2024-04




2023・1・29(日)カーチュン・ウォン指揮日本フィル

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 首席客演指揮者にして次期首席指揮者でもあるカーチュン・ウォンが振る演奏会は、今月もいくつかあったが、スケジュールの関係で、聴けたのは今日の公演だけになった。
 今日はラフマニノフ・プロで、小菅優をソリストに迎えての「ピアノ協奏曲第3番」と、「交響曲第2番」。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 初めて1階RBのA列という席で聴いたが、ステージにかなり近い位置で、音響はなかなか良い。この席でこのコンチェルトを聴くと、ふだん2階席正面で聴く時よりも、ソロのピアノがオーケストラにかき消されることなく、かなり明晰に聞こえるという特徴が感じられる。ただ、小菅優の演奏は、充分に躍動的ではあっても、基本的にはどちらかというと端整な感があって、ラフマニノフのコンチェルトとしては些か華麗さに不足する感があるだろう。この曲がそうした解釈の演奏に適しているかどうかということになると、これはまた議論の対象になるだろうけれど。
 カーチュン・ウォンが日本フィルから引き出した音は━━この席で聴くと、すこぶる柔らかくて豊麗な響きとなる。

 「第2交響曲」の方では、カーチュン・ウォンは、曲を実に端整に構築した。第3楽章ではそれなりの美しさを生み出していたが、第4楽章では、どれほど音楽が昂揚する個所でもしても全く忘我の熱狂に達することなく、大詰めの個所などもイン・テンポで押し通し、実に整然と曲を閉じる。このあたり、作品によってウォンがさまざまにスタイルを変える例の一つであり、その変動の基準は、相変わらず判別し難いものがある。

 客席は、気持のいいほど埋まっていた。次期首席指揮者がこれほどの人気を集めるというのは、日本フィルにとって嬉しい兆候だろう。

2023・1・27(金)チョン・ミョンフン指揮東京フィル

       サントリーホール  7時

 名誉音楽監督チョン・ミョンフンが、シューベルトの「未完成交響曲」と、ブルックナーの「交響曲第7番」(ノーヴァク版)を指揮。コンサートマスターは三浦章宏。

 チョン・ミョンフンと東京フィルの定期は、この1~2年、ブラームスの交響曲全曲、ドビュッシーの「海」などのフランス・プロ、ヴェルディの「ファルスタッフ」など、快演、豪演の連続だ。これらの一連の演奏を聴いていると、現在の東京フィルが最も信頼し、「ついて行ける指揮者」の筆頭格として挙げられるのが、このチョン・ミョンフンであるということは容易に想像がつくだろう。

 今日の演奏会は、東京フィル独特の「オペラシティ、サントリー、オーチャード3会場定期」の2日目。
 「未完成交響曲」は整然とした構築の裡に静かな叙情と毅然たる表情を湛えた演奏で、オーボエとクラリネットのソロが美しい。

 ブルックナーの「7番」は、このところ━━ナマでの話だが━━不思議によく「流行る」。2010年に首都圏で「8番」が7連発された時ほどではないにしても、とにかく演奏される機会が多い。私も、3日前にも尾高&大フィルの演奏をこのホールで聴いたばかりなので、どうしても比較しながら聴いてしまうことになるだろう。

 今日はノーヴァク版による演奏で、第2楽章の頂点ではティンパニ、シンバル、トライアングルなど打楽器陣も参加するほか、第4楽章ではスコアの指定に従って、テンポの細かい動きも聴かれる。
 第1楽章では何となくオーケストラに自由な動き(?)があったが、第2楽章以降ではがっしりとした揺るぎない構築が甦り、特に第3楽章は凄絶な厳しい推進力に満たされて、息を呑むほどの緊迫感を生んだ。

 第4楽章では、ノーヴァク版独特の揺れ動くテンポをチョンが見事に再現してくれていたため、とかくだらだらとした流れになりかねないこの楽章が見事に引き締められていたのは事実だろう。ただ、第1楽章のコーダでもそうだったが、終楽章のコーダでもアッチェルランドをかけるのは、曲の威厳と風格が損ねられるような感を生み、私にはどうしても納得が行かない。だがまあ、こういうところが、チョン・ミョンフンの人間的な感情の動きを表わすものかもしれない。

 今日の東京フィルの音色は全体に明るく温かく、先日の大阪フィルの清冽な響きと好対照をなしていた。そして和声感の豊かさも━━低音弦の鳴りもよかったので━━今日のチョン&東京フィルの演奏の方に強く感じられた。

 新聞で、感染症対策のため禁じられていた「イヴェントでの大声の緩和」が報じられたせいか、今日はブラヴォーの声も少なからず飛んだ。私は(自分では出さないが)ブラヴォーの声は好きだから歓迎したい。だが、フライング・ブラヴォーまで復活するのはうんざりする。今日のLA席あたりにいた御仁、出しゃばり過ぎる。

