2023-11

2022年4月 の記事一覧




2022・4・30(土)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(5)
「晴れ晴れコンサート」晴雅彦(T)と伊藤晴(S)

          滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール  5時

 朝からの強行軍で少々疲れ(トシは争えぬ)、聴かずにホテルへ帰ろうかと思っていたのだが、音楽祭事務局のH氏から「こんな面白いコンサート、聴かなきゃいかんです」と煽られて小ホールに向かう。

 晴さんと晴さんとのデュオで「晴れ晴れ」コンサート、などという趣向を誰が考えたのかと思っていたら、2人のステージトークによれば、発案者は沼尻芸術監督だったとか。
 プログラムは45分枠で、ロルツィングの「密猟者」、プッチーニの「つばめ」、コルンゴルトの「死の都」、レハールの「メリー・ウィドウ」、メンケンの「美女と野獣」、メサジェの「仮面をつけた愛」、バーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」からのアリアやナンバーが歌われ、最後は「メリー・ウィドウ」からの二重唱で華やかに幕を閉じた。ピアノは、これも河原忠之。

 コンサートは専ら晴雅彦のトークで進行され、それはややSpeak too muchのような気もしたが、H氏から「関西ですからね」と言われて、それもそうかと思う。とにかく、この明るいコンサートで体調も回復、気分も「晴れ」た。

2022・4・30(土)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(4)
鈴木優人指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

          滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール  3時30分

 1時間枠でのプログラムは、シューベルトの「未完成交響曲」とベートーヴェンの「運命交響曲」。
 昔のLPレコード時代には定番の組み合せだったが、今日では、こういうプログラムはCDでも演奏会でも、むしろ珍しいだろう。当初指揮する予定だった大植英次に代わり、鈴木優人が登場した。会場はもちろん満席。

 両曲とも、予想していたよりも更に柔らかい響きで、しかも驚くほどストレートに演奏されて行ったのには、初めは些か拍子抜けさせられた。が、ベートーヴェンの「5番」の第4楽章で、それまで抑えていたエネルギーを一気に解放するという仕掛けがあったのを知り、なるほどと感心した次第である。
 鈴木優人は第4楽章の最初の3小節を、殊更遅くすることなく、ほぼイン・テンポで轟かせ始めたが、それは勝利の大行進というよりもむしろ、勝利の舞踏のように感じられたのが面白い。

 この第4楽章は極めて壮烈で情熱的な演奏で、若い鈴木優人が精魂籠めてバトンを振り続ける姿と併せ、すこぶる感動的なものがあった。全曲の大詰めでの確信にあふれた演奏も見事である。鈴木優人と大阪フィルとの相性は良い、という話をある筋から聞いたが、そうだろうな、と思う。

2022・4・30(土)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(3)
「至高の二重奏」戸田弥生と清水和音

         滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール  2時30分

 大ホールでのオーケストラは1時間枠、小ホールでのリサイタルや室内楽は45分枠、というのが今回の音楽祭の公演の構成だ。それぞれの公演時間がクロスすることなく設定されているので、充分にハシゴをすることができるというのが有難い。

 ただし前項のテナー・リサイタルからこの室内楽演奏会の開演までには75分間の「間」があったので、明るい琵琶湖畔を歩いたり、ウィーンの風景の映像が上映されている中ホール(出入り自由)で休んだりしながら、時間を潰す。とにかく人出が多くて賑わっているので、レストランも満席、並ぶのも諦める。

 この室内楽演奏会では、モーツァルトの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ホ短調K,304(300c)」と、ベートーヴェンの「ソナタ第10番ト長調」がプログラムに組まれていた。後者など、滅多に演奏会で聴ける機会がない曲だし、しかも旅先のこういう演奏会で聴くと、この曲はこんなにいい曲だったか、などと改めて感じ入ってしまうという良さがある。

 戸田弥生と清水和音は、ステージでのトークによれば、意外にも今回が初めての協演である由。戸田の凛としたソロは予想通りだが、清水がバランスのいいピアノで合わせていたのには感心した。昔はあんなにも豪快なピアノで鳴らした彼が、「ヴァイオリンのオブリガート付きのピアノ・ソナタ」としての性格がやや残るモーツァルトのソナタで、今はこういう巧みな演奏を聴かせてくれるのだ、などと私は勝手な物思いに耽りながら聴かせていただいたわけで━━。

2022・4・30(土)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(2)
「プリモ登場」宮里直樹と河原忠之

          滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール  0時30分

 今回の音楽祭は、大ホールと小ホールで演奏会が行われ、中ホールではオーストリア政府観光局の協力による映像上映やグッズ販売などが開催されている。とにかく大変な人出なのは目出度い。当節、公演が予定通り開催され、しかも人出で賑わっているなら、それだけでも成功と思わねばなるまい。
 しかも今日は快晴好天なので、ホールから望む琵琶湖と周辺の緑や、坂本や比叡山の遠景などは、全く嘆賞したくなる美しさだ。

 さてこちらのリサイタルは、河原忠之の練達のピアノに支えられての、テノールの宮里直樹の満々たるパワーの歌唱だ。ヴェルディの「リゴレット」と「ルイ―ザ・ミラー」、プッチーニの「蝶々夫人」、グノーの「ロメオとジュリエット」および「ファウスト」からのアリア等が歌われた。

 すべてフル・ヴォイスで歌われたこのテノールの声には、このホールはいかにも小さすぎるだろう。それも、まるまる45分間、休みなしだ。「歌う方も結構疲れますが、聴く皆さんもお疲れになるでしょう」と宮里ご本人もステージから喋って満員の客を笑わせていたが、正直なところ私も耳がびりびりとして来た。
 しかも彼はそのあと、アンコールとして、ドニゼッティの「連隊の娘」からの、例のあの「ハイ・C」を連発するアリアを歌ってみせたのだから、その馬力たるや物凄い。

2022・4・30(土)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(1)
オープニング・コンサート 沼尻竜典指揮京都市交響楽団

         滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール  午前11時

 朝早く起きて新幹線に飛び乗り、10時前に京都駅へ着いたまではよかったが、琵琶湖線が事故とかで混乱している。それでもどうやら大津駅に辿り着くと、今度はタクシーが出払っていて、乗り場には30人以上が延々長蛇の列。バスも姿なし。仕方なくびわ湖ホールまでとぼとぼと歩く羽目になった。
 快晴好天、琵琶湖と新緑とが映え、空気も爽やかという環境のおかげで、いい散歩にはなったが━━開演時間にはついに間に合わず。

