2024-05

2022年9月 の記事一覧




2022・9・23(金)尾高忠明指揮大阪フィル 付・帰京難民記

     フェスティバルホール(大阪) 3時

 9月定期は、音楽監督・尾高忠明指揮によるワーグナー・プログラム。「リエンツィ」序曲、「ヴェーゼンドンク歌曲集」(ヘンツェ版)、それに「神々の黄昏」より「ジークフリートのラインへの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」「ブリュンヒルデの自己犠牲」。声楽ソリストは池田香織。コンサートマスターは崔文洙。

 大阪フィルは、意外なことだが、ふだんはワーグナーものをあまりやっていないのだという。だが尾高忠明は見事にオーケストラを制御し、実にスケールの大きいワーグナーを響かせた。
 どちらかというと端整な構築だが、リズム感が明確で、アクセントも強い。最近の尾高の音楽がより激しく、厳しい表情を漲らせるようになっていることは他のさまざまな演奏からも感じ取れるが、今回のワーグナーもその例に漏れない。

 「ジークフリートの葬送行進曲」では一貫して重々しいテンポを採り、引き締まったリズムをも保持して、特にクライマックスの個所をデモーニッシュな慟哭として轟かせた。この頂点の個所は、このように急き込まないテンポで演奏されてこそ、真の感動的な挽歌となり得るのである。「自己犠牲」後半のライン河の氾濫の場や、ヴァルハル炎上の場でのオーケストラの壮大な響きも劇的であり、終結の「救済の動機」もまさに安息感を抱かせる素晴らしさであった。
 「ヴェーゼンドンク歌曲集」におけるヘンツェ版による管弦楽パートも充分に情感を湛えていたし、「リエンツィ」序曲の開始直後の弦楽合奏が実に拡がりのある、豊かな音色で聴けたのも嬉しかった。

 大阪フィルもいい演奏をしていた━━特に今回のように弦⒗型のフル編成で(しかも緻密に)演奏されたワーグナーの音楽が、如何に大きな気宇とスケール感、圧倒的な重量感を生み出すものか、それを改めて認識させられた気がする。バイロイト以外の歌劇場のオーケストラ・ピットでは滅多に聴けないサウンドだ。このフェスティバルホールは、巨大な空間のわりには「よく響く」ホールだから、⒗型を得意とする大阪フィルもその威力を存分に発揮できるというものだろう。

 そして今日は、池田香織の歌唱の素晴らしさが際立った。ヘンツェ版「ヴェーゼンドンク歌曲集」での低音域に延びる、豊かでまろやかで深々とした美しさ。彼女はいつからこんな凄味のある低音を響かせるようになったのだろう。私はこのヘンツェ版がこれまであまり好きではなかったのだが、今日の彼女の歌唱と、尾高指揮する大フィルの叙情美に富んだ演奏のおかげで、認識を新たにさせられたという思いだ。
 その彼女が一転して「ブリュンヒルデの自己犠牲」では、ドラマティック・ソプラノとしての声を余すところなく発揮し、ブリュンヒルデの愛を高らかに歌う。大編成の大フィルが轟々と咆哮する中にも、彼女の声は埋もれずに伸びやかに、美しく響く。もちろん尾高のオーケストラの鳴らし方の巧さもあるのだが、既にイゾルデやブリュンヒルデに実績を残している池田カオリンの面目躍如といったところであろう。

 かように演奏会は素晴らしかったのだが、東京への帰りがいけなかった。
 台風のため、豊橋から静岡辺りが豪雨の由で、上りの東海道新幹線は麻痺状態。新大阪17時台後半発の「のぞみ」は客を乗せたまま動かず、数時間経ってやっと発車したものの、京都と米原で1時間ほど停車した挙句、午前1時過ぎに名古屋で運転打ち切り。
 名古屋駅には「休息列車」が用意されていると車内アナウンスがあったが、僅か2本では、それまでに到着していた数本の列車の乗客を含めて収容し切れるはずがない。深夜にもかかわらず、名古屋駅のホームも構内も「難民」で溢れ返ったままである。座る場所もない。見切りをつけ、乗って来た列車が折り返し下りとなるのを利用し、思い切って新大阪へ引き返す。この車内で15分ほど仮眠。新大阪駅ではホームがたくさんあるので、休息列車が3本停まっているのを幸い乗りこむ。それが3時半頃か。

 40分ほど仮眠できたものの、しかし5時には追い出されてしまった。すでに駅構内は難民の渦である。上り新幹線は6時過ぎから運行予定だが、1時間に3~4本、それも正午頃までは名古屋までしか行けぬ、その後は様子見だ、と、混雑の中で駅員が絶叫している。
 これでは運転再開されてもすぐは乗り切れまいと判断、とにかく立ったままでは辛いのと、何とか眠りたいという欲求が先に立って、長蛇の列の窓口に見切りをつけ、タクシーで大阪駅へ引き返し(こちらはガランとして静かだったため、椅子に座って休憩できた)、券売機で6時半大阪始発の金沢行特急サンダーバードと、それに接続する北陸新幹線「かがやき」の切符を同時に買ってしまい(これは成功だった。金沢駅の乗り継ぎ用みどりの窓口は行列だったので)、結局それらを利用して、正午少し過ぎに東京駅へ着いた、という次第であった。