2023・1・24(火)尾高忠明指揮大阪フィルの東京公演

       サントリーホール  7時

 恒例の大阪フィルハーモニー交響楽団の東京公演。音楽監督・尾高忠明の指揮で、池辺普一郎の「交響曲第10番《次の時代のために》」と、ブルックナーの「交響曲第7番」を取り上げた。コンサートマスターは須山暢大。
 尾高忠明がシェフに就任して以来築き上げて来た大阪フィルの緻密で均衡豊かなアンサンブルが十全に発揮された演奏会だったと言えよう。

 特に池辺の交響曲では、弦のアンサンブルがとりわけ見事な出来を示し、しかも全管弦楽の音がすこぶる強大だったこともあって、この作品を素晴らしく豪壮なものとして再現させていたのである。
 このシンフォニーは私も初めて聴いたのだが、「次の時代のために」という題名に相応しく、曲想も活気に溢れている。ただその活気が、所謂ありふれた楽観主義のような明るいものではなく、むしろ不安、苛立たしさ、光明を求めてのあがき━━といったような雰囲気を感じさせていたのは、こちらの感覚の所為か? 全曲最後の和音ですら不思議な荒々しさと、解決されない疑問を表わすようなものだったのも印象的だ。

 ブルックナーの「7番」はハース版が使用されていたが、第2楽章の頂点の個所では、打楽器のうち、ティンパニだけは加えられていた。謂わばノーヴァク版との折衷版という感だが、このようにティンパニが轟然と鳴った方が、やはりクライマックス感が生きるというものだろう。

 第1楽章冒頭で主題が全管弦楽に拡がった瞬間の大阪フィルの清澄な音色には魅了されたが、全体はどちらかというと硬めの剛直な、しかも生々しい音色で展開されていた。この強大な音響は、大阪フィルがホームグラウンドとしている、あの広いフェスティバルホールを基に形成されたものか? そういえば、「大きな音」は、朝比奈時代からの大阪フィルの伝統だった。
 いずれにせよ、尾高らしい緻密で揺るぎない、厳然としたブルックナーがたっぷりと堪能できた演奏ではあった。

2023・1・23(月)井上道義の「A Way from Surrender~降福からの道」

       サントリーホール  7時

 井上道義の「作品4」にあたるミュージカルオペラ。彼自身が指揮、脚本、作曲、演出、振付を担当。
 出演は新日本フィル、工藤和真(画家タロー)、大西宇宙(父親・正義)、小林沙羅(母親・みちこ)、宮地江奈(マミ、摩耶子)、鳥谷尚子(エミ、優子)、コロンえりか(フィリピン娘ピナ)他多数。コンサートマスターは崔文洙。

 セミステージ形式ともいえる上演形式。ただし2日前のトリフォニーホール上演では、オーケストラはピットに入り、ステージ後方には大スクリーンを吊って舞台効果を上げていた由。今日はホールの構造の関係から、全てステージ上での演奏と演技となっていた。

 井上自身による脚本は、喩えれば彼自身の「ファミリー・ツリー」とでも言うべき物語だろうか。太平洋戦争のさなかでの日系2世の正義(主人公タローの父)と日本人のみちこ(母)━━つまり道義自身の父母ということか━━の愛や、移住したフィリピンでの2人の苦難などが、そのストーリーの核となっている。それはまた、両親から戦争体験を受け継いだ井上道義の痛切な告白の物語、と言ってもいいだろうか。
 ただしそれをよくある戦争ドラマでなく、人種問題のドラマでもなく、少なくとも表向きはコミカルな動きと、賑やかな音楽で彩っているところが、いかにもまた彼らしいところだ。

 どこまでがノン・フィクションで、どこからがフィクションなのかは定かでないが、「絵描きは絵空事を書く」という言葉(こういう言葉の遊びは全篇に散りばめられている)とか、タローが描いた父母の肖像画に焦点が当たる部分で武満徹の「《他人の顔》のワルツ」が効果音として流れるとかの細かい伏線がいくつか挿入されているところを見ると、作者は随分ストーリーを練り上げているな、と思う。

 そしてまたそういう場面が、物語に込められた作者の葛藤をあからさまに伝えていて、観ている側でも不思議に心が騒ぐ心理に誘われてしまう。物語全体を覆っているように見える戦争体験━━もしくは戦後体験━━が極めて生々しく感じられたのは、私自身もその時代を体験しているためでもあろうか。

 ただそれゆえに、このミュージカルオペラの締め括りで、一同が舞台前面に一列に並んで合唱するという演出が、甚だ常套的で陳腐な手法のように感じられた。「もう少しミッキーならではの斬新なやり方もあったでしょうが?」と、ここに関してだけは言いたくなったのは事実である。

 音楽は概して耳当たりがいい。「花まつり」(これはフィリピンでなく南米だろう)や「黒田節」や、その他どこかで私たちが耳にしたことがある曲の断片が数多く変形されてコラージュアートのように織り込まれる個所が随所にあるが、この「引用」は、時には当時の世相の思い出のように感じられることもあって、私にはかなり愉しめた。
 そしてまた、彼の管弦楽法がかなり分厚いのには驚いたが、たとえば一つの場面から次の場面へと移行する個所で、薄紙を剥ぐように色合いが変わって行く音楽のつくり方がすこぶる見事だったのには感心した。

