2024-04

2022年11月 の記事一覧




2022・11・29(火)マリア・ジョアン・ピリス リサイタル

      サントリーホール  7時

 マリア・ジョアン・ピリス(マリア・ジョアン・ピレシュ)が4年ぶりに来日した。
 今回は「ピレシュ」でなく、また「ピリス」の表記が復活されていたが、まあ、その方がやはり広く馴染みがあるだろう。

 周知の通り、彼女は5年前に一度引退を表明、翌年「最後の」日本公演(☞2018年4月17日)を行なっていた。が、そうはいうものの、多分もう一度聴ける機会もあるんじゃないのかな、という予感がしていたのだが、案の定、演奏活動が再開されたわけだ。嬉しい話である。

 今回の来日公演は、東京と大阪(12月2日)の2回だけらしい。プログラム(2回共通)は、シューベルトの「ソナタ第13番イ長調」と「第21番変ロ長調」の間にドビュッシーの「ベルガマスク組曲」を挟んだ構成である。アンコールもドビュッシーの「アラベスク第1番」だった。

 「イ長調ソナタ」が始まった時の音楽の温かさに、ピリス健在なり、という印象を与えられる。演奏に溢れるこのヒューマンな情感は、全く彼女ならではのものである。シューベルトのソナタでの優しさは、昔と全く変わらない。
 また、彼女のドビュッシーは、これまであまり聴く機会がなかったが━━以前(☞2014年3月7日)のリサイタルで「ピアノのために」を聴いたことはあるが、今回の「ベルガマスク」といい、「アラベスク」といい、彼の比較的前期の作品であれば、彼女の共感を呼ぶのかもしれない。

 が、そうはいうものの、今回聴いた彼女の演奏は、やはりもう、昔の彼女の演奏とは違う。昔だったら和声にももっと均衡が豊かだったはずなのに、と思わせたところもいくつかあったのは事実だ。それについては言っても詮無きことではある。
 ただ、これだけが残念だったのは、今日のピアノである‥‥。シューベルトのソナタの演奏が音色の変化に乏しく、平坦に聞こえてしまったのは、やはり楽器のせいではないのか。ドビュッシーにしても、ピリスが弾くのだからフランス風の雅で透明な音色になるはずはないけれども、それにしても、何とも淡彩で、無色な「ベルガマスク」になっていた。彼女が以前のリサイタルでこのメーカーのピアノを使用した時は、こんな音ではなかった。

 客席は壮観なほどに満員、彼女を━━それも「ピレシュ」でなく「ピリス」を━━覚えている人たちが集まったのだろう。カーテンコールでは聴衆も総立ちになった。これがファンというものだ。熱狂的な拍手に応えていた彼女の嬉しそうな笑顔の、何と温かく優しく、美しかったこと!

2022・11・28(月)METライブビューイング ケルビーニ:「メデア」

       東劇  6時30分

 「METライブビューイング2022~23」の第1弾、ケルビーニの「メデア」を観る。これはメトロポリタン・オペラ(MET)の今シーズンの開幕公演(9月27日)に選ばれた作品で、MET初演でもあった。今回の配信で使われた映像はその10月22日の公演のものである。

 出演は、ソンドラ・ラドヴァノフスキ(S、コルキスの王女メデア)、マシュー・ポレンザーニ(T、アルゴー号の英雄ジャゾーネ)、ミケーレ・ペルトゥージ(Bs、コリントの王クレオンテ)、ジャナイ・ブルーガー(S、その娘グラウチェ)、エカテリーナ・グバノヴァ(Ms、メデアの友人ネリス)他。カルロ・リッツィ指揮のメトロポリタン・オペラ管弦楽団&合唱団。演出と美術はデイヴィッド・マクヴィカーだ。

 ケルビーニの「メデア」といえば、今なお伝説的なマリア・カラスの名声に覆われたオペラと言えよう。カラスは確かにこのオペラの蘇演の功績者だったが、しかし皮肉な見方をすれば、その「伝説」ゆえにこのオペラを再び封印させてしまったという責任も負うことにもなるだろう。
 いや、実際にはカラスの責任ではなく、要するにこの凄まじいパワーを要求される役柄を歌い演じ、カラスの伝説を払拭することのできるソプラノ歌手が、なかなかいなかった、ということにもなるのだが━━。

 そのメデアなる女性、全篇ほぼ出ずっぱりで強烈な歌と演技を続け、しかも第3幕ではいよいよ凄まじい個性を発揮しなくてはならぬメデアを今回歌い演じたのは、ラドヴァノフスキだった。よくやったと思う。文字通り体当たり的な熱演だった。
 このステージでは、冒頭から復讐一辺倒の、やや怪女的なメデアとして表現されており、もう一つの側面たる「苦悩する母親」としての表現は犠牲にされていたという傾向も感じられるが、これはマクヴィカ―の演出意図に応じたものであろう。

 他の歌手陣も、ネリス役のグバノヴァに至るまで見事な顔ぶれが揃っており、しかもカルロ・リッツィが今回は珍しく迫力に富む指揮だったので、この作品の良さ、凄さは、充分に再現されていたと思われる。

 なお、そのマクヴィカ―の演出&装置だが、舞台では後景の巨大な鏡を効果的に使って人物の動きを立体的に、量感たっぷり、幻想的に見せて成功を収めていた。メデアが2人の子供を殺すシーンはさすがに見せなかったが、彼女が猛毒を仕込んで贈った王冠と衣を身に着けたグラウチェが恐ろしい姿になる惨劇を背景に見せて、メデアの惨忍さを強調するといった趣向は凝らしていた。

 ただ、そのメデアに不気味なアイ・メイクを施し、いかにもモンスター的な女に見せてしまったのは、論議を呼ぶところだろう。たしかに彼女は「復讐に狂う女」ではあるが、「悩める母親」との性格も備えており、その狭間で自ら苦悩する女性でもあるのだから、その辺は何とも微妙なところではある。

 それにしてもこれは、全く物凄いオペラである。フランス革命を機に貴族社会から一般市民に解放されたオペラは、1797年にはすでにこういう血腥い作品を生み出すに至ったのだ。それが興味深い。
 10分の休憩時間を挟み、上映時間は3時間6分。

2022・11・27(日)びわ湖ホール ロッシーニ:「セビリャの理髪師」

      滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール  2時

 日生劇場との連携によるプロダクションで、びわ湖ホール恒例の「沼尻竜典オペラセレクション」の一環でもある。
 沼尻竜典(びわ湖ホール芸術監督)の指揮、粟国淳(日生劇場芸術参与)の演出、横田あつみの舞台美術。日本センチュリー交響楽団とC.ヴィレッジシンガーズ。
 主要歌手陣はダブルキャストで、今日の出演は━━小堀勇介(T、アルマヴィーヴァ伯爵)、山下裕賀(Ms、ロジーナ)、黒田祐貴(Br、フィガロ)、久保田真澄(Bs、ドン・バルトロ)、斉木健詞(Bs、ドン・バジリオ)、守谷由香(Ms、ベルタ)。

