2023年2月 の記事一覧
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2023・2・28(火)ミハイル・プレトニョフ ピアノ・リサイタル
2023・2・26(日)hitaruオペラプロジェクト「フィガロの結婚」
2023・2・24(金)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル
2023・2・23(木)東京二期会「トゥーランドット」初日
2023・2・23(木)デイヴィッド・レイランド指揮東京都交響楽団
2023・2・22(水)アンナ・ラキティナ指揮読響&ルノー・カプソン
2023・2・20(月)加藤拓也脚本・演出「博士の愛した数式」
2023・2・18(土)三木稔「源氏物語」日本語版全曲日本初演
2023・2・16(木)METライブビューイング「めぐり合う時間たち」
2023・2・14(火)ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮東京都響
2023・2・13(月)鈴木秀美指揮神戸市室内管弦楽団東京公演
2023・2・12(日)新国立劇場のヴェルディ「ファルスタッフ」
2023・2・11(土)下野竜也指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団
2023・2・9(木)マティアス・バーメルトと札響の東京公演
2023・2・8(水)新国立劇場のワーグナー:「タンホイザー」
2023・2・5(日)文楽スタイルの試み「田舎の騎士道」「道化師」
2023・2・4(土)芥川龍之介の作品によるオペラデヴィッド・ラング作曲「Note to a friend」日本初演
2023・2・28(火)ミハイル・プレトニョフ ピアノ・リサイタル
東京オペラシティ コンサートホール 7時
今から33年前、プレトニョフがロシア・ナショナル管弦楽団を創設してその指揮者となり、時のエリツィン大統領らを招いて颯爽と旗揚げ公演を開催し、所謂「ニュー・ロシア」の寵児のひとりとなっていた頃、ロシアの音楽ファンの間ではプレトニョフについて「指揮者になろうと何になろうと構わないけれど、ピアノだけはやめないでくれ」という悲痛な声が上がっていた、という話をモスクワ在住のロシア人通訳から聞いたことがある。
その後、一時は本当に「おれはもうピアノは弾かない」と言っていた時期もあったが、数年後に「SHIGERU KAWAI」のピアノと出会ったのをきっかけにピアニストとして復活したことは周知の通りである。こうして今でも指揮とピアノの両面で活躍してくれているというのは、本当に有難いことだ。
この日のリサイタルの客席はほぼ満杯、聴衆の反応も熱狂的だった。どうやら今でも日本では、プレトニョフのピアニストとしての人気は、指揮者としてそれよりもかなり高い、といった雰囲気である。
確かに、指揮者プレトニョフは先日の東京フィルを指揮した演奏会に聴く如く非凡な人ではあるが、今日のピアノ・リサイタルなどを聴くと、やはり彼はまさに世界屈指の個性的な名ピアニストである、という印象を得るだろう。
今日のプログラムはスクリャービンの「24の前奏曲Op.11」と、ショパンの「24の前奏曲Op.28」。前者における演奏は、重々しく翳りのある色合いを湛えた音が驚くほど表情豊かに変化しつつ進んで行くように私には感じられたし、また後者での演奏は、これほど沈潜して憂いに富んだ音色のショパンは稀だろうという印象さえ受けてしまう。
妙な表現になるが、今日プレトニョフがカワイのピアノで紡ぎ出していたこのショパンの「前奏曲集」の音は、ポリーニやピリスの演奏のそれに比べると、まるでオクターヴ低い音で弾いているかのような、そんなイメージにさえ感じられるほど翳りが濃く、個性的な表情のものだったのである。
60歳代半ばに達し、かつての「自由な故国」を失ったに等しい状況にあるであろうプレトニョフの、これが今の心境が投影された演奏なのだろうか? こういうショパンは、些か恐ろしく感じられるが、また興味深くもある。
今から33年前、プレトニョフがロシア・ナショナル管弦楽団を創設してその指揮者となり、時のエリツィン大統領らを招いて颯爽と旗揚げ公演を開催し、所謂「ニュー・ロシア」の寵児のひとりとなっていた頃、ロシアの音楽ファンの間ではプレトニョフについて「指揮者になろうと何になろうと構わないけれど、ピアノだけはやめないでくれ」という悲痛な声が上がっていた、という話をモスクワ在住のロシア人通訳から聞いたことがある。
その後、一時は本当に「おれはもうピアノは弾かない」と言っていた時期もあったが、数年後に「SHIGERU KAWAI」のピアノと出会ったのをきっかけにピアニストとして復活したことは周知の通りである。こうして今でも指揮とピアノの両面で活躍してくれているというのは、本当に有難いことだ。
この日のリサイタルの客席はほぼ満杯、聴衆の反応も熱狂的だった。どうやら今でも日本では、プレトニョフのピアニストとしての人気は、指揮者としてそれよりもかなり高い、といった雰囲気である。
確かに、指揮者プレトニョフは先日の東京フィルを指揮した演奏会に聴く如く非凡な人ではあるが、今日のピアノ・リサイタルなどを聴くと、やはり彼はまさに世界屈指の個性的な名ピアニストである、という印象を得るだろう。
今日のプログラムはスクリャービンの「24の前奏曲Op.11」と、ショパンの「24の前奏曲Op.28」。前者における演奏は、重々しく翳りのある色合いを湛えた音が驚くほど表情豊かに変化しつつ進んで行くように私には感じられたし、また後者での演奏は、これほど沈潜して憂いに富んだ音色のショパンは稀だろうという印象さえ受けてしまう。
妙な表現になるが、今日プレトニョフがカワイのピアノで紡ぎ出していたこのショパンの「前奏曲集」の音は、ポリーニやピリスの演奏のそれに比べると、まるでオクターヴ低い音で弾いているかのような、そんなイメージにさえ感じられるほど翳りが濃く、個性的な表情のものだったのである。
60歳代半ばに達し、かつての「自由な故国」を失ったに等しい状況にあるであろうプレトニョフの、これが今の心境が投影された演奏なのだろうか? こういうショパンは、些か恐ろしく感じられるが、また興味深くもある。
2023・2・26(日)hitaruオペラプロジェクト「フィガロの結婚」
札幌文化芸術劇場hitaru 2時
札幌文化芸術劇場hitaru(札幌市芸術文化財団)が、新たなオペラ活動を創造・発信するプロジェクトを開始している。2021年にそのプレ公演として「蝶々夫人」を上演し、今回はいよいよその第1弾として、モーツァルトの「フィガロの結婚」を取り上げた由。
前回は北海道二期会との共同主催とのことだったが、今回はhitaruの単独主催となり、「協力」という形で北海道二期会や札幌室内歌劇場や札幌オペラシンガーズなどの名がクレジットされている。
いずれにせよ、北海道最大の、いや首都圏以北では最大規模の劇場であるhitaruが、北海道のオペラ活動を積極的に支援するとともに、自らもオリジナルの制作活動を行うことは、当然の責務と言えよう。今回の企画がその力強い第一歩となるよう期待すること切である。
この「フィガロの結婚」は、指揮が奥村哲也、ピットには札幌交響楽団。合唱はhitaruオペラプロジェクト「フィガロの結婚」合唱団。演出は三浦安浩、美術は松生紘子。
歌手陣は主に北海道出身の人たちをオーディションにより選んだとのこと。ダブルキャストの今日の初日には、大塚博章(フィガロ)、三浦由美子(スザンナ)、岡元敦司(アルマヴィーヴァ伯爵)、倉岡陽都美(伯爵夫人)、川島沙耶(ケルビーノ)、葛西智一(バルトロ)、小平明子(マルチェリーナ)、岡崎正治(バジリオ)、その他の人々が出演している。大塚さんはゲストかと一瞬思ったが、彼も北海道の岩見沢出身なのだそうだ。
東京から(日帰りで)観に行ったからには、全曲を楽しく味わうつもりだったのはもちろんだが、後述のような理由で、第2幕までしか観られなかったのは甚だ残念であった。
札響はなだらかながら綺麗な音で演奏していたし、歌手陣も第2幕ではケルビーノをはじめ、みんな格段に調子を上げて行っていた。緊張がほぐれるにつれ、おそらく後半では尻上がりに闊達になって行ったのではないかと推察する。
三浦安浩の演出は、ト書きではその場に指定されていない人物をも多数登場させるという手法で、特に第1幕では各主要人物にもクロスフェイドするように「出番でないところで」盛んにその場を徘徊させるという手法だった。それが果たして舞台上の視覚的変化を狙ったものなのか、あるいは登場人物の意識下の現象を表現するものだったのかどうかは、少なくとも前半においては解り難かったというのが正直なところ。後半まで観ていれば、それが判明するのかもしれなかった。
4層の客席(最大2302席)は、今日はほぼ満席と見えた。この盛況を一場の夢とすることなく、北海道にも本格的なオペラが根付いて行くようになれば幸いであろう。
なぜ第3幕以降が観られなかったのか? 実は第2幕のあとの休憩時間に、ANAからの緊急メールで、新千歳空港の大雪のため、私の乗る夜の羽田行きの988便が欠航になるとの連絡が入っていたのを知った。代替として翌朝8時半の羽田行き052便を利用されたし、とある。今朝午前中に札幌に来る時も3時間近くの遅れだったから、嫌な予感はしていたのだが━━。
そもそも日帰り予定だったためホテルも予約していなかった上に、その場で空港のターミナルホテルに問い合わせてみても既に「満室です」と断られてしまっては、パニック状況になるのは已むを得まい。かくて路頭に迷わぬための対応に追われ、そのあとは電話にかかりきり、客席に戻る余裕すらなくなった、というのが実情なのだった。
結局万策尽きて、旧知の北海道新聞の田中秀実さん(折しも自宅前の雪かきをして風呂に入っていたという)に救けを乞い、然るべきホテルを市内に取ってもらい、翌朝のANAからの指定便で帰京できたという次第であった。
それにしても、ニュースによれば、夜の新千歳空港は大変だったらしい。350人ほどが空港で夜明かししたと報じられていた。私のような高齢者が採るべき道ではない。劇場で隣席に座っておられた東京のオペラ関係者のS氏は、第2幕のあとで「帰りが心配だから、私はこれで失礼して空港に行きます」と先に出て行かれたが、如何されただろうか。
※当初掲載の記事のデータの一部に誤りがありました。コメントで指摘して下さった方にあつく御礼申し上げます。
札幌文化芸術劇場hitaru(札幌市芸術文化財団)が、新たなオペラ活動を創造・発信するプロジェクトを開始している。2021年にそのプレ公演として「蝶々夫人」を上演し、今回はいよいよその第1弾として、モーツァルトの「フィガロの結婚」を取り上げた由。
前回は北海道二期会との共同主催とのことだったが、今回はhitaruの単独主催となり、「協力」という形で北海道二期会や札幌室内歌劇場や札幌オペラシンガーズなどの名がクレジットされている。
いずれにせよ、北海道最大の、いや首都圏以北では最大規模の劇場であるhitaruが、北海道のオペラ活動を積極的に支援するとともに、自らもオリジナルの制作活動を行うことは、当然の責務と言えよう。今回の企画がその力強い第一歩となるよう期待すること切である。
この「フィガロの結婚」は、指揮が奥村哲也、ピットには札幌交響楽団。合唱はhitaruオペラプロジェクト「フィガロの結婚」合唱団。演出は三浦安浩、美術は松生紘子。
歌手陣は主に北海道出身の人たちをオーディションにより選んだとのこと。ダブルキャストの今日の初日には、大塚博章(フィガロ)、三浦由美子(スザンナ)、岡元敦司(アルマヴィーヴァ伯爵)、倉岡陽都美(伯爵夫人)、川島沙耶(ケルビーノ)、葛西智一(バルトロ)、小平明子(マルチェリーナ)、岡崎正治(バジリオ)、その他の人々が出演している。大塚さんはゲストかと一瞬思ったが、彼も北海道の岩見沢出身なのだそうだ。
東京から(日帰りで)観に行ったからには、全曲を楽しく味わうつもりだったのはもちろんだが、後述のような理由で、第2幕までしか観られなかったのは甚だ残念であった。
