2023-12

2019年6月 の記事一覧




2019・6・28(金)阪哲朗指揮山形交響楽団 東京公演

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 恒例の山響東京公演「さくらんぼコンサート」。
 ロビーでは山形の名産品がずらり展示され販売されており、帰りがけには「でん六」と「シベール」の菓子が入った袋がプレゼントされる。無料配布のプログラム冊子に「あたり」のシールが貼ってあれば、サクランボ1箱がもらえる。━━というような、例年通りの賑やかさだ。

 今年は、4月に常任指揮者となった阪哲朗の指揮で、モーツァルトの「セレナータ・ノットゥルナ」と「交響曲第36番《リンツ》」を最初と最後に置き、その間にモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」と「コジ・ファン・トゥッテ」及びヴェルディの「リゴレット」からのアリアや二重唱など計8曲を演奏するというプログラムで開催された。声楽ソリストは森麻季と大西宇宙、コンサートマスターは高橋和貴。

 声楽ソリストたちの華やかな好演━━特に大西宇宙は力と伸びの豊かな声で素晴らしいドン・ジョヴァンニやリゴレット役を聴かせた━━により、主役の山響の存在感はやや薄らいでしまった感がないでもない。ふだん、オペラには慣れていない山響だし、「コジ」などでは、時に意に満たぬ演奏も聞かれたのは事実だ。
 ただし一方、欧州で豊富なオペラ指揮の経験を積んで来た阪哲朗の手腕も、例えば「リゴレット」の二重唱の締め括りなどで劇的に発揮されていたのは間違いない。

 しかし、演奏会の最後を飾った「リンツ交響曲」は、ピリオド楽器スタイルの輝かしい、メリハリのある、しかし柔らかくあたたかい音色をたたえた美しい演奏だった。欲を言えば、終楽章の最後のクライマックスで、阪哲朗の劇的感覚を発揮してのひと押しがさらにあってもいいという気もしたけれども。

 阪哲朗の就任により、山響のレパートリーにも、今後はオペラが少しずつ取り入れられて行くのだろうか? さしあたり、定期公演のプログラムには未だその動きはないが、来年は山形駅前の、以前からある山形テルサホールの隣に、2千人キャパの新しいホールが竣工するからには、新しい展開も見られるかもしれない。

※冷房にノドをやられて風邪気味になり声が出なくなり、27日の「荘村清志ギター・リサイタル」も、今日の昼間の「調布国際音楽祭」の「後宮よりの逃走」も聴きに行かれなかったのは残念。(29日の小山実稚恵リサイタルも同様、いずれも電話で欠席連絡をする仕儀となる・・・・)。

2019・6・26(木)ニュウニュウ(牛牛)ピアノ・リサイタル

      浜離宮朝日ホール  7時

 本名は張勝量、1997年の中国生まれ。幼い頃から話題を集めていた少年だった。もう22歳になったのか。柔らかくて美しい音色の持主だ。

 この日のリサイタルは、第1部にメンデルスゾーンの「ロンド・カプリチオーソ」、ショパンの「即興曲」から第2番と第3番、および「葬送行進曲付きソナタ」。第2部にショパンの「舟歌」、リストの「ウィーンの夜会」、シューベルトの「即興曲集作品90」から第2,3,4番、最後にショパンの「スケルツォ第3番」。
 一風変わった曲目配列に感じられるが、実際に聴いてみると、曲の続き具合などの点である程度納得の行くプログラムではある。

 良し悪しは別として興味深い解釈だったのは、これらの中でショパンの作品群のみがかなり強い性格表出を以ってドラマティックに弾かれ、その一方、その他の作曲家たちの作品がどれも同じような表情を以って演奏されていたことだろう。
 それは意図的なことだったのかもしれないが、しかし、例えばシューベルトの即興曲集の演奏において、三部形式のそれぞれの部分、あるいは変奏曲の各部分の対比がほとんど明確に描かれていなかったことには疑問も残る。このあたりは、ニュウニュウにとっての今後の課題ではなかろうか。

2019・6・25(火)松尾梨沙・原田英代レクチャー・コンサート

     スタインウェイ・サロン東京 松尾ホール  6時30分

 みすず書房から、「ショパンの詩学 ピアノ曲《バラード》という詩の誕生」という松尾梨沙(音楽学)の著書が、今年2月に刊行された。400頁に及ぶ大著で、非常に興味深い内容だが、読むには「相当な根性が要る」(トークでの原田英代さんの表現)。

 今日はそれに関連してみすず書房が主催したレクチャー・コンサートで、松尾梨沙が講演、原田英代がショパンの「バラード」の第1,3,4番を演奏する、というものだった。
 ショパンの歌曲がいかに詩の言葉のリズムを忠実に反映しているかということから、「バラード」というピアノ曲にもそれが如実に反映されていること(たとえば強弱+弱弱強)、また「バラード」がまるで詩と同じように韻を踏んでいるフレーズ構築になっていることなどが、ポーランド語による詩の朗読(松尾)やピアノ演奏による分析(原田)を通じて鮮やかに提示される。お二人の話が実に解り易く面白い。
 88席(ピアノの鍵盤数に因む席数なる由)の会場は満杯。

2019・6・23(日)広上淳一指揮京都市交響楽団 東京公演

      サントリーホール  5時

 京都市交響楽団の演奏は、びわ湖ホールでのオペラや京都市コンサートホールでの演奏会などで、年に複数回は聴いているが、サントリーホールで聴くのは、私としてはあの超ド級快演のマーラーの「巨人」以来、5年ぶりになるか(京響の東京公演そのものは2年前にも行なわれているはずである)。

 今回は、常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一の指揮のもと、ブラームスの「悲劇的序曲」、コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは五嶋龍)、ラフマニノフの「交響的舞曲」、エルガーの「ニムロッド」(アンコール)が演奏された。客演コンサートマスターは寺田史人。

 五嶋龍の若々しい雰囲気のステージも客席を沸かせていたけれども、私としてはやはり広上淳一と京都市響の変わらぬ快調ぶりに熱狂させられる。このオーケストラ、管も良いが、特に弦楽器群の音の輝かしさと、柔らかく、ふくよかな美しさは、国内オーケストラの中では随一だろう。何より魅力的なのは、その演奏全体にあふれる「あたたかさ」ではなかろうか。

