2024-04

2022年10月 の記事一覧




2022・10・30(日)ヘンデル:「シッラ」

    神奈川県立音楽堂  3時

 神奈川県立音楽堂が開催している「音楽堂室内オペラ・プロジェクト」の第5弾、ヘンデルのオペラ「シッラ」(全3幕)を観る。当初2020年3月に上演が予定されていながら、新型コロナ蔓延に入った時期だったため、延期されていたもの。

 演奏は、人気のファビオ・ビオンディ(指揮、vn、音楽監督)とエウローパ・ガランテ。
 配役は、ソニア・プリナ(シッラ)、スンヘ・イム(その妻メテッラ)、ヒラリー・サマーズ(ローマの騎士)、ヴィヴィカ・ジュノー(ローマの護民官レピド)、ロベルタ・インヴェルニッツィ(その妻フラヴィア)、フランチェスカ・ロンバルディ・マッズーリ(シッラの副官の娘)、ミヒャエル・ボルス(神)。その他、黙役の助演に神谷真士、片岡千次郎、亀山敬佑、桧山宏子、板津由佳が出ている。演出は、弥勒忠史が受け持った。

 シッラとは、古代ローマに実在した独裁者の執政官とのこと。オペラは専ら彼の好色の暴虐ぶりを描くというストーリーだが、最後は改心して辞任するというハッピーエンドになる。その改心のきっかけは「神の一喝」によるというから、その辺が如何にもバロック・オペラらしい唐突さというべきか。
 全3幕で、上演時間は40分・40分・35分という、ヘンデルのオペラにしては(?)比較的短い(ので有難い?)。ビオンディは、この作品は「ジュリオ・チェーザレ」よりも優れていると語っていたそうで、それは本気が冗談か判らないが、一理あるような気がする。音楽の流れが、実にいいのである。

 演奏の素晴らしさは、今更改めて言うまでもない。ビオンディの詩的な生き生きとした演奏構築をはじめ、歌手陣が見事の一語に尽きる。どの歌も胸のすくような伸びやかさで進んで行く。こういう演奏でバロック・オペラを体験できるというのは、何と幸せなことか。

 今回の弥勒忠史の演出は、以前の能舞台をイメージとした「メッセニアの神託」(☞2015年3月1日)に続き、今度は歌舞伎のイメージを取り入れた舞台づくりとなった。移動する赤い鳥居のような門をベースとした簡素な舞台装置ながら、雄弁な雰囲気を醸し出す。ただし、登場人物の演技や衣装(友好まり子)は、古来の歌舞伎スタイルとは些か異なる類のものである。
 こういう手法には、オペラ演出に新鮮な感覚をもたらす手段の一つとして、かつ日本発のオペラ演出として、大いなる賛意を表したい。

2022・10・29(土)沼尻竜典指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団

     横浜みなとみらいホール 大ホール  3時

 昨夜は大阪駅構内のホテルグランヴィア大阪に投宿、今日は10時57分発の「のぞみ」に乗り、新横浜と菊名経由でみなとみらい駅へ直行。横浜みなとみらいホールのリニューアルオープン記念公演を聴く。

 地元のオーケストラたる神奈川フィルが、音楽監督・沼尻竜典の指揮で、最初にヤン・ヴァンデルローストの短い祝典曲「横浜音祭りファンファーレ」(2013年)を演奏したあと、三善晃の「管弦楽のための交響詩《連禱富士》」と、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」を演奏した。
 ハマのホールだからと言って、「海」の音楽でなく、「山」の音楽を集めたところが凝っているというか。

 前日に貴志康一の「仏陀」を聴いて、その第1楽章冒頭個所がR・シュトラウスの「アルプス交響曲」をモデルにした造りで、しかもその開始モティーフのリズムがブルックナーの「第4交響曲」冒頭の主題と同じであることに触れたばかりだが、今日その「アルプス交響曲」を聴いている時に、そもそも「アルプス交響曲」冒頭の「山の動機」のリズムそのものからして、ブルックナーの「4番」冒頭のそれと全く同じではないか━━ということに思い当たった。何十年もこの曲を聴いていて、今頃そんなことに気がつくとは、われながら迂闊だった。
 R・シュトラウスがブルックナーに敬意を表したのかどうかはともかくとして、もしや貴志康一は、自作の「仏陀」の冒頭でそれを皮肉ったのか? 真偽は不明だが、もしかりにそうだとしたら、私は認識を改めなくてはなるまい。

 それはともかく、沼尻指揮する神奈川フィルの「アルプス交響曲」は、リニューアル・オープニング行事に相応しい快演だった。特に後半、「嵐」の部分以降、日没から夜に至る個所での演奏は宏大な広がりを感じさせ、出色のものがあった。新音楽監督・沼尻竜典のもとで神奈川フィルも大幅に変貌して行くことは当然予想されることだが、今日のこの演奏を聴くと、確かに期待充分と言えるような気がする。

 リニューアルの結果、ホールのアコースティックが以前と変わったのかどうかは、今日の演奏を聴いただけでは判然とし難い。1階23列あたりで演奏を聴くと、他のホールに比べてオーケストラが相変わらず遠くに聞こえるな、という印象は拭えないけれど、神奈川フィルが昔より遥かによく「鳴る」オーケストラになった、ということは確かなようである。

2022・10・28(金)藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団

     シンフォニーホール  7時

 常任指揮者・藤岡幸夫が指揮する関西フィル10月定期は、木島由美子の「Pleuvoir~あめふり」、伊福部昭の「ヴァイオリン協奏曲第2番」(ソリストは神尾真由子)、貴志康一の交響曲「仏陀」という、すこぶる意欲的なプログラム。コンサートマスターは赤松由夏。

 木島由美子の作品は、昨年の山形交響楽団の東京公演で「風薫~山寺にて」という新作を聴いたことがあるが、今日の「Pleuvoir~あめふり」は遥か前、2003年の作品の由。特に雨の描写があるわけではなく、題名を聞かぬ限り雨との関連も感じられないので、一種の個人的な心象風景か何かなのだろうな、と思って聴いていた。叙情的な、優しい曲である。

 伊福部昭のコンチェルトは、1978年の作品。所謂「伊福部節」はそれほど出て来ないけれども、冒頭から続くヴァイオリンの長いカデンツァ風のソロの中に、次第に舞曲風の音楽が形を整えて来るあたりは、なかなか巧みな手法である。
 全曲にわたりソロ・ヴァイオリンの独り舞台ともいうべく、オーケストラはむしろ控えめなので、両者の合体による解決点がなかなか見えてこないという印象を受ける構成だが、そのソロを弾いた神尾真由子の演奏が聴きものだった。オーケストラの日本的な素朴さの上に、濃厚な色合いと強烈な表情を持ったヴァイオリンのソロが異国的な情熱で縦横無尽に乱舞するという感だ。
 神尾の衣装もすこぶる華麗だったが、演奏はそれ以上に華麗だった。これはもう、神尾の独り舞台と言ったところであろう。

 注目の貴志康一の交響曲「仏陀」(Symphony《Buddha》)は、貴志自身の指揮により1934年11月にベルリンで初演されたもの。初演時のドイツ語タイトルは「Symphonie《Das Leben Buddhas》(仏陀の生涯)だった由である。
 日本ではやっと1984年9月13日に初演の運びとなったが、その時の演奏が小松一彦の指揮する関西フィルだった。それ以降には東京都響や大阪フィル、京都フィロムジカ管、芦屋響などが取り上げているというデータがあるが、今回は関西フィルが「日本初演の立役者」を標榜して演奏したわけである。

