2023年5月 の記事一覧
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2023・5・31(水)上岡敏之指揮読売日本交響楽団
2023・5・30(火)METライブビューイング R・シュトラウス「ばらの騎士」
2023・5・28(日)「生誕100年バースデー!リゲティに感謝を込めて・・・・」
2023・5・28(日)NISSAY OPERA ケルビーニ:「メデア」
2023・5・27(土)高関健指揮群馬交響楽団「トゥーランガリラ交響曲」
2023・5・26(金)ワシーリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・フィル
2023・5・25(土)コンポージアム2023 近藤譲の音楽
2023・5・25(木)新国立劇場 ヴェルディ:「リゴレット」
2023・5・23(火)ディアナ・ダムラウ&ニコラ・テステ
2023・5・21(日)ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団
2023・5・20(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団
2023・5・17(水)トッド・フィールド監督 映画「ター」
2023・5・16(火)大西宇宙バリトン・リサイタル
2023・5・15(月)沼尻竜典指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
2023・5・14(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団「エレクトラ」
2023・5・13(土)METライブビューイング「ファルスタッフ」
2023・5・13(土)沖澤のどか指揮読売日本交響楽団
2023・5・12(金)山田和樹指揮東京都響 三善晃の「反戦三部作」
2023・5・11(木)エッシェンバッハ指揮ベルリン・コンツェルトハウス管
2023・5・10(水)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル
2023・5・9(火)エッシェンバッハ指揮ベルリン・コンツェルトハウス管
2023・5・8(月)準・メルクル指揮台湾フィルハーモニック
2023・5・7(日)大室晃子ピアノ・リサイタル
2023・5・6(土)ラ・フォル・ジュルネ3日目(最終日)ベートーヴェンと太鼓の邂逅
2023・5・6(土)ラ・フォル・ジュルネ3日目(最終日)ベートーヴェン名作交響曲たちのリズム~多国籍打楽器アンサンブルの饗宴
2023・5・31(水)上岡敏之指揮読売日本交響楽団
サントリーホール 7時
シベリウスの交響詩「エン・サガ」で始まり、エリソ・ヴィルサラーゼをソリストに迎えたシューマンの「ピアノ協奏曲」へと続き、休憩後にはニールセンの「交響曲第5番」が演奏された。コンサートマスターは長原幸太。
圧巻の演奏だったのは、やはりニールセンの「5番」であろう。日本のオーケストラが、これほど強烈なデュナミークと、アクセントと、凶暴なほどの力を以ってこの曲を演奏したのを、私は初めて聴いた。この交響曲は、そもそもそうした演奏で再現されないと、本来の凄味が発揮されないのだ。
近づいては遠ざかり、また襲いかかって来る小太鼓のリズムと低弦のピッチカートの不気味な行進、木管群の怪奇な揺れ、突然爆発するティンパニの衝撃など、強弱の変動対比が存分に再現された今回の演奏は、極めてスリリングで、作品本来が持つ恐ろしさを堪能させてくれた。
ヴィルサラーゼは、彼女を聴きはじめてからもう40年近くになるかと思うが、今なお素晴らしいピアニストだ。年齢を加えるに従い、陰翳の濃さを増した。シューマンのこの協奏曲が、これほど美しい翳りを帯びて聞こえたことがあっただろうか?
私はオーケストラの演奏会でゲスト・ソリストがソロ・アンコールを弾くのはあまり感心しないタチなのだが(ゲストでありながら2曲も弾く人がいるが、言語道断である)、彼女のようなピアニストなら、せめて1曲くらいは聴きたかったな、と思ったほどだ。
「エン・サガ」は、欲を言えばもう少し「影」が欲しかったところ。
ともあれ今回は、上岡敏之の良さが充分に発揮された演奏であったろう。彼の個性に合うオーケストラは日本にはそう多くはないと思われるが、その中で当面はやはり、演奏水準の高さという点でも、読響が彼の音楽に対し最も的確な反応のできる楽団であることは間違いない。今日のニールセンは、その好例である。
シベリウスの交響詩「エン・サガ」で始まり、エリソ・ヴィルサラーゼをソリストに迎えたシューマンの「ピアノ協奏曲」へと続き、休憩後にはニールセンの「交響曲第5番」が演奏された。コンサートマスターは長原幸太。
圧巻の演奏だったのは、やはりニールセンの「5番」であろう。日本のオーケストラが、これほど強烈なデュナミークと、アクセントと、凶暴なほどの力を以ってこの曲を演奏したのを、私は初めて聴いた。この交響曲は、そもそもそうした演奏で再現されないと、本来の凄味が発揮されないのだ。
近づいては遠ざかり、また襲いかかって来る小太鼓のリズムと低弦のピッチカートの不気味な行進、木管群の怪奇な揺れ、突然爆発するティンパニの衝撃など、強弱の変動対比が存分に再現された今回の演奏は、極めてスリリングで、作品本来が持つ恐ろしさを堪能させてくれた。
ヴィルサラーゼは、彼女を聴きはじめてからもう40年近くになるかと思うが、今なお素晴らしいピアニストだ。年齢を加えるに従い、陰翳の濃さを増した。シューマンのこの協奏曲が、これほど美しい翳りを帯びて聞こえたことがあっただろうか?
私はオーケストラの演奏会でゲスト・ソリストがソロ・アンコールを弾くのはあまり感心しないタチなのだが(ゲストでありながら2曲も弾く人がいるが、言語道断である)、彼女のようなピアニストなら、せめて1曲くらいは聴きたかったな、と思ったほどだ。
「エン・サガ」は、欲を言えばもう少し「影」が欲しかったところ。
ともあれ今回は、上岡敏之の良さが充分に発揮された演奏であったろう。彼の個性に合うオーケストラは日本にはそう多くはないと思われるが、その中で当面はやはり、演奏水準の高さという点でも、読響が彼の音楽に対し最も的確な反応のできる楽団であることは間違いない。今日のニールセンは、その好例である。
2023・5・30(火)METライブビューイング R・シュトラウス「ばらの騎士」
東劇 5時30分
去る4月15日のメトロポリタン・オペラ上演ライヴ映像。
ロバート・カーセン演出だが、どこかで観たような舞台だと思ったら、6年前(☞2017年6月13日の項)にMETライブビューイングで上映されたのと同じプロダクションだった。ただ、今回の上演で細部が変更されていたかどうかは、定かではない。
今回の上演での指揮はシモーネ・ヤング。主要歌手陣は、リーゼ・ダーヴィドセン(元帥夫人)、サマンサ・ハンキー(オクタヴィアン)、エリン・モーリー(ゾフィー)、ギュンター・グロイスベック(オックス男爵)、ブライアン・マリガン(ファーニナル)、キャサリン・ゴルドナー(アンニーナ)、トーマス・エベンシュタイン(ヴァルツァッキ)。
カーセン演出らしく、演技は細かいし、よくできた舞台だと思う。ただ、脇役の人々の動きに腑に落ちぬ部分があり、また第3幕はちょっとごたごたと━━つまらぬ一例だが、オックス男爵が「暑くなった」とカツラを外す瞬間がオクタヴィアンの動きに隠れたりするなど━━していたきらいもある。
当初オクタヴィアンに予定されていたイザベル・レナードが降板していたのは痛恨の極みだ。今回の「METのばら」は、彼女のオクタヴィアンを最大の楽しみにしていたのだが。
代役のハンキ―も、まあ悪くはないけれども、どうもこの役の雰囲気の人ではない。とはいえ、水際立ったオクタヴィアンというのは、世の中にはなかなかいないものだが。ただしこのハンキー、すこぶる剽軽な人らしく、第3幕での「女に化けた男を演じる女性」としての怪演ぶりなど、結構派手に決めていた。
一方、グロイスベックが歌い演じるオックス男爵役は、以前にも何度か見たことがあるが、当たり役だろう。粗野だが愛すべき、そして気の毒な(?)人物像を巧く表現している。
元帥夫人役のダーヴィドセンは、北欧ノルウェーの出身だけあって(?)おそろしく背の高い人で、彼女と並ぶとオックスもオクタヴィアンも、幕間でインタビューアーを務めたデボラ・ヴォイトも子供のように見える。しかし、歌唱は優れている。
シモーネ・ヤングのオペラにおける指揮は、私がこれまでに聴いたのは、2016年の東京二期会の「ナクソス島のアリアドネ」と、2008年ハンブルクでの「指環」や「ドン・ジョヴァンニ」などだけだが、相変わらず切れのいい、胸のすくような勢いにあふれたものだ。音楽が劇的に昂揚して行く個所の多い第2幕と第3幕が、彼女の本領発揮の部分であろう。
2回の休憩を入れ、終映は9時10分。長いけれど、何しろ音楽がいいので、疲れを全く感じさせない。
去る4月15日のメトロポリタン・オペラ上演ライヴ映像。
ロバート・カーセン演出だが、どこかで観たような舞台だと思ったら、6年前(☞2017年6月13日の項)にMETライブビューイングで上映されたのと同じプロダクションだった。ただ、今回の上演で細部が変更されていたかどうかは、定かではない。
今回の上演での指揮はシモーネ・ヤング。主要歌手陣は、リーゼ・ダーヴィドセン(元帥夫人)、サマンサ・ハンキー(オクタヴィアン)、エリン・モーリー(ゾフィー)、ギュンター・グロイスベック(オックス男爵)、ブライアン・マリガン(ファーニナル)、キャサリン・ゴルドナー(アンニーナ)、トーマス・エベンシュタイン(ヴァルツァッキ)。
カーセン演出らしく、演技は細かいし、よくできた舞台だと思う。ただ、脇役の人々の動きに腑に落ちぬ部分があり、また第3幕はちょっとごたごたと━━つまらぬ一例だが、オックス男爵が「暑くなった」とカツラを外す瞬間がオクタヴィアンの動きに隠れたりするなど━━していたきらいもある。
当初オクタヴィアンに予定されていたイザベル・レナードが降板していたのは痛恨の極みだ。今回の「METのばら」は、彼女のオクタヴィアンを最大の楽しみにしていたのだが。
代役のハンキ―も、まあ悪くはないけれども、どうもこの役の雰囲気の人ではない。とはいえ、水際立ったオクタヴィアンというのは、世の中にはなかなかいないものだが。ただしこのハンキー、すこぶる剽軽な人らしく、第3幕での「女に化けた男を演じる女性」としての怪演ぶりなど、結構派手に決めていた。
一方、グロイスベックが歌い演じるオックス男爵役は、以前にも何度か見たことがあるが、当たり役だろう。粗野だが愛すべき、そして気の毒な(?)人物像を巧く表現している。
元帥夫人役のダーヴィドセンは、北欧ノルウェーの出身だけあって(?)おそろしく背の高い人で、彼女と並ぶとオックスもオクタヴィアンも、幕間でインタビューアーを務めたデボラ・ヴォイトも子供のように見える。しかし、歌唱は優れている。
シモーネ・ヤングのオペラにおける指揮は、私がこれまでに聴いたのは、2016年の東京二期会の「ナクソス島のアリアドネ」と、2008年ハンブルクでの「指環」や「ドン・ジョヴァンニ」などだけだが、相変わらず切れのいい、胸のすくような勢いにあふれたものだ。音楽が劇的に昂揚して行く個所の多い第2幕と第3幕が、彼女の本領発揮の部分であろう。
2回の休憩を入れ、終映は9時10分。長いけれど、何しろ音楽がいいので、疲れを全く感じさせない。
2023・5・28(日)「生誕100年バースデー!リゲティに感謝を込めて・・・・」
トッパンホール 7時
トッパンホールの意欲的な企画、ジェルジ・リゲティの生誕100年の誕生日(今日)に因み、2日間にわたり開催される演奏会。
今日はその初日で、プログラムは、前半にクァルテット・インテグラが「弦楽四重奏曲第1番《夜の変容》」を演奏、川口成彦がチェンバロのための作品3曲(「ハンガリー風パッサカリア」「ハンガリアン・ロック(シャコンヌ)」「コンティヌウム」)を演奏、後半にトーマス・ヘルが「ピアノのためのエチュード第3巻」(全4曲)と「同第2巻」(全8曲)を演奏するというものだった。
冒頭に置かれた「夜の変容」が刺激的で面白い。そもそもリゲティが既にハンガリー時代の1954年にこういう曲を書いていたこと自体が驚きで、こんな「規格外」で急進的な音楽を書く青年が共産主義体制の中に居られるはずはなかった、と改めて思わせるような作品でもある。日本の若い弦楽四重奏団、クァルテット・インテグラの演奏がまた実に鮮やかだ。今夜のプログラムの中では、これが最も強烈な印象を与えてくれた作品と演奏であった。
なお川口成彦は、1曲目を「1段イタリアン Martin Skowroneck 1980年製作」(中全音音律に調律)のチェンバロで、2曲目と3曲目を「2段フレンチ P.TaskanモデルMatthias Kramer 2002年製作」(平均律に調律)のチェンバロで、という具合に弾き分けていたが、これは作曲者の意図を汲み取ったものの由。
トッパンホールの意欲的な企画、ジェルジ・リゲティの生誕100年の誕生日(今日)に因み、2日間にわたり開催される演奏会。
今日はその初日で、プログラムは、前半にクァルテット・インテグラが「弦楽四重奏曲第1番《夜の変容》」を演奏、川口成彦がチェンバロのための作品3曲(「ハンガリー風パッサカリア」「ハンガリアン・ロック(シャコンヌ)」「コンティヌウム」)を演奏、後半にトーマス・ヘルが「ピアノのためのエチュード第3巻」(全4曲)と「同第2巻」(全8曲)を演奏するというものだった。
冒頭に置かれた「夜の変容」が刺激的で面白い。そもそもリゲティが既にハンガリー時代の1954年にこういう曲を書いていたこと自体が驚きで、こんな「規格外」で急進的な音楽を書く青年が共産主義体制の中に居られるはずはなかった、と改めて思わせるような作品でもある。日本の若い弦楽四重奏団、クァルテット・インテグラの演奏がまた実に鮮やかだ。今夜のプログラムの中では、これが最も強烈な印象を与えてくれた作品と演奏であった。
