2023-12

2018年7月 の記事一覧




2018・7・31(火)小澤国際室内楽アカデミー奥志賀

     トッパンホール  7時

 7時48分金沢発の新幹線「かがやき」で帰京。なにしろここは、金沢駅が目の前だ。飛行機と違って、10分前にホテルを出れば乗れるし、荷物検査などないから、新幹線は本当に気が楽だ。

 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」の関連活動として、22年ほど前に小澤征爾が長野県奥志賀高原に立ち上げた(弦楽)クヮルテットの勉強会━━それがこの「小澤国際室内楽アカデミー」である。
 今日はその発表演奏会とでもいうべきもので、日本だけでなく、韓国、中国、台湾からも参加している19歳から28歳までのアカデミー生たちが、それぞれ組になって室内楽を演奏するという仕組だ。ベートーヴェンの「4番」と「セリオーソ」、シューマンの「1番」、ドビュッシーの「ト短調」、チャイコフスキーの「3番」の各弦楽四重奏曲、それにドヴォルジャークの「弦楽五重奏曲第2番」の中から、一つ乃至二つの楽章を取り上げている。

 とにかく、みんな上手い。すでにいろいろなコンクールなどで入賞したり、内外の音大で学んでいたりしている若者たちばかりだから、個々の水準も高い。このアカデミーで、彼らがアンサンブルをみっちりと学べるのは、大いに意義のあることだろう。
 また、今日の演奏者たちは、圧倒的に女性たちが多い。しかも、元気のいい演奏をするのも女性奏者に多いという傾向がみられるようである。私の印象では、「セリオーソ」を演奏した組と、ドヴォルジャークを演奏した組とが、活気のある音楽で好感が持てた。

 最後の方では、「サイトウ・キネン」のテーマともいうべきモーツァルトの「ディヴェルティメントK.136」の第1楽章が、全員の弦楽合奏により指揮者なしで演奏された。
 そして大トリでは、ついに小澤征爾御大が登場して、みずからベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第16番」の第3楽章(レント)を指揮。その途端に弦楽オーケストラの演奏には、とてつもない深みと力と、壮大な気宇が満ちて行ったのだった。小澤さんがすこぶる元気そうに見えたのは嬉しいことである。
 なお演奏には、アカデミーの教授でもある原田貞夫(チェロ)、川本嘉子(ヴィオラ)、ジュリアン・ズルマン(ヴァイオリン)も加わっていた。

 それにしても、今日のお客は、「身内」ばかりだったのか?

2018・7・30(月)ミンコフスキ指揮OEK「ペレアスとメリザンド」

      石川県立音楽堂  6時30分

 新千歳空港から2時40分頃フライトのANA1174で、小松空港に4時15分頃着。金沢駅前には5時10分頃に着けたのは幸いだった。投宿先のANAクラウンプラザホテルで一息入れたのち、隣接する県立音楽堂に向かう。やはり、ここも猛暑だ。

 これはオーケストラ・アンサンブル金沢の定期公演。この秋に芸術監督に就任するマルク・ミンコフスキが指揮、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」をボルドー歌劇場で上演されたプロダクションで演奏するというのが話題になっていた。

 配役は、ペレアスをスタニスラス・ドゥ・バルベラック、メリザンドをキアラ・スケラート、ゴローをアレクサンドル・ドゥハメル、アルケルをジェローム・ヴァルニエ、ジュヌヴィエーヴをシルヴィ・ブルネ=グルッポーソ、イニョルドをマエリ・ケレ、医師と牧童をジャン=ヴァンサン・ブロ。合唱と助演は、日本勢が担当している。
 演出と舞台装置はフィリップ・ベジアとフローレン・シオー、衣装はクレメンス・ペルノー、照明はニコラ・デスコトー、映像がトマス・イスラエルというスタッフだ。

 東京公演はもう少し簡略化した舞台で上演するらしいが、ここ石川県立音楽堂での上演は、セミ・ステージ形式ではない。私はボルドー歌劇場での公演には接していないので、どの程度共通しているのかは判らないけれども、とにかくきわめて個性的な舞台演出を伴ったオペラ上演である。

 舞台中央に、アビゲイル・ヤングをコンサートマスターとするオーケストラ・アンサンブル金沢が位置する。
 歌手たちは、舞台奥に設置された一段高いステージ(主として城の内部の場面がここで描かれる)と、さらにその上方の高所(城の地下の洞窟の場など)、舞台上手寄り手前に設置されたスペース(森の中の場面、海岸の洞窟、城の庭の泉の場など)、オーケストラの前面(その他の場面)で演技を繰り広げる。

 舞台には助演者も多く登場、侍女たちだけでなく、たとえば嫉妬に狂ったゴローがメリザンドに暴行を加える場面などでは、大勢の助演者たちは恐怖に慄いたり、彼を止めようと必死に試みたりする演技も行なわれる。
 また舞台奥や、舞台手前に設置された紗幕にはさまざまな映像が投影されるが、この手前の紗幕は全部左右に開かれたり、上手側の紗幕のみは中央まで閉じられたりするので、それがまた映像の複合的な効果を生み出し、すこぶる幻想的な美しさをつくり出していたのである。

 舞台は概して暗く、遠方の席からは目を凝らして視なければならない。しかしそのヴェールのかかったような舞台群が、この物語の極度に謎めいた、論理的には説明し難いような内容と、見事に重ね合わされていたことは確かであろう。その中に、中央に位置するオーケストラの譜面台の灯が放つ赤色系の光が、周囲との不思議な対比をなしているのだった。
 なお、投映されるデフォルメされた森の木々、暗い海、人物の顔といった映像の数々や、助演者が手で開け閉めする前面の紗幕などには多くの意味が込められていることが理解できるが、それらについてはもう少し綿密に考えてみる必要がありそうである。

 歌手たちは、全員が素晴らしい。
 メリザンドは、歌詞の内容とは裏腹に、歌唱はどちらかと言えばリアルで、明確で強い意志を備えた女性といった表現だが、これは指揮者の注文か、それとも演出家の意図か。そういえば、登場人物のほぼ全員が明晰な人物像を表現して、舞台にドラマティックな、緊迫した構図を生み出していたことも特徴だったといえよう。

 その劇的な緊迫感を、音楽でつくり出していたのが、マルク・ミンコフスキである。所謂「フランス印象派」の幻想的とか夢幻的とかいったイメージだけにこだわることなく、要所では音楽を激しく昂揚させ、たとえば第3幕でゴローが息子イニョルドに命じてペレアスとメリザンドの部屋を覗き見させる場面などでは、歌とオーケストラとをこの上なく荒々しく強調していた。
 しかし一方、叙情的な場面も鮮やかで、特に第1幕冒頭、あるいは第5幕などは、まさにこの世のものとは思えぬほどの美しさをつくり出していたのだった。
 彼の指揮に応えて、このような演奏をしたOEKも見事というほかはない。ミンコフスキとOEK、いい組み合わせと思われる。
 力作の企画は、大成功であった。

 なお、演出家のノート(プログラム冊子掲載)をあとで読んでみたら、今回は珍しくもドビュッシーの「創作時のオリジナル版」を使用する━━つまり「舞台転換のために間奏曲を長いものに書き換える以前の稿」を演奏する、とあった。私も実はうっかりしていたのだが(このへんが、トシを無視して強行軍で転戦したことの悪影響である)この詳細については、東京公演でもう一度確認してみたい。

 休憩は1回、第3幕のあとにおかれた。演奏が終った時には、場内は拍手もまばらで、金沢のお客さんはどうなっているんだろうと心配になったが、全曲が終ってからの拍手とブラヴォーはひときわ盛んで、大いに盛り上がっていたのには安心した。
 ちなみに正面2階席の下手の方に、歌手の1人ずつに対し、声をからしてブラヴォーを叫び続けている人がいたが、ミンコフスキが指揮台上にあったスコアを胸の前で掲げてみせた時には、感激をこらえ切れぬような口調で、何と「ドビュッシー、ありがとう!」と叫んだのであった。随分、純粋な方だと畏敬するが、横で聞いていると、何となく照れてしまう。

 休憩1回(20分)を含め、終演は9時45分頃になった。
   別稿 モーストリー・クラシック11月号 公演Reviews

2018・7・29(日)PMF GALAコンサート

      札幌コンサートホールkitara  3時

 郡山市内、前夜からの雨もあがって、大きな虹が出た。それでもやはり暑い。
 早朝、福島空港に向かう。相当な距離だ。とにかく9時45分のANA1113便に乗って、11時15分に新千歳空港に着く。札幌市内はすでに快晴、こちらも猛烈に暑い。札幌の夏は爽やかで快いなどという話は、もう過去のものになったのか。

 7月5日から始まっていた恒例のPMF(Pacific Music Festival)の、今日は札幌でのファイナル・コンサート。3時に開演し、7時に終演するという盛り沢山のプログラムだ。

 第1部では、マルタン・グレゴリウス(kitaraの専属オルガニスト)による即興演奏に続き、天羽明惠がバーンスタインの「キャンディード」からの「着飾ってきらびやかに」を歌い、PMFアメリカのメンバーがハイドンの「弦楽四重奏曲ニ長調Op.50-6」第4楽章を演奏し、PMFヴォーカル・アカデミーのメンバーがヴェルディの「トロヴァトーレ」からの「ルナ伯爵とレオノーラの二重唱」と、ベルリーニの「ノルマ」からの「和解の二重唱」を歌い、休憩を挟んで、安楽真理子(METオーケストラ)がドビュッシーの「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」を演奏し、最後に田中カレン編曲の「PMF賛歌」(ホルストの「木星」の編曲)が聴衆の大合唱で歌われるという具合である。

