2024-04

2023年7月 の記事一覧




2023・7・28(金)フェスタサマーミューザKawasaki 大野和士指揮都響

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 「耳から納涼♪北欧名曲選」と題されたコンサートで、東京都交響楽団を音楽監督の大野和士が指揮し、ニールセンの狂詩曲風序曲「フェロー諸島への幻想旅行」、グリーグの「ピアノ協奏曲」(ソリストは久末航)、シベリウスの「交響曲第2番」を演奏した。コンサートマスターは山本友重。

 このフェスタは、毎回プレトークがあるらしい。大野さんのプレトークはいつも面白く、舞台を下手から上手まで動きまくって身振り手振りたっぷりにやってくれることもあるので(これに匹敵する指揮者は、ヤマカズさんだけだろう)早めに会場に行ってみたのだが、今日は事務局のえらい人による司会付きで、クソ真面目な話ばかり、しかも20分間という触れ込みが僅か10分で終了、拍子抜け。

 さて演奏の方だが、ニールセンの序曲は(せっかく紹介してくれたのに)あまりピンと来なかったものの、グリーグのコンチェルトを弾いてくれた久末航(ひさすえ・わたる、2017年ミュンヘン国際音楽コンクールで第3位および特別賞受賞)の清澄で爽やかな演奏と、それに呼応したかのような大野と東京都響の不思議に明るい音色の演奏により、この曲に対する既存のイメージを一新させられた快さに浸ることができた。
 特に第3楽章に至るや、彼のピアノが俄然スケール感を増し、大きく聳え立って来たのに驚いたが、この人の演奏には今後注目したいところだ。
 彼がアンコールで弾いたリストの「泉のほとりで」も、まるでシューマンかと思えるような流麗で優しい表情。

 休憩後のシベリウスの「第2交響曲」では、グリーグから音色を一転させた重厚で物々しさも湛えたオーケストラの響きが面白い。この曲から「納涼」を感じるのは、いくら何でも無理だろうと思われるが、とにかく定石通り豪壮なクライマックスを築いて演奏は結ばれた。曲の前半ではオケの音が何か飽和的で、バランスの悪さを感じさせたものの、第4楽章では均衡を取り戻した。やはり都響にとっては、このホールは勝手が違うのか? 
 その点、このホールをホームグラウンドとする東京響は、いつどんな音を出しても、実に均衡豊かな響きになる。━━ホールとオケの相性というものを考えさせられた一例である。

2023・7・27(木)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読響

       サントリーホール  7時

 モーツァルトの「フリーメイソンのための葬送音楽」、細川俊夫の「ヴァイオリン協奏曲《祈る人》」(ソリストは樫本大進)、モーツァルトの「交響曲第31番《パリ》」、シュレーカーの「あるドラマへの前奏曲」という一風変わった選曲によるプログラム。コンサートマスターは長原幸太。

 細川俊夫の「ヴァイオリン協奏曲」は、読響とベルリン・フィル、ルツェルン響の共同委嘱作品の由。世界初演は今年の3月2日、ベルリンで行われている。演奏時間は25分程度か。これまで聴いた細川俊夫の管弦楽曲やオペラとは若干雰囲気を異にして、ヴァイオリンのソロが激しい起伏で曲を進めて行く。作曲者の説明によれば、シャーマニズムと宇宙との対話、確執、融合といったイメージが織り込まれている由。
 なお樫本大進は、アンコールとしてイザイの「無伴奏ソナタ第4番」から「サラバンド」を弾いた。

 シュレーカーの「あるドラマへの前奏曲」は、ヴァイグレの共感の強さもあり、この日の白眉と言えたであろう。「あるドラマ」というのは、シュレーカーのオペラ「烙印を押された人々」のこと。オペラのための実際の前奏曲ではないが、それと深い関りを持つ作品の由。大編成の管弦楽による色彩的な曲だ。これほどの作品を書いた作曲家に「頽廃音楽」のレッテルを張ったナチスの愚かさを嗤う。

2023・7・23(日)フェスタサマーミューザKawasaki サマーナイト・ジャズ

     ミューザ川崎シンフォニーホール  5時

 宮本貴奈の「ミューザ川崎シンフォニーホール・アドバイザー就任記念スペシャル」と題したコンサートを聴く。

 私もジャズは好きだが、全然詳しくないので、ナマを聴く機会はほとんど得られないでいる。
 だが私とて昔は、デューク・エリントンのビッグバンドもよく聴いたものだし、デイヴ・ブルーベックの「ブランデンブルク・ゲート」に陶酔したこともある。1966年のジョン・コルトレーンの来日公演を聴いたというのは、些か自慢できるだろう(但し白状するが、彼が転向したばかりのフリー・ジャズはさっぱり解らなかった)。
 いや、それよりも、古い話だが子供の頃、住んでいた目黒の家の窓からは、当時駐留軍の宿舎だった雅叙園観光ホテルの屋上にある「コーヌコピア」というダンスホールが見え、夏はそこでグレン・ミラーの音楽が毎晩ナマ演奏されているのを聞いていたこともあった。

 そんなこともあって、ジャズは、私にはどちらかといえば懐かしさの方が先に立つ音楽なのである。
 とはいえ、今日のコンサートで演奏されたジャズは、それらのいずれとも異なるのは言うまでもない。出演者はピアノ&ヴォーカルの宮本貴奈を中心に、ベースのパット・グリン、ドラムスのデニス・フレーゼの他、小沼ようすけ(g)、エリック・ミヤシロ(tp)、本田雅人(sax他)、中川英二郎(tb)、SUGIZO(Electric vn)、八神純子・佐藤竹善(vocal)という人たち。

 15分の休憩2回を含む2時間45分の長いコンサートだったが、練達の奏者たちの演奏のおかげで結構楽しかったし、第3部で特集されたバート・バカラック(今年2月に逝去)の作品集などは、50年前の懐かしい思い出や遣る瀬ない(!)思い出などを呼び覚ましてくれた。

