2023-11

2021年4月 の記事一覧




2021・4・26(月)広島交響楽団410回定期演奏会のライヴ配信

    2021年4月18日 3時 HBG広島文化学園ホール━━配信

 今日聴く予定だった大野和士指揮東京都交響楽団の演奏会は、非常事態宣言のため中止になってしまったので、その代わりというわけではないけれども、去る4月18日に開催された広響の「大型プログラム」を、テレビマン・ユニオン・チャンネルの有料配信(1,000円)で視聴することにした。

 これは本来、昨年の「第400回定期」のプログラムとして企画されながら、コロナ禍のため延期となっていたものの由。
 この日は、当初の予定では「3つの祝典序曲」と、レスピーギの「ローマ3部作」を、音楽総監督・下野竜也と、首席客演指揮者クリスティアン・アルミンクと、終身名誉指揮者・秋山和慶とがそれぞれ振り分ける、という豪壮な演奏会のはずだったが━━あいにくアルミンクは入国制限のため来日叶わずというわけで、結局次のような分担に。

 第1部では下野が三善晃の「祝典序曲」を指揮した後、秋山がブラームスの「大学祝典序曲」とイベールの「祝典序曲」を指揮。そして第2部では下野が「ローマの噴水」と「ローマの松」を指揮した後、秋山が「ローマの祭」を指揮。アンコールがヴェルディの「アイーダ」からの「大行進曲」で、これは下野と秋山が途中で入れ替わって指揮。

 約2時間20分、温かい雰囲気に包まれたコンサートであった。特に「ローマ3部作」での美しい演奏が印象に残る。
 また、進行役を、この種の催事にはありがちな、形ばかりで内容のない「頼まれMC」がやるのではなく、下野みずからがユーモアに富んだ話しぶりで務めたのは賢明な方法だったと思う。この方が、指揮者やオーケストラがいっそう身近な存在に感じられるだろう。
 なお第2部の前にはアルミンクがインターネットでスクリーンに登場、下野及びマーティン・スタンツェライト(滞日歴が長いという広響首席チェロ)と話を交わし、またアンコールの後にも顔を見せたりした。久しぶりに見たアルミンク、随分福々しいカオになっていたのに驚く。
 今年80歳を迎えたという秋山も若干のトークを行なったが、こちらはすこぶる物静かだ。

 こういうネット配信は非常に意義のあることだ。遠隔地の人間にとっても有難い。広響はネット配信に活発なようである。

2021・4・25(日)「魅惑の美女はデスゴッデス!」他

     テアトロ・ジーリオ・ショウワ  2時

 昭和音大のホール「テアトロ・ジーリオ・ショウワ」は、東京都内ではなく、神奈川県川崎市にあるため、オペラ上演は未だ予定通り行われている。入場の際に体温測定と手のアルコール消毒を義務づける、というのはクラシック音楽の演奏会では通常の形だが、ここでは休憩時間に戸外で空気を吸って再入場する際にもそれらをもう一度強制する、という徹底した感染予防対策を講じている。

 今日は日本オペラ協会主催の、日本オペラ協会&藤原歌劇団の公演で、池辺普一郎の「魅惑の美女はデスゴッデス!」とプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」のダブルビル上演の2日目。演出は岩田達宗。

 前者は、1971年にNHKのテレビ用オペラ「死神」として創られたもので、あの有名な圓朝の落語「死神」を基に、死神を爺ではなく美女に仕立てるなど設定を変更、映画監督の今村昌平が台本を書き、当時東京藝大の大学院学生だった池辺普一郎が音楽を創ったという異色の作品だった。現在の題名に変えられたのは2010年の日本オペラ協会による上演の時からだったという。

 大変なブラックユーモアのストーリーだが、いろいろな時事ネタも織り込まれていたりして、舞台はすこぶる楽しい。池辺さんの音楽も、現在のそれとは違って、もっと気負って尖ったリズミカルな性格を多く含んだものなので、これまたすこぶる興味深いものがあった。
 相樂和子(死神)、山田大智(早川)、沢崎恵美(その女房)ら10人の歌手が舞台を飛び回って熱演、コーラスの日本オペラ協会アンサンブルもエロティックに好演して、好い上演となった。休憩なしの90分、面白いが、長い。

 休憩後の「ジャンニ・スキッキ」では、牧野正人(ジャンニ・スキッキ)、別府美沙子(ラウレッタ)ら、総勢15人のソリストたちが賑やかに熱演した。従って、これはこれでまとまっていたことは確かなのだが、私の方は第1部でのリアルな怪談(?)の濃さに、気力と体力をすっかり吸い取られてしまっていた、というのが正直なところ。

 しかし、このブラックユーモア2題という組み合わせ上演はなかなか秀抜なアイディアで、成功していたと思う。
 さらに悪乗りするなら、「ジャンニ・スキッキ」の中に第1部の「美女の死神」を登場させ、遺族たちから「お前の出番じゃない」と追い払われるシーンを入れるとか、ラストシーンのスキッキが大見得を切る背後にその死神を纏わりつかせるとか、そんなジョークを入れたら「2題」の関連性も濃くなったのではないか、と、━━これは私の勝手な案。

 指揮は松下京介、「ジャンニ・スキッキ」では、テアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラの音が粗く、所謂「プッチーニ節」がほとんど生かされていなかったことに大きな不満が残った。それに、木管の響きをもう少しまろやかにするとかして、歌を美しく浮き出させるようにしたら如何か、とも思う。

2021・4・24(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

      サントリーホール  2時

 桂冠指揮者兼芸術顧問アレクサンドル・ラザレフを久しぶりに指揮台へ迎えた日本フィルが、グラズノフの「交響曲第7番ヘ長調Op.77《田園》」と、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」(1947年版)を演奏した。後者でのピアノ・ソロは野田清隆。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 鬼将軍ラザレフに率いられた日本フィルは、さすがに見事な演奏を繰り広げた。定期2日目ということもあったろうが、それはこの半年か1年の溜まった良質なエネルギーを集約し、いっぺんに噴出させたような、この上なく濃密な演奏だった。これまで何年か聴いてきたこのコンビの演奏の中でも、屈指のものだったと言ってもいいだろう。

