2024-05

2021年7月 の記事一覧




2021・7・31(土)フェスタサマーミューザKAWASAKI 
高関健指揮東京シティ・フィル 「わが祖国」

    ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 たまたまこの2日間、演奏会に行かなかったため、シティ・フィルの演奏を2つ、続けて聴く結果になった。今日も3日前のそれに劣らぬ快演である。いや、それを凌ぐ演奏だったと言ってもいいだろう。
 スメタナの連作交響詩「わが祖国」全6曲。オーケストラ全体が沸騰していた。全身全霊を込めた体当たり的な演奏、と称してもいいのではないか。

 それはもちろん、まず常任指揮者・高関健の、この曲に対する共感と思い入れの深さから生まれたものだろう。
 彼はプレトークでも語っていたが、この連作交響詩の抜粋をナマで初めて聴いたのが1969年のノイマン&チェコ・フィルの来日時、全曲をナマで初めて聴いたのが1972年のコシュラー&新日本フィルの定期の時で、その頃から既にこの曲に夢中になっていた由。爾来、新日本フィルの指揮者になった直後や、札響の指揮者になった時、あるいはシティ・フィル常任指揮者就任の最初の定期などといった節目の演奏会で、この全曲を取り上げて来たということである。

 そして今回、「シティ・フィルとの6年間の成果を問う」━━という彼のコメント(プログラム冊子記載)が、決して美辞麗句ではなかったことが、この演奏で見事に証明されたと言っても誇張ではない。

 シティ・フィルもそれに応えて、驚異的な演奏を繰り広げた。
 最近のこのオーケストラは、もはや昔のシティ・フィルとは全く違う。技量など総合的な面においては、未だ読響などには及ばないかもしれないが、作品に真摯に取り組み、心のこもった演奏を聴かせるという点では、既に東京の如何なるオーケストラをも凌ぐ水準にまで達しているような気がする。

 演奏はいかにも高関健らしく、スコアの隅々にまで神経を行き届かせたものであった。声部のバランスが、聴き慣れたいつもの演奏とは異なって聞こえたという個所もあったが、抜かりのない彼のことだから、それなりの理由もあるのだろう。
 第5曲「ターボル」から第6曲「ブラニーク」へ切り替わる個所で、両者のテンポを一致させるという設定は、すこぶる自然に感じられ、納得の行くものである(但し「一致させない」設定でも、それなりに理屈は立つ)。
 全曲最後の熱狂の個所を、テンポを整然と保ったままでがっしりと構築しつつ結んで行ったのも、いかにも高関らしい。

 今日の「わが祖国」、先日のウォン&都響の「新世界」を抜いて、今フェスの優勝候補筆頭か? コンサートマスターは戸澤哲夫。

2021・7・28(水)下野竜也指揮東京シティ・フィル&小山実稚恵

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 これは東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の第343回定期。下野竜也が客演指揮して、サミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」と「交響曲第1番」、伊福部昭の「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」━━という珍しいプログラムを披露した。
 ピアノのソリストは小山実稚恵、コンサートマスターは荒井英治。

 冒頭に「弦楽のためのアダージョ」が置かれ、しかもこれは極めて情感のこもった、深みのある立派な演奏だった。そのため、何だか追悼演奏会のようなしんみりした雰囲気が拡がってしまった感もあるが、続くバーバーの「第1交響曲」(前記作と同年の1936年作曲)がすこぶる激烈でドラマティックな曲想だっただけに、ホール内はなかなかに盛り上がった。

 この「第1交響曲」。1960年代の大河ドラマの音楽を連想させる劇的で物々しい、悲劇的な曲想が━━しかもその全曲を統一するモティーフからして、1966年の「源義経」のテーマ(作曲は何と武満徹!)そっくりで━━このバーバーという作曲家の一般的なイメージを根本から覆させてくれる。そして、下野竜也の指揮の「持って行き方の巧さ」が、聴衆を退屈させずに、最後まで惹きつけたことは確かであろう。
 シティ・フィルも渾身の快演を披露、このような渋く珍しい曲であるにもかかわらず聴衆は大いに沸き、カーテンコールも何度も繰り返されたほどだった。

 プログラム第2部での「協奏風交響曲」は、あの独特のリズムのオスティナートを基本としたおなじみの伊福部ブシが微苦笑を誘うが、今日は中ほどの「アンダンテ・トランクイロ」の個所の美しさが格別の強い印象を残したのは、これも下野竜也の巧さと、何より小山実稚恵の幅広くスケールの大きなソロが映えたからであろう。
 彼女はこの曲全体で、極めてダイナミックな演奏を聴かせ、譜面のページをめくる動作も音楽に合わせて物々しくする(?)など、いいノリを示してくれていた。この曲の後の聴衆の湧きようは、さっきのバーバーでのそれを上回るほどだった。

 シティ・フィル、いい演奏をした。最近の好演が反響を呼んでいるためだろう、定期公演での聴衆の入りも、ひと頃とは比較にならぬほどよくなって来ているのは喜ばしい。

2021・7・27(火)フェスタサマーミューザKAWASAKI
鈴木雅明指揮読売日本交響楽団 

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 当初の予定では山田和樹がチャイコフスキーの「第2交響曲」とラフマニノフの「第2交響曲」を指揮することになっていたが、帰国不可能のため鈴木雅明が代って登場、ボロディンの「第2交響曲」とラフマニノフの同曲を指揮した。コンサートマスターは林悠介。

 J・S・バッハ━━あの偉大な作曲家に対してはこういうちゃんとした表記を採りたくもなる今の世相だ━━の演奏の巨匠と呼ばれて来た鈴木雅明の最近のレパートリー拡大による活動には、目覚ましいものがある。8月末の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」でもメンデルスゾーン(夏の夜の夢)やシベリウス(第2交響曲)を指揮するのが話題を呼んでいるほどだし。今日の演奏会も、これが鈴木雅明の演奏会?と訝られるようなプログラムに感じられるだろう。

 とにかく、彼がロシアものを指揮するのを、私は初めて聴いた。
 実にユニークなボロディンである。ふつう聴き慣れているような、ロシアの大地から湧き上がるような、鬱蒼たる雰囲気の国民主義派音楽ではない。音色が明るく、一つ一つの音を明晰に響かせるので、インターナショナルな近代音楽作品のようなイメージに聞こえる。しかも冒頭の威圧的な主題さえ、リズムを少し変えて異様な物々しい語り口で開始し、かつ全曲至る所に微細な表情を施して、まるでマーラーのある種の作品のような神経質な音楽に仕立てて行く。

 こういう解釈が、J・S・バッハ演奏の大家たる鈴木雅明の感性のどの部分から生まれて来るのかは定かでないが、しかし、私にはすこぶる興味深い。所謂「これがボロディン」というスタイルの演奏で聴くのも、それはそれでいいが、たまには既存のイメージに囚われない、意表を突いた解釈のスタイルで聴くのもいいではないか。ただしこういう演奏、いくら達者な読響でも、あまり楽ではないだろうが━━。

 この勢いで行ったらラフマニノフの交響曲はどうなるのか、と身構え、期待もしていたが、こちらは意外にも「まともな」━━ボロディンのそれに比較すればだが━━ストレートなアプローチ。2曲を意図的に対比させたのか、それともオケに妥協したのかは定かでないが、所謂ラフマニノフ固有の世界は守られていた。それでもやはり、他の指揮者ならやらないような音構築はあちこちに聴きとれたけれども。

 今日の読響は、演奏スタイルの関係もあって、少々粗い。しかし、面白かった。

2021・7・26(月)フェスタサマーミューザKAWASAKI
カーチュン・ウォン指揮東京都交響楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 シンガポール出身の指揮者、カーチュン・ウォンの並外れた力量を存分に堪能できた演奏会。東京都響への客演はこれが初めてだとのことだが、その初顔合わせのオーケストラをさえ、これほど見事に制御することができるとは驚異的である。
 今日のプログラムはリストの交響詩「前奏曲」、チャイコフスキーの「ロココの主題による変奏曲」(ソリストは岡本侑也)、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」。アンコールはドヴォルジャークの「スラヴ舞曲Op.46-8」。コンサートマスターは山本友重。

 圧巻は、やはり「新世界交響曲」だった。これほど「濃い」演奏の「新世界」はめったに聴けない類のものではないか? 
 何しろ、ウォンの創り出す演奏の起伏が大きい。フレーズとフレーズを結ぶ楽句を大きく膨らませたり、そのテンポを一瞬加減したり、非常に細かく神経を行き届かせて音楽を構築する。まかり間違えば嫌味な誇張になるところだが、ウォンのそれは、作品の音楽の本来のうねりと完璧に合致しているので、結局、納得させられてしまうというわけである。

