2024-04

2021年10月 の記事一覧




2021・10・31(日)ジネール:「シャルリー~茶色の朝」(日本初演)

       神奈川県立音楽堂  3時

 神奈川県立音楽堂はしばしば面白い趣向の公演を制作開催してコアな音楽ファンを喜ばせてくれるが、今回のこれもその一例と言えるだろう。
 今日はフランスの作曲家ブルーノ・ジネール(1960~)の舞台作品「シャルリー」日本初演の2日目の公演。これはフランク・パヴロフ(1940~)の文学作品「茶色の朝」をオペラ化したもの。

 「茶色のペットしか飼ってはならぬ」という法律が突然施行されたらどうするか━━というストーリーなのだが、これは「笑い話」ではなく、そのような柔らかい問題から始めて世論を操りながらジワリと全てを締めつけて行く全体主義政府が出現したらどうするか、という問題を投げかけるテーマなのだ。シャルリーという人物はこのオペラでは登場せず、その恋人的な女性が物語を紡いで行く。

 演出はクリスチャン・レッツ。5人編成の「アンサンブルK」(紗幕のうしろに配置)をバックに歌うアデール・カルリエ(S)のモノ・オペラともいうべきもので、セリフと歌で進められる。オーケストラ・パートはジャズ手法も含めたフリーなスタイルによるもので、耳当たりもいい。

 このオペラの上演を間に挟んで、第1部ではクルト・ヴァイルの小品が4曲、アルヴィン・シュルホフとパウル・デッサウ、それにジネールの小品が各1曲ずつ演奏された。演奏は同じアンサンブルKの面々で、楽器も弾けば歌も歌うという器用さ。「モリタート」(マック・ザ・ナイフ」などおなじみの曲も聴けたが、演奏そのものは、何となく締まりがないような感もあった。

 そして第3部は、来日できなかったジネールがオンライン出演してのアフタートークセッション。「シャルリー」の音楽についての話より、その政治性の方に重点が置かれてしまっていたのはある意味で残念だったが、それより、短い休憩が入ったのにもかかわらず、ほぼ満員のお客さんが殆ど退席せずに聴いていたという熱心さには驚いた。今日客席に集まっていたのは、こういう人たちだったのである。

2021・10・30(土)團伊玖磨:「夕鶴」 岡田利規の新演出

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 こんな「夕鶴」の舞台を待っていた‥‥初演から70年近くにもなるのに、いつまでも原典の囲炉裏や雪の世界でもあるまい、現代の世界に設定された舞台で、登場人物の性格にも新たな解釈が施された演出で上演されてもそれに対応できる性格を持っているオペラこそ、永い生命を備えた真の名作オペラなのだからだ━━と書くつもりで期待していた今回のプロダクションだったのだが、‥‥残念ながら出来は今ひとつか。

 なるほど、与ひょうは小さいながらも屋上に庭園のある家に住んで呑気な生活を送り(その割に服装は不思議に野暮ったい)、つうはピンと背筋を伸ばした意志の強い働き手の女性(家にいてもイヴニング・ドレス姿だが、水商売の暗示か?)という設定はそれなりに解る。
 そしてつうが千羽織を作る「機屋」は、実はキャバクラか何かのような店だったという設定で、男はそのようにして女に金を稼がせ貢がせていて、結局はつうが愛想をつかして飛び出して行く(「現世界」の壁を蹴破って荒々しく退場する)ということになるようで、これもこれで解る(今日はそう見えたのであって、この解釈が当たっているのかどうかは分からない)。

 それらのアイディアは非常に面白いと思うのだが、その割に与ひょうをはじめ男3人の演技が演劇性に乏しくて明解でなく、子どもたちの動きも時に所在無げな動作があって何だか解り難く、そのためドラマに納得性が生まれないのだ。せっかくの新解釈も空転しているような感なのである。

 つうが新しい織物(=金)を持って出て来る場面で、機屋の前に突然2人のドアマンが現れ、開かれたドアに「ユーヅル」というネオン看板が出現するくだりなどは一種の「ひねり」だろうが、そこへ行く芝居の流れもあまりスムースではない。思い付きを並べただけのような個所もあちこちに見られるし、もう少し整理したほうがいいんじゃないのか、という気もする。

 音楽的には、辻博之指揮のザ・オペラ・バンド(コンサートマスター・永峰高志)が頑張った。少し荒っぽいところもあるが、それがこの演出には合うだろう。
 小林沙織(つう)がほとんど独り芝居の感のある熱唱と熱演でこの初役を成功裡に飾った。いかに与ひょうの立場からこのオペラを新解釈しようという看板をあげたところで、所詮このオペラの主役はつうなのだ、と思わせた小林沙羅の今日の存在感であった。

 あとの3人、与儀巧(与ひょう)、寺田功治(運ず)、三戸大久(惣ど)は手堅い歌唱。子供たち(世田谷ジュニア合唱団)も、歌としてはまとまっていただろう。
 鶴を象徴するダンスは岡本優と工藤響子、鶴というよりはバニーガールか何かのような衣装で、前述のキャバクラのような店からつうとともに現れ、ともに去るという役割だ。

 意欲的な新機軸のこのプロダクションは、来年1月に愛知県の刈谷、2月に熊本で、いずれも鈴木優人の指揮で上演される由。

2021・10・29(金)鈴木優人指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 前半の2曲、アリベルト・ライマン(1936~)の「シューベルトのメヌエットによるメタモルフォーゼン」、トーマス・アデス(1971~)の「イン・セブン・デイズ」は、ともに日本初演の由。後半にはシューベルトの「第8交響曲《ザ・グレイト》」。
 鈴木優人らしい意欲満々のプログラムだが、彼が読響の「指揮者/クリエイティヴ・パートナー」というポストにいるからこそできる企画だろう。

 ライマンの作品は、弦5人、管5人の編成によるアンサンブルでの演奏で、素材はシューベルトの若き日の「メヌエットD600」とのこと(プログラム冊子、澤谷氏の解説)。だが、そのバッハのコラールを暗黒化したような雰囲気の曲は、まるでシューベルトの未完の、あのブルックナーの登場を予告する交響曲断片からのメタモルフォーゼン(変容)であるかのように聞こえた。

 またアデスの「イン・セブン・デイズ」は、例の「天地創造」の7日間のことで、大編成の管弦楽が目くるめくように多彩な絵巻物を展開する。その切れ目なく紡がれる長大な(30分以上かかる)音楽からはあの有名な物語を描写的に瞬時に聴き取ることは必ずしも容易いことではないが、西欧の現代作曲家が創世記の物語に抱くイメージの多様さには、実に興味深いものがあった。これもまた、「創世記のメタモルフォーゼン」なのか?

