2023-12

2022年8月 の記事一覧




2022・8・31(水)堤剛80歳記念コンサート

     サントリーホール  6時45分

 日本のチェロ界の指導的存在、堤剛(1942年7月28日生)の傘寿を記念して開催された演奏会。
 サントリーホール館長、サントリー芸術財団代表理事、霧島国際音楽祭音楽監督、日本チェロ協会理事などの要職に在り、そして今なお現役として演奏活動を続けている彼の年齢を感じさせぬエネルギーは、偉とするに足る。

 今日は上村文乃、山崎伸子、堀了介、長谷川陽子、向山佳絵子ほか多くのチェリストたちが集まり、武満徹、細川俊夫、ヴィラ=ロボス、三善晃、ダヴィドフなど、いろいろな曲を演奏し、堤剛の傘寿を祝っていた。

 堤自身も、間宮芳生の「チェロと尺八のための《KIO》」、クレンケルの「賛歌」、ハイドンの「チェロ協奏曲第1番」の第1楽章を演奏したが、とりわけアンコールでの、バッハの「無伴奏チェロ組曲第3番」からの「ブーレ」における温かい情感にあふれた完璧な演奏は、私たちに深い感動を与えてくれた。

 大ホールの広いステージの中央でたったひとり、スポットを浴びてバッハを弾くその姿は、恰も求道者の如く、気高くて美しい。故・齋藤秀雄氏が「シャコンヌ」のある部分について語った「十字架の下で独り演奏している歳とったチェリストの姿を想像してごらん」という言葉が、ふいに頭の中をよぎった。

2022・8・28(日)ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」(演奏会形式)

       愛知県芸術劇場コンサートホール  3時

 朝9時52分の「しなの」で松本を発ち、名古屋に回る。12時01分着。速いが、実によく揺れる列車だ。

 愛知祝祭管弦楽団が、音楽監督・三澤洋史の指揮で手がけているワーグナー舞台作品の全曲上演シリーズ。2013年の「パルジファル」、2016~19年の「ニーベルングの指環」4部作に続く第6弾が、今年の「トリスタンとイゾルデ」である。
 その優れた企画性と実行力と演奏技量は、アマチュア・オーケストラの域を遥かに超えていると言って過言ではない。その熱意を讃えたい。これはまさに輝かしい偉業である。コンサートマスターはいつもと同じ高橋広。

 今回の「トリスタン」の歌手陣は━━小原啓楼(トリスタン)、飯田みち代(イゾルデ)、伊藤貴之(マルケ王)、三輪陽子(ブランゲーネ)、初鹿野剛(クルヴェナル)、神田豊壽(メーロト)、大久保亮(水夫、羊飼い)、奥村心太郎(舵手)、愛知祝祭合唱団。

 「神々の黄昏」までは佐藤美晴がセミステージ形式の演出を行なっていたが、この「トリスタン」では礒田由香が舞台監督を担当し、登場人物を二つの場所に配置、時には移動させるという手法のみで進められていた。
 トリスタンとイゾルデは常にオーケストラ後方中央の山台の上で歌い、マルケ王らはオルガン席の下に位置し、ブランゲーネとクルヴェナルは両者を行ったり来たりする。これは、主人公2人の「夜の世界」と、その他の人びとの「昼の世界」とを描き分けるという意味だろう。トリスタンが末期の一言のみ別の場所(下手袖)で歌った趣向など、考えたものだ、という感がする。

 最大の主人公たる愛知祝祭管弦楽団は、弦⒓型とおぼしき編成だったが、まあ実によく鳴ること、鳴ること。以前よりさらに密度と熱気とパワーを増した感があり、沸騰する情熱を思いのままにぶつけたような、凄まじい勢いの「トリスタン」の音楽になった。まるで何かに怒りをぶつけているような感さえある。こういうところが、アマオケの良さというものだろう。第3幕前半での演奏は、それまでの2つの幕でのそれと比べ、アンサンブルにやや集中力を欠いたような感がなくもなかったが、後半は充分に持ち直して行った。

 問題は、オーケストラのその勢いと、歌手陣とのバランスが保てないことにあるだろう。
 オーケストラがトゥッティになると、声楽パートがそれに打ち消されて、ほとんど聞こえないのである(私の席は2階席最前列)。特にイゾルデの声は、高音域はともかく、中低音域はまず聞こえなかったと言っていい。トリスタンも同様だ。
 今回の歌手陣で、所謂ドラマティック・ソプラノではない飯田と、ヘルデン・テナーでもない小原を起用した意図は、この2役における叙情的な美しい性格を浮き彫りにしたかったからでは‥‥と予測していたのだが、それにしてはオーケストラがあまりに激烈に過ぎた。三澤洋史はもともと声楽に詳しい指揮者なのだから、声のパートが聞こえるように、もう少しオーケストラの響きを制御するべきではなかったか、と思う。

 三澤音楽監督がこのオーケストラを指揮する時には━━これまで聴いた範囲では━━緩急自在とか矯めとか小細工とか言った要素を一切排し、ストレートに一気に押して行く、という演奏がつくられていた。今回もその特徴がフルに発揮されており、そのため第3幕後半での戦いの場面など、演奏が目覚ましい迫力をしめしていたのは事実である。

 だが、本来この「トリスタン」の音楽は、もっと官能的で微細で、躊躇い、悲嘆、憧れの感情が精妙に交錯するべき世界ではないのか? 
 第3幕など、トリスタンが絶望のどん底に沈んでいる前半の部分と、イゾルデに再会できるという歓喜に浸る後半の部分とでワーグナーが微細に描き分けているはずの対比が、オーケストラの演奏からはほとんど感じられなかったのである。

 とはいえ、全曲大詰めの「愛の死」は美しい演奏だった。第2幕の「夜よ、降りてきておくれ」の愛の場面の音楽では一気呵成に流れてしまっていたオーケストラの音も、ここでついに、官能的な陶酔を蘇らせた。飯田の柔らかく美しい声も、ここでは充分に生きた。
 結局、今日の「トリスタン」の演奏は、この「愛の死」に全てを賭けていたかのような。ともあれ、終り良ければ総て良し、ということに。

