2023-12

2023年4月 の記事一覧




2023・4・29(土)インキネン、首席指揮者としての最終東京定期

       サントリーホール  2時

 日本フィルハーモニー交響楽団の4月東京定期。
 2009年9月より首席客演指揮者、2016年9月からは首席指揮者のポストに在ったフィンランドの俊英ピエタリ・インキネンが、今シーズンを以て退任。今日がその東京最終定期となった。ただし、埼玉と横浜では5月にも彼が指揮するベートーヴェンの「第9」による定期があり、東京でも同じプロによる「名曲コンサート」)がある(19~21日)。

 この東京最終定期では、満を持して、というか、最後だから、と言うのか、シベリウスの大作「クレルヴォ交響曲」がプログラムに組まれた。そしてインキネンの強い要望により、合唱にはヘルシンキ大学男声合唱団がこの定期のために招聘された。
 経済的に苦しい自主運営のオーケストラが、よくまあこんな大勢の合唱団をフィンランドから招いたものである。

 だが、招聘しただけのことはあった。彼らのフィンランド語歌詞の響きを生かした歌唱による演奏の確かさ、深みと底力のある歌唱は、如何に日本の合唱団が技術的に上手くても、なかなか達しえないものであろう。敢えて言えば、今日の主役の座は、このヘルシンキから来た合唱団が攫ってしまったに等しかった(合唱の一部には東京音楽大学の合唱団も加わっていた)。

 日本フィル(コンサートマスターは扇谷泰朋)は、実に丁寧に、立派にこの「クレルヴォ交響曲」を演奏したが、不思議なことに、また惜しいことに、シベリウスの音楽が放射するあの独特の翳りの濃い郷愁にも似た深い情感があまり感じられないままに終ってしまった。この辺が、俊英とはいえ未だ若い指揮者インキネンの一種の限界のようなもの、と言えるのかもしれない。

 声楽ソリストには、これもフィンランドのヴィッレ・ルサネン(Br)とヨハンナ・ルサネン(S)とが招聘されていた。前者は力強いバリトンで野人クレルヴォの役柄を適格に歌ってくれたが、ヨハンナの方はまるでブリュンヒルデのようなドラマティック・ソプラノで、いくら北方の伝説上の女性とはいえ、この悲劇の「妹」役としては些か物々しい表現に過ぎたようである。

 今日はこれ1曲。終演後にはインキネンに花束が贈られた。客席の拍手は合唱団にも送られたが、インキネンにはソロ・カーテンコールも贈られていた。

2023・4・27(木)グザヴィエ・ドゥ・メストレ ハープ・リサイタル

        紀尾井ホール  7時

 元ウィーン・フィルのハープ奏者、グザヴィエ・ドゥ・メストレが来日してリサイタルを行なった。
 ペシェッティの「ソナタ ハ短調」、デュセックの「ソナタ作品35-3」、タレガの「アルハンブラの思い出」、ファリャの「スペイン舞曲」、フォーレの「即興曲作品86」、グラナドスの「詩的なワルツ集」、ドビュッシーの「アラベスク第1番」、ルニエの「伝説」というプログラムで、アンコールはゴドフロワの「ヴェニスの謝肉祭」とドビュッシーの「月の光」だった。

 昔はテクニックを駆使してバリバリ弾いて見せるといった感もあった彼だったが、流石に最近はそんな雰囲気も薄れて来たようである。だが、とにかく上手い。

 彼の演奏はパンチが強いというか、全ての音がまるで琴のそれのように粒立って明晰で、キリリと引き締まっている。往年の名手たちのような、玲瓏たる夢幻的なハープの音色からは遠いところにある。
 それはそれで一つのスタイルだろうから、とやかく言うことはないだろうけれども、ただ疑問なのは、どの作曲家のどの曲も、程度の差はあるにしても、概して同じような音色と表情で弾かれてしまうことで、そのためずっと聴いていると、何か単調な印象を与えられてしまうのだ。

 とはいえ、アンリエット・ルニエの「伝説」のような劇的で起伏の大きな曲になると、彼のハープは余人の及ばぬほどの見事な迫力を発揮、作品に雄弁なドラマ性を備えさせる。これは、今夜の圧巻であった。

2023・4・25(火)METライブビューイング「ローエングリン」

       東劇  5時30分

 3月18日にメトロポリタン・オペラで上演されたワーグナーの「ローエングリン」。
 フランソワ・ジラール演出による新プロダクションで、指揮はヤニック・ネゼ=セガン、主役歌手陣はピョートル・ベチャワ(ローエングリン)、タマラ・ウィルソン(エルザ)、クリスティーン・ガーキー(オルトルート)、エフゲニー・ニキーチン(フリードリヒ・フォン・テルラムント)、ギュンター・グロイスベック(ハインリヒ国王)。

 注目していたジラールの演出だが、前奏曲のクライマックスで、背景に輝いていた惑星が大爆発するというシーンがあり、それがのちの物語に何か大きな影響を及ぼすのかと思ったが、そうでもないようだった。また、最初はローエングリンが宇宙のどこからか出現したようなイメージがなくもなかったが、これもまたはっきりしない。

 大詰め場面では、ゴットフリート(エルザの弟)が出現したあとも、ローエングリンは背景の高所に佇んだままで、「宇宙の彼方」に去って行くわけでもなく、前景にいるオルトルートの反応なども、群衆の雑然たる光景の中に埋もれ気味になってしまう。合唱は概してステージに直立したままで歌うが、これも昔ヴィーラント・ワーグナーがやった手法と同じだろう。
 どうもこのジラール演出のワーグナー、第1弾の「パルジファル」(☞2013年2月15日)は良かったものの、その後の「さまよえるオランダ人」といい、今回のこれといい、何か冴えない印象を残す。