 グラズノフの「7番」は、この上なく美しいカンタービレに満ち、かつ官能的で艶めかしい表情で演奏された。私はこの作曲家については、これまであまり共感を抱いていなかったのだが、こういう演奏に接すると、考えを大きく変えなければなるまい。ラザレフが「ロシアの魂」として指揮して来たグラズノフの交響曲ツィクルスは、やはり説得力のあるものだったのだ。

 だが、それ以上に今日は、「ペトルーシュカ」での壮麗かつ壮大な演奏に魅了された。ラザレフの指揮を聴くと、彼がストラヴィンスキーをロシアの国民音楽の流れを汲む━━つまりリムスキー=コルサコフらの後継者としてスタートした作曲家として位置づけていることが感じ取れる(これはゲルギエフとも軌を一にする考え方だ)。
 それにしてもこのラザレフが日本フィルを自在に制御して引き出した圧倒的な色彩感には、ただもう感嘆するしかない。それに加え、演奏にあふれる重量感、輝かしさ、強靭な推進力の豊かさと言ったら━━。

 日本フィルも、「勇将の下に弱卒なし」を地で行ったような演奏だったと言えよう。目くるめくような音色で豊かな空間的拡がりを感じさせた木管群、鮮やかなソロのトランペットを筆頭に躍動した金管群、それに12型ながら驚異的に分厚く重量感にあふれていた弦楽セクションなど。私がナマで聴いた「ペトルーシュカ」の中でも、これは一、二を争う充実した演奏だったと言っても、決して誇張にはならないと思う。

 ラザレフは、今回2週間のホテル待機期間を経ての登場だったが、演奏会は昨日と今日のわずか2回だけのこと。もったいない。明日からは「緊急事態宣言」で、東京都内の演奏会はほとんど姿を消す。そのぎりぎりの日に、こういう演奏が聴けたことは幸いであった。

 そういえば、私のところへも昨日、「ワクチン接種券」が本当に(!)来た。拙宅の地域の接種会場での開始は来月13日以降とのことだし、また予約が簡単にできるのかどうかも心もとないのだが、とにかく一旦コロナに罹ったら周囲の人にかける迷惑たるや尋常ならざるものがあるから、やはり早めに接種してもらおうと思っている。

2021・4・22(木)東京・春・音楽祭 ムーティのモーツァルト

       ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 リッカルド・ムーティが東京春祭オーケストラ(コンサートマスター長原幸太)を指揮し、モーツァルトの交響曲「第35番ニ長調《ハフナー》」と「第41番ハ長調《ジュピター》」を演奏。

 昨日までの峻烈で熱狂的なヴェルディの世界から打って変わって、今日は落ち着いたモーツァルトの世界。それも久しぶりに、たっぷりした響きの、宏大なスケール感に溢れたモーツァルトである。何となく懐かしく、幸せな気分にさせられる。こういうモーツァルトも、いいものだ。

 特に「ハフナー」は、第1楽章での光と影が交替し交錯して行く演奏の素晴らしさが感動的だった。各声部の動きも美しく、特に第3楽章では第2ヴァイオリンの細やかな表情も印象に残る。
 ただその一方、少々腑に落ちなかったのは、第2楽章後半のあのオーボエとバスーンとホルンが妙なるハーモニーを奏でる個所(第36小節以降)で、ムーティがむしろ弦の揺らめきの方を浮き出させ、それ以前からの音楽の流れに大きな変化を与えることなく進んで行ったこと。

 「ジュピター」は、冒頭から意外なほど抑制気味だったが、それよりも気になったのは、ムーティの指揮にしては、何か一つ緊密度に不足するように感じられたことである。ただし、第1楽章にせよ第4楽章にせよ、提示部においては「反復の部分」での方が、あるいは提示部よりも再現部での方が、いずれも演奏の緻密度が高まり、音楽のスケール感も増大して立派になって行ったところからみると、今日はオーケストラが未だ充分にこなれていなかったのかもしれない。明日の紀尾井ホール公演では、オーケストラがもっとモーツァルトに慣れて、バランスの取れた演奏になるのかもしれない。

2021・4・21(水)東京・春・音楽祭 ムーティ指揮「マクベス」

      東京文化会館大ホール→ライヴ配信

 新国立劇場の「ルチア」が終ったのは5時半近く、そのあとに上野へハシゴした人もいたようである。私も少し前まではオペラのダブルビルごときは平気でこなしたクチだが、残念ながらこの頃は体力的に些か自信が無い。従って、予定通り自宅へ戻り、一昨日の感動をせめてもう一度と、パソコンにかじりつくことにする。
 マスコミ取材用のクーポン券は貰ってあったのだが、自分のパスワードの不一致などでログインに手間取ったりして思わぬ時間を食い、ダンカン王が殺害されてマクダフが大騒ぎをするシーンあたりから、やっとログインにこぎ着けた。キカイ音痴の人間はこれだから困る。

 一昨夜、現場で聴いたあの天地を揺るがすような演奏の雰囲気には、もちろん音響的には到底及ばないけれども、近距離からの映像の面白さで、それを補うことはできる。
 とにかく、見ていて飽きない。ムーティの━━昔ほどの百面相的な表情豊かさは見られないにせよ━━オケや歌手を精神的に制御して行く顔の迫真力は、やはり大したものだ。

 そして、一昨日はあまりよく見えなかったが、外国勢歌手3人の顔の演技がすこぶる微細なのが判り、それだけ観ていてもドラマのシチュエーションが理解できる、というのが楽しい。
 この芸当は、わが日本人歌手たちにはやや不足するきらいがあるだろう。マクダフの芹澤佳通とマルコムの城宏憲も、直立不動で真面目な顔をして歌うだけでなく、もう少し芝居をして欲しいものである。それでも、脇役の北原瑠美と畠山茂は、その意味で健闘していた。

