2部でのR・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」でも、広上は日本フィルから、極めてブリリアントな音を引き出していた。
特に「ツァラトゥストラ」など、かつての佳き時代の英デッカの録音で捉えられたオーケストラのそれにも似た、きらきらと光り輝く音色が随所にちりばめられた━━私にはそのように感じられた演奏だったのである。日本フィルがこんな音を出したのは、珍しい。
終演後の楽屋で、マエストロ広上に「いい音を出しましたね」と称賛したら、「このオケ、いいね。このところ大曲の演奏ばかり続いて疲れてるはずなのに、ここまでやるんだからね」と、日本フィルを絶賛。要するに、両者ともに素晴らしいということになる。
ただ、どういうわけか今日の演奏には、出だしのアインザッツが合わぬところが、一度ならずも二度三度、やたら多かったのには、首をひねらされた。日本フィルが広上の指揮に慣れていないはずもないだろうし、しかも今日は定期の「2日目」なのに、である。
一方、各パートのソロは、いずれも快調であった。コンサートマスターは千葉清加。
ラヴェルを弾いたピアノのゲスト・ソリストは、ジャン=エフラム・バヴゼJean-Efflam BAVOUZETである。彼も実に良いピアニストだ。一つ一つの音に耀きがあって、しかも洗練された個性を持っている。最後の長いソロなど、この上なく華麗で、魅力的であった。ソロ・アンコールでのドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」や、ピエルネの「演奏会用練習曲 作品13」も、さすがお見事。
シンフォニー・コンサートにゲストで出るソリストがソロ・アンコールを延々とやることには、私は反対論者なのだが、今日は全体のプログラムが短めだったこともあるし、こういう演奏をする人なら、フランスものであれば更に1、2曲ほどやってくれても構わないのに、と思ったほどである。
コンサートを聴きに行くのも億劫になるくらいの壮烈な猛暑。着いた時には、暑さのために、既に眠気に襲われていて━━。
だが広上淳一の指揮はやはり魔術的で、モーツァルトの「魔笛」序曲の最初の和音が響きはじめた途端、その豊かな拡がりと深みを感じさせる濃密な音の素晴らしさに、眠気もいっぺんに吹き飛んでしまう。
今日は、そのあとのラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」でも、第2部でのR・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」でも、広上は日本フィルから、極めてブリリアントな音を引き出していた。
特に「ツァラトゥストラ」など、かつての佳き時代の英デッカの録音で捉えられたオーケストラのそれにも似た、きらきらと光り輝く音色が随所にちりばめられた━━私にはそのように感じられた演奏だったのである。日本フィルがこんな音を出したのは、珍しい。
終演後の楽屋で、マエストロ広上に「いい音を出しましたね」と称賛したら、「このオケ、いいね。このところ大曲の演奏ばかり続いて疲れてるはずなのに、ここまでやるんだからね」と、日本フィルを絶賛。要するに、両者ともに素晴らしいということになる。
ただ、どういうわけか今日の演奏には、出だしのアインザッツが合わぬところが、一度ならずも二度三度、やたら多かったのには、首をひねらされた。日本フィルが広上の指揮に慣れていないはずもないだろうし、しかも今日は定期の「2日目」なのに、である。
一方、各パートのソロは、いずれも快調であった。コンサートマスターは千葉清加。
ラヴェルを弾いたピアノのゲスト・ソリストは、ジャン=エフラム・バヴゼJean-Efflam BAVOUZETである。彼も実に良いピアニストだ。一つ一つの音に耀きがあって、しかも洗練された個性を持っている。最後の長いソロなど、この上なく華麗で、魅力的であった。ソロ・アンコールでのドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」や、ピエルネの「演奏会用練習曲 作品13」も、さすがお見事。
シンフォニー・コンサートにゲストで出るソリストがソロ・アンコールを延々とやることには、私は反対論者なのだが、今日は全体のプログラムが短めだったこともあるし、こういう演奏をする人なら、フランスものであれば更に1、2曲ほどやってくれても構わないのに、と思ったほどである。
2017・7・7(金)飯守泰次郎指揮読売日本交響楽団
東京芸術劇場 コンサートホール 7時