 「悲劇的序曲」では、翳りの中にも、ブラームス特有の優しさが甦る。
 コルンゴルトの協奏曲では、この作曲家が持つ妖しい官能性が驚くほど見事に再現されていた━━五嶋龍のソロにもその叙情性が聞かれたが、それと対照的な激した部分とがもう少し流麗なバランスで構築できていればとも思う。

 「交響的舞曲」でも、よくあるような荒々しい攻撃的な演奏になることなく、むしろ豊麗さが優先された、叙情的なあたたかさを備えたラフマニノフ像、とでもいったものがつくり出されていた。
 もっとも、そのため、第3楽章で「怒りの日」などのモティーフが暴れ回る部分のような、リズミカルな躍動感は少し薄らいだ感はあったかもしれない。だがその一方では、第2楽章での━━瞬時ではあるものの━━クルト・ヴァイル的な妖しさが顔を覗かせる個所での面白さは、巧く出ていたような気がする。そしてそれが、コルンゴルトの作品との微妙な関連性を感じさせもしたのである。

 余談だが、カーテンコールの際、かつては京響のステージにあふれていた女性楽員たちの花咲くような笑顔が、どこかへ消えてしまっていたのは、寂しい。愉しさを分かち合うようなあの雰囲気は、演奏が終ったあとのホールを和やかにしていたものだ。
 ただその代り、終演後のロビーで、ずらり並んで笑顔でお客を見送る楽員たちの姿が、多数見られた。各都市のオケは、地元のホールではたいていこれをやっているが、東京公演でやるのは、珍しい。

2019・6・22(土)渡邉暁雄生誕100周年記念演奏会

    サントリーホール  2時

 今年は、日本フィルハーモニー交響楽団の創立指揮者・渡邉暁雄の生誕100年にあたる。ただし、彼の誕生日は6月5日。
 今日・22日は、彼の命日(1990年)であり、また日本フィルの創立(1956年)記念日でもある。

 上皇ご夫妻も臨席(演奏会前半のみ)されたその日本フィルの記念演奏会のプログラムは、前半がシベリウスの「フィンランディア」、ガーシュウィンの「ピアノ協奏曲へ調」、小山清茂の「管弦楽のための木挽歌」、後半がマーラーの「第5交響曲」からの「アダージェット」と、シベリウスの「第5交響曲」というもので、終演は4時半になった。
 指揮が藤岡幸夫、コンサートマスターが扇谷泰朋。「フィンランディア」での合唱は日本フィルハーモニー協会合唱団。「協奏曲」でのピアノは寺田悦子、渡邉規久雄、渡邉康雄が、各1楽章ずつ弾いた。

 このプログラム、シベリウスの作品をはじめとして、いずれも渡邉暁雄及び日本フィルとは縁のある作品だ。
 「管弦楽のための木挽き歌」は昔、日本フィルの演奏で何回か聴いたことがある。特に第4曲では、首席ティンパニだった故・山口浩一氏が、楽器を自分の周りに並べ、自らクルクルと回転しつつ叩いて行くのが名物だった。現在の首席奏者エリック・バケラはそんな芸当をせずに鮮やかに叩いていたが。

 ガーシュウィンのコンチェルトは、1957年4月4日の日本フィル第1回定期演奏会のプログラムに含まれていた曲でもある。あの時代、これを定期の曲目に取り上げたことは、いかにもジュリアード音楽院指揮科に学んだ渡邉暁雄らしい、と、当時も誰だかがラジオで喋っていたような記憶がある。
 今日は「渡邉暁雄一家」の人々3人がこのコンチェルトの3つの楽章をそれぞれ1楽章ずつ弾くという、些か内輪的なイメージの企画が実施されてはいたが、まずは微笑ましいものと称しておこう。

 余談だが、私が学生の時、軽井沢は千ヶ滝に西武のスケートセンターが在った頃、そこの大きな池で、ボートに乗っておられた渡邉暁雄氏一家をお見かけしたことがある。男の子さんも確か2人ほど居られたから、きっと前述のどなたかだったのではあるまいか。
 われわれ不良学生(?)3人の乗ったボートを漕いでいたヤツが、私が「やめとけ」と止めるのも聞かずに渡邉氏のボートに接近、わざとぶつけておいて、「失礼しました、すみません」と大声で謝ると、渡邉氏がにこやかに「いやいや」と応じて下さった。ヤツはそのあと、「渡邉アケさんと話ができた!」と、大いに悦に入っていたのであった。
 私自身も十数年後、その渡邉暁雄氏と、放送その他でいろいろ仕事をご一緒に出来ることになるとは、その時はもちろん、想像もしていなかったが。

2019・6・20(木)P・ヤルヴィ指揮N響「トゥーランガリラ交響曲」

      サントリーホール  7時

 寸毫の隙も乱れもないアンサンブル、金管と弦との完璧な均衡。さすがパーヴォ・ヤルヴィとNHK交響楽団の演奏は見事というほかはない。メシアンの大曲「トゥーランガリラ交響曲」をこれほど鮮やかに演奏できるオーケストラも稀だろう。
 協演のピアノはロジェ・ムラロ、オンド・マルトノはシンシア・ミラー。コンサートマスターは客演のロレンツ・ナストゥリカ・ヘルシュコヴィチ。

 ただ、甚だ贅沢な不満ではあるが、その演奏に何か食い足りないものがあるとすれば、そのあまりにも手際のよすぎる仕上げという点ではなかろうか。さながら、卓越した技術を持った匠(たくみ)が、目にも止まらぬ勢いで、水際立った手さばきで物を作り上げ、さあどうだ、とばかりに掲げて見せるような演奏。
 私は、その驚くべき道具さばきを、ただもう感心しながら見つめる。だが、ふと我に返ってみると、それだけで全て終っていたような気もするのだ━━。

 まあ、こんなことは人それぞれの受け取り方だろうが、しかし演奏そのものの面で言えば、たとえば「彫像の主題」を含むさまざまな主題が、各楽章ごとに、もっとそれぞれ多様な表情を以って立ち現れてもらいたかった、ということは確かである。
 常に同じような表情で、しかも一瀉千里に押し流して行くという演奏では、どうしても単調な感じになるだろう。正直言って、この「トゥーランガリラ交響曲」に、良くも悪くも、あたかも長大な単一楽章の作品のような印象を持ったのは、これが初めてだった。

