2024-04

2022年3月 の記事一覧




2022・3・31(木)山下洋輔VS鈴木優人

     東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 何か不詳なる事情で延期になっていたため、幸いにも聴くことができた演奏会。
 鈴木優人のリサイタルに山下洋輔がゲストで招かれている、という形らしいが、とにかく、山下洋輔の年齢を感じさせぬ巧さと深みと力と、鈴木優人の見事なアドリブと多彩極まる才能とに舌を巻かされ、大いに楽しめたステージだった。

 バッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻」第1曲の「プレリュード」を、鈴木優人がオリジナルの形で弾きはじめ、それに山下洋輔がアドリブで絡んで来る、という素晴らしい開始。
 そのあとに鈴木がモーツァルトの「ロンドK.511」を、次に山下がコズマの「枯葉」を、各々のスタイルで弾く。

 以下は2人のデュオで、山下洋輔の「エコー・オブ・グレイ」と「竹雀」、ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビイ」、休憩を挟んでガーシュウィンの「3つの前奏曲」の第2曲と、伊藤大河の編曲になる「ラプソディ・イン・ブルー」と続く。
 アンコールは2曲で、曲名は聞き洩らしたが、「プスコフの郵便馬車+ハンガリー狂詩曲第2番」を組み合わせたものと、山下の小品。

 鈴木は曲によって譜面を少し見ていたらしいが、アドリブも多かったのでは? 嵐の如く突き進み、飛翔するベテラン山下洋輔のソロに、少なくとも互角に立ち向かった(ように感じられた)若い鈴木優人の才気。お見事でした。

2022・3・30(水)東京・春・音楽祭「ローエングリン」初日

       東京文化会館大ホール  5時

 2019年の「さまよえるオランダ人」上演のあと、新型コロナ蔓延のために中断されていた「東京・春・音楽祭」のワーグナー・ツィクルスが、3年ぶりに再開された。

 このツィクルスは、あとひとつ「トリスタンとイゾルデ」を乗せれば、ワーグナーのスタンダード・レパートリー全10作の上演が完成するところまで進んで来ているのだが、今回は2018年に上演された「ローエングリン」の再演であり、来年はまた「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の予定だというから、ワーグナーものはまだ続けられるようだ。
 われわれワグネリアンにとっては結構な話だが、それ以外の好みのお客さんにとってはどんなものか。R・シュトラウスなんかいいんじゃないか、などという話もロビーではチラホラと。

 さて今年の「ローエングリン」。再演とはいっても、前回(☞2018年4月5日参照)と異なり、背景の映像演出を止め、スクリーンを廃止して、通常の反響版を設置した純粋な演奏会形式上演に切り替えられている。だが、これで随分音響がよくなり、音楽が聴きやすくなっていたのは確かである。

 演奏者も、指揮と主役歌手陣の多くが一新された。今回は、マレク・ヤノフスキ指揮のNHK交響楽団、東京オペラシンガーズ、ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー(ローエングリン)、ヨハンニ・フォン・オオストラム(エルザ)、エギルス・シリンス(テルラムント)、アンナ・マリア・キウリ(オルトルート)、タレク・ナズミ(ハインリヒ王)、リヴュー・ホレンダー(布告官)、大槻孝志・高梨英次郎・後藤春馬・狩野賢一(以上ブラバントの貴族)、斉藤園子・藤井玲南・郷家暁子・小林紗季子(以上小姓)という顔ぶれだ。コンサートマスターは、キュッヒルではなく、今年は白井圭。

 以前のウルフ・シルマーと同様、いやそれ以上に、ヤノフスキもテンポが速い。第3幕の「遥かな国に」と「白鳥だ!」の間の長い合唱と重唱をノーカットで━━ここはドラマの上で不可欠な個所なので、称賛したい━━演奏しながらも、演奏時間が60分だったというのは、彼のテンポの速さを物語るだろう。

 だが、そのテンポでたたみかける緊迫感と迫力は、すこぶる見事だった。特に第2幕は、もともとワーグナーの中後期の作風を先取りする陰翳と起伏に富んだ劇的な音楽なのだが、そこでのヤノフスキの引き締まった指揮は見事で、この日の演奏の白眉であった。
 第1幕は全体に多少ガサガサした音楽づくりで、全体に硬い感があったものの、第2幕からは全員が調子を上げて行った。

 ローエングリンのヴォルフシュタイナーは、前半では少々頼りない中年の騎士といった風情だったが、第3幕の大見得で猛烈な馬力を出した。エルザのフォン・オオストラムも幕が進むごとに良くなっていったから、2日目(4月2日)では冒頭から飛ばしてくれるだろう。

 シリンスは、前回同様の安定していたテルラムント。またオルトルートのキウリは、昨年の新国立劇場の「ドン・カルロ」(☞2021年5月26日)でエボリ公女を歌っていたのを聴いて以来だが、今回の方が役柄の性格上、ずっと映えていただろう。このオペラはオルトルートの存在感次第で決まるドラマなので、その点では前回のぺトラ・ラングには及ばずと雖も、キウリも充分に責任を果たしていた。ナズミの国王は、声に力がある。

 合唱の東京オペラシンガーズは、ステージ奥に定石通り配置されていたが、前述の反響板設置のおかげでバランスよく、力に満ちて響いていた。
 バンダは大部分がステージ上手の前面近くに配置され、なかなかの力感。N響も反響板を利用して楽々と鳴る。木管が非常に強く響かせられていたのは、ヤノフスキの好みなのか? 第1幕前奏曲での弦の音色の硬さには驚いたが、これが第3幕のエルザとローエングリンの対話の場面になると、きわめて柔らかい官能的な音色に変わっていたのが印象的であった。
 30分の休憩2回を含み、9時20分終演。

2022・3・27(日)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  2時

 首席客演指揮者アラン・ギルバートが登場した「都響スペシャル」。メインはブルックナーの「第7交響曲」(ノーヴァク版)。そして第1部にはアンナ・ソルヴァルドスドッティルという女性作曲家の「メタコスモス」という曲が演奏されたが、これは昨日の定期での演奏が日本初演になっている。

 このThorvaldsdottirという超難しい名前の人のMetacosmosなる演奏時間15分弱の作品は、2017年にニューヨーク・フィルの委嘱で作曲されたものの由。初演は2018年4月にサロネン指揮ニューヨーク・フィルにより行われたが、ギルバートも2019年1月にベルリン・フィルを指揮してヨーロッパ初演を行なっているそうである。
 重低音に基盤を置いた暗鬱で物々しい響きに満たされ、時に鋭い閃光のようにはじけるアクセントが聴く者に衝撃をもたらす。作曲者の解説文に「ブラックホール、すなわち未知の世界へと落ちて行く」というキーワードがあるが、この言葉だけでもひとつのイメージを掴む縁となるだろう。