 曲は4楽章からなり、演奏時間およそ46分という長大な交響曲。第1楽章だけで今日は18分かかった。
 第1楽章冒頭と第4楽章終結はR・シュトラウスの「アルプス交響曲」を思わせるが、そのモティーフは、ブルックナーの「第4交響曲」第1楽章第1主題と同じリズムを持っている。いや、曲全体がブルックナーの交響曲をモデルにした趣があるだろう。第2楽章にも多少その雰囲気があるし、第4楽章最後の浄化されたような、安息に満ちた終結などは、明らかにブルックナーの「7番」第2楽章の終結や、「9番」第3楽章の終結をモデルにしていることが聞き取れよう。

 こういう傾向は、作品が書かれた時代を考えればある程度は仕方がないとも言えようが、それにしても当時の日本の作曲家たち━━例えば山田耕筰にしても同様だが━━が、それら欧州の先人作曲家の作品にこうも倣わなければならぬ風潮にあったのかと、ちょっと複雑な気持になる。単なる「先輩たちへのオマージュ」で済まされる類のものではあるまい。
 第1楽章結尾がチャイコフスキーの「悲愴交響曲」第1楽章のそれとよく似ていたり、また第3楽章のスケルツォ主題がデュカの「魔法使いの弟子」のあからさまな引用だったり・・・・日本人作曲家のこういう作曲手法を、当時のベルリンの聴衆や批評家たちは、どう受け取ったのだろうか?

 「仏陀」というタイトルの標題音楽的なコンセプトは━━それについてはいろいろ解説があるようだが━━実際に音で聴いた範囲では、具体的には掴み難い。第3楽章で「魔法使いの弟子」に似た曲想が鳴り響く中に、ウッドブロックが木魚を叩くようなリズムで加わって来る個所などは、貴志のジョーク精神の為せる業だったのだろうか?

 藤岡幸夫の神経を行き届かせた指揮のもと、関西フィルが好演した。コンサートマスターとヴィオラの首席奏者の活躍を称賛しよう。意欲的で、いい演奏会だった。

2022・10・25(火)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 ドビュッシーの「遊戯」の後に一柳慧の「ヴァイオリンと三味線のための二重協奏曲」(ソリストは成田達輝と本條秀慈郎)を置き、更にドビュッシーの「イベリア」のあとにヴァレーズの「アルカナ」を置くという、実にユニークなプログラミングが行われた10月定期だった。コンサートマスターは長原幸太。

 さすがフランスの指揮者、と感服させられたのは、ドビュッシーの2つの作品におけるカンブルランの指揮だ。「遊戯」は開演早々、ということもあって、少し落ち着かぬ雰囲気もあったかもしれないが、「イベリア」の方は、読響の腕の良さとも相俟って、実に多様な色彩にあふれた演奏になった。これは、カンブルランが常任指揮者就任直前に横浜で読響を指揮した時(☞2009年4月19日)の、ラヴェルの「クープランの墓」の演奏に並ぶものかもしれない。

 そして最後のエドガー・ヴァレーズの「アルカナ」も、これまた読響の馬力の凄まじさのおかげで、さながらティラノサウルス・レックスが大暴れしているかのような猛烈な演奏となった。私はこの曲、ナマ演奏で聴くのはメッツマッハ―と新日本フィルの演奏(☞2015年4月17日)以来になるが、いつ聴いても物凄い曲である(追記:2018年12月15日にノット指揮東京交響楽団の演奏も聴いていたことをあとから思い出した)。
 冒頭の音型が「火の鳥」の「魔王カッシェイの凶悪な踊り」にそっくりだということは以前から承知していたけれども、今日この曲を聴いていて、あの映画「ジュラシック・パーク」の中で、T.レックスがジープを追って驀進して来るシーンの音楽は、ジョン・ウィリアムズが実はこの「アルカナ」の冒頭をパクったものかもしれないな、などと思った次第だ。

 2曲目に置かれた一柳慧の「三味線とヴァイオリンのための二重協奏曲」は、これが世界初演だったが、はからずも氏の(10月7日逝去)追悼演奏を兼ねることになってしまった。演奏開始前に指揮者・ソリスト・オーケストラが黙禱を捧げるというセレモニーも行われる。

 作品の方は、何といっても三味線と洋楽器━━特にソロ・ヴァイオリンとが、互いを殺し合うことなくどのように対話をするのか、抱擁し合うのか、といった点に興味をそそられていたのだが、端的に言えば、全曲の終結部でこの2つのソロ楽器が見事に口調と歩調をあわせてしまうという、信じられないような手法が採られていたのに仰天させられた、というわけである。
 しかもその音楽が、それぞれの楽器が本来屡々やるような固有のスタイルに基づくものだったというのは、一種の「コロンブスの卵」的な発想でもあり、一柳氏も見事な所に目をつけたものだ、と改めて舌を巻いたのも事実だった(プログラム冊子でも沼野雄司さんが「この感動的な終結部こそ、この作曲家がたどり着いた結論」と指摘している)。

2022・10・24(月)準・メルクル指揮東京都交響楽団

       東京文化会館大ホール  7時

 準・メルクルが久しぶりに来日した。二期会の「ローエングリン」や、広響で細川俊夫の「瞑想」を彼が指揮したのを聴いたのは僅か4年前のことだが、随分年月が経ったような気がする。
 今回の都響への客演では、細川俊夫の「オーケストラのための《渦》」、プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは五明佳廉)、ムソルグスキー~ラヴェルの「展覧会の絵」を指揮した。コンサートマスターは矢部達哉。

 このプログラムの中では、私は何といっても細川俊夫の作品に興味が湧く。
 ステージの下手側と上手側に分けられた弦楽器および打楽器群と、中央奥に配置されている管楽器群、それに左右の2階席前方に配置された金管(各2本)の音の交錯━━作曲者はそれを「音の渦巻き」と謂う━━が快い。
 但し、それを体験できるのは客席の限られた一部分かもしれない。幸いに私の席は1階席19列だったから、その恩恵に与ることはできたが‥‥。

 静けさの裡に始まり、静けさの裡に終って行く構築は細川俊夫のいつもの手法だが、25分ほどの長さの曲の後半に置かれた昂揚個所は、彼のオーケストラ作品の中では、今回はかなり激しいものに感じられた。全体に今回の作品は、彼の作品としては些かラフで荒々しいものに思えたのだが━━これは演奏に原因があったのかもしれない。

 プロコフィエフのコンチェルトでは、五明佳廉の濃く美しい音色が、この曲を不思議に洗練された作品に感じさせてくれた。ソロ・アンコール曲は私も初めて聴く曲だが、これはサミュエル・アダムズの「ヴァイオリンディプティック」という作品の由。
 後半の「展覧会の絵」は、かなり力の入った演奏だったが、私はこの曲、どうしようもないほど苦手なので‥‥。

2022・10・23(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      サントリーホール  2時

 これも定期演奏会。シェーンベルクの「5つの管弦楽曲」、ウェーベルンの「パッサカリア」、ブルックナーの「交響曲第2番」というプログラムだった。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 先日のショスタコーヴィチといい、今日の独墺系の作品といい、その演奏を聴くと、音楽監督ジョナサン・ノットと東京交響楽団とは、現在極めて良い状態にあると思われる。
 その一例はアンサンブルのバランスの良さと緻密さ。それが端的に表れるのは、たとえばブルックナーの「2番」の第4楽章大詰めの個所だ。全管楽器がフォルテ3つの最強奏で同じリズムを果てしなく轟かせ、弦もまたほとんどユニゾン状態でひたすら突進するという、ブルックナー・マニアにとってはおなじみのエクスタシー・サウンドの個所だが、そこでの東京響の高揚した演奏は、強靭さの中にもふくよかさを感じさせて、何とも心憎い出来だった。