 両端楽章では弦楽器のトレモロが強力で、その上にホルンの強奏が宏大に拡がり行くのを感じさせるあたりも、音の構築が非常に巧い証拠であろう。第2楽章も、これほど自然な情感にあふれた演奏はなかなか聴けないもので、それはあたかも果てしない大草原に美しく流れ行く哀歌のよう。そして最終楽章では、ディミヌエンドを伴った最後のフェルマータを、スコアの指定通り長く引き伸ばし、まさに余情たっぷりに結んで行った。

 この「新世界」には驚嘆した。濃密で微細で、しかも力感と緊張感を満載したその音楽づくりは、集中して聴いていると些か疲労感を与えられる類の演奏だが、それだけに強烈な個性を備えた指揮であることを意味するだろう。

 最初のリストの「前奏曲」も巨大な起伏感を備えた演奏だったが、曲が曲だけに、何か物々しさを感じさせないでもなかった。演奏として美しかったのはやはりチャイコフスキーの変奏曲で、ここでは岡本侑也の瑞々しく美しい音色が映えに映えた。彼がソロ・アンコールで弾いたカザルス編曲の「鳥の歌」も、彼の爽やかな感性が十二分に発揮された演奏と言えたであろう。

2021・7・25(日)フェスタサマーミューザKAWASAKI OEK川崎公演

       ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 ミューザ川崎シンフォニーホールを中心に開催される恒例の夏のオーケストラ・フェスティバル「フェスタサマーミューザKAWASAKI」が今年も始まっている。7月22日から8月9日までという、何かに似たスケジュールでの開催だ。
 出演する顔ぶれは、首都圏のプロ・オーケストラ(全部ではない)と神奈川県の音大オーケストラを核としているが、2年前からはゲストとして各都市オーケストラの中からも1団体か2団体が登場するラインナップが組まれている。

 今日はそのゲスト・オケのひとつ、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の演奏会である。指揮は前音楽監督(現・桂冠指揮者)の井上道義。
 いかにも彼らしい型破り(?)のプレトークのあと、指揮したのはシューベルトの「交響曲第4番《悲劇的》」、プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは神尾真由子)及び「古典交響曲」、アンコールとして武満徹の「他人の顔」の「ワルツ」━━という作品群だった。コンサートミストレスはアビゲイル・ヤング。

 シューベルトの「4番」は━━プレトークでのマエストロの話によれば━━彼がこれまで振りたくてたまらなかった曲なのだそうで、今回が初めて手掛ける機会になったとのこと。
 冒頭ではOEKの爽やかな弦の音色が印象的だったものの、全体の演奏としては━━私の好みで言わせていただくならばだが━━少々ごつい造りだなという感もあった。

 先入観で言うわけではないけれども、彼の指揮はやはりプロコフィエフの作品でのそれの方が面白い。特にコンチェルトは、神尾の強靭で攻撃的でスリリングなソロと呼応しつつ、井上がOEKから引き出す音楽の表情の多彩さが、たまらなく愉しかった。全曲の終結近く、転調を重ねながらミステリアスな雰囲気を増して行く個所など、井上の演奏設計は巧いものだな、と思う。
 もちろんOEKも達者なものだ。今日の殊勲賞は木管群か。誰か1人をというのであれば、ファゴット奏者に贈呈申し上げるとするか。

2021・7・23(金)PMFオープニング・コンサート

      札幌コンサートホールKitara  3時

 北海道の夏の国際的音楽祭「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」(PMF)が、2年ぶりに開催された。
 今年は期間を縮小して7月21日から8月1日までの開催となったが、コロナ禍の今、再開できただけでも祝着と言わねばならない。

 今回は、これまでのようなウィーンやアメリカの教授陣と世界各国からのアカデミー受講生の参加などは不可能ながら、日本の音大生などの受講生とプロ・オーケストラの楽員などによる公開マスタークラスは小規模ながら行われ、また若干ながら海外からのオンライン・マスタークラスというやり方も取り入れられているようである。 
 またウィーン、ベルリン、アメリカのおなじみの教授陣が今年のPMFのために録画した演奏も3つ、「PMFファカルティ・デジタルコンサート」と題し、8月6日まで有料配信されるそうである。
 
 コンサートの中核となる「PMFオーケストラ」も、従って日本人音楽家たちが中心で、メンバーは今年度のアカデミー生と、以前このPMFアカデミーで学んだ「アカデミー修了生」たちを主力に、音大生、それにプロの楽員(これにも修了生が数多い)を加えての、2種類のグループが編成されている。

 今日のオープニング・コンサートは、翌日の「PMFオーケストラJAPAN」演奏会と同じメンバー、同じプログラムによるものだ。
 メンバーはアカデミー生と修了生が大半を占め、指揮は人気の原田慶太楼が執り、郷古廉をコンサートマスターに、曲はバーンスタインの「キャンディード」序曲、ガーシュウィンの「へ調のピアノ協奏曲」(ソリストは三舩優子)、コープランドの「《ロデオ》からの4つのエピソード」、ガーシュウィン~ベネット編の「ポーギーとベス」。

 因みに7月31日と8月1日の公演で演奏するオーケストラの方は、音大生とアカデミー生が大半を占め、コンサートマスターは永峰高志、指揮には沖澤のどかが登場して、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」などを演奏することになっている。
 かように、人気・実力ともに先頭を走る2人の若手指揮者を招いてオープニングとエンディングをまとめる趣向は、このPMFに相応しい企画だろう。

 この他、大植英次指揮の札幌交響楽団演奏会、三浦文彰らのリサイタル等々━━といったように、とにかく精一杯の内容を組んでフェスティバルの灯を盛り立てようとしている今年のPMFである。かつてのような国際色豊かな、沸き立つような雰囲気には不足するのは仕方がないが、とにかくその必死の努力を応援したい。

 今日のコンサートでは、組織委員会の秋元克広理事長がスピーチを行なった以外には、特にセレモニーめいたものは折り込まれなかった。とにかく原田慶太楼が得意のアメリカものを、大暴れのジェスチュアで指揮して盛り上げる。「ロデオ」の最後の部分では、オーケストラ全員が立ち上がって踊りながら賑やかに演奏、客席の手拍子を巻き込む。このあたりの陽気さが、いつものPMFらしいところだ。

※28日、スタッフと出演者各1名の新型コロナ感染が判明、濃厚接触者等の調査に時間を要するため、同日以降の全公演を中止する旨の発表があった。衝撃。

2021・7・22(木)仙台フィルハーモニー管弦楽団 東京公演

      サントリーホール  5時

 仙台フィルの2年ぶりの東京公演を、桂冠指揮者パスカル・ヴェロが指揮。彼はこの公演ひとつのために2週間の待機期間をこなしたのだとか。
 彼と仙台フィルは、かつて東日本大震災の直後、ともに被災者のための「復興コンサート」(→2011年6月24日の項)を活発に行ってあの危機を乗り越えたコンビだ。東京公演でもベルリオーズ・プロ(→2016年4月17日の項)で聴かせた超弩級の快演は忘れ難い。

 今日も、十八番のフランス・プロだ。ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」と「ラコッツィ行進曲」、ドビュッシーの「夜想曲」(女声合唱は東京混声合唱団のメンバー16人)、サン=サーンスの「交響曲第3番」(オルガン・ソロは今井奈緒子)という選曲である。
 弦の音が柔らかく、洗練された雰囲気を醸し出す。これこそ、かつて仙台フィルがヴェロのもと、国内オケの中で独自の個性を際立たせていた時代の音なのである。今日は、それがベストの形で発揮されたのがドビュッシーの「夜想曲」ではなかったかと思われる。なおこの曲では、合唱はP席に位置していたが、響きがややリアルで、幻想味には少し不足した感があったのだけは惜しかったが‥‥。

 サン=サーンスの「第3交響曲」は、どうやらヴェロの思い入れたっぷりの指揮だったようで、ややテンポを遅く採り、じっくりと音楽を進めるという手法で演奏されていた。それは端整な良さはあったが、欲を言えば「次なる爆発」を控えた叙情的な個所で、少し持って回ったリタルダンドのように感じられた向きもあった。
 ただしアンコールでは、その「3番」のフィナーレを抜粋の形(!)で、端整だった本番から一転して、テンポやデュナミークを派手に煽り立てて演奏してみせたのは、面白い洒落っ気といえるだろう。今日のコンサートマスターは西本幸弘。

