2023-12

2008年6月 の記事一覧




2008・6・30(月)オラリー・エルツ指揮ルツェルン交響楽団

  サントリーホール

 1806年創立というオーケストラ、客演指揮者オラリー・エルツ(エストニア出身)とともに初来日。

 いきなり悪口になって何だが、1曲目の「魔弾の射手」序曲冒頭、4本のホルンのバランスのあまりの酷さには仰天した。1番奏者の音がほとんど聞こえない上に、他の3人が勝手気ままな音量で吹きまくるので、あの有名な旋律と和音の骨格が滅茶苦茶になってしまっているのだ。特に4番奏者の音の粗さには唖然とさせられるほど。ホルン奏者たちの感覚を疑うが、こんな演奏を許す指揮者もどうかしている。

 この曲が終わった時点で余程帰ろうかと思ったくらいだが、幸いに次のショパンの「ピアノ協奏曲第2番」では、ニコライ・トカレフの瑞々しいソロとともにオーケストラも盛り返し、後半のブラームスの「第1交響曲」では、とりあえず渾身の大熱演を展開してくれた。  
 ホルン・セクションもその後はちゃんと吹いてくれたが、全般にいささか粗く、そして強い。上手ければ小気味良いという段階の音量で、本来ならブラームスの交響曲ではこのくらいホルンが強い方が面白いのではあるが・・・・。
 総じて金管が勝っていた感じのバランスだが、12型の弦があまり大きな音を出さないというオーケストラでもあるのだろう。

2008・6・29(日)若杉弘指揮 ドビュッシー:「ペレアスとメリザンド」

    新国立劇場中劇場

 夏風邪らしきものにやられてしまい、昨日の二期会「ナクソス島のアリアドネ」をはじめ、3日間を棒に振ってしまった。今日は何とか予定に従い、新国立劇場芸術監督・若杉弘が指揮と舞台構成(ミニ演出)を受け持った「ペレアスとメリザンド」を聴きに行く。

 今回の上演は「コンサート・オペラ」と称し、オーケストラはピットに入り、舞台上ではシンプルな装置を回転させて趣向を出し、歌手たちは普通の服装で、簡単な演技を交えつつ歌うという形式。字幕付フランス語上演だ。

 若杉はまた体調が芳しくないらしく、カーテンコールでも見るからに痛々しい雰囲気だったが、しかし音楽は実に毅然としており、東京フィルも常ならぬ頑張りを見せて、非常に引き締まって輪郭の明確な「ペレアス」を聴かせた。これだけ音楽が確固としていると、もはや妙な演出など不要とさえ思えるようになる。音楽がすべてを語っているというのに、視覚が必要であろうか? 

 ペレアスの近藤政伸、メリザンドの浜田理恵、ゴローの星野淳、アルケルの大塚博章、ジュヌヴィエーヴの寺谷千枝子が好演。
    音楽の友9月号(8月18日発売)演奏会評

2008・6・26(木)マッシモ・ザネッティ指揮NHK交響楽団

  サントリーホール

 リサ・ラルソンをサポートしたモーツァルトとR・シュトラウスの歌曲では、ザネッティはいかにもオペラを得意とする指揮者らしく、オーケストラを巧く抑制して歌を浮き出させる。シュトラウスの3曲では、大編成のオーケストラを見事に抑えて、最弱奏をもふわりと響かせるように音を創った。それでも彼女のソット・ヴォーチェを立てるほどには行かなかったものの、これ以上は如何ともし難いだろう。

 モーツァルトは、最初の「コジ」序曲から軽やかだ。歌曲では、いずれも歌が終ってからの後奏を実に巧く作る。「K.582」の後奏など、ハッとさせられるような伸びやかさだったし、「東方から来た3博士」でも長い後奏をしんみりと歌う。アンコールでの「献呈」でもそこはかとない叙情感を出していて、ここではかなり誇張された遅いテンポになっている。

 あたかもこのテンポが休憩後の「ツァラトゥストラはかく語りき」の伏線となっていたかのよう。とにかくこの「ツァラ」のテンポの遅いこと。「クレド」や「科学について」の個所など、音量をギリギリまで抑制し、しかも極度にテンポを落す。それはそれで一つの手法だが、音楽に緊張感が失われるのが欠点で、聴いているこちらは道を見失ってしまいそうになる。細部に凝り過ぎるのも問題だろうが、身振りから想像すると、かれはあれ以上にもっと瞬間的に音量を抑制する方法を採って、デュナミークの頻繁な変化を求めたかったのではないかと思う。少々疲れる演奏だ。

 リサ・ラルソンは、以前にもツェルリーナを聴いたが、軽やかで美しい声だ。それゆえモーツァルトの方に良さが出る。その代わり、「大いなる魂と高貴な心は」後半のようにオンナの怒りを描くくだりなどでも可愛い表情にとどまってしまう。

