2023-11

2023年6月 の記事一覧




2023・6・30(金)山田和樹指揮バーミンガム市交響楽団

     サントリーホール  7時

 山田和樹とバーミンガム市響の、これが2回目の日本公演。
 前回(☞2016年6月28日)は、彼は単なる客演指揮者としての同行だったが、今回は首席指揮者兼アーティスティック・アドヴァイザーという堂々の肩書での凱旋公演である。

 東京公演3日目(最終日)の今日は、生誕190年のブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは樫本大進)と、生誕150年・没後80年のラフマニノフの「交響曲第2番」を組み合わせたプログラム。なお、オケのアンコールはエルガーの「夜の歌」。樫本のアンコールはバッハの「無伴奏パルティータ第3番」からの「ルール」だった。

 とにかく、オーケストラの音があたたかく、まろやかで艶やかで、しかもどんな最強奏の個所においても、見事なほどの均衡を保っているのに驚かされた。首席指揮者に就任したのが今年4月という、つい最近のことなのにもかかわらず、山田和樹がこのオーケストラをかくも完璧に制御できていることには、ただ感服するほかはない。彼がこれまで日本フィルや読響を指揮した時にさえ、これほどの完璧なバランスを保った響きをつくり出した演奏は、ついぞ聞いたことがなかったような気がする。彼とこのバーミンガム市響との相性は、よほどいいのだろう。
 少なくともこのオケの演奏が、2013年に当時の首席指揮者アンドリス・ネルソンスと来日した時より、遥かに指揮者と呼吸の合った美しいものだったことは間違いない。

 協奏曲では、ブラームスの音楽がもつヒューマンな優しさを前面に押し出していたが、同時にドイツ音楽らしいがっちりとした構築性にも富んでいた。
 特に第3楽章では、アレグロ・ジョコーソとヴィヴァーチェの指定を存分に生かし、嵐のような激しさにあふれて引き締まって、緊迫感も充分。気魄で突き進む樫本大進との丁々発止の応酬と、しかもイキの合った対話の面白さ。それでいながら両者の演奏が全く乱れず、整然たる均整を保っているのだから凄い。私がこれまで聴いたこの曲の演奏の中でも、最も胸のすくような快演のひとつだったと言っても過言ではない。

 ラフマニノフの交響曲も好かった。どんな最強奏の個所でも音がまろやかで、しかも緻密な均衡を失わぬため、華麗で豪華な音の饗宴というよりは、あたたかく美しい壮大な絵巻といった感の演奏だったが、とかくガリガリした音の威圧的な演奏によるこの曲を聴くことの多い最近、これは心が慰められるような「2番」だったというのが私の印象である。オーケストラの音に素晴らしい重量感があったということが、この演奏を安心して聴けた理由のひとつでもある。

 終演後に楽屋で会ったマエストロの曰く「昨日の方が大ホームランだったのにィ」とのことだったが、今日の演奏だって図抜けて見事なものだったと思う。でもやはり、昨日も聴きに行けばよかった、と後悔。

2023・6・29(木)調布国際音楽祭 川久保・佐藤・松田

      調布市グリーンホール 大ホール  2時

 鈴木優人がエグゼクティブ・プロデューサーを務める「調布国際音楽祭」。今年は第11回で、6月24日から7月2日まで、例年と同じく、調布駅前の調布市グリーンホールや深大寺本堂で開催されている。
 オーケストラには読響やバッハ・コレギウム・ジャパン、フェスティバル・オーケストラ(第9)などが出演、室内楽や歌曲のコンサートなどもある。

 今日聴いたのは室内楽演奏会で、川久保賜紀(vn)、佐藤晴真(vc)、松田華音(pf)の演奏。
 第1部に、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」(プレトニョフ編)から5曲(松田)、同「なつかしい土地の思い出」から2曲(松田、川久保)、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」(佐藤、松田)、チャイコフスキーの「四季」から2曲(松田)。そして第2部ではチャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出に」が3人により演奏される━━というプログラム。

 私の目当てはこのトリオにあったのだが‥‥。そもそもピアノとヴァイオリンとチェロという楽器の構成そのものが、弦楽四重奏のような完璧な融合を生みにくいものだが、今日の演奏も何かひとつしっくり来なかったな、というのが、申し訳ないけれども正直な印象だ。
 ヴァイオリンとチェロが、概して所謂室内楽的な調和を保ちつつ演奏しているのに対し、ピアノはそれらに合わせながらも、己が主題を受け持つ個所になると、突如として大音響で前面に躍り出る、といった感なのである。

 3人が相手の顔色を窺う演奏にとどまるよりは、各々が自己主張を繰り広げる演奏の方がスリルを生むかもしれないが━━とにかく、今日の演奏はその辺りに疑問を生じさせたと言えるかもしれない。
 だが、それにもかかわらず、このチャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出に」が誠実な音楽であるということを思い起こさせてくれたのは確かであった。

2023・6・28(水)アレクサンダー・ソディ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 昨年、東京・春・音楽祭で東京都響を指揮し、マーラーの「第3交響曲」を演奏した(☞2022年4月10日の項)英国の若手、アレクサンダー・ソディが読響に客演、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストは反田恭平)と、チャイコフスキーの「交響曲第4番」を指揮した。

 まだ40歳、昨年のマーラーでも感じられたけれども、すこぶるイキのいい指揮者である。チャイコフスキーの「4番」では、オーケストラを思い切り鳴らす。両端楽章では、この曲のもつエネルギーをすべて、恐ろしい勢いと大音響で放出させた。
 だが、ガンガン鳴らす演奏が悪いというわけではないけれども、陰翳の希薄なこういう演奏で聴くと、両端楽章ではそのくどいほど反復されるモティーフや主題の騒々しさが目立って、いやが上にもヒステリックな音楽という印象が強くなってしまう。いかにチャイコフスキー愛好者たる私でも、これには少々辟易させられた。

 ただその代わり、第2楽章での弦のしっとりした暗い美しさや、第3楽章での弦のピッチカートのバランスの良さという点では、この曲の魅力は充分に表出されていたのではないかと思われる。

 コンチェルトの方では、ソディの「もって行き方の巧さ」が、ずっとよく出ていただろう。このあたりは、さすがオペラの指揮で評判を高めているという彼の長所を示しているようだ。
 そして、人気の反田恭平のピアノが、実に自然な起伏感に溢れていて、音色も表情も表面的な煌びやかさに陥らず、それでいて第1楽章の長いカデンツァなどには毅然たる力が漲っている。もう少し音楽に色彩感があってもいいと思わぬでもないが、これは他の長所でカバーされているだろう。
 ソロ・アンコールは、ショパンの「ラルゴ」。彼がショパン国際コンクールで演奏したのは、この曲だったか?「神よ、ポーランドを守り給え」という曲。

