2023-12

2021年9月 の記事一覧




2021・9・26(日)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

       ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 桂冠指揮者スダーンが久しぶりの指揮。楽屋で御本人は「2年ぶりだよ」と言っていたが、もうそんなになるのか。「自分の家に帰って来たような気持になった」とのこと。
 指揮台には椅子が置かれており、スダーンはそれに腰掛けて指揮をしていたので、足か体調かが悪いのかと思ったが、事務局に訊いたところでは特にそのようなことはなく、たまたま椅子を置いておいたら、「あ、椅子があるのか」と、そのまま掛けてしまったのだとか。終演後の楽屋では賑やかに記念写真に興じていたし、口調も元気そのもの、顔色も艶々していたから、まあ心配は無用なのだろう。

 今日のプログラムはフランスもので、フランクの「プシュケとエロス」、ショーソンの「愛と海の詩」(メゾ・ソプラノは加納悦子)、ベルリオーズの「幻想交響曲」━━という、すべて「愛」を中心テーマとした作品だ。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 「愛」とはいうものの、スダーンの指揮はいかにも彼らしく、一分の隙もなく堅固に構築された、峻厳そのものの音楽づくりなので、官能的な色合いは薄い。従って、各作品の標題性も、明確に生かされているとは言い難い。
 フランクの交響詩など、もともと渋い曲想がいよいよ渋く聞こえ、ストーリー性をほとんど感じさせなかった。ショーソンも冒頭の管弦楽部分におけるフランス音楽独特の叙情的な響きは見事でうっとりさせられたが、これも官能性はあまり感じさせなかったのではないか。そして「幻想交響曲」は、宏大無辺に聳え立つ大叙事詩といった趣の演奏だ。

 ではあるものの、そこに構築された音楽の立派さという点では、これはこの2年ばかりの間に聴いた日本のオーケストラの演奏の中でも、屈指の存在ではなかったかと思う。
 特に「幻想交響曲」は、完璧なバランスと、些かの崩れも破綻もない堅固な音楽の中に、特に最後の2つの楽章においてはエキサイティングな興奮を呼ぶ激烈なエネルギーが満ち溢れていた。

 楽器のバランスの上で少々申し上げるなら、ピッコロが音量的に飛び出し過ぎる個所があったことと、「草原の彼方に響く」陰オーボエのソロが遠くて聞こえにくく、コール・アングレとのデュオが成立しなかったこと、などの問題があったのだが、これらは小さな瑕疵とも言えよう。
 とにかく、完全なアンサンブルによる大音響の快演を久しぶりに聴かせてもらった、という印象だ。東響も凄かった。

 なお、「愛と海の詩」で歌った加納悦子は、来日できなかったアリス・クートの代役で登場したのだが、非常に立派な風格と安定した歌唱で、見事なショーソンを聴かせてくれた。

2021・9・25(土)鈴木秀美指揮神戸市室内管弦楽団

       神戸文化ホール 中ホール  2時

 1981年に弦のみの「神戸室内合奏団」として設立、2000年からゲルハルト・ボッセを、2013年度から岡山潔を音楽監督に戴き、後者の時代に現名称となったこの楽団。今年4月からは鈴木秀美(創立時のメンバーでもあった)を新しい音楽監督に迎え、次いで事務局スタッフも強化させて攻勢に転じている。

 創立40周年にあたる今年の「第151回定期」では、オケの原点回帰ともいうべき弦楽合奏の作品が3曲、プログラムに組まれた━━グリーグの「ホルベアの時代から」、ドヴォルジャークの「弦楽セレナード」、シェーンベルクの「浄夜」。コンサートマスターは高木和弘。

 定期の本拠地のこの中ホールは残響ゼロの会場ゆえ、もろもろご承知おき願いたい━━と事前に事務局の森岡めぐみ演奏担当部長から釘を刺されていたが、なるほど、見かけは普通のホールでありながら、ここまで正真正銘、残響ゼロというのも珍しい。これではクラシック音楽の演奏家にとっては苦しかろう。余韻が全く無いために余情も失われる。特にピアニッシモによるテンポの遅い個所では、音が存在感を以て響かないため、演奏の緊張感が薄められてしまう傾向があるのは事実だ。

 とはいうものの、最初の「ホルベアの時代から」の軽快な音型が響き始めた瞬間には、そのアコースティックを補って充分なほどの瑞々しさが演奏に感じられたのも確かなのである。特に軽快な個所や、旋律が幅広く歌われるような個所では、残響ゼロを意識させぬほどの演奏の密度の高さを感じさせたのだった。

 来年からは前記の攻勢の一環として「残響も充分ある」大ホールに定期会場を移すというから、そのアコースティック━━と言っても私はその大ホールでは聴いたことがないのだが━━の助けを得て、オーケストラの水準も更に高められることであろう。

