2024-04




2022・2・25(金)井上道義指揮東京フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 東京フィル2月定期の2日目の公演。井上道義が客演し、エルガーの序曲「南国にて」、クセナキスの「ピアノ協奏曲第3番《ケクロプス》」(ソリストは大井浩明)、ショスタコーヴィチの「交響曲第1番」を指揮。コンサートマスターは依田真宣。

 かなりユニークなプログラムだが、極めて刺激的な演奏ではあった。
 まずはこれが日本初演となったクセナキスの「ケクロプス」。魁偉壮大、圧倒的な力感に満ちた曲だが、随所に精緻な陰翳を漂わせてもいる。
 大井浩明は、これで彼の3つのピアノ協奏曲をすべて日本で演奏したことになるとのこと。その体当たり的なソロは流石に見事というほかはない。ピアノの蓋は外されているので、音量的にはオーケストラの度外れた咆哮に包み込まれることが多いようだが、存在感の点では些かも劣ることがないという、実に不思議なコンチェルトでもある。

 全曲の大詰め、オーケストラの轟音が、まるで巨大なマシーンが止まるように、次第に力を失って消えたあと、指揮者の井上が覗き込むようにピアノの縁に身を乗り出し、大井がゆっくりとソロを止めると同時に、やったねという表情でパフォーマンスの終結を告げるさまは、いかにもこの「大イヴェント」に相応しい光景だったであろう。

 井上の指揮は、このところ、何かに憑りつかれたように、あるいは浄化されたように、異様な高みに向かいつつあるようだ。2年後の引退を宣言したからこういう演奏になって来たのか、あるいはこの高みが見えて来たから引退する気になったのか、俗人の私にはとんと見当がつかぬけれども、とにかく、「素晴らしく」なって来たことは間違いない。

 エルガーの「南国にて」も、歓喜の感情に満たされたような劇的な演奏だった。そして出色の出来だったのは、もちろん彼が自ら一心同体とまでみなすショスタコーヴィチの交響曲で、今日の「1番」も、少年だった作曲者の才気煥発ぶりを余すところなく再現すると同時に、その中に流れる思索的な感情をも浮き彫りにするような緻密さをも出していた。

 それにまた、東京フィルが今日は実に良かった。各パートが明晰に響いていたし、怒号絶叫する個所さえ、音の濁りは全くと言っていいほどなかったのである。

 最後は井上のスピーチ。例の如く文脈必ずしも明瞭ならざる話しぶりだが、意味は解る。そしてエルガーの「南国にて」へのお答えソングとばかり、J・シュトラウス2世の「南国のばら」の一部を指揮して聴かせたが、これがまた不思議にいい雰囲気だったのだ。クセナキスやショスタコーヴィチの曲を聴いたあとだったからということもあろうが、演奏そのものがよかったからでもあろう。
 井上と東京フィルの至芸の一夜は、こうして結ばれた。

2022・2・24(木)METライブビューイング
マシュー・オーコイン:「エウリディーチェ」

    東劇  6時

 今シーズンの「METライブビューイング」(10作)には、これまでになく「現代もの」と「MET初演作品」が多く見られる。
 現代ものは、前回のテレンス・ブランチャードの「Fire Shut Up in My Bones」(☞1月30日)に続き、今回のアメリカの若い作曲家マシュー・オーコイン(1990年生れ)のオペラもそう。他にもまだ先の上演だが、ブレット・ディーンの「ハムレット」というのもある。それだけに、日本のオペラ・ファンがどのような反応を示すか、注目されるところだろう。

 このオーコインの「エウリディーチェ」は、2020年にロサンゼルス・オペラでプレミエされたメアリー・ジマーマン演出によるプロダクションによるもの。台本はサラ・ルール。
 ストーリーはもちろんギリシャ神話の「オルフェオとエウリディーチェ」をもとにしたものだが、捻った部分としては、冥界に連れ去られたエウリディーチェの出番が多く(オペラの題名が彼女になっている理由のひとつでもある)、しかもその冥界で彼女が優しい父親と再会し、彼への愛と、オルフェオへの愛との板挟みになり苦しむ、という設定が挙げられよう。
 これらの愛がいずれも気高いものであるだけに、その結末が所謂ハッピーエンドにならず、むしろ3者がある形で結びつく、という流れとなるのも理解が行く。

