2024-04

2024年2月 の記事一覧




2024・2・28(水)東京二期会 「タンホイザー」初日

      東京文化会館大ホール  5時

 昨日のGPの際に、キース・ウォーナーによく似た頭の人がいたので、てっきりご本人が来日しているのだと思い、それをブログに書いてしまったのだが、二期会のY氏に確認すると「その予定だったが結局来られなかった」とのこと。その代わり、再演演出担当のカタリーナ・カステニングら「御一統様」の何人かが来日して直接指示を出しているとのことで、「あの頭の人」はそのうちのだれかだったようである。

 ともあれ、昨日も書いたことだが、このプロダクションは3年前にも上演されたことがあり(☞2021年2月17日、☞2021年2月18日)、舞台はそれと基本的に同一なので、詳細は省略する。
 ただ、前回時は新型コロナ大流行の真っ只中だったため、演出指導もZOOMによるものだったそうで、そのゆえ徹底を欠いていたとのことだ。その点今回は御一統様の直接指示のおかげで、特に人物の動きや照明の変化などの面では3年前の上演よりも引き締まっていたような印象を受けた。

 とはいえ、昨日のGPに比べてオヤオヤと思ったのは、第3幕の幕切れ場面、逆さ吊りのエリーザベトの不気味な姿が天上から下がって来る個所で、その人形(と言ってしまっちゃミもフタもないが)を下すタイミングがちょっと遅かったのではないか? あれでは上階席の観客にはよく見えなかったのではないかという気もする。(※人形ではなくて生身の役者さんだったのですか、M.K.さん!)

 いずれにせよキース・ウォーナーのこの演出では、タンホイザーは「恩寵」のきざはしの中に入って救済されたのかもしれないが、無惨にも自死した「聖なるエリーザベト」は悲惨なことになる。つまり、いかにも身勝手極まるタンホイザーという男━━この男は、彼女の棺が運ばれているのを見たその期に及んでさえ、「エリーザベト、悪かった」ではなく「俺のために祈ってくれ」などと、まだ自分本位のことを言っているのである━━を非難しているように感じられるのだが如何。(そう言えば、エリーザベトが縊死した姿は、客席半ばより後ろの方では、よく見えなかった)。

 今日の初日の歌手組は、サイモン・オニール(タンホイザー)、渡邊仁美(エリーザベト)、林正子(ヴェーヌス)、大沼徹(ヴォルフラム)、加藤宏隆(領主ヘルマン)、高野二郎(ヴァルター)、近藤圭(ビーテロルフ)、児玉和弘(ハインリヒ)、清水宏樹(ラインマル)、朝倉春菜(牧童)という顔ぶれである。

 不思議なことに今日は、歌手たちの声が妙に散って、客席にまっすぐ届いて来ない。舞台はほぼ一貫して狭い部屋の構造になっているので、反響板としての役割は充分だと思われたのだが‥‥天井が空いていたのか? しかし、昨日のGPの時にはそれほどの印象はなかったのだが‥‥。二期会合唱団も、いつもだったらもう少し厚みのある響きを出していたものだが‥‥。

 だがその中でも、今日のサイモン・オニールは、やはり一段と抜きん出た声量で、他の邦人歌手陣を圧倒していたのである。かなり癖の強い声質と歌い方だが、ビンビンと響く声は力強く、「ローマ語り」の個所では凄まじい迫力を聴かせて、「怒れる自暴自棄のタンホイザー」としての性格を見事に表現していた。

 今回の収穫のひとつは、アクセル・コーバーの巧みな指揮だ。読売日本交響楽団の弦(12型と聞く)を豊かな厚みを以て響かせ、全管弦楽を最強奏の個所でも比較的バランスよく鳴らしてくれた(ティンパニだけはあまり全合奏に溶け込まないのが気になったが)。
 感心したのは音楽の起伏のつくり方で、特に第2幕後半の大アンサンブルにおける緊迫感に富んだ盛り上がりは見事なものだった。
 彼の指揮する「タンホイザー」は、2013年のバイロイトでも聴いたことがあるが、音楽の持って行き方の巧さでは、今回の方が遥かに上を行っていると思う。

 なお今回は、パリ版楽譜を基本とし、一部ドレスデン版を入れているという触れ込みだった。序曲途中から「バッカナール」に移行し━━これは厳密にはウィーン版と呼ぶべきだと主張する人もいる━━以降パリ版は第1幕第2場のタンホイザーとヴェーヌスの場面から第3場冒頭の「牧童の歌」途中までの個所、同第3場のアンサンブルの中の1ヵ所、第2幕および第3幕の終結個所などが全て生かされている。
 ただし、第2幕の歌合戦の場での「ヴァルターの反論の歌」は、ドレスデン版のそれが復活されていた。謂わば折衷版による演奏、であろう。
 このパリ版、第1幕はチト長いが、第3幕終結部分は絶対このパリ版の壮麗な昂揚感の方が素晴らしい。