 なおこの神戸文化ホールは、山陽新幹線の新神戸駅から地下鉄で3駅目、時間にすれば5分くらいの距離にある「大倉山駅」のすぐ傍にあり、アクセスとしては超便利である。
 ちなみに、新幹線の「新神戸」という駅だが、私がここに降り立ったのは、実に32年ぶりだ。あの「朝比奈隆 ベートーヴェンの交響曲を語る」(最近中公文庫で復刊されている)の対談のために、氏のお宅に何度かお邪魔して以来のことである。あの時、駅の改札口まで迎えに来て下さっていた朝比奈氏の背の高い姿が、今でも目に見えるような気がする━━。

2021・9・24(金)高関健指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 ハイドンの「交響曲第22番《哲学者》」とマーラーの「交響曲第4番」。プログラム冊子では後者に「大いなる喜びへの賛歌」という副題が付記されていたが、このサブタイトルは久しぶりに見るものだ。

 今回は、この「4番」で、最新の研究を基にしたスコアが使用されているというのが売り物だった。今日は演奏の前に、マエストロ高関みずから、この新楽譜について短い解説を行なった。
 それによると、その新校訂スコアは間もなく出版される予定だが、彼自身もこれを演奏するに際し、いくつかの疑問点を校訂者にぶつけており、それにより再度修正された個所も少なくないとのこと。「曲の本体には特に変更はないが、楽器のバランスや表情、漸弱記号とアクセントの違い、などにこれまでと異なったものがある」という説明であった。

 もっとも、聴き手にとってみれば、この種の修正による演奏は、楽譜自体の修正によるものなのか、それとも単なる指揮者の扱いの違いによるものなのかは、自分でそのスコアを見ない限り判別し難いことが多いのが普通だ。いずれにせよ当面は、その曲がどう聞こえたか、ということだけに集中するのみである。

 今日の読響の演奏は、その修正を正確に再現しようとしたためなのかどうか、特に第1楽章では極度に整然としていて、この曲に普通聴かれるしなやかな流動感というのか、一種の解放感を伴って次から次へと繰り出される歌の美しさといったものが、やや抑制されていたように感じられたのは私の思い過ごしか? 
 とはいうものの、第3楽章から第4楽章にかけての、特に終楽章の大詰めあたりでの演奏の美しさ、安息感、優しい安らぎ感は、これまで聴いたことがないほどのものだった。ソプラノの中江早希の透明で清澄なソロも際立っており、天上の世界の歓びといった感情を見事に描き出していた。

 それだけに、普通より非常に強く、ほとんど打楽器のようなイメージで弾かれた最後のハープの4つのE音(?)の異様な不気味さが目立ち、歌詞やオーケストラのパートが生む安息の音楽とは全く異なった世界を感じさせる。この交響曲についての概念を根本から変えてしまうようなこのハープの音は、楽譜の問題か、それともマエストロの解釈か?
 ともかく、この曲が一筋縄では行かない作品であることを私たちに示してくれた演奏ではあった。

 なお話が前後したが、前半のハイドンの交響曲も明快端然たる演奏で、この作曲家の深みのある芸風が楽しめた。今日のコンサートマスターは長原幸太。

2021・9・24(金)大植英次指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

       すみだトリフォニーホール  2時

 モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲に始まり、チマローザの「オーボエ協奏曲ハ短調」(A・ベンジャミン編曲)とマルチェッロの「オーボエ協奏曲ニ短調」が吉井瑞穂をソリストに迎えて演奏される。休憩後にはメンデルスゾーンの「交響曲第4番《イタリア》」。コンサートマスターは西江辰郎。

 大植英次の指揮は、一頃とはもう全く違って、正面切った、衒いのない音楽づくりになった。以前の大植の指揮に聴かれたような、意表を衝いた解釈もそれはそれで面白かったのだが、まあ、今のような直球勝負の醍醐味というものもあるだろう。

 2つのオーボエ協奏曲では、吉井瑞穂の骨太な力強い音に息を呑まされる。オーボエ1本でオーケストラ全体を圧倒するような迫力だ。マルチェッロのコンチェルトなど、もう少し繊細な歌があってもいいのではないのかなとも思ったが、ともあれ、甘美さよりも音楽の毅然たる構築を前面に押し出した演奏だったことは確かであろう。

 「イタリア交響曲」も、軽快さというより、どちらかと言えば骨太で剛直なメンデルスゾーン像という印象の演奏になっていた。だが、第3楽章などでは、この作曲家らしい流麗な旋律美が充分に浮き彫りにされていて、この曲もなかなかいいものだ、と思わせてくれる演奏のひとつだったことは疑いのないところである。

 アンコールには、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」からの「スケルツォ」が取り上げられた。これはしかし、妖精の戯れというよりは、やや重い諧謔といった感の演奏である。
 楽屋でマエストロ大植に会うと、「あれ(スケルツォ)は、最初の《フィガロ》のテンポと全く同じテンポで行けるの。だから取り上げたのよ。コンサートの最初の曲と最後の曲を、こういう風にちゃんと辻褄の合うようにやったの」と得意げに語っていた。なるほど、そういう狙いがあったとは。
 ただ正直なところ、私には、それは「イタリア交響曲」の嵐のようなフィナーレに対応するエコーであるかのように感じられたのだが・・・・。