前半では、ネルソン・フレイレをソリストにブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」が演奏され、後半ではワーグナーの「パルジファル」からの「第1幕前奏曲」と「聖金曜日の音楽」、「ヴァルキューレの騎行」、「タンホイザー」序曲が演奏された。コンサートマスターは長原幸太。
フレイレがブラームスの協奏曲を弾くのを聴く機会は、私としてはこれまであまりなかったような気がする。が、今日の「2番は、フレイレ特有の明晰で清澄な音色と、予想外に激しい起伏をもった強靭な力感とが均衡を保っていて、壮大な快演。。
飯守と読響の演奏も、かなり劇的である。この曲でここまで闘争的にならずとも━━と思わないでもなかったが、ブラームスの情熱を浮き彫りにしようという狙いがあったのなら、それはそれで一つの考え方であろう。
第3楽章では、ソロ・チェロの遠藤真理が、絶妙な美しい演奏を聴かせてくれた。
フレイレはソロ・アンコールに、グルックの「精霊の踊り」を弾いたが、これがまたロマンティックで情感豊かなこと。
後半は、飯守の十八番たるワーグナー集。読響を威力充分、轟々と響かせて大見得を切る(この分なら、秋の「神々の黄昏」は絶対大丈夫だろう)。
ただ私の好みからすれば、落ち着いた美しい演奏の「聖金曜日の音楽」の、特に後半が強く印象に残る。。
なお、「ヴァルキューレの騎行」では、いつもの演奏会用編曲版が使用されていたにもかかわらず、ハープ(ただし2台)が加えられていたのは意外であった。
全曲版楽譜では6台のハープが加わっているのは事実だが、それらが全面的に省かれているコンサート版にも、2台のみにせよ(しかもほんのちょっと弾くだけなのに)パートを復活させているとは、何ともゴージャスなこと。さすがは読響、というか。
ただ、ハープのパートが加えられている演奏会用編曲版「ヴァルキューレの騎行」スコアが別に存在するのなら、この件は御放念いただきたいが。
前半では、ネルソン・フレイレをソリストにブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」が演奏され、後半ではワーグナーの「パルジファル」からの「第1幕前奏曲」と「聖金曜日の音楽」、「ヴァルキューレの騎行」、「タンホイザー」序曲が演奏された。コンサートマスターは長原幸太。
フレイレがブラームスの協奏曲を弾くのを聴く機会は、私としてはこれまであまりなかったような気がする。が、今日の「2番は、フレイレ特有の明晰で清澄な音色と、予想外に激しい起伏をもった強靭な力感とが均衡を保っていて、壮大な快演。。
飯守と読響の演奏も、かなり劇的である。この曲でここまで闘争的にならずとも━━と思わないでもなかったが、ブラームスの情熱を浮き彫りにしようという狙いがあったのなら、それはそれで一つの考え方であろう。
第3楽章では、ソロ・チェロの遠藤真理が、絶妙な美しい演奏を聴かせてくれた。
フレイレはソロ・アンコールに、グルックの「精霊の踊り」を弾いたが、これがまたロマンティックで情感豊かなこと。
後半は、飯守の十八番たるワーグナー集。読響を威力充分、轟々と響かせて大見得を切る(この分なら、秋の「神々の黄昏」は絶対大丈夫だろう)。
ただ私の好みからすれば、落ち着いた美しい演奏の「聖金曜日の音楽」の、特に後半が強く印象に残る。。
なお、「ヴァルキューレの騎行」では、いつもの演奏会用編曲版が使用されていたにもかかわらず、ハープ(ただし2台)が加えられていたのは意外であった。
全曲版楽譜では6台のハープが加わっているのは事実だが、それらが全面的に省かれているコンサート版にも、2台のみにせよ(しかもほんのちょっと弾くだけなのに)パートを復活させているとは、何ともゴージャスなこと。さすがは読響、というか。
ただ、ハープのパートが加えられている演奏会用編曲版「ヴァルキューレの騎行」スコアが別に存在するのなら、この件は御放念いただきたいが。
2017・7・6(金)オペラ「鑑真東渡」日本公演
Bunkamuraオーチャードホール 7時
中国の新作オペラで、昨年12月に東京で初演された由。今回は日中国交正常化45周年記念事業の一環としての再演という。
作曲は唐建平、指揮は程曄、管弦楽は江蘇省演芸集団交響楽団、合唱と演舞は江蘇省演芸集団歌劇舞劇院。声楽はPA使用。
鑑真とは、8世紀の昔に日本を訪れ、唐招提寺を建立したあの有名な唐の高僧のことだ。
ここでは、彼が日本の遣唐僧・栄叡らの要請を受け、使命感に燃えて粒粒辛苦の末、自らも視力を失いながら、やっと6度目にして日本への渡航(東渡)に成功するまでのさまざまなエピソードが描かれている。その一部には、井上靖の「天平の甍」と共通した内容もある。