 歌手陣では、父・正義役の大西宇宙が安定した歌唱で全体を引っ張っていた。小林沙羅ももちろん良かったが、特に今回は彼女がバレエを鮮やかに披露するさまを初めて観ることができて、なるほどと驚いたり、感じ入ったり。主人公の画家タローの工藤和真は大熱演である。

2023・1・22(日)びわ湖ホール講座&船越亜弥ソプラノ・リサイタル

     コラボしが21、滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホール

 早い開講時間に合わせて早起きしたおかげで、ホテルから琵琶湖の壮麗な朝焼けの空と日の出を嘆賞することができた。
 太陽が昇って来るのに応じて周囲の山々の容が浮かび上がって来る光景も素晴らしかったが、思いがけず感動的だったのは、西側にある比叡山などの山々の、最初は頂上に当たっていた赤い光が、瞬く間に下まで拡がって来る光景だ。「アルプス交響曲」冒頭の日の出の場面はまさにそういう模様を描いたものなのかと、R・シュトラウスが慣例を破って「日の出」を下行音型で表現したその発想の巧みさに、今更ながら感心させられた次第である。

 9時45分からは、3月にびわ湖ホールが上演する「ニュルンベルクのマイスタージンガー」入門講座の第2回。こんなに朝早く、しかも駅からは必ずしも近いとは言えぬこの会場での開催だから、果たしてどのくらいの人たちが来られるのやら、と思っていたのだが、案に相違して定員130人のほとんどの方が顔を揃えておられたのには仰天した。その熱心さには全く頭が下がるというものである。
 今回は登場人物のヴァルター、ベックメッサー、ザックスの人格に焦点を当てて、多種の演出の比較によりその変遷を探るというテーマで2時間の講演を行なった。

 午後2時からはびわ湖ホールの大ホールで、2021年の日本音楽コンクール声楽部門第1位となった船越亜弥のリサイタル。彼女はびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーだから、それに関連しての開催となったものだろう。私もこれまで彼女のソロは、愛知祝祭管弦楽団のワーグナー上演シリーズで、2016年の「ラインの黄金」と2019年の「神々の黄昏」のラインの乙女役、2017年の「ヴァルキューレ」などで聴いたことがある。

 今回は「気軽にクラシック」というシリーズの一環としてのリサイタルなので、ヴォルフ、R・シュトラウス、リスト、高田三郎、林光などの叙情的な歌曲を多く歌っていたが、しかしカタラーニの「ラ・ワリー」からのアリアや、ゲストの大久保亮との共演で歌った「乾杯の歌」や「メリー・ウィドウ」の二重唱では明るく豊麗で伸びのある声を聴かせ、オペラ歌手としての力量を余すところなく発揮して聴き手を魅了した。
 特にアンコールで歌った「タンホイザー」の「歌の殿堂」は、叙情的なワーグナー歌手としての彼女の魅力を明らかにした歌唱であったろう。今後が楽しみである。

 なお、ゲストとして登場した大久保亮も、愛知祝祭管のワーグナー・シリーズで2016年に「ラインの黄金」のフローや、2019年に「神々の黄昏」で大役ジークフリートを歌っていた人で、力量は充分である。小さなリサイタルだったが、いずれも聴き応えがあった。

 午後4時過ぎの新幹線で帰京。一部停電のため長距離ダイヤは大混乱していたようだが、新大阪発の列車は幸いにも数分遅れ程度で運行されていたので、結局15分程度の遅れの範囲で済んだ。

2023・1・21(土)鈴木優人指揮京都市交響楽団 ロシア・プロ

       京都コンサートホール 大ホール  2時30分

 昼に新幹線で京都駅へ移動。地下鉄烏丸線の北山駅で下車、京都コンサートホールに入る。
 京響の1月定期に鈴木優人が客演し、プロコフィエフの「古典交響曲」、ストラヴィンスキーの「弦楽のための協奏曲ニ調」、ラフマニノフの「交響曲第2番」というプログラムを指揮するのが興味深い。コンサートマスターは会田莉凡。

 鈴木優人は、このところ、当たるを幸い薙ぎ倒すといった勢いでレパートリーを広げているが、もともと古楽系、バロック系の出自(?)の彼には、ストラヴィンスキーの「弦楽のための協奏曲」のような新古典主義作品ならともかく、ラフマニノフの交響曲のような傾向の作品にはどうなのかな、と思っていた。

 だが今日の演奏を聴いて驚き、感嘆したのは、この粘着系のロシアの作品をも、鈴木優人が彼自身のスタイルの中にすっぽりとそれを取り込んでしまい、清廉な音色の裡にラフマニノフの叙情性を余すところなく生かして、整然として美しい構築の「第2交響曲」をつくりあげていたことであった。