 25分程度の休憩2回を挟み、終演はほぼ9時。

2024・2・27(火)東京二期会 ワーグナー「タンホイザー」GP

        東京文化会館大ホール  2時

 フランスのラン歌劇場との提携公演、キース・ウォーナー演出のプロダクションで、これは3年前に上演されたことがある(☞2021年2月17日、☞2021年2月18日の項参照)。管弦楽は前回同様、読響がピットに入っているが、指揮はアクセル・コーバー(意外にも初来日)になった。

 本番の上演は28日、29日、3月2日、3日の4回で、A・Bのダブルキャストだ。ただ私は、B組の出る日はスケジュールの関係で観られないので、今日はそのB組の方のGPを取材しに行った次第である。
 こちらはタンホイザーを片寄純也、エリーザベトを梶田真未、ヴェーヌスを土屋優子、ヴォルフラムを友清崇、ヘルマンを狩野賢一、そのほか━━という顔ぶれで、今日は片寄純也が本番に備え声を徹底的にセーヴしていたものの、梶田真未が清純で力強いエリーザベトを聴かせるなど、いい総練習が繰り広げられていた。

 このプロダクション、キース・ウォーナーにしては「まともな」演出に属するだろう。とはいえ、ヴェーヌスが第2幕の歌合戦の場に現れてタンホイザーに声援を送るそぶりを続けたり、ヴォルフラムのエリーザベトに対する愛を強調したりするなどの趣向は織り込まれている(いずれも目新しいものではないが)。ただし、大詰め幕切れの場面は、少々ぞっとさせられる光景と言えようか。

 音楽の面では、ドレスデン版とパリ版との折衷版が使用されていることは前にも書いたが、事実上は二期会の言うとおり、パリ版基本だ。パリ版は第1幕が少し長いけれど、魅力的な個所を多く含んでいて、私はこの方が好きである。アクセル・コーバーの指揮も手堅く、読響がなかなか豊かな音を出していた。

2024・2・26(月)METライブビューイング「ナブッコ」

         東劇  6時30分

 今シーズンのライブビューイングは冒頭の3作が現代もので、しかも恐ろしく重い内容だったので、このヴェルディの名作「ナブッコ」で久しぶりに解放的な気分にさせられたという感。

 これは今年1月6日に上演されたライヴ映像だ。ストーリーは実に大雑把なものだが、何しろ音楽が素晴らしい。ダニエレ・カッレガーリの指揮が手馴れていて、しかも全曲の大半を占める合唱部分をMETの合唱団が見事に歌っているので、結構楽しめる。

 題名役のバビロニア王ナブッコをジョージ・キャグニッサ、その娘フェネーナをマリア・バラコーワ、その恋人イズマエーレをソクジョン・ベク、王位簒奪のバビロニア女性アビガイッレをリュドミラ・モナスティルスカ、祭司ザッカーリアをディミトリ・ベロセルスキーという配役。
 第1幕と第2幕は続けて演奏されていたが、モナスティルスカは第1幕での劇的な歌唱にすぐ続いて、第2幕冒頭のあの長大なアリアをもカットなしで楽々と歌っていた。
 彼女はウクライナのキーウ出身、ライバル役のフェネーナ役バラコーワがロシア出身(しかも2022年にMETデビュー)というキャリアには、少々複雑な思いを抱かされる。なお、有名な合唱曲「行け、わが想いよ、金色の翼に乗って」はアンコールなし。助かったという感である。

 この演出はイライジャ・モシンスキー、豪壮な舞台美術はジョン・ネイピアで、舞台の景観からすると、20年ほど前にMETで2度ほど観たプロダクションだと判るのだが、どうも演出の詳細についてはさっぱり記憶が残っていないのである。
 ただ一ヵ所だけ、最初に観た時には、バビロニア軍が中央の大門をバリバリと打ち破って侵入して来るという猛烈な演出だったが、2度目に観た時には門を壊さずに、ただ押し開けて入って来た‥‥ことを覚えている。いちいち派手に破壊していては大道具の製作費がかかってたまらないからだろう、などと勘ぐったわけだが、今回の上演では、更に簡略化(?)して、何となくあちこちからナブッコ軍団が入って来た。それゆえ迫力には欠ける。

 余談だが、私がMETで最初にその「ナブッコ」上演を観たのは2003年3月22日、折しもアメリカがイラクへの攻撃を開始して3日後のことだった。それゆえ、そのバビロニア軍の殴り込みの場面が殊更リアルに感じられてしまったわけである。ニュースを聞いた時には、よりにもよってエライ時にニューヨークに来てしまったものだ、と思ったが。
 因みに、攻撃開始(東部時間3月19日夜)の時刻に上演されていたのは、ひとを信じられなくなった人間の悲劇を描くヴェルディの「オテロ」で、指揮はワレリー・ゲルギエフだった‥‥。深夜にそれを見終わってリンカーン・センター前の広場に出た時、マンハッタンの空に月が鮮やかに輝いていて、この静けさがいつまで続いてくれるのか、と憂鬱な物思いに耽ったことは覚えている。