 今年の「びわ湖クラシック音楽祭」は、昨日午後から明日夜までの規模で開催されている。テーマは「さようなら、故郷の家よ」というもの。何だか音楽祭が今年で終ってしまうのか、はたまた会場が他のホールへ変わるのか、などと錯覚を起こさせるようなタイトルだが、実際は沼尻芸術監督が退任するということをテーマ名に反映しただけのことだそうな。

 そのマエストロ沼尻が京都市交響楽団を指揮する「オープニング・コンサート」は、彼自身の「トゥーランドットのファンファーレ」と、砂川涼子を迎えてのカタラーニのオペラ「ラ・ワリー」からの「さようなら、故郷の家よ」(!)で幕を開けたが、前述のような次第でこの2曲は聞き逃した。聴けたのは、3曲目に置かれたラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」のみ。

 少々疲れた状態のまま客席に滑り込んだ直後ではあったが、ソリスト小山実稚恵によるラフマニノフのコンチェルトの冒頭の豪壮なクレッシェンドを聴いて、一瞬のうちに演奏に引き込まれる。それ以降は、彼女のピンと張り詰めたブリリアントなソロと、画然たる造型を保った沼尻竜典と京響の音楽に浸った。客席は満杯の盛況だ。

2022・4・28(木)大野和士指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 定期演奏会Cシリーズで、R・シュトラウスの「オーボエ協奏曲」と、マーラーの「交響曲第5番」の組み合わせ。大野が振ったもう一つの4月定期(A)との関連性が感じられるプログラムで、このあたりの曲目編成はなかなかいい。コンサートマスターは今回も矢部達哉。

 協奏曲では、都響首席の広田智之が美しいソロを吹いた。「仲間がソロを吹く」際にオーケストラに生れる独特のあたたかい表情は、理屈では説明できぬもので、今日もそういう雰囲気が都響の演奏の中に感じられる。

 一方、マーラーの「5番」は、先日の「英雄の生涯」と同様に16型編成の威力を発揮させた情熱的な快演ともいうべきもの。特筆すべきはその強靭な推進力であろう。とりわけ第2楽章におけるそれは息を呑ませられるほどの力で、今日の演奏の中でも強く印象に残るものだった。トランペットに不安定な個所が散見されたのは痛恨の極みだが、ホルンの快進撃がそれを補う。
 なお、第4楽章で活躍するハープには、特別出演扱いで名手・吉野直子が登場。友情出演なのかもしれないが、こういう趣向も面白い。

2022・4・26(火)METライブビューイング
R・シュトラウス:「ナクソス島のアリアドネ」

     東劇  6時30分

 3月12日メトロポリタン・オペラ上演生中継ライヴの映像。

 映像の冒頭では、ピーター・ゲルブ支配人が、いつものにこやかな顔でなく、厳しい表情で挨拶。ウクライナの人びとへの激励のメッセージを送り、ウクライナの犠牲者を悼み、さらに「戦争に巻き込まれたロシアの人びと」への同情の念をも述べた。そして「プーチンがウクライナに侵攻した」直後のMET公演の際に、METの合唱団とオーケストラがウクライナ国歌を演奏し、観客が起立してそれに聴き入る光景の映像をも織り込んでいた。

 さて、このR・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」は、エライジャ・モシンスキー演出による再演プロダクション。ほぼ30年前に制作された舞台だから、やはり古さを感じさせることは否めない。
 だが、悲劇と喜劇が同時に上演される設定の「オペラ」の場面で、双方の主役たるアリアドネ(リーゼ・ダーヴィドセン)とツェルビネッタ(ブレンダ・レイ)が微妙な突っ張り合いを見せるあたりの演技がすこぶる巧く表現されているあたりは、2人の歌手たち自身の工夫もあるのだろうが、結構楽しませる。この2人の歌唱と演技には、私も今回初めて接したが、なかなか華やかだ。

 指揮はマレク・ヤノフスキ。METのピットでの雰囲気は少々地味な印象を与えるものの、オーケストラをよく引っ張って、全曲大詰めの叙情的なシュトラウス節を聴かせていた。
 主役歌手陣では他に、作曲家役のイザベル・レナードが完璧な歌唱と演技を示し、音楽教師役のヨハネス・マルティン・クレンツレも流石の巧味を披露している。

 執事長役には、当初トーマス・アレンが発表されていたが、この日は懐かしやヴォルフガング・ブレンデルが登場、コミカルで滋味豊かな舞台を披露した。確か75歳になるはずで、今はもっぱら先生家業とのことだ。公式SEASON BOOKのArtist Rosterにも名前が載っていなかったところからすると、急遽助っ人を買って出たか、頼まれたか━━だったののかもしれない。
 なお、バッカス役のブランドン・ジョヴァノヴィッチ(アメリカ出身)という人は初めて聴いたが、いい声だ。

 このオペラは、私も何度もレコードで聴いたし、ナマ上演にも接してきたが、今日のように映画館の大音量のPAを通して聴くと━━決して過剰な大音量というわけではなかったのだが━━第2部の前半で、R・シュトラウスはよくもまあこのように長時間、高音域のソプラノ(つまりアリアドネとツェルビネッタだ)の声ばかりを連続して使ったものだなと、改めて思わされる。この音に些か疲れたのは事実。ダーヴィドセンの声がひときわビンビンと強く来るから、尚更だ。バッカスが登場する場面に至って、やっとオーケストラが柔らかい甘美な音を響かせ始め、ゆったりとしたテナーの声も聞こえ始めて、やれやれと思う。こんなことは初めてだ。
 9時20分終演。

2022・4・24(日)広上淳一指揮札幌交響楽団

      札幌コンサートホールKitara  1時

 札幌で午後1時から始まる演奏会を聴くには、遅くとも午前9時のフライトに乗らなければならず、それには自宅を7時に出なければならず、それには‥‥という、今の私には極めてきついスケジュールだったが、とにかく予定の時間にはKitara に着いた。
 不思議なことに、この2か月間ばかり悩まされていたある不快な体調不良の症状が、札幌に着いたとたんに、ほとんど消えてしまった! 北海道とは、実に不思議な所である。

 で、今日の札響の定期は、「友情指揮者」(そういう肩書なのだ)の広上淳一の指揮で、武満徹の「群島S.」、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストは小山実稚恵)、R・シュトラウスの「英雄の生涯」。コンサートミストレスは会田莉凡。

 先日、素晴らしい「英雄の生涯」を大野和士と東京都響で聴いた直後に、今度はそれに勝るとも劣らぬ名演の「英雄の生涯」を、広上と札響で聴くことになった。
 この2人の名指揮者のストーリーの描き方は、対照的である。大野が鋭角的な音づくりでオーケストラをダイナミックに鳴らし、気性の激しい英雄が愛や戦いを経て勝利をおさめ、やがて穏やかな隠遁生活に入るといった「生涯」を逐次描き出していったとすれば、広上のそれは、札響を遅めのテンポで豊麗に響かせ、既に落ち着いた境地に入っている英雄が己の「生涯」を感慨深く回想する‥‥といったような表現の違いだろうか。