 ただ、彼の舞台は映像に絡めた構築を特徴とするので、実際にナマで視ないとその良さが感じられないかもしれない。私の体験でも、「パルジファル」は、METの劇場で観たものと、ライブビューイングの映像で観たものとは、かなり印象が異なったからである。

 満足すべき出来だったのは音楽面だ。第一にネゼ=セガンの指揮。ワーグナーが巧みに構成した「場面に応じた音楽の起伏」を実に見事に再現し、特にその後期の作風を予告する第2幕では、至るところに出て来る「禁問の動機」を多彩に表情豊かに響かせ、ドラマの核心をオーケストラで明確に表現してみせた。この人、本当に成長したものだと思う。

 歌手陣では、何といっても強烈な個性を示していたのがオルトルート役のクリスティーン・ガーキーだ。今回は悪女のメイクで、第2幕の幕切れシーンでのエルザを呪う表情など、なかなか物凄いものがあったし、ドラマティックな歌唱でも群を抜いていた(5月の「エレクトラ」が楽しみである)。

 ベチャワも明朗なローエングリンを聴かせたが、容貌と服装(ワイシャツ)の所為もあってか、あまり「別世界から来た謎の男」というイメージを感じさせないのが良し悪しか。
 エルザ役のウィルソンは、声は美しい。テルラムントのニキーチンはかなり貫録を増したが、悪妻に唆されて身を誤る男の苦悩の表現は今一つ。

 第2幕後半での、王の伝令に鼓舞される男声合唱はノーカットで歌われたが、第3幕のローエングリンの「遥かな国」のあとの長いアンサンブルは、慣例に従ったのかカットされていた。ノーカット主義のMETとしては珍しいことである。

 終映は10時30分。

2023・4・24(月)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィル ブルックナー4番

      サントリーホール  7時

 これも東京シティ・・フィルハーモニック管弦楽団の特別演奏会。ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」1曲のみだが、先日の「8番」同様、入魂の演奏で一夜をたっぷりと満たしてくれた。今日のコンサートマスターは客演の荒井英治。

 「8番」の時もそうだったが、飯守がブルックナーを振ると、シティ・フィルは「恐るべきオーケストラ」になる。それはやはり最近の飯守の凄さ、彼がついに到達したカリスマ的な芸風の為せるわざでもあろうが、その一方で、常任指揮者・高関健により整備されて来たこのオーケストラの演奏水準の向上が大きく作用していることを見逃がしてはなるまい。

 今日の「4番」、飯守の気魄を受けとめたシティ・フィルは、強靭な意志をみなぎらせた演奏を繰り広げた。それはこの曲についている「ロマンティック」などという曖昧なニックネームにこだわらない、もっと闘争的な意志力を爆発させるような演奏ではなかったか。第3楽章でのクレッシェンドの物凄さなど、日本のオーケストラからは滅多に聴けないものであった。

 それにしても、これだけいい演奏会なのに、客の入りが半分強という状態だったのは、あまりに残念だ。先日の「8番」の時も6割ちょっとという状態だったが━━。ただ、拍手とブラボーの大きさは、本当に熱心なお客さんが集まっていたことを示すものではあったが。飯守泰次郎の芸術は、今がまさに旬であり、聴くのは今である。

2023・4・23(日)クシシュトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団

        東京オペラシティ コンサートホール  2時

 メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」序曲に始まり、ヤン・リシエツキをソリストにショパンの「ピアノ協奏曲第2番」、最後にドヴォルジャークの「新世界交響曲」というプログラム。
 日曜午後の名曲プログラムとあって、客席はほぼいっぱいの入りだ。平均年齢層は高いようだが、コロナを乗り越えた(感のある)今、客の出足が復活したというのは、何を措いても目出たいことである。

 ウルバンスキ、この東京響の首席客演指揮者に就任したのがもう10年前になるが、たった3年しか続かなかったのが残念だ。相変わらず切れ味鋭い個性的な指揮を聴かせてくれる。今日のハイライトは━━もちろん進境著しいリシエツキのショパンも実に、実に魅力的だったけれど━━それ以上にスリリングだったのは「新世界交響曲」だった。

 これほど面白い「新世界」に出会ったことは滅多にない。ウルバンスキはアメリカでドヴォルジャークの自筆譜に触れ、多くの新鮮なアイディアを得たと語っているそうだが、今日の演奏のどの個所がそれに当たるのかは、定かでない。彼自身の解釈が織り込まれている個所も多いだろう。
 だがアクセントの付け方、フレーズの歌わせ方など、至るところに聴き慣れない扱いが施されていて、その悉くが新鮮な魅力を感じさせるのである。

 第2楽章の終り近く(第107~109小節)の各フェルマータを驚くほど長く設定して謎めいた神秘性=郷愁を感じさせたり、第4楽章のただ1回のシンバルを特殊な叩き方にさせたり(これは意図的なものだったと思うが、とにかく結果的に異様な感を与えたのは確かである)したのは、目立った例に過ぎない。第4楽章コーダでの追い込みの巧さにも感心させられた。

 第2楽章で有名な主題を吹くイングリッシュホルンを下手側の3階席で吹かせたのには驚いたが━━実は1階席からはそれが見えなかったので、音の響きからすると木管群の下手寄りに位置していたのではないか(それだけでも風変わりなことだし)と思い込んでいたのだ。カーテンコールで奏者が3階席から顔を覗かせたので、初めてそれと知った次第である。

 これら精妙な手法に、東京響(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)は巧みに反応していた。極めてフレッシュな「新世界交響曲」だった。ウルバンスキには、もっと繁く来てもらいたいものだ。