 オーコインの音楽そのものは、所謂伝統的手法の枠を出てはいないが、多少のミニマル・ミュージックの影響をも含む、非常に大がかりな、耳に馴染みやすい劇伴音楽(悪い意味で言っているのではない)というイメージか。歌詞(英語)と密接に結びついた劇的な雰囲気と激烈な起伏は充分なので、不気味さを醸し出したり、煽り立てたりする迫力の点では、申し分ない。

 全曲の結びはどのようにするのか、まさか安易な劇伴音楽のようにお涙頂戴で終るのではなかろうな、と冷や冷やしていたのだが、そこはオーコインもなかなかのクセモノ、意外なエンディングで聴き手にすっぽらかしを食わせるというテに出ていたのは、なるほどね、という感。

 歌手陣の歌と演技が完璧だったのは、流石METの良さだ。エウリディーチェのエリン・モーリー、オルフェオのジョシュア・ホプキンス、その分身役のヤクブ・ヨゼフ・オルリンスキのオーソドックスな役柄表現に加え、冥界の王ハデスを歌い演じたバリー・バンクスのけたたましくてコミカルな悪役ぶり、エウリディーチェの父親役のネイサン・バーグの温かく滋味あふれる歌唱と演技の表現など、すこぶる見事である。

 そしてMET音楽監督のヤニック・ネゼ=セガンの、音楽の盛り上げ方の巧さも天下一品といえよう。
 彼は今シーズンのMETの現代作品2つと、新演出の「ドン・カルロス」(5幕版)を指揮するという活躍ぶりで、しかもその「ドン・カルロス」のプレミエ(2月28日)の何と前日まで、ウィーン・フィルの3回のニューヨーク公演の指揮を、例のプーチン大統領への反感のとばっちりを食らって降板させられたゲルギエフの代わりに引き受けているのだから、タフネスの限りだ。
 9時終映。

 余談だが、それにしても━━これまでプーチンとの親交を公言して来たそのゲルギエフとしては、ロシアの「親プーチン派」音楽家の筆頭と目されているだけに、これから欧米各国の中でかなり苦しい立場に陥るかもしれない。翻って「親ゲルギエフ」を自認する私としては、彼がかつて故郷オセチアで、戦争を非難して行なった「私は私の武器を持って来た。音楽という武器だ!」という有名な演説の精神をあくまでも信じているのだが。

2022・2・23(水)大野和士指揮東京都交響楽団 定期C

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 音楽監督・大野和士の指揮で、ドビュッシーの「遊戯」、ニールセンの「フルート協奏曲」(ソリストは都響首席奏者の柳原佑介)、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」、R・シュトラウスの「ばらの騎士」組曲。コンサートマスターは四方恭子。

 久しぶりに16型編成の厚みある音が快い。オーケストラの最強音における硬質な音はちょっと気になるものの、ラヴェルの2作品での弦の弱音におけるふわりとした空気感や、「ばらの騎士」のワルツでの羽毛のように柔らかい音色は、それぞれの官能美や優雅さを浮き出させていて、快い。

 そしてまた「ばらの騎士」での、大野の演奏構築の巧さには感嘆させられた。強奏の劇的な個所ではやや力感が過ぎたような印象がないでもないが、この組曲版の中にオリジナルの楽劇のドラマ展開と起伏をはっきりと見るような演奏に仕立て上げる指揮は、やはり欧州の歌劇場指揮者としてキャリアを積んだ大野ならではのワザではなかろうか。

 その大野の「持って行き方の巧さ」は指揮だけでなく、選曲にも覗える。第一に、(協奏曲を別として)ワルツを基盤とした、流れるようなプログラム構成。そしてもう一つは、4月の新国立劇場━━彼自身がオペラ部門芸術監督を務める━━における「ばらの騎士」上演を予告する(かのような)プログラミング。