 なおこの曲にはソロ・ピアノが付き、それを弾いたジャン・チャクムルの腕の、まあ鮮やかなこと。もともとこの演奏会で弾くはずだったヴィキングル・オラフソンが来られなくなり、その代役として出演したのだから、大したものだとさえ言いたくなる。もう一つ、譜めくりをやっていた人も鮮やかな腕前だったことを付け加えたい。

 この曲のあとには、チャクムルと鈴木優人が連弾でブラームスの「ワルツOp.39」から4曲、これがまた飛び跳ねた演奏で、全く違う曲に聞こえたほどだったが、こういうところで演奏に参加するところがまた鈴木優人らしい。

 後半の「ザ・グレイト」は、今度は原曲総譜に基づく、鈴木優人によるメタモルフォーゼンであるかのような様相を呈した。この曲がこれほど攻撃的に演奏されたことは、おそらく例がないだろう。いや、ティンパニだけが戦闘的に、異様に吠え狂っていたと言ってもいいかもしれない。
 シューベルトが現代に生きていたらこのように書くかもしれぬ、などと理由は何とでも付けられようが、一昔前だったら袋叩きに遭いそうなこのようなタイプの演奏も、クルレンツィスやロトといった指揮者たちが暴れて(?)いる今日の世界の指揮界の潮流の中では、さほど異端的な演奏ではなくなっているだろう。
 とにかく、面白かった。ただ、こちらが疲れている時には、煩わしい演奏に聞こえるかもしれないが。

 コンサートマスターは林悠介。

2021・10・27(木)ラファウ・ブレハッチ・ピアノ・リサイタル

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 2003年浜松国際コンクール1位なしの2位、2005年ショパン国際コンクール優勝などのキャリアを持つポーランドのピアニスト、ラファウ・ブレハッチが来日を果たした。
 全国6回の同一プログラムによる公演で、東京は今日が2回目でありながら会場は満席である。それも女性客が非常に多い。

 そのプログラムの構成は、第1部にバッハの「パルティータ第2番」、ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第5番」および「創作主題による32の変奏曲」。第2部にフランクの「前奏曲、フーガと変奏曲Op.18」(ハロルド・バウアー編曲)及びショパンの「ピアノ・ソナタ第3番」。かように、第1部は3曲ともハ短調、第2部は2曲ともロ短調の作品、という組み合わせだ。

 しかもそれらの演奏の性格も含めて、第1部では端然としながらも瑞々しくしなやかなバッハ、次に整然なる構築の中に力動感を湛えたベートーヴェン、そして荒々しい本性を現したベートーヴェン━━と続く。その流れの、まあ見事なこと。
 第2部では、フランクの作品にしては珍しく甘美で官能的な曲想が静かなロ短調で結ばれたあとに、実に自然にロ短調のショパンのソナタに続くその快さ(但しブレハッチは拍手を享けながら一度袖に引っ込んだので、切れ目なく演奏されたわけではない)。演奏スタイルも含め、実に巧く作られたプログラムというべきだろう。

 ブレハッチのピアノは、どちらかと言えば几帳面で自然で、正面切ったスタイルの演奏なのだが、ショパンの「第3ソナタ」の第3楽章中間部における夢幻的な、こぼれるような詩情に富んだ美しさには、本当に心の溶けるような感覚に誘われた。それは手練手管を駆使した演奏からは伝わりえない、ショパンの音楽のストレートな美しさなのである。

 アンコールの1曲目はショパンの「ワルツOp.64-2」で、これは嬰ハ短調だった。都合でここまで聴いて失礼したが、ホール内はまだ沸き続けていた。

2021・10・23(土)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

      サントリーホール  2時

 桂冠指揮者兼芸術顧問のアレクサンドル・ラザレフが予定通り登場してくれた日本フィルハーモニー交響楽団の東京定期。
 客席のほとんどが埋まっているという状況は、土曜日マチネー公演ということもあるだろうが、それだけではあるまい。やはり、このコンビへの演奏の期待、人気といったものが高いからだろうと思われる。

 事実、この鬼将軍ラザレフに率いられた今日の日本フィルの演奏は、その充実感と昂揚感において、掛け値なしに日本のトップクラスに位置するものだったと言っても過言ではなかろう。
 毎回こんな演奏をするというのはどんなオーケストラでも無理だろうが、1シーズンに何回かでもこのような音楽を創ってくれるのなら、それだけでも国内屈指のオーケストラと呼ばれる資格があるだろう。

 プログラム最初のリムスキー=コルサコフの「金鶏」組曲が開始された瞬間、強力トランペット奏者オッタヴィアーノ・クリストーフォリの輝かしい鮮やかなソロを含めて、オーケストラ全体に満ちる、えもいわれぬ色彩感に引き込まれた。それはロシアの優れた指揮者だけが引き出せるロシア特有のカラフルな音色だが、日本フィルが今や易々とこういう音色が出せるようになっていることが嬉しい(ラザレフ着任の頃には、とてもこんな音は出せなかったのだから)。

 次の同じ作曲家の「ピアノ協奏曲」(ソリストは福間洸太朗)は、私の都合で聴けなかったのだが、申し訳ない。
 プログラム後半の、ショスタコーヴィチの「交響曲第10番」は、これまた豪快壮烈な快演で、どれほど咆哮しても音の明晰さを失わない響きは、実に見事なものだった。とりわけ全曲幕切れで、各楽器が連呼するショスタコーヴィチの名のモノグラムD-S-C-Hを明快に響かせた指揮者とオケの手腕には、舌を巻かされたのである。
 コンサートマスターは田野倉雅秋。

