2018年1月 の記事一覧
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2018・1・29(月)METライブビューイング アデス:「皆殺しの天使」
2018・1・27(土)園田隆一郎指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団
2018・1・25(木)チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団
2018・1・20(土)大野和士指揮東京都交響楽団
2018・1・18(木)角田鋼亮指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
2018・1・13(土)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団
2018・1・13(土)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
2018・1・10(水)大野和士指揮東京都交響楽団
2018・1・9(火)福井敬×アントネッロ スペシャル・リサイタル
2018・1・8(月)東京音楽コンクール優勝者コンサート
2018・1・7(日)びわ湖ホール「ワルキューレ入門講座」
2018・1・29(月)METライブビューイング アデス:「皆殺しの天使」
東劇 6時30分
トーマス・アデス作曲、トム・ケアンズ演出による現代オペラ「皆殺しの天使」。
2年前にザルツブルクで初演され、その後ロンドンでも上演されたユニークなオペラ。METでは昨年10月26日にプレミエされ、11月21日までの間に計8回上演されている。今回上映されたのは、11月18日に行われた7回目の上演のライヴ映像である。
これは、1962年に公開されたルイス・ブニュエル監督による名画「皆殺しの天使」を基にしている。映画に於けると同様、不条理・非現実性を満載したストーリーで━━、
ある夜、オペラのあと、ある豪邸の夜会に招かれた「貴族階級」の紳士淑女たちが、何故かその大広間からどうしても出られなくなる。出る気はあるのだが、何故かその行動に移ることができない。狭い空間に閉じ込められた形の紳士淑女たちは、次第に日頃の気取った態度を失って行き、罵声や暴力など醜い人間性を露呈して行く。死者も出る。
何日かが過ぎるらしいが、ひとりが「あの夜のある時点」を思い出し、皆がその時点に記憶を戻して、行動を「リセット」する。そうすると、不思議にもドアが全開され、全員が解放されて行く━━という、全く非現実的な物語だ。
いわばサスペンス・オペラのような物語だが、もし几帳面に歌詞の内容を追い、真面目にテレビドラマ的なスリルを追ってしまったら、多分苛々させられるだろう。何しろ会話そのものが、ヒステリックな感情に左右され、応酬の論点が次々にすり替わって行くからである。しかし、この中に籠められた象徴的なもの、寓話的なものは、実に多彩で、意味深くて、深淵で、かつ、あれやこれや思い当たるフシが多くて面白い。
この物語を彩るのが、トム・ケアンズの緊迫感豊かな演出と、芝居巧者を揃えた歌手陣とが繰り広げる舞台、それにトーマス・アデスが自ら指揮して引き出す彼の瑞々しい躍動感に富んだ音楽なのだが、これがまた、実に素晴らしい。
歌手陣にはオードリー・ルーナ(レティシア)、アリス・クート(レオノーラ)、サリー・マシューズ(シルヴィア)、ジョゼフ・カイザー(エドムンド)、ロドニー・ジルフリー(アルベルト)、ジョン・トムリンソン(カルロス・コンデ博士)ら大勢が出演しているが、揃いも揃って俳優並みの芝居巧者だ。現代オペラの舞台は、こういう人たちが揃ってこそ成立するというものである。
そして何よりトーマス・アデスの音楽が、すこぶる鮮やかなのだ。彼らしい明晰な音色としなやかで緻密な表情にあふれた管弦楽法が非常に雄弁で、劇的な表現力に優れている。特に今回はオンド・マルトノが「サスペンスものの常套手段として」(と、METは言う)活用され、不安な気分をそそる(今さら、という気もするが・・・・)という仕組だ。
休憩1回を含み、上映時間は2時間40分ほど。
(追記)昨年暮れから渋谷のイメージフォーラムで、その映画「皆殺しの天使」が36年ぶりに公開されていたのは、タイアップだったのか? ネットでその関連サイトを眺めていたら、その映画を観たある方が、ストーリーに関してこういう主旨のコメントを投稿なさっていた━━「つまらない飲み会に参加して、帰ろうという気を何度か起したのだが、そのきっかけを失い、結局終電に乗り遅れた夜のことを思い出した・・・・」(原文をかなり書き換えさせていただいた)。しかし、何とも巧い喩えではないか。
トーマス・アデス作曲、トム・ケアンズ演出による現代オペラ「皆殺しの天使」。
2年前にザルツブルクで初演され、その後ロンドンでも上演されたユニークなオペラ。METでは昨年10月26日にプレミエされ、11月21日までの間に計8回上演されている。今回上映されたのは、11月18日に行われた7回目の上演のライヴ映像である。
これは、1962年に公開されたルイス・ブニュエル監督による名画「皆殺しの天使」を基にしている。映画に於けると同様、不条理・非現実性を満載したストーリーで━━、
ある夜、オペラのあと、ある豪邸の夜会に招かれた「貴族階級」の紳士淑女たちが、何故かその大広間からどうしても出られなくなる。出る気はあるのだが、何故かその行動に移ることができない。狭い空間に閉じ込められた形の紳士淑女たちは、次第に日頃の気取った態度を失って行き、罵声や暴力など醜い人間性を露呈して行く。死者も出る。
何日かが過ぎるらしいが、ひとりが「あの夜のある時点」を思い出し、皆がその時点に記憶を戻して、行動を「リセット」する。そうすると、不思議にもドアが全開され、全員が解放されて行く━━という、全く非現実的な物語だ。
いわばサスペンス・オペラのような物語だが、もし几帳面に歌詞の内容を追い、真面目にテレビドラマ的なスリルを追ってしまったら、多分苛々させられるだろう。何しろ会話そのものが、ヒステリックな感情に左右され、応酬の論点が次々にすり替わって行くからである。しかし、この中に籠められた象徴的なもの、寓話的なものは、実に多彩で、意味深くて、深淵で、かつ、あれやこれや思い当たるフシが多くて面白い。
この物語を彩るのが、トム・ケアンズの緊迫感豊かな演出と、芝居巧者を揃えた歌手陣とが繰り広げる舞台、それにトーマス・アデスが自ら指揮して引き出す彼の瑞々しい躍動感に富んだ音楽なのだが、これがまた、実に素晴らしい。
歌手陣にはオードリー・ルーナ(レティシア)、アリス・クート(レオノーラ)、サリー・マシューズ(シルヴィア)、ジョゼフ・カイザー(エドムンド)、ロドニー・ジルフリー(アルベルト)、ジョン・トムリンソン(カルロス・コンデ博士)ら大勢が出演しているが、揃いも揃って俳優並みの芝居巧者だ。現代オペラの舞台は、こういう人たちが揃ってこそ成立するというものである。
そして何よりトーマス・アデスの音楽が、すこぶる鮮やかなのだ。彼らしい明晰な音色としなやかで緻密な表情にあふれた管弦楽法が非常に雄弁で、劇的な表現力に優れている。特に今回はオンド・マルトノが「サスペンスものの常套手段として」(と、METは言う)活用され、不安な気分をそそる(今さら、という気もするが・・・・)という仕組だ。
休憩1回を含み、上映時間は2時間40分ほど。