※三澤さんのブログ「Café MDR」をお読みになることをお奨めします。非常に興味深いお考えが書かれています。

2022・8・27(土)セイジ・オザワ 松本フェスティバル
モーツァルト:「フィガロの結婚」

     まつもと市民芸術館・主ホール  3時

 「フィガロの結婚」が、沖澤のどかの指揮で3回上演された。ただし第1幕だけは「子どものためのオペラ」として、ケンショウ・ワタナベの指揮で5回上演される。

 今日はその本公演の3日目だったが、この満席の状態を、私は実に久しぶりに見たような気がする。
 思えば音楽祭創設以来30年、モーツァルトの名作オペラが本公演で取り上げられたのは、今年が最初だった。かつて小澤征爾・総監督が元気だった時代、彼は得意のフランスものや20世紀ものを盛んに取り上げ━━そこでは比較的耳慣れぬ作品が多かったにもかかわらず、小澤の人気ゆえに、チケットは常に完売になっていた。だが彼が指揮しなくなると、空席も目立つという状況に多くなって来たのは周知の通りである(上演の水準の面でも、必ずしも優れたものとは言い難いものも出て来ていた)。

 しかし今回のように、モーツァルトの名作オペラが優れたスタッフとキャストにより上演された場合には、小澤総監督が指揮していなくても、昔のように客席がいっぱいに埋まり、音楽祭そのものにも活性化のイメージを与えるという反応が生じたことは注目される。その意味では、今年のレパートリー選定は、OMFにとっての起死回生の一打と言えるかもしれない。

 今回の「フィガロの結婚」は、ロラン・ペリーの演出、ローリー・フェルドマンのステージ・ディレクションによるもので、もともとはサンタフェ・オペラでの上演のために作られたプロダクションの由である。
 シャンタル・トマによる装置では、回転する複数の巨大な歯車(ねじ)と、それにつれて回転する舞台で構築される。それは部屋から部屋へ、ドアからドアへと、登場人物とともに目まぐるしく回転する。それが単なる余興ではなく、時計が「1日」(このオペラは「ある1日の物語」である)を刻んでいることを象徴するものであることは明白であろう。

 第3幕最後では、モラルの崩壊を象徴するかのように、この歯車/時計はバラバラになる。だが、大詰めの大団円に至ってそれは回復する。総じてこの演出は、ストレートな解釈ながら、人物の微細な演技も含めて多彩な舞台によりドラマを展開して行くというペリーらしい詩的なタッチで、なかなか楽しめるものだった。

 配役は以下の通り━━サミュエル・デール・ジョンソン(アルマヴィーヴァ伯爵)、アイリン・ペレーズ(伯爵夫人)、フィリップ・スライ(フィガロ)、イン・ファン(スザンナ)、アンジェラ・ブラウワ―(ケルビーノ)、パトリック・カルフィッツィ(ドン・バルトロ)、スザンナ・メンツァー(マルチェリーナ)、マーティン・バカリ(ドン・バジリオ)、糸賀修平(ドン・クルツィオ)、町英和(アントニオ)、経塚果林(バルバリーナ)、東京オペラシンガーズ。

 登場人物たちがみんな生き生きしていて、存在感を明確に示していたのがいい。
 特にスザンナ役のイン・ファンの爽やかで明晰な歌唱表現は傑出していた。ペレーズの伯爵夫人は、第2幕冒頭のアリアではちょっと不安定な歌唱だったが、ここは誰がやっても難しいらしい・・・・第3幕後半以降、「勝利を確信」してからの歌唱も演技も、娘時代のロジーナの性格を取り戻したかのように明るくなって行ったのは、おそらくドラマの性格を考えての意図的なものだったのだろう(とすればこの人、やはり巧い)。

 伯爵役のデール・ジョンソンも、特に暴君的な表現ではない、喜劇の範囲での領主役を歌い演じた。彼、ある個所でレチタティーヴォが止まり、横の召使役になにか確認するような様子を示したが、そこでチェンバロが催促するような合の手を入れたのが可笑しかった(チェンバロのブライアン・ワゴーンがなかなか巧い)。フィガロのスライがもう少し才気煥発の抜け目なさを巧く表現していたら、この4人のバランスは完璧に整っていただろう。
 なお、バルバリーナ役にシャイアン・コスの代役で急遽出演した経塚果林も闊達な歌唱と演技で、なかなかよかった。

 さて、今回の公演で、もっとも注目の的だったのは、沖澤のどかの指揮である。これはもう、まさに噂通りで期待通りの素晴らしい指揮だった。この若手はいい。モーツァルトのオペラで、これだけしなやかな美しい濃密な音をSKOから弾き出したのも嬉しい驚きである。
 彼女の指揮は極めてシンフォニックで、しかも揺るぎない。特に第2幕フィナーレでドラマが急展開して行く場面での、スコアの指定に基づいてのテンポの変化は鮮やかだった。全曲構築のバランスもほぼ完璧であり、音楽にも緩みがない。彼女が指揮した「フィガロの結婚」は、オーケストラが大河のように堂々と流れ、その上に歌手たちの歌唱が躍動するという音楽になっていたのである。

 こういう演奏を引き出す彼女の才能には本当に舌を巻かされたが、たった一つ引っかかることがあったのは、━━モーツァルトのオペラというのは、本来、オーケストラも登場人物と一緒に、泣き、笑い、怒り、喜ぶ音楽なのではなかろうか? 
 その意味では、彼女が構築したこの「フィガロの結婚」は、オーケストラは単なる温かい「語り手」といった存在に徹しているように感じられてしまったのだ(このオペラをシンフォニーとして聴くなら、この構築は完璧と言えただろう)。

 もっとも、事前の記者会見での発言などを総合すると、彼女は意図的に「オーケストラをあまり動かさない」ことを狙っていたふしもある。そうであれば、ことはもう解釈の問題になるだろう。

2022・8・26(金)セイジ・オザワ 松本フェスティバル(OMF)  
シャルル・デュトワ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)

