2023-11

2019年3月 の記事一覧




2019・3・31(日)飯守泰次郎指揮関西フィル ブルックナー「9番」

      ザ・シンフォニーホール  2時

 関西フィルハーモニー管弦楽団の第299回定期。桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎が、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番《トルコ風》」(ソロはヴェロニカ・エーベルレ)と、ブルックナーの「交響曲第9番」を指揮した。

 エ―ベルレは、つい先日もウルバンスキの指揮する東京響とこの同じ曲を弾いていたが、さすがに協演の相手が違うと、自分の演奏スタイルも少し変えるらしい。東京での演奏は端整、繊細、清澄、といった特徴を強く感じさせていたのに対し、今日は冒頭からして濃厚で妖艶な表情を滲ませるなど、全曲にわたって、やや自由な感興が加えられていたようだ。その気品ある清廉なモーツァルトは、実に美しい。

 さて、ブルックナーの「9番」である。これは、飯守が関西フィルと毎年1曲ずつ進めていたブルックナー交響曲ツィクルスの、その最終篇にあたる。私もそのうち「7番」と「8番」を聴いたが、今日の「9番」も、やはり率直で烈しいブルックナーだ。
 殊更にユニークな解釈を狙うことなく、また、徒に長めのパウゼを採って全体の流れを滞らせたりするなどということもなく、あくまでスコア通りに演奏を構築して巨大な山脈を築き上げる━━といった飯守のブルックナーは、その率直さと真摯さゆえに、感銘を呼ぶ。

 関西フィル(コンサートマスターは岩谷祐之)も入魂の演奏を聴かせてくれた。第1楽章コーダや、第2楽章スケルツォ、第3楽章の最初の爆発での昂揚。同楽章アダージョでの深い拡がり。
 弦楽器群も厚みのある音を響かせた。第3楽章最後のホルン、ワーグナー・テューバ等による告別の長い持続音の個所で響きのスムースさを欠いたのはかえすがえすも惜しかったが、今日のホルン・セクションには客演奏者が多かったらしいので・・・・。

 飯守と関西フィルによるこのブルックナー・ツィクルス、来シーズンに「0番」が追加されるそうである。

2019・3・30(土)上岡敏之指揮新日本フィル マーラー「復活」

     サントリーホール  2時

 音楽監督・上岡敏之によるマーラーは、これまで「4番」「5番」「6番」を、新日本フィルやヴッパータール響を指揮した演奏で聴いたことがあり、それらは部分的に共感できぬところもなくはなかったにせよ、すこぶる面白く感じられたものであった。

 今回の「復活」も、予想通り、実に緻密かつ精妙に練り上げられた演奏となっていた。冒頭の弦による開始も、叩きつけるように入るのではなく、ややフェイドイン的にジワリと入り、それから低弦を激しく衝撃的に出す、というように、凝った手法で行なわれる。全曲いたるところの細部に、このような、いかにも上岡らしい彫琢が施されている。その中には、スコアの指定とも関連して、私たちに新鮮な発見をさせてくれるところも少なくない。

 ただ、それはいいのだが、今日の「復活」を聴いていると、その一つ一つの個所に極度のこだわりを見せたあまりに、この交響曲全体を滔々と押し流すデモーニッシュな力と緊迫感が不足する結果が生じてしまったのではないか、という思いが、だんだん強くなって来るのである。
 随所に聞かれる極度の最弱音の持続(会場内の聴衆全員に聞こえぬような弱音に如何なる意味があろう?)や、第5楽章の合唱個所で採られる長いパウゼなどに感じられる緊迫性の欠如も気になる。

 最後の頂点におけるテンポの変化も、たしかにスコアには指定されているものではあり、マーラーの激しやすい性格が反映されていることは理解できるのだが、それがあまりに誇張され過ぎると、作品の持つ壮大さを失わせるのではないかという気もするのだ。

 P席をうずめた合唱(栗友会合唱団)は広がりと力感を発揮した。が、その一方、声楽ソロ2人(森谷真理、カトリン・ゲーリング)は、なぜかオーケストラとのバランス、つまり響きの溶け合いに異様なアンバランスを感じさせた。コンサートマスターは崔文洙。

2019・3・29(金)伊藤悠貴チェロ・リサイタル

      紀尾井ホール  7時

 伊藤悠貴(29歳)は、私も審査員の一人として関係している「齋藤秀雄メモリアル基金賞」で、つい先頃受賞に輝いた注目の新星である。

 その彼が、ラフマニノフの作品ばかりを集めたユニークで意欲的なリサイタルを行なった。プログラムは、第1部が「2つの小品 作品2」、「幻想的小品集作品3」から「エレジー」「メロディー」「セレナーデ」、「前奏曲作品23の10」、「ロマンス」、「6つの歌曲━━朝、夜のしじま、リラの花、ここは素晴らしい、夢、春の水」、第2部が「チェロとピアノのためのソナタ作品19」というものだった。
 「作品3」のうちの2曲、および「歌曲」の6曲は、伊藤悠貴自身が編曲したものとのこと(プログラム冊子にも自らいい文章で解説を書いているし、多才な人だ)。

 この「ラフマニノフ・プログラム」は、昨年、ロンドンのウィグモア・ホールでも演奏したそうである。この作曲家への彼の強い思い入れを示すものだろう。
 その共感に裏打ちされた演奏は、まさしく伸びやかな表情、瑞々しい情感、明晰な音色、闊達な力に満たされていた。「ソナタ」が、一般の演奏によくあるような暗い陰翳とか物々しさといったものにとらわれず、かくも若々しい気宇にあふれた演奏で再現されたのを聴いたことは、これまでになかった。若さの特権というものだろう。

 協演の藤田真央(20歳)がまたとてつもなく素晴らしい。若手2人の見事な演奏会だった。わが国の音楽界の将来を託するにふさわしい俊英の活躍を慶びたい。

2019・3・28(木)東京・春・音楽祭 ムーティ、「リゴレット」を語る

     東京文化会館大ホール  7時

 巨匠リッカルド・ムーティが、「東京・春・音楽祭」で今年から開始したオペラ・アカデミーの一環、ヴェルディの「リゴレット」についての講演を行なった。この人の話の面白さは、すでにおなじみである。

 オペラ界の悪しき慣わしのために、ヴェルディが書いた楽譜を無視した歌い方や演奏がいかに多いか━━例えば拍手やブラボーを当て込み、結びの音をスコア指定より高く上げたり、最弱音の指定を最強音で歌ってみせたりするがごとき━━を、自ら身振り手振りを交えながらユーモラスに歌ったりして指摘しつつ、それを是正することの必要性について力説する、というのが、今日の主要テーマだった。

 それは決して狭量な原典主義や教条主義に基づくものではない。「リゴレット」の場合には、主人公の身体の特徴から姿勢が「俯き加減」になるため、ヴェルディは意図的に「高い音」を書かなかった(そうかなあ?)、従ってジルダとの「復讐の二重唱」の最後の音や、「あの呪い!」の叫びの最後の音を「上げて」歌うのは間違ったことである━━と、ムーティは説明する。
 こういう話は、今初めて聞くものではなく、すでにムーティの実際の指揮によるいろいろなヴェルディ作品で、私たちにはおなじみのものである。だがとにかく、大ムーティさまの話なのだから、説得性がある。

 歌唱はアカデミー生たち5人。ピアノはムーティ自身。1階席(のみ解放された)を埋めつくした聴衆には、通訳の声が聞こえる無線機が配布されていた。
 本番の演奏は、4月4日に行われる。

2019・3・27(水)メルカダンテ:「フランチェスカ・ダ・リミニ」

     昭和音楽大学 テアトロ・ジーリオ・ショウワ  2時

 「フランチェスカ・ダ・リミニ」といっても、作曲者はチャイコフスキーでも、ザンドナーイでも、ラフマニノフでもない。サヴェーリオ・メルカダンテ(1795~1870)のオペラだ。実に珍しい作品を取り上げたものである。
 これは1831年に書き上げられながら結局上演されずオクラとなり、やっと2016年になってマルティーナ・フランカで初演され日の目を見たという曰く付きの作品だそうな。
 文化庁と日本オペラ振興会主催、昭和音楽大学協力による「第1回ベルカントオペラ・フェスティバル、イン・ジャパン」と題された催事で、シンポジウムやコンサートの他に、この作品が「オペラ」としてレパートリーに加えられた。藤原歌劇団とヴァッレ・ディトリア(マルティーナ・フランカ)音楽祭の提携公演で、これが日本初演とのことである。