 こうした演奏は得てして無味乾燥で冷徹なラフマニノフを打ち立ててしまう危険性をはらむものだが、鈴木優人が京響から引き出した音楽は、決して冷たいものではない。むしろ、その透明な音色が、ラフマニノフの音楽に新鮮な感覚を導入し、予想していなかった美しさを生み出している、といった趣なのだ。従って、第4楽章の大詰め個所が忘我的な突進の興奮の裡に終る、といった類の演奏にならないのはもちろんだけれども、そこへ達するまでの音楽の流れが極めて自然であるために、物足りぬという印象を全く生まないのである。とにかくこれは、予想外の素晴らしい「ラフマ2」であった。

 「弦楽のための協奏曲」では、作品本来の性格と、おそらく鈴木優人のバロック的な感性(?)とが合致していたのかもしれない。それに加え、京響の弦の良さが十全に生きていた。少し神秘的でスケルツォ的な第3楽章など、すこぶるリズミカルで躍動的で、快い演奏だったことを特記しておきたい。

 一方、「古典交響曲」では第1楽章のアレグロが不思議に遅いテンポで演奏されたために、この曲の持つエスプリが多少薄められたかと思わないでもなかったが、京響の弦の音色の爽やかさがここでも存分に発揮され、快い印象を生んだことは事実であった。
 どの曲においても鈴木優人は音楽を緻密に丁寧に、一つ一つの音にも神経を行き届かせて構築していたことが好印象を呼ぶ。そして演奏の、この上ない流れの良さ━━これこそは彼の指揮の身上であろう。

 終演後、JRで大津へ移動。明朝9時45分開始の(早い!早すぎる!)びわ湖ホールの「マイスタージンガー」入門講座第2回に備え、琵琶湖ホテルに入る。

2023・1・20(金)下野竜也指揮広島交響楽団「青ひげ公の城」

       広島文化学園HBGホール  6時45分

 下野竜也の音楽総監督としての任期も、ついに来年3月までとなった由。その彼がバルトークのオペラ「青ひげ公の城」を指揮するという定期なので、これは聴かずにはおけないと思い、他の予定と組み合わせて広島を訪れる。

 これは広響の1月定期。プログラムは、前半にコダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」、後半に「青ひげ公の城」(演奏会形式上演、字幕付)。配役は、宮本益光(青ひげ)、石橋栄実(ユディット)、山岸玲音(前口上の吟遊詩人)。コンサートマスターは三上亮(首席客演)、生頼まゆみ(ツィンバロン)。字幕は森本覚。

 「ハーリ・ヤーノシュ」は、昔、ジョセフ・ローゼンストック(!)指揮N響の演奏で、旧NHKホール(内幸町のNHKにあった素晴らしい音響のホール)で初めて聴き、そのブリリアントでダイナミックな演奏と、曲の面白さに歓喜して以来、何度かナマで聴く機会もあった。が、今日の下野と広響の演奏ほど、シリアスな表情をしたこの曲に出逢ったことはない。ハーリの荒唐無稽の冒険談を、これほど真面目な語り口で再現した下野には、何か特別な意図でもあったのだろうか? 
 もっともそのおかげで、第3曲「歌」などのように、普段あまり注意を払わなかったコダーイの詩的な管弦楽法を再認識できる機会を得たのは事実だったが。

 「青ひげ公の城」は、やはり聴きものだった。下野の指揮は少し物々しいけれども、広響を濃密なアンサンブルで起伏大きく響かせ、この作品を巨大な絵巻物のように、大河のような悲劇の物語として聴かせてくれた。
 一つの頂点たる「第5の扉」(広大な領地)での増強された金管群はステージ最後方に配置され、また冒頭の吟遊詩人の前口上はステージ上手側に置かれたスクリーンに投映された映像により、演奏とのタイミングを合わせて再現されていた。映像演出も多少使われていた。とはいえ、「第5の扉」で客電を上げる(客席まで全部明るくする)というのは、些か白ける雰囲気であろう。これはあくまでステージの範囲内で行われるべきである。

 歌手陣では、石橋栄実が好演だった。宮本益光も━━決して悪いというのではないが━━青ひげ公のキャラクターには、もう少し重く暗い声のバリトンの方が適しているのではないかと思えるのだが、如何なものだろう。

 ともあれ、いい演奏だった。最近は都内のオーケストラも定期にオペラを取り上げることが少なくなっているが、その意味でも広響がこのような意欲的なプログラムを定期で組んでいることを讃えたい。

 なお、下野の任期が終る来年3月には2回の定期が組まれており、2日には次期シェフのクリスティアン・アルミンクがスメタナの「わが祖国」全曲を、8日には下野竜也が「音楽総監督ファイナル」として細川俊夫の「セレモニー」とブルックナーの「第8交響曲」を指揮することが発表されている。

 余談だが、場内アナウンスに、広響独特の「ヒューマンな、表情豊かで優しい」語り口のアナウンサーが今なお活躍しているのが嬉しい(他ホールでも少し見習ってもらいたいものだが━━まあ、無理か)。
 もうひとつ、プログラム冊子に広告が出ていたのだが、「ステーキ青ひげ」という店があるそうな。「青ひげ公の城」上演に因み、「本日から1か月間、当プログラムをお持ちいただいた方にはファーストドリンクを無料サービス」の由で、こういうところが地方都市の良さだ。