 感動したのは、八神純子のナマ歌をほぼ40年ぶりに聴き、彼女の声が今なお健在であるのを知ったことであった。まして彼女が当時エフエム東京から「リスナーズグランプリ・FM東京最優秀新人賞」を贈られた曲「みずいろの雨」を、今日のコンサートでジャズ風アレンジにより見事に歌うのを聴けたとは、まさに感慨無量。
 というのも、当時は私も同局の編成担当スタッフとして、ニューミュージック(懐かしい言葉ですな)の番組なども盛んに制作管轄していたからである‥‥。

 かように、ジャズの分野には全然詳しくない聴き手は、演奏を聴きつつも、ただひたすら勝手な思い出ばかりに耽っているのであった。

2023・7・22(土)フェスタサマーミューザKawasaki ノット指揮東響

       ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 恒例の「フェスタサマーミューザKAWASAKI」が今年も開幕した。東京・神奈川のメジャー・オケ9団体に、ゲストとして山響とセンチュリー響を迎え、昭和音大と洗足学園音大のオーケストラも加えて、8月11日まで開催される。会場はここミューザ川崎と、一部は新百合ヶ丘の昭和音大テアトロ・ジーリオ・ショウワでも。

 今日はその初日で、例年通り、ホスト・オーケストラの東京交響楽団の演奏で始まった。 
 指揮は人気の音楽監督ジョナサン・ノットだが、プログラムは何とチャイコフスキーの「交響曲第3番《ポーランド》」に、「交響曲第4番」という、予想外の選曲。ノットがふだんはほとんど指揮していないチャイコフスキーの交響曲に、どんなアプローチを加えるか、ということに興味が集まるだろう。

 予想通りこれは、実にユニークなチャイコフスキーだ。昨夜のカンブルランとハンブルク響のチャイコも一風変わったものだったが、今日のノット指揮のそれは、少なくとも私には、これまで聴いたことがなかったようなスタイルの演奏に感じられる。
 極度に端整な表情、几帳面な構築、過度な激昂を抑制した節度のある響きとテンポ、(特に「4番」での)トランペットが決して突出しないような均衡を保ったオーケストラのバランスなど━━。いわばそれは、「地味なグレーのスーツにネクタイをきちんと占めた」チャイコフスキー像にでも喩えるか。

 さすがノットが「他の人がやらないようなチャイコフスキーを」と言うだけあって、ここまで徹底した独自のアプローチを打ち出し、チャイコフスキーの交響曲を別の面から見ればこういう音楽になるがどうだ、と言わんばかりの演奏に仕上げたそのセンスには、感動したかどうかは別としても、ただもう感服するしかなく、東京響の整然たる演奏にも感心した次第であった。

 その一方、こういう演奏がチャイコフスキーの音楽の持つ美点をかなり薄めてしまったのではないか、という疑問も抑えきれないのだが━━。
 美点とは何だ、と訊かれると、一概には言えないのだが、例えば彼の管弦楽法が持っている類い稀な色彩美といったもの。これはやはり、かけがえのないものではなかろうか? それに特に「3番」では、一種の舞踊的な感覚といったもの。これもやはり大切なのでは?

 だがノットと東京響に敬意を表して、今日の演奏で、その美しさにハッとさせられた個所を挙げておこう。それは「4番」第2楽章での弦の歌とハーモニーのしっとりとした情感の素晴らしさである。ここはやはり、「4番」の中でも不動の美点とでもいうべき部分だった。

2023・7・21(金)シルヴァン・カンブルラン指揮ハンブルク交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 ハンブルク交響楽団は、1957年創立のオーケストラ。あのNDRエルプ・フィル(北ドイツ放送響)や、ハンブルク・フィル(ハンブルク国立歌劇場管)とは別の楽団だ。首席指揮者は、前任のジェフリー・テイトのあとを受けて、2018年秋のシーズンからシルヴァン・カンブルランがそのポストに在る。

 今日のプログラムは、ベートーヴェンの「エグモント」序曲、サン=サーンスの「チェロ協奏曲第1番」(ソリストは宮田大)、チャイコフスキーの「交響曲第4番」。

 ハンブルクから来たオーケストラなら、チャイコフスキーの「4番」よりももっと何か他にいい曲(つまり、彼らの本領を発揮するような曲)がありそうなものだと思ったが、まあ、聴いてみると、カンブルランの解釈も含め、それなりにユニークな個性が出ていて、好みは別として、興味深かったのは事実だった。
 端的に言えば、弦楽器群の分厚い響きを主体にし、金管群を極度に抑えたオーケストラのバランスが、不思議なチャイコフスキーの「4番」を描き出していた、ということだろう。

 1階席後方で聴いたせいかもしれないが、特に第1楽章では、あの「運命」の動機━━作曲者に言わせれば「ダモクレスの剣」の動機が、オーケストラの遥か後方から微かに響いて来るといったバランスで、そのためこの曲の演奏に付き物の劈くような金管の咆哮がほとんど聞こえないという演奏になっていた。第4楽章でも所謂躁的な騒々しさは薄れていて、全体にむしろ落ち着きのある「4番」という印象を得たのだった。

 こういう演奏スタイルそのものは、必ずしも納得できるものではないけれども、先日ある来日指揮者が日本のオケを指揮して、恐るべき「4番」を演奏し、昔は好きだったこの曲のイメージを粉々にしてくれたのに辟易させられたあとでは、何かしらほっとさせられたような気がしたのも事実である。

 だが、今日のカンブルランとハンブルク響の演奏が、すべてこのような柔らかい豊麗なものだったわけではない。
 「エグモント」序曲では、弦は猛烈にガリガリとした音で弾かれ、トランペットはかなり刺激的に叫んで、恐ろしく尖ったベートーヴェンになっていたのだった。
 そして一転してサン=サーンスの協奏曲は、艶やかではあるけれども丸みを帯びた、ヴェールのかかったような音色で演奏された。ソリストの宮田大が全く同じような、まろやかな音色でそれに呼応していたのも印象的だった。