札響はなだらかながら綺麗な音で演奏していたし、歌手陣も第2幕ではケルビーノをはじめ、みんな格段に調子を上げて行っていた。緊張がほぐれるにつれ、おそらく後半では尻上がりに闊達になって行ったのではないかと推察する。
三浦安浩の演出は、ト書きではその場に指定されていない人物をも多数登場させるという手法で、特に第1幕では各主要人物にもクロスフェイドするように「出番でないところで」盛んにその場を徘徊させるという手法だった。それが果たして舞台上の視覚的変化を狙ったものなのか、あるいは登場人物の意識下の現象を表現するものだったのかどうかは、少なくとも前半においては解り難かったというのが正直なところ。後半まで観ていれば、それが判明するのかもしれなかった。
4層の客席(最大2302席)は、今日はほぼ満席と見えた。この盛況を一場の夢とすることなく、北海道にも本格的なオペラが根付いて行くようになれば幸いであろう。
なぜ第3幕以降が観られなかったのか? 実は第2幕のあとの休憩時間に、ANAからの緊急メールで、新千歳空港の大雪のため、私の乗る夜の羽田行きの988便が欠航になるとの連絡が入っていたのを知った。代替として翌朝8時半の羽田行き052便を利用されたし、とある。今朝午前中に札幌に来る時も3時間近くの遅れだったから、嫌な予感はしていたのだが━━。
そもそも日帰り予定だったためホテルも予約していなかった上に、その場で空港のターミナルホテルに問い合わせてみても既に「満室です」と断られてしまっては、パニック状況になるのは已むを得まい。かくて路頭に迷わぬための対応に追われ、そのあとは電話にかかりきり、客席に戻る余裕すらなくなった、というのが実情なのだった。
結局万策尽きて、旧知の北海道新聞の田中秀実さん(折しも自宅前の雪かきをして風呂に入っていたという)に救けを乞い、然るべきホテルを市内に取ってもらい、翌朝のANAからの指定便で帰京できたという次第であった。
それにしても、ニュースによれば、夜の新千歳空港は大変だったらしい。350人ほどが空港で夜明かししたと報じられていた。私のような高齢者が採るべき道ではない。劇場で隣席に座っておられた東京のオペラ関係者のS氏は、第2幕のあとで「帰りが心配だから、私はこれで失礼して空港に行きます」と先に出て行かれたが、如何されただろうか。
※当初掲載の記事のデータの一部に誤りがありました。コメントで指摘して下さった方にあつく御礼申し上げます。
2023・2・24(金)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル
サントリーホール 7時
第1部では、昨年のヴァン・クライバーン国際コンクールで優勝したイム・ユンチャンをソリストに、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」が演奏された。そして第2部は、チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」。コンサートマスターは依田真宣。
イム・ユンチャンは韓国生まれ。未だ18歳か、19歳だろう。素晴らしく個性的なピアニストだ。奇を衒うタイプではないが、音符の一つ一つに新鮮な解釈を施す演奏家である。
「皇帝」冒頭のカデンツァは、まあ何と愉し気な表情に溢れた演奏であることか。これに続く第1楽章全体の演奏が、溌溂として躍動している。
最近グラモフォンから出た彼のライヴ録音の「皇帝」(UCCG-1899)のライナーノーツに、「この曲で一番好きなのは第2楽章から第3楽章へのアタッカのところ」と彼が話しているインタビュー記事が掲載されていたので、今日はどんな演奏をするのかと注目していたのだが、果たしてこれは、予想を上回る面白さだった。
イムは第3楽章のアレグロに入った瞬間をメゾ・フォルテで開始し、クレッシェンドしてフォルティッシモに持って行く、という設計を採る。それがまた、如何にも解放された愉悦感で沸き立っている、という雰囲気なのである。しかもプレトニョフがそれを受けるように、そのあとのオーケストラのトゥッティの2小節目のsfのついた4分音符2つを猛然とクレッシェンドさせて煽り立てるものだから、音楽はいよいよ活気づくというわけだ。
イム・ユンチャンのソロはその後ますます表情豊かになり、ロンドの主題が回って来るごとにニュアンスを変え、時には低音部を強調して豪壮なアクセントを付ける(これはCDのライヴでも聴かれたが)など、愉しげな千変万化の演奏を試みる。この曲の第3楽章をこれほど面白く聴いたのは、私には初めての体験だった。このピアニストはいい。
昨年10月録音の前記のCDでの演奏よりも遥かに表情が多彩だったのは、彼の進歩の故か、それとも大ピアニスト・プレトニョフとの共同作業の故だったろうか?
ソロ・アンコールには、バッハの「ピアノ協奏曲第5番」の第2楽章と、マイラ・ヘス編曲の「主よ人の望みの喜びよ」とを弾いた。これまた詩的な美しさに満ちた演奏で、魅力充分ではあったが、オーケストラ・コンサートのゲスト・ソリストという立場なら、アンコールは1曲だけでよい。彼に対するブラヴォーと歓声が凄かったのは、韓国から聴きに来た人々も多かったのだろうか?
「マンフレッド交響曲」は、プレトニョフは、かつてロシア・ナショナル管弦楽団を指揮して素晴らしい演奏のCDを作ったことがある(グラモフォン)。それはロシアの白夜の美しさを連想させるような詩情豊かな名演だった。
今日の東京フィルとの演奏は、そこまでロシアの雰囲気を感じさせるようなものではなかったが、しかし驚くほど豊かな色彩感に溢れていたと言えるだろう。中間の2つの楽章では、特にそれが印象深かった。
そして第4楽章では、チャイコフスキーにしては野暮ったい主題が何度も反復されるというあの欠点が、プレトニョフの落ち着いたテンポと、精緻なアンサンブル構築のおかげで、見事に解決されていたのには舌を巻かされた。プレトニョフは、やはりロシアものを手がけると天下一品の強みを発揮する人だ、ということが証明づけられた演奏であった。この「マンフレッド」は、近年ナマで聴いた演奏の中でも、最も気に入ったものである。
なお全曲の終結には、オルガンの入る浄化的な版が使用されていたが、この方がよほど作曲者の意図に叶っていると思われる。
第1部では、昨年のヴァン・クライバーン国際コンクールで優勝したイム・ユンチャンをソリストに、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」が演奏された。そして第2部は、チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」。コンサートマスターは依田真宣。
イム・ユンチャンは韓国生まれ。未だ18歳か、19歳だろう。素晴らしく個性的なピアニストだ。奇を衒うタイプではないが、音符の一つ一つに新鮮な解釈を施す演奏家である。
「皇帝」冒頭のカデンツァは、まあ何と愉し気な表情に溢れた演奏であることか。これに続く第1楽章全体の演奏が、溌溂として躍動している。
最近グラモフォンから出た彼のライヴ録音の「皇帝」(UCCG-1899)のライナーノーツに、「この曲で一番好きなのは第2楽章から第3楽章へのアタッカのところ」と彼が話しているインタビュー記事が掲載されていたので、今日はどんな演奏をするのかと注目していたのだが、果たしてこれは、予想を上回る面白さだった。
イムは第3楽章のアレグロに入った瞬間をメゾ・フォルテで開始し、クレッシェンドしてフォルティッシモに持って行く、という設計を採る。それがまた、如何にも解放された愉悦感で沸き立っている、という雰囲気なのである。しかもプレトニョフがそれを受けるように、そのあとのオーケストラのトゥッティの2小節目のsfのついた4分音符2つを猛然とクレッシェンドさせて煽り立てるものだから、音楽はいよいよ活気づくというわけだ。
イム・ユンチャンのソロはその後ますます表情豊かになり、ロンドの主題が回って来るごとにニュアンスを変え、時には低音部を強調して豪壮なアクセントを付ける(これはCDのライヴでも聴かれたが)など、愉しげな千変万化の演奏を試みる。この曲の第3楽章をこれほど面白く聴いたのは、私には初めての体験だった。このピアニストはいい。
昨年10月録音の前記のCDでの演奏よりも遥かに表情が多彩だったのは、彼の進歩の故か、それとも大ピアニスト・プレトニョフとの共同作業の故だったろうか?
ソロ・アンコールには、バッハの「ピアノ協奏曲第5番」の第2楽章と、マイラ・ヘス編曲の「主よ人の望みの喜びよ」とを弾いた。これまた詩的な美しさに満ちた演奏で、魅力充分ではあったが、オーケストラ・コンサートのゲスト・ソリストという立場なら、アンコールは1曲だけでよい。彼に対するブラヴォーと歓声が凄かったのは、韓国から聴きに来た人々も多かったのだろうか?
「マンフレッド交響曲」は、プレトニョフは、かつてロシア・ナショナル管弦楽団を指揮して素晴らしい演奏のCDを作ったことがある(グラモフォン)。それはロシアの白夜の美しさを連想させるような詩情豊かな名演だった。
今日の東京フィルとの演奏は、そこまでロシアの雰囲気を感じさせるようなものではなかったが、しかし驚くほど豊かな色彩感に溢れていたと言えるだろう。中間の2つの楽章では、特にそれが印象深かった。
そして第4楽章では、チャイコフスキーにしては野暮ったい主題が何度も反復されるというあの欠点が、プレトニョフの落ち着いたテンポと、精緻なアンサンブル構築のおかげで、見事に解決されていたのには舌を巻かされた。プレトニョフは、やはりロシアものを手がけると天下一品の強みを発揮する人だ、ということが証明づけられた演奏であった。この「マンフレッド」は、近年ナマで聴いた演奏の中でも、最も気に入ったものである。
なお全曲の終結には、オルガンの入る浄化的な版が使用されていたが、この方がよほど作曲者の意図に叶っていると思われる。
2023・2・23(木)東京二期会「トゥーランドット」初日
東京文化会館大ホール 6時
東京二期会の今回のプッチーニの「トゥーランドット」は、ジュネーヴ大劇場との共同制作によるダニエル・クレーマー演出によるものだが、最大の特徴は、ステージデザインを創造集団チームラボの「チームラボアーキテクツteamLab★Architects」が受け持っていることと、第3幕後半が通常の華やかなアルファーノ版でなく、比較的静かなルチアーノ・ベリオ版で演奏されることだろう。
4回公演の今日は初日。ディエゴ・マテウスの指揮、ピットは新日本フィルハーモニー交響楽団。
歌手陣はダブルキャストで、今日は田崎尚美(中国の姫トゥーランドット)、樋口達哉(だったんの王子カラフ)、竹多倫子(奴隷女リュー)、ジョン・ハオ(カラフの父ティムール)、牧川修一(中国皇帝アルトゥム)、小林啓倫(大臣ピン)、児玉和弘(大臣パン)、新海康仁(大臣ポン)、増原英也(役人)。それに二期会合唱団とNHK東京児童合唱団、多くのダンサーたち。照明にはシモン・トロッテ、振付にはティム・クレイドンの名がクレジットされている。
「光と影のトゥーランドット」━━いや「光と闇のトゥーランドット」というべきか、レーザー光線を交えた光の乱舞による舞台がまず見ものだ。かつて「ニーベルングの指環」の舞台で名を轟かせたラ・フラ・デルス・バウスのそれに勝るとも劣らぬ大がかりな目映い光の演出で、しかも更に精緻なつくりである。
見事なものではあるが、一方それに眼が奪われてしまうと、前景の暗闇の中で行われている主人公たちの存在が定かでなくなるという傾向がなくもないだろう。幕開き直後など、カラフやティムールやリューは、声はすれども何処にいるの?という感だったことは確かだ。
ただ、それも一種の慣れというか、第2幕以降では次第に主人公たちの存在も認識できるようにはなって行く。
皇帝やトゥーランドットは舞台の天井近くに登場し、輝かしい光を受けた高所で歌うので(怖いでしょうねえ)存在感は明確だが、カラフは大部分を暗い地上で歌うので、客席後方で観ていると、人相風体も定かならずという感がある。なお「謎解きの場」で、カラフが一つの謎を解破するごとに、トゥーランドットの乗ったゴンドラ(?)が高所から地上に向け次第に引き下ろされて来るという設定は、解りやすい仕組みだろう。