2019・6・17(月)ミハイル・プレトニョフ ピアノ・リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 プログラムの前半に、ベートーヴェンの「ロンドOp.51―1」と「熱情ソナタ」。
 後半はリストの小品をずらりと並べて休みなしに演奏するという選曲構成で、「詩的で宗教的な調べ」からの「葬送曲」、「《忘れられたワルツ》第1番」、「《ペトラルカのソネット》第104番」、「眠られぬ夜、問と答」、「練習曲《軽やかさ》」、「凶星!」「2つの演奏会用練習曲」、「暗い雲」、「ハンガリー狂詩曲第11番」、「葬送行進曲」という、ほぼ暗い曲ばかり。

 特にこのリスト集は、プレトニョフの中では一つの謎めいたストーリーが構築されているのではないかと思えるくらい、統一された重々しい、全てが関連したような流れを持って弾かれていた。
 愛用の「SHIGERU KAWAI」の特製ピアノが、暗く、強い陰翳を持った音色で重く響く。いや、リストだけでなく、前半のベートーヴェンの2曲においてさえ精神の翳りのようなものが前面に出て来て、これがあのアパッショナータ・ソナタかと思わせるほどの演奏になっていたのである。プレトニョフ恐るべし、と舌を巻くような解釈の演奏だった。

 最後のリストの「葬送行進曲」の終結近く、プレトニョフは、威嚇的で不気味で強大なフォルティッシモを、楽器も砕けよ、ホールも崩れよとばかりに轟かせた。身の毛のよだつような、悪魔的なフォルティッシモである。それは、彼が若い頃にクライマックスの個所でしばしば聴かせた手法だった。
 「ピアニスト・プレトニョフ」は、健在である。

2019・6・16(日)沼尻竜典指揮東京フィル「田園」「大地の歌」

     Bunkamuraオーチャードホール  3時

 1階席の中央通路の一つ前の席━━と言えば、オーケストラに比較的近い席だが、ここで聴いた今日の東京フィルの音は、クリアーで粒立ちがよく、しかも量感があって、実に魅力的であった。こういう音をオケ・ピットでも出してくれればどんなにいいかと思うのだが━━それはまた別の話。

 今日は、沼尻竜典の客演指揮だ。素晴らしく聴き応えがあった。
 前半のベートーヴェンの「田園交響曲」では、大編成によるオーケストラの豊麗な音色が、この曲をロマン派音楽の先駆というイメージで描き出していた。
 そしてそれに呼応して、後半のマーラーの「大地の歌」では、これぞ後期ロマン派の魅力ともいうべき壮大さと、華麗さと、官能美と、やや頽廃的な陶酔感などが見事に調和した演奏が生れていたのであった。

 特にこの「大地の歌」での演奏は、この曲がこれほど微細な表情に富む、しかも美しい管弦楽法をそなえていたのかということを改めて認識させてくれたものだったと言えるだろう。
 それに、第3楽章から第5楽章までの3曲では、それぞれの主題があのようにゆったりと丁寧に美しく演奏されると、やはりこれは「マーラー風」ではあるものの、紛れもなく「中国風」のイメージの音楽だ、と感じられるのである。
 かつてレコード評論の大先達あらえびすは、著書「楽聖物語」の中で、この曲について「歌も音楽も少しも支那的ではない」と書いたが、彼がもし今日の演奏を聴いたら、考えを変えたのではないかとさえ思う。

 テノールのダニエル・ブレンナという人は、声はいいのだが、まるでオペラのアリアを歌う時みたいに派手な身振りをしながら歌い続けた。いや、最近のちゃんとした演出の舞台なら、こんな大仰なジェスチュアをして歌う歌手はいない。見ていると苦笑したくなるし、気を散らされること夥しいので、なるべく見ないようにしていたのだが━━。このテノール氏はどうやら、「大地の歌」という作品の性格を誤解しているのではないかと思われる。

 ただ、この時代遅れの身振りのおかげで、マーラーが分厚く書き過ぎたオーケストラに埋没しかねないテノールのパートが生む損なイメージが、多少なりとも逸らされるのに役だっていたかもしれない。
 その一方で、メゾ・ソプラノの中島郁子が見事な歌唱を聴かせていた。

 だが全体として、沼尻竜典は、声をオーケストラに埋没させることを避け、なるべく浮き出させるような巧みな指揮をしていたように感じられた。このホールはシューボックス型なので、その分、ワインヤード型のホールよりは歌手にとって有利だった、ということもあろうが。
     ☞別稿 モーストリー・クラシック9月号 公演Reviews

2019・6・15(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

     サントリーホール  6時

 6月定期。シューマンの「マンフレッド」序曲で開始、次に同じくシューマンの「ピアノ協奏曲」を、ソリストに菊池洋子を迎えて演奏。休憩後はチャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」で盛り上げる。
 コンサートマスターは客演の郷古廉。

 コンサートでの東京響は、快調だ。
 秋山和慶がしっかりとまとめたアンサンブルを土台にして、スダーンが精緻な音楽を構築して演奏水準を目覚ましく引き上げ、そのあとにジョナサン・ノットが大きな花を開かせた━━ともいうべきこの東京響。
 久しぶりに戻って来たスダーンは、その髙い水準に達したこの楽団を、今や楽々と乗りこなしながら自分の音楽を愉しんでいるようにも見える。

 というのは、スダーンの指揮はこのところ、また新たな変貌の時期に入ったようにも感じられるからだ。2000年代の彼は、寸毫の緩みもない、厳格に引き締まった構築の演奏を創って来たが、今はその音楽にもやや余裕を生じさせ、いっそうのふくらみと、大きさと、深みを感じさせるようになって来たような気がするのである。

 それを最初に感じたのは、まず「マンフレッド」序曲の冒頭、弦楽器群の柔らかい、翳りのある壮大な、悲劇的なニュアンスの素晴らしさだった。また、協奏曲でのオーケストラの演奏にも、以前のスダーンの指揮に比べて、さらに伸びやかな歌が加わって来たような気がする。