 冒頭の「英雄の主題」も、大野は戦闘的な激しい英雄像を描きつつ開始したが、広上は総譜指定通りのフォルテで、悠然たるテンポで、落ち着き払った英雄の姿を描き出す。
 また例えば、「英雄の業績」の部分でシュトラウスの過去の作品の断片が次々に流れて行くあたりでは、大野が各々のモティーフを明確に際立たせて「英雄の仕事」を誇示したとすれば、広上はそれらを豊麗な全合奏のあたたかい響きの中に、影のように浮かんでは消えて行くように演奏させ、それらを懐かしい思い出のように描く━━という具合だ。

 とにかく、オーケストラをここまで巧みに制御した広上の力量には、改めて感銘を受ける。
 16型の大編成で鳴り渡る札響の音も、豊かで壮大で、美しい。各パートのソロもいい。ホルンの1番(𡈽谷瞳)は副首席奏者だそうだが、すべての個所で、見事であった。

 そして最も感心させられたのは、4月に正式入団し、今回が定期で初めてのコンマスだったという会田莉凡である。「英雄の伴侶」でのヴァイオリンのソロが、これほどシナをつくるような、甘えるような、色っぽい「伴侶」として表現されたのを、これまでに聴いたことがない。
 なお、もう一人のコンマスである田島高宏は、今日はトップサイドに座って彼女を支えていた。

 ベートーヴェンの「第3協奏曲」では、来日できなかったデジュ・ラーンキの代わりに小山実稚恵がソリストとして登場したが、この彼女のピアノの輝かしさ、きらきらと大粒の清らかな真珠のように煌めく音の美しさ、それに強靭な意志力を漲らせた音楽の高貴さは、これまで聴いたことがなかったほどのものだった。第3楽章など、もう一度この楽章だけでもやってくれないかな、とまで思ったほどである。
 最後にオーケストラだけが終結和音を叩きつける時に、彼女も一緒に気合を入れていたところを見ると、やはり今日は十全に「乗っていた」のだろう。これもいい演奏だった!

 1曲目の武満徹の「群島S.」。武満に「縁の深い」札響も、この曲は今回が最初だとのこと。2本のクラリネットは、今回は客席ではなく、ステージ手前の両翼に立って演奏した。計21人の奏者による演奏は、整然として、あまりにも明快そのもの。

 終演後は、北海道新聞関係のおなじみの知人たちと会食。私がFM東京時代に収録した1976年12月の岩城宏之&札響の最初の「オール・タケミツ・プログラム」の際のエピソードなどを話す。翌朝8時半の帰京フライトに備え、新千歳空港のエア・ターミナル・ホテルに投宿。

2022・4・23(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

      ミューザ川崎シンフォニーホール  5時

 午後2時からの神奈川県民ホール「沼尻竜典の神奈川フィル音楽監督就任記念定期演奏会」とのダブル・ビルを予定していたのだが、このところの妙な体調不良のためそれには間に合わず、5時からの川崎での日本フィルのみ、辛うじて聴くことができた。横浜から回って来た知人の話では、「沼尻&神奈川フィル」の演奏は素晴らしかったとのこと。次の機会には是非聴きに行きたい。

 さて、こちらインキネンと日本フィルは、ベートーヴェン・ツィクルスの第3回にあたる演奏会。「第2交響曲」と「第4交響曲」が取り上げられ、更に冒頭にシベリウスの交響詩「エン・サガ」が演奏された。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 インキネンのベートーヴェンは、これで6曲を聴けたわけだが、各々の曲想に応じ、スタイルをかなり大きく変えるアプローチのようである。仮にブラインドで聴いた場合、この人の指揮だな、とすぐ判るような一種の癖というものは全く━━というか、ほとんどない。それはそれで、一つのやり方であろう。
 ただ、今日の2曲を聴いてある程度明確に感じられた共通の特徴は、やはり明朗闊達で率直で、ひたすら押しに押す若々しい推進性と、たっぷりした和声的な量感とにあふれ、そして人間的なあたたかさを備えたベートーヴェン━━ということだろうか。

 「第2番」は、見事なほどの威容を感じさせ、特に第4楽章での頂点への追い込みは、荒々しさや魔性的な凄さというものではないけれども、聴き手をぐいぐいと煽り立てる力を持っていた。それはベートーヴェンの若き日の、純な気魄を充分に再現した演奏と言えるだろう。この曲の良さを存分に表出した演奏で、もう一度聴いてみたいと思わせる「2番」であった。またもや何処からかブラヴォーの声が飛んだのも無理からぬことだろう。

 この「2番」が非常な快演だったため、休憩後の「4番」が、ちょっと気が抜けてしまったような気がしたのは、もちろん私個人の集中力が欠けた所為もあるだろうが、しかしこの前半の2つの楽章では、演奏も多少「通常の出来」に留まっていたのではなかったろうか? 特に第1楽章の、再現部へ向かってのクレッシェンド個所と、終結部での「興奮度」など、「2番」で聴かせたような勢いがもっと欲しかった。

 第4楽章は、作曲者のメトロノーム指定テンポに多少近い快速で演奏されたため、木管の一部がそれに対応し切れなかった個所もあったものの、まあ「締め」としては結構だったでしょう。現の響きは、前回同様に、美しい。

 冒頭の「エン・サガ(ある伝説)」は、私の好きでたまらない曲だが(全曲終結の余韻嫋々として茫漠たる寂寥感!)、今日の演奏は、この曲に不可欠な神秘性が不足しているように感じられて、少々腑に落ちないものがあった。
 もともとインキネンのシベリウスは、森と湖と霧の奥から響いて来るようなタイプではなく、もっと近代音楽としての鋭い性格を強く打ち出したスタイルであることは承知しており、それは交響曲での彼の指揮においては納得できているのだが━━。

2022・4・22(金)高関健指揮東京シティ・フィルのブルックナー

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団と常任指揮者・高関健が、三善晃の「交響三章」とブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」で、前月定期に続く快演を聴かせてくれた。コンサートマスターは特別客演の荒井英治。

