2024-04

2021年8月 の記事一覧




2021・8・31(火)東京二期会 ベルク:「ルル」

       新宿文化センター 大ホール  2時

 ダブルキャスト3回公演、今日は最終日。
 出演は、森谷真理(ルル)、増田弥生(ゲシュヴィッツ伯爵令嬢)、加耒徹(シェーン博士)、前川健生(アルヴァ)、山下浩司(シゴルヒ)、高野二郎(画家)、北川辰彦(猛獣使い&力業師)、郷家暁子(学生)ほかの人々に、マキシム・パスカル指揮東京フィルハーモニー交響楽団。

 今回の上演では、カロリーネ・グルーバーによる新演出が最大の話題となっていた。ルルを単なる悪女として描かない、というコンセプトは好ましい。舞台にはルルの分身としての、エロティシズムが美化された多数のマネキン人形が配置され、それらに男たちがへばりつくという、心理分析的な描写も加えられている。ただ、登場人物のキャラクターは、原作のト書きのそれとはかなり変えられており、従ってそれぞれの役柄が容易に判別し難い部分もないでもない。

 今回は「2幕版」による上演だった。あのツェルハが第3幕を補筆した「3幕版」は、音楽的にも演劇的にも冗長に感じられるので、私はあまり好きではない。やはりこれは「2幕版」で、そのあとに、ベルク自身が先に作曲していた「間奏曲」と「アダージョ」を付加するスタイルが一番濃密でいいだろう。
 問題は、その2曲の演奏の時に、舞台上で何をやるかである。

 このグルーバー演出では、一般によく行われるような、ルルとゲシュヴィッツ伯爵令嬢とが切り裂きジャックに殺害される場面は全く取り上げられておらず、ルルと、彼女と全く同じ姿のダンサー(中村蓉)とがパントマイムのようなものをずっと続け、最後は姿を消したルルに永遠の憧れを捧げる歌が、電気的処理を付加した陰歌で響いて終る━━という手法が採られていた。
 この「歌」は、通常の上演では瀕死のゲシュヴィッツ伯爵令嬢がルルを求めて歌うものだが、今回は「ルルの心の歌」として挿入されている由。実際はむしろ「われわれ男どもの心」と称した方が正確かもしれないと思うのだが、女声で歌われるのだから、やはり「ルルの心」という設定にした方が、辻褄が合うのだろう。

 いずれにせよ、こういう終り方も一つの方法だと思ったことは事実だが、ただ、このパントマイムは、些か長くて、劇的緊張感にも不足する。それに、第2幕まではリアルな演技が繰り広げられていたのに、ここだけ突然シンボライズされた動きに変るとなると、どうも流れに一貫性を欠くように感じられるのだが。

 演技は、もちろん演劇的なスタイルである。それは大いに結構なのだが、何故か全員の演技が不思議に堅苦しいというか、自然さに不足してぎこちないというか、バタ臭いというか‥‥グルーバーの演技指示の「枷」(?)にはめられたか? 配役には少しムラもあったが、題名役の森谷真理の熱唱は評価されよう。

 そして、パスカルの指揮がなかなかいい。ピット枠に入りきらぬティンパニ群を下手袖に載せた配置の東京フィルも、思いのほか豊麗な音を出していたが、これは私が最初14列で聴いてのこと。第2幕は業務上、後方に移動して聴いてみたが、こちらでは少々固く聞こえた。席の位置によってかなり印象が異なるようである。

 思い出してみると、「ルル」というオペラ、私も結構観て来たものだ。1970年に来日したベルリン・ドイツオペラによるゼルナー演出を手始めに、グラハム・ヴィック演出(1996年グラインドボーン)、ムスバッハ演出(1999年ザルツブルク)、パウントニー演出(2005年新国立劇場)、佐藤信演出(2003年日生劇場、2009年びわ湖ホール)、シュタイン演出(2010年アン・デア・ウィーン劇場)、ピイ演出(同ジュネーヴ大劇場)、ネミロヴァ演出(同ザルツブルク)、ケントリッジ演出(2015年MET)、それから‥‥まだ一つか二つあったか。
 その中で、やはり一番印象に残っているのは、論理的で明解なゼルナー演出と、洒落た味のヴィックの演出だった。

2021・8・29(日)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 当初の予定では昨日と今日、松本の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」で、鈴木雅明がサイトウ・キネン・オーケストラを指揮するシベリウスの「第2交響曲」などを聴いているはずだったが、周知の如き事情からそれは成らず、こちらの演奏会に参上した次第。  
 だが、「替わりに」などと言っては罰が当たるほど、このヴァイグレと読響の演奏は、それはもう見事なものだった。

 1曲目のモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲からして、冒頭の木管群の音色と、それを受けて爆発する全管弦楽の響きが、実に瑞々しいのに魅了させられる。
 次のドヴォルジャークの「ヴァイオリン協奏曲」では、最初の全管弦楽のニ短調の最強奏の個所が、全く威圧的な力任せのものにならず、思いがけぬ陰翳と優しさに富む表情で立ち現れたのにまず驚き、ソリストの戸澤采紀の第1音をその主題のハーモニーの中から抜け出るように登場させるという、オーケストラの音色のバランスの良さにも驚かされるという具合。
 ヴァイグレの呼吸も巧いが、読響(コンサートマスターは長原幸太)の多様な表現力にも感嘆させられる。

 そして極め付きは、ベートーヴェンの「第5交響曲《運命》」だ。このところ変化球的な「運命」(それはそれで面白いが)に出会うことが多かったのだが、今回は久しぶりに、どうだと言わんばかりに真っ向から投げ込む剛速のストレートのような演奏の「運命」が出現した。こういう直球勝負的な「5番」の演奏は、改めてこの曲の本来の猛烈な推進性を浮き彫りにしてくれるのではなかろうか。

