2023-11

2022年5月 の記事一覧




2022・5・31(火)シャルル・デュトワ指揮大阪フィル

      フェスティバルホール(大阪) 7時

 あの凄絶な「サロメ」(☞2019年6月8日参照)から3年、大阪フィルハーモニー交響楽団に客演したシャルル・デュトワ。今回の定期では、ハイドンの交響曲第104番「ロンドン」、ラヴェルの「クープランの墓」、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」(1911年版)━━というプログラムを指揮した。なお、ピアノのソロには北村朋幹が加わっていた。コンサートマスターは須山暢大。
 2日目の公演だった所為もあろうが、驚異的な快演である。

 いつものように、バルコニー席で聴く。壁から空中に突き出した席である。ここは各パートが明確に聞こえるので、オーケストレーションの妙味が楽しめ、しかも弦の音色が柔らかく量感豊かに聞こえるという良さがある。但し、高所が苦手という人には断じて推奨できない。私も今ではかなり慣れたが、それでも時々、下方を見て身体が冷たくなる時がある。

 さて、ここで聴いたハイドンの「ロンドン交響曲」は、極めて美しかった。厚みのある弦と、品のいい管の音色が程よくブレンドされ、ハイドン最後期の交響曲が持つ風格とスケール感とが、実に快く再現されていた(1階席のどこかで聴いていたという知人は弦の音が硬くて失望したと言っていたが、私の聴いていた高所のバルコニー席では全く逆の印象である。難しいものである)。

 驚異的な演奏だったのは、ラヴェルの「クープランの墓」だ。
 昔は重厚で剛直で武骨な音というイメージを売り物にしていたあの「野武士的」な大阪フィルが、こんなにも軽やかで優雅で、しかも洒落た音を出すオーケストラになったことには、感慨を抑えきれなくなる。こういう音を引き出したデュトワも、まさに非凡で、名匠の為せるわざと言うべきだろうが、それに易々と応えられる大阪フィルも、頼もしい限りだ。

 尾高忠明が音楽監督に就任して以来、このオケは大きく色合いを変え、機能的な力量も充分になっていると思うが、そうした基盤が出来たからこそ、このように卓越した演奏も可能になったのであろう。曲の冒頭から、あのラヴェルの音楽に特有の、言葉に尽くし難い陶酔的な雰囲気が感じられ、私は本当に気持よく聴いた。オーボエをはじめ、木管群がいい演奏を聴かせてくれていたし。

 「ペトルーシュカ」でも、デュトワの色彩感に富んだ壮大な威力のある表現が素晴らしい。この初版の「4管編成版」の豪壮さは何度聴いても魅力的で、ストラヴィンスキーが如何に斬新な管弦楽法をこの作品から持つようになったか━━特にこの席で聴いていると、各楽器の複雑な絡みが鮮やかに浮かび上がって、その巧みさに舌を巻かずにはいられないほどだ。

 「ペトルーシュカ」での今日の演奏は、前半では多少「型通り」の感もなくはなかったものの、中盤からは、文字通り音楽が大波の如く揺れ動いて行った。前面で騒めく木管と弦とは別に後方でトランペット群がクレッシェンドとディミュヌエンドを繰り返す個所など、たいていの指揮者は金管のそれを強調するものだが、今日のデュトワはそれらを同等の力で響かせ、しかも見事に成功させていたのである。

 デュトワの巧みさ、そして大阪フィルの予想以上の柔軟さ。躍動感と色彩感。大阪まで聴きに行った甲斐があった。

2022・5・29(日)上岡敏之指揮読売日本交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 袖から登場した時から既に何か歩き方が変だと思ったが、指揮台に上がろうとして躓き、コンサートマスターの長原幸太さんの介添えを受けてやっと定位置に就いたマエストロ上岡。満席に近い場内からも驚きの叫び声が上がり、われわれも一瞬凍りついたが、何とか無事に演奏が開始されたのは幸いだった。
 (終演後に楽屋を訪ねたら、「膝が痛くて痛くて、足が上がらないんだ」と顔をしかめていた。かく言う私も今また猛烈な腰痛のさなかにあり、立ち上がるのも必死という状態なので、彼が躓いた時には他人事には思えなかったほどだ)。

 その余波か、あるいはこちらの心理的動揺の所為か、1曲目のメンデルスゾーンの序曲「ルイ・ブラス」は、何かガサガサした演奏のまま終ってしまったような気がする(まあ、曲が曲だし)。
 オーケストラが豊麗な音を出し始めたのは、2曲目のメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」からである。ソリストのレナ・ノイダウアー(ミュンヘン出身)の甘い音色の所為で、この曲が不思議にインティメートな雰囲気に聞こえたことだけを記しておく。

 圧巻は、やはりチャイコフスキーの「悲愴交響曲」における演奏だ。最近聴いた「悲愴」の中で、これほど壮絶な演奏は他に思い当たらないほどである。

 上岡は、ここではテンポの誇張も、強弱の誇張も、一切行わなかった。第1楽章の再現部以降の部分でも、殊更にテンポを伸縮させたりすることなく、むしろあっけないほどに速めのテンポを保持したまま、コーダの謎めいた木管のコラールまで音楽を推し進めて行った。だが、提示部の第2主題における弦の歌などでは、それこそオーケストラ全体が大波のように揺らいでいたし、また展開部では、オーケストラはまさに恐ろしいほどの狂気の沸騰を繰り返していたのである。

 第3楽章の後半でも、不自然な加速は行われることなく、引き締められたテンポのまま音楽が沸き立ち、上岡が金管群と打楽器群へ激しい身振りの指示を繰り返すごとに、音楽が高みへ、高みへと煽られて行くように感じられた。
 こうしたデモーニッシュな演奏は、やはり読響の並々ならぬ力感━━驚異的な音量と量感、緊迫度を失わぬ推進性、といった美点からも生れたものであろう。

 それにしても、こういう演奏を聴くと、やはり上岡敏之という指揮者は、ただものではない存在だという感を新たにしないではいられない。また早い機会に、彼と読響が共同でつくり出す演奏を聴いてみたいものだ。

2022・5・28(土)秋山和慶指揮中部フィルハーモニー交響楽団

      三井住友海上しらかわホール  3時

 最近高評価を得ている中部フィルの演奏を名古屋へ聴きに行く。このオーケストラは、これまで一度だけだが聴いたことがある(☞2015年6月27日)。指揮者陣はあの頃とは多少異なっていて、現在は秋山和慶が芸術監督、飯森範親が首席客演指揮者という布陣。

 今日はその秋山和慶の指揮で、ベートーヴェン・ツィクルスの第4回。序曲「命名祝日」に始まり、交響曲第4番、同第8番━━というプログラムである。客演コンサートマスターは山口裕之。