 ブルックナーの「7番」は、遅めの重々しいテンポが採られた第1楽章をはじめ、全体に仁王の如き力感に溢れる演奏となっていた。最強奏の個所での音量の巨大さは、都響としては珍しいほどのものだろう。
 ブルックナーの最も叙情的な交響曲から大建築のような豪壮さを引き出そうとする、その試み自体は悪くないのだが、その最強奏での咆哮が、どうも音が鋭すぎて、美しくないのが困る。そしてまた、全体にのべつ咆哮しているといった印象を与えるので、肝心のクライマックスが目立たなくなってしまう、という結果が生じるのだ。以前に都響を指揮したマーラーの「6番」でもこういう特徴が聴かれていた。ギルバートの癖が治っていないな、という感。

 コンサートマスターは矢部達哉。

2022・3・26(土)高関健指揮東京シティ・フィル マーラー「9番」

     東京オペラシティ コンサートホール  2時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の第350回定期。マーラーの「交響曲第9番」が取り上げられた。

 シティ・フィルは、特に定期では最近良い演奏を聴かせてくれているので、大いに期待していたのだが、これはまさに、期待以上の素晴らしさだった。敢えて言えば、この演奏は、常任指揮者・高関健とシティ・フィルがついに到達し得た理想郷だったのではあるまいか。

 高関がここで創り出したのは、私が感じた範囲で言えば、「神経質なマーラー」ではない。また、「疲れ切って安息を求め、彼岸に顔を向けたマーラー」でもない。最後まで「生」を肯定し、強靭な意志を失わなかった音楽家マーラーの姿を写し出した演奏だった、といえようか。この言い方は誇張が過ぎたかもしれないが、その演奏に表れていた骨太で厳しい表情は、この交響曲から厭世的なものを除外させていた━━少なくとも薄めさせていたように感じられたのである。

 シティ・フィルの演奏も、見事に昂揚していた。ヴィオラ・セクションをはじめ、弦の強靭な力と緊迫感には驚かされるほどだった。それが特に第4楽章での、大波の如き弦の主題の個所で素晴らしい効果を発揮させていたことは、改めて言うまでもない(コンサートマスターは戸澤哲夫)。管楽器群、打楽器群も好演していた。

 全体に豊麗とか壮麗といったような、美しさを求めるものでなく、むしろごつごつした硬質な音響の構築だったのだが、それがまた音楽を厳しい表情とするために役立っていただろう。シティ・フィルをここまで強靭なオーケストラに引き上げた常任指揮者、高関健の力を讃えたい。

 この日は、シティ・フィルの定期としては比較的珍しく、ほとんど満席に近い盛況ぶりだった。盛大で長いカーテンコールも、飯守泰次郎がワーグナーものを指揮した時以来のものだったであろう。
 客席には、男性客が圧倒的に多かった━━ということは、やはり「1回券」のお客さんが多かったということかもしれないが、シティ・フィルの定期の客席の埋まり具合が上り坂の傾向にあるように感じられる現在、これがいっそうの定期会員増加に繋がれば、と思う。

2022・3・24(木)河村尚子の「シューベルト プロジェクト第1夜」

       紀尾井ホール  7時

 河村尚子が披露してみせた、素晴らしいシューベルトの一夜。「即興曲変ロ長調Op.142―3」、「ソナタ第18番ト長調《幻想》」、「3つの小品」からの「第1番」、「ソナタ第19番ハ短調」というプログラム。

 何より驚かされたのは、作品の性格により大小の差こそあれ、演奏全体にあふれるアグレッシヴで、パッショネートで、強靭な意志力を感じさせるシューベルト像の出現だ。
 これはもはや、「良きウィーン」のビーダーマイヤー時代のシューベルトでもなければ、「シューベルティアーデ」のサークルの中で生きたシューベルトでもない。また、夢見るような気持のいい世界に浸っているシューベルトでもない。むしろ、ベートーヴェンの後継者としての力を満々と漲らせたシューベルト像でもあるだろう。

 先日、リッカルド・ムーティが指揮した「未完成交響曲」は、所謂ロマンティックで感傷的なシューベルト像を打破したものだったが、今日、河村尚子が演奏したピアノ曲の数々もまた、新鮮なシューベルト像のイメージを感じさせてくれる素晴らしいものだった。
 なお、アンコールとしては、「即興曲Op.142-2」と、「糸を紡ぐグレートヒェン」が演奏され、最後にシューベルトでなくバッハの「羊は安らかに草を食み」が演奏されてコンサートは閉じられた。

 彼女のこの「シューベルト プロジェクト」は全2回の企画だそうだが、こうなると、「第2夜」(9月13日)も絶対聴き逃せないという気持になる。

2022・3・23(水)川瀬賢太郎指揮OEK東京公演

      サントリーホール  7時

 オーケストラ・アンサンブル金沢が、常任客演指揮者・川瀬賢太郎を擁して東京公演。
 杉山洋一(同楽団コンポーザー・オブ・ザ・イヤー)の「揺籃歌(自画像Ⅱ)」(17日に金沢公演で世界初演されたもの)、ショパンの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは亀井聖矢)、メンデルスゾーンの「交響曲第3番《スコットランド》」を演奏。コンサートマスターはおなじみのアビゲイル・ヤング。

 ホワイエに入ると、正面いっぱいに、一般聴衆よりも多いのではないかと錯覚を起こさせるくらい、ずらりと並んだスポンサー関係(?)の黒服の男たち。その大勢の男たちが、入って来る客を黙ってじっと見つめているのだから、感じの悪いことこの上ない。━━だがこのブログの昔のページを繰ってみたら、2010年から2015年くらいにかけ、OEK東京公演のたびに毎回それについてブツクサ書いており、そのうちついに諦めてしまったことを思い出した(たとえば☞2015年3月24日の項)。

 演奏。川瀬賢太郎がOEKを指揮するのを聴いたのは、昨年秋(☞2021年9月12日)以来だ。あの時は本拠地の金沢のホールだった。だが今回、このサントリーホールで「スコットランド交響曲」をじっくり聴いてみると、流石にこれまで岩城宏之や、井上道義や、ミンコフスキの指揮で聴いたOEKとは、がらり違った音になっていたのが判る。

 その違いを、何と形容したらいいか? 喩えて言うなら、今回はデジタルではなくアナログ的な音、モダンな現代建築でなく、何故か古式な木造家屋をイメージさせるような音色━━。川瀬賢太郎が他のオーケストラを指揮した時のサウンドがそういう音だったという感覚は、これまで私にはなかったから、なぜ今回のOEKとの演奏だけがこういう音になったのか、しかとは判断し難い。
 いずれにせよ、弦8型で臨んだOEKは、すこぶるダイナミックに、力感豊かに轟きわたっていた。こういうサウンドも、これまで聴いて来たOEKとは、些か異なるところである。

 杉山洋一の「揺籃歌」は、作曲者のノートによれば、中国・英国・南アフリカ・ブラジル・インドの「寝かせ歌」を素材とし、新型コロナ犠牲者への悼みと、医療最前線で闘う関係者への畏敬の念とを描いた作品の由。重苦しい威圧感を持つ曲想と、祈りにも似た曲想との対比が印象深い。
 ショパンのコンチェルトを弾いた亀井聖矢は、桐朋学園大学在学中の21歳。清新な息吹を感じさせる。