 このうち、オルガン・ソロと室内楽および以外ではダニエル・マツカワ指揮のPMFオーケストラが協演、最後の「賛歌」だけは、PMF芸術監督ワレリー・ゲルギエフが指揮していた。
 安楽真理子のドビュッシーは、賑やかなフェスティヴァル中における一服の清涼剤のように美しい。また、オペラの二重唱を歌ったヴォーカル・アカデミーの4人は、ルナ伯爵がインコン・チェン、レオノーラがソルア・ユー、ノルマが水野亜美、アダルジーザがニル・リウという顔ぶれで、ここPMFではガブリエッラ・トゥッチ(懐かしい!)の指導を受けたそうだ。みんな声が美しく、研鑽を積めば充分に伸びる人たちではないかと思う。
 ただ、ダニエル・マツカワの指揮に明快なリズム感が著しく不足しているため、音楽の構築性や、特にオペラではたたみかけるリズム感などが生まれず、ソリストたちは、多分持てる力の半分も発揮できなかったのではないかと思われる。

 第2部が始まったのは5時ちょうど。こちらはゲルギエフが指揮するPMFオーケストラの本格的な演奏会だ。
 1曲目に予定されていたモーツァルトの「オーボエ協奏曲」が、ソリストのユージン・イゾトフ(サンフランシスコ響首席)が手を怪我したため、ヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」序曲に変更になった。量感はあったものの鷹揚な演奏で、演奏会の幕開けの景気づけ程度といった感だったが、広島(31日)東京(1日)の公演でも取り上げられるのであれば、ゲルギエフの指揮だし、しっかりしたアンサンブルになって行くだろう。

 バーンスタインの「ハリル」は、デニス・ブリアコフ(ロサンゼルス・フィル首席)の見事なフルート・ソロと、弦楽を中心とした小編成のオーケストラの音色の柔らかさもあって、静謐で叙情的、かつ瞑想的な曲想が、この上なく美しく再現されていた。何人かの知人が「まるでタケミツ!」と感嘆していたのもむべなるかな、という気がする。

 後半のマーラーの「交響曲第7番《夜の歌》」は、驚異的な素晴らしさだった。練習回数もそうは多くなかったはずだし、アンサンブルもそれほど完璧ではなかったにせよ、音楽が決して無機的にならず、しかも楽章を追って演奏が精度を増し、フィナーレの燃え立つような熱狂に導かれて行ったのは、さすがゲルギエフというほかはない。

 何より感心させられたのは、この交響曲の演奏にとかくありがちな散漫さに陥らず、中間の3つの楽章と終楽章とがさほど大きな落差を生むことなく、実に自然に結びついていたという印象を生んでいたことであった。第4楽章のあとにアタッカで開始されたフィナーレのティンパニの爆発への移行も自然であり、所謂「躁鬱症的な、異常な感情の揺れ」を━━良いか悪いかは別として━━ほとんど露呈させなかったのである。

 フィナーレのテンポは、これまでナマで聴いたいかなる演奏よりも速く、疾風怒濤といった趣だったが、オーケストラは、それはもう巧かった。ティンパニのデイヴィッド・ハーバート(シカゴ響首席)の妙技は圧倒的だったし、トランペット群も爽快な響きで、過度に大きな音量になることなく、しかも明快強烈に、鋭く存在感を主張していたのだった。この演奏は、広島、東京と公演を重ねて行くうちに、さらに磨かれて行くだろう。

 終演は予想より早く、7時となった。第1部での客席は7~8割の入りだったが、さすが第2部ではほほ満席。
 夜になると、空気も少しは爽やかになった。「リッチモンドホテル札幌駅前」に泊。

2018・7・28(土)加藤昌則:オペラ「白虎」再演

    会津風雅堂  2時

 台風の接近で雨が時々激しく降る東京を早朝に離れ、東北新幹線と磐越西線を乗り継いで会津若松に入る。
 会津若松にはこれまでにも何度となく訪れているが、たいていはクルマで往復していたので、列車を利用したのはこれが2度目か。今はこの磐越西線も、郡山から会津若松まで66分ほどで行ける快速が走っていたりして、昔━━というのは実は30年前の話だが━━に比べ、随分早く行けるようになった。現地は、昼頃にはわずかに雨模様だったが、直ちにカンカン照りに替わる。暑い。

 オペラ「白虎」(宮本益光台本、加藤昌則作曲)は、2012年7月にプレミエされたものである。
 その7月27日の公演を観て大いに気に入り、詳しく書いているので、内容の詳細については重複を避ける。今年が戊辰戦争からちょうど150年ということもあって、再演の運びとなったと聞く。
 オペラの中でも盛んに繰り返される例の会津の「什の掟」も━━「虚言を言ふことはなりませぬ。卑怯な振舞をしてはなりませぬ。・・・・ならぬことはならぬものです」という言葉も、プレミエの翌年にあの大河ドラマ「八重の桜」が放映されたこともあって、いっそう広く知られるようになっただろう。もっとも、会津の人たちは、だれでも知っている言葉だろうけれども。

 今回上演された「白虎」は、もちろん前回と同じプロダクションである。
 岩田達宗の演出と、増田寿子の舞台美術、石川紀子の照明、半田悦子の衣装。前回より流れがよくなり、またドラマも明快になっているような印象を得たので、いくらか手直しが行われたのだろうと思う。指揮も同じく佐藤正浩で、プロの奏者を集めた「オペラ白虎特別編成オーケストラ」がピットに入っている。

 主役4人のうち、3人はプレミエ時と同様である。
 西郷頼母を歌い演じる黒田博は前回同様、貫録と風格充分の演技と歌唱で、命を無駄にするなと説得するヒューマンな苦悩の武士を見事に演じている。
 西郷千重子を歌い演じる腰越満美も、武士の妻としての誇りを保ちつつ、心ならずもわが子たちを手にかける悲劇の母を実に素晴らしく歌い演じていた(この場面では、客席ですすり泣いていた観客もいた)。
 高橋啓三の飯沼貞雄(高齢となってからの飯沼貞吉)も、すこぶる味のある老人役の演技と歌である。みんな見事な当たり役だ。泰西のオペラの形式の舞台と雖も、日本人が日本人を演じた時の絶対の強みを、ここでもいっそう強く感じることになる。

 一方、このオペラの中心人物、飯森山で自決した白虎隊士グループのただ一人の生存者、飯沼貞吉を歌い演じたのは━━プレミエ時には経種康彦だったが、彼は先年若くして惜しくも世を去ったので、今回は藤田卓也が受け持ち、体当たり的な歌と演技で、主人公としての責任を果たしていた。
 なお藤田は、こともあろうに「長州出身」だというので、関係者の間では、それがいいネタになっていたという話だ。だがもちろん観客からヤジが飛ぶようなことも、彼への拍手が弱まるということも一切なかった。

 合唱は前回同様、福島の合唱団である。会津若松市立第一中学校、同第四中学校、福島県立葵高等学校、同会津学鳳中学校高等学校、会津若松ザベリオ学園高等学校の各合唱団・合唱部に、多くの一般参加の合唱団員、賛助出演として少人数の国立音大のメンバーが参加している。合唱指揮は辻博之。
 フクシマの合唱と言えば全国に名の轟く存在で、前回の上演の際にもその緻密なバランスの良さに舌を巻いたものだが、今日は初日の所為か、細部のまとまりにおいて些か欠けていたようであった。

 とはいえ、手前の紗幕の陰に位置して西軍の合唱モティーフ(「宮さん宮さん」)を威嚇的に歌う合唱団員の、拳を振り上げ足を踏み鳴らす演技はなかなかの迫力(特に上手側最前列中央寄りに位置した団員の演技には熱が入っていた)であり、舞台奥に位置して「什の掟」を歌っていた白装束の少女団員達も、清らかで美しい。

 こういうオペラを、他所ならぬ会津で観ていると、さまざまなことを考えさせられる。卑怯者と呼ばれることを肯ぜず、誇りを以って戦い、国に殉じようとする人々。あるいは、このような戦争を無意味と考え、生きることの大切さを主張しつつも、やむを得ずその渦の中に呑み込まれて行く人々など。
 ━━当時の会津藩にもさまざまに意見を異にした人たちがいたことは、この物語ならずとも、ほかならぬその戦のさなかに典医として会津城内にいた私の祖父たちが残した記録にも語られている。私の祖父は、どうもその合理主義的な考えを持つグループ━━つまり反戦派に属していたらしいから、その立場は非常に微妙なものがあっただろう。いつの世にも、戦争という状態の中では、このような葛藤が生まれる。太平洋戦争の時も、全く同じだったはずである。

 郡山に戻り、駅前のダイワロイネットホテルに泊。

2018・7・26(木)中桐望ピアノ・リサイタル

    Hakuju Hall  7時30分

 浜松国際ピアノコンクールで彼女の演奏を初めて聴いてから、もう6年が経つ。
 あの時は、準優勝を飾った彼女のスクリャービンのソナタでの明晰さと伸びやかさ、ブラームスの「協奏曲第1番」での表情の細やかさなどが実に魅力的だった。
 今年5月のリサイタルは残念ながら聴けなかったので、今日のラヴェル、サティ、ドビュッシー、グノーという魅力的なフランス・プログラムを楽しみにしていたのだが━━。

 迂闊ながら、行ってみてから気づいたのだが、これはこのHakuju Hall 名物の「リクライニング・コンサート」だった。例の「聴いていても、寝ていてもいい」という、あれである。
 最後列の席を貰い、椅子を半ばリクライニング状態にしてリラックスしてみると、これはもう、あまりに気持がよすぎて、寝るなという方が無理だ。
 椅子を通常の状態にしておけばちゃんと聴くことはできるのに、場内アナウンスで「椅子はリクライニングできます」と繰り返し言われると、折角だから━━という気になってしまうのが人間の弱いところである。

 コンサートは、彼女の元気のいいトークで始まった。最初のラヴェルの「水の戯れ」もかなり勢いのいい演奏で、もう少し陶酔性があってもいいのに、と思ったり、あれから彼女も変貌して来たのかな、とも思ったりしつつ聴いていた。続く「亡き王女のためのパヴァーヌ」と「高雅で感傷的なワルツ」では、その演奏も次第に細かいニュアンスを感じさせるようになって来たような気がしたが、すみません、そこまでである。

 そのあとのサティやドビュッシーの作品集は、彼女のトークもろとも、リクライニング・チェアに身体を埋めた自分の別種の陶酔のとりこになってしまい━━。隣の席に遅れて来た年配の女性が座り、プログラムをガサガサやっているのにイライラしていた頃には耳も作動していたが、その女性が途中で席を移ってしまい、隣が静かになると、これでもういけなくなった。

 しかし、それでいながら、1時間ちょっと(休憩なし)の演奏会が終ってみると、プログラムの最後に置かれていたグノーの「ファウストのワルツ」(リスト編)が、頭の中でいつまでも、いつまでも鳴り続けている、という状態なのである。全く、人間の脳というものは、おかしなものである。
 とにかく、中桐さん、御免なさい。次は「リクライニング」ではなく、「普通のリサイタル」の時にちゃんと聴かせていただきますので。━━しかしこの「リクライニング・コンサート」というのは、全く、名物だけのことはある。

 さて今週末は、3日間で、会津若松(オペラ「白虎」再演)、札幌(ゲルギエフとPMFオケのフィナーレ演奏会)、金沢(ミンコフスキとOEKの「ペレアス」)と転戦する予定なのだが、突然の台風襲来とあっては、うまく空路移動できるのかどうか?