   音楽の友9月号演奏会評

2008・6・24(火)西本智実指揮モンテカルロ・フィル

  サントリーホール

 西本智実「新世界」ツァー2008と題された、全11回のモンテカルロ・フィルとのシリーズの5日目。「新世界交響曲」と「牧神の午後への前奏曲」、村治奏一をソリストにした「アランフェス協奏曲」というプログラム。彼女、相変わらず人気は物凄い。

 モンテカルロ・フィルは、なかなかすばらしいオーケストラである。モンテカルロ歌劇場の管弦楽団でもあり、かつてはフレモー、マルケヴィッチ、マタチッチ、デプリーストらが首席指揮者をつとめた名門だ。この日の演奏でも、特に弦の瑞々しい美しさが際立っていた。

2008・6・23(月)佐渡裕プロデュース 「メリー・ウィドウ」3日目

  兵庫県立芸術文化センター大ホール

 同文化センター芸術監督の佐渡裕のプロデュースと指揮、広渡勲の演出による「メリー・ウィドウ」は、実に12回公演(6月21日~7月6日)という強気の興行。例の如く売れ行きはすべて好調というから、ここは凄い。客の6割は「阪神間」(東京モノには解りにくい表現だが、「大阪と神戸の間」の由)在住で、しかもリピーターが多いとのこと。
 掘り起こせばまだまだクラシック・ファン、オペラ・ファンはたくさんいるのだ、という証明であろう。

 今回は日本語上演で、さすが佐渡の制作だけあって「ご当地的メリー・ウィドウ」といった趣き。
 桂ざこばがニェグシュ役で冒頭から突然登場、上方お笑いのスタイルで観客を瞬時に巻き込んでしまう。それが実にサマになっているところが「ご当地」の強みだ。
 私自身、これを東京のホールで見たとしたら、きっと照れでモジモジするか白けるかだろうが、現地でどっぷりそれに浸っていると、ほとんど違和感を覚えないのである。そこが人間の感覚の不思議なところか。

 それにしても、本編が終ったあとの「グランド・フィナーレ」での、これでもかとばかり押しまくる騒々しさ、賑やかさ、それに手拍子で大乗りする観客。これが「関西のノリ」というものなのか。私はただあっけにとられて眺めるのみだったが、しかし大いに愉しめたことは事実である。
 それにあのフレンチ・カンカンの場での、歌と踊りの狂騒的なノリの良さときたら、これまで私が観て来た日本人による「メリー・ウィドウ」上演の中では、例を見ないものであった。
 かように、オペレッタの味と、上方の味とが、ぎりぎりのところで均衡を保っている「メリー・ウィドウ」である。これで客が喜び、ファンが増えるなら、何を文句を言うことがあろう。その意味でも、全篇にわたり狂言回し的な役割をつとめた桂ざこばの存在は、きわめて大きいものがある。

 佐渡はオーケストラを威勢よく鳴らし、エンターテインメントとして場を盛り上げる。終演後の楽屋でも汗びっしょりで、「とにかく、ここのお客さんがいいんですよねえ」と大感激中。あの一所懸命な仕事ぶりが彼の身上だ。

 今日の歌手陣は「初日組」。平野忠彦がツェータ男爵役で健在振りを示してくれたのはうれしい。佐藤しのぶのハンナはまさに舞台映え満点で、セリフ回し(「間」の取り方を含む)の巧いのには感嘆するが、いざ「ヴィリアの歌」のような長いソロになると途端にあの過剰なヴィブラートが出て、歌詞が聞き取り難くなるのが惜しいところ。
 今回はジョン・健・ヌッツォのカミーユにも期待したのだが、不思議に抑制した演技と歌唱で、いつもの彼の闊達ぶりが影を潜め、表情に乏しい。楽屋を訪ねて彼に質問したところ、「この役だけは騒ぎに巻き込まれない、超然とした表現で」と指示されているので、ということだった。「でも、あれじゃあなただけ沈んで見えるけど」と感想を述べさせてもらう。

 ダニロの大山大輔は、結構カッコいい。「王子と王女」のくだりなどでは、その昔に故・立川清登が聴かせた名調子の域までにはだいぶ距離があるが、研鑽を積めばいい当り役になれるだろう。また、かつての宝塚雪組トップスター、平みちがシルヴィアーヌ役で出演、桂ざこばとタップダンスの掛け合いを披露していたが、こういう趣向も関西ならでは、か。