 なお、一昨日の項で書き忘れていたが、今回のムーティは、第3幕の魔女たちの場面におけるバレエ音楽をカットせずに演奏している。基本的にはパリ改訂版を使用しているように思われる。
 字幕なし、というのは、あまり詳しくない人たちにはつらいと思うが━━それともどこかのボタンを押せば出て来るのか?
※翌日事務局から聞いたところでは、やはり字幕はあって、受信方法の選択によっては見られたのだとのこと。

2021・4・21(水)新国立劇場「ルチア」

      新国立劇場オペラパレス  2時

 ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」。新国立劇場としては以前のトラヴァリーニ演出版に次ぐ二つ目のプロダクションで、2017年3月にプレミエされたジャン=ルイ・グリンダ演出版のこれが再演である。

 今回はスペランツァ・スカップッチが東京フィルハーモニー交響楽団を指揮。歌手陣は、イリーナ・ルング(ルチア)、ローレンス・ブラウンリー(その恋人エドガルド)、須藤慎吾(ルチアの兄エンリーコ)、伊藤貴之(ライモンド)、菅野敦(ノルマンノ)、又吉秀樹(アルトゥーロ)、小林由佳(アリーサ)、新国立劇場合唱団。

 舞台と演技に関しては、前回(→2017年3月23日)と全く同じなので省略する。

 スカップッチという女性指揮者は、3年前の東京・春・音楽祭に来日して都響を振った時には、全くどうしようもない緩い指揮者だと思ったが、今回は全く別の人のよう。きびきびとした指揮ぶりで、音楽に勢いがあるし、テンポは速めで引き締まっているし、畳み込むような迫力にも不足していない。第2幕フィナーレのアンサンブルがあれほど速いテンポで演奏され、劇的な効果をもたらしていたのを、私はこれまで聴いたことがない。
 ただし些か気になるのは、リズムの芯が少し曖昧なことと、そのためハーモニーの響きの安定に不足することだろうか。エドガルドとエンリーコが対決する場面(この演出ではエドガルドの館ではなく、荒漠たる海岸)の音楽が一つ迫力を欠いたのも、それが原因だろうと思う。
 だが、いずれにせよ、前回の時は、やはりオケとの相性か何かが悪かったのかもしれない。

 歌手陣ではルチア役のイリーナ・ルングが健闘していたが、私はむしろ、代役で出演した須藤慎吾(エンリーコ)の悪役的な演技と歌唱を讃えたい。自分の要求に従わぬ妹ルチアに激怒しつつ、ご意見番ライモンドを見て一瞬顔をしかめるという演技、あるいは激怒して部屋を出て行こうとしつつ、ルチアがひときわ強い拒否(高音)を示した瞬間に振り向いて彼女を罵るという演技など、悪役顔の表情も豊かに、見事に微細な演技を示していた。
 総じて、よくまとまったプロダクションであり、上演であったと思う。

2021・4・20(火)東京・春・音楽祭 若い音楽家による「マクベス」

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 ムーティの「マクベス」、こちらは先日の公開アカデミーの受講者たちによる、演奏会形式抜粋上演である。それでも、正味2時間強の演奏時間となった。

 「若い音楽家」というのがどこまでを指すのかはよく分からないけれども、出演は前夜と同じ東京春祭オーケストラと、イタリア・オペラ・アカデミー合唱団。
 指揮者は受講生の4人の指揮者━━シンガポール出身のチヤ・アモス、独系米人のヨハネス・ルーナー、日本の高橋達真と湯川紘惠。
 そしてソロ歌手陣はすべて日本勢で、青山貴(マクベス)、谷原めぐみ(マクベス夫人)、加藤宏隆(バンコー)、芹澤佳通(マクダフ)、城宏憲(マルコム)、北原瑠美(侍女)、畠山茂(医師)という顔ぶれである。

 昨夜のムーティ指揮による超弩級の「マクベス」がまだ頭の中に鳴り響いている時に若手指揮者の「マクベス」を聴くと、どうしても一種のもどかしさを感じてしまうのは仕方がない。それでも、若手たちがよくやったのは確かである。
 細かく言えば、日本人指揮者2人は、正確かつ丁寧にきちんと音楽をつくる。だが惜しいのは、その音楽が、噴き上げるような熱気にどうも乏しいことだ。もし全曲を指揮したら、おそらく淡彩な「マクベス」になってしまうであろうことは否めまい。
 この4人の中では、チヤ・アモスの情熱的な牽引力を感じさせる指揮が光っていた。

 歌手陣ではまず題名役の青山貴が━━この人は既に定評あるヴォータン歌手だし、若い音楽家という範疇には入るまいが━━力と巧味で光り、谷原めぐみも尻上がりに調子を上げて行った。マクダフの芹澤佳通は、今日の方が遥かに余裕を感じさせる歌いぶりだった。

 終演後にはムーティが歌手たち(医師役を除く6人)と指揮者4人に「受講生への終了賞授与」のセレモニーを行なって締めた。終演は9時40分頃。

 ※KEN様 文中のご指摘ありがとうございました。

2021・4・19(月)東京・春・音楽祭 ムーティ指揮「マクベス」

       東京文化会館大ホール  6時30分

 これは掛け値なしに、聴かなきゃソン、という演奏会だったろう。

 リッカルド・ムーティがヴェルディの「マクベス」から引き出した音楽は、実に物凄かった。音楽全体が鋭い。劇的な畳み込みが創り出す起伏感と緊張感は、息をもつかせぬほどだ。イタリア・オペラにおける「魔性」とはこういうのを謂うのかと思わせる演奏である。80歳のムーティがついに到達した音楽の境地とはこれだったのかと、今更ながら感服に堪えぬ思いであった。