 ノットは、この「2番」では第2楽章にスケルツォを置いた稿を使い、また1872年版と1877年版とを彼独自の考えに基づき折衷させるという方法を採っていた。この折衷方式は多かれ少なかれハース校訂版にも見られるが、それはそれで面白い。

 第1部で演奏されたシェーンベルクとウェーベルンの作品でも、ノットと東京響の演奏には、もはや作品の書かれた時期をあれこれ意識しながら聴く必要がないという快さ(?)が感じられるだろう。

2022・10・21(金)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル
ベートーヴェン・ツィクルスvol.5

      サントリーホール  7時

 インキネンの首席指揮者時代の締め括りを飾るこのベートーヴェン・ツィクルス、今回は「交響曲第8番」と「交響曲第7番」が取り上げられた。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 インキネンの指揮から引き出される音楽は、常に明晰さと重厚さとを兼ね備えて活力に富んでいるが、今日のベートーヴェンでもその特徴が発揮されていたと言えるだろう。どちらかというと「重厚壮大」の傾向が強かったようだが、しかし内声部を明確に響かせたりするところは、いつものインキネンだ。
 比較的大きな編成(「7番」では14型)を採った日本フィルを安定感豊かに堂々と響かせ、特に奇を衒ったような解釈は行わぬものの、同一の音型を反復しつつ盛り上げる個所ではティンパニのクレッシェンドをしばしば施して効果を上げる。スコアに指定されているリピートをすべて順守しながらも、それが全て自然な流れに感じられたというのも、演奏が充実していたことの証拠であろう。

 「8番」は、今日が初日だった所為か、前半はやや緊張気味の演奏に感じられたが、第4楽章のコーダのある個所で━━どの個所だったか、明確に記憶していないのはお粗末な話だが━━何か異様な迫力で音楽がぐんと高まって行った瞬間があったのは印象的だった。

 一方、「7番」では、インキネンと日本フィルは、実に見事な力を発揮していた。堅固な構築感の裡に、リズムとリズムとの関わりが生み出す痛快な美しさをこの上なく豊かに響かせた演奏で、このツィクルスでこれまで聴いた中では、「2番」と、それから「5番」の第4楽章と並ぶ出来だったように思う。

 なお━━いつものことだが━━オーボエがいい。杉原由希子さんだと思うが、第1楽章の再現部に入って間もなくの個所、第309~310小節のソロなど、非常に濃厚な表情で官能的な味を聴かせてくれた。ほんの一瞬だが、強く印象に残る。

2022・10・20(木)チョン・ミョンフン指揮東京フィル「ファルスタッフ」

      サントリーホール  7時

 チョン・ミョンフンの笑顔━━それも破顔一笑という感じの━━を初めて見たような気がする。本当に楽しんで指揮していたのだろう。ヴェルディの音楽も、今日は本当に「笑って」いた。これほどこのオペラの音楽が愉し気に飛び跳ねているように聞こえたことは滅多にない。

 かように、名誉音楽監督チョン・ミョンフンが指揮した東京フィルハーモニー交響楽団10月定期は、このヴェルディのオペラ「ファルスタッフ」であった。コンサートマスターは近藤薫。
 配役は以下の通り━━セバスティアン・カターナ(ファルスタッフ)、砂川涼子(フォード夫人アリーチェ)、中島郁子(クイックリー夫人)、向野由美子(ペイジ夫人メグ)、三宅理恵(フォードの娘ナンネッタ)、須藤慎吾(フォード)、小堀勇介(フェントン、)清水徹太郎(カイウス)、大槻孝志(パルドルフォ)、加藤宏隆(ピストーラ)。新国立劇場合唱団も出演。

 ベースは演奏会形式だが、オーケストラはステージの奥ぎりぎりまで下がって配置され(編成はあまり大きくはない)、ステージ前面で小道具を使いつつの芝居がかなり細かい演出で繰り広げられる。
 この演出もチョン・ミョンフンによるものだとのことで、演出補は家田淳が受け持ち、指揮者もオーケストラも時に演技に参加する。オーケストラは手拍子で応じたり(誰か飛び出した方がおられましたね)、チョン殿もホウキで床を掃きながら登場したり、小道具をファルスタッフに投げ渡したり(!)といった具合。視覚的にも大いに聴衆を楽しませた。
 第3幕でファルスタッフが虐められるあたりになると、やはり動きが少々物足りなくなったが、それでも精一杯のお芝居だろう。客席からは笑い声も少なからず起きていたから、成功の部類に入ると思われる。

 演奏が、前述の通り、実に明るかった。チョン・ミョンフンのオペラのテンポが速くて勢いがいいのは今に始まったことではないが、今回は作品の性格もあって、それが成功を生んでいた。東京フィルもステージに乗れば、ピットに入った時の演奏とは大違い、音量も活気も充分、胸のすくような快演を繰り広げていた。
 歌手陣も闊達で、特に題名役のカターナは、役柄に相応しい巨体を利した「重量感豊かな」演技と歌唱を披露。須藤慎吾、小堀勇介ら日本勢もいい。

 演奏会形式とセミ・ステージ形式を折衷させたような今回の上演スタイルも、成功と言えたであろう。

2022・10・19(水)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 桂冠指揮者カンブルランが3年半ぶりに登場。今回は読響とは3種のプログラムを演奏するが、その選曲コンセプトは20世紀もの、東欧もの、フランスもの━━のようである。

 今日はバルトークの「舞踏組曲」、ビゼーの「交響曲第1番」、ダルバヴィの「チェロと室内管弦楽のための幻想曲集」(日本初演)、サン=サーンスの「チェロ協奏曲第1番」、リゲティの「ルーマニア協奏曲」というラインナップ。
 チェロは2015年チャイコフスキー国際コンクール優勝のアンドレイ・イオニーツァ。コンサートマスターは小森谷巧。

 「舞踏組曲」が予想外に反バーバリズム的な、穏やかな演奏になっていたのは、カンブルランに何か考えがあったのだろうが、どうもこれは私の好みと違う。

 やはり面白かったのは、フランスの現代作曲家マルク=アンドレ・ダルバヴィ(1961~)と、ハンガリーのジェルジ・リゲティ(1923~2006)の作品だ。
 前者は、チェロが弱音で奏し続ける細かい無窮動的な動き(シベリウスの「レンミンカイネンとサーリの乙女たち」の弦を連想させられた)に、金管が遠いエコーのような音型で応えるあたりなど、夢幻的なイメージを呼び起こす。
 この曲でのイオニーツァの闊達なチェロが素晴らしい。彼はサン=サーンスの協奏曲も鮮やかな切れを以って弾き、一般の演奏に聞かれるような典雅なスタイルを一掃して、この曲を実に新鮮なものに感じさせてくれた。

 まあ、そういう次第なので、ビゼーの交響曲だけは━━今日のプログラムの中では、どうも異質な存在に聞こえてしまったのだが‥‥。
 楽器の配置がそれぞれ大きく異なるためステージ転換に時間を擁した上に、イオニーツァもソロ・アンコール(バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」の「プレリュード」)をやってくれるというサービスの良さだったので、終演は9時半頃になった。

2022・10・18(火)クラウス・マケラ指揮パリ管弦楽団

      サントリーホール  7時
 
 今日はBプロ。ドビュッシーの「海」だけは昨日のAプロと同じだが、その他の曲目は、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(ソリストはアリス=紗良・オット)、ストラヴィンスキーの「火の鳥」全曲。
 今回のメイン・プログラムは、この3人の作曲家の作品のみで構成されていたことになる。アンコールも昨日と同様にロシアもので、今日はグリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲。