2幕構成で、休憩15分を含め2時間15分前後の上映時間。音楽は打楽器を駆使した劇的な要素と、西欧的な管弦楽法を使用した叙情的な要素がバランスよく組み合わされているが、いわゆる西欧的なオペラのスタイルとは一線を画す、独自の形式によるものと言えるだろう。
構成的には後半、やや冗長で流れも単調になる部分があるが、音楽そのものは耳あたりが好い。舞台装置は比較的シンプルではあるものの、目を奪うほど色彩的で美しい。
最終場面で、膝まづく日本の民衆の前に唐僧・鑑真が偉大な存在として君臨する、という演出は少々鼻につく感がなくもないが、彼が東大寺大仏殿に戒壇を築いて聖武上皇以下400名に授戒した、などという歴史的事実があるからには、ご尤もでございます、と言うしかあるまい。
ただ、鑑真がドラマの中で歌う歌詞の中には、仏教徒でない私にも非常に魅力を感じる言葉がいくつかあって━━例えば彼が弟子との別れに際し語る「すべては縁、汝とここまで来られたのも縁、汝にここで去られるのもまた縁」といったような━━キリスト教のある種の強引さとは全く異なる思想に強く感動させられたのは確かである。
鑑真を歌い演じたのは、田浩江という堂々たる風格のバス歌手。最近は漢字で書かれると逆によく解らない時代になってしまったが、彼はティエン・ハオジャンといい、METのプログラムではHao Jiang Tian(ハオ=ジャン・ティアン)」と表記され、同歌劇場で「ルチア」のライモンドとか、「アイーダ」のエジプト王とかで重厚なバスを聴かせた常連でもあった。
中国の新作オペラで、昨年12月に東京で初演された由。今回は日中国交正常化45周年記念事業の一環としての再演という。
作曲は唐建平、指揮は程曄、管弦楽は江蘇省演芸集団交響楽団、合唱と演舞は江蘇省演芸集団歌劇舞劇院。声楽はPA使用。
鑑真とは、8世紀の昔に日本を訪れ、唐招提寺を建立したあの有名な唐の高僧のことだ。
ここでは、彼が日本の遣唐僧・栄叡らの要請を受け、使命感に燃えて粒粒辛苦の末、自らも視力を失いながら、やっと6度目にして日本への渡航(東渡)に成功するまでのさまざまなエピソードが描かれている。その一部には、井上靖の「天平の甍」と共通した内容もある。
2幕構成で、休憩15分を含め2時間15分前後の上映時間。音楽は打楽器を駆使した劇的な要素と、西欧的な管弦楽法を使用した叙情的な要素がバランスよく組み合わされているが、いわゆる西欧的なオペラのスタイルとは一線を画す、独自の形式によるものと言えるだろう。
構成的には後半、やや冗長で流れも単調になる部分があるが、音楽そのものは耳あたりが好い。舞台装置は比較的シンプルではあるものの、目を奪うほど色彩的で美しい。
最終場面で、膝まづく日本の民衆の前に唐僧・鑑真が偉大な存在として君臨する、という演出は少々鼻につく感がなくもないが、彼が東大寺大仏殿に戒壇を築いて聖武上皇以下400名に授戒した、などという歴史的事実があるからには、ご尤もでございます、と言うしかあるまい。
ただ、鑑真がドラマの中で歌う歌詞の中には、仏教徒でない私にも非常に魅力を感じる言葉がいくつかあって━━例えば彼が弟子との別れに際し語る「すべては縁、汝とここまで来られたのも縁、汝にここで去られるのもまた縁」といったような━━キリスト教のある種の強引さとは全く異なる思想に強く感動させられたのは確かである。
鑑真を歌い演じたのは、田浩江という堂々たる風格のバス歌手。最近は漢字で書かれると逆によく解らない時代になってしまったが、彼はティエン・ハオジャンといい、METのプログラムではHao Jiang Tian(ハオ=ジャン・ティアン)」と表記され、同歌劇場で「ルチア」のライモンドとか、「アイーダ」のエジプト王とかで重厚なバスを聴かせた常連でもあった。
2017・7・6(木)パスカル・ロジェ×束芋
浜離宮朝日ホール 1時30分
そう度々は行なわれない、珍しいタイプの演奏会が開催された。
ピアノのパスカル・ロジェと、現代美術作家の束芋(Tabaimo)のコラボレーション━━音楽と映像美術の「協演」である。
といってもこれは、2012年に開催されたことがある由。今回は再演とのことだ。
手っ取り早く言えば、パスカル・ロジェが舞台上で、ドビュッシー、サティ、ラヴェル、吉松隆の小品を多数演奏する。音楽のイメージの基調は、フランス印象派のそれである。その背景、舞台いっぱいに吊り下げられた巨大スクリーンに、束芋によるさまざまな映像━━アニメーションが、プロジェクターで投映される。