 このように、3曲をそれぞれ全く異なった音で演奏し分けたあたり、カンブルランのセンスもただものではない。だが結局のところ、今日の3曲の演奏の中では、このサン=サーンスが最もバランス感覚のいい(?)ものだったかもしれなかった。
 なお、宮田大のソロ・アンコールはサン=サーンスの「白鳥」の無伴奏版(このように遅いテンポで弾かれると、まるで聖歌のように聞こえる!)、オケのアンコールはドヴォルジャークの「スラヴ舞曲 作品72の2」だった。

 というわけで、このハンブルク交響楽団の来日演奏会、もちろん、悪いものではなかったけれど、でもやはりこのハンブルクの地味なオーケストラが、同地が生んだ大作曲家ブラームスの交響曲をどんな風に演奏するかを聴きたかったな、とも思う。

2023・7・20(木)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 ウェーベルンの「夏風の中で」、モーツァルトの「ホルン協奏曲第4番」、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」というプログラム。
 「ホルン協奏曲」のソロを吹いた名手シュテファン・ドールが、そのまま「アルプス交響曲」でオーケストラに参加して1番パートを吹く、という豪華なオマケがついていた。コンサートマスターは矢部達哉。

 アラン・タケシ・ギルバートと、東京都交響楽団との相性は、すこぶる良いように見える。2011年の客演の際に指揮したブラームスの「第1交響曲」を聴いて、その素晴らしさに、「いまのうちに首席客演指揮者に迎えておいた方がいいんじゃないか」なとど書いたことがある(☞2011年7月17日の項)が、2018年4月には本当にそうなってしまったのは祝着の極みであった。
 彼自身も10年前から更に大きく飛躍している。それは先週のニールセンの「5番」でも明らかだろう。

 彼と都響の演奏が大好評とあって、「今日は急遽長野から聴きに来ました」という知人に上野駅前で出会ったほどである。客席は満杯で、しかもふだんより若い人たちが多かったように思われた。とにかく、結構なことだ。

 「アルプス交響曲」は、まさに都響も渾身の力を籠めた演奏であったろう。その壮烈な鳴りっぷりたるや、何年か前にハーディングがこの曲を指揮した時のサイトウ・キネン・オーケストラのそれを凌ぐほどの勢いだったが、とりわけトランペットがあのように鋭く咆哮した演奏(日の出の場面および頂上の場面)は、わが国のオーケストラではあまり聴けない類のもので、奏者たちも多分気持がよかったろうし、われわれ聴き手としてもすこぶる痛快ではあった。

 こういったダイナミズム満載の「アルプス交響曲」だったが、しかし頂上であまり「歓呼」し過ぎた所為なのか、次のクライマックスたる「嵐」の場面が━━怒号と咆哮は充分ながらも、期待したほどの凄味に至らなかったのは、登山者が頂上を極めて力を出し切ってしまったか? 
 ただ、オーケストラの「鳴り」が、「頂上場面」などに比べると、何故かあまり客席に飛んで来ないように感じられたのは━━実際はどうか判らないけれども、もしかしたらホールの湿度が上昇した所為とか? 曲が後半に入った頃、客席は何となく蒸し暑く、空気がべたべたしていたような気もしたのだが・・・・。
 いずれにしても今日の「アルプス交響曲」、私としては、もっとよく響くホールで聴きたかったというのが本音だ。

 「ホルン協奏曲」でのシュテファン・ドールのソロはもちろん風格豊かで(ちょっと慎重な演奏だったか?)、モーツァルトの音楽の闊達さと美しさを味わわせてくれるには充分だったけれども、その彼が「アルプス交響曲」でホルンの1番の席に堂々と座っていたさまは、まさに「絵になる」光景だった。彼のような名手がゲストとして入っているだけで、オーケストラの雰囲気が変わるということもあり得るだろう。

 しかし、何はともあれ、アランと都響の共同作業が今回の一連の演奏でも大成功を収めていたのは、紛れもない事実である。今年の都響の「第9」は彼が振るというから、聴きに行ってみようか。

2023・7・18(火)METライブビューイング「魔笛」

     東劇  7時

 今シーズンの「METライブビューイング」の最終演目は、去る6月3日にメトロポリタン・オペラで上演された、サイモン・マクバーニーの新演出によるモーツァルトの「魔笛」。

 指揮は、先日の「ドン・ジョヴァンニ」と同じく、ナタリー・シュトゥッツマンだ。
 主要歌手陣は次の通り━━ローレンス・ブラウンリー(タミーノ)、エリン・モーリー(パミーナ)、トーマス・オーリマンス(パパゲーノ)、キャスリン・ルイック(夜の女王)、スティーヴン・ミリング(ザラストロ)、ブレントン・ライアン(モノスタトス)、ハロルド・ウィルソン(弁者)、アシェリー・エマーソン(パパゲーナ)。

 METの「魔笛」は、ジュリー・テイモアの演出とゲオルギー・ツィーピン美術によるプロダクション(これは私もMETで観たが、実に幻想的で美しい舞台だった)が長いこと人気を得ていた。だが、METのSEASON BOOKを見ると、どうやら今シーズンの前半まではそれが上演され、シーズンの終り近く(5月19日)にこの新演出がプレミエされたような様子である。

 インタヴューアーのベン・ブリスが「画期的」と盛んに持ち上げているその新演出は、「1791年のアン・デア・ウィーン劇場での初演の時代のローテク・スタイルと、現代のハイテク・スタイルとをミックスさせたもの」とのこと。
 客席からよく見える場所に位置した「効果音係」が大活躍したり━━映像にもしばしば現れるが、これは実に見事だった━━、アナログ的な手作業で作る舞台デザインがプロジェクション・マッピングで投映されたり、大勢の者たちがパパゲーノを囲んで「紙」で小鳥が舞うのを表わしたり、などという手法も使われていた。

 映画として視ると、なんだかゴチャゴチャした舞台のように感じられるが、ナマで観ればおそらく印象が異なるのだろう。記録映像だけで判断するのは危険だ。
 演劇的な特徴としては、ラストシーンで、ザラストロが夜の女王を許して和解するという流れになっている。ただしこれは、特に目新しい手法ではないが。

 音楽の面では、まずシュトゥッツマンの指揮がかなり劇的で引き締まっており、頂点への盛り上げ方の巧さが目立つ。彼女の指揮については、正直なところ、私はこれまであまり共感を持っていなかったのだが、今度のモーツァルト2作の指揮ですっかり見直してしまった次第である。