2024・2・24(土)鈴木優人×BCJ×千住博 モーツァルト:「魔笛」

        めぐろパーシモンホール 大ホール  2時

 これは「Bunkamura 35周年記念公演 Orchard Produce 2024」として制作されたもの。オーチャードホールが日祭日以外は使えないので、東横線都立大駅から徒歩10分足らずの場所に在るこのホールが使われたようだが、客席数1200前後というこの会場は、バッハ・コレギウム・ジャパンの小編成管弦楽と合唱による「魔笛」の上演にはむしろ適していると言えるだろう。
 椅子がやや狭いのと、階段が多いのが難点と言えば難点だが、舞台は見やすいし、音響もいい。

 今回の「魔笛」は4回公演で、今日は3日目。指揮を鈴木優人、演出を飯塚励生、美術を千住博、映像をムーチョ村松。
 主な配役は、王子タミーノをイルカー・アルカユーレック、鳥刺しパパゲーノを大西宇宙、その恋人パパゲーナを森野美咲、ザラストロを平野和、弁者を渡辺祐介、2人の僧侶・武士を山本悠尋・谷口洋介、夜の女王をモルガーヌ・ヘイズ、その娘パミーナを森麻季、奴隷モノスタートスを新堂由暁、3人の侍女を松井亜希・小泉詠子・坂上賀奈子、3人の童子を望月万里亜・金持亜実・高橋幸恵。

 舞台で目立ったのは、たくさんの白布に投映されたイラストや映像の美しさだ。冒頭での「大蛇」に替ってタミーノを脅す「吹雪」の映像というアイディアもさることながら、ザラストロの国の場面で、舞台一面に乱舞する冷たいデジタル的な無数の数字群が、タミーノが新しい指導者に選ばれた瞬間に溶解して行くという発想は、現代社会への風刺としても面白い。登場人物たちがみんな客席の方へ顔と身体を向けて歌うという演出には演劇性という面から見て大いに不満はあるものの、闊達な動きそのものは観客を楽しませただろう。

 パパゲーノが背負ったバックパックにUber Eatsのマークの文字を入れ、その前に「Za」を加えて「Zauber」(Zauberflöte)としたシャレには笑った。ラストシーンで夜の女王とザラストロが━━モノスタートスとパパゲーノたちもが━━和解するあたりは、特に新味のある解釈ではないものの、当節の「願望」としても意味がある。歌唱もセリフももちろん原語だが、時たま日本語を入れて洒落ていた手法も悪くない。

 歌手陣では、やはりパパゲーノの大西宇宙が役者ぶりを発揮、闊達な歌唱と陽気な演技で舞台をさらっていた。彼が登場すると舞台が明るくなる。実力・人気ともに「進撃のバリトン」に相応しい存在だろう。
 次いでパミーナの森麻季の安定した歌唱。彼女は━━先日の「ジュリオ・チェーザレ」のクレオパトラ役でもそうだったが、このところ素晴らしいステージが続く。

 夜の女王役のモルガーヌ・ヘイズは最高音をやや力を抜いて出していたようだが、声質そのものはいい。有名な第2幕のアリアでは一か所、ちょっとおかしなところはあったものの、これはものの弾みかもしれない。ザラストロ(この指導者は、今回の演出では必ずしも全幅の信頼を集める存在ではないように描かれていた)の平野和の厳かな演技は良かったが、彼の声はやはりバリトン系か。タミーノのアルカユーレックは、あまり若者っぽくない風貌だが、歌唱のよさで聴かせていた。

 日本指揮界のホープ、鈴木優人の指揮に関しては、今回は些か異論を申し上げなければならない。特に第1幕での音楽の動きのなさ、ドラマとしての闊達な起伏を抑制したスタティックな演奏構築は、彼の意図的なものだったかもしれないが、モーツァルトの微細な感情の動きの豊かな「生きた音楽」に対する解釈としては、それは全く成功しない手法ではないかと思うのだけれども如何。
 正直言って、第1幕の音楽がこれほど平板に、長々しいものに聞こえてしまったことは、かつてなかった。ロビーで出逢った同業者たちもほぼ同意見だったし、帰りの道で私を追い越して行った2人の若者が「前半、長げえなと思ったな」と語りあっている声も聞こえたくらいなのである。

 そう言えば、先年「セイジ・オザワ松本フェスティバル」で「フィガロの結婚」を指揮した沖澤のどかも「オーケストラをできるだけ動かさないように」と語っていたようだけれども、何かそういう流行が日本の若手指揮者の間には生れているのかしらん?