 「スコットランド」が終ったあと、川瀬とオーケストラがアンコールを始める素振りを示したので、もしやまたバッハの「アリア」をやるのでは、と予感がしたが、やはりそうだった。東日本大震災以降、この「アリア」ばかり聴く機会が、あまりに多すぎる。同じ追悼の音楽でも、もっと他にもあるだろうに。

2022・3・21(月)東京春祭チェンバーオーケストラ

      東京文化会館小ホール  3時

 「東京・春・音楽祭2022」の公演のひとつ。モーツァルトの「交響曲第1番」「ピアノ協奏曲第9番《ジュノム》」「交響曲第40番」というプログラム。オーケストラのリーダー(コンサートマスター)は堀正文。

 ヴァイオリンには城戸かれん、ヴィオラには安藤裕子、チェロには辻本玲、フルートには上野由恵‥‥といった錚々たる奏者たちが参加しているオーケストラなので、技術的には確かなのだが、指揮者なしのせいもあってか、やはり演奏が一本調子に感じられてしまう。協奏曲のソリスト・小林海都も同様で、音楽にはもっと色合いといったものが欲しい。

2022・3・20(日)大植英次指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」(ソロは小林美樹)と、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」。コンサートマスターは木野雅之。

 マーラーでは、久しぶりで濃厚極まる「大植節」を聴いた感。ひと頃の個性的な、自己主張を前面に押し出す大植英次が、また復活して来たようだ。テンポもあの頃と同じように、遅い。演奏時間は、第1楽章提示部のリピートなしにもかかわらず、なんと60分に達していたのである。
 マーラーの指定よりもさらに頻繁にリタルダンドが繰り返される。瞬時の「矯め」も至るところに現れるが、それはまるで、隣を一緒に歩いて来た人が突然ふっと見えなくなるような気持にさせられる演奏だ。

 日本フィルがこの千変万化、変幻自在のマーラーを実に見事に具現していたことには舌を巻いた。第1楽章など、いくつかの個所では躓いたり、のめったり、ぐらりとする瞬間もなくはなかったが、後半2楽章では、完璧なほどに大植の音楽に応えていた。
 音も豊麗で、たっぷりとした巨大な量感にあふれている。そうした響きで演奏されたあの第3楽章の怪奇な雰囲気たるや驚くほどで、私がこれまで何十回と聴いて来たこの楽章の演奏の中でも、ひときわ異彩を放つものであった。日本フィルの最近の好調さを余すところなく示した演奏と言えたであろう。

 この楽章での冒頭のコントラバスのソロ(高山智仁)と、間もなく入って来るオーボエの主題の最初の不気味なクレッシェンド(杉原由希子)も絶品というべく、この2人にはこの個所の演奏だけでも殊勲賞をさし上げたくなったほどだ。

 大植の指揮は、90年代のミネソタ管時代のストレートで爽やかなスタイルから、バイロイト以後の超個性的なスタイルを経て、ここ数年は比較的穏健な指揮スタイルになっていたのだが、私には、それはまた些か個性を欠いた指揮のようにも感じられていた。
 今回の「巨人」での指揮が、彼の自己主張が蘇ったことの顕れなのか、それともマーラーの音楽ゆえに特別にそうなったのかは判別し難い。が、いずれにせよ私にとっては、今日のような指揮の方が、大植英次らしくて面白い。

2022・3・19(土)樫本大進・小菅優デュオ・リサイタル

      サントリーホール  7時

 新型コロナ蔓延防止入国制限が緩められ、2人の帰国が可能となったため急遽開催が決まった演奏会だが、チケットは発売後僅か2週間で完売されてしまったというから、彼らの人気はやはり凄い。
 客席はほぼ満席に近く、欠席者のものらしい空いた席が散見されるのみである。それだけに、休憩時間におけるトイレの行列も凄まじいものがあったが‥‥。

 プログラムは、ベートーヴェンの「ソナタ第5番《春》」、グリーグの「ソナタ第3番」、モーツァルトの「ソナタ ト長調K.379(373a)」、フランクの「ソナタ イ長調」。この4曲だけで終演時間はすでに9時を超えていたが、更にそのあと、アンコールとしてモーツァルトの「ソナタK.304」の一節と、カザルス編の「鳥の歌」も演奏された。

 「鳥の歌」が平和を願うアピールとして演奏されたことは、樫本自身のスピーチでも示されたとおり、時宜を得たことである。ともあれ、2人のスターの協演でこれだけの質量豊かなプログラムが聴けたのだから、寒くて強い雨の中を集まって来たお客さんたちも、大いに満足したことだろう。

 端整な佇まいの裡にしなやかな叙情を湛えた樫本大進のヴァイオリンと、スケール感の大きい小菅優のピアノ━━。
 しかし、全曲を通じて後者の存在感が目立っていたのは、「ヴァイオリンのオブリガート付ピアノ・ソナタ」としての性格の強い作品が多かった所為もあろうか。特にモーツァルトのソナタでは、彼女のピアノは息を呑ませるほど雄弁であった。

2022・3・18(金)東京・春・音楽祭開幕 ムーティ指揮

      東京文化会館大ホール  7時

 「東京・春・音楽祭2022」が、リッカルド・ムーティ指揮東京春祭オーケストラ(コンサートマスター・長原幸太)の演奏で開幕した。
 この2年、新型コロナ蔓延のあおりを受け、予定通り開催できない演奏会も少なくなかったこの大音楽祭だが、今年こそはスムースに進みますように。

 開幕演奏会の今日は、モーツァルトの「交響曲第39番変ホ長調」と、シューベルトの「未完成交響曲ロ短調」および「イタリア風序曲ハ長調」というプログラム。
 二つの交響曲では反復指定をすべて順守していたので、特に「39番」は演奏時間も35分を超える長さとなったが、温かく柔らかい音楽づくりはこれまでの「ムーティのモーツァルト」のスタイルと共通したものだ。

 だが、昨年の「マクベス」における峻烈無比の演奏で私たちを驚かせたムーティは、やはり今回も「未完成交響曲」で衝撃的な世界を創り出してみせた。
 第1楽章展開部の頂点で、演奏が異様に量感を増して高潮し、デモーニッシュな様相を帯び始めたとみるや、ティンパニの怒号も凄まじく、恰も激しい怒りの爆発にも似た音楽になって行った。もともとこの個所は全曲の中で音楽が最も昂揚し、激しく高鳴るくだりではあるのだが、このムーティの指揮のように、所謂「シューベルトの交響曲の演奏スタイル」を遥かに超え、恐怖感さえ起こさせるほどの激烈な頂点を形づくった演奏は、これまで多分、如何なる指揮者も試みたことはないのではないか。それはまさに、息を呑ませる物凄さであった。