面白い試みだし、こういう演奏会は盛んにプロデュースされていいと思うのだが、何というか・・・・音楽と視覚映像とがこのように同時に展開されることによって、そこにどういう感動が体験できたか、ということになると、何とも言いかねる。
私自身も、たとえば日本の陶器の画集を見ていた時に、ラジオから偶然聞こえて来た武満徹の音楽が視覚と合致して、形容し難いほどの陶酔に誘われたことはある。また、クルマで人気のない海岸を走っていた時、岩にぶつかる白い波頭の上に無数の海鳥が夕陽を浴びて舞っている光景と、偶然カーラジオから聞こえて来たシベリウスの「レンミンカイネンとサーリの乙女たち」とがあまりに鮮やかに一致して、陶然としたことはある。
だが、このように演奏会場に来て、椅子に身動きもせずきちんと座って、ピアノがあり、スクリーンがあり、・・・・さあどうぞ、この音楽と、同時に映されるアニメーションをご覧下さい━━とお膳立てされ、なかば強制されると、途端に構えてしまって、すべてを客観的に見てしまうのである。
もっとも、だからといって、感動するのが音楽と視覚とが偶然に一致した時だけかというと、そうでもなく、場面と音楽とが巧みに一致するよう設計されたオペラや映画などでは、それなりにうっとりさせられるのだから、勝手なものである。
所詮、異質なもの同士が完璧に合致して感動を生ましめるかどうかは、受け手のその時の感性による、ということなのだろう。いや、そもそもそんなことを、観ながら、聴きながら考えてしまうのだから、余計いけない━━。
いずれにせよ、暗いステージから響いて来るパスカル・ロジェのドビュッシーやラヴェルは、素晴らしく気持よかった。もちろん映像も美しかったし、それらがフランス印象派の音楽と一脈通じる要素も、こちらなりに感じられた。ただ時々、眼を閉じてしまって、ドビュッシーの音楽だけに集中してしまう、という瞬間もあったのだが・・・・。
70分の長さ、と予告されていたが、実際はもう少し長かったのでは?
いいコンサートで、興味深い企画だった、ということだけは、繰り返し申し上げておきたい。
そう度々は行なわれない、珍しいタイプの演奏会が開催された。
ピアノのパスカル・ロジェと、現代美術作家の束芋(Tabaimo)のコラボレーション━━音楽と映像美術の「協演」である。
といってもこれは、2012年に開催されたことがある由。今回は再演とのことだ。
手っ取り早く言えば、パスカル・ロジェが舞台上で、ドビュッシー、サティ、ラヴェル、吉松隆の小品を多数演奏する。音楽のイメージの基調は、フランス印象派のそれである。その背景、舞台いっぱいに吊り下げられた巨大スクリーンに、束芋によるさまざまな映像━━アニメーションが、プロジェクターで投映される。
面白い試みだし、こういう演奏会は盛んにプロデュースされていいと思うのだが、何というか・・・・音楽と視覚映像とがこのように同時に展開されることによって、そこにどういう感動が体験できたか、ということになると、何とも言いかねる。
私自身も、たとえば日本の陶器の画集を見ていた時に、ラジオから偶然聞こえて来た武満徹の音楽が視覚と合致して、形容し難いほどの陶酔に誘われたことはある。また、クルマで人気のない海岸を走っていた時、岩にぶつかる白い波頭の上に無数の海鳥が夕陽を浴びて舞っている光景と、偶然カーラジオから聞こえて来たシベリウスの「レンミンカイネンとサーリの乙女たち」とがあまりに鮮やかに一致して、陶然としたことはある。
だが、このように演奏会場に来て、椅子に身動きもせずきちんと座って、ピアノがあり、スクリーンがあり、・・・・さあどうぞ、この音楽と、同時に映されるアニメーションをご覧下さい━━とお膳立てされ、なかば強制されると、途端に構えてしまって、すべてを客観的に見てしまうのである。
もっとも、だからといって、感動するのが音楽と視覚とが偶然に一致した時だけかというと、そうでもなく、場面と音楽とが巧みに一致するよう設計されたオペラや映画などでは、それなりにうっとりさせられるのだから、勝手なものである。
所詮、異質なもの同士が完璧に合致して感動を生ましめるかどうかは、受け手のその時の感性による、ということなのだろう。いや、そもそもそんなことを、観ながら、聴きながら考えてしまうのだから、余計いけない━━。
いずれにせよ、暗いステージから響いて来るパスカル・ロジェのドビュッシーやラヴェルは、素晴らしく気持よかった。もちろん映像も美しかったし、それらがフランス印象派の音楽と一脈通じる要素も、こちらなりに感じられた。ただ時々、眼を閉じてしまって、ドビュッシーの音楽だけに集中してしまう、という瞬間もあったのだが・・・・。
70分の長さ、と予告されていたが、実際はもう少し長かったのでは?