2024・2・22(木)チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団

        サントリーホール  7時

 東京フィルハーモニー交響楽団も1000回定期への秒読みに入って、今日は第996回のサントリー定期。
 名誉音楽監督チョン・ミョンフンの指揮で、ベートーヴェンの「田園交響曲」と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」とを組み合わせるという、ちょっと不思議なプログラムが組まれた。3回の同一プログラムによる公演の、今日は初日である。コンサートマスターは三浦章宏。

 「田園」では、珍しくブライトコップ版の楽譜が使われたようだ━━見たわけではないが、第3楽章でのホルンの強烈なアクセントで、それと判る。現在主流となっているベーレンライター版ではもう聞かれなくなった響きだ。あのワルターとウィーン・フィルの名演レコード以来、われわれの世代のファンにとっては、長年にわたって聴き慣れていた、印象的な音だったのである。
 今日のチョン・ミョンフンの指揮では、そうした音とともに、全曲にわたって流麗で壮大な「田園」の絵巻物が大河のように展開されて行った。曲の開始個所から妙に懐かしいような、昔初めてこの曲を聴いた時のような陶酔感に包まれはじめていたと思ったのは、その所為かもしれない。

 「春の祭典」は、全曲にわたり速めのイン・テンポで、荒々しい急流のごとく全てを一気呵成に押し流して行く、といった感の演奏となった。ロシア音楽のように華麗な色彩感を誇示するわけでもなく、近代音楽としての明晰な音の構築を聴かせるわけでもなく、オーケストラをむしろ鷹揚なアンサンブルで豊麗に構築して行く「春の祭典」だったと言っていいか。

 初日ゆえにこのような演奏になったのかもしれないとも思われるが、こういう直截な演奏構築をチョン・ミョンフンはオペラなどでもよくやることがあるので、それは近年の彼の美学なのだろう。実はさっきの「田園」も、どちらかと言えばそれに近い直截タイプの演奏だったのである。

 8時35分頃には演奏が終ってしまったので、終演時間が早すぎると思ったのか、チョンと東京フィルは、「春の祭典」の第1部の終曲(大地の踊り)をアンコールとして演奏した(この手は以前誰かもやったことがあるが、誰だったかは思い出せない)。
 チョンがスタンバイした途端に楽員たちが「何番から?」と笑い出したり(そう聞こえたのだが、聞き違いかもしれない)、いざという瞬間に打楽器奏者のひとりが何かをひっくり返したのかガシャガシャンという大音響が聞こえ、お客と周囲の楽員がゲラゲラ笑い出したり、私は昔からこういう「人間的な」雰囲気の演奏会がたまらなく好きだ。
 中学生の時の音楽教室で、ティンパニ奏者の椅子が壊れ、大きな音とともに奏者が後ろへのけぞり、暫し生徒たちの爆笑が止まらなかったのがそのきっかけかもしれない。

 因みに、東京フィルの第1000回定期は、6月23日のオーチャードホールでの定期がそれで、今日と同じくチョン・ミョンフンが登場、メシアンの「トゥランガリーラ交響曲」を取り上げるそうである。

2024・2・22(木)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

       東京芸術劇場コンサートホール  2時

 1000回定期までのカウントダウンに入っている東京都響、今日は第995回定期演奏会。桂冠指揮者エリアフ・インバルの指揮で、マーラーの「交響曲第10番」の、デリック・クック補訂完成版が演奏された。コンサートマスターは矢部達哉。

 インバルは、今月の都響への登場では、3種のプログラムによる5回の演奏会を指揮している。
 1936年生まれだから、今年で88歳になるわけだが、驚異的に元気だ。背筋をピンと伸ばしてすたすたと歩く。今日はこのマーラーの「10番」1曲だけだが、1時間15分ほどの長さの大曲を、椅子も使わず立ったままで精力的に指揮する。終演後も元気いっぱいカーテンコールに応え、楽員たちを各パート別に何度も起立させ、自らも何度も袖とステージを往復して、最後は聴衆に手を振って袖に引っ込む、という具合だ。

 彼が都響から引き出す音楽も引き締まって、些かも弛緩を感じさせない。前半でこそ演奏にしなやかさがやや不足していたような、もどかしさを感じさせる個所も聞かれたものの、第3楽章のあの「少年の魔法の角笛」の一節に似たリズミカルな曲想が現れたあたりからは、オーケストラ全体に揺れ動くような陰翳が満ち始めた。明日の2回目の演奏では、おそらく冒頭から深みのある世界が聴けるのではなかろうか。

 因みに、第1000回定期は今年の6月4日、同じくインバルの指揮により、ブルックナーの「第9交響曲」の第4楽章最新補訂版(SPCM版)の日本初演を以て開催されるそうである。

2024・2・20(火)アカデミー「ホール音響 アコースティックな響きとは」

      リーデンローズ(福山芸術文化ホール)大ホール  7時

 篠崎史紀(vn)をリーダーに、倉富亮太(vn)、村松龍(va)、市寛也(cb)というN響メンバーからなる弦楽四重奏が、まず反響板を取り去ったステージで演奏し、そのあとに今度は反響板を設置したステージで演奏する。その音響のあまりの違いに、客席からは嘆声とどよめきが起こる。━━クラシック音楽の演奏ではホールの音響がいかに大切かということを実証してみせる面白い試みだ。
 これは「リーデンローズ・アカデミー」という一般公開のイヴェントで、開催したのは広島県の福山市にある福山芸術文化ホール、愛称「リーデンローズ大ホール」である。

