2024-04

2022年7月 の記事一覧




2022・7・31(日)東京混声合唱団&新国立劇場合唱団

     東京オペラシティ コンサートホール  3時

 プログラムには両団体の「共同主催」ではなく、「合唱音楽協会」主催と表示されているので、東京混声合唱団(東混)側がホスト的な立場なのだろう。
 同協会は、東混と他の合唱団(アマチュア合唱団)と協演するシリーズを活動の骨子の一つとしているが、今回はその大発展型として、プロの強敵(?)と組む演奏会を企画したのだと聞く。

 つまりこのコンサートは、演奏会活動を中心とする東京混声合唱団と、オペラ活動を中心とする新国立劇場合唱団とが協演して、一つのステージでオペラの合唱曲や日本の歌曲を一緒に歌い合う、というものなのである。面白い企画だ。

 第1部では三澤洋史(新国立劇場合唱団首席指揮者)のもとで、まず新国立劇場合唱団が「カヴァレリア・ルスティカーナ」の「オレンジの花の香り」を歌い、それから2団体が合同でバッハの「モテットBWV220」と、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプs」と、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」からの第4曲と、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」からの2つの合唱を歌う。
 第2部ではキハラ良尚(東混常任指揮者)のもとで、まず東混が池辺晉一郎の「東洋民謡集」からの2曲を歌い、それから2団体が信長貴富の「飛び交わす言葉たち」と「くちびるに歌を」、そして三善晃の「唱歌の四季」を合同で歌う━━という仕組。
 ピアノは鈴木慎崇と津田裕也が弾いた。

 それぞれ個性の際立った2つのプロ合唱団が合同で歌った時のハーモニー感とか、どのような表現がつくり出されたかなどといったことについては、私にはさしあたり云々できる自信はない。とはいえ、総計50人近くになるにわか仕込み(?)の「合同の合唱団」には、アンサンブルの緻密さなどは、望むべくもなかろうと思う。

 ただ、その量感はさすがのもので、ブラームスやワーグナーでは、それらに相応しい壮大な拡がりの世界を感じさせたことは確かだ。
 しかし一方、日本の唱歌集などでは些か大袈裟な感を免れなかったが、これは先入観による誤解でなければ、そもそも日本の合唱作品に大編成の合唱が必要なのか、あるいは大編成によるフォルティシモの歌唱が必要なのか、という問題を━━国民性の問題も絡めて━━考えさせてくれる一つの例となるのかもしれない。

 ともあれ、それぞれの合唱団が独自に歌った曲を比較して、一瞬ながら感じたのは、劇的な迫力を漲らせるという点では、さすがオペラの合唱団だけあって、新国立劇場合唱団の力量は立派なものだ、ということ。
 そして一方、東京混声合唱団は、さすが演奏会で鍛えただけあって、例えばディミヌエンドして行く個所などでの柔らかい空間的な拡がりの豊かさには、天下一品美しいものがあるな、ということ。

 合唱の醍醐味を味わわせてくれた演奏会だった。

2022・7・30(土)フェスタサマーミューザKAWASAKI
下野竜也指揮NHK交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  4時

 3時から30分間、N響メンバーがステージで「プレ・コンサート」。相変わらずのサービスの良さだ。木管三重奏でバッハとミヨーの作品、弦楽四重奏でラヴェルの作品(弦楽四重奏曲の抜粋)が演奏された。

 これにもすでに相当数の聴衆が詰めかけていたが、4時からの本公演は、昨日に勝る客の入りとなった。空席も僅かに散見されたが、これは欠席客のものであろう。チケットそのものは完売だったという。裏方では大入袋も出たとか。当節のクラシック音楽の演奏会としては、稀有の現象かもしれない。

 その本公演で下野竜也の指揮により演奏されたのは━━バッハ~レーガー編「おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け」BWV622、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは三浦文彰)、ベートーヴェンの「交響曲第7番」の3曲。
 なお、オーケストラのアンコールはベートーヴェンの「フィデリオ」からの「行進曲」(これ、昨年のN響との演奏会でもやったのでは?)。その他、三浦がソロ・アンコールとして、ヴュータンの「アメリカの思い出~ヤンキー・ドゥードゥル」を弾いた。
 コンサートマスターは篠崎史紀。

 冒頭のバッハから、N響の弦楽アンサンブルの瑞々しさが印象づけられる。下野が自らの切れのいい指揮の中にN響の美点を巧く生かしている、といった演奏である。
 ブルッフの「1番」では、下野はN響をやや物々しく響かせるが、一方の三浦文彰もオケに挑むように丁々発止とソロを展開し、ドイツ・ロマン派の叙情美を超えた、強面のコンチェルトというイメージを感じさせてくれたのが面白かった。昨年この3者が協演したブラームスの協奏曲に比べても、もっと自由な感興が生まれていたように思う。

 ベートーヴェンの「7番」は、徹底的に剛直な律動性を以て全曲を貫いた演奏となった。些かの小細工もなく、正面切って、正確なテンポで押す。下野竜也の指揮するベートーヴェンのシンフォニーは最近あまり聴く機会がなかったが、こういうスタイルでしたっけ?
 N響も、金管には時たまN響らしからぬオヤというところもあったものの、その豪快で重厚なサウンドは相変わらずだ。まさに自信満々、「平然として巧い」。

2022・7・29(金)フェスタサマーミューザKAWASAKI井上道義と読響

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 4回目のワクチン接種に伴い、昨日は神奈川フィルの演奏会へ行くのを自粛したが、副反応と言えば終日肩の痛みを感じた(夜になって突然消えた)程度で発熱もなく、どうやら切り抜けられたようなので、今日は読響を聴きに行く。
 「告別と絶筆。一期一会のシンフォニー」というタイトルで、井上道義がハイドンの「交響曲第45番《告別》」と、ブルックナーの「交響曲第9番」を指揮した。コンサートマスターは日下紗矢子。

 客の入りは実数1500人強だという話だったが、見たところは、満席に近いようにさえ感じられた。これだけの聴衆が入っていると、流石に壮観だ。6時半からのプレトークの時から既に大勢の客が席についていて、マイクを持って現れたマエストロ井上が「なんでこんなに早く皆さんいらっしゃるんですか」と例の調子で客を笑わせていた。彼の人気もますます高くなっているようである。

 「告別」は、「そもそもタイトルが間違っている。これは休暇申請、つまり今日は楽員の夏休みの申請の交響曲」だというマエストロ独特の説に従い、今日の演奏には、ステージの灯を順に消して楽員が「一礼して」(!)退場して行く演出だけでなく、後方のオルガンの前に設置した巨大なスクリーンに楽員たちのスナップ写真を次々に投映するという趣向も加えられた。
 演奏そのものは計30人ほどの編成で行われたが、嬰へ短調という調性が、今日は不思議なほど一段と暗い音色で響いていた。

 この打ち沈んだ雰囲気が、次のブルックナーの「第9交響曲」にも引き継がれていたのも印象的だった。第1楽章と第3楽章における極度に遅いテンポ、ステージ後方にずらりと並んだ金管群を全力で咆哮させる激烈さなどに加え、井上道義が久しぶりに聴かせてくれた透明な、白夜的な音色(若い頃の彼はこの音色が得意だった)が、この「ニ短調交響曲」に独特の凄味を与えていたようにも感じられた。

 とりわけ、イン・テンポで一つ一つの音を強く踏みしめるように響かせて行った今日の彼の指揮は、あたかもある人間が自己の生涯を、確信を以て回想しているかのよう。それが第3楽章の最後に至って浄化され、安息に達するという流れになるわけだから、この交響曲は、何かいっそう物凄い音楽に聞こえてしまう。

 読売日本交響楽団は、今日はいつもと少々雰囲気が違う。指揮者が求めたであろう激烈さにおいては申し分なく、こういう力感は他のオケではなかなか出せないだろうが、しかし少々粗い。
 第3楽章最後の浄化の部分におけるワーグナーテューバとホルンなど、今ひとつ精妙なアンサンブルによる安息感といったものがあれば、と思われた。それにもう一つ、第1楽章の最後から5小節目の、ひときわ高く響き渡るトランペットが、もう少し楽譜通りの全音符で明快に聞こえるように響かせられていれば━━聴かせどころなので━━という気もしたのだが‥‥。