 第4楽章の豪壮な第1主題など、主題提示部におけるよりもリピートされた時の方がいっそう力感を増すのが通例だが、今日の演奏では特にそれが圧倒的だった。読響の豪壮な重量感、内声部の明晰さ、溶け合った和声の美しさなども際立っており、それらを引き出すヴァイグレの手腕も見上げたものであった。以前にも書いたが、やはりこの人は、じっくり腰を据えてオーケストラと組んだ時にこそ本領を発揮できる指揮者なのだ。

 若い(20歳そこそこ?)ヴァイオリニストの戸澤采紀も、伸びやかな感性の音楽で爽やかな印象を残した。ドヴォルジャークにしては透明に過ぎたきらいもあったが、そういう問題の解決はこれからだろう。

2021・8・26(木)反田恭平ピアノ・リサイタル~ショパン

        サントリーホール  7時

 このところ、オーケストラと現代音楽ばかり続けて聴いていたので━━もちろんナマの演奏会での話だが━━やたらショパンやシューベルトのピアノ曲が聴きたくなっていた。
 そんなところへ、久しぶりに反田恭平がリサイタル。しかもショパン・プログラムと来たからには、渡りに舟だ。ピンチャーらの「作曲ワークショップ」が行われている小ホールを横目に、大ホールの方へ向かう。客席は市松模様の範囲でほぼ満席だが、大半は女性客である。

 演奏したのは「夜想曲作品62の1」「バラード第2番」「ワルツ作品34の3」「マズルカ風ロンド作品5」「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」、「3つのマズルカ作品56」「ソナタ第2番《葬送》」という順。

 反田恭平の演奏に対しては、これまでは歯切れのいい明快さを持った清澄な音楽、というイメージを抱いていて、またそれが魅力に感じられていたのだったが、今回のショパンを聴いて些か驚いた。レガートというのとは少し違うけれども、すべての音が切れ目なく流れるように続いて行くといった、なだらかな、実にユニークなショパンになっていたからだ。まろやかな温色系のショパン、といったところか。

 しかもこのプログラムのすべての作品が、こういう色合いに彩られた演奏になっていたのにも少々驚いた。このところ国際的にも活動の場を拡げている彼のことだから、それなりの意図があるのだろうとは思うが、ただこれでは私が好きな陰翳の濃い魔性的な力を含んだイメージのショパンとは、あまりに違い過ぎる。

 アンコールの1曲目に「英雄ポロネーズ」を取り上げた際、その前に「ラルゴ 変ホ長調)(遺作)を置き、この両者を続けて演奏したのは、その根拠については承知していないけれども、効果的で面白いアイディアだと思う。

2021・8・25(水)サントリーホール・サマーフェスティバル4日目
「テーマ作曲家マティアス・ピンチャーの室内楽ポートレート」

      サントリーホール大ホール  7時30分

 小ホールでのブーレーズ作品集を受ける形で、大ホールに舞台を移して開催された演奏会は、アンサンブル・アンテルコンタンポラン(EIC)の音楽監督マティアス・ピンチャーの作品集。

 最初は「光の諸相」という曲で、「いまⅠ」(ピアノ・ソロ)、「いまⅡ」(チェロ・ソロ)、「ウリエル」の(チェロとピアノ)の3部からなり、それぞれ永野英樹(pf)、エリック=マリア・クテュリエ(vc)、ディミトリ・ヴァシラキス(pf)およびクテュリエが演奏した。 
 2曲目は「音触」というタイトルの曲で、「天体Ⅰ」「天体Ⅱ」「掩蔽」の3部に分かれ、EICのメンバーたるクレマン・ソーニエ(tp)とジャン=クリストフ・ヴェルヴォワット(hn)をソリストに、上野由恵(fl)や池田昭子(ob)、篠崎和子(hp)ら日本人奏者を中心としたアンサンブルが協演、ピンチャー自身が指揮を執った。

 先ほどの打ち続く轟音に緊張を強いられたブーレーズの強烈な自己主張にあふれた作品の後で聴くと、この叙情的な要素の多いピンチャーの作品は、「精密で神秘的な音響世界」(細川俊夫の解説、プログラム冊子掲載)であることは事実ながら、その長さと、時に感じさせる緊張感の希薄さなどに、少々だが辟易する気持に誘われることがないでもない。
 だがとにかく、私は不勉強にして、ピンチャーの作品をじっくり聴いたのは、今回が最初だったのである。細川氏が彼の作品において指摘する「ヘブライ思想との関連」などについても、もっとじっくり聴き取らなければなるまい。

2021・8・25(水)サントリーホール・サマーフェスティバル4日目
「ブーレーズを少々」

     サントリーホール小ホール ブルーローズ  6時

 コンサート・タイトル「ブーレーズを少々」の英語版は「”petit” Boulez –Short Program for Piano Pieces」。どちらにしても巧いタイトルだ。

 プログラムは、ピエール・ブーレーズの作品2曲で、「2台ピアノのための《構造(ストリクチュール)》第2巻」と、「ピアノ・ソナタ第2番」。演奏はディミトリ・ヴァシラキスだが、前者では永野英樹が協演している。
 前者は1961年完成、後者は1948年の完成だから、あの「ル・マルト・サン・メートル」を真ん中辺に挟む時期の作品ということになる。いずれにせよブーレーズがまだ「気の荒い」現代作曲家として暴れていた時期のものだ。

 1950年頃のブーレーズは、日本でどう受容されていたのだろう? まだ「ブーレ」と表記されていたのでは? 「最近は彼の指揮が素晴らしく、へたするとほんとに作曲を放り出して指揮者に転向しちゃうんじゃないか、なんて言われているらしいです」と、音楽評論家・大木正興氏が、私の担当するFM東海の番組で解説していたのが、1965年頃だった。

