2022年12月 の記事一覧
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2022・12・30(金) コンサート日記版 2022年回顧ベスト10
2022・12・28(水)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィル「第9」
2022・12・26(月)エリアフ・インバル指揮東京都響「第9」
2022・12・22(木)METライブビューイング ヴェルディ:「椿姫」
2022・12・20(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団
2022・12・18(日)太田弦指揮日本フィル「第9」
2022・12・17(土)オレーフィチェ:オペラ「ショパン」日本初演
2022・12・16(金)庄司紗矢香&ジャンルカ・カシオーリ
2022・12・15(木)Richard Wagner「わ」の会コンサートvol.8
2022・12・13(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団
2022・12・12(月)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団
2022・12・10(土)キングズ・シンガーズ
2022・12・10(土)下野竜也指揮日本フィルハーモニー交響楽団
2022・12・9(金)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツカンマ―フィルⅡ
2022・12・8(木)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツカンマ―フィル
2022・12・8(木)新国立劇場 モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」
2022・12・7(水)ティーレマン指揮シュターツカペレ・ベルリン
2022・12・7(水)ロイヤル・オペラ「アイーダ」L.V
2022・12・4(日)田部京子ピアノ・リサイタル
2022・12・3(土)ジャパン・アーツ スペシャル・ガラ・コンサート
2022・12・2(金)トマーシュ・ネトピル指揮読響&ムローヴァ
2022・12・1(木)モリエール:「守銭奴」
2022・12・30(金) コンサート日記版 2022年回顧ベスト10
「モーストリー・クラシック」(12月発売号)、「朝日新聞 私の3点」(12月)、「毎日新聞クラシックナビ」(1月)などに、3件あるいは5件の「回顧ベスト」を出してはいるけれども、それとは別個に、やはりこのブログ独自のベスト10モノがあってもいいのではと思い━━。
昔、体力がある頃には、年間に300公演前後を聴いて、その中からベスト10公演を選んでいたこともあったが、最近は220~240公演に通うのがやっとというところで、命を賭けて演奏している多くの音楽家の皆さんには申し訳ない次第である。
だが、年間にせいぜい50公演(週に1公演程度ではないか?)とか、100公演以下の数(週にたった2つの公演程度だ)しか聴いていないにもかかわらず「ベストテン」を選ぶというのに比べれば、このように精一杯聴いたおよそ230公演の中から選ぶという方が、演奏者への失礼の度合いも少しは薄らぐのではあるまいか、という気もするのである。
以下は順不同、公演日付順。
●ビゼー:「アルルの女」(コンサート・オペラ)
佐藤正浩指揮ザ・オペラ・バンド、松重豊、藤井咲有里、木山簾彬、的場祐太他
(☞1月8日 東京芸術劇場)
●クラウス・マケラ指揮東京都交響楽団
ショスタコーヴィチ:「交響曲第7番《レニングラード》」
(☞6月26日 サントリーホール)
●プッチーニ:「ラ・ボエーム」
ダンテ・フェレッティ演出
佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団、フランチェスカ・マンゾ(ミミ)他
(☞7月17日 兵庫県立芸術文化センター)
●ロッシーニ:「泥棒かささぎ」(演奏会形式)
園田隆一郎指揮大阪交響楽団、晴雅彦、小堀勇介、老田裕子、青山貴他
(☞8月9日 フェスティバルホール)
●山田和樹と大阪4オケのシューベルト交響曲ツィクルス
山田和樹指揮 関西フィルハーモニー交響楽団、大阪交響楽団、
日本センチュリー交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団
(☞9月8日、9日、10日、12日 いずみホール)
●サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団
バルトーク:「中国の不思議な役人」、ラヴェル:「ラ・ヴァルス」他
(☞10月6日 サントリーホール)
●ムソルグスキー:「ボリス・ゴドゥノフ」
マリウシュ・トレリンスキ演出、大野和士指揮東京都交響楽団、
ギド・イェンテンス、アーノルド・ベズイエン他
(☞11月15日 新国立劇場)
●R・シュトラウス:「サロメ」(演奏会形式)
ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団、アスミク・グリゴリアン他
(☞11月20日 サントリーホール)
●クリスティアン・ティーレマン指揮シュターツカペレ・ベルリン
ブラームス:交響曲第1番
(☞12月7日 サントリーホール)
●パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツカンマ―フィルハーモニー・ブレーメン
ベートーヴェン:交響曲第8番、第3番「英雄」
(☞12月9日 東京オペラシティ)
(次点)モーツァルト:「フィガロの結婚」
ロラン・ペリー演出、沖澤のどか指揮サイトウ・キネン・オーケストラ
フィリップ・スライ、イン・ファン他
(☞8月27日 長野県松本文化会館)
昔、体力がある頃には、年間に300公演前後を聴いて、その中からベスト10公演を選んでいたこともあったが、最近は220~240公演に通うのがやっとというところで、命を賭けて演奏している多くの音楽家の皆さんには申し訳ない次第である。
だが、年間にせいぜい50公演(週に1公演程度ではないか?)とか、100公演以下の数(週にたった2つの公演程度だ)しか聴いていないにもかかわらず「ベストテン」を選ぶというのに比べれば、このように精一杯聴いたおよそ230公演の中から選ぶという方が、演奏者への失礼の度合いも少しは薄らぐのではあるまいか、という気もするのである。
以下は順不同、公演日付順。
●ビゼー:「アルルの女」(コンサート・オペラ)
佐藤正浩指揮ザ・オペラ・バンド、松重豊、藤井咲有里、木山簾彬、的場祐太他
(☞1月8日 東京芸術劇場)
●クラウス・マケラ指揮東京都交響楽団
ショスタコーヴィチ:「交響曲第7番《レニングラード》」
(☞6月26日 サントリーホール)
●プッチーニ:「ラ・ボエーム」
ダンテ・フェレッティ演出
佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団、フランチェスカ・マンゾ(ミミ)他
(☞7月17日 兵庫県立芸術文化センター)
●ロッシーニ:「泥棒かささぎ」(演奏会形式)
園田隆一郎指揮大阪交響楽団、晴雅彦、小堀勇介、老田裕子、青山貴他
(☞8月9日 フェスティバルホール)
●山田和樹と大阪4オケのシューベルト交響曲ツィクルス
山田和樹指揮 関西フィルハーモニー交響楽団、大阪交響楽団、
日本センチュリー交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団
(☞9月8日、9日、10日、12日 いずみホール)
●サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団
バルトーク:「中国の不思議な役人」、ラヴェル:「ラ・ヴァルス」他
(☞10月6日 サントリーホール)
●ムソルグスキー:「ボリス・ゴドゥノフ」
マリウシュ・トレリンスキ演出、大野和士指揮東京都交響楽団、
ギド・イェンテンス、アーノルド・ベズイエン他
(☞11月15日 新国立劇場)
●R・シュトラウス:「サロメ」(演奏会形式)
ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団、アスミク・グリゴリアン他
(☞11月20日 サントリーホール)
●クリスティアン・ティーレマン指揮シュターツカペレ・ベルリン
ブラームス:交響曲第1番
(☞12月7日 サントリーホール)
●パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツカンマ―フィルハーモニー・ブレーメン
ベートーヴェン:交響曲第8番、第3番「英雄」
(☞12月9日 東京オペラシティ)
(次点)モーツァルト:「フィガロの結婚」
ロラン・ペリー演出、沖澤のどか指揮サイトウ・キネン・オーケストラ
フィリップ・スライ、イン・ファン他
(☞8月27日 長野県松本文化会館)
2022・12・28(水)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィル「第9」
東京文化会館大ホール 7時
東京文化会館大ホールがこれだけぎっしりと満席になった光景は、そう度々見られるものではないだろう。だが同業の某氏に訊くと、彼の聴いたいくつかの他の「第9」公演も全てほぼ満席だった由で、それは「独りで聴きに来る」よりも家族友人と一緒に聴きに来る人が多いからではないだろうか、という観測だった。
ともあれこの「暮れの第9」を聴きに来る人たちを眺めていると、「善男善女の第9詣で」という言葉が浮かんでしまう。当節、目出度いことに違いない。そして、東京シティ・フィルがこれだけの聴衆を集めるようになったことも、目出度いことだろう。
そしてまた、今日の演奏会が人気を集めた一因は、今や日本の指揮界の長老格となった飯守泰次郎(東京シティ・フィル桂冠名誉指揮者)が「第9」を振る━━ということにもあったのではなかろうか。
飯守さんは、ステージの袖から指揮台まで人に支えられながら歩行する状態ではあるものの、いざ指揮台に上がれば椅子にもほとんど掛けることなく、凛然とした姿で長大な曲を指揮し続ける。その気魄の強烈さが背後のわれわれの方にも伝わって来るという雰囲気である。
今日のシティ・フィルの演奏も、全曲にわたり少しの緩みもなく、非常に強い明確なリズム感を以て、推進力の豊かなテンポで進められていた。飯守泰次郎のエネルギー未だ健在なり━━を目の当たり視て、実際に演奏を聴いて、そのように感じられたことは嬉しい。
もともと残響の少ないこのホールが、これだけ満杯になると、音の響きはいっそうドライになり、オーケストラや声楽のアンサンブルのずれなどがはっきりと聞こえてしまうのは残念だが、仕方があるまい。
今日の声楽陣は田崎尚美(S)、金子美香(Ms)、与儀巧(T)、加耒徹(Br)、東京シティ・フィル・コーア。コンサートマスターは戸澤哲夫である。
東京文化会館大ホールがこれだけぎっしりと満席になった光景は、そう度々見られるものではないだろう。だが同業の某氏に訊くと、彼の聴いたいくつかの他の「第9」公演も全てほぼ満席だった由で、それは「独りで聴きに来る」よりも家族友人と一緒に聴きに来る人が多いからではないだろうか、という観測だった。
ともあれこの「暮れの第9」を聴きに来る人たちを眺めていると、「善男善女の第9詣で」という言葉が浮かんでしまう。当節、目出度いことに違いない。そして、東京シティ・フィルがこれだけの聴衆を集めるようになったことも、目出度いことだろう。
そしてまた、今日の演奏会が人気を集めた一因は、今や日本の指揮界の長老格となった飯守泰次郎(東京シティ・フィル桂冠名誉指揮者)が「第9」を振る━━ということにもあったのではなかろうか。
飯守さんは、ステージの袖から指揮台まで人に支えられながら歩行する状態ではあるものの、いざ指揮台に上がれば椅子にもほとんど掛けることなく、凛然とした姿で長大な曲を指揮し続ける。その気魄の強烈さが背後のわれわれの方にも伝わって来るという雰囲気である。
今日のシティ・フィルの演奏も、全曲にわたり少しの緩みもなく、非常に強い明確なリズム感を以て、推進力の豊かなテンポで進められていた。飯守泰次郎のエネルギー未だ健在なり━━を目の当たり視て、実際に演奏を聴いて、そのように感じられたことは嬉しい。