2023・4・22(土)尾高忠明指揮大阪フィルのヴェルディ「レクイエム」

       フェスティバルホール  3時

 先週(4月15日)も驚異的な充実のブラームスを聴かせてくれた絶好調の尾高と大阪フィル。今回も期待通り、量感たっぷりの「ヴェルレク」を響かせた。
 「怒りの日」の大太鼓は2本のスティックで豪打されるという強烈さだったが、全体には尾高らしく均整を重視したシンフォニックな「レクイエム」として構築されているように感じられる。田崎尚美、池田香織、宮里直樹、平野和という強力な声楽ソリスト陣と、福島章恭の率いる大阪フィルハーモニー合唱団と、崔文洙をコンサートマスターとする大阪フィルとが、尾高の精妙緻密な制御のもと、宏大なフェスティバルホールの空間を豊かに満たした演奏であった。

 実際、この曲がこれほど短く感じられたことはかつてなかったことで、それは尾高の指揮が、曲全体を自由放埓な「華麗な歌のレクイエム」に陥らせず、がっちりと引き締めていたためでもあったろう。

 いつものように上手側の高所のバルコニー・ボックス席で聴いたが、ステージ奥に並んだ大編成の合唱団と、オーケストラピットの位置にあたるステージ前面のぎりぎりまで並んでいたオーケストラのバランスも絶妙で、曲の冒頭部分からしてその量感の豊かさに魅了された。今回の合唱は出色の出来だったと思う。ただ、この位置から聴くと、ステージ最前方に位置した声楽ソリストたちの声が、少し飽和的に聞こえてしまう。

2023・4・21(金)トレヴァー・ピノック指揮紀尾井ホール室内管

       紀尾井ホール  7時

 30年前までピリオド楽器のオーケストラ「イングリッシュ・コンサート」を率いていた名指揮者トレヴァー・ピノック。昨年4月からこの紀尾井ホール室内管弦楽団の首席指揮者に迎えられている。
 昨年9月のその就任記念定期は残念ながら聴けなかったが、以前にも何度か彼がこのオケに客演指揮した時にも聴く機会があったし、しかもそれらすべてがスリリングな演奏だったので、今回は如何に、と大いなる期待を抱いて聴きに参上した次第だ。

 プログラムは、第1部にシューベルトの「イタリア風序曲ニ長調D590」とモーツァルトの「交響曲ニ長調《ハフナー》」、第2部にシューベルトの「交響曲ハ長調《ザ・グレイト》」。コンサートマスターは千々岩英一。2回公演の今日は初日である。

 予想通り、極めて刺激的な、尖った、凄まじく活気のある演奏だ。気魄に燃え立った闘争的な演奏━━というのもおかしな表現だが、要するにそういう猛烈な勢いに満ちた演奏だったのである。叩きつけるようなアクセント、激烈な最強奏、冷徹に澄んだカンタービレ。

 それゆえアンサンブルは些か粗っぽくなってはいたが、最初の序曲ではガサガサしていたアンサンブルも、「ハフナー」では第3楽章からしなやかな音色を取り戻したし、「ザ・グレイト」も第3楽章を境に合奏の均衡を取り戻していたところなどからみると、結局はオーケストラの「慣れ」の問題だろう。2日目の演奏の時には解決できそうな問題である。
 ただし、ピノックが年にそれほど繁く指揮しない状態では、こういう現象がこれからも繰り返されないとも限らないのだが、そこをオーケストラ側が如何に解決できるかが課題であろう。

 しかしいずれにせよ、紀尾井ホール室内管は、自ら刺激を求めて、いい指揮者をシェフに選んだものだと思う。これから面白くなるだろう。私たち聴き手の側でも、聴き慣れた作品群が新しい衣をまとった姿で立ち現れて来るのに出会えるはずだし、それゆえ何が起こるか予想できないというスリルを味わうことができるだろう。

2023・4・19(水)新国立劇場 ヴェルディ:「アイーダ」

      新国立劇場オペラパレス  6時

 1998年1月、新国立劇場開場記念として制作されたプロダクション。あの時には他にも「ローエングリン」と團伊玖磨の「建・TAKERU」とが制作されたが、その中でこの「アイーダ」だけが現在まで残っている。

 何しろ故フランコ・ゼッフィレッリの演出・舞台美術・衣装による豪華絢爛たる正真正銘のグランドオペラ・タイプの舞台なので、以降5年ごとの節目のシーズンに上演されて来たのも尤もなことであろう。私もその都度、観る機会を得た(当ブログでは☞2008年3月10日、☞2013年3月24日、☞2018年4月22日)。

 それにしても、古代エジプトを模した巨大な神殿・王宮の装置、「エジプト軍凱旋の場」における兵士・群衆、奴隷・ダンサーなどを含む何百人という登場人物など、こんな大がかりな舞台によるプロダクションは、今では世界のどの歌劇場も新制作できないだろう。それは制作費の問題もあり、また今日の演出スタイルが昔とは一変しているからでもある。

 だが一方、豪華な舞台という良き時代のグランドオペラのスタイルに愛着を持つオペラ・ファンは今でも多い。それゆえ、わずかにMETや「東京国立歌劇場」などいくつかのハウスが、規模の大小の差はあれ、保存されているプロダクションを大切に上演し、ファンを喜ばせているということになる。

 今回、この新国立劇場のこの「アイーダ」を観て、さすがに6度目となると、ひと時代前のスタイルだなという印象が強くなって来る。
 それに再演6度目となれば、如何に再演演出家として粟国淳が起用されていようとも、やはり舞台にある種の「緩さ」が生じているという印象を抑え切れない━━例えば第2幕のアイーダとアムネリスの場面、第3幕のアイーダとアモナズロの場面、第4幕のラダメスとアムネリスの場面など、登場人物の心理の変化が微細に、しかも緊迫感を以って描かれなければいけないような個所で、それが感じられてしまうのである。

 だが、初めてオペラを観に来た人々、滅多に歌劇場等に足を踏み入れないけれども「豪華なアイーダ」ということで家族・友人と一緒に観に来たような人々は、やはりこの壮麗な舞台に満足し「オペラもいいもんだ」と言うだろう。そういう人たちのためにも、この上演は有意義である。ブロードウェイの「オペラ座の怪人」のように、客足が落ちるまで上演して行く、というのがいいだろう。今日は7回上演の6日目だったが、ほぼ満席と思われた。