なお川口成彦は、1曲目を「1段イタリアン Martin Skowroneck 1980年製作」(中全音音律に調律)のチェンバロで、2曲目と3曲目を「2段フレンチ P.TaskanモデルMatthias Kramer 2002年製作」(平均律に調律)のチェンバロで、という具合に弾き分けていたが、これは作曲者の意図を汲み取ったものの由。
2023・5・28(日)NISSAY OPERA ケルビーニ:「メデア」
日生劇場 2時
1797年にパリで初演されたケルビーニのオペラ「メデア」の日本初演が、ついに実現した。
題名役の王女メデアに並々ならぬ力量が要求されるオペラであることは周知の通り。この難役をこなせるソプラノがわが国にも出て来たのは、嬉しいことである。
今回はダブルキャストの2回公演、今日はその2日目で、題名役たるコルキスの王女メデアを、中村真紀が歌った。
その他の歌手陣は、山下牧子(その侍女ネリス)、城宏憲(コリントの英雄ジャゾーネ)、横前奈緒(その婚約者グラウチェ)、デニス・ビシャニャ(コリント王クレオンテ)、相原里美・金澤桃子(侍女)、山田大智(衛兵隊長)他。合唱はC・ヴィレッジシンガーズ(指揮はキハラ良尚)。
園田隆一郎が新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した。演出は栗山民也、舞台美術は二村周作。
先頃ライブビューイングで観たMETのプロダクション(☞2022年11月28日の項)に比較すると、舞台のつくりはやはり端整というか、淡白というか。
メデアの贈った猛毒の王冠により無惨な死を遂げるグラウチェの姿を見せたりなどはしない。メデアを当初からモンスター的な存在にせず、普通の女性として描き出している。ドラマの大詰めで、子供たちを自ら殺めてその死体を抱え、血だるまの姿で呪いの言葉を吐きつつ現れるあたりも、単なるホラー映画的な、刺激的なシーンにはしていない。
おそらく演出家は、このオペラの舞台に、高貴なギリシャ劇というイメージを失わせたくなかったのだろう。いかにも日本人演出家らしい手法で、それはそれでいいのだが、しかしそれにしてもやはり、途中からでいいから、メデアにはもう少し怪女的な雰囲気を増やして行って欲しかったし、ラストシーンではもう少しどぎつい恐怖感を生み出させてもよかったのでは、という気もする。
中村真紀は前半ちょっと高音域が苦しかったが、中盤以降、特に大詰めの第3幕では、安定して大役を果たした。
歌手陣はみんな安定していたが、その中でも最も大きな拍手を浴びたのは、ネリス役の山下牧子。第2幕のアリアでは悲しみの情感を深々と歌ってくれた。
このアリアでは、ファゴットが吹く落ち着いた音色も印象的だった。新日フィルは、概して端整な演奏で、音が薄く細身の響きだったのは惜しいけれども、この劇場のピットの音響を考えれば、健闘したと言えるだろう。
園田隆一郎はいつも通りオケを巧みに制御していて、頂点への盛り上げも上手い。この人のイタリア・オペラの指揮は安心して聴いていられるだろう。
これは日生劇場開館60年周年記念公演の第一弾で、力作である。日生劇場の最近のシリーズは快調だ。
なおこのプロダクションは、今秋開館する岡山芸術創造劇場の杮落しとしても、岡田昌子(メデア)、清水幾太郎(ジャゾーネ)らの組により上演されるという。こんな恐ろしいオペラから始めるとは、なんとも凄まじい気魄だ。
1797年にパリで初演されたケルビーニのオペラ「メデア」の日本初演が、ついに実現した。
題名役の王女メデアに並々ならぬ力量が要求されるオペラであることは周知の通り。この難役をこなせるソプラノがわが国にも出て来たのは、嬉しいことである。
今回はダブルキャストの2回公演、今日はその2日目で、題名役たるコルキスの王女メデアを、中村真紀が歌った。
その他の歌手陣は、山下牧子(その侍女ネリス)、城宏憲(コリントの英雄ジャゾーネ)、横前奈緒(その婚約者グラウチェ)、デニス・ビシャニャ(コリント王クレオンテ)、相原里美・金澤桃子(侍女)、山田大智(衛兵隊長)他。合唱はC・ヴィレッジシンガーズ(指揮はキハラ良尚)。
園田隆一郎が新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した。演出は栗山民也、舞台美術は二村周作。
先頃ライブビューイングで観たMETのプロダクション(☞2022年11月28日の項)に比較すると、舞台のつくりはやはり端整というか、淡白というか。
メデアの贈った猛毒の王冠により無惨な死を遂げるグラウチェの姿を見せたりなどはしない。メデアを当初からモンスター的な存在にせず、普通の女性として描き出している。ドラマの大詰めで、子供たちを自ら殺めてその死体を抱え、血だるまの姿で呪いの言葉を吐きつつ現れるあたりも、単なるホラー映画的な、刺激的なシーンにはしていない。
おそらく演出家は、このオペラの舞台に、高貴なギリシャ劇というイメージを失わせたくなかったのだろう。いかにも日本人演出家らしい手法で、それはそれでいいのだが、しかしそれにしてもやはり、途中からでいいから、メデアにはもう少し怪女的な雰囲気を増やして行って欲しかったし、ラストシーンではもう少しどぎつい恐怖感を生み出させてもよかったのでは、という気もする。
中村真紀は前半ちょっと高音域が苦しかったが、中盤以降、特に大詰めの第3幕では、安定して大役を果たした。
歌手陣はみんな安定していたが、その中でも最も大きな拍手を浴びたのは、ネリス役の山下牧子。第2幕のアリアでは悲しみの情感を深々と歌ってくれた。
このアリアでは、ファゴットが吹く落ち着いた音色も印象的だった。新日フィルは、概して端整な演奏で、音が薄く細身の響きだったのは惜しいけれども、この劇場のピットの音響を考えれば、健闘したと言えるだろう。
園田隆一郎はいつも通りオケを巧みに制御していて、頂点への盛り上げも上手い。この人のイタリア・オペラの指揮は安心して聴いていられるだろう。
これは日生劇場開館60年周年記念公演の第一弾で、力作である。日生劇場の最近のシリーズは快調だ。
なおこのプロダクションは、今秋開館する岡山芸術創造劇場の杮落しとしても、岡田昌子(メデア)、清水幾太郎(ジャゾーネ)らの組により上演されるという。こんな恐ろしいオペラから始めるとは、なんとも凄まじい気魄だ。
2023・5・27(土)高関健指揮群馬交響楽団「トゥーランガリラ交響曲」
高崎芸術劇場 大劇場 4時
モーツァルトの「交響曲第32番ト長調」と、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」を組み合わせたプログラム。コンサートマスターは伊藤文乃。群響の第588回定期である。
4年前に竣工したこの高崎芸術劇場の大劇場、大規模な空間ながらよく響くホールなので、群響の演奏が爽快な残響を以って拡がって行く。比較的大きな編成によるモーツァルトのシンフォニーもブリリアントに響く。幕開きの曲としても最高の選曲だ。
一方、「トゥーランガリラ交響曲」。群馬交響楽団がこの曲を手がけるのは、大友直人音楽監督時代以来だと事務局から聞いた。私もそれは東京公演で聴いている(☞2016年3月20日)。また高関健がこの曲を指揮するのを聴くのは11年前の札響(☞2012年2月10日、同2月11日)以来だが、彼はその間に京響でも指揮しているはずである。
今回は、群響が新しいホームグラウンドの空間性豊かなコンサートホールで、元音楽監督(現・名誉指揮者)の高関健のもとでどのような音を聴かせてくれるかというのが興味の的だったが、演奏も期待に違わない濃密なものとなった。高関健という人は、ことさらに大芝居を打つ指揮者ではないけれども、このようなメシアンの色彩的な管弦楽作品では、それにふさわしい輝かしい音色を繰り広げてくれる。
ピアノは児玉桃、オンド・マルトノは原田節で、いずれもこの曲の演奏では不動の顔ぶれだが、特に児玉桃の雄弁なソロは素晴らしく、彼女のメシアンを久しぶりに聴けたのは嬉しい。
6時前終演。楽屋を訪れ、オーケストラや高関健さんや児玉桃さんに演奏を讃えてから高崎駅に向かい、手近な6時40分発の「とき」に飛び乗ったが、私が楽屋を出る時にはまだ誰かと談笑していたはずの児玉桃さんが、マネージャーと一緒に私と同じ車両に乗っていたのにはびっくりした。さすが演奏家は動きが早い。
モーツァルトの「交響曲第32番ト長調」と、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」を組み合わせたプログラム。コンサートマスターは伊藤文乃。群響の第588回定期である。
4年前に竣工したこの高崎芸術劇場の大劇場、大規模な空間ながらよく響くホールなので、群響の演奏が爽快な残響を以って拡がって行く。比較的大きな編成によるモーツァルトのシンフォニーもブリリアントに響く。幕開きの曲としても最高の選曲だ。
一方、「トゥーランガリラ交響曲」。群馬交響楽団がこの曲を手がけるのは、大友直人音楽監督時代以来だと事務局から聞いた。私もそれは東京公演で聴いている(☞2016年3月20日)。また高関健がこの曲を指揮するのを聴くのは11年前の札響(☞2012年2月10日、同2月11日)以来だが、彼はその間に京響でも指揮しているはずである。
今回は、群響が新しいホームグラウンドの空間性豊かなコンサートホールで、元音楽監督(現・名誉指揮者)の高関健のもとでどのような音を聴かせてくれるかというのが興味の的だったが、演奏も期待に違わない濃密なものとなった。高関健という人は、ことさらに大芝居を打つ指揮者ではないけれども、このようなメシアンの色彩的な管弦楽作品では、それにふさわしい輝かしい音色を繰り広げてくれる。
ピアノは児玉桃、オンド・マルトノは原田節で、いずれもこの曲の演奏では不動の顔ぶれだが、特に児玉桃の雄弁なソロは素晴らしく、彼女のメシアンを久しぶりに聴けたのは嬉しい。
6時前終演。楽屋を訪れ、オーケストラや高関健さんや児玉桃さんに演奏を讃えてから高崎駅に向かい、手近な6時40分発の「とき」に飛び乗ったが、私が楽屋を出る時にはまだ誰かと談笑していたはずの児玉桃さんが、マネージャーと一緒に私と同じ車両に乗っていたのにはびっくりした。さすが演奏家は動きが早い。
2023・5・26(金)ワシーリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・フィル
サントリーホール 7時
2021年秋から音楽監督を務めているワシーリー(ヴァシリー)・ペトレンコと来日。今回は9日間で8回の演奏会が組まれ、今日は7回目に当たる。
プログラムは、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは辻井伸行)、ショスタコーヴィチの「交響曲第8番」。なお、オーケストラのアンコールとして、ヴァレンティン・シルヴェストロフの「沈黙の音楽」からの「夕べのセレナード」という曲が演奏された。
久しぶりに聴くロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団。V・ペトレンコの指揮のもとで、今日の演奏を聴いた範囲で言えば、弦の音色が美しくなったように思われる。
V・ペトレンコは、ショスタコーヴィチの「8番」の中にしばしば聴かれる弦の弱音を重視している感があり、その透明で清澄な弦の響きが、この作品における叙情的な要素をひときわ強く浮き彫りにしているように思われた。
その一方、彼がRPOから引き出す音は、どちらかといえば高音域に重点が置かれているようで、最強奏の怒号の個所などでは低音域の重厚な響きが薄いためもあって、かなり鋭い表情になる。多くのロシア系の指揮者がショスタコーヴィチの交響曲の演奏で金管を咆哮させるのは周知の事実だが、そこではたいてい、地軸を揺るがすような重低音の唸りが伴っていて、響きにも均衡が生み出されているものなのだが・・・・。
しかしいずれにせよ今日の演奏、この大交響曲にこめられた戦争や災厄への怒りと苦悩と、平和への憧憬と安らぎの感情とが鮮明に表出されたものだったことは確かであろう。
チャイコフスキーの協奏曲を弾いた辻井伸行は、しかし、最近、忙し過ぎるのではないのか? 少しゆっくり立ち止まって、もう一度作品とじっくり向き合ってみる時間が必要ではなかろうかと思う。彼の才能を伸ばすためにも。
2021年秋から音楽監督を務めているワシーリー(ヴァシリー)・ペトレンコと来日。今回は9日間で8回の演奏会が組まれ、今日は7回目に当たる。
プログラムは、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは辻井伸行)、ショスタコーヴィチの「交響曲第8番」。なお、オーケストラのアンコールとして、ヴァレンティン・シルヴェストロフの「沈黙の音楽」からの「夕べのセレナード」という曲が演奏された。
久しぶりに聴くロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団。V・ペトレンコの指揮のもとで、今日の演奏を聴いた範囲で言えば、弦の音色が美しくなったように思われる。
V・ペトレンコは、ショスタコーヴィチの「8番」の中にしばしば聴かれる弦の弱音を重視している感があり、その透明で清澄な弦の響きが、この作品における叙情的な要素をひときわ強く浮き彫りにしているように思われた。
その一方、彼がRPOから引き出す音は、どちらかといえば高音域に重点が置かれているようで、最強奏の怒号の個所などでは低音域の重厚な響きが薄いためもあって、かなり鋭い表情になる。多くのロシア系の指揮者がショスタコーヴィチの交響曲の演奏で金管を咆哮させるのは周知の事実だが、そこではたいてい、地軸を揺るがすような重低音の唸りが伴っていて、響きにも均衡が生み出されているものなのだが・・・・。
しかしいずれにせよ今日の演奏、この大交響曲にこめられた戦争や災厄への怒りと苦悩と、平和への憧憬と安らぎの感情とが鮮明に表出されたものだったことは確かであろう。
チャイコフスキーの協奏曲を弾いた辻井伸行は、しかし、最近、忙し過ぎるのではないのか? 少しゆっくり立ち止まって、もう一度作品とじっくり向き合ってみる時間が必要ではなかろうかと思う。彼の才能を伸ばすためにも。
2023・5・25(土)コンポージアム2023 近藤譲の音楽