 前半に演奏された三善晃の「交響三章」は、私個人の受容体験からすればだが、あの渡邉暁雄と日本フィルによる1960年の初演の際の印象とは全く別の作品のように思えるほどに、音楽が輝かしく雄弁で、壮麗かつ精妙なものに感じられた。
 もちろん当時の私の理解力が乏しかったことは間違いない。しかし、現在の日本のオーケストラの水準の高さが、作品本来の特質をいっそう明確に浮き彫りにしているのも事実なのではないか。この曲の良さを改めて強く感じさせる演奏であった。


 休憩後には、ブルックナーの「第4交響曲」。今回取り上げられたのは、最近話題になっている「コーストヴェット校訂版」である。
 やれハース版だ、ノーヴァク版だ、レーヴェ改訂版だ、と、ただでさえややこしい話が付きまとうブルックナーの交響曲に、またコーストヴェット版などというのが出て来た。私のように、筋金入りのブルックナー・マニアを自称する者にとっては興味津々だが、他方、プログラム解説を書く商売という立場からすると、「またかい」と辟易させられるのも事実なのだ。

 ただ、このコーストヴェット版というのは、全く新しい別の版ではなく、大雑把に言えば、これまで在った3種の版━━①「1874年版」(初稿)、②「1878/80年版」(本人による第2稿、ハース版とノーヴァク版の基で、所謂現行版)、③「1888年版」(レーヴェ他による改訂稿)とを、最近の研究に基づき再校訂したようなものだとのことだから、さほど神経質になる必要もなさそうである(注、このコーストヴェット版3種の演奏を1セットにした面白いCDが最近出た━━キング・インターナショナル KKC―6613~6)。

 今日のマエストロ高関のプレトークによれば、今日演奏する「コーストヴェット校訂による第2稿」は、ほぼハース版に近いものの由。
 ただし高関自身がオリジナルの筆写譜を含めて研究した結果を織り込んでのものになるという注釈がついて、「今日は、基本的にはハース版で演奏しようと思いますが、怪しいと思ったところは直しました。ですから途中で、アリャ?と思うところがいくつかあるはずです」と解説された。ということは、高関校訂版か。

 確かに、私も聴いていてアリャと目を丸くしたところがある。
 例えば、ハース版総譜(ブライトコップ&ヘルテル出版)第1楽章の第73~75小節と、第435~437小節におけるホルンの全音符等が消えて、完全なゲネラル・パウゼになっていたこと!

 因みに、前出のフルシャ指揮の同じ「第2稿」の演奏では、ハース版総譜と同様、ちゃんと(?)ホルンが3小節にわたり長い音を吹いている。ここでホルンが吹いていないのは、1874年の初稿版総譜(ノーヴァク校訂・国際ブルックナー協会出版)のほうなのである‥‥。となるとこれは、やはり高関校訂版━━というわけか?

 版の問題は別として、高関とシティ・フィルの演奏は、極めて格調の高い、立派なものだった。1階席後方下手寄りで聴いた印象では、響きも豊かで重厚で、ブルックナーの交響曲の演奏としても、良い意味での王道を往くものだったであろう。

 ただ、やたら出番の多いホルン群は実によく頑張っていたものの、しかしやはり、少し苦しい。この辺はプロなのだから、やはりもっとできるだけ完璧に吹いてもらわなければならない。とはいえ、第3楽章でホルンがトランペットおよびフルートと対話を交わし絡んで行く個所のように「ぴたりと決まった」部分も非常に多く、そこは実に素晴らしい調和を為していたのだから、もう一息というところである。

 それにしても、高関健は、シティ・フィルをよくここまで引っ張った。彼の指導力と、それにこのようなレパートリーを手がけて聴衆を惹きつける力量は、絶賛されるべきである。

2022・4・21(木)大野和士指揮東京都交響楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 予定されたシューマンの「ピアノ協奏曲」とR・シュトラウスの「英雄の生涯」の前に、ウクライナ出身の作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフの「ウクライナへの祈り」という曲が追加され演奏された。
 友部衆樹さんの解説ブリーフによると、これは2014年の反政府デモ「尊厳の革命」に際し流血の犠牲となった市民を悼んで作曲された合唱曲集の一つをもとにした管弦楽編曲版である由。「主よ、ウクライナを守り給え」という原曲の歌詞をそのまま忍ばせる叙情的な曲想をもつ小品で、その美しさゆえに聴き手の心を締めつける。
 今年3月にデンマークで初演されているとのことだが、今回の日本初演も時宜を得た企画であろう。

 プログラム本体の前半はシューマンの「ピアノ協奏曲」で、ソリストは藤田真央。両者の一種くぐもった音色が、シューマンの翳りある心理状態といったものを的確に描き出していた。
 ただ、藤田真央の弾き方はかなり「個性的」になっていて、時にぎくりとさせられるところがある。聴き慣れたこの曲が新鮮なイメージで蘇ると言えば言えようが、安心して聴いていられるような演奏というわけには行かない。ソロ・アンコールでのモーツァルト「K.545」の第1楽章での後半の装飾豊かな演奏はその補完ともいうべきか。

 後半は、R・シュトラウスの「英雄の生涯」。大野と都響の「英雄の生涯」を聴いたのは、私にとっては14年ぶり(☞2008年9月13日以来)だと思う。
 コンサートマスターはあの時と同じ矢部達哉だったが、しかし今日の彼の演奏は、あの時とは最早比較にならぬほどの表情の豊かさ━━つまり「英雄の伴侶」役としての表現がより多彩に、しかも官能的になっていたのに魅惑された。

 この「英雄の伴侶」の場面でのヴァイオリン・ソロを、恰もコンチェルトのように弾きまくるコンサートマスターは意外に多いのだが、矢部達哉はそんな愚を繰り返さない。ゆえにこの場面では、大野の起伏豊かな指揮と相まって、英雄とその伴侶が本気で口喧嘩をし、本気で睦みあうといった光景も、すこぶる見事に描写されていたのである。

 大野の指揮は、殊更に矯めをつくるような演出を避け、滔々と流れるストレートな構築を採っていた。冒頭の低弦からしてメリハリが強烈だし、その後のさまざまなモティーフの交錯なども全て明晰なので、曲が実に面白く感じられる。「英雄の戦い」での壮烈な推進力は目覚ましく、実に流れがいい。
 そして、「英雄の引退」から最後の終結にかけての叙情的な部分でもオーケストラは均衡豊かに歌い続け、極めて美しい。矢部のみならず各パートのソロがすべて見事に決まっていたことも、この曲をいっそう表情豊かに、微細なニュアンスを以て聴かせてくれた一因であろう。

 以上は、2階席正面で聴いた印象だ(このホールは、1階席と2階席でかなり音響が違うので、演奏の特徴まで異なって聞こえることがある)。

 ともあれ、今日の演奏は、私がこの30年ほどの間に聴いた多くの「英雄の生涯」の中でも、屈指のものではないかという気がする。ただ、━━このホールは、この演奏には小さすぎたろう。もっと大きなステージと音響空間を持つホールで聴きたかったな、と思わせる演奏であった。