 今日のこの演奏会━━フェスティバルの中に組み込まれた僅か1時間のプログラムだったが、ブーレーズが20世紀音楽界に於いて果たした役割の大きさを改めて考えることのできる、いい機会となった。しかし、‥‥それにしてもこの2曲とも、何と激烈強靭な音の連続であることか。

2021・8・24(火)セイジ・オザワ松本フェスティバル公演中止記者会見

       YouTube

 セイジ・オザワ松本フェスティバル(OMF)では、すでに21日のオープニングコンサートは中止されていたが、今後の主要なオーケストラコンサート2つ━━28、29日の鈴木雅明指揮のAプロおよび9月3、5日のデュトワ指揮のBプロも中止のやむなきに至ったということが、本日松本市長の記者会見で発表され、YouTubeでも配信された。

 市長の説明によれば、この中止は、長野県や松本市が新型コロナ感染拡大への警戒の目的で言い出したことではなく、音楽祭のボランティア・グループが協力辞退の意向を含めて提案したこと━━つまり感染拡大中の東京や関西圏からの人的流入に不安を感じているためボランティア参加を辞退するという強い意向を示したことがきっかけであり、これに小澤征爾監督と事務局および松本市が押し切られたような形だったようである(少なくともそのような趣旨に受け取れる)。
 PMFに続いて、このOMFも━━だが、イヴェントの中止の理由にもいろいろな形があるものだ。

 いずれにせよ、この松本市長の記者会見での説明は極めて詳細であり、どこやらの首相とは違って、記者たちの質問にどこまでも懇切丁寧に答えるという良心的なものだったことは好ましい。
 なお事務局としては「30年続いている世界的なフェスティバルの灯を絶やさぬため」に、たとえば「デュトワ指揮のコンサートの無観客ネット配信」のようなものを模索中の由だが、その詳細は数日中に決定とのこと。

2021・8・23(月)サントリーホール・サマーフェスティバル2日目
EICアンサンブル演奏会

      サントリーホール小ホール ブルーローズ  7時

 アンサンブル・アンテルコンタンポランのメンバーによる室内楽の演奏会。

 プログラムは、クレール=メラニー・シニュベールの「ハナツリフネソウ」(日本初演、ヴィオラとハープ)、バスチアン・ダヴィッドの「ピアノのためのソロ」(日本初演)、武満徹の「そして、それが風であることを知った」(フルート、ヴィオラ、ハープ)、坂田直樹の「月の影を掬う」(クラリネット、ピアノ)、マティアス・ピンチャーの「ビヨンドⅡ(明日に架ける橋)」(日本初演、フルート、ヴィオラ、ハープ)、ジェラール・グリゼイの「時の渦〔ヴォルテクス・テンポルム〕」(ピアノ、フルート、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)━━の6曲。

 演奏時間40分に及ぶ濃密多彩にしてスピーディなグリゼイの「時の渦」をはじめ、かなりへヴィな内容のプログラムではあった。だがそれにもかかわらず、不思議に爽やかな印象を残す演奏会だったのは確かである。これは、EICのメンバーの演奏の良さもあったろう。

 武満と坂田の作品は、やはり日本人の感性だなという感を与える。音ひとつの投げ出し方にしても、余韻の持たせ方ひとつにしても、外国人のそれとは明確な違いが感じられる。この日のプログラム構成が生んだ面白さのひとつがそれである。

2021・8・22(日)サントリーホール・サマーフェスティバル初日
アンサンブル・アンテルコンタンポラン演奏会
細川俊夫の「二人静」日本初演他

     サントリーホール  6時

 フランスの現代音楽演奏オーケストラ、アンサンブル・アンテルコンタンポラン(EIC)が、音楽監督マティアス・ピンチャーとともに来日。

 実に久しぶりに聴く「外国のオーケストラ」だ。30人強の小編成オーケストラながら、これは紛れもなく欧州の腕利き楽団である。メリハリ、音の粒立ち、ギザギザした音の美しさ、音の表情の濃厚さなど、すべてが日本のオーケストラとは異なる特徴を示す。
 プログラムの第1部、演奏会形式で日本初演された細川俊夫の新しいオペラ「二人静」の演奏では、いっそうその印象を強くするだろう。

 ━━波打つように起伏が繰り返されるオーケストラの音は、日本のオーケストラが演奏すればなだらかに息づくものになるだろうが、欧州のオケによるそれはもっと激しい、波しぶきがリアルに飛び散るような音になる。
 これは武満徹の作品などでもしばしば感じられたことだが、日本的な音楽が、外国の指揮者とオーケストラにより演奏された際の音の変化の面白さは、また格別なものがある。そしてこの細川俊夫の音楽も、極めて劇的で、鮮烈なものに姿を変える、と言えるかもしれない。

 このオペラ「二人静」は、2017年の作曲で、同年12月にパリでピンチャー指揮EICにより初演されている。能の「二人静」を基に、平田オリザが台本を書き、歌詞は英語と日本語とが使われている。今回は日本語字幕付き原語上演だ。

 地中海の浜辺、弟を亡くしつつも何処よりか泳ぎ着いた難民少女ヘレンに、肉親を殺害された静御前の霊が合体するという物語で、細川特有の海の音楽が全篇を彩り、最後は風の響きを交えつつ寂しく余韻豊かに消え行くという幽遠で美しい終結に至る。
 ヘレン役のシェシュティン・アヴェモが純な歌唱を聴かせ、いっぽう静御前役の能声楽の青木涼子は、抑制した形ながら、能に近いスタイルの発声で凄味を利かせていた。