2021・10・21(木)ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

     石川県立音楽堂コンサートホール  7時

 これはOEKの定期で、芸術監督マルク・ミンコフスキが指揮するベートーヴェン交響曲ツィクルス。7月の3回の公演━━私が聴いたのは第2回(7月13日)と第3回(7月15日)だったが━━に続く第4回。「第4番」と「第7番」が演奏された。コンサートマスターはアビゲイル・ヤング。
 このシリーズは、東京や関西のマニアたちの間での人気も非常に高いようで、今回も顔見知りたちが大挙して(?)聴きに来ている。

 2曲とも、今更ながら実に新鮮な音楽に感じられ、演奏を聴く悦びに浸れるのは、やはりミンコフスキの指揮が備えている躍動的な活力のゆえだろう。少しも弛緩するところのない推進力、畳み込んで行く緊迫力、明確なアクセントによる明晰な音楽。
 それぞれの両端楽章でのひた押しに押すエネルギー感も素晴らしい。特に「7番」第1楽章展開部の【F】以降(201小節以降)で、管楽器群を中心に轟かせた激しい推進性には息を呑ませるものがあった。

 なお今回は、「7番」では両端楽章の提示部のリピートを行なっていたが、「4番」では第4楽章のみリピートを行ない、第1楽章では行わず、というわけで、この基準はあまりよく解らない。

 全体に第1ヴァイオリンに主導権を持たせたようなオーケストラのバランスで、コントラバス(3本)をはじめとする低音などがもう少し前面に出て来てもいいのではないかと思われたが、これはミンコフスキの音づくりなのだろう。
 ただ、それにしてはアンコールに「7番」の第2楽章を演奏した際、突然冒頭から低音域が力強くなり、音楽の重心が低くなったという、不思議な現象が聞かれたけれど。

 ところで今日のOEKだが、ホルンやフルートなど管楽器に不安定な個所が少なからず聞かれたのは惜しい。緊張のためということはあるのかもしれないが、こう数多く不安定個所があっては戸惑う。が、前述のアンコールでの演奏が、本編の時の演奏よりも格段にまとまっていたということは、「もう1回やればよくなる」という典型的なケースなのかもしれないが。

 東京から聴きに来ていた人の中には、21時01分の最終の「かがやき」で帰るとか、関西からの人の中には20時47分の最終「サンダーバード」で帰るとか言っていた人もいた。まさかのアンコール曲の演奏が始まったのは20時40分頃、終ったのが50分近くだったから、肝を冷やした人もいたかもしれない。ホールから金沢駅までが走れば30秒くらいの近さだから、その点では便利だ。

 私は今回は無理をせず、このブログの技術的な管理をしてもらっている金沢在住のある夫人と短い立ち話をしたあと、隣接するANAクラウンプラザに一泊して仕事をし、翌朝の「かがやき」で帰京するという段取り。なおツィクルス最終回の「第9」は、来年の3月5日になる。

2021・10・20(水)レオニダス・カヴァコス・ヴァイオリン・リサイタル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 池袋の東京芸術劇場から、新宿は初台のオペラシティへ移動。同じ行動を採る同業者も少なからず。こちらはレオニダス・カヴァコスがブラームスのソナタ3曲を弾く魅力的な演奏会だ。しかもピアノの協演が萩原麻未という意外な顔合わせで、それも興味の的というわけである。

 長身で野性的なヘア・スタイルのカヴァコスと、小柄(に見える)萩原麻未がステージに出て来ると、何だか昔よく見たような光景を思い出す━━そう、あのオーギュスタン・デュメイと、マリア・ジョアン・ピレシュ(ピリス)の懐かしいコンビの姿である。
 だがこちらのピレシュ、いや、我らのホープ萩原麻未は、ステージの出入りの際に、カヴァコスに対して、えらく遠慮深い様子を示している。カヴァコスの方も彼女に対して、何となく労りつつ歩く、という感じだ。

 実際の演奏は一転して、萩原麻未はこのブラームスの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」を、あたかも「ヴァイオリンのオブリガート付きピアノ・ソナタ」のような趣で弾いた。もともとピアノの名手だったブラームスの作品ゆえ、そういう要素が浮き彫りにされても全く不思議というわけではないが、それにしてもこれは、独立したピアノ・ソナタにも近いほどのスタイルの演奏ではなかったか。

 一方、カヴァコスは、いつもながらの濃い音色だったが、彼にしてはやや遠慮がちにヴァイオリンのパートを紡いでいたように感じられたほどだ。もっともカヴァコスは、前半の「1番」と「2番」を終って、休憩後の「3番」に入ると、流石に我慢できなくなったか、本領を発揮し始める。アンコールでの「F.A.Eソナタ」からの「スケルツォ」に入るや、これはもう、悪魔が髪振り乱して荒れ狂うような猛烈な演奏でピアノを圧倒した。
 聴衆は沸きに沸き、スタンディング・オヴェーションで応じた。カヴァコスのこういった演奏の変化は、作品の曲想に応じたものであるとも思えなかったが・・・・。

2021・10・20(水)大野和士指揮東京都交響楽団定期

       東京芸術劇場コンサートホール  2時

 音楽監督・大野和士の指揮で、当初はツェムリンスキーのオペラ「フィレンツェの悲劇」の演奏会形式上演が予定されていたが、主役歌手2人の来日が叶わなかったため、結局プログラムは、ツェムリンスキーの「メーテルリンクの詩による6つの歌」だけはそのままで、その前後をR・シュトラウスの「死と変容」および「ツァラトゥストラはかく語りき」で固める、というものに変更された。
 コンサートマスターは山本友重。