2022・4・17(日)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 2019年10月に開始されながら、新型コロナ蔓延のため中断されていたインキネンと日本フィルの「ベートーヴェン交響曲ツィクルス」がついに再開。今日は「第6番《田園》」と「第5番《運命》」が取り上げられた。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 「田園」を端整かつしなやかに、「運命」を劇的かつ重厚に、というように対照づけた指揮は予想通り。

 「田園交響曲」での弦のふくよかな美しさは以前の日本フィルからはあまり聴かれなかった類のもので、これはやはりインキネンによってもたらされた美点であろう。今日の演奏はこの弦の爽やかで優麗な音色を基盤として、快速のテンポで進められ、第4楽章と第5楽章をダイナミズムの頂点として構築されていた。
 ただ欲を言えば、第1楽章はあれほど精妙緻密につくられながらも、流れがやや平板に感じられたような・・・・。これはオーケストラが何故かえらく緊張していたように聞こえたこととも関係があるかもしれない。管楽器群にも些か不安定な個所がいくつか。

 「第5交響曲」では、第4楽章での熱烈な演奏が興奮を呼んだ。提示部が反復され始めた個所でのエキサイティングな盛り上がりなど、なかなかのものだったし、展開部でのひたすら押して行く昂揚や、終結部で和音をこれでもかと叩きつけるくだりでの隙のない緊張力も見事なものである。
 全曲最後のハ長調の終結和音を激しく叩きつけるかと思いきや、一捻りして少し柔らかめの響きで入るという手法は、以前にも誰だったか、ブラームスの交響曲で使った指揮者がいたが━━思い出せないが、凝ったやり方だ。

 この演奏のあとでは、「(感染対策上)御遠慮下さい」と言われているブラヴォーが何処からか飛んだ。気持は解る。私も、もうそろそろ、あの壮烈に湧き上がるブラヴォーの声のハーモニーが聞きたくなって来た。

2022・4・16(土)4オケの4大シンフォニー

      フェスティバルホール(大阪) 2時

 所謂「大阪4オケ」のシリーズ。今年で8回目とか。大阪のメジャーな4つのオーケストラが一堂に会し、順に熱演を披露するという奇抜なイヴェント。東京ではまず無理な企画だろう。
 今日出演した尾高忠明氏も、「こんなことをやるのは(世界でも)大阪だけですよ」と言って客席を笑わせていたが、何にせよ、1回の演奏会で4つのオーケストラを聴けるというのだからトクなことは間違いない。今日は完売の盛況。

 最初に藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団がシューマンの「第1交響曲《春》」を、次に外山雄三指揮大阪交響楽団がモーツァルトの「ジュピター交響曲」を演奏する。
 休憩後には尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団がチャイコフスキーの「第5交響曲」を、秋山和慶指揮日本センチュリー交響楽団がドヴォルジャークの「新世界交響曲」を演奏するというプログラムだ。

 曲の間には、4つのオーケストラの演奏会を聴ける招待券を計8組に贈呈する抽選が、司会進行役の三代澤康司と、演奏を終ったばかりの指揮者とで行なわれるというわけで、この趣向も毎回人気を集めている。この抽選の間にステージのセット替えが猛烈な勢いで行なわれるわけである。

 さて演奏の方だが、各オケが各々の面目にかけて競い合うだけあって、すこぶる聴き応えのある演奏になることは例年通りである。
 まず藤岡幸夫と関西フィルが、シューマンの「春」を、よく言えばやや豪快な音色で、言い方を変えれば、さながら不良青年の如き闊達な表情で演奏した。第1楽章など意外にイン・テンポの演奏だったが、もう少しテンポを流動的に設計すれば更に音楽が躍動的になったのではと思われる。だが、第2楽章の主題のフレーズの膨らませ方は魅力的だった。コンサートマスターはギオルギ・バブアゼ。

 入れ替わりに登場した大阪響の演奏では、来月には91歳になる外山雄三の元気な指揮に感銘を受ける。「ジュピター」の両端楽章の提示部を反復するという長丁場を椅子も使わず立ち続けて指揮、そのあとも休みなく抽選の作業を行い、司会者への毒舌とツッコミも相変わらずなのだから、大したものである。
 演奏の方は、悠然たるイン・テンポではあったが、終楽章ではひときわ力感を強めてクライマックスを構築したのは立派だ。大響の瑞々しくしっとりしたアンサンブルも印象的で、これはコンサートマスターの森下幸路のリーダーシップによるところも大きいだろう。

 休憩後に登場した尾高と大フィルは、4オケのうち唯一の⒗型編成(コンサートマスターは須山暢大)で、どうだと言わんばかりの豪壮な演奏を誇示した。さすがの威容で、大フィルは毎年こういう調子だ。使い慣れたフェスティバルホールの空間を楽々と満たした量感たっぷりの「5番」。
 尾高は、桐朋学園時代の恩師・齋藤秀雄からこの曲の指揮で褒められたという話を披露、客席の拍手を誘う。お客の笑いや拍手などの反応の早さは流石に大阪ならではのもので、羨ましい。

 大トリは秋山と日本センチュリー響だ。「チャイコの5番」と「新世界」とを休憩なしに続けて聴くなどという体験は初めてで、これはまさに体力勝負である。
 秋山の指揮は緻密で、実にバランスがよく、第2楽章のしっとりした郷愁感などは練達の秋山ならではの至芸であろう。
 だが、何しろその前に尾高と大フィルがあまりに豪壮なクライマックスをつくってしまったので、ちょっと損な役回りになったのでは、という気がしないでもない。ただしそう思ったのは私が気力体力共に些か消耗していたからかもしれず、他のお客さんは演奏に充分堪能したかもしれない。

 なお、電車少年の秋山はドヴォルジャークの鉄道好きの話を披露し、これも客席を喜ばせた。抽選の際は秋山の指揮でドラムロールとシンバルを入れて盛り上げたが━━どうでもいいけれど━━その使い方のタイミングは、あれは違うんじゃなかろうか。
 終演は5時45分頃。

2022・4・15(金)東京・春・音楽祭「トゥーランドット」

       東京文化会館大ホール  6時30分

 「東京春祭プッチーニ・シリーズvol.3」と銘打たれているが、vol.1にあたる2020年の「3部作」とvol.2にあたる「ラ・ボエーム」とは、コロナ禍の煽りを喰らい、いずれも中止になっているので、少々紛らわしかろう。
 だがともあれ、今年「トゥーランドット」が予定通り上演されたのは有難いことであった。予定されていた外国歌手勢も揃って来日、迎え撃った日本勢とともに壮烈な声のバトルを繰り広げた。