 舞台装置(ロンドンで活躍するサイモン・ホルズワースによる)が、なかなか美しい。

2008・6・21(土)飯森範親指揮山形交響楽団東京公演 さくらんぼコンサート

  東京オペラシティコンサートホール

 まずいサクランボを食べたのが原因で子供の頃から大のサクランボ嫌いだった私が、山形響東京公演で即売していた佐藤錦のさくらんぼを出来心で買い、こんなに美味しいものかと遅まきながら感動したのは、数年前のこと。
 今日もロビーの一角にある即売コーナーでは、その佐藤錦のさくらんぼが山のように並び、ゆべし、漬物、イナゴの佃煮など山形の名産品がずらり揃って、黒山の人だかり。その上プレトークでは、音楽監督の飯森みずから山形の観光や物産のPRにこれ努めているので、まさに山形が押し寄せたという感じ。
 いいことだ。地方のオーケストラや音楽祭が盛り上がるためには、その土地と相互一体になることが不可欠だからである。彼のトークがなかなか面白いので、満席に近い聴衆も寛いだ雰囲気になる。

 山形響の演奏は、年に1、2回の割りでほぼ毎年のように聴いているが、そのたびに演奏水準が確実に上昇していることを感じる。その中でも今回は、とりわけすばらしいものがあった。
 最初のキラールの「オラヴァ」は、ミニマム・ミュージックのスタイルに音色の変化を頻繁に加え、ユーモラスな表情も織り込んだ、1回だけ聴くぶんには至極面白い曲だが、ここでの小編成の弦楽アンサンブルは見事な熱気と迫力を作り出していた。
 続くショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」では、仲道郁代のまろやかなピアニズムに、飯森とオーケストラもソフトに協演。

 しかし、何といってもこの日の圧巻は、ラフマニノフの「交響曲第2番」であった。これを聴けば、飯森が着任して以来の、近年の山形響の変貌ぶりに感銘を受けずにはいられないだろう。10年前の鄙びた素朴さ(それはそれで一つの魅力だったが)は既に跡形もなく、モダンで明晰な音色のオーケストラに大変身を遂げている。10型編成ということもあって重量感や厚みといったものには不足するが、室内楽的な精緻さにかけては驚くべきものがあり、それはアダージョの第3楽章で頂点に達していた。弦にはしっとりした響きがあり、管も好調である。
 この上に望まれるものは、作品にふさわしい、ほの暗い陰翳と豊かな情感であろう。今後を待ちたい。

 楽屋を訪ねて、飯森に「すばらしかった。後半2楽章は完璧に近いよ」と言ったら、「そうですかあ?」と、あまり嬉しそうでもないような顔をしていた。「不満?」と訊くと、「いやいや、そんなことはないスけど」。おそらく、彼にはすべてが解っているに違いない。

 終演後のロビーは、飯森のPRが効いてか、買い物客と彼のサインを求める客で猛烈にごった返していた。数ある地方オケの東京公演での中でも、これほど終演後にお客が名産品に群がる光景は他に例を見ないだろう。
 恒例のごとく、さくらんぼ(全農山形のマーク入り)を「10人に1人の割りで当る」抽選で提供していた。今回は幸いに私も当選し、1パックもらってきた。とはいえ、このコンサートを絶賛したのは、さくらんぼをタダでもらったからというわけではない。

2008・6・20(金)児玉宏指揮大阪シンフォニカー交響楽団

 ザ・シンフォニーホール

 ヴィーン・シンフォニカーなどの例にもあるように、「シンフォニカー」はそれ自体で「交響楽団」の意味を兼ねるものだが、「大阪シンフォニカー」(1980年結成)はわざわざそのあとに「交響楽団」を付ける。事務局の説明によると、こちらも最初は単に「大阪シンフォニカー」だったが、営業に行くとしばしば「クルマのメーカーと間違えられる」ので、仕方なく2001年から現在の名称としている由。

 その大阪シンフォニカー交響楽団に、このほど児玉宏が音楽監督・首席指揮者として着任した。その就任記念の定期演奏会がこれである。彼はドイツのウェストファーレン・フィルの音楽監督をつとめたこともあるが、バイエルン州のコールブルク歌劇場音楽総監督の経歴もあり、日本でも新国立劇場その他でたびたび指揮をしている人だ。やっぱりオペラの指揮者だな、と思わせる理由は、ステージに出て来ると必ず上階席だけ見回して答礼すること(1階にも客はいるのですぞ)。ピットから挨拶する癖がついているのじゃあないか?