 そして「マンフレッド交響曲」の演奏には、やはりスダーンらしい突き詰めた厳しさが現われていたが、それでも中間2楽章では、所謂「チャイコフスキー節」が、なかなか雰囲気豊かに再現されていたのである。これまでスダーンの指揮するチャイコフスキーはあまり聴いたことが無かったのだが、今回は、彼もこういうチャイコフスキーをやるんだ、と、彼の芸域の拡がりに何故か安心したというか━━。
 なおスダーンは今回、第4楽章の締め括りに、第1楽章終結部の最強奏による激烈な結尾を転用する版を使った。楽屋で彼は「自分はこれが一番好きだ」と語っていたが、私もナマ演奏で聴く場合には、この方が面白くて好きである。

 菊池洋子がシューマンのコンチェルトを弾くのも、今夜初めて聴いた。彼女の演奏会ではやはりモーツァルトを聴く機会が多いのだが、10年ほど前にOEKとのラヴェルのコンチェルトを聴いたことがあって、これが実に素晴らしくて感服した記憶があるので、他の作曲家のコンチェルトも聴いてみたいなと以前から思っていたところなのである。
 このシューマン、直截ながら精妙で瑞々しく、すこぶる魅力的だった。

2019・6・15(土)フンパーディンク「ヘンゼルとグレーテル」

      日生劇場  1時30分

 「NISSAY OPERA 2019」として上演された2日公演の初日。これはこの前後に「中・高校生に本物の舞台に触れる機会を」という狙いによる「ニッセイ名作シリーズ2019」としても上演されており、また10月には名古屋と仙台でも上演される由。

 指揮が角田鋼亮、演出と振付が広崎うらん、舞台美術が二村周作。田中信昭による日本語訳詞で歌われるが、日本語の字幕もつく。
 今日の出演は郷家暁子(ヘンゼル)、小林沙羅(グレーテル)、池田真己(父)、藤井麻美(母)、角田和弘(魔女)、宮地江奈(眠りの精、露の精)、C.ヴィレッジシンガーズ、パピーコーラスクラブ、えびな少年少女合唱団、新日本フィルハーモニー交響楽団、多くのダンサーたち。

 家族向けのオペラ上演としては、よく出来ているだろう。
 ダンスパフォーマンスの広瀬うらんが担当した舞台だけあって、ダンスが活用されるだけでなく、ヘンゼルとグレーテルも、父親も母親も、魔女とその手下の怪物どもも、登場人物全員が実によく踊り、飛び跳ねる。演劇的な要素は希薄だが、賑やかさという点で親しみを狙う、という舞台だ。

 ただしラストシーンは、捻ったわりには、客席はシーンとして、???という雰囲気になってしまった。もしあの美しい精のようなダンサーたちの出現が、音楽が鳴っている間に行なわれていれば、もっと盛り上がったのではないかとも思えるのだが如何に? 
 しかし、お菓子から人間の姿に戻った子供たち(合唱)の演技は、めっぽう可愛かった。

 休憩20分間ほどを含めてちょうど2時間で終ってしまったから、テンポもかなり速い。
 速いこと自体は悪くないが、ホルンの響きは荒々しく、オーケストラ全体もリアルに生々しく、総体的に演奏が素っ気ないことに疑問が残る。つまり、舞台がトラディショナルなメルヘン調のものであるにもかかわらず、演奏には、本来このオペラに備わっているはずのロマンティックでミステリアスな「森」の雰囲気が感じられないのである。

2019・6・14(金)鈴木優人指揮関西フィル&小菅優 「欧和饗宴」

      ザ・シンフォニーホール  7時

 関西フィルハーモニー管弦楽団の第302回定期で、「鈴木&小菅が三大巨人に挑む 欧和饗宴 衝撃のニッポンプログラム」と、洒落っ気を交えたキャッチコピーが、プログラム冊子の表紙に麗々しく躍る。

 演奏曲目は、黛敏郎の「シンフォニック・ムード」、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」(ソロは小菅優)、芥川也寸志の「交響曲第1番」。
 東京でも滅多に聴けぬような意欲的なプログラムだったし、鈴木優人が日本の近・現代音楽をどのように指揮するかということにも関心があって、とんぼ返りで聴きに行った次第。コンサートマスターは岩谷祐之。

 鈴木優人は、関西フィルを解放的に高鳴らせる。黛の曲でも、芥川の曲でも、それぞれの作品が持つ力動的な面に重点を置き、それを強調して指揮しているかのようだ。関西フィルの大熱演と相まって、それが聴衆を喜ばせた、ということは確かにあっただろう。
 敢えて注文を付ければ、これに楽曲構成上の起伏、あるいは表情の変化、あるいはテンポの微細な増減などによる力動性の変化━━といったものが導入されれば、更に演奏に深みが出るだろう。
 だが、芥川の「第1交響曲」の第3楽章の、重々しいアダージョのコラールは、重厚さと、激烈な高潮とで、極めて緊迫感の強い演奏が聴かれた。

 しかし一方、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」となると、そういう力任せのダイナミズムでは、解決できない問題があるだろう。今日も小菅優が暗譜で見事な演奏を繰り広げたが、やはり2017年1月14日に大ベテラン・秋山和慶の指揮と協演した時の演奏とは、オーケストラとの「協奏」の面において、だいぶ雰囲気が違った。
 なおこのコンチェルトのあとに矢代秋雄の「夢の舟」という小品が鈴木と小菅のデュオで弾かれたが、この演奏は絶品であった。

 「聴き慣れない日本の近代音楽」ばかりだから、お客さんの入りはどうかと心配していたのだが━━まあ満員とまでは行かなかったけれど、そこそこ席が埋まっており、しかも客席の反応がかなり熱狂的だったのには安堵した。休憩時や終演後には、あちこちから「楽しい」「面白い」「素晴らしい」という声も聞こえていたのである。それは作品群に対してなのか、関西フィルの熱演に対してなのか、小菅優の水際立ったソロに対してなのか、あるいはキュートな指揮者に対してなのかは定かでないが、とにかくすべてに対しての賛辞だと解釈しておこう。

2019・6・13(木)山田和樹指揮読売日本交響楽団 

     サントリーホール  7時

 最初に伊福部昭の「SF交響ファンタジー第1番」、次にグリエールの「コロラトゥーラ・ソプラノのための協奏曲」、後半にカリンニコフの「交響曲第1番」。ソプラノ・ソロはアルビナ・シャギムラトヴァ。コンサートマスターは小森谷巧。