(追記)昨年暮れから渋谷のイメージフォーラムで、その映画「皆殺しの天使」が36年ぶりに公開されていたのは、タイアップだったのか? ネットでその関連サイトを眺めていたら、その映画を観たある方が、ストーリーに関してこういう主旨のコメントを投稿なさっていた━━「つまらない飲み会に参加して、帰ろうという気を何度か起したのだが、そのきっかけを失い、結局終電に乗り遅れた夜のことを思い出した・・・・」(原文をかなり書き換えさせていただいた)。しかし、何とも巧い喩えではないか。
2018・1・27(土)園田隆一郎指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団
横浜みなとみらいホール 2時
オペラでは引っ張りだこの存在である園田隆一郎の指揮を、コンサート・プログラムで聴いたことは、私はこれまでなかったかもしれない。
この日は前半にベルリオーズの序曲とリスとのピアノ協奏曲を、後半にロッシーニとヴェルディの序曲やバレエ音楽を指揮するというので、いい機会だと思い、早稲田大学オープンカレッジでのオペラ講座を終えてすぐに横浜へ駆けつける。
ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」と、リストの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは福間洸太朗)での園田の指揮は、極度に几帳面というか、生真面目に過ぎるというか、どうもなにか面白味に欠けてしまう。協奏曲は福間の瑞々しいソロが目立っていたので、何ということも無かったのだが、華やかな「ローマの謝肉祭」となると、あの沸き立つような音楽の熱気が全く再現されていないので、これはどうなることかと不安になったほどだ。
だが第2部に入り、ロッシーニの「どろぼうかささぎ」序曲、「アルミーダ」と「ウィリアム・テル」からのバレエ曲、「セミラーミデ」序曲、そしてヴェルディの「アッティラ」前奏曲と「マクベス」からのバレエ音楽になると、園田はやはりオペラを得意とする人だけあって、水を得た魚のような指揮になる。それは端整で几帳面で、生真面目な指揮には変わりないのだが、神奈川フィルの演奏に、実に妙なる雰囲気があふれ出して来て、作品の良さを充分に味わわせてくれたのであった。
コンサートマスターは石田泰尚。
別稿 ☞音楽の友3月号 演奏会評
オペラでは引っ張りだこの存在である園田隆一郎の指揮を、コンサート・プログラムで聴いたことは、私はこれまでなかったかもしれない。
この日は前半にベルリオーズの序曲とリスとのピアノ協奏曲を、後半にロッシーニとヴェルディの序曲やバレエ音楽を指揮するというので、いい機会だと思い、早稲田大学オープンカレッジでのオペラ講座を終えてすぐに横浜へ駆けつける。
ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」と、リストの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは福間洸太朗)での園田の指揮は、極度に几帳面というか、生真面目に過ぎるというか、どうもなにか面白味に欠けてしまう。協奏曲は福間の瑞々しいソロが目立っていたので、何ということも無かったのだが、華やかな「ローマの謝肉祭」となると、あの沸き立つような音楽の熱気が全く再現されていないので、これはどうなることかと不安になったほどだ。
だが第2部に入り、ロッシーニの「どろぼうかささぎ」序曲、「アルミーダ」と「ウィリアム・テル」からのバレエ曲、「セミラーミデ」序曲、そしてヴェルディの「アッティラ」前奏曲と「マクベス」からのバレエ音楽になると、園田はやはりオペラを得意とする人だけあって、水を得た魚のような指揮になる。それは端整で几帳面で、生真面目な指揮には変わりないのだが、神奈川フィルの演奏に、実に妙なる雰囲気があふれ出して来て、作品の良さを充分に味わわせてくれたのであった。
コンサートマスターは石田泰尚。
別稿 ☞音楽の友3月号 演奏会評
2018・1・25(木)チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団
サントリーホール 7時
モーツァルトの「交響曲《ジュピター》」とベルリオーズの「幻想交響曲」を組み合わせたプログラム。コンサートマスターは近藤薫。
「ジュピター」が始まった時、何と柔らかい音か、と驚かされる。演奏の表情も何かしらおっとりとしていて、春風駘蕩といった趣きなのだ。所謂「ジュピター」というニックネームから連想される威容とか、スケール感とか、風格とかいった先入観念にこだわることがなく、穏やかでおとなしい。第2楽章など、夢幻的でさえあり、瞑想的でさえある。
だがもともと「ジュピター」などという名前には、モーツァルト自身は関わりないものだから、このハ長調の交響曲をこのようなアプローチで演奏したって、別に問題はないはずだろう。それでも第1楽章や第4楽章の終結など、ここぞという個所になると、ぐいと力感を強めて締め括るあたり、チョンも「持って行き方」を充分心得ている。
それにしても彼は、オペラを指揮する時には速めのイン・テンポで、素っ気ないほどの勢いで押し通す人なのに、シンフォニーの演奏になると、逆に遅めのテンポを採って端然たる音楽をつくる。以前よりもそれが目立って来たのではないか。
後半に演奏された「幻想交響曲」でも、いわゆる標題音楽的な、ドラマティックな表現は影を潜めているように感じられた。ベルリオーズを古典派音楽的に解釈する、という手法か。東京フィルも極めて緻密な演奏を聴かせ、「幻想」の後半2楽章では剛直な力感も漲らせていた。
モーツァルトの「交響曲《ジュピター》」とベルリオーズの「幻想交響曲」を組み合わせたプログラム。コンサートマスターは近藤薫。
「ジュピター」が始まった時、何と柔らかい音か、と驚かされる。演奏の表情も何かしらおっとりとしていて、春風駘蕩といった趣きなのだ。所謂「ジュピター」というニックネームから連想される威容とか、スケール感とか、風格とかいった先入観念にこだわることがなく、穏やかでおとなしい。第2楽章など、夢幻的でさえあり、瞑想的でさえある。
だがもともと「ジュピター」などという名前には、モーツァルト自身は関わりないものだから、このハ長調の交響曲をこのようなアプローチで演奏したって、別に問題はないはずだろう。それでも第1楽章や第4楽章の終結など、ここぞという個所になると、ぐいと力感を強めて締め括るあたり、チョンも「持って行き方」を充分心得ている。
それにしても彼は、オペラを指揮する時には速めのイン・テンポで、素っ気ないほどの勢いで押し通す人なのに、シンフォニーの演奏になると、逆に遅めのテンポを採って端然たる音楽をつくる。以前よりもそれが目立って来たのではないか。
後半に演奏された「幻想交響曲」でも、いわゆる標題音楽的な、ドラマティックな表現は影を潜めているように感じられた。ベルリオーズを古典派音楽的に解釈する、という手法か。東京フィルも極めて緻密な演奏を聴かせ、「幻想」の後半2楽章では剛直な力感も漲らせていた。
2018・1・20(土)大野和士指揮東京都交響楽団
東京芸術劇場コンサートホール 2時
早稲田大学オープンカレッジのオペラ入門講座第2回(「フィガロの結婚」の巻)を終って池袋へ回る。概して土曜日は聴きたい演奏会が多いという傾向があるので、スケジュールのやりくりにも嬉しい苦労をすることになる。
今日は大野和士が指揮するメシアン・プログラム。私としては、彼のメシアンを聴くのは、もしかしたらこれが最初だったか?