 1994年に開館したこのホールは、あの世界に名の轟く豊田泰久が音響設計したもので、かねがねアコースティックがいいという評判を聞いてはいたが、今回実際にこのホールを訪れて聴いてみると、多目的ホールとは信じられぬほど音が良いのに驚嘆した。反響版なしの状態で演奏された音さえもが━━楽器の音が少し遠い感になるだけで━━美しい音色に聞こえる。

 もっともこれは、演奏者の腕がいいということもあっただろう。篠崎マロさんは、反響板がないと自分たちお互いの音はさっぱり聞こえないのだ、と聴衆に語っていたけれども・・・・。
 このイヴェントでは、豊田・篠崎の両氏がそういう音響の微妙な問題と、それに対応する演奏者側の立場などを、さまざまな角度から説明してくれた。そして弦楽四重奏団は、ドヴォルジャークの「アメリカ」全曲と、モーツァルトの「ディヴェルティメントK.136」の一部を演奏した。これはまた実にいい音の、いい演奏だった。

 そもそもこの「アカデミー」の本当の狙いは、新しく福山芸術文化財団の常務理事に就任した豊田氏と、リーデンローズ館長の作田忠司氏とが「この音のいいホールで大オーケストラを響かせよう」という企画を開始する、そのためのPRにあったようである。
 その企画とは、広島交響楽団と京都市交響楽団を、当面は年に3回ずつ招聘し、「定期演奏会」としてレギュラー化するものである由。

 具体的には、まずこの4月14日にアルミンク指揮広響で「皇帝協奏曲」と「アルプス交響曲」、6月23日に井上道義指揮京都市響でショスタコーヴィチ・プロ・・・・という具合に進めて行くのだという。たしかに、このリーデンローズの音響の良さを考えると、広響などはこちらのホールで聴いた方が、オーケストラの音色が映えるかもしれない。聴きに行ってみよう。

2024・2・19(月)諏訪内晶子芸術監督 国際音楽祭NIPPON(続)

       紀尾井ホール  7時

 コロナ・ワクチンの第7回を先週金曜日に実施、昨年は初めてモデルナに当たって(選んだわけではない)翌日短時間の発熱(37度6分程度)が出たが、今回はファイザーだったせいか、幸いに発熱は無し。ただし眠気と寒気に襲われ、先週末は演奏会やオペラを二つ、棒に振った。もっともその間を縫って、ラジオでの小澤征爾さん追悼番組の生出演やら録音打ち合わせなどに忙殺されていたのだが━━

 今日聴いた演奏会は、諏訪内晶子が主宰する「国際音楽祭NIPPON」の一環で、「AKIKO Plays CLASSIC & MODERN with Friends」と題された2回シリーズの室内楽演奏会の初日。19世紀初頭のウィーンを舞台にした作品群によるプログラムが組まれている。
 演奏は、諏訪内晶子を中心に、ベンヤミン・シュミット(vn)、鈴木康浩(va)、イェンス=ペーター・マインツ(vc)、池松宏(cb)、ポール・メイエ(cl)、秋元孝介(pf)という顔ぶれだ。

 プログラムは、ベートーヴェンの「2つのオブリガート眼鏡付きの二重奏曲」からの「アレグロ」、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」、パガニーニの「モーゼ変奏曲」(原曲はロッシーニのオペラ「エジプトのモーゼ」の一節)、パガニーニ~クライスラー編の「ラ・カンパネラ」、シューベルトの「ピアノ五重奏曲《ます》」。

 面白いプログラムだったが、中でも度肝を抜かれたのは、諏訪内晶子が弾いたパガニーニの2曲である。彼女がこれほど「荒々しい凶暴な美しさ」を前面に押し出して演奏したのを、私はこれまで聴いたことがなかった。その前のモーツァルトの五重奏曲から一転しての荒技だから、聴衆も驚いたはずである。諏訪内晶子というヴァイオリニストの既存のイメージを覆すかのような、こういう思いがけぬ演奏を聴けるのが、ナマの演奏会の利点のひとつでもあろう。

 もっとも今日の演奏では、そのモーツァルトも含め、しっとりしたアンサンブルの妙味が披露されるよりも、ほぼ全員が、オレがオレが、といった調子で張り合うという面白さの方がより強く印象に残ったと言えなくもない。
 第2回は21日に開催される。