 欲を言えば、ティンパニの高いFis音の強打が、あのような「板をぶち叩く」が如き音でなく、もっと透徹した音であったなら、と思うのだが‥‥。

 そして、第2楽章の終結では、演奏はまるで永遠の平和を願う祈りのような情感をこめて結ばれた。私がこれまで数え切れぬほど聴いて来た「未完成交響曲」の中でも、今日のムーティ指揮によるそれは、最も異色の演奏であったことは間違いない。
 オーケストラのアンサンブルなど技術的な細かい部分の問題は、明日の演奏の際には解決できているだろう。

 なおムーティは、演奏前に、平和をアピールする主旨のスピーチを行なった。演奏会はオンラインで配信されていたとのことである。

2022・3・18(金)METライブビューイング「リゴレット」

     東劇  2時

 去る1月29日のメトロポリタン・オペラにおけるヴェルディの「リゴレット」の上演ライヴ。

 バートレット・シャーによる今シーズンの新演出プロダクションで、ダニエレ・ルスティオーニが指揮している。
 主役歌手陣は、クイン・ケルシー(道化師リゴレット)、ローザ・フェオラ(その娘ジルダ)、ピョートル・ベチャワ(好色な貴族マントヴァ公爵)、アンドレア・マストローニ(殺し屋スパラフチーレ)、ヴァルドゥイ・アブラハミヤン(その妹マッダレーナ)。案内役はイザベル・レナード。

 マイケル・メイヤー演出による前プロダクション(☞2013年2月16日同3月12日)がラスヴェガスの裏の世界を舞台にした奇想天外な設定だったのに対し、今回のシャー演出は、概してストレートな手法による中庸を得た舞台だ。
 インタヴューでの諸々の説明によれば、ドラマの背景はワイマール共和国時代、女性が蔑視されていた時代に設定され、舞台装置もアール・デコ調になっているとのこと(東洋人の私たちには、それはあまり実感の湧かない時代背景だろうけれど)。しかしなるほど、このオペラの第1幕での夫人たちの扱われ方を見ると、そういう新設定も充分通用するだろう。

 ただ今回のシャー演出の場合、マントヴァ公爵邸に拉致された直後のジルダの態度や行動(彼女は舞台にしばしば現れる)には、ちょっと不自然なほどの誇張が見られるようにも感じられた。もっとも、ジルダが何故あれほど公爵に惹かれるのかは、オリジナルのト書き以上に、明解に描かれていただろう。

 上映時間は、3時間ちょうど。銀座から上野の東京文化会館へ向かう。

2022・3・17(木)藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルのシベリウス

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 これは「2022都民芸術フェスティバル」参加公演。
 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団と、その首席客演指揮者の藤岡幸夫が登場して、藤岡得意のシベリウス・プログラムを披露した。「レンミンカイネン組曲(4つの伝説曲)」の終曲「レンミンカイネンの帰郷」で幕を開け(昨年の「フェスタサマーミューザ川崎」でもこのテを使いましたな)、郷古廉をソリストに迎えた「ヴァイオリン協奏曲」、後半に「交響曲第2番」を置くという選曲。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 プログラム全体を通じて、藤岡幸夫のダイナミックな音楽づくりが、いつも以上に際立っていた。協奏曲の第1楽章中ほどでのオーケストラの、もはや煽りともいうべき昂揚の凄まじさには呆気にとられるほど。「第2交響曲」でも起伏の大きなダイナミズムが激しく、巨人の如きシベリウス像が打ち立てられた。

 以前、彼が関西フィルを指揮した時のシベリウスには、奔放な荒々しさが目立つことが多かったので、私は「ナニワのシベリウス」などと野次ったこともあったのだが、今日の彼が指揮するシベリウスは、同じ荒々しさではあっても、音楽が強固に構築されており、一つの強い意志力を感じさせていたといえよう。
 これはもちろん、藤岡自身の音楽の変貌ということもあるだろうが、それとともに、常任指揮者・高関健によって高められて来た最近の東京シティ・フィルの演奏水準の故もあるのでは、と思う。

 協奏曲のソリスト・郷古廉も、今日はいつもと違って弾き飛ばすような感もなくはなかったが、藤岡の猛攻に丁々発止と応酬していた。

2022・3・15(火)牛田智大 デビュー10周年ピアノ・リサイタル

       サントリーホール  7時

 「オール・ショパン・プログラム」として、第1部に「ノクターンOp.27―2」「バラード第4番」「舟歌」「英雄ポロネーズ」、第2部に「3つのマズルカOp.56」「マズルカOp.68―4」「幻想曲ヘ短調」「幻想ポロネーズ」を演奏。
 但しアンコールではショパンから離れ、リストの「コンソレーション第3番」と「愛の夢第3番」を弾いたが、私はそこまで聴いて失礼した。そのあとにもシューマンの「献呈」(リスト編)と「トロイメライ」が演奏されたはずである。

 以前、誰だったか、外国人の文筆家が、こんなことを書いていたのを思い出す━━「昔、ショパンの演奏を実際に聴いたある人が、帰宅してから猛然とピアノを叩いていた。どうしたのですかと訊ねた家人にその人は『ああ、大きな音が聞きたくてたまらなくなったのさ』と答えたという。だが今日では、私は反対に、ショパンの作品が演奏されるリサイタルを聴いたあとは、小さな音が聞きたくなって来るのである‥‥」。

 となると、さしずめ今日の牛田智大のショパンは、「原点回帰」(?)ということになるか。こういうアプローチが、東洋の日本人ピアニストによって行われるということが興味深い。
 もっともそれは、曲の並べ方が適切であるかどうか、弱音の連続の中に緊張力が保たれているかどうか、などによって成功も左右されるのだが。

2022・3・14(月)能とベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」

       東京芸術大学奏楽堂  6時30分

 能舞とベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」を組み合わせるという企画のコンサート。
 これは東京藝術大学の武田孝史教授(宝生流)と、同大学の八反田弘・副学長の退任記念演奏会として、後者のプロデュースにより行われたもの。

 第1部では武田孝史(能舞)と藤田貴寛(能管)による創作能舞「希望」。第2部では、渡辺祐介指揮オルケストル・アヴァン=ギャルドと東京藝術大学音楽部学生&卒業生有志の合唱、中江早希、中島郁子、櫻田亮、黒田祐貴の演奏によるベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」全曲━━というプログラム。
 なおこの演奏会は、武田孝史教授の最終講義を兼ねたものの由。

 「能とミサ・ソレムニスのコラボ」と銘打たれているからには、能舞がどのように「ミサ・ソレ」の音楽に応じ、触発されるか(その逆はないだろう)と、大いなる興味を抱いて聴きに行ったのだが、実際は「クレド」の途中と、「アニュス・デイ」の最後の個所(トランペットとティンパニに先導されて激動した音楽が治まった個所)だけに武田教授が姿を見せるにとどまっていた。
 それは確かに「祈り」と関連した印象的な動きではあったろうが、「コラボ」と呼ぶには、なんとも物足りない。叙情的な「サンクトゥス」あたりで、その真髄が披露されるのではないかと期待していたのだが━━。