 8時45分終演。広島駅直結の「ホテルグランヴィア広島」に投宿。

2023・1・19(木)山田和樹指揮読響 「アルプス交響曲」他

      サントリーホール  7時

 1月の「ヤマカズ&読響の三貫盛」の3つめがこの1月定期。矢代秋雄の「交響曲」と、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」。これまた超重量級プログラムで、しかも聴き応え充分であった。コンサートマスターは長原幸太。

 山田和樹が、日本の先人作曲家たちの優れた作品を「再発見」させるプログラミングを志向していることは、讃えられてしかるべきであろう。この矢代秋雄(1929~1976)の「交響曲」(1958年作曲・初演)も同様、今日の演奏技術の優秀なオーケストラにより再現されると、その作品の素晴らしさが再認識され、作曲者への再評価にも好影響を与えると思われる。
 今日の山田和樹と読響による演奏も━━私自身の感覚で言えば、昔聴いた時に比べて「こんなに見事な管弦楽法で、こんなにいい曲だったのか」と感嘆させられるほど、手応えのあるものであった。

 なお、この曲の第2楽章で「テンヤ、テンヤ、テンテンヤ、テンヤ」というリズムが何度となく登場するが、これが獅子文六の小説「自由学校」に出て来る「バカ・バヤシ」から発想されたものであることは、私も以前から承知していた。
 もっとも今日、隣席にいた音楽学者の沼野雄司さんの話では、彼が別の機会に解説を書く際に原作を照合した際、小説にはこの曲と同じリズムのハヤシは出て来ないのだ、という。ちゃんと原典に当たるとは、さすが沼野さん、偉いものだと敬意を払った次第だが━━実は私もこの小説を読んでいた(それどころか、これが最初に新聞に連載された際のことも、うろ覚えながら記憶にある)にもかかわらず、リズムのことについては正確には記憶していなかった。帰宅して文庫本の原作を調べてみると、なるほど小説の中に出て来るバカ・バヤシでは、「テンテンヤ、テンテンヤ、スケテンテン」程度のものにしかなっていない。従って、前出の交響曲におけるリズムは、小説に触発されたとはいえ、やはり矢代秋雄の独自の展開によるものだったのである。

 いっぽう、後半の「アルプス交響曲」は、これも山田和樹の劇的構成の巧みさと、読響の腕の良さが余すところなく発揮された快演と言えたであろう。読響も最初のうちは些か粗っぽかったが、「牧場」を過ぎて「危険な瞬間」に至るあたりから響きに濃密さを取り戻し、「頂上にて」以降は見事なアンサンブルを発揮した。
 山田和樹の指揮も同様、「危険な瞬間」や「霧が立つ」「日が陰る」や、あるいは「嵐の前の静けさ」での息詰まるような緊迫感のつくり方は、全く巧いものだった。ドラマティックな、スペクタクルな音楽の演出という点では、先頃のネルソンス&ボストンの演奏を凌ぐものだったのではなかろうか。
 ヤマカズ&読響、今回も私たちの期待を裏切らなかった。

2023・1・15(日)山響とその創立名誉指揮者、村川千秋・90歳

       やまぎん県民ホール  3時

 西宮へ日帰りした翌日、今度は山形へ日帰り。山形新幹線で片道2時間40分~2時間50分程度だから、コンサートを一つ取材して充分可能なスケジュールである。

 今日は山形交響楽団を、創立名誉指揮者で90歳を迎えた村川千秋が、得意のシベリウス(交響曲第3番)を指揮した。
 自ら設立して長年手塩にかけたオーケストラを振り、楽員と聴衆の熱狂的な拍手を受けて答礼していた村川にとっては、さぞ感慨深いものがあったろう。高齢ながら、足元は今なおしっかりして、指揮台の段差をものともせず、椅子も使わない。その身体の動きの機敏さには、感嘆させられるほどだ。

 指揮はもちろん明快で、オーケストラから引き出す音楽の強靭さにも驚かされる。中間楽章のテンポはやや遅めになったが、これはおそらく、彼の意図に基づくテンポなのだろう。終楽章におけるリズムの明確さと表情の厳しさなど、年齢を全く感じさせぬ素晴らしさであった。

 村川千秋と山響の演奏は、私もかなり以前から聴いていた。昔から彼の指揮するシベリウスには独特の味があったものだが、あの頃は随分ローカルな、鄙びた演奏だという印象を拭い切れなかった。それが近年のような深みとスケールの大きさとを感じさせる演奏となったのは、もちろん村川自身の円熟という理由もあるだろうが、もう一つ、今世紀に入ってからの音楽監督(現・桂冠指揮者)飯森範親の時代に形成された山響の機能的な水準の向上によるところも大きいのではないか。━━いろいろな意味で、感動的な「3番」であった。

 プログラムの前半には、ヴィヴァルディの「四季」が演奏されたが、ヴァイオリン・ソロとリーダーは辻彩奈、チェンバロは常任指揮者の阪哲朗が受け持つという豪華な布陣である。辻彩奈の切り込むように鮮やかなソロを先頭に展開されたこの「四季」の演奏、「夏」の第3楽章(嵐)での激しい音楽の沸騰には思わず息を呑まされた。