 さて今回の上演では、カルロ・リッツィ指揮の東京フィルハーモニー交響楽団と新国立劇場合唱団、セレーナ・ファルノッキア(エチオピア王女アイーダ)、ロベルト・アロニカ(エジプトの将軍ラダメス)、アイリーン・ロバーツ(エジプト王女アムネリス)、須藤慎吾(エチオピア王アモナズロ)、妻屋秀和(エジプトの高僧ラムフィス)、伊藤貴之(エジプト国王)、十合翔子(巫女)、村上敏明(伝令)という顔ぶれだった。
 ヒロイン役とヒーロー役はいずれも有名な人だが、今日はどうも━━特に前半はあまり調子がよくなかったようである。歌手は生身の人間だから、たった1日の出来で実力を云々するのは避けたいし、事実、後半はかなり調子を取り戻していたようなのである。

 ロバーツはよく歌っていたが、第4幕前半の聴かせどころでは、やはりもっと「怒れる王女」の凄味と迫力が欲しかったところだ。邦人勢ではやはりラムフィス役の妻屋秀和が底力のある声で映えた。
 カルロ・リッツィもオペラでは定評のある指揮者だから期待していたのだが、これも相変わらず鷹揚な指揮ぶりで、「凱旋の場」も「ラダメスとアムネリスの応酬の場」も、緊迫感に不足する演奏になっていた。叙情的な音楽になる最終場面で彼の片鱗を聴かせたところを見ると、全体に劇的要素を抑制していたのかもしれなかったが━━。

 25分あるいは20分の休憩時間計3回(今どきのアイーダ上演では珍しいか)を含み、10時終演。

(余談)
 満席の入りで、しかも休憩時間3回ともなると、ロビーはこんなにも混雑するかと思われるほどになる。バーカウンターは繁盛したことであろう。オペラには滅多に来たことがないような人々も多いのは、大変結構なことだ。ただ、音楽がまだ鳴っているのに、幕が降り始めた途端に手を叩き始める人がいたのは困る。これは一昔前のスタイルだ。

 それにどういうわけか、今日の1階席後方には、厄介な御仁が少なからず居られて━━無遠慮に大きなクシャミをする御仁、前奏曲が始まっているのに延々とスマホの灯を消さぬ御仁、何秒に一度の割でずっと呼吸の際に唸り声を発する御仁、各幕に一度ずつピーピーと大きな機械音を発する御仁、こちらが通ろうとしても膝を引っ込めないので待っていたら逆切れして「何だよ」と怒り出した御仁。いやはや、賑わった「アイーダ」であった。

2023・4・15(土)4オケの4大シンフォニー(「大阪4オケ」)

       フェスティバルホール  2時

 大阪のメジャー・オケ4団体が一堂に会して演奏する所謂「大阪4オケ」のシリーズ、大阪国際フェスティバルの主催で今年も開催。もう9回目になる由。

 今年は生誕190年に当たるブラームスの交響曲を4つのオケが分担して演奏するという企画だ。確かこの「4オケ」第1回の時に、井上道義(当時大阪フィルの首席指揮者)が「ブラームスの4つのシンフォニーをやるのはどうだ」と提案したのを、飯森範親が「そんなの絶対嫌だ」と反対した━━という話を、飯森自身がそのステージ上で暴露したのを記憶しているが、どうやら時代も変わったと見える。

 今回は、最初に山下一史指揮大阪交響楽団が「3番」を、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団が「4番」を、休憩後に飯守泰次郎指揮関西フィルハーモニー管弦楽団が「2番」を、尾高忠明指揮大阪フィルハーモ二―交響楽団が「1番」を演奏するというプログラムだ。4時間にわたる演奏会であった。

 ブラームスの交響曲各々の性格については、私と雖もそれなりに理解しているつもりだけれど、こうしてナマで並べて聴いてみると、つくづく「3番」というのは演奏するのは難しい曲で、それに当たった指揮者とオケはやっぱり損な役回りだな、ということを実感してしまう。その逆に、最も得をするのはやっぱり大見得を切ることのできる「1番」に当たった指揮者とオケだな、ということも実感してしまうのである。

 いや、そんなことを言ったら、誤解を招くだろう。今回、それぞれの分担がどういう経緯で決まったのかは知らないし、今日の指揮者とオケの各々の力量がそういう特性を生み出していたなどという意味では、決してない。また、曲の所為でそれぞれの演奏がそう感じられたということでも、決してない。今日の4オケのブラームスは、流石にみんな腕に縒りをかけた演奏をし、それぞれの最良のものを出していたことは間違いないのである。
 どう感じられたかは、聴き手それぞれによるだろうが、今日の場合、私の受け取り方と、客席のみんなの反応(拍手、ブラボーの大きさなど)が、全くと言っていいほど一致していたのが面白かった。

 山下一史と大響の演奏は、極めて真面目なスタイルだった。「1番」で構えすぎ、「2番」で解放感に浸り過ぎたブラームスが「ここから本当のおれなんだ」と言わんばかりに作曲した「3番」という交響曲を、見事几帳面に演奏すると、やっぱりこうなるんだな、というような演奏だったのである。きちんとした演奏だったが、これはすこぶる「難しい」ものだ。

 替わって登場した飯森範親とセンチュリー響は、「4番」の第1楽章コーダで猛烈な煽りをかけたり、後半2楽章でエネルギーを爆発させたりして、ブラームス晩年の枯れたこの「第4交響曲」から、若き日を回想するような活力を引き出して見せた。この勢いのいい演奏に、客席からは初めてブラボーの声も聞こえた。

