2024-04

2021年12月 の記事一覧




2021・12・29(水)神奈川県民ホール 年末年越しスペシャル
~ファンタスティック・ガラコンサート~

      神奈川県民ホール 大ホール  3時

 今年は「第9」を意図的にパスして、こういうお祭り的な年末演奏会を覗いてみることにしていた。たとえばこの県民ホールの行事だが、私はこれまであまり足を運んだことがなかったけれども、これは年末恒例のコンサートである。

 今年は三ツ橋敬子指揮の神奈川フィルハーモニー管弦楽団と宮本益光(司会、Br)を核に、声楽陣は高橋維(S)、伊藤晴(S)、村上公太(T)、バレエに上野水香、厚地康雄、ブラウリオ・アルバレス。ソリストに神奈川フィルの石田㤗尚(vn)と門脇大樹(vc)、ピアノに中島剛━━という顔ぶれ。

 曲目には、チャイコフスキーの「眠れる森の美女」、プッチーニの「ラ・ボエーム」と「交響的奇想曲」、マスネの「エロディアード」、マイアベーアの「ディノーラ」、R・シュトラウスの「交響的幻想曲《イタリア》」第4楽章、その他ロータ、グノー、ヘンデル、ビゼーなどの作品も並んで、終演は6時10分前となった。

 宮本益光の程よいユーモアに満ちた明るい司会と、オケの演奏あり、歌あり、バレエありのプログラムに、満席の聴衆も楽しい年末を過ごしたと思われる。
 主催者が語ってくれたところでは、このコンサートを聴いてから、近くの有名な横浜中華街に足を運んで食事を楽しむグループも多いとか。いい話だ。

2021・12・28(火)ゲルハルト・オピッツのベートーヴェン
~ピアノ協奏曲全6曲演奏会 第2夜~

       紀尾井ホール  7時

 第2夜は「第4番」、「ヴァイオリン協奏曲からの編曲版」「第5番《皇帝》」という配列。協演はもちろん昨夜と同じユベール・スダーンと愛知室内オーケストラ。コンサートマスターは前日と同じく石上真由子(客員)が務めている。

 最初の2曲を、休憩を置かずに演奏し、そのあとにわずか10~15分程度の休憩を入れただけで「皇帝」を演奏する。どれもこれも大曲だし、しかも曲を追うごとにスケールの大きさを増すという性格を備えている3曲だ。
 オピッツはじめ演奏者たちのタフネスぶりには敬意を払うものの、その強引ともいえる進行の影響が「皇帝」の演奏の、例えば第1楽章などには感じられなかったろうか? 聴いているこちらも、何となく感覚の整理が追い付かなかったような気もして━━いやこれは私だけかもしれないが━━こういうやり方には、私は些か賛同しかねる。

 最初の2曲における演奏は、異論を差しはさむ余地のないほど立派だった。「4番」での滋味あふれる演奏はもちろん見事だったが、認識を新たにさせられたのはやはり、「ヴァイオリン協奏曲」からの編曲版による「ピアノ協奏曲ニ長調」であった。私はどうもこの編曲が、ベートーヴェンにしては便宜的で、薄い感じがして好きではなかったのだが、今回のオピッツのように、譜面にはない和声感を感覚的に呼び起こさせるような演奏を聴くと、なるほどこういう響かせ方もあるのだなと納得させられてしまう。
 それに加え、スダーンが愛知室内オケから引き出す、荒々しいばかりの(荒っぽいという意味ではない!)豪壮さが、この曲に、稀有なほどの迫真力を与えていたのだ。

 しかし、最後の「皇帝」の堂々たる威容を再現するためには、そしてオピッツの演奏スタイルに合わせるには、第1ヴァイオリン8、第2ヴァイオリン6という編成は、量感的に少々弱いのではないか。
 スダーンの指揮のもと、オケもよく頑張ったのは事実だけれども。またオピッツの演奏も、さすがにここまで来ると、この「皇帝」の、それまでの協奏曲群からかけ離れて巨大となったこの曲の性格を━━ベートーヴェンのピアノ協奏曲の最後の頂点としての巨人的な性格を描き出すまでには至らず、単にその前の2曲からの延長線上にある作品というイメージに留まってしまっていたような気がするのである。ただ第3楽章では比較的速いテンポが採られていたため、音楽に勢いはあった。

 だがまあ、問題点はあったとはいえ、やはりこのツィクルス、ゲルハルト・オピッツが日本で聴かせたベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏の集大成として、大きな意義を持つものであったことは、間違いない事実であった。

2021・12・27(月)ゲルハルト・オピッツのベートーヴェン
~ピアノ協奏曲全6(!)曲演奏会 第1夜

      紀尾井ホール  7時

 「ヴァイオリン協奏曲」からの編曲版を含むベートーヴェンのピアノ協奏曲全6曲を2回に分けて演奏するパワフルな企画。
 ユベール・スダーン指揮愛知室内オーケストラが協演して、今日は「第2番」「第1番」「第3番」という順序で演奏された。

 オピッツのベートーヴェンは、時に面白みに不足するという印象を与えることがあるけれども、あの飾り気のない実直な、ベートーヴェンの音楽にひたすらまっすぐに向き合う剛直な演奏は、やはり独特の味がある。
 所謂「良き時代のドイツのヒューマニズム」なる言葉は、現代から見ればその実体はかなり曖昧なものであることは承知しているものの、オピッツの演奏を聴いていると、それが何となく具体的なイメージと化して立ち現れて来るから不思議だ。良い意味で、最も心やすらかに聴けるベートーヴェン、というところだろう。