 冒頭からして、その演奏の持つ重量感には驚かされた。ティンパニの豪音は床を震わすほどだが、それが所謂「音が回る」ような、「唸り」のようなものにならず、すこぶる引き締まって聞こえるため、オーケストラ全体にどっしりした響きが感じられるのだろう。アンサンブルにも厚みがあり、風格を感じさせる。
 レパートリーの違いも影響しているのかもしれないが、前回聴いた印象とはかなり異なり、演奏に強い共感と活気が漲っているのには嬉しくなった。

 秋山和慶の指揮からして、最近は激しい感情の動きが加わり、円熟の滋味も目覚ましく濃くなっていて、音楽にも温かみが増している、という傾向が見られるだろう。特に今日のベートーヴェンの交響曲の演奏では━━ある種のイメージとしての意味だが━━アナログ的な温かさのようなものが感じられ、それがまた不思議な快さを聴き手に与えているのだった。

 このオーケストラをここまで瑞々しい響きにまとめ、しかもホールを巧く鳴らして音楽の量感を増す彼の手腕には、舌を巻かずにはいられない。中部フィルも、部分的ないくつかの綻びを別として、その指揮によく応えていた。
 なお今日の「4番」の演奏で、普通はカットされる第1楽章第183小節のチェロとコントラバスの「F」をそのまま弾かせていたのが、マエストロ秋山のスコアに対する考え方を象徴するものとして、すこぶる興味深いものがあった。

 しらかわホールは、客席数700だが、お客は結構入っていて、拍手も熱心で、雰囲気がいい。それでも「やっぱりコロナで少し客が減ったかな」と、後ろの席の人が話しているのが微かに聞こえたのだが‥‥。地下鉄の伏見駅からゆっくり歩いても10分前後というのも便利だ。

2022・5・27(金)カーチュン・ウォン指揮日本フィル

      サントリーホール  7時

 日本フィルハーモニー交響楽団の首席客演指揮者であり、来年9月には首席指揮者就任予定のカーチュン・ウォン。
 この日は5月東京定期の初日で、伊福部昭の「ピアノと管弦楽のための《リトミカ・オスティナータ》」(ソリストは務川慧吾)と、マーラーの「交響曲第4番」(ソプラノは三宅理恵)がプログラムに組まれた。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 世界の檜舞台に最近登場した若手の東洋人指揮者のうち、トップグループにいる1人は、やはりこのカーチュン・ウォンではなかろうか。いい指揮者だ。彼をシェフに招くことのできた日本フィルは果報者と言うべきであろう。

 ただ、彼のマーラーの交響曲へのアプローチのコンセプトは、今日の「4番」を聴いて、また解らなくなった。
 今回の「4番」の演奏は、伸縮自在、変動自在のテンポと、極めて微細な表情の変化に富んだ演奏だった。それはもちろん、ウォンの勝手な解釈ではなく、あくまでもマーラーが総譜に細かく書き込んだ指示を根拠としているものであることは理解できる。

 が、それはまた━━先日の日本フィル定期でのマーラーの「第5交響曲」(☞2021年12月10日)における不動の整然たる構築、あるいは読響を指揮した「アダージョ」(☞2021年4月6日)における鋭角的な反ロマン的な演奏などとは、正反対の性格を示す。むしろ、都響を指揮した時の、あの大きな起伏とうねりに満ちた「新世界交響曲」(☞2021年7月26日)と共通するスタイルの演奏であろう。

 作品の性格に応じてアプローチを変えるということがあるにしても、この違いはあまりに大きすぎるのではないか。やはり、彼のマーラーを云々するには、もっといろいろ聴きこまなくてはならないようである。それゆえにこそ、カーチュン・ウォンはいっそう興味深い指揮者のように思えるのだが‥‥。
 なお、こういう変幻自在の演奏は、日本フィルにとっては、少々勝手が違うように感じられたのだが如何。

 1曲目の「リトミカ・オスティナート」も、日本人指揮者による演奏とは全く異なっているところが面白い。この曲を、これほど熱っぽく、濃厚に描き出した指揮者がいただろうか? 
 この「外国人指揮者」が手がける伊福部のリズム性は、より強靭で、より熱狂的だ。それだけに、曲の終り近くでは、そのあまりの執拗さに辟易させられるという結果になってしまったのだが━━。とはいえ、伊福部昭の思いがけぬ面を見せられた気がして、これまた非常に面白い演奏だったのは確かである。

2022・5・24(火)上岡敏之指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 新日本フィルと、その音楽監督・上岡敏之との契約は、既に昨年8月を以って終了している。コロナ禍による影響もあって、退任間近い時期には協演も全て流れ、お別れ定期も記念演奏会も、結局何一つ行われないままだった。それにもかかわらず、今回の読響への客演の方は予定通り行われたというのは、何とも皮肉なことである。

 私のような部外者から見れば、これはちょっと奇異なことに感じられ、やはり何を措いても音楽監督としての締め括りを先にするのが仁義というものではないか、とまで思うのだが、まあ、業界の現場にはさまざまな、のっぴきならぬ事情があるもので、そういうことは私とて百も承知だし、内情もある程度は知っているから、これ以上、無用な口は差し挟むまい。

 だが、あれこれ言っても、この上岡敏之という個性的な指揮者にとって、新日本フィルよりもやはりこの読響の方が、遥かに相性が良いオケであることは間違いない。これは、彼が読響にデビューした時(1998年)から聴き続けて来た立場からの意見である。6年半ぶりの協演となった今日の演奏会を聴いても、それは実感として確認できる。
 今日演奏されたのは、ウェーベルンの「6つの小品」、ベルクの「ヴォツェック」からの3つの断章、最後にツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」。コンサートマスターは長原幸太。

 ウェーベルンが開始された時、この曲(1910年作曲)が不思議なほど陶酔的に快く感じられたというのも、上岡と読響の相性の為せる業だろうと思われる。
 「人魚姫」(1903年)でも同様、後期ロマン派の残照豊かなこの曲における壮大な官能性が存分に表出された演奏は、聴き応えがあった。クレッシェンドの凄まじさも、このコンビならではのものだろう。こういう演奏を聴くと、上岡と読響の協演はこれからもたびたびあって欲しいものだ、という熱望が湧いて来る。

 ただ、この2つの曲でしばしば聴かれたテンポの誇張と、総休止の誇張、過度の最弱音の多用、といった上岡の手法には、彼の長年のファンを以って自認する私も、そろそろついて行けなくなった、というのも本音だ。
 特にあの聞き取れないような最弱音は━━これについては、上岡さんとの雑談の際に苦情を申し立てたこともあるほどで━━私には納得できない。そもそも、聴衆に聞こえないような音をオーケストラに出させて、では誰のために演奏するのか、何のために聴衆を迎え入れて公開演奏をするのか?