 なお、最後に仙台フィル独特の方式による「分散退場」を、何と東京でもやってみせたのは流石である。ただし、ステージの上で采配を振るったのは、今回は指揮者ではなく、オーケストラの常務理事の我妻雅崇さんだった。

2021・7・22(木)大室晃子ピアノ・リサイタル

    東京オペラシティ リサイタルホール  2時

 東京藝大を卒業後、フライブルク音楽大学、シュトゥットガルト音楽&舞台芸術大学院等に学び、後者ではピアノ科助手なども務めた経歴を持つ大室晃子のリサイタル。コロナ禍のため延期を2度も余儀なくされていたリサイタルが、今回実現の運びとなった。

 プログラムは━━大室さんによれば「ファンタジー」をキーワードにして組まれたものとのことで、フランソワ・クープランの「バッカスの宴」、リストの「バラード第2番」、ドビュッシーの「映像」第2集、ベートーヴェンの「月光ソナタ」、シューマンの「幻想曲」という選曲。アンコールはシューマン=リスト編の「献呈」。

 私は彼女のリサイタルを聴くのは初めてだったのだが、予想していたよりも骨太な、豪壮な演奏をするのには驚いた。シューマンの「幻想曲」などは、クララへの愛を秘めたファンタジーというよりも、この曲の最初のコンセプトだったベートーヴェンへのオマージュというニュアンスの方が強く感じられるような構築で、すこぶる興味深かった。

2021・7・21(水)飯守泰次郎指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 コルネリウス・マイスターが来られなくなったので、飯守泰次郎が替って指揮。プログラムも変更になり、モーツァルトの「交響曲第35番《ハフナー》」と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」が演奏された。

 飯守泰次郎が読響の定期に登場したのは、何と1974年7月15日以来のことだという。その時に指揮したのは、演奏記録を見ると、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは海野義雄)と、このブルックナーの「4番」となっている(私は、その演奏会は聴いていなかったが)。

 爾来47年と6日ぶりに、その因縁の「ロマンティック」で登場した飯守泰次郎。
 この人の指揮は、最近何か凄みを増して来ている。一種のデモーニッシュな力が、その指揮から引き出される音楽には漲っているようだ。指揮者は、病気から蘇ると、その音楽に俄然深みが増す━━という例は少なくないが、彼の場合にもそれが当てはまる。
 特に今日の演奏で印象的だったのは、読響という重量感たっぷりの、厚みのある密度の高い響きを出すオーケストラとの演奏ゆえに、飯守泰次郎の世界がいっそう巨大な風格を以て現出していたことである。

 最大の頂点がスケルツォ楽章の終結部で築かれてしまい、第4楽章の終結部がそれを超えるまでには僅かに及ばなかったような━━という感がなくもなかったけれど、とにかくこれは、最近の飯守泰次郎のブルックナー演奏の中では、ひときわ風格を以て聳え立つ豪演だったことは間違いない。
 今日のコンサートマスターは日下紗矢子。

2021・7・20(火)佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ「メリー・ウィドウ」

      兵庫県立芸術文化センター  2時

 阪神間のファンの人気を集める定番イヴェント、「佐渡オペラ」が2年ぶり開催。
 このレハールの「メリー・ウィドウ」は、2008年に上演された広渡勲演出によるプロダクションで、あの時は「関西のノリ」ともいうべき隙のない笑いと芝居運びに驚嘆させられたものであった(→2008年6月23日の項参照)。

 今回の上演も、基本的には同一の路線なのだが、予想に反して、第1幕など、何となくノリが感じられない。というのは、前回はニェグシュ役で出演した桂ざこば師匠が、よく透る太い声で朗々と切り回しをやったので、客席にも笑い(の雰囲気)が絶えなかったのだが、今回の同役の桂文枝のセリフはボソボソした声で何か聞き取り難く、それがどうも芝居全体のノリにも影響していたのではないかと思われる。

 だが合唱とダンスの華やかさはやはり見事で、第3幕でのフレンチ・カンカンなど、東京のオペラ団体がやるとわざとらしさが感じられて白けてしまうことが多いのだが、こちら関西の舞台だと、吉本興業の演劇(TVでしか観たことはないが)と同様に、不思議にその圧倒的な勢いに呑み込まれてしまうのである。どういうテンションの仕組みなのか、識者の意見を聞いてみたいところだ。

 それに、全曲が終ってから、実に30分近くも続く「グランドフィナーレ」! 曲中の有名なナンバーをダンス入りで何度も繰り返し(「さて女というものは」など、何回聞いたことか)、さらにレハールのワルツ「金と銀」も入れ、これでもかと煽る。しつこい、長い、とは思っても、呆気に取られて観続けてしまう不思議な吸引力がある。第一、客席全体がノリノリの雰囲気なのだ。

 出演者はダブルキャストで、今日の組は、並河寿美(ハンナ・グラヴァリ)、大山大輔(ダニロ)、片桐直樹(ツェータ男爵)、市原愛(ヴァランシエンヌ)、樋口達哉(カミーユ)、水口健次(カスカーダ)、晴雅彦(ブリオーシュ)、ジョン・ハオ(ボグダノヴィッチ)、三戸大久(プリチッチュ)、清水華澄(プラスコヴィア)、河野鉄平(クロモウ)、板波利加(オルガ)。
 毎回出演は前記の桂文枝(ニェグシュ)と、元宝塚の香寿たつき(シルヴィア―ヌ)他。それに佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団とひょうごプロデュースオペラ合唱団。

 グランドフィナーレの30分を含み、終演は5時半。

2021・7・19(月)東京二期会 ヴェルディ:「ファルスタッフ」

      東京文化会館大ホール  2時

 16日の初日は新型コロナ騒動のため公演中止になったが、そのあとの3日間の公演は予定通り行われたので、最終公演を観る。

 ダブルキャストの今日は第2組で、黒田博(ファルスタッフ)、小森輝彦(フォード)、大山亜紀子(フォード夫人アリーチェ)、山本耕平(フェントン)、全詠玉(その恋人ナンネッタ)、塩崎めぐみ(クイックリー夫人)、金澤桃子(ページ夫人メグ)、澤原行正(カイウス)、下村将太(バルドルフォ)、狩野賢一(ピストーラ)他という顔ぶれ。
 ベテランの黒田博と小森輝彦が人間味豊かな演技を見せ、かつ伸びのいい歌唱を披露して、舞台は事実上この2人により展開されたと言っても過言ではない。因みに、今井俊輔が題名役を歌ったAキャストはいいバランスだったと聞く。

 ロラン・ペリーの演出と、バルバラ・ドゥ・ランブールの舞台美術が素晴らしい。黒い幕を上下左右に動かして、「世の中」を拡大したり矮小化したり。ファルスタッフがトグロを巻くガーター亭を極度に狭い部屋に設定したのは、主人公の巨体を印象づけるのはもちろんだが、彼を広い「世」に解放するという伏線の意味もあろう。
 最終幕では大きな鏡を活用し、群衆を2倍の数に見せたり、背景のウィンザー公園の森の光景と合体させて幻想的な雰囲気を出したり、最後は観客席を映し出して物語上の人物たちと同化させ、「この世はすべて」の歌詞の意味を強調したりする手法も巧みだ。

 また、第2幕第2場でフォードに従う20人近くの仲間たちをみんなフォードと同じ顔と髪型(?)と服装に仕上げた喜劇的効果は抜群で、もともとこの男たちは存在意義の無い連中だから、全員をフォードの「コピー」に仕立てるというのは面白いアイディアである。ただしドラマ中盤以降に多く見られる白マスク姿は、ペリーのオリジナル演出にはなかったものだろう。
 これはテアトロ・レアル、ベルギー王立モネ劇場、フランス国立ボルドー歌劇場との共同制作で、ユーモアと洒落っ気にあふれた、優れた舞台であった。

 当初予定のベルトラン・ド・ビリーに代わり指揮を執ったイタリアの指揮者レオナルド・シーニ(31歳)は、東京フィルハーモニー交響楽団を思い切りよく鳴らし、活気に富んだ演奏を創り出して、好感が持てた。
 ただ、一つ二つだけ不満を言わせていただくならば、ヴェルディがオーケストラ・パートに挿入した「数少ない美しいメロディ」を、折角だからもう少し慈しむようにたっぷりと歌わせられなかったのかね、ということと、全曲大詰めのフーガの大合唱で、本来の旋律性を浮き彫りにするのを忘れないで欲しかったなあ、ということ。特にラストの合唱は勢いのみに重点が置かれ、些か騒々しいままで終ってしまった感もあるので━━。