 全体に温かい雰囲気の「セビリャの理髪師」だったが、成功の最大の要因は、やはり音楽面にあるだろう。びわ湖ホールのオーケストラ・ピットの音響の良さもあって、日本センチュリー響は驚くほどしなやかで美しい演奏を聴かせてくれた。第1幕のフィナーレの大アンサンブルの個所や、その少し前に「騒ぎを聞きつけて飛んで来た兵隊たち」が背景から現れた瞬間の音楽がこれほど綺麗に聞こえたことはかつてなかった。

 それを引き出したのはもちろん沼尻竜典の手腕である。彼は全体に遅めのテンポを採り、ロッシーニの音楽の持つ叙情美を前面に押し出すことにより、このオペラを単なる陽気な馬鹿騒ぎに陥らせることなく、登場人物たちをヒューマンな、愛すべき人々として描き出していたように感じられた。そしてまた、煽り立てるようなテンポを採らなかったことにより、歌手たちの声や発音を明確に響かせることにも成功していたのだった。

 その歌手陣が、みんな優れた歌唱を示していたことも特筆しておかなければならない。私が特に感心させられたのは、輝かしい声を最後の長い大アリアに至るまで小気味よく保持し続けたアルマヴィーヴァの小堀勇介、魅力的な豊かな声と胸のすくような正確なアジリタを聴かせたロジーナの山下裕賀、渋く地味な存在と思わせておきながら突如最後のアリアで大ブレイクしてみせたベルタの守谷由香。

 一方、フィガロの黒田祐貴は細かいアジリタの個所がレガート気味になっていたのが少々気になったけれども、歌唱そのものはいいし、舞台姿も映えるので、今後のオペラ活動に期待が寄せられるだろう。ベテランの久保田真澄と斉木健詞の芸の巧さは、この舞台を支えるに大きな力があった。

 演出に関してはしかし、少々共感し難いところがある。脇役陣や助演陣の動きにあれこれ細かい趣向は凝らされているのだが、あいにくそこにどうも必然性が感じられないのである。珍しく回り舞台も活用されたが━━裏方たちがそれを回して見せる趣向も、その意図は解らないでもないが、やはり何か些か散漫な印象になる。

 20分の休憩1回を挟み、5時20分頃終演。

2022・11・25(金)ネルソンス指揮SKOのマーラー「9番」

      キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 7時

 「セイジ・オザワ松本フェスティバル 30周年記念特別公演」と題されたコンサートで、アンドリス・ネルソンスがサイトウ・キネン・オーケストラを指揮、マーラーの「交響曲第9番」を演奏した。明日の長野公演と併せた祝祭的な演奏会。

 ふだんならこの季節に松本にいることはないはずのSKOが、夏の音楽祭時とほぼ同じく、外来勢を含めたメンバーで勢揃いしたのだ(オーボエのフィリップ・トーンドゥルは来ていないと配布資料に注があったが)。
 SKOはこの演奏会の直前(23日)に小澤征爾の指揮で、「エグモント」序曲を宇宙ステーション向けに配信したばかりだった(それは史上初の試みで、ナマ配信には軽業的な技術力が発揮されたという。12月1日正午以降にはYou Tubeでも視られるはずである)。

 今日、ステージに臨んだSKOは、コンサートマスターに豊嶋泰嗣、トップサイドに矢部達哉が座った16型のフル編成。流石に強力極まる演奏を聴かせてくれた。初日の公演の所為か、前半の2つの楽章では少しく精密さに不足した感があったけれども、第3楽章以降では素晴らしいまとまりを示していた。

 とりわけ第4楽章では、あの弦楽器群が総力を挙げる長大な主題が豊かな和声感で歌われ、それは楽章半ばに至ってはデモーニッシュな趣きさえ帯びて、全曲のクライマックスに相応しい演奏となっていたのだった。
 ネルソンスの指揮は、先日のボストン響との「6番」でも感じられた如く、未だそれほど深みを感じさせるには至っていないけれども、それでもこの第4楽章に関しては、SKOの優れた表現力もあって、極めて優れた演奏になっていたと言えよう。

 この会場がもっと響きのいいホールであったなら、と思うのは、この30年来、毎度のことだが、第4楽章ではそうしたことも忘れたほどであった。━━これで、私が座っていた1階席やや後方上手側に、最後の美しい最弱音のさなか、私の制止にもかかわらずアメの紙をガサガサやり続けていた男や、退屈してプログラムをのべついじくり回していた女さえいなかったら、もっとこのハーモニーに全身で陶酔することが出来たろうにと思うと、残念でならぬ。

 午後の松本行き「あずさ」の車窓から見えたのは、雲一つない青空と、程よく紅葉に彩られた山々の美しい光景。だが開演1時間前にホールへ着いてみると、その周辺があまりに真っ暗で、人の顔さえよく見えないのに驚く。考えてみると、私はこの30年来、ここへはいつも「日の長い」季節にしか来たことがなかったのだった。
 そして終演後、松本駅に直行するシャトルバス(観光バス、250円)を利用してホテルに戻る頃には、市街の気温はすでに10℃。他の人々は、もうダウンジャケットか、厚手のコートを着て歩いている。スプリング・コートで来てしまったのは甘かった。

2022・11・24(木)内田光子&マーク・パドモア「白鳥の歌」

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 シューベルトの「白鳥の歌」を後半に置き、前半にはベートーヴェンの歌曲から「希望に寄せて」(第2作)、「諦め」、「星空の下の夕べの歌」、および歌曲集「遥かなる恋人に」を配したプログラム。

 この日配布されたプログラム資料には、上記のように、ピアノの内田光子の名の方が先に記されていた。なるほど確かに、マーク・パドモアも名の知られた名歌手だが、音楽家としての成熟度や深みという面から言えば、やはり内田光子の方が格上であるに違いない。
 彼女のピアノは、このような歌曲における演奏ではあっても、ソナタでの演奏のように自ら「物語」の雄弁な語り手となっており、しばしば声楽をもリードしてしまう力を備えている(ように感じられる)。

 今日のシューベルトの「白鳥の歌」では、そのテンポの遅さが彼女とパドモアのどちらのテンポによるものかは承知していないが、普段の演奏スタイルからすれば、これもやはり彼女のテンポではないかという気がする━━「影法師」の終結でのピアノの暗い沈潜した表情の、今にも止まってしまいそうなテンポは、内田光子でなければできないものだろう。

 そしてもうひとつ、「白鳥の歌」第14曲の「鳩の便り」が、ふつう演奏されるような解放感を持たず、むしろ第13曲の「影法師」の悲劇性を引きずったような形で始められたのも興味深いが、これも彼女の主導か? ともあれ、彼女のピアノが、旋律よりもむしろ、豊かで表情豊かなハーモニーによって物語を展開して行く性格のものであることも聞き逃せない。

 マーク・パドモアの歌は、CDで聴くと、私にはソット・ヴォーチェが如何にも作為的で過剰気味のように思えてしまうことが多いのだが、このようにナマで聴くと、それがダイナミック・レンジの幅の広さというように感じられることもあって、さほどの違和感にはならない。むしろ、その見事なほどに表情豊かなソット・ヴォーチェの多きがゆえに、たまに聴かせる、ホールを揺るがせる最強音が凄味を帯びて聞こえる。
 それは、ベートーヴェンの歌曲集の最終曲「愛する人よ、あなたのために」の結尾では極めて強い決意を表わすものとなり、あるいはシューベルトの「アトラス」「影法師」でのクライマックス個所では、凄まじい悲劇的な叫びで聴き手を圧倒することになるだろう。

