2023-12

2021年6月 の記事一覧




2021・6・29(火)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 これは第609回定期演奏会。常任指揮者ヴァイグレがグルック~ワーグナー編の「オーリドのイフィジェニー」序曲、フランツ・シュミットの歌劇「ノートル・ダム」からの「間奏曲」と「謝肉祭の音楽」、および「交響曲第4番」を演奏した。読響のコンサートマスターは長原幸太。

 もともとは2曲目に、ダニエル・オッテンザマーとソフィー・デルヴォーをソリストに迎えてのR・シュトラウスの「クラリネットとファゴットのための二重小協奏曲」が入っていたのだが、2人が来日不可能となったために変更されたものである。
 だがこれは結果として、むしろ良かった。シュミットの「ノートル・ダム」は1906年、「第4交響曲」は1933年にそれぞれ完成されたもので、従ってほぼ30年の間の彼の作風の変化を如実に感じ取ることができたからである。いずれもめったにナマでは聴けない作品だし、私にとっては大変貴重な体験でもあった。

 ヴァイグレも、先頃のヒンデミットの「画家マティス」などに於けると同様、近代ドイツのレパートリーを手がけた時には、晦渋さと明晰さとを巧みに融合させて、実に見事な演奏を聴かせてくれる人だ。ただし今日の演奏では、その晦渋な曲想の勝った「第4交響曲」に於いての方に、緻密さと緊迫感が発揮されていたようである。

 「オーリドのイフィジェニー」序曲が演奏会で取り上げられる機会も、日本では稀であろう。冒頭のアンダンテの個所など、その曲想は遠く1世紀後のワーグナーの「パルジファル」にそのエコーを響かせており、そのワーグナーがこの序曲の終結を演奏会用に編曲しているのも興味深い。その意味では私は大いに楽しみにしていたのだが━━。

 しかし、力強いグラーヴェの部分と、主部のアレグロ・マエストーゾの部分とが、今回のように速いテンポでエネルギッシュに演奏されてしまうと、序曲全体を支配する「マエストーゾ」の荘重雄大な性格が薄められてしまうように思われて、あまり感銘は受けなかった。
 特にアレグロの部分では、4分音符と8分音符による威厳あるリズムを強調した演奏(昔のトスカニーニらが採っていたような)と、今日のように16分音符による速い弦の動きの方を前面に出した演奏とでは、全くその印象が違って来るのである。

2021・6・27(日) ヘーデンボルク・トリオ

       サントリーホール小ホール「ブルーローズ」 7時

 「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン」の一環。新型コロナ禍による演奏者の入国制限のため1週間ほど延期されていた公演がめでたく開催された。

 ヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルク(vn)、ベルンハルト・直樹・ヘーデンボルク(vc)、ユリアン・洋・ヘーデンボルク(pf)の3人━━所謂「ヘーデンボルク3兄弟」のアンサンブルだ。いずれも日本人の母(戸田悦子)とスウェーデン人の父のもとに生まれ、しかも和樹と直樹がいずれもウィーン・フィルのメンバーであることでも、日本の音楽ファンの間で大きな話題になった所以である。

 2日間にわたる公演のうち、今夜は第2日。ベートーヴェンの「《私は仕立屋カカドゥ》による変奏曲」と、「ピアノ三重奏曲第5番《幽霊》」、ブラームスの「弦楽六重奏曲第1番」(キルヒナー編曲版)が演奏された。
 もしかりに、3人の音楽を日本人演奏家たちのそれとして聴いた場合には、珍しくスケールが大きく、骨太なスタイルの演奏として印象づけられるかもしれない。が、その音楽をウィーン・フィルのメンバーのそれとして聴いた場合には、むしろ珍しくシリアスで手堅く、渋いスタイルの演奏に感じられるかもしれない。

 ベートーヴェンの「変奏曲」は予想外に生真面目な解釈の演奏。「幽霊」のラルゴ楽章も実に神秘的な音楽として再現されていた。ブラームスの「六重奏曲」の「ピアノと弦のための三重奏曲」編曲の腕前は驚くほど巧みで、アレンジ版としての違和感を全く抱かせないところは見事である。ともあれ、緻密で真摯なヘーデンボルク3兄弟の演奏だった。
 アンコールは、サン=サーンス~リスランド編「白鳥」。

2021・6・27(日)藤原歌劇団・NISSAY OPERA「蝶々夫人」

      日生劇場  2時

 粟國安彦が演出、鈴木恵里奈がテアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラを指揮。
 ダブルキャストの今日の歌手陣は、小林厚子(蝶々夫人)、澤崎一了(ピンカートン)、牧野正人(シャープレス)、鳥木弥生(スズキ)、松浦健(ゴロー)、相沢創(ヤマドリ)、豊嶋祐壱(ボンゾ)、立花敏弘(神官)、吉村恵(ケート)、藤原歌劇団合唱部。

 粟國安彦の演出は37年前から繰り返し上演されているもので、日本庭園や離れ家、桜などをあしらった色彩的な舞台装置(川口直次)とともに、今なおその生命力を失っていないようである。極めて伝統的なスタイルの舞台ながら、定番の名作オペラを気軽に楽しみたいという愛好家にとっては、不足はないといえよう。
 久恒秀典の再演演出を含め、小林厚子をはじめとするキャストの手堅い歌唱など、いかにも藤原歌劇団の制作ならではの、オーセンティックな上演になっている。