 これが、18時間半を要した帰京の顛末である。トシの哀しさ、睡眠不足で疲労困憊、楽しみにしていたトレヴァー・ピノックと紀尾井ホール室内管弦楽団の演奏会に行けなかったのは痛恨の極みだ。

2022・9・20(火)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 ブラームスの「ドイツ・レクイエム」の前に、ダニエル・シュニーダー(1961~)の「聖ヨハネの黙示録」(2000年作曲)という作品が置かれた。これは日本初演の由。
 声楽陣は2曲共通で、冨平恭平の指揮する新国立劇場合唱団、ファン・スミ(S)、大西宇宙(Br)が協演。コンサートマスターは林悠介。

 「聖ヨハネの黙示録」は、大編成の管弦楽を駆使した30分ほどの長さの曲で、あの7つの封印の書を披くくだりも描かれる。内容に相応しく、頗る激しい、劇的な曲だが、作風としてはむしろトラディショナルな傾向に属するだろう。聴き易い響きではあるけれども、それほど心に響く作品とも思えない。
 2つの宗教曲の対比の面白さを味わわせようという狙いは充分達成されたと思われるが、結局はブラームスの「ドイツ・レクイエム」の圧倒的な深みを際立たせる結果となったか。

 ヴァイグレの指揮する「ドイツ・レクイエム」では、先日の「英雄の生涯」と同じく、オーケストラは柔らかく、豊かな空間的拡がりを感じさせて響く。第2曲と第3曲で多用されるティンパニも、決して闘争的でなく、攻撃的でもなく、静かに「時」を刻んでいるかのよう。遠い世界の果てまで祈りを届かせたいと願うような、温かい演奏の「ドイツ・レクイエム」だった。明確な主張を感じさせる音楽を読響から引き出したヴァイグレ、やはり並みの指揮者ではない。

 今日は、2人の声楽ソリストが素晴らしかった。ファン・スミの清澄な声、大西宇宙の風格ある表現。特に大西の最近の進境は目覚ましいものがあり、ついに大ブレイク、という感であろう。
 なお今回は、2曲とも字幕がついたが、これは大変効果的である。

2022・9・18(日)アジス・ショハキモフ指揮東京交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 東京響の川崎定期。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。
 客演指揮には、また若き俊英が登場した。1988年生れで、ウズベキスタン出身。現在ストラスブール・フィルの音楽監督に在任中で、その他にもテクフェン・フィルハーモニーというオーケストラ(本拠地はトルコ?)の芸術監督をも務めている由である。

 この人も実に勢いのいい演奏をつくる指揮者だ。今日はドビュッシーの「イベリア」と、トマジの「トランペット協奏曲」(ソリストはティーネ・ティング・ヘルセット)、およびプロコフィエフの「交響曲第5番」を指揮した。

 圧巻は、やはり最後の「5番」だったであろう。弦16型大編成の東京響をこれでもかと言わんばかりの大音響で豪快に轟かせ、ワイルドに沸騰させた。その演奏からは、プロコフィエフが社会主義リアリズム時代に作曲したこの交響曲に秘める、若き頃の「アンファン・テリブル」精神を蘇らせ、浮き彫りにしたような印象をすら生むだろう。
 こういう解釈による演奏は、かつてゲルギエフがお家芸としていたものだった。今日のショハキモフの指揮も、その路線を更に華々しく、傍若無人なほどのパワーで発展させたと言っていい。

 第4楽章などは、その最たるものだろう。とりわけこの楽章の終り近く、打物陣を加えた全管弦楽が「こけつまろびつ」終結へ突進して行くくだりでの演奏は、吹き出したくなるほどの猛烈さにあふれていた。なお、その全管弦楽がディミニュエンドして行ったあとに突如出現する奇怪な響き━━第113~119小節2拍目、弦楽器群のソロまたはソリを中心に異様な呟きが繰り広げられる━━が、はっきりと音色を変えて演奏されたのには、わが意を得たりという気がする。

 かように大暴れの演奏で面白く展開されたプロコフィエフに比べると、最初のドビュッシーは、些か詩趣を欠いた演奏の趣があったろう。
 やはり見事だったのは、ノルウェー出身の女性トランペット奏者、ティーネ・ティング・ヘルセットが吹いたアンリ・トマジの協奏曲である。彼女の華麗な、時におそろしく艶美な表情を示す音色が、この曲の演奏ではこれまで聴いたことのないほどの不思議な幻想に誘ってくれた。ソロ・アンコールは、19世紀ノルウェーの作曲家オーレ・ブルの「ラ・メランコリー」という曲の由。