もともと残響の少ないこのホールが、これだけ満杯になると、音の響きはいっそうドライになり、オーケストラや声楽のアンサンブルのずれなどがはっきりと聞こえてしまうのは残念だが、仕方があるまい。
今日の声楽陣は田崎尚美(S)、金子美香(Ms)、与儀巧(T)、加耒徹(Br)、東京シティ・フィル・コーア。コンサートマスターは戸澤哲夫である。
2022・12・26(月)エリアフ・インバル指揮東京都響「第9」
サントリーホール 7時
「暮れの第9」というのは、私にとっては、ふだんはほとんど足を運ばない「行事」なのだが━━いくら名曲でも、あまり聴き過ぎるとこちらの感覚も鈍って来るだろうから━━インバルが都響を振っての「第9」となれば、別の興味も湧いて来るというもの。今回は24、25、26日の3回公演だったので、その最終回を聴いてみることにした次第。
予想通り、この「インバルの第9」は、実に強靭な音楽だ。先日聴いたフランクの「交響曲ニ短調」で感じられた音のイメージが、こちらのベートーヴェンの「ニ短調」からも湧き出て来ている、と言えるだろう。大きくて、強い演奏だ。重心の低い、壮大な音響構築も魅力的である。
だが何よりも、演奏にある種の自信満々たる説得力というか━━つまり、もどかしさとか、物足りなさとかを感じさせず、安心して凭れ掛かれるというか、浸らせてくれる力が感じられるのである。言い換えれば、あれこれ余計なことを考えることなく、ただこの曲に熱中した頃の感覚を甦えらせてくれる演奏だった、と言ってもいいだろうか。少なくとも私にとってはそうだった。
今日のコンサートマスターは矢部達哉。協演は隠岐彩夏(S)、加納悦子(Ms)、村上公太(T)、妻屋秀和(Br)、二期会合唱団。
「暮れの第9」というのは、私にとっては、ふだんはほとんど足を運ばない「行事」なのだが━━いくら名曲でも、あまり聴き過ぎるとこちらの感覚も鈍って来るだろうから━━インバルが都響を振っての「第9」となれば、別の興味も湧いて来るというもの。今回は24、25、26日の3回公演だったので、その最終回を聴いてみることにした次第。
予想通り、この「インバルの第9」は、実に強靭な音楽だ。先日聴いたフランクの「交響曲ニ短調」で感じられた音のイメージが、こちらのベートーヴェンの「ニ短調」からも湧き出て来ている、と言えるだろう。大きくて、強い演奏だ。重心の低い、壮大な音響構築も魅力的である。
だが何よりも、演奏にある種の自信満々たる説得力というか━━つまり、もどかしさとか、物足りなさとかを感じさせず、安心して凭れ掛かれるというか、浸らせてくれる力が感じられるのである。言い換えれば、あれこれ余計なことを考えることなく、ただこの曲に熱中した頃の感覚を甦えらせてくれる演奏だった、と言ってもいいだろうか。少なくとも私にとってはそうだった。
今日のコンサートマスターは矢部達哉。協演は隠岐彩夏(S)、加納悦子(Ms)、村上公太(T)、妻屋秀和(Br)、二期会合唱団。
2022・12・22(木)METライブビューイング ヴェルディ:「椿姫」
東劇 6時30分
2018年にプレミエされたマイケル・メイヤー演出版の再演で、今回はダニエレ・カッレガーリが指揮、ネイディーン・シエラのヴィオレッタ、スティーヴン・コステロのアルフレード・ジェルモン、ルカ・サルシのジョルジョ・ジェルモン、といった主役陣で上演された。11月5日の上演ライヴである。
ブロードウェイの大物演出家マイケル・メイヤーが舞台を手がけたとあって、プレミエの際には鳴り物入りで騒がれたものだ(☞2019年2月9日の項)。
ただ、彼の演出としては、ストーリーをラス・ヴェガスに置き換えた数年前の奇想天外な「リゴレット」などとは違い、こちら「椿姫」は、至極ストレートな手法である。第1幕前奏曲の中でヴィオレッタの死の床の場面により始めるテなど、とりわけ珍しいものではない。季節の移り変わりを反映した趣のあるクリスティーン・ジョーンズの舞台美術はよく出来ていると言えるだろう。
歌手陣では、やはり最近売り出し中のソプラノ、ネイディーン・シエラが注目されるだろう。METデビューは2015年の「リゴレット」のジルダだったが、フロリダ生れというからアメリカのお客が熱心に応援するのも無理はない。先シーズンにも現代スタイルの「ルチア」で評判をとったばかりだ。まだ若くて硬質なところもあるが、声はよく伸びるし、何となく昔の人気女優レスリー・キャロンを思わせるフェイスも親しみを呼ぶのだろう。
カッレガーリの指揮がいい。オーケストラをよく引き締めているし、小気味よいテンポで緊迫感を失うことがない。
それに、特に今日感心したのは、まず一つはMETのカメラワークの巧さだ。登場人物の表情と舞台全体の動きを実にバランスよく工夫して構成している。第2幕でアルフレードとヴィオレッタが2人だけで激しく応酬する場面など、ライヴの生中継映像とは思えぬほど見事なカメラワークであった。
もう一つは録音の良さで、オーケストラの厚みが素晴らしく、第2幕でヴィオレッタが激情的にアルフレードへ別れを告げるくだりのオーケストラの巨大で重厚なトレモロは圧倒的だった━━これは東劇の音響の良さの所為もあるだろう。
終映は9時50分頃。
2018年にプレミエされたマイケル・メイヤー演出版の再演で、今回はダニエレ・カッレガーリが指揮、ネイディーン・シエラのヴィオレッタ、スティーヴン・コステロのアルフレード・ジェルモン、ルカ・サルシのジョルジョ・ジェルモン、といった主役陣で上演された。11月5日の上演ライヴである。
ブロードウェイの大物演出家マイケル・メイヤーが舞台を手がけたとあって、プレミエの際には鳴り物入りで騒がれたものだ(☞2019年2月9日の項)。
ただ、彼の演出としては、ストーリーをラス・ヴェガスに置き換えた数年前の奇想天外な「リゴレット」などとは違い、こちら「椿姫」は、至極ストレートな手法である。第1幕前奏曲の中でヴィオレッタの死の床の場面により始めるテなど、とりわけ珍しいものではない。季節の移り変わりを反映した趣のあるクリスティーン・ジョーンズの舞台美術はよく出来ていると言えるだろう。
歌手陣では、やはり最近売り出し中のソプラノ、ネイディーン・シエラが注目されるだろう。METデビューは2015年の「リゴレット」のジルダだったが、フロリダ生れというからアメリカのお客が熱心に応援するのも無理はない。先シーズンにも現代スタイルの「ルチア」で評判をとったばかりだ。まだ若くて硬質なところもあるが、声はよく伸びるし、何となく昔の人気女優レスリー・キャロンを思わせるフェイスも親しみを呼ぶのだろう。
カッレガーリの指揮がいい。オーケストラをよく引き締めているし、小気味よいテンポで緊迫感を失うことがない。
それに、特に今日感心したのは、まず一つはMETのカメラワークの巧さだ。登場人物の表情と舞台全体の動きを実にバランスよく工夫して構成している。第2幕でアルフレードとヴィオレッタが2人だけで激しく応酬する場面など、ライヴの生中継映像とは思えぬほど見事なカメラワークであった。
もう一つは録音の良さで、オーケストラの厚みが素晴らしく、第2幕でヴィオレッタが激情的にアルフレードへ別れを告げるくだりのオーケストラの巨大で重厚なトレモロは圧倒的だった━━これは東劇の音響の良さの所為もあるだろう。
終映は9時50分頃。
2022・12・20(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団
東京芸術劇場 コンサートホール 2時
先週に続き、エリアフ・インバルが指揮。ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」(ソリストはマルティン・ヘルムヒェン)とフランクの「交響曲ニ短調」を組み合わせたプログラム。コンサートマスターは矢部達哉。
平日のマチネーだったが、客席は予想以上に埋まっていた。「皇帝」の人気か?
ヘルムヒェンの評判もすこぶる良いようで(既にベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音している)、ステージ姿も爽やかだし、何より演奏が瑞々しく溌溂としているので、聴衆は非常に活気に富んだ「皇帝」を愉しんだことだろう。
ベルリン生まれ(1982年)とのことだが、ドイツのピアニストのベートーヴェンも随分昔とは変わったものだという気がして、興味深い。もっとも、インバルと都響の音色が、言うなれば「アナログ的」なので、その意味ではオーケストラとピアノ・ソロには些か異質なニュアンスが感じられたと言えるかもしれない。だが、それがまた生の演奏会の面白さでもあるのだ。
フランクの「交響曲」では、インバルと都響のそのアナログ的な音色が━━要するに今日ありがちな、冷徹で機能的な、デジタル的な雰囲気のものとは違うという意味で言っているのだが━━存分に生きて、滋味豊かな演奏を堪能することができた。インバルのつくり出すクレッシェンドが、なかなかに壮大で物凄いのに驚かされる。
先週のブルックナーと同様、彼の指揮は以前と比べ、オーケストラの引き締めという点で少し自由さが生まれて来たような気もするけれども、都響の演奏は充分に自発性にも富んでいるように思われる。
先週に続き、エリアフ・インバルが指揮。ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」(ソリストはマルティン・ヘルムヒェン)とフランクの「交響曲ニ短調」を組み合わせたプログラム。コンサートマスターは矢部達哉。
平日のマチネーだったが、客席は予想以上に埋まっていた。「皇帝」の人気か?
ヘルムヒェンの評判もすこぶる良いようで(既にベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音している)、ステージ姿も爽やかだし、何より演奏が瑞々しく溌溂としているので、聴衆は非常に活気に富んだ「皇帝」を愉しんだことだろう。
ベルリン生まれ(1982年)とのことだが、ドイツのピアニストのベートーヴェンも随分昔とは変わったものだという気がして、興味深い。もっとも、インバルと都響の音色が、言うなれば「アナログ的」なので、その意味ではオーケストラとピアノ・ソロには些か異質なニュアンスが感じられたと言えるかもしれない。だが、それがまた生の演奏会の面白さでもあるのだ。
フランクの「交響曲」では、インバルと都響のそのアナログ的な音色が━━要するに今日ありがちな、冷徹で機能的な、デジタル的な雰囲気のものとは違うという意味で言っているのだが━━存分に生きて、滋味豊かな演奏を堪能することができた。インバルのつくり出すクレッシェンドが、なかなかに壮大で物凄いのに驚かされる。
先週のブルックナーと同様、彼の指揮は以前と比べ、オーケストラの引き締めという点で少し自由さが生まれて来たような気もするけれども、都響の演奏は充分に自発性にも富んでいるように思われる。
2022・12・18(日)太田弦指揮日本フィル「第9」
サントリーホール 2時
進境著しい若手指揮者、太田弦が日本フィルの年末の「第9」の指揮の一翼を担うというので、興味津々、聴きに行ってみた。
今日は、同じベートーヴェンの「エグモント」序曲を演奏し、休憩を入れたのちに「第9」を━━というプログラム構成。
声楽ソリストは、盛田麻央(S),杉山由紀(A)、樋口達哉(T)、黒田祐※貴(Br)、日本フィルハーモニー協会合唱団。コンサートマスターは田野倉雅秋。
太田弦が指揮する「第9」は、ちょうど3年前、大阪交響楽団とのそれを聴いたことがあるが、端整な、あまりにも端整な指揮ぶりに奇異な感を抱いたことがある。
ただその後、新日本フィルとの「ザ・グレイト」や、日本フィルとの「シェエラザード」や、仙台フィルとの「ローマの松」などを聴いてみると、音楽がかなり流動的に、劇的な起伏も、時には誇張も織り込まれながら構築されていたので、もしかしたらベートーヴェンの作品とロマン派の作品とではアプローチを大きく変えているのかな、とも思い━━。
今日の「第9」を聴いてみると、彼はやはりこの曲に関しては、基本的には3年前とアプローチを変えていないように見える。所々にティンパニの短いクレッシェンド(アクセントの範囲内に入る程度のものかもしれないが)が効果的に付されたりすることはあるものの、やはり極度に整然とした音楽づくりだった、と言うことになるだろう。この「第9」に、古典的な、端整な構築を目指すのが彼の意図なのか?