 「ヴォツェック」の「3つの断章」では、森谷真理によるマリーの歌のパートを加えただけでなく、TOKYO FM少年合唱団により幕切れの子供たちのセリフ(何故かこれだけが日本語だった)と、マリーの子供の「Hopp、hopp!」とを、簡単な演技入りで挿入した方法が面白い。この曲でもテンポの誇張は聞かれたが、ドイツの歌劇場で大きな功績を残している上岡のオペラ指揮に、たとえ僅かでも接することができたのは幸いだった。

※非公開扱いでご投稿下さった方へ━━すべて貴重なコメントと存じます。よほどのこと(?)でないかぎり、公開扱いにしてご投稿いただければ嬉しいです。

2022・5・23(月)佐渡裕の新日本フィル・シェフ就任お披露目定期

       サントリーホール  7時

 佐渡裕が、東京のオーケストラにポジションを得る。この4月にミュージック・アドヴァイザー就任、来年4月には音楽監督就任予定。既に21日にトリフォニーホール定期でお披露目を行なっているが、今日は同一プロでのサントリーホール定期である。

 指揮したのは、R・シュトラウスの「ドン・ファン」、バーンスタインの「前奏曲、フーガとリフス」、ベートーヴェンの「交響曲第7番」というプログラムだが、これは彼が1990年に新日本フィルを振って華々しく檜舞台に躍り出た時に選んだ曲目と同じである由。━━そういえば私もそのコンサートには記憶がある。「期待の新人指揮者登場。2メートル近い身長の大男が指揮台上で大暴れするさまは何とも壮観である」とか、何処かに書いたような覚えがある。

 なお、今日のバーンスタインの「前奏曲、フーガとリフス」では、クラリネットのマルコス・ペレス・ミランダ(新日本フィル副首席)、高木竜馬(pf)、高橋信之介(Drums)が協演した(5人のサックス奏者に関しては冊子に紹介が載っていない)。

 このバーンスタインのジャズ・スタイルによる小品は、彼は先日、関西の本拠たる兵庫芸術文化センター管弦楽団とも演奏していた(私が解説を書いた)。だが、これはやはりナマで聴くのが一番面白い。胸のすくような活力と熱気が沸騰する曲だ。
 佐渡の指揮も水を得た魚のよう。アンサンブルの演奏も活気に溢れて見事なものだった。アメリカ人演奏家が聴かせるジャズのようには行かぬかもしれないが、これはこれで充分スウィングした演奏と思える。

 一方、クラシックの2作品、「ドン・ファン」と「第7交響曲」は、いかにも「佐渡サンの指揮」という感の、骨太な構築の演奏だ。会場で遇ったある知人が「太巻き」と称したが、イメージとしては当たっているだろう。
 しかし、昔と違って、彼の指揮は非常にニュアンスが細かくなった。特に今日の「7番」では、リズムが主体となるフレーズと旋律が主体となるフレーズとを微妙に表情を変えて対比させたり、細部にアクセントを付したり、ちょっとしたクレッシェンドを施したりと、至る所に神経を行き届かせて、演奏の表情を豊かにしていたのである。しかもそれが所謂小細工でなく、音楽全体の流れの中に、極めて適切に織り込まれていたのにも感心させられた。

 新日本フィル(コンサートマスター崔文洙)は、今日は勢いで聴かせたようなところはあるものの、熱演ではあった。このオーケストラと佐渡裕との組み合わせは、この「熱演」が今後のトレンドとなるだろうが、それがどのように新日本フィルを基本的に活性化させて行くかを見守りたいところだ。

 なおアンコールは、「ロシアの作曲家チャイコフスキーがウクライナの民謡をもとに」して書いた「アンダンテ・カンタービレ」。時節柄、心に染み入る音楽だ。

2022・5・23(月)庄司祐美メゾ・ソプラノ・リサイタル

      北とぴあ つつじホール  2時

 「オリンピックイヤーに贈る名歌選」として企画されながら、コロナ禍のため2年間延期されていたリサイタル。

 カッチーニの「翼を持つ愛の神よ」に始まり、ファルコニエーリの歌曲2曲、ベートーヴェン2曲、それにレ―ヴェの歌曲集「女の愛」が第1部を成し、第2部ではヘンデル2曲、モーツァルト1曲、レスピーギ5曲が歌われた。いつもながら盛り沢山のプログラムである(聴く方にとっては、盛り沢山過ぎるかもしれない)。

 選曲はもちろん、プログラム冊子の詳細な解説や訳詞まで全部自分でやってしまうのが彼女の流儀で、その博学ぶりも凄い。
 それに加え、いつも参考になるのが、珍しいレパートリーの紹介だ。今回、私にとって目からウロコの曲目といえば、何といってもカール・レ―ヴェ(1796~1869)の歌曲集「女の愛Frauenliebe」だった。あのシューマンの「女の愛と生涯Frauenliebe und Leben」と同じシャミッソーの詩によるものだが、シューマンが作曲しなかった第9連の、老境に入った女性が孫娘に語りかけるくだりの詩がこちらには入っているということで、これを聴けたのは実に得難い体験だった。

 ピアノは山口佳代。綺麗な、澄んだ音を響かせる。ヘンデルの「ジュリオ・チェーザレ」の有名なアリアにおけるピアノの透徹した音色は絶品。

2022・5・22(日)新国立劇場「オルフェオとエウリディーチェ」

       新国立劇場オペラパレス  2時

 オペラ部門芸術監督・大野和士のもとでレパートリーの拡大を図っている新国立劇場が、初めて主劇場で手をそめたグルックのオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」。開場以来25年を経て、嘆かわしいレパートリーの欠如がやっと埋められたことになる。
 昨シーズンに予定されていたヘンデルの「ジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)」が、コロナ禍のため流れていたので、新国立劇場オペラパレスとしては、これが初めての「18世紀中盤以前のオペラ」ということになるようである。

 そのグルックのオペラ━━永遠の愛の物語「オルフェオとエウリディーチェ」を手がけるにあたり、演出と美術に勅使川原三郎(振付・衣装・照明も)を起用したことは、大いに意義ある試みであったと言えよう。手垢にまみれた、ありふれた写実的な手法などに依らず、かつ西洋の物真似でもなく、これぞ日本の文化からの発言という形でこのオペラの舞台が制作されたことには、全面的に賛意を表したい。

 真っ暗な背景の中に浮かび上がる巨大な百合の花と、前面に配置された白い皿のような円形の主舞台との対比の美しさは印象的で、それはまるで抗しがたい闇と暗黒の宿命と、その中に真摯に生きる純粋な人間たちとの対比を象徴するかのよう。
 合唱も黒づくめの衣装で、舞台には現れるけれど、所謂演技的な行動は採らない。つまり、ギリシャ劇の「コロス」としての役割なのである。そして勅使川原演出らしく、ダンスが要所に挿入されるが、これはもちろんドラマの内容の心理的表現の役割を与えられている。

 今回は、シンプルなウィーン版を基本に、天国の場面などにパリ版を取り入れた演奏だったと思われるが、25分程度の休憩1回を含め、計2時間という短い上演時間。版の選択も妥当だったというべきであろう。
 オルフェオ役にはカウンターテナーのローレンス・ザッゾ、エウリディーチェ役にはヴァルダ・ウィルソンが出演し、特に前者はかなり濃厚な歌を聴かせた。