東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ・メモリアル 7時
東京オペラシティの「同時代音楽企画」である「コンポージアム2023」の一環として、近藤譲の作品を集めたオーケストラ・コンサートが開催された。
因みに彼の作品の演奏会は、これとは別に、26日に「室内楽作品による個展」と、30日に「合唱作品による個展」が組まれている。彼は、今年の「武満徹作曲賞」(本選演奏会は28日)の審査員を務めているのである。
オーケストラ作品を集めた今夜のプログラムは、「牧歌」(1989)、「鳥楽器の役割」(1975)、「フロンティア」(1991)、「プレイス・オブ・シェイクス」(2022、世界初演)、「パリンプセスト」(2021、世界初演)というもの。
演奏は、「フロンティア」のみが国立音楽大学クラリネット・アンサンブル、その他は読売日本交響楽団(コンサートマスターは長原幸太)。指揮は全てピエール=アンドレ・ヴァラドが受け持った。
このプログラム、どちらかといえば優しい、あたたかい音の群れが集う作品に重点を置いたような感もあるが、その優しさ、これ見よがしに激昂して見せない安定と均衡、しかも緊張感を全く失わせない音の緻密さのために、聴き終って快い印象が残る。刺激的な音を求める人には物足りないのかもしれないが、私には近藤譲が素晴らしい語り手のように感じられた。これは、聴きに来てよかったと思える演奏会である。
客席には若い人々が多かった。ふだんのクラシック音楽の演奏会とは全く異なる雰囲気である。といって、オーケストラが定期演奏会のプログラムに現代の作曲家の作品を入れても、若い聴衆が一気に増えるということにはなかなか結び付かないのが難しいところだ。だが最近山田和樹やカーチュン・ウォンが盛んに試みている巧みなプログラミングは、もっと注目されてもしかるべきであろう。
東京オペラシティの「同時代音楽企画」である「コンポージアム2023」の一環として、近藤譲の作品を集めたオーケストラ・コンサートが開催された。
因みに彼の作品の演奏会は、これとは別に、26日に「室内楽作品による個展」と、30日に「合唱作品による個展」が組まれている。彼は、今年の「武満徹作曲賞」(本選演奏会は28日)の審査員を務めているのである。
オーケストラ作品を集めた今夜のプログラムは、「牧歌」(1989)、「鳥楽器の役割」(1975)、「フロンティア」(1991)、「プレイス・オブ・シェイクス」(2022、世界初演)、「パリンプセスト」(2021、世界初演)というもの。
演奏は、「フロンティア」のみが国立音楽大学クラリネット・アンサンブル、その他は読売日本交響楽団(コンサートマスターは長原幸太)。指揮は全てピエール=アンドレ・ヴァラドが受け持った。
このプログラム、どちらかといえば優しい、あたたかい音の群れが集う作品に重点を置いたような感もあるが、その優しさ、これ見よがしに激昂して見せない安定と均衡、しかも緊張感を全く失わせない音の緻密さのために、聴き終って快い印象が残る。刺激的な音を求める人には物足りないのかもしれないが、私には近藤譲が素晴らしい語り手のように感じられた。これは、聴きに来てよかったと思える演奏会である。
客席には若い人々が多かった。ふだんのクラシック音楽の演奏会とは全く異なる雰囲気である。といって、オーケストラが定期演奏会のプログラムに現代の作曲家の作品を入れても、若い聴衆が一気に増えるということにはなかなか結び付かないのが難しいところだ。だが最近山田和樹やカーチュン・ウォンが盛んに試みている巧みなプログラミングは、もっと注目されてもしかるべきであろう。
2023・5・25(木)新国立劇場 ヴェルディ:「リゴレット」
新国立劇場オペラパレス 2時
エミリオ・サージによる新演出。10年前にアンドレアス・クリーゲンブルクの演出(☞2013年10月3日の項、ホテルを舞台にした演出)で上演されて以来のプロダクションになる。全6回公演で、今日は3日目。
原作の時代にこだわらぬ舞台装置(リカルド・サンチェス・クエルダ)だが、しかし衣装(ミケル・クレスピ)はトラディショナルなスタイルだ。
演出も比較的オーソドックスかつ穏健なもので、主要人物3人の性格に新しいものを付与するというタイプの舞台ではない。第3幕で、スパラフチレとマッダレーナが兄妹の関係を逸脱した仲に設定されるなど、欧州の演出家がよくやる捻った描写も顔を覗かせるものの、全体としては、原作通りに固定されたドラマを、やや現代的な舞台装置の中に展開させるといった手法であろう。
なお、ジルダが殺される場面の演出は少々腑に落ちず、もう少し凄味が出てもいいだろうとも思わせた。
今回のプロダクションでは、歌手陣がいい。マントヴァ公爵役のイヴァン・アヨン・リヴァスは、演技の上では所謂遊び人タイプの公爵像とまでは行かないけれども、声の伸びが良い。リゴレット役のロベルト・フロンターリは、これはもうベテランの味だ。何といっても好感を呼んだのはジルダ役のハスミック・トロシャンで、今日は最高音の不安定さはあったものの、若々しく澄んだ快い声で、清純そのもののジルダ像を描き出していた。
また邦人勢で固めた助演陣も、妻屋秀和のスパラフチレをはじめ、清水華澄のマッダレーナ、須藤慎吾のモンテローネ伯爵(怒りの表情が迫力充分)が光っており、さらに森山京子(ジョヴァンナ)、友清崇(マルッロ)、升島唯博(ボルサ)、吉川健一(チェプラーノ伯爵)、佐藤路子(同夫人)、前川依子(小姓)、高橋正尚(牢番)も手堅く脇を固めていた。そして、新国立劇場合唱団(三澤洋史指揮)がまた実に強力だったことを特筆しておきたい。
指揮者のマウリツィオ・ベニーニは、最近は専らMETのライブビューイングで聴くのみだったが、引き締まった緊張感のある演奏を東京フィルから引き出し、第1幕最後でリゴレットの不安と焦燥が急激に増して行く場面の音楽での息詰まる追い上げ、第2幕でマントヴァ公爵が不安から歓喜に一転する場面の音楽でオーケストラの音がぱっと明るくなる呼吸の見事さなど、今回は実に鮮やかな手腕を示してくれた。こういう音楽を聴かせてくれる指揮者はいい。
だが、このような雄弁なオーケストラの演奏を聴くと、いつも思うことなのだが、外国の歌劇場並みにピットの位置をもう少し高くして、オーケストラを主役の一翼として扱うようにできぬものかと━━新国立劇場での上演を聴く時にいつも頭をもたげて来る苛立たしさが、またもや蘇るのである。
エミリオ・サージによる新演出。10年前にアンドレアス・クリーゲンブルクの演出(☞2013年10月3日の項、ホテルを舞台にした演出)で上演されて以来のプロダクションになる。全6回公演で、今日は3日目。
原作の時代にこだわらぬ舞台装置(リカルド・サンチェス・クエルダ)だが、しかし衣装(ミケル・クレスピ)はトラディショナルなスタイルだ。
演出も比較的オーソドックスかつ穏健なもので、主要人物3人の性格に新しいものを付与するというタイプの舞台ではない。第3幕で、スパラフチレとマッダレーナが兄妹の関係を逸脱した仲に設定されるなど、欧州の演出家がよくやる捻った描写も顔を覗かせるものの、全体としては、原作通りに固定されたドラマを、やや現代的な舞台装置の中に展開させるといった手法であろう。
なお、ジルダが殺される場面の演出は少々腑に落ちず、もう少し凄味が出てもいいだろうとも思わせた。
今回のプロダクションでは、歌手陣がいい。マントヴァ公爵役のイヴァン・アヨン・リヴァスは、演技の上では所謂遊び人タイプの公爵像とまでは行かないけれども、声の伸びが良い。リゴレット役のロベルト・フロンターリは、これはもうベテランの味だ。何といっても好感を呼んだのはジルダ役のハスミック・トロシャンで、今日は最高音の不安定さはあったものの、若々しく澄んだ快い声で、清純そのもののジルダ像を描き出していた。
また邦人勢で固めた助演陣も、妻屋秀和のスパラフチレをはじめ、清水華澄のマッダレーナ、須藤慎吾のモンテローネ伯爵(怒りの表情が迫力充分)が光っており、さらに森山京子(ジョヴァンナ)、友清崇(マルッロ)、升島唯博(ボルサ)、吉川健一(チェプラーノ伯爵)、佐藤路子(同夫人)、前川依子(小姓)、高橋正尚(牢番)も手堅く脇を固めていた。そして、新国立劇場合唱団(三澤洋史指揮)がまた実に強力だったことを特筆しておきたい。
指揮者のマウリツィオ・ベニーニは、最近は専らMETのライブビューイングで聴くのみだったが、引き締まった緊張感のある演奏を東京フィルから引き出し、第1幕最後でリゴレットの不安と焦燥が急激に増して行く場面の音楽での息詰まる追い上げ、第2幕でマントヴァ公爵が不安から歓喜に一転する場面の音楽でオーケストラの音がぱっと明るくなる呼吸の見事さなど、今回は実に鮮やかな手腕を示してくれた。こういう音楽を聴かせてくれる指揮者はいい。
だが、このような雄弁なオーケストラの演奏を聴くと、いつも思うことなのだが、外国の歌劇場並みにピットの位置をもう少し高くして、オーケストラを主役の一翼として扱うようにできぬものかと━━新国立劇場での上演を聴く時にいつも頭をもたげて来る苛立たしさが、またもや蘇るのである。
2023・5・23(火)ディアナ・ダムラウ&ニコラ・テステ
サントリーホール 7時
名花ディアナ・ダムラウと、フランスのバス歌手ニコラ・テステのオペラ・アリア・コンサート。サポートはブルガリア出身の指揮者でリモージュ・オペラ音楽監督兼首席指揮者のパーヴェル・バレフと、東京フィルハーモニー交響楽団。
プログラムは盛り沢山だ。
ダムラウがロッシーニの「セミラーミデ」、ハジエフの「マリア・デシスラヴァ」、ドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」、ベルリーニの「ノルマ」からのアリアを歌えば、テステはトマの「ハムレット」、グノーの「シバの女王」、ヴェルディの「ドン・カルロス」、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」からのアリアをそれぞれ歌い、そして2人でドニゼッティの「マリア・ストゥアルダ」からの二重唱を歌う。
そしてオーケストラのみの曲としては、ロッシーニの「セミラーミデ」序曲、アダンの「われもし王者なりせば」序曲と、ドニゼッティのバレエ「歓楽の王」からの「ガイヤルド」、チャイコフスキーの「組曲第1番」からの「ガヴォット」、ベルリーニの「ノルマ」序曲が演奏された(演奏はこの順番ではない)。
これだけでも相当な量のプログラムだが、そのあとにアンコールとして、テステがヴェルディの「群盗」から、ダムラウがドニゼッティの「ドン・パスクワーレ」から、テステがプッチーニの「ラ・ボエーム」から、ダムラウがプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」からのアリアを歌った上に、さらに彼女が弘田龍太郎の「春よ来い」を綺麗な日本語で歌ってみせるという具合だから、終演はついに9時55分頃になってしまった。
久しぶりに蘇った華やかな雰囲気である。パンデミックによる空白期間を体験した後では、こういう来日歌手のデュオ・コンサートが如何に新鮮に感じられることか。
ダムラウは流石に巧い。1曲ごとに、各作品のキャラクターを鮮やかに描き分けて、華やかな歌唱を披露する。たった数分の短いアリアだけでそのオペラの登場人物の全てが分かるといった歌唱なのである。
一方のテステは、よく響く声のバスではあるものの、表現力の点ではそれほど器用な歌手という感はなく、期待された「ドン・カルロス」(フランス語版による歌唱)のフィリッポ2世のアリアや、「オネーギン」のグレーミン公爵のアリアなども、今ひとつ深みがあれば、という印象であった。だが真摯な歌い方をする人で、存在感は充分である。
指揮者のバレフは、私は初めて聴いたが、なかなか良い。特に最後の「ノルマ」序曲などは旋律を良く歌わせてくれるし、何より終結近くのコラール風の主題を実に和声感豊かに、美しいふくらみを持った響きで演奏してくれたのが気に入った(こういう演奏は、そのかみのデ・サーバタがカラスとの共演で演奏したステレオ録音以来である)。
東京フィルも勿論手堅い演奏で、特にフィリッポ2世のアリアでのチェロのソロには賛辞を捧げたい。
名花ディアナ・ダムラウと、フランスのバス歌手ニコラ・テステのオペラ・アリア・コンサート。サポートはブルガリア出身の指揮者でリモージュ・オペラ音楽監督兼首席指揮者のパーヴェル・バレフと、東京フィルハーモニー交響楽団。
プログラムは盛り沢山だ。
ダムラウがロッシーニの「セミラーミデ」、ハジエフの「マリア・デシスラヴァ」、ドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」、ベルリーニの「ノルマ」からのアリアを歌えば、テステはトマの「ハムレット」、グノーの「シバの女王」、ヴェルディの「ドン・カルロス」、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」からのアリアをそれぞれ歌い、そして2人でドニゼッティの「マリア・ストゥアルダ」からの二重唱を歌う。
そしてオーケストラのみの曲としては、ロッシーニの「セミラーミデ」序曲、アダンの「われもし王者なりせば」序曲と、ドニゼッティのバレエ「歓楽の王」からの「ガイヤルド」、チャイコフスキーの「組曲第1番」からの「ガヴォット」、ベルリーニの「ノルマ」序曲が演奏された(演奏はこの順番ではない)。
これだけでも相当な量のプログラムだが、そのあとにアンコールとして、テステがヴェルディの「群盗」から、ダムラウがドニゼッティの「ドン・パスクワーレ」から、テステがプッチーニの「ラ・ボエーム」から、ダムラウがプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」からのアリアを歌った上に、さらに彼女が弘田龍太郎の「春よ来い」を綺麗な日本語で歌ってみせるという具合だから、終演はついに9時55分頃になってしまった。
久しぶりに蘇った華やかな雰囲気である。パンデミックによる空白期間を体験した後では、こういう来日歌手のデュオ・コンサートが如何に新鮮に感じられることか。