2024・2・14(水)工藤重典と東京チェンバー・ソロイスツ

       紀尾井ホール  7時

 「東京チェンバー・ソロイスツ」というと、もう50年以上前になるか、1971年頃に岩崎洸(vc)と中川良平(fg)が旗揚げしたアンサンブル(私はその旗揚げ公演をFM東京で録音、放送したことがある)を思い出すのだが、現在のこれは工藤重典(fl)が昨年旗揚げした室内合奏団で、コンサートマスターに森下幸路を迎え、18世紀音楽をレパートリーの中心に据えて活動している由。

 今回が第2回の演奏会とのことで、工藤重典の吹き振りに、ジャン=ルイ・ボーマディエ(picc)とリチャード・シーゲル(cem)をゲスト・ソリストに迎え、前半にパッヘルベル~パイヤール編の「カノン」、C・P・E・バッハの「ピッコロ協奏曲ニ短調wq.22」、J・S・バッハの「ブランデンブルク協奏曲第5番」、後半にモーツァルトの「フルートと管弦楽のためのアンダンテK.315」、「ロンド ニ長調K.Anh184」、「フルート協奏曲第2番」というプログラムが組まれた。

 なお冒頭に、小澤征爾さんを追悼してのバッハの「アリア」(管弦楽組曲第3番からのもの)が演奏され、演奏会最後のアンコールとしては、グルックの「精霊の踊り」と、イベールの「2つの間奏曲」からの「Allegro vivo」(とのことだったが、フルート、ピッコロ、チェンバロ、ヴァイオリンというあまりに雰囲気の違う編曲だったので、別の曲かと思った)が演奏された。

 シーゲルの長いチェンバロ・ソロが映えた「ブランデンブルク」も良かったが、合奏団の演奏が、それまでの━━よく言えば慎重さから脱して突然生気満々となったのは、工藤の指揮ぶりが突然大きくなったモーツァルトの1曲目の途中からではなかったろうか。そして「フルート協奏曲」では、流石に工藤の本領発揮、オーケストラも活気充分で、この演奏会を見事に締め括った。

 お定まりのホールの場内アナウンスを、今日は工藤さんがみずから陰アナで担当。最近はこういうのが流行るのかしらん。コンサートが親しみやすい雰囲気になるし、いいものだ。ただ、あんな陰々滅々(?)たる声でなく、いつもの工藤重典さんらしく、もうちょっと明るい声で呼びかけてくれればもっと良かったのだけれど。舞台袖裏でナマで喋っていたのかと思ったら、録音だった。「コンディションの良くない時に録音したので、すみません」と、ナマのトークの際に注釈あり。

2024・2・13(火)山田和樹指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 山田和樹の、ほぼ6年間に及んだ読響首席客演指揮者としての最後のシーズン、その東京最終公演が今日の「名曲シリーズ」になる。R・シュトラウスの「ドン・ファン」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストはシモーネ・ラムスマ)、フランクの「交響曲ニ短調」というプログラムが組まれた。コンサートマスターは長原幸太。

 山田和樹、ますます大きく、いい指揮者になって来たな、ということが、演奏会を聴くごとに感じられる最近である。音楽の構築の仕方に明確な方向と確信が感じられ、オーケストラの制御にも一段と強靭さが加わって来た。小澤征爾亡き後、国際的な活動を最も活発に繰り広げる日本人指揮者としての期待がかかる存在だろう。

 「ドン・ファン」の演奏での猛烈な推進性は、この曲の主人公をいっそう闊達な、エネルギッシュな人物として描き出していただろう。
 一方、フランクの「交響曲」では、この渋い曲が驚くほど豪壮華麗な響きと激しいエネルギー感で演奏されたのには驚かされたが、なるほどこの交響曲には、こういう要素も内含されていたのかもしれない、と思い直しながら聴いていた。

 昭和16年に初版が出たあらえびすの名著「樂聖物語」の中で、フランクのこの交響曲について「構造の雄大壯麗さと・・・・」と形容され、「レコードはストコフスキーがフィラデルフィア管絃團を指揮した豪華な演奏を以つて第一とする」(原文のママ)と書かれてあったのを読んで、そんな演奏でこの曲が成り立つのかな、とこれまで訝っていたのだが、今日の山田和樹と読響の演奏を聴いて、何となくその文章の意味が解ったような気がする。

 面白かったのは、ラムスマをゲスト・ソリストにしたブルッフの協奏曲だ。このオランダの女性ヴァイオリニスト、ラムスマは、驚くほどゆったりとした濃厚な、しかし深みのあるソロでこの曲を弾いたが、これをサポートした山田和樹が、実に風格豊かなスケールの大きな、しかも陰影に富んだ表情を読響から引き出し、ラムスマのユニークなソロに応じていたのである。私の印象では、今日のヤマカズさんの指揮の中で、最もただものでない才能を感じたのは、このブルッフのオーケストラ・パートの扱いなのだった。

 ラムスマは、もちろんソロ・アンコールを弾いた。ブルッフでのようなしんねりとした重い演奏がまた出て来たらちょっと閉口だな、と身構えたのだが、いざ弾き出したイザイの「ソナタ第2番」の第4楽章の奔放激烈で強靭なこと。ブルッフの時とは別人のようなスタイルの演奏である。客席もこの時は一気に沸いた。