 アモーレ役は三宅理恵が歌い演じたが、前2者に比べてみても、歌い方にもっとメリハリが欲しい。イタリア語歌唱として、何とも平板すぎるのだ。これは、敢えて言えば、コロナ禍のため2年以上も鎖国状態が続いていた日本のオペラ界の問題ではないかと思われる。
 新国立劇場合唱団(合唱指揮・冨平恭平)は充分責任を果たしていた。

 今回の指揮には、気鋭の若手、鈴木優人が起用され、東京フィルハーモニー交響楽団とともにノン・ヴィブラート奏法による演奏で、新国立劇場のオペラ上演に新風を吹き込んだ。
 爽やかで美しい個所ももちろんあったが、━━何故かオーケストラの音が異様に薄く痩せて、鳴っていない個所も多かったのには興醒めした。例えば序曲。それから第3幕の序奏に使われた舞曲など。
 序曲が始まった時など、今日は室内アンサンブル編成なのかと思ったほどだ。定期演奏会ではあれほど素晴らしい演奏をしているオーケストラなのに、別動隊となると、こうも違うものか。これは今に始まったことではないが。

 なおダンスは、佐東利穂子、アレクサンドル・リアブコ、高橋慈生、佐藤静佳。

2022・5・21(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 ドイツ(R・シュトラウス)、ソ連(ショスタコーヴィチ)、英国(ウォルトン)。奇しくもこの3つの国の組み合わせは、あの「戦争レクイエム」━━戦争の悲惨さと、平和への願いとを描いた英国の作曲家ブリテンの作品に登場する3つの国と同じ。

 それはともかく、英国出身のジョナサン・ノットが指揮するウォルトンのオラトリオ「ベルシャザールの饗宴」は、流石に見事なものだった。
 この曲は、これまでにも尾高忠明の指揮で2度ほど聴いたことはあるが、今日のノットの指揮は、流石に同国人の作曲家に寄せる共感と愛情が強く籠められた演奏というべきか、一種の凄絶で魔性的な熱狂のようなものを感じさせた。
 ウォルトンのスペクタクルな面が浮き彫りにされた演奏だったともいえるが、これは東京交響楽団の反応の良さゆえでもあろう。ノットと東京響のこれまでの演奏の中でも、屈指の出来と言って間違いない。コンサートマスターは水谷晃。

 正面P席と左右のRA、LA席に間隔を取って並んだ100人近い編成の東響コーラス(合唱指揮・冨平恭平)も強力で、しかも全曲(40分ほど)を暗譜で歌いこなしたのは立派である。
 バンダはRAとLA席最上方に配置されており、これは私の席(2階C席最前列)からはあまり明瞭に聴き取れない時もあったものの、オーケストラ全体の量感を増大させるといった点では、申し分なかった。

 前半のプログラム、R・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」は、活気に溢れる。最初のうちはアンサンブルもやや粗かったが、次第に密度も高められ、オーボエのソロとホルン群も映えていた。
 ショスタコーヴィチの「ピアノ協奏曲第1番」には、ソリストにペーター・ヤブロンスキーが登場。海外の著名演奏家がごく日常のように国内オーケストラの演奏会に登場するという状態がやっと戻って来たのだな、という新鮮な悦びを感じさせた瞬間でもあった。

 その終楽章では、これ見よがしにバリバリと叩きつけるような下品なことをしないヤブロンスキーのソロと、弦の向こう側に位置したトランペットの澤田真人(東京響首席)のむしろ柔らかい音色のソロが軽快に応酬し、リズミカルなユーモアのうちに進んだ。ヤブロンスキーのソロ・アンコールはバツェヴィチの「ソナタ第2番」第3楽章。

2022・5・19(木)METライブビューイング「ドン・カルロス」

      東劇  6時15分

 「ドン・カルロ」ではなく「ドン・カルロス」。つまりフランス語歌詩5幕版による上演だ。3月26日に上演されたもので、休憩時の趣向の中にはウクライナ支援のための演奏会の映像も一部収められている。

 この日はヤニック・ネゼ=セガンが体調不良とかで降板し、パトリック・フラーが指揮を務めた。だがもともとフラーはネゼ=セガンとのダブルで今回の一連の上演の指揮を受け持っていた人なので、すべてを熟知していたであろう。観客の受けもすこぶる良いようであった。SEASON BOOKには、スイス生まれで、今シーズンがMETデビューとある。

 主な配役は、マシュー・ポレンザーニ(スペイン王子ドン・カルロス)、エティエンヌ・デュピュイ(ポーザ侯爵ロドリーグ)、ソニア・ヨンチェヴァ(王妃エリザベート)、エリック・オーウェンズ(スペイン国王フィリップ2世)、ジェイミー・バートン(エボリ公女)、ジョン・レリエ(大審問官)。演出はデイヴィッド・マクヴィカ―。

 フォンテンブローの森の場面を含めた5幕版だから、音楽も正味4時間。長い。
 イタリア語版とフランス語版とでは旋律線も異なり(フィリップ2世のアリアなど最たるものだ)、ロドリーグが殺されたあとの場面も一般に上演される版とは大きく異なる、といった点も興味深い。
 ただ前半の3つの幕では、フラーの指揮もやはり〈破綻はないものの〉平板だし、マクヴィカ―の演出にもさほどの新味が感じられないし‥‥ということもあって、正直、途中で逃げ出そうかと思ったくらいだ。

 だが幸いなことに、「フィリップ2世のアリア」から国王と大審問官の応酬に続く第4幕あたりから、演奏も演技も盛り上がり始めた。マクヴィカ―の演出でも、カルロスの牢獄を訪れたロドリーグの歌唱と演技の中に自己犠牲と別れの悲しみが徹底的に表現されていたこと、彼の死のあとの場面で、カルロスの一本気と政治性の無さがどうしようもない形で表現されていたことなどが注目される。特に全曲の大詰めでは、カルロスが王の配下たちとの戦いで落命、奥から出現したロドリーグの亡霊が彼を抱いて倒れること、などが珍しいアイディアとして示されていた。

 ともあれマクヴィカ―は、このドラマ全体を暗く重圧的な雰囲気(舞台装置はチャールズ・エドワーズ)で描き、カルロスの単純さと政治性の欠如とを強調し、従ってロドリーグの自己犠牲も無益に終り、結局誰もが救われぬという悲劇性を前面に押し出していた。

 歌手陣の中では、第一にあの「フィガロ」などで格好いい役柄を得意としていたジョン・レリエが、今回は妖怪のような大審問官を見事に表現していたことに驚く。
 ポレンザーニもいよいよ貫禄と風格を増して来たのは喜ばしい。エボリ公女に最初予定されていたエリーナ・ガランチャが降板したことは痛恨の極みで、ジェイミー・バートンはMETの観客には余程の人気があるらしく、ブラヴォーの声も最も大きいのが不思議だが、あまりエボリ公女というガラではないだろう。