    キッセイ文化ホール〈長野県松本文化会館〉 7時

 パンデミックの影響を受け、一昨年は中止、昨年は準備されながらも直前に中止、という目に遭ったこの音楽祭。今年は無事に開催された。2019年以来、3年ぶりということになる。

 奥志賀・長野・東京・水戸での行事を含む開催期間は8月6日から9月9日まで。開設30周年記念の年にしては必ずしも大規模な内容とも言い難いが、諸々の現状を考えればよくやった、と称賛されるべきであろう。ただし11月にはアンドリス・ネルソンスを指揮に迎えてのSKOの特別公演がOMFの一環として松本と長野で予定されており、これは一大イヴェントだろう。なんにしても、こうして無事に開催されたのは祝着である。

 音楽祭本体のオーケストラ・コンサートとしては、今年も1プログラム2回の公演が組まれ、昨年(無観客ネット配信用の演奏)に続き、シャルル・デュトワが指揮した。
 プログラムは、武満徹の「セレモニアル」(笙のソロは宮田まゆみ)、ドビュッシーの「管弦楽のための《影像》」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」というもので、デュトワ得意のフランスとロシアのレパートリーを中心とした選曲だった。
 コンサートマスターは3曲をそれぞれ小森谷巧、矢部達哉、豊嶋泰嗣が担当している。おなじみの外国勢の参加も、今年はまたジャック・ズーンをはじめ、多少増えて来ているようである。

 ステージも溢れんばかりの大編成による「春の祭典」は、腕利きのSKOの本領発揮だ。
 ただしデュトワの指揮は、個々の場面や各楽器の対比を劇的に強調するというよりは、楽曲全体を一つの大きな流れに構築、大管弦楽を均衡豊かなアンサンブルにして、力感を以って滔々と押して行くというスタイルと言えようか。

 例えばティンパニは、第2部の「選ばれし者への賛美」でも、あるいは最後の「神聖な踊り」のクライマックスでも、突出して躍動し怒号するなどということは決してせず、あくまでもアンサンブルの中のひとつのパートとして活躍する。つまりバーバリズムの音楽でなく、鋭角的でも刺激的でもなく、良い意味での安定した解釈が採られているので、所謂スリルのようなものからは、ちょっと距離がある(この辺が私の好みとは違うのだが)。

 だが、そこはSKOのこと、そうしたアンサンブルを保ちつつ、さながら巨大な連峰のような音楽を響かせる大技は見事というほかはない。そしてまた、表現も多彩である。たとえば第2部冒頭の神秘的な個所での、オーケストラが怪奇な音色で崩れ落ちる瞬間が、これほど不気味な雰囲気を以って響かせられた演奏は、これまであまり聴いたことはなかった。

 今夜の3曲の中では、叙情的な要素が支配的な「管弦楽のための《映像》」の方に、デュトワの洗練された感覚がよく感じられたと言えるかもしれない。ただ、この演奏は、デュトワとSKOの演奏としては心なしか未だ生硬な感がなくもなく、おそらく28日の2回目の演奏の時には、もっと洒落たニュアンスが発揮されるのではなかろうか。

 「セレモニアル」は懐かしい。1992年の「サイトウ・キネン・フェスティバル」の開幕の年、オーケストラ・コンサートの1曲目として演奏されていた時の思い出が、まざまざと蘇る。あの日、宮田まゆみは、1階客席下手側の通路から笙を吹きながらゆっくりと登場してステージに上がって行った(ブラームスの「第1交響曲」も演奏されたあの日の沸き返る興奮の光景は、若々しい小澤征爾総監督の指揮姿と、2階席最前列に座っておられた天皇・皇后ご夫妻の姿とともに、you tubeでも視られるはずである)。

 今回は、彼女は最初からステージ上で演奏した。作品の印象も、30年を経過した今では全く違ったものに感じられる。いろいろなものが様変わりしたこの30年━━であった。

 デュトワは、この音楽祭でホールの聴衆の前に姿を現わしたのは、これが最初になるが、昨年の無観客ネット配信は、多くの人たちの目に触れていたのだろう。今日、会場を埋めていた満席の聴衆の彼に対する拍手は、ひときわ大きかった。
 なお、私は事情があって先に席を立ったため見られなかったが、カーテンコールのさなかに、突然小澤征爾総監督がステージに姿を現わしたそうである。車椅子に乗ったままではあったものの、彼が元気で姿を見せてくれただけで、松本のお客さんの喜びはひとしおだっただろう。

2022・8・23(火)ユライ・ヴァルチュハ指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 嬉しいことに、またまたいい指揮者がお目見えした。スロヴァキア出身で、年齢は46歳(1976年生れ)と、そろそろ中堅の世代に入っている人だが、RAI国立響の首席指揮者やサンカルロ歌劇場音楽監督を務めた実績があり、現在はベルリン・コンツェルトハウス管の首席客演指揮者在任中で、2022/23シーズンからはヒューストン響音楽監督をも務める由である。

 そのヴァルチュハ、今回の読響初客演では、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第27番」(ソリストはアンヌ・ケフェレック)と、マーラーの「交響曲第9番」を指揮した。
 特にこのマーラーで示された重厚で巨大なスケール感を備える音楽づくりが、ヴァルチュハの真骨頂なのであろう。

 弦16型の読響(コンサートマスターは長原幸太)の威力ある演奏も出色のものだったが、それを制御する彼の気魄も見事である。あまり器用な人という印象はないけれども、精魂籠めて音楽をつくり上げるという雰囲気の指揮が好感を呼ぶ。特に第3楽章(ロンド・ブルレスケ)での濃密で豪壮な熱狂は、ここが全曲の頂点と思わせるほどの壮絶な音楽になっていて(ここは読響も結構凄かった)、彼の指揮のスケールの大きさを実証していただろう。

 ただそれに比べると、第1楽章は些か集中性に不足した傾向がなくはない。また第4楽章では、前半での沈潜した個所(第22小節~48小節)が早くも強調されてしまったために、楽章後半の沈潜部分との対比がさほど際立たなくなったような感もあった。