 そんなことはともかく、ウォルトンの「戴冠式行進曲」が予想外に柔らかい響きで始まり、次のR・シュトラウスの「マクベス」(珍しい曲をやるものだ!)でも過度に騒がしい音にならず、しかも途中から弦の音色にしっとりとした味が加わってきたりと、指揮者とオーケストラとの間に良き共同作業が行われていることを示す演奏が聴かれた。
 
 後半に置かれたプロコフィエフの第7交響曲では指揮者が少々凝り過ぎたか、持って回った演奏の感があり、軽妙洒脱な味も、独特のプロコフィエフ節もほとんど発揮されぬままだったのは惜しい。しかし、大阪シンフォニカー響にとって、この指揮者との組み合わせは、今後良い結果を生むのではないかという気がする・・・・ただし、協演する機会を多く持てればの話だが。
 なおこの「7番」は、華やかなエンディングのない初稿版。プログラムには改定版の説明が載っていたので、お客さんは首をひねったのではないかと思う。

 2009~2010年定期演奏会のプログラムを見て、少々驚いた。詳細は省くが、東京のオーケストラでさえめったに手がけないようなレパートリーがずらりと並んでいる。大阪府からの援助金などに頼らない自主運営オーケストラの意地を見よ、といった感じだ。願わくばこのプログラムがお客さんの支持を得られるように。
  モーストリークラシック9月号(7月20日発売)「関西音楽情報」

2008・6・19(木)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル

  サントリーホール

 このコンビの意欲的なプログラム、また現代作品の日本初演が一つ。

 オーストリアの現代作曲家(1974年生れ)ヨハネス・マリア・シュタウトの「・・・・gleichsam als ob・・・・」という曲がそれ。邦題は「・・・・まるで・・・・」となっている。
 今夜はこれを聴きに行ったようなものだが、結構面白い曲だ。第1部および第2部後半では、膨大な打楽器陣と低弦群と金管群が腰の低い位置で目まぐるしくもつれ、絡み合い、躍動を続ける。これらがトータルとして一つの骨太なオスティナートのように聞こえてくるところが、私には楽しめた。
 曲は他に、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲(ソロ:豊嶋泰嗣)と、R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」。

 こういうプログラムだと、どうしても客席に隙間ができる。スポンサーからは、あれやこれや言われるかもしれない。しかし、たまにでいいから、シーズンに一度でもいいから、文化的に意義のあるこのような活動は続けて行ってほしいもの。努力は、いつか必ず報われるだろう。

2008・6・17(火)音楽バカ 第3回 

  日本大学カザルスホール

 佐久間由美子(fl)、猪俣智佳夫(ob)、若尾圭介(ob)、ロバート・シーナ(ob、ehr)、十亀正司(cl)、山本正治(cl)、岩佐雅美(fg)、吉田将(fg)、山本真(hn)、吉永雅人(hn)という管楽器の腕利き奏者たちによる木管アンサンブルの一夜。
 このシリーズに初めて足を運んだ不勉強の私は、「音楽バカ」がアンサンブルの名称なのか、はたまたムーヴメントの呼称なのか、プログラムにも注釈がないので、勝手に推測するしかない。それもあってか、会場全体が何となく身内の演奏会みたいな雰囲気に感じられたのは、こちらのひが目か。

 都合で前半のグリーグ~エリオット編「木管八重奏のための4つの叙情的小品」、イベールの「木管五重奏のための3つの小品」、ビゼー~ワルター編「カルメン組曲」までしか聴けなかったが、そのあとにベートーヴェンの三重奏曲とグノーの「小交響曲」が演奏されたはず。みんな巧い。
 「楽しくなければ音楽じゃない!!」というキャッチフレーズには大賛成だが、何を以って「楽しさ」とするかは永遠の課題だろう。演奏さえ良ければ楽しかろう、というわけにも行くまい。実際には演奏が乗ってきたのは2曲目のイベールからで、佐久間のフルートの明るい音色と表情が何となくこちらをホッとした気分にさせたが、若年の女性が多い客席は、少なくとも前半は何となく畏まった雰囲気に包まれていた。後半にどんな趣向が凝らされていたかはわからないけれども。

2008・6・15(日)ヘレヴェッヘ指揮ロイヤル・フランダース・フィルのモーツァルト

   東京藝術大学奏楽堂

 客席数1100の藝大奏楽堂は、大きさといい、アコースティックといい、このオーケストラにはぴったりだろう。輝かしく爽やかで、歯切れよく、スケールも大きくて豪壮だ。まるで昔の、「黄金の間」で録音されたコレギウム・アウレウムの演奏を聴くような気持である。
 プログラムはモーツァルト。「イドメネオ」序曲に、リーズ・ドゥ・ラサールが弾くピアノ協奏曲第20番。後半は交響曲の第40番(クラリネットあり版)と、第41番「ジュピター」。

 なお、アンコール曲の一つに、一昨日聴いたシューベルトの「ロザムンデ」の「バレエ音楽第2番」が演奏されたが、その響きが、あのトッパンホールでのものとイメージの上でほとんど変っていないのには驚いた。トッパンホールでのシューベルトは、必ずしもアコースティックのせいであのように聞こえたのではなかったのだ。ヘレヴェッヘが作曲家によって演奏のスタイルを大きく変える指揮者であることが、ここでも示されている。
   音楽の友8月号(7月18日発売)演奏会評