 配役と演奏は、リカルダ・メルベート(中国の姫トゥーランドット)、ステファノ・ラ・コッラ(韃靼の王子カラフ)、セレーネ・ザネッティ(奴隷女リュー)、シム・インスン(韃靼の前王ティムール)、市川和彦(中国皇帝アルトゥム)、萩原潤(中国の役人ピン)、児玉和弘(同パン)、糸賀修平(同ポン)、井出壮志朗(役人)、東京オペラシンガーズ、東京少年少女合唱団、読売日本交響楽団、ピエール・ジョルジョ・モランディ(指揮)という顔ぶれ。
 演奏会形式だが、若干の身振りによる演技は付いた。ただ、歌手たちは歌う時しかステージに現れず、歌い終わるとすぐ引っ込んでしまうので、初めて聴く人たちはストーリーを想像するのに少々不便を感じたかもしれない。

 その歌手たち、全員が冒頭からパワー全開で飛ばすこと、飛ばすこと。主役から脇役に至るまで、ここぞ己が聴かせどころとばかり、声の饗宴を繰り広げる。痛快な演奏だ。
 カラフ王子のラ・コッラは少し強引な歌い方のところもあり、少し走り気味(「だれも寝てはならぬ」の締めの個所あたり)になったりしたところもあるが、そんな瑕疵は微々たるものだ。
 儲け役たるリューを歌ったザネッティは予想通り、芯の強い声の裡に清楚可憐な表現をこめて映える。

 そんなこんなで、第2幕中盤に満を持して登場する題名役のリカルダ・メルベートが少し霞む感じになってしまったのは痛し痒し。これまでワーグナーものなどで聴き慣れて来た彼女の声が、このトゥーランドットに向いているのかどうか、正直のところ私には判断がつきかねるのだが、ただ、感情表現の巧味という点では、確かにそれなりの力はあるだろう。

 モランディの指揮は、全てをダイナミックに鳴らし、速めのテンポで全曲を一気呵成に押し通すスタイルで、劇的な迫力は充分だ。
 第2幕前半の、ピン、パン、ポンの3役人があれこれ望郷の念や愚痴をこもごも語り合う場面は、指揮者によっては同幕後半のスペクタクルな「謎解き」場面への序奏か間奏曲のような扱いにされてしまい、時に退屈になることもあるのだが、モランディはここをもリズミカルに指揮し、3人の歌手たちのやりとりを華やかに浮き上がらせ、彼らに主役同様の存在感を与えることによってドラマを引き締めていた。

 そして、彼の指揮のもと、読響が持ち前の馬力を生かして豪快に鳴り響く。オペラのオーケストラはこのくらい劇的にドラマを語った方がいい。
 それに東京オペラシンガーズの合唱も強力で、オケの咆哮をすら圧するほどの勢いで「群衆」の存在感を出した。この合唱団は先日の「ローエングリン」でも素晴らしい合唱を聴かせたし、見事な本領発揮であった。
 東京少年少女合唱隊のコーラスも可憐だったが、あんなに出たり入ったりを繰り返す舞台進行にされては、チト気の毒だ。

2022・4・12(火)東京・春・音楽祭 アンドレアス・シュタイアー

        東京文化会館小ホール  7時

 アンドレアス・シュタイアーが、モダン・ピアノでシューベルトを弾く。プログラムは、「即興曲ハ短調Op.90-1」と「楽興の時」(6曲)、および「ソナタ第21番変ロ長調D960」。

 「即興曲」の冒頭、付点2分音符の和音がペダルいっぱい引き延ばされ、そのエコーの中に最初の4小節がテヌートで響きはじめたと思うと、続くスタッカート付きの4小節は、今度は突然踊るように軽快な、弾むような行進曲調に変わる━━という実にユニークな開始。ここからすでに、何か新鮮な感覚が演奏全体にあふれはじめているのが感じられる。

 もっとも、そのあとの演奏が全てこういった趣向で進められたわけではない。むしろ目立ったのは、シュタイアーの演奏が、モダン・ピアノを使用しながらも、それを恰もフォルテピアノで弾いているかのような印象を生み出していたことだろう。
 しかもその明快な響きに加えて、彼はこの長大なソナタに、画然とした形式感、構成感といったものを蘇らせる。

 ロマンティックで陶酔的に演奏された場合、このソナタは、特に第1楽章など、かなりだらだらとした曲になってしまう(それゆえ、所謂「眠くなる」)ことが多いが、シュタイアーの演奏では、曲の長さを感じさせない。その上、あくまで切れが良く、明晰な光に照らされているような音楽でありながら、シューベルト特有の巧みな転調がつくり出す光と影の変化といったものは、余すところなく具現されているのである。こういう「変ロ長調ソナタ」はいい。

2022・4・10(日)東京・春・音楽祭 マーラー「3番」

      東京文化会館大ホール  3時

 マーラーの「交響曲第3番」を、アレクサンダー・ソディ指揮、東京都交響楽団と東京オペラシンガーズ(女声)、東京少年少女合唱隊、清水華澄(Ms)の演奏で聴く。

 これは「東京春祭 合唱の芸術シリーズvol.9」と題されたプログラム。
 周知の通り、100分近くに及ぶこの6楽章制の長大な交響曲の中では、合唱はただ第5楽章のみ、4分足らずの時間しか登場しない。なのに何故「合唱の芸術シリーズ」の一環になるのか解せないが━━しかしその2つの合唱団の演奏が、実に軽やかで爽やかで歯切れよい快演だったのには感心した。
 重苦しい第4楽章のあとに突然合唱がリズミカルに入って来た時の、涼風がさっと吹き抜けて行くような爽快感。出番は短いが、存在感という点では、見事に演奏会のテーマに相応しい責任を果たしていた。

 指揮者のアレクサンダー・ソディという人は、私はナマでは初めて聴いたが、この人もなかなか切れのいい演奏をつくる。オックスフォード生れで、未だ39歳なる由。現在マンハイム国立劇場の音楽監督を務めている。その劇場のオーケストラを指揮した「トゥーランガリラ交響曲」のCD(ナクソス)でも割り切った精力的な演奏をしているが、今回のマーラーの「第3交響曲」の演奏でも、すこぶる若々しい、覇気に富んだ指揮を聴かせてくれた。