 終映は11時5分頃。東京と雖もコロナ以降、こんな時間は今や「深夜」に等しい。だが、きっとガラガラだろうと予想していたのだが、思いのほかお客が入っていたのには安心した。

2022・5・18(水)チョン・ミョンフン指揮東京フィル(5月定期初日)

      サントリーホール  7時

 フォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」で静かに開始されたプログラムは、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲で華麗に盛り上がり、休憩後にはドビュッシー「海」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」と続く。量感たっぷりだ。コンサートマスターは近藤薫。

 東京フィルの演奏も近来稀なる素晴らしさで、トランペットやホルンのソロも輝かしかったが、それ以上に、今夜ほどチョン・ミョンフンの円熟と巧みさに感じ入ったことは、これまでになかった。
 圧巻は何といっても「海」での指揮だったであろう。低弦の蠢き、シンバルの一打など、あらゆる細部にまで神経を行き届かせ、しかもオーケストラの音色を絶え間なく色彩的に変化させ、かつ全体を完璧なほどといっていい均衡の裡に響かせる。眼を閉じて聴いていると━━変な言い方だが━━この曲はまさしく「海」そのものなのだ、と思えて来るのだった。

 「ラ・ヴァルス」でも同様、その音楽の流れのしなやかさには舌を巻いた。作曲者が謂う「ウィンナ・ワルツ」云々のイメージからは稍々離れた演奏だったものの、音楽が色っぽい「しな」をつくっている点で、これは実に面白い「ラ・ヴァルス」ではなかったかと思う。

 それらに比べると、第1部での「ダフニスとクロエ」第2組曲の演奏は、少しくガサガサしてダイナミックな動きに偏っていた印象を拭い切れず、おそらくこれは2日目以降の演奏で解決される類のものであろう。
 とはいえ、冒頭の「ペレアスとメリザンド」組曲(私の愛してやまない曲なのだが)では、フォーレの夢のような叙情美を充分に再現した演奏で、その柔らかい優しさは、私にさまざまな思い出を蘇らせてくれた。

2022・5・17(火)前川知大作・演出「関数ドミノ」

      東京芸術劇場シアターイースト  7時

 ある交差点の横断歩道で、クルマが歩行者の少年に激突した。だが少年はかすり傷ひとつ負わず、クルマの方が大破した━━という奇妙な交通事故をきっかけとして、全てが思い通りに進むという特殊な力を持った人間が存在するのかしないのか、つまりドミノ幻想なるものが現実にあるのかどうか、それに関しての議論と口論で休憩なしの2時間を保たせた演劇。

 浜田信也、安井順平、大野つかさ、温水洋一ほかの出演で、今日が東京公演の初日。
 それにしても、もし、何事もドミノを持った人間のなせる業なのだ、という論理が成立するなら、それは宗教━━「全能の神」と同じことになるのではなかろうか?

2022・5・15(日)宮崎国際音楽祭 広上淳一指揮の「ローマの祭&松」

メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場)
アイザック・スターン・ホール  3時

 音楽祭最終日。「祝賀の舞~ここに集い、明日を音祝ぐ」という、「言祝ぐ」をもじった題名が付けられていて、今日は広上淳一が指揮。
 この腕利きのオーケストラを、大野和士と広上淳一というわが国のトップ指揮者が連続して指揮するのだから、この音楽祭も豪華なものである。

 プログラムは前半に尾高惇忠の「音の旅」という曲集からの10曲と、サン=サーンスの「交響曲第3番」(オルガンのソロは加藤麻衣子)、後半にはレスピーギの「ローマの祭」と「ローマの松」。
 実はそのあとにもアンコールとしてマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲が予定されていると事前に聞いていたのだが、空港行きのタクシー予約時間との兼ね合いのため、聴かずに失礼しなくてはならなかったのは残念の極み。

 前半の2曲は1階席28列で聴いていたが、ここは2階席の屋根の下に入った位置の所為か、ヴァイオリン群が硬く鋭く聞こえ、低音楽器もほとんど聞こえずといった具合で、オーケストラ全体をハイ上がりの安物のオーディオ装置を聞いているような印象。スーパーオケなのにこんなはずはあるまいと思い、職業上の理由から、レスピーギの2曲は、中2階のバルコニー席の下手側後方の位置に移って聴いてみた。

 予想通り、そこで聴くと、前半の2曲の時とはまるで別のオーケストラのように聞こえる。弦は柔らかく拡がって豊麗な音色となり、低音部の響きも増して重量感もたっぷりとしたものになり、音楽そのものが豊かな瑞々しさを湛えて、腕利き奏者たちを揃えたオーケストラの本領が存分に発揮されていたのである。

 レスピーギの色彩的な管弦楽法の魅力も、これなら充分に堪能できる。「ローマの祭」では、凶暴な祭、明るい祭、底抜けの陽気な祭などの色合いの違いも、見事に浮き彫りになった。「ローマの松」でも、「アッピア街道の松」がこれだけ重量感豊かな、豪壮華麗な底力を備えた音楽に感じられたことは、これまでになかった。

 オーケストラの各パートのソロも見事で、「祭」でのホルンのソロも胸のすくような鮮やかさだったし、コンサートマスターのライナー・キュッヒルが実に色っぽいソロを披露したのも印象的であった。
 近年のキュッヒル氏は、ベートーヴェンの四重奏曲などを弾くと、やたら荒っぽく弾き飛ばす癖があって、やはりもうトシなのかなと思わされていたものだったが、このように自由さが認められている曲を弾くと、余人にはとても真似できぬような滋味と巧さを発揮する。流石の年輪である。

 それにしても、この宮崎国際音楽祭管弦楽団の力量はたいしたものだ。最盛期のサイトウ・キネン・オーケストラにも退けは取らないだろう。そして、あれよりも柔らかく、あたたかい雰囲気を備えている。こうした名手オケを制御するマエストロ広上淳一の気魄も壮烈であった。

 20時10分発のANAで帰京。楽員さんたちも大勢乗っていて、満席に近い状態と最初は見えたが、何故か最後部の数列はガラガラで、独りで席を3つ占領できるという快適さ。21時40分羽田空港着。

2022・5・14(土)宮崎国際音楽祭 大野和士指揮の「ヴェルレク」

   メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場) 
   アイザック・スターン・ホール  3時

 伊丹から宮崎へ飛び、4年ぶりに宮崎国際音楽祭を訪れる。今年が第27回。徳永二男を音楽監督として4月29日から開催されており、明日が最終日だ。今日は大野和士が指揮するヴェルディの「レクイエム」で、「喪失と悲哀を越えて」という演奏会タイトルが付けられている。