2008・6・14(土)飯森範親指揮東京交響楽団 名曲全集

  ミューザ川崎シンフォニーホール

 「名曲」と銘打ったコンサートにしては重量級。
 前半は、コンスタンチン・リフシッツをゲスト・ソリストに迎えたラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」。第2楽章のアダージョ・アッサイが絶品だったが、両端楽章ではオーケストラの方に少々融通の利かないところがある。

 後半にはマーラーの第6交響曲「悲劇的」。
 飯森と東響のマーラーはこれまでにもいくつか聴いてきたけれど、今日に限って陰翳の薄い、淡彩な演奏に聞こえたのは何故だろう?
 弦は14-12-10-10-8という編成だったが、それにもかかわらずヴァイオリン・セクションはよく鳴っていた。その音色には、時に昔のチェコ・フィルのそれにも似た、しっとりした雰囲気を感じさせるところがある。それもあって、アンダンテ楽章の演奏は美しい。

 国際マーラー協会の提言のせいで、最近はそのアンダンテ楽章を第2楽章とすることが多くなった。どうも違和感があるのだが、まあ、そのうち慣れるだろう。

2008・6・13(金)フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮ロイヤル・フランダース・フィル

  トッパンホール

 ヘレヴェッヘの指揮するシューベルトとメンデルスゾーンがナマで聴けるのだから、会場が満席になるのも当然。

 しかし、いかに12型の編成とはいえ、このホールでのフル・オーケストラのフォルティシモは、少々苦しいものがある。前半のシューベルトの「ロザムンデ」からの「間奏曲第1番」と「バレエ曲第2番」および「未完成交響曲」では、あまりにドライでリアルな、硬質な響きにたじろがされた。 
 とはいえ、後半のメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」と「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」になると、指揮者もオーケストラもさすがにプロの手腕で、ホールのアコースティックにうまく音をフィットさせ、見事にバランスを整えて安定した響きを作り出してくれる。
 もっともそれらには、古典派的に解釈された毅然たるシューベルトと、ロマン派のふくらみが重視されたメンデルスゾーンという、演奏スタイルの違いも作用しているだろう。
 いずれにせよ、こういう音響だと、管弦楽の内声の動きが手に取るように判って面白い。普段聞こえない旋律などがはっきりと浮かび上がったりして、曲を新鮮に感じさせてくれるのだ。「フィンガルの洞窟」など、メンデルスゾーンの巧妙精緻な管弦楽法に改めて感心させられる。

 協奏曲は、もちろん、というか、残念ながら、というか、改訂現行版による演奏である。イザベル・ファン・クーレンが弾いた。
 スコアの指定どおりに・・・・つまり第1楽章をアレグロ・モルト・アパッショナート(きわめて情熱的に速く)で、第3楽章をアレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ(きわめて活発に速く)で演奏すれば、こういう音楽になる、という見本のようなもの。
 ただしファン・クーレンは、それに「モルト・アジタート」(非常に激しく)を付け加えたようだ。初めの方で時々雑に弾き飛ばすことがあったのには少し驚いたけれど。

2008・6・11(水)新国立劇場 上岡敏之指揮の「椿姫」

  新国立劇場

 ドイツのヴッパータール市音楽総監督、ザールブリュッケン音大正教授などの任に在る上岡敏之が新国立劇場にやっと登場したのは喜ばしい。
 
 以前はヘッセン州立歌劇場音楽監督(私もそこで彼の指揮する「ラインの黄金」を聴いた)をつとめるなど、長年ドイツで活躍を続けている彼である。その彼の新国初登場になにもヴェルディを振らせなくてもいいではないかと、私は劇場の方針に少々不満を感じていたのだが、しかしこれはうれしい誤算で、終ってみれば見事な「椿姫」の音楽だった。いわゆるイタリア・オペラ的な伴奏指揮ではなく、オーケストラの音符に微細な表情を与え、オーケストラをして雄弁に語らせ、登場人物の心理描写に重点を置くといった指揮なのだ。
 指揮者にドラマトゥルギーがあれば、ヴェルディの音楽は完璧にドラマを語るものなのだ、ということを如実に証明した指揮ともいえよう。

 演出は、ルカ・ロンコーニのトラディショナルで超保守的なもの、というよりむしろ、ロンコーニが新国立劇場向けとしてわざわざ極超保守的に作った演出、というべきだろうか。2002年のプレミエだから、当時の五十嵐喜芳芸術監督の好みに合わせたのかもしれない。
 繁く左右にスライドする装置(マルゲリータ・パッリ)こそ立派だが、歌手たちには演技らしい演技もなく、観ていて苛々してくるような舞台だ。
 ヴィオレッタ(エレーナ・モシュク、真摯に歌っていた)がこちらで今にも倒れようとしているのに、アルフレード(ロベルト・サッカ)よ、そんな所で何をやっているのだ、という感じなのである。