2022・7・25(月)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

       サントリーホール  7時

 7月定期のBシリーズ。首席客演指揮者アラン・ギルバートが登場、モーツァルトの交響曲「第39番」、「第40番」、「第41番《ジュピター》」を指揮した。コンサートマスターは矢部達哉。

 3曲とも弦12型で━━但し12・12・8・6・4という編成が採られていた━━演奏されていたが、その弦もノン・ヴィブラート奏法でなく、そしてガリガリとした鋭角的な音色の演奏でもなく、あくまで柔らかくたっぷりした響きで弾かれるので、あたたかく豊潤なモーツァルトが立ち現れていたという感だ。
 こういうスタイルのモーツァルトは、なにか久しぶりに聴いたような気がするが、あらゆる個所が引き締まって活気に溢れているので、些かも旧さを感じさせないところがいい。

 アランは、基本的に弦を主体とするような響きを設計していたようにも見える。例えば「ジュピター」の第4楽章では、管楽器群の微細な動きはむしろ背景を彩るハーモニーのタペストリーのようなイメージにとどまり、専ら弦楽器群の分厚い響きが音楽を上へ上へと高めて行くという印象を与えていた。

 しかしその一方、必要とあらば、管楽器群を存分に浮き彫りにしていることは言うまでもない。たとえばその「ジュピター」の第2楽章では、モーツァルト特有の木管の素晴らしいハーモニーがはっきりと浮かび上がり、和声の精妙な動きが音楽の起伏をつくって行くという具合なのだった。このあたりの音楽づくり、アランも実に巧くなったな、と感心させられる。

 3曲のシンフォニーの異なった性格を、殊更に強調するのではなく、作品本来の色合いに従って自然に描き出して行くというアラン・ギルバートの指揮。都響が響かせた柔軟な表情も見事で、この日のモーツァルトは、予想をさらに上回る演奏となった。
 「ジュピター」が終ると同時に起こった爆発的な拍手は、聴衆の満足度の高さを示していただろう。以前だったら、ブラヴォーのハーモニーが上階席から湧き起ったところだ(そろそろあの声が聞きたくなった)。アランと都響の組み合わせ、大成功である。

2022・7・23(土)フェスタサマーミューザKAWASAKI開幕
東京交響楽団 オープニングコンサート

    ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 東京都と神奈川県のプロ・オーケストラおよび神奈川県の主要音楽大学のオーケストラがずらりと顔を揃える、恒例の名物フェスティヴァル。今年も順調に開幕できたのはめでたいことである。
 最近では、他都市のオーケストラも毎年1団体がゲストで出演することが習わしとなっていて、今年は尾高忠明の率いる大阪フィルが来る。フェスティヴァルは8月11日まで開催。

 今日のオープニングコンサートでは、ホスト・オーケストラの東京交響楽団が、音楽監督ジョナサン・ノットの指揮で登場。「ジャズとダンス━━虹色の20世紀」と題して、実に多彩で面白いプログラムが演奏された。

 まず三澤慶の「音楽のまちのファンファーレ」で開始され、クルタークの「シュテファンの墓」、シェーンフィールドの「4つのパラブル」と続き、休憩後にはドビュッシーの「第1狂詩曲」、ストラヴィンスキーの「タンゴ」「エボニー協奏曲」「花火」と続き、最後はラヴェルの「ラ・ヴァルス」で結ばれるという流れ。
 ソリストは鈴木大介(g)、中野翔太(pf)、吉野亜希菜(cl)、谷口英治(cl)。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 楽器編成はさまざまだったが、ステージのセット換えは前半を除いてほとんど行わずに、楽員がその都度しかるべく移動するという方式で、時間的にもスムースに進めて行ったのは見事であった。ストラヴィンスキーの作品集では、演奏する管楽器群をステージ下手寄りに集め、そこのみ照明を当てるという趣向も見せた。今日のステージ・マネージングは、なかなか冴えていたと言えよう。

 「シュテファンの墓」では、下手側に位置したソロ・ギターと、ステージ各所および客席各所に点在した楽器群との空間的交流が不思議な雰囲気を醸し出す。
 一方「4つのパラブル」は、シンフォニック・ジャズの魅力を存分に発揮した作品で、今日の演奏の中ではこれが最も豪華絢爛とした光を放っていたように感じられた。

 もちろん、ストラヴィンスキーの作品群も、ナマの演奏会では滅多に聴けぬ曲だし、楽しく聴かせてもらった。が、最後の「ラ・ヴァルス」は、ちょっと所謂「フェスティヴァル的」な雰囲気の演奏だったか? ともあれ今日はノットと東響らしい活気の漲った演奏で━━トランペットもよかったし━━面白い趣向も感じられるコンサートだった。

2022・7・22(金)アレホ・ペレス指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 読響の7月定期。アルゼンチン出身の指揮者、アレホ・ペレスが客演した。
 この人の指揮は、東京二期会公演で読響と協演した「魔弾の射手」と、ザルツブルク音楽祭でのグノーの「ファウスト」を聴いたことがある。極めて切れのいい、胸のすくような勢いを持った指揮を聴かせる人で、私は大いに好感を抱いたものだ。

 今日はエトヴェシュの「セイレーンの歌」、メンデルスゾーンの「ヴァイオリンとピアノのための協奏曲」(ソリストは諏訪内晶子とエフゲニ・ボジャノフ)、ショスタコーヴィチの「交響曲第12番《1917年》」を指揮したが、いかにもペレスらしく、強いメリハリと、音楽を先へ先へと進めて行くエネルギーにあふれた演奏を読響から引き出していたのが印象的だった。

 エトヴェシュの「セイレーンの歌」は、2020年の作曲で、2021年に初演されたとのこと。私は聴く前までは、そのタイトルからして、これは例のオデッセウスを悩ませた「船乗りたちを誘惑する魔女の歌」だろうと、勝手に思い込んでいた。だがプログラム冊子掲載の澤谷氏の解説によれば、これはカフカの描く、オデッセウスが耳栓をして「聞かなかったセイレーンの歌」━━つまり「セイレーンの沈黙」をイメージしているものの由。
 となると、沈黙そのものを音にするという、随分飛翔したイメージによる音楽ということになるだろう。しかし、そう思って聴くと、これはなかなか興味深い音楽ではある。

 メンデルスゾーンのこの協奏曲は、美しいけれども、いかにも前期ロマン派の類型的な作品という感で、何ともつまらない作品に感じられる。ただ、今日の豪華なソリスト2人が、暫し彼らだけで奏で続ける部分だけは、聴きものだった。
 なお、2人はアンコールにフォーレの「夢のあとに」を弾いてくれたが、ここでの諏訪内のヴァイオリン・ソロは、冒頭からして恐ろしく濃厚な、しわがれたポルタメントを利かせた演奏だったのにはぎょっとした。いつもの彼女とは違う。

 さて、この日の呼びものだったショスタコーヴィチの「12番」が、ペレスの指揮で聴くと、不思議に開放的な曲に感じられるのは、彼のお国柄の所為か、それとも彼の感性の致すところか。あるいは、ダイナミックに躍動的に演奏するとこのような音楽にならざるを得ないという作品の性格ゆえか。

 終結部における作曲者の押しつけがましい音楽づくりが、今日は殊更に目立って感じられてしまった。いずれにせよ、ショスタコーヴィチがこの曲を最後に、以降の交響曲では内向的な苦悩の作風に転じて行かざるを得なかった理由がよく解るような気がする。

2022・7・21(木)松田華音✕牛田智大 2台ピアノコンサート

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 若い2人の協演。
 最初に牛田智大がバッハ~ブゾーニのコラール前奏曲「主よ、われ汝に呼ばわる」を弾き、次に松田華音がチャイコフスキーの「18の小品」から2曲を弾く。それから2人が「2台のピアノ」で、ラフマニノフの「組曲第1番《幻想的絵画》」と、休憩を挟んでプロコフィエフのバレエ組曲「シンデレラ」(プレトニョフ編)を弾く、というプログラムだった。

 この「2台」では、前者では第1ピアノを松田華音が、後者ではそれを牛田智大がそれぞれ弾くという具合。どちらかと言えば松田華音の方がやや攻勢に出ていたという雰囲気だったのが面白い。だがいずれにせよ、ともに若者らしい、瑞々しくて勢いのいい演奏が、作品を思いがけぬ新鮮な息吹にあふれたものにしていたことは、改めて言うまでもない。