 オーケストラは例年通り国内屈指の奏者たちを集めて編成されており、ソリストをはじめ各楽団の首席奏者たちが名を連ねているさまは壮観である。特に第1ヴァイオリン・セクションには、国内オケのコンサートマスターが10人以上も参加しているという驚異的な陣容で、しかも今日は懐かしや、ライナー・キュッヒルがコンマスの椅子に座っているという華やかな光景だ。
 合唱には新国立劇場合唱団が来ている。そしてソリストも中村恵理(S),池田香織(Ms)、宮里直樹(T),妻屋秀和(Bs)という強力な面々が揃う。

 白熱の快演ともいうべき今日のヴェルディの「レクイエム」の中で、やはり特筆すべきは大野和士の見事な指揮であろう。
 1時間半に及ぶ長い全曲を一分の隙も無く緊迫感を持続させつつ完璧に構築し、歌手の声を全く打ち消すことなくオーケストラを巧みに響かせる。何よりも、この曲が備えている「宗教曲」というよりも「オペラ的」といっていいほどの強いヒューマンな喜びと哀しみの情感を、あくまでも明快に浮き彫りにした演奏に、私は心を打たれた。

 こういうオペラ的な曲を指揮する時の大野和士は、やはりただものではない。わが国の指揮者で、これだけの「ヴェルレク」を演奏できる人は、他には見当たらないだろう。それはまさに「喪失と悲哀を越えて」というコンセプトに━━ただ言葉上の建前のみにとどまらず、感情の面からいっても、相応しい演奏だったのである。

 新国立劇場合唱団(合唱指揮者・三澤洋史)はステージ後方および左右のバルコニー席に拡がって配置されていたが、予想以上にバランスよく、緻密な合唱を聴かせてくれた。
 また、ステージ前面に各々距離を取って位置した4人のソロ陣も充実の歌唱を披露。特に最後の「リベラ・メ」での中村恵理の劇的な感情表現は素晴らしく、その中に挿入された「怒りの日」へ転換して行く個所での激しい感情の変化の個所など、欧州の歌劇場でキャリアを積んだ歌手ならではの巧味を感じさせていた。

2022・5・13(金)山下一史の大阪交響楽団常任指揮者就任記念定期

      ザ・シンフォニーホール(大阪)  7時

 山下一史は2016年4月から千葉交響楽団の音楽監督を務めているが、この4月からは、愛知室内オーケストラの音楽監督と、この大阪交響楽団の常任指揮者を兼任することになった。大変な忙しさだろう。
 今日の大阪響定期はその就任記念。ワーグナーの「ジークフリート牧歌」、R・シュトラウスの「4つの最後の歌」(ソプラノは石橋栄実)および「英雄の生涯」を指揮した。コンサートマスターは森下幸路。

 このところ何故か「英雄の生涯」がかち合うが、どれも指揮者とオーケストラが腕に縒りをかけて取り組んだだけあって、立派な演奏ばかりだ。今日の山下と大阪響も、かなり念入りなリハーサルと積んだのだろうが、両者の最良の部分が示されていたのではないかという気がする。

 山下一史が描き出したこの「英雄」は、私が感じ取った範囲で言えば、すこぶる折り目正しく端然とした、ノーブルな「英雄」ではなかろうか。先日、大野和士が描いた闘争的な「英雄」とも、広上淳一が描いた円熟の境地に入った「英雄」とも違う、そこのところが面白い。
 例えば、冒頭からして山下の「英雄」は落ち着き払っているし、「伴侶」との対話の個所では紳士然とした「おとな」の夫といった表情なのである。

 オーケストラは均衡豊かなアンサンブルを響かせ、豊麗さも、劇的な壮烈さをも十全に備えた演奏となっていた。
 ホルンは、「4つの最後の歌」における演奏ともども、いいソロを聴かせてくれた。また、コンマスの森下幸路は、「4つの最後の歌」で美しいソロを披露した後、「英雄の生涯」ではコケットで駄々っ子的な、噂に聞くR・シュトラウス夫人その人を想像させるソロを弾いた━━この手に負えぬ「妻」(ヴァイオリン)と、泰然としたおとなの主人公(低音の金管他)とのやりとりのくだりが、今回の演奏では実に巧く描写されていたと思う。

 そして、全曲の終結を為す「英雄の隠遁」の部分で、シュトラウスの旧作の各モティーフが走馬灯のごとく流れて行き、曲が次第に終りに近づいて行くあたりでの柔らかい安息の情感も、オーケストラの均衡に富む響きによって、見事な世界となっていたのである。

 だが、そこまではいいのだが、━━こういう丁寧な構築で、そして優しく深みのある音で「英雄の生涯」以外の2曲も演奏されていれば━━「ジークフリート牧歌」はともかくとしても、「4つの最後の歌」のオーケストラ・パートがもっと優しく官能的に演奏されていれば、折角の石橋栄実の歌もいっそう映えたと思うのだが、如何なものか。リハーサルの大半を「英雄の生涯」に注ぎ込んでしまったのか、他の2曲でのオーケストラの演奏が何とも無造作で密度に不足し、愛情が感じられなかったのだ。それが惜しまれる。
 こういうギャップをどう埋めて行くかが、今後の大阪響の評価の分かれ目となるのではないか?

 だがまあ、それはそれとして、この「英雄の生涯」1曲だけでも、こういう演奏を可能にしたという点で、山下一史の常任指揮者就任は大成功だった、と今日は申し上げよう。児玉宏によってレパートリーを開拓され、外山雄三によってアンサンブルを厳しく整備された大阪響が、今後どのような展開を見せてくれるか。期待してまた聴きに来よう。

 昼間の土砂降りの雨も、夜にはどうやら小降りになった。明朝の移動に備えて、伊丹の大阪空港ホテルに投宿。この空港も昔に比べ、綺麗になった。

2022・5・12(木)藤岡幸夫指揮東京シティ・フィル

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の定期。首席客演指揮者の藤岡幸夫が振る。今年になってから彼の登板が多くなった。
 今日は前半にラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲と「ピアノ協奏曲ト長調」(ソリストは角野隼斗)、後半に黛敏郎の「シンフォニック・ムード」と「BUGAKU」。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 「角野人気」は流石に凄く、チケットは完売の由で、実際に客席もほぼ埋まっていた。シティ・フィルの定期でこれだけ満席に近い状態になったのは、飯守泰次郎がワーグナーを指揮した時以来だろう。

 それ故、些か主客転倒の雰囲気はあったものの、藤岡とシティ・フィルの演奏の熱気も並々ならず、特に黛敏郎の2作品でそれは最高潮に達した。
 「シンフォニック・ムード」は1950年(21歳)の作品、「BUGAKU」は1962~63年の作品で、いずれもその管弦楽法の濃密さ、多彩さは驚くべきものだが、今日の藤岡とシティ・フィルはそれを十全に再現したと言ってもいい。

 前者では内声部の特徴ある動きも明確に聴き取れたし、後者の舞のリズムも明晰に響いていた。見事な熱演であり、曲も素晴らしかったが、━━しかし、この2曲を続けざまに聴くのは、些か根性と体力が要るだろう。最強奏で轟き続ける分厚い音楽が50分以上も続くのだから‥‥。