 歌手陣には、どうも役柄のイメージとあまり合っていないような雰囲気の人もいたようで‥‥。だが抜きん出て光っていたのは、夜の女王を歌い演じたキャスリン・ルイックだ。いかにもダークサイドから出て来た恐ろしい老婆というメイクで、車椅子に乗って周囲を威嚇しつつ、あの高音のコロラトゥーラをいとも易々と迫力充分に歌ってのける。METの現場での拍手と歓声も凄かったが、東劇の客席でも、何人かの人たちが拍手をしていたほどだった。
 「3人の童子」が幽霊か骸骨のような姿で現れるのは、少々気持が悪い。

2023・7・17(月)佐渡裕指揮「ドン・ジョヴァンニ」邦人キャスト組

      兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール  2時

 Bキャスト(邦人組)の2日目を観る。
 キャストは以下の通り━━大西宇宙(ドン・ジョヴァンニ)、平野和(レポレッロ)、高野百合絵(ドンナ・アンナ)、池田香織(ドンナ・エルヴィーラ)、城宏憲(ドン・オッターヴィオ)、森雅史(マゼット)、小林沙羅(ツェルリーナ)、妻屋秀和(騎士長)。

 いい歌手陣を揃えたものだ。
 第一に、いま日の出の勢いにある大西宇宙をタイトルロールに起用したのは大成功と言えよう。伸び伸びとした力のある声と闊達な演技で、若々しくエネルギッシュなドン・ジョヴァンニ像をつくり出した。道に外れた殺人を犯したとはいえ、スーパー・ヒーローでもなく、いやらしい放蕩者でもなく、どこかに爽やかなイメージを感じさせるジョヴァンニ像を描き出す点で、大西宇宙が現在の邦人歌手群の中に独自の存在感を確立したことは間違いないだろう。

 その他の人びとの歌唱と演技も充実していた。池田香織のモーツァルトは滅多に聴く機会のないレパートリーだが、やや大人びて落ち着いて、分別も充分あるエルヴィーラというイメージがいい。高野百合絵のアンナは如何にも騎士長の娘に相応しい気品にあふれて適役で、これでコロラトゥーラのテクニックに磨きがかかれば文句のないところ。
 小林沙羅のツェルリーナは明るさという点でも当たり役で、マゼット如きを夫にしたところで簡単に尻に敷いてしまうだろうと思われるしたたかさも表現している。

 男性歌手陣では、レポレッロの平野和が予想通り本領を発揮、前半は少し控えめだったものの、後半にかけてぐんと調子を上げ、特に「地獄落ち」の場面では「ジョヴァンニの強力な相棒」という存在感を見事に打ち出した。

 騎士長の妻屋秀和は不動のベテランの味、もちろん彼は「右利き」の剣士だが、石像としての場面では何故か前夜のエルスベアと同様、槍を左手に構えていた。一方、オッターヴィオの城宏憲と、マゼットの森雅史は、歌唱は見事ながら、これらの人物の性格表現の演技としてはやや物足りなかったように感じられる。

 佐渡裕とオーケストラは、昨日の演奏よりも更に充実の度合いを高めていたように思われる。特にこの曲の特徴のひとつである木管の和声の妖艶なほどの妙味が素晴らしく、たとえば第1幕フィナーレの最初の方で、ジョヴァンニがツェルリーナを誘惑する個所での管楽器の響きなど、うっとりするような美しさにあふれていた。
 同じフィナーレで、抑制したテンポから一気に宴会の明るいテンポに解放する瞬間の呼吸なども快適で、佐渡裕がこのオーケストラを見事に制御しているなと感服させられたほどである。
 ツェルリーナの歌「ぶってよマゼット」では、その遅いテンポが小林沙羅と呼吸が合わなかったような感もあったが、一方「地獄落ち」の場面での重厚なテンポは見事な不気味さを出して、佐渡の指揮を讃えたいところだった。

 デヴィッド・ニースの演出については、昨日も書いたが、「地獄落ち」場面でのジョヴァンニとレポレッロの主従関係に感動的な解釈を施した個所が、私は大いに気に入った。
 また最後の六重唱の個所━━それぞれが「ジョヴァンニ・ロス」の感情に浸る場面で、レポレッロが例の「カタログ」を思い出深くひもとき、最後にそれを地にたたきつけて去ろうとしながら、オーケストラの後奏の個所で再びそのカタログが気になって振り向く‥‥といった一連の演技も面白い。

 ここでは全員が、ジョヴァンニの幻影を消し去ろうとしつつも、なおそれから逃れられないような挙動を見せるという設定が、印象的な後味を感じさせるだろう。
 もっとも、こういう手法は、必ずしも珍しいものではなく、以前には背景にジョヴァンニが再び姿を現して一同を愕然とさせる(その瞬間に暗転する)演出もあった。また古くは、ゲルハルト・ヒュッシュが日本でこれを演じた際、だれもいなくなった舞台にジョヴァンニが飛び出し、帽子を振って哄笑しながら姿を消す、という演出もあったという。

 いずれもドン・ジョヴァンニは「永遠の存在」である、というイメージを打ち出す演出だが、私は実はこういう「余情に富む」幕切れというのがたまらなく好きなので‥‥。

2023・7・16(日)佐渡裕指揮「ドン・ジョヴァンニ」

      兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール  2時

 恒例の「佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ」の今年の出し物は、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」。
 指揮はもちろん佐渡裕で、演出はデヴィッド・ニース、舞台装置と衣装はロバート・パージオラ。7月14日に幕を開け、23日までの間に8回上演され、来日歌手を中心としたAキャストと、日本勢のみで構築されたBキャストが4回ずつ受け持つ。