2023・6・27(火)エンリコ・オノフリ指揮ハイドン・フィルハーモニー

      浜離宮朝日ホール  7時

 ハイドンゆかりのエステルハージ城内ハイドン・ザールに本拠を置くオーケストラ、ハイドン・フィルハーモニーが来日。
 過去には創立指揮者アダム・フィッシャーと(☞2009年12月3日)、また次の音楽監督ニコラ・アルトシュテット(☞2018年6月30日)とも来日したことがあるが、今回はエンリコ・オノフリを指揮者(アーティスティック・パートナーなる肩書だそうな)との来日公演。

 ミヒャエル・ハイドンの「交響曲第39番ハ長調」とフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの「交響曲第96番ニ長調《奇蹟》」、ベートーヴェンの「交響曲第5番ハ短調《運命》」が、今日の初日公演のプログラムだった。

 とにかく、刺激的な演奏である。これほど大胆に装飾音を活用した古典派交響曲の演奏は、もしかしたらあのアーノンクールを凌ぐものかもしれない。
 とりわけ面白かったのは、やはりベートーヴェンの「5番」だ。第1楽章冒頭の「運命の動機」のフェルマータを二つともほぼ同じ長さで開始しながら、それを他の個所では異なった長さで演奏させたり、それらに伴うティンパニを頻繁にクレッシェンドさせたりするのをはじめ、全曲にわたってデュナミークを目まぐるしく変動させたり、テンポを頻々と変えたりするのはまだ序の口。

 第1楽章第387~388小節の基本モティーフの個所で、クラリネットとファゴットを省略し、ホルンのみで、しかもテンポを極度に落して吹かせたのは意外だったが、それよりも第3楽章最後のブリッジ・パッセージでの最弱音のティンパニのリズムを変拍子のアクセントで叩かせていたのには仰天した。まさにこれは、「春の祭典」並みの衝撃的効果である。
 ティンパニは他にも、第4楽章の展開部で、【D】以降の4分音符のいくつかにおいて、前打音のような装飾音を加えながら叩くといった具合で、━━全曲至る所にバロック音楽のアドリブのような装飾を加えた「強烈な」演奏であった。

 これをもしCDで聴いたらいかにも作為的な小細工に感じられるかもしれないが、ナマで聴くと、この「5番」がまさしく前衛的な作品に聞こえるのだから面白い。様式を重んじる教条主義的な考えの聴き手からは猛烈な非難を浴びるかもしれないが、古典の名曲に新しいアプローチを試みることを是とする聴き手にとっては、何とも興味深い手法と言えるだろう。

 アンコールに演奏された「奇蹟」の第3楽章のトリオでのオーボエの装飾音が、これがまた、喩えようもないほど流麗で、官能的で、絶品だった。

 このハイドン・フィルハーモニーの来日ツアーは、東京4回、刈谷1回、最後の7月4日の大阪のいずみホールまで、6回の公演がある。

2023・6・26(月)マルク・ミンコフスキ指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  7時

 ミンコフスキが客演。ブルックナーの「交響曲第5番」を指揮した。プログラムはこれ1曲だけだったが、その重量感たっぷりの濃密な演奏は、強い充足感を与えてくれた。コンサートマスターは矢部達哉。

 全曲の演奏時間はほぼ70分。驚くべき快速テンポだ。重厚な風格に富んではいたが、所謂重々しいタイプの演奏ではなく、むしろ端整な表情を感じさせる「5番」であった。

 この演奏を聴くと、ミンコフスキの狙いは、ブルックナーの音楽を19世紀の後期ロマン派の世界から解放してドイツ古典音楽の世界の中に生かし、明晰、明快な音を以て厳格な大建築をつくり上げることにあったのでは、と思われる。
 もしそうなら、巨大なコラールと、第4楽章にフーガを備えたこの「第5番」は、ブルックナーの交響曲の中では、その狙いに最も適した作品であろう(少なくとも「4番」や「7番」ではこのように行かないかもしれない)。実にユニークなアプローチによる「5番」であり、バロック音楽にルーツを置くミンコフスキならではの大わざである。

 都響の演奏もがっしりとして揺るぎない、立派なものだった。欲を言えば、オーケストラの音がもう少し綺麗だったら、という気はするが━━。

2023・6・25(日)シャルル・デュトワ指揮新日本フィル

      サントリーホール  2時

 デュトワ得意のフランスものとロシアものによるプログラムで、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲(1919年版)、ベルリオーズの「幻想交響曲」。

 新日本フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスターは崔文洙)がこれだけブリリアントな音を出したのを久しぶりに聴いたような気がする。ドビュッシーでの馥郁たる世界から転じて、ストラヴィンスキーとベルリオーズでの華麗な昂揚にあふれた演奏は━━細かいところは別として━━目覚ましいものがあった。

 デュトワは暗譜の指揮で、椅子も使わず、大きな身振りで全曲をエネルギッシュに振り通す。「幻想交響曲」など、かなり遅いテンポを採ったため、演奏時間も56分ほどに及んだが、その間、彼の指揮姿から全く活力が失われないのには感服した。
 その姿勢も、歩き方も、カーテンコールにおける挙止も、壮年の人と少しも変わらぬ。これが87歳になる人とはだれも想像しないだろう。しかもその音楽が全く「枯れ」を感じさせないのが立派である。また来て下さい。

 プログラム冊子に掲載されているデュトワのプロフィールは招聘事務所によるものらしいが、新日本フィルはもう少し自分のオーケストラと関連づけた紹介の仕方にすればいいのにと思う。
 私の記憶によれば、デュトワが新日本フィルに客演したのは、まだ彼が日本初登場から数年しか経っていない、1974年3月のことだった。確か、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」や、内田光子をソリストにシューマンの「ピアノ協奏曲」などを指揮したはずである。

 私はその演奏会を収録してFM東京の番組で放送したので、とりわけ印象に残っているのだが、━━ちょうどあの時だった、彼とその夫人マルタ・アルゲリッチが日本で大喧嘩して、彼女が一方的に欧州へ帰ってしまったのは。
 ひとり残されたデュトワには、新日本フィルの女性楽員たちから「可哀そう、かわいそう」という同情の声が集まり、演奏がひときわ盛り上がったものである。あれ以降、デュトワが新日本フィルに客演したことは、あったのだっけ?