 だがやはり今日は、藤村実穂子をソリストに迎えてのツェムリンスキーの歌曲が、抜きん出て圧巻だったと言えよう。この曲は1910~1913年の作だが、今の感覚で聴くと極めて色彩的で官能的で、後期ロマン派の残照に輝く美しいオーケストレーションに感じられる。
 大野和士の指揮もよかったけれど、藤村実穂子の限りなく濃い情感、スケールの大きな歌唱、心を揺り動かすような深みのある表現が素晴らしく、さすが長年ドイツ・オーストリアの音楽界で活躍を続けるほどのひとだと舌を巻かせる。いや、かりに独墺生れの歌手と雖も、経験の浅い若い歌手には、これはとても及ばぬ境地ではなかろうかとさえ思う。
 とにかく、これを聴けただけでも、今日の演奏会を聴きに来た甲斐があったというものだ。

 一方、R・シュトラウスの交響詩は━━大野の音楽構築はすこぶる巧みだし、オーケストラもよく鳴っていて、特に「ツァラトゥストラ」の終結近くの追い込みなど目覚ましい迫力を示していたものの、管楽器群が少々荒っぽくて、肝心のところで興を殺がれるというケースがあったのは惜しい。最後のヴァイオリンと木管の和音なども、もう少し綺麗に響かせられなかったものか?
 「ツァラ」の「深夜の鐘」には、本物の鐘が持ち込まれ、瞬時ではあったが轟くような音を響かせていた。

 なお、ツェムリンスキーの歌曲では、オルガンの前に吊るされたディスプレイ板に字幕が出た(と言っても、私は迂闊にもこの字幕板に気づかず、眼が行かなかったのが悔やまれる)。「ツァラ」でもその字幕に各部分の標題が写されたが、それぞれたった10秒程度表示されただけですぐ消えてしまうのでは、この曲を初めて聴くお客さんには甚だ解り難く、不親切だろう。
 もう一つ、これはホールの問題だが、「ツァラ」の間じゅう、機械の回転音らしき音(オルガン系?)がえらく耳障りだったが、何だったのだろう? 調査をお願いしたい。

 追記:冒頭に、9月30日に永眠したすぎやまこういち氏を追悼し、彼の「ドラゴンクエストⅡ」からの「レクイエム」が大野和士の指揮で演奏された。

2021・10・19(火)内田光子ピアノ・リサイタル2021

    サントリーホール  7時

 急遽━━というほどでもないだろうが、私たちにとっては「思いがけなく」実現した内田光子のリサイタル。このサントリーホールでは今日と25日の2回、公演が行われる。

 今日は前半にモーツァルトの「ソナタ第15番ヘ長調K.533/494」、後半にベートーヴェンの「ディアベッリの主題による33の変奏曲Op.120」というプログラム。ホールはほぼ満席に近く、内田光子のリサイタルの際の客席に特有の、熱っぽい、華やかな雰囲気も蘇っていた。

 久しぶりに聴く内田光子の音楽。あたたかく息づき、語りかけるようなモーツァルトはいつもながらのものだが、以前より演奏が伸びやかに、いい意味で大らかになったような気もする。時にシューマンの音楽のようなモノローグ的な表情が見え隠れするのも面白い。 

 ベートーヴェンの変奏曲の方は、強弱の微細な変化が、この壮大な作品をすこぶるニュアンス豊かに描き出す。比較的ストレートなスタイルで、彼女もだんだん変わって来たのかな━━と思っていると、終り近くのアダージョーアンダンテ―ラルゴあたりに至るや、ついにいつもの個性的な沈潜が姿を見せた。結局、演奏時間はかなり長く、56分くらいになったろうか?

2021・10・17(日)ヘルベルト・ブロムシュテット指揮NHK交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 前半にレオニダス・カヴァコスをソリストに迎えてのブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」、後半にニールセンの「交響曲第5番」。コンサートマスターは白井圭。

 カヴァコスとブロムシュテットが協演するブラームスの協奏曲は、2017年11月11日のゲヴァントハウス管弦楽団の来日公演でも聴いたことがある。あの時はおそろしくテンポの遅い演奏だったので、今回もどうなることかと覚悟していたのだが、不思議にも今日は、ごく普通のテンポに戻っていた。となると、あの時のテンポ設定は、何を根拠にしていたのだろう? 
 ともあれ今日は、カヴァコス特有の剛直で強靭な意志に貫かれた、しかも翳りの濃い深みのあるソロと、これまた微塵も揺るぎのないブロムシュテットの指揮と、分厚いN響の響きとが絶妙な交錯をつくり出し、作品の良さを余すところなく表出させていた。

 だが、感銘深かったのはやはりブロムシュテットの指揮である。今年94歳の高齢ながら、椅子も使わずに全曲立ちっぱなしで指揮。その簡単な身振りの指揮が、壮烈な気魄でN響を制御している。
 特にニールセンの「5番」での、彼の指揮の凄さ。この曲はニールセンのシンフォニーの中では最も怪奇で悪魔的な性格を持つ作品だと私は思っているのだが、今日の演奏は、見事にその特質を再現していただろう。

 N響の演奏も、鋭さとか鮮烈さとかの点から言えば、以前パーヴォ・ヤルヴィが指揮した時の演奏(2016年2月13日)に一歩を譲るかもしれないが、音の不気味な暗さや陰翳の濃さという点では、今日のブロムシュテットとの演奏は際立っていたのではないか。
 ブロムシュテットは単独で2回、ステージに呼び返されて拍手に包まれていた。

2021・10・16(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 予定通りジョナサン・ノットが登場した10月定期。ベルクの「ヴァイオリン協奏曲《ある天使の思い出に》」(ソリストは神尾真由子)、ブルックナーの「交響曲第4番」(ノーヴァク版)。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 ノットのブルックナーは、私たちは既に何曲も聴く機会を得て来たけれども、演奏の特徴は、曲によってかなり異なったものを示しているだろう。だがいずれにせよそれらは、ロマン的で豊麗で神秘的なスタイルからは遠く、また宗教的云々というコンセプトからも遥かに遠い位置にある。音のエネルギーを最大限に生かした筋肉質のブルックナーであることは共通していると言えようか。
 今日もその演奏の力感は充分で、特にスケルツォの頂点での凄まじい推進力など、特筆すべきものがあった。