2021・9・20(月)レオシュ・スワロフスキー指揮
プラハ・フィルハーモニア管弦楽団

       東京オペラシティ コンサートホール  2時

 新型コロナ蔓延の影響で、来日できる海外オーケストラもこのところ年にたった2つか3つ。これではまるで、1950年代に逆戻りだ。その中で、このプラハ・フィルハーモニア(PKF Prague Philharmonia)は━━待機期間3日間の特例に預かったとしても、よく来日できたものである。
 今回は18日から26日までの間に、横浜、東京、高崎、びわ湖ホール、刈谷で、計6回の公演が組まれた。今日はその3日目で、スメタナの「モルダウ」、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」と「新世界交響曲」というプログラムだ。

 この楽団は、前任の音楽監督・首席指揮者ヤクブ・フルシャと2度来日したことがある(2012年3月4日2015年2月5日、クリックで参照)。
 現在のシェフはエマニュエル・ヴィヨームだが、今回はチェコのベテラン、レオシュ・スワロフスキーが指揮者として同行して来た。彼もつい最近までセントラル愛知響の常任を務めたことがあり、また都響への客演で、日本のファンにはおなじみの存在だろう。

 今日の演奏会、ステージに最初に登場した時の楽員たちの顔付きが何となく不愛想で、「モルダウ」の演奏も心なしかぶっきら棒だったのが気になった。
 日本滞在中はかなり厳しい行動制限が課させられていて、会食も禁じられ、食事も弁当ばかりなので楽員たちが怒っていたとか何とか、そんな話も漏れ聞いていただけに、もしやそれがこの仏頂面と演奏の粗さの原因なのかな、などと気を揉んでしまったほどだったが、幸いにも演奏が進むにつれ、その雰囲気も次第に和らいで行ったようにも感じられた。

 「チェロ協奏曲」では、ソリストのサンティアゴ・カニョン=ヴァレンシアというコロンビア生れの若手━━彼は2年前のチャイコフスキー国際コンクールで2位に入賞している━━が明快で伸び伸びとした演奏を聴かせ、ソロ・アンコールではカザルス編の「鳥の歌」を弾いて、満員に近い聴衆を和ませる。

 そして「新世界交響曲」では、ほぼ彼らの本領発揮、というところだったろうか。この曲では、スワロフスキーの指揮とオーケストラの演奏が、進むに従いニュアンスの細やかさを増して行ったのが印象的であった。第4楽章コーダに至って、自国の作品の演奏に相応しい共感の盛り上がりが聴けたようである。
 アンコールは、ドヴォルジャークの「スラヴ舞曲作品72の7」で、スワロフスキーがベランメエ調の日本語を交えて曲名紹介。さすが(?)のサービス。

 実に久しぶりにナマで聴くチェコのオーケストラゆえ、期待と懐かしさとを抱いてホールに行ったのだが━━音楽の表情も、開放的に拡散するタイプのものではなく、内側に凝縮して行く志向の、控えめだが芯の強いもので、その点、所謂チェコのオケならではの特徴は聴き取れただろう。
 ただその一方、これもチェコのオケの特徴たる、あのしっとりとした美しい弦の音色はほとんど聴かれず、むしろ硬めの荒っぽい響きが主流だったのは、少々残念であった。やはりこれも、新型コロナ感染拡大による演奏活動の中断がオケにもたらしたアンサンブルの荒れ、なのだろうか?

2021.9・18(土)原田慶太楼指揮東響のヴォーン・ウィリアムズ

       ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 「ヴォーン・ウィリアムズの交響曲のツィクルスをやらない?」と、以前あるオーケストラを煽ったら、「そんなの、チケットが売れないからダメ」とにべもなく却下されたことがある。
 まあそうだろうな、とは思うものの、しかしスクリャービンとかグラズノフのシンフォニー・ツィクルスよりは、よほど面白いんじゃないかなあ、と秘かに考えるのだが‥‥。  

 今日のヴォーン・ウィリアムズの「海の交響曲」(交響曲第1番)など、実にいい曲だと思う。これは大合唱(冨平恭平指揮の東響コーラス)と声楽ソリスト2人(小林沙羅、大西宇宙)を含み、演奏時間も1時間を優に超える大交響曲だ。
 制作費もえらくかかるから、滅多に演奏されないのもやむを得まいが、派手な金管のファンファーレも入る劇的な音楽だから俗受け(?)もするだろうし、ホイットマンの詩による壮大な海の讃歌としての魅力もある。

 今回は、原田慶太楼の指揮も音楽に若々しい拡がりを感じさせたし、小林沙羅と大西宇宙のソロも力のこもった「楽しそうな」歌唱で、見事だった。特に大西の解放的な、海へ乗り出す若者を思わせる爽快な歌唱は、彼の最近の屈指の好演ではないか。