2018・7・22(日)佐渡裕オペラ 「魔弾の射手」3日目

      兵庫県立芸術文化センター  2時

 今日の主要キャストは、トルステン・ケルル(マックス)、高田智宏(カスパル)、ジェシカ・ミューアヘッド(アガーテ)、小林沙羅(エンヒェン)、ベルント・ホフマン(クーノー)、小森輝彦(オットカール)、妻屋秀和(隠者)。なお清水徹太郎(キリアン)とペーター・ゲスナー(ザミエル)は全日出演となっている。

 演出のこと、指揮とオーケストラのこと、については昨日ほぼ全部を書いた。
 今日はマックス役の歌手のせいもあったかもしれないが、「狼谷の場」で彼が逡巡する部分の音楽だけが些か生気を失っていた印象があったけれども、全体から見ればごく些細な瑕疵に過ぎないだろう。

 またドラマの大詰場面で、アガーテはじめ一同が見守る中、隠者がマックスを連れて何処へか去って行くという設定は、「1年の猶予期間」という言葉の重みを感じさせ、良い余韻を残す手法だと思われた。もし全員が舞台に定まりの型で並んだだけで幕が降りたとしたら、非常に凡庸な大団円という印象に終っただろうから。

 歌手陣のこと。
 マックス役のトルステン・ケルルは、昔ほどの馬力はもう望めないのかもしれないが、独特の巧味とベテランらしい雰囲気は相変わらずだ。愛嬌のある顔立ちだから、マックスも好人物に見える。

 一方、嬉しい驚きは、カスパルを歌い演じた高田智宏である。張りのある強靱な声と、メリハリのある歌唱とセリフ回しとで、悪役の狩人を見事に表現した。キール歌劇場でもう10年以上も前から歌っていて、キール市の宮廷歌手の称号をも得ている人だが、私も彼をこの「佐渡オペラ」の「椿姫」のジェルモン役(2015年7月15日の項)や「フィガロの結婚」のアルマヴィーヴァ伯爵役(2017年7月15日の項)で聴き、その都度絶賛を繰り返していたことを思い出した。昨日のジョシュア・ブルームに勝るとも劣らぬカスパルである。今日の舞台を引き締めた立役者と言えるだろう。

 小林沙羅も、軽快明朗な役作りと、強いメリハリをつけたドイツ語の発音で活躍した。セリフや演技に力が入り過ぎていた印象もなくはなく、「いつも躍起になっているエンヒェン」という感もあったが、これは、すぐ落ち込むアガーテを一所懸命に鼓舞している陽気で頭の回転の速い従妹━━というイメージには合っていただろう。その快活さは好ましく、場面全体に明るさを生み出していた。
 昨日のローゼンドルフスキーとは異なるタイプのエンヒェンだが、今回のこの役の2人の歌手はいずれも好感が持てる。

 そのアガーテを歌ったのはミューアヘッドだが、昨日のハゴピアンと同様、ちょっともどかしいところがある。が、のべつ落ち込んでいるこの役柄の表現としては、これでもいいのかもしれない。
 クーノーを歌い演じたベルント・ホフマンは落ち着いた風格で、立派な森林保護官を演じ、キリアン役の清水徹太郎は元気のいい農夫役で冒頭シーンを活気づけた。

 第3幕になって登場するオットカール役の小森輝彦は、狩の衣装のようなものが、あまり領主という偉い役柄のイメージに見えず(ドイツ人には解るのかもしれないが)、せっかくの芝居巧者が少々損をした感もある。
 一方、隠者役の妻屋秀和は、堂々たる体躯と重みのある声で一同を圧し、筋書をひっくり返してしまうこの役にはうってつけだ。
 テンメ演出におけるこの二つの役柄はごくオーソドックスなスタイルで、観ていると一種の安心感が伴うのだが、しかしどうも━━時々あのコンヴィチュニー演出における「やくざみたいな領主」と、「客席から出て来てもっともらしく道を説く、大資本家のスポンサーたる隠者」の変な姿が頭の中に蘇り、比較してしまい・・・・。コン様の毒気はやはり強烈だった。

 ともあれ、日本では滅多に上演されない「魔弾の射手」を、それも二つのプロダクションで集中的に体験できたのは有難い。これは東西「魔弾」の対決という、公演評には絶好の素材となった。
 ストレートなテンメ演出と、捻ったコンヴィチュニー演出、どちらも好いところがあり、続けて観ると、物語をある意味でウラオモテから読むといった思いにもさせられ、また各々が「補完」し合うような存在にも感じられたのである。得難い数日間だった。
   (別稿)モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

2018・7・21日(土)佐渡裕オペラ  ウェーバー:「魔弾の射手」2日目

      兵庫県立芸術文化センター  2時

 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2018、ウェーバーの「魔弾の射手」。
 きのう初日を開け、7月29日までの間に計8回上演という、この劇場ならではの強気の興行。一番高い席を除いてほぼ完売状況というからたいしたものだ。

 演奏は、佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団(PAC)とひょうごプロデュースオペラ合唱団。歌手陣はダブルキャストで、今日の出演は、クリストファー・ヴェントリス(マックス)、ジョシュア・ブルーム(カスパル)、カタリーナ・ハゴピアン(アガーテ)、マリア・ローゼンドルフスキー(エンヒェン)、鹿野由之(クーノー)、町英和(オットカール)、斉木健司(隠者)。なお、清水徹太郎(キリアン)、ペーター・ゲスナー(ザミエル)は全日出演である。
 演出はミヒャエル・テンメ、装置と衣装はフリードリヒ・デパルム(ウィーン生まれだというから「デスパルメス」かと思っていた)、照明と映像がミヒャエル・グルントナー。

 こちらは、歌唱もセリフもドイツ語による上演だ。そのセリフ回しのテンポの速さ、ドラマ全体の流れの良さ! 東京のコンヴィチュニー演出の日本語のそれとは格段の差で、これだけでもどんなに気持がいいか。

 そして、コンヴィチュニー版とは対照的に、こちらはごくストレートな演出である。ドイツの30年戦争が終った直後の時代を題材にしているという例の解説も、スクリーンに投映されていた。だがこれは、日本などで上演される場合、あまり実感が伴わないし、実際の舞台でも大して意味をなさないだろう。ただし衣装は、そういう時代を連想させるものであるのは確かである。

 序曲の間に、ならず者のカスパルに襲われたアガーテをマックスが救ったり、彼女が隠者からバラの花束をもらったりする「前史」の光景が挿入されていたので、少し捻った演出になるのかなと思わせたが、その後の演出は、ほぼ伝統的なスタイルに拠ったものになっていた。
 冒頭の行進曲を舞台上で演奏する楽団は、「悪魔の楽団」ではなく、まっとうな「農民の楽団」だし、合唱部分では全員が客席に向いて立つ所謂「定まりの型」になる。
 演技も、コンヴィチュニー演出ほど微に入り細に亘るものではなく、概して伝統的な範囲にとどまっており、ト書きに忠実である。この辺は、安心感を抱く人もいるし、物足りなく思う人もいるだろう。私は何となく、一昨日の「補完」のようなイメージで舞台を眺めていたのだが・・・・。

 こちらの「隠者」は、名刺をばらまくビジネスマンなどではなく、ト書きに近い中世の「謎の僧侶」とでもいう姿。悪魔ザミエルも、もちろん宝塚調などではなく、映画「ノスフェラトゥ」に出て来る怪優クラウス・キンスキー扮するドラキュラの如き風貌の化け物である。
 「狼谷の場」後半では黒衣の者たちのダンスが主体となるが、最後に黒衣のドラキュラが,いやザミエルが地上から空中高くせり上がって行くシーンは、なかなか見栄えのするものであった。

 なお、全曲幕切れは、1年の「猶予期間」を与えられたマックスがアガーテを残し、村人たちに見送られ、隠者に従って舞台奥へ去って行くという光景で、これは「タンホイザーのローマ巡礼行」を連想させる。ともあれ温かい雰囲気の大団円で、この劇場のお客さんにはこういうエンディングがよく似合うだろう。

 佐渡裕は、PACのオーケストラから、序曲などで堂々たる厚みと重量感のある音を響かせ、ウェーバーの音楽をスケール感豊かに再現していた。
 とはいえ、ドイツ・ロマン派オペラの特質たる音楽の神秘性・怪奇性などの点からいえば、東京二期会公演でのペレス指揮の読響による演奏と比較すると、残念ながらどうも味が薄い。活気のある場面ではそれも悪くないが、「夜」や「魔性」をイメージとする場面であまり凄みを感じさせなかったのはそのためであろう。