2021・7・18(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 7月定期の第2日。R・シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」と、シベリウスの「交響曲第5番」。コンサートマスターは水谷晃。

 「ドン・キホーテ」でのチェロのソロは伊藤文嗣、ヴィオラのソロは青木篤子。いずれも東京響の首席奏者だ。
 予想通り端然としたドン・キホーテ像が描き出される。「ユーモアとペーソスにあふれた大交響詩」というよりは、シリアスなダブル・コンチェルトとでもいった造りか。それもこの曲に対する一つの考え方ではあろう。ソリの面でもオーケストラの面でも、細かいニュアンスにまで神経を行き届かせた演奏ではあった。

 この曲に、シベリウスの「第5交響曲」を組み合わせた意図は定かではないが、実際に聴いてみると、この2曲がいずれも多彩な音色が変幻自在のテンポで展開される作品であることに改めて気づかされる。
 「ドン・キホーテ」におけると同様、こちら「5番」でもノットが東京響(今日は弦16型の大編成)から引き出す音はかなり鋭角的で、そのため北欧の奥深い霧の中から響いて来るといったイメージからは遠く、華麗な絵巻物といった印象が強くなるのだが、それでもやはり丁寧に造られていた。

 ただ、私のたったひとつの疑問は、第1楽章の終り近く、オーケストラが圧倒的な昂揚を開始する個所(【Q】あたりから)での主題を受け持つトランペット群の音が不思議に抑制されていたため、2小節単位で咆哮する4本のホルンだけが異様なほど執拗かつ単調にリズムを反復する、という演奏になっていたことだ。
 もちろん、ノットにはそれなりの意図があったのだろうと思う(しかも今日は2日目の演奏である)が、音楽としては些か腑に落ちぬものになっていたことは確かである。

2021・7・17(土)尾高忠明指揮群馬交響楽団

    高崎芸術劇場 大劇場  4時

 新しい大きなコンサートホールにフランチャイズを移した群響の定期のラインナップには、以前より目立って壮大な作品が増えて来た、という感があるのは気のせいか? 今日は尾高忠明を客演に招いての、ブルックナーの「交響曲第5番」というプログラムだった。

 群響は、いい音を出していた。いや、以前からいい音を出すオーケストラだったが、それがアコースティックの良好な、空間的にも広大な高崎芸術劇場で、いよいよその真価を発揮し始めたといった方がいいのかもしれない。

 この「5番」でも、金管と弦との均衡が目覚ましかった。
 それはもちろん、バランス感覚の良さでは定評のある尾高忠明の指揮だったから、ということもあろう。人によってはもう少し豪壮華麗に、金管群を存分に咆哮させる野性的な味を求めたいと言うかもしれないが、それは他の指揮者との協演において望まれるべきものだ。尾高の本領は、どれほど音楽を熱狂させた場合でも、あくまでも楽曲の容を崩さない指揮にある。

 実際、今日の、特に第4楽章の構築の巧さには舌を巻いた。この楽章、下手な演奏の場合には、ダラダラと長い、散漫なイメージの曲と化し、最後のクライマックスまでがえらく遠く感じられる曲になるものだ。が、今日の尾高は全体を速めのテンポで押し、緊張力を欠かさぬまま、最後の頂点に持って行ったのだが、その呼吸が実に鮮やかなのである。
 そして演奏を最高潮に至らせた直後、大詰め直前(第629小節)の下行モティーフを、僅かにテンポを引き締めて━━ヨッフムのように急ブレーキをかけるのではなくて━━重量感たっぷりの終結感を出し、かくしてティンパニのトレモロと全管弦楽の終了和音まで、節度を保って響かせつつ結んで行く、という大わざを聴かせたのであった。

 このあたりの群響の金管群と弦楽器群のバランスには驚異的なほど絶妙なものがあり、それは野性的な興奮と熱狂というよりは、コラールの精神を重視した法悦の極致、とでも言った方が正しいだろう。金管群を増強させて大スペクタクルの世界を創り出すという手法とは対極的な位置にある尾高の指揮なのである。

 群響の定期の、秋以降のものには、広上淳一の指揮でブルックナーの「8番」(1月)、アルミンクの指揮でマーラーの「復活」(2月)など、大ホール向きの豪壮なプログラムが予告されている。就中、11月の井上道義指揮による石井真木の「モノプリズム」(林英哲風雲の会が協演)は━━これは大きなホールでなければ不可能な曲だ。

2021・7・15(木)マルク・ミンコフスキ指揮OEK

       石川県立音楽堂コンサートホール  6時30分

 再び金沢へ。
 マルク・ミンコフスキがオーケストラ・アンサンブル金沢を率いてのベートーヴェン交響曲ツィクルス、今日は3日目で、「第6番《田園》」と「第5番《運命》」である。コンサートマスターはアビゲイル・ヤング。

 「田園」の演奏の圧巻は、第2楽章だったであろう。冒頭のホルンのオクターヴのハーモニーを強めに響かせて音楽全体を包み込ませ、それに他の楽器が明快にアクセントを付けて行く手法は、これまで聴いたことがなかったような美しい効果を生んでいた。ベートーヴェンがどんなに美しい音楽を書いた人だったか、それを改めて見つめ直す解釈、とはこのようなものを謂うのだろう。

 その他、第1楽章【D】から【E】にかけての転調個所での妙味、第5楽章での起伏構成の巧さなど、ミンコフスキの指揮には感服させられるものが多く、魅力的な「田園」の演奏だった。欲を言えば木管群の一つ一つの音に些か不安定なところがあって、━━特に弱音の個所ではそれが目立った。「田園」は難しい曲だと言われるが、こうしたこともその一例だろう。
 こういうのは多くの場合、2回目、3回目と演奏会を重ねれば改善されて行くものだが、今回は1回だけの演奏だから‥‥。

 「5番」は、まさに驚異的に激烈な演奏だ。これほど猛烈な「運命」は聴いたことがない、と言っていいかもしれない。
 第1楽章は、ベートーヴェンのメトロノーム指定よりもさらにテンポが速く、基本モティーフさえをも嵐のような殺到の中に呑みこんでしまうかのよう。普通なら楽曲の容までが崩れてしまうような演奏だが、それをぎりぎりの所で踏み止まらせているところがミンコフスキとOEKの大わざだろう。
 第2楽章では、たとえば同一音型を3回繰り返す個所(第213小節以降など)でその都度少しずつ音色を変えて行くといった神経の細かさにも興味を惹かれた。

 後半の2楽章は、まさに「物の怪」的というか。
 第3楽章トリオの弦楽器群は激流のような荒々しさを出し、フルトヴェングラー並みの緊迫感を備えたブリッジ・パッセージでの第1ヴァイオリンの蠢きを経て突入した第4楽章は、メトロノーム指定よりもはるかに速く、デュナミークも激烈だ。
 提示部の反復に入った瞬間の第1主題の再爆発にはニヤリとさせられたが、展開部の頂点(【D】以降)での圧倒的な昂揚感には、この曲を聴き慣れているはずの自分でさえ、瞬間的に胸の鼓動が速くなるほどであった。そしてミンコフスキは、コーダのプレストでは更にテンポを上げ、プレスティッシモの狂乱状態にまで音楽を昂揚させ、そのままの勢いで最後まで押し切ってしまった。

 終るや否や、1階客席の聴衆のだれかが「感染防止対策のための禁断の」ブラヴォーを叫んでしまった心理も、よく理解できるというものである。とにかく、大変な興奮を呼ぶ「運命」だったことは間違いない。

 ピリオド楽器奏法によるベートーヴェンの交響曲全曲を初めて日本で響かせたのは、29年前のガーディナーとオルケストル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティークだった。あの当時は、モダン楽器の厚ぼったい音のベートーヴェンに対し、ピリオド楽器スタイルによるそれは、明晰で微細でスリムな音で作品への忠実性を志向する、というイメージに重点が置かれていたような気がする。だが今ではそれは、もはや形だけのものではなく、今回のミンコフスキによるベートーヴェンのように、多彩さ、魔性的なもの、破壊的な力、熱狂的で忘我的な昂揚、といった、精神を揺り動かす演奏に志向が移っているように思われる。時代の変化というものであろう。