2023・6・24(土)沼尻竜典指揮神奈川フィル「サロメ」

       横浜みなとみらいホール大ホール  5時

 音楽監督・沼尻竜典の指揮で、R・シュトラウスの「サロメ」のセミステージ形式上演。

 サロメを田崎尚美、ヨカナーンを大沼徹、ヘロデを高橋淳(福井敬の代役)、ヘロディアスを谷口睦美、ナラボートを清水徹太郎、小姓を山下裕賀、ユダヤ人を小堀勇介・新海康仁・山本康寛・澤武紀行・加藤宏隆、ナザレ人を大山大輔・大川信之、兵士を大塚博章・斉木健詞、奴隷を松下美奈子━━という配役。神奈川フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターは石田㤗尚。

 沼尻竜典が指揮する「サロメ」は、びわ湖ホールでの上演(☞2008年10月12日)以来、15年ぶりに聴くものだ(因みに、あの時のカロリーネ・グルーバーの演出は奇抜にして秀抜、今なお記憶に残る)。
 あれ以降、オペラ指揮にキャリアを積んだ沼尻の指揮は、既にスケール感と深みを増しており、今日も神奈川フィルから色彩的な劇的昂揚感を存分に引き出して、スリルに富んだ「サロメ」を聴かせてくれた。

 ラストシーンでの、生首を抱いたサロメの長い法悦のモノローグにおけるオーケストラの官能的な音色はすこぶる見事だったし、フル編成の大管弦楽を残響豊かなホールの中に豊麗に拡がらせた演奏も、壮快な趣があった。神奈川フィルがこのような壮大優麗な音を楽々と出すようになっていたのも嬉しい。

 ステージ前面で歌った歌手陣の声は、最初のうちはオーケストラに埋もれがちで、もどかしさを感じさせたが、間もなくバランスが保たれるようになった。預言者ヨカナーンをオルガン席の下に位置させ、「古井戸の中から響く」設定の声をエコー付きのPAを加えて響かせたのはいいアイディアであろう。

 田崎尚美もいつながらの優れた歌唱で、今回は豊麗な「女っぽい」サロメに感じられたが、最後のモノローグも見事だった。急病の福井敬の代役を務めた高橋淳は譜面を見ながらの歌唱だったが、この人はもともとこういうヘロデ王のような役が実に巧い歌手なのである。谷口睦美が歌うヘロディアスが、すこぶる気品のある王妃という表現だったのにも感心。

 沼尻竜典とこの歌手チームによる「サロメ」は、このあと九州交響楽団と京都市交響楽団それぞれとの協演でも上演される。

2023・6・23(金)ラハフ・シャニ指揮ロッテルダム・フィル

      サントリーホール  7時

 久しぶりにロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団を聴く。10年ぶり、当時の首席指揮者ヤニック・ネゼ=セガンと来日した時(☞2013年1月31日2月10日)以来になる。

 今回は、現在の首席指揮者ラハフ・シャニとの来日公演だ。
 プログラムは、シャニ自身がオーケストラ用に編曲したメンデルスゾーンの「無言歌」からの「失われた幸福Op.38-2」と「ヴェネツィアの舟唄第1番」と「紡ぎ歌Op.67-4」に始まり、諏訪内晶子をソリストに迎えたチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」、ブラームスの「交響曲第1番」。
 アンコールとしては、ヨハン&ヨゼフ・シュトラウスの「ピッチカート・ポルカ」が演奏された。なお諏訪内のソロ・アンコールは、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」からの「ジーグ」。

 いいオーケストラだ。弦もしっとりして美しいし、管楽器群の音色の良さも印象に残る。 
 オランダの名門オーケストラからこのような響きを引き出しているラハフ・シャニは、たしかにただものではないだろう。テルアビブ生れの、未だ34歳。欧州の指揮界注目株の最右翼のひとりと言われるだけのことはある。

 チャイコフスキーの協奏曲では、ソリストと呼応しての盛り上げ方、持って行き方の巧さが目立つ。一方ブラームスの交響曲では、まるで巨大な室内楽といった趣きの緻密な音の構築が素晴らしい。これほど内声部の交錯が明晰に、しかも瑞々しく繰り広げられて行った演奏は、めったに聴けないものだろう。

 諏訪内晶子のチャイコフスキーも久しぶりに聴いたような気がする。これも胸のすくような演奏だ。清澄な音色の中に燃え上がる情熱を迸らせた━━などと言ったら月並みな表現になるが、聴き手を昂揚させるものがある。第1楽章が終ったとたんに拍手が起こってしまったのも、無理からぬことと思われる。

2023・6・22(木)山形交響楽団「さくらんぼコンサート」

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 年1回、夏至の頃に行われる山響恒例の東京公演「さくらんぼコンサート」。
 例年のようにロビーには山形県の多種多様な名産品の即売コーナーを設置、抽選で山形県産さくらんぼを贈呈、終演後には出口でシベールのラスクと、でん六の「味のこだわり」を客の全員に配布するという、見事なほどの佳き地方色の発露である。
 だが山響の演奏そのものは、もはや昔の山響のそれとは違う。今や、わが国の地方オーケストラの中でも屈指の存在となっていることは疑いない事実だ。

 今回の公演では、常任指揮者の阪哲朗ではなく、この4月から同楽団のミュージック・パートナーという肩書を得た名ホルン奏者、ラデク・バボラークが指揮を受け持った。コンサートマスターは高橋和貴。
 プログラムは、チェコ出身のバボラークらしく、スメタナの「わが祖国」からの「ブラニーク」で幕を開け、次いで彼がモーツァルトの「ホルン協奏曲第3番」とドニゼッティの「ホルン協奏曲ヘ長調」を吹き振りし、最後にはドヴォルジャークの「交響曲第8番」と、アンコールには同じく「スラヴ舞曲」の「作品72の7」を演奏する、という構成だった。

 バボラークの指揮は━━言っちゃ何だけれど、イン・テンポが多く、リズムやアゴーギク(緩急)に流動性が不足しているので、残念ながら音楽が平板に陥りやすい傾向がある。「ブラニーク」のようにテンポが頻々と変わる曲や、「8番」の第1楽章序奏や第2楽章のようにテンポの遅い部分ではその欠点が露呈してしまう。
 だが「8番」第4楽章のように速いテンポで突き進む音楽の場合には、持ち前の明るい個性も幸いして、充分に聴衆を沸かせることもできるというものであろう。