 だが、「狼谷の場」で、ザミエルが「6発までは命中だが、7発目はお笑いだぞ」とすごむ場面のセリフ「Sechse treffen! Sieben ãffen!」が、全く譜面通りに、ティンパニおよび低弦のピッツィカートのリズムと合わせて発音された例を、私は昔のヨッフム指揮の録音以来、今日は久しぶりに━━もちろんナマ上演では初めて━━聴くことができた。
 これは、本当によくぞやってくれました、と申し上げたいところだ。この個所は、言葉と音楽とを完全に一致させた例として、大変重要なところだと私は思うのだが、・・・・残念ながらこれまで接したどの上演、どの録音でも、ザミエルは音楽のリズムと関係なく喚くか、怒鳴るかするばかりだったのである。

 それともう一つ、今回は第3幕がいきなり第2場のアガーテの「カヴァティーナ」で開始され、第3幕前奏曲は「花嫁の合唱」と「狩人の合唱」との間の舞台転換の時間稼ぎ(?)の「間奏」に持って行く、という方法が採られていた。
 この幕を「カヴァティーナ」で開始するのは、これもヨッフム盤で使われていたやり方で、それ自体は悪くはないだろう。が、一方、その前奏曲で繰り返された「狩人の合唱」のホルンのモティーフが、すぐまた本番の合唱曲で始まるというのは、ちょっとくどくなるような感じもする。

 最後に歌手陣だが、こちらは素晴らしい。マックス役のヴェントリス、カスパル役のブルーム、いずれも声がドラマティックでビンビン来るし、2人のセリフの応酬場面もすこぶる迫力に富む。また女声2人のうち、アガーテ役はちょっと不安定だったが、エンヒェン役のローゼンドルフスキーの闊達な歌唱表現と、地声に近い自然で明解なセリフ発声は、実に素晴らしかった。
 その他の日本人歌手も同様に好演を繰り広げてくれた。明日の組は、どんな具合になるだろう。

 終演は5時10分前くらいか。観客は大波の如く阪急電車の西宮北口駅に向かって引き返す。
     ☞(別稿)モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

2018・7・20(金)尾高忠明指揮大阪フィルのベートーヴェン交響曲ツィクルスⅢ

     フェスティバルホール  7時

 西宮では「佐渡オペラ」の「魔弾の射手」が今日のマチネーで初日を開けているが、関西までやって来てこの猛暑の中をダブルビルで、というエネルギーは私の中ではもう薄れている。そこでともあれ、今日はベートーヴェンと尾高&大フィルに敬意を表して━━というわけで、夜のコンサートだけを選んだ。
 このツィクルスを聴くのは、5月17日の第1回以来になる。今日の「第3回」は、「第6番《田園》」と「第5番《運命》」である。

 予想された通り、大阪フィルは、尾高忠明の指揮のもとで新しい境地を開きはじめたように感じられる。
 この十数年ばかり、大阪のオーケストラを比較的多く聴く機会があったが、概してアンサンブルに難があり、演奏が粗いと感じられることもしばしばだった。だが今日、2か月ぶりに聴いた大阪フィルは、アンサンブルも整備され、バランスもよく、オーケストラの基本姿勢を取り戻していたように思われたのだ。16型編成の弦楽器群と、基本2管編成の管楽器群との均衡も充分なものだった。

 たしかに、「田園」第1・第2楽章での音の柔らかさ、ふくよかさは、これまでの大阪フィルからはあまり聴かれなかったような気がする。また「5番」での全管弦楽の激しい昂揚の瞬間にあっても、オーケストラの音は破綻を見せず崩れず、以前しばしば聴かれたような乱暴でがさついたアンサンブルに堕すことはなかったのである。
 こういう基本のフォルムが確立されてさえいれば、その上にたとえどんな暴れる(?)指揮者が客演しても、大丈夫なのではないか。

 今日の大阪フィル(コンサートマスター崔文洙)は、弦もたっぷりと豊潤に鳴っていたが、特に「田園」では、木管も細やかに歌っていた。カーテンコールで指揮者は「立たせて拍手を享けさせる」対象から何故か1番フルートの女性奏者を外してしまっていたようだが、彼女のソロも大変美しかった、と私は思う。

 尾高忠明の指揮は、奇を衒わず、誇張を避け、正面から作品と向き合う姿勢に徹しているといえよう。今日の2曲もそうした演奏だった━━もっとも「5番」の最後の和音でティンパニを猛然とクレッシェンドさせる大芝居(?)もあったけれども━━が、全曲を統一する均衡性、決して無機的にならないあたたかさに満ちた表情、そして「5番」第4楽章の展開部などに聴かれた壮絶な力感などは、やはり卓越したものといって間違いはない。
 こうした音楽監督を中心として、多彩多様な客演指揮者を散りばめるという大阪フィルの方針がどのような成果を生むか、注目したいところである。
 
 ※尾高氏は、眼の病と手術のため1週間前の群響客演を降板していた由。大事を取ったおかげで「もう何とか大丈夫」と語っていたが、楽屋では何となく眼をしょぼしょぼさせていた。御自愛されたし。

2018・7・20(金)番外編 「魔弾の射手」と「タカラヅカ」

 東京二期会の「魔弾の射手」の悪魔ザミエル役として、宝塚の元トップスター、大和悠河が出演していることはこれまでにも書いたが、明らかにヅカ・ファンと思われる一団が客席に来ていたことは、彼女に対する拍手のタイミングなどで見当がついた。
 これを機会に、ヅカ・ファンもオペラを観るようになってくれれば有難い━━とはオペラ側の人間から言えばそうなるのだが、逆にタカラヅカ側から言えば、これでオペラ・ファンも「宝塚」を━━ということにもなるのだろう。

 そういえば今日の午後、大阪に来て、ホテルで何の気なしにTVをつけたら、地上デジタル放送の中に「タカラヅカ・スカイ・ステージ」というチャンネルがあるのを見つけた。
 これは24時間、宝塚のスターたちが出演してトークをやったり、ステージ紹介や上演案内をやったりしているテレビ放送の由。なるほど、大阪というところはこういう世界なのか、と大いに感心した次第である。

 私はこれまで、「宝塚」には全く関心はなかったし、スターの名前すら知らないほどだった━━もちろん宝塚「出身」の有名な女優さんたちのことくらいは知っているけれども━━が、あの二期会の「魔弾の射手」に大和悠河さんが特別出演していたおかげで「タカラヅカ」をほんの少しだが知り、この「タカラヅカ・スカイ」なるテレビ番組を、わずかの時間ではあったがものの、感心して眺めるきっかけになったのは事実なのである。
 とはいえ、私のトシで、今さらタカラヅカの舞台を観に行く気は、とても起こらない。だが、若い人たちの中には、いるかもしれない。いずれにせよ、やはりこういうクロス・ジャンルの手法は役に立つ、と言えるだろう。

 話は前出の宝塚専門チャンネルTVに戻るのだが、これはなかなかファンの興味をかき立てる存在であろう。東京でも、クラシックのオペラ団体やオーケストラや劇場が協力して、合同でこういうテレビ・チャンネルあるいはネットのサイトを設け、トークやライヴなどを派手に紹介してPRに役立てる、という方法はないものか?

2018・7・19(木)東京二期会 ウェーバー:「魔弾の射手」2日目

       東京文化会館大ホール  2時

 大和悠河(悪魔ザミエル)とナオミ・ザイラー(ヴィオラ奏者・悪魔)は昨日と同じだが、その他の主演歌手たちは、今日は小貫岩夫(マックス)、北村さおり(アガーテ)、熊田アルベルト彩乃(エンヒェン)、加藤宏隆(カスパール)、伊藤純(クーノー)、藪内俊弥(オットカール)、小鉄和広(隠者)、杉浦隆太(キリアン)という顔ぶれ。

 昨日、散々不満を述べたセリフ回しに関しては、今日も全く同じであった。特に女声歌手2人の、それも特にエンヒェンの甲高い声と間延びしたテンポによる不自然なセリフ発声には、いくら何でももう少し普通に喋れないのか、いつまでこんな時代遅れのスタイルを続けているのか、と言いたくなる。第3幕では、聴いているのがもう苦痛にさえなったほどだ。

 しかしこれは、昨日も書いたことだが、コンヴィチュニーから要求されたセリフのテンポから生じた悪癖━━ということもあるかもしれない。彼女たち以外にも、女性の声でのセリフ(効果音的セリフも含む)にも、同じようなことが言えたからだ。
 男声歌手陣のセリフに関しては、昨日よりも自然な度合いが増して、聞きやすくなっていた。

 いずれにせよ、原語の歌唱と日本語のセリフを組み合わせる上演は、最近だんだん増えて来ているし、これからもっと増えるかもしれない。日本語のセリフ回しまで管理しようという外人演出家が他にいるとは思えないが、もし今回のようなケースだった場合には、日本語のセリフ部分に関しては、共同演出として、同等にものが言える日本の優れた演出家を起用していただきたいものである。

 セリフ回しに関しては、不本意ながら酷評してしまったが、しかし歌唱に関する限りは、エンヒェンもアガーテも、今日は大いに気を吐いていたのである。
 第2幕での2人のそれぞれの歌は美しかったし、特にエンヒェン役の熊田アルベルト彩乃は軽快な声の裡にも力強い張りが感じられ、今後に多大な期待を抱かせる。ただし2人とも、第3幕ではなぜか歌唱が少し粗くなってしまった。

 アレホ・ペレスの指揮と読響の演奏、二期会合唱団に関しては、昨日に同じ。この指揮者はなかなかいい。

 演出はもちろん、ほぼ昨日と同様である。
 第1幕での、農夫キリアンと村人たちによるマックス揶揄の場面は活気があって面白いし、第2幕の「狼谷の場」は、メカニックな舞台装置を駆使していたのが成功していた。ただ、第1幕最後の「カスパルのアリア」を場面転換として使ったことは、この歌の悪魔的効果を弱める結果となっていたように思われる。