 こうなると10月の「4番」と「7番」、来年3月の「第9」がいよいよ楽しみになる。
 一昨日と同様、21時1分の「かがやき」で帰京。今回は東京や関西からも顔見知りの人たちが何人も聴きに駆けつけていた。

※一部間違いご指摘のコメント、有難うございました。

2021・7・14(水)高校生のためのオペラ鑑賞教室「カルメン」

       新国立劇場オペラパレス  1時

 客席を埋めた高校生たち、実に静かにおとなしく観ていた。人気ナンバーが終っても、拍手もせずに黙って観ている。
 それはそうだろう。型通りの場内アナウンスが、やれ会話は控えろ、すれ違う際には距離をおけ、身を乗り出すな、上演中は舞台に向かっての声援を控えろ、チューニングが始まるから静かにしろ(こんなのは初めて聴いた)などと禁止指示を立て続けに出したのでは、上演中は拍手もしてはいけないのだ、などと思ってしまうのも当然である。
 本来は明るく賑やかなはずの高校生に、オペラはこのように堅苦しく観るものだと教え込んで、果たして彼らをクラシック音楽に引き寄せることができるだろうか? いくらコロナ禍の中の注意アナウンスだからといっても、もう少し巧い指示の仕方が他にあるだろう。

 ━━それはともかく、この「カルメン」だが、これは先日(→7月8日の項)も触れた通り、アレックス・オリエ演出版の、異なるキャストによる上演である。
 指揮が沼尻竜典、児童合唱が多摩ファミリーシンガーズ。歌手陣は谷口睦美(カルメン)、清水徹太郎(ドン・ホセ)、青山貴(エスカミーリョ)、吉田珠代(ミカエラ)、松森治(スニガ)、迎肇聡(ダンカイロ)、山本康寛(レメンダード)、佐藤路子(フラスキータ)、森季子(メルセデス)、森口賢二(モラレス)。
 これは一部の歌手たちを除き、びわ湖ホールで7月31日に上演されるキャストと共通している。

 高校生向けの上演とはいっても、舞台装置も演出も同一だし、上演にも手を抜いたところは全く感じられない。従って、別キャストによる歌唱や演技の違いを味わえる面白さが生まれるだろう。
 東京フィルの演奏は、先日の本公演とは少し違って寛いだ解放感のようなものを感じさせたが、これはもちろん沼尻竜典の指揮が生んだ良さだ。彼は17年前にもこの新国立劇場で「カルメン」を指揮したことがあるが、あの時の味も素っ気もない指揮とは、もはや比較にならぬ名匠ぶりである。びわ湖ホール芸術監督として、あるいは独リューベック歌劇場音楽総監督として積んで来たキャリアの為すところであろう。

 歌手陣では、ドン・ホセ役の清水徹太郎が実にいい。彼の歌はびわ湖ホールでの「オランダ人」の舵手(→2016年3月5日の項参照)や「ラインの黄金」のローゲ(→2017年3月5日の項参照)をはじめ、もう何度も聴く機会があったが、今回のホセ役も切れ味がよく、好感が持てる。「花の歌」の最後をあまり吠えずに結んで行ったのも、ビゼーの狙いにかなり近いものがあった。
 この上は、真面目な軍人(ここでは刑事)が落ちぶれ、理性を失って行くあたりの変化がもう少しリアルに表現されていれば完璧だろう。

 谷口睦美のカルメンは、かなりユニークだ。悠々と落ち着き払って動じない年上の女性という押し出しは、オリエ演出家の謂う「人生経験を積んだ女性」の表れか? 
 この人は声が素晴らしく、ヴェルディなどを歌ったら見事なのだが、今回は「ジプシーの歌」などで、かなり柔らかい歌い方を採るところもあった。この「おとな過ぎて」温かい、肝っ玉母さんみたいなカルメン像には、私は少々戸惑いを抑え切れなかったのが正直なところである。

 因みにこのオリエ演出によるカルメンは、ホセに対する後ろめたさ、あるいは一種の同情の念を持ち合わせている女性のようにも感じられ、それは先日のドゥストラックの演技にも、今日の谷口睦美の演技にも表れていて、非常に興味深いものがあった。

 その他、山本康寛のレメンダードも、先日の人とは違って、かなり微細な演技を組み込んでいる。第2幕でドン・ホセの歌が遠くから聞こえてきた瞬間に、邪魔者が来たとばかり露骨にイヤーな顔をしてみせるあたり、面白かった。

2021・7・13(火)マルク・ミンコフスキ指揮OEK

      石川県立音楽堂コンサートホール  6時30分

 これはオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の特別公演、芸術監督マルク・ミンコフスキが指揮するベートーヴェンの交響曲ツィクルスの一環。
 因みにツィクルスの第1回は去る10日に定期公演として「1番」「3番」により行われていた。今日は「2番」と「8番」で、次は15日の「5番」「6番」と続く。残りは10月21日に「4番」「7番」、来年3月5日に「9番」というスケジュールだ。コンサートマスターはおなじみアビゲイル・ヤング。

 「第2番」が始まった時、いい音だなと思った。OEKがそのフランチャイズ、石川県立音楽堂のアコースティックを完璧に手中に収めた結果の音、というべきであろう。
 そして、いい演奏は、その最初の音から聴き手を惹きつけてしまうものだ。私も今日はその演奏の虜となった。明るく、決然たる活力に満ちて、ベートーヴェンの音楽は決して逡巡することのない、ひたすら前へ前へと進み続けるものなのだということを、はっきりと示してくれる演奏だった。

 第1楽章は、提示部がリピートされなかったのは意外だったが、この引き締まったアレグロ・コン・ブリオ楽章が終った瞬間には、これで既にひとつの大シンフォニーを聴き終ったかのような充実感を得たほどであった。つまり、それほどまでに重量感と推進力を備えた演奏だったのである。
 第4楽章はスコアの指定はアレグロ・モルトだが、殆どプレストに近いような快速で、その上ミンコフスキは、コーダでは更にテンポを煽る。しかしOEKは完璧と言っていいほどにそれを具現した。

 「8番」もいい。こちらの方は「2番」の時と違い、第1楽章提示部の反復を行なっていた。ミンコフスキのことだから、この違いにも、何か意味があるのだろう。第3楽章でのチェロとホルンは鮮やかな出来であり、またこの前後の音色と表情の変化は見事なものがあった。
 第4楽章はベートーヴェンのメトロノーム指示に近いほどの猛速テンポで、OEKもこのテンポによく応じていたが、流石に再現部のティンパニとファゴットがオクターヴで跳躍するあの個所あたりでは、オヤオヤと思われるような状況もあった。だがこんなことは、このアレグロ・ヴィヴァ―チェの活気ある演奏の中では、小さな問題でしかない。

 結局今日は、緩徐の音楽は「2番」の第2楽章のみで、その他の7つの楽章は全てアレグロ、しかもコン・ブリオの世界だったと言ってもいい。
 この猛烈なテンポのおかげで、演奏は7時50分に終ってしまった。20分強の休憩時間を挟み、演奏時間の正味は60分程度ということになり、東京から新幹線で往復した割にはコストが割高(?)だが、しかし聴いた音楽の内容はそれを補って充分なものがあったと私は感じる。
 客席はコロナ対策のため市松模様形式。これほどの演奏を、ホール半分の客にしか聴かせられないとは残念だ。

 それにしても、金沢での演奏会を日帰りで聴きに行けるようになったというのは、有難いことだ。たまたま6時半開演、プログラムが短いということがあったとしても、演奏会場が駅の前にあり、しかも新幹線の東京行き最終が9時1分発の列車まである、ということが何より大きい。今夜はその「かがやき」で帰京。

2021・7・11(日)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 予定されていた指揮者のアニア・ビールマイアーが入国制限のため来られなくなったので、ヴァイグレが滞日期間を延長してこのマチネー・シリーズの指揮をも受け持つことになった由。
 プログラムも一部変更され、今日はロッシーニの「セビリアの理髪師」序曲、藤倉大の「筝協奏曲」(ソリストはLEO)、ブラームスの「交響曲第2番」が演奏された。コンサートマスターは日下紗矢子。

 これらの変更は、むしろ幸いだったかもしれない。というのは、常任指揮者ヴァイグレの更なる良さを私たちは知る機会を得たからである。
 圧巻はブラームスの「第2交響曲」だ。この演奏には、私は本当に舌を巻いた。同業の知人たちも口を揃えてそう言っていたから、確かだと思う。
 ブラームスの音楽特有の音の厚み、微細かつ明晰に交錯する内声部の妙、落ち着きに満ちたカンタービレ、控えめで内省的ながら毅然とした威容━━そうした特徴がこれほど無理なく自然に表出された演奏は、滅多に聴けないのではないか。