 「マ・メール・ロワ」は、藤岡が思い入れたっぷりに指揮し、シティ・フィルをたっぷりと歌わせ、結尾のフェルマータをも長く長く延ばして盛り上げた。美しくはあったものの、プログラム冒頭の曲としては少しく凝り過ぎ、沈潜した雰囲気になったかもしれない。
 一方、コンチェルトでは角野隼斗の「抒情の躍動」が聴けたが、その細身のピアニズムがオーケストラに覆われる傾向無きにしも非ず。ソロ・アンコールの「スワニー」(この選曲はいいが)を含め、演奏にはもっと色彩感と、息づく表情の変化が欲しいところ。

2022・5・11(木)飯森範親指揮パシフィックフィルハーモニア東京

      サントリーホール  7時

 「東京ニューシティ管弦楽団」改め「パシフィックフィルハーモニア東京」と、4月にその新音楽監督に就任した飯森範親。

 4月定期は客演の鈴木秀美が指揮していた(☞4月8日)が、この5月定期がいよいよその「就任記念公演」となった。ロビーには花輪が並び、招待客も賑やかで、客席も結構な入り。
 今日のプログラムは、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは牛牛)とショスタコーヴィチの「交響曲第1番」、メイソン・ベイツの「マザーシップ」(ソリストはマーティ・フリードマン、高木凛々子、藤原道三、牛牛)。コンサートマスターは執行恒宏。

 牛牛(ニュウニュウ、本名・張勝量)の演奏を聴くのは2年ぶりで、前回聴いた時には柔らかく美しい音色と劇的な表現力を兼ね備えた青年ピアニストだという印象を受けたのだが、今日のチャイコフスキーでは、かの伝説的ピアニスト、ホロヴィッツもかくやとばかりの猛烈なテンポと、自在に変動するデュナミーク、光と翳が不断に入れ替わるような変化に富んだ音色、という演奏で、ヴィルトゥオーゾ的な演奏を繰り広げた。

 いつからこういうタイプの演奏家になってしまったのかと訝らざるを得ないが、まあとにかく、物凄く煌びやかで激烈な、しかもスピード感満載のチャイコフスキーだったことは確かで、呆気に取られて聴いていた次第だ。解釈はともかく、祝賀演奏会の幕開きとしては、良くも悪くも、派手な花火のように効果的だったかもしれない。
 しかもソロ・アンコールには、リスト編曲のベートーヴェンの「運命」第1楽章を弾いたが、これまたおそろしく勢いのいいのなんの。

 ショスタコーヴィチの「1番」は、いつも聴くよりはやや分厚い響きの物々しい演奏に感じられ、この作品が持っている軽妙洒脱なアイロニー感には些か乏しいようにも思われたが、これは多分飯森の解釈にもよるものなのだろうから、そのまま受け取るしかない。
 ただしオーケストラは━━今日聴いた席がいつもと違う1階席中央やや後方だったので、しかとは断定できないが━━弦の響きにあまり力がなく、管楽器ばかりが強く響いて来て、しかもその管に緻密さが不足しているように思われたのだが、どうなのだろう?

 この曲に続いて演奏されたのが、アメリカの作曲家メイソン・ベイツ(1977年生れ)の「マザーシップ」という曲。
 ステージ上のオーケストラの他に、黒いシートで覆われたP席の上方にエレキギター、エレキヴァイオリン、尺八が配置され、ピンスポットを浴びながら躍動的な演奏を繰り広げる。ステージ下手のピアノには何と牛牛が座っていた(という話だ)が、プログラム冊子に予告が載っていなかったところを見ると、これはサプライズだったのかもしれない。
 照明演出も加えられ、正面オルガンから左右LB・RB席後ろの壁面にかけ、整理された構成の眩いデザインの映像が音楽に合わせて乱舞するという趣向も入っている。音楽に合わせて光が舞う、という趣向はスクリャービンも試みたもので、これはこれで興味深い。
 ただ、この映像演出についてはプログラム冊子に全く言及がなく、製作スタッフも明らかでない。曲が終る頃、オーケストラのロゴが壁面のあちこちに投映されたのには苦笑を抑え切れなかったが・・・・。

 音楽そのものについては、言っちゃ何だが、面白いだけで、あまり音楽的な感銘を受けるほどのものではなかった。「独奏パートがオーケストラ(母船)に結合したり離れたりしながら音楽は進んで行く」(プログラム冊子、オーケストラ事務局による解説)というのも、さほど珍しい切り口ではないだろう。キワモノと言っては失礼だが、まあ一瞬激しく妖しく燃えて燃え尽きる、といった性格の音楽に感じられた。

 ただしかし、こういう珍しい作品を、しかもショスタコーヴィチの「第1交響曲」という若い気負いの精神があふれた曲と一緒にプログラムに乗せる、という方針そのものは、支持したいと思う。マエストロ飯森とこのオーケストラは、こういうプログラミングも加味して大海に乗り出そうという方針らしいが、そのこと自体は興味深いことだ。さしあたりは、もっとPRに力を入れて欲しいところである。

2022・5・7(土)飯守泰次郎指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団

       日立システムズホール仙台・コンサートホール  3時

 飯守泰次郎は仙台フィルの常任指揮者を2018年の4月から務めているが、私はこの顔合わせによる演奏会を聴いたのはこれまで1回しかない(☞2019年2月8日)。
 今回はブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは菊池洋子)と「交響曲第4番」というプログラムで、それは彼らのブラームス・ツィクルスの最終回にあたることもあって、日帰りで聴きに行くことにした。コンサートマスターは西本幸弘。

 今日の飯守と仙台フィルの演奏は、2曲とも、非常な力感を迸らせていて、むしろ荒々しさを感じさせたほどである。
 コンチェルトの方は、ブラームスの若き日の気魄にあふれた作風のものだから、それも一理ある解釈だったろう。菊池洋子のソロもそれに呼応し、この人のいつものスタイルからはちょっと想像できないほど、豪放で、時には力づくという印象も受ける演奏だったように思われた。
 彼女はアンコールにブラームスの「子守歌」を演奏したが、こちらは優しさにあふれた世界だ(アンコールの曲名を場内アナウンスで告知したのは親切な方法である)。

 だが、ブラームス晩年の落ち着いた思索的な交響曲たる「4番」が、後半2楽章に於いて、時に凶暴なほどの勢いを示して演奏されたのには、少々面食らった。よく言えば、最後まで闘争的な精神を失わぬブラームス像を描き出した演奏、ということになるだろうか。それはそれで、一つの解釈であろう。

 実は前半2楽章が意外に単調な演奏で━━例えば第2楽章第87~88小節前後の、全合奏で激動的に進んで来た音楽が一転して幅広い弦の主題に移るくだりが、あまりに表情の変化なしに淡々と進められてしまったところなど、これまでのマエストロ飯守らしくないな、と、ちょっと心配になっていたのである。
 それゆえ、ティンパニを狂気の如く豪打させつつ嵐の如く突き進んで行く第3楽章や、何かに怒りをぶつけるようなエネルギーを変奏ごとに高めて追い込んで行く第4楽章を聴いた時には、解釈の問題は別として、とりあえず安心させられたのは事実だった。