いいコンサートで、興味深い企画だった、ということだけは、繰り返し申し上げておきたい。
2017・7・5(水)エチェバリア指揮 関西フィルハーモニー管弦楽団
ザ・シンフォニーホール 7時
ベルリン・フィルの首席ホルン奏者シュテファン・ドールが、モーツァルトの「3番」とR・シュトラウスの「2番」の協奏曲を吹く。
指揮は2年前の東京国際音楽コンクールで優勝したディエゴ・マルティン・エチェバリアで、第2部ではシューマンの「第2交響曲」をも指揮した。
ドールの名手ぶりは、改めて言うまでもない。豊麗な、かつ強靱な音で朗々と吹きまくる彼のソロを聴いていると、胸のすくような快感に満たされる。彼の場合、それが決して放漫にならず、どんなスケルツァンドな曲想の個所でも、どこかに一種の生真面目さを湛えた演奏になるのだが、それがまた、いかにもドイツの名手だなという印象を生むのである。
モーツァルトでは何か不思議に慎重な演奏という感を与えたが━━今日はNHK-FMの収録が入っていたので、それを意識していたのかもしれない━━R・シュトラウスでは曲想に相応しい豪快さを発揮した。そしてソロ・アンコールにはメシアンの「峡谷から星たちへ」の一節を超絶技巧的に吹き、聴衆の度肝を抜き、大いに沸かせたのだった。
一方、エチェバリアの指揮は、私は先頃のコンクールの時の演奏を聴いていなかったので、今回が初めてである。曲によっては、なかなか巧いまとめ方をする人だと思われる。
今日は、正直言って、協奏曲では「合わせもの」には未だしという感じだったし、シューマンの交響曲でも第1楽章の味も素っ気もない演奏には不安を覚えたのだが、楽章を追うに従い、みるみる中味が濃くなって行った。特に第3楽章ではシューマンの叙情美が充分に再現されており、第4楽章には勢いのいい追い込みが聴かれて、エンディングなどではすこぶる見事な昂揚がつくり出されていた。
今日は2階席中央の3列目で聴いたが、このあたりはオーケストラから適度の距離感があって聴きやすい。もっとも、ホルンのソロは、よく響き過ぎて、どこで吹いているのか分からないくらい定位感が曖昧になってしまうことがある。
それにしても今日は、関西フィルのアンサンブルが、なかなか良かった。音楽監督デュメイの薫陶もあってか、弦のまとまりがいいのに感心する。今日は近藤薫がコンサートマスターを務め、チェロのトップには荒庸子が座っていた。もちろん、木管のソリもいい。
このところ関西フィルの演奏は、飯守泰次郎の指揮でばかり聴いていたが、彼はアンサンブルの細部よりも音楽の精神的な内容の方を重視する人だ。関西フィルもその気になればこんなに精密な音を創れるようになっていたとは知らなかった。不明を恥じる次第である。
ついでながら、このシンフォニーホールの2階のバー・コーナーの売り子さんは、何故あんな金切声で絶叫しながら応対するのだろう? これは全国のホールの中でも最悪の部類である。
ベルリン・フィルの首席ホルン奏者シュテファン・ドールが、モーツァルトの「3番」とR・シュトラウスの「2番」の協奏曲を吹く。
指揮は2年前の東京国際音楽コンクールで優勝したディエゴ・マルティン・エチェバリアで、第2部ではシューマンの「第2交響曲」をも指揮した。
ドールの名手ぶりは、改めて言うまでもない。豊麗な、かつ強靱な音で朗々と吹きまくる彼のソロを聴いていると、胸のすくような快感に満たされる。彼の場合、それが決して放漫にならず、どんなスケルツァンドな曲想の個所でも、どこかに一種の生真面目さを湛えた演奏になるのだが、それがまた、いかにもドイツの名手だなという印象を生むのである。
モーツァルトでは何か不思議に慎重な演奏という感を与えたが━━今日はNHK-FMの収録が入っていたので、それを意識していたのかもしれない━━R・シュトラウスでは曲想に相応しい豪快さを発揮した。そしてソロ・アンコールにはメシアンの「峡谷から星たちへ」の一節を超絶技巧的に吹き、聴衆の度肝を抜き、大いに沸かせたのだった。
一方、エチェバリアの指揮は、私は先頃のコンクールの時の演奏を聴いていなかったので、今回が初めてである。曲によっては、なかなか巧いまとめ方をする人だと思われる。