2022・2・21(月)諏訪内晶子の国際音楽祭NIPPON2022

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 諏訪内晶子が芸術監督を務める「国際音楽祭NIPPON」。
 このところ新型コロナのため外来演奏家の参加が不可能になったり、彼女自身の演奏会も延期を余儀なくさせられたりと、アクシデント続きで規模も縮小せざるを得ないことが多々あったのは惜しかったが、しかし今日の尾高忠明指揮のNHK交響楽団との演奏などを聴くと、これが「国際音楽祭」の名に恥じぬ内容であることが明確に感じられるだろう。

 特に第2部のプログラムを飾ったブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」の演奏は、彼女の音楽の峻烈な力と、驚くほど豊かなスケール感と、信じ切った愛器グァルネリ・デル・ジェスの「チャールズ・リード」を駆使しての強靭で豊麗な音色などが一体となった、素晴らしいものであった。たとえば第3楽章終結に向かってテンポを次第に速めて行き、怒涛の如く音楽の勢いを高めて行くあたりなども、まさに息を呑ませる演奏ではなかったろうか。

 これに呼応する尾高忠明の指揮がまた強大かつ強靭で、N響を豪壮に響かせ、ブラームスを意志強固な巨人のような姿に蘇らせて躍動させるものであった。均衡を求めて力を抑制するといった指揮でなく、湧き上がる情熱をそのまま演奏に反映するという、ちょうど1週間前のブルックナーと同じような指揮。最近の尾高の音楽はいい。

 ただ、第1部の2曲目に演奏されたデュティユーの「ヴァイオリンと管弦楽のための《同じ和音の上で》」という作品は、諏訪内のソロとオーケストラの音が些か混然として、少々慌ただしい印象を生んでいたのだが━━。
 いや、このホールは1階席後方と2階席正面とでかなりアコースティックが違うためにそう聞こえたのかもしれず、もし1階席で聴いていれば、もっと柔らかく豊麗な演奏に感じられたかもしれないから、即断は慎もう。

 冒頭にオーケストラだけで演奏されたシベリウスの組曲「ペレアスとメリザンド」(8曲)でも、弦楽合奏はかなり硬質に聞こえていた。ただしこちらは尾高の十八番であるシベリウスだから、独特の雰囲気を備えていたのは確かだが。

 客席は盛況。それにしても、数日前にこのホールで行われた諏訪内晶子の2夜にわたるバッハの無伴奏を、軽い体調不良のため聴き逃したのは、かえすがえすも残念である。

2022・2・19(土)藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 プログラムは、ディーリアス~フェンビー編の「2つの水彩画」、吉松隆の「チェロ協奏曲《ケンタウルス・ユニット》」(ソリストは宮田大)、ヴォーン・ウィリアムズの「交響曲第3番《田園交響曲》」(ソリストは小林沙羅)。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 周知の通り、藤岡幸夫はシティ・フィルの首席客演指揮者。プレトークでは、テレビ東京の「エンター・ザ・ミュージック」(土曜朝8時半)でもおなじみになっている破れ調子(?)の口調で選曲の理由などを解説、「この田園交響曲はベートーヴェンのそれみたいに明るくない曲だけど、絶対(お客さんを)寝かせないから」と宣言して客席を爆笑させた。

 確かに、私もこの曲、これまでナマで聴いたことがあったかなかったか、記憶も定かでないほどだったのだが、今日のシティ・フィルからは予想外の温かい、官能的な、しかも色彩的な音色を備えた、陰翳のある表情の演奏が引き出されていて、本当に居眠りもせずに美しい全曲を楽しませてもらった次第である。

 オケもホルンのソロ、トランペットのソロなど、オケも頑張っていた。最後に入るソプラノのソロには、予定されていた半田美和子が前日のリハーサル直後に体調を崩したとかで、急遽小林沙羅が代役として登場した(歌った位置はオルガン下のバルコニー席).。ヴォカリーズによる歌唱パートであったとはいえ、初めて歌う曲をたった一夜でマスターし、好演したのは立派であった。