 「海」は、昨日の演奏よりもかなり端整に、アンサンブルもまとまって聞こえた。それゆえにやや自由さが失われ、昨日のような溌溂とした色彩感がやや弱められていたような気もしたが━━彼らもこの曲だけはほぼ3日連続で演奏したようなものだから、そういう変化も起こり得るだろう。

 ラヴェルのコンチェルトでは、アリスが同行来日して弾いてくれたのは幸いだったと思われる。豪壮なピアニズムにはならず、ラヴェルの中のしなやかで繊細可憐な要素を浮き彫りにし、オーケストラの轟音が消えてソロのみを聴かせるくだりなどでは、しっとりした表情でモノローグを語るかのようだった。
 ソロ・アンコールを演奏する前には、凄まじい早口の日本語で「一昨日日本に着いたんですけど、手違いでスーツケースはまだミュンヘンにあるので、今日の衣装は借り物」などと語って聴衆を爆笑させていた。彼女の人柄を感じさせて面白かったが、オケを待たせている状況の中での話としては、ちょっと長い。結局、このサントリーホールの「音が消えて行く響きの良さ」を生かすためにこれを、と言って、アルヴォ・ペルトの「アリーナのために」という最弱音による曲を弾いてくれた。

 後半は「火の鳥」全曲版だったが、これはもう、昨日の「春の祭典」同様、パリ管の豪壮華麗な色彩感が余すところなく発揮された演奏であったろう。
 この一見だらだらと流れるバレエ曲は、下手に演奏すればとりとめもない音楽になってしまう危険性をはらんでいるが、いい指揮者といいオーケストラの手にかかれば、実に多彩な万華鏡のような音楽になる。今日のマケラとパリ管の演奏は、この曲の長さをほとんど感じさせなかった。久しぶりにいい「火の鳥」を聴いたな、という感である。

 アンコールの「ルスラン」は、リズム感を強調した、スピーディで軽くて、明るい演奏となった。各声部のバランスや主題の浮き立たせ方にはかなり個性的な特徴があり、その意味では、今日のマケラの指揮の中では唯一オケを引きずり回したタイプのもの、と言っていいかもしれない。
 何しろ今回のマケラは、あのシベリウスの交響曲全集のCDで聴くオスロ・フィル相手の指揮とは違って、かなり名門パリ管に「敬意を払った」指揮に徹していたと思われるからである。
 プログラムは、アンコールを含めてフランスとロシアの作品で固めていたが、今回に限ってはロシアものの演奏の方がスリルを感じさせていた。来年は、彼はオスロ・フィルと来るとのことだから、そのシベリウスを是非とも聴いてみたいものだ。

 チケットは高い高いとブーイング続出だったが、それにしては今日はほぼ満席に近い状態にまでお客さんが入っていたように見えた。拍手も、昨日よりも今日の方が熱気を感じさせていた。

2022・10・17(月)クラウス・マケラ指揮パリ管弦楽団

      サントリーホール  7時

 先日都響に客演して聴衆を沸き立たせたフィンランドの新鋭、いま欧州指揮界で旋風を巻き起こしているクラウス・マケラが、昨年秋にその音楽監督に就任したパリ管弦楽団とともに来た。しばらく途絶えていた海外のメジャー・オーケストラの来日が、先日のロンドン響で再開され、それに続く第2弾ということになる。
 今日のプログラムは、ドビュッシーの「海」、ラヴェルの「ボレロ」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。アンコールはムソルグスキーの「ホヴァーンシチナ」の前奏曲「モスクワ川の夜明け」。

 クラウス・マケラの指揮も注目されたが、今日の3曲では特にこれといった仕掛けを施すほどのことはなく、専らパリ管弦楽団の本来の良さを引き出すことに徹底していたのではないかと思われる。

 事実、パリ管のこうした典雅で華麗な音色を聴いたのは、実に久しぶりのような気がする。それはミュンシュやカラヤンのあとの歴代のシェフ━━ショルティ、バレンボイム、ビシュコフ、ドホナーニ、エッシェンバッハ、P・ヤルヴィ、ハーディングらの下で聴いたパリ管からは、ついぞ聞けたことのないものだった。
 今日の3曲のプログラムの演奏では、まさしくフランスのオーケストラならではの、品のいい洗練された華麗さとでもいうべき音が甦って響いていた。それだけでも素晴らしいことではないか。

 「海」と「ボレロ」は、まあ、天下のパリ管なら、このくらいは容易い演奏だっただろう。
 だが、今日の「春の祭典」こそは、マケラとパリ管が四つに組んで、極限まで燃焼した演奏ではなかっただろうか。速めのテンポによる直球勝負の「春の祭典」だったが、オーケストラの沸騰ぶりは、いやもう見事の一語に尽きた。こういう熱狂的な演奏をパリ管から引き出したマケラの手腕もまた、並々ならぬものだったと言って過言ではないだろう。

 「モスクワ川の夜明け」は、リムスキー=コルサコフ版に近いと思ったが、どうも細部が違うような気がする。かといって、ショスタコーヴィチ版でないことは確かである。他に校訂編曲版があったか? ラヴェル? ストラヴィンスキー?

 なお今回は、佐藤啓による「照明演出」が施される、という触れ込みだった。「春の祭典」に付されたその照明演出なるものは、音楽の変化に応じ、第1部では青色、第2部では赤色をベースとして変化する色彩が、オルガンを中心に鶴翼上に拡がって投映されるという仕組みになっていた。だが、歯に衣着せずに言えば、企画者やスタッフには申し訳ないが、これはやはり「趣向を添えた」程度の意味に止まったのではないか?

2022・10・16(日)トーマス・ダウスゴー指揮東京都交響楽団

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 デンマークの指揮者ダウスゴーが都響に客演、デンマークの作曲家ルーズ・ランゴー(1893~1952)の「交響曲第4番《落葉》」と、同じくニールセンの「交響曲第4番《不滅》」を指揮した。その2曲の間に置かれたのは、シューマンの「チェロ協奏曲」(ソリストは宮田大)。コンサートマスターは山本友重。

 ダウスゴーは、これまでにも都響と新日本フィルに客演しているが、毎回のようにニールセンの交響曲を取り上げている。「不滅」は、新日本フィル客演時(☞2012年3月15日)にも聴いたことがある。

 ダウスゴーの指揮、あの精悍な、獲物にとびかかるような身振りの指揮も、今は少し穏やかになったようだし、演奏自体も昔のそれに比べて柔らかくなったような気もする。だがそれでも、音楽の叩きつけるような鋭さと切れ味の良さ、硬質で剛直な音の構築などは、以前とほとんど変わっていない。ニールセンのこの交響曲も、ダウスゴーの手にかかると、いっそう厳めしく強靭な音楽として聞こえてくるから面白い。
 2組あるティンパニのうち、1組をステージ上手側前方に配置するのはダウスゴーのやり方で、2012年の来日の時にも同じ方法を行なっていた。この配置方法、客席の大半において、オーケストラ全体の響きのバランスに少々無理を生じさせる傾向があるように思われるが・・・・。

 ランゴー(Rued Langgaard。これでルーズ・ランゴーという発音と表記が適切なのかどうかは私には判らないが)の交響曲の方は、珍しいものを聴かせてもらったという感じだが、正直言って、私にはどうも、あまり共感できない類の作品に聞こえた。一所懸命演奏してくれた都響には申し訳ないが、25分程度の演奏時間が、何だかえらく長いように感じられてしまったのである。「落葉」という副題から得られるイメージとはかなり異なって、もっと起伏が大きく、烈しい曲だ。