 休憩後に登場した飯守泰次郎と関西フィルは、驚異的なほどヒューマンで温かい「2番」を聴かせてくれた。円熟の飯守が最小限の身振りでオーケストラを制御する気魄の凄まじさは言うまでもないが、関西フィルがこれほどふくよかな音で、豊かな情感にあふれた演奏をしたのを聴いたのは初めてである。この空間性豊かなフェスティバルホールだからこそ、その音も生きたのではないか。
 演奏が終ると、それまでになかったような熱狂的な拍手と、少なからぬ数のブラボーが爆発した。

 そして、いつものように弦16型大編成の威力を誇示しつつ大トリに登場した尾高忠明と大フィルは、絶好調━━この2、3年の演奏は私にはそう感じられる━━の底力を全開し、揺るぎない構築と瑞々しい和声感と豊かな陰影を備えた、この上なく濃密な「1番」を聴かせてくれた。
 隅から隅まで納得づくのブラームス━━という演奏で、まさに尾高の円熟と、大阪フィルの水準の高さが発揮されたものと言えようか。長いコンサートで疲労しかけた聴衆を再び覚醒させ、快い満足感を与えて席を立ってもらう、という理想的な「結びの一番」だったと言ってもいいだろう。ここで客席から沸き起こった拍手とブラボーの音量の物凄さは、まさに今日随一のものであった。

 かくして、朝の新幹線に乗って大阪まで聴きに来ながら、聴く前には体調不良で意気の上がらない私だったが、コンサートが終る頃にはどうやら元気を回復していたという次第で‥‥。
 とはいえ、大事を取って、16日に予定していた「芦屋国際音楽祭」の取材は、残念だったが止めることにし、主催者へ詫びの電話を入れる。実は昨日も、予定していた京響の演奏会取材をキャンセルさせてもらったところだった。沖澤のどかの京響常任指揮者就任初定期を聴けなかったのは痛恨事だが、9月24日に就任披露東京公演があるそうなので、それを楽しみに待ちたい。

2023・4・13(木)大野和士指揮東京都響 マーラー7番

       サントリーホール  7時

 東京都交響楽団定期演奏会のBシリーズ。マーラーの「交響曲第7番」。コンサートマスターは山本友重。これ1曲のみのプログラムだが、これだけで充分濃密な演奏会。

 今月発売の「モーストリー・クラシック」にも書いたことだが、大野和士と東京都響は、今、最も良い状態にあるのではなかろうか。3月に聴いた3つの演奏会は、どれもほぼ完璧な出来と言って過言でないほどの演奏だった。そして、今日のマーラーの「第7交響曲」も、やはり良かった。
 これは、彼の都響音楽監督就任の時に取り上げた曲でもある(☞2015年4月8日)。だが、その時の演奏とはもう全く違う。8年の月日が両者をここまで成熟させて来たのか。聴きながら感慨に浸った次第である。

 予想通り、この曲にふだん付きまとっているイメージ━━神秘性とか、怪奇性とかいったイメージからは、かなり距離を置いた解釈だ。
 第1楽章における弦のトレモロには、不気味な雰囲気は一切ない。第2楽章と第4楽章に付されている「夜曲」というサブタイトルも、この演奏からはさほどそれを連想できないし、第3楽章の妖怪トロルが飛び回るようなスケルツォも、それほど怪奇な雰囲気を感じさせない。

 今日のプログラム冊子には、(誰かが付けた)この曲の「夜の歌」というニックネームはすでに記載されていない。つまり、そこからも推察されるように、これは、「夜」というイメージから解放された演奏、と言って言い過ぎなら、「夜」は単に象徴的な意味でしか意識されないという演奏なのかもしれない。ただしこれはあくまで、私個人の印象でしかないが。

 納得させられるほど見事だったのは、第5楽章で大野和士が採った解釈だ。
 普通の場合、先立つ4つの楽章とこの第5楽章とは完全に乖離し、訳の解らないどんちゃん騒ぎという解釈になるものなのだが、今日の大野の解釈はそうではなく、前4楽章でマーラーが集めた様々な異なった要素の音楽を、この第5楽章ですべて「総合」し、それを明るい解決に導く、といったものだったように思われる。

 そう、全曲最後のクライマックスが、充分に熱狂を保ちながらもこれほど均衡を保った演奏━━つまり調和、総合、解決というイメージを感じさせつつ結ばれた演奏を聴いたのは、私は初めてである。
 しかも最後から2小節目のトランペットとトロンボーンによる全音符を、スコアの指定通りデクレッシェンドさせると一瞬見せかけて、突然激烈にクレッシェンドさせ、全合奏のフォルティッシモを叩きつけて結んだ「熱狂表現」の心憎さ。大野和士もこういう洒落た技をやるんだ、とニヤリとさせられた個所であった。

 東京都響も例の如く見事なアンサンブルを聴かせてくれたが、特に狂騒的な第5楽章でがっちりとした構築性を保ったところ、先月から続く大野音楽監督との呼吸の完璧さを示す所以である。

2023・4・9(日)東京二期会 R・シュトラウス:「平和の日」

       Bunkamuraオーチャードホール  2時

 コンチェルタンテシリーズの一環、セミステージ形式上演。R・シュトラウス晩年のオペラ「平和の日」。昨日の初日公演が日本初演となった。

 講和が結ばれ、30年にわたった戦争が終結した。「われわれは何故長年闘い続けて来たのだろう? もう敵同士ではない・・・・永遠の平和よ、ようこそ!」と全員が歓呼する幕切れ。まことに今日、時宜を得た上演と言えよう。
 が、二期会の事務局の話では、これはウクライナの戦争が始まるより以前に上演が決定していたものだとのこと。ともあれ、R・シュトラウスが第2次世界大戦前夜に作曲したこのオペラが、今再び光を当てられ、新しい生命を与えられ、その存在意義を再認識されている━━といっても過言ではなかろう。