 吉松隆の「チェロ協奏曲」は、私はナマで聴くのはこれが初めてだ━━と思ったら、何とほぼ20年ぶりの再演になるとのこと。吉松らしい大規模で多彩な、時にはユーモア感さえ滲ませた雄弁なオーケストラの表情は、やはり録音で聴くよりもナマで聴く方が遥かに面白いだろう。
 管弦楽が壮大なので、独奏チェロはしばしば埋没気味になるが、それでも前面に浮き上がった時の宮田大のソロは明晰で、自己主張の強さも感じさせ、存在感を示していた。

 シティ・フィルは、高関健が常任指揮者に就任して以来、格段に演奏水準を高めている。今日も藤岡幸夫の指揮で熱演を繰り広げたが、こういう演奏が続けばお客もそれなりに反応するものだ。事実、客の拍手も熱烈だったし、それに何年か前よりもずっと客席が埋まっているように思われる。喜ばしいことである。

2022・2・14(月)尾高忠明指揮大阪フィル 東京公演

       サントリーホール  7時

 プログラムは、ブルックナーの「交響曲第5番」(ノーヴァク版)。

 16型編成で東京に乗り込んで来た大阪フィル。
 さすがに強大な音だ。伝説的な初代音楽総監督の時代とは今や全く異なった緻密な音を聴かせるようになった大フィルではあるが、昔からの伝統的カラーは今なおどこかに残っているようで、このあたりが、オーケストラというものの不思議なところなのだろう。

 特に今日は、演奏に並々ならぬ気合のようなものが感じられ、力感満載のクレッシェンド、全軍挙げての大咆哮といった、猛烈な演奏による「ブル5」が繰り広げられた。地方オーケストラ随一と定評のあった大フィルの馬力は、今なお健在である。
 管の各パートのソロも好調だし、ティンパニも重厚でしかも切れがよく、トレモロに「暴れ」がないのにも感心した。コンサートマスターは崔文洙。

 今回の指揮は現・音楽監督の尾高忠明。
 彼がこんなに激烈なブルックナーを聴かせたのを、私は初めて聴いた。特に第4楽章の後半における、猛然たるアッチェルランドを加味しての終結感の強調など━━こういう手法は一昔前ならブルックナー演奏の禁じ手といわれたものだが、近年ではもっと自由な考え方が広まっているだろう━━呆気にとられるほど激しく、熱狂的な昂揚感を示していたのである。

 昨年夏に、彼が群響でこの同じ曲を指揮した時には、もっと整然として緻密で落ち着いた、所謂昔からの尾高らしい演奏だったから、なおさら今回の演奏は意外に感じられたのだ。その違いは、やはり群響が客演したオーケストラだったのに対し、この大フィルは自ら音楽監督を務めるオーケストラだったことにもよるだろう。

 ただ、以前の尾高は、そういう違いをあまり演奏に示す人ではなかったのではないか。
 それに昨年春に大阪で聴いた大フィルとのブルックナーの「9番」が、やはり嵐のような凄絶さを備えた演奏だったことを考え合わせると、やはり年齢とともに彼自身が変貌して来たということもあるのかもしれない。
 付け加えれば、私は、こういう情熱的な演奏の方が好きなのだが。

2022・2・13(日)東京二期会 モーツァルト:「フィガロの結婚」

      東京文化会館大ホール  1時

 東京二期会の制作、ペーター・コンヴィチュニーの新演出によるR・シュトラウスの「影のない女」が新型コロナ蔓延の影響で中止になったことは痛恨の極みだったが、代替プロダクションとして宮本亜門演出の「フィガロの結婚」をすぐ出して来たことは、さすが東京二期会、というべきか。
 もっとも、事務局から聞いた話では、販売期間が1ヶ月そこそこというのはやはり苦しかったようで、それは今日の最終公演にも客の入りに反映していたのかなとも思われる。

 この宮本亜門演出版は、2002年にプレミエされ、以降2006年、2011年、2016年にそれぞれ上演され、今回が4度目の上演になる。私はプレミエ時には観ている(2006年のは観ていない)のだが、当ブログを始めた以降の鑑賞記録としては、2011年4月28日2016年7月13日(GP)、2016年7月18日の項に書いている。