 音楽は、作曲された時代からして、ドニゼッティ、ベルリーニ、ロッシーニのスタイルに近い。美しい歌やオーケストラの旋律が随所に散りばめられる。またストーリーは、ダンテの「神曲」の中でフランチェスカとパオロとによって語られる哀しい物語と同一だが、不気味さは全くなく、イタリア・オペラによくあるタイプの「悲恋のオペラ」として仕立てられたものだ。
 上演時間は休憩1回を含め3時間半と、結構長い。演奏時間が長いだけでなく、「歌」が優先された構成のためにドラマとしての進行が極端に遅いので、それがいっそう曲を長く感じさせる。

 今回は、ファビオ・チェレーザによる「セミ・ステージ上演」と銘打たれていたが、たしかに舞台装置こそないものの、衣装も演技も舞台空間も本格的なものだったため、これで充分とさえ感じられたほどである。
 特に舞台の背景にギュスターヴ・ドレの絵が入れ替わり立ち代わり大きく投映されていたのは効果的で、ダンテの「神曲」に挿絵された「パオロとフランチェスカ」だけでなく、ポーの「大鴉」まで出て来たのには驚かされたし、また「神曲」の「天国のダンテとベアトリーチェ」では、光の天使たちの環が緩やかに回転する動画になっているという芸の細かさも見られた。これらドレの絵画は、今回の舞台上の演技とはイメージ的にあまりマッチしてはいなかったものの、視覚的には愉しめるものであった。

 歌手陣。フランチェスカを歌ったレオノール・ボニッジャ(Bonilla、スペイン生れ)は、2016年にこのオペラが世界初演された際、ファビオ・ルイージの指揮の下で歌った人だとのこと。歌にも舞台姿にも輝かしい華を感じさせ、プリマの素質充分の人のようだ。
 これに対し、パオロ青年を歌った(アンナ・ペンニージ、Ms)は、歌唱は極めて良いが、舞台上の雰囲気では、・・・・少々分が悪い。

 ランチョット(史実及びダンテの「神曲」では「ジェンチョット」)役のアレッサンドロ・ルチアーノは、悪役然とした風格は出しているものの、声量が乏しく、声質もリリカル系であるため、本来の仇役としての凄みのあるイメージにならず、むしろ妻に裏切られた善良で真面目で気の毒な領主のように見えてしまったのが今回の上演における唯一の難点であった━━もっとも、それが演出の狙いだったとすれば、話は別だが。

 一方、フランチェスカの父親グイード役の小野寺光は、声は重量感たっぷりながら、演出の所為で何ともだらしのない父親に見えたのは気の毒。他にイザウラを楠野麻衣、グエルフィオを有本康人。藤原歌劇団合唱部と東京フィルハーモニー交響楽団、ダンサーは五十嵐耕司ほか5人。指揮のセスト・クワトリーニが柔らかいカンタービレを効かせて、好い雰囲気を出していた。

 馴染みの全くないオペラなのに、会場は満席に近い。藤原オペラのパワーか。

2019・3・26(火)ウラディーミル・ユロフスキ指揮ベルリン放送交響楽団

      サントリーホール  7時

 「ユロフスキ」と「ユロフスキ―」のどちらが表記として適切なのか判らないけれど、招聘元ジャパン・アーツは「ユロフスキ―」でやっているようである。スペルは「Jurowsky」ではなく「Jurowski」なのだが・・・・。

 今日のプログラムは、前半が20日と同じモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲と「ピアノ協奏曲第21番」。
 オーケストラも、さすがに滞日6回目の公演となればアンサンブルにも落ち着きが出て来て、先日のようなガサガサした演奏ではなくなった。コンチェルトのソリスト、レイフ・オヴェ・アンスネスは、今日はソロ・アンコールにモンポウの「《街外れ》第1番」という美しい曲を弾いてくれた。

 プログラム後半は、マーラー編曲のベートーヴェンの「第7交響曲」なる珍しい曲。編曲といっても、作品の構造自体を変更しているわけではなく、あくまで管弦楽法を改訂するにとどまっているものだ。
 ただ、マーラー版のスコアが手許になく、またどこまでが指揮者の表現なのかどうかが定かでない━━という保留要素はあるものの、オリジナルと比較してかなり濃厚な、少々えげつないまでの手が加えられているのは確かなようである。

 聴いて気がついた範囲で、いくつかの点を挙げれば、例えば全曲にわたり、過剰なほど執拗に施された細かいクレッシェンドとデクレッシェンドであろう。これがもし指揮者の独断で入れたのでなければ、マーラーの改訂における最大の特徴であろうと思われる。
 また、再現部直前の弦と管のバランスにはかなりの変更があったようだし、コーダにおけるバスのオスティナートも異常なほど誇張されて響かせられていた。第3楽章トリオにおけるティンパニの奏法、第4楽章のリズム主題の響かせ方にも、原曲とはだいぶ違いがある。
 第4楽章コーダでは、全管弦楽のバランスを含め、マーラーはもうここぞとばかり手を替え品を替え、オリジナルの視点から見れば畸形と感じられるほどに響きを変えてしまっている。よくぞここまでやったものだ、と呆気にとられずにはいられない。いかにも「鼻につく」手法ではある。だがしかし、こういう版を聴かせてもらったことに対しては、礼を言おう。
 アンコールは、またマーラー編曲によるバッハの「アリア」。

2019・3・26(火)新国立劇場 マスネ「ウェルテル」

      新国立劇場オペラパレス  2時

 2016年4月にプレミエされたニコラ・ジョエル演出のプロダクションで、落ち着いた良い舞台だ。
 今回の上演の指揮はポール・ダニエル。声楽陣はウェルテルをサイミール・ピルグ、シャルロットを藤村実穂子、アルベールを黒田博、ソフィーを幸田浩子、大法官を伊藤貴之、シュミットを糸賀修平、ジョアンを駒田敏章、ブリューマンを寺田宗永、ケッチェンを肥沼諒子、新国立劇場合唱団、児童合唱が多摩ファミリーシンガーズ。管弦楽が東京交響楽団。

 演出に関してはプレミエ時(2016年4月6日の項)と基本的には同じ印象ゆえに詳細は省く。第3幕におけるアルベールとシャルロット夫妻の諍いの描写が前回よりは少し明快になったような気もするけれど━━定かではない。
 アルベールには黒田博が、ふだんの彼とは別人のようなメイクで、穏やかで落ち着いた役柄として演じていた。

 そして、藤村実穂子のシャルロットが素晴らしい。イメージからすると合致しないのではないか、と思われるようなキャラの組み合わせではあったが、さすが藤村さん、見事なものであった。前回のエレーナ・マクシモア演じるシャルロットが控えめで受け身な女性のイメージだったのに対し、藤村実穂子のシャルロットは、おとなで、分別があり、それが感情を抑えきれなくなるという矛盾をはらんだ女性として描き出されるのである。
 ともあれ、彼女が歌い始めると、舞台上のすべてのものが、彼女一人に集中してしまうほどだ。かつてはバイロイトのヴァルトラウテ役で劇場の空気をビリビリと震わせたほどの彼女の声も、最近はかなり柔らかくなって来たような気がする。

 ポール・ダニエルの指揮も、詩的な雰囲気を備えて、なかなか良い。東京響も悪くなかったが、ヴァイオリン群の音に厚みさえ出ていれば、とそれがいつも惜しまれる。

2019・3・25(月)クシシュトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団

      サントリーホール  7時

 かつては、この東京響の首席客演指揮者を務めた時期もあった若手ウルバンスキ。かなり個性のはっきりした表現を聴かせて人気を集めた指揮者だ。今でもそれを忘れられぬ人が多いようである。
 この人、個性が明確といっても、殊更に奇を衒うようなタイプではなく、また何を指揮しても独特の癖を出すという人でもない。古典派やロマン派、あるいは現代音楽のレパートリーにおいて、いろいろなスタイルを採りながら意外なやり方で作品から新しいイメージを引き出す、という指揮者のように感じられるのだが━━。

 その一例が、この日の第2部で演奏されたショスタコーヴィチの「第4交響曲」だ。
 たいていの指揮者は、この作品に投影されている破滅的な戦慄感を浮き彫りにした表現を採るものだが、今回のウルバンスキと東京響ほど、その恐怖感のようなものを綺麗さっぱり拭い去ってしまい、むしろ明るいエネルギー性をのみ優先して構築した感のある演奏を聴かせた例を、私は他に知らない。

 あの弦楽器群の狂気じみた疾走も、全曲終結近くのティンパニの乱打を含む狂乱怒号も、今日の演奏では、全く「怖くない」のだ。単なる流麗なクライマックスとして、あっさりと通過してしまうのである。その恐るべき喧騒が次第に遠ざかり、白々とした虚脱感に入って行くはずの最終部分でも、ウルバンスキは、ただ美しく音色を変化させて行くのみである。
 しかし、それらのすべてが、ただ無機的な演奏に堕しているのかというと、決してそんなことはないのだ。それは、東京交響楽団(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)の、均衡豊かな演奏によるところが大きいだろう。その華麗なる威力あるアンサンブルは、見事なものであった。