 だが、たったひとつ、どうにも耐えられなかったことがある。オーケストラだ。
 弦楽器奏者はいったい、ピットの中に、何人いたのか。まさか5~6人しかいなかったわけでもあるまい。管と打楽器は聞こえても弦が全く聞こえない個所は数知れず、したがって音楽は流れとふくらみに欠けて、プッチーニの豊麗なオーケストラ・サウンドは、ついに一度たりとも響くことがなかった。第1幕冒頭でこそ弦の音は聞こえたものの、それが管とのアンサンブルを形成せずバラバラに響き始めたのに驚かされたほどだ。全曲を通じて、オーケストラと声楽とが全く溶け合わないという現象も生じていた。

 こんな奇妙なオーケストラの演奏は、聞いたことがない。「プッチーニの音」を破壊してしまった弦セクションも不誠実だが、敢えて指揮者に問いたい。オペラにおけるオーケストラの役割をどう考えているのかと。

2021・6・26(土)飯守泰次郎指揮東京交響楽団

     サントリーホール  6時

 池袋の東京芸術劇場から、赤坂のサントリーホールに移動。ハシゴしたお客さんも少なからずいたようである。
 こちらの方は、予定されていた指揮者ベルトラン・ド・ビリーと、ハープ奏者グザヴィエ・ドゥ・メストレが来日不可能になり、飯守泰次郎と吉野直子が代わりに登場し、当初予定のものと同じプログラム━━ライネッケの「ハープ協奏曲ホ短調」と、ブルックナーの「交響曲第7番ホ長調」とを演奏した。

 この代役人選は、成功していた。吉野直子は、このライネッケのコンチェルトを、暗譜で演奏した。立派なものである。
 私の方は不勉強にして、この曲をナマで聴くのはこれが初めてで、大変興味深く聴かせていただいた次第だ。いかにもドイツの作品ならではというか、重々しくて陰翳の濃いハープ協奏曲である。それは、飯守泰次郎が東響から引き出した音が重厚だった所為だけでもなかろう。それに吉野直子のソロも渋い音色だったし━━。
 この重厚な雰囲気は、彼女がアンコールで弾いたアッセルマンの「泉」の爽やかな解放感に富んだ曲想で、取りあえずは打ち払われた。

 ブルックナーの「7番」では、飯守泰次郎の代役登場に異を唱える人は、まずいないだろう。これもいい演奏だった。
 因みにプログラム冊子掲載のクレジットには「ノーヴァク版(1954年版)」とあるが、この表記は誤解を生じさせやすい。それをいうなら「1954年出版のノーヴァク校訂楽譜による」とするべきだろう。当該欄の英語表記には「Nowak edition(published 1954)」と記載されており、これなら話は解る。

 ただ、実際に演奏されたのは、ノーヴァク版ではなく、むしろ「折衷版」とでも言えるものだ。開始早々、第1主題のアウフタクトから、ノーヴァク版にもハース版にもないホルンが入って来たのには、飛び上がりそうになった。
 だが、マエストロ飯守としては、所謂「改訂版」もしくは「初版」へのこだわりがあるのかもしれない。終演後に楽屋で氏に「(独自の)飯守版ですか?」と訊ねたら、不満そうな、ムッとしたような表情で「そうですか?」と逆に聞き返されたからである。

 ともあれ、「縦の線」をわざと揃えない手法を重視し続ける飯守泰次郎の指揮は、オーケストラからスケール感と量感に満ちた響きを生み出して、良き時代のドイツの名指揮者たちが創り出していたような、独特の世界を形づくる。
 東京交響楽団もそれによく応えていたが、この「縦の線」を揃えぬ演奏という点では、やはり東京シティ・フィルの方が、飯守の指揮に慣れているようである(先日の「ジークフリート」での演奏などがその好例だった)。
 コンサートマスターは水谷晃。

2021・6・26(土)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 首席客演指揮者アラン・ギルバートが指揮して、バーンスタインの「キャンディード」序曲、コープランドの「アパラチアの春」、アイヴズの「交響曲第2番」というアメリカ・プロを演奏。コンサートマスターは矢部達哉。
 ギルバートが来日できなければこの定期(C)は中止、という予告も一時はあったけれども、その彼が来日できたのは祝着である。

 但し今回は、彼の所謂「待機期間」の理由から「彼の周囲2メートル間隔保持」という方針が採られ、アランは袖から登場して一度客席を通り、指揮台正面の位置からステージに上がり、退場する時もその同じコースを逆に進む、という、ややこしい動線を採った。
 もしこんなことをクソ真面目にやったら、会場には「?」が生じるだろうが、そこはアラン、最初に登場した際には、聴衆に手を振りつつ、笑いながら客席を歩いて来る、というジェスチュアで、みんなを一瞬のうちに寛いだ雰囲気に巻き込んでしまった。このあたりが外国人音楽家(といっても彼には日本人の血が入っているのだが)ならではの良きユーモアというものであろう。
 もともと都響ファンには人気のあるアラン・ギルバートだ。彼が指揮台に上がって陽気に答礼した時には、「よく来た」という雰囲気に満ちた爆発的な拍手が沸き上がったのも、当然であろう。

 その彼の明るい雰囲気は、演奏にも投影されていた。冒頭の「キャンディード」序曲は、まさに開放的な大音響で沸騰した。こういう思い切りのいいオーケストラの鳴らし方は、節度を重視する日本人指揮者には、なかなか真似できないものである。コロナ禍が影響して日本人指揮者の活躍の場が増えていることは「災い転じて福と成す」の現象ではあるが、外国人指揮者が来てくれないとやはりオーケストラの表現の幅が一面的になってしまう、というのも確かなのである。