 それらの上演の時に比べると、今回の演技はかなり鷹揚なところがあり、心理ドラマとしての性格はやや蔑ろにされていたというか、あるいは準備期間が短くてそこまで手が回らなかったというか━━。
 もともとこの「フィガロの結婚」は、宮本亜門のモーツァルト演出としては初期のもので、その後の「ドン・ジョヴァンニ」や「魔笛」のように、社会現象にまで踏み込んだアプローチにまでは至っておらず、ただ「一日の騒動」的なものにとどまっているので、あまり多くを望むのは無理かもしれないのだが。

 従って、観ていても少々単調な舞台だったという印象は免れないのだが、出演歌手たちは一所懸命、よくやっていた。
 今日はダブルキャストのB組で、近藤圭(フィガロ)、種谷典子(スザンナ)、与那城敬(アルマヴィーヴァ伯爵)、高橋絵里(伯爵夫人)、郷家暁子(ケルビーノ)、北川辰彦(バルトロ)、藤井麻美(マルチェリーナ)、高橋淳(バジリオ)、児玉和弘(ドン・クルツィオ)、全詠玉(バルバリーナ)、高田智士(アントニオ)他、という顔ぶれ。それにマスクをした二期会合唱団。

 この中では、種谷典子の明るい歌唱表現とキュートな雰囲気の演技がひときわ印象に残ったが、高橋淳のコミカルなバジリオも存在感があり、近藤圭のフィガロは舞台姿が少し地味ながらも歌唱は安定していた。
 高橋絵里の伯爵夫人は気品があって美しいが、歌唱に今一つ安定感をというところか。与那城敬の伯爵は、以前観た時もそうだったが、彼の演じるこの役が、ただ「我儘な主人」という表現にとどまり、封建領主のあくどさといった性格には乏しかったことが、このドラマを「一日の騒動」の範囲に収めてしまった原因の一つになっていたのではないか。

 注目された川瀬賢太郎の指揮は、全体に流麗な音楽づくりといえようか。穏やかだが、弛緩はしていない。新日本フィルハーモニー交響楽団から柔らかな音色を引き出し、モーツァルトの叙情的な美しさを聴かせてくれた。
 第4幕フィナーレの第81小節(Con un poco piu di moto)からの第1ヴァイオリンの美しい旋律を、クルレンツィスほどではないにせよかなり明確に歌わせ、状況が一変したというイメージを巧くつくり出していたあたり、私には気に入った。
 総じて合唱や重唱を含め、特に第3幕以降、アンサンブルの良さ━━アンサンブル・オペラ的とまで言っては言い過ぎかもしれないが━━で音楽がいっそう魅力を増していたようにも感じられたが、これも川瀬の功績か。

2022・2・12(土)阪哲朗指揮紀尾井ホール室内管弦楽団

      紀尾井ホール  2時

 来日できなかったライナー・ホーネックの代役として阪哲朗が指揮。
 私の好みから言えば、この人選は実に良かったと思う。山形響常任指揮者であり、びわ湖ホール次期芸術監督でもある阪哲朗は、最近絶好調だからだ。
 今日はモーツァルトの交響曲「リンツ」、R・シュトラウスの「オーボエ協奏曲」(ソリストは金子亜未)、ベートーヴェンの「第2交響曲」を指揮したが、予想通り、素晴らしい演奏になっていた。

 特に感嘆させられたのはベートーヴェンの「2番」である。スコアの隅々まで神経を行き届かせ、一切の外連なしに微細な表情をこめて全曲を隙なく構築したその指揮は、実に鮮やかであった。強弱が不断に入れ替わるこの曲の特徴が余すところなく再現され、全曲が尖った挑戦的な音楽として描き出される。豊かな重低音を備えたスケールの大きなサウンドも、この小編成の紀尾井ホール室内管からは、ふだんあまり聴けない類のものではなかろうか。