 特に今回はオーケストラ━━東京春祭オーケストラ(コンサートマスター長原幸太)が強力で、ムーティの意図をほぼ完璧に生かしていたのではないかと思われる。
 ダンカン王の死体を発見して恐怖に慄くマクダフの場面でのリズムの反復は、かつてのアバドのそれを凌ぐほどの強烈さであり、魔女たちとマクベスの対話の場面でのオーケストラの咆哮の凄まじさは悪魔的でさえある。
 打楽器を激しく叩かせ、オーケストラを怒号させる演奏は、欧州の大歌劇場では珍しくないものの、オケ・ピットの小ぶりな日本の劇場ではこれまで望むべくもなかったものだ。演奏会形式の強みでもあろう。
 もちろん、弱音でのカンタービレの神秘的で美しいニュアンスも、卓越している。

 イタリア・オペラと雖も、オーケストラは単なる歌の伴奏者ではない━━それ自体が雄弁な語り手である。それを実証した演奏だったのだ。

 コーラス(イタリア・オペラ・アカデミー合唱団)も同様だった。特に魔女たちの声を受け持つ女声合唱は、見事な表現力を示していた。

 ソロ歌手陣は、当初の予定から一部変更があって、ルカ・ミケレッティ(マクベス)、アナスタシア・バルトリ(マクベス夫人)、リッカルド・ザネッラート(バンコウ)、芹澤佳通(マクダフ)、城宏憲(マルコム)、北原瑠美(侍女)、畠山茂(医師)という顔ぶれ。
 この中でも、マクベス夫人を歌ったバルトリは、伸びと張りと力のある声で傑出しており、殊更に悪女っぽい表現ではないものの素晴らしい歌唱を聴かせ、今夜のステージをさらった感さえあったほどだ。

 題名役マクベスを歌ったミケレッティも若い人だが、一本気なマクベスといった表現で、前半は比較的おとなしく、幕切れ近くに至り傲然たる表情を増して行ったのは、原作及びオペラにおけるマクベスという人物像を描くためのものだったのかもしれない。
 ただ、━━総じて、外国勢は見事だったが、迎え撃つ日本勢歌手陣は、どうしてもやはり一歩を譲った感があって……それが残念である。

 だがいずれにせよこれは、紛れもなく超弩級の「マクベス」であった。これほどの演奏はもう二度と聴けないかもしれない。
 30分の休憩1回を含み、9時45分終演。21日にも上演がある。有料だがライヴ配信もあるはず。

2021・4・18(日)工藤重典、加藤知子、神尾真由子他

      大手町三井ホール━━配信

 今日は当初の予定では、昨日の「大阪4オケ」に続き、西宮の兵庫県立芸術文化センターで広上淳一指揮京都市交響楽団を聴いているはずだったのだが、前述の通り「県外移動自粛」。
 その時間を利用して、以前KAJIMOTOからインフォメーションのあった、期間限定オンライン配信「三井物産クラシックコンサート2021~明日へつなぐハーモニー~」を視聴してみた。

 これは工藤重典(fl)、加藤知子(vn)、神尾真由子(vn)、中野振一郎(cemb)、大萩康司(g)およびOtemachi One Special Ensembleの演奏による非公開配信用のコンサートだ。演奏されているのは、バッハの「ブランデンブルク協奏曲第5番」(工藤、加藤、中野とアンサンブル)、ピアソラ~鈴木大介編の「ブエノスアイレスの四季」からの「冬」と「春」(工藤、大萩)、ヴィヴァルディの「四季」全曲(神尾、中野、アンサンブル)の3曲。

 いずれも快演で、実に聴き応えがある。フルートとギターによるピアソラを挟んで、前後にバッハとヴィヴァルディの名曲を配したプログラミングもいいし、ソリストたちも強力だ。

 重量感のある「ブランデンブルク協奏曲」から、神尾の情熱的なソロに合奏が呼応する迫力充分の「四季」まで、全部で1時間半ほどの内容である。自宅でコンサートの配信を視聴する時には、余程の内容でない限り、あれこれ注意力を削がれること無きにしも非ずだが、この配信の演奏は愉しめた。最近の配信は画像も綺麗だし、音質も向上しているので、それも気持よく視聴できた所以でもあろう。アンサンブルの若い奏者が楽しそうに演奏している様子が見られるのも嬉しい。
 こういう良質の配信は、大いに歓迎したい。
 ただし今回のは、途中にCM的なコーナーやら、趣旨や意義を延々と説明したりする「民放TV的」なMCやらが入るが……。

 会場の「大手町三井ホール」は、昨年6月に大手町の複合施設「Otemachi One」の3階に設置された由の多目的型、音響及び構造の可変型中型ホールとのこと。私は未だ行ったことはないが、紹介映像で見る限り、なかなか合理的でモダンな会場だと思われる。
 このリンクは無料で、4月30日まで視聴可だから、一度覗いてみては?
    https://classical-concert-for-tomorrow2021.jp/

2021・4・17(土)原田慶太楼の東京響正指揮者就任記念(定期)

      サントリーホール  6時

 若手指揮者の中でもおそらく最も脚光を浴びている存在の原田慶太楼が、4月からこの東京交響楽団の正指揮者に就任。4月定期はその彼の話題で満たされた。
 彼が指揮したのは、フランク・ティケリFrank Ticheli(1958生)の「ブルーシェイズBlue Shades」、バーンスタインの「セレナード(プラトンの「饗宴」による)」(ヴァイオリンのソロは服部百音)、およびショスタコーヴィチの「交響曲第10番」。
 コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 日本の若手指揮者にこれほど大きな、熱烈な拍手が浴びせられたのは、私の体験では、かつての小澤征爾以来ではなかろうかと思う。
 事実、演奏はそれに相応しい熱気と活気に溢れていた。就任演奏会のプログラムにアメリカとロシアの現代作品を並べるということからして指揮者の並々ならぬ意欲と姿勢を誇示するものだったが、そのどれもが体当たり的な情熱を噴き出させた演奏で聴衆を熱狂させたのだから、これは大成功と言ってよい。