 ヴァイグレのドイツものにおける良さは、これまでにも彼が指揮した20世紀前半の近代作品により承知しているが、今日のブラームスを聴いて、なるほどこの人はやはりただものじゃあない、ということを痛感するに至った。彼はやはり、一発勝負の人ではなく、オーケストラと長い時間をかけてじっくりと良いものを創って行く、そうしてこそ自己の最良のものを示すことができる、というタイプの指揮者であることを確信した次第である。

 これに応えた読響も、やはり素晴らしいオーケストラだ。巧いし、実にいい音を出す。このブラームスの第1楽章を聴いて、そのヒューマニズムに富んだ演奏に心を動かされなかった聴き手はいないのではないか、とさえ思う。ヴァイグレと読響のコンビ、大成功である。

 藤倉大の「筝協奏曲」も面白い。ヴァイグレがよくまあこういう曲の指揮を買って出たものだ、と思うが、まあそれはともかく、筝の響きは、もはやあの「六段の調」や「春の海」に於けるような慎み深いものではない。もっと荒々しく凄まじい表情に満ち、和声的拡がりも大きく、音楽も(ある知人の表現によれば)ミニマル・ミュージック的な雄弁さをも示してさえいる。筝という楽器の表現力を更に押し広げた作品であろう。

2021・7・10(土)太田弦指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団

      仙台銀行ホール イズミティ21・大ホール  3時

 仙台フィルの定期。予定されていた指揮者サッシャ・ゲッツェルがコロナ禍による入国制限の影響で来日できず、最近大活躍の若手、太田弦が代役として指揮台に登場した。
 プログラムは、シューマンの「ピアノ協奏曲」(ソリストは外山啓介)と、レスピーギの「ローマの祭」及び「ローマの松」。コンサートマスターは神谷未穂。

 今回使用されたこの会場は、地下鉄南北線の「泉中央駅」のすぐ前にある。以前にも一度訪れたことがあるが、なにしろ残響がほとんどないので、オーケストラの音が乾いて聞こえ、演奏の特徴も明確に掴み難いのが残念だ。
 シューマンの協奏曲などでは、オーケストラの音が痩せてしまい、瑞々しさも潤いも失われてしまう。ピアノの音も同様だったが━━それ以上に、今日の外山啓介の演奏には、特に冒頭個所など、不思議に生気が乏しいのが気になった。体調でも悪かったのか? 

 後半の「ローマ」2作は、周知のとおり大音響の連続である。オーケストラがフォルティッシモで怒号すると、この難しいホールでは、音はただもうドタンバタン鳴るばかりで、「ローマの祭」は手のつけられないような騒乱の巷と化した。
 しかし一方、音がゆったりと長く響かせられる個所━━「ローマの松」の「カタコンブの松」や「ジャニコロの松」のような個所では、太田と仙台フィルの演奏の良さが明確に立ち現れ、弦楽器群の瑞々しい歌や、神秘的な音の拡がりなどが見事に示されていたのである。

 そして「アッピア街道の松」では、舞台上手側手前に配置されたバンダを含んだ仙台フィルの響きは均衡を保ち、ティンパニの強烈なリズムによるアクセントを伴って、熱狂的なクライマックスをつくり出した。
 この曲での太田弦の「持って行き方」は実に巧いもので、音楽の容をがっちりと保って崩れず、揺るぎなく頂点を築いて行くその手腕には、私は心底から感心したものだ。彼の指揮はこれまでかなり聴いてきたが、何だかそのたびに良くなって行くような気がする。

 終演後には、例の如く感染防止対策として、聴衆の「時差退場」が行われたが、仙台フィルの事務局は、この指示を何とマエストロ太田弦に依頼したのだった。
 彼は「僕もこういうのをやるのは初めてですけど」と言いつつ、「では何列目と‥‥」と退場指示を始めたが、すぐに続けて「オーケストラの皆さんもまず打楽器のセクションから間隔を置いてご退場下さい」とやり出した。場内は笑いに包まれ、楽員たちが客席に向かっていっせいに手を振り、客たちもオケに向かって手を振りながら順番に去って行く、という、世にも珍しい光景が展開され始めたのである。

 こんなアットホームな雰囲気は、私は初めて目にした。素晴らしく温かい雰囲気だ。指揮者が舞台上から自ら時差退場の指揮を執るのでは、客たちも整然と従わざるを得まい。
 あとで事務局に「毎回、その日の指揮者にこれをやらせてるんですか?」と訊ねたら、 
 「いえ、まさか飯守先生(泰次郎氏、常任指揮者)にこんなことをお願いするわけには行きませんでねえ」(笑)
 「では、今まで他にこれを引き受けてくれた指揮者は?」
 「たとえば、川瀬賢太郎さんです」。
 なるほど、さもありなん。若い指揮者だったら、面白がってやってくれるだろう。

 午後9時31分発の「はやぶさ」で帰京。東京まで僅か1時間半強なので、居眠りする暇もほとんどない。

2021・7・9(金)沖澤のどか指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 錦糸町のトリフォニーホールから赤坂のサントリーホールへ移動。
 以前は新日本フィルとこの日本フィルの金曜日の定期公演が同時間帯にかち合っていたこともあったが、最近ではそれがマチネーとソワレにずらされたので、聴こうと思えば掛け持ちして聴けるようになった。これは、オーケストラ側の事情を別とすれば、われわれ熱心な聴き手にとっては有難いことである。

 今日は注目の新星・沖澤のどかの日本フィル・デビュー。モーツァルトの「魔笛」序曲、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは三浦文彰)、メンデルスゾーンの「交響曲第3番《スコットランド》」を指揮した。コンサートマスターは千葉清加。

 「スコットランド」は、彼女が東京国際音楽コンクール優勝の直後(つまりブザンソン国際指揮者コンクール優勝の前年)に聴いたことがある(→2019年5月22日の項参照)が、その時の指揮と比較してさえ、格段に成長していることが判る。音楽にいっそう明確な主張を感じさせ、しかもそれが聴き手を強く惹きつけるようになっているのである。

 彼女がオーケストラから引き出す音は、豊麗で柔らかく、しかも名状し難いような温かさを感じさせる。だがそれは決してヤワではない。第1楽章での、嵐のような個所でのエネルギーの強さは目覚ましい。そしてそのフル・オーケストラが激しく昂揚した直後に、ふっと力を抜いて木管が美しく絡み合う部分に替わる個所など、その音色と表情の変化があまりに鮮やかなので、息を呑まされたほどだ。

 「魔笛」序曲でも、同じような良い特徴が目立つ。こうして聴いてみると、古典派、前期(中期?)ロマン派、フランス近代などのレパートリーでは、彼女は強みを発揮するような気がする。
 ただ、後期ロマン派や表現主義あたり、ドイツ近代の作品を振ったらどういうふうになるのか、未だ見当はつかない。その点では、今日のベルクの「ヴァイオリン協奏曲」の方は・・・・。

 ひとつだけ、ちょっと首をひねったのが、和声の扱いだ。「魔笛」序曲で3回ずつ繰り返される例のファンファーレだが、あれは3度ずつ音が上昇して行くイメージで響くべきものではないか? 今日は、全部同じ(ような)和音が反復されていたかのように聞こえてしまっていた。「スコットランド」でも、和声的な変化という面での仕上げに、ちょっと腑に落ちぬ個所もあったのだが・・・・。

 それはともかく、ベテラン指揮者の新鮮なベートーヴェン、若手指揮者の満々たる意欲にあふれる演奏、それらに応える2つのオーケストラ。日本のオーケストラ界もなかなか多彩である。

2021・7・9(金)鈴木雅明指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      すみだトリフォニーホール  2時

 鈴木一族(?)の活躍が目覚ましい。今日は鈴木雅明が新日本フィルを指揮して、ベートーヴェンの「交響曲第4番」と、同「第3番《英雄》」を演奏した。

 これは昨年から続いていた新日本フィルのベートーヴェン交響曲ツィクルスの最終回に当たる由。先日の鈴木秀美が指揮した「5番」(→2021年3月27日の項参照)も、凄まじいほど主張の強い、面白い演奏だったが、今日の「英雄交響曲」も驚異的に濃密で、しかも新鮮な勢いにあふれていた。
 勿論ノン・ヴィブラート奏法による演奏で、叩きつけるように鋭く、しかも極度に引き締まって、完璧と言っていいほどに均衡が保たれ、僅かな緩みも感じさせない。第1楽章と第3楽章でのエネルギー感などは見事なものだろう。