 ドラマトゥルギーの備わった指揮と、ドラマトゥルギーの欠落した舞台。
 このギャップは、やはり上演自体のバランスを失わせる。
 この舞台の雰囲気ならこういう指揮者に、この指揮者の音楽ならこういう演出のものに、という組み合わせは重要な問題のはず。新国立劇場は、プロダクションによってはそのあたりはどうでもいい、とでも思っているのだろうか。

2008・6・10(火)アレクサンドル・ラザレフ指揮読売日本交響楽団

  東京芸術劇場

 プログラム後半に演奏されたボロディンの「交響曲第2番」は、ラザレフと読売日響のこれまでの演奏の中でも、おそらく最高のものだったのではなかろうか。

 この曲は、ナマ演奏で聴いたことは2,3回あるが、かくもロシアの大地の力といったものを連想させる野生的なエネルギーを噴出した演奏には接したことがなかった。まさにこれこそが、あのラヴェルらフランスの若手芸術家集団「アパッシュ」を熱狂させた、骨の髄までロシア的な、ロシアの交響曲の代表的傑作とまで言われた作品の真の姿なのかもしれぬ。
 唸りを生じて渦巻く弦楽器群、荒々しく咆哮する金管楽器群、何度となく押し寄せる津波のようなクレッシェンドなど、凄まじい限りである。ラザレフの猛烈な指揮もさることながら、馬力においては国内オーケストラ随一と思われる読売日響にして初めて為しうる「野性の美」的な演奏であろう。山岸博の深々としたホルンの響きも印象的であった。

 「ピーターと狼」(語り:伊倉一恵)は実にスピーディな進行。各キャラクターの描写がこれほど生き生きしていた演奏も珍しかろう。さすがラザレフ、かつてボリショイ劇場音楽監督として振るった腕は、今なお健在である。その他、最初にドヴォルジャークの交響詩「真昼の魔女」。
 今日は久しぶりに菅原淳さん(先頃定年で退職?)が客演でティンパニをたたいていた。懐かしい。それに、あの人の演奏には、やっぱり温かい味がある。

2008・6・8(日)ヤルヴィ指揮フランクフルト放送響のブラームス

  横浜みなとみらいホール

 みなとみらいホールで行なわれたブラームス交響曲ツィクルスの2日目で、「3番」と「1番」。
 ただし今日は、1階席後方中央あたりから聞こえてくる補聴器のハウリングらしきノイズに注意力を著しく削がれてしまい、「3番」では一体何を聴いていたのか判らないというのが正直なところ。われながらまだまだ修行が足りませんな。
 しかし「1番」での、きわめて正確な、室内楽的な精緻さと密度の高さをもちながらも壮大な演奏に接してみると、このパーヴォ・ヤルヴィという指揮者のブラームス観が何となく解ってきたようにも思える。それに先日のブルックナーでも感じられたことだが、彼の音色づくりは実に巧みだ。「1番」の最後から数小節前の管楽器群が引き伸ばす最強奏の和音など、豪壮かつ玲瓏な響きであった。
 
 その一方で逆に気になってくるのは、彼が採る演奏スタイルの上で、ベートーヴェンの交響曲とブラームスの交響曲との間に、なぜあのような大きな段差を生じさせなければならないのか、ということ。
 もっともこんなことを気にするのは、こちらがドイツ音楽史の流れにこだわりすぎているからかもしれないのだが。いずれにせよ彼は、若手の中でも飛び抜けて面白い個性を持った指揮者だ。

 アンコールには、凝りに凝ったテンポの「ハンガリー舞曲」第5番と第6番、4本のホルンが演奏する「子守歌」。オーケストラも巧い。

2008・6・7(土)目白バ・ロック音楽祭 「トリスタンとイズー」

   聖母病院チャペル

 西武新宿線・下落合駅から北へ400米。目白駅からは1キロくらいだから、ここも「目白」エリアか。聖母病院の中に美しい教会がある。200人以上入るだろう。近々改築されるそうだが、落ち着いた好い雰囲気の会場だ。今日は満席の盛況。

 ここで演奏されたのは、「トリスタンとイズーの悲恋物語」であった。作者不詳「散文トリスタン」のウィーン写本(フランス語、音楽付)から14曲を選び、英国系の写本によるエスタンピー(歌なし器楽曲)4曲を加え、合計18曲。休憩時間を含め2時間10分の構成。
 出演はアントネッロ。濱田芳通(リーダー)、西山まりえ、石川かおりの3人が基本メンバーで、今日はゲストの矢野薫(プサルテリーとオルガネット)が加わった編成だ。
 