 東京響もこの若い指揮者を支持して渾身の演奏を繰り広げ、ショスタコーヴィチの交響曲ではホルンとファゴットをはじめ管のソロも映えた。
 またバーンスタインの「セレナード」では服部百音が好演、ソロ・アンコールではシューベルト~エルンスト編の「魔王」を鮮やかに弾いて原田の晴れ舞台に花を添えた。

 今夜は客の入りも最近の演奏会の中では傑出して好調で、休憩時間のロビーは久しぶりに「密」に近いほどの状態と化し、ホールのレセプショニストたちの気をもませていたようである。

 ところで今日は━━当初の予定では大阪の「大阪4オケ」を聴きに行くはずだったのだが、現今の情勢を鑑みて自粛した次第。痛恨のキャンセルであったことは事実だが、他方、この気鋭の原田慶太楼の指揮する東響の溌溂たる演奏を聴けたことは、これはこれで幸いであった。

2021・4・15(木)荘村清志 ギター協奏曲の夕べ

      サントリーホール  7時

 昨年3月に予定されていながらコロナ禍のため延期されていた荘村清志の演奏会が、やっと開催された。
 大友直人の指揮する東京フィルハーモニー交響楽団が出演し、最初にモーツァルトの「皇帝ティートの慈悲」序曲が演奏されたあとに荘村清志が登場、ロドリーゴの「ある貴紳のための幻想曲」と「アランフェス協奏曲」、cobaの「Tokyo~ギターとオーケストラのための協奏曲」(荘村の委嘱作)を演奏した。

 ロドリーゴの2曲は、ぐっと落ち着いた、風格に溢れた演奏で、スペインの郷愁と情緒というよりは沈潜した美しいモノローグといった雰囲気の世界を感じさせたのが興味深い。
 委嘱作品では、作曲者のcoba(本名は小林靖宏)自らも本職のアコーディオンを引っ提げて登場し協演していたが、彼の出番のパートはごく遠慮がちな範囲にとどまり、専ら主役の荘村に花を持たせた感。オーケストラの編成はかなり大きいので、カデンツァ風の個所以外のところではギターもその渦の中に埋もれる傾向もあったが、全体に躍動的な曲想で、cobaのこのような大規模な作品を初めて聴いた私としては、これも大いに興味深かった次第である。

 なおアンコールとして、同じくcobaの「Happy Pop Songs」の第3曲が、2人のデュオで演奏された。

 今日は彼の演奏にも、ステージ上での彼の挙止にも、荘村さんのあたたかい人柄がいっぱいに拡がっていたという雰囲気であった。私も彼とはほぼ40年にわたる知己だが、話していてあんなに楽しい気分にさせてくれる名演奏家は稀だと言っていい。

2021・4・14(水)METライブビューイング「ヴァルキューレ」

    東劇  5時

 MET本家は休業中とあって、松竹の「METライブビューイング」は、以前の名作をピックアップし、「プレミアム・コレクション」と題して上映している。その一つ、ワーグナーの「ヴァルキューレ」を観に行く。

 これは2011年5月14日に上演された、あのロベール・ルパージュ演出とカール・フィリオンの美術による、とてつもない舞台装置として話題になったMETの新しいプロダクションであった。
 演奏陣は、ジェイムズ・レヴァイン指揮のメトロポリタン・オーケストラ、ブリン・ターフェル(ヴォータン)、デボラ・ヴォイト(ブリュンヒルデ)、ヨナス・カウフマン(ジークムント)、エヴァ=マリア・ヴェストブルック(ジークリンデ)、ハンス=ペーター・ケーニヒ(フンディング)、ステファニー・ブライズ(フリッカ)他。
 なおオープニングの個所で、デボラ・ヴォイトとブリン・ターフェルによる日本の観客向けの挨拶が挿入されていたのは、ちょっとしたサービスというか、ご愛敬というか。

 本編の印象については、以前のビューイング(→2011年6月14日)に観たものと全く同じなので省略するが、更に改めて感じたのは、故レヴァインのオペラ指揮が如何に巧かったかということである。
 とりわけ、いくつかの起伏を繰り返しつつ音楽を頂点に持って行くあたりの呼吸は、やはり見事なものだった。第1幕の幕切れでの愛の昂揚、第2幕終場の悲劇の場面など、息もつかせぬ畳み込みである。彼はやはり、卓越した才能を備えたオペラ指揮者だった。
 彼のそのかけがえのない才能と実績そのものは、METを追われる因となった過去のスキャンダルの件などとは切り離して、高く評価されるべきであろう。

 また今回はCMや上演予告などを含め、10年前の上映映像が━━ただし第2幕幕開きシーンとヴォイトのインタヴューの一部はどうやら差し替えたと思われる━━再使用されていたが、あの頃のMETは華やかだったな、という懐かしい思いがこみ上げる。あのような日々が蘇るのは、いつのことになるだろうか?