 演奏会形式なので、2人の声楽ソリストは指揮者両側のやや舞台前面にそれぞれ位置したまま歌った。ただこの方法だと「静御前がヘレンに近づき、背後からその方に両手を置いた瞬間から2人が合体する」という光景が無いことになるので、ヘレンが「ワタシハ シズカ」と歌い出すくだりが何となく唐突な印象を生んだように感じられたのだが、いかがなものか? 作曲者も台本作者も現場にいたのだから、それなりの意図があったのかもしれないが。

 プログラムの第2部では、同じくピンチャーの指揮するEICに、日本の奏者たちによる「アンサンブルCMA(サントリーホールの室内楽アカデミーが母体)も参加して、マーラーの交響曲「大地の歌」がグレン・コーティーズによる管弦楽縮小版編曲で演奏された。ソリストはテノールがベンヤミン・ブルンス、アルトが藤村実穂子。この編曲版でもテノール・ソロのパートは相変わらず聞き取りにくいが、これはもう、作曲者の責任であろう。

 サントリーホールのサマーフェスティバルにしては近年珍しく客の入りがいい。2つの作品とも、カーテンコールは非常に長く、客電が上がってからもなお拍手が延々と続いていた。

2021・8・20(金)オーケストラ・キャラバンTOKYO
坂入健司郎指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 キャラバンの「東京篇」最終日は名古屋フィルの登場だ。
 今回は音楽監督の小泉和裕ではなく、正指揮者の川瀬賢太郎でもなく、坂入健司郎を客演に招いての公演である。坂入は1988年生まれというからまだ若い。元気一杯の指揮である。

 この日はロシア・プロで、ボロディンの「中央アジアの草原にて」、グラズノフの「サクソフォーン協奏曲 作品106」(ソリストは堀江裕介)、チャイコフスキーの「交響曲第4番」というメニューだったが、特にこの「4番」では、坂入はあふれる若さを最大限の勢いでぶつけるという感の凄まじいダイナミックな指揮を披露、名フィルをホールも崩れんばかりの大音響で轟かせた。

 ただし、景気はおそろしくいいけれども、作曲者がこの曲に織り込んだ懊悩や焦燥や哀愁などには一切頓着せずといった解釈の指揮は、私にはどうも共感しかねる。とはいえ、その大音響にもかかわらず、名フィルが音色の美しさを些かなりとも失わなかったというのは、指揮者の手腕によるものか、オーケストラ本来の力量なのかは私には断言し難いが、とにかく見上げたものであった。

 1曲目の「中央アジアの草原にて」は、遠くから隊商が近づき、また遠ざかって行く━━というこの作品の標題性が全く表現されておらず、単なる散漫な音の交錯だけの演奏になっていたのは、これは問題である。名フィルもこの曲の演奏では、甚だ方向性のはっきりしない音楽を奏するにとどまったという印象である。
 2曲目の協奏曲に至って、オーケストラは初めて綺麗な音を出した。そして堀江祐介の鮮やかなソロも楽しかったが、ただ彼にはもう少し自由に飛翔する演奏も可能だったのではないか?

 演奏会の最後にアンコールとして取り上げられたチャイコフスキーの「白鳥の湖」からの「スペインの踊り」も華やかなデモンストレーション的な効果を上げたが、こういう威勢のいい演奏だけが映えたという今日の坂入の指揮には、いくら若さの発露だとは言っても、ちょっと疑問を抑えきれない。

2021・8・19(木)オーケストラ・キャラバンTOKYO
高橋直史指揮大阪交響楽団

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 大阪響の東京公演は、シェーンベルクの「浄夜」と「6つの歌」、マーラーの「第4交響曲」━━という凄まじい重量感をもったプログラムで行われた。世紀の変わり目に書かれた作品3つを集めたこの選曲、ヘビーで長いけれども、非常に意欲的で個性的である。

 指揮の高橋直史はミュンヘン音大に学び、ザクセン州エルツゲビルゲ劇場の音楽総監督を2006年から務めた経歴を持つ。最近本拠を日本に移したと聞くが、私は彼の指揮を聴くのは今回が初めてである。
 指揮者というよりは、どこかの会社の部長とでもいったような雰囲気の人だが、しかし指揮の身振りには「大きな気宇の音楽」を引き出そうという意図が満々と感じられるし、そして実際につくり出す音楽も微細で表情に富んでいて、なかなか面白い。

 ただ、最初の「浄夜」は、美しさも充分にあったものの、極めて念入りの指揮に過ぎて、一貫した流れに多少不足していた印象も拭えなかった。
 続く「6つの歌」は「作品8」の番号からも判る通り、シェーンベルクがまだ後期ロマン派の残光に浸っていた時期のもので、「トリスタン」のエコーも其処此処に聴かれる音楽が興味深い。それに「浄夜」と一緒に聴くと、当時のシェーンベルクの作風がいっそうよく理解できるということもある。これが日本で演奏される機会はあまりないので、非常に貴重な演奏だった。

 「6つの歌」では、ソプラノの並河寿美が伸びやかな歌を聴かせてくれた。彼女がこのような歌曲を歌ってくれるのを聴く機会は東京ではほとんどないので、これも貴重な一夜というべきである。ただ、大編成のオーケストラは、やはり「鳴り過ぎ」で、これはもちろん作曲者の責任だが、高橋直史もそのへんは敢えて忖度しなかったようである。

 休憩後のマーラーの「4番」は、私には実に面白かった。指揮者はやはりこれをこの東京公演で聴かせたかったのだろう。
 第1楽章など変幻自在、時に八方破れのような音楽を響かせつつも巧みに話の流れを作る。まるで砕けた名調子の噺家の話術を聴くような感だ。第2楽章で明るい場面にパッと変わる個所(第254小節)の鮮やかさ、第4楽章大詰めの第125小節以降での音楽のしなやかさなども、強い印象を残す。
 この高橋直史という指揮者、なかなかのクセモノであられる。他にもいろいろ聴いてみたい気がする。