 ただし今日は西山まりえが「ワタシがリーダーです」とのこと。この演奏会のプロデューサーを担当、ゴシック・ハープを弾きながら14曲を一人で歌い(この人の声は独特の味がある)、オルガネットも演奏、さらにストーリーや人物関係を解りやすく説明する役まで受け持って、さながら「まりえショー」という趣きであった。
 この人の活動は、本当に幅広い。チェンバロの名手でもある。そのソロ・アルバムをすでに多数出していることでも知られているだろう。

 もともとアントネッロのメンバーは、各自がいろいろな楽器をこなすことでも有名だ。今日は濱田がリコーダーとコルネットとショームを、石川がフィーデルを担当していた。多芸多才な古楽アンサンブルである。
 楽しく、美しい演奏会であった。そして、大いに勉強させてもらった。

2008・6・6(金)目白バ・ロック音楽祭 ダイクストラ指揮音楽祭合唱団

   東京カテドラル大聖堂

 人気上昇中の音楽祭。東京・目白界隈のいろいろな会場で開催されている。
 第3回の今年は5月30日~6月15日。概してバロックや、それ以前の音楽が中心だが、今年はオランダ出身のペーター・ダイクストラが日本フィルを指揮したワーグナーやシベリウスの演奏会(3日)を織り込むという新趣向も示された。

 ダイクストラは、まだ30を少し出たばかりの若さで、バイエルン放送合唱団音楽監督、オランダ室内合唱団とスウェーデン放送合唱団の首席客演指揮者をつとめている由。8年前に小澤征爾がバッハの「ロ短調ミサ」を指揮した時に、合唱指導のため来日していたそうである。
 噂どおり、なかなかいい指揮者だ。メンデルスゾーンの詩篇やバッハ一族のモテットなどを音楽祭合唱団(16人、今回が結成記念とのこと)を指揮して演奏したが、メンバーの力量の優秀さもあって、声部の明晰さ、曲の構築の鮮やかさは実に見事なものになっていた。各作曲家の作風の違いがはっきりと色分けされて描き出されたことも、指揮者の感覚の良さゆえであろう。3日のオーケストラ演奏会を聴けなかったのは残念である。

2008・6・5(木)ラザレフ指揮読売日響定期 チャイコフスキー・プロ

  サントリーホール

 怒れる猛牛かキングコングか、というアレクサンドル・ラザレフの獅子奮迅の指揮ぶりだが、それをもってしても、「テンペスト」という作品の魅力を新たに浮き彫りにするのは、やはり難しいらしい。

 しかし、さすがに「ロメオとジュリエット」と「第4交響曲」では、猛烈なエネルギーに満ちた音楽を展開させる。前者の抗争場面でのシンバルが炸裂する個所などでは、彼が大暴れして激しい音楽を引き出すのか、それとも音楽に乗って大暴れしているのか、とにかく視覚的効果は満点。
 後者では、ロシアの指揮者がよくやる猛烈なテンポが第4楽章で採られ、それも作用して全曲の演奏時間は正味38分の快速。
 だがラザレフの音楽は、単に咆哮だけやっているわけではない。「ロメオ」の愛の場面や、「4番」第1楽章第2主題の弦楽器の細かい刻みの個所などでは、聞こえるか聞こえないかの弱音まで音量を落す。このような強弱の大きな対比が彼の指揮をいっそう面白くさせているのだ。

 読売日響は「4番」の第1楽章主部の第1主題前後の個所で楽器のバランスに納得行かないところもあったが、概して力演。
  音楽の友8月号(7月18日発売)演奏会評

2008・6・4(水)パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団 その2

  サントリーホール

 昨夜のブルックナーがあまりに新鮮で面白かったので、今日のマーラーの「交響曲第9番」も聴き逃すにしのびず、というわけ。
 前半には、R・シュトラウスの「4つの最後の歌」。ソロは森麻季。

 マーラーでは、昨夜のブルックナーのようなカンタービレが発揮されてこの曲に新風を吹き込むかという予想の一方、新ウィーン楽派に通じる現代音楽的な鋭さに重点を置く可能性も強いだろうとも思ったが、蓋を開けてみれば、やはり後者の方。
 トランペットの強奏が多用されるためもあって、音のぶつかり合いの凄まじさはこれまで聴いたどの演奏よりも顕著だ。第1楽章などは、こちらがたじろがされるほどの阿鼻叫喚の世界である。しかし、マーラーがスコアに綿密に指定しているあのテンポや表情の激しい流動性は、見事に守られていた。とはいえそれは、感情が激して音楽が動いて行くというものではなく、あくまで音符そのものが荒々しく加速し減速し、音量を増し、減衰し、止まるといった感じなのである。
 第4楽章でも、音そのものの動きはあくまで明晰で、構築もしっかりしているが、その先にあるはずのものが、見つからない。