しかし、演奏の密度という点では、3年前のそれよりも明らかに濃さを増しているように感じられる。そして、解釈はどうあれ、「第9」に対しての姿勢に、3年前よりも確信が感じられるようになっていたことも確かであろう。
声楽ソリスト4人は、ステージの後方に立って歌っていた。合唱団はP席全体に配置されていたが、全員がマスクをして歌っていたため、一種のこもった響きになり、それが多少のもどかしさを感じさせ、太田と日本フィルがつくる明晰な演奏とのギャップを感じさせたことは否めまい。
※正しくは部首が「示」
進境著しい若手指揮者、太田弦が日本フィルの年末の「第9」の指揮の一翼を担うというので、興味津々、聴きに行ってみた。
今日は、同じベートーヴェンの「エグモント」序曲を演奏し、休憩を入れたのちに「第9」を━━というプログラム構成。
声楽ソリストは、盛田麻央(S),杉山由紀(A)、樋口達哉(T)、黒田祐※貴(Br)、日本フィルハーモニー協会合唱団。コンサートマスターは田野倉雅秋。
太田弦が指揮する「第9」は、ちょうど3年前、大阪交響楽団とのそれを聴いたことがあるが、端整な、あまりにも端整な指揮ぶりに奇異な感を抱いたことがある。
ただその後、新日本フィルとの「ザ・グレイト」や、日本フィルとの「シェエラザード」や、仙台フィルとの「ローマの松」などを聴いてみると、音楽がかなり流動的に、劇的な起伏も、時には誇張も織り込まれながら構築されていたので、もしかしたらベートーヴェンの作品とロマン派の作品とではアプローチを大きく変えているのかな、とも思い━━。
今日の「第9」を聴いてみると、彼はやはりこの曲に関しては、基本的には3年前とアプローチを変えていないように見える。所々にティンパニの短いクレッシェンド(アクセントの範囲内に入る程度のものかもしれないが)が効果的に付されたりすることはあるものの、やはり極度に整然とした音楽づくりだった、と言うことになるだろう。この「第9」に、古典的な、端整な構築を目指すのが彼の意図なのか?
しかし、演奏の密度という点では、3年前のそれよりも明らかに濃さを増しているように感じられる。そして、解釈はどうあれ、「第9」に対しての姿勢に、3年前よりも確信が感じられるようになっていたことも確かであろう。
声楽ソリスト4人は、ステージの後方に立って歌っていた。合唱団はP席全体に配置されていたが、全員がマスクをして歌っていたため、一種のこもった響きになり、それが多少のもどかしさを感じさせ、太田と日本フィルがつくる明晰な演奏とのギャップを感じさせたことは否めまい。
※正しくは部首が「示」
2022・12・17(土)オレーフィチェ:オペラ「ショパン」日本初演
東京文化会館小ホール 2時
この「ショパン」なるオペラは、1901年に作曲され、1905年に初演されたものという。よくまあ、こんな珍しいオペラを探し出したものだ。
作曲者ジャコモ・オレーフィチェ(1865~1922)は、ミラノ音楽院教授でもあった人で、少年時代のニーノ・ロータを見出して音楽院に入れてやった、というエピソードの持主でもある。
ストーリーは、もちろんショパンが主人公だが、彼の伝記が語られているというわけではなく、彼自身と、彼を愛した女たちなどが、彼の故国の悲劇と併せて象徴的に、かつ幻想的に描かれる、という構成が採られたものだ。大詰めではショパンが栄光と賛美に包まれる━━という、お決まりのエンディングとなる。
アングローロ・オリヴィエロによる台本はイタリア語だ(字幕付)。上演時間は正味2時間弱。
音楽はすべてショパンの書いた音楽からなっており、その数およそ65曲。物語のシチュエーションに合わせていろいろな作品が断片的に引用されるという具合である。単なるメドレー形式とするわけではないのだから、これらをコラージュするだけでもかなりの才能を必要とするだろう。
一つの作品を延々と引用するという愚はさすがに避けられているが、それでも「別れの曲」などはあのメロディの魅力ゆえか、かなり長い引用が行われていた。
━━それにしても、この「別れの曲」が二重唱で、歌詞をつけて歌われるのを聴くと、何かリチャード・ロジャースのミユージカルでも聴いているような錯覚に陥るからおかしなものだ。これは、クラシック音楽の器楽曲に歌詞をつけて歌うポップス音楽を聞いた時に起こる感覚と似たようなものだろう。
ただしこのオペラ、流石にプッチーニの活躍した時代にイタリアの作曲家が作ったものだけあって、プッチーニ的な手法があちこちに顔を覗かせる。それもまた面白い。
演出は岩田達宗が担当。出演は、ほぼ出ずっぱりで歌ったショパン役の山本康寛の他、佐藤美枝子、迫田美帆、寺田功治、田中大揮、藤原歌劇団合唱部。オーケストラ・パートは室内楽編成で、ピアノの松本和将、ヴァイオリンの篠原悠那、チェロの上村文乃が演奏。指揮は園田隆一郎だった。
この「ショパン」なるオペラは、1901年に作曲され、1905年に初演されたものという。よくまあ、こんな珍しいオペラを探し出したものだ。
作曲者ジャコモ・オレーフィチェ(1865~1922)は、ミラノ音楽院教授でもあった人で、少年時代のニーノ・ロータを見出して音楽院に入れてやった、というエピソードの持主でもある。
ストーリーは、もちろんショパンが主人公だが、彼の伝記が語られているというわけではなく、彼自身と、彼を愛した女たちなどが、彼の故国の悲劇と併せて象徴的に、かつ幻想的に描かれる、という構成が採られたものだ。大詰めではショパンが栄光と賛美に包まれる━━という、お決まりのエンディングとなる。
アングローロ・オリヴィエロによる台本はイタリア語だ(字幕付)。上演時間は正味2時間弱。
音楽はすべてショパンの書いた音楽からなっており、その数およそ65曲。物語のシチュエーションに合わせていろいろな作品が断片的に引用されるという具合である。単なるメドレー形式とするわけではないのだから、これらをコラージュするだけでもかなりの才能を必要とするだろう。
一つの作品を延々と引用するという愚はさすがに避けられているが、それでも「別れの曲」などはあのメロディの魅力ゆえか、かなり長い引用が行われていた。
━━それにしても、この「別れの曲」が二重唱で、歌詞をつけて歌われるのを聴くと、何かリチャード・ロジャースのミユージカルでも聴いているような錯覚に陥るからおかしなものだ。これは、クラシック音楽の器楽曲に歌詞をつけて歌うポップス音楽を聞いた時に起こる感覚と似たようなものだろう。
ただしこのオペラ、流石にプッチーニの活躍した時代にイタリアの作曲家が作ったものだけあって、プッチーニ的な手法があちこちに顔を覗かせる。それもまた面白い。
演出は岩田達宗が担当。出演は、ほぼ出ずっぱりで歌ったショパン役の山本康寛の他、佐藤美枝子、迫田美帆、寺田功治、田中大揮、藤原歌劇団合唱部。オーケストラ・パートは室内楽編成で、ピアノの松本和将、ヴァイオリンの篠原悠那、チェロの上村文乃が演奏。指揮は園田隆一郎だった。
2022・12・16(金)庄司紗矢香&ジャンルカ・カシオーリ
サントリーホール 7時
前半にモーツァルトの「ソナタ第28番ホ短調K.304(300c)」と「ソナタ第35番ト長調K.379(373a)」、後半にC.P.E.バッハの「ファンタジアWq.80」とベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」というプログラム。
先日、今年5月に録音されたばかりの魅力的な演奏のモーツァルトのソナタ集(グラモフォンUCCG-45064)における、ガット弦を使用した彼女のヴァイオリンと、カシオーリのフォルテピアノとの協演を聴き、これは中ホールもしくは小ホールで聴くべき音楽だなと思っていた。
だが今回の演奏会は、サントリーホールの大ホールで開催された。案の定、私の聴いた正面2階席では、楽器の音量のバランスが甚だ悪く、落胆させられた。庄司のヴァイオリンはやや硬質な高音ゆえによく通るのだが、カシオーリのフォルテピアノ(ポール・マクナリティ製作、1805ワルター・モデル)の音量が極度に低くて、時には細部さえ明晰さを欠く、という状態だったのである。
こういう場合、誰が妥協すべきか? 大きな会場だから、後方にも声が届くように大きな声で喋ろう、などという妥協は、演奏家は一切しないものだ。といって、主催マネージャーは商策上、大きな会場でやることを望んで、後へは退かないだろう。となると結局、妥協は聴衆の側に要求されることになる。
カシオーリは、このフォルテピアノを、時には最弱音で弾き、それが大会場の隅の聴衆に聞こえるか聞こえないかという問題など全く度外視して、おのれの音楽を主張した。「クロイツェル・ソナタ」では、鋭角的で強靭な庄司紗矢香の語り口にもかかわらず、彼は鍵盤のパートを殊更に柔らかく密やかに演奏し、音楽の前面に出ることを避け、鍵盤の出番になってもおずおずと語り、すぐに口を噤んでしまうかのようだった。
それはそれで、彼のこの曲に対する一つの解釈なのだろう。だが、ヴァイオリンと鍵盤楽器が同等に発言し、丁々発止と応酬して緊迫感をつくり出すことが一切行われないようなベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」など、あり得るだろうか?