 なおこの「4番」でのソプラノ・ソロも並河寿美で、先ほどのシェーンベルクでの厳しい表情の歌唱に比べ、こちら「4番」では寛いだ表情に一転しての見事な切り替え。ステージへの登場は第4楽章が始まってからだった。
 今日のコンサートマスターは森下幸路。

2021・8・18(水)小林資典指揮読売日本交響楽団「三大交響曲」

       東京芸術劇場 コンサートホール  6時30分

 1974年生まれ、ドイツのドルトムント劇場に本拠を置いて活動する指揮者・小林資典が読響に初客演。これまで日本では2018年に大阪響を、2019年にバレエ・アム・ライン日本公演を指揮したのみ、というのは意外だ。私も彼の名前だけは記憶していたのだが、ナマの指揮を聴くのは今夜が初めてである。
 プログラムは「未完成」「運命」「新世界」の3曲。

 結論から先に言うと、これは何とも素晴らしい指揮者がいたものだ、という嬉しい驚きの印象である。音楽の構築が極めて精緻で、激しい躍動と自在感に溢れ、精妙ではあるがそれに足をすくわれないような強い重心をも備えているのがいい。

 「未完成交響曲」冒頭のヴァイオリンの揺らめきが微妙な起伏を持ちつつ開始された瞬間から、これは何かやってくれるな、という期待感を呼び起こされたのだが、事実、だらだらと平板に演奏される「未完成」にはもう共感できなくなっている現代の聴き手にその美しさを再認識させてくれるような、毅然とした演奏がそこには在った。

 「運命」も予想通り、現代では主流となっている鋭角的で攻撃的な構築の演奏だ。第1楽章ではあの所謂「運命」の動機を、独立した威圧的な存在として扱うのではなく、あくまで全体の激烈な流れの一部として組み立てて行くのが印象に残る。第3楽章でのホルン群による動機をひときわ鋭く響かせるのは、ドイツで活動する指揮者たちの癖か? 第4楽章の提示部を反復しなかったのは、当節の演奏としては意外だったが。

 「新世界」も、実に躍動的で面白い。先日聴いたカーチュン・ウォンと都響のような変幻自在なスタイルの演奏とは少し違うが、伸縮に富み、情感も籠っている。

 小林資典のこの精妙な指揮を、また読響が見事にこなしていたのは流石である。練習時間もそれほどなかったと思われるのに、上手いものだ。
 もっとも、「未完成」の第1楽章の第63小節からの、全管弦楽が強奏で和音を2回繰り返す個所の━━フルートとオーボエとクラリネットが2小節目の4分音符を5度下げて響かせる個所が、提示部の1回目と反復した時の演奏とでは、それぞれ全く違ったバランスで聞こえたのが、指揮者に何か意図があったらしい個所であるだけに、多少気になったのは事実である。

 それにしても、貴重な演奏会だった。これほどいい日本人指揮者がまだまだいるのだ、ということを知ったのだから。
 今日のコンサートマスターは林悠介。

2021・8・17(火)オーケストラ・キャラバンTOKYO
秋山和慶指揮日本センチュリー交響楽団

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 文化庁の肝煎りで全国的に展開されている「オーケストラ・キャラバン」は、国内の各オーケストラがそれぞれ各地を回って演奏会を行なうという企画。日本オーケストラ連盟所属正会員25団体のうち、今回は札響、N響、群響、京響を除く21楽団が参加している。

 このプロジェクトには、各都市それぞれのオーケストラが定期的に行なっている所謂巡回公演━━「日頃オーケストラを聴く機会が得られないような街への訪問」というケースも含まれているが、それよりも今回は自分たちのオーケストラを持っている街の人々に「日頃聴く機会のない他都市のオーケストラ」を聴いてごらん、と奨める主旨も大きいようである。

 東京では「地方都市オーケストラフェスティバル」とか「フェスタサマーミューザ」、あるいは各都市オケの東京公演などを通じ、そういう機会が比較的多い。しかし、さらに多くなるに越したことはない。
 まして他都市では滅多に機会がないはずだから、このように文化庁の経済的支援によりその機会が提供されるのなら、それは大いに有意義なことである。また各都市オーケストラにとっても、活動の「全国展開」の助けともなり、オーケストラ界全体の活性化にも役立つことであろう。

 さて、今週のその「東京篇」は、日本センチュリー響、仙台フィル、大阪響、名古屋フィル━━というラインナップになっている。
 今日はその初日で、日本センチュリー交響楽団が、ミュージックアドバイザーの秋山和慶とともに登場した。プログラムはブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」と「交響曲第1番」で、前者のソリストは竹澤恭子。コンサートマスターは後藤龍伸。

 近年の充実さらに目覚ましいベテラン秋山の完璧なタクトのもと、センチュリー響は気合の入り方も尋常ならざる雰囲気で、見事なブラームスを披露してくれた。言っちゃ何だが、大阪で聴いたセンチュリー響のいくつかの演奏会の時と比べると、まるで別のオーケストラのような緻密なアンサンブルと熱っぽい昂揚感である。

 練達の名匠、秋山の「持って行き方」の巧さも印象に残る。交響曲の終楽章における「序破急」的な演奏構築の巧みさはもちろん、協奏曲終楽章の第90小節あたりからのティンパニの煽り、同コーダの「ポーコ・ピウ・プレスト」からの見事な終結感の表出など。
 しかもゲスト・ソリストの竹澤恭子が貫禄と風格を増し━━お辞儀の仕方からして既に昔と違う━━名人が緩急自在の語り口で物語を進めて行くような見事なソロを聴かせてくれるという豪華さ。