ダムラウは流石に巧い。1曲ごとに、各作品のキャラクターを鮮やかに描き分けて、華やかな歌唱を披露する。たった数分の短いアリアだけでそのオペラの登場人物の全てが分かるといった歌唱なのである。
一方のテステは、よく響く声のバスではあるものの、表現力の点ではそれほど器用な歌手という感はなく、期待された「ドン・カルロス」(フランス語版による歌唱)のフィリッポ2世のアリアや、「オネーギン」のグレーミン公爵のアリアなども、今ひとつ深みがあれば、という印象であった。だが真摯な歌い方をする人で、存在感は充分である。
指揮者のバレフは、私は初めて聴いたが、なかなか良い。特に最後の「ノルマ」序曲などは旋律を良く歌わせてくれるし、何より終結近くのコラール風の主題を実に和声感豊かに、美しいふくらみを持った響きで演奏してくれたのが気に入った(こういう演奏は、そのかみのデ・サーバタがカラスとの共演で演奏したステレオ録音以来である)。
東京フィルも勿論手堅い演奏で、特にフィリッポ2世のアリアでのチェロのソロには賛辞を捧げたい。
2023・5・21(日)ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団
サントリーホール 2時
「第400回名曲コンサート」というキリのいい数字の公演だが、インキネンが首席指揮者として日本フィルを指揮する演奏会の、これが文字通り最後のものとなった。
ベート―ヴェンツィクルス第6回(最終回)としての「交響曲第9番ニ短調」を第2部に、インキネン自身が「最後の演奏会にはこれ」と決めていたというシベリウスの交響詩「タピオラ」を第1部に置いた印象的なプログラミング。コンサートマスターは田野倉雅秋。
「第9」での協演は森谷真理、池田香織、宮里直樹、大西宇宙、東京音楽大学の合唱団。
「タピオラ」の演奏は壮大で厳しく、インキネンが日本で聴かせたシベリウスの作品群の中でも、おそらく最も剛直なものではなかったかという気がする。インキネンの本領発揮であろう。
「第9」は、実に清澄で美しく、爽やかな演奏だった。健康な若者たちの讃歌とでも言ったらいいだろうか。要所での力に満ちた昂揚感も見事だ。何よりオーケストラの音色が明晰で、内声部の交錯も些かの濁りもなく描き出される。「タピオラ」での陰翳に富んだ響きから解放的な明るさに満ちた響きへ一転したインキネンの設計も巧妙だったが、それを鮮やかに表出した日本フィルにも感嘆させられる。近年のこのオーケストラの表現力の幅の広さを示す証であろう。
「第400回名曲コンサート」というキリのいい数字の公演だが、インキネンが首席指揮者として日本フィルを指揮する演奏会の、これが文字通り最後のものとなった。
ベート―ヴェンツィクルス第6回(最終回)としての「交響曲第9番ニ短調」を第2部に、インキネン自身が「最後の演奏会にはこれ」と決めていたというシベリウスの交響詩「タピオラ」を第1部に置いた印象的なプログラミング。コンサートマスターは田野倉雅秋。
「第9」での協演は森谷真理、池田香織、宮里直樹、大西宇宙、東京音楽大学の合唱団。
「タピオラ」の演奏は壮大で厳しく、インキネンが日本で聴かせたシベリウスの作品群の中でも、おそらく最も剛直なものではなかったかという気がする。インキネンの本領発揮であろう。
「第9」は、実に清澄で美しく、爽やかな演奏だった。健康な若者たちの讃歌とでも言ったらいいだろうか。要所での力に満ちた昂揚感も見事だ。何よりオーケストラの音色が明晰で、内声部の交錯も些かの濁りもなく描き出される。「タピオラ」での陰翳に富んだ響きから解放的な明るさに満ちた響きへ一転したインキネンの設計も巧妙だったが、それを鮮やかに表出した日本フィルにも感嘆させられる。近年のこのオーケストラの表現力の幅の広さを示す証であろう。
2023・5・20(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団
サントリーホール 6時
これは6月定期。リゲティの「ムジカ・リチェルカータ第2番」と、マーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」を組み合わせたプログラム。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。
オーケストラがすべて位置に就き、チューニングが終ったところで照明が消え、上手後方のピアノにスポットが当たり、小埜寺美樹がリゲティの小品を弾きはじめる。
ほんの3分ほどの曲だが、限られた音階の音のみを高く低く繰り返すその曲想が緊迫した感を与える。その最後の音が消えると同時にステージが明るくなり、マーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」の低弦による行進曲のリズムが響きはじめる、という具合だ。
オーケストラ定期でありながら、オーケストラ曲でない小品などをその導入のような形として置くのは、ノットがこれまでにも試みて来た手法だった。
たとえば、ヴァレーズの無伴奏フルートによるソロ曲「密度21.5」に続いて同じヴァレーズの「アメリカ」を演奏した例(☞2018年12月15日)とか、100台のメトロノームを使ったリゲティの「ポエム・サンフォニック」に続いてバッハの「甘き死よ来たれ」を演奏した例(☞2015年11月23日)などが記憶に新しい。
今回のこの組み合わせと接続は、少なくとも聴感上では、必ずしも納得できるものとは言い難かったが、もちろんノットには選曲の面でそれなりの意図があったのだろう。
マーラーの「6番」では、ノットは他の一部の指揮者のような、威圧的で暴力的な音響で押しまくるという手法は採らない。
第1楽章冒頭のリズムは戦闘的なフォルティッシモではなく、総譜に指定されたとおりのフォルテで開始される。また総譜に指定されたテンポ「アレグロ・エネルジーコ・マ・ノン・トロッポ」を、多くの指揮者は「エネルジーコ」に重点を置いた猛然たる演奏で構築するが、ノットは「マ・ノン・トロッポ」を無視せず、ややゆっくりしたテンポで進めて行く。
そのイメージは、第4楽章にも引き継がれているように思われ、よくありがちな「凶暴さ」に陥ることから救っているだろう。
だが今回のノットの指揮で最も驚かされたのは、第4楽章で、ハンマーが5回も使われたことだった。
マーラーがのちに削除した3回目のハンマー(第783小節)が復活されているのは特に珍しいことではないけれども、楽章冒頭の第9小節でいきなり叩きつけられたのには仰天させられたし、それから、あと1回はどこだったか━━多分第530小節ではなかったかと思うが、そこでも炸裂した。その根拠がどこにあるのかは、私には分からない。もしかしたら、ウクライナ戦争に関連してのノットの解釈なのかもしれないが、定かではない。
東京響は今回も熱演した。「エレクトラ」で疲れたわけでもないだろうが、演奏に少々ラフなところもあり、いつぞやの「5番」の時と同じような瑕疵が散見されたのは残念至極である。だがそれも、第3楽章(アンダンテ楽章)を含む後半2楽章では持ち直した。客席は見たところ、ぎっしりの印象。快調な進撃を続けるノットと東響の人気を物語るだろう。
これは6月定期。リゲティの「ムジカ・リチェルカータ第2番」と、マーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」を組み合わせたプログラム。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。
オーケストラがすべて位置に就き、チューニングが終ったところで照明が消え、上手後方のピアノにスポットが当たり、小埜寺美樹がリゲティの小品を弾きはじめる。
ほんの3分ほどの曲だが、限られた音階の音のみを高く低く繰り返すその曲想が緊迫した感を与える。その最後の音が消えると同時にステージが明るくなり、マーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」の低弦による行進曲のリズムが響きはじめる、という具合だ。
オーケストラ定期でありながら、オーケストラ曲でない小品などをその導入のような形として置くのは、ノットがこれまでにも試みて来た手法だった。
たとえば、ヴァレーズの無伴奏フルートによるソロ曲「密度21.5」に続いて同じヴァレーズの「アメリカ」を演奏した例(☞2018年12月15日)とか、100台のメトロノームを使ったリゲティの「ポエム・サンフォニック」に続いてバッハの「甘き死よ来たれ」を演奏した例(☞2015年11月23日)などが記憶に新しい。
今回のこの組み合わせと接続は、少なくとも聴感上では、必ずしも納得できるものとは言い難かったが、もちろんノットには選曲の面でそれなりの意図があったのだろう。
マーラーの「6番」では、ノットは他の一部の指揮者のような、威圧的で暴力的な音響で押しまくるという手法は採らない。
第1楽章冒頭のリズムは戦闘的なフォルティッシモではなく、総譜に指定されたとおりのフォルテで開始される。また総譜に指定されたテンポ「アレグロ・エネルジーコ・マ・ノン・トロッポ」を、多くの指揮者は「エネルジーコ」に重点を置いた猛然たる演奏で構築するが、ノットは「マ・ノン・トロッポ」を無視せず、ややゆっくりしたテンポで進めて行く。
そのイメージは、第4楽章にも引き継がれているように思われ、よくありがちな「凶暴さ」に陥ることから救っているだろう。
だが今回のノットの指揮で最も驚かされたのは、第4楽章で、ハンマーが5回も使われたことだった。
マーラーがのちに削除した3回目のハンマー(第783小節)が復活されているのは特に珍しいことではないけれども、楽章冒頭の第9小節でいきなり叩きつけられたのには仰天させられたし、それから、あと1回はどこだったか━━多分第530小節ではなかったかと思うが、そこでも炸裂した。その根拠がどこにあるのかは、私には分からない。もしかしたら、ウクライナ戦争に関連してのノットの解釈なのかもしれないが、定かではない。
東京響は今回も熱演した。「エレクトラ」で疲れたわけでもないだろうが、演奏に少々ラフなところもあり、いつぞやの「5番」の時と同じような瑕疵が散見されたのは残念至極である。だがそれも、第3楽章(アンダンテ楽章)を含む後半2楽章では持ち直した。客席は見たところ、ぎっしりの印象。快調な進撃を続けるノットと東響の人気を物語るだろう。
2023・5・17(水)トッド・フィールド監督 映画「ター」
TOHOシネマズ日比谷 午前9時15分
某大新聞文化欄の批評などでは、ベルリン・フィル初の女性首席指揮者として赫々たる名声を築いていたター(リディア・ター、Lydia Tar)が狂気に陥って怪物と化す━━などと、昔のあの「危険な情事」さながらのホラー映画的な紹介をしていたが、実際の映画はそんな扇情的なものではなく、もっと真面目な、音楽的にもしっかりした内容のものである。
要するに、ヒロインが対人関係や多忙、SNSでの悪質な中傷誹謗などのため次第に精神の平衡を失って行き、ついにマーラーの「第5交響曲」の演奏会で狂乱状態になるという大スキャンダルを起こす話なのだが、ホラー映画のような破滅的な過程を辿るのではない。彼女が古いバーンスタインの「ヤング・ピープルズ・コンサート」のビデオを視て涙を流し、初心を取り戻して、東南アジアの某国で若者たちのオーケストラを指揮するというエピソードには、観客の側も救われた気持になるだろう。
だが、「本当の怪物は客席に━━聴衆の中にいる」ということさえ暗示されるのは、今日のネット社会の暴力を描いて、恐ろしさを感じさせる。
真面目な音楽論が繰り広げられるシーンも多くあり、われわれ音楽ファンにとってはむしろそちらの方が興味深い。その一方、ジェンダー問題などにも正面から取り組み、議論する場面もある。重苦しいが、とにかく、重量感のある映画だ。
ストーリーの中には、実在の指揮者やオーケストラの名前が無数に登場する。有名指揮者の性的スキャンダルも実名で出て来るのは、ちょっとやり過ぎの感もあるだろう。だが、ジョン・マウチェリが音楽監督を担当した音楽場面は非常にしっかりしていて、見応えがある。
登場するオーケストラは、但しベルリン・フィルではなく、ドレスデン・フィルだ。映画の中に流れる曲には、いろいろなオケの音源が使用されているらしい。
ヒロインのターを演じるケイト・ブランシェットの指揮や演技は流石に見事で鬼気迫るものがあり、妖気さえ漂うのは事実だ。なお、ロシア人の女性チェリスト役を演じているソフィー・カウアーは、本物のチェリストである由。
某大新聞文化欄の批評などでは、ベルリン・フィル初の女性首席指揮者として赫々たる名声を築いていたター(リディア・ター、Lydia Tar)が狂気に陥って怪物と化す━━などと、昔のあの「危険な情事」さながらのホラー映画的な紹介をしていたが、実際の映画はそんな扇情的なものではなく、もっと真面目な、音楽的にもしっかりした内容のものである。
要するに、ヒロインが対人関係や多忙、SNSでの悪質な中傷誹謗などのため次第に精神の平衡を失って行き、ついにマーラーの「第5交響曲」の演奏会で狂乱状態になるという大スキャンダルを起こす話なのだが、ホラー映画のような破滅的な過程を辿るのではない。彼女が古いバーンスタインの「ヤング・ピープルズ・コンサート」のビデオを視て涙を流し、初心を取り戻して、東南アジアの某国で若者たちのオーケストラを指揮するというエピソードには、観客の側も救われた気持になるだろう。
だが、「本当の怪物は客席に━━聴衆の中にいる」ということさえ暗示されるのは、今日のネット社会の暴力を描いて、恐ろしさを感じさせる。
真面目な音楽論が繰り広げられるシーンも多くあり、われわれ音楽ファンにとってはむしろそちらの方が興味深い。その一方、ジェンダー問題などにも正面から取り組み、議論する場面もある。重苦しいが、とにかく、重量感のある映画だ。
ストーリーの中には、実在の指揮者やオーケストラの名前が無数に登場する。有名指揮者の性的スキャンダルも実名で出て来るのは、ちょっとやり過ぎの感もあるだろう。だが、ジョン・マウチェリが音楽監督を担当した音楽場面は非常にしっかりしていて、見応えがある。