 これらの2曲の間に置かれたシューマンの協奏曲は、極めて優しい表情に感じられるだろうと思いきや、意外に強面で剛直な音楽に聞こえてしまったのも、ダウスゴーの指揮の為せる業か。宮田大がまっすぐな表情のソロで毅然と応酬する。
 なお彼はソロ・アンコールとして、「赤とんぼ」と「トロイメライ」を組み合わせた曲を演奏してくれた。これは私も初めて聴いたもので、大変面白かった。「赤とんぼ」は、シューマンのあの「序奏と協奏的アレグロ」の一節と同じフシだから、それを洒落のめしたのかとも思ったが━━。

 補聴器が原因らしき高い周波数の発振音が何処からか響いているという件で、注意の場内アナウンスが二度、三度。やれやれという感。昔(2004年)、ゲルギエフがロッテルダム・フィルとマーラーの「9番」を演奏した際にもこの発振音が場内を顰蹙させ、ジャパン・アーツのS氏が第2楽章の直後にわざわざ舞台上に割り込んで客席に異例の警告を行ない、ゲルギエフが面食らった一件を思い出した━━。

2022・10・15(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

     サントリーホール  6時

 錦糸町のトリフォニーホールから、地下鉄で赤坂のサントリーホールへ移動。
 こちら東響の10月定期では、音楽監督ジョナサン・ノットの指揮で、ラヴェルの「道化師の朝の歌」と歌曲集「シェエラザード」(ソリストは安川みく)、ショスタコーヴィチの「交響曲第4番」というプログラムが組まれた。コンサートマスターは小林壱成。

 これだけ活気に富んだ演奏でラヴェルとショスタコーヴィチを聴くのは、久しぶりだ。 
 「道化師の朝の歌」での演奏は、少々暴れすぎかなという感もないではなかったが、主人公をアパッシュ(ならず者)的な男に仕立てた演奏と解釈すれば、充分に楽しめる。
 「シェエラザード」では安川みくが豊麗な歌唱を聴かせてくれた。彼女を聴いたのは、私は多分今回が初めてになるが、いい雰囲気を感じさせる。この曲に関する限り、ノットの指揮と東響の演奏には、もう少し官能的な味があってもよかったかなと思うし、また声楽を引き立てるようなバランスが欲しかったな、とも思う。

 ショスタコーヴィチの「第4交響曲」は、これまで私がナマで聴いた日本のオーケストラによる演奏の中で、如何なる演奏と比較しても猛烈、激烈、鮮烈なものだったと言っていいだろう。
 それは、かつてゲルギエフがマリインスキー劇場管を指揮して表現したような、作曲者が体験していた圧政下の苦悩を訴えるかのような暗い表情の演奏とは異質なものではあるけれども、しかしこれだけ激しい感情の爆発を示した演奏というのは、めったに聴けないのではないか。英国人ノットがここまでやるか、と驚いたのは事実だが、またここまで荒れ狂い、咆哮し、怒号した東京交響楽団も初めて聴いた。

 その燃え上がった演奏が、如何なる時にも均衡を失わず、アンサンブルとしての正確さを保っていたというのも見事だった。しかもその一方、叙情的なピアニッシモの個所でも、緊張感は全く失われなかったのである。全曲最後の謎めいた、恐怖感さえ誘うような、暗黒の中に消えて行くような終結も、不気味な広い空間性を感じさせて、素晴らしい演奏だった。

 「4番」は、のちの「8番」とともに、ショスタコーヴィチの交響曲の中では最高傑作の地位にあると私は思っているのだが、今日の演奏はそれを実証してくれるものであった。ノットと東響はこれまでにも印象に残る演奏をいくつも残してくれているが、今回のショスタコーヴィチの「4番」も、その中の上位に入るだろう。

 なお、この曲の第1楽章での、あの弦楽器群の猛烈なパッセージのあとしばらくして、上手側に配置された第2ヴァイオリンの奏者の1人が演奏中に昏倒して、舞台袖へ運び出された。ノットは指揮を続け、オーケストラも演奏を中断しなかったが、古来の「Show must go on」のビジネス意識の鉄則として、これは正しい。とはいえ、その奏者が座っていた椅子の上に置かれたままになっている楽器に目を遣るごとに心が痛んだ。大事ないことを心から祈る。

※頂戴したコメントの中で、一部個人情報の守秘事項に抵触する部分がある旨、関係者から申し出がありましたので、申し訳ございませんがカットさせていただきました。、

2022・10・15(土)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

        すみだトリフォニーホール  2時

 「すみだクラシックへの扉・第10回」━━もともとはラルス・フォークトが客演し、弾き振りをやる予定だった演奏会だが、彼は急逝してしまった。ご冥福を祈る。

 代わりに登場したのが上岡敏之。彼が新日本フィルを指揮する演奏会を聴くのは、実に久しぶりである。3年ぶりくらいか? 音楽監督としての任期は既に終了しているが、コロナ騒ぎなどで彼の帰国が不可能になるケースが多く、結局、新日本フィルとの告別演奏会は、やったか、やらなかったか? 終演後には彼へのソロ・カーテンコールもあったし、楽屋でも大勢の楽員たちに長いこと取り巻かれていたほどであった。やはり人気は高い。

 その彼の久しぶりの指揮によるプログラムは、モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」(ソリストは上野星矢と山宮るり子)、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソリストは田部京子)、ブラームスの「交響曲第2番」。
 長いコンチェルトを2曲も入れた不思議な選曲だが、これはフォークトのプログラムを引き継いだものである。終演は4時半頃になった。コンサートマスターは崔文洙。

 モーツァルトのコンチェルトでは、上岡と新日フィルは、極めてしなやかな柔らかい響きを聴かせてくれた。だが一方、2人のソリストは、直線的で竹を割ったような雰囲気の演奏をする若者なので、オケとソリとに些か異質なものを感じてしまう。フォークトが指揮していたら、また違った演奏になっていたかもしれないが‥‥。

 その点、ベートーヴェンのピアノ協奏曲では、田部京子との阿吽の呼吸とでもいうべき協演が聴けたようで、総譜の指定のアンダンテよりも遥かに遅いアダージョのテンポで演奏された第2楽章での素晴らしい沈潜ぶりなど、まさに上岡敏之らしい音楽となっていた。続く第3楽章を、聞こえるか聞こえないかの最弱音で開始したあたりも、やってくれたな、という感。

 このベートーヴェンのコンチェルトでの演奏が、今日のハイライトだったような気がする━━というのは、聴かせどころのはずだったブラームスの「第2交響曲」でのオーケストラの音が、どうも粗い‥‥。上岡と新日フィルが互いに呼吸の合ったところを聴かせていた時期には、彼らの音はもっと緻密で精妙で、しっとりとして温かいものだったはずだ。ただ、起伏の大きい構築や演奏の昂揚感などという点ではさすが上岡、という感があった。

2022・10・11(火)「スカーレット・プリンセス」

      東京芸術劇場プレイハウス  6時

 歌舞伎の「桜姫東文章」(四代目鶴屋南北作)を、ルーマニアの舞台演出家シルヴィウ・プルカレーテが現代演劇風に脚本化し演出した{スカーレット・プリンセス}━━ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場とシビウ国際演劇祭の制作による━━を観る。「東京芸術祭2022 芸劇オータムセレクション」の一環で、4回公演の今夜が最終日である。

 セリフは全てルーマニア語(だろう、字幕付)ながら、「桜姫」「清玄」「釣鐘権助」「吉田家」などの固有名詞は概して日本語のままなので、この言葉の対照的な雰囲気もちょっと面白い。
 舞台には花道も設えられ、これが盛んに活用される。「早替り」や衣装の引抜、刀を振り回しての立廻り、所作事といったものも、僅かだが取り入れられている。下座音楽に相当するグループは上手舞台の手前に配置されているが、これは主として効果音担当ともいうような役割だ。