 次の「アパラチアの春」も、アイヴズの「第2交響曲」も、日本の演奏会では滅多に取り上げられない曲だ。
 とりわけ後者を久しぶりにナマで聴く機会を得たのは、嬉しいことである。様々な曲想が遠慮会釈なく同時に絡み合うという、こういう複雑な作品が19世紀末のアメリカで書かれたのは驚くべきことだが、作曲から1世紀以上を経た今の私たちの耳には、決して奇抜な音には聞こえないし、むしろ面白い。ただし奇抜というならそれはもちろん、全曲最後のクロージングの瞬間であろう。

 都響もいい演奏をした。敢えて言うなら、陽気に飛び跳ねる「キャンディード」序曲よりは、やはりシリアスなアイヴズの交響曲の方が、まとまった演奏になっていたと思う。

2021・6・25(金)山形交響楽団「さくらんぼコンサート2021」

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 山響の久しぶりの東京公演「さくらんぼコンサート」。現・常任指揮者の阪哲朗は明日の大阪公演の指揮を受け持ち、今日の東京公演は芸術総監督・飯森範親が指揮するという分担の由。

 プログラムは、第1部がモーツァルトの「交響曲第25番ト短調」に始まり、梅津碧(S)をソリストにモーツァルトの声楽曲を4曲━━「魔笛」からの「夜の女王のアリア」、「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」からの「アレルヤ」、「後宮からの逃走」第1幕からの「コンスタンツェのアリア」、「劇場支配人」からの「若いあなた」、そして第2部がリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」というものだった。コンサートマスターは高橋和貴。

 飯森範親が山響を指揮するのを聴くのは、3年ぶりである。かつてはブルックナーの交響曲ツィクルスなど、山形のホールで盛んに聴いたものだったが。
 彼が振ると、山響は俄然ダイナミックな響きになる。「シェエラザード」など力感たっぷりの演奏で、こういう筋肉隆々の大音響を山響が出せるように大変革したのは、ほかならぬ飯森範親その人だったことを改めて思い出す。

 第1楽章ではテンポも極度に遅く採られて、シャリアール王もかなり老境に入ったような感じになるなど、少々持って回った演出のようにも思われたものの、そこで矯められたエネルギーは第4楽章で一気に解放され、ドラマティックな海の光景が描き出されていた。高橋和貴のソロは、シェエラザードの語り口としては力強くて明確に過ぎるような印象を受けたが、飯森のがっちりした音楽づくりとのバランスを考えれば、こうするより他になかったのかもしれない。

 今日はオーケストラにも気合が入っていたのだろう、「25番」では久しぶりに「飯森&山響&モーツァルト」の世界が再現されていた。古楽器を使用したホルン群も今日は快調で、先日の「英雄」での不調を払拭し、名誉挽回した感がある。ただ、以前聴いた演奏よりは何となく物々しくなっていた印象もあったが━━気の所為かもしれない。

 梅津碧がこの華麗な4曲を休みなしに歌ってしまったのには少々驚いたが、その歌唱は1曲ごとに快調さを加えて行ったようである。

 ロビーでのサクランボや菓子などの「山形名産即売」は、毎年この山響の東京公演の名物だ。今年はかなり規模が縮小されていたものの、それでも以前と同じように行われていたのには、何となく心温まるような想いになった。

2021・6・24(木)「管・弦・ハープの豊かな調べ」吉野直子他

      サントリーホール小ホール「ブルーローズ」  1時

 「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン2021」の一環、「プレシャス 1pm Vol.4」というタイトルの演奏会。要するに午後1時からの60分ほどの長さのコンサートのシリーズの第4集、ということである。

 出演は、セバスチャン・ジャコー(fl)、吉野直子(hp)、白井圭(vn)、田原綾子(va)、佐藤晴真(vc)という豪華なメンバーで、プログラムは、ジャン・クラの「五重奏曲」第1楽章、ピエルネの「自由な変奏曲と終曲」、ピアソラの「タンゴの歴史」第1・2楽章(ヴェフマネン編)、フォーレの「幻想曲」、フランセの「五重奏曲第2番」。

 冒頭に吉野直子さんが代表してスピーチを行なったところからすると、これは彼女のプロデュース企画か? たった1時間の中に、劇的な曲想も含んだアンサンブル作品が休憩なしで5曲、しかもそれらの間に答礼と出入りが挟まれるという具合で、濃密にすぎて気分的にも少々疲れるものではあったけれど、ともあれ腕利き奏者たちの「妙なる調べ」を大いに楽しませていただいた。

2021・6・20(日)尾高忠明指揮東京フィルハーモニー交響楽団

       Bunkamuraオーチャードホール  3時

 ラフマニノフ・プロで、「パガニーニの主題による狂詩曲」(ソリストは上原彩子)と「交響曲第2番」。コンサートマスターは近藤薫。

 尾高忠明の指揮するラフマニノフは、最近ナマではあまり聴く機会がないけれど(たまたま私が聴いていなかったのかもしれないが)、1980~90年代、彼が英国のBBCウェールズ管弦楽団の首席指揮者を務めていた時代に、交響曲とピアノ協奏曲の各全曲と管弦楽曲をニンバス・レコードに録音したことがある。そのCD12枚組セットは私も大切に持っている。いい演奏だった。

 そこで今日の2曲。
 特に「第2交響曲」など、尾高の指揮は実に巧い。音の響きを緻密にバランスよく構築しつつ、感傷的なほどに叙情美を湛えた主題群を程よい情感の中に歌わせて行く手際の良さは、流石のものだ。とりわけ、第4楽章でのクレッシェンドの巧さには舌を巻いた。最近の尾高の円熟ぶりが、この演奏の中にも発揮されていただろう。