2021・4・14(水)東京・春・音楽祭 ムーティのアカデミー

      東京文化会館大ホール━━配信視聴

 「リッカルド・ムーティ イタリア・オペラ・アカデミーin東京vol.2《マクベス》」と題されたシリーズが、10日~16日(13日は休み)の昼間に開催されている。今年は非公開となったものの無料配信されているので、ログインして部分的に視聴する。
 若い指揮者たち数人と、日本のプロ歌手たち、東京春祭オーケストラ、イタリア・オペラ・アカデミー合唱団を対象に、ヴェルディの「マクベス」を教材にして、ムーティが指導を行うというプログラムだ。

 とにかく、エキサイティングである。若い指揮者が振り始めた前奏曲からして、あまりに瑞々しく躍動的な演奏だったのにはまず驚いたが、指揮台の横に大ムーティがでんと座って、時には身振りをしつつ指導しているので、それだけでオーケストラも鼓舞されてしまうのだろう。フィルハーモニア管弦楽団のメンバーが語っていた「われわれは指揮者の棒に頼って演奏するのではなく、指揮者のパーソナリティに反応して演奏するのです」という言葉をふと思い出す。

 自ら歌いながら全員を指導する80歳のムーティの声の力強さも驚きだが、ドラマとしての性格表現をオーケストラの演奏や歌手の歌唱から引き出そうとする彼の「読みの深さ」にも感銘を与えられる。聴いていると、この「マクベス」の音楽がいかに素晴らしいか、改めて教えられているような思いになる。19日~21日の本番ではどんな演奏になっているかが楽しみだ。

 いつまで視聴していても飽きない「ムーティのマクベス」だが、次の予定もあるので途中で切り上げ━━。

2021・4・12(月)東京・春・音楽祭 川口成彦と仲間たち

      東京文化会館小ホール  7時

 2016年のブルージュ国際古楽コンクールで最高位を得たフォルテピアノの川口成彦が主役の一夜。客席はソーシャル・ディスタンス方式の範囲で満席になっていて、彼の人気を物語るだろう。

 彼が今回フォルテピアノで弾いたのは、前半にモーツァルトの「ヨハン・クリスティアン・バッハのソナタによるピアノ協奏曲ト長調K.107」と「ピアノ協奏曲第12番イ長調K.414」、後半にカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの「幻想曲ヘ長調Wq.59-5」と、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第2番変ロ長調Op.19」、アンコールにハイドンの「チェンバロ協奏曲ⅩⅧ-4」の第2楽章。

 なお協奏曲では、古楽オーケストラ《ラ・ムジカ・コッラーナ》━━丸山韶(vn)廣海史帆(vn)佐々木梨花(va)島根朋史(vc)諸岡典経(violone)━━が協演した。鍵盤楽器は、川口自身のアナウンスによれば、1795年頃のワルターのモデルとのことである。

 川口の演奏を初めて聴いたのはもう8年前になるか、ある教会で中村伸子さんが主宰したコルンゴルト作品集の小さな演奏会(→2013年9月28日)で、あの時は、彼はピアノを弾いていたっけ。その後フォルテピアノのリサイタル(→2017年9月29日)で聴いた時には、その演奏の表現の多彩さに舌を巻いたものだった。
 今回も、特にベートーヴェンのコンチェルトでの表情の自在さ、音色の多彩さに感嘆したが、その他の作品での演奏でも、音楽全体に溢れる一種の爽やかな感性に魅了された。
 実に気持のいい演奏会だった。

2021・4・11(日)東京・春・音楽祭 モーツァルト「レクイエム」

     東京文化会館大ホール  3時

 シュテファン・ショルテスの指揮する東京都交響楽団が、シューベルトの「交響曲第4番《悲劇的》」と、モーツァルトの「レクイエム」を演奏。後者では東京オペラシンガーズ、天羽明惠(S)、金子美香(Ms)、西村悟(T)、大西宇宙(Br)が協演した。コンサートマスターは矢部達哉。

 あまり話題にならなかったが、ショルテスもよく来日できたものだ。
 ハンガリー出身の彼の指揮を、私は2010年6月10日にエッセンでの「ラインの黄金」で初めて聴き、その切れのいいリズム処理と快速テンポに惚れ込んでしまった。その後も同じエッセンでの「トリスタンとイゾルデ」(→2013年5月25日)、あるいは来日しての「サロメ」(→2011年2月22日23日)や、ロッシーニ演奏会(→2011年2月6日)、「ばらの騎士」(→2015年6月2日)などを聴いたが、どれも胸のすくような演奏だった。それゆえ今回も、彼の指揮を楽しみにしていたわけである。

 ただそのわりに今日は、シューベルトの「4番」はあまり歯切れのいい演奏ではなく、しかも活気のある演奏というほどでもなく、ショルテスの芸風も最近は変わってしまったのかと訝しんだほどだ。
 だが幸いなことに「レクイエム」の方はあまり重くならず、といって過度にテンポも速くならず、適度な明晰さを保った、程々に割り切った演奏になっていたと言えようか。

 もっとも、敢えて言わせてもらえば、やはり今日の2曲のような陰翳の濃い作品は、あまりショルテスに向いていなかったのではないか、という気もするのだが。この次の機会には、もっと劇的な曲を指揮してもらう方がいいかもしれない━━。

2021・4・10(土)「名曲全集」沼尻竜典指揮東京交響楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 ミューザ川崎シンフォニーホールと東京響による「名曲全集」第166回。
 沼尻竜典の客演指揮で、ベルリーニの「ノルマ」序曲、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは牛田智大)、チャイコフスキーの「交響曲第4番」というプログラム。コンサートマスターは水谷晃。

 お客さんの入りがいいようである。
 主催者に訊いたら、「そりゃあもう、牛田さんですからね」とのこと。そういうものなのかなあ、と思いつつ2階席から見ると、なるほど1階席の最前列が若い女性たちでぎっしりと埋まっていた。まあ、いつの世にもアイドル人気というのはあるものだ。

 余計なことはともかく、その牛田智大の演奏、浜松のコンクール以前から私も注目していた若手だが、今日のショパンのコンチェルトでも持ち前の清澄で瑞々しい音色と表情を存分に発揮、しかもその膨らみのある豊かな中低音の響きも美しく、さらにスケール感の大きさを増したという印象である。まだ21歳、どこまで伸びるか楽しみの尽きないピアニストだ。