 深夜の場面で、寺の鐘が不気味にゴーンと鳴り、犬の遠吠えが聞こえる(すべて前記の下座効果音セクションがやる)などという「日本的」な雰囲気など、よく真似たものだと、妙に感心してしまった次第である。ただ、清玄の幽霊が桜姫に付き纏うなどといった日本独特の怪奇な手法までは、さすがにこの現代演劇の舞台に取り入れるのは無理だったであろう。
 なお、この清玄と釣鐘権助の2役を演じ分けたオフェリア・ポピ(女性)の演技は、まさに見事というほかはなかった。

 音楽(ヴァシル・リー)も、サックスや下座のコーラスなどを使ってそれなりに折り込まれているが、その中で、権助らが奪い合う「都鳥の香箱」(桜姫━━前身は江ノ島稚児ヶ淵で入水した白菊丸━━のもの)が現れるたびに特定の音型が響くのが、オペラのライトモティーフの手法と同じで、面白かった。
 総じて、登場人物の区別が少々解り難かったのと、字幕が少しもどかしかったということはあったけれども、実に興味深い演劇を見せてもらったという感である。

2022・10・9(日)フィリップ・グラス:「浜辺のアインシュタイン」

       神奈川県民ホール 大ホール  1時30分

 フィリップ・グラスの音楽が今でもこんなに人気があったのか、と驚かされたほどのホワイエの賑わいぶりだが、知人の推測によれば、多くはダンス関係のファンではないだろうか、とのこと。真偽は定かではない。
 ともあれこれは、神奈川県民ホールの開館50周年記念オペラシリーズvol.1としての上演で、非常に大規模な力作である。

 プロデューサー的な立場には神奈川芸術文化財団芸術総監督・一柳慧と、県民ホール&音楽堂芸術参与・沼野雄司の両氏の名がクレジットされているが、一柳慧氏ははからずも公演初日の前日に死去されたため、氏の追悼公演のようになってしまった。だが、それに相応しい充実の公演と言えたであろう。

 演出・振付は平原慎太郎、演出補が桐山知也、指揮がキハラ良尚。オケ・ピットには東京混声合唱団、電子オルガン2、管楽器6、ステージ上に辻彩奈(vn)。出演者は松雪泰子、田中要次、そして中村祥子を含むダンス&演技は25人。

 今回の上演では、セリフ等は日本語訳で行われた。とはいえ、ストーリーは極めて抽象的なものだし、作品の内容についての予備知識があっても、それに基づいて舞台を追うということは少々難しかろう。

 舞台はきわめて抽象的な造りで、列車も自動車も舞台には登場しないが、舞台美術(空間デザイン 木津潤平)と照明(櫛田晃代)の美しさもあって、幻想的なイメージを膨らませることはできる。月光を浴びた海を連想させる場面など、なかなか素晴らしかった。
 ただ、パリでの上演の舞台━━私は実際には観ていないが、You Tubeでは今でも少し観られる━━に比べ、悲劇的な、危機に瀕した切羽詰まった世界というイメージは薄い。やはりこれが、未だ戦乱の外にいるわれわれ日本の、平和と希望を考えることのできる境地にいる人間の感覚というものだろうか。

 今回は、音楽的な面も素晴らしかった。
 東京混声合唱団の見事な歌唱(早口言葉のような歌詞━━というより「発音」か)の見事さにも感嘆させられた。また、ステージ上で演奏した辻彩奈のヴァイオリン・ソロもエネルギッシュで、ミニマル・ミュージック特有の同じ音型の繰り返しをあのように長時間休みなしに弾くとは大変だろうなあ、と何となく気を揉みながら見ていた次第である。
 そして何より、指揮者キハラ良尚のまとめ方の巧さには賛辞を捧げたい。ミニマル・ミュージックの陶酔的な魅力を充分に再現してくれた指揮、と言っていいだろう。

 私も聴いていて、Knee Play2の前半あたりまでは少しもたれ気味に感じられたので、ミニマル・ミュージックは好きなほうだと思っていた自分も、フィリップ・グラスにはもうあまり共感できなくなっているのかな、とまで考えてしまったほどだ。だがKnee Play2の後半あたりからの演奏の盛り上がりが極めて見事だったため、再び完全にその虜になった。休憩後のKnee Play3以降も同様である。全曲は25分前後の休憩1回を含む4時間以上の長尺ものだったが、特に後半はほとんど長さを意識しなかった、というのが正直なところである。

 ただしひとつ、裁判の場における早口の断片的な日本語は、合唱の音量とほぼ同じに響くので、非常に聞き取り難かった。それ故、むしろ音楽を邪魔するような存在に感じられてしまい、延々15分近くに及ぶその部分は耐え切れない思いになったことは事実である。

 だがともあれこれは、ホール開館50周年に相応しい意義ある企画と制作であった。フィリップ・グラスとミニマル・ミュージックの存在をもう一度見つめ直す機会を提供してくれたという意味でも、これはかけがえのない公演だったと言えるだろう。

 余談だが、それにしても昔、この「Einstein on the Beach」を、何故「渚のアインシュタイン」でなく、「浜辺のアインシュタイン」などと訳したのだろう? 1950年代に原爆戦争による世界の破滅を描いて衝撃を与えた映画「On the Beach」が、あの時「浜辺にて」などという甘いイメージの言葉で訳されず、「渚にて」と訳されたのは、言葉のイメージからしても正鵠を射ていたように思うのだが━━。

2022・10・7(金)サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  7時

 東京最終公演。ベルリオーズの序曲「海賊」、ドビュッシーの「リア王」からの「ファンファーレ」と「リア王の眠り」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」、ブルックナーの「交響曲第7番」(コールス校訂版)。

 曲目は前夜のそれと一部重複しているが、ホールが異なるため、演奏のニュアンスも少し異なって聞こえる。少なくとも2階席最前列で聴く限りは、アコースティックは昨夜聴いた2階席でのそれとよりも若干ドライに聞こえるので、演奏もより鮮明な響きに感じられるだろう。ただし、比較すれば━━の話だが。

 聴きものは、やはりブルックナーの「第7交響曲」だ。昔のラトルの指揮からは聞けなかったような気宇の大きさと底知れぬ深み、ゆっくりしたテンポを保持したまま音楽に巨大さを加えて行く牽引力など、いずれも彼の円熟ぶりをはっきりと感じさせる。
 ロンドン響も、例えば第1楽章の最終個所や第2楽章のクライマックス個所などでは、既に最強音に達している音楽が更に一段と力感を増すといったような、かつてベルリン・フィルがカラヤンのもとで聴かせたのと同様の大技を発揮していた。

 ただ━━その上で敢えて注文を申し上げればだが、第4楽章で何度となくクレッシェンドしては退潮しまた盛り上がるといった起伏の設計が些か単調だったきらいがあり、真のクライマックスたる終結部での昂揚が思ったほど際立たなかった感もあったのでは? 
 なおこの曲に限り、ステージ下手側から順に第1ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、第2ヴァイオリン、上手後方にコントラバス、という配置が採られていたのも興味深い。

 ところで、このコールス校訂版なるもの、第2楽章の頂点で打楽器一式が参加するのはすでにノーヴァク版で聴き慣れたものだからいいとしても、第1楽章の【A】(第25小節)でホルンがアウフタクトから入るという所謂「改訂版」と同じ形になっているのは、どうも納得が行かない。
 入魂の演奏だった故か、今日はアンコールの演奏は無かった。