 今夜の演奏の中での圧巻は、やはり2曲のホルン協奏曲で、彼の骨太で瑞々しい、朗々たるホルンの躍動は、いつまでも聴いていたいと思わせるほどの魅力にあふれたものだった。ドニゼッティのコンチェルトは、10分足らずの短い曲だったが、その後半の軽妙洒脱な曲想はいかにもこの作曲家らしく、これを聴けたのは幸いであった。

 山響のしなやかで、しっとりした音楽を聴こうと思うなら、やはり常任指揮者の阪哲朗がじっくりと時間をかけて仕上げた演奏を聴くべきだろうと思う(☞たとえば2021年2月26日の前半のプログラム)。
 また、最近首席客演指揮者となった鈴木秀美との演奏も好評のようで、こちらはこの7月の30日にミューザ川崎シンフォニーホールで、「フェスタサマーミューザKAWASAKI」一環として「ザ・グレイト」などが聴けるから、期待しているところである。

2023・6・20(火)NODA・MAP「兎、波を走る」

       東京芸術劇場プレイハウス  7時

 野田秀樹の作と演出、高橋一生、松たか子、多部未華子、秋山菜津子、大倉孝二、大鶴佐助、山崎一らが主役陣を務め、野田秀樹自身も「作家」役として、いつものようにけたたましく暴れ回っている。
 みんな達者な演技だが、今回は特に「アリスの母親」役の松たか子の強い存在感と、「元女優」役の秋山菜津子の見事な怪演ぶりが印象に残った。

 題名の「兎、波を走る」からして、あの「うーさぎ、うさぎ、なに見て跳ねる」のモジりかな、とは思っていたが━━取材資料にも「なみ見て、はしる・・・・!?」とネタバレが載っていた━━こういった野田秀樹特有のコトバの遊びがいたる所に散りばめられていて、観客の笑いを呼ぶ。
 「もう、そうするしかない」「妄想するしかない」などというダジャレがドラマのキーワードになっていたり、チェーホフの「桜の園」とチエホフの「遊びの園」、「ブレヒト」と「ブレルひと」が対照されたりというのはまだ序の口で、工作員集団を訓練する厳しい教官を「東急ハンズの教官」と呼ぶのは何かと思ったら、これは「東急半ズボン教官」の略だったりと、よくまあ思いつくものだと感心させられる。

 芝居そのものは、コミカルな内容のように見せながら、実はすこぶる深刻な問題が扱われている。主要なモティーフは、おそらく「不思議の国のアリス」の「アリス」と「兎」(脱兎)、仮想の世界と現実の世界の交錯とその恐ろしい境界線、それに「不条理」━━といったものだろうか。
 それらに加え、現在の日本に深い関連のある微妙な国際問題も取り込まれていて、時にはハラハラさせられるようなセリフも織り込まれる。さらに家族問題、母と娘の問題なども・・・・と、ありとあらゆる素材が複雑に絡み合わせられて、不条理な世界が描かれて行くというわけだ。

 どんな滅茶苦茶な内容も、それが演劇の中に入ると、「不条理」というもっともらしい言葉に美化されて成立してしまうものだ。が、この野田秀樹の芝居はすこぶる複雑巧妙に作られているので、実に面白い。どこにポイントを置いて観るかは観客それぞれの自由ということになるのなら、私が最も恐怖感を味わったのは「AI」の強力さと、仮想と現実の交錯の不気味さ、という点にあったと告白しておこう。

 今回は舞台も大がかりで、映像演出も目まぐるしく、視覚的にも甚だ凝ったものになっている。休憩なしの2時間強、その重量感と濃密さには少々疲れたものの、手応え充分の芝居ではあった。
 この「兎、波を走る」は、東京では7月30日まで、大阪では8月3日から13日まで、博多では8月17日から27日まで上演される由。

2023・6・19(月)METライブビューイング「チャンピオン」

       東劇  6時30分

 4月29日にメトロポリタン・オペラで上演されたテレンス・ブランチャード(1962年生)の「チャンピオン」を観る。

 パンデミック以降のMETは、スタンダードなレパートリーに加え、このような現代オペラの上演にも力を入れており、しかもそれらを全て「ライブビューイング」のプログラムにも乗せるという方針を採っている。これは、今まで歌劇場には縁のなかったような若い観客を呼び入れ、活性化を目指すという総帥ピーター・ゲルブの考えに基づく方針のようだ。

 事実、METではそれが目覚ましい効果を上げているようで、今回の「チャンピオン」のカーテンコールにおける拍手と、口笛と、歓声のスタイル(ブラヴォ―ではない)などが、それを証明しているだろう。
 ただ、全世界向けの「ライブビューイング」の映画興行となると、それがどこまで効果を上げるかが微妙なところで、━━特に保守的なオペラ・ファンの多い日本では苦しいかもしれない。この辺のPR戦略は、勧進元の松竹に頑張っていただくしかないようだ。

 このオペラ「チャンピオン」は、実在のボクサーで、何度かチャンピオンになったエミール・グリフィス(1938~2013)を主人公にしたもの。
 彼は1962年にベニー・パレットというボクサーを試合で死に至らしめてしまい、生涯それを心の重荷にしていたが、のちにベニーの息子と巡り合い、その許しを得てやっと気持に平安を得たという。また彼はバイセクシャルであることを隠し続けていたそうである。

 オペラは、このような彼の生涯を、驚くほど忠実に描いている。また音楽は、クラシック音楽のオーケストラとジャズ・バンドとを巧みに融合させた━━つまり、「ポーギーとベス」ではなく、「ウエストサイド・ストーリー」の━━スタイルが採られている。
 素材と音楽のこういった特徴は、アメリカの観客には多分身近なものであり、それゆえこのオペラがMETで成功を収めたのも理解できるというものだ。

 主人公のエミール・グリフィスを、ライアン・スピード・グリーン(青年時代)と、エリック・オーウェンズ(老年時代)が演じ分ける。後者の演技が実に寂寥感に富んで、巧い。
 その他、彼の母親エメルダ・グリフィスをラトニア・ムーア、ゲイ・バーの主人キャシー・ヘイガンをステファニー・ブライズ、ベニー・パレットをエリック・グリーンが歌い演じている。