 「白鳥の歌」が終って、カーテンコールが3回ほどあったあと、ホールの照明が上げられ、これでお終いという合図が為されたのは賢明な方法であった。だれだって、このような強烈な「白鳥の歌」の演奏を聴いたあとでは、もう1曲なにか別の曲を聴きたいとは思うまい。

2022・11・24(木)東京二期会 オッフェンバック:「天国と地獄」

      日生劇場  2時

 2019年に日生劇場で上演された鵜山仁演出版の再演。

 しかし、あの時(☞2019年11月21日)より今回の方が流れもよく、賑やかな盛り上がりもあったのは、原田慶太楼の活気に富んだ指揮によるところも大きいだろう。彼のオペラにおける指揮は、私はこれまでブルガリア国立歌劇場の来日公演での「カルメン」くらいしか聴いたことがないのだが、とにかく若々しい気魄と勢いを漲らせた人だから、今後が大いに期待できよう。少なくともこの「天国と地獄」のような陽気な音楽は、彼に向いたレパートリーの一つだと思われる。

 今回は4回公演。ダブルキャストの今日の歌手陣には、杉浦隆大(ジュピター)、高田正人(プルート)、下村将太(オルフェ)、冨平亜希子(ユリディス)、相山潤平(ジョン・スティクス)、手嶋眞佐子(世論)、倉本晋児(バッカス)ほか、たくさんの人々が並び、安定した歌唱を聴かせてくれた。

 演技の方は、日本人が洋物喜歌劇をやるのだから、総じてやや生硬な雰囲気はあるけれども、民族性の違いで致し方ない。ただ、第2幕での天上のボス神(杉浦のジュピター)と地獄のボス神(高田のプルート)の応酬場面などは結構テンポが良かったし、特に同幕最初を飾る相山(スティクス)の怪演(怪唱を含む)は、この幕を、第1幕よりも流れの良いものに変えるきっかけとなったことだろう。

 今回の舞台装置(乘峯雅寛)は、何となくレトロな雰囲気を━━ある同業者が「昭和の雰囲気」と言ったが━━確かに1960年代頃のオペラ上演の舞台のようなものを感じさせる。
 同じ東京二期会の「天国と地獄」でも、以前の佐藤信演出・美術の舞台の方が、もっと洒落ていたと思うのだが・・・・あの時の舞台設定は、天上の神々の住居が超モダンな洋風リビング、冥界の王プルートの館は中国風という趣向だったし、ユリディスは和服姿、地上に現れたプルートは半纏に刺青という格好だったし(☞2007年11月24日の項)。
 いや、1981年と83年上演のプロダクション(なかにし礼&萩本欽一の演出、朝倉摂の美術)だって、ジュピター御一行が地獄に向かって出発する時には機関車に引っ張られた客車が登場していたし・・・・それに比べると今回の舞台は、些か面白味に不足していたのではないか。

 オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団。劇場が残響ゼロにも等しい響きだから、洒落っ気を出すのは難しいが、原田の指揮のもとでまとまりはあった。なお今回は、序曲にはフレンチ・カンカンの入っている有名な方ではなく、オリジナルの静かな曲想の版が使用されていた。

2022・11・23(水)アンドルー・マンゼ指揮北ドイツ放送フィル

     横浜みなとみらいホール  2時

 北ドイツ放送(NDR)には2つの大オーケストラがある。
 ひとつはNDRエルプフィルハーモニー交響楽団。旧称は北ドイツ放送交響楽団、あのギュンター・ヴァントが指揮していた名門である。
 そして、もうひとつがこのNDR北ドイツ放送フィルハーモニー。旧称はハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーで、1998~2009年には大植英次が首席指揮者を務め、彼とともにたしか2回来日したことがある。

 大植英次に率いられ、初めて来日した時には、未だ良きドイツの地方色を残した音を出していたという記憶がある。が、彼との最後の来日の際にはすっかり音色も変わり、現代のオーケストラとしてのカラーを備えるに至っていた(☞2009年6月28日)。
 そして、現在のシェフたるアンドルー・マンゼのもとでは、もう全く別のオーケストラと見まごうほどに、ノン・ヴィブラート奏法系のシャープな響きを出す楽団となっているのだった。何もこのオケがそこまでやらなくても‥‥と、私などは勝手に思うのだが、もちろん、オーケストラだから、客演に迎える指揮者によっては、古式床しい音を出すこともあるだろう。要するにテリトリーが拡大した、ということなのだが。

 ただ興味深かったのは、このオーケストラは、ピリオド楽器系の音を出している時にも、何か伝統的な、ドイツの楽団特有の重厚な音の名残のようなものを、そこに漂わせていたことであった。このあたりが、ドイツのオケの頑固さというのか、あるいは不器用さというのか━━。

 今日演奏されたのは、ベートーヴェンの「エグモント」序曲、「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」、「交響曲第7番」。ただしアンコールはアルヴェーンの「羊飼いの娘の踊り」(と、マンゼ自ら日本語で紹介していた。組曲「山の王」からの1曲である)。
 「皇帝」でのソリストはゲルハルト・オピッツで、マンゼとはおよそ正反対の個性を持つドイツの老練だが、この時ばかりはマンゼの方が少し妥協していたような気配も‥‥。

2022・11・20(日)ジョナサン・ノット指揮東京響「サロメ」

       サントリーホール  2時

 好調のジョナサン・ノット&東京交響楽団のコンビによる演奏会形式オペラのシリーズ、今年はR・シュトラウスの「サロメ」である。コンサートマスターは水谷晃。

 主要歌手陣は、アスミク・グリゴリアン(S、サロメ)、トマス・トマソン(Br、預言者ヨカナーン)、ミカエル・ヴェイニウス(T、ヘロデ王)、ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー(Ms、ヘロディアス王妃)、岸浪愛学(T、衛兵隊長ナラボートおよびナザレ人2)、杉山由紀(Ms、小姓)。
 その他、大川博、狩野賢一、高田智士、升島唯博、吉田連、高橋圭、新津耕平、松井永太郎、渡邊仁美が出演している。

 これは、今年のベスト1有力候補と言ってもいいほどの演奏会だった。功績の第一は、もちろんジョナサン・ノットと東京交響楽団に帰すべきである。ノットの指揮する「サロメ」は、官能美とか頽廃美とかいった要素には若干不足するものの、ドラマとしての緊迫度においては、驚異的な水準に達しているだろう。
 東京交響楽団も文字通り獅子奮迅の演奏で、その燃焼度の高さは、国内のオーケストラの中ではおそらく随一の出来だったと評して過言ではあるまい。先日のショスタコーヴィチの「第4交響曲」に勝るとも劣らぬ見事な演奏ではあった。

 歌手陣も充実していた。タイトルロールのアスミク・グリゴリアンは期待を裏切らぬ素晴らしい歌唱で、彼女の描くサロメ像は決して好色でも淫靡でもなく、むしろ純な一途さを感じさせる若い女性━━といった雰囲気に感じられたのではないか。今や欧州のオペラ界では日の出の勢いにあると聞くが、魅力的な若い世代のソプラノの登場を喜びたい。