 台風14号接近のため屡々土砂降りにもなる天候だったが、お客さんはそれでも結構来ていた。みなさん熱心である。

2022・9・17(土)佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団

      兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール  3時

 PACのシーズン・オープニング、9月定期。3回公演の今日は中日。ほぼ満席に近い入りと見えた。オペラといい、オーケストラといい、このホールの観客動員力は見上げたものである。
 今月は音楽監督・佐渡裕の指揮で、ハイドンの「交響曲第90番ハ長調」と、ブルックナーの「交響曲第6番イ長調」というプログラムが組まれた。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 ハイドンの「90番」は、整然たるアプローチの演奏。明快ではあるが、もう少し瑞々しい音色や表情があってもいいのではないか、という気もする。
 終楽章最後でハイドンが仕掛けた「イタズラ」の個所では━━いろいろな演出が為されるものだが━━今回の佐渡さんは比較的まじめな手法で、トリックに引っかかった聴衆が拍手しはじめるのをよそに演奏を繰り返す、というやり方を採った(ただし2回繰り返すとは思わなかった)。3度目を振りかけてオーケストラが応じぬため諦めてみせる、というのがオチか。

 一転してブルックナーの「6番」は、ダイナミズムに重点を置いた演奏となった。金管群が少し鋭い音に思えたが、これは1階席中央でなく、上階席で聴けば、もっと音が溶け合って感じられたかもしれない。

 オーケストラをいっぱいに鳴らした豪快な演奏でブルックナーの交響曲は終ったが、そのあとにアンコールとして「すみれの花咲く頃」(宮川彬良編曲)が華やかに開始されたのには肝を潰した。
 ブルックナーの後にアンコール曲、ということすら普通はあまりないのに、まさかショウ・アップされた派手な編曲(佐渡さんのピアニカ演奏込み)でこういう曲をやるとは。しかもコントラバスも「楽器を回す」という演出も入っていたのだから、これほど驚いたことはない。

 だが気がつくと、この曲はそもそも「タカラヅカ」なのであり、此処は阪急電車の西宮北口、つまり宝塚圏内(?)なのだった・・・・。素直な笑いと拍手でそれを受ける聴衆の明るさは、やはり東京の人間から見ると、「関西のノリ」なのではないかという気がする。
 楽屋に佐渡さんを訪ねると、「シーズンのオープニングだし」とのこと。
 とにかく、呆気に取られながらも、他のお客さんたちと同様、こちらも気持が明るくなってホールをあとにすることが出来たのは確かである。

 なお、PACはアカデミー・オーケストラとしての性格を持っていることは周知の通りだが、最近このオーケストラから8人が巣立ち、また新たに16人の奏者が加入した由である。その新メンバーのひとり、オーボエ奏者のホァン・シーイン(台湾出身)が、今日は早くも大活躍していた。

2022・9・16(金)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

      サントリーホール  7時

 首席指揮者アンドレア・バッティストーニが振る東京フィルハーモニー交響楽団の9月サントリーホール定期。リストの「ダンテを読んで」をバッティストーニ自身が管弦楽編曲したものと、マーラーの「交響曲第5番」とがプログラムに組まれた。コンサートマスターは近藤薫。

 この彼の編曲、聴くまでは半信半疑だったが、冒頭の和音の一撃を耳にした途端に、バッティストーニの編曲センスもなかなかたいしたものだ、と感嘆させられた次第である。
 編成はマーラーの「5番」と同じくらい大規模なものだが、楽器の使用の面ではすこぶるバランスが良いために、オーケストラ全体が実に聴き易く響く。原曲の起伏感を巧みに生かしたその編曲はこの上なくド派手だが、そこがいかにも「イタリア人の若者」バッティストーニの面目躍如といったところだろう。
 極度にカラフルな音響の中にも、「地獄篇」のイメージは充分に描き出されていたと思われる。

 後半に置かれたマーラーの「第5交響曲」は、これはもう、良くも悪くもユニークな演奏だ。他に例を見ないテンポの速さ、天衣無縫ともいうべき開放的なダイナミズムにあふれたその演奏の、なんとまあ明るくてエネルギッシュで、しかも賑やかなことか。
 これほどまで躁状態の「5番」を聴いたのは初めてである。マーラーがのちの「第7交響曲」の終楽章で異様な躁状態に陥っていることは周知の通りだが、今回の「5番」は、それを先取りしたような演奏だったと言えよう。大部分のマーラー愛好家からは、これはとんでもない解釈だと言われるかもしれないが、マーラーの性格のある一面からこの交響曲全体を解釈した場合には、このバッティストーニのような演奏もあり得ると考えてもいいのかもしれない。

 今日の東京フィルの巧さは抜群。ホルン群の胸のすくような咆哮、トランペットの鮮やかさ、第4楽章での弦のしっとりとした美しさなど。最近の東京フィルの演奏会の中でも、私の聴いた範囲で言えば、これは傑出した演奏水準にあったと言って過言ではなかろう。