 「リンツ」も同様に緊迫度の強い充実した演奏で、特に第1楽章と第4楽章での終結の頂点への追い込みも見事だったのはもちろん、そのそれぞれの最後をここぞと強調し、一段と音を強めて結ぶ呼吸も、これまた鮮やかに決まっていた。━━もっともその点でひとつ敢えて言えば、ベートーヴェンの第1楽章終結は見事に盛り上げられてはいたが、第4楽章の最後は何かちょっとあっけなかった印象もないではない‥‥。

 「オーボエ協奏曲」では、金子亜未の、かなり濃厚な音色の、ちょっと荒っぽくはあるが華やかな、極めて自己主張の強いソロが映えていた。2曲のシンフォニーに於けると同じように、全曲の最後を一段と強調して結ぶという演出は面白い。この手は、かつてデニス・ブレインがR・シュトラウスのホルン協奏曲のレコードで派手に使っていたものだが、こういう洒落っ気は大切であろうと思う。

 名手ぞろいの紀尾井ホール室内管弦楽団(コンサートマスター・玉井菜採)は、今日はトゥッティもソロも、いい演奏を聴かせてくれた。ベートーヴェンでのホルン群は自信満々といった響き。

2022・2・11(金)新国立劇場 ドニゼッティ:「愛の妙薬」

       新国立劇場オペラパレス  2時

 4回公演の今日は3日目。2010年4月にプレミエされたチェーザレ・リエヴィ演出のプロダクションで、4年ぶり、4度目の上演になる。

 今回の上演では、当初予定されていた主役の外国人勢が新型コロナ感染防止入国制限により全滅になったため、日本人歌手のみで歌われたが、これがなかなかいい。
 顔ぶれは、砂川涼子(アディーナ)、中井亮一(ネモリーノ)、大西宇宙(ベルコーレ)、久保田真澄(ドゥルカマーラ)、九嶋香奈枝(ジャンネッタ)という主役陣。

 特に光ったのが大西宇宙の切れのいい歌唱。この人は最近好調だ。中井亮一は、いかにも自信無げな男という前半の表現と、「妙薬」を飲んで俄然自信をつけた後との気分の変化を、歌唱でも巧みに表現していた。
 久保田真澄の「インチキ薬売り」は、もう少し滑稽な大芝居を試みてもいいのではないかと思われるフシもあったが、全体としては好演だろう。九嶋香奈枝は軽い役だし、文句ない。
 ただし問題は、ヒロインの砂川涼子だ。先日の「竹取物語」でもちょっと気になるところがあったが、今日は特に高音の強声が極度に硬くなる。こんなことは以前にはなかった。何か「合わない役」でも歌って咽喉を壊したとか? 自重されたい。

 指揮は、このところ日本での活躍がとみに多くなっているガエタノ・デスピノーザ。リズムの切れのいいところが好ましい。
 今回のオーケストラは東京交響楽団だったが、音は例のごとく薄いものの、引き締まってバランスのいい響きの演奏を聴かせてくれていた。

 舞台については、2010年4月23日2018年3月14日に観た際の日記に書いたので、ここでは詳しくは繰り返さない。ただ、前回の記憶があまり定かでないのだが、合唱団もソリストたちも、こんなに直立不動的な姿勢で、客席を向いたまま歌う舞台だったかしらん? これではまるでセミ・ステージ形式上演だ。
 そして、以前もそうだったが、折角カラフルな装置と衣装を揃えながら、舞台に「沸き立つ熱気」というものが皆無なのである。たとえば、音楽がパウゼになった瞬間に、舞台上に満ちる静まり返った空白感は何だろう? これは、再演演出担当者の責任もあるのではないか?