 いずれにせよ、こういうショスタコーヴィチの「4番」像もあり得るのか、と少々驚いた次第だが、私の好みから言えば、興味深いとはいえ、あまり賛意を表しかねる、というのが本音である。

 なおプログラムの第1部では、美女ヴェロニカ・エーベルレがモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番《トルコ風》」を弾いた。繊細で美しく、しかし第3楽章などでは艶と凄味のある低音を垣間見せる。ソロ・アンコールではプロコフィエフの「ソナタ作品115」の第2楽章を披露した。

2019・3・24(日)小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト「カルメン」

     東京文化会館大ホール  3時

 恒例の「小澤征爾音楽塾」の公演で、今年は2017年の「カルメン」の再演である。
 指揮はクリスティアン・アルミンク。当初の予定では小澤征爾も「前奏曲」などいくつかの部分を指揮するということになっていたが、気管支炎とかのため、やはりキャンセルされた。

 配役は、カルメンをサンドラ・ピクス・エディ、ドン・ホセをチャド・シェルトン、ミカエラをケイトリン・リンチ、エスカミーリョをエドワード・パークス、フラスキータをカトリーナ・ガルカ、メルセデスをアレクサンドラ・ロドリック、スニガをジェフリー・ベルアン、モラレスをアンドリー・ロヴァト、ダンカイロを近藤圭、レメンダードを大槻孝志。小澤征爾音楽塾オーケストラ、小澤征爾音楽塾合唱団、京都市少年合唱団。

 主役陣には、2年前にも来日して歌った歌手たちも少なくないが、今回はカルメンの声のピッチが下がり気味だったり、ホセが妙に癖のある歌い方をしていたり、気になるところもいくつかあった。デイヴィッド・ニースの演出は例の如しだが、オーケストラが達者だったことは特筆しておいてもいいであろう。

 実は私の方も今日は風邪気味のため、甚だ体調芳しからず、朝の「オランダ人」を観ていた頃から具合が悪かったくらいなので、残念ながら第2幕が終ったところで主催者に挨拶し、チケットを返却して失礼させてもらった。
 あとで事務局の関さんから聞いたのだが、最後のカーテンコールでは小澤さんも登場したとのこと。その模様を事務局から送信されて来た動画で見ると、あれなら前奏曲か間奏曲のどれか1,2曲ぐらいは指揮できたのでは、と思わせる雰囲気であった。

2019・3・24(日)東京・春・音楽祭
「子どものための《さまよえるオランダ人》」

  三井住友銀行東館ライジング・スクエア1階アース・ガーデン 午前11時

 「バイロイト音楽祭提携公演」として「東京・春・音楽祭」に加えられているこのプロダクションは、バイロイトの総帥カタリーナ・ワーグナーが自ら手掛けたもの。
 今回の会場は何と大手町の銀行のロビーで、そこにシンプルな舞台、幽霊船に代わる黒いボート、階段状の簡易客席などが特設され、カタリーナ自らの演出のもと、照明なども付して上演されたのだった。

 出演は、友清崇(オランダ人)、斉木健詞(ダーラント)、田崎尚美(ゼンタ)、金子美香(マリー)、高橋淳(エリック)、菅野敦(舵手)ら、歌唱水準の高い顔ぶれ。合唱こそ無かった(幽霊船の水夫の合唱の一部のみ録音で再生されていた)が、協演はピアノではなく、ダニエル・ガイスが指揮する「東京春祭特別オーケストラ」が生演奏で受け持つという豪華なもの。
 2時間20分の全曲の中から抜粋して1時間ほどの長さにまとめ(編曲はマルコ・ズドラレク)、ドイツ語の歌唱と日本語の台詞とで繋いで行くという構成になっていた。

 演出は、子ども向けということのせいか、カタリーナの舞台にしては意外に「まっとうな」ものだ。演奏が極めてしっかりしていたので、「さまよえるオランダ人」のハイライト紹介という意味で捉えれば、これはすこぶる面白い企画であろう。
 ただし、ドイツ語の歌詞には字幕がなく、また現場での解説もないので、子どもたちには、果たして「ゼンタの自己犠牲」とか「救済」とかの内容が明確に理解できたかどうか? といっても観客の大半は大人たちだったが・・・・。

 最後は「ボートの中の」オランダ人に、ゼンタが「岸辺」だか何だか判然としない台の上から手を差し延べるところで暗転するのだが、しかし、この幕切れあたりの進行と芝居が、言っちゃ何だが、甚だ拙い・・・・。

2019・3・23(土)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 カンブルランの常任指揮者時代を締め括る一連の演奏会の、これが最終のコンサート。ただし2回公演の、今日は初日。
 ベルリオーズの「ベアトリスとベネディクト」序曲と「幻想交響曲」の間に、ピエール=ロラン・エマールをソリストにしたベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番ハ短調」というプログラム。

 コンチェルトは、毅然として揺るぎのない風格を湛え、古典の名作としての威容を示す演奏となった。瑞々しくも整然たるアプローチを続けていたエマールが、最後の最後に至って下行音型を猛烈なフォルティシモで轟かせて大見得を切ったのが何とも愉快だった。

 「ベアトリスとベネディクト」序曲は、ベルリオーズの数ある序曲の中では最もポピュラーではない曲だが、管弦楽法は晩年の円熟を示して精緻な色合いに富んでいるだろう。だが、カンブルランが率いる好調の読響の演奏は、彼の初期の「幻想交響曲」における管弦楽法をも、後期のそれと同等の色彩感を漲らせて響かせる。
 もっとも演奏そのものは、意外なほどに古典的な端整さを保ち、豪壮な音響ではあるものの決して狂乱には陥らない。そういえば、彼のベルリオーズは━━20年ほど前、ジェラール・モルティエが采配を振るっていた時代のザルツブルク音楽祭で彼が指揮した「ファウストの劫罰」や「トロイ人たち」などでも、品が良すぎるほど節度を保った演奏だったことを思い出した。

 告別の「幻想交響曲」にしては些か端然とした終結ではあったものの、カンブルランの本領を堪能するには充分の演奏だったであろう。

※この日はかように真面目に演奏会が終ったものの、翌日(最終日)はカーテンコールで「天国と地獄」序曲を演奏し、カンブルランをはじめ皆が賑やかに踊ったそうですね。そういう解放的なお別れもいいかもしれない。
 かつて若杉弘が都響の音楽監督のポストから去る時、数人の聴衆が客席に「WAKASUGI、COME BACK!」と書いた横断幕をぶら下げ、皆をジンとさせた、という話を聞いたことがある。そのような、聴衆の自発的な感激の行動もいいかと思うが━━。

2019・3・22(金)グスターボ・ドゥダメル指揮ロサンゼルス・フィル

     サントリーホール 7時

 今回のアジア・ツアーは、ソウルで3回、東京で3回というスケジュールの由。ツアー・プログラムには、ここにもマーラーの「巨人」が入っている。ただし今日聴いたのは、同じマーラーでも「交響曲第9番」の方。

 このコンビ、前回の来日でマーラーの「第6番《悲劇的》」を演奏していた(2015年3月28日の項)が、今日の「9番」の演奏における印象も、その時とほぼ同じといってよい。壮麗で濃厚で、しかも輝きのある響きと音色は、現在のドゥダメルとロス・フィルの身上であろう。
 マーラーの「第9」に輝きなどがあっていいのか━━という考え方ももちろんあるが、この場合の輝きとは、華美とか華麗とかいう意味とは全く異なるもので、全曲にわたり青年の若々しい人生肯定的な息吹が根底に流れていることを感じさせる、という意味である。

 中間2楽章の演奏にあふれる荒々しさは、ヒステリックな精神の苛立ちではなく、まっすぐで闊達なエネルギー感だ。そして両端楽章での演奏にも、人生の終りに近づいた者の諦念などではなく、なお「生」への希望を滲ませた安息感━━とでもいったものが感じ取れるのである。今日の第4楽章の終結部の演奏などには、「無」への旅立ちではなく、彼方の「生」を感じさせる「光」への旅の始まり━━が聴き取れるのではなかろうか? 
 どうも勝手な、観念的な独りよがりを言っているみたいで申し訳ないのだが、マーラーの「第9」に、こうしたイメージをもたらしてくれるドゥダメルの若さは羨ましいものだとつくづく感じてしまった、というのが正直なところなのである。

 ロス・フィルの音も、エサ=ペッカ・サロネンが音楽監督だった時代に比べ、随分変貌したものだと思う。それはむしろ、50年前に気鋭のズービン・メータが音楽監督を務めていた時代の音を思い起こさせる(1969年に来日した時がそうだった)が、それよりは少し荒っぽいかもしれない。だが演奏の水準は相変わらず高いものがある。この楽団を楽々と制御するドゥダメルは、未だ38歳の指揮者だ。