登場するオーケストラは、但しベルリン・フィルではなく、ドレスデン・フィルだ。映画の中に流れる曲には、いろいろなオケの音源が使用されているらしい。
ヒロインのターを演じるケイト・ブランシェットの指揮や演技は流石に見事で鬼気迫るものがあり、妖気さえ漂うのは事実だ。なお、ロシア人の女性チェリスト役を演じているソフィー・カウアーは、本物のチェリストである由。
2023・5・16(火)大西宇宙バリトン・リサイタル
東京オペラシティ リサイタルホール 7時
オペラシティの「B→C」シリーズの一環。
オペラでは既に大活躍を繰り広げているバリトン、大西宇宙━━「宇宙」は「たかおき」とお読みする由だが、われわれの業界では専らその漢字の一般的な読みで通っている━━が、前半にバロック系の、後半に現代の作品という組み合わせの意欲的なプログラムでリサイタルを開いた。
前半の曲目は、テレマンの「希望こそわが人生」、バッハの「カンタータ第203番《裏切り者なる愛よ》」および「クリスマス・オラトリオ」からの「大いなる主、強き王」、ヘンデルの「アレクサンダーの饗宴」からの「復讐よ復讐よとティモテウスは叫びぬ」。
後半の曲目は、クリストファー・セローンの「ジェスアルドのラメント」、信長貴富の「Fragments~特攻隊戦死者の手記による」、ジミー・ロペス・ベリッドの「アマウータ」、マーティン・リーガンの「松尾芭蕉による季節の四句」(大西宇宙委嘱、世界初演)というものだった。
協演は、ピアノが矢崎貴子、バロック・トランペットが斎藤秀範(「クリスマス・オラトリオ」と「アレクサンダーの饗宴」)、尺八がマーティン・リーガン自身。なお、アンコールでの小林秀雄の「落葉松」は全員での演奏である。
素晴らしいバリトンが出現したことを喜びたい。オペラではもう何度も聴いている人だが、バッハやヘンデルを歌う彼を聴いたのは今回が初めてである。若々しく伸びのある、力に満ちた声が頼もしい。キャリアを重ねて深みが出れば、わが国を代表するバリトンになってくれるだろう。
敢えて少々注文をつければ、日本語の歌唱の場合、歌詞を明確に発音するようにしていただきたいということだ。今日の歌唱でも、日本の旧来のオペラ歌手にありがちな、言葉を「丸めた」(?)ような発音で歌うという旧来の手法を引き継いでいるような感じがしたのが気になった次第である。
それからもうひとつ、ピアノに関してだが、歌曲を弾く場合には、もっと歌詞の内容に応じてニュアンスを自在に変え、歌手との協演を第一に考えて欲しいところである。今日のピアノは、言っては何だが、音量の点でも、表情の点でも、歌に合わせるという姿勢が聴き取れなかった。そのかみのジェラルド・ムーアの演奏法を参考になさっては如何かと思う。
オペラシティの「B→C」シリーズの一環。
オペラでは既に大活躍を繰り広げているバリトン、大西宇宙━━「宇宙」は「たかおき」とお読みする由だが、われわれの業界では専らその漢字の一般的な読みで通っている━━が、前半にバロック系の、後半に現代の作品という組み合わせの意欲的なプログラムでリサイタルを開いた。
前半の曲目は、テレマンの「希望こそわが人生」、バッハの「カンタータ第203番《裏切り者なる愛よ》」および「クリスマス・オラトリオ」からの「大いなる主、強き王」、ヘンデルの「アレクサンダーの饗宴」からの「復讐よ復讐よとティモテウスは叫びぬ」。
後半の曲目は、クリストファー・セローンの「ジェスアルドのラメント」、信長貴富の「Fragments~特攻隊戦死者の手記による」、ジミー・ロペス・ベリッドの「アマウータ」、マーティン・リーガンの「松尾芭蕉による季節の四句」(大西宇宙委嘱、世界初演)というものだった。
協演は、ピアノが矢崎貴子、バロック・トランペットが斎藤秀範(「クリスマス・オラトリオ」と「アレクサンダーの饗宴」)、尺八がマーティン・リーガン自身。なお、アンコールでの小林秀雄の「落葉松」は全員での演奏である。
素晴らしいバリトンが出現したことを喜びたい。オペラではもう何度も聴いている人だが、バッハやヘンデルを歌う彼を聴いたのは今回が初めてである。若々しく伸びのある、力に満ちた声が頼もしい。キャリアを重ねて深みが出れば、わが国を代表するバリトンになってくれるだろう。
敢えて少々注文をつければ、日本語の歌唱の場合、歌詞を明確に発音するようにしていただきたいということだ。今日の歌唱でも、日本の旧来のオペラ歌手にありがちな、言葉を「丸めた」(?)ような発音で歌うという旧来の手法を引き継いでいるような感じがしたのが気になった次第である。
それからもうひとつ、ピアノに関してだが、歌曲を弾く場合には、もっと歌詞の内容に応じてニュアンスを自在に変え、歌手との協演を第一に考えて欲しいところである。今日のピアノは、言っては何だが、音量の点でも、表情の点でも、歌に合わせるという姿勢が聴き取れなかった。そのかみのジェラルド・ムーアの演奏法を参考になさっては如何かと思う。
2023・5・15(月)沼尻竜典指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
サントリーホール 7時
シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」とメンデルスゾーンの「交響曲第2番《讃歌》」を組み合わせたプログラム。
協奏曲のソリストはユーハン・ダーレネ。「賛歌」での声楽陣は砂川涼子、山際きみ佳、清水徹太郎、栗友会合唱団、新国立劇場合唱団。コンサートマスターは崔文洙。
協奏曲でソロを弾いたダーレネは、スウェーデン生れの未だ23歳という若者だが、実に不思議な演奏をする人だ。ポルタメントを多用して、濃厚な演奏を繰り広げる。カデンツァ風にソロが続く個所でも、独りで凝ったソロに没頭してしまう、といった感だ。これほど粘っこい、持って回ったシベリウスは聴いたことがない。その解釈のユニークさは今どき興味深いとは思うものの、些か辟易させられた。
メンデルスゾーンの「第2交響曲」は、あの冒頭で3本のトロンボーンがユニゾンで吹く労働歌か校歌みたいな主題が私は昔から苦手で━━「シンフォニア」ではそれが何度も繰り返された上に、全曲最後にもご丁寧に朗々と再登場するのだから━━わざわざ聴きに行くには少々腰が引けていたというのが正直なところなのである。しかし、今日の沼尻竜典の指揮した演奏を聴いて、私もやっとこの作品全体の魅力に納得させられた、と白状しよう。
沼尻の指揮の「持って行き方」の巧さは舌を巻くほどで、長い全曲を少しも緊張感を失わせずに優しく美しく歌わせつつ、いざ全曲の大詰めに至るや、最後の頂点へ向かってぐいぐいと力感を増し、昂揚させて行くあたりの音楽構築の凄まじさは見事であった。これはやはり、彼がこの十数年間、びわ湖ホールの芸術監督やリューベック歌劇場の音楽総監督としてオペラ指揮の経験を積んだたまものであろう。こういう演奏に接することができたということだけでも、今夜のコンサートに来た甲斐があったというものである。
新日本フィルの演奏もふくよかで温かく、久しぶりに聴くこのオーケストラの真価と言うべきものであった。
シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」とメンデルスゾーンの「交響曲第2番《讃歌》」を組み合わせたプログラム。
協奏曲のソリストはユーハン・ダーレネ。「賛歌」での声楽陣は砂川涼子、山際きみ佳、清水徹太郎、栗友会合唱団、新国立劇場合唱団。コンサートマスターは崔文洙。
協奏曲でソロを弾いたダーレネは、スウェーデン生れの未だ23歳という若者だが、実に不思議な演奏をする人だ。ポルタメントを多用して、濃厚な演奏を繰り広げる。カデンツァ風にソロが続く個所でも、独りで凝ったソロに没頭してしまう、といった感だ。これほど粘っこい、持って回ったシベリウスは聴いたことがない。その解釈のユニークさは今どき興味深いとは思うものの、些か辟易させられた。
メンデルスゾーンの「第2交響曲」は、あの冒頭で3本のトロンボーンがユニゾンで吹く労働歌か校歌みたいな主題が私は昔から苦手で━━「シンフォニア」ではそれが何度も繰り返された上に、全曲最後にもご丁寧に朗々と再登場するのだから━━わざわざ聴きに行くには少々腰が引けていたというのが正直なところなのである。しかし、今日の沼尻竜典の指揮した演奏を聴いて、私もやっとこの作品全体の魅力に納得させられた、と白状しよう。
沼尻の指揮の「持って行き方」の巧さは舌を巻くほどで、長い全曲を少しも緊張感を失わせずに優しく美しく歌わせつつ、いざ全曲の大詰めに至るや、最後の頂点へ向かってぐいぐいと力感を増し、昂揚させて行くあたりの音楽構築の凄まじさは見事であった。これはやはり、彼がこの十数年間、びわ湖ホールの芸術監督やリューベック歌劇場の音楽総監督としてオペラ指揮の経験を積んだたまものであろう。こういう演奏に接することができたということだけでも、今夜のコンサートに来た甲斐があったというものである。
新日本フィルの演奏もふくよかで温かく、久しぶりに聴くこのオーケストラの真価と言うべきものであった。
2023・5・14(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団「エレクトラ」
サントリーホール 2時
昨年の超弩級名演「サロメ」に続く、ノットと東京響のR・シュトラウス路線。
今年は「エレクトラ」で、歌手陣は以下の通り━━クリスティーン・ガーキー(エレクトラ)、ジェイムズ・アトキンソン(その弟オレスト)、シネイド・キャンベル=ウォレス(その妹クリソテミス)、ハンナ・シュヴァルツ(母親クリテムネストラ)、フランク・ファン・アーケン(その夫エギスト)、山下浩司(オレストの付け人)、伊藤達人・鹿野由之(召使)、増田のり子(監視の女)、金子美香・谷口睦美・池田香織・高橋絵里・田崎尚美(下女)、二期会合唱団。コンサートマスターは小林壱成。
演奏会形式で、歌手陣はステージ前面に立ち、多少の演技(演出監修・トーマス・アレン)を加えながら歌う。
私が聴いた2階席正面6列あたりでは、歌手たちの声は超大編成のオーケストラの最強音にマスクされることが多かったが、それでもクリスティーン・ガーキーの堂々たる体躯から生まれる強靭な声は、そのオーケストラをバックに朗々と響き渡って来ていた。やはり凄い。東京響も昨年の「サロメ」の時と同様、嵐のような勢いで演奏を聴かせてくれた。
「サロメ」と違ってなかなか日本では上演の機会のない「エレクトラ」だが、このような優れた演奏により紹介されたことは嬉しい。R・シュトラウスがあの「ばらの騎士」でオペラの作風の大転換を遂げる以前にはどんな物凄い音楽を書いていたのか、それが日本のファンにも広く知られるいい機会になったことであろう。
ただ、その上で欲を言えばだが━━ノットの指揮がややスペクタクルな側面に重点が置かれてしまい、「悲劇」という側面が希薄になっていたことには、些かの疑問が残る。
たとえば全曲の結び、総譜にritard.molto(極度に減速して)からlangsam(遅く)と指定された最後の6小節で、ノットがかなりのアッチェルランドをかけて追い込んで行ったことなども、その一例ではなかろうか。もっとも、こういう指揮をする人は少なくはないのだが。
ハンナ・シュヴァルツが、この8月で80歳になるにもかかわらず、底力のある凄みを湛えた声で母親クリテムネストラを素晴らしく歌ってくれたことに最大の称賛を送りたい。バイロイトやザルツブルクなどで何度も聴いたあの性格派メゾ・ソプラノは、今なお健在だった。立派なものである。
舞台袖から響いた「母親」の不気味な断末魔の悲鳴は、日本人にはあまり出せないタイプの声だったが、まさか彼女のものではなかろう?
カーテンコールは、本当に何年ぶりかと思えるほど、久しぶりに熱狂的な雰囲気になった。熱烈なブラヴォーの合唱が、これを機に、昔通りに復活してくれるといいのだが。
昨年の超弩級名演「サロメ」に続く、ノットと東京響のR・シュトラウス路線。
今年は「エレクトラ」で、歌手陣は以下の通り━━クリスティーン・ガーキー(エレクトラ)、ジェイムズ・アトキンソン(その弟オレスト)、シネイド・キャンベル=ウォレス(その妹クリソテミス)、ハンナ・シュヴァルツ(母親クリテムネストラ)、フランク・ファン・アーケン(その夫エギスト)、山下浩司(オレストの付け人)、伊藤達人・鹿野由之(召使)、増田のり子(監視の女)、金子美香・谷口睦美・池田香織・高橋絵里・田崎尚美(下女)、二期会合唱団。コンサートマスターは小林壱成。
演奏会形式で、歌手陣はステージ前面に立ち、多少の演技(演出監修・トーマス・アレン)を加えながら歌う。
私が聴いた2階席正面6列あたりでは、歌手たちの声は超大編成のオーケストラの最強音にマスクされることが多かったが、それでもクリスティーン・ガーキーの堂々たる体躯から生まれる強靭な声は、そのオーケストラをバックに朗々と響き渡って来ていた。やはり凄い。東京響も昨年の「サロメ」の時と同様、嵐のような勢いで演奏を聴かせてくれた。
「サロメ」と違ってなかなか日本では上演の機会のない「エレクトラ」だが、このような優れた演奏により紹介されたことは嬉しい。R・シュトラウスがあの「ばらの騎士」でオペラの作風の大転換を遂げる以前にはどんな物凄い音楽を書いていたのか、それが日本のファンにも広く知られるいい機会になったことであろう。
ただ、その上で欲を言えばだが━━ノットの指揮がややスペクタクルな側面に重点が置かれてしまい、「悲劇」という側面が希薄になっていたことには、些かの疑問が残る。
たとえば全曲の結び、総譜にritard.molto(極度に減速して)からlangsam(遅く)と指定された最後の6小節で、ノットがかなりのアッチェルランドをかけて追い込んで行ったことなども、その一例ではなかろうか。もっとも、こういう指揮をする人は少なくはないのだが。
ハンナ・シュヴァルツが、この8月で80歳になるにもかかわらず、底力のある凄みを湛えた声で母親クリテムネストラを素晴らしく歌ってくれたことに最大の称賛を送りたい。バイロイトやザルツブルクなどで何度も聴いたあの性格派メゾ・ソプラノは、今なお健在だった。立派なものである。
舞台袖から響いた「母親」の不気味な断末魔の悲鳴は、日本人にはあまり出せないタイプの声だったが、まさか彼女のものではなかろう?