 なお、全曲最後の最弱音はかなり強調されていて、音楽が切れ切れになって消えて行く効果が発揮されていた。これは多くの指揮者がやるテだから、それはそれでいいのだが━━ただし私は、あのマリス・ヤンソンスがバイエルン放送響との最後の来日でこの曲を取り上げた際、最後の20小節ほどを明晰な音で響かせ、この個所がいかに豊かな美しい和声構造を持っているかを浮き彫りにしてくれたあの感動的な演奏を聴いて以来、その手法に憧れ続けているので━━。

 プログラムの第1部で、ケフェレックがソロを弾いたモーツァルト。こんな天国的な音楽が未だこの世にあったかと思わせるような演奏。このところ、鋭角的で激しい演奏にばかり接していたので、久しぶりにこのような温かい、柔らかい演奏に遭遇すると、その新鮮な感動もひとしおになる。

 ケフェレックは、終始静かに物語る。白々とした「告別の辞」めいた雰囲気を出すことはない。常に温かい口調で音楽を紡いで行く。ヴァルチュハと読響がまた実にソフトな美しい音色でそれに合わせて行く。素晴らしい安息感に満ちたモーツァルトの「K.595」だった。 
 ある個所でケフェレックが、なにか口ごもるかのようにテンポを落して暗い表情の音楽になった瞬間、ヴァルチュハと読響も一瞬生気をひそめてしまったのには、ぎょっとさせられた。見事な「合わせ」ぶりである。

 彼女のソロ・アンコールは、ヘンデルの「ト短調のメヌエット」(ケンプ編)。

2022・8・22(月)サントリーホール サマーフェスティバル
大アンサンブル・プログラム~時代の開拓者たち~

      サントリーホール  7時

 恒例の夏の現代音楽のフェスティヴァル。今年は21日から28日までの開催で、「ザ・プロデューサー・シリーズ クラングフォルム・ウィーンがひらく」と、「テーマ作曲家 イザベル・クンドリー」と、「第32回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会」の3本立て企画になっている。

 そのうちの「ザ・プロデューサー・シリーズ クラングフォルム・ウィーンがひらく」は、ウィーンの有名な現代音楽専門のオーケストラ「クラングフォルム・ウィーン」の演奏を中心とした4回のシリーズで、今日はその初日だ。
 プログラムは5曲で、オーストリアの作曲家ヨハネス・マリア・シュタウト(1974生)の「革命よ、聴くんだ(ほら、仲間だろ)」(2021年)、クロアチア生れのミレラ・イヴィチェヴィチ((1980生)の「サブソニカリー・ユアーズ」(同)、塚本瑛子(1986生)の「輪策赤紅、車輪」(2017年)、武満徹(1930~96)の「トゥリー・ライン」(1988年)、グラーツ生れのゲオルク・フリードリヒ・ハース(1953生)の「ああ、たとえ私が叫ぼうとも、誰が聞いてくれよう‥‥」(1999年)というもの。
 指揮はエミリオ・ポマリコで、オーケストラにはハープの篠崎和子ら13人の日本の演奏家たちも「スペシャル・サポートメンバー」として参加していた。

 すこぶる刺激的な一夜で、一瞬たりとも気を抜く余裕もない演奏会だったが、飛び交う音たちと長い沈黙とが交錯する曲想の多いこれらの作品群の中では、最も作曲年代の古い武満徹の「トゥリー・ライン」が、なんとまあ流れるような曲想に満ちた、豊麗で叙情的で、あたたかい音楽に聞こえたことか。
 それは古臭いというのでは決してなく、作品のスタイルが根本的に異なっているということから生まれる印象だろうが、それらを比較していろいろなことを考えさせてくれた演奏会でもあった。

 他の作品のうちでは、断片的ながらも関連性を保ちつつ飛び交う色彩感に満ちた音の魅力を感じさせてくれたイヴィチェヴィチの作品と、打楽器奏者ルーカス・シスケが静謐だが雄弁なソロで活躍したスケールの大きなハースの作品が印象に残る。

 お客さんの入りは、まあ、この種の演奏会としては、そこそこといった感だろう。現代音楽系の某評論家氏が「こういう(客の)入りは久しぶりだなあ、最近何年かは比較的入っていたのに」と言っていたのが苦笑を誘った。もちろん、小ホールにはとても入りきれないほどの数の聴衆が集まってはいたのは事実だけれども━━。

2022・8・20(土)ペトル・ポペルカ指揮東京交響楽団

        サントリーホール  6時

 またまた素晴らしい指揮者が来日した。プラハ生れの36歳、ペトル・ポペルカ。

 以前はシュターツカペレ・ドレスデンでコントラバスを弾いていたそうだが、2016年から本格的に指揮を始め、2020年にはノルウェー放送管弦楽団の首席指揮者に就任、今年秋からは故国チェコのプラハ放送交響楽団の首席指揮者をも務める。目覚ましい躍進ぶりである。
 今回の東京響定期客演では、ウェーベルンの「夏風の中で」、ベルクの「《ヴォツェック》からの3つの断章」(ソリストは森谷真理)、ラフマニノフの「交響的舞曲」を指揮した。

 にこやかな髭面のポペルカは、巨体をダイナミックに動かし、豪壮かつ力感たっぷりの指揮姿で東京響を引っ張る。その指揮のイメージがすこぶる見事に音楽に投映されたのが「交響的舞曲」での演奏であったろう。
 最強奏は地響き立てて轟き、ホールを揺るがせるが、その怒号の音が全く濁らず、しかも均衡を保ったアンサンブルで貫かれていたのには感服した。その意味では、今日の東京響は、アンサンブルの点では極めて水準も高かったと言えよう。

 一方、ダイナミックな迫力だけではなくて、豊かな情感も備えており、しかも音楽のスケールが極めて大きいという美点もある。叙情的な旋律の部分が、これほど(良い意味での)「歌謡的」に感じられた演奏には滅多に出会えない。そしてラフマニノフが意図的にか、あるいは無意識にか、自己の作品に織り込んだクルト・ヴァイル的な官能と頽廃を秘めた曲想が浮き彫りにされていた。
 正直言って、私はこの曲にはこれまであまり共感を持てないでいたのだが、今夜ほどこれがいい曲だと思えたことはなかった‥‥。