2022・9・16(金)「浜辺のアインシュタイン」リハーサル

      神奈川県民ホール  2時30分

 10月8日と9日に同ホールで上演されるフィリップ・グラスのオペラ「浜辺のアインシュタイン」(指揮・キハラ良尚、演出&振付・平原慎太郎)のリハーサルを覗きに行く。

 リハーサルとは言っても、今日の午後に取材記者たちに公開された部分は、録音音源を使用し、舞台装置も衣装も照明もなしのダンス・リハーサルの一部のみだったので、舞台の全貌は把握し難い。
 だが、この舞台に松雪泰子、田中要次らの俳優陣、中村祥子のダンス、辻彩奈の演奏なども加わるとなれば、すこぶる面白いものになりそうである。とりあえず今日は、久しぶりでフィリップ・グラスの音楽に触れて、あれこれ思い出が蘇った次第。

2022・9・14(水)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 今日は「名曲シリーズ」。レズニチェクの「ドンナ・ディアナ」序曲、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストは辻井伸行)、R・シュトラウスの「英雄の生涯」というプログラム。コンサートマスターは長原幸太。

 ウィーンの作曲家レズニチェクのこの軽快な「ドンナ・ディアナ」序曲は、はるか昔、民放AMラジオが未だ番組のテーマ音楽にクラシック音楽を使っていた頃、何かの番組でよく聴いた記憶がある。それゆえ久しぶりで聴くと、何かノスタルジーを感じ、快い。それに今日のヴァイグレと読響の演奏が、すこぶる勢いがよくて、面白い。細かい音の中に突如賑やかにトランペットが割り込んで来るあたりの呼吸など、洒落ている。

 だがやはり、両者のイキの合った演奏の粋は、「英雄の生涯」にあったろう。
 ヴァイグレが構築したこの「英雄の生涯」は、予想外になだらかで、イン・テンポを基調とした、落ち着いた語り口を示す演奏だった。もちろん「英雄の戦い」が勝利に終った後に「英雄の主題」が堂々と再現する個所などでは、ある程度のテンポの「矯め」も行われるけれども、いろいろなエピソードが殊更に強調されるような演出は聞かれず、全体としてはむしろ音楽が一貫して滔々と流れて行くというタイプの交響詩になっている。
 それに読響の演奏が上手く、響きも濃密なので、まるで分厚いハーモニーの塊が揺れながら大きな起伏をつくりつつ、起承転結の中に進んで行くような印象を受けたのだ。

 そして━━「英雄の伴侶」における長原幸太のヴァイオリン・ソロが、実に嫣然として、噂に聞く作曲者自身の伴侶のイメージを彷彿とさせる見事な演奏だったことを特筆しておきたい。

2022・9・13(火)河村尚子リサイタル シューベルト プロジェクト2

      紀尾井ホール  7時

 大阪でのオーケストラのシューベルトに浸ったあとで、今度はピアノのシューベルト。
 ピアノ・ソナタの「第20番イ長調」と「第21番変ロ長調」を第1部と第2部のそれぞれ核に据え、「第20番」の前には「楽興の時第3番」と「3つの小品」第3曲を置き、第2部の「第21番」の前には「即興曲Op.90-3」を置く、という重量感たっぷりのプログラムだ。

 彼女の「シューベルト・プロジェクト」は、先日の第1回(☞2022年3月24日)に続くもの。あの時に感じた快い驚きのようなものを、今回もまた味わうことができた。
 聴くたびにスケールの大きさと風格が増している彼女の演奏は、今日のベーゼンドルファー「280VC」の雄大かつ高貴な響きの中で、いっそう強い説得力を増していたように感じられる。

 変幻自在のアゴーギクを多用しながら、決して恣意的なものに陥らず、むしろシューベルトのソナタが秘めている激しい感情の起伏を明確に浮き彫りにするという━━現代の優れたピアニストが備えている美点を、彼女も既に易々と手にしているのである。(こういう演奏は、嬉しいことに、昔よくあったトロトロと眠気を催させるタイプのものとは大違いで、長大な「変ロ長調ソナタ」にも明確な形式感を与え、決して長さを感じさせないだろう)。
 アンコールでは「楽興の時」からさらに2曲が弾かれた。

 河村尚子の人気を反映して、紀尾井ホールはほぼ満席の盛況を呈していた。

2022・9・12(月)山田和樹と大阪4オケのシューベルト第4日

      住友生命いずみホール  7時

 午後の新幹線で再び大阪へ。山田和樹と大阪4オケによるシューベルトの交響曲全曲連続演奏シリーズ、その最終回を聴く。
 今日は大阪フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスター・崔文洙)の出演で、「ヴァイオリンのための小協奏曲ニ長調D345」と、「交響曲第8番ハ長調《ザ・グレート》」が、間に休憩を入れずに演奏された。

 全4回のこのシリーズを聴き終ってみると、山田和樹がシューベルトの交響曲全8曲のそれぞれの性格を実に巧く描き分けて指揮していたこと、そしてそれらの性格の変化を、4つの異なったオーケストラを指揮しながらも一貫した流れを以って形づくっていたこと、更にそれぞれのオーケストラの性格を、可能な限り作品の性格に合わせて生かしていたことを、改めて明確に感じ取ることができる。見事な手腕である。