 そうした構築の中にあって、鈴木雅明のベートーヴェンは比較的ストレート系だと感じながら最初のうちは聴いていたのだが、実は随所に微細な配慮があることが判って来る。
 たとえば第2楽章でのオーボエ。第8小節からの主題を弾むように揺り動かしつつ進ませるあたり、所謂「葬送行進曲」の重苦しいイメージとは少し違う面白さが出る。

 極め付きは第4楽章冒頭で、主題のバスが反復される個所の最後をそれぞれ大きくリタルダンドさせながら進むさまは、まるで誰かが洒落たオチの付くジョーク話をし、それに相手が勢いよくツッコミ、語り手は構わず悠々と話を結び、相手がさらに混ぜっ返し、他の者がそれに同調する、といったような愉快なやり取りを連想させた。これほど音楽が生きた人間の対話のように聞こえたのは初めてであり、この曲にこれほど楽しさを覚えたことはこれまでになかったほどである。

 また同楽章後半の「ポーコ・アンダンテ」は、通常よりもかなり速いテンポで演奏されたが、ベーレンライター版総譜ではメトロノーム指定は「参考程度」の扱いになっていることもあり、これも根拠のある考え方なのかもしれない。
 なお、アンコールでは、交響曲最終楽章の主題に因み、「プロメテウスの創造物」からの「第2幕フィナーレ」が演奏された。この選曲は、センスがある。

 新日本フィルが情熱的な演奏を繰り広げていたのは祝着である。特にホルン群(モダン楽器3本)は各所で鮮やかな演奏を聴かせたが、例の第3楽章トリオでは痛快なほどの咆哮を轟かせていた。こういう充実した演奏を聴かせてくれていれば、新音楽監督のもと、来年の創立50周年をしっかりと祝うことができるだろう。

2021・7・8(木)新国立劇場 ビゼー「カルメン」

          新国立劇場オペラパレス  2時

 アレックス・オリエによる新演出の「カルメン」が、7月3日に蓋を開け、19日まで計6回上演されている。今日は3日目である。
 但しこのプロダクションは、同じスタッフと異なるキャストにより、「高校生のためのオペラ鑑賞教室」としても9日から16日までの間に6回上演され、更に7月31日と8月1日にびわ湖ホールでも上演されることになっている。

 今日の出演者は、大野和士指揮東京フィルと新国立劇場合唱団とびわ湖ホール声楽アンサンブル、TOKYO FM少年合唱団。ステファニー・ドゥストラック(カルメン)、村上敏明(ドン・ホセ)、アレクサンドル・ドゥハメル(エスカミーリョ)、砂川涼子(ミカエラ)、妻屋秀和(スニガ)、吉川健一(モラレス)、森谷真理(フラスキータ)、金子美香(メルセデス)、町英和(ダンカイロ)、糸賀修平(レメンダート)。

 新国立劇場が制作した「カルメン」は、早くもこれが4作目になる。1999年のグスタフ・クーンの演出以来、これまでの3作が、言っちゃ何だけれども、どうも冴えないものばかりだったので、「カルメン」はこの劇場には鬼門であるかのようなイメージを与えていたものだ。そこへこのたび、練達のオペラ芸術監督・大野和士の肝煎りによる新制作の登場、ということで、期待と不安の半々の気持で楽しみにしていた次第だったが━━。

 アレックス・オリエの演出は、舞台を現代の日本へ読み替えたものである。兵士たちは警官隊、スニガやホセやモラレスは私服の刑事というところか。カルメンは盗賊団の一員ではあるものの、表向きはポップス・シンガーともいうべく、「ハバネラ」はペン・ライトを持った若者たちに囲まれてのコンサートとして歌われる。
 まあ、この程度のことは、当節の演出としては特にどうということはない。

 ただ、ちょっと解り難かったのは、最終幕の「闘牛場」の場面で、人々の歓声を浴びつつ通過する「普通の服装の」連中が何者なのかということ。ドラマが所謂「闘牛」とは無縁の次元で展開されているので、この場面もある種のパロディだと思って観ていたのだが、最後に華々しく登場したエスカミーリョだけが独りド派手な闘牛士の扮装をしていたのは、些か唐突な印象を免れない。

 それらを含め、基本コンセプトそのものは悪くないとはしても、物語の視覚的展開の面白さという点では、2年前に田尾下哲が演出した、アメリカのショー・ビジネスの世界にドラマを設定した舞台(→2019年11月3日の項参照)に一歩を譲っていたのではなかろうか。
 残るは、登場人物たちの演技表現だが、演出家の謂う「人生経験の豊富な女性としてのカルメン」像が明確に描かれていたかというと、必ずしもそうとは言い難い。いや、せっかく現代の身近な世界にドラマを読み替えるなら、カルメンだけではなく、他の人物ももう少し現代人らしい心理的表現を微細に打ち出してほしいところであった。

 歌手陣は、歌唱面では概して無難な出来を示していた。
 安定していたカルメン役のドゥストラックが「濃厚な色気」よりも愛らしい女性像に重心を置いた表現を出し、終幕でホセの嘆願を撥ねつけるあたりの演技もそれなりの工夫をしていたのはいいとしても、ヒロインとしてはもう少し強烈な存在感が欲しいところだろう。
 ドン・ホセ役は、もともとミグラン・アガザニアンが歌うはずだったのを、前出の「異なるキャスト」の同役として入っていた村上敏明が代役に立ったわけだが、懸命の演技で奮闘していた。前半で時々声が裏返ったのは惜しかったが、まあ全体としては敢闘賞をさし上げておこう。

 エスカミーリョ役のドゥハメルが音程もリズムも締まりを欠いたのは残念で、近年この役を正確に歌った歌手にはなかなか出会わない。
 スニガ役の妻屋秀和は背広姿の巨躯を生かし、憎めない上役のような雰囲気で好演。ミカエラの砂川涼子は可憐な当たり役というべきか。フラスキータの森谷真理とメルセデスの金子美香がもう少し演技の上で性格表現を掘り下げてくれれば(カルタの場面など)ドラマがもっと引き締まったはずである。ダンカイロの町英和はサングラス姿でやくざの兄貴分的雰囲気を出したが、レメンダードの糸賀修平の演技はさっぱり解らない。

 今回の使用楽譜はアルコア版を基本としたものと思われる。素のセリフの大半がカットされていたのは、フランス語上演ということもあって、止むを得ない処置だろう。音楽としては流れよく接続されていたという印象だ。
 大野は東京フィルを劇的に鳴らし、響きは少し荒いけれども、終幕での主人公2人の感情の高まりなど結構細かいニュアンス盛り込んでいた。最終幕で行進曲に先立つ市場の賑わいの場面の音楽を、全部ではないけれども復活してくれていたのには賛成である。

2021・7・4(日)調布国際音楽祭 鈴木雅明指揮BCJ

        調布市グリーンホール 大ホール  6時

 音楽祭の最終公演として、鈴木優人エグゼクティブ・プロデューサーの父君である鈴木雅明師匠が、彼のオーケストラ、バッハ・コレギウム・ジャパンを率いて登場した。
 何だか身内仲間で固めたコンサートみたいに感じられるかもしれないが、客観的に見れば、読響といいBCJといい、郊外の街の音楽祭としては大変な大物揃いのラインナップであることは間違いないのである。来年は10年記念を迎えるというこの手づくり音楽祭、意気盛んと言うべきであろう。

 そこでバッハ・コレギウム・ジャパン。今日は器楽のみの出演だが、J・S・バッハのプログラムだ。
 今年が「ブランデンブルク協奏曲300年記念」になるのに因み、「ブランデンブルク協奏曲」の第1番、第4番、第6番が演奏された。そして最後に「管弦楽組曲第3番」が取り上げられ、アンコールはもちろんその「3番」の中の「アリア」ということになる。

 鈴木雅明は当然ながら指揮をしつつチェンバロを弾いた。だが、あいにく今日も朝からの雨だ。この悪天候による湿気は、ピリオド楽器、特にチェンバロにとって大敵であることは周知のとおりである。演奏者たちには大変な苦労があっただろうが、会場の空調を強力に利かせて(寒かった!)何とか乗り切った。ただ正直なところ、ふだん聴くBCJの音とは些か違っていたように感じられたことは確かなのである。