 ノットはかなり丁寧に、細部に神経を行き届かせて指揮していたように見えたが、東京響もアンサンブルの点では今一つ、もどかしいところがないでもない。
 この曲ではひときわ重要な役割を持つホルンのソロも、比較的安全にこなしてはいたが、しかしこれは━━できればこういう「慎重な」ソロでなく、森の奥から響いて来る角笛を連想させるような、伸びやかな吹き方のソロで聴いてみたいものだが、そういう演奏にはなかなか出会えないものである‥‥。16型の弦には厚みがあり、量感も出ていた。

 ベルクのコンチェルトでは、神尾真由子のいつもながらの濃厚な音色のソロが、この曲に情感の豊かさを与えていた。

2021・10・13(水)ペーター・レーゼル フェアウェル・リサイタル

       紀尾井ホール  7時

 今回が最後の来日となる(と言われている)ドイツの名匠ペーター・レーゼルの告別演奏会。
 但しこれが日本での最後のリサイタルというわけではなく、16日にも豊田市コンサートホールでベートーヴェンのソナタ4曲を弾くリサイタルが行われる由である(聴きに行きたいところだが、その日は無理だ)。

 今日のリサイタルのプログラムは、ハイドンの「ソナタ第52番変ホ長調」、ベートーヴェンの「ソナタ第32番ハ短調Op.111」、シューベルトの「ソナタ第21番変ロ長調」。
 これは彼が2007年4月29日、紀尾井ホール初めて行なったリサイタルと同一のプログラムの由で、私はその時には聴いていなかったのだが、素晴らしい演奏だったのだそうだ。

 爾来、彼はこの紀尾井ホールでベートーヴェンのソナタやコンチェルトのツィクルスを行ない、ファンを喜ばせて来たわけだが、その縁の深いホールで今回はフェアウェル・リサイタルを開催するというわけである。しかもプログラムは、3人の作曲家のいずれも最後のソナタで構成されるという凝りようだ(「最初のリサイタル」でのこの3曲の選曲意図は、おそらく純音楽的なものだっただろう)。

 私は軽い風邪気味で、必ずしも体調は良くなかった(熱はないし、例の検査も陰性である)のだが、聴いているうちに、そうした体調もいつの間にか霧消した。いい演奏を聴いていると体調も良くなる、といういつもの例である。
 これはあくまで私の感じ方だが、ハイドンのソナタは古典的な端整さというよりは心持ち自由な感興と温かさを持ち、ベートーヴェンのソナタでは堅固な構築の中にある種の寛ぎを感じさせる。そしてシューベルトのソナタでは豊かな情感と、転調に伴う音色と表情の鮮やかな変化が際立つ。

 こうして聴いてみると、レーゼルは、3人の作曲家の個性の違いを際立たせるというよりは、3人がある一つの特性━━いい言い方が見つからないが、たとえば「ヒューマニズム」といったものではないか━━で結びつき、一貫した音楽史の流れを作っていることを浮き彫りにしていたのではないかと思われる。

 アンコールでは、シューベルトの「即興曲Op.142-2」、ベートーヴェンの「バガテルOp.126―1」、そして最後にまたベートーヴェンの「ソナタ第10番」の第2楽章が演奏された。客席も総立ちでの拍手となったが、レーゼルのステージでの挙止は最後まで落ち着いたものだった。

2021・10・10(日)沖澤のどか指揮読売日本交響楽団

        東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 わが国若手指揮者グループの先頭集団の、おそらくはそのトップに立つ沖澤のどかが読響に客演。彼女はこれが読響デビューだという。強豪オケ相手に自信満々、堂々たるスケール感に溢れた音楽を創り出したのは流石だ。

 今日、彼女が指揮したのは、シベリウスの「フィンランディア」、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストはペーター・レーゼル)、最後にシベリウスの「交響曲第2番」。

 古来、女性指揮者の音楽はダイナミックで激しいものという例が多いが、沖澤のどかの指揮もその例に漏れず、特にシベリウスでは金管群を激烈壮大に咆哮させ、剛直で豪快で切れのいいサウンドを轟かせた。
 金管群の力感は物凄いが、読響のことゆえ音に濁りはなく、また弦楽器群(コンサートマスターは小森谷巧)も分厚く強大な響きを備えているため、アンサンブルのバランスは完璧だ。

 ただ、愛国の闘争の詩ともいうべき「フィンランディア」はともかくとしても、交響曲の方は表現が激し過ぎる傾向無きにしも非ず、か。フィンランド系の指揮者だったら、ここまではやらないだろう。小柄な体躯の日本人女性指揮者がこういう剛毅で攻撃的なシベリウス像を構築するということは興味深い。

 コンチェルトでの彼女の指揮も、揺るぎない。ソリストのペーター・レーゼルも、いかにもドイツのベテランらしく、何の衒いも、飾り気も、小細工もなく、正面から真摯にベートーヴェンを構築する。作品の素晴らしさが率直に再現されている。ソロ・アンコールは、ベートーヴェンの「ソナタ第10番」の第2楽章。
 なお彼は、今回が最後の来日になるとのことだ。寂しいが、13日のリサイタルでもう一度じっくり聴けそうだ。

2021・10・9(土)ホール・オペラ ヴェルディ:「ラ・トラヴィアータ」

       サントリーホール  5時

 サントリーホールの名物「ホール・オペラ」が復活。
 このシリーズ、かつての最盛期には実に数多くのオペラが大規模なセミ・ステージ形式で上演され、定期的イヴェントとして注目を集めていたものだった。今回、7日と今日との2回公演で制作されたこのプロダクションが、シリーズとしての復活を意味するのかどうかは承知していないが、とにかくホールに久しぶりの華やかな雰囲気をもたらしていたことは確かである。

 今回は、オペラの通称邦題の「椿姫」(これはもともと原作の小デュマの戯曲の題名「椿を持った女」に相当するものだ)ではなく、オペラの原題「LA TRAVIATA」を使用しているところに、その意気込みが感じられるだろう。
 田口道子が演出し、大沢佐智子が舞台美術を担当している。