 今日のプログラム、これほどの大曲を3曲弾くのはかなり大変なことだと思うし(明日はもっと凄い)、彼も人間、「第3番」あたりになるとさすがにちょっと演奏が荒っぽくなっていたのは仕方がないというか、微笑ましいというか。だがその「3番」でも、「ラルゴ」の第2楽章は絶品だったし、とりわけ「第1番」は、今日の3曲の中では最も充実した演奏だったという気がする。

 愛知室内オーケストラも見事な演奏を聴かせてくれた。
 今回は指揮者にユベール・スダーン(当初の予定ではクリストフ・ケーニヒ)を迎えたことが、あらゆる意味で最大の成功要因だったと思われる。スダーン特有のあの鋭いアクセントによる厳しい構築と明晰な響きは、ベートーヴェンのコンチェルトのオーケストラ・パートをがっしりと構築し、オピッツの音楽を力強く支えていたのだった。
 最後の「3番」では、オーケストラも多少演奏が荒くなってはいたのは事実だが、その一方で、この曲のデモーニッシュな部分を適切に表出していただろう。

2021・12・25(土)川瀬賢太郎指揮神奈川フィル特別演奏会
~オーケストラと歌で綴るヴィクトル・ユゴーの劇世界~

     カルッツかわさき  5時

 ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」を、セリフと音楽で━━それも同名ミュージカルからの音楽だけでなく、他のミュージカルやオペラの音楽をも併用して描き出すという企画で、それも田尾下哲の構成、ということへの興味に惹かれて聴きに行ってみた。

 音楽部分は「ラ・マルセイエーズ」で開始され、ミュージカルから「レ・ミゼラブル」「ジキル&ハイド」「グレイテスト・ショーマン」「ライオンキング」「ラ・マンチャの男」、オペラから「アンドレア・シェニエ」、「ファウスト」(グノー)、「ルサルカ」、「蝶々夫人」からの音楽が使用され、最後はロイド・ウェッバーの「レクイエム」の「ピエ・イエス」で閉じられる。編曲(ミュージカル・ナンバー)は大橋晃一。
 出演は川瀬賢太郎指揮の神奈川フィル(コンサートマスターは崎谷直人)、洗足学園音楽大学ミュージカルコース(合唱)、大山大輔(ジャン・バルジャン)、青木エマ(コゼット)、坂下忠弘(マリウス)、高野百合絵(エボニーヌ)という顔ぶれ。

 ジャン・バルジャンの回想(語り)を中心に進められて行くストーリーは、かなりコンパクトに━━冷酷無情なジャベール警部も登場しない━━まとめられていて、「みじめな人々」を生み出す社会への不条理を告発するドラマというよりも、ジャンの個人的な悲劇の物語といった印象のものに留まってはいるが、それはまあ仕方がない。
 使用されている音楽の選曲は、これもストーリーの本題からは些か離れ、単なる挿入歌と感じさせるところも少なくはないが、それも仕方あるまい。

 そういう理屈っぽい話を持ち出しては、このクリスマスの夜のロマンをぶち壊すことになるだろう。割り切って聴けば、これはそれなりに愉しい構成・選曲だったし、川瀬の情熱的な指揮(幕切れの合唱部分など)と、オーケストラおよび歌い手さんたちの演奏がよかった。
 何より、久しぶりでミュージカルの音楽を「ちゃんとした演奏で」聴けた感がして、私にはこれが何よりも有難かった。どれもよく出来た曲だなと感じ入りながら聴かせてもらった次第である。
 休憩なし、80分ほどの構成。

2021・12・24(金)サントリーホール クリスマスコンサート
~バッハ・コレギウム・ジャパン「聖夜のメサイア」~

     サントリーホール  6時

 鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)のサントリーホールにおける「クリスマスのメサイア」は、今回が第21回になる由。私もそのうちの2回ほど聴いた記憶がある。またその他にも、軽井沢の大賀ホールで一度聴いたことがある。

 だが今回は、それらのいずれにも増して、その演奏の美しさに魅了された。とりわけ、若松夏美をコンサートマスターとするオーケストラ(19人)の、特に弦の柔らかくあたたかい音色と表情の多彩さ。速いテンポの弱音で音楽が移り変わって行く時の、その快い潮騒のような玲瓏たる響き。
 そして、コーラス(20人)の、清澄で透明で高貴な音色。いくつかの個所では、その響きは、あのスウェーデンの有名な合唱団のそれと比べても遜色はないと思われるほどの高みに達していた。
 鈴木雅明の指揮も、長い全曲を少しの弛みもなく、大河の如き流れを以って構築していた。これもまた(私の主観だが)以前よりも強く印象づけられた特徴だ。

 かように、今回のヘンデルの「メサイア」(1753年版)は、鈴木雅明とBCJの音楽が、ここまでの高みに達していたのだ、と感嘆させられる演奏だったのである。
 今回のソリスト陣は、森麻季(S)、湯川亜也子(A)、西村悟(T)、大西宇宙(Br)。二転三転した結果の顔ぶれだった。BCJの演奏スタイルとは少し異質に感じられる歌い方の人もいないではなかったが、海外アーティストの来日中止も相次ぐ今、こうして優れた演奏の「メサイア」が聴けたことに感謝しなくてはなるまい。