 8時少し過ぎ、盛会の裡に終演。なお、このホールの場内アナウンスは━━今日だけなのかどうかは知らないが━━お定まりの注意アナウンスにせよ何にせよ、自然で「手づくり的」で、なかなか感じがいい。実のところ、現在の各ホールの、いかにもマニュアル的な、型にはまった冷たい表情の場内アナウンスには、私は最近うんざりしているのである。今日のように「語りかけるような」温かい感じの喋り方は、他にはただひとつ、広島交響楽団の定期演奏会における場内アナウンスあるのみだ。

2021・7・4(日)調布国際音楽祭 鈴木優人指揮読響

       調布市グリーンホール 大ホール  1時30分

 6月27日から行われていた調布国際音楽祭の、今日は最終日。小雨の日曜日の午後、グリーンホールが建つ京王線調布駅前広場は、以前と変わらず賑わっている。

 まずはこの音楽祭のエグゼクティブ・プロデューサーとして八面六臂の活躍をしている鈴木優人が、みずから読売日本交響楽団を指揮する演奏会を聴く。
 鈴木優人は昨年から読響の「指揮者/クリエイティブパートナー」に就任しているので、今年はついにこの大オケを調布に招聘するに至った、というわけであろう。読響にとっても、この調布グリーンホールで演奏するのは2000年以来だとかいう話だ。今日のコンサートマスターは長原幸太。

 演奏会は、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲で幕を開け、メノッティのオペラ「電話」全曲を演奏会形式で上演、最後にストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲を、曲数のやや多い1945年版で演奏するというプログラム。

 「電話」などという短いがアットホームな室内オペラをこのような演奏会のプログラムに入れたのは、いかにも新鮮で卓抜なアイディアだ。今回は中江早希(S)と大西宇宙(Br)が歌い、英語歌詞(所々に日本語もジョーク的に交じる)の字幕付きで、セミステージ形式を取り入れた形での上演となった。オーケストラともども、親しみやすい演奏で聴衆を喜ばせたと思われる。

 たった一つ、どうでもいいような注文をつけるとすれば、小道具として舞台に置いたレトロな黒電話のベルの音が実音ではないか細い音だったので、何となく劇的効果を欠いたことだろうか。
 なおプレトークで優人プロデューサーが「このソファや椅子やテーブルは楽屋のを持って来た、黒電話は調布の古道具屋から借りて来た」とバラしていたのを聞き、なるほど「手づくり音楽祭」を標榜するだけのことはある、と妙に感心してしまった次第である。

 後半での「火の鳥」も、シリアスな演奏。

2021・7・3(土)井上道義指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

       サントリーホール  2時

 井上の得意とするショスタコーヴィチの作品によるプログラム。
 最初に陽気な「ジャズ組曲第2番」からの5曲を配し、後半に壮大で悲劇的な「交響曲第8番」を置くという心憎い選曲だ。前者では、井上が指揮しながら例の如く踊りまくる姿もしばしば見られた。

 一方、「8番」が、かなり明確な輪郭を備えた構築で演奏されたのは強い印象を残す。
 井上道義のショスタコーヴィチは、14年前の日比谷公会堂での交響曲全曲ツィクルス(→2007年12月1日の項参照)をはじめ、大阪フィルとの何曲かの演奏などを含め、これまでかなりたくさん聴いて来たつもりだ。が、今日の「第8番」は、ホールの響きの良さや新日本フィルの濃密な快演などの要素も加わって、彼のショスタコーヴィチの中でも最も均衡の豊かな、美しさをも失わず、しかも堅固で壮烈な演奏のひとつだったと言ってもいいのではないか。
 悲痛な「魂の叫び」にも事欠かなかったが、終楽章の謎めいた終結の個所は、むしろ未来への希望をさらりと滲ませるといった表現にも聞こえたのだった。
 コンサートマスターは崔文洙。

2021・7・2(金)チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団

        サントリーホール  7時

 久しぶりに名誉音楽監督・鄭明勲が戻って来て、ブラームスの交響曲「第1番ハ短調」と「第2番ニ長調」を指揮した。

 同一プログラム3公演の3日目だというのに、客席は大盛況である。彼が振るからということもあろうが、このような「ブラームスの交響曲2つ」という落ちついた演奏会をじっくりと聴ける雰囲気が、少しずつではあるが音楽界に戻って来た、とも言えるのではなかろうか。

 「1番」では、序奏が昂揚感を以て雄渾壮大に響き出す瞬間を何となく想像し、楽しみにしていたのだが、鳴り出した音楽は、意外にも重低音たっぷり、表情も何か沈んだ感のある、重苦しい世界だ。
 スコアに指定されているウン・ポーコ・ソステヌート(音をやや長めに保って)の指定も、モルト・ソステヌートと言った方がいいくらいの暗く引きずったような音楽になっていたのに驚く。チョン・ミョンフンの指揮も、やはり年齢とともに重くなって来たのか。

 だが聴いて行くうちに、彼がこの「ハ短調交響曲」を、いっそう陰翳の濃い重厚な、まるで北国の曇り空のような世界に仕立てる一方、第2部での「ニ長調交響曲」を、より明るく開放的な世界として構築し、かくてこの2曲を対照的な性格のものとして強調してみせる、といったプログラミングの妙味を示していたことがはっきりと解って来る。
 このように2曲を強く対照づける手法は多くの指揮者がやっているものだが、今回のチョン・ミョンフンも同様であった。

 そして「第2番」第4楽章の最後の歓呼の個所では、テンポを著しく速め、申し分ない頂点を築いていた。満席に近い客席が沸き立ったのも当然だろう。
 好演した東京フィルの今日のコンサートマスターは三浦章宏。

2021・7・1(木)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

       サントリーホール  7時

 このところ、読響と都響の演奏会のプログラムには、稀にしか取り上げられないような珍しい作品がいくつか見られる。

 日本のオーケストラの演奏レパートリーも、必ずしも保守的な傾向に留まるものではないということは、何年か前のオーケストラ連盟主催の国際シンポジウムで私も力説した記憶がある。
 ただこの1~2年、新型コロナ騒動のため各楽団の経営状況が悪化したこともあって、プログラム編成にも客寄せを狙った所謂名曲が多くなっていたことは事実だが、その中で再びいくつかのオーケストラが工夫を凝らし、意欲的なレパートリー展開を行なう動きが出て来たのは、歓迎すべきことだろう。

 都響は先頃、首席客演指揮者アラン・ギルバートとともにアイヴズの「第2交響曲」を演奏してくれた(→2021年6月26日)が、今回もスウェーデンの作曲家アラン・ペッテション(1911~80)の「交響曲第7番」という、これこそめったにナマでは聴けないような曲を紹介してくれた。
 1967年の作曲で、聴いた瞬間に北欧の作曲家のそれと感じられるような骨太で剛直で揺るぎのない力強さと、しかし不思議に澄んだ叙情性とを備えた作品だ。

 ハ音と嬰ハ音とが交互に刻まれる冒頭部分があの「JAWS」のテーマそっくりだったのにはニヤリとさせられたが、全曲大詰めがショスタコーヴィチの「第4交響曲」あるいは「第8交響曲」のそれを想起させるような曲想だったことには、ある種の謎めいた関連を想像させられる。
 演奏時間ほぼ50分近く、切れ目なしに滔々と押し通すエネルギーは強烈である。ギルバートと都響、今回もやってくれたなという感。

 第2部に、小曽根真をソリストに迎えてラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」が組まれていたのは、客寄せ対策の一環か。そういえば今日は、かなりの客の入りであり、それも比較的年代の若い聴衆が多かったのは慶賀の至りである。

 小曽根真のクラシック曲の演奏も、近年は彼のフィールドたるジャズの感覚を抑制したようなタイプばかりで面白くない、かつてモーツァルトの「ジュノム」などで発揮したようなジャズとクラシックの結合という大技をまたやってくれぬものか、と、先頃毎日新聞のクラシックwebにも書いたことがあったのだが、今日のラフマニノフでは所々に趣向を凝らしたソロを目立つように挿入、この曲の骨格は崩さぬままに新機軸を織り込んでくれたので、少なからず満足した次第だ。

 しかも小曽根のこの曲に対するアプローチが、所謂豪壮華麗で威圧的なヴィルトゥオーゾ的なスタイルでなく、むしろ軽快な、まるで遥か遠くモーツァルトかショパンのエコーのようなものを感じさせたのも興味深かった。アランと都響が、実に細かく彼のソロをサポートしていた。コンサートマスターは四方恭子。

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