 今日は3日目で、Aキャストによる2日目の公演だ。
 出演は以下の通り━━ジョシュア・ホプキンズ(ドン・ジョヴァンニ)、ルカ・ピサローニ(レポレッロ)、ミシェル・ブラッドリー(ドンナ・アンナ)、ハイディ・ストーバー(ドンナ・エルヴィーラ)、デヴィッド・ポルティーヨ(ドン・オッターヴィオ)、近藤圭(マゼット)、アレクサンドラ・オルチク(ツェルリーナ)、ニコライ・エルスベア(騎士長)。それに兵庫芸術文化センター管弦楽団と、ひょうごプロデュースオペラ合唱団。

 まずは佐渡裕の指揮。彼らしく強靭な音づくりで、序曲冒頭など劇的だったが、その一方、音楽のニュアンスに精緻さを増したのがいい。たとえば、ドンナ・アンナが、彼女を襲った男がドン・ジョヴァンニであることに気づいた瞬間からあとの感情の変化を描く弦が、その都度いろいろに表情を変えて行くという巧さ。そして、モーツァルト円熟期特有の木管の和声の妖艶な音色が見事に再現されて行ったのも嬉しかった。

 一方、デヴィッド・ニースの演出も、昔に比べ、目覚ましく微細になった。登場人物の演技に、随所で演劇的な細かい表現を示すようになっていたのが有難い。
 そして今回の彼の演出では、ドン・ジョヴァンニはそれほど抜きん出たヒーローでも悪役でもなく、どちらかといえば、登場人物たちのone of themという存在として感じられる。

 これは、今日のジョヴァンニ役のホプキンズのキャラクターと関係するかもしれないので即断は避けたいが、しかし実際に冒頭からして彼は騎士長との決闘に際し、不甲斐なくも自分の剣を叩き落され、アワを食って咄嗟にレポレッロから短剣を借り、騎士長の油断を突いて逆襲する、という風変わりな描き方なのだ。「相棒」の杉下右京的に言えば「きみ、弱いんですね」と馬鹿にされても仕方がないようなジョヴァンニである。

 だが、最後に彼が騎士長からの晩餐への招きを受け入れる━━つまり死を覚悟した時に、あれほど揶揄してこき使っていた「相棒」のレポレッロに、親友として永遠の別れを告げるような挙動を見せるあたり、ニースの新解釈(彼のオリジナルであるならばだが)もなかなかものだと思わせる。

 なおその恐ろしく強い、ドスの利いた声の老騎士長(エルスベア)が「左利き」で、剣を左手で振り回し、大詰めの個所では「左手に槍、右手に盾」という持ち方をして、しかもヴォータンさながらの格好で出現し、ジョヴァンニを威嚇するのが面白い。

 その他の歌手では、オッターヴィオ役のポルティーヨが歌唱・演技ともに品のいい風格を示し、登場人物たちの中で唯一の「常識人」のような性格を持たせたユニークな演出意図とともに、強い印象を与えた。また、レポレッロ役のピサローニの達者な歌唱と演技は、主人のジョヴァンニをさえ凌ぐ存在感だろう。

 エルヴィーラ役のストーバーの表情豊かな演技と歌唱、若き農民の恋人同士役の近藤圭とオルチクの生き生きした熱演も愛らしい。
 ただ、ドンナ・アンナ役のブラッドリーが並外れて大きな声量で、恰もブリュンヒルデの如く、第1幕冒頭などでは二重唱のバランスを崩す勢いだったのには、些か首をひねらされたが。

 昨年の「ラ・ボエーム」に続き、今年も西宮のオペラは大成功である。主催者の話では、今回「初めてオペラを観に来た」というお客さんも少なくなかったとか。オペラ・ファンが増えるというのは喜ばしいことだ。
 例年、8回もの公演がほぼ完売(もしくは、それに近く)になるという全国でも例を見ない盛況を示すこの西宮のオペラ。佐渡裕の人気もますます高いようである。明日は、Bキャストの「宇宙組」を観よう。

2023・7・15(土)アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  2時

 東京都響の首席客演指揮者アラン・ギルバートが、ニールセンの序曲「ヘリオス」と「交響曲第5番」、それにラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストはキリル・ゲルシュタイン)を指揮した。コンサートマスターは水谷晃(客員)。

 アラン・ギルバートは、現在NDRエルプ・フィル(北ドイツ放送響)首席指揮者と、スウェーデン王立歌劇場音楽監督を兼任するという活躍ぶり。
 その所為だけでもないだろうけれど、彼の音楽も昔とは全く変わり、陰翳と、巧味とを増した。彼が北欧デンマークの作曲家ニールセンの音楽をこれほど見事に指揮する人になっていたとは、嬉しい限りである。

 「ヘリオス」でのクレッシェンドの巧さ、「第5交響曲」での一種怪奇な奥深さなど、なかなか素晴らしいもので、特に後者では、私は聴いているうちに、あの北欧の妖怪トロルの不気味な絵(現地で買った置物の人形はちょっとコミカルに過ぎたが)を連想してしまったほどだ。都響も巧い。

 ラフマニノフの協奏曲でも、アランのオーケストラの制御の鮮やかさに感服させられた。第1楽章冒頭の序奏で、オーケストラが揺れるように始まる個所で、あんなに明晰なリズム感を持った演奏は、めったに聴けないものだろう。
 だが、何より感心し、納得させられたのは、彼が最強奏の個所でもオーケストラを殊更に咆哮させず、終始くぐもった音色のまま盛り上げて、全ての個所でソロ・ピアノが明確に聞こえるようなサポートを繰り広げていたことだ。

 ゲルシュタインの一種透明で清澄なピアノも、それでこそくっきりと浮かび上がることができるというものだろう。
 こんな巧みな「芸当」は、昔のアランからは想像もつかないことではなかったか。彼はいい指揮者になった。

 ゲルシュタインのピアノもあまりに美しい音色なので━━ラフマニノフの協奏曲でこういう音色が聴けるとは予想していなかったので、日頃オケの演奏会でソリストがアンコールをやるのにはあまり賛成できなかった私も、1曲くらい何かやってくれないかな、という心境になったほどである。おそらく、ソロ・カーテンコールを続けていた多くの聴衆も、同じような気持だったのでは? 