2022・3・13(日)広上淳一、京都市交響楽団常任指揮者最終定期

      京都市コンサートホール  2時30分

 14年間という、京響シェフとしては異例の長期にわたった広上淳一の常任指揮者在任期間も、ついに終りを迎えた。

 最終定期を飾るプログラムとして、当初はマーラーの「第3交響曲」が予定されていたが、コロナ警戒のため少年少女合唱団の参加が不可能となり、代わりに尾高惇忠の女声合唱曲集「春の岬に来て」から「いしのうへ」と「子守唄」(合唱は京響コーラス)、マーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌曲」(ソリストは藤村実穂子)及び「交響曲第1番《巨人》」が演奏された。コンサートマスターは石田泰尚。

 メインのプログラムが終了すると、カーテンコールの中で広上が感謝と告別のスピーチ(かなり長い)。次いで、退任する2人のオーケストラ楽員への花束贈呈(これにも挨拶がつく)が行なわれたあと、今度は広上への花束贈呈があり、彼自身の肖像画が彼に贈られることも発表された(肖像画はこれから製作するので、今日はとりあえず目録だけという挨拶があり、場内爆笑)。
 常任指揮者を送り出すセレモニーが、満員の聴衆を前に、これだけアットホームな雰囲気の中に行なわれた例は、珍しいだろう。広上が如何に敬愛されていたかを表すものではなかろうか。そして最後にもう一度アンコールとして尾高の「子守唄」が演奏され、演奏会は5時過ぎに終った。

 リュッケルトの歌曲では、藤村実穂子の深々としてスケールの大きな歌唱が圧巻であった。これだけ深みのある歌唱を聴かせてくれる日本人歌手が他にいるとは思えない。「第3交響曲」だったら彼女の出番はこれより短いから、この曲に関する限りは、プログラム変更が幸いだったことになるだろう。

 そして、「巨人」。━━広上と京響が「巨人」を演奏するのを聴いたのは、あの8年前の超弩級の東京公演(☞2014年3月16日)以来、2度目になる。
 音符の一つ一つに神経を行き届かせた演奏という点ではあの時と同じだが、他方、8年経った今回のそれは、テンポを流動させて激情を爆発させる劇的な演奏スタイルではなく、全曲を通じて落ち着いた明るさ、アンサンブルの良さ、音の美しさといった要素が強くなっていた。

 第4楽章ではテンポがゆったりと採られ、爆発点すらヒステリックにならない。全体に完璧といってもいいほどの見事な均衡が保たれている。それは広上がスピーチの中で京響を讃えて言った「やわらかく、あたたかい音が実現できた」という言葉通りの演奏だったのである。

 京響の歴史の中で、広上の常任指揮者時代ほど、演奏の水準が高まった時期はなかったであろう。私もほぼ50年にわたって京響を聴いてきたが、それを実感している。彼の功績は、言い尽くせぬほど大きいものがある。
 因みに広上は、本人の希望により、特に桂冠指揮者とか名誉指揮者とか言った称号は受けぬ由。但し、京都コンサートホールの館長は、今後とも続けるのだそうだ。

2022・3・12(土)井上道義指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団

       愛知県芸術劇場コンサートホール  4時

 井上道義の客演指揮で、ハイドンの「チェロ協奏曲第2番ニ長調」(ソリストは佐藤晴真)と、ショスタコーヴィチの「交響曲第8番ハ短調」が演奏された名古屋フィル第499回定期。コンサートマスターは荒井英治。

 「8番」は、私にとっては、ショスタコーヴィチの交響曲の中でも「4番」に次いで好きな曲であることもあって━━奏者の方々には悪いけれども、ピッコロがなければもっと好きになっていたろう━━絶好調の井上が名フィルとどんな演奏を聴かせてくれるかという興味をも含め、聴きに行った。

 彼の指揮によるこの交響曲の演奏は、先頃(→2021年7月3日)の新日本フィルを指揮した演奏と同じく、苦悩、激怒、音楽を通じての闘争、といったようなイメージを持つ爆発と怒号絶叫のあと、終結では、未来に微かな光を見るような、あるいは見られることを祈るような瞬間の訪れを感じさせる。

 但し怒号絶叫は今日の方が強烈だったようだが、これはオーケストラの違い、ホールとそのアコースティックの違いなどにもよるだろう。因みに今日私が聴いた席は、2階の12列、ほぼ中央の位置だったが、多分このあたりは、管が真正面から響いて来る傾向があるのではないかと思われるが、定かではない。全曲冒頭の低弦は、極めて美しく豊かな響きだった。

 前半でのハイドンのコンチェルトは、佐藤晴真の若々しい活気とともに、清涼剤のような快さ。第3楽章の天馬空を行くような進行など、まさに幸福感の極みだろう。
 それにしてもこの協奏曲と、次のショスタコーヴィチの交響曲とは、何という世界の違いか。恐ろしいほどだ。平和で快活な世界が一瞬にして戦争の恐怖に変わるような思い。

2022・3・11(金)東京芸術劇場「冬のライオン」

      東京芸術劇場プレイハウス  1時

 英国のプランタジネット王朝の開祖、ヘンリー2世を主人公とした演劇。1960年代にブロードウェイで上演され、のちに映画にもなって大きな話題を呼んだ、ジェイムズ・ゴールドマンの作による戯曲だ。

 今回は、小田島雄志の訳、森新太郎の演出、堀尾幸男の美術による上演。出演は、佐々木蔵之介(ヘンリー2世)、高畑淳子(王妃エレノア)、葵わかな(ヘンリーの愛妾アレー)、加藤和樹(ヘンリーの長男リチャード、のちの獅子心王)、永島敬三(次男ジェフリー)、浅利陽介(三男ジョン、のちの失地王)、永田航生(フランス王フィリップ2世)。

 出口なしといった感の冷徹な装置を基調とした今回の舞台上演は、かなり重苦しい雰囲気に満たされてはいるが、弾丸のように飛び交うセリフの妙味は、流石に面白い。
 白眉は第2幕におけるヘンリー夫妻の猛烈な口論の場面だろう。特に高畑淳子の存在感と、その演技とセリフの迫力とは圧巻であった。

 15分程度の休憩1回を含む上演時間はおよそ2時間半。2月26日に幕を開けたこの芝居は、3月15日まで上演されている。

2022・3・10(木)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル 「わが祖国」

       サントリーホール  7時

 東京フィルハーモニー交響楽団の3月定期の初日。
 特別客演指揮者のミハイル・プレトニョフが久しぶりに登場した。プログラムはスメタナの連作交響詩「わが祖国」で、慣例通り、15分程度の休憩を挟んで全6曲が演奏された。

 プレトニョフは、驚くべきテンポの速さで、各曲間もあまり空けずに指揮する。まるで32年前、ロシア・ナショナル管弦楽団を結成して華々しく指揮活動を開始した頃に戻ったような勢いのいいテンポだ。
 近年、重厚な落ち着きを増した演奏になって来た彼の指揮を多く聴いていただけに、このアプローチは意外であった。彼の音楽がまた変わったのか、それともこの「わが祖国」という作品に対してのみの姿勢なのか? 