 悪魔ザミエルを演じる大和悠河は、昨日と同様に華麗な舞台姿を見せ、1階最前方に席を取ったヅカ・ファンらしいグループの拍手や歓声を浴びていた。彼女のような「舞台の華」ともいうべき存在感の創り方は、オペラ歌手たちにも、もっと真似してもらってもいいのではなかろうか? 
 ただし、「狩人の合唱」の前での一連の彼女のセリフ展開のうち、「ラ・ラ・ラ」と繰り返す意味が、あれでは少々解り難い。むしろハンブルク演出版と同じように、それが「狩人の合唱」の歌詞「ヨッホ・トララララ」をもじったものであることをもっと明確に打ち出した方が、お客さんにも解り易くなって、受けたのではないだろうか。

 一方、全曲大詰の幕切れは、「悪魔ザミエル」と「隠者」とが名刺交換をしてビジネスの交流をはかるというオチの場面が昨日よりは明確に出ていて、コンヴィチュニーの狙いがよく解るようになっていただろう。

 終演後には、演出家によるアフタートークが行なわれ、1階席には結構な数の客が残って、蔵原順子さんの明快な通訳に助けられながら、彼の話に聞き入った。
 話の内容は、大体先日のドイツ文化センターにおけるプレトーク(6月27日の項)のそれと基本的に同じものだったが、彼の話はいつもポイントが少しずつあちこち移動して行くので、多少ニュアンスが異なるものに聞こえて来る。

 だが、「神の不在の時代に人々はどう生きるべきか、がこの演出の隠されたテーマである」という説明や、第3幕のエンヒェンの「ロマンツェとアリア」でオブリガートを奏するヴィオラ奏者を舞台に上げ、悪魔の分身としての役割を担わせたこと(ハンブルク州立劇場管弦楽団首席のナオミ・ザイラーが、演奏だけでなく、凝った演技をも見せた)の説明などは、集まったお客さんの理解を深めたであろう。
 客席から登場して「ストーリーを強引にひっくり返し」てしまう「隠者」は、喩えて言えばオペラ好きの大スポンサーのような存在であり、資本主義の世の中を風刺したものである、という説明には、客席にも微かなざわめきが拡がったほどである。

 終了直前、最前列の客から、「ドイツとオペラについてどう思うか」などという今日のテーマから外れた質問が出て、進行が停滞したため、早くも見切りをつけた退席者が増え始めたが、ホスト役の多田羅廸夫さん(今回の公演監督)が巧くまとめた。
 コン様の意気に溢れる回答もカッコよかったが、そのあと多田羅さんが「日本のオペラをも盛り上げようではありませんか」と強引に話を切り替え、いつのまにか二期会のPRに持って行ってしまったのには、場内も爆笑と大拍手。さすが公演監督、さながら「隠者」の仕切りの如し。かくして6時閉会。

 東京の「魔弾の射手」は、未だあと2回の上演があるが、私はここまで。次は西宮で明日に初日を迎える「佐渡裕プロデュースオペラ」の「魔弾の射手」である。このオペラ、本当にいい曲だ。
     (別稿)モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

2018・7・18(水)東京二期会 ウェーバー:「魔弾の射手」初日

      東京文化会館大ホール  6時30分

 ペーター・コンヴィチュニーの演出。
 最新の演出ではない━━1999年のハンブルク州立劇場上演のライヴCDがART HAUS MUSICから出ている━━けれども、なかなかいい舞台に出逢わないこの「魔弾の射手」を、一捻りした解釈の演出で観られるのは、有難い。

 その演出に関しては、6月27日のドイツ文化センターでの彼のプレトークの項と、16日のゲネプロの項にも書いたことだが、今回は新機軸として女性に演じさせた悪魔ザミエルを、さまざまな姿で随所に登場させ、カスパルやマックスを操る行動を執らせるのが特徴だ。これは、コンヴィチュニーが「マクベス」で使ったのと同じ手法である。
 ただしその姿は、最初のうちは、悪魔に魂を売った者(カスパル)だけに視えるという設定。その部分だけ観れば、コンヴィチュニーはこのオペラを台本通りに、超自然的な物語として扱っていることになろう。

 第3幕では、魔弾が使われたという不祥事に激昂した領主がマックス追放を命じたところで幕を降ろしてドラマを「仮終結」させ、それを客席で観ていた「隠者」がたまりかねて割って入り、領主がそれに従い、再び幕を開けさせて物語の続きを始めるという手法が使われる。
 これもコンヴィチュニーがよくやるテだが、ここではあの「マイスタージンガー」や「コジ・ファン・トゥッテ」の時のような、音楽を「不当に」ストップさせることがなかったのが幸いだ。

 だがその背広姿の紳士然とした「隠者」が、森に住む高貴な老人というより、ビジネス魂胆のようなものが見え見えの男である━━というオチをはじめ、幕切れ場面がシャンパンだかワインだかのパーティになり、そこまでの超自然的な物語が、いきなり俗界の「こうもり」か「メリー・ウィドウ」の舞台のように変わってしまう━━というのも、コンヴィチュニーおなじみのシャレ。
 彼に言わせれば、これがこのストーリーの本質なのだ、ということになるのだろう。そういうコンセプトは、私は必ずしも好きではないが、しかし、理解はできる。

 演奏と配役は、アレホ・ペレス指揮読売日本交響楽団、二期会合唱団。
 ダブルキャストの今日は、片寄純也(狩人マックス)、嘉目真木子(その恋人アガーテ)、冨平安希子(従妹エンヒェン)、清水宏樹(狩人カスパル)、米谷毅彦(森林保護官クーノー)、大沼徹(領主オットカール)、金子宏(隠者)、石崎秀和(農夫キリアン)、大和悠河(悪魔ザミエル)、ナオミ・ザイラー(ヴィオラ奏者・悪魔)。

 ゲネプロ(16日)の時にも書いたことだが、アレホ・ペレスの指揮が速めのテンポで小気味よく、村人たちの活気あふれる精神を充分に描き出していた。これがドイツの指揮者だったら、弦のトレモロをもっと不気味に響かせ、ドイツ・ロマン派オペラの神秘性をより強く浮き彫りにしていたと思うが、まあそれは仕方がない。テンポをしばしば煽るため、合唱が時について行けぬように聞こえた個所もいくつかあったが、これは上演を重ねれば解決できる問題だろう。
 しかし、読響は、さすがに良かった。その安定したアンサンブルは、このオペラの音楽を安心して楽しませてくれたのは確かである。二期会合唱団も、第1幕と第3幕では━━「花嫁の合唱」を除き━━満足すべき出来だった。ただし「狼谷の場」では、精霊の合唱、魔王の軍勢の合唱ともに、些か頼りなかったのが惜しい。

 ソロ歌手陣に関しては、残念ながら、全体として、あまり満足できる段階には達していなかった、というのが正直なところだ。えらく荒い声で歌っていた男声歌手もいたし、声がさっぱり聞こえて来ない女声歌手もいた。この人ならもっと巧く歌えるはずなのに、と訝しく思えるケースもいくつかあった。何か屈託でもあったのか? 2回目の出番(21日)になれば、もう少しうまく行くのかもしれない。

 ゲネプロの項では書かなかったが、日本語のセリフ回しは、今回は明らかに失敗と思われる。
 せっかく音楽がいいテンポで進んでいるのに、セリフはテンポが遅く、間延びして、緊張感を失わせること夥しい。セリフ部分になると途端に雰囲気がだらけて来て、演劇的な効果をぶち壊してしまうのだ。
 とりわけ日本のオペラ歌手がよくやる、あの頭の天辺から出すような、歌うようなセリフの発声は、ドラマのシリアスな要素を失わせてしまう。特に女声歌手2人━━就中エンヒェン役の歌手のセリフ回しはその最たるものだろう。男声側でも、キリアン役の歌手にその傾向があった。しかも最後の「魔弾」が発射される直前にアガーテが叫ぶ「撃たないで!」の一言など━━それが幻想的な音響で響くのはもちろん構わないけれども━━そのセリフの不自然な間延びなど、聞いていて白けてしまうほどであった。

 ところが二期会に訊くと、このセリフ回しのテンポに関しては、全てコンヴィチュニーの指示によるものだったというから驚く。「なるべくゆっくり、間を取って」話せ、という注文だったそうな。
 コン様は日本語をご存じないのだから、それは無理だろう。それゆえ失礼ながら、セリフの演出においては完全に「失敗していた」と言わざるを得ないのである。
 「間を取ってセリフを言う」のも、歌手陣はあまりうまくできていない━━日本人スタッフがちゃんと演出すれば、最近の歌い手さんたちなら、できるはずなのだが・・・・。今日、それが一番まともに聞こえたのは、宝塚出身の大和悠河だけだったというのも、なさけない話である。但し、第3幕アタマで、PAから流れるマックスとカスパルの対話は緊迫感があって、ここだけはよかった。思うにみなさん、多くの部分では、コン様から要求される演技との絡みを意識して、ぎこちなくなっていたのかな、と。

 第2幕のあとの休憩を含め、終演はほぼ9時半。
    (別稿)モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

2018・7・16(月)東京二期会 ウェーバー:「魔弾の射手」ゲネプロ

      東京文化会館大ホール  5時

 今週は東京文化会館で上演される東京二期会制作の「魔弾の射手」を、A・Bキャスト併せて2回、次いで西宮の兵庫県立芸術文化センターで上演が始まる同劇場制作の新演出「魔弾の射手」をA・Bキャスト併せて2回、取材することになっている。
 それに先立っての今日のゲネプロだから、「魔弾」は計5発ということになる(7発だったら最後の1発はヤバイことになるが、5発なら安全圏内だろう)。

 で、こちら東京二期会のは、あのペーター・コンヴィチュニー演出版によるものだ。18日から4回上演される。
 ピットに入ったのは読売日本交響楽団で、今日のゲネプロでも、予想通り安定した厚い響きを聴かせてくれた。また、アレホ・ぺレスの指揮が速いテンポで煽るように飛ばして行くタイプなので、このオペラの音楽の良さが、本番では小気味よく堪能できそうだ。