2019・3・21(木)プレトニョフ指揮東京フィルハーモニー交響楽団

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 第1部がチャイコフスキーの「スラヴ行進曲」と「ヴァイオリン協奏曲」(ソロはユーチン・ツェン)、第2部がハチャトゥリアンの「スパルタクス」からの「アダージョ」と「交響曲第3番《交響詩曲》」。名曲と珍曲(?)とを巧く組み合わせたプログラムである。

 聴き慣れた「スラヴ行進曲」も、ミハイル・プレトニョフの手にかかると、最初の主題などは打ち沈んだ哀愁を帯びたものになり、この曲が決して単なる騒々しい機会音楽などではないことを再認識させてくれる。「協奏曲」では、台湾出身の、日の出の勢いにある若手ユーチン・ツェンが登場、均整のとれた真摯で生真面目なソロを披露した。

 後半のハチャトゥリアン2曲における物々しい豪壮な色彩感は、まさにロシアの指揮者ならではのおおわざだろう。
 「スパルタクス」の「アダージョ」で、オーケストラのトゥッティの高鳴りの上にひと際高くトランペットのソロを、それも甘く官能的な色合いを以って浮き出させるあたり、プレトニョフもなかなかの芝居巧者ではなかろうか。

 そして今日の極め付きは━━ステージ後方最上段にずらりと並んだ15本(!)のトランペットのバンダが一斉に咆哮し、オルガンの轟音が渦巻く「交響詩曲」である。
 これは耳を聾する騒々しい珍曲ではあったが、当時のソビエト革命30周年記念のための祝典音楽としては、それなりの意味を持っていたことだろう。あのヤナーチェクの金管群のファンファーレが活躍する「シンフォニエッタ」と同様の祝典性を感じさせるが、しかしこちらの「交響詩曲」の方は、もっと力任せで、威圧的である。
 とはいえこのトランペット群が吹き鳴らすさまざまなモティーフは、ある時にはジョン・バリーの映画音楽に似ていたり、「ロッキーのテーマ」のようだったり、「古畑任三郎」の中の「犯罪のモティーフ」を連想させたりする、結構楽しいものであった。演奏時間は30分近く、終りそうでいてなかなか終わらない、意外に長い曲だった。

 アンコールには「仮面舞踏会」からの「ワルツ」が演奏され、ここでやっと私たちに馴染みのハチャトゥリアンが再び姿を現してくれた。
 コンサートマスターは依田真宣。

2019・3・20(水)ウラディーミル・ユロフスキ指揮ベルリン放送交響楽団

     東京文化会館大ホール  7時

 都民劇場の公演。
 肘の故障で来日が危ぶまれたレイフ・オヴェ・アンスネスだったが、このオケとの公演には予定通り参加してくれた。ただし、当初予定されていた長大なブラームスの「協奏曲第1番」は、モーツァルトの「協奏曲第21番ハ長調」に変更になった。

 アンスネスのモーツァルトは大変いい曲目ではあるのだが、オーケストラが少々ガサツな演奏だったため、どうも音楽の座りが悪い。それゆえアンスネスの本領はやはり、ソロ・アンコールで弾いたショパンの「夜想曲作品15の1」の方で、余すところなく示されたといえよう。主部から中間部に移る個所での劇的な変化、再び主部に戻るあたりの流れの良さ、そして全曲にあふれる瑞々しい情感━━5分足らずの小品に籠められたアンスネスの深味は見事なものであった。

 ユロフスキとベルリン放送響(旧東独の放送響)は、その協奏曲の前に置かれたモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲からして何ともガサガサした演奏で、それは練習不足なのか、オケの水準が落ちたのか、手抜きなのか、あるいは旅の疲れか? 

 プログラムの第2部はマーラーの交響曲「巨人」。外来オケは何故どれもこれも、こう「巨人」ばかりやるのか、と呆れるが、今回は第2楽章に「花の章」を復活させた演奏をすることで、僅かながらも差別化を狙ったようである。オーケストラにはフルートが「数え間違い」をするなど、散漫な雰囲気もなくはなかったが、ユロフスキは、とにかくここでは抑制したテンポの裡に念入りな構築を聴かせた。
 アンコールはバッハの「管弦楽組曲第3番」からの「アリア」のマーラー編曲版で、このあたりは選曲に工夫が見られる。

2019・3・19(火)カンブルラン指揮読売日響「果てなき音楽の旅」

     紀尾井ホール  7時

 常任指揮者カンブルランのお別れ演奏会シリーズの第3弾は、読響のメンバーと組んだ現代音楽のアンサンブル・コンサートだった。
 第1部ではエドガー・ヴァレーズの「オクタンドル」に始まり、メシアンの「7つの俳諧」が続き、第2部ではイタリアのジャチント・シェルシ(1905~88)の「4つの小品」、フランスのジェラール・グリゼー(1946~98)の「〈音響空間〉からのパルシエル」━━というプログラムである。「7つの俳諧」でのピアノは、ピエール=ロラン・エマール。

 こういう作品群をまとめて聴くという機会は決して多くないので、実に嬉しいことだった。「7つの俳諧」をエマールのソロ入りで聴けたことをはじめ、CDで聴くだけではその音響の空間的拡がりや和声的な音の衝突といった本領が判り難いシェルシやグリゼーの作品をナマで聴けたということも喜びである。
 特にシェルシの「4つの小品」では、4曲各々に、ある一定の音程のみが微妙に揺れつつ各楽器の音色やアクセントの違いにより不思議な音の厚みを以って増殖して行く━━第1曲の冒頭など、まるでブルックナーの亡霊でも現われて来たような錯覚に陥ってしまう面白さもある。

 そしてグリゼーの作品では、豊かな倍音が生み出す多彩な音色が耳を惹きつけるが、終結近くでは、奏者たちが譜面をガサガサと音を立ててめくったり、楽器をいじったりする物音たちがホワイト・ノイズ的効果を生み出して行く。その「雑音」のざわめきの中に照明が絞られて行き、最後は打楽器奏者独りにスポットが当てられ、彼がシンバルを両手に振りかざして最後の一撃を?と思わせた瞬間にステージは暗転して沈黙、場内には期待を裏切られた(?)聴衆の笑い声だけが残る━━という洒落た幕切れであった。

 なお、プログラム冊子に掲載された沼野雄司さんの解説は、「現代音楽の解説」ではありながら極めて解り易く、有益なものだった。

2019・3・19(火)ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン「椿姫」

     日本シネアーツ社 試写室  1時

 英国ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)で上演されたヴェルディの「椿姫」ライヴ映像の試写を観る。上映時間は休憩を含め3時間33分、一般上映は4月5日~11日、東宝東和系映画館。

 METのライヴを扱っている松竹と異なり、こちら東宝東和のビューイングは、上演・上映内容のデータが簡単すぎて、そもそもこれがいつ上演された舞台なのかについてもクレジットされていないのが困る。RHOのサイト(これがまた判り難い)で調べてみると、1月30日だったらしいということだけは判る。

 演出はリチャード・エア。もう四半世紀にわたりレパートリーになっている定番の舞台だ。1994年にRHOの音楽監督ゲオルク・ショルティがこれを上演する際、エアを強引に口説いて演出に引っ張り出したという話が、エア本人の口からも語られていたけれど、この話はなかなか面白かった。
 今回は指揮がアントネッロ・マナコルダ、配役はヴィオレッタをエルモネラ・ヤオ、アルフレード・ジェルモンをチャールズ・カストロノボ、父ジョルジョ・ジェルモンをプラシド・ドミンゴ、その他。

 ヤオの歌唱と演技をじっくりと聴き、観たのは今回が初めてだが、それほど派手ではないけれども安定して美しい歌唱ぶりであり、演技もなかなか巧い。ただ、メイクの所為もあるのだろうが、冒頭から何となくやつれた病身的な雰囲気を感じさせる上に、第3幕では幽鬼のような表情でゼーゼーと喘ぎながら歌うので(歌は完璧だが)観ているほうも少々辛くなってしまう。ヴィオレッタの執念のようなものをこれほど重病人らしい雰囲気で演じた歌手も、そう多くはあるまい。
 カストロノボはまず普通にこなしていたといった感。
 ドミンゴは、今ではテノールの声質を備えたバリトン歌手という趣だが、78歳という年齢で第2幕の長丁場をこれだけ完璧に歌えるということは、もはや奇蹟以外の何ものでもなかろう。