 ヘロデ王役のヴェイニウスは、あまり好色的な表現を採ってはいなかったが、演奏会形式としてはむしろこのあたりが好ましかろう。
 その他の人々も、みんな良かった。鈴木准の代役として急遽ナラボートを歌った岸浪愛学も、曲の冒頭を飾る大切な役柄で、完璧に責任を果たした。
 咆哮する大オーケストラに声がマスクされる個所も少なくはなかったが、この演奏会用配置では仕方のないところだったと思われる。

 演出監修には今回もトーマス・アレンが名を連ね(実際にカーテンコールにも現れた)ていたが、歌手は大体ステージ前面に位置する演奏会形式だから、その出入りに少し趣向を加えたのみの仕事にとどまっていたようだ。
 ただ、注目してもいい趣向と言えば、古井戸内のヨカナーンの歌を、舞台袖から歌わせるのではなく、オルガン下のP席の後方の上手側ドアの傍で聴かせるようにしたことと、彼を「7つのヴェールの踊り」の後の処刑の場までずっとそこに位置させたこと。これらは、このドラマの人間たちは終始ヨカナーンの圧力の影響下に置かれていることを暗示したのではないかと推測されたが━━。

 たった一つ、字幕について疑問を申し上げれば、全曲最後にヘロデ王が発する一言のところ。「この女を殺せ!」と表示されていたのだが、これはやはり「あの女を殺せ!」にすべきだった。何となれば、サロメは既に下手側袖に姿を消しており、ヘロデの目の前にいるのは王妃ヘロディアスただ1人だったからである。これでは、雰囲気がおかしくなる。もっとも、筋書はみんなが知っているところではあるが。

 カーテンコールは、空前の盛り上がりを見せた。我慢し切れなくなったブラヴォーの声が、掟を破って盛んに飛んでいた。
 ノットと東京響の次回のこのシリーズは、来年5月のR・シュトラウスの「エレクトラ」とのこと。今の調子で行けば、来年の成功は約束されたも同然だろう。

2022・11・19(土)イゴール・レヴィット・ピアノ・リサイタル

      紀尾井ホール  2時

 ロシア系移民のドイツ人イゴール・レヴィットのベートーヴェンのピアノ・ソナタ・ツィクルス、前日の第1回(1、12、25、21番)に続く今日は、「第5番Op.10-1」「第19番Op.49-1」「第20番Op.49-2」「第22番Op.54」「第23番Op.57《熱情》」というプログラムが組まれていた。
 第3回と第4回は来年11月に行われるという。

 レヴィットが、難民問題やユダヤ人問題など政治的なテーマにつき積極的に発言し、ドイツでは広く注目を浴びているピアニストである、という、ベルリン在住の城所孝吉さんによる興味深い記事がプログラム冊子に載っているのを読んだ。
 面白かったが、レヴィットのそういう姿勢がベートーヴェンのソナタの演奏においてどのように反映されているのかをわれわれが読み解くことは、至難の業だ。やったとしてもせいぜい憶測かこじつけの範囲を出ないだろう。いずれにせよそれは━━ロリン・マゼールの名表現を借りれば━━「自分(この場合はレヴィットだが)の頭の中では繋がっている」ということになるのだろう。

 今日のプログラム、どの曲においても剛直で厳しくて、凄まじい意志の力を感じさせる表現の演奏ばかりだ。叩きつけるフォルティッシモは強靭そのもので、時には音が濁りかけることもあるほどだが、これが所謂「バリバリと弾く」演奏に感じさせないところが、この人の端倪すべからざる才能なのだろう。
 全身を武具で固めたような、強面のベートーヴェン像なのだが、「第20番」の第2楽章のような個所では、いわば「戦士の休息」といった表情を見せるのも面白い(彼がこれを弾き終った瞬間、客席の方に見せた笑顔が印象的だった)。

2022・11・18(金)フランソワ・ルルー指揮 日本フィル

      サントリーホール  7時

 一昨日、「コロナ・ワクチン第5番」をやったため、副反応を警戒してその日の「アルゲリッチ&海老彰子」(みなとみらいホール)は欠席連絡。今日も予定はマチネーの「沖澤&新日本フィル」のみにとどめておいたのだが、日本フィル事務局のSさんから「これは面白いから聴くべし」と煽られ、幸い副反応も皆無の気配と見て、トリフォニーホールからこちらへ回って来たわけである。確かにこれは、聴いておいてよかった。

 オーボエ奏者にして指揮者のフランソワ・ルルーが客演、自らドヴォルジャークの「管楽セレナード」とモーツァルトの「オーボエ協奏曲」を吹き、その一方、ドヴォルジャークの「伝説」から第1番、第8番、第3番と、ビゼーの「交響曲ハ長調」を指揮した。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 第1部で演奏されたドヴォルジャークの2曲は、意外にナマでは聴く機会のほとんどない作品だが、いかにも素朴で、不思議な郷愁感に誘ってくれる。ルル―がこういう「伝説」のような曲を、これほど民族色豊かに指揮するとは、失礼ながら、予想もしていなかった。

 第2部では、ルル―の本領がさらなる全開だ。ドヴォルジャークの音がまだ耳に残っているところへ、モーツァルトの響きが突然飛び込んで来るこの瞬間の、何と新鮮なこと! いや、それはともかく、「吹き振り」のルルーのまた素晴らしいこと! 
 甘く華麗な音色を湛えたそのソロは、昔の佳き時代の名人の語り口そのまま、表情は自由奔放、変幻自在。それでいながら大元の筋は決して外さずに一本の太い流れを形づくる。それは一つ一つの音符を正確に吹くことを優先する現代の演奏スタイルとは些か異なる芸風であり、それに戸惑う聴き手もいるかもしれないが、今日の客席の人びとは私同様に、この名人芸に酔わされたようである。

 カデンツァの個所での気持よさそうなルルーの独壇場といったら! 日本フィルが見事に柔軟にこのルルーの音楽を受けて完璧な演奏を聴かせた。
 そしてアンコールには、ルルーが自ら編曲したという、モーツァルトの「魔笛」のモノスタトスの短いアリアが演奏されたが、これがまた何と軽快なこと。あの腹黒いモノスタトスがこの上なく愛らしく、魅力的な人間に感じられるほどの音楽になっていた。

 最後は、ルルーが指揮台に立ってのビゼーの「交響曲ハ長調」だったが、これまたえらく勢いのよい演奏だ。この曲をルルーが選んだのは、第2楽章にあるあの甘美な旋律のオーボエ・ソロを聴かせたかったからではなかろうか。そこはまさか自分では吹かなかったけれども、首席オーボエ奏者の杉原由希子が見事にそれに応えた。
 そしてルルーは、終楽章(アレグロ・ヴィヴァーチェ)を飛ぶような速度で指揮し、本当に気持よさそうにコンサートを締め括ったのだった。

2022・11・18(金)沖澤のどか指揮 新日本フィル

       すみだトリフォニーホール  2時

 各オーケストラに引っ張り凧の沖澤のどか。今回は新日本フィルのマチネー定期に登場して、モーツァルトの「フリーメイソンのための葬送音楽」、マーラーの「亡き子をしのぶ歌」(バリトン・ソロは大西宇宙)、ブラームスの「交響曲第4番」を指揮した。