 事実、今日の「ザ・グレート」の演奏では、大阪フィルの持ち前のパワーが存分に生かされていた。このいずみホールの空間には入りきらない、むしろあの大きなフェスティバルホールの方が相応しかったろう、と思えるほどの大音響がしばしば轟いた。
 いくら何でも鳴らし過ぎではないのかな、と思う一方、いやホールの大きさに合わせて作品の身の丈を変えてしまっては作品に対する裏切りになるだろう、などと考え直したりする。結局、シューベルトがこの最後の交響曲に至って、それまでとは全く異なった別の世界へ突き抜けて行ってしまったのだ、という解釈で自ら納得することになる。

 大阪フィルは、今日はホルンも含めてやや荒っぽい演奏だったが、それがまたシューベルトがこの曲で、まるでベートーヴェン的な、野人的な性格を帯びて行ったようにも解釈できるのだ。

 こういうシンフォニーゆえに、山田和樹の煽りの指揮は、今日はいっそう凄まじい。第1楽章主題提示部の最後の個所、同楽章終結部での追い込みの個所など、微苦笑を誘われるほどだ。全曲最後の大クライマックスでも予想通り。最後の3小節における2分音符ではティンパニもクレッシェンドして結びの4分音符を叩きつける、という大暴れぶりで、その残響も消えぬうちに客席から猛烈な拍手が沸き上がるという状況をも惹き起す。

 第4楽章の反復された提示部の第2主題の個所では、山田和樹が演奏をオーケストラに任せ、指揮台から降りて踊っているという光景も出現。オーケストラは、リズミカルに主題を奏し続けていた。ご本人はあとで「あれはラザレフの真似をしただけですよ」と笑っていたが、すこぶるいい雰囲気である。

 大阪フィルも、崔文洙コンマスが椅子から腰を浮かせて熱演するたびにオケ全体が咆哮するといった具合の迫力。第4楽章展開部に入って間もなく、第434小節以降の弦がトレモロでクレッシェンドを重ねて行く個所で聴かれた、単なる音量だけではなく、音楽の質量がみるみる沸き立って行った演奏は、山田和樹のリードともに、すこぶる印象的なものがあった。

 最初に演奏された「小協奏曲」は、何となく前座的なイメージになってしまっていたが、こちらは「いつものシューベルト」であろう。「ザ・グレート」との信じられぬほどの落差を印象づける点でも、この選曲配置は意味深いと言えたかもしれない。小林美樹の爽やかなソロと、大阪フィルの柔らかな弦の音色とが、「昔ながらのシューベルト」の良さを感じさせてくれた。

2022・9・11(日)オッコ・カム指揮札幌交響楽団

       札幌コンサートホールkitara  1時

 前夜のみ伊丹の大阪空港ホテルに宿泊して朝8時半のANAで発ち、10時20分に新千歳空港着。kitaraのレストランで一休みしてから演奏会を聴くのにはちょうどいいスケジュールだろう。
 札幌の空気は爽やかで別世界の如く、それまでかなり強く感じていた疲れが、ホールのある中島公園に足を踏み入れた途端に跡形もなく吹き飛ぶ、という不思議な効果を生む。

 今日は懐かしやオッコ・カムが客演、シベリウスの「大洋の女神」、「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは三浦文彰)、「レンミンカイネン組曲(4つの伝説曲)」を指揮するというプログラムだ。北の澄んだ空気の中で好きなシベリウスを、それもフィンランド人の指揮による札響の演奏で「レンミンカイネン」を聴くとなれば、悪かろうはずはない。

 オッコ・カムの指揮は、50年ほど前には盛んにレコードで聴いたし、70年代半ばには新日本フィルに客演した際の演奏を収録して放送したりしたこともあるが、その当時の彼の指揮と今回の札響客演での指揮とは━━具体的に細かい例を挙げられるところまでは整理できていないのだが━━随分変わったな、という印象を得る。
 ただ、当時から彼の指揮の特徴の一つだった「持って行き方の巧さ」は、今なお健在のようだ。

 今日の札響(コンサートマスター・田島高宏)との演奏でも、冒頭の「大洋の女神」の中ほどに出現するシベリウス独特の怖ろしい勢いで押して行くクレッシェンドの扱いの巧さなど、その好例ではなかろうか。それは組曲における「レンミンカイネンとサーリの乙女たち」と、「トゥオネラのレンミンカイネン」(今日は第2曲に置かれた)でも同様で、しかもそれらのクレッシェンドの個所における札響のパワーの目覚しさもまた、暗く陰翳豊かな音色の見事さとともに、印象深いものがあった。

 そう言えば、今日のシベリウスの作品では、札響の演奏がすべて━━いつもの2階正面最前列で聴いたので比較できると思うが━━荒々しく硬い厳しい音色でありながらも、底知れぬ大海を、あるいは不気味な深淵、神秘的な空間、といったものを連想させる響きに満ちていたことも特筆しておかなければならない。
 これはもちろん、カムの指揮に応じての演奏だろうし、札響の柔軟性を示すものであろうかと思う。札響は、以前の尾高忠明音楽監督の時代と比べ、アンサンブルの緻密さを失って来たような印象も受け、今日の演奏にも少々「粗っぽい」ところもあったような気もするが、それはまた別の話としよう。