 オーケストラは通常のようにステージ上に配置、その後方に高い仮設舞台を設け、これをP席と接続して演技空間としている。この2つの空間は開閉できる大きな壁により仕切られ、夜会場面ではP席も使用し、それ以外の主人公たちのドラマは手前の仮設舞台で展開される、という趣向だ。演技の面では、基本的にはセミ・ステージ形式上演である。但し夜会場面では華やかな照明(西田敏郎)も活用される。

 演奏は、ニコラ・ルイゾッティ指揮の東京交響楽団にサントリーホール オペラ・アカデミー&新国立劇場合唱団。
 歌手陣はズザンナ・マルコヴァ(ヴィオレッタ)、フランチェスコ・デムーロ(アルフレード・ジェルモン)、アルトゥール・ルチンスキー(父親ジョルジョ・ジェルモン)、林眞暎(フローラ)、五島真澄(医師グランヴィル)ほか。夜会場面には東京バレエ団も出ていた。

 主役歌手3人はいずれも手堅い出来だったが、マルコヴァとデムーロが本調子になったのは第2幕以降であろう。
 チェコ出身のマルコヴァは近年活躍の場を拡げていると聞くが、第3幕では入魂の歌唱と演技を披露した。デムーロはすでに何度かこのサントリーホールで聴いているテノールだが、声は相変わらず若々しい。ルチンスキーは4年前の新国立劇場でのエンリーコ役でのド迫力が記憶にも新しいが、今回もビンビン来る声で父親の迫力を出していた。

 そしてニコラ・ルイゾッティは、今回も小気味よいテンポと強烈なデュナミークで、東京響を率いて起伏感満載の「ラ・トラヴィアータ」を指揮してくれた。二つの前奏曲や、第3幕のエンディングのような劇的な昂揚部分では、コンサートホールならではの良く響くアコースティックが生きる。

2021・10・8(金)崎川晶子チェンバロ・リサイタル

       東京オペラシティ近江楽堂  7時

 コロナ禍のためこれまで2度延期されていたリサイタルが、やっと実現された。先頃フランスでレコーディングしたクープラン一族の作品集のCD(ALM RECORDS)に関連するともいうべきリサイタルである。

 今日はルイ・クープラン、フランソワ・クープランのクラヴサン曲を中心に、ミシェル・ランベール、リュリ、ラモー、それにパーセルの作品も加え、ゲストにメゾ・ソプラノの波多野睦美を招いて歌曲やオペラからの歌を交えるというプログラムだった。
 コンサート・タイトルは「フランス宮廷の華」。楽器は、アンソニー・サイデイの1996年製作(1636年アンドレアス・リュッカース製作/1763年アンリ・エムッシュ拡張楽器がモデル)の由。

 近江楽堂は収容人員数十名の会場だが、チェンバロのリサイタルのためのホールとしては、これほど適した場所も稀であろう。アコースティックも良く、インティメートな雰囲気にあふれている。
 聴く席の場所により音のイメージはかなり異なって来ると思われるが、私が今日坐った真ん中の最後列(背後は壁)からの印象では、楽器は予想よりもかなり柔らかく、丸みを帯びた音で聞こえていた。明快清澄というよりも、落ち着いた、やや渋めに近い音色である。楽器の位置によっても、響きは相当変わって来るだろう。

 それにしても、曲も演奏も、譬えようもない美しさで、崎川晶子の演奏も温かい。また波多野睦美の歌唱も流石に練達のベテラン、ホールを巧く響かせるような声の出し方で、リュリの「町人貴族」やラモーの「イポリートとアリシー」からの歌を豊麗に、温かく聴かせてくれていた。

2021・10・7(木)アジア オーケストラ ウィーク セントラル愛知響

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 このシリーズ最終日。指揮は、常任指揮者の角田鋼亮。
 プログラムは、山田耕筰の「序曲ニ長調」、貴志康一の「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは辻彩奈)、ペルトの「東洋と西洋」、ドビュッシーの「海」。
 オーケストラのアンコールはホルストの「日本組曲」から第5曲「桜の下での踊り」及び第6曲「狼たちの踊り」。辻彩奈のソロ・アンコールは、彼女が必ずと言っていいほど弾く権代敦彦の「Post Festum」からの1曲。

 セントラル愛知響は、今回の4つの参加オーケストラの中では一番新しい。その歴史は1983年創立のナゴヤシティ管を発端とする。現名称となったのは1997年である。
 それだけに今日は気合も入っていたろうし、プログラムも筋が通っているように思えた。マエストロ角田はプレトークで、今回はテーマ性を持って選曲したと語っていたが、なるほどドビュッシーの「海」も、初版楽譜の表紙に刷られた葛飾北斎の絵との関連を思えば、充分な一貫性があると納得できる。

 前半の2曲━━日本作曲界の先達2人の作品は、今回、よく取り上げてくれたものだと思う。山田耕筰の序曲は、1912年のベルリン留学中の作品で、メンデルスゾーン風の曲想が当時の彼の勉学の姿勢を覗わせるだろう。
 貴志康一のコンチェルトは1930年代半ばのもの、演奏時間も45分ほどの長大な曲で、泰西の音楽形式の中に日本的な精神をいかにうまく融合できるかを懸命に模索した跡が覗われて興味深い。この曲を、辻は暗譜で鮮やかに弾いてのけ、聴衆を沸かせた。

 このコンチェルトが生み出した重量感ゆえに、次のペルトの作品の存在感が少々薄らいでしまった雰囲気もなくはなかったが、「波の戯れ」あたりから演奏の密度を上げて行った「海」も含めて、最終日を飾るに相応しい力の入った演奏会だったということは間違いなかろう。
 今日のコンサートマスターは寺田史人。