 なおロビーに、「ハレルヤ・コーラス」の演奏の際に、起立したり一緒に歌ったりすることはお控え下さい、という意味の掲示が出ていたのを見て、驚いた。起立云々はともかく、一緒に歌い出す人がいるのだとは、私はこれまで知らなかった。

2021・12・21(火)バッハ・コレギウム・ジャパンのクリスマス

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 鈴木優人がオルガンと指揮、バッハ・コレギウム・ジャパン(オーケストラ&コーラス)が演奏しての「クリスマスもの」とベートーヴェンの「第9」を組み合わせた演奏会。客の入りも上々。

 第1部では、鈴木優人がオルガンを演奏したり、ステージに戻って指揮したりと、例の如く八面六臂の大活躍。ここでは東京芸術劇場の売り物たる、2面式の大オルガンを回転させるデモンストレーション(?)をも披露して聴衆を喜ばせた。
 また最近注目を集め始めている「ホワイトハンドコーラスNIPPON」━━耳の聞こえない子、目の見えない子らで編成されている合唱団で、合唱と、手の表現で歌う「手歌」のサイン隊とで成る━━も出演した。

 第2部はベートーヴェンの「第9交響曲」。鈴木優人がどんな「第9」を振るか、ということに興味があった。
 結論から言えば、極めてストレートな、イン・テンポの構築で、率直そのものの、屈託のない「第9」だ。魔性的要素の皆無な第1楽章の一方、終楽章は快い昂揚感にあふれる。ピリオド楽器によるBCJのオーケストラの演奏と、合唱とが上手い。

 声楽ソリストは中江早希、湯川亜也子、西村悟、大西宇宙で、これはあまりバランスが良いとは言い難い。この4人の登場のタイミングはかなり遅く、ファンファーレのさなかにバリトンが袖から現れて「その音楽を否定」し、リーダーシップを示して「歓喜への頌歌」のソロを歌い始めた時に他の3人がステージに入って来る、という形。私としては、この演出はわが意を得たり、の感である※。

 なおこの第4楽章には、前述のホワイトハンドコーラスNIPPON(指揮がコロンえりか)も加わり、ステージ上手側に位置して、大きな身振りの「手歌」で協演していた。あらゆる人間たちが「歓喜への頌歌」で一つになる、という思想から言えば、これは大いに意義深いことと言えよう。
 ただし、視覚的なことからすれば、論議を呼ぶべきものかもしれない。特にそれが歌詞を手話形式で表現しているのではなく、ダンス的な要素が濃いというのであれば、猶更だ。全曲最後のプレスティッシモの昂揚個所でのように、オーケストラのみで演奏される個所においても、白い手袋をはめた手をダンスのように振り回し続けているというのは、もはや「手歌」の領域を超えてしまうものである。

※この日のソロ歌手たちの入場手法は、読響の「第9」でも行われた由(私は聴いていないが)。ご参考までに、2011年2月21日のフランス・ブリュッヘン指揮新日本フィルの「第9」の項をご覧になってみて下さい。実に面白いステージでした。

2021・12・20(月)「わ」の会コンサートvol.7

      渋谷区文化総合センター大和田 伝承ホール  6時

 「わ」とは、ワーグナーの「わ」、和するの「わ」、「ニーベルングの指環」の「わ」とかなんとか、いろいろな意味を持つのだとは、すでに何回か書いた。要するにこれは、ワーグナーを愛するプロ・オペラ歌手集団が、ワーグナーの作品を定例的に小規模な形で演奏する、というムーヴメントなのである。会の代表は指揮者の城谷正博。

 今回は「挑戦」と題して、これまでよりも規模を拡大し、5作品から、それも演奏会などではあまり取り上げられないような場面の音楽を、延べ11人の歌手が歌うという企画が採られていた。
 演奏されたのは「さまよえるオランダ人」「ローエングリン」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「ラインの黄金」「トリスタンとイゾルデ」からの、それぞれかなり長い一つの場面。

 出演歌手と役どころは、河野鉄平(オランダ人)、大塚博章(ダーラント、ヴォータン)、伊藤達人(舵手、ダーヴィット)、池田香織(オルトルート)、大沼徹(テルラムント)、岸浪愛学(ヴァルター、ローゲ)、友清崇(アルベリヒ)、片寄純也(トリスタン)、中村真紀(イゾルデ)、郷家暁子(ブランゲーネ)、新井健士(クルヴェナル)。ピアノが木下志寿子と巨瀬励起、指揮が城谷正博、解説と字幕が吉田真。

 ベテランからフレッシュ世代まで、ここぞ聴かせどころとばかり熱唱を披露するガラ・コンサート的なワーグナー。これも面白い。
 ただ、この会場が演劇や伝統芸能などにも使われる多目的ホールのため残響ほぼゼロとあって、歌い手さんたちにはやり難かったのか? 声は充分聞こえるのに、必要以上に声を張り上げる人も何人かいた。徒弟ダーヴィットを歌った時の伊藤達人は、いくら何でも怒鳴りすぎだろう。