2021・8・13(金)サラダ音楽祭 大野和士指揮東京都響他

       東京芸術劇場 コンサートホール  3時

 「サラダ音楽祭」は、東京都と都響が豊島区と東京芸術劇場と連携し、2018年に始めたフェスティヴァル。「SaLaD」とはつまり「Sing and Listen and Dance」のことだという。

 今日はその2日目、大野和士が指揮する東京都交響楽団(コンサートマスター矢部達哉)に、ハープの吉野直子、ソプラノの小林厚子、新国立劇場合唱団(合唱指揮・冨平恭平)、りゅーとぴあ(新潟市民芸術文化会館)に本拠を置くダンス・グループ「ノイズム」と、その副芸術監督・井関佐和子のダンスまで加わるという豪華な顔ぶれ。

 演奏された曲は、第1部にジョン・アダムズのオペラ「中国のニクソン」からの「ザ・チェアマン・ダンス(毛沢東主席の踊り)」、カステルヌオーヴォ=テデスコの「ハープと室内管弦楽のための小協奏曲」、マーラーの「第5交響曲」からの「アダージェット」、第2部にモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」と、プーランクの「グローリア」。このうちジョン・アダムズとマーラーの作品には金森穣の振付によるダンスが付き、モーツァルトとプーランクに声楽が付く、という、それはもう賑やかなプログラムであった。

 ステージ前面をいっぱいに使用したダンスも見事だったし、大野と都響の演奏も佳かった。とりわけ、マーラーの「アダージェット」(これも吉野直子がハープを弾いた)での終結近くで膨らみを増して行く個所の美しさにはハッとさせられたし、オルガン下の席と2階バルコニーのステージ両側に配置されたコーラスが柔らかく「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を歌い出した瞬間に、ホールの中に木霊するように広がった女声合唱の透明清澄で神秘的な美しさにも息を呑まされた。
 昨夜のヴェルディの「レクイエム」でもそうだったが、こういう、何か祈りのような音楽がひときわ心に沁みるのは、やはり昨今の世の中の情勢に影響されているからなのかもしれない。

 多彩で意欲的な企画であり、内容もそれにふさわしいものだったのだが、お客さんの入りがあまり芳しくなかったのは惜しかった。コロナ感染拡大のために客の出足が鈍った所為もあろうが、ただ、それ以前に━━どうなのだろう、この「サラダ音楽祭」という名称が、こういうコンサートでなく何か別のイメージのものに受け取られてしまい、中核となるクラシック音楽ファンからの注意を惹かないような状態を招いているのではなかろうか?

 明日からは宮崎国際音楽祭に行く予定だったが、今回は残念ながらとりあえず旅行を自粛することにした。広上淳一が「トゥーランドット」を指揮するのを聴けないのは痛恨の極みなのだが。

2021・8・12(木)ヴェルディ:「レクイエム」バッティストーニ指揮

        東京オペラシティ コンサートホール  7時

 アンドレア・バッティストーニと東京フィルハーモニー交響楽団が、ヴェルディの「レクイエム」を演奏。
 これは「東京二期会 夏のヴェルディ・フェスティバル 二期会スペシャル・コンサート」として開催されたもので、明日との2回公演である。
 協演は二期会合唱団、ソリストは木下美穂子、中島郁子、城宏憲、妻屋秀和。

 この宏大華麗な作品には、このホールは小さ過ぎるかもしれない。合唱団がステージ上ではなく、オルガン下の席と、2回バルコニー席前方両側に配置されたのはいいだろう。が、「トゥーバ・ミルム」のトランペット群がステージ上のオーケストラ本体の奥に左右に分けて配置されたことは、遥か天の彼方から最後の審判のラッパが響いて来るという劇的なイメージを失わせたのではないか。まあ、どこから響いてもいいものではあるが。

 バッティストーニは例の如く全身火の玉の如き指揮ぶりで、音楽を煽り、燃え立たせた。全曲およそ80分というスピーディな構築ではあったが、それでありながら、この曲のオペラ的でドラマティックな要素や旋律的な美しさを些かも損なっていなかったのは立派と言わなくてはなるまい。気心知れた東京フィルも、よく彼の指揮に応えていた。
 それに今日は、声楽ソリスト陣がみんな良かった。特に聴かせどころの多いソプラノ(木下)とアルト(中島)が、全力投球で見事な歌唱を繰り広げてくれたのが嬉しい。

 それらを含め、全身全霊を籠めての体当たり的な演奏は凄味を感じさせる。演奏を聴きながら、特に新型コロナの爆発的感染が進む当節、たとえ明日は斃れることがあっても、今日は「生きる証」として真摯にそれぞれ己が役目を果たし抜くのが人間、という言葉をふと思い出した。われわれ聴き手も、一つ一つの演奏会を真摯に聴き、真摯に受け止めねばならぬ。

 もちろん、感染対策を完璧に行なっての話だ。演奏者たちのPCR検査もかなり綿密と聞く。
 聴衆も同様、今夜もホワイエの入り口で全員が体温測定と手指消毒などを丁寧にやるため、入場には時間がかかり、来場者は近江楽堂の前あたりまで延々長蛇の列を作っていた。ホールのスタッフが指示しているわけではないのだが、言われずとも自主的に一列に並び、順番に入って行くところが日本人の美点である(欧米の歌劇場や演奏会場だったら、連中は絶対並ばない。先を争ってひしめき合うところだ)。

2021・8・9(日)フェスタサマーミューザKAWASAKI フィナーレ
原田慶太楼指揮東京交響楽団&カルテット・アマービレ

     ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 慣例によりホストオーケストラの東京交響楽団が出演。
 人気の正指揮者・原田慶太楼の指揮で、ヴェルディの「アイーダ」から「凱旋行進曲とバレエ音楽」、かわさき=ドレイク・ミュージック・アンダンブルの「かわさき組曲」、ジョン・アダムズの「アブソルート・ジェスト」、吉松隆の「交響曲第2番《地球(テラ)にて》」という、すこぶる攻勢型のプログラムが組まれた。