 テンポが速いなら速いで、それ自体は一つの解釈として結構なのだが、━━第6曲「ブラニーク」の後半など、最後の頂点に向かって各主題を交互に高鳴らせながら昂揚を重ねて行くはずの個所のテンポや表情が些か一本調子なので、曲想がやや単調になってしまうという結果を生んだのではないか。

 なお今回は、ホルンを8本に増強してステージ奥に一列に配置するという方法が採られていたが、これは音量的な増強よりも、音響空間を豊かにする効果を生んでいただろう。そしてオーケストラの響き全体に豊麗さをもたらし、細部の明晰さよりもまろやかな量感を生む、という効果をも、もたらしていたようにも思う。

 カーテンコールで、ほぼ満席の聴衆の拍手に対し、プレトニョフは頻りに感謝の表情を示していたが、やがてもう一度指揮台に上り、バッハの「アリア」(G線上のアリア)を静かに指揮して行った。
 それはあたかも戦争の犠牲者を悼むが如く、「国家の行動、必ずしも個人の意思と同一ならず」というプレトニョフの考えを、言葉ではなく、音楽によって語ったものではなかったろうか。

2022・3・9(水)諏訪内晶子の国際音楽祭NIPPON 室内楽プロジェクト

      紀尾井ホール  7時

 3月11日との2回に及ぶ「室内楽プロジェクト」の第1回、諏訪内晶子を中心に、ヴァイオリンのマーク・ゴトーニ、ヴィオラの鈴木康浩、チェロの辻本玲、ピアノの阪田知樹が協演する演奏会。

 モーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲ト長調K.423」に始まり、ファニー・メンデルスゾーンの「弦楽四重奏曲変ホ長調」と、クララ・シューマンの(ヴァイオリンとピアノのための)「3つのロマンスOp.22」が演奏され、休憩後にはフランクの「ピアノ五重奏曲ヘ短調」が演奏された。

 この中での圧巻は、やはりフランクの五重奏曲であったろう。
 曲頭、圧倒的力感で迫る弦楽器群と、控えめに応えるピアノとの対話部分から既に尋常ならざる緊迫感が漂っていたが、間もなくピアノが弦楽器群を上回る強靭な発言を始めるや、音楽には劇的な豪壮さが漲り始めた。フランク特有の分厚い音の世界が、今日は恐るべきスケール感を以って轟く。
 この作曲家が裡に秘めた気魄と意志力を余すところなく表面に浮き立たせた稀有な演奏と言えたかもしれない。名手たちによる一期一会の演奏に燃え上がったフランクの音楽だった。

2022・3・8(火)山田和樹指揮読売日本交響楽団(3月定期)

      サントリーホール  7時

 ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは小林美樹)、諸井三郎の「交響曲第3番」。コンサートマスターは長原幸太。

 ドビュッシーのこの曲を、日本の指揮者とオーケストラが、これほど官能的な音色で演奏したのを、かつて聴いたことがあったかどうか。また、コルンゴルトの独特のロマンティックな感性も、こういう演奏で再現されてこそ、その本来の良さを発揮するだろう。
 山田和樹と読響の卓越した感性と実力、畏るべしである。
 後者では小林美樹のソロもこれに呼応して、実に「色っぽい」コルンゴルトの世界となった。

 だが、それら以上に今日の白眉となったのは、1944年5月26日に完成された、諸井三郎の交響曲ではなかったろうか。
 既存のCDで聴いた時には、さまざまな旋律的主題やリズムを、20世紀前半のドイツ音楽指向的真面目さで小難しく構築した交響曲━━という印象もなくはなかったのだが、今日の山田和樹と読響の入魂の演奏を聴くと、そんなイメージは払拭されてしまう。

 たとえば第3楽章。太平洋戦争終盤の、日本の敗戦が濃厚になって来た時期の恐るべき重圧感、そしてまた威勢のいい大本営発表の情報の裏で人々の心に言い知れぬ不安が湧き上がりつつあった1944年中頃の空気を反映しているかのような不気味な曲想と、その中に一縷の希望を探し求めるような澄んだ曲想とが入り交じる音楽。

 それらは、こうしてナマで聴いてみると、形容し難い恐怖感を以て聴き手に迫って来る。戦争中の人びとの感情はこういうものだったのかもしれない、と改めて慄然とさせられるが、それはちょうど今起こっている東欧での戦争に私たちの感情が重なり合うからでもあろう。
 そしてこの第3楽章の音楽そのものも、晦渋どころか、現代の電子音楽を思わせるような、鋭く鮮烈極まる響きだったのだ。

 これは圧倒的な演奏であり、この作品に新しい光を当てる見事な演奏でもあった。山田和樹と読響の演奏を讃えたい。そして、わが国の先人作曲家たちが如何に素晴らしい世界を創っていたか、それを改めて教えられる機会に巡り合えたことが嬉しい。

2022・3・7(月)METライブビューイング マスネ:「シンデレラ」

     東劇  1時30分

 マスネの「シンデレラ」(サンドリヨン)を、英語版の短縮版で━━というから、珍しいことをやるなと思い、興味津々で観に行く。

 レコードでは昔ドイツのポリドールに「短縮オペラ」というのがあったと聞くし、日本では演奏会形式で若杉弘氏が東京都響とワーグナーの作品を短縮版(単なる場面抜粋とは異なり、もっと手の混んだ接続が為されている)により上演したことがある。
 また2020年11月15日には日生劇場が、新型コロナ蔓延のため全曲舞台上演を取り止めた代わりに、楽器編成を室内楽規模に変えた演技付きの短縮版で「ルチア」を上演した例もある。

 但し今回のMETの「シンデレラ」は、流石にMETらしく、舞台装置もある程度容を整え、オーケストラもそれなりの編成を保ち、演技や衣装も━━この歌劇場にしては簡素な部類に入るであろうとはいえ━━完璧なものとしていた。演出と衣装がロラン・ペリー、舞台装置がバーバラ・デリンバーグだから、カラフルな華やかさにおいては充分すぎるほどである。

 音楽と場面は、マスネの原曲のオペラを、聴かせどころを選んで要領よく編集し、切れ目なし4場として、総計1時間40分ほどの長さにまとめている。なるほどこういうテもありだな、と、半ば呆気にとられつつ、感心して眺め、聴いていた次第だ。
 もっとも、このマスネの音楽が、今回はいつもより派手で華やかなものに感じられてしまったのは、演出が極めてコミカルだったかもしれない。エマニュエル・ギヨームの指揮する音楽そのものは、実にしっかりした演奏だったのだ。

 タイトル・ロールは、私の御贔屓のソプラノ、イザベル・レナード。美しくて上手くて、実に魅力的である。父親パンドルフ役のロラン・ナウリも私の好きな性格俳優的バリトンで、今回は随分老け役となっていたが、これも彼の巧さの一例だろう。
 母親ド・ラ・アルティーエル夫人役のステファニー・ブライズの巨体を利した怪演ぶりは物凄い。チャーミング王子(シャルマン王子)役は、今回メゾ・ソプラノのエミリー・ダンジェロが歌い演じていた。妖精役はジェシカ・プラット。