 プロコフィエフが終ると2人はマイクを持ってスピーチしたが、牛田が「それではアンコールを」と言ったあとに「最初に」と口走ってしまったようで、会場にも微かな笑いが拡がってしまったのはご愛敬だ。
 そのアンコール、最初にフォーレの「ドリー」からの「子守歌」を実に美しく演奏したが、そのあとになんとラヴェルの「ボレロ」を弾き出したのには肝をつぶした。こんなエネルギーを発揮できるのは、若者たちゆえだろう。若いというのはいいもんだな、と感心し、元気をもらったような思いになった。

2022・7・18(月)びわ湖ホール ヴェルディ:「ファルスタッフ」

       滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 中ホール  2時

 「びわ湖ホール オペラへの招待」というシリーズでの上演。こちらは15日から4日連続の公演で、今日が最終日である。
 ピットには園田隆一郎の指揮する大阪交響楽団が入り、田口道子が演出した。

 歌手陣はダブルキャストで、今日は青山貴(ファルスタッフ)、山岸裕梨(アリーチェ)、坂田日生(メグ・ページ夫人)、藤居知佳子(クイックリー夫人)、熊谷綾乃(ナンネッタ)、市川敏雅(フォード)、清水徹太郎(フェントン)、古屋彰久(カイウス)、奥本凱哉(パルドルフォ)、林隆史(ピストーラ)という顔ぶれ。

 舞台美術(稲田智香子)を含め、中ホール(客席数800)にちょうどいい規模の上演と言えたであろう。田口道子の演出もごくオーソドックスなスタイルである。開幕前(客電が落されてから)に彼女が舞台に登場し、「初めてオペラを観る方もいらっしゃるでしょう」とレクチャーを始めたところからすると、このプロダクションがそのような観客を主たるターゲットにしていたことが推察される。

 歌手陣も良かったが、特に題名役の青山貴が素晴らしい。彼の「ヴォータン歌い」としての力量、風格などはこれまでにも充分に承知していたところだが、このファルスタッフ役でも、彼の幅広い芸域に改めて感嘆させられることになった。メイクはいかにも好人物といった雰囲気で、歌唱と演技にはあくどさとか、図々しさといった表現はやや希薄だったが(演出の意図にも因るだろう)声の風格においては群を抜いた存在感を誇示し、舞台の中心的存在を成していた。

 その他の歌手陣も手堅く、それぞれの役柄の個性を強く発揮するというわけには行かなかったものの、一種のアンサンブル・オペラのような性格を以て舞台が展開されて行ったように感じられる。そういえばプログラム冊子の配役表に、青山らの客演歌手を含めて「びわ湖ホール声楽アンサンブル」と記してあったところをみると、当初からそれが狙いだったのかもしれない。

 とはいえ、園田隆一郎の指揮を含め、オーケストラには大きな疑問が残る。そもそも「ファルスタッフ」というオペラは、歌のパートと同様、オーケストラにも、本来はもっと機知に富んで、闊達で、躍動的な音楽があふれる作品ではなかったろうか? 
 その意味では、今日の演奏は何とも活気に乏しく、重く、表情の変化に不足していた。園田はもともと、こういう指揮をする人ではなかったと思うのだが、あるいはオーケストラに足を引っ張られたのか? 歌手陣が健闘していただけに、実に惜しいことであった。

2022・7・17(日)佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2022
プッチーニ:「ラ・ボエーム」

     兵庫県立芸術文化センター  2時

 東京でドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」とワーグナーの「パルジファル」が同時期に上演されている一方、関西ではその全く同じ時期に西宮でプッチーニの「ラ・ボエーム」が、びわ湖ホールではヴェルディの「ファルスタッフ」が上演されている。日本の音楽界も華やかな状態になったものだ。

 こちら「ラ・ボエーム」は、2020年にホール開館15周年を記念して上演されるはずだったのが、新型コロナ蔓延のため延期されていたものである。「奇蹟的にその時と同じキャストが再び集まり」(佐渡のメッセージ)とのことだが、そのダブルキャストもすこぶる華やかだ。

 今日の主役陣は外来勢で、フランチェスカ・マンゾ(ミミ)、エヴァ・トラーチェ(ムゼッタ)、リッカルド・デッラ・シュッカ(ロドルフォ)、グスターヴォ・カスティーリョ(マルチェッロ)、パオロ・イングラショッタ(ショナール)、エウジェニオ・ディ・リエート(コッリーネ)、ロッコ・カヴァッルッツィ(ベノアおよびアルチンドロ)。ただし脇役には日本勢も出演している。それにひょうごプロデュースオペラ合唱団&児童合唱団、ひょうご「ラ・ボエーム」合唱団、兵庫芸術文化センター管弦楽団に、指揮が佐渡裕という布陣。
 (因みにもう一組のキャストには、砂川涼子、笛田博昭、高田智宏、町英和、水口健次、片桐直樹ほか、これも錚々たる顔ぶれが揃っている)

 オーケストラが豊かな音で響いているし、マンゾの愛らしいミミをはじめ、如何にもパリの貧しいが温かい心を持った仲間たちという雰囲気を満載した歌手陣の歌と演技も素晴らしい。

 だがそれ以上に今回感銘を受けたのは、ダンテ・フェレッティによる演出・装置・衣装である。彼はフェリーニやパゾリーニやスコセッシらの巨匠映画監督の下で美術を担当して来た大ベテランだが、今回よくこのような人を起用できたものだと思う。演出補にはマリーナ・ビアンキ、装置にはフランチェスカ・ロ・スキアーヴォの名がクレジットされているので、各分野でどのような分担が為されていたのかは定かでないが、とにかく舞台装置が洒落ている。

 原作の「パリの屋根裏部屋」は、セーヌ川沿いの廃船に変えられていて、その河畔の光景がこれまた、なかなか雰囲気に富むと来ている。
 愉しかったのは第2幕のカフェ・モミュスの場面だ。最初は店の正面の街路における賑やかな光景だが、やがて書き割りがひとつ引き上げられると、そこは店の中の光景になり、奥の窓に描かれている店の名前が裏返しに見えるという凝りよう。幕切れの軍楽隊は、店の向こう側を行進しているらしいので、これはさすがに費用節減だろうと思っていたら、やがてそれが袖を廻って今度は舞台前面に現れ、派手に行進するという具合だ。

 あの伝説的なフランコ・ゼッフィレッリ演出の舞台ほどではないとはいえ、当節、子供たちを交えた大群衆がこれだけひしめき合う舞台は、なかなか観られないだろう。ましてコロナ蔓延の時代にあっては尚更のこと、「万全の対策を以って臨んでいますから」というホール側の自信も窺えるというものである。

 このところ重いオペラばかりに接していたので、久しぶりに聴いたプッチーニの音楽が、まあ何と開放的なものに聞こえたことか。日頃あまり好きではなかったこのオペラが、今日は実に楽しく、幸福な気分で聴けた。だがそれは、演奏の良さと、洒落た舞台の所為でもある。

 西宮でこんな素晴らしいプロダクションを上演しているのだということが、もっと東京、いや日本中の音楽関係者とファンたちにも知られてもいい。それには抜粋でもいいからネット配信を活用してデモンストレーションをしたらどうかと思われるのだが━━もっともロビーでの雑談でそういう提案をしたところが、ホール側ではさほど興味がないような雰囲気ではあった・・・・8回公演が全て満席に近い大入りという現状であれば、まあそれは二の次、三の次という考えにはなるだろうけれども。

 終演後、阪急電車とJRを乗り継ぎ、大津へ移動。

2022・7・16(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

        サントリーホール  6時

 7月定期。ラヴェルの「海原の小舟」、ベルクの「七つの初期の歌」(ソプラノ・ソロはユリア・クライター)、マーラーの「交響曲第5番」という「濃い」プログラムだ。コンサートマスターは水谷晃。

 全曲を通じ、東京交響楽団の弦楽器の分厚く豊麗で、しかも瑞々しい音色が強く印象に残る。「海原の小舟」が、これほど大海原のうねりのように描かれた演奏は、私はこれまで聴いたことがない。それはラヴェルの作品というよりむしろ、ドイツ・ロマン派の交響詩のように聞こえて、それがまた面白かった。

 またベルクの歌曲でも、彼がこれらの歌曲を管弦楽に編曲した時代から、再び原曲(歌とピアノ)を書いた時代にタイム・スリップさせたような、つまり後期ロマン派的な感覚を蘇らせたような演奏になっていたのではないか。クライターのソプラノもこの上なく清らかで美しく、陶酔的な雰囲気を生み出して感動的であった。