2019・3・17(日)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

     サントリーホール  2時

 ブルックナーの「交響曲第8番」。インバルがこの曲の「現行版」(ノーヴァク版第2稿)を指揮するのを聴いたのは、今回が初めてだ。

 予想通りの、いや予想を上回るほどの速いテンポで、全曲の演奏時間はおそらく72分から75分の間ほどではなかったろうか? そのかみのベイヌムが指揮したテンポに近い快速調の「ブル8」だったが、こちらインバルの指揮は、全曲にわたり緊迫した雰囲気が漲り、一分の隙もない強靭な構築性に支配された音楽である。壮大な自然の威容を思わせる演奏というより、鋭い力で凝縮され、絶えず前へ前へと驀進して行くような演奏。

 私はこの曲の第3楽章を聴くと、いつも高山の奥深くにある静寂な湖の畔に佇むような思いになるのだが、今日のインバルと都響の演奏からは、そのような安息に浸ることさえ許されぬような、ひたすら何かに向かって駆り立てられるような感覚を強いられてしまう。
 だからといって、それは決して不快な感覚ではない。何より、演奏そのものが乾いたメカニックなものでなく、常に温かさを滲み出させているからだろう。疾走する第2楽章のスケルツォや第4楽章を含めて、こういう演奏もまた良きかな、と思うのである━━昔だったら、多分反発しただろうが。

 都響(コンサートマスターは山本友重)も見事だ。インバルの求める揺るぎない構築性を楽々と実現しているように感じられる。第4楽章最後の轟々たる坩堝の頂点では、先立つ3つの楽章の主題がいっぺんに組み合わせられるが、それらが少しの混濁もなく、均衡豊かな音で明晰に響きわたっていたのには感心した。

 会場には、久しぶりに聞く超大音量の、怒涛のような拍手。

2019・3・16(土)角田鋼亮指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団

    日立システムズホール仙台・コンサートホール  3時

 午前11時20分発の「はやぶさ」で仙台に向かう。
 前項のセントラル愛知響の常任指揮者に抜擢された角田鋼亮の指揮を、今日は仙台フィルとの演奏で聴く。彼は、昨年4月からこの仙台フィルの「指揮者」でもあるのだ。

 これは彼の仙台フィル定期デビュー(2日目)だそうだが、そのために彼自ら選んだプログラムはなかなか凝ったもので、第1部がバッハ~エルガー編の「幻想曲とフーガ ハ短調BWV537」と、バッハ~バントック編の「目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ」、およびブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」、第2部がシューマンの「交響曲第2番ハ長調」という構成だった。

 プログラミングのコンセプトについては、マエストロ自身がプレトークで解説していたが、飯守泰次郎常任指揮者がシーズン・テーマとして打ち出している「ベートーヴェン」の他に、ドイツ3大B、「ヴァリエーション」の伝統、ブラームスの「変奏曲」における古きパッサカリア、シューマンの「2番」におけるバッハとベートーヴェンへの憧憬、等々━━詳細は省くが、なるほどと思わせるような「隠しテーマ」(?)がいくつも含められている。気鋭の指揮者の、すこぶる気負った定期デビューと言ってよいだろう。

 その彼が仙台フィルを指揮してつくり出した実際の演奏は、満々たる気魄に富み、しかも整然として折り目正しい構築性を備えていた。最初から最後まで、極めて生真面目な表情にあふれていた、と言っていいかもしれない。作品群の性格からして、それもあり得るだろうし、またそれらを貫くコンセプトからすれば、むしろ当然の成り行きだろう。
 この場合、シューマンの「第2交響曲」には、「精神性の病に陥った音楽家の苦悩の叫び」などという側面は表に現われず、むしろドイツ・ロマン派の大作曲家が抱く古典へのオマージュ」といった側面が浮き彫りにされる。そしてその演奏は、実際に説得性を持っていた。
 ただその一方、そのシューマンにしても、あるいはブラームスにしても、力み返った勢いだけでなく、個所によってはもう少し寛ぎや安息、微笑み、といった要素も欲しいように思われる。

 神谷未穂をコンサートマスターとする仙台フィルは、今回も瑞々しい演奏を聴かせてくれた。特にシューマンの「2番」は、立派な演奏だった。ただこれも、他の曲も含めて、あまりガリガリと激しい音を出すのではなく、小ぶりのこのホールの特性に合わせた、もう少し柔らかくあたたかい、「綺麗な音」を目指すようにしては如何かなとも思うのだが━━。

 夜、「やまびこ」で帰京。

2019・3・15(金)スワロフスキー指揮セントラル愛知交響楽団

     愛知県芸術劇場 コンサートホール  6時45分

 チェコの指揮者レオシュ・スワロフスキーは、かつて東京都響を指揮して、実に味のある「売られた花嫁」を聴かせてくれたことがある(2010年7月19日)。

 彼はこの5年、セントラル愛知響の音楽監督を務めていたが、今日がその在任時代の最後の定期公演なのだった。3年前に彼が指揮したドヴォルジャークの「スターバト・マーテル」は聞き逃してしまっていたので、今回はぜひ聴いておきたいと思ったのである。
 それに、このオケもしばらく聴く機会が無かった。前回聴いたのは2014年9月28日、トリフォニーホールにおけるオペラ「白峯」での演奏だったし、本拠地の名古屋で聴くのは2011年9月2日、しらかわホールにおける山田和樹(当時は彼も未だ「新進」だった!)が指揮した演奏会以来なのだ。

 今日は、スメタナの「わが祖国」全曲という、いかにもチェコの指揮者らしい、かつ日本のオーケストラとの仕事における総仕上げに相応しい作品だった。そして事実、期待を裏切らない、情感の豊かな、温かい演奏だったのである。
 「モルダウ」であの有名な主題が最初に登場した際、郷愁をたっぷりと湛えて、本当に美しい曲だなと感じさせるのは、チェコの名匠のみが為し得るワザとも言ってよいだろう。

 セントラル愛知響も、それによく応えていた。「モルダウ」の月光の場面でのフルートのゆらめき、「シャールカ」でのクラリネットの訴え、スティラート軍兵士たちの祝宴が佳境に入って行くくだりの弦のリズム、あるいは「ターボル」から「ブラニーク」にかけての緊迫感と追い込み━━などなど、なかなかの魅力にあふれていた。
 唯一、休憩後の「ボヘミアの森と草原から」の冒頭部分では、それまでの演奏にあった瑞々しさが何故か薄らいでしまっていた感があったが、間もなくそれも持ち直して行った。

 この「わが祖国」全曲を、郷土的な懐かしさを感じさせるいい曲だ、と感じさせてくれるような演奏は、世には必ずしも多いとは言えない。だが、今日のスワロフスキーとセントラル愛知響の演奏は、私には大いに愉しめたのである。コンサートマスターは島田真千子。

 スワロフスキーは、4月からは名誉音楽監督になる。新しいシェフには、これまでこのオケの「指揮者」だった若手の角田鋼亮が、常任指揮者に昇格して務めることになっている。
 8時半過ぎ終演。一度帰京。

2019・3・14(木)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日響「グレの歌」

    サントリーホール 7時

 シェーンベルクの大作「グレの歌」を日本初演したのは、ほかならぬこの読響だった。若杉弘の指揮で、1967年6月のことである。

 私も東京文化会館大ホールで、その演奏を聴いていた。だが、聴いた━━とはいっても、当時、この曲の真価を理解出来たとは、とても言い難い。たった一つ覚えているのは、ヴァルデマール役のテノール歌手が、終始、恐ろしく苦しそうな顰めっ面をしながら歌っていた━━この方はふだんからそういう顔をして歌う癖があるということはあとから聞いた━━ことだけ、という、我ながらお粗末な鑑賞力だったのはたしかである。

 それ以降、半世紀の間に、この曲をナマで聴く機会が、いくつあったか。ジェイムズ・レヴァインが東京でMETのオーケストラを指揮した演奏。秋山和慶が東京響を指揮した演奏。サイトウ・キネン・フェスティバルで小澤征爾が指揮した「舞台上演」。それから、あとは・・・・と、まあ、要するにそのくらい、演奏の機会の稀な大曲なのだ。
 ちなみに、かように滅多に演奏されぬこの「グレの歌」が、何故か今年はこのカンブルラン指揮読響に続き、大野和士指揮東京都響(4月)と、ノット指揮東京響(10月)と、計3つも競演されるのだから、偶然とはおかしなものである。

 それにしても、今回のカンブルラン指揮の読響ほど、オーケストラが豪放磊落に鳴りまくった演奏は珍しいのではないか。
 そもそもシェーンベルクの管弦楽法は、どんなに大編成であってもあまり分厚い音で鳴らないという不思議な傾向があるのだが、今日のカンブルランと読響は、ホールを揺るがせんばかりの大音響で、重厚かつ豪放に鳴りわたった。フルート8、トランペット6、ホルン10━━を含む超大編成のオーケストラが渾身の力で咆哮するさまは、何とも壮烈極まりない。
 だがそれは決して、ただむやみに怒鳴りまくる演奏ではない。むしろ、その音は極めて豊麗で、濃厚な色彩感と、決して無機的にならぬ厚みのある音で、この曲の後期ロマン派的な性格を全面的に押し出す演奏となっていたのである。