 残念ながら客電は全て上げられ、カーテンコールにはアランも一緒に出て来てしまい(!)、お客さんたちもそれでやっと諦めて帰った。

2023・7・14(金)リチャード・トネッティ指揮紀尾井ホール室内管

        紀尾井ホール  7時

 オーストラリア出身、現オーストラリア室内管弦楽団芸術監督のリチャード・トネッティが客演、弾き振りでユニークなプログラムを披露した。

 ヴォイチェフ・キラルの「オラヴァ」で開始、ハイドンの「交響曲第104番《ロンドン》」を演奏し、休憩後には武満徹の「ノスタルジア~アンドレイ・タルコフスキーの追憶に」とバッハのコラール前奏曲「主イエス・キリストよ、われ汝を呼ぶ BWV639」を続けて演奏、最後をモーツァルトの「ジュピター交響曲」で締めるという選曲。
 トネッティが指揮とヴァイオリンを受け持ち、オーケストラもチェロを除いて立ったままで演奏するというスタイルである。

 ハイドンとモーツァルトの交響曲を据えたプログラムの中に武満の作品を入れるくらいは珍しくなかろうが、1曲目をキラルの作品で始めるというところに、トネッティの面目躍如たるものがあろう。
 この「オラヴァ」もキラルらしく猛烈な曲で、曲調の点ではまさに「ポーランドの伊福部昭」といった趣きだが、弦楽器奏者たちが「狂ったような勢いで」弾き続ける光景も物凄く、最後は奏者たちがシャウトして終る(ただし声は少々弱かった)という賑やかさだ。

 それに続く「ロンドン交響曲」も、当然ながらノン・ヴィブラート奏法による鋭い音の連続で、かなり刺激的なハイドンが立ち現れた。こういうスタイルは今日、珍しいものではないけれども━━しかしこの演奏のようなガリガリした強音で叫び続ける音楽は、本来そうあるべきだと思われるようなアクセントの強い明快なピリオド楽器スタイルの音楽とは違うのではないか、という気もするのだが如何。
 だが今日の紀尾井ホール室内管の演奏、最後の「ジュピター交響曲」ではもう少し多彩な音になっていたので━━第2楽章最初のくだりなどは素晴らしい深みが感じられていた━━今日は初日の所為もあったし、オーケストラの「慣れ」の問題かもしれない。

 弱音のノン・ヴィブラート奏法で開始された武満の「ノスタルジア」には独特の趣が感じられたが、たまさかのフォルテの個所がやはり強靭な硬質の音色になっていて、聴き慣れている武満の音楽とはまったく異なる相貌になっている。だが、好みは別として、これはタケミツの新しい姿を見るような感があって、実に興味深かった。このようないろいろなアプローチに遭遇してこそ、彼の音楽は永遠のものになって行くのであろう。
 このニュー・タケミツ・トーンのあとにバッハのコラールが続くアイディアは秀逸であった。

2023・7・12(水)1933年生れの作曲家たち

      東京オペラシティ リサイタルホール  7時

 池辺晋一郎プロデュースによる「日本の現代音楽 創作の軌跡」の第5回として、1933年生れの作曲家たちを特集したプログラムが組まれた。

 演奏されたのは、今井重幸の「青峰悠映━序奏と田園舞」(1989/2006)、辻井英世の「ナフタ」(1967)、三善晃の「ノクチュルヌ」(1973)、服部公一の「古 新羅人 讃」(1985)、神良聰夫の「弦楽四重奏のための3つの小品」(1963)、原博の「ピアノ・ソナタ第3番」(1971)、一柳慧の「リカレンス」(1977~78)━━という7人、7曲。

 いずれも室内楽あるいはピアノ・ソロのための作品で、演奏には、成田達輝(vn)、辻本玲(vc)、高木綾子(fl)、福士マリ子(fg)、中野翔太(pf)らを含む腕利きの奏者たち計13人が参加していた。

 集められた作品は、どれも10分足らず、最長でも一柳慧の14分前後という演奏時間のものだったが、先人作曲家たちの群像を一覧するのが狙いの演奏会としては手頃の選曲と言えるだろう。事実、私にとっては初めて聴く曲ばかりだったし、すべてが新鮮に感じられ、充実感を味わった次第である。

 三善晃の「ノクチュルヌ」での、断続する打楽器などの音群の連鎖が実に緊密なのはさすがと思わせたし、一柳慧の「リカレンス」も、最晩年の作品に聴かれるような凄味には不足するけれども、この人らしい先鋭的な自己主張の強さを感じさせる作品だ。
 原博の「ソナタ」での厳しさと率直さにも驚かされたが、神良聰夫の「弦楽四重奏のための3つの小品」では、何かしらバルトークの遠いエコーのようなものを感じてしまったのはこちらの勝手な想像の所為かもしれない。

 辻井英世の「ナフタ」など、1960年代にはこういう作風の曲をよく聴いたなという気がするけれども、考えてみると、生年が同じでも、作曲年代によって作品のスタイルが異なることもあるのではないか?
 7人のうち唯一ご健在という服部公一氏━━私はFM東京時代に番組でお付き合いしていたため、なれなれしくも「ハットリハムさん」と呼ばせていただいていたのだが━━氏がこんな強烈な曲を書いておられたとは不勉強にして全く知らなかった。目からウロコ、である。

 こういったプログラムが、池辺さんの自己体験や主観や作曲家素描などを交えた、しかもこの人特有の「アカデミックにならない」解説のおかげで、満員の聴衆も寛いだ雰囲気で聴けたわけである。
 この意義あるシリーズは、しかし今回が最終回とのこと。池辺さんの説明によれば、生年の上で「先人たち」がこれだけ多く同時期に集中しているのは1929~1933年だけで、それ以外は「ポツ、ポツ」という状態なのだという。従ってこのシリーズも、「1年ずつ全5回」となった由だ。