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの「ファンタジア」にしても、ヴァイオリンと鍵盤楽器がもっと対等に対話を交わしてくれていたら、もっとこの曲の幻想的な素晴らしさが余すところなく再現されていただろうに。
前半にモーツァルトの「ソナタ第28番ホ短調K.304(300c)」と「ソナタ第35番ト長調K.379(373a)」、後半にC.P.E.バッハの「ファンタジアWq.80」とベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」というプログラム。
先日、今年5月に録音されたばかりの魅力的な演奏のモーツァルトのソナタ集(グラモフォンUCCG-45064)における、ガット弦を使用した彼女のヴァイオリンと、カシオーリのフォルテピアノとの協演を聴き、これは中ホールもしくは小ホールで聴くべき音楽だなと思っていた。
だが今回の演奏会は、サントリーホールの大ホールで開催された。案の定、私の聴いた正面2階席では、楽器の音量のバランスが甚だ悪く、落胆させられた。庄司のヴァイオリンはやや硬質な高音ゆえによく通るのだが、カシオーリのフォルテピアノ(ポール・マクナリティ製作、1805ワルター・モデル)の音量が極度に低くて、時には細部さえ明晰さを欠く、という状態だったのである。
こういう場合、誰が妥協すべきか? 大きな会場だから、後方にも声が届くように大きな声で喋ろう、などという妥協は、演奏家は一切しないものだ。といって、主催マネージャーは商策上、大きな会場でやることを望んで、後へは退かないだろう。となると結局、妥協は聴衆の側に要求されることになる。
カシオーリは、このフォルテピアノを、時には最弱音で弾き、それが大会場の隅の聴衆に聞こえるか聞こえないかという問題など全く度外視して、おのれの音楽を主張した。「クロイツェル・ソナタ」では、鋭角的で強靭な庄司紗矢香の語り口にもかかわらず、彼は鍵盤のパートを殊更に柔らかく密やかに演奏し、音楽の前面に出ることを避け、鍵盤の出番になってもおずおずと語り、すぐに口を噤んでしまうかのようだった。
それはそれで、彼のこの曲に対する一つの解釈なのだろう。だが、ヴァイオリンと鍵盤楽器が同等に発言し、丁々発止と応酬して緊迫感をつくり出すことが一切行われないようなベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」など、あり得るだろうか?
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの「ファンタジア」にしても、ヴァイオリンと鍵盤楽器がもっと対等に対話を交わしてくれていたら、もっとこの曲の幻想的な素晴らしさが余すところなく再現されていただろうに。
2022・12・15(木)Richard Wagner「わ」の会コンサートvol.8
角筈区民ホール 7時
ワーグナーを愛する日本のオペラ歌手たちが集まり、ピアノとの協演ながらその作品の抜粋を演奏して行くムーヴメント。ワーグナー生誕200年にあたる2013年に旗揚げして以来、今回で早くも8回目を数える。
「わ」とはワーグナーの「ワ」、みんなの「和」、「ニーベルングの指環」の「環」、平和の「和」(これは入っていなかったかな?)など、いろいろな意味を含んでいることはこれまでにもその都度書いた通り。会の代表と演奏の指揮は、新国立劇場でも活躍している城谷正博である。
今年の演奏曲と出演者は次の通り━━。
①「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から「ニワトコのモノローグ」と、それに続く「ザックスとエファの対話」(友清崇、宮城佐和子)。
②「ワルキューレ」第1幕から「ジークムントとジークリンデの場」(片寄純也、鈴木麻里子)
③「ジークフリート」第1幕から「さすらい人とミーメの場」(大塚博章、伊藤達人)。
④「ローエングリン」第2幕から「エルザとオルトルートの場」および第3幕の幕切れ場面(渡邊仁美、池田香織、伊藤達人)。
ピアノは①②が三澤志保、③④が木下志津子。
ピアノ伴奏ながら、歌唱は全て全力投球だ。こんな230席程度のホールでのコンサートでも、大劇場で歌うのと同じようにフル・ヴォイスで歌う人もいるから、オペラ歌手というのは本当に声が大きいなあ、とつくづく感じ入ってしまうことになる。
それでも、池田カオリンをはじめ、このムーヴメントの中心となっている人たちは、最近は声を巧く使って、耳にびんびん来ない響きで声を朗々と高鳴らせる術を心得ておられるようである。
なお、新しく加わった歌手たちの中で、ジークリンデを歌った鈴木麻里子の、まろやかな中にもスケールの大きさを感じさせる歌唱が注目された。
ワーグナーを愛する日本のオペラ歌手たちが集まり、ピアノとの協演ながらその作品の抜粋を演奏して行くムーヴメント。ワーグナー生誕200年にあたる2013年に旗揚げして以来、今回で早くも8回目を数える。
「わ」とはワーグナーの「ワ」、みんなの「和」、「ニーベルングの指環」の「環」、平和の「和」(これは入っていなかったかな?)など、いろいろな意味を含んでいることはこれまでにもその都度書いた通り。会の代表と演奏の指揮は、新国立劇場でも活躍している城谷正博である。
今年の演奏曲と出演者は次の通り━━。
①「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から「ニワトコのモノローグ」と、それに続く「ザックスとエファの対話」(友清崇、宮城佐和子)。
②「ワルキューレ」第1幕から「ジークムントとジークリンデの場」(片寄純也、鈴木麻里子)
③「ジークフリート」第1幕から「さすらい人とミーメの場」(大塚博章、伊藤達人)。
④「ローエングリン」第2幕から「エルザとオルトルートの場」および第3幕の幕切れ場面(渡邊仁美、池田香織、伊藤達人)。
ピアノは①②が三澤志保、③④が木下志津子。
ピアノ伴奏ながら、歌唱は全て全力投球だ。こんな230席程度のホールでのコンサートでも、大劇場で歌うのと同じようにフル・ヴォイスで歌う人もいるから、オペラ歌手というのは本当に声が大きいなあ、とつくづく感じ入ってしまうことになる。
それでも、池田カオリンをはじめ、このムーヴメントの中心となっている人たちは、最近は声を巧く使って、耳にびんびん来ない響きで声を朗々と高鳴らせる術を心得ておられるようである。
なお、新しく加わった歌手たちの中で、ジークリンデを歌った鈴木麻里子の、まろやかな中にもスケールの大きさを感じさせる歌唱が注目された。
2022・12・13(火)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団
サントリーホール 7時
桂冠指揮者エリアフ・インバルが、ウェーベルンの「管弦楽のための6つの小品」の1928年版(改訂版)と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」の1874年版(第1稿)を指揮した。
楽器編成は前者の方が大きいが、オーケストレーションの手法のためもあって、音楽の量感はほとんど同じというのが興味深い。
ブルックナーの「第4交響曲」の、この「1874年第1稿」というのは、何度聴いても可笑しみを誘われる曲だ。
形式もオーケストレーションもまことに雑然としていて、一体ブルックナーは何を考えていたのだろうと訝りたくなる気持にさせられる。もし彼がのちにこの曲を改訂していなかったら、この第1稿は後世の聴き手から問題にもされなかったことだろう。立派な改訂版がのちに生れているからこそ、第1稿は「ダイヤの原石」と呼ばれて興味を惹き、その荒々しい雑駁さが面白がられるというわけである。
改訂された現行版の音楽があちこちに見え隠れしながら進んで行くこの版、今日の演奏も大変面白かった。インバルは例のごとくがっちりと均衡を保って、この纏まりのない全曲を引き締めた。矢部達哉をコンサートマスターとした東京都響も、豪壮な熱演だった。
前半のウェーベルンの作品の方は、初稿が1909年頃のものゆえに、管弦楽編成を2巻編成規模に縮小したこの版においても、音響的にもすこぶる耳当たりのいい、重厚で暗い響きに満たされている。インバルと東京都響の密度の濃い演奏のためもあって、音楽上の充実感は、ブルックナーの初稿による「ロマンティック」よりも、この方がずっと強かったような気がする。
桂冠指揮者エリアフ・インバルが、ウェーベルンの「管弦楽のための6つの小品」の1928年版(改訂版)と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」の1874年版(第1稿)を指揮した。
楽器編成は前者の方が大きいが、オーケストレーションの手法のためもあって、音楽の量感はほとんど同じというのが興味深い。
ブルックナーの「第4交響曲」の、この「1874年第1稿」というのは、何度聴いても可笑しみを誘われる曲だ。
形式もオーケストレーションもまことに雑然としていて、一体ブルックナーは何を考えていたのだろうと訝りたくなる気持にさせられる。もし彼がのちにこの曲を改訂していなかったら、この第1稿は後世の聴き手から問題にもされなかったことだろう。立派な改訂版がのちに生れているからこそ、第1稿は「ダイヤの原石」と呼ばれて興味を惹き、その荒々しい雑駁さが面白がられるというわけである。
改訂された現行版の音楽があちこちに見え隠れしながら進んで行くこの版、今日の演奏も大変面白かった。インバルは例のごとくがっちりと均衡を保って、この纏まりのない全曲を引き締めた。矢部達哉をコンサートマスターとした東京都響も、豪壮な熱演だった。
前半のウェーベルンの作品の方は、初稿が1909年頃のものゆえに、管弦楽編成を2巻編成規模に縮小したこの版においても、音響的にもすこぶる耳当たりのいい、重厚で暗い響きに満たされている。インバルと東京都響の密度の濃い演奏のためもあって、音楽上の充実感は、ブルックナーの初稿による「ロマンティック」よりも、この方がずっと強かったような気がする。
2022・12・12(月)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団
サントリーホール 7時
昨日のリュリのオペラ「アルミ―ド」(北とぴあ)に行けなかったのは残念だったが、とにかく今日は読響の12月定期を聴きに行く。
チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは反田恭平)と、タネーエフの「交響曲第4番ハ短調」という、何とも珍しいプログラムゆえだ。コンサートマスターは長原幸太。
いや、チャイコフスキーの「2番」は、日本ではあまり演奏される機会がないとはいえ、特に珍しいというほどの曲でもない。だが今日は、反田恭平が凄まじいほどのヴィルトゥオーゾ的な演奏を披露し、煽り立てるヴァイグレと読響の猛攻を撥ね返すという白熱的な演奏を聴かせてくれた。
この曲は、私は「1番」よりもずっと好きなので楽しみにしていたのだが、今日の演奏ほど沸騰に沸騰を重ねたスリリングな爆演は、これまで聴いたことがなかった。その意味で、やはり珍しいと申し上げてもいいだろう。
演奏が終って2階のロビーに出て来た時に、誰かが後ろで「この曲、CDで聴くと愚作に聞こえるんだけど、今日のは凄かったなあ」と話していた。愚作とは思わないけれども、尤もだと思う点もある。それにしても反田恭平、見事なものであった。
タネーエフの「第4交響曲」の方は、それこそ日本では稀曲、いや、失礼ながら珍曲に属する類だろう。私も実は、以前CDで1回聴いたことがあるだけだった。こんな珍しい曲を紹介してくれたのは意欲的であり、貴重であり、あつく感謝したい。ではあるけれども‥‥。
昨日のリュリのオペラ「アルミ―ド」(北とぴあ)に行けなかったのは残念だったが、とにかく今日は読響の12月定期を聴きに行く。
チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは反田恭平)と、タネーエフの「交響曲第4番ハ短調」という、何とも珍しいプログラムゆえだ。コンサートマスターは長原幸太。
いや、チャイコフスキーの「2番」は、日本ではあまり演奏される機会がないとはいえ、特に珍しいというほどの曲でもない。だが今日は、反田恭平が凄まじいほどのヴィルトゥオーゾ的な演奏を披露し、煽り立てるヴァイグレと読響の猛攻を撥ね返すという白熱的な演奏を聴かせてくれた。