 プログラムの前半2曲の演奏も、それなりに良さはあったが、後半の「交響的舞曲」におけるほど、指揮者自身の主張を強く感じさせた演奏ではない。ただこれは、ただ1回の、それも初めての客演指揮のみで推し量るべきものではなかろう。いずれにせよ、チェコ出身のポペルカがどんなレパートリーで強みを発揮するのか、もっといろいろ聴いてみたい。
 今日のコンサートマスターは小林壱成。

2022・8・18(木)エミリア・ホーヴィング指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 今年28歳になるフィンランド出身の女性指揮者、エミリア・ホーヴィングが日本デビュー、読響の「名曲シリーズ」に出演。
 フィンランドの作曲家ラウタヴァーラの「至福の島」(日本初演)とシベリウスの「第5交響曲」を据え、その間にプロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」(ソリストは三浦文彰)を置くというプログラムを指揮した。
 コンサートマスターは小森谷巧。

 容姿も指揮姿も、つくり出す音楽も初々しい感の彼女は、あの名教師ヨルマ・パネラの門下生とのこと。パネラと言えば、サロネン、サラステ、オラモ、フランク、ヴァンスカ、最近ではあのクラウス・マケラを育てた大先生である。パネラという先生も凄いが、しかしフィンランドという国も、これほど優れた指揮者を次々に輩出するのだから、全く凄いものだ。

 このホーヴィングという人、両腕を大きく一緒に動かす指揮姿は、女性指揮者によくあるタイプだろう。オーケストラから引き出す音楽は、小粋に纏まった演奏という印象を与えられるところも少なくはない。
 だが、フィンランドの2作品の演奏では、まさにフィンランド人指揮者ならではの響きと音色と雰囲気とを感じさせ、またプロコフィエフでは作品の叙情性を浮き彫りにするといったように、自己の主張を既に明確に打ち出しているのは、その年齢を考えれば、実に立派なものである。

 オーケストラのサウンドにおける緊迫感や緊密性などには若干不満を感じさせるところはあるものの、たかだか1回の客演指揮でそこまで望むのは━━カリスマ的なベテラン指揮者にならいざ知らず━━無理というものであろう。しかし、読響もこの若手指揮者をよく盛り立てた(少なくともそのように聞こえた)。いいオーケストラで日本デビューできたな、と思う。

 日本初演されたラウタヴァーラの「至福の島」は、13分ほどの長さの曲。1995年の作曲とのことだが、私は初めて聴いた。精妙に織りなされる管弦楽の響きには、透明な美しさもある。それはまぎれもなく、私が1970年代に何度か訪れて好きになり、爾来ずっと憧れ続けているあのフィンランドの光景と雰囲気の中から生まれた音楽だなという気がする。
 もっとも私は、中間部あたりに登場するミステリアスな雰囲気から、何となくジェリー・ゴールドスミスが作曲した映画音楽「氷の微笑」を連想してしまったのだが、あの映画は1992年の作品で‥‥まさか。

 プロコフィエフの協奏曲で、これほどオーケストラが良い意味で控えめに躍動し、第2楽章でも柔らかに歌っていた演奏には、久しぶりで出逢った。三浦文彰も節度のある軽やかさを基盤とした美しい演奏のプロコフィエフを聴かせてくれた。ソロ・アンコールで、チェロとのピッツィカートでシベリウスの「Water Droplets」を弾いたのも、指揮者への歓迎の意味と、次のプログラムの予告の意味なども含め、洒落たアイディアだった。

 そのシベリウスの「5番」。この曲特有の、大波のような起伏感や、絶え間なく神秘的に細かい躍動を続ける弦の緊迫感などにはもっと多くを望みたいものの、しかしこの若さで、それもただ1回の初めての客演指揮で読響からこれだけ「シベリウスの音」を引き出してみせた彼女の力量は、称賛に値するだろう。第1楽章終結部でのテンポを速めての追い込みは結構なものがあったし、全曲最後の断続する和音の「間」における緊張度も、これなら上々、というところだ。
 読響もよく彼女の音楽に応えたものだと思うし、それも称賛したい。

2022・8・12(金)サントリー音楽賞受賞記念コンサート 高関健

         サントリーホール  7時

 第50回サントリー音楽賞に指揮者の高関健氏が決定。今日の演奏会のプログラム冊子にはその授賞理由が若干の「上から目線」的な書き方で掲載されているが、とにかく東京シティ・フィルや仙台フィル、京都市響などとの目覚ましい演奏活動が高く評価されての受賞であることは、誰にも異論のないところであろう。

 今日は、彼が常任指揮者を務める東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団を率いて、ルイジ・ノーノの「2)進むべき道はない、だが進まねばならない…アンドレ・タルコフスキー」と、マーラーの「交響曲第7番《夜の歌》」が演奏された。
 前者は高関健が1987年11月28日に東京都交響楽団を指揮して、このサントリーホールで世界初演したという縁のある作品だ。マーラーの大交響曲と併せて、記念コンサートに相応しい力感たっぷりのプログラムと言えるだろう。
 コンサートマスターは客演の植村太郎。

 そのルイジ・ノーノの、「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」の委嘱によるこの作品は、世界初演の際に自分も聴いていたはずなのに、不思議に全く内容についての記憶がない━━と思っていたのだが、当時の日記を調べてみたら、やはりそのコンサートには行っていなかったことが判明した。あまりに大きな話題になり、有名になった曲ゆえに、そんな錯覚を起こしていたのかもしれない。

 とにかくこの曲では、ステージ上には弦楽オーケストラが配置されているのみで、管と打楽器は客席2階のP席、RAとLA席、RBとLB席、RCとLC席の各後方、およびC席の中央通路に分散して配置されるという、奇抜な手法が採られている。このそれぞれの位置から発せられた強力な音群がホールの空間を縦横に飛び交う効果は、まさに絶大だ。快感ともいうべきものだろう。このサントリーホールの構造と音響によってこそ最大の効果を上げる作品なのだと改めて認識させられた次第である。