 首席客演指揮者の山田和樹は、しばしば意表を衝くプログラミングを試みるが、定期公演で「ゴジラ」のテーマを轟かせるとは、何ともユニークな選曲だ。
 ゴジラがダメだというわけではないが、伊福部昭の作品ならもっと他に紹介してもらいたいものがたくさんあるのに━━と思っても、マエストロにはそれなりの意図があったのだろうから、これ以上の異は唱えまい。
 カリンニコフの「第1交響曲」も、正直なところ、私にはどうも共感できない作品なのだが、これを高く評価する人もいるし、人気があるのも事実だろう。

 しかしこの2曲の演奏、山田和樹の指揮の「持って行き方」は、図抜けて巧い。また読響も、聴いていて会心の笑みを漏らしたくなるほど上手い。曲はつまらなかったけれども演奏が見事だった、ということで大拍手を贈る。

 結局、総合的に良かったのは、グリエールのコンチェルトだ。華麗なヴォカリーズを歌ったのは、ウズベキスタン出身のシャギムラトヴァで、力の漲る声で高音を素晴らしく伸ばす。アンコールで歌ったアリャビエフの「ナイチンゲール」も、この上なく鮮やかだった。

2019・6・12(水)多田淳之介演出「ゴドーを待ちながら」初日

      KAAT神奈川芸術劇場〈大スタジオ〉 7時

 スタジオの中央に土俵のような円形舞台があり、それを取り囲むように4段ほどの客席(自由席)が設置されている。キャストは大高洋夫(ウラジミール)、小宮孝泰(エストラゴン)、猪股俊明(ポゾー)、永井秀樹(ラッキー)、木村風太(少年)。

 これは周知の通り、サミュエル・ベケットのおなじみの戯曲だ。最後まで来ないゴドーなる人物をひたすら待ちながら、ムキになって他愛のないことをやっているうちに、いつの間にか2日間が過ぎて行くという、ストーリーの展開の無い「不条理劇」である。今回は岡室美奈子による新訳が使われており、小気味よいテンポの台詞で進められる。

 もともと、何のためにゴドーを待っているのかもはっきりしないわけだが、そうしているうちにいつの間にか人生が過ぎ去って行くというのは空しい話だ━━しかし逆に考えれば、彼が来ても来なくても、それなりに生きて行くことはできる、ということにもなるのだが。
 なおこの上演では、配役が異なる「昭和・平成バージョン」と「令和バージョン」の2種があり、今日はその前者だった。両者にどういう違いがあるのか、ないのか、観てみたい気もする。23日まで上演。

 話は飛ぶが、1970年代に「三百人劇場」だったかで、これをパロった芝居を観たことがある。公演したのは、「劇団欅」だったか「劇団昴」だったか? 
 「後藤」という人物が来そうでいてなかなか来ず、最後についに現われたと思ったら、そいつはヒトラーと同じ顔をしていたというオチがつく。滅茶苦茶な芝居だったが、実に面白かった。もちろんこれは、ラーメンズの「後藤を待ちながら」とは全く違う内容のものである。

2019・6・12(水)Suntory Hall Chamber Music Garden
堤剛と小山実稚恵 

     サントリーホール ブルーローズ  1時

 「親密な至極のデュオ」と題された1時間強の演奏会で、チェロの堤剛とピアノの小山実稚恵がメンデルスゾーンの2曲の「チェロとピアノのためのソナタ」を弾いた。
 「心温まる音楽会」とは、こういうものを謂うのだろう。特に「第2番ニ長調」は、曲の美しさもあって、文字通り至高の演奏となった。アンコールの「無言歌作品109」も絶品。

2019・6・9(日)新国立劇場 プッチーニ「蝶々夫人」

     新国立劇場オペラパレス  2時

 2005年にプレミエされた栗山民也演出によるプロダクションで、今回が7回目の上演になる。正面奥に米国国旗がはためいているあの舞台装置は、2カ月前に逝去された島次郎氏のものだ。客の入りなどから見ても、今なお人気が高いようである。

 今回の指揮はレナード・レンツェッティ、管弦楽は東京フィル。歌手陣は佐藤康子(蝶々夫人)、スティーヴン・コステロ(ピンカートン)、山下牧子(スズキ)、須藤慎吾(シャープレス)、晴雅彦(ゴロー)、島村武男(ボンゾ)、千葉裕一(神官)、星野淳(ヤマドリ)、佐藤路子(ケート)他。

 急用のため第1幕が終ったところで失礼せざるを得なかったが、レンツェッティの指揮が何ともゆるいのに落胆。ヴァイグレやデュトワの指揮した「サロメ」の鮮烈な演奏に浸った直後だけにいっそう気になってしまうのかもしれないが。

2019・6・8(土)デュトワ指揮大阪フィル 「サロメ」演奏会形式上演

       フェスティバルホール  3時

 同じ時間帯に東京と大阪でR・シュトラウスの「サロメ」が上演されるとは、面白い世の中になったものである。
 こちら大阪の「サロメ」は、「第57回大阪国際フェスティバル」の一環だ。

 そういえば先日、東京の「サロメ」の項で、1962年のグルリット指揮による舞台日本初演(クリステル・ゴルツ主演)に感動したことを書いたが、思えばあれも当時の大阪国際フェスティバルの公演だった(私の観たのは4月29日の東京公演だが)。そして奇しくも、今回の「サロメ」も、それに劣らぬほどの強烈な印象を残してくれたのである。

 演奏は、シャルル・デュトワ指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団。歌手陣は、リカルダ・メルベート(サロメ)、福井敬(ヘロデ)、加納悦子(ヘロディアス)、友清崇(ヨカナーン)、望月哲也(ナラボート)、中島郁子(小姓)ほか。

 デュトワは、先月の定期でのベルリオーズとラヴェルで素晴らしい演奏を聴かせてからというもの、大阪フィルとはどうやら相性が良くなってしまったようである━━もっともそれは、あくまで演奏を聴いただけの印象にすぎないけれども。とにかく、大阪フィルがあんなにカラフルかつブリリアントな音色で沸騰していた演奏を、私はそれまで一度も聴いたことが無かった。

 そして今日の「サロメ」では、それを更に凌駕する多彩な演奏が繰り広げられたのである。デュトワはオーケストラを力の限り轟かせ、ステージ前面に並んだ歌手たちの声を打ち消すこともしばしばあったが、しかし対する歌手陣もまた好調で、そのオーケストラの嵐に拮抗し、あるいはその間を縫って己が存在を主張して行く、という具合だったのだ。