 一方、片寄、大沼、大塚らのベテラン歌手たちは声を巧みに制御して、ホールに適合した歌唱を聴かせていた。特にオルトルートを歌ったカオリンこと池田香織は、この邪悪な陰謀家の異教徒の女の不気味な性格を、実に豊かな陰翳により表現していて、これはこの日の圧巻と言えたであろう。
 友清崇のアルベリヒは、このところ当たり役の悪役というべきか。

 注文をつけたいのはイゾルデ役の中村真紀。ワーグナー歌唱としては時代遅れのヴィブラートの過剰さも気になったが、それ以上に、イゾルデを歌うには、もっと怒り、悲しみ、苛立たしさ、愛情などの感情表現を歌に籠めなくてはいけない。始めから終りまで一本調子に声を張り上げるだけでは、この難役は表現できないのだ。
 岸浪のローゲはなかなかいい。

2021・12・19(日)びわ湖ホール「パルジファル」入門講座第1回

      コラボしが21(大津)  2時30分

 恒例のびわ湖ホールの「ワーグナー・シリーズ」、今回(2022年3月)は「パルジファル」になる。
 芸術監督・沼尻竜典が指揮するこの「びわ湖のワーグナー」は、その通常レパートリー10作品のうち既に8作品の上演を終え、残るは「パルジファル」と「ニュルンベルクのマイスタージンガー」2作のみになった。
 残念ながら2021年の「ローエングリン」からは、感染症対策のため、演出付きの本格的舞台上演でなく、セミ・ステージ形式上演を余儀なくされているが、それでも全国のワーグナー愛好家たちの関心を集める大イヴェントであることには変わりはない。

 私が担当している入門講座は、各作品につき2回ずつ(「ローエングリン」のみは3回)、上演2~3か月前に開催しているのだが、こちらの方々の熱心さは驚くほどで、今年はその感染症対策のため聴講席を120に絞ったというが、チケットは3日で完売したとかいう、何とも有難い話をホール側から聞いた。
 聴講の皆さん全員が上演本番を観るというわけではないらしく、ただ参考のために講座だけ、という方々も多いようだが、それでもその熱意には本当に頭が下がる。

 今回も2時間、映像を中心にして、物語の内容について話をさせていただいた。講座をやるたびに強い感銘を受けるのは、ワーグナーの音楽の圧倒的な、魔性的な力の物凄さである。おかげでこのところ毎日、頭の中で「パルジファル」の音楽が━━第1幕の豪壮な場面転換での管弦楽と合唱の部分などが、がんがんと鳴り渡っている状態に陥っている。しかし、これもまた快感なのだが。

2021・12・16(木)山田和樹指揮NHK交響楽団

      サントリーホール  7時

 マーラーの耽美的な「花の章」で開始されるという珍しいプログラムで、これがR・シュトラウスの官能的な「4つの最後の歌」に引き継がれ、その4つ目の歌の変ホ長調に、ベートーヴェンの変ホ長調の「英雄交響曲」が続くという、巧妙極まりない選曲。
 楽屋で会ったマエストロ山田は、「並べてみたら偶然そうなっていただけですよ」と笑っていたが、本音はどうでしょうかね。

 「花の歌」でのトランペット・ソロは、おそらく日によって異なると思うが、今日はちょっと伸びやかさに不足し、慎重な演奏のように感じさせる点がなくもなかった。
 篠崎史紀をコンサートマスターとするN響は「4つの最後の歌」で本領を発揮し、甘美でふくよかな情感を響かせたが、こういうドイツ後期ロマン派のとろけるような官能性をあのN響から引き出した山田和樹の感性と手腕も、見事と言わなくてはならない。

 それにまた、佐々木典子のソロが深々として素晴らしく良かった。彼女のドイツものは、あのびわ湖ホールでの「タンホイザー」で歌ったエリーザベトのヒューマンな歌唱と演技が私には今でも忘れられない(☞2012年3月11日)のだが、今回のR・シュトラウスも予想通り。
 そしてここでも、オーケストラのバランスを巧みに整え、彼女の声をマスクするようなことの全くなかった山田和樹の指揮を讃えなくてはならない。

 そして「英雄交響曲」での演奏━━これには私も舌を巻いた。真っ向正面から取り組んだストレートなアプローチながら、そのデュナーミクのつくり方の微細さ、精妙さ。そして、楽曲の形式と密接に関連させた演奏の起伏の見事さ。
 最も息を呑んだのは、第2楽章のミノーレが再現したあとの第117小節から第150小節あたりにかけての個所で、ここをひた押しに盛り上げ、悲愴感を昂揚させた演奏は、私もこれまでに聴いたことがないほどの凄さだった。
 それに第4楽章コーダでの全身全霊を籠めた終結和音群の叩きつけも、若き日のカラヤンを想起させるような情熱的なものだった。

 ロビーで会った元N響関係者の知人が言っていた━━あのサヴァリッシュらドイツ人指揮者たちに鍛えられ、ドイツ音楽には一家言も二家言もあるあのN響を、これほど自信満々制御してこんな立派なドイツ音楽の演奏をつくるんだから、彼は並みの指揮者じゃないよ、と。
 私もそう思う。しかもそれは歴代ドイツ指揮者のものとは全く異なる、極めて新鮮な演奏なのである。
 山田和樹は、本当に凄い指揮者になって来た。