 ありきたりの名曲コンサートにしなかった点、ミューザ川崎を本拠とするホストオーケストラの面目躍如、といったところであろう。原田慶太楼の指揮は、今日も相変わらず切れがよく熱気充分で、燃焼度も極めて高い。コンサートマスターは水谷晃。
 1901年に他界したヴェルディ(没後120年)が1871年に初演した「アイーダ」(初演後150年)の音楽で華々しく始まったこの日の演奏会。

 次の「かわさき組曲」は、ブリティッシュ・カウンシルと川崎市の提携により、英国の障害者支援の団体ドレイク・ミュージックと川崎市の特別支援学校の生徒たちのワークショップから生み出された━━正確に言えばもう少し複雑になるのだが、ここではこの程度しか書けない━━10分程度の作品で、「アイーダ」の音楽にインスパイアされた曲なのだという。
 ただしこれは、生徒たちが皆で作った音楽のモティーフを、ドレイク・ミュージックの「アソシエイト・ミュージシャン」なるベン・セラーズという人が「まとめた」もののようである。一聴したところ何か小奇麗に仕上がっているのは、そのためなのか? 
 大勢で合作した曲というのは得てして個性の薄いものになる傾向がある。しかもそれらをリーダーがまとめたものとなると、得てして子供たちのオリジナルの個性が大人の感性により「水で薄められたような」ものになることが多いものだが、この曲はどういうケースだったのか?

 アダムズの「アブソルート・ジェスト」は、オーケストラと弦楽四重奏のための作品で、ここでカルテット・アマービレが協演するというわけだ。これは「ベートーヴェン(昨年が生誕250年)の音楽にインスパイアされた作品」で、「第9」や「作品135」の四重奏曲など、あれやこれやが顔を覗かせる。
 ここまでのプログラムの選曲方針はなかなか凝っていて、「テーマのしりとり」というか、「ドミノ倒し」というか、原田慶太楼がプレトークで自画自賛しただけのことはある。
 大拍手に応えてカルテット・アマービレは「作品135の四重奏曲」の第2楽章を演奏したが、これがまた柔らかく美しくてなかなか佳かった。

 最後が吉松隆の1991年(!)の作品「地球(テラ)にて」。今回は第2楽章の「踏歌」をも含めた全4楽章の長大なヴァージョンだったが、30年前の彼がこういう強靭な音楽を書いていたのだということに改めて感銘を受ける。原田の指揮が極めて濃厚で激烈で、東京響の演奏も濃密だったせいもあるだろうが、吉松の作品がこれほど陰影に富んだ魔性的なものに感じられたのは、私個人にとっては、稀有な体験だ。

 今年の「フェスタサマーミューザ」はこれで千秋楽。この時世の中、無事に完遂できたのは祝着である。

2021・8・7(土)フェスタサマーミューザKAWASAKI
下野竜也指揮日本フィルハーモニー交響楽団 

       ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 第1部にウェーバーの「オベロン」序曲、ヴォーン・ウィリアムズの「グリーン・スリーヴズによる幻想曲」、ニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲。第2部にナレーションと声楽入りで、ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」。
 ナレーターは宮本益光、ソプラノは石橋栄実。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 「テーマは世界史の大文豪」と銘打たれている通り、これはシェイクスピアとゲーテの戯曲に基づく特集である。いいプログラムだと思うのだが、なぜか客の入りが寂しい。台風接近で局地的に豪雨があったためか、新型コロナ感染増大に怯えて外出を控える人が多くなった所為か?

 「エグモント」でのクレールヒェンの歌はドイツ語歌唱、字幕はないが広瀬大介訳詞によるリーフがプログラムに挟みこまれている。一方ナレーションは日本語で、「語り台本翻訳」は藁谷郁美とクレジットされている。これは以前、下野&広響と宮本が上演したヴァージョンなのだそうだ。

 因みに「フェスタサマーミューザ」では、以前にもユベール・スダーンと東京響が檀ふみをナレーターとしてこの「エグモント」を上演したことがあった(→2011年7月27日の項)。あの時は視点を大きく変えた台本が使用されていたが、今日のはもちろん、一般に用いられるものと基本的には共通した構成である。

 今年の「ミューザサマーフェスタ」もそろそろ閉幕に近づく。今年は、各オーケストラがいろいろな企画で競ったり、日頃の実力を誇示したり、新しい試みに挑んだりと、多くの意欲的な姿勢を見せてくれたのが有難い。

2021・8・6(金)フェスタサマーミューザKAWASAKI
アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

       ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 予定通り来日できた首席指揮者バッティストーニが指揮。ヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」序曲、レスピーギの「シバの女王ベルキス」組曲、ニーノ・ロータの「ハープ協奏曲」(ソリストは吉野直子)、レスピーギの「ローマの松」━━というイタリアものの一夜。いいプログラムだ。コンサートマスターは近藤薫。

 何もかもが開放的で、思い切り歌い、思い切り叫ぶといった指揮をするバッティストーニだから、「ローマの松」の「アッピア街道の松」など推して知るべし、ミューザ川崎のホールが揺れ動くようなクライマックスが築かれた。「カタコンブの松」の「祈りの歌」さえも「祭典の歌」のように鳴り響いたほどである。

 同じレスピーギの「シバの女王ベルギス」は6年ぶりにナマで聴いた(私はブラスバンドの演奏会にはほとんど行かないので)が、今回は「戦いの踊り」の中に日本の太鼓が使われて、これはバッティストーニもプレトークで語っていた通り、ピッチの高い鋭い音が、非常に面白い効果を生んでいて、気に入った。