カーテンコールは、本当に何年ぶりかと思えるほど、久しぶりに熱狂的な雰囲気になった。熱烈なブラヴォーの合唱が、これを機に、昔通りに復活してくれるといいのだが。
2023・5・13(土)METライブビューイング「ファルスタッフ」
東劇 6時30分
4月1日にMETで上演されたヴェルディの「ファルスタッフ」のライヴ。これは新演出ではなく、リバイバル・レパートリーだ。
指揮がダニエレ・ルスティオーニ、演出がロバート・カーセン。
主役歌手陣は、ミヒャエル・フォレ(ファルスタッフ)、クリストファー・マルトマン(フォード)、アイリーン・ペレス(フォード夫人アリーチェ)、ジェニファー・ジョンソン・キャーノ(ページ夫人メグ)、マリー=ニコル・ルミュー(クイックリー夫人)、ヘラ・ヘサン・パク(ナンネッタ)、ボグダン・ヴォルコフ(フェントン)。
ワーグナーもので定評のあるミヒャエル・フォレが、実にいい味を出している。顔の演技の細かいところが、愛敬と威厳とを綯い交ぜにした雰囲気をよく出していて、まことに愛すべきファルスタッフだ。その他の歌手陣もMETらしく安定して粒が揃っている。
だが何と言っても目を惹くのは、ロバート・カーセンの機知に富んだ、洒落た演出だろう。演技もすこぶる微細で面白いが、場面設定も工夫されていて、ファルスタッフが居座るガーター亭が個室になっていたり、彼がずぶぬれになって戻って来た場所が馬小屋だったり、「陽気な女房たち」が集まる「フォード家の庭先」がレストランに設定され、彼女らのあまりの騒々しさに他の客が顰蹙したり、といった趣向も悪くない。
昨日から公開されている。終映は9時半。
4月1日にMETで上演されたヴェルディの「ファルスタッフ」のライヴ。これは新演出ではなく、リバイバル・レパートリーだ。
指揮がダニエレ・ルスティオーニ、演出がロバート・カーセン。
主役歌手陣は、ミヒャエル・フォレ(ファルスタッフ)、クリストファー・マルトマン(フォード)、アイリーン・ペレス(フォード夫人アリーチェ)、ジェニファー・ジョンソン・キャーノ(ページ夫人メグ)、マリー=ニコル・ルミュー(クイックリー夫人)、ヘラ・ヘサン・パク(ナンネッタ)、ボグダン・ヴォルコフ(フェントン)。
ワーグナーもので定評のあるミヒャエル・フォレが、実にいい味を出している。顔の演技の細かいところが、愛敬と威厳とを綯い交ぜにした雰囲気をよく出していて、まことに愛すべきファルスタッフだ。その他の歌手陣もMETらしく安定して粒が揃っている。
だが何と言っても目を惹くのは、ロバート・カーセンの機知に富んだ、洒落た演出だろう。演技もすこぶる微細で面白いが、場面設定も工夫されていて、ファルスタッフが居座るガーター亭が個室になっていたり、彼がずぶぬれになって戻って来た場所が馬小屋だったり、「陽気な女房たち」が集まる「フォード家の庭先」がレストランに設定され、彼女らのあまりの騒々しさに他の客が顰蹙したり、といった趣向も悪くない。
昨日から公開されている。終映は9時半。
2023・5・13(土)沖澤のどか指揮読売日本交響楽団
東京芸術劇場コンサートホール 2時
エルガーの「ヴァイオリン協奏曲」が、ソリストに三浦文彰を招いて演奏されたあと、第2部ではワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲とR・シュトラウスの「死と変容」が切れ目なしに演奏されるという珍しいプログラム。コンサートマスターは林悠介。
先月の沖澤のどかの京響常任指揮者就任定期を聞き逃していたこともあって、今日の演奏会は私が心待ちにしていたものだった。しかも今回はドイツ・後期ロマン派の作品が2曲含まれているので、彼女がどのようなアプローチを聴かせてくれるか、ますます興味津々だったわけである。
演奏の出来栄えは予想通り。端然として清澄、乱れず崩れず、完璧な均衡を備えた構築美、といった指揮で、あの強豪オケの読響をよくぞここまで制御したものだと舌を巻いた。
いずれも極度に整然として、官能的な狂乱や興奮や陶酔からは距離を置いたような解釈のため、「トリスタン」は一種の純愛物語のようなイメージになり、また「死と変容」は毅然たる涅槃の境地とでもいった雰囲気の音楽になっているので、それが議論の対象になるかもしれない。しかし、その音楽に冷たさといったものが全くなく、驚くほど瑞々しい美しさにあふれているのが、彼女の良さであろう。
あたかもこれは、メンデルスゾーンの眼を通して視たような後期ロマン派の世界━━とでもいうか。だがいずれにせよ、このような演奏も多分彼女にとっての完成品ではなかろうと思うし、これからどう変って行くかに注目したいところだ。
エルガーの協奏曲での彼女の指揮は、同じく端整だが、そのオーケストラの音色の明晰さ、爽やかさ、明るさに惹き付けられた。三浦文彰も彼女の音楽を意識したのか、それともエルガーに対するアプローチを工夫したのか、他の機会に聴く彼とはちょっとイメージが違っていて、それがまた面白かった。
エルガーの「ヴァイオリン協奏曲」が、ソリストに三浦文彰を招いて演奏されたあと、第2部ではワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲とR・シュトラウスの「死と変容」が切れ目なしに演奏されるという珍しいプログラム。コンサートマスターは林悠介。
先月の沖澤のどかの京響常任指揮者就任定期を聞き逃していたこともあって、今日の演奏会は私が心待ちにしていたものだった。しかも今回はドイツ・後期ロマン派の作品が2曲含まれているので、彼女がどのようなアプローチを聴かせてくれるか、ますます興味津々だったわけである。
演奏の出来栄えは予想通り。端然として清澄、乱れず崩れず、完璧な均衡を備えた構築美、といった指揮で、あの強豪オケの読響をよくぞここまで制御したものだと舌を巻いた。
いずれも極度に整然として、官能的な狂乱や興奮や陶酔からは距離を置いたような解釈のため、「トリスタン」は一種の純愛物語のようなイメージになり、また「死と変容」は毅然たる涅槃の境地とでもいった雰囲気の音楽になっているので、それが議論の対象になるかもしれない。しかし、その音楽に冷たさといったものが全くなく、驚くほど瑞々しい美しさにあふれているのが、彼女の良さであろう。
あたかもこれは、メンデルスゾーンの眼を通して視たような後期ロマン派の世界━━とでもいうか。だがいずれにせよ、このような演奏も多分彼女にとっての完成品ではなかろうと思うし、これからどう変って行くかに注目したいところだ。
エルガーの協奏曲での彼女の指揮は、同じく端整だが、そのオーケストラの音色の明晰さ、爽やかさ、明るさに惹き付けられた。三浦文彰も彼女の音楽を意識したのか、それともエルガーに対するアプローチを工夫したのか、他の機会に聴く彼とはちょっとイメージが違っていて、それがまた面白かった。
2023・5・12(金)山田和樹指揮東京都響 三善晃の「反戦三部作」
東京文化会館大ホール 7時
三善晃の生誕90年と没後10年を記念しての「定期A」で、「反戦三部作」と題し、①「混声合唱とオーケストラのための《レクイエム》」(1972)、②同「詩篇」(1979)、③「童声合唱とオーケストラのための《響紋》」(1984)が演奏された。
協演の合唱団は、①と②がキハラ良尚指揮の東京混声合唱団および藤井宏樹指揮の武蔵野音楽大学合唱団、③が長谷川久恵指揮の東京少年少女合唱隊。コンサートマスターは山本友重。
大合唱と大管弦楽による大規模なこの3つの作品をいっぺんに、それもナマで聴ける機会など、滅多にないだろう。演奏する方も並大抵のパワーでは追いつかないだろうし、聴く側でもかなりのエネルギーを要するだろう。今日はステージも客席も、異様なほどの熱気で盛り上がっていた。
山田和樹は━━背後から見ていてさえ━━あんなに物凄い勢いで指揮していたのを見たことがない。合唱団は、特に女声は、全篇これ絶叫の連続と感じられるほどの歌唱を2曲、延べ1時間にわたって強靭に繰り広げて見せた。
またオーケストラも、特に打楽器群を筆頭に激烈な怒号咆哮の連続で、少年少女合唱団が可憐な童歌を聴かせる「響紋」においてさえ、それを踏みにじる戦争の暴圧的な力を象徴するように轟き続けた。実に驚異的な、入魂の演奏だったと言えるだろう。
三善晃が、鎮魂というよりはむしろ、戦争というものへの怒りの叫びを叩きつけた音楽は、かくして見事に再現されていたのだった。山田和樹をはじめ、東京都交響楽団と東京混声合唱団、東京少年少女合唱隊、それに都響の企画担当に対し、敬意を捧げたいと思う。
とはいえ、私自身に関して言えば、この演奏、著しく疲弊消耗させられたのも事実であった。特に「レクイエム」と「詩篇」が━━間に休憩時間は設けられていたが━━合わせておよそ1時間近く、阿鼻叫喚ともいうべき音楽の連続だったからだろう。
ふつう、交響曲だろうとオペラだろうと、あるいは宗教曲だろうと、全曲の構成には必ず山と谷、急と緩、強と弱、緊張と解放━━といった対比があり、それが組み合わされて大きな起伏がつくられて行くものだろうが、この2曲では、ほぼ全曲にわたって山、急、強、緊張の連続のような構成になっているのである。女声合唱の高音域での最強音の連続など、今の私の耳には、些か刺激が強すぎた(サイドあるいは上階席で聴いたとしたら、印象は変わったかもしれないが)。
こうなると、故・三善晃は、この3曲を一夜の演奏会で上演することを本当に望んでいたのだろうか、という疑問さえ起って来るのだが、━━いや、そんなことを言うのは遠慮しておこう。今夜の東京文化会館大ホールの盛り上がりからすれば、私のような意見はきっと極少数派に違いないから。それにしても、最後の「響紋」での児童合唱の美しさには救われた。
三善晃の生誕90年と没後10年を記念しての「定期A」で、「反戦三部作」と題し、①「混声合唱とオーケストラのための《レクイエム》」(1972)、②同「詩篇」(1979)、③「童声合唱とオーケストラのための《響紋》」(1984)が演奏された。
協演の合唱団は、①と②がキハラ良尚指揮の東京混声合唱団および藤井宏樹指揮の武蔵野音楽大学合唱団、③が長谷川久恵指揮の東京少年少女合唱隊。コンサートマスターは山本友重。
大合唱と大管弦楽による大規模なこの3つの作品をいっぺんに、それもナマで聴ける機会など、滅多にないだろう。演奏する方も並大抵のパワーでは追いつかないだろうし、聴く側でもかなりのエネルギーを要するだろう。今日はステージも客席も、異様なほどの熱気で盛り上がっていた。
山田和樹は━━背後から見ていてさえ━━あんなに物凄い勢いで指揮していたのを見たことがない。合唱団は、特に女声は、全篇これ絶叫の連続と感じられるほどの歌唱を2曲、延べ1時間にわたって強靭に繰り広げて見せた。
またオーケストラも、特に打楽器群を筆頭に激烈な怒号咆哮の連続で、少年少女合唱団が可憐な童歌を聴かせる「響紋」においてさえ、それを踏みにじる戦争の暴圧的な力を象徴するように轟き続けた。実に驚異的な、入魂の演奏だったと言えるだろう。
三善晃が、鎮魂というよりはむしろ、戦争というものへの怒りの叫びを叩きつけた音楽は、かくして見事に再現されていたのだった。山田和樹をはじめ、東京都交響楽団と東京混声合唱団、東京少年少女合唱隊、それに都響の企画担当に対し、敬意を捧げたいと思う。
とはいえ、私自身に関して言えば、この演奏、著しく疲弊消耗させられたのも事実であった。特に「レクイエム」と「詩篇」が━━間に休憩時間は設けられていたが━━合わせておよそ1時間近く、阿鼻叫喚ともいうべき音楽の連続だったからだろう。
ふつう、交響曲だろうとオペラだろうと、あるいは宗教曲だろうと、全曲の構成には必ず山と谷、急と緩、強と弱、緊張と解放━━といった対比があり、それが組み合わされて大きな起伏がつくられて行くものだろうが、この2曲では、ほぼ全曲にわたって山、急、強、緊張の連続のような構成になっているのである。女声合唱の高音域での最強音の連続など、今の私の耳には、些か刺激が強すぎた(サイドあるいは上階席で聴いたとしたら、印象は変わったかもしれないが)。
こうなると、故・三善晃は、この3曲を一夜の演奏会で上演することを本当に望んでいたのだろうか、という疑問さえ起って来るのだが、━━いや、そんなことを言うのは遠慮しておこう。今夜の東京文化会館大ホールの盛り上がりからすれば、私のような意見はきっと極少数派に違いないから。それにしても、最後の「響紋」での児童合唱の美しさには救われた。
2023・5・11(木)エッシェンバッハ指揮ベルリン・コンツェルトハウス管
サントリーホール 7時
来日公演の3日目。ウェーバーの「魔弾の射手」序曲、シューマンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは五嶋みどり)、ブラームスの「交響曲第4番」。
アンコール曲は五嶋みどりがバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番」の「フーガ」、オーケストラはブラームスの「ハンガリー舞曲」第1番と第5番。
コンサートマスターは日下紗矢子。因みにこのオーケストラには第1コンツェルトマイスターが2人いるが、ひとりは彼女、もうひとりはSuyoen Kimという、いずれも東洋人女性がそのポストを占めているのが興味深い。
そういえば、ブラームスの第4楽章で見事なソロを聴かせた首席フルートもYubeen Kimという人だった。メンバー表を見ると、その他弦にも何人か東洋系の人の名が見える。
今日の圧巻は、やはりシューマンとブラームスだった。
シューマンの協奏曲では、エッシェンバッハとコンツェルトハウス管が柔らかく静謐な音色でサポートするのと対照的に、五嶋みどりは全身全霊をこめた情熱的なソロで語る。精神的に引き裂かれているシューマンの人格の二つの面が交錯するさまを連想させられてしまうような演奏だ。この曲をこれだけ表情豊かに表現できるヴァイオリニストは古今それほど多くないと思われるが、五嶋みどりはその稀有なひとりではないだろうか、とさえ思う。
それに彼女がアンコールで弾いたバッハがこれまた凄い起伏の演奏で、弱音から始まった音がみるみるその大きさと量感を増し、緊張感を高めて行くという凄さには驚かされた。
「第4交響曲」は、予想通り、「良きドイツの」ブラームス。第2楽章第2主題での幅広い陰翳豊かな弦の音色など、北ドイツのオーケストラならではの素晴らしさではなかろうか。そして後半2楽章での、ここぞという時にぐんと力感を増し、音楽そのものが持つ説得力を更に強調する巧みさも同様だ。
今回、横浜での「1番」と「3番」を聴けなかったのは残念だったが、エッシェンバッハとベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団のブラームスの素晴らしさは充分理解できたと思っている。
なお、「魔弾の射手」序曲では、コントラバスなどの低弦が響いて来ない所為もあって、妙に音が軽く硬く聞こえてしまい、一昨日オペラシティで聴いた時の感動がさっぱり蘇って来なかった。この音は、もしや席の位置(1階15列ほぼ中央)の関係かと思ったのだが、シューマンとブラームスでの響きの良さからすると、どうやら演奏そのものの所為だったようである。
今夜も終演は9時半近く。
来日公演の3日目。ウェーバーの「魔弾の射手」序曲、シューマンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは五嶋みどり)、ブラームスの「交響曲第4番」。
アンコール曲は五嶋みどりがバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番」の「フーガ」、オーケストラはブラームスの「ハンガリー舞曲」第1番と第5番。
コンサートマスターは日下紗矢子。因みにこのオーケストラには第1コンツェルトマイスターが2人いるが、ひとりは彼女、もうひとりはSuyoen Kimという、いずれも東洋人女性がそのポストを占めているのが興味深い。
そういえば、ブラームスの第4楽章で見事なソロを聴かせた首席フルートもYubeen Kimという人だった。メンバー表を見ると、その他弦にも何人か東洋系の人の名が見える。
今日の圧巻は、やはりシューマンとブラームスだった。
シューマンの協奏曲では、エッシェンバッハとコンツェルトハウス管が柔らかく静謐な音色でサポートするのと対照的に、五嶋みどりは全身全霊をこめた情熱的なソロで語る。精神的に引き裂かれているシューマンの人格の二つの面が交錯するさまを連想させられてしまうような演奏だ。この曲をこれだけ表情豊かに表現できるヴァイオリニストは古今それほど多くないと思われるが、五嶋みどりはその稀有なひとりではないだろうか、とさえ思う。
それに彼女がアンコールで弾いたバッハがこれまた凄い起伏の演奏で、弱音から始まった音がみるみるその大きさと量感を増し、緊張感を高めて行くという凄さには驚かされた。
「第4交響曲」は、予想通り、「良きドイツの」ブラームス。第2楽章第2主題での幅広い陰翳豊かな弦の音色など、北ドイツのオーケストラならではの素晴らしさではなかろうか。そして後半2楽章での、ここぞという時にぐんと力感を増し、音楽そのものが持つ説得力を更に強調する巧みさも同様だ。
今回、横浜での「1番」と「3番」を聴けなかったのは残念だったが、エッシェンバッハとベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団のブラームスの素晴らしさは充分理解できたと思っている。
なお、「魔弾の射手」序曲では、コントラバスなどの低弦が響いて来ない所為もあって、妙に音が軽く硬く聞こえてしまい、一昨日オペラシティで聴いた時の感動がさっぱり蘇って来なかった。この音は、もしや席の位置(1階15列ほぼ中央)の関係かと思ったのだが、シューマンとブラームスでの響きの良さからすると、どうやら演奏そのものの所為だったようである。
今夜も終演は9時半近く。
2023・5・10(水)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル
サントリーホール 7時
東京フィルハーモニー交響楽団の特別客演指揮者ミハイル・プレトニョフが、生誕150年・没後80年のラフマニノフの作品を指揮した。幻想曲「岩」、交響詩「死の島」、「交響的舞曲」というプログラムだ。コンサートマスターは依田真宣。
「岩」は、プログラム冊子の解説で一柳冨美子さんが題名の「誤訳」について指摘しているが、たしかにこの幻想曲の素材となったレールモントフの詩の内容に従えば、「断崖」とでも呼ぶ方がより幻想的なイメージも湧くことだろう(ヒッチコック映画にもそういう題名があったし・・・・)。「岩」では、味も素っ気もロマンも無い。
とにかく、プログラムの第1部はこの「岩」と「死の島」という重苦しい曲が二つ並んでいたわけだが、「岩」の開始部での静かな色彩感はさすがプレトニョフと思えるもので、曲全体にも叙情的な美しさが拡がっていた。東京フィルもいい音を出す。昨夜はドイツのオーケストラを絶賛したばかりだが、日本のオーケストラだって立派なものだぜ、と言いたい。
だがしかし、そのあとの「死の島」は、冒頭こそあのベックリンの不気味な画を目の当たりにするような重々しい不気味さで始まったけれど、最強奏では響きが混濁して、力み返ったような騒々しさが感じられ、些かいただけない。多分、練習不足だったのでは?