 実際このオペラには有名なフシが多いし、ドイツ・ロマン派の真髄ともいうべき神秘的な美しさにも事欠かない。ワーグナーがこの「魔弾の射手」の音楽にいかに多くのものを負うているか、それを聴きとるのも面白さの一つである。
 問題は、セリフまわしなのだが・・・・いや、これは初日の幕が開いてからにする。

 歌唱はもちろんドイツ語だが、そのセリフは日本語。字幕は日本語と英語(!)が付き、日本語の台詞にも英語の字幕が付く。外人観客対応の措置だ。
 原作は3幕制だが、今回は第1幕と第2幕を切れ目なしに上演、スペクタクルな見せ場「狼谷の場面」のあとに休憩が入る。

 演出は、基本的には、あのハンブルク州立劇場上演のライヴ(DVDが出ている)と同じではあるものの、細部は随所に違いがある。特に第3幕は、まさにコンヴィチュニーぶしともいうべき独自の解釈の連続だ。今日はコン様は、一度最後まで上演してから、すべての部外者を強権で(!)客席から退去させ、しかるのちにダメ出しを行なっていた(はず)。

 なお、今回はコン様の提案で悪魔ザミエルを女性が演じるということも大々的にPRされており、元宝塚のトップスター大和悠河が、さすが宝塚出身ともいうべきカッコいい舞台姿を見せる。セリフもある。この「宝塚的悪魔」は、さまざまな姿で随所に登場するので、それを眺めているだけでも楽しい。
 その上、第3幕で悪魔の分身として舞台に現われるヴィオラ奏者ナオミ・ザイラーも映えるから、今回は悪魔の女性2人が見ものということにもなるだろう。

2018・7・16(月)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

     サントリーホール  2時

 アラン・ギルバートの首席客演指揮者就任披露公演、シューベルトの「交響曲第2番」と、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」。

 アランは、都響とは2011年7月(☞17日の項)のブラームスの「第1交響曲」における快演以来、相性のすこぶる良い関係にある人だ。従って今日も、それを知る聴衆から温かく迎えられ、限りない拍手をも浴びていた。演奏も、極めて張りと活気にあふれる充実したもので、新ポストでの滑り出しも上々と思われる。

 「巨人」は、プログラム冊子のタイトル頁に、「今回の演奏楽譜は当初ユニバーサル社ウェブサイトを参照し『1893年ハンブルク稿/花の章付き』と発表しましたが、スコアの表記に従って『クービク新校訂全集版/2014年』と呼称します」とクレジットされている。
 やっぱりそうだろうな、という感だったのは、以前、ヘンゲルブロックが北ドイツ放送響と日本でこれを演奏した時(☞2015年6月4日)にも、「これはハンブルク稿とはいっても、第2ハンブルク稿のようなものじゃないのか」という話が広まっていたからだ。そう、思い出したがこの版は、山田和樹も日本フィルとのマーラー・ツィクルス第1回(☞2015年1月24日)で演奏したことがあった。

 幸い今回は、それについての寺西基之さんの詳細で解り易い解説がついているので助かる。要するに、同じ「━━稿」とひとくちに言っても、当該演奏会直後における作曲者本人による手直しなどがいろいろあるから、甚だややこしくなるのだ。

 で、この演奏、耳に馴染んだ所謂「現行版」と比べながら聴くと、その違いがとてつもなく面白い。管弦楽の扱いも、整理された現行版よりも、もっと濃厚で、野性的で荒々しく、時には雑然としていて、マーラーの最初のアイディアはこうだったのか、と興味が尽きない。以前どこかで聴いた「第1ハンブルク稿」と比べても、なるほどここはこのように手直ししたのか、と感心させられる。

 アラン・ギルバートの指揮は、やや速めのテンポで、しかも昂揚個所ではアッチェルランドを多用して煽りまくるから、テンポやエスプレッシーヴォに関しては、スコアに指定されているのか、それとも彼の解釈なのか、当該スコアを未だ入手していない私には判然としかねるけれども、少なくともオーケストレーションの差異に関しては、「ダイヤの原石」的な味を堪能することができる。

 矢部達哉をリーダーとする都響も熱演を聴かせてくれた。金管のソロの一部には不安定な個所があったものの、木管群は冴えて鋭いソロを聴かせ、第1楽章序奏における舞台裏でのトランペット群とホルン群(!)は爽快な音色のファンファーレを響かせた。「第4楽章」冒頭のコントラバスのソロ━━この稿では、チェロではない━━も巧い。若きマーラーの気負いと情熱とを見事に再現させた演奏と言っていいだろう。

 ただし、当然ながら、アンサンブル構築の完成度としては、第1部におけるシューベルトの「第2交響曲」の方が、ずっと上だったろう。
 そこでは、強固に引き締められた構築のうちに、分厚く剛直な、時には少し物々しいほどの力を漲らせたシリアスなシューベルトが、ダイナミックに進んで行く。アラン・ギルバートは、マーラーの遠い先駆という位置づけでシューベルトを捉えていたのかもしれない。
 それと同時に、アランのこの厚い豪壮な音づくりは、いかにも8シーズンにわたりニューヨーク・フィルの音楽監督として君臨した指揮者の志向を窺わせるものでもあった。

2018・7・15(日)ノット指揮東京交響楽団「ゲロンティアスの夢」

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 英国の大作曲家エルガーの大作オラトリオ「The Dream of Gerontius」━━このタイトルを、英国人指揮者ノット氏はどう発音していたか、と東京響の事務局の辻さんに尋ねたら、「ジェロンティアス」と言っていた、という返事が返って来た。
 やっぱりそうだろう。英国の作曲家が、英国の作家ジョン・H・ニューマンによる英文の詩に作曲した英語歌詞のオラトリオなのだから、「ゲロンティアス」という表記は誰が考え出したのやら。

 事務局では「どんな資料を見ても公式表記はすべてゲロンティアスになっているので、もういいや、と」諦めてそれに従った由。しかもこの主人公の名前、本篇の歌詞の中には一度も出て来ないので、ますます具合が悪い。
 私はしかし、ここではやはり「ジェロンティアス」と呼ばせていただきたいと思う(本当はジェロンティウスか?)。

 その「ジェロンティアスの夢」、東京響音楽監督ジョナサン・ノットが満を持して定期に取り上げたもので、マクシミリアン・シュミット(ジェロンティアス)、サーシャ・クック(天使)、クリストファー・モルトマン(司祭、苦悩の天使)、東響コーラス(合唱指揮:冨平恭平)が出演した。前日はサントリーホールで演奏されており、今日は2日目の演奏である。
 ノットにとっては、この曲を指揮するのは今回が初めてとか。あまり自国の作曲家の作品を取り上げてくれない人だが、いったん指揮すれば、さすがに一種の「血のつながり」を聴き手に感じさせてくれる演奏になる。

 そして、このオラトリオが実はこれほど劇的で激しい性格を備えていたのか、と改めて見直させてくれる演奏でもあった。オーケストラもかなり激しく咆哮し、合唱も天使や悪魔の役柄を、起伏豊かに表現した。
 ほとんど出ずっぱりで歌うシュミットのジェロンティアスは、第1部では死にかけた者、第2部では異なる世界に入った「魂」というキャラクターから、落ち着いた歌唱を繰り広げたが、これにドラマティックな表現で起伏をつけるクックとモルトマンの歌が絶妙なバランスを生じさせていたことも特筆すべきであろう。

 それにしても、字幕が欲しかった。ミサ曲と違ってある程度のストーリーがあるし、しかも2部併せて1時間40分もの長大篇詩でもあるし━━。

2018・7・14(土)日本ワーグナー協会第400回例会
シンポジウム「バイロイトに未来は有りや、無しや?」 

      東京文化会館4階大会議室  2時

 日本ワーグナー協会が、こともあろうに世界のワグネリアンの聖地バイロイト祝祭(「音楽祭」ではない)は今後ダイジョブだろうか、というテーマでシンポジウムをやるのだから、これは過激なことに違いない。

 だが近年のバイロイトは、バウムガルテン演出の「タンホイザー」や、カストルフ演出の「指環」のような、レジー・テアタ―の暴走もしくはクラッシュかとさえ思えるほど奇怪な舞台が散見される上に、今年は「指環」から「ヴァルキューレ」のみを単独上演する(しかもワーグナー指揮者とは言えないドミンゴの指揮で!)という、祝祭始まって以来の変なラインナップが組まれる状態で、━━バイロイトよ何処へ行く、と、物議を醸しているのは事実なのだ。
 これでいいのか、という、やむにやまれぬ気持で問題提起をしてみたいというのが、日本ワーグナー協会の意図ではあった・・・・。

 もちろん、われわれはバイロイト祝祭の当局者ではないし、たかが(?)国際ワーグナー協会の東洋の一組織に過ぎないのだから、いくら発想は過激でも、現実の議論としても限られた範囲を出なくなるのは致し方ない。
 それでも一応、やるべきことはやりましょう、とばかり、バイロイト祝祭の運営組織、定款、運営状態、入場券の販売方式、経済的データなど━━その中にはわれわれ会員でさえ初めて知り、目を丸くさせられるようなデータも含まれている━━も、参加者(100人を遥かに超えて席に座れない人も多かった)に配布された。

 登壇者は、司会進行役の池上純一氏(日本ワーグナー協会理事、埼玉大名誉教授)を中心に、パネリストとして北川千香子さん(日本ワーグナー協会会員、慶大準教授、演劇学、長年バイロイト祝祭劇場のレセプショニストとして現場の運営にも携わった方である)、岡田安樹浩さん(日本ワーグナー協会理事、国立音大講師、音楽学)、それに私(日本ワーグナー協会評議員)の3人。

 交々、バイロイト祝祭の歴史から見た演出や演奏の現状と問題点、今後の方向性━━などを述べたり、質問しあったりの2時間半で、もちろん結論など出せるはずもないテーマであり、当然ながら会員には欲求不満も生じたことだろうが、まずは巨大な問題の「取っ掛かり」か「ガス抜きの一端」には、なったかもしれない。

 それにしても、このクソ暑い真っ昼間に、こんなクソ暑い話題の場に、趣味でありながらどっと集まって来るというのが、いかにもワーグナー・マニアらしいと言えるのでは?