この曲は、私は「1番」よりもずっと好きなので楽しみにしていたのだが、今日の演奏ほど沸騰に沸騰を重ねたスリリングな爆演は、これまで聴いたことがなかった。その意味で、やはり珍しいと申し上げてもいいだろう。
演奏が終って2階のロビーに出て来た時に、誰かが後ろで「この曲、CDで聴くと愚作に聞こえるんだけど、今日のは凄かったなあ」と話していた。愚作とは思わないけれども、尤もだと思う点もある。それにしても反田恭平、見事なものであった。
タネーエフの「第4交響曲」の方は、それこそ日本では稀曲、いや、失礼ながら珍曲に属する類だろう。私も実は、以前CDで1回聴いたことがあるだけだった。こんな珍しい曲を紹介してくれたのは意欲的であり、貴重であり、あつく感謝したい。ではあるけれども‥‥。
2022・12・10(土)キングズ・シンガーズ
サントリーホール 7時
日フィルの定期が終ってから暫く近くのコーヒーハウスで仕事をし、再び同じ会場に戻ってこの演奏会を聴く。
キングズ・シンガーズ━━懐かしい名前だ。1968年結成というから、もちろん当時と同じ歌手が歌っているわけでない。現在のメンバーはパトリック・ダナキー、ジュリアン・グレゴリー、ニック・アシュビー、エドワード・バトン、クリストファー・ブリュートン、ジョナサン・ハワードという陽気な青年たち。
おそろしく流暢な日本語で挨拶したり曲目を紹介したりしながら演奏を進めるのには感心する。中にはメモを見ているのかいないのか分からないような顔で喋る人もいるから凄い。ただ、これはこの台本を書いた人の責任だろうが、曲目紹介が後先ゴタゴタになって、それがよく解らない話になるのが問題だろう。
今日はクリスマス関係の歌曲を中心にしたプログラムで、美しく完璧なハーモニーが見事だが、ただこういう少人数のコーラスは、もう少し小ぶりのホールで聴いた方が、更によく楽しめただろうと思う。16日まで各地で歌うとのこと。
実は‥‥体調の関係で、心ならずも第1部だけで失礼させてもらったのだが、とにかく爽やかなコンサートだった。
日フィルの定期が終ってから暫く近くのコーヒーハウスで仕事をし、再び同じ会場に戻ってこの演奏会を聴く。
キングズ・シンガーズ━━懐かしい名前だ。1968年結成というから、もちろん当時と同じ歌手が歌っているわけでない。現在のメンバーはパトリック・ダナキー、ジュリアン・グレゴリー、ニック・アシュビー、エドワード・バトン、クリストファー・ブリュートン、ジョナサン・ハワードという陽気な青年たち。
おそろしく流暢な日本語で挨拶したり曲目を紹介したりしながら演奏を進めるのには感心する。中にはメモを見ているのかいないのか分からないような顔で喋る人もいるから凄い。ただ、これはこの台本を書いた人の責任だろうが、曲目紹介が後先ゴタゴタになって、それがよく解らない話になるのが問題だろう。
今日はクリスマス関係の歌曲を中心にしたプログラムで、美しく完璧なハーモニーが見事だが、ただこういう少人数のコーラスは、もう少し小ぶりのホールで聴いた方が、更によく楽しめただろうと思う。16日まで各地で歌うとのこと。
実は‥‥体調の関係で、心ならずも第1部だけで失礼させてもらったのだが、とにかく爽やかなコンサートだった。
2022・12・10(土)下野竜也指揮日本フィルハーモニー交響楽団
サントリーホール 2時
ジェラルド・R・フィンジ(1901~56)の「入祭唱op.6」、マーク=アンソニー・タネジ(1960~)の「3人の叫ぶ教皇」、再びフィンジの「武器よさらばop.9」を前半で続けて演奏し、後半では、今年が生誕150年記念年になるヴォーン・ウィリアムズの「交響曲第6番」を演奏する、という何とも意欲的なコンサートだ。
こういうプログラム、昔の読響正指揮者時代の下野が甦ったような勢いである。日フィルもよくこんな(悪い意味で言っているのではない)選曲をやったものだ。定期だからということもあるだろうが、最近の日フィルの自信といったようなものも窺える。
コンサートマスターは扇谷泰朋、「武器よさらば」でのテノール・ソロは糸賀修平。
前半の3曲は、日本の演奏会ではまずめったに聴けないもので、私にとってはまさに貴重な体験であり、好みはともかく、指揮者とオケに感謝しなくてはならない。「3人の叫ぶ教皇」ではもう少し色彩感や、劇的な物語を想像させる雰囲気が欲しいと思わないでもなかったが、多くを望んでも仕方なかろう。
「武器よさらば」は、あのヘミングウェイの有名な小説ではなく、イングランドの詩人ラルフ・ネヴェットとジョージ・ピールの詩に基づいたものの由(プログラム冊子、等松春夫氏の解説に拠る)。
オーケストラの後方上手に位置した糸賀修平が見事に歌ってくれたが、欲を言えば、こういう感動的な詩には、やはり字幕が欲しいところである━━歌詞対訳を参照しようと思っても、会場は暗いし、だいいち字が小さすぎて、さっぱり読めないのだ。
ヴォーン・ウィリアムズの「第6交響曲」。熱演だったが、やはり私の好みにはあまり合わぬ曲だ。合わないけれども、やはり聴いておかなくてはならぬ曲ではある。
ジェラルド・R・フィンジ(1901~56)の「入祭唱op.6」、マーク=アンソニー・タネジ(1960~)の「3人の叫ぶ教皇」、再びフィンジの「武器よさらばop.9」を前半で続けて演奏し、後半では、今年が生誕150年記念年になるヴォーン・ウィリアムズの「交響曲第6番」を演奏する、という何とも意欲的なコンサートだ。
こういうプログラム、昔の読響正指揮者時代の下野が甦ったような勢いである。日フィルもよくこんな(悪い意味で言っているのではない)選曲をやったものだ。定期だからということもあるだろうが、最近の日フィルの自信といったようなものも窺える。
コンサートマスターは扇谷泰朋、「武器よさらば」でのテノール・ソロは糸賀修平。
前半の3曲は、日本の演奏会ではまずめったに聴けないもので、私にとってはまさに貴重な体験であり、好みはともかく、指揮者とオケに感謝しなくてはならない。「3人の叫ぶ教皇」ではもう少し色彩感や、劇的な物語を想像させる雰囲気が欲しいと思わないでもなかったが、多くを望んでも仕方なかろう。
「武器よさらば」は、あのヘミングウェイの有名な小説ではなく、イングランドの詩人ラルフ・ネヴェットとジョージ・ピールの詩に基づいたものの由(プログラム冊子、等松春夫氏の解説に拠る)。
オーケストラの後方上手に位置した糸賀修平が見事に歌ってくれたが、欲を言えば、こういう感動的な詩には、やはり字幕が欲しいところである━━歌詞対訳を参照しようと思っても、会場は暗いし、だいいち字が小さすぎて、さっぱり読めないのだ。
ヴォーン・ウィリアムズの「第6交響曲」。熱演だったが、やはり私の好みにはあまり合わぬ曲だ。合わないけれども、やはり聴いておかなくてはならぬ曲ではある。
2022・12・9(金)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツカンマ―フィルⅡ
東京オペラシティ コンサートホール 7時
第2日はベートーヴェン・プログラム。「コリオラン」序曲、「交響曲第8番」、「交響曲第3番《英雄》」が演奏された。
さすがベートーヴェン・プロとなると、客の入りもいい。昨夜のハイドン・プロでは5割か6割の入りだった(実にもったいない)のに比べ、今日はほぼ満席の入りである。
「コリオラン」序曲は、デュナミークの対比の強さは際立っていたものの、演奏全体としては特に凄味を感じさせるほどではなかっただろう。
が、「第8交響曲」になると、音楽自体の押しの強さというか、持続するエネルギーの強さの中で、スコアの指定通りに再現されたこのデュナミークの激しさが、見事に生きて来る。第1楽章の展開部の頂点にかけての個所など、そのいい例であろう。
また第4楽章になると、故・朝比奈氏が冗談交じりに評した「それフォルテだ、やれピアノだ、と全く慌ただしいことこの上なく‥‥」という表現が可笑しみを以て思い出されるほど、ベートーヴェンが指定した強弱の交替の目まぐるしさがいっそう強調された演奏になる。こういう演奏を聴くと、ベートーヴェンという人の、とてつもない豪快なスケールを持った気魄の凄さが、いやが上にも強く感じられてしまうというものだ。
そして、今日の「英雄交響曲」での演奏も、それ以上に圧巻だった。30年前にガーディナーとオルケストル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティークによる日本初のピリオド楽器系奏法によるベートーヴェン・ツィクルスで聴いた時のような、各楽器のパートが激突交錯する響きの物凄さ、といったような衝撃感はもはや得られないけれども、それを加えた音のマッスの強烈さという点では、やはりスリリングな演奏だったといえよう。
パーヴォはベートーヴェンがスコアに細かく書き込んだffやsfの指定を忠実に生かし、その大胆で攻撃的な強い意志の力を再現しようとしていた。この曲が当時いかに革命的な性格を備えていたかが、今日の演奏でも充分に描き出されていたと思われる。
もっとも、彼らの演奏は、ただ激しいだけに終始していたというわけではない。第4楽章終り近く、Poco Andanteに入って少し後(第357小節から)の弦楽器群が極度に柔らかく優しく歌い出されたのには、ちょっと驚いた。彼らがこの曲で初めて聴かせた、安息に満ちた音楽である。
沸き立つ聴衆に応えて演奏してくれたアンコール曲が、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」だったのには、何か妙に安心した。━━というのは、パーヴォのアンコールといえば、これまではシベリウスの「悲しきワルツ」ばかりだったので、いい加減食傷気味になっていたからである。今後はこちらで行くのか?
第2日はベートーヴェン・プログラム。「コリオラン」序曲、「交響曲第8番」、「交響曲第3番《英雄》」が演奏された。
さすがベートーヴェン・プロとなると、客の入りもいい。昨夜のハイドン・プロでは5割か6割の入りだった(実にもったいない)のに比べ、今日はほぼ満席の入りである。
「コリオラン」序曲は、デュナミークの対比の強さは際立っていたものの、演奏全体としては特に凄味を感じさせるほどではなかっただろう。
が、「第8交響曲」になると、音楽自体の押しの強さというか、持続するエネルギーの強さの中で、スコアの指定通りに再現されたこのデュナミークの激しさが、見事に生きて来る。第1楽章の展開部の頂点にかけての個所など、そのいい例であろう。
また第4楽章になると、故・朝比奈氏が冗談交じりに評した「それフォルテだ、やれピアノだ、と全く慌ただしいことこの上なく‥‥」という表現が可笑しみを以て思い出されるほど、ベートーヴェンが指定した強弱の交替の目まぐるしさがいっそう強調された演奏になる。こういう演奏を聴くと、ベートーヴェンという人の、とてつもない豪快なスケールを持った気魄の凄さが、いやが上にも強く感じられてしまうというものだ。
そして、今日の「英雄交響曲」での演奏も、それ以上に圧巻だった。30年前にガーディナーとオルケストル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティークによる日本初のピリオド楽器系奏法によるベートーヴェン・ツィクルスで聴いた時のような、各楽器のパートが激突交錯する響きの物凄さ、といったような衝撃感はもはや得られないけれども、それを加えた音のマッスの強烈さという点では、やはりスリリングな演奏だったといえよう。
パーヴォはベートーヴェンがスコアに細かく書き込んだffやsfの指定を忠実に生かし、その大胆で攻撃的な強い意志の力を再現しようとしていた。この曲が当時いかに革命的な性格を備えていたかが、今日の演奏でも充分に描き出されていたと思われる。
もっとも、彼らの演奏は、ただ激しいだけに終始していたというわけではない。第4楽章終り近く、Poco Andanteに入って少し後(第357小節から)の弦楽器群が極度に柔らかく優しく歌い出されたのには、ちょっと驚いた。彼らがこの曲で初めて聴かせた、安息に満ちた音楽である。
沸き立つ聴衆に応えて演奏してくれたアンコール曲が、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」だったのには、何か妙に安心した。━━というのは、パーヴォのアンコールといえば、これまではシベリウスの「悲しきワルツ」ばかりだったので、いい加減食傷気味になっていたからである。今後はこちらで行くのか?