2022・10・6(木)サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団

      サントリーホール  7時

 第1部にベルリオーズの序曲「海賊」、武満徹の「ファンタズマ/カントスⅡ」(トロンボーンのソロはピーター・ムーア)、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」。第2部にシベリウスの「交響曲第7番」と、バルトークの「中国の不思議な役人」組曲。
 今どきの演奏会には珍しい盛り沢山のプログラムだろう。

 ここサントリーホールで、海外の16型大編成のオーケストラを聴くのは、随分久しぶりのことである。
 わが国のオーケストラも今日ではもちろん上手いけれど、それとは響きが全く違う。ステージの空間全体を、沸き立つ音たちがぎっしりと埋め尽くしているような━━しかもその音たちが全て「色」を感じさせる、とでも言ったらいいか。
 海外のオーケストラだからと言って全てがこういう演奏をするとは限らないし、また英国のオーケストラは欧州大陸のそれに比べると淡白な音色である、などという指摘もかつてはされていたものだ。が、しかし、久しぶりに聴くロンドン響の演奏は、やはりまさしく「泰西の大オーケストラ」に違いなく、それは実に新鮮に、魅力的に感じられたのである(以前のような外来オケ・ラッシュが蘇れば、どうせまた慣れっこになるだろうが)。

 オーケストラのその良さは、円熟著しいラトルの指揮から導き出されたものにほかならない。「ラ・ヴァルス」と「中国の不思議な役人」では、凄まじい最強奏の個所においてさえ、特に弦楽器群が少しも刺激的な音にならないのに感嘆した。そして、音楽が沸騰に沸騰を重ねて、怒涛の勢いで終結の頂点に向かって行くあたりの、ラトルの指揮の見事さ、ロンドン響の巧さ。

 一方、シベリウスの交響曲では、低音を底力豊かに響かせ、地鳴りのするような強靭な音楽に創り上げて行くラトルの設計に驚かされた。この交響曲が今回ほど重々しく、解放感のない突き詰めた性格の曲に感じられたことは、かつてなかった。ラトルも随分独創的な解釈をするものだと、改めて感じ入った次第である。

 ラトルの日本語での挨拶と紹介に続いて演奏されたアンコール曲は、フォーレの「パヴァーヌ」。ロンドン響の木管群が可憐に美しく歌った。先日のディーリアスの小品といい、これといい、こういう叙情的な優しさを湛えた演奏は、ラトルがベルリン・フィルを指揮していた頃にはあまり聴けなかったような気がする━━まあ、ザルツブルクでもエクサン・プロヴァンスでも、たまたま大編成のダイナミックなプログラムばかりにぶつかっていた所為もあるが。

2022・10・5(水)新国立劇場「ジュリオ・チェーザレ」

    新国立劇場  5時

 新シーズン開幕公演、ヘンデルの「ジュリオ・チェーザレ」(ユリウス・カエサル、ジュリアス・シーザー)。4回公演の今日は3日目。

 リナルド・アレッサンドリーニが指揮、ロラン・ペリーが演出した。
 配役は、マリアンネ・ベアーテ・キーランド(ジュリオ・チェーザレ)、加納悦子(コルネーリア)、金子美香(セスト)、森谷真理(クレオパトラ)、藤木大地(トロメーオ)、ヴィタリ・ユシュマノフ(アキッラ)、駒田敏章(クーリオ)、村松稔之(ニレーノ)。新国立劇場合唱団、東京フィルハーモニー交響楽団。

 これは、もともとはパリ国立歌劇場のプロダクションだそうで、美術にシャンタル・トマ、照明にジョエル・アダム、ドラマトゥルクにアガテ・メリマンを起用しているといったように、かなり凝った舞台をもった演出だ。新国立劇場が事実上初めて手掛けるバロック・オペラとして、大野和士・芸術監督が力を入れた上演でもある。コロナ蔓延のため延期されていた上演が、今回やっと実現されたのは嬉しいことである。

 ロラン・ペリーの演出は、ドラマの場面をある博物館の倉庫に設定するという奇想天外な発想━━しかし先日、美術館を舞台にした「パルジファル」などもありましたね━━に基づいているが、登場人物の性格や動きには、特に捻ったり歪めたりしているところは見られない。コルネーリアとセストの母子関係もシリアスであり、シーザーの性格も極めて真面目である。以前ザルツブルク音楽祭で上演されたレイゼル&コーリエ演出のような、エジプトでの石油発掘権争奪戦に読み替えるような手法とは、全く違う。

 オペラは、シーザーの巨大な銅像が貨物運搬用エレベーターで運び込まれる場面に始まり、その他にも収納されている銅像や絵画など、さまざまな展示品などからイメージが創られた登場人物たちがドラマを展開させるという形になる。博物館の裏方スタッフも、そのイメージの中で、兵士になったり、敵味方になったりしてドラマに参加する「助演」の役割を果たす。

 人物の演技は、時にコミカルなものになるが、それはペリーが指摘しているように、このオペラに包含されている要素を生かしたものにほかならない。それが洒落たジョークになり、自然な流れを形づくっているところが、いかにもペリーらしい特徴だろう。
 オペラの大詰めは、登場人物は全て展示品としての彫像などに戻り、博物館のスタッフが懐中電灯でそれらを確認するという光景で幕が下りるというわけで、━━これはまさに、あの映画「ナイト・ミュージアム」のイメージそっくりだ。

 今回の上演では、音楽面も充実していた。アレッサンドリーニの指揮は手堅い感だが、些かの緩みもなく、テオルボも加わった東京フィルから柔らかい響きを引き出して、極めて快い音楽をつくっていた。私もこれまでにこのオペラをナマで聴いたのは10回に満たぬ数しかないが、音楽がこれほど美しく温かく、親しみやすいものに感じられたのは、これが初めてかもしれない。なおオーケストラでは、第1幕のチェーザレのアリアで活躍するホルンのソロの鮮やかさを讃えたい。

 歌手陣では、コルネーリア役の加納悦子の真摯な演技と歌唱が特に印象に残ったが、アキッラ役のユシュマノフ、シーザーの部下クーリオ役の駒田敏章ら2人のバリトンの伸びやかな声と演技も良かったし、何だかよく解らない人物ニレーノ役の村松稔之の怪演ぶりもなかなかのものだった。藤木大地のトロメーオも、淫蕩な性格を丸出しにして行く後半のややコミカルな表現が巧い。森谷真理のクレオパトラは、このペリー演出ではむしろ無邪気で少しコミカルな性格として描かれており(こういう演出はよくあるのだが)、少し軽い女性となっているが、ともあれ大熱演を讃えよう。

 金子美香のセストは、子供らしさを出し過ぎたのがちょっと裏目に出たような気もするが‥‥。キーランドの題名役チェーザレは、いい歌唱ではあったが、もっと存在感のある演技が欲しかった━━今回の舞台、主役が誰だかはっきりしないという傾向がなくはなかったか? それがペリーの原演出によるものか、演出補のローリー・フェルドマンの指示の所為か、あるいは他の原因によるものかは判らないけれども‥‥。

 休憩2回(25分、30分)を含み9時半終演。

2022・10・3(月)尾高忠明指揮新日本フィルのR・シュトラウス

      サントリーホール  7時

 つい先頃、大阪フィルを指揮してワーグナー・プログラムの快演を聴かせた尾高忠明が、今度は新日本フィルに客演し、R・シュトラウス・プロ━━「セレナード変ホ長調」、「4つの最後の歌」(ソリストはユリアーネ・バンゼ)、交響詩「英雄の生涯」を披露した。コンサートマスターは崔文洙。

 「セレナード」は、13本の管楽器がステージ前方に鶴翼の形で並び、1本のコントラバスが一歩下がった形で付き添うといった編成で、尾高は指揮者の位置に立ちつつも、新日フィルの奏者たちを讃えるかのような身振りで指揮して行った。演奏は、かなりメリハリの強いものだったという印象である。