 この若さで、これだけ「音」に豊かな情感をこめることができるのは驚異的なことだろう。新日本フィルも見事にそれに応えた。「フリーメイソンのための葬送音楽」がこれだけ感情豊かに響いた演奏の例を、私は多くは知らない。
 ブラームスの交響曲でも、第1楽章の主題などには、喩えて言えば北国の憂愁といった美しさを漂わせて、昔から数え切れぬほど聴いて来たこの曲の良さをもう一度ここでも蘇らせてくれる━━そういう演奏となっていたのだ。つまり、よくあるタイプの「無味乾燥な演奏」とは全く違うのである。

 デュナミークの強調と、それによるクレッシェンドの効果もなかなか凄い。ブラームスの第1楽章でもそれはいくつかの個所で際立っていたが、第3楽章━━非常に速いテンポで演奏された━━でしばしば施されたクレッシェンドの猛烈さには驚いた。この若い女性指揮者のどこからこんな激しい感情の動きが出て来るのだろう? 第3楽章の終結近くの個所、あるいは第4楽章のコーダの個所などで、頂点へ追い上げて行く呼吸の巧さ、緊迫感の強さにも舌を巻いた。

 ただその一方、この曲の前半の2つの楽章で、音楽が盛り上がったあとに静かな主題等が訪れる個所などで、緊張が急に途切れるような瞬間があるのが気になった。その所為でもあろうが、第1楽章と第2楽章の演奏には何か一つ纏まりが不足していたように感じられたのだが、━━しかしこれは、明日の公演では解決されるかもしれない。

 「亡き子をしのぶ歌」では、最近好調の大西宇宙が好演していたのは事実だが、オーケストラの方が、冒頭の木管群からして何となく落ち着きがなく、妙に隙間の多い演奏に感じられてしまったのは私だけだろうか? しかしまあ、これも明日の演奏では何とかなるだろう。
 コンサートマスターは西江辰郎。

2022・11・15(火)アンドリス・ネルソンス指揮ボストン交響楽団

      サントリーホール  7時

 今回の来日公演のこれが最終日。アメリカの現代作曲家キャロライン・ショウの「プンクトゥムPuncutm」、モーツァルトの「交響曲第40番」、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」というプログラム。

 「Punctum」はボストン響の委嘱作品で、今年の夏に初演されたばかりの由。旧作の弦楽四重奏曲を弦楽合奏曲に編曲したものだとのことだが(委嘱曲に旧作を編曲して出すなんてアリなんですかね)、「ノスタルジアの試み、予期し得ないもの」とかいう意味らしい作曲者の解説(プログラム冊子掲載)と結びつけて考えれば、バッハの「マタイ受難曲」や、ボッケリーニの「マドリードの帰営」などの回想が蘇り━━などと勝手に解釈してもいいのかもしれない。軽い曲だ。

 一方、モーツァルトの「ト短調K.550」は、弦12型のクラリネット使用版による厚く豊麗な響きで演奏された。こういう演奏は、私などの世代にとっては、ある種のノスタルジアを感じさせる。

 ステージを文字通りあふれんばかりに埋めつくした大編成による「アルプス交響曲」は、このボストン響の機能的な強みと、いかにもアメリカのオーケストラらしい開放的なパワー(決して悪い意味で言っているのではない)を、存分に発揮した演奏と言えるだろう。屈託も翳りもないスペクタクルな面白さのみを狙いとした作品だから、こういう巧い、豊かな音響を持つオーケストラの演奏で聴けば効果も充分だ。嵐の場面など、流石のものである。

2022・11・15(火)新国立劇場「ボリス・ゴドゥノフ」

     新国立劇場  2時

 開場以来25年になる新国立劇場のロシア・オペラにおけるレパートリーは極度に貧しく、上演されたのは、僅かに五十嵐喜芳芸術監督時代におけるチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」(2000年10月)、若杉弘芸術監督時代におけるショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(☞2009年5月7日)、大野和士芸術監督の時代になってからの「エフゲニー・オネーギン」(☞2019年10月1日)と、同「イオランタ」およびストラヴィンスキーの「夜鳴きうぐいす」(☞2021年4月8日)の、計4作に過ぎない。

 邦人歌手にはロシア語歌唱が難しいという問題もあっただろう。大野芸術監督はロシアものの上演にも熱意を示しているようだが、新たに重なったコロナ蔓延とウクライナ侵攻問題のことも考えると、やはり気長に模索する他はないかもしれない。
 そういう中で今回、「ボリス・ゴドゥノフ」が予定通り上演できたというのは、むしろ僥倖、いや、よくやったと言えるだろう。

 今回のプロダクションは、ポーランド歌劇場との共同制作によるマリウシュ・トレリンスキ演出版だ。演奏は大野和士指揮東京都交響楽団。
 歌手陣はギド・イェンテンス(ロシア皇帝ボリス・ゴドゥノフ)、小泉詠子(その息子フョードル)、九嶋香奈枝(皇女クセニア)、金子美香(乳母)、アーノルド・ベズイエン(陰謀家の大貴族シュイスキー公)、ゴデルジ・ジャネリーゼ(修道僧の長ピーメン)、工藤和真(若い修道僧グリゴリー、のちの偽ドミトリ―)、河野鉄平(破戒僧ワルラーム)、青地英幸(同ミサイル)、秋谷直之(貴族会議書記シチェルカーロフ)、清水華澄(女将)、清水徹太郎(聖愚者の声)、ユスティナ・ヴァシレフスカ(フョードルと聖愚者の黙役)ほか。
 新国立劇場合唱団、TOKYO FM少年合唱団。

 使用された楽譜は、プロローグと4部からなる1869年の初版のあとに、1872年の改訂版から「クロームイの森(民衆蜂起の場)」を加えた、いわばシンプルな折衷版ともいうべきものだ。
 しかし演出には多くの斬新なアイディアが詰め込まれており━━例えばボリスの息子フョードルと聖愚者を重ね合わせることによりボリスのトラウマを増大させること、フョードルを身体障碍者としたこと、その将来を慮ったボリスが自ら彼を枕で窒息死させること、修道院から逃走したグリゴリーが目指すのはエストニアでなくモスクワのクレムリンだったこと(彼が扇動するのはロシアの民衆であり、ポーランド軍の助力は必要ない)、偽ドミトリーがピーメンをも殺すこと(過去を知られる危険を防いだのだろう)、最終場面でボリスが民衆に殺され、死体が逆さ吊りにされることなど、━━例はこれだけにとどまらない。

 これらはいずれもよく考えられたアイディアであり、史実との関連はともかく、全体の設定の中ではかなり筋が通る話だろう。
 新国立劇場が初めて「ボリス」を取り上げるに際し、今更17世紀初頭のロシア歴史を舞台に再現する必要もなかろうし、西欧の歌劇場ではありふれたものになっているこのような演出スタイルを取り入れるのも悪くないと思われる。
 ただ、欧州で行なわれている演出の中には、時にくどすぎる趣向が見られることがあって、今回も・・・・。

 なお今回のプログラム冊子が、「読み替え演出」によるドラマの内容について非常に詳細な解説を掲載していたことには、大いなる賛意を表したい。これまでは「ネタバレになる」として一切の説明を避け、ただオリジナルのストーリーしか載せないのが流儀だったが、そうなると「異なる解釈」を理解できぬ観客が嫌気を催し、歌劇場から遠ざかる結果を招きかねない、と私もあちこちで訴えていたので。