 指揮はMETの音楽監督ヤニック・ネゼ=セガン、演出はジェイムズ・ロビンソン。因みにロビンソンは、先頃METで上演されたブランチャードの2つ目のオペラ「Fire Shut up in My Bones」(☞2022年1月30日の項)を共同演出した人でもあり、今回もラストシーンで同じ手法を使用している。上映時間は2時間40分。

2023・6・18(日)ケレム・ハサン指揮読売日本交響楽団

     東京芸術劇場コンサートホール  2時

 1992年ロンドン生まれで、現在はオーストリアのチロル交響楽団の首席指揮者を務めているケレム・ハサンが来日。
 チャイコフスキーの「スペードの女王」序曲と「交響曲第5番」、その2曲の間にショパンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはアメリカ出身、2018年リーズ国際コンクール優勝のエリック・ルー)を置くプログラムを指揮。コンサートマスターは長原幸太。

 ケレム・ハサンは、私はナマでは初めて聴いたが、英国出身の指揮者としては、今どき珍しいタイプの人と言えるかもしれない。
 チャイコフスキーの作品では、音楽を骨太に豪快に、叩きつけるような最強音と強いデュナミークの対比、分厚く重量感豊かで翳りの濃い音色で響かせる。「第5交響曲」など、ちょっと昔のパウル・ファン・ケンペンの指揮のような古武士的な豪壮さを感じさせるけれども、しかしそこはやはり現代の指揮者らしく、強弱のニュアンスはかなり微細で、多彩な表情の変化には事欠かない。

 オーケストラを強力に鳴らすところは気魄の若者らしくて微笑ましいが、読響が巧いので放縦な演奏にならず、均衡を保っているところがいい。それにしても今日の第2楽章のホルンのソロは見事だった。

 「スペードの女王」の序曲(序奏?)にしても、こんなにダイナミックな演奏は、歌劇場のピットではまず聴けないタイプのものだろう。この指揮者、古典ものなどを振ったら、どんな音楽をやるだろうか?

2023・6・17(土)高関健指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団

     日立システムズホール仙台・コンサートホール  3時

 飯守泰次郎の後任としてこの4月から常任指揮者となった高関健の、就任後初の定期。
 かつてこのオケの音楽総監督でもあった芥川也寸志の「弦楽のための三楽章」を冒頭に置き、次に昨年の仙台国際音楽コンクールで優勝した中国出身のルゥォ・ジャチンをソリストにサン=サーンスの「ピアノ協奏曲第2番」を演奏、最後を高関自身が最新の校訂譜作成にも参画したというマーラーの「交響曲第4番」(ソプラノのソロは中江早希)で締めるという、なかなか意義深いプログラムであった。コンサートマスターは西本幸弘。

 今回のマエストロ高関の基本的な姿勢は、強靭で明晰な音楽をつくるということにあったように感じられた━━少なくとも実際の演奏からは、そのように聞き取れた。
 芥川の作品でも、またマーラーの交響曲においても、演奏は全て豪快な力強さにあふれ、デュナミークの鋭いコントラストで構築され、あらゆる音符が明快な光により照らされる、といった感だろうか。

 特にマーラーでは、フルートやクラリネットなどの木管がスコアの指定通りに突然の最強奏で飛び込んで来るし、シンバルとティンパニは耳を劈くばかりに轟くといった具合で、それらは衝撃的な効果を与える。私の体験では、「4番」をこれほど尖った「4番」で聴いたのは初めてである。美しい部分は随所にあるにせよ、全体としては決して夢幻的ではない。

 となると、第4楽章における「天国的な快さ」をどう解釈したらいいのか、些か戸惑った次第だが━━ともあれ最近の高関の「芸風」を窺う意味で、この演奏は極めて興味深いものがあった。仙台フィルも、これまで飯守やパスカル・ヴェロの指揮で聴いていた時とは全く異なる様相で立ち現れていたので、今後のこのオケの展開を覗う意味でもいっそう興味深い。

 サン=サーンスの「第2協奏曲」も、もともと管弦楽パートに豪壮さが備わっている作品だけに、高関と仙台フィルのこのような演奏により、その特徴が十全に再現される。一方、長身痩躯で飄々たる雰囲気の青年ルゥォ・ジャチンは、流石にその勢いには吞み込まれなかったようだが、それでも彼なりの中庸を得た強靱さで、やや翳りのある音色を保ちつつ、確信に満ちたソロで応酬して行った。このピアニスト、楽しみである。彼のソロ・アンコールは、シューマンの「予言の鳥」。

2023・6・15(木)パレルモ・マッシモ劇場来日公演「ラ・ボエーム」

      東京文化会館大ホール  6時30分

 久しぶりに聴き、観ることができたイタリアのオペラハウスの来日公演。
 東京4回、高崎・浜松・びわ湖・名古屋・大阪各1回の全9回公演で、プッチーニの「ラ・ボエーム」と、ヴェルディの「椿姫」を携えてのツアーである。今回は歌手陣だけでなく、歌劇場所属の合唱と管弦楽団も一緒にやって来た。ただし少年合唱は日本の各地の合唱団が出演する。

 今日はその初日公演で、「ラ・ボエーム」が上演された。フランチェスコ・イヴァン・チャンパの指揮、マリオ・ポンティッジャの演出。
 主な配役は、アンジェラ・ゲオルギュー(ミミ)、ヴィットリオ・グリゴーロ(ロドルフォ)、ジェッシカ・ヌッチオ(ムゼッタ)、フランチェスコ・ヴルタッジョ(マルチェッロ)、ジョヴァンニ・アウジェッリ(コッリーネ)、イタロ・プロフェリシェ(ショナール)、ルチアーノ・ロベルティ(ブノワ、アルチンドーロ)。
 少年合唱には、TOKYO FM少年合唱団が出演していた。

 ミミを歌い演じたゲオルギューの健在ぶりがめでたい。昔のような華やかさはやや薄れたかとも思われるが、控え目で病身のミミの演技とするなら、充分だろう(ミミは一筋縄では行かない女性なのだが)。
 グリゴーロの声がずば抜けて大きいので、男声歌手陣にはちょっとムラを感じさせるところがなくもないが、手堅い出来ではある。

 演出は予想通り鷹揚なものだから、演劇という面から見ればもどかしさを感じさせる個所も多いし、最近の日本の演出家による舞台の方が遥かに細かい面白さを出しているけれども、舞台全体にあふれる独特の雰囲気は、やはり本場ならではの強みだ。イタリア・オペラの醍醐味が充分に堪能できたのは言うまでもない。そういう状況がまた戻って来たことは嬉しい限りである。