2018・7・13(金)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィル

    東京オペラシティ コンサートホール  7時

 錦糸町のトリフォニーホールから、西新宿の東京オペラシティへ移動。猛暑のためか、今日は道路があちこち渋滞状態で、door to doorで1時間近くを要した。

 先ほど聴いた新日本フィルの演奏会では、ブルッフとブルックナー。そしてこのシティ・フィルの演奏会では、ブラームスとブルックナー。奇しくも独墺3大BRの激突、というわけか?

 で、こちら東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の定期は、桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎の指揮で、最初にブラームスの「ネーニェ(悲歌)」、後半にブルックナーの「ミサ曲第3番」。協演の合唱は東京シティ・フィル・コーア(合唱指揮は藤丸崇浩)。「ミサ曲」での声楽ソリストとは、橋爪ゆか、増田弥生、与儀巧、清水那由太。コンサートマスターは荒井英治。

 ブラームスの「悲歌」は、以前は「哀悼の歌」という邦訳で馴染んで来たものだが、いつからこういう表記になったのかは知らない。
 ともあれ長大なブルックナーの「ミサ曲」の演奏に先立つ小品として、オーケストラ曲ではなくこの合唱を選んだのは、ブルックナーとブラームスとの対比や関連性を描くという目的の他に、2001年に飯守が提唱し設立した楽団専属合唱団━━東京シティ・フィル・コーアに活躍の場を与えようという狙いもあったのだろう。そして、東京シティ・フィル・コーアは、見事にその責任を果たした。その健闘ぶりには賛辞を捧げたい。

 特に「ミサ曲」では、一部のメンバーは譜面を見ながら歌っていたが、大半は暗譜で歌っていた。どれほど練習を重ねたかが窺い知れるというものである。
 今日はこの合唱団がすっかり主役となっていた趣だった。が、母体の東京シティ・フィルもすこぶる充実度の髙い演奏を繰り広げてくれたことは、改めて言うまでもない。

 そして何よりも、飯守泰次郎の滋味豊かな、起伏の大きい、揺るぎない緊張感を持続させた指揮は、最大の称賛に値するだろう。
 彼は東京シティ・フィルとのブルックナーの交響曲ツィクルスを、2年前の7月に完結させており、今回の「ミサ曲第3番」はその続篇というか、番外篇ともいうべきものであろう。それはまさに予想を遥かに上回る見事な演奏だった。そのスケールの大きさと情熱の豊かさにおいては、交響曲(複数)での演奏をも凌ぐものだったかもしれない。

 今日は結構な客の入り。シティ・フィルの定期も、いつもこのくらい入れば・・・・。

2018・7・13(金)シモーネ・ヤング指揮新日本フィル

      すみだトリフォニーホール  2時

 3年前までハンブルク州立劇場の音楽総監督を務めていた女性指揮者シモーネ・ヤングが客演。新日本フィルハーモニー交響楽団にはこれが初めての登場と聞く。

 今日のプログラムは、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは木島真優)と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」の1874年初稿版。コンサートマスターは崔文洙。

 「4番」は、ブルックナーの交響曲の中で、「初稿」と「決定稿」(1878/80年稿)との間に最も大きな落差のある作品だ。流れよく構築された決定稿に比べ、この初稿の方は、何とも雑然として流れが悪く、ゲネラル・パウゼばかり多い。要するに、ヘンな曲なのである。
 第3楽章など、性懲りもなく反復されるホルンのシグナルには、もう分かりましたよ、と文句を言いたくなるほどだし、第4楽章などは、せっかく主題として出したのならもう少しみんなに解るように続けたらどうなんですかね、とでも言いたくなる。
 しかし、それゆえにこそ、ブルックナー愛好者にとっては、この違いが何とも面白いのだ。時には辟易させられるけれども、やはり楽しいのである。

 だが今日、初めてブルックナーの交響曲を聴いた人の耳には、どう響いたか? 甚だまとまりのない、さっぱり解らない曲だと思われたかもしれない。
 こういう曲の場合、演奏の前に(客がざわついているプレトークでではなく)、かつてアルブレヒトと読響がよくやっていたように、オーケストラのサンプル演奏を加え、二つの稿の違いについて、ある程度の解説をした方が、お客に対して親切だったのではないか。
 もっとも、このオーケストラの今の状態では、そういう細かいワザは望めそうもないが。

 しかし、演奏そのものは、実に良かった。楽章を追うにしたがって、安定感を目覚ましく増した。特に後半2楽章は、ほぼ完璧な出来と言ってもよかったのではないか。
 とりわけ活躍の場が多いホルンのソロ(1番ホルン)は、第1楽章冒頭のみはちょっと慎重に過ぎた感があったが、ただちに安定度を加えて見事な演奏となり、特に第3楽章で朗々たるソロを聴かせてくれた。
 しかし残念ながら(?)この人は、新日本フィルの奏者ではなく客演で、群響の首席である濵地宗さんだった。おそろしく巧くて、聴いていてスカッとする。ともあれ、今日はホルン・セクション全体も充実していたといえよう。

 シモーネ・ヤングは、新日本フィルを実に巧みに昂揚させ、総休止の多い作品にもかかわらず、全体に力感と緊張感とを持続させた。並み居る女性指揮者の中でも、彼女は抜きん出た存在だと思うが、今日の指揮はその証明の一つである。彼女のブルックナーは、CDで聴くよりも、ナマで聴いた方が遥かに色合いの変化が感じられて面白い。

 前半に演奏されたブルッフのコンチェルトでは、木島真優が実に骨太な、がっしりした構築のソロを聴かせてくれた。素晴らしい成長ぶりである。ただ、指揮者とオーケストラは、どうやらブルックナーの方にリハーサルの時間を多く割いたか?

 シモーネ・ヤングは、終演後にまたサイン会を開いたらしい(私は次の演奏会場に向かうためにそのまま失礼したが)。相変わらずサービス精神に富む人である。実は私も以前、ハンブルクで彼女の指揮する「ヴァルキューレ」を聴いた際に・・・・(→2008年11月12日の項)。

2018・7・6(金)広上淳一指揮日本フィルのバッハ&尾高

      サントリーホール  7時

 バッハの「管弦楽組曲第3番」と「マニフィカト」の間に、尾高惇忠の交響曲「時の彼方へ」を挟んだプログラム。
 異色の選曲だが、プレトークでマエストロ広上が強調していたように、「名曲」と「初めて聴く現代の作品」とを付け合わせたメニューにより、新しい味を知るという料理コースは、大いに有益であると思う。

 「管弦楽組曲第3番」は、弦16型の、最近ではあまり聴かれなくなった大編成スタイルによる演奏だったが、これで聴くバッハの作品は極めて壮大壮麗で、むしろ新鮮な趣を持つのではないか。
 これもマエストロが語っていた、「どのスタイルで演奏しなければいけないという考え方はあまりに狭量に過ぎる」という意見には私も同感である。特にこの「3番」のような、一種祝典的な輝かしさを備えた作品では、この大編成スタイルは生きて来る。

 ただ、それはいいのだが、今日の演奏はちょっと粗い。それに、モダン奏法の16型弦楽器群と、古楽器的奏法のトランペットやティンパニの共存は、どうも何かアンバランスな響きではないか? 特にティンパニは序曲では音量が大きすぎた。その後は抑制されていたが━━。

 尾高惇忠の交響曲は、仙台フィルの委嘱により作曲され、東日本大震災の年の2011年の9月に仙台で初演されたもので、その後2012年に尾高賞を受賞、6月にN響により再演されている。曲想は、20世紀前半の、特にフランス系の作品へのオマージュを感じさせるが、40分近い長さ、大編成管弦楽による層の厚い響き、一つのモティーフを対にして反復する手法、古典形式の導入など、伝統的なスタイルを通じて聴き手を濃密な体験に引き込もうとする力感に溢れているだろう。

 再びバッハに戻っての「マニフィカト」は、先ほどよりも管弦楽編成をやや小ぶりにし、合唱が東京音大、声楽ソリストは鈴木玲奈、吉田和夏、中山茉莉、吉田浩之、浅井隆仁という顔ぶれの協演で演奏されたが、これは残念ながら期待を大きく下回った。
 広上淳一にしては散漫な指揮という印象もあったが、オーケストラが少々纏まりを欠いていたのは、日本フィルがバッハに慣れないということと、この楽団が定期の初日に露呈させる悪い癖の所為かもしれぬ(たいてい2日目は良くなるのだが、初日を聴きに行った客に対しては、それでは困る)。

 だが何よりも問題は、声楽ソリストたちの歌唱に生気と確信が感じられないことにあった。特に女声陣の声はか細く、ステージ前面に並んでいるにもかかわらず歌唱がオーケストラに埋もれて、こちらの2階正面中央最前列の位置からはほとんど聞えなかったのである(歌い方の問題もあったかもしれないが、2日目はどうだったか?)。ゲストコンサートマスターは白井圭。

2018・7・5(木)Music Masters Course Japan Yokohama 2018

      横浜みなとみらいホール 小ホール  7時

 ミュージック・マスターズ・コース・ジャパン、略してMMCJと号す。
 2001年に大友直人とアラン・ギルバートが創設した国際教育音楽祭で、初期の頃は千葉県の上総で開催されていた。私も第1回か第2回だったかに千葉県まで聴きに行ったことがある。その後開催地を横浜に移し、今年はすでに第18回。