2022・2・8(火)ユベール・スダーン指揮札幌交響楽団東京公演

      サントリーホール  7時

 北海道の大雪を衝いてよう来てくれた、という感の札響。聞けば、オーケストラは昨日のうちに東京に来ていたのだとか(宿泊費など費用が嵩んだのでは?)。

 今回は、来日できなかったマティアス・バーメルトに代わり、ユベール・スダーンが客演指揮した。ただしプログラムは変更なしで、ベルリオーズの「ロメオとジュリエット」からの「愛の場面」、伊福部昭の「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」(ソリストは山根一仁)、シューマンの「交響曲第2番」。コンサートマスターは田島高宏。

 スダーンが札響からどんな音を引き出すか、興味津々だったが、最初のベルリオーズでの弦の透明な美しさには驚嘆した。そして、一つ一つの音や和声が、実に丁寧に、細密に響かせられている。
 これはもう、完璧なスダーンの音である。彼が音楽監督を務めていた時期の東響は、シューベルトやシューマンなどのロマン派の作品でこういう音色を出していたのを思い出す。スダーンは、それを早くも札響に注入したことになる。今日の東京公演に先立ち、札幌でも2日間の定期でこのプログラムを演奏してはいたはずだが、それにしても客演指揮者の立場に過ぎぬ彼が━━いや、札響の柔軟な姿勢にも注意を向けるべきであろう。
 「愛の主題」の昂揚個所での弦の透徹した響きなど、私はこれまで札響から聴いたことはなかったように思う。

 ただし一つ、スダーンの解釈に疑問を言わせてもらうなら、その2回の頂点で4本のホルンを異様に強奏させたのは、演奏全体の均衡を崩す結果になっていたのではないか、ということ。

 続く北海道出身の伊福部の作品では、札幌市出身の山根一仁がソリストを務めるという念の入れ方だ。だが彼は、この作品を驚くほど情熱的に弾いた。それはしばしば息を呑ませるほど野性的な激しさに富んでいて、作品を単調な音の繰り返しになることから救っていた。
 指揮者のスダーンが伊福部の独特な音楽の個性をどう考えていたかは分からないけれども、とにかくあの「伊福部節」が、今日は珍しいほどカラフルに仕上げられていたのは確かであろう。

 シューマンの「第2交響曲」は、まさにスダーン色に染められた演奏だった。弦の透徹した響きもさることながら、管楽器群のトゥッティの音色は、不思議な色彩を備えた独特のものである。音楽全体の構築は、流麗な要素は一切退けられ、極度に角張ったものになっている。スダーンは、東響とのシューベルト・ツィクルスの時に、初めてこういうサウンドをつくり出していたのだ。
 今回は客演の指揮でありながら、早くも札響にこのような特殊なバランスの音色を注入してしまったのだから、その統率力もたいしたものだが、その一方、札響の柔軟性もまた見事なものと言うべきであろう。

 シューマンの精神的な不安定をあからさまに反映させたようなこの交響曲において、スダーンは第2楽章の終結で「狂おしい興奮」を出現させ、また第3楽章では一般に演奏されるような陶酔的な雰囲気とは異なり、安息の中にも苛立ったような感情を描き出していた。そして、第4楽章後半の追い込み個所では、音楽の内的エネルギーの昂揚といったものを如実に感じさせたのであった。

 総じて、かなり個性的な音づくりなので、聴き手側でも好悪が分かれるだろうが。私は彼の指揮を強く支持する。それはまた、札響の思わぬ多様な面を知ることができたという慶びでもある。札響の柔軟な幅広い能力に感嘆するとともに、これまで聴いた札響の演奏の中で、最もユニークで、しかも屈指の出来であったと讃えたい。

2022・2・8(火)角田鋼亮指揮東京フィルハーモニー交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 都民芸術フェスティバル参加公演で、オーケストラ・シリーズのひとつ。今年は都内のプロ・オーケストラ8団体が出演している。すでに日本フィルと東京交響楽団が、それぞれ粟辻聡、齋藤友香里の指揮で演奏会を行なっており、今日が第3弾ということになる。 
 今日のプログラムは、小山実稚恵をソリストに迎えてのラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」と、リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェラザード」。

 ナマのオーケストラを聴いたのは2週間ぶりになる。そのせいかどうかわからないが、オーケストラの音が恐ろしく大きな音に感じられたのには驚いた。小山実稚恵のピアノも同様で、ラフマニノフの冒頭、クレッシェンドして頂点に達した瞬間にはホールが圧倒されるような思いになったほどだ。やはり暫くのブランクがあったおかげで、あらゆることが新鮮に感じられたのかもしれない。