今日は、正直言って、協奏曲では「合わせもの」には未だしという感じだったし、シューマンの交響曲でも第1楽章の味も素っ気もない演奏には不安を覚えたのだが、楽章を追うに従い、みるみる中味が濃くなって行った。特に第3楽章ではシューマンの叙情美が充分に再現されており、第4楽章には勢いのいい追い込みが聴かれて、エンディングなどではすこぶる見事な昂揚がつくり出されていた。
今日は2階席中央の3列目で聴いたが、このあたりはオーケストラから適度の距離感があって聴きやすい。もっとも、ホルンのソロは、よく響き過ぎて、どこで吹いているのか分からないくらい定位感が曖昧になってしまうことがある。
それにしても今日は、関西フィルのアンサンブルが、なかなか良かった。音楽監督デュメイの薫陶もあってか、弦のまとまりがいいのに感心する。今日は近藤薫がコンサートマスターを務め、チェロのトップには荒庸子が座っていた。もちろん、木管のソリもいい。
このところ関西フィルの演奏は、飯守泰次郎の指揮でばかり聴いていたが、彼はアンサンブルの細部よりも音楽の精神的な内容の方を重視する人だ。関西フィルもその気になればこんなに精密な音を創れるようになっていたとは知らなかった。不明を恥じる次第である。
ついでながら、このシンフォニーホールの2階のバー・コーナーの売り子さんは、何故あんな金切声で絶叫しながら応対するのだろう? これは全国のホールの中でも最悪の部類である。
2017・7・3(月)ハーゲン・クアルテット
トッパンホール 7時
「ハーゲン・プロジェクト2017」と題し、ショスタコーヴィチとシューベルトの弦楽四重奏曲を組み合わせたプログラムで3夜の演奏会が組まれている。今日はその初日。ショスタコーヴィチは「第3番」、シューベルトは「第13番《ロザムンデ》」が取り上げられた。
ハーゲン・クアルテット、演奏の「内容が薄い」などと言われたのは昔の話。技術的には確かに昔の方が冴えていたかもしれないが、今では音楽そのものに、聴き手の心に直接訴えかけて来る情感が増している。
ショスタコーヴィチの「3番」が━━これは私だけの印象かもしれないし、聴いた位置によるのかもしれないが━━今日は常ならず温かさにあふれたものに感じられてしまったのである。
もちろん「ロザムンデ」は言うを俟たない。第1楽章の出だしなど、その手法をブルックナーが「第3交響曲」で見事に応用しているのを思い出しては微笑ましくなる個所だが、ハーゲン一族(?)の演奏、昔はこんなに哀感を漂わせていたかな、という印象を得た。
なんだか独りよがりの印象だが、今日は個人的にも物事を少し感傷的に受け入れたくなる状態にあったので、その所為なのかもしれない。
アンコールには同じくシューベルトの「第10番」からの第3楽章が演奏されたが、これまた心に沁みる演奏。
「ハーゲン・プロジェクト2017」と題し、ショスタコーヴィチとシューベルトの弦楽四重奏曲を組み合わせたプログラムで3夜の演奏会が組まれている。今日はその初日。ショスタコーヴィチは「第3番」、シューベルトは「第13番《ロザムンデ》」が取り上げられた。
ハーゲン・クアルテット、演奏の「内容が薄い」などと言われたのは昔の話。技術的には確かに昔の方が冴えていたかもしれないが、今では音楽そのものに、聴き手の心に直接訴えかけて来る情感が増している。
ショスタコーヴィチの「3番」が━━これは私だけの印象かもしれないし、聴いた位置によるのかもしれないが━━今日は常ならず温かさにあふれたものに感じられてしまったのである。
もちろん「ロザムンデ」は言うを俟たない。第1楽章の出だしなど、その手法をブルックナーが「第3交響曲」で見事に応用しているのを思い出しては微笑ましくなる個所だが、ハーゲン一族(?)の演奏、昔はこんなに哀感を漂わせていたかな、という印象を得た。
なんだか独りよがりの印象だが、今日は個人的にも物事を少し感傷的に受け入れたくなる状態にあったので、その所為なのかもしれない。
アンコールには同じくシューベルトの「第10番」からの第3楽章が演奏されたが、これまた心に沁みる演奏。
2017・7・2(日)ベルリーニ:「ノルマ」
日生劇場 2時