1曲目はしかし、大野と都響の演奏ではなく、ヤン・ミヒールスのピアノ・ソロだった。照明を暗くして演奏されたのは、トリスタン・ミュライユの小品「告別の鐘と微笑み~オリヴィエ・メシアンへの追憶に」という曲。
プログラム冊子に引用されている作曲者自らのメモ「飾り気のない小さな作品」(飯田有訳)という表現が、良い意味でぴったり来る曲だろう。メシアンの初期のピアノ作品から素材が採られている由。曲想も演奏も清冽で透明な,何とも快い美しさに満たされた短い時間であった。
そして、拍手とカーテンコールのあと、ピアノの位置はそのままに楽員たちがステージに入って来て、今日のメイン・プロであるメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」に移る。
演奏は、いわゆるどぎつい色彩感とか、威圧的な物々しさとかいったものとは一線を画した、均衡と調和に重点が置かれた柔軟で温かいスタイルだった。
このような「過激でない」タイプの「トゥーランガリラ交響曲」の表現は、わが国のオーケストラに多く聴かれる特徴だろう(所謂国民性の為せる業でもあろうが)。
とりわけ今回の大野と都響の演奏には、リズムも含めて響きの柔らかい、音色の美しさという特徴が印象づけられる。先日のR・シュトラウスやツェムリンスキーの作品の時と同じように、殊更な力み返った音を出さず、すべての楽器がバランスよく溶け合って響く。その意味では、極めて自然体の「トゥーランガリラ」だったと言うべきか。静寂な官能的法悦感にも、全く不足はない。
しかも━━特に最後の2つの楽章においては、頂点への追い込みの個所で、クレッシェンドとアッチェルランドも聴かれる(そのように感じられる)。それはすこぶる緊迫感に富んだものであり、少々乱暴な言い方をすれば、メシアンの音楽に良い意味でのロマン的な手法を加味した演奏とでも喩えたらいいだろうか。そのあたりの大野の指揮と、それに応える都響の両者の呼吸は、これまた実に巧いのである。
ただ、率直に言えば、全体にそれら美音の均衡が重視されるあまり、熱狂にせよ陶酔にせよ、各楽章の間に際立った対比といったものが薄れ、長い全曲がやや単調で単一的なものに感じられなくもなかったのだが━━。
夕方の新幹線で京都に向かう。翌日は、びわ湖ホールにおける「ワルキューレ入門講座」第2回だ。
☞モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews
早稲田大学オープンカレッジのオペラ入門講座第2回(「フィガロの結婚」の巻)を終って池袋へ回る。概して土曜日は聴きたい演奏会が多いという傾向があるので、スケジュールのやりくりにも嬉しい苦労をすることになる。
今日は大野和士が指揮するメシアン・プログラム。私としては、彼のメシアンを聴くのは、もしかしたらこれが最初だったか?