 ただ、全曲30分近く、飛び交う音よりは沈黙と静寂の方が長い、という手法が繰り返されるのみの進行には、著しく緊張を強いられることも事実だ。それゆえ後半になって来ると、そろそろ流れに変化が生まれてくれないものか━━たとえば断続から継続へ、緊迫から解放へ、とか、‥‥そういう精神状態になってしまうのも偽らざる本音なのである。

 後半はマーラーの「第7交響曲」。シティ・フィルも熱演だったが、高関との演奏にしては、今日は些かラフだったような印象を受けた。ただ興味深かったのは━━この交響曲の異常な構成、つまり4つの楽章におけるミステリアスな雰囲気が最後の第5楽章で突然「躁状態」に変わるという構成が、今日の演奏では、第1楽章が意外なほど荒々しい狂乱的な演奏で描き出されていたことにより、3つのミステリアスな楽章を2つの躁状態の楽章が挟むという、シンメトリーな構成に感じられるようにされていたことであった。
 第1楽章での打楽器群がえらく強調されていたことも、その楽章をそのように印象づけ、また全曲をそのように感じさせる要因の一つになったのかもしれない。

2022・8・11(木、祝)フェスタサマーミューザKAWASAKIフィナーレ
原田慶太楼指揮東京交響楽団、岡本誠司

    ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 めでたく最終日。特にセレモニーはなかったが、ホスト・オーケストラの東京交響楽団が正指揮者・原田慶太楼の指揮で華やかな演奏を繰り広げ、音楽祭を明るく結んだ。

 プログラムも凝っていて、コルンゴルトの「組曲《から騒ぎ》」、同「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは岡本誠司)、武満徹の「3つの映画音楽」、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」からの抜粋━━という、「映画音楽をシェイクスピアで挟んだ」構成のものだった。コンサートマスターは水谷晃。

 こういうプログラムは、原田慶太楼が得意とするレパートリーなのだろう。そして、彼と東京響の呼吸もいっそう合って来たようである。
 コルンゴルトの協奏曲の冒頭など、実に「色っぽく」響いていたし、第1楽章終結近くのPiu mossoの個所で弦楽器群が疾風の如く4回繰り返す下行音が、多分作曲者の狙い通りに、非常に奇妙な音色で鮮やかに決まっていたのにも感心させられた。

 ただ今日のこのコンチェルトの演奏では、オーケストラが非常に雄弁に響いていたので、岡本誠司のヴァイオリンが━━2CB席ほぼ中央後方の席で聴いた範囲では━━オケの中に埋没気味に感じられた。他の席ではどうだったのだろうか? 第3楽章の中の、あの印象的な、映画「放浪の王子」から転用された旋律の個所(練習番号73から)など、ソロの旋律線が全く浮かび上がって来ないのである。

 それでいながら、ソロ・アンコールで彼が弾いたクライスラーの「レチタティーヴォとスケルツォ・カプリ―ス」は、豊かな音で朗々と響いていたのだから、不思議である。彼はこの協奏曲を弾くのは実は今回が初めてだそうで、譜面を見ながら弾いていたから、その辺りに原因があったのかもしれないが。

 原田の指揮でもうひとつ面白かったのは、武満の作品だ。
 この人の音楽は、外国人指揮者の手にかかると、日本人的な「控えめでなだらかな、神秘的な美」が消えて、俄然メリハリの豊かな、強い自己主張を感じさせるものになることが多いのだが、今日の原田の指揮には、まさにその「外国人が演奏するTAKEMITSU」の色合いが表れていたのである。
 それでいて、日本人指揮者でなければ出せぬような独特の武満の叙情感も失われていない。となると、もしかしたら原田の指揮する武満の音楽は、モデラートなインターナショナル的タケミツ━━変な言い方だが、さしあたり適当な表現が見つからないので━━と呼んでもいいかもしれない。

 演奏会は、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」の中からさらに1曲がアンコールとして演奏されて幕を閉じた。

2022・8・9(火)ロッシーニ:「泥棒かささぎ」(演奏会形式)

     フェスティバルホール(大阪) 2時

 東京では☞2008年3月8日に藤原歌劇団が楽しい舞台上演をやったことがある。今回は演奏会形式上演だが、めったにナマでは聴けないオペラなので駆けつけた。東京などからも何人かが聴きに来ていたが、「平日でなければもっとみんな来たんじゃないですか」とは東京から来た知人の言。
 これは「第60回大阪国際フェスティバル2022」の公演で、昨年行われるはずだったのが延期されていたものだ。

 結論から先に言えば、これは大成功のプロダクションである。まず園田隆一郎の指揮と、大阪交響楽団の演奏がいい。先日の「ファルスタッフ」とは比べものにならぬ出来の良さだ。柔らかくて無理に煽りたてない、穏やかなタイプの演奏だが、ロッシーニの音楽の美しさと、劇的な持って行き方とを、見事に掴んだ構築である。
 それに、今回は歌手陣が充実していた。顔ぶれは以下の通り━━

 晴雅彦(農場主ファブリツィオ)、福原寿美枝(その妻ルチーア)、小堀勇介(その息子ジャンネット)、老田裕子(同家の小間使いニネッタ)、青山貴(ニネッタの父フェルナンド)、伊藤貴之(村の代官ゴッタルド)、森季子(ニネッタの親友の農民ピッポ)、片桐直樹(裁判官)、清原邦仁(小間物商イザッコおよび看守アントーニオ)、西尾岳史(代官の部下ジョルジョ)。
 合唱は関西二期会と関西歌劇団のメンバー15人と、藤原歌劇団からの1人による16人編成。なお「かささぎ」役はダンスで演じられ、大阪芸大の武田空が受け持っていた。

 演奏会形式上演なので、舞台前面や奥のスペースを動き回ってのイメージ的な演技は多少加えられているが、概して客席正面を向いての歌唱である。登場人物が多いので、男性役の歌手たちが全員同じ服装というのは、人間関係が少しく解り難い部分もあるだろう。特にアンサンブルの場面がそうだ。このあたり、今ひとつ工夫が凝らされていればと惜しまれた。
 しかしソリストたちは、ほぼ全員が、オレがオレがと言わんばかりに美声を聴かせる。それにより、イタリア・オペラの面白さを充分に伝えてくれたことは疑いない。