日本オペラ振興会制作の新プロダクション。日生劇場、びわ湖ホール、川崎市スポーツ・文化総合センター、藤原歌劇団、東京フィルの共同制作公演として、またシリーズとしては藤原オペラと日生オペラの合同━━という、入り組んだシステムになっている。要するに中味は藤原オペラで、たくさんの関係団体あり、ということだ。
ダブルキャストによる公演だが、マリエッラ・デヴィーアがノルマを歌う組は秋のびわ湖ホール公演でも観られるから、今回は全て日本勢が歌う組の方を観ることにした。その方が、今の日本のオペラ界の趨勢が判って面白い。
有名外国人歌手だけ観てどうのこうのと言うのは、趣味としてはそれでもいいかもしれないが、仕事としては充分な姿勢ではない。それに今回は、ノルマを小川里美、ポリオーネを藤田卓也が歌い、アダルジーザに米谷朋子、オロヴェーゾに田中大揮、といった、いい歌手陣である。
小川里美は、ノルマはこれが初役だという話だが、歌唱といい、気品と威厳に満ちた長身の舞台姿といい、実に良いノルマだと思う。今回のようにたった1回の舞台ではなく、場数を踏めば、どこへ出ても立派なノルマになれる人だろう。
ただ今回の舞台では、この役の崇高さはよく出ていたものの、銅鑼を鳴らす場面で爆発する「怒り」の表現が、どうも不充分である。これは、演出に原因があるだろう。
残念ながらこの日の登場人物たちの描写は、どれも一面的で、性格に裏や襞といったものが感じられない。
演出は粟国淳だが、彼はプログラム・ノートに「ベルリーニの音楽は、兵士たちが戦の合唱で気勢を上げる個所でさえ、ヴェルディのそれと違って激さず、むしろ静謐な音の中へ云々」と書き、演技に関しては「むしろ日本の能のような・・・・」という趣旨のことも指摘している。なるほど、そう言われればこの日の舞台の演技は、極めて抑制されていた印象が強い。
だが、それらは確かに実績ある優秀な演出家としての彼の一つの見解であるには違いないが、その音楽の解釈と、そこから生まれる演技表現は、私には全く賛意を表しかねる類のものである。
フランチェスコ・ランツィロッタという人の指揮は今回初めて聴いたが、まあ何とも平板で鈍重で、緊迫感も皆無で、生気が感じられぬ。東京フィルも最近では珍しいような古色蒼然たる音を出し、ベルリーニの音楽から熱気と緊張感を失わせていた。
結局、今日の「ノルマ」を盛り上げていたのは、歌手たちの「歌唱」である。
前述の小川里美の他、注目の藤田卓也は期待通りの伸びのある声で、力強いポリオーネを歌っていた。オロヴェーゾの田中大揮は、巨躯から響かせる底力ある声で、全ての点でこの役に相応しかった。アダルジーザの米谷朋子も、細かいヴィブラートがちょっと気になり、またノルマとの声の対比があまり際立っていない、という問題もあろうが、清純な声質である。他にクロティルデに但馬由香、フラーヴィオに小笠原一規。
日本オペラ振興会制作の新プロダクション。日生劇場、びわ湖ホール、川崎市スポーツ・文化総合センター、藤原歌劇団、東京フィルの共同制作公演として、またシリーズとしては藤原オペラと日生オペラの合同━━という、入り組んだシステムになっている。要するに中味は藤原オペラで、たくさんの関係団体あり、ということだ。
ダブルキャストによる公演だが、マリエッラ・デヴィーアがノルマを歌う組は秋のびわ湖ホール公演でも観られるから、今回は全て日本勢が歌う組の方を観ることにした。その方が、今の日本のオペラ界の趨勢が判って面白い。
有名外国人歌手だけ観てどうのこうのと言うのは、趣味としてはそれでもいいかもしれないが、仕事としては充分な姿勢ではない。それに今回は、ノルマを小川里美、ポリオーネを藤田卓也が歌い、アダルジーザに米谷朋子、オロヴェーゾに田中大揮、といった、いい歌手陣である。
小川里美は、ノルマはこれが初役だという話だが、歌唱といい、気品と威厳に満ちた長身の舞台姿といい、実に良いノルマだと思う。今回のようにたった1回の舞台ではなく、場数を踏めば、どこへ出ても立派なノルマになれる人だろう。
ただ今回の舞台では、この役の崇高さはよく出ていたものの、銅鑼を鳴らす場面で爆発する「怒り」の表現が、どうも不充分である。これは、演出に原因があるだろう。
残念ながらこの日の登場人物たちの描写は、どれも一面的で、性格に裏や襞といったものが感じられない。