 オケ背後の客席に1人ずつ間を開けて並んだ合唱団も健闘したが、ただマスクをしての歌唱が音をくぐもらせるのは如何ともし難く、それをカバーするために使用されたPAも何となく不自然な音色を感じさせており、これが作品の透明感・爽快感を些か弱めていたことだけは残念であった。

 だがしかし、日本のオーケストラ界のレパートリーにおける一種のブランクとなっているこのような大曲を取り上げ、躍動的な演奏を聴かせてくれたことは、実に有難い。正指揮者の原田慶太楼は先般来、近代アメリカの作品をはじめ、若手らしくいろいろ珍しいレパートリーを手がけ、東響の演奏会のプログラムに新風を吹き込んでくれているのは、歓迎すべきことである。

 なおプログラムの前半には、同じヴォーン・ウィリアムズの「グリーンスリーヴスによる幻想曲」と、「イギリス民謡組曲」(ジェイコブの管弦楽編曲版)が演奏されていた。これらもあまりクラシックのオケの演奏会では聴けないものなので、貴重であった。
 特にフルート2本とハープとをステージ奥の高い場所から響かせた前者のしっとりした美しさは絶品。後者の演奏には、もう少し洒落っ気とユーモアが欲しかったが━━。
 コンサートマスターは水谷晃。

2021・9・17(金)チョン・ミョンフン指揮東京フィルのブラームス

      サントリーホール  7時

 チョン・ミョンフンと東京フィルのブラームス交響曲ツィクルス、7月の「1番・2番」(→7月2日)に続くこれが第2回。今日は「第3番ヘ長調」と「第4番ホ短調」。コンサートマスターは近藤薫。

 チョンは前回にも、2つの交響曲を対称的な性格の存在として描き出すような演奏を行なっていたが、今日もほぼ同様。
 「3番」が波打つようにしなやかな演奏構築で、どちらかと言えば開放的で自由な趣に感じられた一方、「4番」は、凝縮した力と、厳しく激烈な性格が強調された演奏となっていた。
 「3番」は、私の好きな、もっとデモーニッシュな表現が採られたタイプの演奏とは少し違うけれども、まあそれはそれ。

 ところで、この「3番」の冒頭におけるチョンの指揮の仕方が、何か「君たち、自分で考えて音楽を創れ」と言わんばかりの身振りに見えたのが━━もちろんこれは私の勝手な想像に過ぎなかったかもしれないが━━実に興味深かった。細かいことはリハーサルで指示済みゆえ、あとは以心伝心、本番ではただ己のカリスマ的な存在感のみを以て楽員たちを導いて行く、といった指揮に見えたのが面白い。
 東京フィルの演奏にも、信頼する指揮者のために全身全霊を以て音楽して行くという雰囲気が漲っていたように感じられた。

 後半の「4番」の演奏は、まさにその両者の信頼関係の結実ではなかったか。第1楽章後半での劇的な昂揚はもちろん、第2楽章後半の弦の幅広い主題(第88小節~)以降の情感の濃さは印象的であった。第3楽章では繰り返されるティンパニの激しいクレッシェンドが音楽の絶え間ない上昇志向を感じさせ、第4楽章での起伏感構築の巧さと、終結にかけての猛烈な追い上げも目覚ましい。
 晩年のブラームスが、枯淡などとは程遠い境地にあること、その秘めた情熱をいっぱいにぶつけた作品であることを浮き彫りにしたかのような快演だ。

 拍手のさなかに演奏が始められたアンコールの「ハンガリー舞曲第1番」も情熱的ではあったが、これはどうも、「第4交響曲」での圧倒的な余韻を些か薄めたようで‥‥。

 チョン・ミョンフンと、東京フィルとの「愛」は、今やますます強いようだ。20年前に彼が「音楽をもっと掘り起こそう」という意味でオケに贈ったという大きなスコップが、今日はロビーに美麗に飾られ、人目を惹いていた。
 客席はほぼ満席に近い入りである。

2021・9・12(火)石川県立音楽堂開館20周年
オーケストラ・アンサンブル金沢&仙台フィルハーモニー管弦楽団合同演奏会

      石川県立音楽堂コンサートホール  2時

 指揮が山田和樹(OEKと仙台フィルの元ミュージック・パートナー)および川瀬賢太郎(現OEK常任客演指揮者)。なお川瀬は、帰国できなくなった沖澤のどかに代わっての出演。案内役が池辺晉一郎(石川県立音楽堂洋楽監督)。

 周知のごとく、この音楽堂は北陸新幹線の金沢駅のすぐ目の前にある。これほど便利なことはない。ヤマカズ氏は、昨日の日フィルとの演奏が終ってすぐ5時何分かの新幹線に乗り、8時からリハーサルを始めたそうな。
 今日は音楽堂のホワイエに入ったら、臨時チケットカウンターに何と山田・川瀬の両マエストロがいて、みずから×××××という前代未聞のサプライズ光景に出会った。両マエストロとも賑やかな人だから、お客さんたちを明るい気分に誘ってくれる。もっとも、2人ともマスクをしていたので、気がつかなかった人も多かったようだが。