 3週間の開催期間で連日みっちりと講習が行われ、受講生は9カ国から21名が参加、講師陣は指揮者3人を含めて12名という。一般客対象の演奏会は、今日が講師たちによる室内楽演奏会、10日に受講生たちによる室内楽演奏会(みなとみらい小ホール)、15日と16日に講師・受講生合同のオーケストラ演奏会(各々みなとみらい大ホール、紀尾井ホール)が予定されている由。

 というわけで今日は、その講師の先生方の出演だ。
 音楽監督は国立リヨン管コンサートマスターでもあるジェニファー・ギルバート(アランの妹君)、その他ヴァイオリンのハーヴィ・デ・スーザと建部洋子、ヴィオラが鈴木学とマーク・デスモン、チェロがエリック・キムとニコラ・アルトマンとカイサ・ウィリアム=オルソン、クラリネットがヴィセンテ・アルベローラという顔ぶれ。

 プログラムは、R・シュトラウスの「カプリッチョ」からの「六重奏」、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」、ドヴォルジャークの「弦楽六重奏曲イ長調Op.48」の3曲。
 この上なく美しく、快い演奏であった。この小ホールは音響が素晴らしいので、良い演奏にいっそうの輝きが加えられる。
 林文子・横浜市長も聴きに来ていた客席はほぼ満員。

2018・7・4(水)アンドリュー・リットン指揮新日本フィル

     サントリーホール  7時

 アンドリュー・リットンというアメリカの指揮者、これまでダラス響やベルゲン・フィルなど、いろいろなポストを歴任しているが、今はどのポストに在るのか、外国のWikiを見ても何となく判り難い人だ。ともあれ、ニューヨーク・シティ・バレエの管弦楽団の音楽監督と、シンガポール交響楽団の首席客演指揮者を兼任しているのは確かなようで━━。

 丸っこい大きな体躯が躍動する彼の指揮姿には、力感の裡にも、何となくあたたかさを感じさせる雰囲気がある。
 だからというわけでもないが、今日のベートーヴェンの「交響曲第8番」の演奏もそんな感じだった。あまり鋭角的にならず、どっしりとした丸みのある響きで、どちらかといえば大らかな明るさを湛えた「8番」だったと言えようか。
 第1楽章再現部冒頭の【D】の8小節間で、低音部の第1主題を明確に響かせるために管弦楽の一部に漸弱や漸強をつけるという、今どき珍しいワインガルトナー式の手法を使っていたところに、この指揮者が持っている一種のロマンティシズムを垣間見た気がする。

 後半のショスタコーヴィチの「第4交響曲」では、リットンは、大編成のオーケストラをたっぷりとしたふくらみのある大音量で響かせる。ホールを揺るがせる轟音ながら、決してヒステリックな鋭い絶叫にならず、また敢えて悲劇的な情感を強調しないところが、リットンのショスタコーヴィチ解釈なのだろう。

 ただ、それはそれでいいとしても、いくつもの壮烈な爆発点の数々が、どれも同じようなニュアンスの演奏に聞こえ、また全体にさほど多彩な変化のない演奏でもあったため、何か全曲が一本調子に感じられてしまう傾向が、なくもなかったのだが・・・・。
 しかし、全曲の幕切れ近くでは、金管を中心に醸し出される不気味な虚無感と、白々とした寂寥感のようなものが音楽全体に拡がって行き、この交響曲が本来持っている魔性を蘇らせ、感動的な効果を生んでいた。

 コンサートマスターは豊嶋泰嗣。ファゴットの河村幹子のソロが陰翳とスケール感に富んで立派だった。

2018・7・3(火)藤原歌劇団公演「ドン・ジョヴァンニ」

    日生劇場  2時

 「NISSAY OPERA 2018」、今度は日本オペラ振興会/藤原歌劇団の公演で、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」。

 岩田達宗演出によるニュープロダクションで、ジュゼッペ・サッバティーニの指揮、東京シティ・フィルの演奏。
 歌手陣はダブルキャストで、今日(3日目)はニコラ・ウリヴィエーリ(ドン・ジョヴァンニ)、田中大揮(レポレッロ)、坂口裕子(ドンナ・アンナ)、佐藤康子(ドンナ・エルヴィ―ラ)、中井亮一(ドン・オッターヴィオ)、大塚雄太(マゼット)、梅津貴子(ゼルリーナ)、東原貞彦(騎士長)、藤原歌劇団合唱部。

 売れっ子の岩田達宗の演出は、多くは原作のト書きを基盤として演劇的な読み込みを追求するという路線にあるが、今回もシンプルで冷徹な、限定された空間(装置・増田寿子)の中に、オーソドックスな演技を以ってドラマを展開させるという手法を採った。なお垂れ幕に女性の名前が一面に書いてあって、これが例の「カタログ」を意味するものであることは面白い。

 今回の演出では、ドン・ジョヴァンニは冒頭の騎士長との決闘で腕に傷を負い、この古傷の痛みが、彼の殺人行為へのトラウマとともに最後まで付きまとう。
 この解釈は、クラウス・グートの演出におけるそれと共通するものだが、こちら岩田達宗の演出では、最後にドン・ジョヴァンニが騎士長と対決する際にその包帯を破り捨て、一切のしがらみを断ち切って自由を取り戻し、勝ち目のない倫理の壁に敢然と闘いを挑む━━という流れになっているのが特徴だ。

 その他、ゼルリーナがドン・オッターヴィオに不思議な感情を抱きはじめているらしい、という光景も観られるが、この詳細はあまりよく解らない。
 ただ、岩田氏がプログラム冊子の「演出ノート」に記しているように、ドン・ジョヴァンニの行動のため不幸に陥った者たちがいて━━多分ここでは、彼以外の全員がそうだろう━━それらの存在は確かにはっきりと描かれていたように思う。そしてその中で、ラストシーンで登場人物が散って行ったあとに、レポレッロのみが独り、それでもジョヴァンニを追憶するかのようなそぶりを見せるのが彼にとってのせめての挽歌━━ということになるのだろうか。

 余談だが、こういうまっとうな演出で描かれるドン・オッターヴィオは、まさにどうしようもない能無しの男にしか見えなくて、うんざりする。「奴を告発し、その死を見届けるまでは戻って来ませぬ」と大見得を切っておきながら、そのあとでドンナ・アンナに追いすがったり、ジョヴァンニが地獄に落ちたあとのラストシーンでは「天罰が下ったのでしょう」などと他人事のように言ったりする男なのだから、観ていると苛々して来る。
 こうなると、エクサン・プロヴァンス音楽祭で上演されたディミトリ・チェルニャコフの読み替え演出のような、実直で目立たぬドン・オッターヴィオこそが実はこの一連の出来事の黒幕であり、権謀術数に長けた彼が邪魔者を排除して騎士長の後釜になり権力を握る、という筋書き(2010年7月7日参照)の方が、馬鹿々々しいけれどもスカッとするのだが━━。
 いや、これは岩田さんの演出にケチをつけるつもりで引用したのではない。

 話を戻して、サッバティーニの指揮は、やや重く壮大志向ではあるものの、地獄落ちの場面などは雰囲気があったろう。歌手出身の指揮者のそれらしく、歌唱に重点を置くような指揮であって、あまりドラマトゥルグを配慮した指揮とは感じられない。こういう指揮者と組んだ演出家は、あまり演劇的な緊迫した舞台は創り得ないのではないかという気がするのだが・・・・。
 シティ・フィルも、序曲では何とも音が薄く、これでは緊迫したドラマを描き出すことはとてもできないのではないか、と危惧されたが、幸いに本編の叙情的な個所では、モーツァルト特有の美しい和声を巧く再現していた。

 歌手陣は概ね安定していた。ウリヴィエーリの題名役としての雰囲気の良さは其処此処に出ていたのではないか。彼と表裏一体となる存在として田中大揮(レポレッロ)も好演した。
 4人のバス・バリトンが競うこのオペラの中で、ちょっと疑問があったのは東原貞彦の騎士長だ。歌唱が悪いというのではないが、最後にジョヴァンニを圧する超自然的な存在としては少し声が軽く、ゆえに凄味を欠く、ということである。
 女声陣では、ゼルリーナの梅津貴子が少し粗削りながらも生き生きした女性を歌い演じて注目された。

2018・7・1(日)調布国際音楽祭 鈴木優人指揮BCJのモーツァルト

      調布市グリーンホール 大ホール  5時

 今日は音楽祭の最終日。
 エグゼクティブ・プロデューサー鈴木優人みずからが指揮して、モーツァルトのオペラ「バスティアンとバスティエンヌ」と「劇場支配人」をダブルビルで演奏会上演した。

 彼の指揮するモーツァルトを聴いたのは、多分今回が初めてである。曲が曲だけに指揮者の真価を窺い知るには少々材料不足ではあるものの、演奏には活気があり、特に後者での終曲の盛り上げには手応えが感じられた。

 歌手陣は、「バスティアンとバスティエンヌ」が櫻田亮、ジョアン・ラン、加耒徹。「劇場支配人」が加耒徹、櫻田亮、中江早希、森谷真理の出演。
 みんな一応、譜面を見ながら歌うが、簡単なお芝居をも演じており、ドイツ語歌唱の歌それぞれの間は日本語のセリフで繋ぐ。これらの演出と台本は佐藤美晴が担当しているが、彼女から聞くところでは、舞台で飛び交っていたセリフには、少なからずアドリブも混じっていたそうである。

 オーケストラはバッハ・コレギウム・ジャパン。コンサートマスターの寺神戸亮はじめ、腕利きの奏者が揃っているから、演奏は結構なもの。
 その上、今日はオーケストラのメンバーも芝居に参加しており、これもなかなかのものであった。しかし、最も大車輪で活躍していたのは、やはり鈴木優人だろう。指揮とチェンバロを受け持ちながら、「劇場支配人」ではみずから支配人役をも演じ、2人のプリマの抗争に手を焼きつつ「調布国際音楽祭の苦しい予算の中でギャラの交渉をする」楽屋落ち的な台詞も交えて切り回すなど、すこぶる芝居上手なところをも見せてくれた。

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