 マーラーの「第5交響曲」でのノットのアプローチは、彼のこれまでのマーラー演奏とは、基本的にはそう大きく変わってはいないだろう。だが今日の東京響が響かせた弦の豊麗な厚みや、ホルン群の並外れた強力さ、それに演奏全体にあふれていた温かさといった美点は、ノットのマーラーをこれまでにも増して豊かなものに高めていたのではなかろうか。

 第4楽章の「アダージェット」を、ノットがこれほど陶酔的に演奏させるとは、些か予想外だったし、第5楽章での何度も起伏を繰り返しながら頂点に向かって行くあたりも━━テンポが速いため、流石の弦楽器群も少々慌ただしさを感じさせたのは事実だが━━マーラーが指定した通りの「快活な」感覚に満たされていただろう。
 この「5番」の演奏を聴く限り、ノットが成長を重ねていることは確かだろうが、オーケストラが「いい出来」であれば、彼のマーラー演奏における美点がさらに浮き彫りになる、ということが言えるような気がする。

 カーテンコールでのノットへの拍手は絶大を極めた。彼も本当に嬉しそうだった。

2022・7・16(土)沼尻竜典指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団

       神奈川県民ホール 大ホール  2時

 4月から音楽監督に迎えられている沼尻竜典との演奏で、ショスタコーヴィチの「交響曲第8番」を聴く。今日のプログラムはこれ1曲のみ。

 彼の音楽監督就任披露はすでに4月の定期で、ブラームスの「第1交響曲」により行われたが、私はそれを聴けなかったので、今回が初めてになる。ただし彼とこのオケの演奏は、以前にマーラーの「第9番」を聴いていた。しかし今日のショスタコーヴィチではそれとはもう全く異なった演奏になっていたと思う。

 曲冒頭の低弦の発言を聴いた瞬間、いい音だなと思った。清冽で美しく、しかも力感と空間的な拡がりがある。何よりその演奏に、おれたちの音楽を聴け!と言わんばかりの自己主張のようなものが感じられたのが、私には嬉しかった。
 神奈川フィルの演奏はもう何十年も前から、しばしばとは言えないが機会を見つけて聴いては来たが、こういう「強い」演奏を聴いたのは今回が初めてである。新しい音楽監督との共同作業は成功するだろう、という気がした。

 特に第4楽章(ラルゴ)での弦(コンサートマスターは石田泰尚)の瑞々しく爽やかな叙情感が素晴らしい。
 第5楽章での怒号と絶叫の個所におけるデモーニッシュな恐怖感は希薄だったが、戦争の実体験のない世代の演奏としては、やはりそうなるのかもしれない。あの世界大戦を身を以って体験している指揮者やオーケストラと同じような演奏を求めるのは、そもそも不可能な話だ。ショスタコーヴィチの音楽と雖も、時代により異なった感覚で再現されるのは、当然のことだろう。

 沼尻新音楽監督は、カーテンコールで、もう一度単身ステージに呼び出された。聴衆の反応も上々のようである。

2022・7・15(金)METライブビューイング
ブレット・ディーン:「ハムレット」

    東劇  6時

 今シーズンのMETライブビューイングは10本のうち3本がMET初演の現代オペラだったが、今年のシリーズの最後を飾る作品も、オーストラリアの現代作曲家ブレット・ディーンの「ハムレット」という、2013~16年に作曲されたオペラだった。これはグラインドボーン音楽祭の制作によるもので、2017年に同音楽祭で初演された作品である。

 今回の映像は今年6月4日のMET上演ライヴ。指揮がニコラス・カーター、演出がニール・アームフィールド。主役歌手陣はアラン・クレイトン(ハムレット)、ブレンダ・レイ(オフィーリア)、ロッド・ギルフリー(王クローディアス)、サラ・コノリー(王妃ガートルード)、ジョン・レリエ(先王の亡霊)他。

 全2幕構成で、あのシェイクスピアの長い戯曲を要領よくまとめ、重要な場面をそのまま生かしたマシュー・ジョセリンの台本もよく出来ているだろう。あの「To be,or not to be」とか「尼寺へ行け」などの名セリフも、状況は変えられてはいるものの、ちゃんと生かされている。

 一方、音楽は、かなりハイ・テンションだ。いくつかの場面を除き、音楽は常に煽り立てるように進む。声楽の上でも高音での叫びが随所に聞かれ、恰も各登場人物全員が何かに苛立っているように感じられる。第2幕冒頭に置かれたオフィーリアの「狂乱の場」は、他のオペラのいかなるそれにも増して激烈だ。アラン・クレイトン歌い演じるハムレットも、普通予想される思索的な音楽ではなく、かなり荒々しい曲想で描かれる。

 管弦楽法は極めて多彩で、鋭い響きが多い。今日の上映では、映画館の左右や後方からいろいろな音が聞こえるので、最初はだれかお客が騒いでいるのかと思ったが、実は上演に際し、客席にも打楽器や金管楽器が配置されていたことが、上映の中のインタヴューで判明した。これはハムレットの精神が苛立っている時などに現れる。オケ・ピットの中にも合唱が配置されている由で、不思議な効果を上げていた。

 剣試合と、それに続く修羅場は、音楽も演出も、すこぶるスリリングで物凄かった。アラン・クレイトンは巨漢で、どう見ても「思索的な青年ハムレット」の雰囲気ではないが、何しろほとんど出ずっぱりだし、しかも最後にはこのようにフェンシングの試合で歌いながら大暴れするわけだし、あの体格でないととても勤まるまい。そしてこのオペラ、最後は妙に感傷的にならずにスパッと終るのが良かった。
 9時20分終映。

※このMETライブビューイング、来シーズンは名作もかなり復活するようで、「メデア」「椿姫」「フェドーラ」「ローエングリン」「ファルスタッフ」「ばらの騎士」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」などが予定されているが、中に新作として、ケヴィン・プッツの「めぐりあう時間たち」と、テレンス・ブランチャードの「チャンピオン」というのが入っている。この「チャンピオン」の予告編ではボクシングのリングの画像が見られたが、ボクシングをやりながら歌うのかしら? 歌手も大変な時代になったものだ。

2022・7・14(木)東京二期会 ワーグナー「パルジファル」2日目

     東京文化会館大ホール  2時

 ダブルキャストの2日目は、伊藤達人(パルジファル)、橋爪ゆか(クンドリ)、山下浩司(グルネマンツ)、清水勇磨(アムフォルタス)、清水宏樹(ティトゥレル)、友清崇(クリングゾル)、小林紗季子(天からの声、花の乙女)という主役陣。黙役の母親は前日と同じだが、少年役は近田聖が受け持っていた。

 読響の演奏は、今日の方が力みも抜けて柔軟さを増していただろう。音の厚みや豊麗さという点においては未だ望むところが多いけれども、力感の面では、日本のオーケストラ・ピットにおける演奏としては、満足できるところが多かった。パルジファルのオーケストラ・パートの類い稀な魅力は、充分堪能できたと言ってもいい。
 全曲最後の2小節間における例のトランペットは、今日は楽譜通りに復活していた。となると、やはり昨日の演奏は、「落ちた」ということになるのかしら。

 歌手陣もよくやっていた。特にアムフォルタスの清水勇磨とクンドリの橋爪ゆかが好演だった。ただ、伊藤達人の声の質は、パルジファルという役柄が持つ性格とは少し違うのではないかという気がするのだが、どうなのだろう?