 音楽堂が開館したのは2001年9月12日。あの9・11同時多発テロの翌日とあって感慨深い。当時の岩城宏之・OEK音楽監督が直ちに追悼演奏を行なったのは流石の判断━━と、案内役を務める池辺晉一郎が述懐していた。
 そして一方、その10年後、2011年3月には東日本大震災があり、仙台フィルもその嵐をくぐったのだった。その仙台フィルが、今日のゲスト・オーケストラである。

 開館20周年記念行事とあって、演奏前に谷本正憲・石川県知事から、特別功労賞が前田利祐氏(OEK名誉アドバイザー)と木村かをり氏(岩城宏之夫人、OEK顧問)に、また知事感謝状が県内音楽関係7団体に贈呈される、というセレモニーがあった。

 知事の話は原稿から逸脱してなかなか面白く、音楽堂が岩城宏之氏の膝詰め談判により建設の運びになったこと、岩城氏から「オルガンなど不要」と指示されたにもかかわらず内緒で強引に設置したため、岩城氏が見に来たらオルガンをカーテンで隠そうなどと話し合ったこと、音楽堂のすぐ隣を北陸新幹線が時速260kmで通過するようになったら振動や雑音でやばいのではないかという危惧が囁かれた時には「金沢に停まらない新幹線などあり得ないから」と収めたこと、などが語られた。
 知事がこのように音楽に強く肩入れしてくれるような都市は、幸せというべきであろう。

 さて本番は━━山田和樹指揮の2オケ合同演奏でバルトークの「弦と打楽器とチェレスタのための音楽」、川瀬賢太郎指揮OEKでプロコフィエフの「古典交響曲」と、渡辺俊幸の「利家とまつ」メイン・テーマ、山田指揮仙台フィルで池辺晉一郎の「独眼竜政宗」メイン・テーマと武満徹の「波の盆」、川瀬指揮の合同演奏でサン=サーンスの「第3交響曲《オルガン》」のフィナーレ、という順で演奏が行われた。アンコールは2人の指揮で、聴衆のハミング・コーラスを交えて「夕焼け小焼け」。
 コンサートマスターはOEKが松井直、仙台フィルが神谷未穂。他にピアノ・ソロに木村かをり、オルガン・ソロに黒瀬恵が出演した。

 1曲目の「弦チェレ」における「2群のオケ」では、OEKをステージ下手側に、仙台フィルを上手側に位置させるといった趣向で、合同演奏の特色を打ち出していた。
 なおOEKのティンパニには相変わらず元気な菅原淳がいて、特に「弦チェレ」では味のあるソロで大活躍していたのは嬉しい。

 終演は5時近く。出口では土産として、「たろう」の小さい箱入りの紅白饅頭が配られていた。池辺普一郎が「サン=サーンスはフランスの作曲家。フランス語で《食べる》はマンジュと言う」と解説、大受けとなった。
 5時56分発の「かがやき」で引き返す。

※山田和樹は、2023年4月、バーミンガム市響首席指揮者兼アーティスティックアドヴァイザーに就任とのこと。めでたい。

2021・9・11(土)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団定期

      サントリーホール  2時

 日本フィルのシーズン開幕定期は、この何年か恒例となっている正指揮者・山田和樹の指揮によるもの。
 今日のプログラムは、ショーソンの「交響曲変ロ長調」と、水野修孝の「交響曲第4番」という、珍しい組み合わせ。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 ショーソンの交響曲をナマで聴くのは久しぶりだが、今日は愉しめた。序奏部分では不思議なほどに、かつてのミュンシュ&ボストンの演奏の雰囲気を回想させられるものがあって、流石欧州で場数を踏んでいるヤマカズ殿、面白いセンスを持っているな、と感心させられる。もっとも、そのあとの日本フィルの演奏はあまり洗練されているとは言い難い音色なので━━別に悪口の意味で言っているわけではない━━曲のダイナミックな面白さだけが目立つ結果になったが。

 水野修孝の交響曲は、第3楽章中盤までのシリアスで渋い曲想と、それ以降のクロスオーバー・ジャンル的な作風とが、怪奇な対照を為す。
 第3楽章に入って間もなく、曲の雰囲気が妙に甘美なものになって来たなと思う裡に、みるみるラフマニノフかミュージカルか「三丁目の夕日」か、というような音楽になって行く。
 第4楽章はガーシュウィンかバーンスタインか、いやそれ等に似て非なる独自のクロスオーバー的な楽想による大暴れの坩堝だ。これが時刻を告げるような鐘の音をきっかけに落ち着きを取り戻して終結に向かうあたりは、「ツァラトゥストラはかく語りき」や「禿山の一夜」にも似た手法だが、決して物真似とは思えない。