 これは今年1月1日の上演のライヴ映像。カメラは冒頭、客席の子供を交えた家族連れの姿を写していた。つまり、そういう観客層を主たるターゲットとした企画だったのであろう。上映時間は1時間47分。

 進行役のアンソニー・ロート・コスタンゾ(今シーズンはフィリップ・グラスの「アクナーテン」の題名役を歌う)が、明るく「今年もみんなで幸せに」と挨拶していたが、その時はまさか春に東欧で戦争が始まるとはだれも予想していなかったはず━━。

2022・3・6(日)びわ湖ホールのワーグナー:「パルジファル」2日目

      びわ湖ホール  1時

 中2日で、同一配役と演奏により行なわれた第2回上演。
 だが流石に2回目の本番とあって演奏者も慣れたのか、そしてまた最終公演とあっての張りきりゆえか、京都市交響楽団の演奏も密度をいっそう高め、歌手陣もパワー全開の趣があって、前回よりもさらに聴き応えのある充実した演奏となっていた。

 特にパルジファル役の福井敬の、第2幕後半での苦悩と激怒を表現する歌唱は、緊迫感に満ちて素晴らしいものがあった。クンドリ役の田崎尚美も、聴かせどころの第2幕では前回同様の絶唱、もしくは前回を上回る表現の幅で、聴衆を圧倒した(この人には、くれぐれも声を大切にして、池田カオリンとともに「日本のブリュンヒルデ」として長く活躍していただきたい)。

 グルネマンツ役の斉木健詞、ティトゥレル役の妻屋秀和、クリングゾル役の友清崇、アムフォルタス役の青山貴ら、他の主役陣もすべて快演だったが、特に後2者はいずれも歌唱表現のニュアンスを前回よりも豊かにしていたように感じられた。そしてびわ湖ホール声楽アンサンブルの合唱も、前回より遥かに充実していた。

 これらすべてをまとめ、しかも今回は劇的な起伏をいっそう増した感のあった沼尻竜典の指揮をも讃えたい。大詰めの場面での盛り上がりという点では、私の主観では未だ「泣き」が足りないようにも感じられるのだが、マエストロ沼尻としては、ここを所謂ワグネリアン的な「法悦」の境地とするより、むしろ「平和の祈り」と解釈しているのかもしれない。
 ともあれ、今回の「パルジファル」の演奏は、昨年の「ローエングリン」を遥かに凌ぐ水準に達して、びわ湖ホールのワーグナー・シリーズの一環を飾るものとなったことは間違いないであろう。

 沼尻竜典芸術監督の任期はもう1年延長され、来年は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が上演される。彼によるびわ湖ホールのワーグナーの「スタンダード・レパートリー10作品上演」が、それで完結することになる。

2022・3・5(土)川瀬賢太郎の神奈川フィル常任指揮者退任公演

     神奈川県民ホール 大ホール  2時

 8シーズンに及んだ常任指揮者としてのポストをこの3月定期で終える川瀬賢太郎が、情熱的な指揮で有終の美を飾った。神奈川フィルも総力を挙げた充実の演奏。聴衆も温かい熱烈な拍手で彼を送り出した。
 プログラムは、前半に小曽根真をソリストに迎えたラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」。後半にはマーラーの「交響曲第1番《巨人》」。コンサートマスターは石田泰尚。

 ラフマニノフのコンチェルトでは、ソリストの小曽根真が本領を発揮、原曲に忠実な構成を採りながらも、随所に即興的なニュアンスを溢れさせ、ある個所ではジャズ的なアドリブを挿入するなどして、若い指揮者との協演ならではの、愉しいパフォーマンスを繰り広げた。
 これは私も日頃から待ち望んでいた「小曽根節」だったのだが、ベテラン指揮者との協演ではさすがにやり難いのか、このところほとんど聴くことができなかっただけに、我が意を得たり、という思いであった。

 小曽根は演奏のあと、シャンパンかワインか遠目には判らないけれども、祝いのボトルのようなものを川瀬に贈呈し、ソロ・アンコールとして「My Tomorrow」を弾いた。

 マーラーの「巨人」では、彼の指揮はまさに正面から作品に取り組んだ堂々たるものと言えたであろう。解釈によっては浮き彫りになるマーラー特有の神経質さも苛立たしさも、川瀬の指揮では、青年作曲家の意気天を衝く気魄といったものの陰に消え、爽やかな力感が後味として残る。
 神奈川フィルの手がけるマーラーも、「細身の印象」などは昔の話、厚みと重量感にあふれて壮大な世界を形づくっていた。ただし、最後の頂点でのホルン群には、音量の点でもう少し頑張ってほしかったという感は残る(第5トランペットの方が目立ったというのは具合が悪いのでは?)。

 いずれにせよ、神奈川フィルをここまで燃え立つオーケストラに変身させた川瀬賢太郎の功績は、讃えられてしかるべきであろう。演奏終了後のスピーチで川瀬は聴衆に向かい、来月からは常任指揮者にマエストロ沼尻竜典が就任することを改めて告げ、神奈川フィルへの変わらぬ支持を呼びかけた。川瀬自身はこの4月より新たに札幌交響楽団の正指揮者に就任する。

2022・3・4(金)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

       サントリーホール  7時

 来日できなかったファンホ・メナの代わりに、広上淳一が指揮。
 彼は昨年9月から、日本フィルに「フレンド・オブ・JPO(芸術顧問)」という肩書で迎えられており、今回の定期がその就任以来初めての登場、ということになる。
 プログラムは、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」と「ラ・ヴァルス」、それにラフマニノフの「交響曲第3番」という、一風変わった組み合わせ。

 ラヴェルの方は、この2曲が、互いに似たような「持って行き方」の楽曲構築になっていることを思えば、その選曲と配列は大いに意味があると言えるだろう。
 広上と日本フィルの演奏はかなりダイナミックで、ラヴェルにしてはあまりに豪壮雄大に過ぎる━━まあ、ありていに言えば、かなりドカンドカンとやる個所も多かったわけで━━のではないかという感もあったのだが、その強大な音の中にも色彩感が豊富に盛り込まれていたのは、さすが広上の手腕というべきだろう。またそれを具現した日本フィルも、昔の日本フィルとは格段の違い、ということになる。

 その豪壮な演奏の特徴は、ラフマニノフの「交響曲第3番」になると、見事に長所の形を取って現れた。この、少し乱雑な印象も拭えぬ不思議な(?)シンフォニーを、これだけ面白く聴かせてくれたのだから、満足しなくてはなるまい。
 欲を言えば、第1楽章の第2主題をチェロが歌いはじめる個所で、もう少し朗々とした音と、大きな気宇のようなものが欲しかったが、これは明日の、2回目の公演の時には改善されているだろう。

 ともあれ、ラフ・ファイター的な傾向の演奏ではあったが、しかし愉しかった。演奏終了の瞬間、コロナ蔓延下の時節柄禁断の(?)ブラヴォーがどこからか一声飛んでしまったのも、宜なるかなという感。
 今日のコンサートマスターは扇谷泰朋。