 「ヴァイオリン協奏曲」では、三浦文彰がいつものように若々しい力と挑戦的な気魄を溢れさせたソロを披露した。ただ、カムと札響が目指した今日のシベリウスの世界とは、少しく性格の違いを感じさせたことは事実だが━━この辺は、三浦の音楽に更なる幅広さが加わって来るのを待つしかあるまい。
 ソロ・アンコールで弾いたヴュータンの「アメリカの思い出~ヤンキー・ドゥードゥル」(彼はこれを先日のフェスタミューザ川崎でのアンコールでも弾いた)での、屈託なく笑い、躍動する演奏こそは、彼の身上であろう。

 終演後、館内レストランで北海道新聞系の方たちとの愉しい歓談の時を得た後、18時30分のANAでいったん東京に戻る。

2022・9・10(土)山田和樹と大阪4オケのシューベルト第3日

     住友生命いずみホール  4時

 第3日は日本センチュリー交響楽団(コンサートマスター・松浦奈々)の登場。第1部に「アルフォンゾとエストレッラ」序曲と「交響曲第3番」、第2部に「イタリア風序曲」と「交響曲第5番」というプログラムが組まれた。

 入れ替わりつつ順に登場する大阪4オケだが、やはり対抗意識、競争意識の表れか、ここまで登場した3楽団、いずれも演奏に並々ならぬ気魄が感じられて面白い。昨日の大阪響も壮烈だったが、今日の日本センチュリー響も素晴らしい。
 特に2曲のシンフォニーは充実した演奏というべく、勢いと美しさに於いて傑出していた。

 「3番」も、第2楽章の中間部の愛らしさ(木管がもう少し明確に響いていれば、そのハーモニーの瞬間的な美しさがいっそう浮き彫りになったかもしれない)、第4楽章の飛び行くエネルギー感など、極めて快いものがあった。この第4楽章は、演奏によっては勢いがいいだけの、単なる飛ばし屋のような音楽になってしまうことも多いのだが、今回の山田和樹と日本センチュリー響は、すこぶる均衡豊かな温かい音色で、最後まで瑞々しい「歌」を失わぬ演奏をつくり上げてくれた。

 さらに感嘆させられたのは、「5番」での演奏である。私は以前からこの曲が━━その美しいことは充分理解しながらも━━何となく苦手なのだが、それはおそらく大多数の演奏があまりに明晰で透明で、屡々冷徹な「白色系」の音楽に感じられてしまっていた所為かもしれない。だが今日の演奏におけるような、弦の響きのすこぶる温かい「暖色系」の音楽として再現されたこの「変ロ長調交響曲」を聴くと、我が意を得たり、という気になる。
 日本センチュリー響の演奏もさることながら、山田和樹の創る音楽の「温かさ」を、ここでもまた認識させられる結果となった。

 これらに組み合わされた2つの序曲は、ナマではなかなか聴けない曲だけに、貴重なプログラミングと言えただろう。「イタリア風序曲」は、最初と最後があの「ロザムンデ」序曲」(「魔法の竪琴」序曲)とほぼ同じ旋律━━ほんのちょっとフシを変えているところが笑える━━のものだ。

 これで、残るは来週月曜日の第4回、大阪フィルとの「ザ・グレート」となる。その間、1日空くのを利用して、札幌へ飛び、オッコ・カムと札響が演奏するシベリウスを聴こうと思っている。

2022・9・9(金)山田和樹と大阪4オケのシューベルト第2日

        住友生命いずみホール  7時

 第2日は大阪交響楽団(コンサートマスター・森下幸路)が登場。交響曲の「第2番」「第6番」「第4番《悲劇的》」を配列した、重量感たっぷりのプログラムである。

 昨日の関西フィルは弦10型だったが、今日の大阪響は8型である。だがその音の厚みと豊かさには感嘆した。アンサンブルも濃密で、弦と木管のバランスなど見事なこと。私が最近聴いた大阪響の演奏の中でも、これはべストに属するものではないかという気がする。そういう演奏を引き出した山田和樹の手腕も、やはり卓越したものだ。

 「第2番」の冒頭から、私も好きな所謂「アナログ的な響き」━━それは多分マエストロの本領でもあるようだが━━の重厚かつ壮大な趣きの演奏に心を打たれる。
 「第1番」からこの「第2番」へのシューベルトの作風の飛躍ともいうべきものを、これだけ明確に感じさせた演奏も、そう多くはないだろう。先輩作曲家たちの音楽をパロディ化してシューベルト風にしたり、とりわけ終楽章では展開部に野性的な曲想を入れたり━━例の「僕は泣いちっち」そっくりのフシが繰り返されるくだりである━━と、かなり「大暴れ」するこの面白いシンフォニーを、山田和樹は曲想に相応しく、ダイナミックに構築していた。