この日は初日だったから、12日と14日の公演では、あるいはもっと神秘的な趣きが生まれるかもしれない━━本当は初日から完全な演奏を聴かせてもらいたいのだけれど、日本ではオーケストラにしてもオペラにしても、どうもそうは行かないようだ。
「交響的舞曲」は、見事な演奏だった。ラフマニノフ晩年の精妙な管弦楽法が浮き彫りにされ、色彩感も推進性も充分な演奏だったと思える。第1楽章で爆発した主題が急激にディミニュエンドして行く際に、木管群ももう少しそれに合わせて弱音に達してくれればいいのだけれど、などと感じたことは事実だが、「怒りの日」のモティーフが解決をみるかのような第3楽章最後の昂揚感は、極めて聴き応えがあるものだった。
今年のプレトニョフと東京フィルは、先頃の「マンフレッド交響曲」といい、今日の演奏と言い、快調である。8時45分頃終演。
東京フィルハーモニー交響楽団の特別客演指揮者ミハイル・プレトニョフが、生誕150年・没後80年のラフマニノフの作品を指揮した。幻想曲「岩」、交響詩「死の島」、「交響的舞曲」というプログラムだ。コンサートマスターは依田真宣。
「岩」は、プログラム冊子の解説で一柳冨美子さんが題名の「誤訳」について指摘しているが、たしかにこの幻想曲の素材となったレールモントフの詩の内容に従えば、「断崖」とでも呼ぶ方がより幻想的なイメージも湧くことだろう(ヒッチコック映画にもそういう題名があったし・・・・)。「岩」では、味も素っ気もロマンも無い。
とにかく、プログラムの第1部はこの「岩」と「死の島」という重苦しい曲が二つ並んでいたわけだが、「岩」の開始部での静かな色彩感はさすがプレトニョフと思えるもので、曲全体にも叙情的な美しさが拡がっていた。東京フィルもいい音を出す。昨夜はドイツのオーケストラを絶賛したばかりだが、日本のオーケストラだって立派なものだぜ、と言いたい。
だがしかし、そのあとの「死の島」は、冒頭こそあのベックリンの不気味な画を目の当たりにするような重々しい不気味さで始まったけれど、最強奏では響きが混濁して、力み返ったような騒々しさが感じられ、些かいただけない。多分、練習不足だったのでは?
この日は初日だったから、12日と14日の公演では、あるいはもっと神秘的な趣きが生まれるかもしれない━━本当は初日から完全な演奏を聴かせてもらいたいのだけれど、日本ではオーケストラにしてもオペラにしても、どうもそうは行かないようだ。
「交響的舞曲」は、見事な演奏だった。ラフマニノフ晩年の精妙な管弦楽法が浮き彫りにされ、色彩感も推進性も充分な演奏だったと思える。第1楽章で爆発した主題が急激にディミニュエンドして行く際に、木管群ももう少しそれに合わせて弱音に達してくれればいいのだけれど、などと感じたことは事実だが、「怒りの日」のモティーフが解決をみるかのような第3楽章最後の昂揚感は、極めて聴き応えがあるものだった。
今年のプレトニョフと東京フィルは、先頃の「マンフレッド交響曲」といい、今日の演奏と言い、快調である。8時45分頃終演。
2023・5・9(火)エッシェンバッハ指揮ベルリン・コンツェルトハウス管
東京オペラシティ コンサートホール 7時
ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団が4年ぶりに来日している。首席指揮者は2019年秋から在任しているクリストフ・エッシェンバッハだが、彼の任期は今シーズンまでで、今年秋にはヨアナ・マルヴィッツが就任するとのこと。
今回の来日ツアーは5回公演で、今日はその初日である。プログラムはウェーバーの「魔弾の射手」序曲、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」(ソリストは佐藤晴真)、ブラームスの「交響曲第2番」。佐藤のソロ・アンコールはカザルスの「鳥の歌」、オケのアンコールはブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」。コンサートマスターは日下紗矢子。終演は9時半になった。
実に久しぶりに聴くドイツの、それもベルリンのオーケストラ。「魔弾の射手」序曲冒頭の深々として力に満ちた低弦の響き、ホルン群の控えめだが豊潤な音色、弦のトレモロの宏大な空間的拡がりなど、この何年かのあいだ忘れていたドイツのオーケストラの良き伝統的な音色が鮮やかに立ち現れて来る。
以前は日常的に聴ける機会もあったため、慣れっこになって特別な感銘を受けるほどでもなくなっていた各国のオーケストラの音色や個性が、しばらくの中断ののち接してみると、非常に新鮮な印象を与えてくれるのだ。やっとまたナマでいろいろな国のオーケストラを聴ける日が戻りつつあることを喜びたい。
それにしてもこのベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団は、まだこういう音を失わずにいたのか。ブラームスのシンフォニーでのしっとりとして厚みのある、内声部をも豊かに響かせた陰影に富む響きなど、聴いていると陶然とさせられる。
とりわけこのブラームスでは、エッシェンバッハの指揮が実に起伏豊かで、叙情的な第2楽章や第3楽章においてさえ、それらの頂点で烈しい興奮に高めて行くのには少々驚かされた。第4楽章でも終始猛烈なエネルギーで突進するので、これでは・・・・と危惧したのだが案の定、大詰めのクライマックスがさほど際立たなくなるという結果になった。しかし、さすがにいいブラームスを聴かせてもらった、という印象である。
ドヴォルジャークの協奏曲では、佐藤晴真が豊潤な演奏を聴かせてくれた。とはいえベルリンのオケをバックに弾くと、やはり随分なだらかな音楽に聞こえてしまうのだが、この辺りが難しいところだろう。第3楽章中ほどの、ヴァイオリンのソロが独奏チェロと猛然張り合う個所では、日下紗矢子がチェロを圧倒するような演奏を聴かせていた。
佐藤晴真が本領を示したのは、「鳥の歌」でのスケールの大きい、深みのある歌においてである。
ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団が4年ぶりに来日している。首席指揮者は2019年秋から在任しているクリストフ・エッシェンバッハだが、彼の任期は今シーズンまでで、今年秋にはヨアナ・マルヴィッツが就任するとのこと。
今回の来日ツアーは5回公演で、今日はその初日である。プログラムはウェーバーの「魔弾の射手」序曲、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」(ソリストは佐藤晴真)、ブラームスの「交響曲第2番」。佐藤のソロ・アンコールはカザルスの「鳥の歌」、オケのアンコールはブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」。コンサートマスターは日下紗矢子。終演は9時半になった。
実に久しぶりに聴くドイツの、それもベルリンのオーケストラ。「魔弾の射手」序曲冒頭の深々として力に満ちた低弦の響き、ホルン群の控えめだが豊潤な音色、弦のトレモロの宏大な空間的拡がりなど、この何年かのあいだ忘れていたドイツのオーケストラの良き伝統的な音色が鮮やかに立ち現れて来る。
以前は日常的に聴ける機会もあったため、慣れっこになって特別な感銘を受けるほどでもなくなっていた各国のオーケストラの音色や個性が、しばらくの中断ののち接してみると、非常に新鮮な印象を与えてくれるのだ。やっとまたナマでいろいろな国のオーケストラを聴ける日が戻りつつあることを喜びたい。
それにしてもこのベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団は、まだこういう音を失わずにいたのか。ブラームスのシンフォニーでのしっとりとして厚みのある、内声部をも豊かに響かせた陰影に富む響きなど、聴いていると陶然とさせられる。
とりわけこのブラームスでは、エッシェンバッハの指揮が実に起伏豊かで、叙情的な第2楽章や第3楽章においてさえ、それらの頂点で烈しい興奮に高めて行くのには少々驚かされた。第4楽章でも終始猛烈なエネルギーで突進するので、これでは・・・・と危惧したのだが案の定、大詰めのクライマックスがさほど際立たなくなるという結果になった。しかし、さすがにいいブラームスを聴かせてもらった、という印象である。
ドヴォルジャークの協奏曲では、佐藤晴真が豊潤な演奏を聴かせてくれた。とはいえベルリンのオケをバックに弾くと、やはり随分なだらかな音楽に聞こえてしまうのだが、この辺りが難しいところだろう。第3楽章中ほどの、ヴァイオリンのソロが独奏チェロと猛然張り合う個所では、日下紗矢子がチェロを圧倒するような演奏を聴かせていた。
佐藤晴真が本領を示したのは、「鳥の歌」でのスケールの大きい、深みのある歌においてである。
2023・5・8(月)準・メルクル指揮台湾フィルハーモニック
東京オペラシティ コンサートホール 7時
1986年創立のオーケストラ。2019年に当時の音楽監督・呂紹嘉とともに来日したことがあるとのこと。本国での正式名称は「國家交響楽團」なる由。
何となく心当たりがあるので調べてみたら、かつてPMFでアシスタント指揮者を務めるなど日本のファンにもおなじみだったチェン・ウェンピン(簡文彬)が音楽監督を務めていたこともあるそのオーケストラだった。
ただし、彼とその交響楽団が録音したCDでの表示は「フィルハーモニア台湾」となっていたが━━いずれにせよ、外国向けの便宜的な名称なのかもしれない。現在の音楽監督は、2022年に就任した準・メルクル(準・馬寇爾)である。
今回の来日公演のプログラムは、①德布西の「海」(ドビュッシーの「海」)、②布魯赫の「蘇格蘭幻想曲」(ブルッフの「スコットランド幻想曲」)、③金希文の「日出台灣」(チン・ゴードンの「ゴールデン・ビーム・オン・ザ・ホライズン・オブ・フォルモサ」)、④貝多芬の「合唱幻想曲」(ベートーヴェンの「合唱幻想曲」)というものだった。
さらに、「スコットランド幻想曲」のソロを弾いた林晶任(リチャード・リン)がアンコールを2曲━━マスネの「タイ―スの瞑想曲」とイグデスマンの「ファンク・ザ・ストリング」、最後にオーケストラのアンコールとして蕭泰然の「福爾摩沙的天使」(アンコール掲示板による)。因みにその福爾摩沙(フォルモサ)とは台湾のこと。
協演者は他に、八角塔男声合唱団と東京メトロポリタン合唱団(①④)、福間洸太朗(④)、それに安井陽子、種谷典子、杉山由紀、福井敬、与儀巧、甲斐栄次郎(以上④)。という具合に、すこぶる大がかりな演奏会であった。
この作品群の中で、オーケストラの本領を示すのはやはり「海」ということになろう。少し荒々しいところもあるが音響的なパワーは充分であり、準・メルクルにより巧みに保たれた均衡から生まれる叙情的な表現も豊かで、聴き応えがあった。他にも、アンコール曲での弦のしなやかな歌の美しさなどが印象に残る。いいオーケストラである。
それにしても準・メルクルの指揮はやはり「持って行き方」が上手い。「合唱幻想曲」のコーダなど、(もともとそっくりの)「第9」を彷彿とさせる盛り上がりが築かれていたと言ってよい。
終演は9時20分頃。客席は多国籍の聴衆で満員。熱っぽいステージの雰囲気、明るい表情の楽員たち。あの人たちの国、台湾にいつまでも平和が続きますように。
1986年創立のオーケストラ。2019年に当時の音楽監督・呂紹嘉とともに来日したことがあるとのこと。本国での正式名称は「國家交響楽團」なる由。
何となく心当たりがあるので調べてみたら、かつてPMFでアシスタント指揮者を務めるなど日本のファンにもおなじみだったチェン・ウェンピン(簡文彬)が音楽監督を務めていたこともあるそのオーケストラだった。
ただし、彼とその交響楽団が録音したCDでの表示は「フィルハーモニア台湾」となっていたが━━いずれにせよ、外国向けの便宜的な名称なのかもしれない。現在の音楽監督は、2022年に就任した準・メルクル(準・馬寇爾)である。
今回の来日公演のプログラムは、①德布西の「海」(ドビュッシーの「海」)、②布魯赫の「蘇格蘭幻想曲」(ブルッフの「スコットランド幻想曲」)、③金希文の「日出台灣」(チン・ゴードンの「ゴールデン・ビーム・オン・ザ・ホライズン・オブ・フォルモサ」)、④貝多芬の「合唱幻想曲」(ベートーヴェンの「合唱幻想曲」)というものだった。
さらに、「スコットランド幻想曲」のソロを弾いた林晶任(リチャード・リン)がアンコールを2曲━━マスネの「タイ―スの瞑想曲」とイグデスマンの「ファンク・ザ・ストリング」、最後にオーケストラのアンコールとして蕭泰然の「福爾摩沙的天使」(アンコール掲示板による)。因みにその福爾摩沙(フォルモサ)とは台湾のこと。