 演出の面では、あまりに多様なアイディアが混然としていて、一観客として理解できた部分と、理解不能な部分とがあり、ここで更にあれこれ書くにはスペースも時間的余裕もない。日本ワーグナー協会の機関誌に原稿を書くまでには、またいろいろ思いつくだろう。

 ただ、ここでは二つばかり、まず第1幕の聖杯儀式の場面のこと。ここでは聖杯開帳ではなく、アムフォルタスの傷の手術のようなことが行われ、ミイラの展示品みたいな姿のティトゥレル先王が手術台から採取した息子の血を真っ先に飲み干すくだりがある。いわば「救世主の血」の入った聖杯を、臣下たちを措いて先に奪い、飲んでしまうとは、随分勝手な先王様で、モンサルヴァートも落ちたものだ(これは演出家の狙いだろう)。
 が、それはともかく、そもそもこの「生血を飲む」という設定からして、私としては何とも気持が悪い。もっとも、ワインはキリストの血であり、パンはキリストの肉であるという発想からすれば、泰西では他人の血を飲むという儀式にはあまり抵抗を感じないのか、ワーグナーの作品にも「神々の黄昏」でジークフリートとグンターが義兄弟の契りを交わす場面で互いの血を飲み合う光景が出て来るし━━。

 全幕の最後、大団円におけるオランウータンとパルジファルの行動には、パルジファルをはじめすべての人々がまたもとの額縁の中に戻ってしまうという、映画「ナイトミュージアム」的な光景を連想させるものがある。この場合は、真の主人公はパルジファルではなく、むしろ一緒にいた少年の方であった、というイメージが強くなるだろう。
 これは、舞台神聖祝典劇という性格を剥ぎ取り、メルヘンのような形を採って、ドラマのヒューマニティの要素を浮き彫りにするという手法だが、それを含めて今回の演出は、宮本亜門が先頃の「魔笛」で試みた「普通の人間たちが愛に目覚めて世界を救済する」という解釈を、この「パルジファル」における「純粋な愚か者が世界を救済する」というコンセプトにも応用しているのではないかとも思わせる。

 私自身は、以前から宮本亜門氏のファンをもって自認している立場で、彼の演出したオペラは全て高く評価しているし、またミュージカルもいくつか観る機会を得ている。バイロイトで「指環」を隣同士の席で観たこともあるし、WOWOWの「パルジファル」(MET)番組でご一緒したこともある。
 それらの際に聞いた彼の話の節々から、今回の彼の初のワーグナーものでは、何かやってくれるだろうとは思っていた。その点では、わが意を得たり、の思いであることは確かなのだが、ただ、今回はあらゆる多様なアイディアが全て投げ込まれ、それらが些か未整理の感を与えるように━━私には感じられたのが正直なところである。

 それにしても、東京二期会は、これで10年ぶり、3つ目の「パルジファル」のプロダクションを手がけたことになる。これは、日本のオペラ上演史における一つの偉業であることに間違いはなかろう。
 6時35分過ぎに演奏終了。戸外は猛烈な雨だった。観客には和服を着た女性も何人かおられたのだが、ああいう人たち、大丈夫だったかしら?

2022・7・13(水)東京二期会 ワーグナー:「パルジファル」初日

       東京文化会館大ホール  5時

 1967年の内垣啓一演出(日本初演)、2012年のクラウス・グート演出に続く、東京二期会3度目の「パルジファル」。今回は宮本亜門が演出した、フランスのラン歌劇場との共同制作プロダクションである。

 セバスティアン・ヴァイグレ指揮の読売日本交響楽団と二期会合唱団の出演。配役はダブルキャストで、今日は福井敬(パルジファル)、田崎尚美(クンドリ)、加藤宏隆(グルネマンツ)、黒田博(アムフォルタス)、門間信樹(クリングゾル)、大塚博章(ティトゥレル)、増田弥生(天上からの声、花の乙女)その他の人びとが出演した。小姓たちや花の乙女たちなど、ソロ歌手陣は脇役に至るまでダブルキャストという、東京二期会ならではの布陣である。

 宮本亜門の今回の演出は、脱・キリスト教、脱・神聖祝典劇ともいうべき性格のものだろう。あれこれと突飛なシーンを織り込んだ舞台は、いかにもヨーロッパの歌劇場好みと言えようか。
 聖杯の城モンサルヴァートと魔人クリングゾルの城とを、キリストの絵や聖杯を展示している美術館━━原始人たちまで並んでいるところを見ると、これは自然史博物館をも兼ねているらしい━━に設定した手法といい、美術館勤務の母(白木原しのぶ)とその幼い少年(福長里恩)との葛藤を前奏曲の中で描き、かつその少年をほぼ全篇にわたってパルジファルに同行させるアイディアといい、更にパルジファルを自然児として描き、ドラマの最後では彼を━━彼をいつも見守っている(ような)友達オランウータン(古賀豊)とともに緑の森の中に去らせる筋書など、実に多彩多様だ。

 そのラストシーンでは、パルジファルの差し出す槍によって傷が完治したアムフォルタスが、今度はその槍で少年(第2幕最後のパルジファルとクリングゾルの決闘の際に斃れ、モンサルヴァートに運ばれていた)を蘇生させ、「救済者に救済を」のお株をとったような奇想天外なエピソードも含まれる。パルジファルと少年が最後にともに祝福し合うのも、この「救済者に救済を」のヴァリエーションなのだろうか? 

 第1幕前奏曲のさなか、母親と少年との諍いが描かれるが、これだけ見ればバイロイトのヘアハイム演出と同様、少年パルジファルと母親ヘルツェライデの関係を暗示してドラマが進められるのだろうと予想してしまうだろう。
 だが実際にはそれは━━プログラム冊子における演出家のコメントを参考にして言えば━━それはパルジファルを未来の姿に持つ少年と、クンドリと同じ苦悩を持つ母である由。そして自殺してしまう父親は、アムフォルタスと関連があるのだという。なるほど大詰めでアムフォルタスが少年を生き返らせ、2人が抱擁する経緯も納得できるというものだ。
 少年と母親とは、最後の場面で和解の抱擁をするが、これは予想通りの結末である。また、聖杯開帳の儀式が行われないこともあって、キリスト教的な色合いは薄いが、「キリスト教徒ではない」宮本亜門が徒にその儀式を真似て取り入れなかったことは、賢明であったという気がする。

 ただ、美術館における表の姿と、その裏の姿たる魔人クリングゾルのアジト(パルジファルの侵入を見張るモニター画面が傑作)との対比は明確ながら、そこにオランウータン(ウロウロと現れる理由が少々解り難い)と「自然」の森などを絡ませた設定は、些かややこしく煩雑な印象を与える。まして第3幕でクンドリが洗礼を受けたのちに天使となって空中から花びらを撒いたりするのは、何か唐突で、未整理じみたアイディアに感じられないだろうか。

 演奏の面では、ヴァイグレと読響の好演を第一に挙げるべきであろう。ヴァイグレは今回も本領発揮だが、この人はやはり一つの団体なり歌劇場なりにじっくりと腰を据え、時間をかけて演奏をつくり上げる場合にはいい仕事ができる人だと思われる。少なくとも、これまで聴いた彼の指揮の中では、バイロイトでの「マイスタージンガー」やウィーンでの「ボリス・ゴドゥノフ」の如き一発客演の時などよりもはるかに丁寧で緻密な音楽になっていたのだった。

 今回の演奏は、特に第1幕でのテンポが速い。ノーカット演奏にもかかわらず第1幕が90分強という演奏時間は、バイロイトでも先例がないわけではないが、しかし稀有のものだろう。とはいえその演奏に、雑なところは一切ない。現代的なワーグナー演奏であることはもちろんだが、無味乾燥ではない。読響はいい指揮者をシェフに選んだものだと思う。

 読響もまた、聖杯城への場面転換の個所などで、金管群が流石の風格を出した。弦の人数が多ければもっとふくよかな音響になったろうが、これは日本の劇場のピットのスペースでは如何ともし難く、残念だ。今日は少しく演奏が生硬なような感じがしたのは、多分初日の緊張の所為だろう。
 なお、全曲最後の2小節を繋ぐトランペットの持続音が省略されていたのは、クナッパーツブッシュのそれに倣ったものか? 