 それはそれで大いに結構なのだが、一方、そのワリを食って苦しい立場に追い込まれていたのが、ヴァルデマール役のロバート・ディーン・スミスだった。
 彼は苦しい顔もせず、しかも暗譜で楽々と歌っていた。だが、何しろ彼の出番のパートのほぼ全部が、大管弦楽の最強奏に彩られているのであり、しかもオケの鳴りがいいとなれば、あれを突き抜けて声を響かせることなど、不可能というに等しいだろう。おかげで彼の歌はその熱演にもかかわらず、あまりこちらに聞こえてこなかったのである。それは、第3部にのみ登場する新国立合唱団に関しても、同じようなことが言えたであろう。

 その他の歌手たち、レイチェル・ニコルズ(トーヴェ)、クラウディア・マーンケ(森鳩)、ディートリヒ・ヘンシェル(農夫・語り)、ユルゲン・ザッヒャー(道化師クラウス)は、みんな素晴らしい歌唱を聴かせてくれた。彼らの歌う個所は、あまりオーケストラの咆哮で妨げられることがなかったおかげで、それぞれの本領が聴かれたのである。とりわけ、2人の女声歌手の歌唱、その中でもクラウディア・マーンケの存在感は見事だった。

 総じてこの「グレの歌」は、圧倒的な量感に富む演奏だった。それはこの曲における、後期ロマン派音楽の壮麗な落日ともいうべき面を浮き彫りにしたものとも言えたであろう。その演奏の凄まじさは、カンブルランの近年の円熟と、読響の底力を如実に示すものでもあった。これは、カンブルランが読響で指揮した大曲の中でも、メシアンの「アッシジの聖フランチェスコ」とワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」とともに、記憶されるべき存在であろうと思われる。

 それにしても、これだけの歌手をそろえた公演がたった1回とはもったいない話だ。P席を合唱のために充てながらも、客席が満席とならなかったのも残念だったが━━やはり「シェーンベルクでは客集めが苦しい」のだろうか? それとも今日は、オペラシティでのハーディングとマーラー・チェンバー・オケの「モーツァルト後期3大交響曲」とぶつかっていた所為だろうか? 

 なおこれはカンブルランの常任指揮者任期完了による退任のお別れ演奏会シリーズの2つ目であった。コンサートマスターは小森谷巧。

2019・3・13(水)ハーディング指揮マーラー・チェンバー・オーケストラ

     すみだトリフォニーホール  7時

 プログラムは、シューベルトの「交響曲第3番」およびブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」だが、今日はそれに先立ち、エルガーの「エニグマ変奏曲」からの「ニムロッド」が置かれていた。

 この「ニムロッド」はもう、あの「3・11」の犠牲者追悼の意を含んだ選曲だということは、すぐ判る。演奏が終ったあと、ハーディングは身動きせぬままに長い静寂をつくっていたが、聴衆もまたそれに応じ、ホールの中はしわぶき一つ起らぬ状態が続いた。
 ハーディングは、ほかならぬあの大震災の時に新日本フィルの指揮者としてこの会場にとどまっていた人だったし、その後も新日本フィルの演奏会では自らも募金箱を抱えてロビーを回ったほどの人である。今日の聴衆の中には、それを覚えている人も多かったであろう。

 「ニムロッド」の演奏の時から、弦が硬い響きだったのが気になった。今日聴いた席の位置は1階席の23列ほぼ中央だが、このあたりで聴くと金管の音がまっすぐ来て、全体が硬質な音に聞こえる傾向があるのは、以前から感じていたことだった。今日の音の印象も、その所為だったかもしれない。
 したがってシューベルトの「第3交響曲」では、リズムの明確さが目立ち、いわゆる旋律的な流麗さの親しみやすさ(例えば第1楽章第2主題)とか、和声的な美しさ(例えば第2楽章中間部)とかいう要素は二の次になっている演奏、というような印象を受けた。だが、シューベルトの場合にはそれでもいいだろう。

 しかし、ブルックナーの交響曲となると、必ずしもそうは行くまい。「4番」は、和声的な重厚さ、響きの壮麗さ、アルプス的な巨大な威容とかの要素よりもむしろ、音と音とのぶつかり合いから生まれる緊迫感とエネルギーに重点を置いたような演奏という感だったが、この「ロマンティック」にそのような演奏が良い結果をもたらすかどうかになると、些か疑問がある。
 特に第2楽章など、味も素っ気もない裸の音が低回しているようで、全部が全部とは言わないまでも、乾いた演奏に聞こえてしまう。「第6番」以前の彼の交響曲の緩徐楽章は、やはりブルックナー特有の癖と雰囲気を重視した演奏でないと、生き難いのではないか。

 ただしこれらの印象は、上階の、特に3階のバルコニー席あたりで聴いたら、また異なったものになるのではないかという気もしないではない。

2019・3・11(月)METライブビューイング 「カルメン」

    東劇  7時

 2月2日にメトロポリタン・オペラで上演されたビゼーの「カルメン」のライヴ映像。
 リチャード・エアの演出で、今回の主な出演は、カルメンがクレモンティーヌ・マルゲーヌ、ドン・ホセがロベルト・アラーニャ、エスカミーリョがアレクサンダー・ヴィノグラドフ、ミカエラがアレクサンドラ・クルジャック。指揮がルイ・ラングレ。ギロー版に由る上演である。

 これはもう、METではかなり前から上演されているプロダクションだ。私も2013年2月16日にMETで観て、2014年12月16日にはライブビューイングで観た。
 最初に観た時には、歌手陣も指揮者も全く冴えないルーティン的な出来で、METとしては愚作の部類ではないか、とまで思ったりしたものだが、その後ロベルト・アラーニャとエリーナ・ガランチャ、バルバラ・フリットリらが歌った2010年上演のDVD(グラモフォン UCBG1288~9)を観て、認識を全面的に改めた次第であった。

 今回の題名役マルゲーヌはフランスの人で━━既に一昨年同役でMETデビューしている━━少しおっとりした雰囲気だが、まあ悪くはない。アラーニャは、そのDVDでのホセと比較すると演技があまり細かくなく、声質もかなり変わって来たなという感もするが、やはり立派なものだろう。彼の現在の夫人クルジャックがミカエラを歌っており、これがなかなか愛らしくて好ましい。

 演奏時間は正味2時間45分程度で、休憩は1回(第2幕のあとのみ)だが、出演者インタビュー(これは毎回面白い)や次回作紹介とそのインタビュー(これはどうも長すぎる)が織り込まれているので、上映時間は3時間30分におよび、終映は10時半となった。そういうわけだから、やはりマチネー上映の回の方が客席は埋まるようである。

2019・3・10(日)Memory of Zero 

    神奈川県民ホール 大ホール  3時

 「一柳慧×白井晃 神奈川芸術文化財団芸術監督プロジェクト」としてのダンス公演。
 構成と演出を白井晃、音楽監督を一柳慧、振付を遠藤康行。
 演奏が板倉康明指揮の東京シンフォニエッタ、ピアノは一柳慧と藤原亜美。
 ダンスは小池ミモザ、鳥居かほり、高岸直樹、引間文佳ほかアンサンブル。
 第1部が「身体の記憶」、第2部が「最後の物たちの国で」(ポール・オースター原作、柴田元幸訳、白井晃のナレーション付)と題されている。

 大ホールを会場としてはいるものの、われわれ観客は通常の客席ではなく、舞台奥に階段状に特設された席に座らされ、舞台の「前方」いっぱいに展開されるダンスを奥の方から鑑賞するという形だ。オーケストラは舞台下手の袖の位置に配置されているが、第2部の最後の部分で一柳慧が弾くピアノだけは、上手側に置かれている。

 なお、その階段状の客席には柔らかいクッションが1人分ずつ置かれており、座り易いのは確かだが、私のような年齢と身体状態の者にとっては、背もたれのない場所に2時間も動かずに座っていることが如何に「よろしくないこと」かを実感させられる羽目になってしまった。「自由席なので、休憩時間に他の席に移動し、違った角度からダンスをお楽しみ下さい」との触れ込みなのだが、なんせぎっしりの満席状態では、「他の席」に移りようもないのである。

 音楽は、第1部では一柳慧の「レゾナント・スペース」「タイム・シークエンス」「リカレンス」が使われ、第2部では彼の「交響曲第8番「リヴェレーション2011」(室内オーケストラ版)及び「水炎伝説」の一部、それにバッハの「パルティータ第2番」からの「サラバンド」、ベートーヴェンの「葬送ソナタ」第3楽章が使われていた。