2022・3・3(木)びわ湖ホールのワーグナー:「パルジファル」初日

       びわ湖ホール  1時

 「びわ湖ホール プロデュースオペラ」の看板でもあるワーグナー10作品ツィクルス、今年は「パルジファル」。
 コロナ蔓延の影響を受けたこともあって、昨年の「ローエングリン」以降はセミ・ステージ形式上演となっている。しかし音楽自体が素晴らしいものだし、それにじっくりと浸ることができるという点において、なまじ舞台上の景観に気を取られずに楽しめるこの形式の上演は、決して悪いものではない。

 今回の演奏は、例年通りの沼尻竜典指揮の京都市交響楽団とびわ湖ホール声楽アンサンブルと、ソリストは福井敬(パルジファル)、斉木健詞(グルネマンツ)、田崎尚美(クンドリ)、青山貴(アムフォルタス)、妻屋秀和(ティトゥレル)、友清崇(クリングゾル)、西村悟&的場正剛(聖杯の騎士)、八木寿子(天上からの声)その他という顔ぶれ。コンサートマスターは泉原隆志。

 この日の上演では、オーケストラがピット内の配置をそのままに舞台に載り、ソロ歌手陣はステージ手前に位置し、暗示的な演技を加えつつ、譜面なしで歌っていた。合唱は、ステージ奥に多少の視覚的趣向を施して配置されている。

 背景には巨大なスクリーンがあり、そこに動画映像による演出(高橋啓祐)が加わる。映像には、全曲冒頭では幻想的な林の情景なども現れていたが、その他は概して抽象的な映像だ。聴衆は全員が筋金入りのワグネリアンとは限らぬわけだから、この映像演出は効果的だろう。
 第2幕の「魔の口づけ」の場面での不気味な映像の動きなどは、納得できるものだろう。ただ、第3幕の救済の場面では━━それが真の救済か、仮の救済かという解釈の違いはあるだろうが━━もう少し劇的な映像演出があったらと思われる。なお、他の個所にしばしば現れる赤い地に白の線が混じる映像は、なぜか、しゃぶしゃぶのテーブルに置かれた牛肉を連想させた‥‥。

 沼尻竜典が、今年も流麗なワーグナーを聴かせてくれた。テンポはモデラートなものだったが、第1幕前奏曲はトスカニーニばりの遅いテンポで開始されたので、なるほどこれでは会場各所に掲示されているタイム・スケジュール通りに、6時半までかかるのかもしれないと、内心たじろがされたのは事実。だが実際には、各30分の休憩2回を含み、6時少し前には終演となった。まあそれが普通でしょう。

 ともあれ、あまり感情過多にならず、ことさら濃厚な表情にもならず、誇張なしに進めて行くのが、彼のワーグナー演奏である。それは抒情的な美しさは充分だったが、たとえば第1幕と第3幕の場面転換の音楽などには、もう少しデモーニッシュな物凄さがあってもいいのでは、と思われた。それと全曲の大詰めの個所、救済の場面から終結の音楽にかけても、やや淡白に過ぎて、もう少し「泣かせる」盛り上がりも欲しかったのが正直なところ。

 京響は、今回もいい演奏をしてくれた。第1幕でのたっぷりした量感は魅力だったが、第2幕以降は、気のせいか、少し音が薄くなったような感もなくはない。

 歌手陣が素晴らしい。グルネマンツ役の斉木健詞の風格ある声による存在感は見事だったし、クンドリ役の田崎尚美も先日の新国立劇場の「さまよえるオランダ人」をさらに上回る力強い劇的な歌唱で映えた。
 ティトゥレル役の妻屋秀和は(ト書きとは異なり)ステージ上で歌ったが、その底力ある声はモンサルヴァート国に隠然たる力を振るう先王に相応しい。現王アムフォルタス役の青山貴も、重傷に喘ぐ王としてはむしろ元気に見えるほどの歌唱だった。

 一方、パルジファル役の福井敬は、日曜日の2日目公演に備えて少しセーブしていたか? 彼は衣装でも些か損をしていたように思われる。魔人クリングゾル役の友清崇は、悪役としては少し控えめな表現の感。

 これまでの例では、初日はドラマティックな盛り上がりに不足する演奏になることが多かったが、今回は満足できる水準の内容だったのは嬉しい。第2回公演ではさらに良くなるだろう。

2022・3・2(水)武満徹:「弧(アーク)」

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 作品名「弧(アーク)」をタイトルにしたオール武満プロのコンサート。
 演奏されたのは、前半に「地平線のドーリア」「ア・ウェイ・アローンⅡ」「弦楽のためのレクイエム」。後半に「弧(アーク)」の第1部と第2部の全6曲。
 カーチュン・ウォンが東京フィルハーモニー交響楽団を指揮、「弧」では高橋アキがピアノを弾いた。

 このホールが「タケミツメモリアル」という名称を持っているのは、周知の通り。それゆえ、武満の作品のみによる演奏会をこれまでにもいくつか主催している。が、━━そのすべてを聴きに行ったわけではないが━━今日の演奏会は、これまであまり気がつかなかったほど、数多くの聴衆を集めていた。
 これが武満徹の人気の真の高まりと見ていいのかどうかは一概に言い難いけれども、今回は公演間近に朝日新聞に記事が出た途端、チケットの売れ行きが俄然伸び始め、当日売りもかなり多く出たという話だから、少なくとも彼の音楽に興味を持つ人々が以前より増えて来ていることは確かなのであろう。

 演奏も、すこぶる白熱的であった。シンガポール出身で、近年日の出の勢いにあるカーチュン・ウォンが、武満作品を熱心に研究して指揮に臨んだということも興味深く、その指揮がまた極めて鮮烈だった。
 日本人指揮者が手がける武満ものの演奏とは趣を異にし、メリハリの強い、画然とした隈取りの演奏だったことは予想通りで、それだけに音楽も強靭さを増していた。

 前半の3曲のうち、鋭角的な作風の2作のあとに、初期の「弦楽のためのレクイエム」を置くという、何とも意表を衝いた選曲構成だったが、そのためか「レクイエム」における旋律的な性格が異様に際立つという面白い効果も生んでいたようだ。

 後半での、図形楽譜による演奏者の自発的な即興も含めた「弧」の演奏は、おそろしく鋭く挑発的かつ攻撃的で、一種の恐怖感さえ覚えさせるほどのスリリングな趣きさえ出していた。これも日本人指揮者が手がけた時の演奏スタイルとはかなり違う特徴で、武満の音楽が持つ多様性を浮き彫りにする演奏だったといえるだろう。ここでは、高橋アキが久しぶりに「現代音楽の闘士」といった演奏を聴かせてくれたのは嬉しい。

 ウォンは、演奏が終るごとにスコアを聴衆に掲げてみせ、作曲者への敬意を自ら表していた。全部のプログラムが終った後に、彼は日本語で謝礼のスピーチを行なったが、これはマイクを使って欲しかった。

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