 一転して「第6番」での演奏の落ち着いた明るさもいい。第4楽章でのイタリアのオペラ・ブッファにでも出て来そうな主題が軽やかに、しかし端整に弾んで行く呼吸もなかなか巧かった。終結に向かって猛然と煽って行く盛り上げの巧さは山田和樹ならではのもので、これが「ハ長調交響曲」として「ザ・グレート」との共通点を持つ作品であることを証明した演奏となっていたことは言うまでもない。

 そして、今夜のプログラムの中でも、私が最も感嘆したのは、休憩後に組まれていた「4番」における演奏だ。第2楽章がこれほど甘美に、豊麗に歌われた演奏を私は他に知らない。両端楽章でのふくよかでしなやかな叙情も印象的で、そこには「悲劇的」な性格はほとんど感じられなかったが━━その点については意見も分かれるかもしれない━━しかし山田和樹と大響がそこでつくり出したあたたかい美しさは、まさに見事なものだった。私がこれまで聴いた「第4番」の中でも、これはとりわけ個性的な主張に富んだ演奏ではなかったか、と思う。
 充実した演奏会だった。

2022・9・8(木)山田和樹と大阪4オケのシューベルト第1日

       住友生命いずみホール  7時

 山田和樹がシューベルトの交響曲ツィクルス(全4回)を、大阪の4つのオーケストラを振り分けて行なう、という猛烈なシリーズが始まった。

 これはいずみホールの堀朋平・音楽アドバイザーの発案なのだそうだが、連日(8、9、10、12日)のツィクルスに4つのオケを出演させ、それを1人の指揮者が滞日期間の短い中で(つまりリハーサル時間も短いことになるが・・・・)指揮する、というのが凄い。プログラム冊子に掲載されている堀アドバイザーの曲目解説も、シューベルトを愛する研究家らしく、主観が出ていて面白い。

 今日はその初日。関西フィルハーモニー管弦楽団が出演し、「交響曲第1番」と「第7番《未完成》」、その間にニューボルド補完の「交響曲ホ長調断章D729」第1楽章(これは日本初演の由)が挟み込まれるプログラムだった。最後のアンコールには「《ロザムンデ》間奏曲第2番」が演奏された。コンサートマスターは木村悦子。

 シューベルトの交響曲ツィクルスと言えば、過去の直近ではスダーン指揮の東京響(☞2008年5月17日2009年3月21日)が思い出されるだろう。あの時の演奏は古典派的で端整な、しかも厳しい造形で構築された稀代の名演だったが、今回の山田和樹の創るシューベルトは、もちろんそれとは全く異なったスタイルのものである。
 と言ってそれがロマン派的な世界に軸足を置いたものかということになると、そういう表現だけでは片づけられないような気もするのだが、このへんは巧い言葉が見つからない。

 いずれにせよ、今日の「第1交響曲」の演奏からは、古典派音楽的な端整さからは解放された、自由で、友人たちに語りかけるような━━つまり所謂シューベルティアーデ的な━━感性が聴き取れたのだった。
 しかし一方、「未完成交響曲」になると、山田和樹の指揮からは、もっと壮大で重厚で、突き詰めたような感情のようなものが伝わって来る。その最も象徴的な個所は、第1楽章の展開部に入って間もなく出現するクレッシェンドではなかろうか。ここで山田和樹が関西フィルから引き出したクレッシェンドと最強奏は、凄絶で神秘的で、恐怖感さえ惹き起す類のものに感じられたのである。

 こういうタイプの演奏は、やはりシューベルトのロマン派的性格を強く打ち出したもので、最近のトレンドとなっているような演奏とは違い、もっと情の濃い(?)音楽と言えるような気がするのだが。
 余談だが、私は彼の今日の演奏を聴きながら、彼の指揮を初めて聴いた時(☞2010年8月23日)の、サイトウ・キネン・オーケストラとのベートーヴェンの「第7交響曲」の演奏における、その予想外の「反時代的」なスタイルに肝を潰したことを思い出した。やはり彼の音楽は、こういうスタイル━━誤解を恐れずに雑な言葉で言えば「アーノンクールよさようなら」━━なのだ、という気も。

 第2楽章の終結は、彼岸の彼方へ消えて行く音楽、ではなくて、温かい幸福感に浸りつつ終る、という雰囲気の演奏だ。また「1番」の全曲の最後を、これだけ猛烈に煽った演奏は滅多に聴けない類のものだろう。この辺りの手法も、いかにも山田和樹らしくて面白い。

 「断章」は、シューベルトのオリジナルだという最初の部分と、ニューボルドの補訂だという後半の部分との作曲手法の違いがあまりに大きすぎるように思われるのだが、如何なものか。ただ、このニューボルド補訂部分になってからの関西フィルの演奏が、「1番」の軽快な曲想における演奏とはガラリと違い、引き締まって緻密で、見事なシンフォニックな響きと化したのには驚いた。やはり「未完成」での演奏も含めて、シリアスな性格の演奏の方がこのオケには合っているのかもしれない。
 アンコールでの美しい「ロザムンデ」。今日の「未完成」の演奏の後の曲として、実によくそれに合った。