 昔のイ・ムジチのフェリクス・アーヨらの演奏によるような、田園的で開放的で平和な「四季」に比べ、現代の演奏に多く聴かれる「四季」は━━この辻彩奈の演奏もそうだが━━随分鮮烈な世界になったものだ。面白い。そして、「冬」の第2楽章でピッツィカートの上にソロ・ヴァイオリンが歌う素敵な個所には、今もなお、この曲の永遠の魅力といったものがあふれている。

 コンサートマスターは、首席コンサートマスターの犬伏亜里。

 余談だが、会場で配られていたアンケート用紙のタイトルが「村川千秋のスベリウス」となっていたのは、東北地方のオーケストラゆえに、実に愉快で傑作なジョークだ。もっとも、同じアンケート用紙には、「村川千秋のシベリウス」と、まともに印刷されていたのもあるので‥‥(前者は知人の朝日新聞編集委員がもらっていた用紙、後者は私がもらった用紙)。
 19時31分発の「つばさ」で帰京。

2023・1・14(土)佐渡裕指揮PAC マーラー「7番」

     兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール  3時

 兵庫芸術文化センター管弦楽団(PAC)の定期公演のプログラムの曲目解説をこの数年来担当していることもあって、時々西宮まで聴きに行くことにしている。
 今回の1月定期では、芸術監督の佐渡裕がマーラーの「交響曲第7番《夜の歌》」を指揮した。これ1曲のみのプログラムだから、東京から遠征するにしては費用効率が非常に悪いのだが、音楽的な満足度から言えば、これで充分だ。コンサートマスターは豊嶋泰嗣。
 3回公演の今日は2日目、ほぼ満席の盛況である。

 丁寧な演奏で、この交響曲のやや支離滅裂(マエストロがプレトークで使った言葉)な性格を正面切って、生真面目に表現した演奏とでも言おうか。第2楽章と第3楽章における怪奇な雰囲気もさほど強調されないし、第5楽章もそれほど強烈な躁状態にはならない━━バーンスタイン直弟子の佐渡だから、もう少し熱狂的なフィナーレにするかなと思っていたのだが、しかしこれはむしろこのオーケストラの性格のせいかもしれない。ホルン、トランペット、ティンパニなど、各パートのソロは安定して決まっていた。

 最後の音の余韻が消える前に、上階客席から熱狂的な拍手が沸き起こる。今回は幸いなことに、アンコールに「すみれの花の咲く頃」が演奏されるようなことはなかった。
 日帰り。

2023・1・13(金)山田和樹指揮読響 マーラー「6番」他

      サントリーホール  7時

 黛敏郎の「曼荼羅交響曲」とマーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」を組み合わせた超重量プログラム。どちらも超大編成の豪壮な音響に満たされた作品。今回も読響の巧さと、その音響の威力が際立った。コンサートマスターは林悠介。

 「曼荼羅交響曲」をナマで聴くのは実に久しぶりのような気がするが━━さて、前回はどこで聴いたっけか?━━冒頭の弦楽器の響きに、1960年代前半の日本の管弦楽作品特有の音を一瞬思い出して、懐かしくなる。

 だが、受容するこちらの感性の変化か、あるいは当時と今の日本のオーケストラの音の違いか、またはその両方かは定かでないけれども、作品の管弦楽法の実に豊かで雄弁で華麗であることに、そしてあの頃の日本人作曲家たちの気宇の大きさに今更ながら感銘を受けるというのも、私にとってはいつもの通りだ。
 黛敏郎は、團伊玖磨、芥川也寸志とともに「三人の会」のメンバーだったが、当時最も取っつき難いというイメージのあった黛が、最も未来志向で、最も長い生命を保ち続ける作曲家であったのは確かではないかと思われる。

 山田和樹の指揮は明快そのもの、下手な演奏だったら晦渋なものになりかねないこの「曼荼羅交響曲」を輝かしい作品として聴かせてくれた。

 山田和樹の指揮するマーラーの「6番」を聴くのは、いつぞやの日本フィルとのツィクルス以来のことになる。今回は第1楽章が意外に軽く、あの行進曲リズムも決しておどろおどろしくなく、むしろ弾むように演奏されて行ったのには驚いた。ティンパニがあまり「轟くような」音を出していなかったことがその最大の原因かもしれない。あのイ長調からイ短調へ瞬時に変わるモティーフも、かなりあっさりと、こだわりなしに通過してしまう。
 先日のネルソンスの指揮もそうだったが、こういう深刻にならないマーラーも、現代の指揮者としては珍しくはなくなってしまったのだなあと、あれこれ思いをめぐらしながら聴いていた次第だ。