 東京フィルも、その音色には些か硬くて刺激的なところもあったが━━ただしこれは1階中央の下手側ドア近くで聴いた印象なので、席の位置によっては全く異なって感じられたかもしれない━━音の厚みと色彩感という点では充実した演奏を聴かせてくれた。

 「パガニーニ・ラプソディ」では、上原彩子のスケール感を増した明晰な表情のソロが好ましかったが、色彩感は抑制されていた感(これも席の位置から来る印象かもしれないが)。ただ、彼女がソロ・アンコールで弾いた「前奏曲op.23-5」も華美さを避けた解釈だったところからすると、「ラプソディ」でのそれも意図的だったのかもしれない。

2021・6・19(土)下野竜也指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  2時

 結局、2回目ワクチン接種後の副反応は前項の症状以外には起こらず、熱も全く出ないままに済んでしまったので、1週間ぶりにホールへ出かける。

 都響のこれは「プロムナードコンサート」だが、下野竜也が客演指揮するだけあって、プログラムが極めてユニークだ。最初にヘンデルの「王宮の花火の音楽」序曲、次にブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」、最後にボロディンの「交響曲第2番」。めったにナマでは聴けない類のものである。コンサートマスターは四方恭子。

 「王宮の花火の音楽」序曲は、プログラム冊子掲載の等松春夫さんの解説によれば、アンソニー・ベインズとチャールズ・マッケラスによる校訂版(1960年)とのこと。
 3本のホルン、3本のトランペットが輝かしく豪快に吹きまくるさまは壮烈で、如何にも野外の祝典音楽のイメージに相応しい。昔、コレギウム・アウレウムがレコードに入れた演奏のスタイルにそっくりで、この曲のヴァージョンとしては私の一番好きなタイプである。

 ただ、今日の下野と都響の、アレグロの部分を極度に速いテンポで、しかも全体をきわめて野性的に荒々しく響かせ、アンサンブルの細部にあまりこだわらず押し切った演奏は、残念ながら、お客さんにはどうもあまり受けなかったような雰囲気であった。バロック音楽と言えば「小編成のピリオド楽器による整然とした緻密な演奏」が正統だと思い込んでいる人たちにとっては、確かにこういう演奏は気に入らないのかもしれないが……。

 ブルッフの「第2番」は、「1番」ほどの劇的な要素はないが、あの「スコットランド幻想曲」の叙情的な曲想部分を拡大したような趣もあって、美しい。
 今日ソロを弾いた大関万結(2000年生れ)の演奏は実に清純で率直で伸びやかで、変な言い方だが「穢れのない美しさ」に溢れていて、魅了された。このコンチェルトがドイツ・ロマン派の作品であることを忘れさせてくれた演奏、と言ってもいいだろう(もちろん、どちらに対しても悪い意味で言っているのではない)。ソロ・アンコールで弾いたハイドン~クライスラー編の「皇帝讃歌」も同様で、まっすぐで美しい、爽快な演奏だ。

 ボロディンの「2番」は、ロシア民族色丸出しの、何度聴いてもニヤニヤしてしまう曲だが、下野と都響も適度にワイルドな演奏で作品の野性味を再現してくれた。13年前にラザレフが読響を振った時の演奏のように、その荒々しい曲想がロシアの大地の息吹と結びついているのだというような論理性を感じさせるには至らなかったのは、これは下野が日本人であるがゆえに致し方ない。
 しかし下野は、今日のプログラム3曲を、実に巧く対照させて(例えば急―緩―急、動―静―動、荒―整―荒といったような形式のもとに)構築していたと思う。

 オーケストラのアンコールは、バッハ~ストコフスキー編の静謐な「前奏曲BWV869」。もしかしてこれは1950年代に、NHKの朝のクラシック番組のテーマに使われていた曲だったか?※

 周辺にもワクチン接種を完了した同世代の友人たちが増え始めた。今のところ8人ほどだが。その全員が、副反応殆ど無し、という。

※コメント御礼 チャリ様
 そう、「名演奏家の時間」でしたね。確か第一放送の朝8時からだったか。そのあと8時半からの第二放送「大作曲家の時間」のテーマがフランクの「交響変奏曲」。随分静かな、というか、暗い(?)音楽をテーマに使っていたものですね。

2021・6・16(水)高関健指揮東京シティ・フィル(ライヴ配信)

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が久しぶりにオペラシティへ戻っての定期。常任指揮者・高関健の指揮で、「ブルックナーの交響曲第5番」を演奏した。
 今回はホールには参上せず、2000円の視聴チケットを購入して、同時ライヴ配信で視聴。
 現場へ行かなかったのは、去る日曜日に新型コロナ予防ワクチンの2回目を接種して以降、あれこれ噂されている副反応を警戒したからである。

 昔、夏風邪で高熱にうなされているさなかに、FMから流れていたニールセンの「第5交響曲」を聴いたことがあるのだが、あの第1楽章で、弦のピッツィカートとともに威嚇的な行進曲リズムをもった小太鼓が、遠ざかったと思うとまた大きく揺れながら間近に迫って来るその繰り返しには、何とも凄まじい恐怖感を覚えたものだった。
 したがって今回も、ワクチンの副反応で高熱が出る可能性があると聞きおよび、さればその中で聴くブルックナーの「第5交響曲」は如何なりや、と実験してみるような気持だったわけだが、━━予想に反してその副反応なるものは、接種当日の夕方から起こった肩の痛みと、わずかな倦怠感と、時々の寒気以外には、今日にいたるまで何もないという状態である。
 そんなわけでこのブルックナーは、自宅のパソコンの前でスコアを参照しつつ、至極冷静な気分の中に聴くことになった次第であった。