1曲目はしかし、大野と都響の演奏ではなく、ヤン・ミヒールスのピアノ・ソロだった。照明を暗くして演奏されたのは、トリスタン・ミュライユの小品「告別の鐘と微笑み~オリヴィエ・メシアンへの追憶に」という曲。
プログラム冊子に引用されている作曲者自らのメモ「飾り気のない小さな作品」(飯田有訳)という表現が、良い意味でぴったり来る曲だろう。メシアンの初期のピアノ作品から素材が採られている由。曲想も演奏も清冽で透明な,何とも快い美しさに満たされた短い時間であった。
そして、拍手とカーテンコールのあと、ピアノの位置はそのままに楽員たちがステージに入って来て、今日のメイン・プロであるメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」に移る。
演奏は、いわゆるどぎつい色彩感とか、威圧的な物々しさとかいったものとは一線を画した、均衡と調和に重点が置かれた柔軟で温かいスタイルだった。
このような「過激でない」タイプの「トゥーランガリラ交響曲」の表現は、わが国のオーケストラに多く聴かれる特徴だろう(所謂国民性の為せる業でもあろうが)。
とりわけ今回の大野と都響の演奏には、リズムも含めて響きの柔らかい、音色の美しさという特徴が印象づけられる。先日のR・シュトラウスやツェムリンスキーの作品の時と同じように、殊更な力み返った音を出さず、すべての楽器がバランスよく溶け合って響く。その意味では、極めて自然体の「トゥーランガリラ」だったと言うべきか。静寂な官能的法悦感にも、全く不足はない。
しかも━━特に最後の2つの楽章においては、頂点への追い込みの個所で、クレッシェンドとアッチェルランドも聴かれる(そのように感じられる)。それはすこぶる緊迫感に富んだものであり、少々乱暴な言い方をすれば、メシアンの音楽に良い意味でのロマン的な手法を加味した演奏とでも喩えたらいいだろうか。そのあたりの大野の指揮と、それに応える都響の両者の呼吸は、これまた実に巧いのである。
ただ、率直に言えば、全体にそれら美音の均衡が重視されるあまり、熱狂にせよ陶酔にせよ、各楽章の間に際立った対比といったものが薄れ、長い全曲がやや単調で単一的なものに感じられなくもなかったのだが━━。
夕方の新幹線で京都に向かう。翌日は、びわ湖ホールにおける「ワルキューレ入門講座」第2回だ。
☞モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews
2018・1・18(木)角田鋼亮指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
フェスティバルホール〈大阪〉 7時
角田鋼亮は、大阪フィルとセントラル愛知響の指揮者を務めており、また今年4月からは仙台フィルの指揮者にもなる、という注目の若手である。大阪フィルの定期公演には、今回が初めての登場という。
今日のプログラムは、コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは竹澤恭子)と、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」だった。コンサートマスターは首席客演の崔文洙。
このホール、私は未だ10回ほどしか聴いていないのだが、どうやら場所によってかなり響きが異なるようで、少なくとも1階席よりは上階席の方が、音が溶け合って聞こえる癖があるらしい。それにより演奏に対する印象・評価が違って来る傾向なきにしもあらずとなると、これは少々厄介な問題だろう。
私は今回も、上手側高所の壁から突き出しているバルコニー席で聴いた。ここも慣れると、結構バランスのいい音で聴ける。したがって以下は、この「上階席」で聴いた印象である。
さてその角田鋼亮の指揮だが、コルンゴルトでは予想外に濃厚な響きを大フィルから引き出し、この曲の重要な特徴であるロマンティックで官能的な法悦感を再現させていたのには感心した。竹澤恭子の濃厚な表情に富んだソロもそれらとよく均衡していたと思われる。特に第1楽章など、オーケストラには確実にあの独特の「コルンゴルト・トーン」が聴かれ、また第2楽章でも、見事に耽美的な演奏が聴かれていたのである。
「巨人」は、入魂の大熱演で、大阪フィルもよくこの若手指揮者を盛り上げ、柔軟な演奏を聴かせていたように思う。第1楽章のコーダ、第4楽章のコーダとも、かなりのアッチェルランドをかけての追い込みは、すこぶる勢いに満ちていた。
また、協奏曲の緩徐楽章でもそうだったが、「巨人」でも、緩やかな流れを持つ個所に良さが目立つ。とりわけ光っていたのは第3楽章で、コントラバスの1番が素晴らしく上手く、またオーボエ、クラリネット、ファゴットなどのソロが巧かったこともあり、情感がこもっていて、しかも自然な流れがあった。
ただ一つ、終結ではテンポを速めて一気呵成に押し切った━━それはそれでいいのだが━━せいで、全曲大詰めのオクターヴ下行の2つの4分音符が明確に分離して響かなかった・・・・つまり最後の4分音符のD音がほとんど聞こえなかったことには、やはり疑問が残る。最後までイン・テンポで突っ走った場合、スコア通りに演奏すると、確かにそういうことが生じやすいのだけれども・・・・。
概してこの人の指揮は━━今日の演奏で聴く限りだが━━音楽そのものがなだらかで自然な流れを示している個所では、彼のカンタービレや、たっぷりした音の響かせ方などが生きて来るようである。しかしその一方、さまざまなモティーフが入り乱れる個所や、あるいは何かを仕掛けてやろうと念を入れるような個所━━たとえば第4楽章で、次の昂揚に移るべく音楽が蠢きはじめる個所など━━になると、その設計に未だ少し流れの悪さを感じさせ、緊張感が希薄になることがある。
まあしかし、この辺は、経験が解決するであろう問題だ。若い勢いで音楽を熱狂的に昂揚させるあたりは好ましいし、大フィルが若い指揮者を盛り立てようという意気も感じられて、清々しい雰囲気の残った定期であった。
なお、竹澤恭子が弾いたソロ・アンコール曲は、ヴォーン・ウィリアムズの「あげひばり」。ソロによる演奏だが、これは素晴らしかった。
角田鋼亮は、大阪フィルとセントラル愛知響の指揮者を務めており、また今年4月からは仙台フィルの指揮者にもなる、という注目の若手である。大阪フィルの定期公演には、今回が初めての登場という。
今日のプログラムは、コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは竹澤恭子)と、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」だった。コンサートマスターは首席客演の崔文洙。