2022・12・8(木)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツカンマ―フィル
東京オペラシティ コンサートホール 7時
新国立劇場からそのまま隣のオペラシティへ移り、開演までの間にざる蕎麦の一杯も口にすることができる時間があるのは有難い。
7時からは私の御贔屓のパーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団(ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン)の来日公演の初日、ハイドン・プログラムである。最近リリースされたハイドンの交響曲「太鼓連打」他を収めたCD(RCA SICC-10403)が絶妙の演奏だったので、この公演も楽しみにしていたのだ。
今日のプログラムは、ハイドンの交響曲「第102番変ロ長調」「第96番ニ長調《奇蹟》」「第104番ニ長調《ロンドン》」。
ハイドンの交響曲が、所謂「パパ・ハイドン」などという誤解を招くようなイメージを払拭し、著しく革新的で攻撃的でスリリングな音楽として聴かせる点では、パーヴォ・ヤルヴィは、あのマルク・ミンコフスキと双璧であろう。
今日の演奏でも、ハイドンの晩年の交響曲が、ある面ではベートーヴェンの初期の2つの交響曲を遥かに上回るほどの充実した内容を備えていることを、はっきりと証明していた。彼らが聴かせた「ロンドン」における音楽のエネルギーは、結構目覚ましかった(とはいっても、それは「第103番《太鼓連打》」に比べれば多少弱められてはいるが)。
アンコールとして演奏された艶めかしい(?)小品は、ハンガリーの近代作曲家レオ・ヴェイネルの「ディヴェルティメント第1番」の第1楽章の由。
新国立劇場からそのまま隣のオペラシティへ移り、開演までの間にざる蕎麦の一杯も口にすることができる時間があるのは有難い。
7時からは私の御贔屓のパーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団(ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン)の来日公演の初日、ハイドン・プログラムである。最近リリースされたハイドンの交響曲「太鼓連打」他を収めたCD(RCA SICC-10403)が絶妙の演奏だったので、この公演も楽しみにしていたのだ。
今日のプログラムは、ハイドンの交響曲「第102番変ロ長調」「第96番ニ長調《奇蹟》」「第104番ニ長調《ロンドン》」。
ハイドンの交響曲が、所謂「パパ・ハイドン」などという誤解を招くようなイメージを払拭し、著しく革新的で攻撃的でスリリングな音楽として聴かせる点では、パーヴォ・ヤルヴィは、あのマルク・ミンコフスキと双璧であろう。
今日の演奏でも、ハイドンの晩年の交響曲が、ある面ではベートーヴェンの初期の2つの交響曲を遥かに上回るほどの充実した内容を備えていることを、はっきりと証明していた。彼らが聴かせた「ロンドン」における音楽のエネルギーは、結構目覚ましかった(とはいっても、それは「第103番《太鼓連打》」に比べれば多少弱められてはいるが)。
アンコールとして演奏された艶めかしい(?)小品は、ハンガリーの近代作曲家レオ・ヴェイネルの「ディヴェルティメント第1番」の第1楽章の由。
2022・12・8(木)新国立劇場 モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」
新国立劇場 オペラパレス 2時
新国立劇場定番の「ドン・ジョヴァンニ」で、グリシャ・アサガロフ演出版である。2008年のプレミエを含め、既に4度舞台に乘っており、私もそのたびに観て来た(☞2008年12月13日、2012年4月19日、2014年10月22日、2019年5月19日)。
ルイジ・ペーレゴの衣装と舞台美術はなかなか美しいし、演出も穏健でオーソドックスだから、人気があるのだろう。ただ、何度も観てしまうと、興味は舞台から離れ、指揮者と歌手がどのようにこの名作オペラの素晴らしさを再現させるか、ということだけに絞られて来る。音楽は何年聴いても飽きないが、演出には賞味期限がある、という、例のアレである。
今回の指揮はパオロ・オルミ。序曲の冒頭などすこぶる劇的に開始したので、これは━━と期待させられたが、その後はまず無難な(よく言えばだが)出来に終始したと言っていいかもしれない。東京フィルハーモニー交響楽団をバランスよく響かせたのは買えるとしても、地獄落ちの場面と、そのあとのアンサンブルの場面など、もっと劇的に盛り上げて欲しかったところである。なお、チェンバロの小埜寺美樹は良かった。
歌手陣は以下の通り━━シモーネ・アルベルギーニ(ドン・ジョヴァンニ)、レナード・ドルチーニ(レポレッロ)、河野鉄平(騎士長)、ミルト・パパタナシュ(ドンナ・アンナ)、レオナルド・コルテッラッツィ(ドン・オッターヴィオ)、セレーナ・マルフィ(ドンナ・エルヴィーラ)、近藤圭(マゼット)、石橋栄実(ツェルリーナ)。
来日陣の女性歌手の中には少々苦しい歌唱水準の人も居り、見かけの華やかさだけが取り柄だという印象が拭い切れなかったのも残念ながら事実だ。
その来日勢の舞台での演技が、プロダクションの初期の頃のそれに比べ、今一つ緊迫感に不足していたような感があったのは、再演という条件ゆえなのは確かとしても、再演演出家の力量次第で、もう少し何とかなるのではあるまいか?
5時半頃終演。
新国立劇場定番の「ドン・ジョヴァンニ」で、グリシャ・アサガロフ演出版である。2008年のプレミエを含め、既に4度舞台に乘っており、私もそのたびに観て来た(☞2008年12月13日、2012年4月19日、2014年10月22日、2019年5月19日)。
ルイジ・ペーレゴの衣装と舞台美術はなかなか美しいし、演出も穏健でオーソドックスだから、人気があるのだろう。ただ、何度も観てしまうと、興味は舞台から離れ、指揮者と歌手がどのようにこの名作オペラの素晴らしさを再現させるか、ということだけに絞られて来る。音楽は何年聴いても飽きないが、演出には賞味期限がある、という、例のアレである。
今回の指揮はパオロ・オルミ。序曲の冒頭などすこぶる劇的に開始したので、これは━━と期待させられたが、その後はまず無難な(よく言えばだが)出来に終始したと言っていいかもしれない。東京フィルハーモニー交響楽団をバランスよく響かせたのは買えるとしても、地獄落ちの場面と、そのあとのアンサンブルの場面など、もっと劇的に盛り上げて欲しかったところである。なお、チェンバロの小埜寺美樹は良かった。
歌手陣は以下の通り━━シモーネ・アルベルギーニ(ドン・ジョヴァンニ)、レナード・ドルチーニ(レポレッロ)、河野鉄平(騎士長)、ミルト・パパタナシュ(ドンナ・アンナ)、レオナルド・コルテッラッツィ(ドン・オッターヴィオ)、セレーナ・マルフィ(ドンナ・エルヴィーラ)、近藤圭(マゼット)、石橋栄実(ツェルリーナ)。
来日陣の女性歌手の中には少々苦しい歌唱水準の人も居り、見かけの華やかさだけが取り柄だという印象が拭い切れなかったのも残念ながら事実だ。
その来日勢の舞台での演技が、プロダクションの初期の頃のそれに比べ、今一つ緊迫感に不足していたような感があったのは、再演という条件ゆえなのは確かとしても、再演演出家の力量次第で、もう少し何とかなるのではあるまいか?
5時半頃終演。
2022・12・7(水)ティーレマン指揮シュターツカペレ・ベルリン
サントリーホール 7時
シュターツカペレ・ベルリン━━日本での俗称はベルリン国立歌劇場管弦楽団━━の6年ぶりの来日公演。
今回は総帥のダニエル・バレンボイムは来られず、クリスティアン・ティーレマンが代役として登場したが、彼とこのオーケストラのコンビは日本では初めて聴くものなので、むしろ面白味が増した公演だったと言えるだろう。
この日はブラームスの交響曲ツィクルスの初日として、最初に「第2番」、次に「第1番」が演奏されたのだが、特に「第1番」は、最近ほとんど聴けなくなったような、良きドイツの伝統の美点がそのまま生かされた演奏だった気がして、私はすこぶる魅惑された次第である。
弦楽器群には、往年のオトマール・スウィトナーの時代を思わせる、翳りがあってしかも柔らかな羽毛のような響きが漂っており、しかもそれに強い重心が加わっていた。その上、管楽器全体に満ちている陰翳の豊かさと来たら、たとえドイツのオーケストラであっても、近年ではほとんど聴けなくなった類のものであろう。それらに加え、全体に重厚で強靭な力感が漲っているとなれば、これはやはりドイツのオケでなくては出せない音楽である。
時代遅れと言われようと、こういうスタイルを躊躇なくオーケストラから引き出し、誇示して見せるティーレマンという指揮者は、いまさら言うのもおかしいけれども、相当なサムライではある。
しかもこの「1番」では、ティーレマンは━━近年は昔ほど見せなくなっていた━━「矯め」や「長いパウゼ」や「テンポの加速」を披露した。第4楽章の第1主題が出る直前(第61小節」のフェルマータの驚くべき長さといい、それにあと一つ、どこだったか━━多分再現部の第2主題に入る個所(第301小節)ではなかったかと記憶するが、animatoに変わる2拍目、スラーが切れるだけの個所に突然挿入された長い総休止の衝撃的な効果など、やってくれたなティーレマン━━という感だったのである。
そして、この第4楽章のコーダでの昂揚感も、実に素晴らしかった。この「第1交響曲」に籠められたデモーニッシュな力を、余すところなく発揮したティーレマンとシュターツカペレ・ベルリンの快演であった。
第1部で演奏された「第2交響曲」は、やや硬い音色で、音楽のエネルギーを強調したようなスタイルだったが、これは後半の「第1交響曲」の演奏との対比を狙ったアプローチだったのだろう。正直なところ私には、この「第2番」の演奏は、ティーレマンの指揮としてはごく普通の水準のものに感じられ、特段の感銘を得ないままに終った、と申し上げてしまおう。
シュターツカペレ・ベルリン━━日本での俗称はベルリン国立歌劇場管弦楽団━━の6年ぶりの来日公演。
今回は総帥のダニエル・バレンボイムは来られず、クリスティアン・ティーレマンが代役として登場したが、彼とこのオーケストラのコンビは日本では初めて聴くものなので、むしろ面白味が増した公演だったと言えるだろう。
この日はブラームスの交響曲ツィクルスの初日として、最初に「第2番」、次に「第1番」が演奏されたのだが、特に「第1番」は、最近ほとんど聴けなくなったような、良きドイツの伝統の美点がそのまま生かされた演奏だった気がして、私はすこぶる魅惑された次第である。
弦楽器群には、往年のオトマール・スウィトナーの時代を思わせる、翳りがあってしかも柔らかな羽毛のような響きが漂っており、しかもそれに強い重心が加わっていた。その上、管楽器全体に満ちている陰翳の豊かさと来たら、たとえドイツのオーケストラであっても、近年ではほとんど聴けなくなった類のものであろう。それらに加え、全体に重厚で強靭な力感が漲っているとなれば、これはやはりドイツのオケでなくては出せない音楽である。