 カーテンコールでは客席も盛り上がった。日本の少年合唱団もよくやっていたと思うのだが、歌劇場側の合唱指揮者が自らの合唱団のみで拍手を享け、少年合唱団を無視していたような気配があったのは解せない。
 第3幕のあとの休憩時間が伸びたので、終演は10時近くになった。

2023・6・14(水)サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン
~エリアス弦楽四重奏団のベートーヴェン・サイクル~

    小ホール ブルーローズ  7時

 このシリーズも今日が第6回、最終回。「第4番ハ短調」「第8番変ホ長調《ハープ》」「第13番変ロ長調」+「大フーガ」が演奏された。

 演奏全体への印象については一昨日のそれとほぼ同じだが、今日は第1ヴァイオリンのサラ・ビトックが気合を入れ過ぎていたのか、些か強引な弾き方のような感があったことと、その一方、予想通り「大フーガ」での4人の演奏の昂揚が目覚ましかったこと、などが印象に残った。爽やかである。音楽の深みといったものは、やはりこれからだろう。

 ━━これは彼らの演奏と比べてどうこうと言う意味では決してないし、若い世代の意気軒高な情熱にあふれた演奏は、それはそれでよいのだが、このところ、たとえば昔のスメタナ弦楽四重奏団の演奏のような、じっくりと味わい深く弾かれるベートーヴェンをナマのコンサートでまた聴いてみたいな、という気持になるのを抑えきれない。
 今日の「ハープ」で言えば、第1楽章の終りのところ、第221小節からの個所で、第1ヴァイオリンが際立ちながらエネルギッシュに突き進んで行く演奏ではなく、もっと4人が情感を籠めて、ひとつの解決点を目指して登って行くような━━そう、いわば「坂の上の雲」を目指し、憧れに満ちてひたすら登って行くような、そういう演奏にもう一度接してみたい、と思ってしまうのである。たとえば、往年のバリリ四重奏団の演奏のようなタイプ・・・・。

2023・6・13(火)鈴木優人指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 読響の6月定期。「指揮者/クリエイティヴ・パートナー」たる鈴木優人が指揮して、プログラムは、アタイールの「チェロ協奏曲《アル・イシャー》」(ソリストはジャン=ギアン・ケレス)と、ベートーヴェンの「英雄交響曲」を組み合わせるというユニークな一夜。コンサートマスターは林悠介。

 バンジャマン・アタイール(1989~)は「フランスのトゥールーズ出身、ルーツはレバノンのベイルート」(プログラム冊子の澤谷夏樹氏の解説)の由。
 またWikiによれば、アラビア語の「アル」は定冠詞、「イシャ―」は「夜の礼拝」のことだそうだ。
 この曲で作曲者は「ユダヤのイディッシュ、グレゴリオ聖歌のクラウズラ、アッジン(イスラム教の朗唱者)の声の3者が融合、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の合一を夢見る」(同前、澤谷氏の解説から)とされる。単一楽章、30分におよぶ大曲で、これが日本初演だった。

 自分にもしアラブ系の音楽に関する知識があったら、この曲の構築や手法についてもっと興味をそそられる部分がたくさんあったと思うのだが、残念ながら私にはその方面の心得がなく、従って作品に対してはごく感覚的にしか受容できなかったことを告白しなければならない。
 独奏チェロはほぼ全曲にわたり弾き通しで、表情は極めて豊かだが過度に激することがなかったこと、そしてオーケストラは打楽器を加えた大編成ながら音量的にはむしろ控えめだったことなども特徴的だ。

 だが、曲の大詰めに至ってチェロが上行音階を続けざまに3回繰り返して行くくだりはハッとさせられるほど印象深く、記憶にも強く刻まれるもので、おそらくこの部分に全曲のテーマが集約させられているのではないかな、と思った次第である。
 なおケラスはアンコールで(日本語で挨拶、曲名を紹介した)アフメト・アドナン・サイグンの「チェロのためのパルティータ」からの「アレグレット」(サントリーホールのサイトによる)という曲を演奏した。

 後半の「英雄交響曲」は、鈴木優人の目覚ましい進境を証明する演奏だったと言えよう。
 弦10型編成による読響の演奏は、大編成だった先ほどの「アル・イシャー」よりも圧倒的に音量も巨大で、しかもスケール感も豊かだ。オーケストラの音の明晰さも見事で、ベートーヴェンのオーケストレーションの濃密さと鮮やかさが今回ほど堪能できたことはない。

 鈴木優人のこの曲に対するアプローチは極めてストレートで、小細工は一切ないという演奏だったが、スコアに指定された細かい表情━━特にデュナミークの対比がほぼ完璧に生かされていて、それによりベートーヴェンの音楽の本来の凄さが十全に生かされていたと言って間違いないだろう。
 読響も流石に巧かった。第4楽章後半では一瞬ハテナと思わされる個所も二、三なくはなかったが、これはこちらの聞き違いかもしれない。

 なおプログラム冊子にある澤谷氏の解説は、前半の「アル・イシャー」と関連させ、「英雄交響曲」に三位一体の思想が聴かれることなどを暗示したもので、これは大変興味深い指摘だった。

2023・6・12(月)サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン
~エリアス弦楽四重奏団のベートーヴェン・サイクル~

       小ホール ブルーローズ  7時

 この音楽祭の定番の出し物、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲ツィクルスでの今年の登場は、英国の若い世代のクァルテット、エリアス弦楽四重奏団。

 メンバーはサラ・ビトロックとドナルド・グラント(vn)、シモーネ・ファン・デア・ギーセン(va)、マリー・ビトロック(vc)という顔ぶれで、3人が女性奏者である。
 今日はその5日目で、「第6番変ロ長調」「第16番ヘ長調」「第8番ホ短調《ラズモフスキー第2番》」というプログラムだった。

 若いだけあって、気鋭充分の、すこぶる涼やかな音楽をつくり出す弦楽四重奏団だ。
 特に先入観念で言うわけではないが、ベートーヴェン最後の四重奏曲の「第16番作品135」あたりになると、演奏の明るさと屈託の無さが、作品との少々の肉離れのようなものを感じさせてしまう。だがその分、初期の「第6番作品18の6」における闊達さがすこぶる快い印象を与えてくれたのは確かである。