 いや、こんなことを言ったら、今日の演奏者たちに失礼になるだろう。小山実稚恵のピアノはやはり豪壮で強靱で、ラフマニノフの音楽をそれに相応しい形で聴かせてくれた。角田鋼亮指揮の東京フィルも、ごつごつして潤いに不足していたけれども、かなり開放的な演奏だったのではないか。アンコールのハチャトゥリヤンの「レズギンカ」は、曲が曲だけに、それが長所となっていただろう。

 客席はほぼ満員。それも高年齢層が多い。オミクロンの妖雷が声を為す世相の中でも、負けてたまるかと生きる人々がこんなにいるのだと鼓舞されるような気持。

2022・2・4(金)林英哲と英哲風雲の会「祝歳の饗宴―絶世の未来へ」

      サントリーホール  6時

 やるせない痛みが未だ身体の一部に残るものの、コンサートを欠席ばかりしていては身体も感覚も鈍ってしまうので、今日は和太鼓の迫力に浸りに行く。

 鬼太鼓座や鼓童の一員としても活躍、1982年からソロ活動に転じた林英哲が、2日前に古希(70歳)を迎えた由。この年齢であのような身体の動きと演奏ができるとは信じられないほどだが、これもひとえに長年の鍛錬のたまものだろう。
 その彼が「ソロ活動40周年スペシャル」として、「祝歳の饗宴―絶世の未来へ」と題するコンサートを行なった。

 協演は、手塩にかけた「英哲風雲の会」のメンバーから8人と、ゲストには藤舎名生(横笛)、藤舎呂悦(邦楽囃子)、麿赤兒(舞踊)も顔をそろえた。
 予定ではピアノの山下洋輔も出るはずだったが、前日に怪我をした(また?)ということで、これは痛恨の出演中止となった。
 それにしても、林英哲が70歳と言っても、今年で藤舎名生が81歳、藤舎呂悦も82歳、麿赤兒も79歳になるはずだから━━山下洋輔も80歳だし━━みんな結構なトシになるわけで‥‥。それでもみんな、あのような見事な演奏を繰り広げているのだから、大したものと言わなければならない。

 それはともかく、今日のプログラム。林英哲の「序」(足拍子のみによる演奏)に続いて、石井眞木の「モノクローム」が演奏される。オーケストラとの「モノ・プリズム」(☞2021年11月20日)との姉妹作品ともいうべき和太鼓のための大曲だ。
 次が、林英哲の構成による即興演奏の「海はかうかうと空に鳴り━━祝歳の饗宴」で、笛と鼓が協演して、舞も加わる日本の美。最初の計画通りピアノが加わっていたら、どんなステージになっていたろうか。

 最後に林英哲原案・作曲・演出・振付による劇鼓「レオナール われに羽賜べ」という、音響的にも視覚的にも息を呑ませる物凄い演奏が展開された。レオナールというのは、画家の藤田嗣治のことで、最後に鎮魂的な静寂で結ばれるのも印象的であった。アンコールは、英哲が「おなじみの曲」と紹介しただけだが、これは「太鼓打つ子ら」という作品だった由。

 どれも、和太鼓群の底知れぬパワーとエネルギーを噴出させた演奏だ。大太鼓、中太鼓、締太鼓を打ち続ける奏者たちの一糸乱れぬ厳しい所作は、宗教的でさえある。敬虔ながらも力に満ちるその身振りと太鼓の音は、日本芸術の粋だ。底力のある音の迫力だけでなく、太鼓それぞれの音程の違い、締太鼓の縁打ちによる弱音が空間に交錯する神秘的な響きによる多彩な世界は、まさに圧倒的であった。

※個人アドレス宛のメールも含め、見舞いを下さった方々に深くお礼を申し上げます。帯状疱疹は体力低下、免疫力低下の時に罹りやすいとか。皆様もどうかお気をつけ下さいますよう。、

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・雑誌「モーストリー・クラシック」に「東条碩夫の音楽巡礼記」
連載中