これに対し第3幕では、リューとティムールがそれぞれ空中の透明なゴンドラの中に閉じ込められていて、地上でカラフが酷い拷問に遭うという設定に読み替えられているが、これはあまり納得できる解釈とも言えない。だが自決したリューと、それを追って自らも命を絶つティムールのゴンドラが赤い光に染まって行くという設定は無惨ながらも美しいものがあった。
舞台で目立ったのはもう一つ、強烈なダンスだ。第1幕の幕開きからそれは舞台を圧する勢いで繰り広げられ、第3幕前半に至るまで、群衆や戦士、処刑人などの役割を以て激しく展開されて行く。
その迫力もなかなかのものだが、しかしこれも、物語の主人公たちの存在を目立たなくしてしまう傾向無きにしも非ずだ。ドラマの真の主人公は群衆にあるという論拠は、このオペラでは成り立たないだろう。その群衆役の合唱団は舞台奥の暗黒の中に位置したままなので、われわれ観客の眼には触れることがない。
オーケストラはめずらしく新日本フィルが受け持ったが、音にもう少し厚みが欲しいところではある。2日目以降にはもっと演奏にしなやかさが生まれて来るかもしれない。
歌手陣は大熱演だったが、いずれも何となく力み過ぎといった印象があり━━田崎尚美さんなど、昨年のゼンタ(新国立劇場)、クンドリ(びわ湖ホールと東京二期会公演と)をはじめとするこれまでのワーグナーものでの彼女の快唱を聴いて来た側からすると、今日は些か彼女らしからぬ歌い方としか思えなかったほどである。だが一方、樋口達哉テナーが、こういうドラマティックな歌を聴かせてくれたというのは、私には嬉しい驚きであった。
つい先日、日本オペラ協会(藤原歌劇団系)が壮麗な演出の「源氏物語」を上演して気を吐けば、東京二期会は、日本ではこれまでなかったような舞台の「トゥーランドット」で応戦する。先月には東京芸術劇場も関西弁の字幕と文楽にヒントを得た奇想天外な「カヴァレリア・ルスティカーナ」&「道化師」を試みたばかり。あらゆる新機軸は進歩に通じる。今後も議論を巻き起こしていただきたい。
東京二期会の今回のプッチーニの「トゥーランドット」は、ジュネーヴ大劇場との共同制作によるダニエル・クレーマー演出によるものだが、最大の特徴は、ステージデザインを創造集団チームラボの「チームラボアーキテクツteamLab★Architects」が受け持っていることと、第3幕後半が通常の華やかなアルファーノ版でなく、比較的静かなルチアーノ・ベリオ版で演奏されることだろう。
4回公演の今日は初日。ディエゴ・マテウスの指揮、ピットは新日本フィルハーモニー交響楽団。
歌手陣はダブルキャストで、今日は田崎尚美(中国の姫トゥーランドット)、樋口達哉(だったんの王子カラフ)、竹多倫子(奴隷女リュー)、ジョン・ハオ(カラフの父ティムール)、牧川修一(中国皇帝アルトゥム)、小林啓倫(大臣ピン)、児玉和弘(大臣パン)、新海康仁(大臣ポン)、増原英也(役人)。それに二期会合唱団とNHK東京児童合唱団、多くのダンサーたち。照明にはシモン・トロッテ、振付にはティム・クレイドンの名がクレジットされている。
「光と影のトゥーランドット」━━いや「光と闇のトゥーランドット」というべきか、レーザー光線を交えた光の乱舞による舞台がまず見ものだ。かつて「ニーベルングの指環」の舞台で名を轟かせたラ・フラ・デルス・バウスのそれに勝るとも劣らぬ大がかりな目映い光の演出で、しかも更に精緻なつくりである。
見事なものではあるが、一方それに眼が奪われてしまうと、前景の暗闇の中で行われている主人公たちの存在が定かでなくなるという傾向がなくもないだろう。幕開き直後など、カラフやティムールやリューは、声はすれども何処にいるの?という感だったことは確かだ。
ただ、それも一種の慣れというか、第2幕以降では次第に主人公たちの存在も認識できるようにはなって行く。
皇帝やトゥーランドットは舞台の天井近くに登場し、輝かしい光を受けた高所で歌うので(怖いでしょうねえ)存在感は明確だが、カラフは大部分を暗い地上で歌うので、客席後方で観ていると、人相風体も定かならずという感がある。なお「謎解きの場」で、カラフが一つの謎を解破するごとに、トゥーランドットの乗ったゴンドラ(?)が高所から地上に向け次第に引き下ろされて来るという設定は、解りやすい仕組みだろう。
これに対し第3幕では、リューとティムールがそれぞれ空中の透明なゴンドラの中に閉じ込められていて、地上でカラフが酷い拷問に遭うという設定に読み替えられているが、これはあまり納得できる解釈とも言えない。だが自決したリューと、それを追って自らも命を絶つティムールのゴンドラが赤い光に染まって行くという設定は無惨ながらも美しいものがあった。
舞台で目立ったのはもう一つ、強烈なダンスだ。第1幕の幕開きからそれは舞台を圧する勢いで繰り広げられ、第3幕前半に至るまで、群衆や戦士、処刑人などの役割を以て激しく展開されて行く。
その迫力もなかなかのものだが、しかしこれも、物語の主人公たちの存在を目立たなくしてしまう傾向無きにしも非ずだ。ドラマの真の主人公は群衆にあるという論拠は、このオペラでは成り立たないだろう。その群衆役の合唱団は舞台奥の暗黒の中に位置したままなので、われわれ観客の眼には触れることがない。
オーケストラはめずらしく新日本フィルが受け持ったが、音にもう少し厚みが欲しいところではある。2日目以降にはもっと演奏にしなやかさが生まれて来るかもしれない。
歌手陣は大熱演だったが、いずれも何となく力み過ぎといった印象があり━━田崎尚美さんなど、昨年のゼンタ(新国立劇場)、クンドリ(びわ湖ホールと東京二期会公演と)をはじめとするこれまでのワーグナーものでの彼女の快唱を聴いて来た側からすると、今日は些か彼女らしからぬ歌い方としか思えなかったほどである。だが一方、樋口達哉テナーが、こういうドラマティックな歌を聴かせてくれたというのは、私には嬉しい驚きであった。
つい先日、日本オペラ協会(藤原歌劇団系)が壮麗な演出の「源氏物語」を上演して気を吐けば、東京二期会は、日本ではこれまでなかったような舞台の「トゥーランドット」で応戦する。先月には東京芸術劇場も関西弁の字幕と文楽にヒントを得た奇想天外な「カヴァレリア・ルスティカーナ」&「道化師」を試みたばかり。あらゆる新機軸は進歩に通じる。今後も議論を巻き起こしていただきたい。
2023・2・23(木)デイヴィッド・レイランド指揮東京都交響楽団
サントリーホール 2時
ベルギー出身の指揮、デイヴィッド・レイランドが客演。シューマンの「マンフレッド」序曲と「交響曲第3番変ホ長調《ライン》」の間に、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番ニ短調」(ソリストはティル・フェルナー)を配したプログラム。コンサートマスターは四方恭子。
レイランドが都響に客演するのは、2021年9月に次ぐ2度目とのことだが、私は前回の客演を聴いていなかったので、今日が彼のナマを聴く最初となる。
まだ若い世代に属する人だろうと思うが、思いのほかオーケストラから柔らかく温かい響きを引き出し、陰影に富んでしっとりとした和声感を備えた演奏をつくり上げていることに強い印象を受けた。
特にシューマンの2曲━━暗く悲劇的な「マンフレッド」だけでなく、楽章によっては田園的な解放感を湛えた「ライン」においてさえも、シューマンの「憂いのロマン」を随所に滲ませた音楽を引き出している。最近の指揮者にしては面白い個性の持主、と言えるのではなかろうか。
モーツァルトもいい。古典的な端整さの裡にロマン的な陰影を滲ませた指揮とでもいうか。所謂ガリガリとした鋭角的なモーツァルトでない、こういうウォームなスタイルのモーツァルトを守り抜いている若い世代の指揮者が今なお居るのだと思うと、好みは別として、何となく安心してしまう。しかも協演のティル・フェルナーが明晰な音の動きでオーケストラと対峙しながら際立つ存在感を示しているので、両者のバランスも絶妙だ。
フェルナーはそのあと、ソロ・アンコールとしてシューベルトの「即興曲作品142の2」を弾いたが、これまた絶品。ただ、オーケストラを差し置いてのソロ・アンコールとしては、些か長めだったか。
ベルギー出身の指揮、デイヴィッド・レイランドが客演。シューマンの「マンフレッド」序曲と「交響曲第3番変ホ長調《ライン》」の間に、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番ニ短調」(ソリストはティル・フェルナー)を配したプログラム。コンサートマスターは四方恭子。
レイランドが都響に客演するのは、2021年9月に次ぐ2度目とのことだが、私は前回の客演を聴いていなかったので、今日が彼のナマを聴く最初となる。
まだ若い世代に属する人だろうと思うが、思いのほかオーケストラから柔らかく温かい響きを引き出し、陰影に富んでしっとりとした和声感を備えた演奏をつくり上げていることに強い印象を受けた。
特にシューマンの2曲━━暗く悲劇的な「マンフレッド」だけでなく、楽章によっては田園的な解放感を湛えた「ライン」においてさえも、シューマンの「憂いのロマン」を随所に滲ませた音楽を引き出している。最近の指揮者にしては面白い個性の持主、と言えるのではなかろうか。
モーツァルトもいい。古典的な端整さの裡にロマン的な陰影を滲ませた指揮とでもいうか。所謂ガリガリとした鋭角的なモーツァルトでない、こういうウォームなスタイルのモーツァルトを守り抜いている若い世代の指揮者が今なお居るのだと思うと、好みは別として、何となく安心してしまう。しかも協演のティル・フェルナーが明晰な音の動きでオーケストラと対峙しながら際立つ存在感を示しているので、両者のバランスも絶妙だ。
フェルナーはそのあと、ソロ・アンコールとしてシューベルトの「即興曲作品142の2」を弾いたが、これまた絶品。ただ、オーケストラを差し置いてのソロ・アンコールとしては、些か長めだったか。
2023・2・22(水)アンナ・ラキティナ指揮読響&ルノー・カプソン
サントリーホール 7時
ウクライナ人の父とロシア人の母のもとにモスクワで生まれた指揮者、アンナ・ラキティナが初来日。未だ30歳代前半の、スラリとした美女だ。近年はアメリカで活躍し、2019年からはボストン響のアシスタント指揮者を務めている由。
今回はエレナ・ランガーの歌劇「フィガロの離婚」組曲(日本初演)、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲《ある天使の思い出に》」(ソリストはルノー・カプソン)、チャイコフスキーの「交響曲第1番「冬の日の幻想」」というプログラムで、読売日本交響楽団の定期に初登場した。極めてメリハリの強い、やや細身のイメージの音ではあるけれども強靭な力を感じさせる音楽をつくる女性指揮者である。
今日の読響のコンサートマスターは日下紗矢子。
「フィガロの離婚」の作曲者エレナ・ランガー(1974~)は、ロシア出身の英国人とのこと。エデン・フォン・フォルヴァートの同名戯曲(これは日本でも上演されたことがある)に、ボーマルシェの「罪ある母」を組み合わせ、あのデイヴィッド・パウントニーが台本を書いたオペラの由(プログラム冊子の柴辻純子さんの解説に拠る)。筋書も、更にややこしくなっているようである。
この組曲は、それを世界初演したマクシム・エメリャニチェフが2021年9月に読響を指揮して日本初演するはずだったが、彼が来日できなかったために中止されていたもの。20分弱の長さで切れ目なく演奏され、管弦楽編成は大きく、アコーディオンからボンゴまで様々な楽器も含まれるが、曲想はむしろ暗鬱な色合いが支配的だ。
この曲の後に、ルノー・カプソンがソロを弾いたベルクの協奏曲を聴くと、それが随分清涼ですっきりしたイメージの曲に感じられるから不思議だ。このあたりがプログラミングの面白さというものであろう。
カプソンは例の如く身体を大きく動かし、片足を上げたり体を弓なりに反らせたりして、阿修羅のごとく演奏する。当初予定されていた誰やらの新作の日本初演が流れたのは残念だったが、このベルクの協奏曲をかくも優麗さを含んだ劇的な演奏で聴けたのは、それはそれで有難かった。アンコールでのカプソンの演奏は、前衛的なスタイルに変容されたグルックの「精霊の踊り」。