 何せマイクを通した音で聴くわけだし、しかも手持のパソコンに繋いであるスピーカーは便宜的な小さなものだから、あまり詳しいことは判らない。が、中継のサウンドは良好だし、各パートの音もかなり明晰に捉えられているので、ブルックナー特有の音響的量感というよりはむしろ、極めて緻密で正確な演奏だった、という印象を受けた。
 このあたり、現場のホールで聴くのとは多少の食い違いがあるかもしれないが、やむをえまい。

 全曲の終結直前、全管弦楽の大咆哮のさなか、第624~625小節におけるフルート群の上行音型が明確に浮かび上がっていたのには、やるな、と思わされたが、これは会場でもナマで聞こえたのだろうか、それともマイク・アレンジの結果か? アバドやスクロヴァチェフスキもやったテで、私はあまり好きではないけれども、外ならぬブルックナー自身がスコアに━━普通なら聞こえないだろうに━━わざわざそう書いているのだから何か意味があるに相違なく、面白いことは確かなのである。
 それと、今回の高関&シティ・フィルの演奏では、第4楽章での━━特に弦の演奏において、「コラール」のイメージが実によく再現されており、これは立派なものだったと思う。

 カメラワークは、特に前半の2楽章においては、各パートの意味をよく把握したカット割りが出来ていたものの、第3楽章以降では何となく大雑把なものになってしまったような印象を受けた。いずれにせよ、このような配信の場合でも、スタッフ名をクレジットした方がいいだろうと思う。それにもちろん、演奏者名、会場名のクレジットも。

 もう一つ。こうした「有料配信」を視聴する場合、そのページへ辿り着く道を、案内表示も含めてですが、もう少しシンプルに、私のような機械シロートにも解り易いものにしていただけないでしょうか?

2021・6・12(土)エルサレム弦楽四重奏団×カルテット・アマービレ

     サントリーホール小ホール「ブルーローズ」  7時

 「チェンバーミュージック・ガーデン」の一環。エルサレム弦楽四重奏団と、2016年のミュンヘン国際音楽コンクール第3位入賞の日本の弦楽四重奏団「カルテット・アマービレ」との協演ステージ。

 最初にエルサレム弦楽四重奏団がモーツァルトの「弦楽四重奏曲第21番K.575《プロシャ王第1番》」を演奏すると、入れ替ってカルテット・アマービレがヤナーチェクの「弦楽四重奏曲第1番《クロイツェル・ソナタ》」を弾く。そして休憩後に合同でメンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」を演奏━━というプログラム。これは凄まじい熱気にあふれた演奏会であった。

 エルサレム弦楽四重奏団のモーツァルトは、昨夜までのベートーヴェンとはガラリ変わって、軽やかで柔らかく、落ち着いた佇まいになる。一方カルテット・アマービレのヤナーチェクは、極度に鮮烈で激情にあふれる。この四重奏団は3人が女性で、チェロだけが男性という陣容である。聴衆の拍手は、この日本勢の方に多く集まっていたようである。

 メンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」では、エルサレム弦楽四重奏団の4人がステージ下手側に、カルテット・アマービレが上手側に位置するという形で演奏された。従って、チェロが正面奥に並んで座り、ヴァイオリンは2本ずつ、ヴィオラも1本ずつ各々両翼に分かれて座るという形が採られたことになる。

 「複合弦楽四重奏曲」ならともかく、このような「1本のヴァイオリンと7本の弦楽器による八重奏曲」(故ルイ・グレーラーによる表現)の場合はどうかな、と一瞬危惧したけれども、ヴァイオリンが2本ずつ分かれたことから生まれた響きは、特に第4楽章などでは、むしろ面白さを増した結果になったであろう。
 いずれにせよこの曲は、いい演奏者たちが全力を挙げて弾くと、素晴らしくスリリングで迫力に富む音楽になるのだ。

 8人が熱演を展開するのを聴きながら、この曲にまつわるさまざまな思い出が走馬灯のように蘇る━━初代東京クァルテットと前橋汀子、岩崎洸らが協演対決した嵐のような快演のこと、あるいは軽井沢のホテルでの音楽祭でルイ・グレーラーら新日本フィルのメンバーによる熱演を収録中、第2楽章の最後で客の一人が飛んで来たアブを手で叩き潰した大音響がマイクに入ってしまい往生したこと、あるいは第1楽章の最後の個所をFM番組の「後テーマ」に使用する際にN響がノーギャラでセッション録音をしてくれたものの、どうも演奏が気に入らず、結局外国某団体の演奏したレコードから採ってしまったこと、などなど。

2021・6・12(土)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  2時

 広上淳一がブルックナーの交響曲を、しかも「第6番」を指揮する。珍しいことだ。彼はこれからブルックナーの交響曲の演奏に力を入れ始めるという。今回がその手始めだったのかどうかは知らないけれども、とにかく、ブルックナーの交響曲の中では極めて異質な「6番」で本格的に開始したというのは、ある意味で面白い。
 そのアプローチは、極めてダイナミックなスタイルで、特に第1楽章には凶暴なほどの力感が聴かれた。

 ただ、所謂「締りのない」第4楽章の構成のため、全体に竜頭蛇尾の感を拭えない交響曲という印象を生むこの「6番」━━その特徴も、今日は全てそのまま再現された演奏になっていた。名匠・広上も、ブルックナーに足を踏み入れたばかりとあっては、まだ作品のそうした欠点を巧みにカバーするといったところまでは……。