 特に一柳の「第8交響曲」は、あの「3・11」の意識が投影されているという作品だけに、破壊・荒廃・暴力・破滅を激烈に描くこの「最後の物たちの国で」の物語と、これ以上はないほど完璧に合致する。一方、その中に混じって聞こえて来るバッハとベートーヴェンの音楽は、不思議なほどに束の間の安らぎや、仄かに見える希望のようなものを感じさせて、これまた実に効果的なのである。
 今日この頃の世界情勢を思えば、これまでにないほど現実味を帯びて感じられるようになって来たこのストーリーと音楽に、異様な恐怖感を覚えてしまったのは私だけだろうか? 
 一柳慧が静かに弾くピアノにダンサーたちが救いを求めるように集まり、物語が溶暗の中に終って行く時、遥か彼方の2階席後方にたった一つ開かれたドアから眩しい光が希望の象徴のように差し込んで来る、という演出は、見事なものだった。

 アフタートークが一柳、白井、遠藤、小池という顔ぶれで行なわれる準備が整いつつあったようで、これも是非聞きたかったところだが、前述の通り、悪い姿勢のまま座っていたのが災いして、両腕にも軽い痺れを感じるという状態に陥ってしまったので、残念ながら聞かずに失礼した。脊椎の所為だか何だか判らぬが、厄介なものである。

2019・3・9(土)「くちづけ━━現代音楽と能」

    東京文化会館小ホール  4時

 「東京文化会館 舞台芸術創造事業 日本・ハンガリー外交関係開設150周年記念」と付記された演奏会。
 前半に中堀海都の「二つの異なる絵」(委嘱作品初演)とバログ・マーテーの「名所江戸百景」(同)が演奏され、後半にエトヴェシュ・ペーテルの「Harakiri」、細川俊夫の「線Ⅵ」、およびエトヴェシュの「くちづけ」(国際共同委嘱作品、日本初演)が演奏された。

 演奏会タイトルの「現代音楽と能」とは、上記のうちエトヴェシュの2作品において青木涼子(東京藝大で観世流シテ方を専攻)による能が組み合わせられるということから付けられたものだろう。
 「Harakiri」は、三島由紀夫の自決に霊感を得たハンガリーの詩人バーリント・イシュトヴァーンの書いたテキスト(アンデルセンの童話の一つが組み合わされている)を使用して1973年に作曲されたもの。
 また「くちづけ(Secret Kiss)」は、幕末の日本を舞台にした官能的な愛の物語「絹」(A・バリッコ作)を基にしたもので、青木涼子の委嘱により作曲され、今年1月にエーテボリで初演されたばかりの作品とのこと。

 囃子はいずれも室内楽規模の洋楽器群が受け持つが、その静謐ながら強い緊迫感に満ちた音楽は強い印象を残す。
 謡の青木涼子は、口語体の日本語(前者はシンゴ・ヨシダ訳、後者は平田オリザの日本語台本)を極めて明快に発音し、洋楽器との対比と調和とを浮かび上がらせるという大技を聴かせてくれるのには感心した。それは恰もオペラにおけるレチタティーヴォのような性格をも感じさせるところがある。
 とはいえ、レチタティーヴォが歌ではありながらアクセントなどにおいて「話し言葉」に隣接した性格を常に備えているのに対し、能の謡の場合には、その口語体の言葉とのギャップは甚だ大きいものがあると思うのだが━━もっとも、オペラにしたって、表現主義以降の現代オペラにおける旋律線の大きな飛躍の場合を考えれば、同じようなものかもしれないが━━そのへんの問題は、能に関しては不勉強な私にはよく解らない。
 しかしいずれにせよ、現代音楽と能とをこのように対峙あるいは調和させ、新しいものを生み出そうとする試みは、素晴らしいことである。

 なお事前の触れ込みでは、この2曲には平田オリザによる演出がつく、ということだったが、実際には所謂「演出」めいたものはさほど見られなかったようである。これは会場が能舞台ではなく、「小ホールのステージ」だったのだから、仕方のないことだろう。
 その他の3曲を含め、演奏者としては神田佳子(perc)、斎藤和志(fl)、山根孝司(cl)、コハーン・イシュトヴァーン(cl)ほか多くの腕利きたちが参加していた。

2019・3・7(木)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 読響を指揮して多くの名演を残したカンブルランの常任指揮者としての任期も、ついに今月いっぱいとなってしまった。今月は4種のプログラムの演奏会が組まれているが、この日はその最初のもので、前半がイベールの、後半がドビュッシーの作品による「名曲シリーズ」である。

 イベールの2曲は、「寄港地」と、サラ・ルヴィオンをソリストに迎えての「フルート協奏曲」。
 前者はやや落ち着かない雰囲気の演奏ではあったものの、読響の各パートの腕達者ぶりが発揮され、後者はルヴィオンの実にまろやかで温かいソロが際立って、いずれも快い印象を残してくれた。ルヴィオンがアンコールで吹いたドビュッシーの「シランクス」も、これだけフルートという楽器の持つ音色のあたたかさと言ったものを感じさせてくれた演奏は稀であろう。

 後半のドビュッシーは、最後に「海」が置かれ、これは壮大な音の饗宴とでもいうべきものだったが、その前に演奏されたハンス・ツェンダー編曲による「前奏曲集」5曲(帆、パックの踊り、風変わりなラヴィーヌ将軍、雪の上の足跡、アナカプリの丘)が度外れて奇怪で、面白かった。
 ツェンダーの編曲と言えば、もう随分前にシューベルトの「冬の旅」のCDを聴いて、肝を潰したり、感心したりしたものだが、今回のドビュッシーの「前奏曲集」でもツェンダーは、原曲のイメージを叩き潰したような大胆で傍若無人な、かつ痛快無類な管弦楽編曲版を私たちの前に突きつけてくれた。オーソドックスなプログラムの中にこういう曲を挟んだところに、企画者と指揮者のセンスの佳さも窺えるだろう。
 コンサートマスターは長原幸太。

2019・3・5(火)クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル

        東京オペラシティ コンサートホール  7時

 「日本・ポーランド国交樹立100周年記念事業 ポーランド芸術祭2019 in Japan 参加公演」と付記されているクリスチャン・ツィメルマンのリサイタル。今日は来日ツアーの5日目にあたる。
 プログラムは、ショパンの「4つのマズルカ 作品24」とブラームスの「ソナタ第2番」、後半にショパンの「4つのスケルツォ」。アンコールにブラームスの「4つのバラード 作品10」から3曲。

 素晴らしいプログラムだったが、2階席正面最前列で聴いていると、不思議に音が「遠く」感じられて、聴き慣れたツィメルマンの、あの瑞々しくふくよかな世界が何処にも見当たらず、戸惑った。びわ湖ホールの「ジークフリート」から帰って来た直後で、しかも昨日、今日と、確定申告の資料作りで目も頭もよれよれになっていたのは事実だが、まさかそのせいでもあるまい━━。
 この位置の席ではピアノから遠すぎるのかという気もしたが、以前、だれかのピアノ・リサイタルを聴いた時にはそれほどの違和感はなかったのだから、今日の超満員の客席がこのホールの豊かな残響を全て吸ってしまった影響なのか、あるいは、今日の使用ピアノの・・・・? 
 ともあれ、頭上に「屋根」のない平土間席や3階席、あるいは前方のバルコニー席だったら、もっと異なったアコースティックになっていたのでは、と思われる。

 7年ほど前、ツィメルマンのリサイタルで、シマノフスキの叙情的な陶酔感がブラームスの「第2ソナタ」で劇的に破られた瞬間の衝撃は今でも記憶に生々しい。今日も「マズルカ」のあとにこの曲が始まった時には、その斬り込むような鋭さに、これでいつものツィメルマンに━━と愁眉を開いたのだが、やはりどうも、演奏が不思議に「乾いて」いるのである。

 休憩時間にピアノの調律をしたのかしなかったのかは定かでないが、第2部冒頭の「スケルツォ第1番」になっても、もどかしさが抜け切れぬ。中間部の終り、あの優しい「束の間の安息」を打ち破る威嚇的な一撃があり、音楽はそれでもなお安息の余韻に縋りつこうと空しい努力を続ける個所があるが、そこでの緊迫感と情感とを欠いた━━もしそれらがあったとしても希薄か、あるいは伝わって来ない━━不思議な演奏は、とてもいつものツィメルマンとは思えぬものだった。