 小堀勇介は快調そのもので、胸のすくようなテナーを誇示した。そして、見事だったのは青山貴である。先日のファルスタッフに次ぐイタオペでの優れた歌唱を聴かせてくれたが、この人の芸域の広さには、今回もまた改めて驚くほかはない。

 晴雅彦の冒頭場面でのコミックな演技と歌の表現も面白いし、福原寿美枝の「怖いおばさん」(これはいつもながらサマになっている!)から「情あるおばさん」への変身ぶりもなかなかのものだ。片桐直樹の風格充分の、それでいてどこか明るい裁判官もいい。

 老田裕子も綺麗な声だが、このニネッタは少し可憐に過ぎ、「罪のない虐められ役の少女」という面を強調し過ぎたのではないか? 
 伊藤貴之の代官も、もう少し悪役然とした雰囲気があったら━━というのは、このように「同じ服装で全員が並ぶ」舞台では、ひとりひとりの個性が強調されていないと、前述のように、ストーリーが解り難くなるという傾向があるからである。

 20分の休憩を含み、5時半近くに終演。大阪市内の中心部も大阪駅も、また新大阪駅も、人で猛烈にごった返している。

2022・8・7(日)野田秀樹作・演出「Q:A Night At The Kabuki」
松たか子、上川隆也、広瀬すず、竹中直人、野田秀樹 他出演 

      東京芸術劇場プレイハウス  1時

 「ロミオとジュリエット」の物語を、源平合戦時代に重ねた野田秀樹の奇想天外なドラマ。今回は再演で、プレイハウスでは8月2日~9月11日の公演。因みにそのあと、同22日~24日ロンドン公演、10月7日~16日大阪公演、同23日~30日台北公演という予定が組まれている。

 3年前の初演の時に観て実に面白かったし、東京芸術劇場の外部評価委員という立場もあるので、今回は早めに取材をした次第。
 芝居のタイトルは、音楽にクイーンのアルバム「A Night At The Opera」を使用しているところから採ったということを聞いた。

 内容については初演の時の日記(☞2019年10月10日)に詳しく書いたので重複を避ける。
 主演の出演者たちは前回と同じで、まあよく身軽に動くし、芝居は達者だし、飛び交うセリフは多彩だし、ドラマとしてのスケールが非常に大きくて重量感たっぷりという具合で、とにかく面白い。
 客席は超満員、大変な人気で、チケットも取りにくいとかいう話も聞いた。上演時間は、15分の休憩を含み2時間50分前後。前回よりだいぶ短くなっているようだが、どこかカットしたのかしらん。

2022・8・5(金)フェスタサマーミューザKAWASAKI
尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 3時半から5時半まで、横浜市の青葉区に本拠を置くオペラ愛好会で定例のオペラ講座(今回は「オペラにおける悪役の本領」という変なテーマ)を一席担当した後、田園都市線の藤が丘駅から溝口駅でJR南武線に乗り継ぎ、川崎駅に着く。
 会場では既にプレトークが始まっていたが、廊下を歩いている時に、「大フィルは初めてこのホールで音を出したんです、素晴らしいホールだとみんな喜んでいました」とステージで話しているマエストロ尾高の声が聞こえて来た。大フィルは、恒例の東京定期公演をサントリーホールで行なっているけれど、そういえばこのミューザ川崎シンフォニーホールへはこれがデビューになるのか、と改めて驚いたり。

 このフェスティヴァルは、もともとは東京都と神奈川県のメジャー・オケが顔を揃えるというやり方で開催されているのは周知の通り。ただし2019年からは、ゲストとして各都市のオーケストラを毎年1団体ずつ招くという形が採られていて、これまでに仙台フィル、群響、京都市響が順に招待されていた。
 そこで今年はいよいよ関西オーケストラ界の雄、創立75周年を迎えている老舗の大阪フィルが、音楽監督・尾高忠明の指揮で登場、となったわけである。コンサートマスターは須山暢大。客席も結構な入りを示していた。

 しかも今回のプログラムが、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはイリヤ・ラシュコフスキー)と、エルガーの「交響曲第1番」という、尾高忠明の最も得意とするレパートリーだったところも、この「川崎殴り込み」には絶好のものであったろう。
 特にエルガーは、英国のBBCウェールズ・ナショナル管の首席指揮者だった時代から尾高の十八番だったはず。

 彼の指揮で聴くと、この作曲家に必ずしも共感を持っているとは言い難い私も、なかなかいい曲だ、と感じるようになるのだから有難い。今日の尾高と大阪フィルの演奏は、常に似ず少々ラフで、勢いに任せたような感がなくもなかった━━本拠のフェスティバルホールで聴く彼らのベートーヴェンやブルックナーは、もっと緻密精妙で完璧な均衡を備えた演奏なのだ━━けれども、快活だったし、大詰めの盛り上がりも見事な演奏だったことは確かだ。

 アンコールには同じエルガーの「《威風堂々》第1番」が、これも素晴らしく賑やかに、勢いよく演奏されて、聴衆を熱狂させた。以前はカーテンコールの締めくくりとして彼が見せていたおなじみのジェスチュア「もう寝ます」がなかった(最近はやらないのか?)ので、客の拍手も止まらなかったのかもしれない。
 既にシャツに着換えてしまっていた尾高が急いで楽屋から出て来て、そのままの姿で照れくさそうにステージへ答礼に出て行ったあたり、川崎のお客さんの彼に対する親しみはいよいよ増したのではなかろうか。私はこの時には舞台袖にいて、それからしばらくマエストロと立ち話をしたのだが、彼が怪我したという指先が何とも痛々しかった。おだいじに。

 なお第1部でのラフマニノフのコンチェルトで協演したラシュコフスキーは、10年前に浜松国際コンクールで優勝を飾った時と全く同じ━━いやそれよりもさらに猛烈で華麗で、自己主張の強い演奏を聴かせた。
 速いテンポのスケールを弾く際の煌めくような音色は、確かに見事なものではあったが、全ての音符を一瞬の流れとして扱ってしまうようなその演奏には、何か見え見えの名技主義のようなものを感じてしまい、些か反発したくなってしまうのも事実なのである。尾高がよくこのピアノを制御して演奏をまとめて行ったものだと、改めて感心する。
 ラシュコフスキーはそのあとすぐにアンコールを弾きはじめたが、曲はスクリャービンのエチュード「悲愴」。