 後半、「7つのヴェールの踊り」でのデュトワと大阪フィルの演奏は、すこぶる華麗で壮烈だったが、真の聴きどころはその後に訪れる。
 まず福井敬が実に激烈きわまる歌唱で、ヘロデが取り乱すさまを凄まじく描き出す。多くの場合、このヘロデはスケルツァンドに歌われ、そのため愚かな王というイメージが先行して、この場面を幕切れのサロメの長い歌の前に置かれた一種の「序」のようなものにしてしまうことが多いのだが、今日の福井敬によるヘロデはそれとは対極の表現で、まさに権力者そのものとして君臨していたのだった。そのためこの場面は、驚くほどドラマティックなものとして生まれ変わっていたのである。

 そして、ヨカナーンの首が届けられるくだりで━━首が斬り落とされる描写の音は少しあっけなかったけれど━━オーケストラが凄愴な咆哮を聴かせると、それまでやや抑制気味に歌っていたメルベートが、ついにパワーを全開した。ここからあとは、もう彼女の独り舞台である。歓喜と法悦にあふれるサロメの長いモノローグを、ここぞとばかり熱唱する。

 しかもここではデュトワが、オーケストラを、もう煽ること、煽ること! R・シュトラウスの音楽の物凄さを、これでもかとばかりに際立たせる。演奏しているのがピットの中のオケでなく、ステージ上に配置された大編成の管弦楽であるがゆえに、その多彩な音色と劇的な力の拡がりは、まさに猛然たるものになる。

 かように、シュトラウスの管弦楽法の精緻さ、多彩さ、持って行き方の巧さなどが、なにものにも煩わされずに味わえるのは、演奏会形式上演であればこそであろう。
 これは、音楽的な感銘度では随一、と言ってもいいほどの「サロメ」の演奏であった。ただ1回の上演ではもったいないくらいだ。
 藤野明子による字幕も、文体が解り易く読みやすい。

 それにしてもデュトワの力量は、実に見事であった。東京の音楽界にも早く復活してもらいたいものだ。そして今度は、他のいろいろなオーケストラを指揮してもらいたいものである。
     (別稿)モーストリー・クラシック9月号 公演Reviews

2019・6・7(金)ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 銀座の東劇での「METライブビューイング」が終ったのは6時前だったが、梅雨入りの雨のために道路も渋滞中で、赤坂のサントリーホールに着いたのは、6時半を過ぎた頃だった。

 こちらは日本フィルの第711回定期公演の初日。「日本・フィンランド外交関係樹立100周年記念公演」と題されており、これは創立指揮者の渡邉暁雄、現首席指揮者のインキネンなど、フィンランドに縁のある指揮者を戴く日本フィルにとっては、とりわけ意味深いタイトルでもあろう。
 プログラムも、湯浅譲二の「シベリウス讃―ミッドナイト・サン」、サロネンの「ヴァイオリン協奏曲」、シベリウスの組曲「レンミンカイネン」という、記念公演に合致した内容である。コンサートマスターは客員の白井圭。

 湯浅譲二の作品は、1991年にヘルシンキで初演されたもの。シベリウスへのオマージュとして考えるなら、「タピオラ」への親近感を持ったイメージの音楽とも言えるだろう。7分程度の曲で、厚い層の響きを清澄で爽やかな音色が満たす。「カルメル会修道女の対話」を観て滅入っていた気分を一掃してくれるような美しい曲だった。

 サロネンの協奏曲では、諏訪内晶子が緊迫感に富む素晴らしい演奏を聴かせてくれた。絶え間なく激しく、常動曲の如く動くヴァイオリンのソロが際立ち、2度ほど挿入される深淵を彷徨うかのような沈潜した部分と、強い対照をなす。

 プログラム後半の長大な組曲「レンミンカイネン」(昔、レミンカイネンと言っていたわれわれの世代の者には、どうも抵抗感がある・・・・)は、シベリウスの作品の中でも、私の好きなものの一つだ。
 今日の演奏では、「トゥオネラの白鳥」は3曲目に置かれ、そこではイングリッシュ・ホルンの佐竹真登が深々としたソロを吹き、密やかな弦との対話を繰り広げて、息を呑まされるほどの神秘的な演奏を聴かせてくれた。
 前半2曲では━━シベリウス特有の陰影は見事ながら━━演奏全体の密度は少し粗かった日本フィルが、この「トゥオネラの白鳥」の見事な演奏をきっかけに、俄然引き締まって行ったのは面白い。

 最後の「レンミンカイネンの帰郷」は、テンポが抑制されていたために熱狂的な頂点という感はなかったものの、がっちりとした強固な音楽のつくりが印象的だった。2日目にはおそらく最初から「決まって」行くだろう。

2019・6・7(金)METライブビューイング
プーランク「カルメル会修道女の対話」

     東劇  2時30分

 メトロポリタン・オペラ、去る5月11日上演のライヴ映像。ジョン・デクスターの演出、ヤニック・ネゼ=セガンの指揮。
 歌手陣は、イザベル・レナード(ブランシェ)、カリタ・マッティラ(修道院長)、エイドリアン・ピエチョンカ(新・修道院長)、カレン・カーギル(マリー修道女長)、エリン・モーリー(コンスタンス)、ジャン=フランソワ・ラボワント(ド・ラ・フォルス侯爵)他。

 これは1977年プレミエの、MET定番のプロダクションだ。十字架を模ったデザインの舞台装置(デイヴィッド・レッパ)が特徴の一つである。
 大詰めのクライマックス、修道女たちの殉教のシーンでは、群集が並ぶ中を彼女らが一人ずつ順に舞台奥に向かって行き、兵士たちの彼方に姿を消すと、その都度ギロチンの刃が落下する轟音が不気味に響きわたる、という造りになっている。涙を催させるには充分の幕切れであろう。

 歌手陣の中では、前修道院長を歌い演じたカリタ・マッティラが、別人のように物凄い老け役のメイクで、特に死の場面では凄愴な演技で観客の息を呑ませる。
 一方、私の御贔屓(?)のイザベル・レナードは、今回は比較的おとなしい表現の役回り。先日の「マーニー」での魅力には、些か及ばない。