2021・12・14(火)高関健指揮読売日本交響楽団&小林愛実

      サントリーホール  7時

 前夜は1時半まで仕事をしていたため、せめて8時頃までは眠りたい、と目覚し時計をかけて寝ていたところ、なんと早朝6時半頃に突然玄関のチャイムが猛烈な勢いで鳴り始めた。近所で事件でも起こったか、と慌ててインターフォンを開いたら、見るからに怪しげな格好をしたオヤジが立っていて、「道を歩いてたらカネをなくしちゃったので、500円ばかりお貸し下さい」と来た。
 一瞬「ラ・チェネレントラ」第1幕のある場面が頭をかすめたものの、これはお伽噺ではないし、ここはとにかく穏便にお引き取り願うことにした。だが、そのあとは結局眠れずで、最近は睡眠不足に致命的なほど弱くなっている私としては、終日大打撃を蒙る羽目に。

 それでも何とか予定通り、読響の12月定期を聴きに行く。
 当初発表されていたヴァイグレの指揮と、キリル・ゲルンシュタインのソロによるチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」の「原典版」(!)というのを楽しみにしていたのだが、案の定、2人の来日不可により変更になり、指揮が高関健に、協奏曲は小林愛実が弾くショパンの「ピアノ協奏曲第1番」となった。もちろん、これはこれでいい。
 他の2曲━━モーツァルトの「イドメネオ」序曲と、プロコフィエフの「第5交響曲」は予定通り。コンサートマスターは小森谷巧。

 「イドメネオ」序曲での演奏が実に堂々として風格充分。この曲がまさにオペア・セリアの序曲に相応しい性格を備えていることを、改めて感じ入らせてくれる。
 一方、小林愛実のソロの音色の美しさは際立っていて、それは協奏曲ではもちろんのこと、アンコールで演奏したショパンの「前奏曲Op.28-17」でいっそう見事に発揮されていた。

 第2部でのプロコフィエフの「第5交響曲」での高関&読響の演奏は、野性的で激烈、作曲者がソビエト帰国後もなお旺盛なバーバリズムの精神を持ち続けていた、と主張するような表現。

2021・12・13(月)クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル

     サントリーホール  7時

 11月14日から今日までの1ヶ月間に10回のリサイタルを開催して、今日が最終日。
 プログラムはこの10回すべて同一のもので、バッハの「パルティータ」の「1番」と「2番」、ブラームスの「3つの間奏曲Op.117」、ショパンの「ソナタ第3番」。ただし、ブラームスでは何故か譜面を目の前に置いての演奏だったが‥‥。

 前回、前々回のリサイタルのあたりから妙に気になっていたのだが、このサントリーホールで演奏する時の彼の「音」が、昔に比べると何か不思議に遠い感じのものになっているのだけれど、弾き方も変わって来たのか。それを含め、今日のバッハも、軽くやわらかだった。しかしそのあたたかい表情には彼ならではのものがある。

 ブラームスの「3つの間奏曲」は、彼がこれまで日本で弾いたブラームスのいくつかの作品においてよりも、沈潜度がいっそう強い。それだけに「作品117の1」など、陶酔に引き込まれるような美しさを放射していた。
 ショパンのソナタは、まさに彼ならではの見事なショパンで、この作品の魅力を充分に再現していたといえようが、ただ以前の彼の演奏に比べると、どこか熱気と活気が減少していたような気がするのだが━━。

 そのショパンのソナタの第1楽章を弾き終った時、彼はひとつ咳をして、「ちょっと失礼」という身振りをして舞台袖に引き上げてしまった。再度ステージに登場して弾き始めた第2楽章は見事なほどブリリアントな音色になっていたが、それでも全体としては何か翳りのあるショパンに感じられる。まるでその前に演奏されたブラームスが、その影をショパンの上に落しているかのような‥‥。ハーモニーの響きが不思議に分厚く、以前の彼のショパンとは些か趣を異にしているような感もあったのである。
 とはいえ、終楽章の最後の昂揚は流石のもので、このあたりの彼の持って行き方は相変わらず巧い。

 アンコールはなし(こういうことは彼の場合、初めてではない)。最後のカーテンコールではサンタクロースの恰好をして登場するというご愛敬、満席の会場を笑わせた。

2021・12・12(日)鈴木秀美指揮神戸市室内管弦楽団「メサイア」

      神戸文化ホール 中ホール  2時

 公共のホール多しと雖も、オーケストラと合唱団とを併せ有しているところは全国でもここだけ、と胸を張る神戸市民文化振興財団が主催したヘンデルの「メサイア」公演。中規模ホールながら、今回は完売満席とのこと。
 神戸市室内管弦楽団(音楽監督・鈴木秀美)と神戸市混声合唱団(音楽監督・佐藤正浩)が協演し、中江早希(S)、中嶋俊晴(CT)、櫻田亮(T)、氷見健一郎(Bs)がソリストに加わる。指揮は鈴木秀美。コンサートマスターは高木和弘。