休憩後のチャイコフスキーの交響曲「冬の日の幻想」では、金管の強奏の音色など、いかにもロシアの指揮者だなと思わせる強靭な力に満ちていた。全曲に流れるロシアの冬の静かな雪の光景を思わせる曲想を、読響から(少し粗削りながら)明確に引き出した手腕も、この指揮者の力量を感じさせる。
今日の演奏には、もしかしたら、ラキティナの望郷の想いが強く籠められていたのではないか。第2楽章の、まさにロシア=チャイコフスキーといった雰囲気の音楽とその演奏が、今日は指揮者の心情を想像してしまったせいか、いつも以上に心に沁みた。
ロシアの雪の冬の光景というのは、私は30年ほど前にモスクワとサンクトペテルブルクのそれらを一度しか体験したことがない(その他は夏ばかりだった)のだが、チャイコフスキーのこの曲は、それを不思議なほどリアルに思い出させてくれる。平和なロシアは素晴らしいところだった。懐かしい思い出が一杯だが、私にはもう二度と訪れる機会は得られないだろう。
ウクライナ人の父とロシア人の母のもとにモスクワで生まれた指揮者、アンナ・ラキティナが初来日。未だ30歳代前半の、スラリとした美女だ。近年はアメリカで活躍し、2019年からはボストン響のアシスタント指揮者を務めている由。
今回はエレナ・ランガーの歌劇「フィガロの離婚」組曲(日本初演)、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲《ある天使の思い出に》」(ソリストはルノー・カプソン)、チャイコフスキーの「交響曲第1番「冬の日の幻想」」というプログラムで、読売日本交響楽団の定期に初登場した。極めてメリハリの強い、やや細身のイメージの音ではあるけれども強靭な力を感じさせる音楽をつくる女性指揮者である。
今日の読響のコンサートマスターは日下紗矢子。
「フィガロの離婚」の作曲者エレナ・ランガー(1974~)は、ロシア出身の英国人とのこと。エデン・フォン・フォルヴァートの同名戯曲(これは日本でも上演されたことがある)に、ボーマルシェの「罪ある母」を組み合わせ、あのデイヴィッド・パウントニーが台本を書いたオペラの由(プログラム冊子の柴辻純子さんの解説に拠る)。筋書も、更にややこしくなっているようである。
この組曲は、それを世界初演したマクシム・エメリャニチェフが2021年9月に読響を指揮して日本初演するはずだったが、彼が来日できなかったために中止されていたもの。20分弱の長さで切れ目なく演奏され、管弦楽編成は大きく、アコーディオンからボンゴまで様々な楽器も含まれるが、曲想はむしろ暗鬱な色合いが支配的だ。
この曲の後に、ルノー・カプソンがソロを弾いたベルクの協奏曲を聴くと、それが随分清涼ですっきりしたイメージの曲に感じられるから不思議だ。このあたりがプログラミングの面白さというものであろう。
カプソンは例の如く身体を大きく動かし、片足を上げたり体を弓なりに反らせたりして、阿修羅のごとく演奏する。当初予定されていた誰やらの新作の日本初演が流れたのは残念だったが、このベルクの協奏曲をかくも優麗さを含んだ劇的な演奏で聴けたのは、それはそれで有難かった。アンコールでのカプソンの演奏は、前衛的なスタイルに変容されたグルックの「精霊の踊り」。
休憩後のチャイコフスキーの交響曲「冬の日の幻想」では、金管の強奏の音色など、いかにもロシアの指揮者だなと思わせる強靭な力に満ちていた。全曲に流れるロシアの冬の静かな雪の光景を思わせる曲想を、読響から(少し粗削りながら)明確に引き出した手腕も、この指揮者の力量を感じさせる。
今日の演奏には、もしかしたら、ラキティナの望郷の想いが強く籠められていたのではないか。第2楽章の、まさにロシア=チャイコフスキーといった雰囲気の音楽とその演奏が、今日は指揮者の心情を想像してしまったせいか、いつも以上に心に沁みた。
ロシアの雪の冬の光景というのは、私は30年ほど前にモスクワとサンクトペテルブルクのそれらを一度しか体験したことがない(その他は夏ばかりだった)のだが、チャイコフスキーのこの曲は、それを不思議なほどリアルに思い出させてくれる。平和なロシアは素晴らしいところだった。懐かしい思い出が一杯だが、私にはもう二度と訪れる機会は得られないだろう。
2023・2・20(月)加藤拓也脚本・演出「博士の愛した数式」
東京芸術劇場シアターウエスト 2時
まつもと市民芸術館(総監督・串田和美)が制作した、小川洋子の同名原作による舞台。
出演は、主人公の数学者「博士」を串田和美、家政婦の「私」を安藤聖、その息子「ルート」を井上小百合、博士の義姉「未亡人」を増子倭文江、家政婦派遣の「組合長」を草光純太、「語り手」を近藤隼、音楽(舞台上で演奏)を谷川正憲。90分ほどの上演時間である。
交通事故のため80分間しか記憶が保てなくなった数学者が、家政婦およびその息子と温かい絆で結ばれるという━━最後は哀しい流れに終るものの、ヒューマンな情感にあふれたストーリーだ。
以前映画化されて評判をとったものは観ていないし、また加藤拓也が数年前に「劇団た組」で演出した(と聞く)舞台と同一のものかどうかも、このジャンルに詳しくない私は把握していないのだが、ともあれ今回は、串田和美がほのぼのとして、かつ寂しさを滲ませた演技を見せてくれたことと、安藤聖が演じた清純で真摯な家政婦像がとりわけ強く印象に残った。
夜に同じ東京芸術劇場で行われるピアノ・デュオのコンサート、「藤田真央✕務川慧悟」をも聴くつもりでいたのだが、シアターウエストの出口でばったり出会った劇場スタッフから「関係者急病」のため中止になった、と聞かされ、落胆して帰る。
まつもと市民芸術館(総監督・串田和美)が制作した、小川洋子の同名原作による舞台。
出演は、主人公の数学者「博士」を串田和美、家政婦の「私」を安藤聖、その息子「ルート」を井上小百合、博士の義姉「未亡人」を増子倭文江、家政婦派遣の「組合長」を草光純太、「語り手」を近藤隼、音楽(舞台上で演奏)を谷川正憲。90分ほどの上演時間である。
交通事故のため80分間しか記憶が保てなくなった数学者が、家政婦およびその息子と温かい絆で結ばれるという━━最後は哀しい流れに終るものの、ヒューマンな情感にあふれたストーリーだ。
以前映画化されて評判をとったものは観ていないし、また加藤拓也が数年前に「劇団た組」で演出した(と聞く)舞台と同一のものかどうかも、このジャンルに詳しくない私は把握していないのだが、ともあれ今回は、串田和美がほのぼのとして、かつ寂しさを滲ませた演技を見せてくれたことと、安藤聖が演じた清純で真摯な家政婦像がとりわけ強く印象に残った。
夜に同じ東京芸術劇場で行われるピアノ・デュオのコンサート、「藤田真央✕務川慧悟」をも聴くつもりでいたのだが、シアターウエストの出口でばったり出会った劇場スタッフから「関係者急病」のため中止になった、と聞かされ、落胆して帰る。
2023・2・18(土)三木稔「源氏物語」日本語版全曲日本初演
Bunkamuraオーチャードホール 2時
2000年6月にセントルイスで世界初演され、2001年9月に日生劇場で日本初演された、このコリン・グレアム台本、三木稔作曲による3時間に及ぶ大作オペラ「源氏物語」━━それらはいずれも英語版によるものだったが、今回は日本語版で全曲が上演された。
三木稔は英語版と、自ら考えていた日本語歌詞版との両方を念頭に置いて作曲した、と伝えられるが、確かに歌詞に違和感はない。
私は22年前の日生劇場での上演を観ていなかったので、今回は初めての体験なのだが、岩田達宗の演出と、田中祐子の指揮で紡ぎ出されたその壮麗な舞台と音楽には、ひたすら驚嘆するのみであった。
第1幕が約100分、第2・3幕は計約75分。その構成の中で、全ての場面が切れ目なしに展開される。
音楽は平安の壮麗な絵巻物といったような構築で、実に緻密に書かれている。西洋音楽のオーケストラにいくつかの和楽器が加わり、雅楽の手法も取り入れられている(これが実に美しい!)。総じて極めて細かいニュアンスで登場人物の性格やドラマの変化が描かれていて、作曲者の優れた力量が窺われるだろう。
ただし、絵巻物のよう、ということは、ドラマの面でも音楽の面でも、圧倒的なクライマックスという場面がないということにも通じる要素があって━━それは原作の性格からしてやむを得ないと思われるのだが、舞台ものとしては多少のハンデを負うかもしれない。
光源氏が流罪を許されるきっかけとなる「須磨の嵐」の音楽は、叙情的な全曲の中ではそれなりにかなり激しいものだが、西洋オペラのようにドラマの転回点として猛烈なクライマックスとして印象づけるというほどのものにはなっていない。そこが日本的な、過度にならぬということなのか‥‥。
舞台美術はシンプルだが美しい。紗幕と背後の階段とを巧く使った岩田達宗の演出により、同一平面上での演技でありながら、場面の移り変わりはよく理解できる。
平安時代の衣装が極めて美しい。特に女声陣は、妍を競うという感だ。登場人物は遠距離から一見すると、それぞれ衣装の色に違いがあるとはいえ、誰が誰だか判りにくい、という傾向はあるが、これを解決するには、紫式部の原作をある程度頭に入れておく必要があるだろう。
終結近く、赦免された光源氏が明石を去り、紫上と再会するさまを、捨てられた明石の姫がじっと悲し気に見守る(ここは紫式部の原作とは異なる)余韻嫋々たる設定や、その明石の姫が前景に位置し、光源氏らが後景に位置しているという光景がいい。つまりそこでの主人公は、{明石の姫}のほうなのだ。このあたり、岩田達宗の演出も、なかなか泣かせる術を心得たものである。
それにしてもこの台本、原作の全篇に流れる真摯で強烈な無常観が、外国人のグレアムの手にかかると、光源氏という人物が、多少ドン・ジョヴァンニ的な性格を帯びてしまったようだ。日本人の私たちはそれを感じることができるのだが━━西欧の観客にはどうだったろうか。
配役はダブルキャストだが、これだけ多くの歌手陣を揃えるとはたいしたものである。
今日(初日)は、岡昭宏(光源氏)、桐壺帝(山田大智)、佐藤美枝子(六条御息所)、向野由美子(藤壺)、相樂和子(紫上)、丹呉由里利子(葵上)、長島由佳(明石の姫)、森山京子(弘徽󠄀殿)、海道弘昭(頭中将)、江原啓之(明石入道)、市川宥一郎(朱雀帝)、河野めぐみ(少納言)、和下田大典(惟光)。
東京フィルハーモニー交響楽団、山田明美(二十弦筝)、叶桜(中国琵琶)、日本オペラ協会合唱団。松生紘子の舞台美術、大塚満の衣装、大島祐夫の照明━━ほか。
田中祐子の指揮がいい。
六条御息所を佐藤美枝子(別キャストでは砂川涼子)が歌い演じるというのは意外だったが、この舞台では彼女の怨念の所業には、音楽でも舞台でもことさら怪談じみて描かれるという要素はなく、むしろ光源氏の心変わりの生き方を非難し叱咤する役割として描かれているので、納得できるというものだ。
また、弘徽󠄀殿のほうは、アンチ光源氏のヒステリックな母后として描かれていたが、ベテラン森山京子の怪演(?)が、なだらかな人物像が並ぶ舞台における一つのアクセントとして光っていた。
5時半終演。日本オペラ振興会の力作で、極めて意義深い上演として記憶されるだろう。主催者としては、他にBUNKAMURA、日本演奏連盟、東京都(都民芸術フェスティバル)、東京都歴史文化財団が顔を揃えている。
なお余談だが、昭和22年に出版された島津久基著「鎌倉つれづれ草」の中に、「須磨巻」の突然の天変地異について触れた部分がある。
須磨のみならず京都にも吹き荒れたこの嵐は、光源氏の流罪が許される機会となったドラマの大転換の場なのだが、紫式部がここで嵐の場面を投入したのは、「己の心に己の所業を問うてみよ」という天の怒りとも解釈できる出来事という劇的効果を狙っていたのは確かだが、そのほかにも、春先(3~4月)にはそのような天候急変がしばしば起こるという科学的な根拠を知悉していたからではなかったか、という見解を、春のいろいろな嵐の例を弾いて説明している。つまり、単なる「あーら怪しや、一天俄に掻曇り」といった安手の効果を狙ったものではなさそうだ、として、紫式部の知識の幅広さを指摘しているのである。