2023・7・8(土)広上淳一指揮日本フィル 「道化師」

      サントリーホール  2時

 日本フィルが定期でオペラを手がけるのは久しぶりだ。今回は「フレンド・オブ・JPO(芸術顧問)」という肩書の広上淳一が指揮して、レオンカヴァッロの「道化師」を演奏会形式で取り上げた。
 声楽陣は笛田博昭(カニオ)、竹多倫子(ネッダ)、上江隼人(トニオ)、小堀勇介(ペッペ)、池内響(シルヴィオ)、東京音楽大学の合唱団、杉並児童合唱団。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 ソロ歌手陣はステージ前面に譜面台とともに位置し、合唱はステージ後方に位置する(P席には客を入れている)。
 演奏会形式上演の強みで、広上はフル編成のオーケストラを豪快に鳴らし、「道化師」のオーケストラ・パートをすこぶるシンフォニックに響かせ、このオペラを劇場で聴くのとは一味違った魅力を感じさせてくれた。日本フィルの渾身の演奏をも讃えたい━━このオーケストラは、近年本当に表情豊かになったと思う。

 歌手陣も充実していた。カニオ役の笛田博昭の、豊かな声によるドラマティックな歌唱は、何を措いても特筆されるべきであろう。彼を起用したことが、今回の上演を成功させた最大の要因といってもよいほどである。ネッダ役の竹多倫子も後半に至って劇的な迫力を全開させた。合唱も馬力充分。

 音楽的には斯くして大成功を収めた上演ではあったが、このような純粋な演奏会形式の場合、特にラストシーンなどにおいて、ふだんオペラに馴染んでいない人が、登場人物がどうなったか━━つまり道化師カニオがネッダの情人たるシルヴィオを殺してしまうくだりが、瞬時に理解できたかどうか、いつも気になるところだ。
 セミステージ形式上演なら、歌手がちょっと身振りを入れれば解るだろうけれども、今日のように直立不動に近い姿勢のままだと、何がどうなったのか、ちょっと解り難いのではなかろうか? 

 事前に解説を読んでおけ、と言えばそれまでだが、それだけではちょっと不親切のような気がする。字幕に例えば「(カニオ、シルヴィオを刺す)」とかなんとか、ほんのわずかでいいから一言載せれば、それだけでも随分違って来ると思うのだが、如何に?

2023・7・7(金)オルガ・シェプス ピアノ・リサイタル

      トッパンホール  7時

 先日、スワロフスキー指揮するスロヴァキア・フィルと協演してラフマニノフを弾いていたモスクワ生まれでドイツ在住の女性ピアニスト、オルガ・シェプスが、リサイタルを行なった。
 プログラムは、前半にベートーヴェンのソナタを2曲、「悲愴」と「第31番作品110」と、後半にショパンの4つの「バラード」を置いたもの。

 私は何故かこのホールでピアノを聴くと、その音が会場の空間容積(?)に納まり難いようなタイプのピアニストばかりに出逢ってしまうのだが、今日のオルガ・シェプスも同様で━━まるでラフマニノフの如きショパンが立ち現れて来たのには、些かたじろいだ。ベートーヴェンのフォルティッシモより、ショパンのフォルティッシモの方が強い、という解釈にはどうも納得しかねるのだが‥‥。

 もしそれが意図的なものであるのなら、ショパンの音楽を所謂「叙情詩人」的なイメージから解放し、強靭な意志を備えた、怒れるポーランドの志士とでもいったイメージで描き出そうとでもいうコンセプトなのかもしれないが‥‥彼女には彼女の考えがあるのだろうが。

2023・7・5(水)新国立劇場 プッチーニ:「ラ・ボエーム」

       新国立劇場オペラパレス  2時

 2003年4月にプレミエされ、今回が7度目の上演になる粟国淳演出の「ラ・ボエーム」。5回公演の、今日は4日目の上演。

 大野和士が指揮、東京フィルハーモニー交響楽団と新国立劇場合唱団、TOKYO FM少年合唱団、スティーヴン・コステロ(ロドルフォ)、アレッサンドラ・マリアネッリ(ミミ)、須藤慎吾(マルチェッロ)、ヴァレンティーナ・マストランジェロ(ムゼッタ)、フランチェスコ・レオーネ(コッリーネ)、鹿野由之(ベノア)、晴雅彦(アルチンドロ)他の出演。この中では、特に須藤慎吾の歌唱を讃えたい。

 このプロダクションは、パスクァーレ・グロッシの美術ともども、紗幕をも巧く利用した写実的な舞台で、演技も緻密なので、再演を重ねる意義も充分あるだろう(少なくとも、先日のパレルモ・マッシモ劇場の舞台などよりは、余程よく出来た舞台である)。

 だが私は、今回の音楽面での特徴の第一として、大野和士が東京フィルから引き出した音楽が、素晴らしく雄弁だったことを挙げたい。
 オペラにおけるオーケストラというものは、決して「伴奏者」ではなく、歌手と同様に「主役」の一翼を担う存在なのである。このところ、いくつかの公演で、新国立劇場のピットから響き出すオーケストラの音が大きく、明快で劇的で、発言力の豊かなものになって来ていることは感じられていたが、大野芸術監督によってそれがいよいよ確立されたとすれば、漸くオペラの正常な形がこの劇場でも当然のものになった、と言っていいかもしれない。

2023・7・3(月)METライブビューイング「ドン・ジョヴァンニ」

      東劇  6時20分

 5月20日にメトロポリタン・オペラで上演されたモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の映像。

 イヴォ・ヴァン・ホーヴェによる新演出版だ。演出家本人の語るところによれば、今回のドン・ジョヴァンニは、本来の副題でもある「罰せられた放蕩者」が、その性格解釈の基本になっているとのこと。

 その他、「暴力」と「夜」も重要なキーワードだそうだが、確かに第1幕大詰めにおけるドン・ジョヴァンニの暴力と、それに抗うツェルリーナの演技などは、かなりリアルなものがあった。また、この物語の場面のほとんどが「夜」であるというホーヴェの指摘も、相手の判別すらつきにくい状況がドラマの重要なポイントになっていることのバックグラウンドとして、納得が行く説明である。
 さらに、騎士長の銅像も現れず、ほとんど生身の血まみれの姿になって出現するなどという設定もあって、これまでのMETの「ドン・ジョヴァンニ」とはかなり趣を異にした演出となっているのが興味深い。