 また今日は、第2幕でオーケストラ・ピットの譜面台の灯が突然消え、ヴァイグレが大声で指示を出すという「事故」があった。それが意外にいい声で、折しもパルジファルの歌声と重なり、二重唱みたいになっていたのが可笑しみを誘った。

 歌手陣では、3月のびわ湖ホール公演の際と同じく、福井敬が不変の馬力を以て、所謂「福井節」を発揮した。これだけのヘルデン・テナーは、邦人歌手にはやはり稀有の存在と言えるだろう。そして、田崎尚美の幅広い表現に富んだドラマティックなクンドリは世界に充分通用する存在だと思うのだが如何。黒田博の滋味豊かな苦悩のアムフォルタス王もいい。

 25分の休憩2回を挟み、9時35分過ぎに演奏終了。

2022・7・12(火)出口大地指揮東京フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 アルメニアのエレバンで昨年(2021年)に行われた第17回ハチャトゥリアン国際指揮者コンクールにおいて優勝を飾った出口大地の指揮を、今回の定期で初めて聴いた。
 プログラムはそのハチャトゥリアン作品ばかりで、「ガイーヌ」から「剣の舞」「レスギンカ」など5曲、「ヴァイオリン協奏曲ニ短調」(ソリストは木嶋真優)、「交響曲第2番ホ短調《鐘》」。コンサートマスターは三浦章宏。

 指揮棒を左手に持ったこの若い指揮者は、元気一杯、オーケストラを力の限り鳴らして自らの情熱を音楽に叩きつける。それはある面で痛快かもしれないが、如何にハチャトゥリアンの音楽とはいえ、大音響で怒号すればいいというものでもなかろう。

 むしろこの日の演奏では、それ以外の個所に私は魅力を感じた。例えば「ヴァイオリン協奏曲」における、第1楽章第2主題や第2楽章など、あるいは第3楽章にエピソード風に挟まれる主題などでの、この作曲家特有の郷愁にあふれたハーモニーの扱い方。そして交響曲では、第2楽章における各楽器のやり取りに聴かれた軽快な処理、第4楽章でのクライマックスへの巧みな盛り上げ、その終結部に聴かれた全管弦楽の均衡豊かな響きなど。つまり騒々しくない部分での微細な音楽のつくり方に、この指揮者の良さが多く出ているという印象なのである。

 協奏曲での木嶋真優のソロも、ひときわ見事だった。その純な洗練された演奏は、ハチャトゥリアンの野性味には距離があるかもしれないが、この曲の強靭なエネルギーを再現して、コンチェルトとしての演奏には充分なものがあった。
 彼女のソロ・アンコールはアルメニアの作曲家コミタスの「《クランク》~イヴデスマン・ファンタジー」(木嶋真優編)という曲なる由。初めて聴いたが、後半の民族的な色彩感が面白い。

 全ハチャトゥリアン・プロの演奏会というのは、日本では珍しかろう。先頃彼のコンチェルトを3曲集めた演奏会も横浜で行われたことがあったが、私は聴いていない。正直言って私はこの作曲家の音楽にはあまり共感が持てないままでいるので、終演が9時半を過ぎるほど長く、大音響の洪水の如き趣のあった今日のコンサートには、些かへとへとになった。

2022・7・11(月)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル

       サントリーホール  7時

 新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮台に、かつての音楽監督クリスティアン・アルミンクが久しぶりに登場。聴衆からも温かく迎えられた。
 今日のプログラムは、バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」と、オルフの「カルミナ・ブラーナ」。後者での協演は二期会合唱団と柏少年少女合唱団、流山少年少女合唱団、今井実希(S)、清水徹太郎(T)、晴雅彦(Br)。コンサートマスターは崔文洙。

 バルトークでは、かつて耳に馴染んでいた「新日本フィルの音」が、久しぶりに蘇った。贅肉を削いだ、透徹した、しかも緻密な音である。
 アルミンクが引き出したそういう響きに、当時は、作品によっては共感し、また時には不満を感じたものだが、しかしバルトークの作品の場合には成功していたと思われる。民族主義音楽的な色合いはないが、それよりも精妙な管弦楽法を備えた近代音楽としての魅力が伝わって来る。

 「カルミナ・ブラーナ」は、アルミンクと新日本フィルとしては2度目だというが、前回は聴いたか聴かなかったか、聴いたにしてもどんな演奏だったか、あまり記憶がない。
 とにかく今回は、P席に配置された合唱団が、少年少女合唱団を別にして、たった40人程度だったのには少々驚いた。アルミンクはかなりニュアンスの細かい歌い方を求めていたようなので、その点ではこの人数での歌唱は、うまく行っていただろう。が、オーケストラが最強奏で轟く部分では、やはり明確には聴き取りにくい。それは恰も、管弦楽とは異なる色合いのタペストリーのようなものがぼんやりと背景にかかっているような印象を与えられた音であった。因みに私が聴いていた席は、RCである。

 声楽ソリスト陣はステージの上手後方に位置していたが、これは私のRC席からはよく聞こえたし、みんな見事だった。晴雅彦は第2部のコミカルな「酒場にて」の個所で強みを発揮していたし、清水徹太郎は唯一の出番たる白鳥の自嘲的なモノローグをファルセットなしで歌い、最後を情けない笑いを以て結び、傑作な効果を生み出した。今井実希の声の伸びは素晴らしく、最後の最高音を鮮やかに決めてくれたのもいい。

 そして今回は、新日本フィルが闊達な演奏を繰り広げてくれたのが有難い。こういう演奏をしてくれれば、今後の定期が愉しみになる。6月のデュトワの色彩、今月のアルミンクの緻密。いずれも良かった。

2022・7・9(土)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

       サントリーホール  2時

 「フレンド・オブ・JPO(芸術顧問)」の広上淳一が指揮する7月東京定期(2日目)を聴く。今回定期はブルッフの「スコットランド幻想曲」(ヴァイオリン・ソロは米元響子)と、ブルックナーの「交響曲第7番」(ハース版)というプログラム。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 広上が指揮すると、どのオーケストラもみんないい音を出す。音色の問題だけではない。最近の彼の指揮には、あたたかい情感といったものが、いっそう豊かに備わって来ているのではないか。
 「スコットランド幻想曲」第1楽章の、民謡をもとにしたあの旋律も、今日は不思議な郷愁感をたたえていたように感じられた。こういう「歌」を、殊更の衒いなく、自然に聴かせてくれる今の広上の指揮なのである。

 また、ブルックナーの「7番」第1楽章の第1主題が、かくも伸びやかに大きな広がりをもって、しかも感情豊かに響き始めた演奏を、私はこれまでほとんど聴いたことがない。広上はブルックナーを本格的に手がけ始めてまだ間もないはずだが、これは今後期待充分だ。
 第1,3,4楽章の終結部の盛り上がりも見事で、特にスケルツォの終結は豪快な力に満たされた。また第4楽章の終結も、いたずらにテンポを速めないという譜面通りの指揮で、雄渾壮大な気宇にあふれていたのが嬉しい。

 なお今回はハース版による演奏という触れ込みだったが、第2楽章後半の頂点個所では━━よく使われるテだが━━ティンパニが追加されていた(ここはやはりティンパニが轟いた方が「決め」になる)。
 ただそのティンパニのパートは、ノーヴァク版のそれとは異なり、第179小節と第180小節のそれぞれ最後の4分音符がトレモロでなく「1発叩いた」だけの演奏になっていた(これはどうも音響的に隙間が生じてしまうように感じられ、些か賛意を表しかねる)。

2022・7・6(水)ドビュッシー:「ペレアスとメリザンド」

      新国立劇場  6時30分

 新国立劇場の今シーズンのフィナーレを飾る、芸術監督・大野和士の指揮とケイティ・ミッチェル演出による「ペレアスとメリザンド」。5回公演の今日は2日目、成功のプロダクションであった。

 このミッチェルの演出は、このオペラを「メリザンドの幻想、もしくは夢」として読み替えたもので、6年前にエクサン・プロヴァンス音楽祭でプレミエされた舞台だ。その時の観劇記はこちら☞2016年7月2日の項に詳しく書いたので、興味のある方はご参照ください。今回の上演も、基本的にはそれと同一である。

 歌手陣は、ベルナール・リヒター(ペレアス)、カレン・ヴルシュ(メリザンド)、ロラン・ナウリ(その夫ゴロー)、妻屋秀和(父国王アルケル)、浜田理恵(妻ジュヌヴィエーヴ)、前川依子(ゴローの先妻の子イニョルド)、河野鉄平(医者、羊飼いの声)。なお、メリザンドの分身の役は安藤愛恵が演じていた。管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団。

 舞台は基本的にエクサン・プロヴァンス音楽祭でのそれと同一、と書いたが、ただし全体の雰囲気においては、些か違いがある。
 たとえば、人物の演技や動き、それによる舞台の活気という点では、あのエクスでのそれの方が、はるかに劇的だったような気がする。2人のメリザンド━━「分身」と、それを興味深く見守る本人と━━の動きも、もっと表情に富んでいて、従ってその「意味」も具体的に解り易くなっていたという記憶がある。

 一例だが、部屋の中にいるペレアスとメリザンドを、嫉妬にかられたゴローがイニョルドに命じて覗き見させる場面では、エクスでは、激昂するゴローを別のメリザンドが必死に制しようとする設定になっていた。だが今回の上演では、そこでのメリザンドの動きが何となく曖昧になり、何をやろうとしているのかが解り難い。
 また、ゴロー役の名オペラ俳優、ロラン・ナウリの演技も、エクスではもっとずっと表情豊かで激しく、愛と嫉妬に苦悩する夫の心理状態を劇的に表現していたのだったが━━。