 今回の演奏は、準・メルクル指揮の東京フィルハーモニー交響楽団、二期会合唱団。
 歌手陣は全員ダブルキャストで、今日は小森輝彦(包囲された街の司令官)、渡邊仁美(妻マリア)、狩野賢一(包囲軍司令官)ほか、大塚博章、岸浪愛学、野村光洋、高崎翔平、清水宏樹、杉浦隆大、岩田健志、山本耕平、持齋寛匡、寺西一真、中野亜維里といった人たちが兵士や市長、司教などの役を歌った。
 舞台構成は太田麻衣子、映像が栗山聡之。

 シノーポリの指揮したドレスデン州立歌劇場上演ライヴCD(グラモフォン)でこの全曲を知ったあと、そのドレスデンの「R・シュトラウス・ターゲ」で舞台上演を実際に観たのが16年前(☞2007年3月14日の項)のこと。
 その時は司令官を代役が袖で歌うなどという事件もあり、演出も指揮もあまり面白くなかったという印象があるが、それに比べると今回の方が、遥かに感銘が大きい。

 そもそもこのオペラでは、ドラマと合わせた「移行の音楽」の手法が至極見事であり、老練シュトラウスの円熟した手法未だ健在なり、という印象を受けるのだが、それを準・メルクルは、鮮やかに引き出してみせているのである。戦局が緊迫の度を加えて行く場面で、オーケストラがじわじわと音色と表情を変えて行くあたりの持って行き方の巧さなど、流石のものがあっただろう。東京フィルもよくこの指揮に応えていた。

 それと、大勢の歌手陣の安定度の高さだ。特に主演の司令官役を歌った小森輝彦の熱っぽい歌唱と演技は、彼を観て、聴いているだけで、ドラマの全てが理解できるという段階にまで達していたのである。

 今回の演奏では、オーケストラが正規の位置に並び、舞台前方に歌唱と演技のための空間が設置されていた。小道具は銃と剣と、手紙(皇帝の指令書)程度だが、ソロ歌手の全員が暗譜で歌い、必要最小限の演技を繰り広げる。合唱は舞台奥の紗幕の彼方に楽譜を持って位置していた。

 その紗幕に時刻(時計)、暗雲、街の姿、その他暗示的な映像が投映されていたが、これは出しゃばらず、しかもイメージが豊かで、なかなか良かった。最後に「平和」「Friede」「Peace」など各国語のそれが投映されるのは予想通りだったが━━出ない国の言葉があったような気もして、これは当てつけかと思いニヤリとさせられたが、私の見落しだったかもしれないので、敢えてそれ以上は━━。
 広瀬大介の字幕も明快で、解り易い。
 意義ある上演であった。

2023・4・8(土)東京・春・音楽祭 ブラームス:「ドイツ・レクイエム」

       東京文化会館大ホール  3時

 「合唱の芸術シリーズ」の一環。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」を、東京オペラシンガーズが歌った。
 指揮はロンドン出身の若手フィネガー・ダウニー・ディアー、オーケストラは東京都交響楽団、声楽ソリストはジャクリン・スタッカー(S)とリヴュー・ホレンダー。合唱指揮はエバーハルト・フリードリヒおよび西口彰浩。

 けれんの全くない、率直で清楚な演奏の「ドイツ・レクイエム」である。連日アクの強い演奏に浸っていると、こういう演奏は随分とあっさりした、コクの無いもののように感じられてしまうが、それは聴き方がよろしくないからだろう。今日の演奏は、疑いなく真摯なアプローチであった。

2023・4・7(金)飯守泰次郎指揮東京シティ・フィル ブルックナー8番

       サントリーホール  7時

 これは東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の特別演奏会。
 桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎の指揮で、ブルックナーの「交響曲第8番」(ノーヴァク版)。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 凄愴な気魄に満ちた演奏だ。最近の飯守泰次郎の指揮は、何か尋常ならざる鬼気のようなものを漂わせているが、今回は長年のパートナーたる気心知れた東京シティ・フィルと組んで、魔性的なエネルギーに富んだ「8番」の演奏を創り出した。
 瞑想的な緩徐楽章での深みのある情感はいうまでもないが、それをも含めて、特に第2楽章と第4楽章においては、何かに憑かれたような、心の奥底に沸き上がる怒りにも似た感情を音楽にたたきつけるといったような凄みが感じられた。

 テンポもかなり速い。おそらく正味80分を切っていたのではないかと思われる。ただ、それだけ速いテンポを採りながらも、演奏が決して素っ気ないものにならず、音楽も形を崩さず、オーケストラも均衡を失わず、という状態になっていたのが、見事だ。
 これは、飯守を尊敬してやまぬというシティ・フィルだからこそ為し得た快演であろう。実際、今日のシティ・フィルの演奏は、常ならぬ激しい燃焼を示していたのである。

 今月24日には「第4番《ロマンティック》」がある。

2023・4・6(木)東京・春・音楽祭「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

       東京文化会館大ホール  3時

 看板プログラムの一つ、マレク・ヤノフスキが指揮するワーグナー・シリーズの一環。
 この音楽祭では、「マイスタージンガー」は10年前にもヴァイグレが指揮し、クラウス・フローリアン・フォークトをヴァルターに迎えて上演したことがある(☞2013年4月4日の項)。その後、同音楽祭は、マレク・ヤノフスキの指揮で全10曲上演を推進する方針を採っているようで、今回の再演もその一環だとの話を聞いた。