2024・2・12(月)倉本聰原作 渡辺俊幸作曲 オペラ「ニングル」

      めぐろパーシモンホール 大ホール  2時

 日本オペラ協会の公演で、「日本オペラシリーズ」のNo.86。倉本聰の原作を吉田雄生が脚本化、渡辺俊幸が作曲した全2幕のオペラ「ニングル」の初演。

 物語は如何にも倉本聰の作品らしく、自然破壊の風潮への強烈な抗議というコンセプトに満ち満ちており、森が伐採されたことから起こる鉄砲水、渇水などの災害や、「今からでも遅くはない」と新しい生命の育成を願う「希望」などが交錯する内容だが、それらが叙事詩的な描き方でなく、そこに住む人々のドラマとして展開して行くという、ヒューマンであたたかい物語になっているところが特徴である。
 原作が書かれたのはほぼ40年前の由で、あの「北の国から」の連続ドラマと共通したコンセプトも感じられるし、効果的な「泣かせ」の手法にも事欠かないようだ。

 「ニングル」とは、プログラム冊子掲載の倉本聰本人のコメントによれば「富良野の森に住む、体長15~20センチ、200~300年の寿命を持つという小さな人間」なのだそうで、早い話が「森の樹々の精」を意味するのかもしれない。
 そのニングルがカムイの老人の姿を借りて「森の樹々は2百年も3百年も黙々として生き、豊富な水をも生み出して来た。だが人間たちはたった5分でその命を絶ってしまう」と非難するくだりなど、すこぶる感動的である。このドラマを彩る渡辺俊幸の音楽もまた実に叙情的で美しく、物語のコンセプトに相応しい。

 今回の初演では、田中祐子が引き締まった見事な指揮で音楽面をまとめ、最近の著しい成長ぶりを示していた。また岩田達宗も極めて解り易い明快な演出で「農村の物語」を描き出したが、登場人物の長いモノローグ━━所謂アリア的な性格を持った個所では、常に客席の方へ顔を向けて歌うという、栗山昌良スタイルの手法を多用し続けていたのが、私としては些か気になる。

 10日、11日、12日の連続3回公演で、出演陣はダブルキャスト。今日は、主人公のユタ(勇太)を須藤慎吾、その妻かやを丸尾有香、ユタの父・民吉を久保田真澄、ユタの義弟・才三を海道弘昭、その妻ミクリを別府美沙子、民吉の亡き長女かつらを佐藤美枝子、その娘スカンポを中桐かなえ、ニングルの長を江原啓之が歌い演じ、その他大勢の歌手たちも好演していた。
 合唱は日本オペラ協会合唱団、管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団。上演時間は正味2時間20分ほど。

2024・2・9(金)追補 山田和樹指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 「ノヴェンバー・ステップス」が演奏されたあと、すぐロビーに戻り、3曲目のベートーヴェンの「第2交響曲」は失礼し、共同通信の配信記事について打ち合わせをしてただちに帰宅、留守電に入っていた読売新聞、信州毎日新聞、産経新聞などとの「談」や打ち合わせを続けるなど、「打ちのめされ」てばかりもいられないような状況に追い込まれたのは事実だが、ここで当日の本来の取材対象であった山田和樹指揮読響の演奏に触れておかないのは、さらに礼を失することになるだろう。

 1曲目は、バルトークの「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」だったが、山田和樹は全身を躍動させつつ音楽を盛り立てようとしていたものの、オーケストラの方はやはりシリアスな、つまり生真面目な、敢えて言えば何となく沈んだ感の演奏に終始していたという印象が拭えなかった、というのが正直な印象である。
 彼が指揮する「弦チェレ」は、以前にオーケストラ・アンサンブル金沢と仙台フィルの合同演奏によるものを金沢で聴いたことがあり(☞2021年9月12日)、熱気としては、むしろそちらの方に分があっただろう。

 不思議なことに、私はその演奏を聴きながら、20年ほど前にサイトウ・キネン・フェスティバル松本で、小澤征爾がサイトウ・キネン・オーケストラを指揮した時のこの曲の演奏を思い出し、あれはあのコンビの最高の演奏といってもよかったな、などということばかり考えてしまっていたのである。何か虫の知らせだったのか。

 そして「ノヴェンバー・ステップス」。琵琶と尺八それぞれのソリストの世代は既に新しくなり、昔の2人のようなスケールの大きさと、名人同士の突き詰めたような丁々発止の応酬などというイメージの代わりに、気負いのない自然体の協演というイメージを感じさせられたのも、また時代の変遷ということになるのかもしれない。

2024・2・9(金)「ノヴェンバー・ステップス」と小澤征爾さん逝去

           (サントリーホール 7時)