その嵐に怯え、光源氏の赦免を提言した朱雀帝に、母の弘徽󠄀殿が「凄い雨の晩などには、始終心に思っていることが恐ろしい夢になって来るもの。軽率に御驚きになってはなりませぬ」と諭すのも、迷信に囚われぬ自由な女性の存在を描いている(この辺は当オペラとは全く異なる設定だが)のも、紫式部の近代的な科学精神を窺うことができる、というのである。興味深い指摘である。
2000年6月にセントルイスで世界初演され、2001年9月に日生劇場で日本初演された、このコリン・グレアム台本、三木稔作曲による3時間に及ぶ大作オペラ「源氏物語」━━それらはいずれも英語版によるものだったが、今回は日本語版で全曲が上演された。
三木稔は英語版と、自ら考えていた日本語歌詞版との両方を念頭に置いて作曲した、と伝えられるが、確かに歌詞に違和感はない。
私は22年前の日生劇場での上演を観ていなかったので、今回は初めての体験なのだが、岩田達宗の演出と、田中祐子の指揮で紡ぎ出されたその壮麗な舞台と音楽には、ひたすら驚嘆するのみであった。
第1幕が約100分、第2・3幕は計約75分。その構成の中で、全ての場面が切れ目なしに展開される。
音楽は平安の壮麗な絵巻物といったような構築で、実に緻密に書かれている。西洋音楽のオーケストラにいくつかの和楽器が加わり、雅楽の手法も取り入れられている(これが実に美しい!)。総じて極めて細かいニュアンスで登場人物の性格やドラマの変化が描かれていて、作曲者の優れた力量が窺われるだろう。
ただし、絵巻物のよう、ということは、ドラマの面でも音楽の面でも、圧倒的なクライマックスという場面がないということにも通じる要素があって━━それは原作の性格からしてやむを得ないと思われるのだが、舞台ものとしては多少のハンデを負うかもしれない。
光源氏が流罪を許されるきっかけとなる「須磨の嵐」の音楽は、叙情的な全曲の中ではそれなりにかなり激しいものだが、西洋オペラのようにドラマの転回点として猛烈なクライマックスとして印象づけるというほどのものにはなっていない。そこが日本的な、過度にならぬということなのか‥‥。
舞台美術はシンプルだが美しい。紗幕と背後の階段とを巧く使った岩田達宗の演出により、同一平面上での演技でありながら、場面の移り変わりはよく理解できる。
平安時代の衣装が極めて美しい。特に女声陣は、妍を競うという感だ。登場人物は遠距離から一見すると、それぞれ衣装の色に違いがあるとはいえ、誰が誰だか判りにくい、という傾向はあるが、これを解決するには、紫式部の原作をある程度頭に入れておく必要があるだろう。
終結近く、赦免された光源氏が明石を去り、紫上と再会するさまを、捨てられた明石の姫がじっと悲し気に見守る(ここは紫式部の原作とは異なる)余韻嫋々たる設定や、その明石の姫が前景に位置し、光源氏らが後景に位置しているという光景がいい。つまりそこでの主人公は、{明石の姫}のほうなのだ。このあたり、岩田達宗の演出も、なかなか泣かせる術を心得たものである。
それにしてもこの台本、原作の全篇に流れる真摯で強烈な無常観が、外国人のグレアムの手にかかると、光源氏という人物が、多少ドン・ジョヴァンニ的な性格を帯びてしまったようだ。日本人の私たちはそれを感じることができるのだが━━西欧の観客にはどうだったろうか。
配役はダブルキャストだが、これだけ多くの歌手陣を揃えるとはたいしたものである。
今日(初日)は、岡昭宏(光源氏)、桐壺帝(山田大智)、佐藤美枝子(六条御息所)、向野由美子(藤壺)、相樂和子(紫上)、丹呉由里利子(葵上)、長島由佳(明石の姫)、森山京子(弘徽󠄀殿)、海道弘昭(頭中将)、江原啓之(明石入道)、市川宥一郎(朱雀帝)、河野めぐみ(少納言)、和下田大典(惟光)。
東京フィルハーモニー交響楽団、山田明美(二十弦筝)、叶桜(中国琵琶)、日本オペラ協会合唱団。松生紘子の舞台美術、大塚満の衣装、大島祐夫の照明━━ほか。
田中祐子の指揮がいい。
六条御息所を佐藤美枝子(別キャストでは砂川涼子)が歌い演じるというのは意外だったが、この舞台では彼女の怨念の所業には、音楽でも舞台でもことさら怪談じみて描かれるという要素はなく、むしろ光源氏の心変わりの生き方を非難し叱咤する役割として描かれているので、納得できるというものだ。
また、弘徽󠄀殿のほうは、アンチ光源氏のヒステリックな母后として描かれていたが、ベテラン森山京子の怪演(?)が、なだらかな人物像が並ぶ舞台における一つのアクセントとして光っていた。
5時半終演。日本オペラ振興会の力作で、極めて意義深い上演として記憶されるだろう。主催者としては、他にBUNKAMURA、日本演奏連盟、東京都(都民芸術フェスティバル)、東京都歴史文化財団が顔を揃えている。
なお余談だが、昭和22年に出版された島津久基著「鎌倉つれづれ草」の中に、「須磨巻」の突然の天変地異について触れた部分がある。
須磨のみならず京都にも吹き荒れたこの嵐は、光源氏の流罪が許される機会となったドラマの大転換の場なのだが、紫式部がここで嵐の場面を投入したのは、「己の心に己の所業を問うてみよ」という天の怒りとも解釈できる出来事という劇的効果を狙っていたのは確かだが、そのほかにも、春先(3~4月)にはそのような天候急変がしばしば起こるという科学的な根拠を知悉していたからではなかったか、という見解を、春のいろいろな嵐の例を弾いて説明している。つまり、単なる「あーら怪しや、一天俄に掻曇り」といった安手の効果を狙ったものではなさそうだ、として、紫式部の知識の幅広さを指摘しているのである。
その嵐に怯え、光源氏の赦免を提言した朱雀帝に、母の弘徽󠄀殿が「凄い雨の晩などには、始終心に思っていることが恐ろしい夢になって来るもの。軽率に御驚きになってはなりませぬ」と諭すのも、迷信に囚われぬ自由な女性の存在を描いている(この辺は当オペラとは全く異なる設定だが)のも、紫式部の近代的な科学精神を窺うことができる、というのである。興味深い指摘である。
2023・2・16(木)METライブビューイング「めぐり合う時間たち」
東劇 6時30分
マイケル・カニンガムの小説をグレッグ・ピアスが台本化、ケヴィン・プッツが作曲したこの新作オペラ「めぐり合う時間たち(The Hours)」は、ルネ・フレミング、ジョイス・ディドナート、ケリー・オハラという3人の大ソプラノが共演することもあって、今シーズンのMETのイチオシらしく、いろいろな関係印刷物にこの3人が並んでいる写真が見られる。
今回上映されているのは、昨年12月10日に上演されたライヴ映像だ。ヤニック・ネゼ=セガンが指揮を、フェリム・マクダーモットが演出を受け持っている。
ストーリーは━━極度に簡略化して言ってしまえば━━1923年の英国、1949年のロサンゼルス、1999年のニューヨークに生きる3人の女性のそれぞれの波乱の1日が同一平面上で同時に描かれる、という形のものである。だから何なのだ、ということにもなるが、この3人が全曲の最後に顔を揃え、時空を超えたそれぞれの生き方を確認しあうというヒューマンな場面で締め括られるというところに、この作品の眼目があるのだろう。
このオペラの制作に携わった人たちは、そのドラマ構成の巧みさと、その各々の時代に関連する音楽(例えば1999年の時代はミニマル・ミュージック)を取り入れた手法の見事さなどを口々に語っている。ただ、彼らの並外れた熱意には敬意を払うものの、実際にそれが本当に舞台上で明確に構成され、音楽で描かれていたかとなると━━必ずしもそうとは言い難いように思われる。
第1幕が約88分、第2幕が約61分という上演時間の中で、オーケストラと歌は概して同じような流れを以って進み、クライマックスのつくり方においても、オーケストラが網の目のように織り成す音を次第に精緻に激しく濃く発展させて行く(例えば第1幕の終結個所)手法のみなので、全体に些か単調に感じられる、と言えなくもないのだ。
歌手陣は相変わらず素晴らしいし、METのオーケストラも相変わらず上手い。
「芸術を発展させるためには、新作に取り組まねばなりません」と冒頭でピーター・ゲルブ総裁が語っているように、近年のMETのシーズンには新作の初演が増えている。見上げた姿勢である。
マイケル・カニンガムの小説をグレッグ・ピアスが台本化、ケヴィン・プッツが作曲したこの新作オペラ「めぐり合う時間たち(The Hours)」は、ルネ・フレミング、ジョイス・ディドナート、ケリー・オハラという3人の大ソプラノが共演することもあって、今シーズンのMETのイチオシらしく、いろいろな関係印刷物にこの3人が並んでいる写真が見られる。
今回上映されているのは、昨年12月10日に上演されたライヴ映像だ。ヤニック・ネゼ=セガンが指揮を、フェリム・マクダーモットが演出を受け持っている。
ストーリーは━━極度に簡略化して言ってしまえば━━1923年の英国、1949年のロサンゼルス、1999年のニューヨークに生きる3人の女性のそれぞれの波乱の1日が同一平面上で同時に描かれる、という形のものである。だから何なのだ、ということにもなるが、この3人が全曲の最後に顔を揃え、時空を超えたそれぞれの生き方を確認しあうというヒューマンな場面で締め括られるというところに、この作品の眼目があるのだろう。
このオペラの制作に携わった人たちは、そのドラマ構成の巧みさと、その各々の時代に関連する音楽(例えば1999年の時代はミニマル・ミュージック)を取り入れた手法の見事さなどを口々に語っている。ただ、彼らの並外れた熱意には敬意を払うものの、実際にそれが本当に舞台上で明確に構成され、音楽で描かれていたかとなると━━必ずしもそうとは言い難いように思われる。
第1幕が約88分、第2幕が約61分という上演時間の中で、オーケストラと歌は概して同じような流れを以って進み、クライマックスのつくり方においても、オーケストラが網の目のように織り成す音を次第に精緻に激しく濃く発展させて行く(例えば第1幕の終結個所)手法のみなので、全体に些か単調に感じられる、と言えなくもないのだ。
歌手陣は相変わらず素晴らしいし、METのオーケストラも相変わらず上手い。
「芸術を発展させるためには、新作に取り組まねばなりません」と冒頭でピーター・ゲルブ総裁が語っているように、近年のMETのシーズンには新作の初演が増えている。見上げた姿勢である。
2023・2・14(火)ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮東京都響
サントリーホール 7時
フォーレの歌劇「ペネロープ」前奏曲、フローラン・シュミットの「管弦楽とピアノのための協奏交響曲」(ソリストは阪田知樹)、ショーソンの「交響曲変ロ長調」というプログラム。コンサートマスターは四方恭子。
「ペネロープ」はあまりフォーレらしからぬ曲ながら、それでもフォーレはフォーレに違いなく、またショーソンの交響曲は昔ミュンシュ&ボストンのLPを聴いて感激して以来の大の愛聴曲。そしてフローラン・シュミットのそれは、私にとってはナマで全曲を聴くのが初めて━━というわけで、大いに楽しみにしていたのだが‥‥。
「協奏交響曲」は、魁偉といってもいいような曲だし、演奏する方も大変だったのではと思う。阪田知樹も都響も猛烈な勢いで取り組んでくれたことが感じられて、これは聴き手にとっても貴重な体験であった。
だが━━トルトゥリエの指揮に大きな疑問が残ったのは他の2曲だ。「ペネロープ」前奏曲は、不思議に分厚く物々しい響きの演奏になっていて、フォーレの清澄な叙情美は殊更に薄められていた。
更に疑問だらけだったのは、ショーソンの交響曲の方である。この曲は、もっと山あり谷あり、嵐あり安息ありの起伏に富んだ、劇的な流れを備えた作品ではなかったか? 都響がいい音を出していたので壮大感はあったものの、あのように全曲を一本調子で平板に指揮されては、全曲最後の安らぎにあふれた主題の再現さえ、全く効果を成さなくなるだろう。
話は別だが、昔「ニュース映画」というジャンルの華やかなりし頃、災害の報道の際に流れるBGMで、地震・火災・暴動・洪水などの場合には必ずマーラーの「巨人」の第4楽章冒頭が、そして竜巻のニュースの場合は必ずこのショーソンの「交響曲」の第3楽章冒頭が使われていたことをご記憶の方は、もう今どのくらい居られるだろうか?