 管弦楽はNHK交響楽団(コンサートマスターは懐かしのライナー・キュッヒル)。合唱は東京オペラシンガーズ(指揮はエバーハルト・フリードリヒ、西口彰浩)。
 歌手陣は、エギルス・シリンス(靴屋の親方ハンス・ザックス)、アンドレアス・バウアー・カナバス(仕立屋の親方ポークナーおよび夜警)、ヨーゼフ・ワーグナー(パン屋の親方コートナー)、アドリアン・エレート(書記ベックメッサー)、デイヴィッド・バット・フィリップ(騎士ヴァルター)、ダニエル・ベーレ(徒弟ダフィト)、ヨハンニ・フォン・オオストラム(ポークナーの娘エファ)、カトリン・ヴンドザム(その乳母マグダレーネ)と、主役はすべて外来勢で固め、その他の親方衆として木下紀章、小林啓倫、大槻孝志、下村将太、高梨英次郎、山田大智、金子慧一、後藤春馬が出演している。

 なお、演奏会形式上演のため、照明デザインを辻井太郎、舞台監督を金坂淳台が担当。以前のようなスクリーン演出は既になく、正規の反響板を設置しての上演である。字幕は舩木篤也。

 ヤノフスキの指揮、今回も予想通り、テンポが目覚ましく速い。オーケストラも休みなく走り続ける。たくさんの登場人物の対話が疾風のごとき勢いで進んで行くという感なので、この作品における歌詞の多さが、否が応でも目立つことになる(それゆえ、舩木篤也の字幕文のストレートな明快さ、解り易さが実に有難かった)。

 なんせ長大極まるオペラゆえに、テンポが速いのは有難い(早く終る?)のだが、その反面、あまりにスピーディに進むので、音楽に「矯め」がなく、登場人物たちが本来備えている「迷い」も全く浮き彫りにされないという傾向が生じていたようにも思われた。
 ヴァルターは猪突猛進型の騎士になり、エファはひたすら元気のいい娘になり、ベックメッサーは気の早い記録係となり、ザックスも屈託なくさっさと大演説を仕上げて一気に大団円になる。全曲の最後で「マイスタージンガーの動機」が堂々と再現する個所なども、あまりに一気呵成に進んでしまうので、何となくすっぽらかしを食ったような気分にさせられたのも正直なところだ。

 しかし、キュッヒルをリーダーとしたN響がとにかく上手い。厚みのある音で、音楽を少しもせわしく感じさせなかったのは、流石というべきであろう。それにヤノフスキの指揮、これもやはり老練の強みで、前奏曲の冒頭からワーグナーの音楽に「色」を感じさせるところ、卓越した業だったということは特筆しておかなくてはならない。

 そのうえ、今回は、歌手陣が全員手堅く、粒が揃っていた。ザックス役のシリンスは第2幕の「ニワトコの香り」から調子を上げ、全曲最後の大演説では、ここに焦点を当てたと言わんばかりの歌唱。
 ヴァルター役のフィリップも明快な歌唱表現だったが、第2幕冒頭で怒りを爆発させる場面が意外に抑制されていたのは、ヤノフスキの指示なのか、それともテンポが速いために表現が追い付かなかったのか。このテンポの速さは、各歌手の歌唱表現に多少なりとも影響を与えたことは否めないのではないかという気もするのだが如何。
 ポーグナー役のカナバスも安定していたが、夜警役としてステージ奥でどっしりと歌った時に、なかなかの迫力を示していた。

 だが何と言っても見事だったのは、ベックメッサーを歌ったアドリアン・エレートであろう。今回の歌手陣はすべて譜面を見ながらの歌唱だったが、彼ひとりだけは、長い全曲を通じて、すべて暗譜で歌っていた。多少のおどけた演技も加えていた。
 すでにバイロイトなどでも名演を見せていたし(☞2009年8月26日)、新国立劇場でも素晴らしい歌唱と演技を披露(☞2021年11月24日参照)していたエレートである。いかにこの役が彼の中に入っているかを如実に示したものと言えよう。

 変化する照明を加えた舞台の演出も悪くない。第2幕の幕切れ近く、夜警の脅しにより静寂に戻ったニュルンベルクの街のシーン。歌い終わって着席し、彫像のように動かなくなった合唱団と脇役の親方たちの姿は、音楽の雰囲気とぴたりと合い、見事な雰囲気をつくり出していた。
 30分の休憩2回を含み、8時15分頃終演。

2023・4・5(水)東京・春・音楽祭 ブリン・ターフェルOpera Night

        東京文化会館大ホール  7時

 バリトンのブリン・ターフェルが、シリアスなワーグナー、ヴェルディ、ボイトの世界から、クルト・ヴァイルを経てバーンスタイン、リチャード・ロジャースなどミュージカルに至るレパートリーを歌い、エンターテイナーとしての面をも見事に発揮した。
 沼尻竜典指揮の東京交響楽団が、これも見事なサポート。

 選曲もなかなか気が利いている。ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲で始まり(別公演の向こうを張ったというわけか?)、ターフェルがザックスの「ニワトコの香りが」を歌う。彼はそのまま続けて「タンホイザー」の「夕星の歌」を歌って引き上げ、オーケストラの「ローエングリン」第3幕前奏曲の後に再び登場して「ヴァルキューレ」からの「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」を歌う。

 そこまでが第1部だが、ヴォータンでは些か怒鳴り過ぎという傾向が見られたものの、流石得意のワーグナーものというわけで、ヘルデン・バリトンとしての威力を遺憾なく発揮したのだった。また、沼尻と東京響が「ヴァルキューレ」で聴かせた豊麗な演奏は出色のもので、沼尻はびわ湖ホールでの京響相手の快演という実績があるので当然だろうが、東京響が新国立劇場のピットでやるのとは比較にならぬほどスケールの大きな演奏を聴かせたのには驚嘆したり、このオケならこれがふつうのはずだ、と思ったり。

 第2部はヴェルディの「マクベス」序曲で開始されたが、ここからターフェルの歌う「オテロ」の「ヤーゴの信条」、クルト・ヴァイルの「三文オペラ」からの「モリタート」、ボイトの「メフィスト―フェレ」からの「おれは悪魔の精」に続けるという「悪役路線」を展開させたのは、なかなか巧い選曲配列である。
 ターフェルは舞台上で凄んで見せたり、「メフィスト―フェレ」で凄まじい口笛を鳴らしたりと、「悪役に秀でた」演技も折り込んで聴衆を沸かせた。ただ、「モリタート」で、変幻自在の表情の歌に、何となくピアノもオケもついて行けぬように聞こえたのはこちらの気のせいか? 