 演奏はすこぶる見事だった。オーケストラの音に厚みがあり、ムソルグスキーの音楽の暗い音色がよく再現されていたと思う。大野和士の指揮のもと、この劇場のピットでもこれだけ雄弁な厚いオーケストラの音も聴けるのだということを、久しぶりに証明してくれた例である。
 そして歌手陣も、イェンティンス、ベズイエン、ジャネリーゼの外来勢の底力のある声の素晴らしさはもちろん、邦人勢もワルラーム役の河野鉄平、グリゴリー/ドミトリーの工藤和真、女将の清水華澄をはじめ、みんな聴き応え充分だった。ロシア語の発音については、私は何とも言えないが━━言語指導を担当していた一柳さんからみればどうなのかは知らないが━━違和感は全くなかった。

 5時30分頃終演。カーテンコールや、そのあとのイヴェントにも参加したかったが、次のサントリーホールの開演時間との関係もあるので、早々と失礼する。

(ある点に関する指摘につき、非公開指定コメントをお寄せ下さった方に御礼申し上げます)

2022・11・14(月)マルタ・アルゲリッチ&フレンズ

      すみだトリフォニーホール  7時

 マルタ・アルゲリッチを中心にしたコンサート。「イヴリー・ギトリスへのオマージュ」)という副題(原題はRemembering Ivry Gitlis)がついている。

 プログラムと演奏は、第1部にモーツァルトの「4手のためのピアノ・ソナタ ニ長調K.381(123a)」(マルタ・アルゲリッチ&海老彰子)、フォーレの「ヴァイオリン・ソナタ第1番」(村田夏帆&海老彰子)、フランクの「ヴァイオリン・ソナタ」(辻彩奈&アルゲリッチ)、第2部にシューマンの「ピアノ五重奏曲」(アルゲリッチ&カルテット・アマービレ)。
 第2部が始まったのが既に8時50分で、しかもアンコールではその第3楽章の終りの方をもう一度演奏したので、終演は9時半になった。

 アルゲリッチの存在感の大きさ━━その演奏が放射する力の強さは、こういうコンサートになると、更に強く印象づけられる。フランクのソナタでは、さすがの辻彩奈すら、アルゲリッチの雄弁なピアノの大海原の上に舞う海鳥とでもいった感だ。

 だが今日の演奏の白眉は、やはりシューマンの五重奏曲であったろう。アルゲリッチは、時には若者のカルテットを支えるが如く背景に退くかと思うと、俄然彼らを支配するかのように大きく翼を広げて包み込む。いや、包み込むというよりはむしろ、すっぽりと覆ってしまう、というイメージだろう。この起伏の差の凄まじさたるや、筆舌に尽くし難い。
 だが、アマービレの演奏も佳かった。第3楽章のテンポは快速を極めたが、若いカルテットは一歩も退かずに応酬した。第4楽章での追い込みでの白熱的な沸騰は、めったに聴けないほどのものだったろう。

2022・11・13(日)アンドリス・ネルソンス指揮ボストン交響楽団

       サントリーホール  4時

 先週のみなとみらいホールにおける演奏会と同じマーラーの「交響曲第6番」。

 さすがにこちらはほぼ満席に近い入りとなっていた。ホールの響きが違うせいか、それとも弾き方を変えたのかは定かでないが、弦の表情は少し荒々しくなっていたようで、従って曲の冒頭からして荒々しさが増していたような感を受けた。
 とはいえ、ネルソンスとオーケストラのこの曲に対するアプローチが、基本的に変わっていたというわけではない。エネルギー性の凄まじいことは前回と同様で、陰翳の薄い、「悲劇的Tragic」というイメージにはほとんど縁のない演奏である。

 それにしても、この「6番」というシンフォニーは、何と途方もなく巨大な、恐竜の如く威圧的な音楽であることか。先日久しぶりに聴いたヴァレーズの「アルカナ」という曲は、まさしくこのマーラーの「第6交響曲」の延長線上にある作品だった、などと思いをめぐらせながら聴いていた次第だ。
 そしてこのボストン響は、何とまあ強靭で力感があって、巧いことか。こういう優れたオーケストラの演奏で聴くと、この曲がいっそう凄まじく感じられる。

2022・11・12(土)ドニゼッティ:「ランメルモールのルチア」

      日生劇場  2時

 「NISSAY OPERA」の一環、田尾下哲演出、柴田真郁指揮によるドニゼッティのオペラ「ランメルモールのルチア」。
 これは2020年に上演が計画されていたが、新型コロナ蔓延のため延期され、替わりに抜粋形式で上演されていたものだった(☞2020年11月15日)。

 今回はもちろん全曲の6回上演で、今日は4日目。配役はダブルキャストで、今日の出演は、高橋維(ルチア)、城宏憲(その恋人エドガルド)、加耒徹(ルチアの兄エンリーコ)、ジョン・ハオ(牧師ライモンド)、高畠伸吾(貴族アルトゥーロ)、与田朝子(ルチアの侍女アリーサ)、吉田連(エンリーコの家臣ノルマンノ)、田代真奈美(泉の亡霊、黙役)。
 管弦楽と合唱は読売日本交響楽団とC.ヴィレッジシンガーズ。なお「ルチアの狂乱の場」にはグラスハーモニカが使われ、ガラス楽器奏者として有名なサシャ・レッケルトが演奏していた。

 舞台の中央の小舞台とその前方のスペースで全ての演技が行われる仕組みだが、ただし時には前景で台本通りのドラマが展開され、その背後の奥舞台では普通は観客の目に触れない出来事が現実に視覚化される、という手法が採られる━━例えば第3幕の、エンリーコとエドガルドが憎悪をむき出しにして応酬している場面で、背景では、精神に異常を来たしたルチアが新床でアルトゥーロを刺殺する光景が同時に展開される、といった具合である。

 この手法は特に珍しいものではないが、もう少し照明に工夫を凝らし、二つの出来事が対比的に際立つように演出されていたら如何だったであろう? 
 その他、ルチアの宿命を象徴する「泉の亡霊」をあちこちに出没させ、徘徊させていたのは前出の2年前の抜粋上演に同じだが、これが何となくウロウロと歩き回るのみという印象を受けてしまい、ルチアのトラウマとの関連がそれほど的確に描写されてはいなかったのは惜しまれる。

 歌手陣は手堅く、特にエドガルド役の城宏憲の力のある歌唱が光っていた。
 ただ、何と言ったらいいか━━全員に、もう少し「役者然とした」雰囲気が欲しいのである。派手な立ち回りもいくつか折り込まれていたが、それでもみんな、何か枠に嵌ったような演技にとどまり、今ひとつ伸びやかな、リアルな迫力に不足しているのが残念だった。必ずしも舞台が暗い所為でそう感じられたわけではないだろう。

 その暗い舞台に合わせたのか、歌唱と、オーケストラを含めた演奏全体にも、もっと伸び伸びとした「歌」が欲しかった。柴田真郁が意図的にそうした悲劇的で、重い雰囲気を求めていたのかどうかは判らないけれども、これほど枠に嵌ったような、解放感の無いドニゼッティの音楽も珍しい。読響が何故かアンサンブルも粗く、音も薄かったのも、このオーケストラらしからぬ現象だ。