 それにしても今日の日本フィル(コンサートマスター扇谷泰朋)の充実ぶりは見事だった。
 弦10型という小規模編成によるブルックナーは、既に飯森範親と山形交響楽団の成功例もあるが、あれは山形テルサホールという中規模会場だったため、金管群は多少セーヴされていたかもしれぬ。だが今日は文字通りの大咆哮、これで弦楽器とのバランスが良く保たれていたのは驚異的である(宏大感のある厚みのある音というわけには行かなかったが)。ホールのアコースティックを知悉した広上と日本フィルの努力の成果というべきだろう。

 それに、今日の日本フィルは管も弦も出色の出来だった。その中でもホルン群はまことに胸のすくような演奏だった。1番は信末碩才という若手の首席奏者だそうで、これは今後が大いに楽しみである。

 プログラムの第1部は、小林美樹をソリストに迎えての、ドヴォルジャークの「ヴァイオリン協奏曲」だった。小林の音色はアンコールでのバッハの「無伴奏ソナタ第3番」からの「ラルゴ」も含め、素晴らしく美しい。彼女の演奏に聴かれる気品の高さ、澄み切った叙情美は格別であろう。ヴィエニャフスキ国際コンクールで第2位になってから今年でちょうど10年になる。いいヴァイオリニストに成長している。

 このコンチェルトでも、広上が振ると、まさに正真正銘の「オーケストラの音」が響き出し、そこに得も言われぬ一種の「あたたかさ」が生まれるのがいい。こういう指揮者は、当節、稀有の存在であろう、おそらく彼はいま最もいい状態に達しているのではないかと思う。

2021・6・11(金)エルサレム弦楽四重奏団のベートーヴェン(終)

     サントリーホール小ホール「ブルーローズ」 7時

 5回にわたった連続演奏の最終日を聴く。
 プログラムは「第5番 作品18の5」「第6番 作品18の6」「第11番《セリオーソ》」「第16番 作品135」の4曲。

 演奏は以前にも増して気合充分という感だったが、それは今日が最終日だったこともあろうし、プログラムがこのカルテットの個性を十全に発揮するタイプのものだったこともあるのではないか。彼らの力強さ、明快さ、強靭な構築力、リズムとアクセントの切れの良さといった美点が、今日は余すところなく味わえたような気がする。

 「18の5」の後半から、演奏は目覚ましく沸騰しはじめる。「18の6」の冒頭など、これほど闊達な勢いで開始された演奏を、私は未だナマで聴いたことがなかった まさにベートーヴェンが指定した「コン・ブリオ」そのものだろう。
 「セリオーソ」第1楽章も同じ「コン・ブリオ」だが、こちらはさらに沸騰し、むしろアジタートに近い演奏となっている。

 また、「135」第2楽章中間部のところ━━第2ヴァイオリン以下の3つの楽器が同じ音型を25秒ほどの間に51回も反復し、その上に第1ヴァイオリンがほぼ1オクターヴ半にわたる跳躍を繰り返して行く壮烈な個所は、どんな演奏においても強い印象を与えるところだが、ここでは第1ヴァイオリンのアレクサンダー・パヴロフスキーの音の正確さが、一層の輝かしさを生み出していたのがいい。実はこの個所、ナマ演奏では、大体音を外していい加減な演奏をする人(本人はそのつもりではないだろうが)に、これまで何人も遭遇して来たので。

 この「135」での演奏、マーラーが「第3交響曲」終楽章で引用した瞑想的な第3楽章主題の歌い方なども、美しい。
 ユーモア感も、しっかりしたテクニックの安定感に裏付けられているので聴き応えがある。ただ、終楽章の最後、ベートーヴェンがユーモアとして軽やかに結びたかったであろう最後の4小節を、真面目な終結句スタイルともいうべきリタルダンドをかけて終らせたのには、やはり彼らと雖もそういうふうに考えてしまうのか、と少々物足りぬ思いにさせられたが━━。

 とはいえ、私の好きなこの「135」をツィクルスの終りに聴けたことは幸せであった。

2021・6・10(木)松田理奈(vn)と三舩優子(pf)のブラームス

       Hakuju Hall  7時

 「Hakuju サロン・コンサート vol.8」と題されたコンサート。「サロン」というのは、演奏前に2人のトークが少々入ることにより意味されていたのかもしれないが、失礼ながらこのトークはぎこちなくて盛り上がらず、さほど意義はなかったようにも見えた。
 ともあれ、松田理奈は既にキャリア20年、三舩優子の方は30年のキャリアを持つ(もうそんなに年が経ってしまったのかと感無量だが)。さすが美女2人のデュオ、NHKのテレビも入っていた。

 今回はブラームスのヴァイオリン・ソナタ3曲が、第1番から順番に演奏された。1曲ごとに短い休憩を入れ、演奏者、聴衆ともに気分転換を図るという仕組みだったが、これは確かに聴衆にとっては、1曲ごとに新たな気持で集中できるという効果をもたらしていたし、その演奏においても、各曲それぞれの性格の違いをいっそう明確に浮き彫りにする上で意味があったと言えるだろう。

 このよく響くホールでは、ピアノとヴァイオリンのバランスをとるのが極度に難しいかもしれない。特にピアノが鳴り過ぎる傾向があるようである。ソリスト2人もそれを意識したのかどうか判らないけれども、最初の「1番」では、演奏が何となく慎重で手探り気味になっているように感じられたのは事実だ。
 だが、20分の休憩を入れた後の「2番」では音楽が生き返ったようになり、特に第3楽章では瑞々しさと風格とを湛えて、素晴らしく聴き応えがあった。そして「3番」では、劇的な昂揚が目覚ましく、情熱豊かに全曲を結んで行った。