 ここで神戸市室内管の演奏を聴くのは、私はこれが2度目になる。
 前回(9月25日)は、ホールの残響の少なさからオーケストラの響きに潤いが欠けることが気になったのだが、今回はそういう印象が一掃され、弦楽器群の響きが俄然瑞々しく聞こえるようになっていたのは嬉しい驚きであった。残響の無さが気になるのは、音がぱっと止んだ時だけで、曲が進むうちに、ホールのアコースティックのことなど、いつのまにか全く意識しなくなっていた。
 いや、これは自分の耳がそれに慣れたということよりも、指揮者とオーケストラがホールの響きを巧く克服できるようになって来たことや、演奏が極めて素晴らしかったということなどが原因であろうと思われる。

 鈴木秀美の音楽の「もって行き方」は実に巧く、この長大な作品を少しも弛緩させないというよさがある(欲を言えば、第2部冒頭のテンポを落した個所だけはヴァイオリン群に少々緊迫感が不足していたきらいもあったが)。「ハレルヤ・コーラス」も含め、ここぞという個所での昂揚感も目覚ましいものがあった。バロック・トランペットも輝かしい。

 コーラスは、数えるのを忘れたが、30人くらいか? オーケストラとのバランスも頗る良い。ソリスト陣の中で、氷見は私の初めて聴く歌手だったが、その安定したバスの歌唱には感心した。中嶋のカウンターテナーも安定していたし、櫻田は流石に練達というか、この響のないホールでも自らの声を巧く響かせる術を心得ているようである。中江は、いつもの冴えが感じられなかったが、もしかしたら今日のホールのコンディションでは歌い難かったのか?

 今回は字幕が使用されていたのがよかった。第1部の後に20分ほどの休憩時間を入れて、終演は5時 45分頃。

2021・12・11(土)日本ワーグナー協会例会「バイロイト音楽祭報告」

      あうるすぽっと(池袋) 2時

 夏のバイロイト音楽祭(祝祭)の報告会は日本ワーグナー協会の恒例の行事だ。
 今年は例年とは稍々異なった形になったが、かつてバイロイト祝祭劇場のスタッフでもあった北川千香子・慶応義塾大学准教授による、今年の上演曲目「さまよえるオランダ人」に関する「分析」が行われた。

 今年の上演では、バイロイト初の女性指揮者となったウクライナ出身のオクサナ・リニフの指揮は好評だったが、ディミトリ・チェルニャコフによる「オランダ人の復讐」をコンセプトにした演出は、大幅読み替えの是非はともかく、そのドラマトゥルグ上の整合性の不足(もしくは欠如)が大きな問題を残したこと━━などが、ネットの中継映像や、ドイツの新聞記事などを資料として語られた。

 私はもちろん今年のバイロイトには行っていないので、すこぶる興味深く拝聴した次第だが、ともあれチェルニャコフは以前の「エフゲニー・オネーギン」や「ボリス・ゴドゥノフ」で見せた手法を、今回もかなり使っているように思われる。

 席上、北川准教授も問題提起として触れられていたことだが、そもそも「さまよえるオランダ人」というオペラにおける19世紀的ロマン性━━つまり幽霊船、不気味さ、神秘性、救済と言ったテーマは、21世紀のオペラの演出においてはもはや発展性が見出せず、扱うことが困難なのではないか、という問題はやはり避けて通れないのかもしれない。
 ただ、私の考えでは、現代にあってもオカルト性や怪談への興味は、民衆の中には未だ生きているはずだし、バイロイトの現在の上演のような見境のない(?)スタイル以外にも、やりようはいくらでもあるはずだとは思うのだが‥‥。

2021・12・10(金)カーチュン・ウォン指揮日本フィル

     サントリーホール  7時

 シンガポール出身、今ひときわ注目を集めている俊英カーチュン・ウォンが、この9月から日本フィルの首席客演指揮者に就任している。
 1月定期はその就任披露演奏会で、今日はその初日。アルチュニアンの「トランペット協奏曲」とマーラーの「交響曲第5番」が演奏された。

 協奏曲のソリストはこの楽団のソロ・トランペット奏者オッタビアーノ・クリストーフォリだが、彼は第1部でコンチェルトを輝かしく華やかに吹いたあと、第2部でもそのままオケの首席の位置に戻り、マーラー「5番」のあのソロを朗々と吹くという超人的な活躍を示して、聴衆の熱烈な拍手を浴びていた。コンサートマスターは木野雅之。

 日本フィルは、それにしてもいい指揮者を獲得したものである。このオケがこれほど引き締まって濃密な、しかも瑞々しくて剛直な演奏を繰り広げたことは、そう何度もあったことではない。

 特にマーラーの「5番」では、ウォンは第1楽章全体をイン・テンポの葬送行進曲スタイルで演奏し、そのイメージを全楽章に拡げることが狙いであるかのように、それ以降の楽章をも不動の整然たる構築で押し切った。激しく昂揚するけれども、決して感情に流されぬ、透明清澄で「まっすぐなマーラー」なのである。

 それは、夏に都響を指揮した「新世界」での伸縮自在の演奏などとは別人のように異なるスタイルのものだが、しかし以前読響を振った際のマーラーの「10番」のアダージョが極度に反ロマン的で冷徹な演奏だったことを思えば、抑々ウォンのマーラーの音楽観そのものが、所謂感情過多で神経質な音楽からは距離を置いているのだということが分かる。
 最近の若い世代の指揮者に多いマーラー観の一例として、これはこれで一つの考え方だ。ただし聴き手の好みは分かれるだろう。