 それは、冒頭のホルン群の主題の明晰なリズム感、それに続いて全管弦楽が叩きつける和音の勢いのよさなどから、早くも感じ取れただろう。全体に速めのテンポが採られ、部分的には素っ気なさを感じさせるところもあるが、この長大な作品に弛緩を全く生じさせなかったという良さもあった。
 ゆっくりと昂揚して行く終楽章では、陶酔的な感激に浸るというよりは、力づくで盛り上げて行くといった感もないではなかったが、長く延ばされた和音で全曲が閉じられた瞬間の快さは充分である。
 東京都響と清水華澄も、もちろん快演だった。

2022・4・9(土)東京・春・音楽祭 シュタイアー&メルニコフ

      東京文化会館小ホール  6時

 アンドレアス・シュタイアーとアレクサンドル・メルニコフが、モダン・ピアノの連弾でシューベルトの作品集を弾く。

 第1部では「6つの大行進曲」第3番、「4つのレントラー」、「6つのポロネーズ」第1番、「2つの性格的な行進曲」第1番、「フランス風の主題によるディヴェルティスマン」第2番、「ロンドD951」という6曲を演奏したが、━━多分3曲弾いて1回「引っ込む」ステージ進行だろうと思っていたら、何と御両所はこの6曲を続けざまに弾いてしまった。計45分。長い。

 もともと1曲として作られたものを45分間聴くのと、別々の小品集を45分間続けて聴くのとは、受容の感覚が根本的に違う。シューベルト好きの私も、これには些か疲れた。まあしかし、この場合は、作品群の出来、質━━ということも、無関係ではないだろう。

 第2部では「創作主題による8つの変奏曲」と「幻想曲ヘ短調」が続けて演奏されたが、後者の曲と、その演奏の素晴らしさは、疲れを一気に吹き飛ばしてくれた。この第2部ではメルニコフが低音の方に回ったためもあって、和声の響きの重心が下がり、しかもあの魅惑的なハーモニーがいっそうの膨らみを以て響くことになったとも言えようか。この「幻想曲」1曲だけで、今日の演奏会は充分満足、という思い。

2022・4・8(金)パシフィックフィルハーモニア東京

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 東京ニューシティ管弦楽団が「パシフィックフィルハーモニア東京」と改称、指揮者陣も一新してスタートを切った。シティからパシフィックへ拡がったわけで、名古屋にセントラル愛知響あれば、東京にパシフィックフィルハーモニアあり、ということになりますか。
 いや、余談はともかく、このオーケストラのこれまでのイメージを全面的に変えるためには、この改称は必然的な方法だったかもしれない。

 今日は、その新しい船出の定期演奏会。
 パシフィックフィルハーモニア東京(以下PPTと略させていただく)の音楽監督は飯森範親だが、今日は彼の指揮ではなく(ご本人は客席で眼を、いや耳を光らせて居られた)、鈴木秀美の客演指揮である。
 コンサートマスターは執行恒宏。プログラム冊子に掲載されているメンバー表によれば、正規楽員による編成は弦8型のようだが、今日は10型(と見えたが)で演奏が行われていた。

 プログラムは、ハイドンの「交響曲第103番変ホ長調《太鼓連打》」と、ベートーヴェンの「交響曲第3番変ホ長調《英雄》」という「狙いの明白な」組み合わせ。
 開演早々、指揮者がまだ出て来ないうちにティンパニがいきなり猛烈な勢いで曲冒頭のカデンツァを叩き始め、そのドラムロールの中でやおら指揮者が登場して来るという、まさにハイドンの総譜指定の「イントラ―ダ(入場)」の語を具現化したような演出が行われたのはいかにも鈴木秀美の演奏会らしく、ニヤリとさせられる。

 演奏はピリオド楽器スタイルのノン・ヴィブラート奏法によるものだったが、オケはそれにまだあまり慣れていないのか、あるいは緊張のためでもあるのか、ハイドンでの演奏は何かガサガサとして、音色が非常に荒っぽく、音楽全体が平板で、緊迫感も希薄なものに感じられてしまったのは惜しい。
 それにこれはマエストロ鈴木秀美の演奏設計が意図的にそうだったのかもしれないが、第2楽章と第3楽章との音楽の性格分けが━━テンポ感も含め━━あまり明確に感じられなかったこともあって、交響曲全体の演奏が画一的な流れに終始してしまった、という印象を与えられてしまったのだが‥‥。

 しかし、休憩後の「英雄交響曲」に入るや、演奏にこめられた気合たるや並々ならず、気迫のこもった音楽が展開された。ノン・ヴィブラート奏法特有の鋭い音のぶつかり合いにより、この曲の革命的な性格も余すところなく浮き彫りにされる。オーケストラのバランスと音色も楽章を追うごとに密度を高めて行き、鈴木秀美がオケにかける猛烈な揺さぶりにもますます柔軟に応えて行ったように感じられた。これはいい演奏だった。
 特にホルンとティンパニの快演は光る。これでオケ全体の音色がもっと美しくなるよう、しっかりした指揮者がトレーニングすれば、このPPTへの期待もいっそう高まって来るだろう。

 あとは、いかにしてもっと多くのお客さんを動員するかだ。名曲主義のプログラムで人集めを狙うか、個性的なプログラム編成で独自の存在感を打ち出すか。それは音楽監督とオケの運営者との選択如何によるが、さしあたりPPTは後者を目指しているものと見える。いずれにせよ「良い演奏」を続けていれば、東京シティ・フィルがそれを実現しつつあるように、温かい心を持ったお客は次第に集まって来るものだ。

2022・4・7(木)東京・春・音楽祭 アレクサンドル・メルニコフ

       東京文化会館小ホール  7時

 モスクワ生まれのピアニスト、メルニコフが、予定通り来日。今回はモダン・ピアノでシューベルトの作品を演奏するというリサイタルだ。
 プログラムは、「ソナタ第13番イ長調D664」、「3つのピアノ曲D946」、「ソナタ第18番ト長調D894」。

 重低音に基盤を置き、分厚い和声をずしんずしんと響かせ、考え深く、一歩一歩を確認するように進んで行く。メルニコフって、以前はこういう演奏をしていたっけ?と面食らわせられるようなシューベルトだが、とにかくそのデュナミークの幅の大きさと、遅めのテンポを微細に伸縮させての感情の動きの表出は、シューベルトの演奏としてはユニークなスタイルのひとつだろう。

 「第18番」のソナタなどでは、時にびっくりするような最強音を爆発させるのだが、それが少しも攻撃的な音楽になっていないところも面白い。
 この曲の終楽章では、あの特徴あるリズムを繰り返し強靭に叩きつけて音楽を煽って行く。それゆえに全曲の最後にそのリズムを突然柔らかく穏やかな再弱音にし、「これで私の話はお終いです」といった雰囲気で結んだあたりの呼吸が、何とも絶妙に感じられるのだった。