 そして最も聴き応えがあったのはやはり「ラズモフスキー第2番」であったことは疑いなく、その勢いに満ちた演奏は、ベートーヴェンの中期の満々たる気魄にあふれた作風をよく再現していたのも確かだった。
 隣に座っていた金子建志さんの話では、「これまでの中で最高だったのは《ラズモフスキー第3番》のフィナーレだった」ということだったが、さもありなんという感。

2023・6・10(土)鈴木秀美指揮名フィル「ミサ・ソレムニス」

      愛知県芸術劇場 コンサートホール  4時

 名古屋フィルハーモニー交響楽団(音楽監督・川瀬賢太郎)の第513回定期公演で、鈴木秀美が客演指揮、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」が演奏された。
 声楽ソリスト陣は中江早希(S)、布施奈緒子(Ms)、櫻田亮(T)、氷見健一郎(Bs)。合唱が岡崎混声合唱団と愛知県立岡崎高等学校コーラス部(合唱指揮・近藤惠子)。コンサートマスターは荒井英治(首席客演コンマス)。

 この演奏は、オルガンとオーケストラと声楽のための「ミサ・ソレムニス」━━とでも言うべきか。ベートーヴェンのスコアにはオルガンのパートが全曲にわたって詳細に入っているので当然かもしれないが、しかし今回ほどオルガンの存在感が大きく感じられた演奏を聴いたのは、私としては初めてである。いかにも鈴木秀美の「ミサ・ソレ」に相応しい。
 ただしそのオルガン(大木麻理)は、ホールのステージ奥に聳え立っている大オルガンを使用してではなかった。これはマエストロ鈴木の説明によれば「今回の演奏とはピッチが合わない」から、とのこと。

 ともあれ、オルガンが時としてオーケストラよりも大きく聞こえた(特に「キリエ」の部分)ことや、その他、ノン・ヴィブラート奏法の弦があまり響いて来なかったことなどには、私には些か不満だったけれども、これは私が聴いた席(2階正面2列目)の位置にも関係しているだろうから、一概にどうこう言うわけには行かない。
 ただ、たとえば「アニュス・デイ」の第170小節あたりからの音楽が急激に不安を増して行く個所での弦のトレモロなどが明確に聞こえなかったことは、この辺りでの劇的な昂揚を薄めてしまう結果となっていたので、私の好みとは違うものだったのは確かだが━━。

 いずれにせよ、鈴木秀美が名古屋フィルから引き出した音楽は、たとえば地の底から轟き、世界を揺り動かす祈りの歌などといった演奏からは対極の、むしろ透明清澄な祈りの歌だったと言ってよいのだろう(その意味では、今日のオルガンの音色は効果的だった)。
 ベートーヴェンの「ミサ・ソレ」のひとつのあり方として、このような演奏を聴くことができたのは、有難かった。

 これで合唱(80名以上の大編成)の音色に澄んだ透明さがあれば文句なかったのだが、‥‥それは高望みと言うべきだろうか。今日の合唱、よくやっていた。ソロ歌手陣も同様。

2023・6・9(金)大植英次指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 日本フィルの6月定期に大植英次が客演。
 ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」から「前奏曲」と「愛の死」、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは阪田知樹)、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」を指揮した。コンサートマスターは木野雅之。

 大植英次の「トリスタン」といえば、どうしてもあの2005年のバイロイトを思い出してしまうが━━その後彼と直接それについて話をしたことはないけれど、もしかしたら彼にとってはあまり触れられたくないものかもしれない━━今日の日本フィルとの演奏は、もちろんあの時のものとは違い、ずっとしなやかで、力みの抜けたものになっていて、聴き易い。やや荒々しいところはあったが、これはおそらく2日目の演奏では改善される類のものではなかろうかと思う。

 圧巻だったのは、「悲愴交響曲」だ。冒頭から速めのテンポで進められた第1楽章では、オーケストラのバランスが少々粗く、ふだんは直接聞こえないような内声部の動きが強く浮き出してしまったりして、全体にアジタート気味になっていたが、これはおそらく初日の演奏ゆえであろう。
 だが、第2楽章でのほの暗い音の揺れから生まれる哀愁美はすこぶる見事で、昔初めてこの曲を聴いた時のことや、30年ほど前に初めて冬のロシアを訪れた時に抱いた感動を思い出してしまったほどである。

 後半の二つの楽章での演奏は、とりわけ見事だった。第3楽章前半での弱音での行進曲が実にいいリズムを持っていたのにも感心させられたが、同楽章後半は更に面白く、最強奏で曲が進んで行く部分では、大植は指揮をやめ、両手を広げたままで動かず、怒涛の進軍をオーケストラに任せていた。
 これは昔、あのスヴェトラーノフもロシア国立響を相手によくやっていたテだが、いわば指揮者の眼光ひとつでオーケストラを燃え立たせるというおおわざである。ここでの日本フィルの、指揮棒に頼らない熱狂的な昂揚も、いっそうの凄味があった。

 更に最高だったのは第4楽章。ここでの旋律と和声の濃密な交錯、強烈な情感を湛えた濃厚な音のうねりは、以前の大植の指揮からは感じられなかったものではないか? 
 日本フィルの演奏も、以前のこの楽団からめったに聴けなかったようなものだった。それはまさしく、「悲愴」というよりも、「パテティーク」のもうひとつの意味である「感情豊かな、感動的な」という言葉に相応しい演奏だったのである。

 先日の新日本フィルとのブルックナー(9番)といい、今日の「悲愴」といい、それらでの指揮は、今の大植英次が明らかに新しい境地に達していることを示しているだろう。この変貌は、彼の今後にさらなる期待を持たせてくれる。

 プロコフィエフの「2番」は、しばしば演奏される「3番」よりも、私にはずっと面白い。その豪壮で奔放な曲想は、いかにもアンファン・テリブルと呼ばれたプロコフィエフを象徴しているだろう。
 この曲を、若い阪田知樹は、実に豪快かつ力感にあふれた演奏で再現してみせた。最近のわが国の若いピアニストは、叙情的な柔らかい演奏で人気を博している人も多い(それはそれでいい)が、この阪田知樹のように、強靭で骨太な演奏をする日本人ピアニストにも、私は大きな未来を感じる。

 そしてまた、それをサポートした大植英次の指揮も━━たとえば第1楽章の長い壮烈なカデンツァのあと、オーケストラが突然威嚇するように覆いかぶさって来る個所など、すこぶる劇的で、巧かった。
 なお阪田知樹が弾いたソロ・アンコールは、ラフマニノフの「楽興の時 作品16の2」。