 その悪役路線のあとは一転してバーンスタインの「キャンディード」序曲によりミュージカル路線に入り、リチャード・ロジャースの「南太平洋」、フレデリック・ロウの「キャメロット」、ジェリー・ボックの「屋根の上のヴァイオリン弾き」からのおなじみのナンバーが歌われた。すこぶる楽しく、いい雰囲気であった。ブリン・ターフェル、大変な役者ではある。

 アンコールでも賑やかな歌2曲が披露された。曲名を私は知らなかったが、音楽祭のサイトに発表されたものによると、グウィン・ウィリアムズの「私の小さなウェールズの家」と、マロットの「ゴルフの歌」である由。
 そういえば、ターフェルは英国のウェールズ出身だった。ウェールズ人というのは、U.Kの中で最も人懐っこい気質だとかいう話だ。知らない人同士が道で逢った時、ウェールズ人はすぐにお喋りを始める、イングランド人は知らん顔をして通り過ぎる、アイルランド人はすぐに喧嘩を始める、スコットランド人は・・・・とかいう話を聞いたっけ。

2023・4・4(火)「レコード芸術」誌休刊の衝撃

 音楽之友社発行の「レコード芸術」誌が、7月号(6月20日発売)を以って休刊となるそうである。私は同誌には寄稿していないし、レコード批評そのものにもほとんど手を出していないけれど、これはわが国のレコード文化の根幹を揺るがす事件に発展しかねないことだし、また個人的にも1955年から購読を続け、今なお全て保管している愛読者としても憂慮せざるを得ぬ。
 同誌は1950年代半ばのある時期、「LPレコード値下げ促進運動」を強力に展開したためレコード会社の怒りを買い、半年のあいだ広告出稿を差し止められたことがあったが、当時はそれでも持ち堪えて出版を続けたものだ。もう少しシンプルなスタイルの雑誌にするか、あるいは「ステレオ」または「音楽の友」との合体を図るかしてレコード評論を継続できぬものだろうか?

2023・4・1(土)東京・春・音楽祭 若い音楽家による「仮面舞踏会」

       東京文化会館大ホール  7時

 リッカルド・ムーティの指導による「若い音楽家たち」によるヴェルディの「仮面舞踏会」の演奏会形式での全曲上演。
 歌手陣はすべて日本勢で、石井基幾(リッカルド)、吉田珠代(アメーリア)、青山貴(レナート)、中島郁子(ウルリカ)、中畑有美子(オスカル)が主役陣を歌う。脇役たちはムーティ指揮の公演(☞3月30日の項)とすべて同一。東京春祭オーケストラと東京オペラシンガーズも、同じ編成でステージに乗っていた。

 「若い音楽家」と言っても、例年のことながら、これはどうやら歌手陣のことではなく、指揮者を意味するもののようである。今回はムーティの教えを受けた4人の若い指揮者が、全曲を分担して指揮していた。
 4人とは、澤村杏太郎、アンドレアス・オッテンザマー(何とあのベルリン・フィルの首席クラリネット奏者)、レナート・ウィス、マグダレーナ・クライン(以上登場順)。御大ムーティは、客席からの大拍手を浴びて1階最前列に座り、ステージを見守っていた。

 大ムーティのあの鮮烈で劇的な指揮による「仮面舞踏会」を聴いたあとで、今日の若い指揮者たちによるこの曲を聴くと、全く違った作品のように感じられてしまうが、無理もなかろう。それは長原幸太率いる東京春祭オーケストラが如何に上手いかということにもなるのだが、さらに4人の若手指揮者の個性の違いも見事に浮き彫りにされていた。

 最初に登場した澤村杏太郎は、第1幕第2場途中までの、いわばドラマの「序」の部分を指揮した。それは実に整然とまとまっていて、なだらかな美しさを出してはいたが、その反面、オペラとしての劇的要素の表現や、登場人物の心理描写などの点では至極物足りないものがあり、このままではこの「仮面舞踏会」というドラマは成立し難いのではないか、と思われたほどであった。

 しかし次に登場したオッテンザマーは、オペラを指揮したことがどのくらいあるのかは承知していないが、彼が指揮を始めた途端に、音楽に色彩感が生まれて来てしまうのだから敵わぬ。彼が指揮を受け持った個所には、ウルリカの予言の場面と深夜の野原の場面とが含まれていただけに、ムーティには及ばぬまでも、オーケストラから不気味な緊張感を引き出して、大いなる劇的な盛り上がりを聴かせることができたというわけであろう。

 続くレナート・ウィスも、第2幕後半から第3幕冒頭の部分という劇的要素の強い場面を指揮して成功、最後の女性指揮者クラインも極めて勢いのいい音楽的昂揚を聴かせて見事に締め括った。

 かように、指揮を受け持った部分によって、各々の個性が発揮できたかどうかの違いは生れて来るのは確かだ。全曲が終ったあとの講評でムーティは「どの部分を受け持つかは、レナートたちと同じようにクジで決めた。どこに当たるかはLa Forza del Destino(運命の力)による」と語って聴衆を笑わせていたから、彼自身もそのあたりはよく承知していたのだろう。

 ムーティは4人の指揮者たちに「修了証書」を授け、最後に「パリアッチョ」の幕切れの歌詞をもじって「La Accadèmia è finita!」と大声で宣言し(確かそう聞こえたけれど?)演奏会を閉じた。東京・春・音楽祭の大物のひとつが終った。

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