このホール、私は未だ10回ほどしか聴いていないのだが、どうやら場所によってかなり響きが異なるようで、少なくとも1階席よりは上階席の方が、音が溶け合って聞こえる癖があるらしい。それにより演奏に対する印象・評価が違って来る傾向なきにしもあらずとなると、これは少々厄介な問題だろう。
私は今回も、上手側高所の壁から突き出しているバルコニー席で聴いた。ここも慣れると、結構バランスのいい音で聴ける。したがって以下は、この「上階席」で聴いた印象である。
さてその角田鋼亮の指揮だが、コルンゴルトでは予想外に濃厚な響きを大フィルから引き出し、この曲の重要な特徴であるロマンティックで官能的な法悦感を再現させていたのには感心した。竹澤恭子の濃厚な表情に富んだソロもそれらとよく均衡していたと思われる。特に第1楽章など、オーケストラには確実にあの独特の「コルンゴルト・トーン」が聴かれ、また第2楽章でも、見事に耽美的な演奏が聴かれていたのである。
「巨人」は、入魂の大熱演で、大阪フィルもよくこの若手指揮者を盛り上げ、柔軟な演奏を聴かせていたように思う。第1楽章のコーダ、第4楽章のコーダとも、かなりのアッチェルランドをかけての追い込みは、すこぶる勢いに満ちていた。
また、協奏曲の緩徐楽章でもそうだったが、「巨人」でも、緩やかな流れを持つ個所に良さが目立つ。とりわけ光っていたのは第3楽章で、コントラバスの1番が素晴らしく上手く、またオーボエ、クラリネット、ファゴットなどのソロが巧かったこともあり、情感がこもっていて、しかも自然な流れがあった。
ただ一つ、終結ではテンポを速めて一気呵成に押し切った━━それはそれでいいのだが━━せいで、全曲大詰めのオクターヴ下行の2つの4分音符が明確に分離して響かなかった・・・・つまり最後の4分音符のD音がほとんど聞こえなかったことには、やはり疑問が残る。最後までイン・テンポで突っ走った場合、スコア通りに演奏すると、確かにそういうことが生じやすいのだけれども・・・・。
概してこの人の指揮は━━今日の演奏で聴く限りだが━━音楽そのものがなだらかで自然な流れを示している個所では、彼のカンタービレや、たっぷりした音の響かせ方などが生きて来るようである。しかしその一方、さまざまなモティーフが入り乱れる個所や、あるいは何かを仕掛けてやろうと念を入れるような個所━━たとえば第4楽章で、次の昂揚に移るべく音楽が蠢きはじめる個所など━━になると、その設計に未だ少し流れの悪さを感じさせ、緊張感が希薄になることがある。
まあしかし、この辺は、経験が解決するであろう問題だ。若い勢いで音楽を熱狂的に昂揚させるあたりは好ましいし、大フィルが若い指揮者を盛り立てようという意気も感じられて、清々しい雰囲気の残った定期であった。
なお、竹澤恭子が弾いたソロ・アンコール曲は、ヴォーン・ウィリアムズの「あげひばり」。ソロによる演奏だが、これは素晴らしかった。
2018・1・13(土)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団
サントリーホール 6時
ブリテンの「ピーター・グライムズ」からの「4つの海の間奏曲」、イェルク・ヴィトマンの「クラリネット協奏曲《エコー・フラグメンテ》」、ブルックナーの「第6交響曲」というプログラム。クラリネットのソロは作曲者ヴィトマン自身。コンサートマスターはゲストの崎谷直人。
冒頭のブリテンは、恐ろしく物々しく、威圧的な「間奏曲」となった。これほど攻撃的な、激烈な「ピーター・グライムズ」の演奏は、あまり聴いたことがない。ブリテンを現代音楽の闘士として蘇らせたようなこの解釈は、興味深いことは事実だけれども、しかし、聴いていて些か疲れる。
これは、とにかく荒っぽい演奏ではあったが、後半に演奏されたブルックナーの「6番」も、馬力は充分ながら、何かしら殺風景な演奏だった。第1楽章の最初の頃で、ホルンの1番が吹く挿入句がえらく素っ気なく、機械的なものに聞こえたことも、その第一の要因である。また弦の音色が、いつもの読響のしっとりした色合いとは全く異なり、甚だ荒っぽいものになっていたことも影響しているだろう。
カンブルランのブルックナーは、これまで「3番」にしろ「4番」にしろ「7番」にしろ、どちらかと言えば透明感を備えた、洗練された表現だったのに━━「3番」だけはかなりダイナミックだったか━━今回は、曲想のせいであるにしても、人が変わったような演奏になっていた。
だが、ヴィトマンがみずから見事なソロを吹いた協奏曲は、別の意味で面白い。
カンブルランとヴィトマンは親交があるのか、10年前にも、彼が新日本フィルに客演した際、ヴィトマンの「アルモニカ」という洒落た作品を演奏したことがある。
今回のこの協奏曲「エコー=フラグメンテ」もカンブルランが2006年に初演したとのこと。
オーケストラは、下手側に配置されたモダン(443Hz)グループと、上手側に配置されたバロック(430Hz)グループとに分かれ、中央やや上手よりに立つソロ・クラリネットは、音楽的な意味で「二つのオーケストラの間を自由に行き来する」(柴辻純子さんの解説による)という曲だ。2群のオケの各ピッチの違いが、それぞれのチューニングの際に明確に示されていたのは便利なことだった。
もっとも、この2群のオケが同時に鳴り響いて特殊な音響をつくり出すという瞬間はあまり多くない。そして、聴いている側では、このピッチの違いはむしろ音程の違いのようなイメージで受け取られたのではないか。
ヴィトマンは、特殊な奏法をも交えて超絶技巧的なクラリネットのソロを繰り広げ、めっぽうクラリネットの上手い作曲家だねえ━━とばかり、客席を沸かせた。彼はもともと、指揮者、奏者、作曲家として活躍する才人である。
ブリテンの「ピーター・グライムズ」からの「4つの海の間奏曲」、イェルク・ヴィトマンの「クラリネット協奏曲《エコー・フラグメンテ》」、ブルックナーの「第6交響曲」というプログラム。クラリネットのソロは作曲者ヴィトマン自身。コンサートマスターはゲストの崎谷直人。
冒頭のブリテンは、恐ろしく物々しく、威圧的な「間奏曲」となった。これほど攻撃的な、激烈な「ピーター・グライムズ」の演奏は、あまり聴いたことがない。ブリテンを現代音楽の闘士として蘇らせたようなこの解釈は、興味深いことは事実だけれども、しかし、聴いていて些か疲れる。
これは、とにかく荒っぽい演奏ではあったが、後半に演奏されたブルックナーの「6番」も、馬力は充分ながら、何かしら殺風景な演奏だった。第1楽章の最初の頃で、ホルンの1番が吹く挿入句がえらく素っ気なく、機械的なものに聞こえたことも、その第一の要因である。また弦の音色が、いつもの読響のしっとりした色合いとは全く異なり、甚だ荒っぽいものになっていたことも影響しているだろう。