 ただし、「ルチアの狂乱の場」でグラスハーモニカを使用したこと自体は、好いことだろう(ちょっと聞こえにくかったところもあるのだが)。ルチアのこの世ならざる幻想を描くには、やはりこういう神秘的な音色の方がよく似合う。
 また、第3幕第1場の「嵐の場面」をカットせずに上演したことは当節では珍しくないが、同幕第2場でルチアの「狂乱の場」が終った後の短いシェーナの部分━━ライモンドがノルマンノの卑劣な行為を激しく非難し罵倒する場面をもそのまま生かしていたことは珍しいだろう。CDでは昔のヘスス=ロペス・コボス指揮のフィリップス盤がそこをノーカットでやっていたことを思い出す。ドラマとしては、この方が遥かによく筋が通るし、意義のある演奏であった。

 とはいえ今回、その場面に応じるような形で、全曲幕切れでエンリーコがノルマンノを叩きのめすという演出が施された(ように見えたが‥‥見間違いだったら御免なさい)上に、エンリーコを(エドガルドではなく!)中央に位置させて閉じたのは、ちょっとエンリーコに同情しすぎじゃあないかという気もするのだが━━。

2022・11・11(金)五嶋みどり トリオの夕べ

      サントリーホール  7時

 「デビュー40周年記念~ベートーヴェンとアイザック・スターンに捧ぐ」と題してサントリーホールで開催されている5日連続の演奏会。

 ベートーヴェンの作品を中心にしたプログラムで、最初の3回にはソナタ全10曲のツィクルス、他の2回にはそれぞれ室内楽(三重奏曲集)とコンチェルト(デトレフ・グラナートの新作の日本初演を含む)が組まれている。
 今日は第4日、「ピアノ三重奏曲」の「第1番」「第3番」「第7番《大公》」が演奏された。協演はピアノがジョナサン・ビス、チェロがアントワーヌ・レデルラン。

 「大公トリオ」冒頭の主題を、ビスが実に物静かに、柔らかく弾きはじめる。まさに楽譜の指定dolceの通りだ。第4小節~第6小節にあるsfpも、決して威容を示すような表情にならない。
 五嶋みどりも、第33小節目以降のフォルテとピアノが1小節ごとに交替する個所をレガートなディミニュエンドとして柔らかく弾く。こういう「優しい」ニュアンスが演奏全体にあふれ、ベートーヴェンの音楽を不思議なあたたかさで満たしていたのが、今日の3人の演奏全体に流れる基調のようなものだったと言えようか。

 もちろんこれは、ある一面について言っただけの話で、彼らの演奏がおとなし過ぎたとか、安らぎを感じさせるだけのものだったとか、そんな意味では全くない。彼女の演奏は、ジャン=イヴ・ティボーデとのソナタではどうだったのだろうか? 最近ワーナーから出たSACDで聴く演奏では、もう少し異なった特徴が感じられたのだが。

 客席は文字通り満杯。終演は9時25分頃になった。
 ホールの出口には「五嶋みどりさんからのプレゼント」とアナウンスがあったように、彼女のエッセイや対談が収載されている「道程」と題された美しい本が並べられ、客が自由に持ち帰れるようになっていた。

2022・11・10(木)藤岡幸夫指揮東京シティ・フィル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の11月定期は、首席客演指揮者の藤岡幸夫が指揮。第1部にヴォーン・ウィリアムズの作品2つ━━「トマス・タリスの主題による幻想曲」および「2台のピアノのための協奏曲」、第2部にドビュッシーの作品2つ━━「牧神の午後への前奏曲」および「海」を並べるという、珍しいプログラムだった。
 ゲスト・ピアニストは寺田悦子と渡邉規久雄。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 ヴォーン・ウィリアムズを取り上げたのは、今年が彼の生誕150年記念にあたることもあって、時宜を得たものと言えるだろう。
 私も先頃、アルテスパブリッシング社から刊行された、サイモン・ヘファー著「レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ 〈イギリスの声〉をもとめて」という本の邦訳(小町碧、高橋宣也訳)を大変興味深く読んだばかりなので、この演奏会にも関心を持っていた。特にこのコンチェルトはナマでは滅多に聴ける曲ではないし、実に貴重な機会であった。

 「幻想曲」は1910年の作、「2台のピアノのための協奏曲」(1946年初演)のオリジナル版「ピアノ協奏曲」は1933年の初演だから、作曲年代の開きは僅か20有余年なのだが、その作風には大きな違いがある。協奏曲でのオーケストレーションとピアノのパートは、不協和音も活用された著しく攻撃的な音楽になっているからである。
 前掲書の「第4交響曲」の項に「ヴォーン・ウィリアムズといえば田園ふうという世評を考えなしに鵜呑みにして‥‥この作曲家はこういう人だと決めてかかることはもうできないと‥‥」(122頁)とあるのは、実に言い得た表現だ。

 プログラム後半のドビュッシー2曲での演奏は少しく精妙さには不足したものの、しかし交響詩「海」の、特に「波の戯れ」と「風と海との対話」での演奏は、劇的な起伏感に富んで魅力的だった。

2022・11・9(水)アンドリス・ネルソンス指揮ボストン交響楽団

      横浜みなとみらいホール  7時

 ボストン響の、音楽監督アンドリス・ネルソンスとの来日は、5年ぶり2度目になる。今日は初日公演。マーラーの「交響曲第6番イ短調」(《悲劇的》の副題は今回の日本公演では使われていない)1曲というプログラムでフタを開けた。

 次の日曜日に東京公演でも同じプログラムが演奏されるということも影響してか、名門ボストン響の演奏会としてはちょっと寂しい入りだったのが、遠路遥々訪れたオーケストラには気の毒だった。だが演奏は威力充分、曲が曲だけに、その爆発的なパワーは見事なものがある。

 第1楽章の最初の部分を聴いただけで、ボストン響のカラーには今も独特の個性があるな、という印象を受ける。特に弦楽器群の、スリムでしなやかな響き。それは、われらの小澤征爾が音楽監督だった時代とほとんど変わらない。
 ただし金管は豪快でブリリアントな響きになって、これはもう小澤時代とは全く違い、大昔の音楽監督シャルル・ミュンシュの時代━━1960年の来日の際にただ1回聴いただけだが、あれは強烈な印象だった━━が甦ったかのようだ。とりわけ今日は、トランペットの輝かしさが際立っていた。
 今にして思えば、小澤征爾が率いていた時代のボストン響は、随分室内楽的な精緻な音を出すオーケストラだったのだなあと、一瞬だったが改めて感慨に耽る。

 ネルソンスの指揮するマーラーの「6番」は、何の外連も、これ見よがしの誇張した演出もなしに、この曲が本来備えている並外れた怒号と咆哮のエネルギー性を率直に追ったものと言えようか。いかなる大音響のさなかにあっても、彼の指揮は均衡と節度を失わないので、音楽は暴虐的な狂気に陥るタイプの演奏にはならないのが好ましい。アンダンテ楽章での弦楽器群の豊かな起伏感を持った叙情美も、圧巻だ。