 「4つの最後の歌」では、オーケストラは柔らかい叙情感を湛えて良かったが、肝心のユリアーネ・バンゼの声が、もう昔とは違う。これについては触れないでおくことにしたい。

 それよりもやはり、この日の演奏の圧巻は、第2部に置かれた「英雄の生涯」だったであろう。冒頭の「英雄の主題」は比較的端整な演奏で、強いて言えば紳士然とした英雄の姿と称してもよかろうが、明確な印象は掴み難い。尾高らしく、所謂大芝居調の演出の無い指揮なので、標題音楽的に誇張された演奏にはならない。
 ただ、「英雄の伴侶」における崔文洙のソロは、おそろしく表情が濃厚だった。少々入れ込み過ぎではないかと思われる部分もあったのだが、この人の個性を覗うという点では、非常に興味深いものがあったろう。

 尾高と新日フィルの演奏の良さがはっきりと出たのは、やはり「英雄の伴侶」の後半の豊麗な愛の場面と、それから作品の後半、「英雄の業績」から「英雄の隠遁」にかけての部分である。おなじみのさまざまな作品の断片が織り成され、R・シュトラウスの管弦楽手法の粋ともいうべき形が示される個所でのオーケストラの壮麗な演奏は、新日フィルからは久しぶりに聴くものだったかもしれない。尾高忠明の最近の円熟ぶりを堪能させられた演奏でもある。

2022・10・2(日)サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 海外トップレベルのオーケストラの来日が漸く再開された。秋の第1弾はロンドン交響楽団と、その音楽監督サイモン・ラトル。かなりの多様多彩なプログラムを携えての来日である。

 首都圏での演奏の初日は、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」からの「前奏曲と愛の死」、R・シュトラウスの「オーボエ協奏曲ニ長調」(ソロは同響首席奏者ユリアーナ・コッホ)、エルガーの「交響曲第2番変ホ長調」というプログラムだった。
 ソリストのアンコールはブリテンの「オヴィディウスによる6つの変容」からの第1曲、オーケストラのアンコールはディーリアスのオペラ「フェニモアとゲルダ」間奏曲。

 ラトルお気に入りの、ここミューザ川崎シンフォニーホールでの演奏━━ホールの鳴らし方も心得ているのだろう、2CAの3列51という比較的近接距離の端の方の席で聴いてさえ、オーケストラのバランスとアンサンブルの見事さが堪能できる。
 「トリスタンとイゾルデ」での明晰でありながら殺伐とせず、しかもスケールの大きな演奏の快さ。休憩時間にある知人が「もしラトルがバイロイトで振るなんてことがあったら、無理をしてでも絶対聴きに行く」と言っていたが、もっともだと思う。私も、彼がザルツブルク復活祭音楽祭とエクサン・プロヴァンス音楽祭で指揮した「指環」4部作や、ウィーン国立歌劇場で指揮した「パルジファル」と「トリスタンとイゾルデ」を実際に現場で聴けたことを、大切な思い出にしておこう。

 R・シュトラウスの「オーボエ協奏曲」を吹いたユリアーナ・コッホの音色のまろやかさと陰翳の濃さには少々驚いたが、オケの中で吹いていた奏者たちの音色もそれにほぼ同一だったことにも━━変な言い方になるが━━妙に感心させられた。このオケのオーボエの音色は、以前からこうだったっけ? 
 後半、エルガーの長大な交響曲の演奏に溢れる形容し難いあたたかさ、同じくディーリアスの小品における陶酔的な感覚など、すべて同国の作曲家に寄せる楽員たちの共感のようなものが伝わって来る演奏である。

 ラトルも、若い若いと思っていたが、今年で67歳になる。流石に少し老けた。そして身体も随分丸くなった。だがアンコールで、日本語で曲目をアナウンスするあたりの親しみやすい雰囲気は、昔ながらのものである。

2022・10・1(土)クリストフ・プレガルディエンの「白鳥の歌」他

     トッパンホール  7時

 9月27日に左眼の白内障の手術を完了。6月に右眼をやって、それでお終いにするつもりでいたが、何となく視力のバランスの悪さを感じていた。思い切ってもう一方の眼もやってもらったら、全ての物がはっきりと見え、特に白と黒とのコントラストが明瞭になり、眼鏡もほとんど要らぬような状態になったのには本当に驚いた。これまで眼鏡をかけていてさえ視るのに苦労していたパソコンや小さい字など、いつの間にか眼鏡なしで楽々と視ていることに気がつき、呆気に取られている次第である。

 それはともかく、久しぶりに復帰した演奏会巡礼。今日はクリストフ・プレガルディエンがミヒャエル・ゲース(pf)と組んでのリサイタル。シューベルトの「白鳥の歌」を2つに分けるという珍しいプログラム構成で━━。

 つまり第1部では、最初にベートーヴェンの歌曲集「遥かなる恋人に寄す」を歌い、続いて「白鳥の歌」から、レルシュターブ詩による前半の7曲を歌う。
 そして第2部では、まずブラームスの「君の青い瞳」など6曲の歌曲を置く。最後に「白鳥の歌」後半のハイネの詩による6曲を歌うが、その順番は変更され、第10、12、11、13、9、8曲の順になる。外された最後のザイドル詩による「鳩の使い」は、定石通り、アンコールで歌われる仕組みだ。なおアンコールではその他にシューベルトの「わが心に」と「夜と夢」が歌われた。

 名歌手プレガルディエン、昔はテノールだった彼の声も、数年前には既にハイ・バリトンの色合いが濃くなっていたが、今ではもうほとんどバリトンである。
 歌唱表現は昔ほど劇的でなく、穏やかになったようだが、歌詞のニュアンスを精微に生かし、豊かな起伏で音楽を彩るのは昔に変わらず。ベートーヴェンの連作歌曲集の大詰めで、愛の勝利を力強く歌って未来への希望を確信する表現など、見事なものだ。
 シューベルトの「白鳥の歌」でも、最終曲に置かれた「アトラス」に大きなクライマックス感を与え,ゲースのピアノの最強奏とともに戦慄的なエンディングを構成していた。

 ただ今回聴いたこのシューベルトでの歌唱は、時にもどかしくなるほど、リズム感が曖昧になるという印象を与えられることがあった。しかしこれはおそらく、ゲースのピアノに責任があるように思われる。
 今回のゲースのピアノは、シューベルトにおいては、不思議にレガートなものだった。例えば「別れ」では、リズム感を極度に抑制してしまい、「セレナード」でも影のように最弱音で呟き続けるといった演奏なので、シューベルトがピアノのパートに与えている和声的な動き━━つまり感情の動き━━が全く浮き彫りにされず、そのため声楽パートとの和声の妙さえも全く再現されなくなってしまうのである。
 その一方ブラームスでは、ピアノもかなり雄弁な動きをするといった演奏だったのだから、これは明らかに意図的な解釈によるものだろう。こういったシューベルトの歌曲のピアノ演奏には、私は全く共感できない。

 だがこのミヒャエル・ゲースという人、10年以上前に来日してプレガルディエンと協演した頃は、弾き方も荒っぽくて、最強音の音色も汚く、しかも楽譜のめくり方が乱暴で騒々しいという、どうしようもないピアニストだった(☞2009年3月5日の項)が、今では均整も取れた、ちゃんとしたピアニストになった。

«  | HOME |  »

























Since Sep.13.2007
今日までの訪問者数

ブログ内検索

最近の記事

Category

プロフィール

リンク

News   

・雑誌「モーストリー・クラシック」に「東条碩夫の音楽巡礼記」
連載中