 作曲者は1934年生まれ。この交響曲は2003年に完成されたというから意外だ。今日は作曲者も客席に姿を見せ、聴衆の拍手に「非常に控えめに」応えていた。

2021・9・10(金)P・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団定期

       東京芸術劇場 コンサートホール  7時30分

 初台の新国立劇場から、池袋の東京芸術劇場へ回る。
 N響が定期を再開、まずはC定期からスタートした。パーヴォ・ヤルヴィが指揮したが、彼の首席指揮者としての任期もいよいよ今シーズン限りと思えば、挑戦的なレパートリーと演奏とでN響に新風を吹き込んだパーヴォの時代が非常に貴重なものだったという感慨が、改めて湧いて来る。

 今日のプログラムは、バルトークの「中国の不思議な役人」組曲と、「管弦楽のための協奏曲」の計2曲。ステージ転換の時間を挟みながらも休憩は置かずの形で、ほぼ70分の長さの演奏会が構成されていた。
 コンサートマスターは篠崎史紀(プログラム冊子記載の英語表記ではFuminori Maro Shinozakiとなっているのが面白い)。

 演奏は、これこそまさにN響の全能力を象徴するかのように、すこぶる見事であった。すべてが壮麗な響きで満たされ、分厚い音の層が嵐のように躍動する。「中国の不思議な役人」でのクラリネットをはじめ、各楽器のソロも鮮やかだ。さすがパーヴォの十八番のレパートリーだけあって、曖昧さは些かもない。

 ただし、敢えて口を挟めばだが、「中国の不思議な役人」の今日の演奏には、もう少しこの作品が本来持つバーバリズム、あるいは原始主義的、野性的、凶暴で魔性を感じさせる刺々しさ、といった要素があってもよかったのではないか。
 演奏はもちろんエネルギッシュだったが、あまりにも壮麗すぎて、ストーリーのどろどろした不気味さが殆ど感じられないのである。これでは、晩年の名作「管弦楽のための協奏曲」との性格の対比は、あまり明確ではなくなってしまうように思われる。

2021・9・10(金)藤原歌劇団 ベッリーニ:「清教徒」3回公演の初日

       新国立劇場オペラパレス 2時

 松本重孝演出による新プロダクション。指揮は柴田真郁。

 ダブルキャストの今日は初日組で、佐藤美枝子(エルヴィーラ)、澤崎一了(アルトゥーロ)、伊藤貴之(ジョルジョ)、岡昭宏(リッカルド)、東原貞彦(ヴァルトン卿)、曽我雄一(ブルーノ)、古澤真紀子(エンリケッタ)。
 合唱は藤原歌劇団合唱部、新国立劇場合唱団、二期会合唱団━━となっており、つまり新国立劇場と二期会との共催の形を採っているわけである。オーケストラは東京フィル。

 美術(大沢佐智子)としてはそれなりの装置が揃っている舞台なのだが、演技という面ではほとんどセミステージ形式と言っていいほどに動きがなく、特に合唱団は何が起こっても「驚くでもなく、悲しむでもなく」といった調子の棒立ち姿。今どきこういう舞台がまだ行われているのか、と少々呆気にとられる。

 結局すべては音楽に任されるということになるが、こちらの方は柴田真郁が━━クライマックスへの「準備」とでもいうような抑制された個所で緊迫感が失われるのを別とすれば━━音楽の流れを巧く構築し、一方歌手陣では、澤崎一了が超高音の連発を鮮やかに決め、佐藤美枝子も力演、その他の人びとも手堅く歌唱を聴かせて、ベッリーニの音楽の魅力は保たれていた、という印象。

 合唱は全員がマスクをしており━━ひと頃注目された「歌えるマスク」ではなく、ふつうの不織布マスクだとのこと━━音色が少しくぐもったものになっていたが、それでもよくあれだけ歌えるものだ、と感心する。
 20分の休憩2回を含み、5時半終演。

2021・9・8(水)東京二期会 宮本亜門演出「魔笛」4回公演の初日

        東京文化会館大ホール  6時30分

 宮本亜門が演出しているモーツァルトの「魔笛」。

 仕事がうまく行かず自棄的になり、家族(妻、3人の男の子、老いた父親)に当たり散らして家庭崩壊を生じさせた主人公が、自らタミーノとなって「魔笛」なるゲームを体験することにより、勇気と家庭とを取り戻すという読み替え設定。プロジェクション・マッピングを活用したことでも話題を集めたプロダクションだ。共同制作のリンツ州立劇場でも大成功を収めた由である。

 日本では今回が3度目の上演。詳細は2015年7月19日と、2018年3月11日の項に書いた(クリックで参照可)。

 今回はダブルキャストで、今日の主な出演者は、金山京介(タミーノ)、嘉目真木子(パミーナ)、萩原潤(パパゲーノ)、妻屋秀和(ザラストロ)、安井陽子(夜の女王)、久保和範(弁者)、高橋淳(モノスタトス)、種谷典子(パパゲーナ)他の人びと。二期会合唱団、読売日本交響楽団。指揮は、当初予定されていたリオネル・ブランギエが来日不可能になったため、リトアニア出身のギエドレ・シュレキーテに変った。