 ただし、その演奏が突然変わり始めたのは、そのスケルツォが再現してからあとである。やや乾いた音色と表情なりに、演奏には巨大な雲が沸き立ち、渦巻きながら迫って来るような物凄さが、演奏に漲って来た。そうした魔性的な混沌が、そのイメージを保ったまま堅固な構造体に組み上げられて行くといったような背反的な演奏は、いかにツィメルマンでも滅多に聴かせたことはないのではないかと思うが━━とにかくそのあとは、十全ではなかったものの、彼の演奏に没頭することが出来たのだった。特に「スケルツォ第2番」は、この日の圧巻だったと思う。

2019・3・3(日)ワーグナー:「ジークフリート」2日目

      滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール  2時

 今日のキャストは、ジークフリートをクリスティアン・フォイクト、ブリュンヒルデをステファニー・ミュター、さすらい人(ヴォータン)をユルゲン・リン、ミーメを高橋淳、アルベリヒを大山大輔、ファフナーを斉木健司、エルダを八木寿子、森の小鳥は昨日と同じ𠮷川日奈子、助演の熊も同様に小嶋卓也。

 京都市交響楽団は、予想通り、昨日とは格段の差、「良い時の京響」らしい出来を示した。特に弦の厚みはこのオケならではのもので、第3幕のみならず、その前の2つの幕でも瑞々しい響きを聴かせてくれた。福川伸陽の「角笛」も快調である。

 ところが好事魔多し。今日のジークフリートが、いかにも弱い。深窓の令息(?)とでも言ったような雰囲気で、綺麗な声なのだが、「恐れを知らぬ英雄」としての力強さが、まるきり乏しいのである。
 第1幕最後の鍛冶の場での声のおとなしさはもどかしいほどで、これでは大蛇ファフナーを斃すのも覚束なく、もしかしたら返り討ちに逢ってしまうんじゃないか、ストーリーを変えざるを得ないんじゃないか━━とまで思わせる頼りなさ。

 それでも何とか予定通り大蛇を退治したものの、第3幕でのヴォータンとの対決場面、続くブリュンヒルデとの長大な二重唱では、それぞれ相手がパワー充分の歌唱を聴かせただけに、それと張り合うには何とも分が悪く、声量のバランスの悪い状態になってしまったのである。昨日のクリスティアン・フランツはやはり凄かったよなあ、というのが、われわれロビー雀たちのさえずりであった。

 ブリュンヒルデのミュターは、昨日の池田香織のまろやかな美しい声と正反対に、ダイナミックな輝かしい声で最後の場面を飾った。
 ミーメの高橋淳はいかにもこの役らしい芝居巧者の歌唱表現と演技で、要領の悪い小人の鍛冶屋を見事に表現していた。だが、それでもやはり昨日のホフマン同様、あまり哀れっぽくて騒々しいキャラクターとしてこのミーメを演じていなかったのは、ハンぺの演出上の注文だったのだろうか? 

 一方、ユルゲン・リンのさすらい人は力感充分ではあるものの、第3幕のエルダとの場面では、声も表情も荒々しく、かなりやくざっぽいヴォータンという雰囲気になってしまっていた。ヴォータンをガラの悪い権力指向の大親分として描く演出もないではないが、少なくともこのハンぺ演出はトラディショナルな、神がまだ神としての尊厳を失っていなかった時代のヴォータン像を求めているスタイルのもののはずであり、その意味ではもう少し気品と威厳をこめて歌ってもらいたかった、と思う。
 ただし見方を変えれば、この場での歌い方は、ワーグナーが巧みに描いているヴォータンの自暴自棄的な心理状態を、極度に強調したものだった、とも解釈できるのである。その他の場面では、これほどまでに荒っぽい歌い方はしていなかったからだ。

 沼尻竜典の指揮は、正確で緻密である。オーケストラが昨日と違って好調さを取り戻していただけに、特に第3幕を中心として、作品本来の力強さを蘇らせた演奏をつくり出していた。このツィクルスで、これだけ京響が見事な演奏を聴かせる要因の一つには、やはり沼尻がこのびわ湖ホールのアコースティックを熟知して、ピットでオケをバランスよく鳴らすコツを心得ていることも挙げられるだろう。

  ただし、沼尻のテンポは、昨日と同様、遅い。その遅いテンポは、時として作品の昂揚感を薄めさせてしまう傾向もなくはない。特に幕切れの頂点に向かって音楽が昂揚に次ぐ昂揚を重ねて行くはずの個所でも、テンポが抑制されているため、ワーグナー特有のデモーニッシュな熱狂が今一つ薄く、聴き手の側でも興奮に駆り立てられる度合いが低くなってしまう━━という感もあるのだ。
 もともと沼尻は、クールな音楽構築を特徴とする指揮者だった。それゆえ、この「指環」におけるこのような演奏も、指揮者の個性の為すところなのであり、あとは、聴き手の好みの問題である。

 かくして、来年はいよいよ「神々の黄昏」だ。

2019・3・2(土)ワーグナー:「ジークフリート」初日

      滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール  2時

 「びわ湖ホール プロデュースオペラ」のシリーズの一環、毎年3月に1作ずつ上演されている「ニーベルングの指環」ツィクルスの第3部「ジークフリート」。
 沼尻竜典指揮京都市交響楽団が演奏、ミヒャエル・ハンぺが演出を、ヘニング・フォン・ギールケが舞台美術と衣装を、齋藤茂男が照明を受け持っている。

 ダブルキャストの今日の配役は、ジークフリートをクリスティアン・フランツ、ミーメをトルステン・ホフマン、さすらい人(ヴォータン)を青山貴、アルベリヒを町英和、ファフナーを伊藤貴之、エルダを竹本節子、ブリュンヒルデを池田香織、森の小鳥を𠮷川日奈子。なお、「ジークフリートの角笛」のシーンでのホルンのソロは、客演奏者の福川伸陽が吹いていた。

 舞台は、このツィクルス共通の、ト書き通りのストレートな手法である。映像と大道具とを巧みに調和させた写実的な情景がつくり出され、緑の森と洞窟、鍛冶屋の小屋、岩山が現れる。熊(小嶋卓也の扮するヌイグルミ)も、もちろん大蛇も出て来る。

 演技は少々おおらかで鷹揚なところもあるが、アルベリヒ(町英和)などは、かなり細かい演技をしていた
 またジークフリートがミーメの洩らす危険な本音を聞きつつ、同時に森の小鳥の声にも注意を払い続けるという演出上の設定も行われていた(オットー・シェンクの演出ほどには微細ではなかったが)。
 とにかく、ハンペの演出は、当節よくある「謎解き」に気を取られる必要が全くない演出なので、好悪はともかく、その分、音楽に集中できるというものであろう。それが狙いであることを、沼尻芸術監督自身も、いろいろな機会に明言しているのだ。

 歌手陣はみんな安定している。その中でも、青山貴(さすらい人)の澄んだ伸びのある声の威厳あるヴォータン表現と、池田香織(ブリュンヒルデ)の清純で輝かしい声による歌唱は傑出していて、魅了される。
 クリスティアン・フランツ(ジークフリート)の歌いぶりは、やや自由に過ぎるところもあるし、鍛冶のリズムはもっと正確に叩いて貰いたいところだが、あの強靱なパワーにあふれた声はやはり立派なものというほかはない。
 トルステン・ホフマンは、かなりパワフルな表現で、ミーメという小人がアルベリヒより強そうな男に見えてしまい、一般に演じられるようなヒステリックで哀れな男というイメージに乏しかったせいか、歌唱そのものは優れていたものの、あまり観客の同情(?)を集めなかったようである。

 沼尻竜典の指揮は、テンポと音量を抑制気味にして、「ジークフリート」の音楽の中の叙情性を浮き彫りにすることを優先したのかとも考えられるが、見方を変えれば、この音楽の壮大さを些か犠牲にした感もないではなかった。
 テンポを遅く採った(少なくともそのように聞こえた)ことは、滔々たる流れといったものに乏しい第1幕と第2幕の音楽においては、あまり良い結果を生まなかったように思われる。といって、音楽の性格がガラリ変わった第3幕においても、その本来の雄渾壮大な響きが存分に発揮された個所は、意外に少なかったのではないか? 
 京都市響も金管群の聴かせどころに不調が頻発して、どうもあまりノリがいいとも思えなかったのだが、ただ第3幕では、何個所かに、このオケらしい厚みと輝かしさが響き渡っていたのも確かである。そういえば、昨年の「ヴァルキューレ」でも初日の演奏はノリが悪かったのを思い出したが━━明日の2日目の上演では、すべて解決されるだろう。

 ともあれ、力作である。沼尻芸術監督以下、びわ湖ホールの意欲的な姿勢は讃えられてよい。ロビーで私に声をかけて来た一人の観客の方の、「関西でもこういうものが観られるようになったのは、本当に幸せです」という感想に勝る賛辞があろうか?

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