演出は粟国淳だが、彼はプログラム・ノートに「ベルリーニの音楽は、兵士たちが戦の合唱で気勢を上げる個所でさえ、ヴェルディのそれと違って激さず、むしろ静謐な音の中へ云々」と書き、演技に関しては「むしろ日本の能のような・・・・」という趣旨のことも指摘している。なるほど、そう言われればこの日の舞台の演技は、極めて抑制されていた印象が強い。
だが、それらは確かに実績ある優秀な演出家としての彼の一つの見解であるには違いないが、その音楽の解釈と、そこから生まれる演技表現は、私には全く賛意を表しかねる類のものである。
フランチェスコ・ランツィロッタという人の指揮は今回初めて聴いたが、まあ何とも平板で鈍重で、緊迫感も皆無で、生気が感じられぬ。東京フィルも最近では珍しいような古色蒼然たる音を出し、ベルリーニの音楽から熱気と緊張感を失わせていた。
結局、今日の「ノルマ」を盛り上げていたのは、歌手たちの「歌唱」である。
前述の小川里美の他、注目の藤田卓也は期待通りの伸びのある声で、力強いポリオーネを歌っていた。オロヴェーゾの田中大揮は、巨躯から響かせる底力ある声で、全ての点でこの役に相応しかった。アダルジーザの米谷朋子も、細かいヴィブラートがちょっと気になり、またノルマとの声の対比があまり際立っていない、という問題もあろうが、清純な声質である。他にクロティルデに但馬由香、フラーヴィオに小笠原一規。
2017・7・1(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団
NHKホール 3時
先週末のデュティユー、サン=サーンス、ラヴェルというプログラム(A定期)が聴けなかったのは痛恨の極みだが、しかし今日のC定期━━シューマンの「ゲノヴェーヴァ」序曲と「チェロ協奏曲」(ソロはターニャ・テツラフ)、シューベルトの交響曲「ザ・グレイト」も、最近のパーヴォとN響の呼吸を聞き知るには丁度いいものだった。
特に「ザ・グレイト」は、指揮者がストレートにやればそれなりに快く響き、あれこれ趣向を凝らせばそれなりに面白く聴けるという交響曲だから、楽しみも増す。
パーヴォの今回の指揮はもちろん後者に近いものだが、ただし予想していたよりも荒々しいエネルギー性を浮き彫りにした解釈で、しかもこれも予想していたより細部の彫琢には拘泥せぬ演奏だったので、残響のほとんどないこのホールの2階6列目で聴いた範囲では、かなり乾いた、素っ気ない演奏に感じられたのが正直なところである。
第1楽章序奏冒頭のホルンなど、これがN響かとびっくりするような吹き方だったが━━これで些か興を削がれたのは、私だけではなかったのではないか。とはいえ後半2楽章、とりわけフィナーレでの猛烈な追い込みは迫力があった。
前半のシューマンでは、協奏曲でのターニャ・テツラフの伸びやかな、気宇の大きいソロがひときわ聳え立つ、という感。
先週末のデュティユー、サン=サーンス、ラヴェルというプログラム(A定期)が聴けなかったのは痛恨の極みだが、しかし今日のC定期━━シューマンの「ゲノヴェーヴァ」序曲と「チェロ協奏曲」(ソロはターニャ・テツラフ)、シューベルトの交響曲「ザ・グレイト」も、最近のパーヴォとN響の呼吸を聞き知るには丁度いいものだった。
特に「ザ・グレイト」は、指揮者がストレートにやればそれなりに快く響き、あれこれ趣向を凝らせばそれなりに面白く聴けるという交響曲だから、楽しみも増す。
パーヴォの今回の指揮はもちろん後者に近いものだが、ただし予想していたよりも荒々しいエネルギー性を浮き彫りにした解釈で、しかもこれも予想していたより細部の彫琢には拘泥せぬ演奏だったので、残響のほとんどないこのホールの2階6列目で聴いた範囲では、かなり乾いた、素っ気ない演奏に感じられたのが正直なところである。
第1楽章序奏冒頭のホルンなど、これがN響かとびっくりするような吹き方だったが━━これで些か興を削がれたのは、私だけではなかったのではないか。とはいえ後半2楽章、とりわけフィナーレでの猛烈な追い込みは迫力があった。
前半のシューマンでは、協奏曲でのターニャ・テツラフの伸びやかな、気宇の大きいソロがひときわ聳え立つ、という感。