2021・10・6(水)原田慶太楼指揮東京ニューシティ管弦楽団

       東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 「アジアオーケストラウィーク」の第3日は三ツ橋敬子指揮の東京フィルだが、私の方は失礼して、原田慶太楼が客演する東京ニューシティ管の定期を聴きに行く。来年春からは名称を「パシフィックフィルハーモニア東京」と変え、指揮者陣も一新して新しいスタートを切ることになっているこのオケの最新の演奏を聴いてみたい、と思ったからである。

 プログラムは、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」、グラズノフの「アルト・サクソフォーンと弦楽オーケストラのための協奏曲op.109」(ソリストは上野耕平)、チャイコフスキーの「第4交響曲」━━という、原田が得意とするロシアのレパートリー。

 とはいえ、期待が大きかっただけに、聴後の印象は、どうも芳しいとは言い難い。原田慶太楼はいつものように元気一杯、オーケストラを思い切り開放的に鳴らしまくって愉しんでいたようだが、東京ニューシティ管の方は、何となく無理して絶叫怒号していたように感じられたのだ。金管群の耳を劈く大音量(それはそれで決して悪いものではないが)に対し、木管群あるいは12型の弦楽器群の音量と音色がそれに釣り合わず、甚だバランスの悪い響きを生んでしまっていたのである。
 「スペイン奇想曲」の終結では、放縦なほどの咆哮のため音の濁りが生じていたし、チャイコフスキーの「4番」の第1楽章終結や第4楽章などでも、ほとんど騒乱の坩堝としか言いようのない響きに陥ってしまっていた。

 オーケストラを力強く大きな音で響かせるという方針自体は決して間違ってはいないが、それはあくまでも「豊かでたっぷりした音」であるべきであり、バランスを崩したり音を濁らせたりしてまでガンガン鳴らすのがいいわけではないのだ。このあたりは、若い気鋭の原田にもよく考えてもらいたいところであって、一夜契りの客演オケだから大いに遊んでみようじゃないか、などという楽しみ心で指揮されては困るのである。

 しかも今日は、オーケストラの各パートにも、しばしば不安定なものが聞かれた。こういう演奏に接すると、このオケには今なお未整備の部分があり、よいトレーナーがじっくりとまとめて行くといった過程も未だ必要なのではないかと思われる。
 ある人の話では、先頃、飯森範親(現ミュージック・アドヴァイザー、来年から音楽監督)の指揮で演奏した「春の祭典」は、非常に素晴らしいものだったというから、その気になれば大きな可能性を持つオケなのであろう。今後も注意深く見守りたい。
 今日のコンサートマスターは執行恒宏。

2021・10・5(火)アジア オーケストラ ウィーク 読売日本交響楽団

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 2日目は、「首都圏オケの雄」読売日本交響楽団のステージ。
 藤岡幸夫が客演指揮して、イサン・ユンの「BARA」、陳鋼&何占豪の「ヴァイオリン協奏曲《梁山伯と祝英台》」(ソリストは成田達輝)、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」というプログラムを演奏した。今日のコンサートマスターは林悠介。

 今日のアジアの2作品、前者が1960年、後者が1959年の作曲というから、その対照的な作風が興味深い。前者はイサン・ユンがまだ韓国に本拠を置いて活動していた時期の作品で、当時のオーセンティックな(?)現代音楽とも言えるものだが、今日聴いてもすこぶる新鮮に感じられる。藤岡と読響は、かなり「率直」に演奏したようだったが、音のぶつかり合いが面白く、私には結構楽しめた。

 これに対し後者は、もろに「中国風」なのが微苦笑を呼ぶが、こういう中国民謡調の「純音楽」は、最近の風潮としては、あまり取り上げられないのでは? 今日は成田が二胡調の、それもかなり強調したポルタメントを全開して華麗極まるソロを展開、かたや藤岡と読響も猛烈に派手な協奏を付して、実に賑やかな演奏を繰り広げた。

 従ってこの「梁山伯と祝英台」の客受けはすこぶる良かったが、しかしこれはちょっと過剰な華やかさではないのか? 何しろこの曲の原点は、悲恋の物語なのである。私がこの曲を初めて聴いたのは、1962年頃だったか、「FM東海」(FM東京の前身、東海大学FM放送局)から流れていた中国系の演奏者によるレコードを偶然耳にした時のことだったが、当時のその「正調」ともいうべき演奏は、もっとしんみりとして哀感に満ち、如何にも愛の物語を連想させる甘美な表現だったという気がする━━。

 なお、成田はソロ・アンコールとして、加藤昌則の「木こりの詩」という無伴奏ヴァイオリンの曲を演奏したが、これはかなりシャープなもので、興味深かった。

 最前の中国的民族色に富んだ作品のあとでは、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」も、何かある種の特別な意味を付されたような存在に感じられて来る。その点、今日のプログラム構成は、なかなか凝ったものと言えるかもしれない。
 その「新世界」だが、ここでは藤岡も読響も、モルト・アパッショナート━━いや、モルト・アジタートと言ってもいいほどの演奏で、この聴き慣れた名曲を豪壮かつ激烈に飾っていた。なお、今日の読響のホルンは、痛快なほど上手い。

2021・10・4(月)アジア オーケストラ ウィーク 大阪フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 かつては中国、韓国、モンゴル、東南アジア諸国などのオーケストラが毎年、綺羅星の如く顔を揃えていた「アジア オーケストラ ウィーク」だが、時世の変化とともに規模も縮小されて来たのは惜しいことだ。

 それでも今年は何とか開催されたのは、祝着というべきか。ただし登場するのは大阪フィル、読響、東京フィル、セントラル愛知響の4団体のみで、しかも全て日本のオケばかりなのだが、その代わりプログラムにアジアの作品を入れるという策が捻り出されている。企画担当者のこのアイディアは評価されてよかろう。

 今日はその初日。大阪フィルが秋山和慶を指揮者として登場した。プログラムは、前半にヴェトナムの作曲家グエン・メイツィ・リンの「穏やかな風」、細川俊夫の「月夜の蓮~モーツァルトへのオマージュ」。後半にはやはり客寄せのため(?)に泰西の名曲をというわけで、ベートーヴェンの「第5交響曲《運命》」。アンコールもベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲。コンサートマスターは須山暢大。