 沼尻竜典がチャイコフスキーの交響曲を指揮するのを聴いたのは、もしかしたら今回が最初だったか? 
 予想通り、直線的なチャイコフスキーで、哀愁感とか陰翳とかいった要素を意図的に排除したような音楽になっていたのがいかにも彼らしい。両端楽章では、チャイコフスキー特有の「フォルテ3つ」の指定を忠実に、目一杯に生かした演奏も聴かれた。特に終楽章コーダでのそれは聴衆を沸かすに充分だったが、どこからかあの禁断のブラヴォーの懐かしい響きも聞こえたような気がしたのは、こちらの空耳か。

 「ノルマ」の序曲(Sinfonia)では、終わり近くに現れる、あのハープを加えた木管と弦対話の美しい個所を、流れるようなテンポで演奏していたのが気に入った。

2021・4・9(金)東京・春・音楽祭:ムーティの「マクベス」解説

      東京文化会館大ホール  7時

 巨匠リッカルド・ムーティが予定通り来日した。半ば諦めかけていただけに、喜びもひとしおである。これで彼の指揮するヴェルディの「マクベス」全曲(演奏会形式上演)を楽しむことができるというものだ。

 今日はその一連の「イタリア・オペラ・アカデミーin東京vol.2」の一環として、彼が自ら「マクベス」の作品解説と、アカデミーのレッスンを公開で行なった。
 前半の40分ほどをヴェルディと「マクベス」についての解説に充てたが、これは前回(→2019年3月28日)と同じように、ムーティの持論たる「誤った伝統なるものを排し、ヴェルディの本来の意図を楽譜に基づき忠実に再現すること」を基本としての話。そしてそのあと95分ほどは、青山貴、谷原めぐみ、芹澤佳通、城宏憲ら、「若い音楽家による《マクベス》」(4月20日)の出演者たちを対象とした公開レッスンである。

 レッスンでは、ムーティは、演劇的な表現としての歌唱に重点を置いた指導で歌手たちを絞り上げる。自らピアノを弾き、朗々たる声で歌う。
 これはわれわれ聴衆にとっても、このオペラ━━特に音楽と登場人物の性格分析について理解を深めることのできる、貴重な時間であった。とにかく、ムーティの尽きせぬユーモアとジョークにあふれる話が、やたら面白いのである。休憩なしに2時間15分。もうじき80歳になるのに、見事なエネルギーだ。

2021・4・8(木)新国立劇場「夜鳴きうぐいす」「イオランタ」3日目

       新国立劇場オペラパレス  7時

 ストラヴィンスキーの「夜鳴きうぐいす」と、チャイコフスキーの「イオランタ」のダブルビル上演。いずれも新演出で、大野和士芸術監督と新国立劇場が力を入れたプログラムであったと思う。
 当初予定の多くの外国勢キャストが来日できていたら、さぞや個性の際立った上演となったことだろう。とはいえ、代役に立った日本勢も、慣れないロシア語歌詞を何とか克服して、それなりの成果を上げていたことは確かだと思われる。
 
 演奏は、高関健指揮の東京フィルハーモニー交響楽団と新国立劇場合唱団。
 主な歌手陣は、「夜鳴きうぐいす」が三宅理恵(鶯)、伊藤達人(漁師)、針生美智子(料理人)、吉川健一(中国皇帝)、ヴィタリ・ユシュマノフ(侍従)、山下牧子(死神)他。
 「イオランタ」が妻屋秀和(ルネ王)、大隅千佳子(イオランタ)、井上大聞(ロベルト公爵)、内山信吾(ヴォデモン伯爵)、ヴィタリ・ユシュマノフ(エブン=ハキア)、山下牧子(マルタ)、村上公太(アルメリック)、大塚博章(ベルトラン)他。

 私の考えでは、澄んだ声で鶯を歌った三宅理恵、豊かな声でイオランタを歌った大隅千佳子、滋味豊かに死神と乳母マルタとを歌った山下牧子ら、女声陣が気を吐いていたように感じられた。
 男声陣ももちろん頑張っていたけれども、ただし━━男声主役の中には、誰とは言わないけれども、高音が全然出ないのみならず声の不安定なテノール歌手もいて、いやしくも日本の国立歌劇場たるもの、いくら代役でも一定の水準以上の歌手を厳選して貰わなければ日本のオペラ界の発展のためになるまいとまで思わされたのも事実であった。

 指揮の高関健も代役ではあったものの、こちらはオーケストラを巧くまとめていて、「イオランタ」でのチャイコフスキー晩年の色彩感やカンタービレを率直に表出していたと思う。

 今回のプロダクションでは、ヤニス・コッコスの演出・舞台美術・衣装が注目されていた。特に舞台美術にはメルヘン的で色彩的な面白さがあり、皇帝の天蓋の上にのしかかる巨大な死神の不気味な姿など、派手な見せ場を備えていたようだ。ただ、ドラマとしての演技の面ではかなりあっさりしたもので、リアルな設定のはずの「イオランタ」においては、とりわけラストシーンの平凡さには失望させられた。

2021・4・7(水)東京文化会館バースデーコンサート

      東京文化会館大ホール  7時

 60年前の1961年4月、東京文化会館が開館し、その7日に関係者や報道陣を招いての落成記念式典が行われ、ウィルヘルム・シュヒター指揮のNHK交響楽団がベートーヴェンの「エグモント」序曲とバッハの「管弦楽組曲第3番」を演奏した。そして同日夜には一般都民向けの落成披露演奏会が行われ、金子登指揮東京藝術大学音楽部管弦楽部がドヴォルジャークの「新世界交響曲」などを演奏した。

 私はもちろん当時は小童で、そんな所へ入れるような身分ではなかったから、現場にいたわけではない。ただしその1か月後、初来日のバーンスタインとニューヨーク・フィルの「春の祭典」他のコンサートを、一番安い500円のチケット(5階席2列目)を買って聴きに行ったことはあったが━━。