 だが、やはり彼はいい指揮者だ。これからもっと凄い人になるだろう。自分のカラーを存分に出して行ってもらいたい。いつかはヨーロッパの伝統の壁にぶつかることになるだろうが、それに敗れて引き下がるか、妥協するか、あるいはそれを己の感性の中にまるまる呑みこむことができるか。

 今日の日本フィルは、見事だった。全曲に拡がる透明感のある音色は、ウォンの指揮から引き出されたものではあるが、オーケストラが充実した状態にあることを示すものでもあったろう。

2021・12・9(木)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルのシューマン

    東京オペラシティ コンサートホール  7時

 シティ・フィルの新企画、桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎との「シューマン交響曲全曲演奏シリーズⅠ」。今日は「第1番」と「第2番」が演奏された(因みに「シリーズⅡ」は来年6月11日の由)。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 演奏には並々ならぬ気魄が込められており、「第1番《春》」など、冒頭から沸き立つような熱気にあふれていた。おなじみの重厚でスケールの大きな演奏である。アンサンブルは少し粗いけれども、綺麗に整っていてもつまらない演奏よりは、こういう覇気に富んだ演奏の方が、私は好きだ。

 しかし、いっそう演奏が見事だったのは「2番」だったであろう。第1楽章コーダの追い上げは凄まじく、第4楽章終結での怒涛のような昂揚感も印象的で、ここぞという頂点で一押し、力感と昂揚感を更に高めるという大わざに、このところ飯守はますます長けて来ているような気がする。
 この「2番」という曲、作曲当時のシューマンの不安定な精神状態も影響して、「ハ長調」でありながらもどこか神経質で落ち着かない性格を持っている曲に感じられるものだが、飯守の指揮で聴くと、そこにも堂々たる風格と威容が加わり、それらが作品をむしろ堅固な性格のものに近づけているように思われる。

 つい先頃も体調を崩したというマエストロ飯守だが、今日は楽章間でこそ椅子に掛けて休むことがあっても、演奏の時には常にきりりと立ったまま、指揮を続けていた。オーケストラもマエストロへの尊敬と信頼から、自発的に演奏を盛り上げているようにも感じられる。
 演奏が終って、袖のドアの傍で椅子に掛けて休んでいるマエストロに向かい、ステージから引き上げて来る楽員たちがひとりひとり「先生、ありがとうございました」とにこやかに声をかけながら通って行く光景が印象深かった。

2021・12・8(水)反田恭平&小林愛実 デュオ・コンサート

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 先頃のショパン国際コンクールで2位となった反田恭平と、4位に入賞した小林愛実とが協演するコンサート。客席は文字通り超満員。実にタイムリーな公演だ、と思ったら、これはコンクールの前から決まっていた企画だとか。大成功、大当たりの企画だ。

 メイン・プロはすべて2人のデュオで、演奏されたのは、モーツァルトの「2台のピアノのためのソナタK.448」、シューマンの「庭園のメロディOp.85-3」、ルトスワフスキの「パガニーニの主題による変奏曲」、シューベルトの「幻想曲ヘ短調」、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」。

 それぞれの個性が出ていなかったわけではないが、どれも綺麗に揃った演奏だ。今日は2人のソリストの演奏というより、アンサンブルとしての演奏を聴かせてもらったということ。

2021・12・5(日)関西ワーグナー協会例会「大阪バイロイトを見直す」

      西宮大学交流センター大会議室  2時

 1967年の大阪国際フェスティバルで、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」と「ヴァルキューレ」が、ヴィーラント・ワーグナーの演出によりフェスティバルホールで上演された。
 指揮はそれぞれブーレーズとシッパース、歌手陣は前者が二ルソン、ヴィントガッセン、ホッタ―他、後者がテオ・アダム、アニア・シリア他、当時のベストメンバー。

 バイロイトから照明スタッフも来日したこの舞台、それはもう完璧なほどの出来で、ワーグナーの「限りなく奥深い巨大な夜の闇」があれほど凄まじい形で描かれたことは、かつて日本のワーグナー上演では例がなかったはずである。私にとっても、生涯最高の音楽的体験のひとつだった。

 もっともバイロイトでは、この時の公演は「バイロイト祝祭の引越公演」とは見做しておらず━━たしかに前出公演のプログラム冊子の表紙にも「WAGNER FESTIVAL BY THE ENSEMBLE OF BAYREUTH」となっていた━━最初の正式な「日本引越公演」は1989年のオーチャードホール公演、ヴォルフガング・ワーグナー演出「タンホイザー」である、ということにされている。
 ただし、上演の水準や、それが生み出した感動の大きさから言えば、両者は比較することすら愚かである。私の考えでは、それはひとえに、ヴィーラントとヴォルフガングの演出の違いゆえにほかならない。

 例会では、櫻井隆志氏がこの件に関するバイロイト側の見解に対し、かつ日本にもそれを孫引きして大阪公演を無視する傾向のあることにつき、強く反論していた。所謂「大阪バイロイト」の偉大さをもっと再認識して、それを正確に語り継いで後世に残す努力が必要だ━━とも。私もそれには同意見である。いっそ関西ワーグナー協会が中心になって、その記録をまとめてみてはいかがなものか?