 「穏やかな風」は、2010年代に発表された曲(プログラム冊子掲載解説による)とのことだが、同じモティーフの繰り返しによる癒しの音楽、といった小品で、快くはあるが、少々退屈な曲でもある。

 その点、細川の「月夜の蓮」は成熟した作品だ。この曲は2006年12月の小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団と児玉桃のピアノ・ソロによる日本初演を聴いて、その神秘的な美しさに感動した一方、胎動する不穏なざわめき、不気味な深淵のような世界に慄然とした覚えがある。
 今日のソリストも同じ児玉桃だったが、指揮者が違うと作品のイメージも変わってしまうようで、この曲に含まれている荒々しい曲想の方が前面に出て来る様相を呈していた。これを聴いて、静謐な月夜のイメージや、蓮が永遠を目指して花開いて行くといったイメージを共感できた聴き手は、どのくらいいるだろうか? 終り近く、ピアノに遠く現れるモーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番」の第2楽章の一節が、妙に懐かしく聞こえた。

 (注)前述の水戸での演奏のライヴ録音が、今年春になって突然ECM(ユニバーサル)からCDで出た(UCCE-2094)。これはお奨めできる。

 前出の2曲を含め、練習時間がどのくらいあったのかは知らないけれども、特に「運命」では、演奏の勢いはともかく、あのフェスティバルホールでの定期で聴く大フィルとは全く違ったオケのように粗っぽくなっていて、各楽器のソロも雑で、落胆した。私が大阪で何度も絶賛したあの「関西オケの雄」大フィルの姿は、ここには無かった。
 アンコールでの序曲の方が、まだまとまりは良かったか。

2021・10・3(日)新国立劇場「チェネレントラ」(2日目公演)

      新国立劇場オペラパレス  2時

 ロッシーニのオペラ「ラ・チェネレントラ」が、粟國淳の新演出で上演。今回は6回公演で、そのうちの2日目を聴く。

 指揮は城谷正博。配役は、アンジェリーナ(=灰かぶり娘チェネレントラ)を脇園彩、姉娘クロリンダを高橋薫子、同ティーズベを齊藤純子、父親ドン・マニフィコをアレッサンドロ・コルベッリ、王子ドン・ラミーロをルネ・バルベラ、従者ダンディーニを上江隼人、王子の傳育係アリドーロをガブリエーレ・サゴーナ。東京フィルハーモニー交響楽団と新国立劇場合唱団。

 城谷正博は先日の新国立劇場の「ヴァルキューレ」最終公演で卓越した指揮を聴かせた由だが、日頃の積み重ねのたまものであろう。今回の「ラ・チェネレントラ」では、テンポの遅い部分やパウゼ(休止)を挟む個所で音楽の緊張感が薄くなったり途切れたりするという問題を除けば、手堅い演奏を聴かせていた。

 歌手陣が安定していたのがいい。何よりアンジェリーナ役の脇園彩が本領を発揮、声も伸びが良く絶好調、演技の表情も微細で、題名役に相応しい存在感を示してくれた。
 バルベラはあまり王子という雰囲気の人ではないけれども、輝かしい高音を鮮やかに聴かせ、観客の熱烈な拍手を浴びる。
 父親マニフィコを歌ったベテランのコルベッリは、以前にも彼がこの役を歌ったのをミュンヘンやMETで数回観たことがあったが、まさに当たり役だ。ただ今回の舞台では、特に強欲な悪役といった表現ではなく、演技も他の登場人物と同じく、あまりアクの強いものではなかったが、それは演出の問題であろう。

 演技の点でむしろ目立ったのは高橋薫子と齊藤純子で、どぎついメークで意地悪姉妹役を見事に演じていた。上江隼人は中盤以降に調子を上げたようだ。
 傑作だったのは、根本卓也の雄弁なチェンバロ。各場面の橋渡しをする個所で「セビリャの理髪師」や「ウィリアム・テル」序曲のみならずバッハの「ゴルトベルク変奏曲」やベートーヴェンの「テンペスト」などからの引用も取り混ぜ、聴き手をクスリとさせてくれた。

 粟國淳の新演出は、映画プロデューサーのアリドーロが役者を集め、「ラ・チェネレントラ」という映画を製作する、という設定のようである。従って、舞台は撮影所のスタジオであり、華やかなコーラス・ラインを登場させたり、他の映画の撮影現場を背景に見せたりして、アレッサンドロ・チャンマルーギの舞台美術・衣装ともども、かなり凝った趣向にしている。
 そもそもラミーロ自身が「プロデューサーの息子」だそうだから、スカウトされたアンジェリーナがめでたく念願通りの新人スターになるという流れも、自明の理だろう。そのアンジェリーナ(脇園彩)の演技が、普通の上演に見られるような控えめで天使のような娘でなく、売り込み熱心で積極的な性格の表現になっているのも、辻褄が合う。

 これは、ドラマ自体を読み替えたものと言うより、最初から架空のストーリーの映画を製作するという設定になっているのである。それは、序曲が演奏される中で、芝居として説明される。、
 舞台には撮影クルーものべつ張り付いていたが、それはバイロイトのカストルフ演出のような騒々しい役回りにはさせていないので、さほど目障りではない。

 演劇の手法によくあるような、面白い演出ではある。ただ、この映画撮影という行為が、例えば最後に、演技をする人物関係にどんでん返しを生ましめる、といったような大きな役割は持たされていないので、何となくただの趣向のままで終ったような印象を生んだのは、少々物足りなかった、と思わないではないのだが。

 5時20分頃終演。
 新型コロナ蔓延に基づく緊急事態宣言が解除されて、街には突然活気が戻って来たという感。あちこちの人出が凄い。新国立劇場のホワイエも、つい先頃までの何となく閑散とした光景が今日は一転して、往時の賑やかな雰囲気が復活しつつある、という様相だ。もちろん入場時の検温と手指消毒、マスクの奨励などは引き続き行われている。

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