時代遅れと言われようと、こういうスタイルを躊躇なくオーケストラから引き出し、誇示して見せるティーレマンという指揮者は、いまさら言うのもおかしいけれども、相当なサムライではある。
しかもこの「1番」では、ティーレマンは━━近年は昔ほど見せなくなっていた━━「矯め」や「長いパウゼ」や「テンポの加速」を披露した。第4楽章の第1主題が出る直前(第61小節」のフェルマータの驚くべき長さといい、それにあと一つ、どこだったか━━多分再現部の第2主題に入る個所(第301小節)ではなかったかと記憶するが、animatoに変わる2拍目、スラーが切れるだけの個所に突然挿入された長い総休止の衝撃的な効果など、やってくれたなティーレマン━━という感だったのである。
そして、この第4楽章のコーダでの昂揚感も、実に素晴らしかった。この「第1交響曲」に籠められたデモーニッシュな力を、余すところなく発揮したティーレマンとシュターツカペレ・ベルリンの快演であった。
第1部で演奏された「第2交響曲」は、やや硬い音色で、音楽のエネルギーを強調したようなスタイルだったが、これは後半の「第1交響曲」の演奏との対比を狙ったアプローチだったのだろう。正直なところ私には、この「第2番」の演奏は、ティーレマンの指揮としてはごく普通の水準のものに感じられ、特段の感銘を得ないままに終った、と申し上げてしまおう。
2022・12・7(水)ロイヤル・オペラ「アイーダ」L.V
日本シネ・アーツ試写室 1時
「ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン2022/23」の一つ、ヴェルディの「アイーダ」を観る。今年10月12日上演のライヴ映像。
演出はロバート・カーセンだが、これは物凄い。METと違って先鋭的な演出プロダクションを多く出しているロイヤル・オペラだから、新作となればいろいろやるだろうと思っていたが、期待通りだ。
ドラマは、現代の架空国を舞台として、全篇軍事色に包まれたものとなる。エジプトもエチオピアもピラミッドももちろん出て来ない。舞台を埋めているのはただ灰色の重苦しい、冷厳な現代の軍人集団だ。だが考えてみると、「アイーダ」という物語の基本は、まさにこの国家と軍による重圧感を描くところにあったのではないか? これほどこのドラマの読み替えに適合した演出は、これまで観たことはなかった。
こういう演出で観ると、軍人たちが高く掲げる銃がシルエットとなって浮かぶ第1幕第2場の「神殿の場」の音楽は、何とも不気味に、身の毛のよだつような恐怖感を以て聞こえて来る。第2幕第2場はもちろん「凱旋の場」だが、大行進曲の場は何と戦死者の棺の葬列だ。
バレエは、第2幕第1場のそれは宴会の準備の場面に変えられているが、「凱旋の場」では「戦士の踊り」的なものが挿入されている(従ってここだけがリアリティに不足する)。だがその場のクライマックスたる最後の大合唱の時、背景のスクリーンに展開するのは空軍の飛行機、ヘリ、戦艦、潜水艦などの映像。これがまた凄まじい。
こういう演出は、あのベルリンの壁が崩壊した直後の90年代の「和解の時代」だったら、誰もやらなかっただろう。それが今また、出現する時代になってしまったのだ。
指揮はアントニオ・パッパーノ。主役歌手陣は、エレナ・スティヒナ(アイーダ)、フランチェスコ・メーリ(ラダメス)、アグニェツカ・レーリス(アムネリス)、リュドヴィク・テジエ(アモナズロ)、ソロマン・ハワード(ラムフィス)、シム・インスン(エジプト王)。
上演時間は約3時間半。一般公開は東宝東和の配給により1月6日からTOHOシネマズその他で。
「ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン2022/23」の一つ、ヴェルディの「アイーダ」を観る。今年10月12日上演のライヴ映像。
演出はロバート・カーセンだが、これは物凄い。METと違って先鋭的な演出プロダクションを多く出しているロイヤル・オペラだから、新作となればいろいろやるだろうと思っていたが、期待通りだ。
ドラマは、現代の架空国を舞台として、全篇軍事色に包まれたものとなる。エジプトもエチオピアもピラミッドももちろん出て来ない。舞台を埋めているのはただ灰色の重苦しい、冷厳な現代の軍人集団だ。だが考えてみると、「アイーダ」という物語の基本は、まさにこの国家と軍による重圧感を描くところにあったのではないか? これほどこのドラマの読み替えに適合した演出は、これまで観たことはなかった。
こういう演出で観ると、軍人たちが高く掲げる銃がシルエットとなって浮かぶ第1幕第2場の「神殿の場」の音楽は、何とも不気味に、身の毛のよだつような恐怖感を以て聞こえて来る。第2幕第2場はもちろん「凱旋の場」だが、大行進曲の場は何と戦死者の棺の葬列だ。
バレエは、第2幕第1場のそれは宴会の準備の場面に変えられているが、「凱旋の場」では「戦士の踊り」的なものが挿入されている(従ってここだけがリアリティに不足する)。だがその場のクライマックスたる最後の大合唱の時、背景のスクリーンに展開するのは空軍の飛行機、ヘリ、戦艦、潜水艦などの映像。これがまた凄まじい。
こういう演出は、あのベルリンの壁が崩壊した直後の90年代の「和解の時代」だったら、誰もやらなかっただろう。それが今また、出現する時代になってしまったのだ。
指揮はアントニオ・パッパーノ。主役歌手陣は、エレナ・スティヒナ(アイーダ)、フランチェスコ・メーリ(ラダメス)、アグニェツカ・レーリス(アムネリス)、リュドヴィク・テジエ(アモナズロ)、ソロマン・ハワード(ラムフィス)、シム・インスン(エジプト王)。
上演時間は約3時間半。一般公開は東宝東和の配給により1月6日からTOHOシネマズその他で。
2022・12・4(日)田部京子ピアノ・リサイタル
浜離宮朝日ホール 2時
彼女のリサイタルを聴くのは久しぶりだ。今日は彼女の「シューベルト・プラス・シリーズ」の最終回だとの由で、ブラームスの最後のピアノ曲「4つの小品Op,119」と、ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ「第32番ハ短調Op.111」、シューベルト最後のピアノ・ソナタ「第21番変ロ長調D960」というプログラムが組まれていた。
本当に何年振りかで聴く田部京子のソロ・リサイタル。私が彼女を聴くのをさぼっていた間に、彼女のピアノは深みとスケールの大きさをいっそう増していた。
その中で私が最も感動した演奏は、やはりシューベルトのソナタにおけるそれである。その第1楽章、光と翳の間を逍遥するような沈潜した表情の裡に、時に明るく明快な躍動が閃いては消えて行くその呼吸の鮮やかさ。
この「モルト・モデラート」楽章が、静かではあるもののかくも劇的な起伏を感じさせる音楽に感じられたことが、これまであったかどうか。この楽章に特有の、断続する音の進行の中にも、緊張感が希薄になることは一切ない。
第2楽章では更に沈潜の度を加えるが、それらのすべてが後半の2つの楽章で一気に解放されて行く爽快さも見事だ。田部京子のシューベルトは、これほどまでに立派な、しかも深みのあるものになっていた。聴きに来て、よかったと思う。
だが私は、この感動に自然に浸れていたわけではなく、ある程度意識しながら無理に浸っていた、というところもあったことを告白しなければならない。
実はこの曲の最初から最後まで、1階最後列の中央ブロックの中央あたりに座っていた白髪の老女が立てる、並外れた「紙の雑音」に悩まされていた。それもガサガサ程度の音ではなく、バリバリ、バキバキという常軌を逸した大きな雑音なのである。私はその最後列中央ブロックの右端に座っていたのだが、そこからでは距離があり過ぎて注意が出来ない。今日の周囲のお客さんたちは、たしなみがありすぎて、誰一人として注意をしないのだ。やむを得ず私は斜め後方のドアの傍にいたレセプショニストに何度か合図し、それとなく注意をしてもらうようお願いしたが、彼女は何故か頷くばかりで全くその行動を採らない━━最後列なのだから、後ろからそっと注意しようと思えば可能だろうに、何もしてくれないのである。
結局そのまま、演奏は終った。田部京子の素晴らしい演奏に泥を塗られたような気がして、私は我慢できずに席を立ってしまい、ドアのところでレセプショニストに「どうして注意してくれないんですか」と質問したが、彼女は蚊の鳴くような声でぼそぼそ何か言うばかり。客が困っている時には助ける、というのもレセプショニストの役割だと信じていたのだが、どうやらそれは間違いだったようだ。
━━アンコールにはシューベルトの即興曲が演奏されていたようだったが、客席に戻ることは、もう不可能だった。
彼女のリサイタルを聴くのは久しぶりだ。今日は彼女の「シューベルト・プラス・シリーズ」の最終回だとの由で、ブラームスの最後のピアノ曲「4つの小品Op,119」と、ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ「第32番ハ短調Op.111」、シューベルト最後のピアノ・ソナタ「第21番変ロ長調D960」というプログラムが組まれていた。
本当に何年振りかで聴く田部京子のソロ・リサイタル。私が彼女を聴くのをさぼっていた間に、彼女のピアノは深みとスケールの大きさをいっそう増していた。
その中で私が最も感動した演奏は、やはりシューベルトのソナタにおけるそれである。その第1楽章、光と翳の間を逍遥するような沈潜した表情の裡に、時に明るく明快な躍動が閃いては消えて行くその呼吸の鮮やかさ。
この「モルト・モデラート」楽章が、静かではあるもののかくも劇的な起伏を感じさせる音楽に感じられたことが、これまであったかどうか。この楽章に特有の、断続する音の進行の中にも、緊張感が希薄になることは一切ない。
第2楽章では更に沈潜の度を加えるが、それらのすべてが後半の2つの楽章で一気に解放されて行く爽快さも見事だ。田部京子のシューベルトは、これほどまでに立派な、しかも深みのあるものになっていた。聴きに来て、よかったと思う。
だが私は、この感動に自然に浸れていたわけではなく、ある程度意識しながら無理に浸っていた、というところもあったことを告白しなければならない。
実はこの曲の最初から最後まで、1階最後列の中央ブロックの中央あたりに座っていた白髪の老女が立てる、並外れた「紙の雑音」に悩まされていた。それもガサガサ程度の音ではなく、バリバリ、バキバキという常軌を逸した大きな雑音なのである。私はその最後列中央ブロックの右端に座っていたのだが、そこからでは距離があり過ぎて注意が出来ない。今日の周囲のお客さんたちは、たしなみがありすぎて、誰一人として注意をしないのだ。やむを得ず私は斜め後方のドアの傍にいたレセプショニストに何度か合図し、それとなく注意をしてもらうようお願いしたが、彼女は何故か頷くばかりで全くその行動を採らない━━最後列なのだから、後ろからそっと注意しようと思えば可能だろうに、何もしてくれないのである。