 この演奏の変化は、それぞれの作品の性格を、作曲年代ごとに巧く描き分けたような結果となったのが面白い。まるでブラームスが、この3曲を通じていよいよ自信を深め、雄弁の度を加えて行ったことをみずから物語っているような流れになったのである。

 ブラームスの音楽の魅力が充分に再現された演奏会。

2021・6・8(火)エルサレム弦楽四重奏団のベートーヴェン

      サントリーホール 小ホール「ブルーローズ」  7時

 恒例の「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン」が予定通り6日から開催されている。その目玉商品「エルサレム弦楽四重奏団のベートーヴェン・サイクル」の、今日は第3日だ。プログラムは「第4番作品18の4」「第10番作品74《ハープ》」「第15番作品132」。

 外来の、世界トップクラスの弦楽四重奏団の演奏を聴くのは、久しぶりだ。それに、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲集をナマで聴くのも、随分久しぶりのような気がする。実現されたこと自体が、何より有難い。
 初期、中期、後期の作品から1曲ずつというプログラム構成もなかなか良い。それらが各々の時期の作風なりに完璧な完成品となっていることが、改めて明確に体験できるように思う。

 エルサレム弦楽四重奏団は、デビューが1996年で、今年が活動25周年に当たる。腕達者揃いで、第1ヴァイオリンのアレクサンダー・パヴロフスキー以下、がっちりとした演奏を聴かせてくれる。リズムの切れが実によくて明快で、4人の演奏は均衡が保たれ、どこかのカルテットのように第1ヴァイオリンだけが飛び出して弾きまくるといったタイプの団体ではない。
 4つの楽器それぞれがはっきりと浮かび上がるさまは見事ともいえるが、ただしそれゆえに、4人が一体となって4つの声部が溶け合う弦楽四重奏の魅力といった趣からは、若干の距離があろう。

 もっともこれは、このホールのアコースティックの問題と、小ホールゆえにかなりの至近距離で聴いていたことなども考慮しなければならない。
 いずれにせよ彼らのベートーヴェンは、やはり過度の感情移入を避けるというメンタルの演奏スタイルということになるか。それはそれでいいのだけれど、「132」のような後期の四重奏曲になると、作品の性格上、その演奏の特徴がちょっと気になって来るのは致し方ない。

2021・6・6(日)サーリアホ:「Only the Sound Remains―余韻」日本初演

      東京文化会館大ホール  3時

 フィンランドの有名な女性作曲家カイヤ・サーリアホ(1952年生)が2014~15年に作曲したオペラ「Only the Sound Remains―余韻」が待望の日本初演。

 能の「経正」と「羽衣」を題材にし、それらを第1部・第2部(各45分)として構成した作品だけに、早く観たいと思っていた。初演は2016年3月15日にアムステルダムで行われたが、それはあとで知ったことである。英文台本はエズラ・パウンドで、今回はもちろん日本語字幕付上演。

 指揮はクレマン・マオ・タカス、演出はアレクシ・バリエール、振付とダンスが森山開次。
 主演はミハウ・スワヴェツキ(CT、経正の亡霊と天女)、ブライアン・マリー(マレー? Br、行慶と白龍)、合唱が新国立劇場合唱団の渡邊仁美(S)・北村典子(A)・長谷川公(T)・山本竜介(Bs)。
 オーケストラは成田達輝・瀧村依里(vn)、原裕子(va)、笹沼樹(vc)、神戸光徳(perc)、カミラ・ホイテンガ(fl)、エイヤ・カンカーンランタ(カンテレ)。

 サーリアホのオペラと言えば、私にはこれまで「遥かなる愛」が馴染みの存在だった。2000年にザルツブルク音楽祭で観て以来、2015年5月28日の演奏会形式日本初演、2017年1月22日のMETライブビューイングでも━━という具合だったが、サーリアホのあの柔らかい音楽の響きには、常に魅了されたものであった。
 今回の作品は、それにも増して玲瓏たる夢幻的な美しさにあふれている。カンテレ(私はこの楽器の音色が好きだ)を加えて色彩を増したオーケストラは、打楽器の音をもハーモニーの中に溶け込ませつつ空間的に広がって行く。

 声楽にはPAが使われているが、特に合唱には屡々長いエコーが付加されて、その余韻が無限の彼方にまで響いて行く、といった具合。このような電気的処理(音響はクリストフ・レプトン、音響エンジニアがティモ・クルキカンガス)が効果的に使用されているところは、さすが現代オペラという感だ。

 ただ、音楽的にはかくの如く魅力的なところが多かったのだが、バリエールの新演出の方には、どうも腑に落ちないところが少なからず見られる。その一つは、森山開次のダンスにあるかもしれない。
 「羽衣」などでは、ダンスは女性的で美しいことは確かだが、総じて「踊り過ぎる」のでは? 天女が最初からずっと踊っていたのでは、最後に羽衣を着けて天女の舞を披露するという場面が全くクライマックスとしての性格を帯びないのではないか? 
 アムステルダムでの世界初演の際に演出を担当したピーター・セラーズはどのようにしていたのか知らないけれども、彼の舞台だったらもっと「面白く」なっていたのではないかという気もする。