協演者は他に、八角塔男声合唱団と東京メトロポリタン合唱団(①④)、福間洸太朗(④)、それに安井陽子、種谷典子、杉山由紀、福井敬、与儀巧、甲斐栄次郎(以上④)。という具合に、すこぶる大がかりな演奏会であった。
この作品群の中で、オーケストラの本領を示すのはやはり「海」ということになろう。少し荒々しいところもあるが音響的なパワーは充分であり、準・メルクルにより巧みに保たれた均衡から生まれる叙情的な表現も豊かで、聴き応えがあった。他にも、アンコール曲での弦のしなやかな歌の美しさなどが印象に残る。いいオーケストラである。
それにしても準・メルクルの指揮はやはり「持って行き方」が上手い。「合唱幻想曲」のコーダなど、(もともとそっくりの)「第9」を彷彿とさせる盛り上がりが築かれていたと言ってよい。
終演は9時20分頃。客席は多国籍の聴衆で満員。熱っぽいステージの雰囲気、明るい表情の楽員たち。あの人たちの国、台湾にいつまでも平和が続きますように。
2023・5・7(日)大室晃子ピアノ・リサイタル
東京オペラシティ リサイタルホール 2時
2年ぶりに彼女のリサイタルを聴く。プログラムは、ニーノ・ロータの「戯れるイッポリート」、バッハの「イタリア協奏曲」、ラフマニノフの「コレッリの主題による変奏曲」、リストの「《リゴレット》による演奏会用パラフレーズ」、ワーグナー~リストの「愛の死」、ウェーバーの「ピアノ・ソナタ第2番」。
御本人の考えた選曲コンセプトは「太陽の輝くイタリアからブレンナー峠を越えてドイツの深い森への旅」ということである。
アンコールは、長生淳の「春紡ぎ」と、バッハの「ガヴォット」(無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番からのもの、ラフマニノフ編)。
2年前のリサイタル(☞2021年7月22日)の時にも感じたことだが、彼女の演奏には極めて強い推進性がある。「イタリア協奏曲」の第3楽章など、押しに押すそのエネルギー感が良い方向に発揮されていて、こういうタフな思い切りのいいバッハ像もひとつのあり方だな、などと感じながら聴いていた。「《リゴレット》による演奏会用パラフレーズ」などのようなでの盛り上がり方もいい。
ただ、ウェーバーのソナタでは、主題の受け渡しなどの個所で、もう少しテンポやデュナミークに「引き締めと解放」といったような調整が細かく行われた方が良いのでは、と思うのだが如何。いずれにせよ、聴き終った時の充実感は、2年前のリサイタルの時よりも今回はさらに高い。
2年ぶりに彼女のリサイタルを聴く。プログラムは、ニーノ・ロータの「戯れるイッポリート」、バッハの「イタリア協奏曲」、ラフマニノフの「コレッリの主題による変奏曲」、リストの「《リゴレット》による演奏会用パラフレーズ」、ワーグナー~リストの「愛の死」、ウェーバーの「ピアノ・ソナタ第2番」。
御本人の考えた選曲コンセプトは「太陽の輝くイタリアからブレンナー峠を越えてドイツの深い森への旅」ということである。
アンコールは、長生淳の「春紡ぎ」と、バッハの「ガヴォット」(無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番からのもの、ラフマニノフ編)。
2年前のリサイタル(☞2021年7月22日)の時にも感じたことだが、彼女の演奏には極めて強い推進性がある。「イタリア協奏曲」の第3楽章など、押しに押すそのエネルギー感が良い方向に発揮されていて、こういうタフな思い切りのいいバッハ像もひとつのあり方だな、などと感じながら聴いていた。「《リゴレット》による演奏会用パラフレーズ」などのようなでの盛り上がり方もいい。
ただ、ウェーバーのソナタでは、主題の受け渡しなどの個所で、もう少しテンポやデュナミークに「引き締めと解放」といったような調整が細かく行われた方が良いのでは、と思うのだが如何。いずれにせよ、聴き終った時の充実感は、2年前のリサイタルの時よりも今回はさらに高い。
2023・5・6(土)ラ・フォル・ジュルネ3日目(最終日)
ベートーヴェンと太鼓の邂逅
東京国際フォーラム ホールC 8時30分~9時30分
こちらはおなじみ林英哲と「英哲風雲の会」を中心に、ピアノの江口玲が共演したコンサート。
プログラム(1枚の紙片)には、林英哲の「コーネルの箱」より、組曲「若冲(じゃくちゅう)の翼~冲しきが若きも~」、ベートーヴェンの「寿ぎの歌(太鼓構成・林英哲)という3曲が記載され、最後の曲については「ベートーヴェンの歓喜の歌のメロディに合わせて太皷が演奏される」という解説が載っているが、少なくともこれらの曲に関する限り、それに該当する個所は存在しない。
ピアノと太鼓がダブるのは、江口玲が「月光ソナタ」全曲を弾き、その第1楽章で太鼓が弱音のトレモロを繰り返すところだけだった。
結局、私が圧倒されたのは、やはり林英哲と4人の太皷ユニット「風雲の会」の演奏部分である。鍛え抜かれた肉体から生まれる強大な音、地軸を揺るがすような音の壮大荘重な儀式。これだけが全てを語りつくす。
この演奏会が終ったのが9時半頃だが、まだホールAでは「第9」のさなかであり、ホールCではパスカル・アモワイエルと加藤昌則が「ベートーヴェン風即興サロン」をやっている。レストランやパブは煌々と明かりを灯して雑踏している。どうやらコロナ以前に戻って来た雰囲気で、それが嬉しい。
こちらはおなじみ林英哲と「英哲風雲の会」を中心に、ピアノの江口玲が共演したコンサート。
プログラム(1枚の紙片)には、林英哲の「コーネルの箱」より、組曲「若冲(じゃくちゅう)の翼~冲しきが若きも~」、ベートーヴェンの「寿ぎの歌(太鼓構成・林英哲)という3曲が記載され、最後の曲については「ベートーヴェンの歓喜の歌のメロディに合わせて太皷が演奏される」という解説が載っているが、少なくともこれらの曲に関する限り、それに該当する個所は存在しない。
ピアノと太鼓がダブるのは、江口玲が「月光ソナタ」全曲を弾き、その第1楽章で太鼓が弱音のトレモロを繰り返すところだけだった。
結局、私が圧倒されたのは、やはり林英哲と4人の太皷ユニット「風雲の会」の演奏部分である。鍛え抜かれた肉体から生まれる強大な音、地軸を揺るがすような音の壮大荘重な儀式。これだけが全てを語りつくす。
この演奏会が終ったのが9時半頃だが、まだホールAでは「第9」のさなかであり、ホールCではパスカル・アモワイエルと加藤昌則が「ベートーヴェン風即興サロン」をやっている。レストランやパブは煌々と明かりを灯して雑踏している。どうやらコロナ以前に戻って来た雰囲気で、それが嬉しい。
2023・5・6(土)ラ・フォル・ジュルネ3日目(最終日)
ベートーヴェン名作交響曲たちのリズム~多国籍打楽器アンサンブルの饗宴
東京国際フォーラム ホールD7 5時15分~6時
2020年以来、新型コロナ流行のため中断されていた音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ」が再開された。
4年ぶりの開催となる今年のフェスティヴァルは、本拠の東京国際フォーラムでの有料コンサートがA、C、D7の3つのホールでのみ、その他にホールB5でのマスタークラスと講演会、ガラス棟ロビーギャラリーでの「ぴあクラシック+OTTAVA」などのイヴェント、ガラス棟会議室でのオーディオコンサート、周辺エリア(東京駅、帝国ホテル、丸ビル、大手町プレイスなど)での小さな演奏会━━などが催されている。
有料コンサートの開催時間は昔通りの朝10時頃から夜10時頃までだが、会場が3つだけなのと、地下のスペースを使った無料コンサートや大規模展示会などは行われていないため、建物内の通路が薄暗いなどということもあって、コロナ以前のあの熱気に比べると、やはりちょっと寂しい感は抑えきれない。だがたとえ規模は小さくても、今は何よりもまず再開できたことを喜ぶのが先決であろう。
今年のテーマは、再び「ベートーヴェン」だ。出演オーケストラは国内勢のみだが、ソリストにはアンヌ・ケフェレック、ジャン=クロード・ペヌティエ、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェなどの名前も見えた。家族連れで来て楽しむクラシックのイヴェントとしては、特に不足はないだろう。
昔は私もプレス証を携えて国際フォーラムに入り浸り、プレス室で原稿を書いたり、顔見知りのアーティストやマネージャーや取材記者たちと愉快に会食したりしていたものだ(ナントのフォル・ジュルネ本拠地まで取材に行ったこともある)が、今はもうそのような体力もないし、出来る状況にもない。というわけで今回は、音楽祭も閉幕の時間に近い、風変わりな(?)コンサートを2つ、プレス記者として聴くだけにした。
そのひとつが、この長い名前のコンサートである。「オルケスタ・ナッジ!ナッジ!」という打楽器アンサンブルの演奏だ。ボイスプレーヤーを含む11人のメンバーからなり、たっぷり45分間、打楽器群の強烈なリズムに浸る。
「ベートーヴェンの名作交響曲たちのリズム」と題されているけれど、正直言って私には、この壮烈な演奏がベートーヴェンのどの部分と関連しているのか、全く見当がつかなかったことを告白しなければならない。ただ自分なりにこじつければ、ベートーヴェンの交響曲の度外れた熱狂と興奮の恍惚感、革命的な精神、西洋の伝統音楽の枠を飛び越えた国際性などといった要素が、現代の打楽器群の中に蘇った場合には、多分こういうものにもなるだろう━━ということだろうか。
全曲の結びが、ベートーヴェンの音楽さながらの「終了和音が繰り返し叩きつけられる」形になっていたのが可笑しかった。
だが、それよりも舌を巻いたのは、おそらくは即興演奏なのであろう個所での、メンバー間の演奏の俊敏正確な相互反応である。見事なものだった。
2020年以来、新型コロナ流行のため中断されていた音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ」が再開された。
4年ぶりの開催となる今年のフェスティヴァルは、本拠の東京国際フォーラムでの有料コンサートがA、C、D7の3つのホールでのみ、その他にホールB5でのマスタークラスと講演会、ガラス棟ロビーギャラリーでの「ぴあクラシック+OTTAVA」などのイヴェント、ガラス棟会議室でのオーディオコンサート、周辺エリア(東京駅、帝国ホテル、丸ビル、大手町プレイスなど)での小さな演奏会━━などが催されている。
有料コンサートの開催時間は昔通りの朝10時頃から夜10時頃までだが、会場が3つだけなのと、地下のスペースを使った無料コンサートや大規模展示会などは行われていないため、建物内の通路が薄暗いなどということもあって、コロナ以前のあの熱気に比べると、やはりちょっと寂しい感は抑えきれない。だがたとえ規模は小さくても、今は何よりもまず再開できたことを喜ぶのが先決であろう。
今年のテーマは、再び「ベートーヴェン」だ。出演オーケストラは国内勢のみだが、ソリストにはアンヌ・ケフェレック、ジャン=クロード・ペヌティエ、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェなどの名前も見えた。家族連れで来て楽しむクラシックのイヴェントとしては、特に不足はないだろう。
昔は私もプレス証を携えて国際フォーラムに入り浸り、プレス室で原稿を書いたり、顔見知りのアーティストやマネージャーや取材記者たちと愉快に会食したりしていたものだ(ナントのフォル・ジュルネ本拠地まで取材に行ったこともある)が、今はもうそのような体力もないし、出来る状況にもない。というわけで今回は、音楽祭も閉幕の時間に近い、風変わりな(?)コンサートを2つ、プレス記者として聴くだけにした。
そのひとつが、この長い名前のコンサートである。「オルケスタ・ナッジ!ナッジ!」という打楽器アンサンブルの演奏だ。ボイスプレーヤーを含む11人のメンバーからなり、たっぷり45分間、打楽器群の強烈なリズムに浸る。
「ベートーヴェンの名作交響曲たちのリズム」と題されているけれど、正直言って私には、この壮烈な演奏がベートーヴェンのどの部分と関連しているのか、全く見当がつかなかったことを告白しなければならない。ただ自分なりにこじつければ、ベートーヴェンの交響曲の度外れた熱狂と興奮の恍惚感、革命的な精神、西洋の伝統音楽の枠を飛び越えた国際性などといった要素が、現代の打楽器群の中に蘇った場合には、多分こういうものにもなるだろう━━ということだろうか。
全曲の結びが、ベートーヴェンの音楽さながらの「終了和音が繰り返し叩きつけられる」形になっていたのが可笑しかった。
だが、それよりも舌を巻いたのは、おそらくは即興演奏なのであろう個所での、メンバー間の演奏の俊敏正確な相互反応である。見事なものだった。