 氏の個人生活における御不幸などが、氏の音楽への没入度を高め、その音楽にむしろ情熱を加えたのか、という気もした。ともあれ、今日の飯守&仙台フィルの、全体に少々「荒っぽい演奏」が、この二つの楽章での昂揚を通じて、音楽との肉離れを起こさずに済んだ、とも言えるかもしれない。

 終演後の、「オーケストラ主導による聴衆の分散退場」方式がまだ続いているのには心を打たれた。今日はコンマス(指揮者がやる場合もあったはず)が客席に退場の順序をユーモラスに指示し━━「間」を保たせるためにPRも折り込むサービスの良さだ━━オーケストラの楽員全部がステージ上から笑顔で手を振りつつそれらを送り、客席が半分くらいになった時点で今度は楽員も「分散退場」に移るという独特のやり方だ。

 国内でこういうアットホームなことをやるプロオケは、他にないだろう。客席の実際の状態や聴衆の心理状態も考えずただ機械的な場内アナウンスでのろのろとした「分散退場」を強制する各ホールのやり方は、私にはナンセンスだと思え、その進行の遅さに苛々して帰りを急ぎたい客が自主判断で動いてしまうのは無理もないという気がするのだが、この仙台フィルのやり方なら、お客たちも笑って従う雰囲気も生まれるというものである。

 このホールは客席数800だが、今日は満席。事務局の話によれば、金曜(夜)土曜(マチネー)の2日制定期のうち、土曜は完全に「入りを回復」したとのこと。相次ぐ地震となかなか熄まないコロナの中で頑張っているオーケストラを応援したいものである。

 9時2分の「はやぶさ」で帰京。連休の終りにもかかわらず空いていたのが意外。

2022・5・1(日)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(終)
グランド・フィナーレ 沼尻竜典指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

          滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール  5時

 これが結びの一番。指揮者として当初発表されていた大植英次が降板、沼尻竜典が指揮することになった。しかし、この音楽祭のテーマから言えば、沼尻芸術監督が指揮するのが妥当というものであろう。

 プログラムは、チャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」(ソロは上村文乃)、プッチーニの「蝶々夫人」からの「ある晴れた日に」(伊藤晴)、モーツァルトの「フィガロの結婚」からの「訴訟に勝っただと?」(晴雅彦)、沼尻竜典の「竹取物語」のかぐや姫の「帝に捧げるアリア」(冨平亜希子)、プッチーニの「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」(宮里直樹)━━と進み、最後はレスピーギの「ローマの松」で豪壮に締め括られた。

 沼尻が大阪フィルから引き出した音は、清楚で美しい。「ロココ」の冒頭など、チャイコフスキー独特のあの澄んだロシアの雪の光景を思い出させるような美しい音色に満ちていてハッとさせられたし、「フィガロ」では弦の透明な響きに陶然とさせられたほどだ。

 但しその「ロココ」では、オーケストラの落ち着いた音色と上村文乃のブリリアントなチェロの音色とが、あまりに異質な感を生んでいたのではないか。
 一方、宮里直樹は、今日こそは大ホールという音響空間を生かし、強大な朗々たる声で本領を発揮した。また晴雅彦が「伯爵のアリア」を劇的に歌い、シリアスな役柄での実力を遺憾なく発揮していたのもいい。
 「ローマの松」は、当初の予定だったチャイコフスキーの「1812年」から変更されたものだが、作品の質から言ってもそれは極めて妥当な選曲であった。

 6時過ぎ、音楽祭は成功裡に幕を閉じた。お客さんの反応も上々だったのは祝着。京都を7時半に出る「のぞみ」で帰京。

2022・5・1(日)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(8)
「いざ傑作の森へ!2」 児玉麻里

      滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール  4時

 プログラムは、ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第17番《テンペスト》」と「同第26番《告別》」の2曲。

 前者は1802年の完成、後者は1810年初頭の完成だから、いずれも「傑作の森」の時期とは微妙にずれているんじゃァないか?という気もするが━━それはともかく、彼女のトークによれば、「告別ソナタ」は、例の音楽祭テーマに関連させての、沼尻芸術監督からの提案に基づく選曲だったとのこと。
 「この曲の題名の《告別》とは、近いうちに再会できることを願う、という意味ですよね」と彼女は語り、隈取りの明確な、強靭な演奏を繰り広げた。

2022・5・1(日)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(7)
「オペラ合唱名曲選」河原忠之とびわ湖ホール声楽アンサンブル

          滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール  2時20分

 河原忠之の指揮とピアノで、定評あるびわ湖ホール声楽アンサンブルが、オペラの合唱曲を歌う。ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「タンホイザー」、ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」と「ナブッコ」、カタラーニの「ワリー」など。

 合唱の編成は計14人(男声・女声7人ずつ)で、それはもうしっかりした演奏、見事なソロだったことは確かだが、その豊かな声は、河原のピアノの━━この回に限って何故か乱暴な━━大音響とともに、とてもこの小ホールで聴かせる演奏ではない。昨日の宮里直樹のリサイタルと同様、会場とのアンバランスが著しい。

2022・5・1(日)「近江の春」びわ湖クラシック音楽祭(6)
高関健指揮京都市交響楽団&牛田智大

          滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール  午後1時

 午前中にも2つのコンサートがあったが、体力を考えて午後からの4つの公演のみ聴く。つい10年ほど前まで、あれほど夜討ち朝駆け、各地転戦、各国転戦の旅を平気でこなしていたのに、最近ではホテルの枕かベッドが変わっただけでよく眠れぬ、という状況になってしまったのは情けない話だ。

 朝の強い雨も昼頃には上がる。ホワイエに並んでいる売店を冷やかしたり、中ホールでオーストリアの音楽祭やウィーンの街々の光景を紹介した映像を眺めであれこれ思い出に浸ったりした後、大ホールに向かうと、ちょうど小ホールでの演奏会を聴き終った人たちがどっと押しかけて来て、長蛇の行列を作っているところ。とにかく、賑やかなのは目出度い。

 皆さんのお目当ては当然、牛田智大がソロを弾くショパンの「ピアノ協奏曲第2番」にあったことだろう。だが私の方は、高関健が━━最近はまた、とみにブルックナーやマーラーの交響曲などシリアスな大規模作品の指揮者というイメージを強めている、あの高関さんが━━指揮する、ビゼーの「アルルの女」第2組曲の方に多大な興味があった。
 期待と予想通り、恰もシンフォニーを聴くような、堂々たるスケールの「アルルの女」だ。終曲の「ファランドール」は、重厚に轟く太鼓の威力も凄まじく、オーケストラは文字通り怒涛の進撃。

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