 その東京文化会館が、今日めでたく還暦を迎えたというわけだ。建物の内部も外部も、もちろんホールそのものの雰囲気も光景も、あの頃と比べても鮮度を全く失っていないのは立派なことである。
 今日は私もしばしホワイエや客席を眺めつつ、当時初めてこのホールに足を踏み入れた時の感動を思い出していた。それまでのメインの音楽会場だった日比谷公会堂に対し、この東京文化会館大ホールが如何に宏大で美しい、夢のような世界に感じられたか。それは実に、筆舌に尽くし難いものがあったのである。

 今日はそのバースデーコンサートというわけで、佐渡裕の指揮する東京都交響楽団と、メゾソプラノの藤村実穂子が出演、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲と、「ヴェーゼンドンクの5つの歌」、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」を演奏した。なおアンコールとして、バーンスタインの「ディヴェルティメント」からの「ワルツ」と、ストラヴィンスキーの「グリーティング・プレリュード」が付け加えられた。
 コンサートマスターは四方恭子。

 「マイスタージンガー」前奏曲は、こういう祝典的な場には、まさに打ってつけの曲だ。佐渡は彼らしく都響をフルに鳴らし、大見得切った演奏に仕立て上げた。
 「ヴェーゼンドンク歌曲集」では藤村実穂子の深々とした歌唱が流石の境地を感じさせたが、指揮者とオーケストラとがあんなあっさりした演奏でなく、もっと深みのある音楽でサポートしていれば、いっそうこの曲に相応しい官能的な世界が創り出されていたろうに、と思う。

 「新世界交響曲」の演奏は、力感はあったものの、詩情に乏しい。

2021・4・6(火)カーチュン・ウォン指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 シンガポール出身の注目の若手指揮者カーチュン・ウォン(ウォン・カーチュン?)、近年、日本のオーケストラをたびたび指揮して好評を得ている人だが、私はどういうわけかこれまでタイミングが合わず、聞き逃してばかりいた。今回、漸くその本領に接することができた次第である。

 彼が今日指揮したのは、細川俊夫の「瞑想~3月11日の津波の犠牲者に捧げる」、デュティユーの「ヴァイオリン協奏曲《夢の樹》」(ソリストは諏訪内晶子)、マーラーの「葬礼」と「交響曲第10番」の「アダージョ」というプログラム。
 コンサートマスターは小森谷巧。

 これは4月定期で、本来はシルヴァン・カンブルランが振るはずだったのを、彼の来日が果たせなかったため、カーチュン・ウォンが代役で登場したわけである。前半2曲は当初の予定通りのもの、後半の2曲がウォンの選曲によるものだった。

 それにしてもこの4曲、どれもこれも、物凄い濃密さである。
 細川の「瞑想」は、彼の作品としては━━そのテーマに相応しく━━鋭角的で厳しい。長いパウゼを挟んで叩きつけられる大太鼓の轟音は、もしこの日、マーラーの「第10交響曲」が補作版で全曲演奏されていたら、その第4楽章の遠いエコーだったように感じられたかもしれない。
 そしてデュティユーのコンチェルトは、その本来の輝かしさやユーモアを含んだ曲想に対し、諏訪内晶子のシリアスで透徹したソロにより、むしろ突き詰めたような緊迫した演奏となっていた。

 その重量感溢れる前半の2曲に加え、後半はさらにマーラー2曲である。アタッカで切れ目なしに、「対の2曲」という形で演奏されたことは、当を得ていたと言えるだろう。ただ、弦の編成があまり大きくなかった所為もあってか、「アダージョ」の方は澄んだ細身の、室内楽的な音色を感じさせた。
 ウォンのマーラーをこれまで他に聴いたことがないのだが、もしや彼の狙いは、マーラーの持つ後期ロマン派の濃厚な世界の部分を引きはがし、その内側にある鋭角的で清澄な様相を浮き彫りにすることにあるのだろうか。そういう意図があったのなら、この「アダージョ」の演奏は、納得の行くものであった。

 だがしかし、━━「葬礼」の方は、そういうアプローチでは、必ずしもうまく行くとは思えない。マーラーがのちにこれを「復活」第1楽章に転用する際に手を加えた版と違い、良くも悪くも雑多な興奮、怒号、哀愁、悲劇性といったものを感じさせるこの旧版の「葬礼」の方は、そうなると、何か欠点ばかりが目立ってしまうように感じられてしまうのである━━これはあくまでも私の感想だが。

2021・4・3(土)東京・春・音楽祭 ブラームスの室内楽Ⅷ

      東京文化会館小ホール  7時

 加藤知子と矢部達哉(vn)、川本嘉子と横溝耕一(va)、向山佳絵子(vc)が演奏するブラームスで、「弦楽五重奏曲第1番」と「クラリネット五重奏曲」(ヴィオラ版)の2曲からなるプログラム。

 名手たちが集まった「合奏」だから、かりに弦楽四重奏のパートだけ聴いても、長年組んだ常設の四重奏団によるそれとは違って、完璧な緊密性を望むのは無理だろう。だが演奏のさなかに時々「ミューズの神が舞い降りて」(誰かのセリフだ)、美しく溶け合った陶酔的な世界が出現することがある。休憩後に演奏された「クラリネット五重奏曲ヴィオラ版」では、第1楽章の後半や第2楽章のある個所にそういう瞬間が聴かれた。

 ただ、前半の「弦楽五重奏曲第1番」の演奏には少々腑に落ちぬところが多く、第1ヴァイオリン(加藤知子)がもう少し強く自己を主張してもよかったのではないか、と感じられるフシがあった。旋律線が浮き出さず、しかも5人の各パートが混然とし過ぎて、この曲の精緻な声部の交錯が判然とせず、全く別の曲のように聞こえるところが多かったのである。
 第2部での「クラリネット五重奏曲ヴィオラ版」では、そういう問題はすべて解決されていたが。

 客席は市松模様だったが、その範囲内ではよく埋まっていただろう。さすが人気の奏者たちによる演奏会だけある。

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