 20分の休憩を含み、終演は4時50分頃か。サーリアホは1階前方の客席から観客の大拍手に応えていた。

2021・6・3(木)ダニエル・バレンボイム・ピアノ・リサイタル

       サントリーホール  7時

 突如開催されたダニエル・バレンボイムの来日ピアノ・リサイタル。コロナ禍のため疎らと化していた「巨匠の来日公演」が、せめて少しでも復活されてくれれば、それは喜ばしい限りである。
 今回は東京3回、大阪・名古屋各1回の公演で、全てベートーヴェンのソナタ集によるプログラムだ。うち東京は、2日と4日が「最後の3大ソナタ」、今日が初期のソナタ(1番~4番)というプログラムで、私はその初期のソナタ集におけるバレンボイムを聴きたくて、今日を選んだのだったが━━。

 満腔の期待の中に聞こえて来た第1音は、何と後期のソナタの「第30番作品109」。聴き慣れたこの曲とは随分違う雰囲気の演奏ではあったが、それでも一瞬ギョッとした。自分は間違えて、異なる日の演奏会に来てしまったのか、ついにあの病気に陥ってしまったのか、もしかしたら、今演奏されているのは「作品2の1」なのに、それが自分には「作品109」に聞こえているのだろうか、などと突拍子もないところまで思いを巡らせ、慌てて周囲を窺ったほどであった……。

 結局、間違えたのはバレンボイムのほうで、今日はそのまま「作品110」「作品111」という順に演奏されて行った。
 最後にバレンボイムみずからマイクを持ってステージに現れ、1曲目が終った後にマネージャーから「曲目が違うよ」と知らされました、本当にゴメンナサイ、という主旨の極めて丁重な詫びがあって、満席の聴衆からの大拍手で終演した、というわけである。

 裏の事情はあとからいろいろ聞いたが、まあそれらの真偽を云々したところでどうにかなるものではない。「今のバレンボイム」のベートーヴェンをじっくり聴かせてもらっただけでも貴重な機会だったと思いたい。
 特別仕様のスタインウェイ「クリス・マーネ・ストレートストラング・グランドピアノ」から彼が紡ぎ出す音は澄んだ色彩感に溢れてこの上なく美しく、とめどなく深々と沈潜して行く表情は、あのバレンボイムが80歳近い年代になって到達した芸風はこういうものなのかと、少し怖ろしくさえ感じられるほどの演奏だったのである。

 「作品111」の第1楽章主部では、もはや(作曲者が指定した)「コン・ブリオ」も、「アパッショナート」も聴かれない。むしろ落ち着いた微笑をたたえたような雰囲気の演奏ではなかったか? それに「作品110」の第3楽章が、これほど哀感を滲ませた歌として感じられた演奏は、これまで聴いたことがなかった。

 ただ、こういうスタイルの演奏は、以前のバレンボイムのそれとは違う。それどころか、所謂ベートーヴェンの後期のソナタへの多くのピアニストとのアプローチとも全く違う種のものだ。多分、異議を唱える人も少なくないだろう。私も、バレンボイムに対しては感動したけれども、それはベートーヴェンのソナタに対する感動とは、ちょっと違う。
 こうなるとますます、これでバレンボイムは初期のソナタをどのように演奏するつもりだったのか、という思いをかき立てられるが、それは措く。

 ともあれ、前代未聞の出来事として、楽しい思い出の一つにしておけば済むものを、終演後のロビーでは、プログラム変更を「ひとを馬鹿にしている」といきり立ち、主催者を相手に怒鳴りまくっている爺さん婆さんの一団がいた。いまどきレトロな表現の憤り方をするものだ。クラシック音楽の会場に来る若い人たちはみんな礼儀正しいのに、爺さん婆さんの中にはすぐ切れる連中が多くて、見苦しい。同じ高齢者として、なさけない。いいトシをして何だ、若い人たちを見習え、と言いたくもなる。今日の連中は、もしかしたら私より年下ではないかと思うが?

2021・6・1(火)ヴィオラスペース2021 vol.29

       紀尾井ホール  6時

 今井信子が率いる恒例の「ヴィオラスペース」、2年ぶりに開催された今年は、東京では演奏会と公開マスタークラスが各2回ずつ組まれた。

 今日は「オーケストラ」と題され、齋藤友香理指揮桐朋学園オーケストラによるベートーヴェンの「英雄交響曲」第2楽章と、ヒンデミットの「白鳥を焼く男」がプログラムに組まれたが、室内楽からもヒンデミットの「八重奏曲」第1・3・4楽章と「葬送音楽」、およびベートーヴェンの「七重奏曲第1・3・6楽章が演奏された。
 ただし「葬送音楽」のみは、アントワン・タメスティとエリック・ル・サージュがビデオで出演するという形。

 突然の所用で中座せざるを得なくなったため、第2部の「白鳥を焼く男」━━第2楽章のヴィオラ・ソロは今井信子が弾くと予告されていた━━を聴けなかったのは痛恨の極みだ。
 だが、第1部での室内楽は聴き応えがあった。ヒンデミットのこのあたりのレパートリーは、もともと私にとってはあまり共感を持てないグループのものだが、今日は久しぶりに、その失っていた興味を目覚めさせられた感である。

 ベートーヴェンの「七重奏曲」も詩情を感じさせる演奏で、特に第1ヴァイオリンの小栗まち絵がしっかりとした演奏を聴かせてくれたことが嬉しい━━というのは、近年聴いて来たこの曲の生演奏では、おしなべて第1ヴァイオリンが「弾き飛ばす」例が多かったので。
 「葬送行進曲」がなぜここに置かれたのかについては首を傾げたが、「七重奏曲」の変ホ長調のあとを受ける形でハ短調のこの曲を配したのかな、ちょうど「英雄交響曲」の構成と同じように、と、半分納得が行ったような。ただ、演奏の方は、何とも機械的で単調だったのには興醒めしたけれど。これは、指揮者の責任と思われる。

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