 だがともあれ、外来勢も日本勢も、音楽的には素晴らしい歌唱を聴かせてくれていた。そのナウリの安定した(し過ぎた?)歌唱をはじめ、ヴルシュの神経質な歌唱表現、妻屋秀和の滋味あふれる老王ぶりもいい。リヒターのペレアスも悪くはなかったが、泉の畔(今回は廃棄プールの中)での愛の二重唱ではもう少し忘我的な、純な青年らしい性格表現が欲しかったような気もする。

 しかし何より称賛したいのは、大野和士の瑞々しい、しかも引き締まった指揮だ。ベルギー王立歌劇場(モネ劇場)や、フランスのリヨン歌劇場などでフランスオペラのレパートリーに場数を踏んだ彼の本領が、今回は見事に発揮されていたのである。そして、その彼の指揮に応えた東京フィルの演奏も、近年の新国立劇場のピットにおける演奏の中でも出色のものであった。
 ドビュッシーの音楽の良さを充分に味わわせてくれたこの演奏ひとつとっても、今回の上演は成功作と言ってよかろう。

 なお、━━私は以前から主張しているのだが、こういう読み替え演出を上演する場合、可能な範囲で結構だから、プログラム冊子などに、それについての解説を載せておいた方が、お客にとっても抵抗が少なくなるのではなかろうか。
 ネタバレになるからといって詳細を伏せておくと、かえって「何だか解らない、もうこんなの二度と嫌だ」などという反応を生じさせることが多々ある。そんなことでオペラの活性化の芽を摘むような結果を招いては、日本のオペラ界のためにならない。事前に説明すると先入観を与えるからまずい、と言う人もいるが、それは解説の書き方次第であろう。
 このように考えてくれるオペラ主催者は、どこにもいないのだろうか?

※オケの名前を打ち間違えておりましたので訂正しました。失礼しました。教えて下さった方に御礼申し上げます。

2022・7・5(火)METライブビューイング
ドニゼッティ:「ランメルモールのルチア」

      東劇  6時20分

 去る5月21日にメトロポリタン・オペラで上演されたステージのライヴ映像。
 今回のサイモン・ストーンによる演出は、物語を現代のアメリカ中部の、ある衰退気味の街に置き換えているのが最大の特徴だ。

 自動車工場や映画館、スーパーなどが雑然と並び、回り舞台により光景は頻繁に変わって、登場人物は路上からベッドルームまでさまざまな場面を移動するという設定になる。更に舞台上方にはスクリーンがあり、そこには登場人物の拡大された部分━━人物の微細な表情、スマホ(!)の文面、同時に進行している別の出来事、思い出の光景など━━が投映されて、ドラマを多様な方向から描く、という趣向である。

 もちろん演技も服装も現代のスタイルであり、悪役エンリーコにいたってはタトゥー満載でタバコと酒壜を手から離さない、といった具合だし、ルチアも「可憐な少女」とは程遠いキャラクターで表現されているから、他も推して知るべし。
 その代わり演技は溌溂として、動きも激しい。様式的で取り澄ました人物像でなく、われわれと同様に蠢いている人間像が描かれる。

 こういうタイプの演出は、METでも最近次第に増えて来た。私はこのテの演出は好きな方だから、結構楽しませてもらった。といっても、もちろんそれなりに「筋が通っている演出」に限るけれども。

 指揮はリッカルド・フリッツァ。主役歌手陣は、エンリーコをアルトゥール・ルチンスキー、その妹ルチアをネイディーン・シエラ、彼女の恋人エドゥガルドをハビエル・カマレナ、ライモンドをクリスチャン・ヴァン・ホーンという顔ぶれだが、みんな、なかなかの実力の持ち主だ。
 シエラは血まみれの姿で「狂乱の場」を熱唱した(ここではグラス・ハーモニカが使われていたようである)。いかにも好人物そうな容貌のカマレナも、よく通るテナーで強い存在感を発揮する。ルチンスキーは第1幕でのカバレッタの最後を呆気にとられるほど長く引き伸ばして決め、観客を熱狂させていた。

 第2幕大詰めの大合唱の細部や、第3幕冒頭の嵐の場面など、いずれも省略なしに演奏されたのは有難かった。METはどのオペラでも基本的にノーカット主義を採っており、これは敬意に値する。
 9時50分頃終映。

2022・7・4(月)ロト指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団

       サントリーホール  7時

 プログラムは変わって、ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番、サン=サーンスの「ヴァイオリン協奏曲第3番」(ソリストは樫本大進)、シューマンの「交響曲第3番《ライン》」。
 「第3番」ばかり意図的に集めたとしたのなら、正規のコンサートとしては随分風変りな選曲コンセプトと言えよう。だが鬼才フランソワ=グザヴィエ・ロトの指揮は、今日も痛烈かつ鮮烈で面白く、どの作品をも極めて新鮮に感じさせてくれた。

 たとえば「レオノーレ」序曲では、段差をつけながら叩きつけるように変化して行くデュナミークの強烈さ、ハリネズミのように毛を逆立てた音の連鎖が特徴的で、この曲が極度に攻撃的な性格を持って描かれる。そもそも「フィデリオ」というオペラは、こういうイメージで捉えられるのが正しいのだ、ということを教えてくれるような演奏だ。
 ベートーヴェンの作品の演奏でこういう新鮮な感覚を味わったのは、私にとってはおよそ30年前、このサントリーホールで、ガーディナーが初めてピリオド楽器のオケによる交響曲全9曲をツィクルスでやったのを聴いた時以来である。

 サン=サーンスの「協奏曲第3番」も秀逸の極みと言うべきか。これまで聴き慣れた、所謂フランス的な、流麗な演奏とは大違い、けば立った音色に劇的なダイナミズム、演奏によって作品がかくも異なった性格を持ちうるのだということを実証したロトの指揮。ただ第2楽章だけは、粒立ちながらも見事な旋律美にあふれた官能的な叙情性を浮き彫りにしていたのが流石である。

 ソリストに迎えられた樫本大進も、流石ベルリン・フィルのコンサートマスターの貫禄で、端整なスタイルながらオーケストラと完全に合致した快演を披露してくれた。いや、時には、彼がオケをリードしているような印象さえ得たくらいである。なお、彼のソロ・アンコールは、バッハの「無伴奏パルティータ第2番」からの「サラバンド」。

 プログラム前半のこの2曲を堪能しすぎた(?)所為か、後半の「ライン」は━━もちろん、いい演奏ではあったけれど━━まあそうなるだろうな、という感で聴かせてもらったのが本音。ケルンのオーケストラだからご当地ものの「ライン」を持って来たのかな、などと、かつて何度か訪れた現地の光景などを思い浮かべる。

 だが、アンコールに演奏したベルリオーズの「ベアトリスとベネディクト」序曲が、これまた通常の演奏のイメージとは正反対で、金管を抑え気味にして豊潤な響きをつくり、壮麗で柔らかい音楽としていたのには驚嘆させられた。まるで別の曲のように思えたほどである。ロトという指揮者、まったく底知れぬ感性を持った音楽家だ。

2022・7・4(月)びわ湖ホールの「マイスタージンガー」制作記者会見

       びわ湖ホール 2時 (オンライン視聴)

 来年3月2日と5日に上演予定の沼尻竜典芸術監督が指揮するワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の制作発表記者発表の模様がオンラインで中継された。
 私もこのワーグナー・シリーズに関連して毎年びわ湖ホールで入門講座を担当しているので、参考のため、パソコンで視聴する。現場に行かずして取材が出来るのだから、便利な世の中になったものだ。

 この「ワーグナー10作品=W10」シリーズは、沼尻芸術監督とびわ湖ホールが総力を挙げたプロダクションだ。2020年の「神々の黄昏」までは完全な舞台上演だったが、コロナ蔓延のため、2021年の「ローエングリン」と今年の「パルジファル」はセミ・ステージ形式に切り替えられて上演されたのは周知の通り。来年のこの「マイスタージンガー」も同様というが、演出を粟國淳が担当するということに興味が湧く。