 指揮は、何とナタリー・シュトゥッツマンだ。これがMETデビューだそうだが、ついに彼女もそこまでになったか。しかし音楽のテンポは実によく、スピーディで推進性も豊かだし、モーツァルトの音楽の素晴らしさを充分に感じさせるという指揮なので、これは成功していると言っていいだろう。

 歌手陣は次の通り━━ペーター・マッテイ(ドン・ジョヴァンニ)、アダム・プラヘトカ(レポレッロ)、フェデリカ・ロンバルディ(ドンナ・アンナ)、ベン・ブリス(ドン・オッターヴィオ)、アナ・マリア・マルティネス(ドンナ・エルヴィーラ)、イン・ファン(ツェルリーナ)、アルフレッド・ウォーカー(マゼット)、アレクサンダー・ツィムバリュク(騎士長)。

 この顔ぶれ、いずれも粒が揃っている。マッテイの題名役は、演出の意図通り、色男というよりも暴力的な悪者というイメージだ。ブリスのドン・オッターヴィオが、よくありがちな優柔不断な男ではなく、かなり毅然とした男として描かれているのが興味深い。イン・ファンの愛らしさ、ロンバルディとマルティネスの巧さも印象に残る。

 上映時間は3時間43分。

2023・7・2(日)レオシュ・スワロフスキー指揮スロヴァキア・フィル

       サントリーホール  2時

 欧州のオーケストラが続々と来日する時代が蘇って来たのは嬉しいことである。スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団は今日が初日、8日の秋田まで計5回の公演を行うが、最初の2回を客演のレオシュ・スワロフスキーが、あとの3回を現在の首席指揮者ダニエル・ライスキンが振る。

 今日はそのスワロフスキーの指揮で、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲で幕を開け、オルガ・シェプスをソリストに迎えたラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」、チャイコフスキーの「交響曲第5番」と続くプログラムが演奏された。

 私はオーケストラが好きなので、ついそちらの方の演奏会ばかりに足を運んでしまうのだが、このところ、ラフマニノフとチャイコフスキーにやたら屡々遭遇するので、少々食傷気味になりかけていないでもない。

 ━━だがそれにしても今日のチャイコフスキーの「5番」は、さすが大ベテランのスワロフスキーの指揮だけあって、オーケストラのバランスは自然な調和を感じさせ、演奏には殊更の誇張も外連もなく、素朴で、伸びやかで、あたたかさがあふれていたのが印象的だった。
 スロヴァキア・フィルの良き伝統を今に伝えるといったタイプの演奏であろう。現・首席指揮者ライスキンが振るとどんな個性が出るのか、これはこれでまた興味を抱かせる。

 ラフマニノフのコンチェルトでも同様。素朴なラフマニノフだ。ソリストのオルガ・シェプス(モスクワ生まれだから本来はオリガだろうが、6歳でドイツに移住したというから、オルガでいいのだろう)の方はまだ若いから、もっと「現代風」の演奏を聴かせるのだけれど、このギャップが、初めのうちはちょっと気にならないでもなかった。

 ソロ・アンコールで彼女が弾いたプロコフィエフの「戦争ソナタ」(第7番の方)の第3楽章が、なかなか鮮やかだった。
 アンコールのもう1曲は、彼女自身が編曲した「Theme from Unravel two」とのことだったが、これはもしかして、あのゲーム・プレイのアレか? だとしたら、そういう音楽がクラシックのコンサートのアンコール曲にも出て来るという、面白い時代になったものである。彼女のリサイタルは7日にトッパンホールで行われるが、どんな雰囲気になるか。

 なお、オケのアンコールは、ブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」。これも、最初の「ルスランとリュドミラ」序曲と同様、素朴で、自然なローカル色が出ていて、何となく懐かしい雰囲気の演奏になっていた。

2023・7・1(土)川瀬賢太郎指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      横浜みなとみらいホール  5時

 日本フィルの横浜定期。モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲、「ピアノ協奏曲第25番」(ソリストは菊池洋子)、ストラヴィンスキーの「春の祭典」というプログラム。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 今や名古屋フィル音楽監督、札幌交響楽団正指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢のパーマネント・コンダクターを兼任する川瀬賢太郎。活動範囲が広がるとともに、その指揮も以前に比べ、格段にスケール感を増した。

 面白かったのはやはり「春の祭典」である。オーケストラを豪快に鳴らし、この曲のダイナミズムをこれでもかとばかり強調するが、そうした中でも音楽の骨格が折り目正しく整然と保たれているのが、如何にも川瀬の指揮らしい。喩えるなら「端整な凶暴さ」とでもいった「春の祭典」か。

 ━━こういう演奏で聴くと、ストラヴィンスキーの管弦楽法が如何に緻密巧妙であるかが明確に伝わって来る。そればかりか、作品にあふれるバーバリズムの中に、のちに彼が向かう新古典主義作風が微かに予告されているような感さえ起って来るという具合なので、これが演奏の面白さというものであろう。

 もっともこういうタイプの「春の祭典」は、かつてのピエール・ブーレーズの解釈にもそれに似た先例があるのだが、いま改めてナマで聴いてみると、実に新鮮な趣が感じられるのである。「春の祭典」という作品が持つ無限の可能性をまたもや教えられたような気がして、やはりこれはいい曲だなという思いに満たされた、そういう演奏だった。

 モーツァルトのコンチェルトも佳かった。川瀬と日本フィルの演奏も風格充分、いかにも「ハ長調」というイメージが打ち出されているのが、何とも愉しい。そのオーケストラの力感の中に、菊池洋子のソロが実に清澄な表情で、これまた「ハ長調の気品」をたたえて歌う。

 なお彼女はアンコールとして、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」の冒頭のアリアの部分を弾いた。
 昔、かのルドルフ・ゼルキンがデビュー間もない頃、アンコールでこのアリアを弾きはじめたのはいいけれど、勢い余って止まらなくなり、本編の変奏曲にまで入ってしまって収拾がつかなくなった、という話をどこかで読んだような気がするが(細部は記憶違いかもしれない)、まさか今日はそんなことにはなるまいな、と思いつつ、気持よく聴いた。
 全曲の演奏は、8月4日に東京でのリサイタルで実現するはずである。

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