 何といっても素晴らしいのは、ネゼ=セガンの指揮と、METのオーケストラだ。プーランクの音楽の不気味さ、ドラマティックかつ壮大な緊迫感をこれほど見事に描き出した演奏は、そう多くはないと思われる。
 休憩10分を含み、上映時間は3時間17分。案内役は久しぶりにルネ・フレミングが務めていた。

2019・6・6(木)東京二期会 R・シュトラウス「サロメ」2日目

      東京文化会館大ホール  2時

 別キャスト。主役陣は、田崎尚美(サロメ)、萩原潤(ヨカナーン)、片寄純也(ヘロデ)、清水華澄(ヘロディアス)、西岡慎介(ナラボート)、成田伊美(小姓)。

 今日聴いた席は、1階席後方だったが、昨日よりも声はよく聞こえる。オーケストラを圧して、というほどには行かないけれども、それでも昨日より明晰に響いて来る。これはしかし、席の位置ゆえではなかろう。昨日は、一体何だったんだろうと思う。

 田崎尚美は好演だったが、サロメ役としては少々真面目に過ぎたのではないかという気がしないでもない。
 片寄純也はヘロデ王の好色ぶりを巧く表現していたが、それ以上にヘロディアス役の清水華澄が猛妻、怪妻ぶりを発揮し、存在感を出していた。ナラボート役の西岡慎介の力強い声も印象に残る。

 ヴァイグレと読響の演奏も、昨日に劣らず聴き応えがあった。全曲幕切れ近く、サロメが法悦に酔いしれる場面でのミステリアスな、不気味な演奏も見事だ。
 また、R・シュトラウス得意の、音が最強奏に膨らんだ瞬間にふっと力を抜いて弱音になるという個所━━それは特に、ヨカナーンが井戸から出て来て語る部分で多用されるのだが━━での演奏がいい。この部分に関しては、昔、1962年にマンフレッド・グルリットが東京フィルを指揮して日本初演した際の巧みな強弱の変化による演奏が忘れられないのだが、それ以降、なかなかそのような演奏を聴けたことが無く、不思議に思っていたところへ、久しぶりにこのヴァイグレと読響の演奏でそれに巡り合ったというわけである。
 今回の「サロメ」での大収穫のひとつが、これだった。

2019・6・5(水)東京二期会 R・シュトラウス「サロメ」初日

     東京文化会館大ホール  6時30分

 東京二期会は、つい先頃━━といってももう8年も前になるのだが━━ペーター・コンヴィチュニーの、かなり素っ頓狂(?)な演出により、この「サロメ」を上演したことがある。
 今度は一転して、ハンブルク州立劇場のウィリー・デッカ―演出のプロダクションを持って来た。大きな階段上の舞台装置(ヴォルフガング・グスマン)もハンブルクのものだが、これは借りたのではなく、日本の劇場に合わせて改造する際のあれこれのややこしい問題を避けるため、まるまる買い取ってしまったものだそうだ。

 配役は、ダブルキャストによる4回公演の、今日は初日で、森谷真理(サロメ)、大沼徹(預言者ヨカナーン)、今尾滋(ヘロデ王)、池田香織(王妃ヘロディアス)、大槻孝志(衛兵隊長ナラボート)、杉山由紀(小姓)、そのほかの出演。

 今回の上演では、セバスティアン・ヴァイグレが読売日本交響楽団を指揮するのが呼び物の一つだったが、これは素晴らしい出来だった。
 ヴァイグレについては━━実は私は、これまで彼のウィーンやバイロイトでの彼のオペラの指揮をいくつか聴いた結果として、あまり良い印象を持っていなかったのだが、しかし今日のように、オーケストラを過剰に鳴らさずに歌手の声を巧く聴かせ、しかもR・シュトラウスの多彩な官能性に満ちた音楽を美しく雄弁に響かせることができるのなら、これはもう彼の成長を認めるに吝かではない。

 また、読響も流石の演奏であった。今の日本で、オペラのピットに入ってたっぷりした音を響かせることのできるオーケストラの第一は読響ではないかと私は思っているのだが、今日も実にいい音を出してくれたのである。

 いま、「過剰に鳴らさずに歌手の声を聴かせ」と書いた。実は今日、1階席12列で聴いていたのだが、どうしてしまったのかと思うくらい、歌手たちの声が前に出て来なかったのである。特に前半がそうだった。歌い方の所為だったのか、それとも、天井が抜けている舞台装置の所為だったのか? 
 だが、舞台前面で歌った時にさえも、声がまっすぐに客席へ響かず、何か散り気味になってしまっていたのだ。聴き慣れている優秀な歌手たちであり、いつもはこんな程度の声量ではないはずなのに━━。
 池田香織などは持ち前のパワーのある声で君臨していたが、それでもやはり、いつもの彼女とはちょっと違う印象になってしまっていたのだ。

 そうした条件付きではあるものの、しかしやはり、題名役の森谷真理の声は美しく伸びがあった。サロメを怪物的な女として表現するのではなく、清純さの裡に魔性を漂わせた女として描き出すことにも成功していたのではないかと思う。この人には、一種の「華」が感じられるし、歌唱の面でも聴くたびに進歩が感じられ、新しい役柄表現の開拓に成功を収めているようである。
 それにしても、あの大きな階段を走って上がったり下りたりしながら歌い続けるのは、大変だろう。よく息が上がらないものだと、私はハラハラしながら感心して眺めていた。「オペラ歌手はアスリートですよ」と岩田達宗さんが言っていたのを思い出す。

 デッカ―の演出については、演技が実に精緻で、それらが音楽の動きとぴったり合っているのに感心した。音楽の高まりと、ドラマの緊張の高まりとが、見事に合致しているのである。再演とはいえ、演出家ご当人が現場に来ていると、舞台も引き締まるものだ(ご本人もカーテンコールに出ていた)。

 「7つのヴェールの踊り」は、この演出では、サロメとヘロデ王との愛の駆け引きのような設定に変えられていた。
 またラストシーンでは、兵士たちに殺される前にサロメが自刃する、という設定になっていた。サロメの最期の場面については、これまでにもト書きとは異なるさまざまな手法が採られているから、自殺という形ももちろんあり得るだろう。
 ただ、デッカ―が述べている「ヨカナーンに拒否された時点でサロメは人生の目標を失い、底なしの穴に転落する・・・・ヘロデが『あの女を殺せ!』と命じようが命じまいが、彼女は終りなのだ」(プログラム冊子から自由に引用)という演出コンセプトは、この舞台からだけでは、必ずしも読み取れないのではないか。