ただし断っておくが、今日のトルトゥリエの指揮が、そういう意味での迫力を欠いていた、などと言っているのではない。
フォーレの歌劇「ペネロープ」前奏曲、フローラン・シュミットの「管弦楽とピアノのための協奏交響曲」(ソリストは阪田知樹)、ショーソンの「交響曲変ロ長調」というプログラム。コンサートマスターは四方恭子。
「ペネロープ」はあまりフォーレらしからぬ曲ながら、それでもフォーレはフォーレに違いなく、またショーソンの交響曲は昔ミュンシュ&ボストンのLPを聴いて感激して以来の大の愛聴曲。そしてフローラン・シュミットのそれは、私にとってはナマで全曲を聴くのが初めて━━というわけで、大いに楽しみにしていたのだが‥‥。
「協奏交響曲」は、魁偉といってもいいような曲だし、演奏する方も大変だったのではと思う。阪田知樹も都響も猛烈な勢いで取り組んでくれたことが感じられて、これは聴き手にとっても貴重な体験であった。
だが━━トルトゥリエの指揮に大きな疑問が残ったのは他の2曲だ。「ペネロープ」前奏曲は、不思議に分厚く物々しい響きの演奏になっていて、フォーレの清澄な叙情美は殊更に薄められていた。
更に疑問だらけだったのは、ショーソンの交響曲の方である。この曲は、もっと山あり谷あり、嵐あり安息ありの起伏に富んだ、劇的な流れを備えた作品ではなかったか? 都響がいい音を出していたので壮大感はあったものの、あのように全曲を一本調子で平板に指揮されては、全曲最後の安らぎにあふれた主題の再現さえ、全く効果を成さなくなるだろう。
話は別だが、昔「ニュース映画」というジャンルの華やかなりし頃、災害の報道の際に流れるBGMで、地震・火災・暴動・洪水などの場合には必ずマーラーの「巨人」の第4楽章冒頭が、そして竜巻のニュースの場合は必ずこのショーソンの「交響曲」の第3楽章冒頭が使われていたことをご記憶の方は、もう今どのくらい居られるだろうか?
ただし断っておくが、今日のトルトゥリエの指揮が、そういう意味での迫力を欠いていた、などと言っているのではない。
2023・2・13(月)鈴木秀美指揮神戸市室内管弦楽団東京公演
紀尾井ホール 7時
神戸文化ホールを拠点とする神戸市室内管弦楽団が、一昨年から音楽監督を務めている鈴木秀美とともに、このコンビとしては初めての東京公演を開催した。
このオーケストラの演奏は、その神戸文化ホールで2回聴いたことがある(☞2021年9月25日、☞2021年12月12日)。
ただそれらは、いずれも残響ゼロに近い中ホールにおいてだったため、オーケストラの真価を今一つ掴みかねていた(現在は大ホールに定期の会場を移している由)のだが、今回は室内オケに向いている紀尾井ホールで聴けたおかげで、響きにも厚みと明るさが加わっていて、このオーケストラをいっそう活力に富んだ団体として受容することができた次第である。コンサートマスターは高木和弘。
今回のプログラムは、前半にモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と、同じくセレナーデの「ナハトムジーク ハ短調」、後半にシュニトケの「モーツ・アルト・ア・ラ・ハイドン」およびプロコフィエフの「古典交響曲」という不思議な選曲だった(演奏会タイトルは「音の謎かけ」となっている)。
つまり、まずは弦楽合奏(指揮者なし、鈴木秀美はチェロのトップを弾く)と、管楽合奏(鈴木秀美指揮)の曲を置き、このオーケストラの各々のパートの良さを誇示するといった趣かと思われる。2曲とも演奏がすこぶる瑞々しく、聴き手を安らかな気持に誘うという良さをも溢れさせていた。
後半は、いずれも鈴木秀美が指揮。再びの弦楽合奏によるシュニトケでは、ヴァイオリンの高木和弘と森岡聡を中心に、奏者たちも立ち位置を移動したり、また照明演出も加えたりするなどの趣向も加え、この曲を面白く聴かせてくれた。
そして最後がフル編成による「古典交響曲」━━このアンサンブルについては多少の異論もなくはなかったものの、極めて音色も明るく、爽やかな雰囲気満載の演奏で、このオーケストラが持つ活気を充分に感じさせたことは確かである。
アンコールは、ハイドンの「交響曲第62番」の第2楽章で、この曲を取り上げた理由はマエストロからあれこれ説明があったけれども、何だかよく解らない。
総じて、指揮者と楽員とが和気藹々として、一体となって活動しているという雰囲気が感じられる、あたたかい演奏会であった。ティンパニ奏者として懐かしい菅原淳さんの顔が見え、「古典交響曲」第4楽章で小気味よいリズムを聴かせてくれたことも嬉しい。
室内管弦楽団は全国にも数多いが、このように鈴木秀美をシェフに迎え、また事務局の運営体制も強化して活動の規模を拡大しつつある楽団が一つ加わって来たのは、本当にうれしいことである。
なお、終演後に事務局からもらった「シーズンブック」には、年間の公演予定だけでなく、楽員の写真入り紹介、そして鈴木秀美音楽監督による「神戸市室内管弦楽団が使用する楽器について」というコラムも掲載されていた。こういう資料を、プログラムと一緒に聴衆に配布すれば、東京に未だ馴染みのない神戸のオーケストラへの関心ももっと深まるだろうに、と思う。
神戸文化ホールを拠点とする神戸市室内管弦楽団が、一昨年から音楽監督を務めている鈴木秀美とともに、このコンビとしては初めての東京公演を開催した。
このオーケストラの演奏は、その神戸文化ホールで2回聴いたことがある(☞2021年9月25日、☞2021年12月12日)。
ただそれらは、いずれも残響ゼロに近い中ホールにおいてだったため、オーケストラの真価を今一つ掴みかねていた(現在は大ホールに定期の会場を移している由)のだが、今回は室内オケに向いている紀尾井ホールで聴けたおかげで、響きにも厚みと明るさが加わっていて、このオーケストラをいっそう活力に富んだ団体として受容することができた次第である。コンサートマスターは高木和弘。
今回のプログラムは、前半にモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と、同じくセレナーデの「ナハトムジーク ハ短調」、後半にシュニトケの「モーツ・アルト・ア・ラ・ハイドン」およびプロコフィエフの「古典交響曲」という不思議な選曲だった(演奏会タイトルは「音の謎かけ」となっている)。
つまり、まずは弦楽合奏(指揮者なし、鈴木秀美はチェロのトップを弾く)と、管楽合奏(鈴木秀美指揮)の曲を置き、このオーケストラの各々のパートの良さを誇示するといった趣かと思われる。2曲とも演奏がすこぶる瑞々しく、聴き手を安らかな気持に誘うという良さをも溢れさせていた。
後半は、いずれも鈴木秀美が指揮。再びの弦楽合奏によるシュニトケでは、ヴァイオリンの高木和弘と森岡聡を中心に、奏者たちも立ち位置を移動したり、また照明演出も加えたりするなどの趣向も加え、この曲を面白く聴かせてくれた。
そして最後がフル編成による「古典交響曲」━━このアンサンブルについては多少の異論もなくはなかったものの、極めて音色も明るく、爽やかな雰囲気満載の演奏で、このオーケストラが持つ活気を充分に感じさせたことは確かである。
アンコールは、ハイドンの「交響曲第62番」の第2楽章で、この曲を取り上げた理由はマエストロからあれこれ説明があったけれども、何だかよく解らない。
総じて、指揮者と楽員とが和気藹々として、一体となって活動しているという雰囲気が感じられる、あたたかい演奏会であった。ティンパニ奏者として懐かしい菅原淳さんの顔が見え、「古典交響曲」第4楽章で小気味よいリズムを聴かせてくれたことも嬉しい。
室内管弦楽団は全国にも数多いが、このように鈴木秀美をシェフに迎え、また事務局の運営体制も強化して活動の規模を拡大しつつある楽団が一つ加わって来たのは、本当にうれしいことである。
なお、終演後に事務局からもらった「シーズンブック」には、年間の公演予定だけでなく、楽員の写真入り紹介、そして鈴木秀美音楽監督による「神戸市室内管弦楽団が使用する楽器について」というコラムも掲載されていた。こういう資料を、プログラムと一緒に聴衆に配布すれば、東京に未だ馴染みのない神戸のオーケストラへの関心ももっと深まるだろうに、と思う。
2023・2・12(日)新国立劇場のヴェルディ「ファルスタッフ」
新国立劇場オペラパレス 2時
2004年にハウス・プレミエされたジョナサン・ミラー演出によるプロダクション。
その後2007、2015、2018年にも上演されていたが、私はどうも最初と2番目(☞2007年6月13日の項)しか観ていなかったようで、舞台に関しては詳細な記憶がなかった。だが16年ぶりに改めて観てみると、さすがこれはジョナサン・ミラーの舞台らしいスピーディな動きにあふれ、無駄がなく引き締まっている。よく出来たプロダクションのように思う。
今回はコッラード・ロヴァーリスの指揮、東京交響楽団の演奏だったが、彼の穏健な指揮のもと、オケも音量は大きくはないものの比較的均整の取れた演奏を聴かせてくれた。
ただし肝心の第3幕での演奏が、前半部分で緊張感がやや希薄だったことを含め、同幕全体に何か昂揚感に不足しており、そのため弱者イジメをも笑い飛ばすファルスタッフの常人の枠に嵌らぬ存在を謳い上げるはずのこのオペラの性格━━シェイクスピア=ボーイト=ヴェルディが生んだこのオペラの凄さが、些か物足りぬ流れのままに終ったのが惜しい。これは、第一に指揮者に責任があるだろう。
題名役はパレルモ出身のニコラ・アライモで、馬力のある歌唱と演技がなかなかいい。
その他は、ホルヘ・エスピーノ(フォード)、村上公太(フェントン)、青地英幸(カイウス)、糸賀修平(パルドルフォ)、久保田真澄(ピストーラ)、ロベルタ・マンテーニャ(アリーチェ)、マリアンナ・ピッツォラート(クイックリー夫人)、脇園彩(メグ)、三宅理恵(ナンネッタ)という人々。黙役助演の柏木銀二(ガーター亭主人)と可愛い子供(木村日鞠)も存在感があった。
日曜日の公演の所為か、お客が結構入っていて、拍手もすこぶる大きい。
2004年にハウス・プレミエされたジョナサン・ミラー演出によるプロダクション。
その後2007、2015、2018年にも上演されていたが、私はどうも最初と2番目(☞2007年6月13日の項)しか観ていなかったようで、舞台に関しては詳細な記憶がなかった。だが16年ぶりに改めて観てみると、さすがこれはジョナサン・ミラーの舞台らしいスピーディな動きにあふれ、無駄がなく引き締まっている。よく出来たプロダクションのように思う。
今回はコッラード・ロヴァーリスの指揮、東京交響楽団の演奏だったが、彼の穏健な指揮のもと、オケも音量は大きくはないものの比較的均整の取れた演奏を聴かせてくれた。
ただし肝心の第3幕での演奏が、前半部分で緊張感がやや希薄だったことを含め、同幕全体に何か昂揚感に不足しており、そのため弱者イジメをも笑い飛ばすファルスタッフの常人の枠に嵌らぬ存在を謳い上げるはずのこのオペラの性格━━シェイクスピア=ボーイト=ヴェルディが生んだこのオペラの凄さが、些か物足りぬ流れのままに終ったのが惜しい。これは、第一に指揮者に責任があるだろう。
題名役はパレルモ出身のニコラ・アライモで、馬力のある歌唱と演技がなかなかいい。
その他は、ホルヘ・エスピーノ(フォード)、村上公太(フェントン)、青地英幸(カイウス)、糸賀修平(パルドルフォ)、久保田真澄(ピストーラ)、ロベルタ・マンテーニャ(アリーチェ)、マリアンナ・ピッツォラート(クイックリー夫人)、脇園彩(メグ)、三宅理恵(ナンネッタ)という人々。黙役助演の柏木銀二(ガーター亭主人)と可愛い子供(木村日鞠)も存在感があった。