 なお今日は、ハンス・ザックスを歌う青山貴も出席して、これが初役であること、出演を依頼されてしばらくは自分がザックスを歌うことになっているとは知らなかったので驚いたこと、などを語ってくれた。
 沼尻芸術監督のおなじみの八方破れの、時にはヤバイ話も交えながらの面白い説明と併せ、稀なる楽しい記者発表だった。

2022・7・3(日)ロト指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  3時

 実に久しぶりに聴く海外の大オーケストラ、それもドイツのオーケストラ。いいものだ。

 海外オーケストラが年に一つか二つ来日しただけで話題が盛り上がるなどという現象は、1950年代このかた、絶えて無かったものだろう。
 とにかく、聴けたのは有難い。日本のオーケストラも今では技術的にも海外のそれに引けを取らなくなり、アンサンブルにも独特の均衡美を示していることは事実だが、しかし音の粒立ち、強い自己主張などという点になると、国民性から言って日本のオーケストラにはあまり聴かれない特徴ということになろう。

 さてそのケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団だが、2015年秋から音楽総監督を務めるフランソワ=グザヴィエ・ロトの指揮で、今日はモーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番」とブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」を演奏した。
 もっとも、協奏曲のソリストはわが河村尚子であり、またこの交響曲でとりわけ重要な1番ホルンは、同団首席奏者がPCR検査に引っ掛かって来日できなくなったため、読響の松坂隼が急遽代役を務めていた。かように、全て「外来勢」ではなく、日本勢が重要な役割を果たしていたわけである。これは1950年代などとは比較にならない状況であり、それがまた面白い。

 それにしても、モーツァルトの「20番」は。
 ささやくような弱音で開始されながら、突然叩きつけるような衝撃的な最強音に変わる個所でのデュナミークの鋭さや、その最強音があまりに攻撃的で、「モーツァルトの短調」の恐怖感を醸し出すあたり━━ロトの感性の見事さは言うまでもないが、やはりドイツのオケならではの強靭さというものであろう。
 一方の河村尚子のピアノも、これまたスケールが大きく重量感と風格にあふれて素晴らしかった。

 ただ、ピリオド楽器奏法のオーケストラの鋭角的な響きと、彼女のモダン・ピアノの朗々たる音色との協演が果たして適切だったのかどうかは、一口には言い難いだろう。しかし、スリリングであったことは確かだし、曲の素晴らしさを味わえたことも事実だった。
 なお彼女はソロ・アンコールにシューベルトの「《楽興の時》第3番」を演奏したが、これは自由なモノローグといった感の独特な演奏で、私は大いに気に入った。

 ブルックナーの「4番」では、例の雑然とした、未整理の草稿とも言えるような構成の「初稿版」が使用された。
 この曲におけるロトとケルン・ギュルツェニヒ管の演奏は、まさに激烈な沸騰という凄まじさで、金管群の怒号は弦楽器群を圧し、ただでさえ混然としたつくりのブルックナーの初稿を、いっそう凶暴な姿で再現してみせたもの、と敢えて称してもいいだろう。現行版との極端な違いや、通常のブルックナー演奏のイメージを完膚なきまでに叩きのめしたアプローチが面白い、と言えば確かに面白いが、ここまで極端にそれを強調した演奏は、いくらブルックナー・フリークの私でも、そう何度も聴く気にはなれなくなる。
 だが、そういう好みは別として、この演奏は、ロトという指揮者の物凄さを改めて私たちに感じさせたもの、と言ってもいいだろう。満席の聴衆の熱狂も、凄まじかった。

2022・7・1(金)クラウス・マケラ指揮東京都交響楽団のマーラー

        サントリーホール  7時

 日本の聴衆の間でもセンセーションを巻き起こしつつある若手指揮者クラウス・マケラ。今日の公演のチケットは完売で、聴きたくても聴けない人たちが少なからずいたそうである。
 その割に場内では、空席が少し見られた。定期会員だろうと1回買いの客だろうと、あるいは招待客だろうと、欠席の場合は開演1時間くらい前までにはちゃんと主催者なりホールなりにその旨連絡を入れて、1人でも2人でも他の聴きたい人に場を譲るのが良識というものだろう。

 今日のプログラムは、マーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」1曲。第2楽章に緩徐楽章を持って来た、最新のマーラー協会版に基づく演奏である。
 先週のショスタコーヴィチ同様、超大編成の管弦楽を鮮やかに制御するマケラの指揮が印象的であった。本当に、素晴らしい指揮者が現れたものだ、と嬉しくなる。ただ、オーケストラ全体の引き締まった緊密感や均整の強力さといった点では、先週の演奏の方に多少の分があったように思われる。━━もちろん作品の曲想の違いはあるにしてもだが。

 この「6番」でのマケラの指揮は、全体に速めのテンポで、この曲のエネルギー性を強く押し出し、圧倒的な勢いで驀進するタイプの演奏といえよう。第1楽章でのあの印象的な、イ長調からイ短調へ瞬時に転換する個所なども、特に強調されるわけではなく、ただ轟々たる響きの中に、影のように流れて行く、といった趣きだ。

 従って、マーラーが本来求めていたはずの「悲劇的」という要素は、かなり薄められる結果になるが、まあこれは現代の指揮者、特に若い世代の指揮者による演奏にはよくあるパターンで致し方なかろう。いまさら、往年のクレンペラーやバルビローリが指揮したようなパセティックな趣を求めても詮無いことだろう。もしかしたらそのような演奏は、2度にわたる世界大戦の惨事を体験した世代の人びとでなければできないのかもしれない。

 ともあれ今日の演奏、四方恭子をコンサートマスターとした東京都響の大熱演とともに、音響的な威力を最大限に発揮させた、卓越した演奏であったことは疑いない。

2022・7・1(金)モーツァルト:「コジ・ファン・トゥッテ」

      日生劇場  2時

 藤原歌劇団と、日生劇場のNISSAY OPERAのシリーズの一環で、3回公演の初日。
 川瀬賢太郎が新日本フィルを指揮し、岩田達宗が演出した。歌手陣はダブルキャストで、今日は迫田美帆(フィオルディリージ)、山口佳子(ドラベッラ)、岡明宏(グリエルモ)、山本康寛(フェランド)、向野由美子(デスピーナ)、田中大揮(ドン・アルフォンゾ)。合唱は藤原歌劇団合唱部、チェンバロは浅野菜生子。

 岩田達宗の演出は、あまり奇を衒わないストレートなスタイルで、特にアリアの中における登場人物の感情の変化を、演技だけでなく照明(大島祐夫)の変化とともに描き出すという手法も目を惹いた。

 舞台中央には2つの女性の等身大のマネキン人形が時々登場し、グリエルモとフェランドがそれを崇めるという設定は、あたかも男たちが「貞節な女性の理想像」を勝手に作り上げてそれを追い求める気質を象徴しているかのよう。これはすなわち、実際の生身の女性たちからすれば、男たちが勝手に考えているようには行かないわよ、ということになるのだろう。

 ラストシーンは予想通り、こんなことのあとで、仲直りなどはもってのほか━━という状態で終る(ように見える)。結局、このオペラに秘められた、男も男だが、女も女だ、というコンセプトが明確に生かされた演出になっていることは理解できる。
 あの有名な歌詞「コジ・ファン・トゥッテ」は、「女はみんなこうしたもの」などという昔ながらの邦訳は当然ながら誤りであり、原語通り「(男も女も)人間はみんなこうしたもの」とされるべきで━━今日の岩田達宗自身による字幕でもまさに「人間は」となっていた。

 序ながら今日の字幕、デスピーナが偽医者に化けて出て来る場面で「先端の医療」とか「副作用」などのトレンド用語が出て来ていたのにはニヤリとさせられる。

 川瀬賢太郎の指揮する新日本フィルは━━1階席真ん中あたりで聴いた範囲では、最初のうちあまりに音が薄いのに驚き、モーツァルト特有の美しい和声感が全く再現されていないのに苛立たしさを感じたが、第1幕の途中、フィオルディリージのアリアのあたりからはオケ全体が鳴り出したようで、少し安堵した。この劇場のピットでオーケストラをたっぷりした音で響かせるには、ある種のコツが要るようである。

 歌手陣はみんな手堅く歌を聴かせてくれたが、特に迫田の伸びの良いソプラノに拍手が集まった。また、演技面でも、向野由美子を筆頭に、みんなかなり細かい芝居を見せてくれた。敢えて言えば、もう少し「熱っぽさ」のようなものがあってもよかったのではないかという気もするが。

 5時40分終演。

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