 このシュレキーテという美人指揮者のテンポは、目覚ましく速く(速過ぎるところもあるが)、宮本亜門の演出の雰囲気とぴったり合い、実に快調にオペラを進行させて行く。少なくとも、日本プレミエの際の指揮者デニス・ラッセル・デイヴィスが採った、ゆっくりしたテンポよりは、遥かに舞台とのバランスを良く感じさせるだろう。

 映像が瞬時に変化して、瞬きする間に場面が変換されてしまうというこの手法は、いちいち幕を開け閉めして進行を中断させることがないので、実に便利だ。
 演技は大体前回、前々回と同じと思われるが、今回は序曲の間で繰り広げられる家庭争議の場面における音楽と芝居とが、きっかけもぴたりと合っているのに感心した。ただ、敢えて言えばだが、ラストシーンで、序曲と同じ「家庭の場面」にもどるところで━━本編との人物的関連がもう少し明確に描かれるようにできないものかな、とも思う(指揮者のテンポが速いから無理か?)。

 なお、この「3人の童子」を歌い演じた関根佳都・原田倫太郎・長峯佑典は、いずれもTOKYO FM少年合唱団のメンバーとのことだが、序曲での寸劇における3人の息子としての演技も含めて、実に上手くて可愛く、観客の大拍手も彼らに集中した。
 これは、高校生や中学生にも是非見せたいオペラだ。
 終演は9時半。

2021・9・8(水)東京ニューシティ管の楽団名変更記者会見

       YouTube視聴  2時

 東京ニューシティ管弦楽団が、2022年4月から楽団名を「パシフィック フィルハーモニア東京」とし、音楽監督に飯森範親が就任するという記者会見を東京芸術劇場で開き、YouTubeでライヴ配信した。その他の指揮者陣も一新させ、とりあえずはまず園田隆一郎を「指揮者」として迎える由。

 かなり長い記者会見だったが、飯森・新音楽監督の意欲は画面のこちらにも伝わって来た。彼は周知の通り、かつて地味な地方オケだった山形響を一躍「全国的に目立つオケ」へ鮮やかに変貌させた実績を持っている。今回も「マエストロ、それはムリですよ」(そのドキュメント本の題名)の再現となるか? 
 現在のニューシティ管の事務局長が、当時の山響の事務局長だったその同じ齋藤正志さんであるのも面白い。

 既に30年の歴史を持つオーケストラで、私はこれまで故あってあまり聴いたことがなかったのだが、これからは足を運んでみよう。

2021・9・5(日)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 秋のシーズンが開幕した━━ただしこれは定期公演ではなく、日本フィルの「芸劇シリーズ」の一環。
 正指揮者の山田和樹が久しぶりに帰って来て、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」と、ホルストの「惑星」を指揮した。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 協奏曲でのソリストはおなじみ清水和音で、力感はあるが無用に華美にならぬタイプのラフマニノフ像を聴かせてくれた。ソロ・ピアノを打ち消さぬようなオーケストラの音量と音色をつくり出した山田和樹の指揮も見事。

 「惑星」は、「鳴らす所は猛烈に鳴らす」演奏で、この曲のスペクタクル性は充分なものがあった。ただ、「火星」などでは、いわゆる地軸を揺るがすような恐怖の重量感といったものも欲しかったが、これは聴く席の位置によっても印象が異なるだろう(今日私が聴いた席は2階6列目中央あたり)。

 「神秘の神・海王星」での女声合唱は、定石通り舞台裏から。この音づくりはなかなか難しいだろう。もともとこれは、この世ならざる所から聞こえて来るような響きであるべきだから、舞台袖の奥から聞こえる「合唱」ということを意識させてしまっては失敗になる。今日の合唱(ハルモニア・アンサンブル、7人)は、遠近感はまあまあだったが、誰か1人、ヴィブラートの強い人がいて、それが浮き上がって響き、神秘性をやや失わせてしまったのが惜しまれた。

2021・9・3(金)セイジ・オザワ松本フェスティバル
デュトワ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ 配信用無観客演奏収録

               キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 3時

 今年のサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)は、日本人奏者が主力。来日参加した著名な外国人奏者は、フルートのセバスティアン・ジャコー(ゲヴァントハウス管第1首席)と、オーボエのフィリップ・トーンドゥル(フィラデルフィア管首席)。
 だが、見方によっては、これはある部分でSKOの原点に還った姿と言っていいのかもしれない。

 ホール内は無観客。昨日と同様、音楽祭関係スタッフ以外には、2階後方席に若干の数の取材陣がいるのみである。
 曲目は、演奏順にラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲、ドビュッシーの「海」、20分の休憩を挟んでドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」とストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲(1919年版)。コンサートマスターは、前半2曲がそれぞれ田中直子と矢部達哉、後半2曲が豊嶋泰嗣。