 読響の演奏は、第1楽章では少々がさついており、弦の音色もがりがりとしていて、刺激的になっていた。リハーサル時間が少なかったわけでもないだろうに、・・・・と思っていたら、何とこれが第2楽章(スケルツォ)を経るに従い、目覚ましく変って行く。第3楽章では豊麗な弦の音色が映え、魅力的な叙情の世界になる。
 そして終楽章は見違えるよう。第1楽章ではあれほど刺激的な音だった弦がふくよかな厚みを取り戻し、この怒号に次ぐ怒号という感の第4楽章をも、少しも刺激的でなく、美しい闘争のように描き出した。如何なる怒号も濃密で調和が取れている演奏というのは珍しい。これまで私が聴いたこの第4楽章の中でも、これほど均整を保った演奏は稀である。ここでの読響の演奏のレベルの高さには、魅惑された。

 ただし、2回のハンマーの音は、何か金属が壊れかけたような音で、とても「英雄を打ち倒す運命」というイメージの重々しい音ではない。これだけが画竜点睛を欠くという感であった。
 なお両端楽章で「遠方から響いて来る」カウベルは、ふつうステージ袖の中から響かせるが、今回はP席後方、オルガンの両側下にあるドアを開いて、その外側に立って鳴らすという方法を採っていた。

2023・1・11(水)イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル

     サントリーホール  7時

 この日はショパン・プロで、第2部では「幻想ポロネーズ」と「ピアノ・ソナタ第3番」、第2部では「幻想曲」、「子守歌」、「舟歌」が演奏された。

 またいつものようにホール内を真っ暗にして、自分とピアノだけにスポットを当てた神秘的な雰囲気にするのかと思っていたら、今回はあまり照明を落さず、ステージもかなり明るいままにして演奏していたのは意外だった。もっとも私は前回(2020年)と前々回(2018年)の来日の際にはリサイタルを聴いていなかったので、いつからこのような照明にしたのかは定かでない。

 とにかく、それを含めて、リサイタルにおけるポゴレリッチの変貌はかなり大きいようだ。十数年前のような、原曲の形も定まらぬほど解体された演奏ではなく、作品のオリジナルの形はかなり明晰に保たれ、遅いテンポと個性的な音色とエスプレッシーヴォが目立つだけの演奏に変貌している。演奏時間も、手許の時計でざっと見た所では、「幻想ポロネーズ」が約18分、「ソナタ」が約33分、第2部の3曲はそれぞれ18分、5分、12分といった具合であった。遅いには遅いが、昔のような異常な遅さというほどではないだろう。

 ともあれ、一般のピアニストの場合だったら奇人扱いにされるであろうこういった演奏も、ポゴレリッチの場合には驚くほどまともになった、と言われるのが面白いところだ。それが、彼が漸く安住の地を見出した円熟の境地なのか、それとも、今後また別のスタイルに変貌するまでの一時期の姿なのかは、推測し難い。ただ、とにかく聴いていて不思議な安心感に満たされ、そしてその表現の強烈さに撃たれるという、そういう心境にさせられる演奏だったことは確かである。

 先日のラフマニノフの協奏曲での演奏と同じく、彼のピアノは、鋭い刃を煌かせ、音楽を切りつけるかのよう。だがその音色は凄みのある透明さを保っており、一つ一つの音がぎらぎらとした異様な光を放っている。
 特に和声の響きには独特のものがある。例えば「幻想曲」のグラーヴェの個所で、19小節目のフォルテの和音が、何と恐怖感をそそることか。その他、「子守歌」で低音部に繰り返される3つの音によるリズムが、あんなに揺り籠の動きのようにはっきりと浮かび上がって聞こえる演奏は、私は初めて聴いた。

 なおポゴレリッチは、第1部と第2部では、各曲をそれぞれ続けて演奏したが、アンコールでもそれぞれ一度だけ袖に引っ込んで出て来るという動作を繰り返した後、自ら曲名をボソッとアナウンスしで、ショパンの「前奏曲Op.45」と「ノクターンOp.62-2」の2曲を弾いた。アンコールをやることはもう初めから予定していましたよ、という調子。

 これまでは彼の演奏を聴いたあとでは、たまらない怪奇なものを見せつけられた後のような疲労感を味わったものだが、今回は全く逆で、名人の凄味のある切れ味を目の当たり視たような気がして、むしろ快い畏怖感を味わったような状態になった。

2023・1・9(月)第20回東京音楽コンクール優勝者コンサート

       東京文化会館大ホール  2時

 東京都歴史文化財団東京文化会館・読売新聞社・花王株式会社・東京都が主催する「東京音楽コンクール」の優勝者を集めての新年恒例の演奏会。会場は今年も満席だ。

 出場した優勝者は4人。高関健指揮東京フィルハーモニー交響楽団のサポートを得て、金管部門第1位の河内桂海がトマジの「トランペット協奏曲」を吹き、声楽部門第1位および聴衆賞をかち得た池内響(Br)がプッチーニ、モーツァルト、ヴェルディのオペラから歌う。休憩後には金管部門第1位の吉田智就がR・シュトラウスの「ホルン協奏曲第1番」を吹き、最後にピアノ部門第1位および聴衆賞の中島英寿がグリーグの「ピアノ協奏曲」を弾く。