2022・4・6(水)新国立劇場「ばらの騎士」(2日目公演)

      新国立劇場オペラパレス  6時

 ジョナサン・ミラーの演出、イザベラ・バイウォーターの装置・衣装によるR・シュトラウスの「ばらの騎士」。
 ノヴォラツスキー芸術監督時代の2007年にペーター・シュナイダー指揮でプレミエされて以降、2011年にマンフレッド・マイヤーホーファー、2015年にシュテファン・ショルテス、2017年にウルフ・シルマーの指揮で上演されて来た。
 今回が5度目の上演で、指揮はサッシャ・ゲッツェルである。オケは東京フィルハーモニー交響楽団。

 新型コロナ蔓延時期のため、来日できた歌手は元帥夫人役のアンネッテ・ダッシュのみで、その他全員が日本人歌手という今回の布陣。しかし、その日本勢も、特に演奏の面では充分な水準を確保していた。
 主要歌手陣は以下の通り━━小林由佳(オクタヴィアン)、妻屋秀和(オックス男爵)、安井陽子(ゾフィー)、与那城敬(ファーニナル)、森谷真理(マリアンネ)、内山信吾(ヴァルツァッキ)、加納悦子(アンニーナ)、大塚博章(警部)、晴雅彦(公証人)、宮里直樹(テノール歌手)他。

 アンネッテ・ダッシュは、前記のこれまでの上演における4人の元帥夫人━━カミッラ・ニールント、ベーンケ、アンナ・シュヴァーネヴィルムス、リカルダ・メルベートらに勝るとも劣らない歌唱と演技だ。大人っぽく、ややストレスを秘めているような、少し性格のきつい(これはメイクの関係もあったかもしれない)元帥夫人像である。
 第1幕の幕切れの孤独なモノローグの場面の演技は比較的あっさりしたものだったが、全曲のラストシーンにおける、若い恋人を諦めねばならぬ苦悩(三重唱)や、ファーニナルに「若い人たちはこういうものなんですかね」と言われて侘しく「ja,ja!」と受けるくだり、あるいはオクタヴィアンから手に別れのキスを受けた瞬間など、複雑な精神状態に陥る場面での演技の微細さと巧妙さは、流石に卓越したものであった。

 オックス男爵の妻屋秀和は、まさに大奮闘といった感だろう。大きな体格を駆使して横柄に振舞いながらも、野卑になることなく、やや人の好い、愛すべきキャラとしての性格を残した演技は納得が行く。こういうオックスは2011年のフランツ・ハヴラタも演じていたから、ジョナサン・ミラーの演出の特徴なのかもしれない。

 オクタヴィアンの小林由佳も、若く気負った少年貴族を充分に演じていた。安井陽子が演じるゾフィーは2011年の上演以来だが、平民の娘というべき役柄を可愛らしく表現している。
 ただし、このオクタヴィアンとゾフィーは、毎回そうなのだが、どうもメイクが悪い。みんな、何故か老け顔になってしまうのである。

 サッシャ・ゲッツェルの指揮は、テンポも速めで切れが良く、ワルツの表情も好く、闊達で小気味よい音楽をつくる。それ自体は大変結構なのだが、演奏全体に、もう少し詩情といったものがあってもよかったであろう。それにオーケストラの最強奏個所での鳴らし方がワイルドで、序奏などけたたましい限りだったし、特に第3幕の三重唱部分など、陶酔を打ち壊すようなオケの響かせ方だったのには少々辟易した。

 オケの音色が美しくない━━というより、特に管楽器群の音色が汚いのが問題なのだが、これは東京フィル自体にも大きな責任があるだろう。ゲッツェルのこんなに荒々しい指揮を聴いたのは、初めてだ。東京文化会館のピットで東京フィルと「フィガロの結婚」を演奏した時だって、もっと綺麗な音を出していたのである。
 終演は10時20分。

2022・4・1(金)東京・春・音楽祭「ベンジャミン・ブリテンの世界」

      東京文化会館大ホール  7時

 加藤昌則の企画と構成による。彼のステージでの解説はすこぶる明解なので、楽しめる内容になっている。
 今日は前半に「民謡編曲集」が歌われ、後半にはオペラ「ノアの洪水」が演奏会形式で上演された。なかなか面白い。この音楽祭の声望を高める企画の一つと言っていいだろう。

 「民謡編曲集」では、「サリー・ガーデン」「かわいいポリー・オリヴァ―」「とねりこの木立」「ニュー・キャッスルから来たのでは?」「ディー川の水車屋」「木々は高々と育ち」「谷の小川」の7曲が、波多野睦美(S)と加藤昌則(解説及びピアノ)により演奏された。1曲のみ、辻本玲(vc)も参加している。字幕付なので、内容が解り易いのも有難い。

 メイン・プロの「ノアの洪水」は、言うまでもなく、あの有名な物語を題材としたもの。ブリテンはこれを、コミカルな子供用オペラといった雰囲気の作品に仕上げている。彼の人間性を偲ばせるものとしても興味深い。

 演奏の編成は大がかりだ。指揮はもちろん加藤昌則。オーケストラはBRTアンサンブルで、これには川田知子(vn)や須田祥子(va)、辻本玲(vc)、池松宏(cb)、吉澤実(bfl)らの名手たちと、ブリテンの指示によるアマチュア奏者たちが加わっている。児童合唱はNHK東京児童合唱団。声楽ソリストは宮本益光(ノア)と波多野睦美(その妻)他。「神の声」として玉置孝匡も出演した(PAを通じての物々しい託宣。音量がちと大きい)。

 今回は演奏会形式上演のため演技もなかったが、動物たちが船に乗り込む場面で「キリエ・エレイソン」がマーチのリズムに乗って歌われるくだり(ここは音楽的にも秀逸なユーモアの個所だ)で、ステージ奥に並んだカラフルな服装の児童合唱団が代わる代わる行進のジェスチュアをしつつ歌うという趣向も凝らされていた。
 ハンドベルだけでなく、サンドペーターやマグカップまで楽器として使用されるこの「ブリテン版神秘劇」。ノアの妻の悪妻ぶりも織り込まれ、いかにも街(オールドバラ)の教会で住民たちが自ら参加して楽しんだ祝祭神秘劇に相応しい雰囲気を感じさせるだろう。

 ただし、自ら創造した人間や獣の不道徳に激怒した神が、「復讐」と称して彼らを滅ぼし、ただノアとその家族のみを許して救うというこの物語は━━何とも都合のいい話で、納得し難い筋書であり、キリスト教徒でない聴き手にとっては多少白ける要素もあることは致し方ない。

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