日曜日の公演の所為か、お客が結構入っていて、拍手もすこぶる大きい。
2023・2・11(土)下野竜也指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団
横浜みなとみらいホール 2時
尾高惇忠の「ピアノ協奏曲」と、ブルックナーの「交響曲第6番」が演奏された。協奏曲のソリストは野田清隆、コンサートマスターは石田泰尚。
野田清隆は、今日の尾高の協奏曲を世界初演した人でもある。その時の演奏は私も聴いた(☞2016年3月4日の項)。良い意味で耳馴染みのいい曲だが、あの初演の時の演奏より、今日はいっそう強固で豪壮な演奏だったように感じられ、そのため作品自体も更に強靭な性格という印象を生んだ。
なお野田が弾いたソロ・アンコール曲は、同じく尾高の「音の海」からの「春の足音」という曲の由。
ブルックナーの「6番」は、私はこの曲の素朴な味が好きで━━「アラビアのロレンス」や「野生のエルザ」にそっくりのフシの第1主題があの独特のブルックナー・リズムに乗って物々しく大暴れするあたりは可笑しくてたまらない━━よく聴くのだが、今日も下野が厳しい造型の演奏を引き出し、神奈川フィルも、昔のこのオケからは聴けなかったような剛直な音をずしりずしりと響かせた。
ただ、今回の下野は不思議なほど曲の旋律線に重点を置いていたように━━つまりヴァイオリン群が硬質な音で主題を強奏するのが気になったのだが‥‥。ブルックナーの音楽では常にオルガン的な、重厚な和声感が優先されるものではないかと思うのだが如何なものだろう。
尾高惇忠の「ピアノ協奏曲」と、ブルックナーの「交響曲第6番」が演奏された。協奏曲のソリストは野田清隆、コンサートマスターは石田泰尚。
野田清隆は、今日の尾高の協奏曲を世界初演した人でもある。その時の演奏は私も聴いた(☞2016年3月4日の項)。良い意味で耳馴染みのいい曲だが、あの初演の時の演奏より、今日はいっそう強固で豪壮な演奏だったように感じられ、そのため作品自体も更に強靭な性格という印象を生んだ。
なお野田が弾いたソロ・アンコール曲は、同じく尾高の「音の海」からの「春の足音」という曲の由。
ブルックナーの「6番」は、私はこの曲の素朴な味が好きで━━「アラビアのロレンス」や「野生のエルザ」にそっくりのフシの第1主題があの独特のブルックナー・リズムに乗って物々しく大暴れするあたりは可笑しくてたまらない━━よく聴くのだが、今日も下野が厳しい造型の演奏を引き出し、神奈川フィルも、昔のこのオケからは聴けなかったような剛直な音をずしりずしりと響かせた。
ただ、今回の下野は不思議なほど曲の旋律線に重点を置いていたように━━つまりヴァイオリン群が硬質な音で主題を強奏するのが気になったのだが‥‥。ブルックナーの音楽では常にオルガン的な、重厚な和声感が優先されるものではないかと思うのだが如何なものだろう。
2023・2・9(木)マティアス・バーメルトと札響の東京公演
サントリーホール 7時
2018年から首席指揮者を務めているスイス出身の老練、マティアス・バーメルトが今年も東京公演を指揮。プログラムは、武満徹の「雨ぞふる」、モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」、シューベルトの「交響曲《ザ・グレイト》」。協奏曲のソリストはカール=ハインツ・シュッツ(ウィーン・フィルの奏者)と吉野直子。コンサートマスターは会田莉凡。
バーメルトの指揮する札幌交響楽団を聴くのは、これが3度目か4度目になるが、今夜の「ザ・グレイト」を聴くと、今や両者の呼吸が見事に合致しているという印象を受ける。
そして彼の指揮には、最近の若手や中堅の指揮者からはもう全く聴けなくなったようなタイプの、ヒューマンなあたたかさ、攻撃的にならずに音楽を愛でるといった姿勢が感じられる。一種の反時代的なスタイルと言えぬこともないが、しかしその音楽にみなぎりあふれる毅然たる剛直さは、彼がそのスタイルを自信満々押し通していることを示すものだろう。その頑固さは、やはり立派だ。
これほど懐かしい、心の休まるようなシューベルトを聴いたのはいつ以来か。アンコールで演奏した「ロザムンデ」のバレエ音楽の一節も、言葉につくせぬほど温かいものだった。バーメルトの指揮に対する札響の反応も、完璧だった。
武満作品をプログラムに加えたのは、この作曲家に縁の深い札響としては当然の姿勢だろう。ただしこの曲を初めて演奏したのはつい最近、バーメルトの指揮によってだというから、意外だ。
コンチェルトでは、シュッツが伸びやかなモーツァルトを聴かせたが、吉野直子の方は(音量的にも)少し控えめに協演したか。アンコールで演奏したイベールの「間奏曲」が爽やかだった。
「ザ・グレイト」の第2楽章が終った時、2階席の真ん中あたりから発音不明瞭な大声と拍手(それも長い)が飛んだのには驚いた。「オーボエさん、お見事!」と言ったような気がしたが、定かではない。いずれにせよ、たしかに今日の第2楽章のオーボエ(関美矢子さんか?)は素晴らしかった。
2018年から首席指揮者を務めているスイス出身の老練、マティアス・バーメルトが今年も東京公演を指揮。プログラムは、武満徹の「雨ぞふる」、モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」、シューベルトの「交響曲《ザ・グレイト》」。協奏曲のソリストはカール=ハインツ・シュッツ(ウィーン・フィルの奏者)と吉野直子。コンサートマスターは会田莉凡。
バーメルトの指揮する札幌交響楽団を聴くのは、これが3度目か4度目になるが、今夜の「ザ・グレイト」を聴くと、今や両者の呼吸が見事に合致しているという印象を受ける。
そして彼の指揮には、最近の若手や中堅の指揮者からはもう全く聴けなくなったようなタイプの、ヒューマンなあたたかさ、攻撃的にならずに音楽を愛でるといった姿勢が感じられる。一種の反時代的なスタイルと言えぬこともないが、しかしその音楽にみなぎりあふれる毅然たる剛直さは、彼がそのスタイルを自信満々押し通していることを示すものだろう。その頑固さは、やはり立派だ。
これほど懐かしい、心の休まるようなシューベルトを聴いたのはいつ以来か。アンコールで演奏した「ロザムンデ」のバレエ音楽の一節も、言葉につくせぬほど温かいものだった。バーメルトの指揮に対する札響の反応も、完璧だった。
武満作品をプログラムに加えたのは、この作曲家に縁の深い札響としては当然の姿勢だろう。ただしこの曲を初めて演奏したのはつい最近、バーメルトの指揮によってだというから、意外だ。
コンチェルトでは、シュッツが伸びやかなモーツァルトを聴かせたが、吉野直子の方は(音量的にも)少し控えめに協演したか。アンコールで演奏したイベールの「間奏曲」が爽やかだった。
「ザ・グレイト」の第2楽章が終った時、2階席の真ん中あたりから発音不明瞭な大声と拍手(それも長い)が飛んだのには驚いた。「オーボエさん、お見事!」と言ったような気がしたが、定かではない。いずれにせよ、たしかに今日の第2楽章のオーボエ(関美矢子さんか?)は素晴らしかった。
2023・2・8(水)新国立劇場のワーグナー:「タンホイザー」
新国立劇場オペラパレス 5時
2007年にプレミエされたハンス=ペーター・レーマン演出のプロダクションで、舞台にかかるのはこれが4度目になる。5回上演の今日は3日目。ドレスデン版とパリ版の折衷版による演奏だ。
今回はアレホ・ペレス指揮の東京交響楽団に、歌手陣はステファン・グールド(タンホイザー)、サビーナ・ツヴィラク(エリーザベト)、エグレ・シドラウスカイテ(ヴェーヌス)、妻屋秀和(領主ヘルマン)、デイヴィッド・スタウト(ヴォルフラム)、鈴木准(ヴァルター)、青山貴(ビーテロルフ)、今尾滋(ハインリヒ)、後藤春馬(ラインマル)、前川依子(牧童)他という顔ぶれ。
このプロダクション、美点も数々あることはあるのだが、なんせ第2幕後半での大幅カット(ドーヴァー版フルスコアで言えば315~327頁)が承服できず、また第1幕のパリ版による「バッカナーレ」がのんびりした振付のバレエになっているのも不満で━━それらについては、既に過去の上演の際(☞2007年10月8日、☞2013年1月23日、☞2019年2月6日)の項で散々文句を並べたので、もう繰り返すのはやめよう。
それにしても指揮者はもう4人目、こういう乱暴なカットをやるのを承知で引き受けたのだろうか?
今回の指揮者アレホ・ペレスは、ザルツブルク祝祭での「ファウスト」、東京での「魔弾の射手」、読響への客演など、これまでに3度ばかり聴く機会があったが、いずれの場合も歯切れのいい闊達な指揮をする人だったという印象があった。
だが今回は叙情性に重点を置いた指揮で、テンポもあまり調整しないので、第1幕の「バッカナーレ」でも狂乱の宴といった音楽にならず、同幕大詰めの騎士たちの感情も昂揚せず、第3幕では破滅へ突き進むタンホイザーとそれを必死で制止するヴォルフラムとの場面でもさほど劇的緊迫感も生まれず━━といった具合で、これまでとの違いに戸惑わされた。
ただし、今回もピットに入った東京交響楽団は、過去の3度の演奏の時よりも格段に整った均衡の音になっていたのは有難い。しかしいずれにしても、ワーグナーものにしては、音がかぼそい。以前から感じているのだが、そもそも、この劇場のオーケストラ・ピットは「低すぎる」のではないか。低音域も響いて来ないので、重量感が皆無ということになってしまうのだ。オペラにおけるオーケストラの役割は、伴奏ではない。特にワーグナーの場合には、オーケストラは第一の主役なのである。
歌手陣は快調。タンホイザー役のグールドは、過去3度の上演の題名役に比して圧倒的に強力だ。日本勢も、巨漢のグールドに対して領主ヘルマン役の妻屋秀和は一歩も退かぬ押し出しと重量感のある声で応酬した。エリーザベトのツヴィラクは、希望に燃えた元気溌剌の「歌の殿堂」から、絶望に沈む「エリーザベトの祈り」までの感情の変化を巧く表現したとみていいだろう。
タンホイザーから「狂える狼」と罵られるビーテロルフを、あの青山貴が見事に荒っぽく、ケンカ腰で演じているのも秀逸だった。
2007年にプレミエされたハンス=ペーター・レーマン演出のプロダクションで、舞台にかかるのはこれが4度目になる。5回上演の今日は3日目。ドレスデン版とパリ版の折衷版による演奏だ。
今回はアレホ・ペレス指揮の東京交響楽団に、歌手陣はステファン・グールド(タンホイザー)、サビーナ・ツヴィラク(エリーザベト)、エグレ・シドラウスカイテ(ヴェーヌス)、妻屋秀和(領主ヘルマン)、デイヴィッド・スタウト(ヴォルフラム)、鈴木准(ヴァルター)、青山貴(ビーテロルフ)、今尾滋(ハインリヒ)、後藤春馬(ラインマル)、前川依子(牧童)他という顔ぶれ。
このプロダクション、美点も数々あることはあるのだが、なんせ第2幕後半での大幅カット(ドーヴァー版フルスコアで言えば315~327頁)が承服できず、また第1幕のパリ版による「バッカナーレ」がのんびりした振付のバレエになっているのも不満で━━それらについては、既に過去の上演の際(☞2007年10月8日、☞2013年1月23日、☞2019年2月6日)の項で散々文句を並べたので、もう繰り返すのはやめよう。
それにしても指揮者はもう4人目、こういう乱暴なカットをやるのを承知で引き受けたのだろうか?