 例会ではその他にも、藤野一夫氏が当時のデータに基づき、公演全般に関する経済的な問題など、非常に興味深い話をされた。また、故・村山美知子・朝日新聞社主の回顧談を交えた公演当時のドキュメント映像は私も初めて観るもので、大いに教えられることが多かった。
 もう一つ、「ヴァルキューレ」第3幕の上演映像は、若々しい純なブリュンヒルデ像のアニア・シリアの歌唱と演技も懐かしく、遥か54年前の印象をまざまざと蘇らせてくれた。極めて貴重な映像ではあるが━━しかし、大阪で見た実際の舞台は、あんなもんじゃない。あの物凄さは、映像では絶対解らない。

 例会は、延々5時半まで。当時現場で見た人は、私の他にも2~3人おられたようだ。私も飛び入りで、当時の話を少々。

※元大阪国際フェスティバルの中山さんから、当時の非常に貴重な話をコメントで頂戴しています。

2021・12・4(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

     サントリーホール  6時

 些か不穏当な言い方になるかもしれないけれども、言葉尻をとらえないでいただきたい━━コロナの新変異型が突然世界的に猛威を振るい始め、入出国が再び制限され始めたこの時期、ジョナサン・ノットはすでに日本に来ていた、ということは、彼にとってはともかく、日本の音楽界にとっては幸いなことだったに違いない。今日の演奏を聴くと、やはり彼は、東響のみならずわが国のオーケストラ界に於いては欠かせぬ人なのだ、ということが実感されるからである。

 プログラムは、ゲルハルト・オピッツをソリストに迎えてのブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」と、後半にルトスワフスキの「管弦楽のための協奏曲」。コンサートマスターは小林壱成。

 オピッツは、やはりこのようなブラームスの作品を弾くと、彼の最良の面を発揮するようである。何の外連も誇張もなく、ひたすら実直に作品と相対する彼の演奏は、ブラームスの音楽の素朴で哲学的な美しさをストレートに蘇らせる。今日では少数派となっているとも言えそうなスタイルの演奏だが、聴いていると安らかな気持に引き込まれるのは事実であろう。
 またノットが東響から引き出した演奏も、豊かな和声感を漲らせた重厚なもので、オピッツのピアノに巧く合わせた感があった。欲を言えば、終楽章のコーダの部分を、第1楽章のそれと同じように、もう少し盛り上げてくれたらな、と思わないでもなかったが。

 ルトスワフスキの「管弦楽のための協奏曲」は、おそらく彼ノットと東響とのこれまでの演奏の中でも、屈指のものではなかったろうか。複雑精緻で大規模な管弦楽法を持ったこの大曲を、凄まじいほどの力感と、それでいながら少しも曖昧にならぬ明晰で解り易い響かせ方を以て、ノットは実に鮮やかに東響を制御した。

 この曲を以前、誰だったかの指揮で聴いた時には、何となく怪物的な作品というイメージを与えられたものだったが、今回のノットの指揮は、そんな印象を払拭してくれた。ルトスワフスキが当時まだ少しは共感していたらしい東欧の民族音楽のカラーの断片が一瞬顔を覗かせる、そんな瞬間も今回の演奏の中にはちゃんと残っていたのである。しかもノットは、この複雑な大曲を、暗譜で指揮していた。
 指揮を重ねるごとに、いろいろな才能を示してみせるノットである。

2021・12・2(木)二兎社公演「鴎外の怪談」(作・演出:永井愛)

      東京芸術劇場シアターウェスト  6時

 「怪談」と言っても、森鴎外が怪談を書いたという話ではなく、彼にまつわる怪談という意味でもない。
 要約するにこれは、森鴎外の一般に知られざる一面━━陸軍軍医総監・陸軍省医務局長という要職にある人間としての立場と、社会主義思想への彼の秘かな共感あるいは幸徳秋水らの所謂「大逆事件」で運動家たちを救えなかったことへの苦悩との葛藤がテーマとなっている演劇、というべきか。

 加えてこれに、彼の故郷である津和野におけるキリスト教徒弾圧の記憶(明治の世になっても未だ切支丹弾圧が行われていたというのは恐ろしい話だ)と、彼の若き日に恋し、捨てたドイツ人女性(有名な小説「舞姫」のエリスのモデルとなった女性)への罪悪感と追憶の念が、彼の意識の中に絡んで来る。

 20分程度の休憩1回を含む上演時間2時間半程度のこのドラマは、一貫して森鴎外の邸宅の書斎で展開される(この昔の部屋の雰囲気、なかなかいい味がある)。ちょっと単調になり、もたれるところもないではないが、森鴎外すなわち森林太郎が、「立場上、口にし難い」社会的・政治的思想を、文学作品の中でどのように語っているのか、という謎解きも絡めて観ていると、興味津々たるところも多い。

 出演は松尾貴史(森鴎外)、瀬戸さおり(妻・しげ)、木野花(母・峰)、池田成志(鴎外の親友で元軍医・賀戸鶴所)、味方良介(三田文学編集長・永井荷風)、淵野右登(弁護士、スバル編集者・平出修)、木下愛華(女中・スエ)。

 松尾貴史が演じる主人公は、何となくおっとりとした鷹揚な人物に━━よく言えば清濁併せ呑む大人物といった雰囲気で━━表現されているが、少々つかみどころがない感もある。もう少し「秘かに苦悩する人物」という表現が明確になっていれば、とも思うのだが。

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