 デュトワは、すべて暗譜で指揮していた。最大で弦16型編成を採ったSKOも入魂の演奏だった。
 ただ、敢えて言えば初めのうち、昨日のリハーサルでの時よりも、演奏にやや硬さが感じられ、音にもしなやかさが充分ではなかったようだ。冒頭の「マ・メール・ロワ」など、アンサンブルはかっちりとまとまり、整然とした構築にはなっていたけれど、昨日私があれほど魅せられた音のふくよかさや自由さや、官能的な色彩感などが不思議に薄れていたのを感じさせた。本番での緊張か? しかしそれも、次第にほぐれて行ったのはもちろんのことである。

 「海」以降での演奏━━特に第2曲「波の戯れ」以降での緊迫感と、オーケストラの威力とは、流石に並外れたものがあった。「火の鳥」に至っては、ロシア音楽も得意とするデュトワの本領発揮の演奏で、終曲が豪壮雄大な昂揚の裡に結ばれた時には、思わず熱烈な拍手を贈りたくなったほどである。

 ともあれ、デュトワとSKOの組合せが成功していたことは疑いのないところだ。SKOがこんな色っぽい音を響かせたのを、私は30年この方、初めて聴いた。
 この演奏がナマで多くの人びとに聴いてもらう機会が失われたことは、まさに痛恨の一事としか言いようがない。東京で毎日のように行われているオーケストラの演奏会と同じように、可能な限りの感染予防策を施した上で開催したなら、少なくともクラスターなど発生することなく、多くの人がこの新しいSKOの音をナマで愉しみ、心の安らぎを得ることができたであろうに、と思う。

 無料ネット配信は予定通り7時から9時まで、ユニバーサルミュージック公式YouTubeチャンネルで行なわれた。私もホテルに戻ってそれを視たものの、映像はともかく、音の方は、貧弱なノートパソコンのスピーカーでは如何ともし難い。
 だが表示された受信者数は、最後の「火の鳥」の頃には最大で14,674人に昇っていたはずである。客席数2,000のホールが満席になったとしても、その7倍以上の人々がSKOの演奏に触れたことになる。ネット配信の意義は非常に大きい。
 次の無料配信は5日(日)の午後3時から行われるが、そのあと10月以降には有料によるアーカイヴ配信も計画されているとのことである。

 松本の街は人通りも少なく、重い曇り空の下で、心なしか打ち沈んでいるようにも見える。フェスティバルは中止になったが、あのお馴染みのブルーのフラッグは、人影まばらな街にも、まだ無数に飾られたままになっている。キッセイ文化ホールの入り口にも「2021」の大きなボードが飾られているが、あたりは森閑として人もなし。寂しい雰囲気だ。

※当ブログは、常に音楽界の前進と発展を願うことを趣旨としている「私の家」です。従って、それを否定するようなマイナス指向のコメントを「親しいお客様」としてご滞在いただこうという気にはなれません。

2021・9・2(木)セイジ・オザワ松本フェスティバル
シャルル・デュトワとサイトウ・キネン・オーケストラのリハーサル

      キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 午後0時30分~6時

 明日の無観客ネット配信演奏会(オーケストラコンサートBプロ)のためのリハーサル。プログラムは、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と交響詩「海」、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲。

 デュトワとサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)のこのリハーサルは、8月31日から始まっていた。今日は3日目である。その所為もあろうが、「海」のリハーサルの第1音からすでに「デュトワの音」がオーケストラに植え付けられている。それはいつものデュトワの、ブリリアントな音色を持った響きである。この30年来聴き続けて来たSKOが、これほど官能的な音を出したのを、私は初めて聴いた。

 デュトワの今回のリハーサルは、極めて念入りで細かい。「牧神の午後への前奏曲」と「マ・メール・ロワ」では、最弱音のバランスに気を配り、特に弦のニュアンスへ強いこだわりを示す。それによりつくり出されたSKOの最弱音の、まあ何というふっくらした豊麗な美しさか。もちろん「海」と「火の鳥」における豪壮な華麗さは、デュトワの得意技と、腕利きのSKO(今年は日本人演奏家が中心)の馬力の為せるところだ。

 デュトワは、来月には85歳の誕生日を迎えるはずだが、驚くほど若々しい。20分の休憩3回を挟んだのみの6時間のリハーサルを、終始元気いっぱいにこなす。特に今日最後に練習した「マ・メール・ロワ」では、指揮しながら絶えずあちこち動き回り、踊るような身振りを繰り返しては奏者たちに音楽のイメージを与えて行くという驚異的なエネルギーだ。またそのリハーサルのあとに、集まった取材陣からのインタヴュ―を30分間もこなすといった具合。そのサービス精神も立派なものである。

 セイジ・オザワ松本フェスティバルは、今年は周知のように全公演中止のやむなきに至ったが、音楽祭の灯を絶やすまいという関係者の努力で、デュトワの指揮するこの演奏を非公開で1回だけ実施、全世界向けに無料配信するということになっている。配信は、明日・3日の夜7時からと、5日の午後3時からである。

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