 ニーノ・ロータの「ハープ協奏曲」(1947年)は、昔レコードで聴いた時にはあまり印象に残らなかった曲だが、今回ナマで聴いてみると、不思議な美しさを感じさせて面白い。第1楽章は、これは完全にロドリーゴの「コンチェルト・セレナ―タ」をパクっているのではないかと思ったが、調べてみるとロドリーゴのそれの方が「あと」で、1952年の作だった。ロータもなかなかやるものである(?)。

 亡くなる少し前、1976年だったか77年だったか、彼が来日して新日本フィルを指揮し、自作の映画音楽などによるシンフォニー・コンサートを行なった時、私はFM東京でそれをライヴ収録し、彼へのインタヴューも織り込んで放送したことがある。「日本じゃ私は映画音楽の作曲家だと思われているようだが、本当はシリアスな作品もたくさんあって、イタリアじゃ有名なんだよ」と語っていて、実は私もその時初めて彼の活動の拠点が那辺にあるのかを再認識させられたという状態だった‥‥。

 なお、「ハープ協奏曲」のソリストは吉野直子。いつもながら暗譜で弾く、彼女のふくよかな演奏が素晴らしい。ソロ・アンコールでトゥルニエの「朝」を弾いてくれたが、これまた心地よい玲瓏たるソロ。

 今日は客席がよく埋まっている。指揮者とソリストの人気のためか、ソワレ(日没後)公演の所為か。ある医師の指摘によれば、観客が全員前を向いて静かに座り、ブラヴォーも叫ばずに拍手だけ、しかも手洗い消毒やマスク装着、といった感染対策を徹底しているクラシックのコンサートは、「最も安全なイヴェントの一つ」であるとのことである。

2021・8・4(水)フェスタサマーミューザKAWASAKI
広上淳一指揮京都市交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 京都市響とその常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一とのコンビは、いま日本のオーケストラ界における最高水準の存在のひとつである、と私は思うのだが、これは大方の意見とも一致するだろう。今日の演奏会は、それをまたもや証明するものとなった。

 特にベートーヴェンの「英雄交響曲」。これほど完璧な均衡を備えた、しかも明晰で美しい「英雄」の演奏を、私はこれまでに聴いたことがない。内声部の絡みも明確に描かれていて、些かの曖昧さもなく、しかもスケールが大きく、力強い推進性を感じさせる。それでいて演奏は冷たいところなど少しもなく、人間的な温かさを感じさせるのである。

 敢えて言うなら、完全無欠な演奏の「英雄交響曲」とでも━━。各パートのソロも上手い。第3楽章トリオでの3本のホルンは、バランスも含めて舌を巻くほどだったし、第2楽章第135~139小節の壮大なホルンのパートはスコア通り第3ホルン1本で吹きながらも、非常に力強かった。

 まさに立派な広上&京響の演奏で、付け入る隙は全くないが、あとは個々の好みの問題だろう。あまりにも完璧な、おとなの「英雄」なのである。だが━━「おとなすぎる」のである。ベートーヴェンは、もっと大胆不敵で野放図な、革命的な音楽家なのではなかったか?

 前半には、ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調」が演奏された。この作曲家の晩年の落ち着いた美しさを充分に再現した演奏で、特に若いソリスト2人━━ヴァイオリンの黒川侑とチェロの佐藤晴真の瑞々しい感性が素晴らしく、古い革袋に新しい酒を盛るといった趣の魅力的な世界が繰り広げられた。
 コンサートマスターは石田㤗尚。

2021・8・3(火)フェスタサマーミューザKAWASAKI
鈴木秀美指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団

               ミューザ川崎シンフォニーホール 3時

 かつては18世紀オーケストラやラ・プティット・バンド、あるいは鈴木雅明の指揮するバッハ・コレギウム・ジャパンなどにも所属していたことがあり、バロック音楽学者・演奏家・指揮者としてのイメージが強い鈴木秀美。
 その彼もまた、最近はレパートリーを拡大し、指揮者としての大活躍を展開し始めた。山形交響楽団首席客演指揮者、神戸市室内管弦楽団音楽監督などのポストも彼のものである。先日の新日本フィルとの鮮烈なベートーヴェン(☞2021年3月27日)にも震撼させられたばかりだ。

 その鈴木秀美が、今日は神奈川フィルに客演し、前半でドヴォルジャークの序曲「謝肉祭」と、シューマンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは郷古廉)、後半でドヴォルジャークの「交響曲第8番」━━というレパートリーを披露した。
 やはり普通の所謂シンフォニックなタイプの指揮者と違い、豊麗さを敢えて切り捨てたような独特のスリムな音楽構築で、興味深い。最も印象的だったのは、協奏曲での、これ以上に透明な音色のシューマンはあり得まいと思われるような演奏。ここでは郷古の澄んだ叙情性も冴え渡っていただろう。

 これに対しドヴォルジャークの2曲は、国民楽派的な民族色には重点が置かれていないということは当然としても、鈴木の意図と神奈川フィルの持つ音色の個性が必ずしも合致していたとは思えない部分も少なくなく、些か疲れたというのが本音。
 また管楽器群が解放的かつ壮烈に音を響かせるのは以前の神奈川フィルにはあまり聴かれなかった特徴で、それはそれでいいのだが、その分、弦楽器も12型なのだから、もっと豊かに膨らみと量感を以て響いて欲しいなとも思う(コンサートマスターは崎谷直人)。
 それと今日は、ティンパニのGの音、特に弱音でのそれの響きは、他の楽器群のそれとはどうも水と油のように感じられるのだが━━。

 第4楽章冒頭のトランペット2本のファンファーレが、同じユニゾンでもオクターヴ間隔で吹かれるというのは、そういう版があるという噂は聞いていたものの、今日初めてナマで聴けた。実に面白い響きだ。ローマ帝国のスペクタクル映画か何かに出て来るラッパを連想させられてしまったが‥‥。

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