 というわけで、歌手陣の声の聞こえ方の問題(実に惜しい)を除けば、極めて良い「サロメ」だった。字幕(岩下久美子)も明解。8時15分頃終演。

2019・6・4(火)ヴィオラスペース2019 Vol.28 

     紀尾井ホール  7時

 今井信子の提唱で1992年に始まったヴィオラを基調とする音楽祭「ヴィオラスペース」も第28回を数えるに至っている。立派なものである。今年は5月29日・30日大阪、31日仙台、6月1日・2日・4日・5日東京で、マスタークラスや公開演奏会が開催されるというスケジュールだ。なお2013年からは、プログラム・ディレクターをアントワン・タメスティが務めている。

 演奏会のプログラムに、所謂名曲よりも、現代音楽や秘曲(?)が多く取り上げられているところも意欲的だ。
 今日のプログラムもなかなかユニークで、テーマは「イタリアへ」と題され、漆黒の闇の中でのシャリーノの「夜の果て」の演奏に始まり、ニーノ・ロータの「ゴッドファーザー」、ベリオの「ナチュラーレ」、ヴィヴァルディの「春」、パガニーニの「大ヴィオラと管弦楽のためのソナタ」、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」からの第1・2楽章━━と続いて行く。

 演奏者にはヴィオラにタメスティ、セジュン・キム、ガース・ノックス、ルオシャ・ファン、佐々木亮、今井信子ら、錚々たる顔ぶれが揃っているが、ヴィオラ以外の楽器の人たちも大勢登場していることはいうまでもない。桐朋学園オーケストラの若手たちもステージを華やかにしていた。
 作品としては、ヴィオラとパーカッションと歌(スピーカー再生)とで演奏されたベリオの「ナチュラーレ」が、とりわけ面白かった。パガニーニの「ソナタ」は、何ともつまらぬ曲に聞こえてしまったが、これは演奏の所為だろう。ただ、このソナタで、ルシャ・ファンが弾いた大型のヴィオラの音の豊かさには魅了させられる。

 なお、御大・今井信子は、「イタリアのハロルド」の第2楽章でオーケストラの背後からゆっくりと姿を現してソロを弾き、それからやおら前面に出て来て弾く━━といった演出で、大トリを飾っていた。

2019・6・4(火)ロイヤル・オペラハウス・シネマ 「ファウスト」

      日本シネアーツ社試写室  1時

 ロイヤル・オペラハウス(ROH)4月30日上演、グノーの「ファウスト」ライヴ映像。これは、2004年に制作されたデイヴィッド・マクヴィカー演出による、RHO定番のプロダクション。

 今回はダン・エッティンガーが指揮しており、休憩時間中のインタヴュ―では自信満々、という雰囲気だったが、そのわりには並みの出来といった音楽づくりだろう。
 歌手陣はマイケル・ファビアーノ(ファウスト)、アーヴィン・シュロット(メフィストフェレス)、イリーナ・リング(マルグリート)、ステファン・デグー(ヴァランティン)、マルタ・フォンタナレス=シモンズ(ジーベル)。
 この中では、やはりシュロットが、歌唱面と演技面で抜きん出た表現力を示す。女装を含めたさまざまな衣装の早変わりで悪魔の性格の多彩さを描き出すあたりも、見事な役者ぶりであった。

 マクヴィカーの演出は、映像で観る限り、すこぶる豪華で微細なつくりだが、人物の動きなどに少々鈍いところが感じられるのは、再演のため、彼の本来の意図が徹底されていないからではなかろうかと思われる。だが教会の場面での、マルグリートを威嚇し苛むメフィストフェレスと悪霊たちの動きは、なかなか不気味なものだった。

 ラストシーンで、メフィストフェレスが神の威光を笑いつつ地底に姿を消して行くくだりは、ゲーテの原作における終場面をパロディ化したものアイディアかもしれない。またこの場面では、ファウストが再びオペラ冒頭場面のような老人に戻り、上手側に倒れているマルグリート━━それは夢か現か━━を空しく追い求める、という洒落た構図が創られていた。

 一般の上演ではカットされるバレエ場面の「ワルプルギスの場」━━所謂「ファウストのバレエ音楽」である━━も上演されるので、演奏時間も正味3時間4分、休憩21分およびインタヴュ―も含めて上映時間は3時間51分と長くなる。しかしこのバレエ場面に、今回のようにマルグリートの哀しい運命を詳細かつ巧妙に描くストーリーが振付されているとなれば、これはドラマの一要素として極めて重要な意味を持つにいたる、ということがよく理解できるのだ。
 6月14日~20日にTOHOシネマズ系で公開の由。

2019・6・2(日)Suntory Hall Chamber Music Garden(第9回)
クス・クァルテット ベートーヴェン・サイクル初日

     サントリーホール ブルーローズ  1時

 恒例の、人気の「サントリーホールの室内楽のフェスティバル」。
目玉の一つは、毎年いろいろな弦楽四重奏団を招聘して行う、このベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲連続演奏ツィクルスだ。

 今年は、ベルリン出身の女性奏者ヤーナ・クスをリーダーとするクス・クァルテットが登場した。今日はその初日で、第1番から第6番まで━━つまり「作品18」の全6曲を演奏するという日だった。演奏は3,2,1,5,4,6番という順で、2曲ごとに15~20分の休憩が取られる。

 とにかく、若々しくて、勢いがいい。最初の「第3番」の出だしは妙に不安定な演奏で心配させられたが、次第にバランスを取り戻して行った。休憩後の「第1番」は最も集中力に富んだ演奏だったのではないか。「第4番」に入った瞬間の、それまでの明るさから一転させた気魄のハ短調のエネルギー感なども印象に残る。

 ただ、6曲それぞれの本来の性格の描き分けなどは、この弦楽四重奏団としては、まだこれからのことであろう。たとえ若き日の作品とはいえ、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は、実に難物である。
 それに、これは私個人の問題だが、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲をこういう形で、━━つまり一つの演奏会で6曲をいっぺんに聴くなどということは、やはり避けておいた方がよかったような気がする。

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