 このツィクルスは、9日に大阪響との2、4、6番、10日に日本センチュリー響との3、5番、12日に大阪フィルとの「ザ・グレイト」と続く。10日と12日のプログラムには序曲や小協奏曲なども追加されている。

2022・9・6(火)東京二期会「蝶々夫人」ゲネプロ

     新国立劇場  3時

 8日から4日間連続、ダブルキャストで公演が行われるプッチーニの「蝶々夫人」のゲネプロ(総練習)の第1幕を観る。

 東京二期会は、前回は宮本亜門の傑作なタイム・スリップ演出(☞2019年10月3日)を上演していたが、今回は伝統的スタイルの栗山昌良演出版を取り上げた。これはいわば「定番プロダクション」で、私も以前に観たことがある(☞2014年4月23日、☞2017年10月9日)。おそらくこれは、最も日本的な美しさを表出した舞台(石黒紀夫の美術)であり、栗山演出の傑作と言ってよいものであろう。

 今回は、アンドレア・バッティストーニが、2019年のそれに続いて指揮している。かなり歯切れのいい指揮で、プッチーニの音楽の劇的な要素を浮き彫りにする演奏になるのでは。

2022・9・3(土)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  2時

 日本フィルの秋のシーズン開幕定期恒例の山田和樹の指揮。
 この8月で彼は10年にわたった正指揮者のポストから退いたが、なんせ来年4月からはバーミンガム市響首席指揮者に就任するとあっては、少しは仕事も整理しなくてはならないだろう。

 今日は、貴志康一の「ヴァイオリン協奏曲」と、ウォルトンの「交響曲第1番」というプログラム。実に興味深い、意欲的な曲目を組んだものだ。
 前者は1930年代前半に日本で書かれたものだが、日本の民族音楽と欧州の伝統的なシリアス音楽の手法を実に巧く合体させ、緻密な構築を成し遂げている。あの時代の人はやはり偉かった、とつくづく思う。今回は山田和樹がオーケストラをかなり華麗に鳴らすので、この曲の闊達な良さが、おそらく初演当時よりも明確に聴き手に伝わったのではなかろうか。

 わが国作曲界の大先達たちの優れた作品をこうして再演し、現代の聴衆にもその良さを知らせるというのは極めて意義深いことであり、この選曲姿勢を高く評価したいところだ。そして今回は、日本フィルのソロ・コンサートマスターである田野倉雅秋が、見事なソリストを務めた。コンサートマスターは客演の鎌田泉。

 第2部でのウォルトンの「交響曲第1番変ロ短調」では、その田野倉雅秋がコンサートマスターに復帰して演奏するというエネルギッシュな活躍を見せた。
 そもそもこの曲からして、相当エネルギッシュで、ヴォルテージの高い交響曲なのである。以前━━2014年11月にこの曲をマーティン・ブラビンズが指揮する東京都響の演奏で聴いた時よりも、今回の方がより華麗な響きに聞こえたのだが‥‥。

 山田和樹は前述の如くバーミンガム市響のシェフになるからには、今後英国のレパートリーにも力を入れるのだろうか? 終演後の楽屋に彼を訪ねてそれを質問すると、「少しずつやって行くつもり」とのこと。

2022・9・2(金)高関健指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 エルガーの「ヴァイオリン協奏曲ロ短調」と、シベリウスの「交響曲第4番」とが組まれたシティ・フィルの9月定期。
 協奏曲でのソリストは竹澤恭子で、彼女はアンコールとしてオケと一緒にエルガーの「愛の挨拶」を演奏した。コンサートマスターは、特別客演の荒井英治。

 竹澤恭子がエルガーのコンチェルトを弾くのを聴いたのは11年ぶりになるが、あの時は協演の某オーケストラが「東日本大震災に鑑みて演奏会を自粛する」などという愚行をやった後だったので、アンサンブルも荒れ気味だったため、彼女もやり難かったかもしれない。
 しかし、今回は好調の高関とシティ・フィルが相手となれば、本領発揮の演奏だったであろう。50分以上に及ぶ長丁場をほとんど弾きっぱなしというエネルギーを要求されるこのヴァイオリン協奏曲を、彼女は一瞬たりとも緊張感を失わずに、情熱的に演奏してくれた。

 演奏会の第2部が、一転して暗いシベリウスの「第4交響曲」となるプログラムの対比は面白い。
 この「4番」は、彼の交響曲のおそらく最高傑作だろうし、彼の交響曲に熱中した聴き手が最後に安住の地を見つけるとすれば、それがこの「4番」ではなかろうか、と私は勝手に考えているのだが━━実際、この曲の沈潜した感情は物凄い。特に第3楽章は、聴いていて底知れぬ恐ろしさを感じるほどである。
 だがそれだけに、例えば第1楽章など、指揮者があまりに細部にこだわり過ぎると、聴き手はかえって全体像を掴み難くなる傾向があるもので‥‥。

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