結局そのまま、演奏は終った。田部京子の素晴らしい演奏に泥を塗られたような気がして、私は我慢できずに席を立ってしまい、ドアのところでレセプショニストに「どうして注意してくれないんですか」と質問したが、彼女は蚊の鳴くような声でぼそぼそ何か言うばかり。客が困っている時には助ける、というのもレセプショニストの役割だと信じていたのだが、どうやらそれは間違いだったようだ。
━━アンコールにはシューベルトの即興曲が演奏されていたようだったが、客席に戻ることは、もう不可能だった。
2022・12・3(土)ジャパン・アーツ スペシャル・ガラ・コンサート
サントリーホール 1時30分
第1部では「至高のアンサンブル」と題し、樫本大進・日下紗矢子(vn)、赤坂智子:鈴木学(va)、遠藤真理・ユリアン・シュテッケル(vc)の6人が、R・シュトラウスの「カプリッチョ」前奏曲とチャイコフスキーの「フィレンツェの思い出」を演奏。
第2部では「珠玉のオペラ・アンサンブル」と題し、森谷真理(S)と大西宇宙(Br)が、ロリー・マクドナルド指揮東京シティ・フィルをバックにロッシーニ、ベルリーニ、ヴェルディのオペラからのアリアや二重唱を歌う。
そして第3部では「グランド・フィナーレ」と題し、ブルース・リウ(pf)がオーケストラとショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」と、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を演奏。
━━という、極めて賑やかなコンサートだったが、演奏はすこぶる聴き応えがあった。第1部の六重奏での、日下がリーダーとなった「カプリッチョ」での柔らかな優雅さ、樫本がリーダーとなった「フィレンツェの思い出」での快活さと勢いの良さ。
そして第2部で「セビリャの理髪師」の「何でも屋の歌」で大見得を切った大西宇宙の小気味よい歌唱は彼の最近の好調ぶりを示し、「運命の力」の「神よ平和を与えたまえ」を温かい情感をこめて歌った森谷真理はこのレオノーラ役に新しい解釈をもたらしていた。
ただ、それらの快演に寄せられた拍手が比較的通り一遍のものに過ぎなかったのに対し、第3部に登場した中国系カナダのピアニストで、昨年のショパン国際コンクール優勝者でもあるブルース・リウには、1階客席前方下手側の若い女性客が総立ちとなって熱狂し、場内からも大拍手とブラヴォーが湧き上がるのである。これで、今日の客の多くが誰を目当てに来ていたかが明らかになった・・・・。
終演は4時半頃。
第1部では「至高のアンサンブル」と題し、樫本大進・日下紗矢子(vn)、赤坂智子:鈴木学(va)、遠藤真理・ユリアン・シュテッケル(vc)の6人が、R・シュトラウスの「カプリッチョ」前奏曲とチャイコフスキーの「フィレンツェの思い出」を演奏。
第2部では「珠玉のオペラ・アンサンブル」と題し、森谷真理(S)と大西宇宙(Br)が、ロリー・マクドナルド指揮東京シティ・フィルをバックにロッシーニ、ベルリーニ、ヴェルディのオペラからのアリアや二重唱を歌う。
そして第3部では「グランド・フィナーレ」と題し、ブルース・リウ(pf)がオーケストラとショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」と、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を演奏。
━━という、極めて賑やかなコンサートだったが、演奏はすこぶる聴き応えがあった。第1部の六重奏での、日下がリーダーとなった「カプリッチョ」での柔らかな優雅さ、樫本がリーダーとなった「フィレンツェの思い出」での快活さと勢いの良さ。
そして第2部で「セビリャの理髪師」の「何でも屋の歌」で大見得を切った大西宇宙の小気味よい歌唱は彼の最近の好調ぶりを示し、「運命の力」の「神よ平和を与えたまえ」を温かい情感をこめて歌った森谷真理はこのレオノーラ役に新しい解釈をもたらしていた。
ただ、それらの快演に寄せられた拍手が比較的通り一遍のものに過ぎなかったのに対し、第3部に登場した中国系カナダのピアニストで、昨年のショパン国際コンクール優勝者でもあるブルース・リウには、1階客席前方下手側の若い女性客が総立ちとなって熱狂し、場内からも大拍手とブラヴォーが湧き上がるのである。これで、今日の客の多くが誰を目当てに来ていたかが明らかになった・・・・。
終演は4時半頃。
2022・12・2(金)トマーシュ・ネトピル指揮読響&ムローヴァ
サントリーホール 7時
エッセン歌劇場とエッセン・フィルの音楽総監督を務めるチェコ出身の指揮者、トマーシュ・ネトピルが3年ぶりに客演。
ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストはヴィクトリア・ムロ―ヴァ)、モーツァルトの「交響曲第25番ト短調」、ヤナーチェクの「狂詩曲《タラス・ブーリバ》」を指揮した。コンサートマスターは日下紗矢子。
ネトピルは、今回は読響を2種類のプログラムで3回指揮したが、私はスケジュールの関係で、今日の演奏会しか聴けなかった。だが前回の客演(☞2019年11月24日、同11月29日)で聴いたのと同様、やはりいい指揮者だという感を強くする。
2008年にバイエルン州立劇場で初めて彼の指揮を聴いて以来、そのキレのいい指揮に惚れ込んで盛んに応援記事を書いていたのだが、初来日で指揮した新国立劇場の「さまよえるオランダ人」が惨憺たる出来だったため、日本での評価がさっぱり上がらないのをもどかしく思っていた。それが前回の読響客演で払拭され、今回の客演で聴衆の大拍手を浴びることができたのから━━ひとごとながら━━嬉しい限りである。
今日も、モーツァルトとヤナーチェクの作品での演奏は、デモーニッシュな荒々しさが率直に歯切れよく、しかし決して形を崩さずに表出されたもので、極めて説得力に富んでいたと言えるだろう。ショスタコーヴィチの協奏曲では、ムロ―ヴァのソロとともに、過度に攻撃的にならぬ均整のとれた演奏が聴けた。なおムローヴァは、浜離宮朝日ホール開館30周年記念演奏会などへの出演のために、11月中旬から来日していた。
エッセン歌劇場とエッセン・フィルの音楽総監督を務めるチェコ出身の指揮者、トマーシュ・ネトピルが3年ぶりに客演。
ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストはヴィクトリア・ムロ―ヴァ)、モーツァルトの「交響曲第25番ト短調」、ヤナーチェクの「狂詩曲《タラス・ブーリバ》」を指揮した。コンサートマスターは日下紗矢子。
ネトピルは、今回は読響を2種類のプログラムで3回指揮したが、私はスケジュールの関係で、今日の演奏会しか聴けなかった。だが前回の客演(☞2019年11月24日、同11月29日)で聴いたのと同様、やはりいい指揮者だという感を強くする。
2008年にバイエルン州立劇場で初めて彼の指揮を聴いて以来、そのキレのいい指揮に惚れ込んで盛んに応援記事を書いていたのだが、初来日で指揮した新国立劇場の「さまよえるオランダ人」が惨憺たる出来だったため、日本での評価がさっぱり上がらないのをもどかしく思っていた。それが前回の読響客演で払拭され、今回の客演で聴衆の大拍手を浴びることができたのから━━ひとごとながら━━嬉しい限りである。
今日も、モーツァルトとヤナーチェクの作品での演奏は、デモーニッシュな荒々しさが率直に歯切れよく、しかし決して形を崩さずに表出されたもので、極めて説得力に富んでいたと言えるだろう。ショスタコーヴィチの協奏曲では、ムロ―ヴァのソロとともに、過度に攻撃的にならぬ均整のとれた演奏が聴けた。なおムローヴァは、浜離宮朝日ホール開館30周年記念演奏会などへの出演のために、11月中旬から来日していた。
2022・12・1(木)モリエール:「守銭奴」
東京芸術劇場 プレイハウス 7時
モリエールの有名な戯曲「守銭奴」をシルヴィウ・プルカレーテが演出、佐々木蔵之介が守銭奴の主人公アルパゴンを演じた舞台。
その他の配役は、息子クレアントを竹内将人、その恋人マリアーヌを天野はな、クレアントの妹エリーズを大西礼芳、その恋人の執事ヴァレールを加治将樹、他。
プルカレーテ演出と佐々木蔵之介主演というコンビは、たしか「リチャード3世」(☞2017年10月18日)に続くものだろう。舞台美術と照明と衣装もその時と同じくドラゴッシュ・ブハジャールが、また音楽も同じくヴァシル・シリーが担当している。翻訳は秋山伸子。
佐々木蔵之介は、禿げ上がった頭で背中を丸め、周囲の人間を怒鳴り散らすという、いかにもカネの亡者の頑固な老人という雰囲気で熱演していた。息子や娘たちの言動は何となく往年の木下恵介の映画「破れ太鼓」でのそれを連想させるが、もちろんこの「守銭奴」の方は、オヤジが軟化してハッピーエンドに終るという筋書きではない。
ただ、2時間(休憩なし)の芝居を観ていて些か気になったのは━━この「守銭奴」は、今回の演出では、やはり喜劇として扱われていたのだろうか?
ブルガレーテは「彼(アルパゴン)は呪われた者、異常な情熱、悲劇的な運命、引き裂かれた魂に支配されている」と述べている(プログラム冊子掲載)のだが、観たところ実際には、それほどの深刻さはあまり表出されていないように感じられる。
私としては、もう少しどろどろした世界が描かれ、21世紀における「カネ」とは何なんだ、という問題が提起されるのかな、などと勝手に想像していたのだが━━。
モリエールの有名な戯曲「守銭奴」をシルヴィウ・プルカレーテが演出、佐々木蔵之介が守銭奴の主人公アルパゴンを演じた舞台。
その他の配役は、息子クレアントを竹内将人、その恋人マリアーヌを天野はな、クレアントの妹エリーズを大西礼芳、その恋人の執事ヴァレールを加治将樹、他。
プルカレーテ演出と佐々木蔵之介主演というコンビは、たしか「リチャード3世」(☞2017年10月18日)に続くものだろう。舞台美術と照明と衣装もその時と同じくドラゴッシュ・ブハジャールが、また音楽も同じくヴァシル・シリーが担当している。翻訳は秋山伸子。
佐々木蔵之介は、禿げ上がった頭で背中を丸め、周囲の人間を怒鳴り散らすという、いかにもカネの亡者の頑固な老人という雰囲気で熱演していた。息子や娘たちの言動は何となく往年の木下恵介の映画「破れ太鼓」でのそれを連想させるが、もちろんこの「守銭奴」の方は、オヤジが軟化してハッピーエンドに終るという筋書きではない。
ただ、2時間(休憩なし)の芝居を観ていて些か気になったのは━━この「守銭奴」は、今回の演出では、やはり喜劇として扱われていたのだろうか?
ブルガレーテは「彼(アルパゴン)は呪われた者、異常な情熱、悲劇的な運命、引き裂かれた魂に支配されている」と述べている(プログラム冊子掲載)のだが、観たところ実際には、それほどの深刻さはあまり表出されていないように感じられる。
私としては、もう少しどろどろした世界が描かれ、21世紀における「カネ」とは何なんだ、という問題が提起されるのかな、などと勝手に想像していたのだが━━。