カンブルランのブルックナーは、これまで「3番」にしろ「4番」にしろ「7番」にしろ、どちらかと言えば透明感を備えた、洗練された表現だったのに━━「3番」だけはかなりダイナミックだったか━━今回は、曲想のせいであるにしても、人が変わったような演奏になっていた。
だが、ヴィトマンがみずから見事なソロを吹いた協奏曲は、別の意味で面白い。
カンブルランとヴィトマンは親交があるのか、10年前にも、彼が新日本フィルに客演した際、ヴィトマンの「アルモニカ」という洒落た作品を演奏したことがある。
今回のこの協奏曲「エコー=フラグメンテ」もカンブルランが2006年に初演したとのこと。
オーケストラは、下手側に配置されたモダン(443Hz)グループと、上手側に配置されたバロック(430Hz)グループとに分かれ、中央やや上手よりに立つソロ・クラリネットは、音楽的な意味で「二つのオーケストラの間を自由に行き来する」(柴辻純子さんの解説による)という曲だ。2群のオケの各ピッチの違いが、それぞれのチューニングの際に明確に示されていたのは便利なことだった。
もっとも、この2群のオケが同時に鳴り響いて特殊な音響をつくり出すという瞬間はあまり多くない。そして、聴いている側では、このピッチの違いはむしろ音程の違いのようなイメージで受け取られたのではないか。
ヴィトマンは、特殊な奏法をも交えて超絶技巧的なクラリネットのソロを繰り広げ、めっぽうクラリネットの上手い作曲家だねえ━━とばかり、客席を沸かせた。彼はもともと、指揮者、奏者、作曲家として活躍する才人である。
2018・1・13(土)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
すみだトリフォニーホール 2時
10時40分から12時10分まで、毎年1月土曜日恒例の早稲田大学オープン・カレッジのオペラ講座(今日が今年の第1回、テーマは「ローエングリン」)を喋った後、すみだトリフォニーホールへクルマを飛ばす。ホール近くの回転寿司で3皿ばかりつまんでからコンサートを聴く、というスケジュールには手頃だ。
今日の上岡&新日本フィルの演奏会は、定期公演だが、プログラムは、ヨハン・シュトラウス一家のワルツやポルカなど10曲を並べ、その前後にラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」と「ラ・ヴァルス」をそれぞれ置く、という、一風変わった構成を採った。
しかもこの「ワルツ、ポルカ&行進曲」集には、「狩のポルカ」や「加速度円舞曲」などといった作品は含むものの、大半は日本ではあまり演奏されない曲目━━「踊るミューズ」「東方のおとぎ話」「《パーズマーン》からのチャルダーシュ」「ロシアの行進曲風幻想曲」「女性賛美」「北海の絵」などといったもの━━で固めている。これまたユニークな企画で、面白い。コンサートマスターは崔文洙。
演奏の内容は、いろいろな意味で予想通り、いや、予想を上回った、と言っていいかもしれない。
所謂「上岡ぶし」は、当然ラヴェルの2作の方で発揮された。敢えて言えば、「高雅で感傷的なワルツ」における6つの部分をそれぞれ切り離し、別々の曲のような形で演奏するやり方は、この作品全体の美しい流れを完全に損なう結果となるので、大いに異論のあるところではあったが・・・・。
だが、今日の演奏の中で、最も驚かされ、舌を巻いたのは、アンコールとして演奏された「こうもり」序曲である。これは、凝ったテンポと、変幻自在のニュアンスを備えた、如何にも上岡敏之らしい音楽の構築だったが、見事だったのは、その精緻なニュアンスを完璧にこなした新日本フィルの柔軟な演奏であった。このコンビの共同作業も、とにかくついにここまでに達したのか、という嬉しい感慨━━。
終って、赤坂のサントリーホールへ移動。今日は、このコースを採る人も結構いたようだ。
10時40分から12時10分まで、毎年1月土曜日恒例の早稲田大学オープン・カレッジのオペラ講座(今日が今年の第1回、テーマは「ローエングリン」)を喋った後、すみだトリフォニーホールへクルマを飛ばす。ホール近くの回転寿司で3皿ばかりつまんでからコンサートを聴く、というスケジュールには手頃だ。
今日の上岡&新日本フィルの演奏会は、定期公演だが、プログラムは、ヨハン・シュトラウス一家のワルツやポルカなど10曲を並べ、その前後にラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」と「ラ・ヴァルス」をそれぞれ置く、という、一風変わった構成を採った。
しかもこの「ワルツ、ポルカ&行進曲」集には、「狩のポルカ」や「加速度円舞曲」などといった作品は含むものの、大半は日本ではあまり演奏されない曲目━━「踊るミューズ」「東方のおとぎ話」「《パーズマーン》からのチャルダーシュ」「ロシアの行進曲風幻想曲」「女性賛美」「北海の絵」などといったもの━━で固めている。これまたユニークな企画で、面白い。コンサートマスターは崔文洙。
演奏の内容は、いろいろな意味で予想通り、いや、予想を上回った、と言っていいかもしれない。
所謂「上岡ぶし」は、当然ラヴェルの2作の方で発揮された。敢えて言えば、「高雅で感傷的なワルツ」における6つの部分をそれぞれ切り離し、別々の曲のような形で演奏するやり方は、この作品全体の美しい流れを完全に損なう結果となるので、大いに異論のあるところではあったが・・・・。
だが、今日の演奏の中で、最も驚かされ、舌を巻いたのは、アンコールとして演奏された「こうもり」序曲である。これは、凝ったテンポと、変幻自在のニュアンスを備えた、如何にも上岡敏之らしい音楽の構築だったが、見事だったのは、その精緻なニュアンスを完璧にこなした新日本フィルの柔軟な演奏であった。このコンビの共同作業も、とにかくついにここまでに達したのか、という嬉しい感慨━━。
終って、赤坂のサントリーホールへ移動。今日は、このコースを採る人も結構いたようだ。
2018・1・10(水)大野和士指揮東京都交響楽団
サントリーホール 7時
1月の都響の定期は、いずれも音楽監督・大野和士の指揮だ。それぞれドイツとフランスの20世紀作品を並べ、いかにもこのコンビらしい、意欲的なプログラムを組んでいる。
今日はその最初のもので、前半にR・シュトラウスの組曲「町人貴族」(9曲)と、後半にツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」。コンサートマスターは矢部達哉。