 出場者の皆さん、今日はどうも少々緊張気味という印象だったが、とにかくまっすぐに伸びて行って欲しい。
 ピアノの中島英寿が演奏後に司会の朝岡聡のインタヴューに答え、「聴く人の心に届く演奏を目指しています」という意味のことを語って客席からの大拍手を浴び、演奏会はこの温かい雰囲気の裡に結ばれた。

2023・1・8(日)びわ湖ホール「マイスタージンガー」入門講座

      コラボしが21(びわ湖ホール前)  2時30分

 前夜、読響の演奏会のあとで大津へ移動し、琵琶湖畔の琵琶湖ホテルに投宿。
 このホテルは全室が北側の琵琶湖に面しているために、午前中に湖畔で開催された消防庁の出初式をゆっくりと見物することができた。私はこの類のものをこれまで観たことがなかったので、大いに感心して眺めていた次第である。
 ブラスバンドの演奏とか、消防署員たちの行進とかは、どうもあまり締まりがなくて冴えなかったけれど、いざ「交通事故に際しての救急車の出動と救助」とか、「火災出動と消火活動」などが中継アナウンス入りで実演されるくだりになると、俄然全てが引き締まり、敏捷で手際よくて、素晴らしい動きになる。その模様を見ていると、当然ながら消防士や救急隊員への尊敬の念が湧いて来るというものだ。

 昔、ボストン・ポップス管弦楽団の指揮者アーサー・フィードラーがこの消防活動に憧れ、消防署と直結した電話を設置し(これは本当なのかどうか知らない)、消防車と同時に自ら火事場に駆けつけては消防活動を見守るという習慣があったそうだが(これは御本人にインタヴューした際にも確認した)、宜なるかなと思う。

 さて、午後の講座の方は、例年びわ湖ホールのワーグナー上演に先立って実施している入門講座である。今年は、3月に上演される「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。手の混んだ素材操作に関しては他に多く例を見ずと自負する講座は幸いにこの10年来好評を得て、今回も定員130席は3日で完売とかで、今日の満席も有難し。ここに集まる愛好者の皆さんの熱心さには、毎年頭が下がる。終って帰京。

2023・1・7(土)山田和樹&読響、ポゴレリッチ

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 読売日本交響楽団のマチネーシリーズを、同団首席客演指揮者の山田和樹が指揮。しかもゲスト・ソリストが怪人(?)イーヴォ・ポゴレリッチということで、客席は満杯となった。
 演奏されたのは、チャイコフスキーの「眠りの森の美女」の「ワルツ」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」、そしてチャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」。

 ポゴレリッチが弾くのはプロコフィエフの「3番」━━と当初は発表されていたが、それがラフマニノフの「2番」に変更された。この曲は、ポゴレリチとしては以前にも読響と演奏している(☞2016年12月13日)ので、またかという感もあったのだが、こうしてもう一度聴いてみると、やはり物凄い。

 前回同様、冒頭のソロにしても、突然最強音に爆発した瞬間の、鋭い刀で切り込むような凄絶で悪魔のような音色は、やはりポゴレリチでなければ出せないものだろう。このギラギラした不気味な魔性の演奏は全曲にわたって続いて行くので、曲の随所にあふれていた甘美さなどは全く消し去られ、地獄の妖光に包まれたラフマニノフ、といったイメージの音楽が放射される。
 こうした演奏は決して愉しいものではないが、しかし「惡の華」ともいうべき不思議な魅力があることは確かで、聴いていると、一種の被虐的な快感に引き込まれてしまうというわけだ。

 そのポゴレリッチのピアノに呼応して、山田和樹が読響を猛烈に煽り立てるので、音楽はいっそう凄まじくなる。ただ、これはしかし、ポゴレリッチの注文によるものだろう。2016年の読響との協演の際に指揮を受け持っていたカエターニも、ポゴレリッチから「もっと(オケを)鳴らせ、鳴らせ」と言われた、という話を読響から聞いたことがある。

 プログラム後半の「マンフレッド交響曲」では、その山田和樹の指揮の巧みさに舌を巻かされた。チャイコフスキーの音楽に本来備わっている「持って行き方の巧さ」を最大限に再現した見事さもさることながら、音楽をどれほど咆哮させても、それが機械的な大音響といったものにならず、この曲特有の白夜的な寂寥感━━何か独りよがりの表現になってしまうのだが━━というか、主人公マンフレッドの空しい孤独感といったらいいのか、そうした情感を常に漂わせている演奏のように、私には感じられたのである。

 山田和樹は、本当に素晴らしい指揮者になった。読響がまためっぽう上手いので、演奏がいっそう映える。凡庸な演奏では「変な曲」と思われかねないこの「マンフレッド交響曲」も、きょうのヤマカズ&読響の演奏のように再現されると、すこぶる魅力的な作品となるだろう。

 ただ、今日はスヴェトラーノフ版━━と称される━━が使用され、第4楽章で大幅なカットが行われたことと、全曲の最後に第1楽章の激しいエンディングが再び使用されたことには、あまり賛成できない。特に後者は全くの俗受け効果を狙った愚挙ともいうべく、標題音楽としての進行の上でも意味を成さぬ構成と言えよう。

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