今回の指揮者アレホ・ペレスは、ザルツブルク祝祭での「ファウスト」、東京での「魔弾の射手」、読響への客演など、これまでに3度ばかり聴く機会があったが、いずれの場合も歯切れのいい闊達な指揮をする人だったという印象があった。
だが今回は叙情性に重点を置いた指揮で、テンポもあまり調整しないので、第1幕の「バッカナーレ」でも狂乱の宴といった音楽にならず、同幕大詰めの騎士たちの感情も昂揚せず、第3幕では破滅へ突き進むタンホイザーとそれを必死で制止するヴォルフラムとの場面でもさほど劇的緊迫感も生まれず━━といった具合で、これまでとの違いに戸惑わされた。
ただし、今回もピットに入った東京交響楽団は、過去の3度の演奏の時よりも格段に整った均衡の音になっていたのは有難い。しかしいずれにしても、ワーグナーものにしては、音がかぼそい。以前から感じているのだが、そもそも、この劇場のオーケストラ・ピットは「低すぎる」のではないか。低音域も響いて来ないので、重量感が皆無ということになってしまうのだ。オペラにおけるオーケストラの役割は、伴奏ではない。特にワーグナーの場合には、オーケストラは第一の主役なのである。
歌手陣は快調。タンホイザー役のグールドは、過去3度の上演の題名役に比して圧倒的に強力だ。日本勢も、巨漢のグールドに対して領主ヘルマン役の妻屋秀和は一歩も退かぬ押し出しと重量感のある声で応酬した。エリーザベトのツヴィラクは、希望に燃えた元気溌剌の「歌の殿堂」から、絶望に沈む「エリーザベトの祈り」までの感情の変化を巧く表現したとみていいだろう。
タンホイザーから「狂える狼」と罵られるビーテロルフを、あの青山貴が見事に荒っぽく、ケンカ腰で演じているのも秀逸だった。
2023・2・5(日)文楽スタイルの試み「田舎の騎士道」「道化師」
東京芸術劇場 コンサートホール 2時
「田舎の騎士道」とはもちろんあのマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」のことである。これとレオンカヴァッロの「道化師」を併せての定番ダブルビルが「東京芸術劇場シアター・オペラvol.16」として上演された。
演出には、宝塚歌劇団の演出家として昨年まで活動した上田久美子が起用された。その舞台は、頗る面白い。「文楽スタイルの試み」として、太夫(浄瑠璃語り)と人形遣い━━つまり演奏者と演技者とが別━━の分担のイメージを適用し、主役陣には歌手と演技者とを別々に存在させた舞台構成が試みられているのである。
とはいっても、文楽とは異なり、演奏者と演技者とが画然と分かれるのではなく、全員が同じ空間に存在し、しかも歌手陣も演技し、時には各々の「歌手」と「演技者」が互いに交錯してドラマを展開するという、おそろしく凝った手法が採られているのが特徴と言えよう。
また、「田舎の騎士道」のラストシーンでは歌手2人と、演技者2人が各々決闘する光景が見られる(後者での若者2人が現代的な乱闘をするのが傑作)が、「道化師」では、予想に反して客席で歌手3人が入り乱れて2人が斃れ、演技者たちは舞台で茫然とその光景を見守るという、混み入った解釈が採られる例も見られる。
しかも歌手たちの歌唱は、背景に投映されるイタリア・オペラとしての正統的な日本語・英語の字幕と呼応し、いっぽう演技者たちの「心の」会話は、舞台装置に投映される関西弁の字幕と呼応するという、これも凝った試みだ。
正規の字幕もよく出来ているが、関西弁の字幕の方は砕けまくった文体で、これまた秀逸なので、そちらの方に眼が行ってしまう。結局、観客は、歌手陣の演技、演技者たちの演技、正規の字幕、関西弁の字幕━━と、この4つの部分に目を動かしてしまうことになる。少々慌ただしいけれども、それはそれで面白い。
なぜ関西弁なのかという理由は定かでないが、そこはこの2作が所謂ヴェリズモ・オペラ(現実主義オペラ)であることや、ともに田舎で繰り広げられるドラマであるということから、場外乱闘的なアイディアとして成立するだろう。
聴き慣れ、見慣れた(もちろん、初めて観る人も多いだろうが、それはそれとして)名作オペラをいつまでもありふれた手法で上演し続けるより、このような新しい試みを加えて上演する姿勢を、私は大いに歓迎したい。特に、日本の舞台芸術の手法で西洋の芸術を新鮮に蘇生させるという試みを、私は絶対に支持する。
かつて若杉弘氏が、日本のワーグナー上演の舞台を見たヴォルフガング・ワーグナーやグスタフ・ルドルフ・ゼルナーから提言されたという「よくやっているなあ。感心する。でも、なぜヨーロッパ人の真似をするのか。日本には歌舞伎という素晴らしい芸術があるではないか。その手法をオペラに応用したら、きっと面白いものができるはずだ。テクニックがあったら、やってみたいね」という言葉(これは若杉氏本人から聞いた)が、私はいつまでも忘れられないのである。
なお、今回の上田久美子の演出で評価したいのは、所謂伝統的なオペラ・スタイルに遠慮せずに、自己の手法を押し通したということだ。過去に、アウトジャンルから呼ばれてオペラを手がけた演出家たちは、たいていこの「遠慮」で失敗している。多くの演出家は、こういった新機軸を、遠慮なく試みていただきたいのである。
歌手陣が素晴らしかった。トゥリッドゥと道化師カニオの両役を歌ったアントネッロ・パロンビの力感に満ちた歌唱は見事だった。
そして「カヴァレリア・ルスティカーナ(田舎の道化師)」では、テレサ・ロマーノ(サントゥッツァ)、鳥木弥生(ローラ)、三戸大久(アルフィオ)、森山京子(ルチア)が、「道化師」では柴田紗貴子(ネッダ)、清水勇磨(トニオ)、中井亮一(ペッペ)、高橋洋介(シルヴィオ)が、みんな朗々たる歌唱を聴かせてくれた(演技者陣のお名前は、申し訳ないが割愛させていただく)。
合唱のザ・オペラ・クワイアも賑やかな演技を加えて好演。編成の大きな読売日本交響楽団が実に小気味よい壮大な鳴りっぷりを披露、指揮者アッシャー・フィッシュが鮮やかにドラマティックな音楽を構築した。
「田舎の騎士道」とはもちろんあのマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」のことである。これとレオンカヴァッロの「道化師」を併せての定番ダブルビルが「東京芸術劇場シアター・オペラvol.16」として上演された。
演出には、宝塚歌劇団の演出家として昨年まで活動した上田久美子が起用された。その舞台は、頗る面白い。「文楽スタイルの試み」として、太夫(浄瑠璃語り)と人形遣い━━つまり演奏者と演技者とが別━━の分担のイメージを適用し、主役陣には歌手と演技者とを別々に存在させた舞台構成が試みられているのである。
とはいっても、文楽とは異なり、演奏者と演技者とが画然と分かれるのではなく、全員が同じ空間に存在し、しかも歌手陣も演技し、時には各々の「歌手」と「演技者」が互いに交錯してドラマを展開するという、おそろしく凝った手法が採られているのが特徴と言えよう。
また、「田舎の騎士道」のラストシーンでは歌手2人と、演技者2人が各々決闘する光景が見られる(後者での若者2人が現代的な乱闘をするのが傑作)が、「道化師」では、予想に反して客席で歌手3人が入り乱れて2人が斃れ、演技者たちは舞台で茫然とその光景を見守るという、混み入った解釈が採られる例も見られる。
しかも歌手たちの歌唱は、背景に投映されるイタリア・オペラとしての正統的な日本語・英語の字幕と呼応し、いっぽう演技者たちの「心の」会話は、舞台装置に投映される関西弁の字幕と呼応するという、これも凝った試みだ。
正規の字幕もよく出来ているが、関西弁の字幕の方は砕けまくった文体で、これまた秀逸なので、そちらの方に眼が行ってしまう。結局、観客は、歌手陣の演技、演技者たちの演技、正規の字幕、関西弁の字幕━━と、この4つの部分に目を動かしてしまうことになる。少々慌ただしいけれども、それはそれで面白い。
なぜ関西弁なのかという理由は定かでないが、そこはこの2作が所謂ヴェリズモ・オペラ(現実主義オペラ)であることや、ともに田舎で繰り広げられるドラマであるということから、場外乱闘的なアイディアとして成立するだろう。
聴き慣れ、見慣れた(もちろん、初めて観る人も多いだろうが、それはそれとして)名作オペラをいつまでもありふれた手法で上演し続けるより、このような新しい試みを加えて上演する姿勢を、私は大いに歓迎したい。特に、日本の舞台芸術の手法で西洋の芸術を新鮮に蘇生させるという試みを、私は絶対に支持する。
かつて若杉弘氏が、日本のワーグナー上演の舞台を見たヴォルフガング・ワーグナーやグスタフ・ルドルフ・ゼルナーから提言されたという「よくやっているなあ。感心する。でも、なぜヨーロッパ人の真似をするのか。日本には歌舞伎という素晴らしい芸術があるではないか。その手法をオペラに応用したら、きっと面白いものができるはずだ。テクニックがあったら、やってみたいね」という言葉(これは若杉氏本人から聞いた)が、私はいつまでも忘れられないのである。
なお、今回の上田久美子の演出で評価したいのは、所謂伝統的なオペラ・スタイルに遠慮せずに、自己の手法を押し通したということだ。過去に、アウトジャンルから呼ばれてオペラを手がけた演出家たちは、たいていこの「遠慮」で失敗している。多くの演出家は、こういった新機軸を、遠慮なく試みていただきたいのである。
歌手陣が素晴らしかった。トゥリッドゥと道化師カニオの両役を歌ったアントネッロ・パロンビの力感に満ちた歌唱は見事だった。
そして「カヴァレリア・ルスティカーナ(田舎の道化師)」では、テレサ・ロマーノ(サントゥッツァ)、鳥木弥生(ローラ)、三戸大久(アルフィオ)、森山京子(ルチア)が、「道化師」では柴田紗貴子(ネッダ)、清水勇磨(トニオ)、中井亮一(ペッペ)、高橋洋介(シルヴィオ)が、みんな朗々たる歌唱を聴かせてくれた(演技者陣のお名前は、申し訳ないが割愛させていただく)。
合唱のザ・オペラ・クワイアも賑やかな演技を加えて好演。編成の大きな読売日本交響楽団が実に小気味よい壮大な鳴りっぷりを披露、指揮者アッシャー・フィッシュが鮮やかにドラマティックな音楽を構築した。
2023・2・4(土)芥川龍之介の作品によるオペラ
デヴィッド・ラング作曲「Note to a friend」日本初演
東京文化会館小ホール 3時
日本の文豪の作品がオペラになった一例。
これはニューヨークの「ジャパン・ソサエティー」と東京文化会館の共同委嘱により、現代作曲家デヴィッド・ラングが作曲した1時間程度の長さのオペラで、去る1月12日にニューヨークで世界初演されたもの。芥川龍之介の「或旧友へ送る手記」「点鬼簿」「藪の中」を素材に、ラング自身が台本も書いた。
今回の日本初演では、セオ・ブレックマン(ヴォーカル)とサイラス・モシュレフィ(演技のみ)が出演、笈田ヨシが演出、ステージ・デザインをトム・シェンクが担当。英語上演で、日本語字幕付。演奏はヴァイオリンの成田達輝と関朋岳、ヴィオラの田原綾子、チェロの上村文乃という顔ぶれであった。
もともと小さいステージだが、演技空間はその前面のみに限られ、日常的な小道具のある部屋でブレックマンが「死んだ男」として登場し歌い、モシュレフィが聞き役に回る。
登場人物に名前はないが、話されることは専ら「自死」についてであり、それをめぐって「自分」の家族についても話が及ぶ。諸々指摘される通り、考えさせられるところの多い深遠な内容であることは確かだが、ただしそれは聴き手の年齢によって受容の仕方も異なって来るのも事実なのだ。
弦楽四重奏は背景に位置しており、客席からは見えないが、そこから響いて来るラングの鋭角的ながら耳馴染みの悪くない音楽は、すこぶる印象深いものがある。ヴォーカルは最後まで独りだから、事実上のモノ・オペラということになり、このジャンルにまた一つ注目作が加わったと言っても間違いではなかろう。
それにしても、日本の文豪の作品をオペラ化するにあたり、このような深淵な思索的な素材が選ばれるというところが興味深いが、それはやはり「東洋の神秘」という昔からのイメージの名残か? いずれにせよ、悪いことではない。
日本の文豪の作品がオペラになった一例。
これはニューヨークの「ジャパン・ソサエティー」と東京文化会館の共同委嘱により、現代作曲家デヴィッド・ラングが作曲した1時間程度の長さのオペラで、去る1月12日にニューヨークで世界初演されたもの。芥川龍之介の「或旧友へ送る手記」「点鬼簿」「藪の中」を素材に、ラング自身が台本も書いた。
今回の日本初演では、セオ・ブレックマン(ヴォーカル)とサイラス・モシュレフィ(演技のみ)が出演、笈田ヨシが演出、ステージ・デザインをトム・シェンクが担当。英語上演で、日本語字幕付。演奏はヴァイオリンの成田達輝と関朋岳、ヴィオラの田原綾子、チェロの上村文乃という顔ぶれであった。
もともと小さいステージだが、演技空間はその前面のみに限られ、日常的な小道具のある部屋でブレックマンが「死んだ男」として登場し歌い、モシュレフィが聞き役に回る。
登場人物に名前はないが、話されることは専ら「自死」についてであり、それをめぐって「自分」の家族についても話が及ぶ。諸々指摘される通り、考えさせられるところの多い深遠な内容であることは確かだが、ただしそれは聴き手の年齢によって受容の仕方も異なって来るのも事実なのだ。
弦楽四重奏は背景に位置しており、客席からは見えないが、そこから響いて来るラングの鋭角的ながら耳馴染みの悪くない音楽は、すこぶる印象深いものがある。ヴォーカルは最後まで独りだから、事実上のモノ・オペラということになり、このジャンルにまた一つ注目作が加わったと言っても間違いではなかろう。
それにしても、日本の文豪の作品をオペラ化するにあたり、このような深淵な思索的な素材が選ばれるというところが興味深いが、それはやはり「東洋の神秘」という昔からのイメージの名残か? いずれにせよ、悪いことではない。