小編成の管弦楽をユニークな形に配置しての「町人貴族」での演奏は、羽毛のような柔らかさをも感じさせて、美しい。管楽器群のソロも佳く、日本のオーケストラとして可能な限り詩的な香気を追求した演奏だったと言ってよかろう。
一方、「人魚姫」は、つい3ヶ月ほど前にも上岡敏之と新日本フィルによる演奏で聴いたばかりであり、その前年には寺岡清高と大阪響の演奏で聴く機会もあった。こういう作品の場合、指揮者とオーケストラは腕に縒りをかけて取り組むので、聴き応えのある「人魚姫」になることが多い。
今日の大野と都響も同様、新しく出版された改訂版を使用し、気魄に富んだ豊麗かつ濃密で、適度な官能性も漂わせた「人魚姫」を聴かせてくれたのであった。欲を言えば、この作品の精緻に交錯する各声部の動きに、今一つの明晰さがあれば、という気もしたが━━。
1月の都響の定期は、いずれも音楽監督・大野和士の指揮だ。それぞれドイツとフランスの20世紀作品を並べ、いかにもこのコンビらしい、意欲的なプログラムを組んでいる。
今日はその最初のもので、前半にR・シュトラウスの組曲「町人貴族」(9曲)と、後半にツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」。コンサートマスターは矢部達哉。
小編成の管弦楽をユニークな形に配置しての「町人貴族」での演奏は、羽毛のような柔らかさをも感じさせて、美しい。管楽器群のソロも佳く、日本のオーケストラとして可能な限り詩的な香気を追求した演奏だったと言ってよかろう。
一方、「人魚姫」は、つい3ヶ月ほど前にも上岡敏之と新日本フィルによる演奏で聴いたばかりであり、その前年には寺岡清高と大阪響の演奏で聴く機会もあった。こういう作品の場合、指揮者とオーケストラは腕に縒りをかけて取り組むので、聴き応えのある「人魚姫」になることが多い。
今日の大野と都響も同様、新しく出版された改訂版を使用し、気魄に富んだ豊麗かつ濃密で、適度な官能性も漂わせた「人魚姫」を聴かせてくれたのであった。欲を言えば、この作品の精緻に交錯する各声部の動きに、今一つの明晰さがあれば、という気もしたが━━。
2018・1・9(火)福井敬×アントネッロ スペシャル・リサイタル
Hakuju Hall 2時
テノールの福井敬が、今回は古楽アンサンブルのアントネッロ(濱田芳通、石川かおり、西山まりえ)と組んで、イタリア・バロックの歌曲を中心とした演奏会を開いた。
プログラムは、ルイジ・ロッシ、フレスコバルディ、メールラ、カッチーニ、カレスターニ、カステッロ、モンテヴェルディ、ガストルディ・・・・などといった作曲家の作品である。
すでにCDがリリースされているとはいえ、ナマではまず滅多に聴けないような雰囲気の演奏といえるかもしれない。
もちろん、アントネッロにとっては、この種のレパートリーは、もう自家薬籠中のもののはず。相変わらず見事な演奏であったことは言うまでもない。
だが、ドラマティック・テノールを売り物にする福井敬が、これらの作品を、あの独特の強靭で張りのある、しかも豊麗な声で歌うとなると━━音楽が全く異なった性格を帯びて来るのが面白い。それは、こういった歌曲でよく聞かれる優男(ヤサオトコ)的な歌い方とは正反対のものであり、骨太で豪快だ。
まあ、曲によっては、牛刀を以って鶏を裂く、といった感もなくはなかったけれど━━非常に新鮮であった。
これは75分構成のプログラム。昼夜2回の公演だった。
テノールの福井敬が、今回は古楽アンサンブルのアントネッロ(濱田芳通、石川かおり、西山まりえ)と組んで、イタリア・バロックの歌曲を中心とした演奏会を開いた。
プログラムは、ルイジ・ロッシ、フレスコバルディ、メールラ、カッチーニ、カレスターニ、カステッロ、モンテヴェルディ、ガストルディ・・・・などといった作曲家の作品である。
すでにCDがリリースされているとはいえ、ナマではまず滅多に聴けないような雰囲気の演奏といえるかもしれない。
もちろん、アントネッロにとっては、この種のレパートリーは、もう自家薬籠中のもののはず。相変わらず見事な演奏であったことは言うまでもない。
だが、ドラマティック・テノールを売り物にする福井敬が、これらの作品を、あの独特の強靭で張りのある、しかも豊麗な声で歌うとなると━━音楽が全く異なった性格を帯びて来るのが面白い。それは、こういった歌曲でよく聞かれる優男(ヤサオトコ)的な歌い方とは正反対のものであり、骨太で豪快だ。
まあ、曲によっては、牛刀を以って鶏を裂く、といった感もなくはなかったけれど━━非常に新鮮であった。
これは75分構成のプログラム。昼夜2回の公演だった。
2018・1・8(月)東京音楽コンクール優勝者コンサート
東京文化会館大ホール 3時
昨年8月に行なわれた「第15回 東京音楽コンクール」の優勝者4人が登場する演奏会を聴く。あの大ホールの2300の客席がぎっしり埋まり、補助席まで並ぶという、凄まじい盛況だ。
出演したのは、木管部門第1位をわけ合ったクラリネット奏者の2人━━ヘルバシオ・タラゴナ・ヴァリ(ウルグアイ出身)とアレッサンドロ・ベヴェラリ(イタリア出身、東京フィル首席)、ヴァイオリンの荒井里桜、ピアノのノ・ヒソン(韓国出身)。協演が円光寺雅彦指揮の新日本フィル。
プログラムは全てコンチェルトだったが、今日はどういうわけか、指揮者とオーケストラの演奏に活気も熱気も躍動も感じられないので、ソリスト4人の演奏までが何かおとなしく地味に聞こえてしまった・・・・と思ったのは私だけだろうか。
幕開きにヘルバシオ・タラゴナ・ヴァリが吹いたウェーバーの「クラリネット協奏曲第2番」など、オケの提示部があんなに鈍重なリズムで開始されなかったら、もっと闊達に全体が演奏されて行っただろうし、最後にノ・ヒソンが弾いたベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」にしても同じである。
アレッサンドロ・ベヴェラリが吹いたコープランドのジャズの雰囲気に満ちた「クラリネット協奏曲」も、オケがもっとスイングしていたら、本人の熱演もさらに生きたのではないか。
1999年生れの芸大1年生という荒井里桜はメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」を弾いたが、いかにもきっちりと正確に端整に、しかも美しい音で全曲を歌い上げた。それはオーケストラのおとなしさを過度に露呈させずに済ませたようだが、若いのだから、あまり優等生的な礼儀正しい演奏に留まって欲しくないなとも思う・・・・。
朝岡聡の要を得てリズム感のある、しかもあまり出しゃばらぬ司会とインタヴューは好ましかった。5時半過ぎ終演。