 2夜の演奏がそうだという意味では必ずしもないのだが、ブルックナーは演奏に情感がなくても「音」自体の自立性で成立するけれど、マーラーはそうは行かないのだな、などとふと考えていた。
 だがおそらく、パーヴォ自身はそうは思っていないだろう。「4つの最後の歌」に「第9交響曲」。いずれも諦めと別れの情感のこもる曲、というプログラム構成のコンセプトは明らかだからだ。

 パーヴォの指揮で天下一品なのは、一旦テンポが動き始め、音楽の昂揚が始まると、それが息をもつかせぬほどの勢いで極限まで推し進められて行く、その呼吸が並外れて巧いことである。こういう特徴は、以前の彼にはあまり聞かれなかった。彼の進境か、あるいはこのオーケストラだからできることなのか。昨日の「皇帝」でもブルックナーでも、それは見事なものだった。

 今日は流石にアンコールなし。この第4楽章のあとでアンコールは愚の骨頂。そういう曲のもう一つの例は、「冬の旅」である。

2008・6・3(火)パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団

  サントリーホール

 エレーヌ・グリモーの弾く「皇帝」と、ブルックナーの「7番」。

 グリモーの音色のブリリアントなこと。しかも細身ながらシンが強い。このように輝かしく清澄な音色の、それでいてちょっと神経質なところもある「皇帝」はなかなか聴けない。その音楽の表情には、フランス印象派の透明な抒情を思わせるところさえある。(レコードだけでしか聴いたことはないが)かつてカサドジュがこういう感じの「皇帝」を弾いていたっけ。爽やかで美しく、それでいて凛とした気品を一杯に湛えた「皇帝」には酔わされた。この人の演奏を、いつまでも聴いていたいと思ったほどだ。アンコールはベートーヴェンの「30番」の第1楽章。

 ブルックナーのテンポは、CDよりもさらに遅い感。だが緊迫感がいささかも失われないのは、特に第1楽章と第2楽章で、主題ごとのテンポの設定が実に巧妙にできていて、活気づくテンポの個所ではいよいよそれを煽るように強調していくといった呼吸が巧いからだろう(「皇帝」などでもそれは如実に感じられていた)。これだけ各主題が個性的に性格づけられ、しかもそれらが流れの良い、見通しの良い構築で設計され、その結果メリハリがよくなっている演奏はこれまで聴いたことがない。しかも主題のカンタービレが抜群によろしい。これだけ歌うブルックナーは、シャイー以来ではなかろうか。音色には非常に深々とした広がりを感じさせる。音楽の起伏は素晴らしく大きい。
 ホルン群を下手に、ワーグナー・チューバ群を上手に、といったように分けて配置したのも成功している。第2楽章の最後のあのコラール個所では、ステージすべてを包むように響いていたからである。CDよりずっと瑞々しく壮大な演奏だ。
 アンコールは、ステンハンマルのカンタータ「歌」の間奏曲。
   音楽の友8月号(7月18日発売)演奏会評

2008・6・2(月)アルバン・ベルク弦楽四重奏団解散 最後の日本公演

  サントリーホール

 一代の名カルテット、アルバン・ベルク四重奏団への別れの日が、ついに来てしまった。
 ウィーン・アルバン・ベルク・カルテットという名称で70年代初頭に檜舞台に登場してきた時には、何とまあ鋭い感性を持った歯切れのいい弦楽四重奏団が出現したのだろうと驚嘆させられたものである。爾来40年近く、われわれはどんなにこのカルテットの演奏に魅惑されてきたことだろう。

 今日は、今回の日本ツァーの最終日。文字通りお別れの日となった。
 メンバーは、第1ヴァイオリンがギュンター・ピヒラー、第2ヴァイオリンがゲルハルト・シュルツ、チェロがヴァレンティン・エルベン。だがヴィオラには、あのトマス・カクシュカの姿はもはや見えない。彼は3年前に世を去ったのだ。その代わり、3年前に加わった女性のイザベル・カリシウスが立派に弾いている。

 プログラムは、ハイドンの「第81番」で始まり、ベルクの四重奏曲作品3、ベートーヴェンの「第15番」と続き、アンコールにはベートーヴェンの「第13番」からの「カヴァティーナ」が演奏された。
 彼らのトレードマークともいうべきベルク作品の演奏の凄さもさることながら、「第15番」の第3楽章での深い、張りつめた堅固な祈りの歌の感動を何に喩えよう。ホールをうずめた聴衆は、文字通り息を止めて聴き入っていた。アルバン・ベルク四重奏団の演奏には強い印象を残したものがこれまでにも数多いが、その中でもこの「モルト・アダージョ」のすばらしさは、生涯忘れ得ないだろう。
 アンコールでの「カヴァティーナ」を演奏し終った時、メンバーは、あたかも祈りでも捧げているかのように、長いこと身動き一つしなかった。聴衆も息を潜めて、じっとそれを見守っていたのであった。

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