 新しい全集版を使っているはずだが、ただし第2楽章にスケルツォ、第3楽章にアンダンテを置いた演奏で(この方がずっと好い!)、しかも第4楽章でのハンマーは3回目のものが復活されている。ついでながらこのハンマーはあまり大きいものではなく、それで大きな箱(戸棚みたいなもの)が叩かれる。

 演奏時間はちょうど90分。帰りがけにホワイエを見ると、何とネルソンスがサイン会をやるとかで、既に行列が出来はじめていた。今どき珍しいことだ。

2022・11・4(金)小泉和裕指揮名古屋フィル マーラー:「復活」

     愛知県芸術劇場 コンサートホール  6時45分

 これは名古屋フィルハーモニー交響楽団の11月定期の初日。マーラーの「交響曲第2番《復活》」が演奏された。
 音楽監督・小泉和裕が指揮し、グリーン・エコーと名古屋コール・ハーモニア、安井陽子(S)、福原寿美枝(Ms)が協演。コンサートマスターは荒井英治。

 小泉和裕は、10月の九州交響楽団の定期でもこの「復活」を指揮していた。彼のそれぞれの音楽監督としての任期は、九響は2024年3月までだが、こちら名フィルの方は、2023年3月で終る。従ってこの「復活」は、2016年4月以来の、彼の音楽監督としての最終シーズンのクライマックスを成す演奏会と言ってもいいだろう。ただし彼の登場する定期は、まだ来年2月にもある。

 演奏は予想通り、厳格に構築された揺るぎない「復活」である。音楽がどれほど激情と狂乱の坩堝となった個所においてさえ、彼の指揮はそのフォルムを崩さない。1975年1月の新日本フィル定期で初めて彼の指揮に接して(放送もした)以来、ずっと私が聴き続けて来た小泉和裕の、それが個性だ。忘我的な陶酔に引き込まれるというタイプの指揮ではないけれども、シンフォニーというものの音楽の建築の魅力を充分に感じさせてくれる指揮なのである。

 「シンフォニーをちゃんと演奏できるオーケストラにしたいんだ」というのが、彼がいろいろなオーケストラのシェフになる時の口癖だった(私が最初にそれを聴いたのは彼の都響の首席指揮者就任の際だったが)。ただ、彼の指揮が感情の動きを無視するというスタイルではないことは、改めて言うまでもない。今日の演奏でも、凄まじい感情の爆発点がいくつも聴かれていた。マーラーの交響曲が持つ起伏の物凄さは、存分に発揮されていた。名フィルは、渾身の演奏だったことだろう。

 声楽ソリストは、ステージ正面奥の壁面の一部が観音開きになった所から静かに登場し、そのまま奥に位置する(まるで「ヴァルキューレ」で暗黒の中からブリュンヒルデが登場するような雰囲気だ)。
 福原寿美枝のコントラルトはこれまで以上に深く、かつ強大になり、ますます凄味を増したように感じられる。「復活」でこれほど「恐ろしい」(悪い意味で言っているのではない)歌を聴いたことは、これまでにない。

 コーラスにはもうひとつ密度の濃さを求めたいところだったが、多分明日の公演では改善されるだろう。
 第5楽章でのバンダはその「観音開き」の奥から聞こえて来る仕組だったが、遠近感という点ではあまり効果が上がらなかったようである。

 プログラムが1曲だけなので、8時半前に終演となった。楽屋で小泉夫妻と久しぶりに会い、昔話を一つ二つして辞し、9時17分の「のぞみ」で帰京。

2022・11・3(木)マクシム・エメリャニチェフ指揮新日本フィル

     すみだトリフォニーホール  2時

 1988年ロシア生まれの指揮者・ピアニスト、マクシム・エメリャニチェフは、これも今評判の若手だ。4年前の東京交響楽団への客演指揮の際は、こちらのスケジュールが合わず聴き逃してしまったのは残念だが、たしかあの日はラトルとロンドン響の来日公演を聴きに行っていたので━━。

 従って、エメリャニチェフの指揮を聴くのは今日が最初になる。今回、新日本フィルの11月定期で彼が指揮したのは、ハイドンの「交響曲第95番ハ短調」、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはアレクサンドル・メルニコフ)、ラフマニノフの「交響的舞曲」というプログラムだった。コンサートマスターは西江辰郎。

 噂に違わず、たいへん切れ味の鋭い指揮である。ハイドンの交響曲では、鋭いパンチを食らわせるような冒頭の和音からして、聴き手に強烈な印象を与える。全曲は明晰な隈取りを持った音づくりで進められ、それはちょっと冷たさが感じられなくもないが、一種の爽快さを備えていることも確かだ。その演奏のスタイルは、彼の新しいCDに聴くヘンデルのオペラ「テオドーラ」(エラート5419.717791)のそれとも共通しているだろう。
 聴いていて心が休まるというタイプのハイドンではないが、こういう容相のハイドンがあること自体は興味深い。

 プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番」では、メルニコフがソリストに迎えられていた。彼は本当に多くの抽斗を持ったピアニストだが、今回はその豪壮で強面なピアニズムが発揮された演奏だった。
 彼は昔、プレトニョフ指揮東京フィルと協演してこの曲を弾いたことがあり、その時の演奏が実に若々しく颯爽としていたのに魅力を感じた(☞2007年10月19日参照)ものだが、今の彼の演奏にはもっと陰翳の濃い、強靭な凄さが加わっているように感じられる。

 なおこの曲のあと、メルニコフとエメリャニチェフは連弾でラヴェルの「マ・メール・ロワ」からの「美女と野獣」を弾いた。この演奏はあまりピンと来なかったけれど、弾く前に客の方を向いてニコッとしたエメリャニチェフの何とも親しみやすい表情に、客席から笑い声と拍手が湧いたことだけは書いておかなくてはならない。

 私の方は、1週間ほど前から咳が出始め、これは季節の変わり目になると起こる持病のようなものなのだが、そのためこの間シフや愛知室内オーケストラなどいくつかの演奏会を棒に振っており、実は今日も、演奏さなかにそれが止まらなくなった。周囲にも迷惑をかけていたのではないかと身の縮む思いで、休憩時間に事務局の了解をもらい、後半は3階席の隅っこの、あまり人がいない場所に移動させてもらった。
 だがこの3階席で聴く音が好いことは、多くの人が認めている通りだ。そこで聴くと、新日本フィルがエメリャニチェフの闊達な指揮のもと、バランスのいい音で鮮やかに高鳴っているさまが、1階席で聴くよりも明確に判り、快く享受することができる。ラフマニノフの「交響的舞曲」がこれだけ勢いのいい、叩きつけるような切れ味の良さで響いた演奏もそう多くはないだろう。音の厚みには些か不足していたものの、演奏に開放的な楽しさが溢れていた。それもやはり、3階席だから味わえたのではないだろうかと思う。

 このエメリャニチェフという指揮者、かなりアクの強い指揮者だが、とにかく面白い。6日には紀尾井ホールで、今度はピアニストとして「3種の鍵盤によるモーツァルト・リサイタル」なるものをやる。ますます面白い人だ。聴きに行けないのが残念だが。

«  | HOME |  »

























Since Sep.13.2007
今日までの訪問者数

ブログ内検索

最近の記事

Category

プロフィール

リンク

News   

・雑誌「モーストリー・クラシック」に「東条碩夫の音楽巡礼記」
連載中