なおこのおなじみの東京文化会館大ホール、年明け早々とあってか、いつもの開演のチャイムが、飛び上がるほどの大音響に設定されていたのには辟易させられた。
昨年8月に行なわれた「第15回 東京音楽コンクール」の優勝者4人が登場する演奏会を聴く。あの大ホールの2300の客席がぎっしり埋まり、補助席まで並ぶという、凄まじい盛況だ。
出演したのは、木管部門第1位をわけ合ったクラリネット奏者の2人━━ヘルバシオ・タラゴナ・ヴァリ(ウルグアイ出身)とアレッサンドロ・ベヴェラリ(イタリア出身、東京フィル首席)、ヴァイオリンの荒井里桜、ピアノのノ・ヒソン(韓国出身)。協演が円光寺雅彦指揮の新日本フィル。
プログラムは全てコンチェルトだったが、今日はどういうわけか、指揮者とオーケストラの演奏に活気も熱気も躍動も感じられないので、ソリスト4人の演奏までが何かおとなしく地味に聞こえてしまった・・・・と思ったのは私だけだろうか。
幕開きにヘルバシオ・タラゴナ・ヴァリが吹いたウェーバーの「クラリネット協奏曲第2番」など、オケの提示部があんなに鈍重なリズムで開始されなかったら、もっと闊達に全体が演奏されて行っただろうし、最後にノ・ヒソンが弾いたベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」にしても同じである。
アレッサンドロ・ベヴェラリが吹いたコープランドのジャズの雰囲気に満ちた「クラリネット協奏曲」も、オケがもっとスイングしていたら、本人の熱演もさらに生きたのではないか。
1999年生れの芸大1年生という荒井里桜はメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」を弾いたが、いかにもきっちりと正確に端整に、しかも美しい音で全曲を歌い上げた。それはオーケストラのおとなしさを過度に露呈させずに済ませたようだが、若いのだから、あまり優等生的な礼儀正しい演奏に留まって欲しくないなとも思う・・・・。
朝岡聡の要を得てリズム感のある、しかもあまり出しゃばらぬ司会とインタヴューは好ましかった。5時半過ぎ終演。
なおこのおなじみの東京文化会館大ホール、年明け早々とあってか、いつもの開演のチャイムが、飛び上がるほどの大音響に設定されていたのには辟易させられた。
2018・1・7(日)びわ湖ホール「ワルキューレ入門講座」
こらぼしが21 2時30分
コンサートではないけれども、それに関連した仕事始めということで━━。
びわ湖ホールのプロデュースオペラ、新制作によるワーグナーの「ニーベルングの指環」(3月)が、今年は2年目、「ワルキューレ」に入る。
このホールでは毎年、上演に先立って関連講座を盛んに開催し、観客への便宜を図っているという念の入れようだ。つまり2月には3回の高度な専門講座を3人の「ワーグナー研究の第一人者である講師を迎えて」(第一人者が3人?!)開催、それに先立って番外の(!)私が、12月~1月に計2回の「入門講座」を受け持つという仕組みである。
ちなみに、2月の「ワーグナー・ゼミナール上級編」を担当なさるのは、今年は藤野一夫さん、伊東史明さん、岡田安樹浩さんという顔ぶれ。若手のホープ岡田安樹浩さんは、昨年まで常連だった三宅幸夫さんの逝去に伴い、参加されることになる。まず万全の講師陣であろう。
そのうえ今年は、昨日の午前中に「プレトーク・マチネ」として、沼尻竜典氏、岡田暁生氏、藤野一夫氏が、ナマ演奏を含めて話すという催しが、びわ湖ホールの中ホールで開かれたとのこと。
上演に先立ってこれほど事前講座を大がかりに開催する劇場は、わが国では他に例を見ないかもしれない。そういうことも関係してか、今年は3月3日と4日の2回の上演とも既に完売の由。今朝10時からのわずかな数の追加発売も、あっという間に売り切れた、と事務局スタッフが語っていた。
さて、今日の私の講座への参加者は、3階の大会議室をほぼ満杯にして、およそ130人だった由。何年か前にコルンゴルトの「死の都」入門講座をやった際にも、大雪の日にもかかわらず100人近くの受講者が来られたのに肝をつぶしたことがある。こちらの地域の方々の熱心さには、驚かされる。
私のオペラ講座は映像を50カットくらい使用するので、事前の準備にはおそろしく手間がかかるのだが、今日のように、たくさんの方に熱心に聴いていただけると、風邪の残滓も吹き飛んでしまう。
お見舞いのコメント、メールなどを頂戴し、本当にありがとうございました。おかげさまで何とか復調できたようです。皆様も風邪にはお気をつけください。
コンサートではないけれども、それに関連した仕事始めということで━━。
びわ湖ホールのプロデュースオペラ、新制作によるワーグナーの「ニーベルングの指環」(3月)が、今年は2年目、「ワルキューレ」に入る。
このホールでは毎年、上演に先立って関連講座を盛んに開催し、観客への便宜を図っているという念の入れようだ。つまり2月には3回の高度な専門講座を3人の「ワーグナー研究の第一人者である講師を迎えて」(第一人者が3人?!)開催、それに先立って番外の(!)私が、12月~1月に計2回の「入門講座」を受け持つという仕組みである。
ちなみに、2月の「ワーグナー・ゼミナール上級編」を担当なさるのは、今年は藤野一夫さん、伊東史明さん、岡田安樹浩さんという顔ぶれ。若手のホープ岡田安樹浩さんは、昨年まで常連だった三宅幸夫さんの逝去に伴い、参加されることになる。まず万全の講師陣であろう。
そのうえ今年は、昨日の午前中に「プレトーク・マチネ」として、沼尻竜典氏、岡田暁生氏、藤野一夫氏が、ナマ演奏を含めて話すという催しが、びわ湖ホールの中ホールで開かれたとのこと。
上演に先立ってこれほど事前講座を大がかりに開催する劇場は、わが国では他に例を見ないかもしれない。そういうことも関係してか、今年は3月3日と4日の2回の上演とも既に完売の由。今朝10時からのわずかな数の追加発売も、あっという間に売り切れた、と事務局スタッフが語っていた。
さて、今日の私の講座への参加者は、3階の大会議室をほぼ満杯にして、およそ130人だった由。何年か前にコルンゴルトの「死の都」入門講座をやった際にも、大雪の日にもかかわらず100人近くの受講者が来られたのに肝をつぶしたことがある。こちらの地域の方々の熱心さには、驚かされる。
私のオペラ講座は映像を50カットくらい使用するので、事前の準備にはおそろしく手間がかかるのだが、今日のように、たくさんの方に熱心に聴いていただけると、風邪の残滓も吹き飛んでしまう。
お見舞いのコメント、メールなどを頂戴し、本当にありがとうございました。おかげさまで何とか復調できたようです。皆様も風邪にはお気をつけください。