2023・6・6(火)牛田智大 ラフマニノフを弾く

       サントリーホール  7時

 4日にコロナワクチン第6番。これまでは全てファイザーだったが、世田谷区の予約サイトではもうモデルナしかなく、「交互接種の方が効き目があるという説もあるよ」という医師の話を信じて接種。翌日午後に発熱(それも初めて37.6度まで)があったが、たった2時間で平熱に戻った。ただし注射直後から出た肩の激痛は一向に・・・・。という状態の中で、今日はロイヤル・オペラの「フィガロの結婚」(東宝系)の試写会は諦めたものの、夜の演奏会だけは何とか聴きに行く。

 完売、満席でありながら、これほど男子トイレがガラガラの演奏会も珍しい。
 ただし今日の「牛田智大 ラフマニノフを弾く」は、リサイタルではなく、彼が飯森範親の指揮する東京フィルハーモニー交響楽団をバックにコンチェルトを弾くという演奏会であった。

 最初にオケがボロディンの「イーゴリ公」の「だったん人(ポロヴェッツ人)の踊り」をしっかりと演奏し、幾分儀礼的な雰囲気の拍手を送られたあと、今度は牛田智大が熱烈な拍手を浴びながら登場。ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」と「ピアノ協奏曲第3番」を弾き、最後にソロ・アンコール(同「前奏曲作品23」から「第4番」)を弾いて、いずれも多くの女性たちのスタンディング・オヴェーションを交えた猛烈な拍手に包まれる━━というコンサート。

 牛田智大が弾くラフマニノフ。予想通り、彼の手がける他の作曲家の作品群と同じく、まろやかで、ふくよかで、あたたかい。ラフマニノフ演奏には付き物とも言える煌びやかで猛烈でヴィルトゥオーゾ的な演奏スタイルからは距離を置いた、独特の感性によるアプローチだ。そこにはぎらぎらしたエキサイティングな音はないけれども、柔かい口調ながら裡に情熱を秘めた、雄弁な音楽を感じることができるだろう。
 ラフマニノフの音楽をこのようなスタイルで描き出すピアニストは、私は他に思い当たらないけれども、実に興味深いものがある。

 それに、━━「パガニーニ・ラプソディ」の演奏の中で、私がはっとして魅了された個所がある。曲が第18変奏のところに来て、ピアノがあの有名な変奏主題を歌いはじめる瞬間、それまで比較的静かだった彼の口調が━━つまり演奏が、突如として表情豊かなものになり、それまで抑えていた豊かな感情を思い切り解放するように聞こえたのだが、この人の音楽の持って行き方は巧いな、と感心したものだ。

 また「第3協奏曲」の最後の頂点で、オーケストラとともに猛然と突き進み、曲を鮮やかに結んで行った個所では、彼のピアノが少しも居丈高にならず、まろやかさを保っていたのにも驚かされた。
 好みはともかくとして、このような独自の試みを自信に満ちて繰り広げる演奏家というのは、面白い。

 そして付け加えるが、飯森範親と東京フィルのサポートが、いずれも見事だった。

 今日は、オーケストラの演奏会にはほとんど来たことがないようなピアノのファンたちも大勢来ていたのだろう。終演後、2階から階段を下りて行く際に、うしろからこんな声が聞こえた━━「今日の指揮者の人、すごくいいわねえ」。

2023・6・1(木)新国立劇場 R・シュトラウス:「サロメ」

       新国立劇場オペラパレス  7時

 新国立劇場の定番、アウグスト・エヴァーディング演出による「サロメ」。
 2000年4月に若杉弘指揮でプレミエされて以来、2002年、2004年、2008年、2011年、2016年に上演されて来たプロダクションで、今回が7年ぶり、7度目の上演となる。

 演奏は、コンスタンティン・トリンクス指揮の東京フィルハーモニー交響楽団。主演歌手陣は、アレクサンドリーナ・ベンダチャンスカ(サロメ)、トマス・トマソン(ヨカナーン)、イアン・ストーレイ(ヘロデ王)、ジェニファー・ラーモア(王妃ヘロディアス)、鈴木准(隊長ナラボート)、加納悦子(小姓)、与儀巧・青地英幸・加茂下稔・糸賀修平・畠山茂(以上ユダヤ人)、他。

 過去の上演の一部についての日記は、当ブログでも☞2008年2月6日、☞2011年10月9日、☞2016年3月9日の項にそれぞれ書き込んであるので詳細は避ける。
 だが、舞台装置(ヨルク・ツィンマーマン)は不変でも、演技を含めた人物の動きはかなり様変わりしている印象だ。端折って言えば、人物の動きに緊迫性が失われ、演技にも微細な表情が足りなくなっているということ。鮮度が薄くなるのは再演の宿命でもあるが、今回の舞台はそれだけでは片づけられぬものがあるだろう。来日歌手陣も、敢えて言えば、やや小粒だったという印象を拭えない。

 称賛されるべきは、むしろ指揮者とオーケストラの方である。トリンクスの指揮は相変わらず細身ではあるが、きりりと引き締まって、極めて鋭角的だ。後期ロマン派的な官能性には欠けるが、表現主義的な鋭さを持つR・シュトラウス像といったものを鋭く浮き出させたアプローチと言えよう。これはこれで、極めて納得が行く。
 彼は、新国立劇場ではこれまでにも「さまよえるオランダ人」「ドン・ジョヴァンニ」「タンホイザー」などを指揮しているが、それらのいずれよりも今回は明晰かつ壮烈な指揮を聴かせていたと思う。

 東京フィルも、この劇場のピットで、これだけ金管群が思い切って強奏し、トランペットが絶叫し、全管弦楽が咆哮し、しかも均整を保った演奏をした例は稀ではないかと思われる(もしかしたら、開館以来初めてと言っていいのでは?)。今回は管弦楽の縮小編成版楽譜を使用したとかいう話だが、トリンクスと東京フィルの好演のおかげで、全く違和感なく音楽を堪能できた。

«  | HOME |  »

























Since Sep.13.2007
今日までの訪問者数

ブログ内検索

最近の記事

Category

プロフィール

リンク

News   

・衛星デジタル音楽放送
ミュージックバード(エフエム東京系) 121ch THE CLASSIC
「エターナル・クラシック」
(毎週日曜日 12:00~16:00放送)出演

・雑誌「モーストリー・クラシック」に「東条碩夫の音楽巡礼記」
連載中