2022・8・4(木)フェスタサマーミューザKAWASAKI
藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 第2部では、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」と、レスピーギの「ローマの松」という華麗なオーケストラ曲が演奏されたが、第1部ではコープランドの「クラリネット協奏曲」およびチック・コリアの「スペイン」(六重奏とオーケストラのための)というユニークなプログラムが組まれた。

 しかも協奏曲ではリチャード・ストルツマンがソリストとして出演し、チック・コリアの作品では7人のソリスト━━宮本貴奈(ピアノ)、井上陽介(ベース)、高橋信之介(ドラムス)、中川英二郎(トロンボーン)、本田雅人(サックス)、小池修(同)、ミカ・ストルツマン(マリンバ)が協演するという、贅沢な組み合わせになっていた。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 懐かしのリチャード・ストルツマン、今年80歳のはずだが、健在というのは嬉しい。47年前、武満徹の「カトレーン」初演のために「タッシ」のメンバーとして来日した際に私たちを驚嘆させたあの鮮烈な、かつ透き通るような美音はもう昔話となったが、今のあたたかい表情の演奏はそれなりに感動を与えてくれる。それに、カーテンコールでステージ上をおどけた足取りで元気よく走り回ってみせるあの茶目っ気は、昔の無口で控えめだった彼からは想像もできなかった光景ではないか。

 チック・コリアでは、何といってもジャズの六重奏(マリンバは別)が面白い。藤岡とシティ・フィルも負けじと大音響を轟かせるし、その賑やかなこと。
 ただ、━━大熱演ではあったものの、30分近い作品の演奏としては、なんとなく散漫な印象を拭えなかったようだが‥‥これは難しいところだ。

 その藤岡とシティ・フィルは、第2部の2曲で、おれたちの本当の華やかさを聴け、とばかりに、開放的な演奏を披露してみせた。「ローマの松」の「アッピア街道の松」冒頭で何だか変なリズムの演奏になったのには苦笑させられたが、これはフェスタならではのご愛敬というべきか。
 だがプレトークでマエストロ藤岡がその魅力を強調していた「ジャニコロの松」の部分は、実際に稀有なほど出色の快演となっていた。この個所の演奏だけでも、今日のシティ・フィルがその面目を施すに充分なものがあったろう。

2022・8・2(火)PMFオーケストラ東京公演

     サントリーホール  7時

 2019年に当時の芸術監督ゲルギエフの指揮で開催されて以来途絶えていた東京公演が、3年ぶりに実現した。
 本体の札幌でのPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)が、コロナ蔓延のため2020年は中止され、昨年はいったん開幕されながらもその直後に中止されてしまうという経過を辿っていただけに、今年の札幌でのフェスティヴァルが予定通り開催され、併せて恒例の東京公演も行われるに至ったのは、まずは目出度いことであろう。

 今年のアカデミー生によるオーケストラは、例年とは大きく異なり、編成はあまり大きくない(弦12型編成だがチェロは5、コントラバスは3)。が、外国人アカデミー生の数はかなり多く、国際音楽祭の看板に相応しい形になっていたのは幸いであった。ただし今年は、各セクションのリーダーとして、国内オケで活動する「アカデミー修了生」が参加しているとプログラム冊子には表記されていた。

 演奏されたのは、ウェーバーの「オベロン」序曲、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストは小曽根真)、ブラームスの「第2交響曲」である。

 指揮は、1989年イスラエル生まれで、既にロッテルダム・フィル首席指揮者とイスラエル・フィル音楽監督を兼任しているラハフ・シャニ。6年前に読響にも客演していたはずだが、私は今回初めて聴いた。
 噂通り、これは実にいい指揮者だ。特にブラームスの交響曲では、音楽を伸び伸びと歌わせ、内声部をも混濁させずに響かせて、ブラームスの管弦楽法の美しさを存分に再現してくれたし、とりわけ第4楽章大詰めのクライマックスでは体当たり的な熱狂の昂揚をオーケストラから引き出して、見事な終了感を聴き手に与えてくれたのだった。

 この「持って行き方の巧さ」はなかなかのもので、こういう演奏を聴くと、私などは大いに元気を貰えたような気になってしまうのである。プロコフィエフの「3番」の大詰め個所でも、シャニは最後まで造型感を崩さないという大わざを見せつつ、ソリストともに、目覚ましい追い込みの迫力を味わわせてくれた。オーケストラの楽員も若者ばかりの所為か、こういう曲の場合はある種のノリを示すようである。

 なお、「オベロン」序曲では、冒頭のホルンからしてオケが何かガチガチに緊張しているような感があり、シャニの指揮も特に序奏では慎重を極めていたようだ。聴いている此方も少々肩が凝るような雰囲気だったので、これは一応、別としておこう。

 小曽根真のピアノは、例の如く素晴らしいノリである。こういう躍動的なコンチェルトは、彼にはとりわけ合っているのではなかろうか。これまでしばしば聴く機会のあった彼のモーツァルトもそれなりにいいが、プロコフィエフとかショスタコーヴィチとか、そのあたりのコンチェルトも、これからもっと聴いてみたい気が起こって来る。ソロ・アンコールは「マイ・ウィッチズ・ブルー」という曲の由。楽員も聴衆も沸いた。

 ところで━━今年のPMFオーケストラ、なかなかの腕利きが揃っているようであり、今年首席指揮者を務めたシャニも、前述の通り、いい若手だった。ただしそれが、過去の東京や川崎での演奏に於けるような、プロも顔負けの、オーケストラとしてのアンサンブルを完璧に発揮する水準に達していたとは、残念ながら言い難い。
 それを実現させていたのは、これまでの芸術監督の中では、近年ではワレリー・ゲルギエフただひとりだったと言って過言ではないのだが、あのように、若手演奏家を昂揚させるカリスマ性を備えた芸術監督が、このPMFには、やはりだれか、必要なのである。

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