 よりにもよって、武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」が、山田和樹指揮読売日本交響楽団と藤原道山(尺八)および友吉鶴心(琵琶)の演奏で始まる直前に、この曲の誕生に大きな力を与せ、かつこの曲をニューヨーク・フィルとともに世界初演した小澤征爾氏の逝去の報に接するとは。
 休憩時のロビーでは関係者の口から口へとその情報が伝えられ、みんな沈んだ表情で話を交わしていた。間もなく始まった第2部では、山田和樹がマイクで聴衆にその報を知らせると、客席からは驚きのどよめきが起こった。「小澤先生はみんなに悲しみを要求するような方ではないと思うので、黙祷などはしないでおきます」と山田和樹は語り、それから演奏に移った。
 私はと言えば、かつてFM放送時代に小澤さんと多くの仕事をした時のことや、海外で小澤さんの演奏会を聴いた時のことなどの思い出が次から次へと蘇り、暫し何も手につかないほどの衝撃に打ちのめされた状態だったが‥‥。

2024・2・7(水)METライブビューイング「アマゾンのフロレンシア」

     東劇  6時

 メキシコの作曲家ダニエル・カターン(1949~2011)が1996年に作曲したオペラ「アマゾンのフロレンシア Florencia en el Amazonas」を、メトロポリタン・オペラが初めて取り上げた。

 今回放映されたのは昨年12月9日の上演ライヴで、メアリー・ジマーマンが演出、ヤニック・ネゼ=セガンが指揮、題名役の歌姫フロレンシアをメキシコ系のソプラノ、アイリーン・ペレスが、客船エルドラド号船長をグリア・グリムスリーが歌っているほか、マッティア・オリヴィエリ、ガブリエラ・レイエス、マリオ・チャン、マイケル・キオルディといった歌手たちが出演している。

 ストーリーは、南米のジャングルに消えた蝶ハンターの恋人を探してフロレンシアが客船でアマゾン河をさかのぼり、最後は自らを蝶に変えて・・・・というようなもので、音楽はひと頃の映画音楽のように極めて耳あたりの良いタイプである。所謂アリア的なモノローグが多く、物語自体の進展の遅いのが問題だろう。ただ、この幻想的な物語に相応しく、舞台は非常に美しい。
 今回は珍しくロランド・ビリャソンが案内役に登場、恐ろしく賑やかな声と身振り手振りで切り回していた。ちょっと疲れる。
 2幕制で、上演時間は正味1時間50分ほど。

2024・2・6(火)アクセス数400万への御礼

 有名タレントのブログでもないし、有名政治家でのブログでもない、こんな見かけも内容も地味なブログなのに、いくら16年継続の故とはいえ、400万アクセス(左上カウンター、これまでの訪問者数欄)などという数字に達することができたのは、ひとえに立ち寄って下さる方々のおかげです。ありがとうございます。
 ブログを始めた初日のカウンターは、たしか「000006」だったか「000008」だったか・・・・どうせ100万なんてあり得ないよ、と管理人を引き受けて下さっている友人の女性と相談して、最初はカウンターも3ケタしか用意していなかったほどですから。
 この日記、いつまで続けられるか判りませんが、まあ、書ける間はやって行こうと思います。心から御礼申し上げます。

2024・2・6(火)高関健指揮富士山静岡交響楽団 東京公演

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ブルックナーの「交響曲第8番」を携えて乗り込んだ富士山静岡交響楽団。旧静岡交響楽団(1998年創立)が、2021年4月より一般財団法人として現名称になっていることは周知の通り。英語表記名称はMt.Fuji Philharmonic Orchestraである。本拠地は静岡市清水文化会館マリナート大ホールだが、アクトシティ浜松の中ホールでも定期公演を行なう。
 現在の首席指揮者は高関健。

 私もこのオーケストラを以前から何度か聴いているが、あの静響がついにこんな大編成の「ブル8」をやる時代になったか、と今日は一人で勝手に感慨に浸っていた次第だ。なにぶんあの編成だから、客員奏者を多く入れているのはやむを得ないが、しかしこういうレパートリーへ手を拡げるといった姿勢そのものに大きな意味があるだろう。

 もっともそこには、ブルックナーの「版」の研究にこだわる高関健の思惑も絡んでいるのではないかと思われるフシもあって━━彼はこの秋、シティ・フィルの定期(9月6日)で、例の新全集版ホークショーの校訂版第1稿を演奏すると発表しており(何と今日のプレトークでもそれを言った!)その前哨戦として今日は「ハース版」を演奏することにしたのではないかと・・・・。

 なおこの「ハース版」という言葉にもマエストロ高関はやかましく、「ハース校訂による原典版」と呼ぶべきだ、と言って譲らない。私も以前、彼の演奏会のプログラム解説を書いた際に、そう注文をつけられたことがある。

 余談はともかく、今日のその演奏では、流石に高関健らしく、この富士山静岡響から厚みのある力感豊かな演奏を引き出していた。全曲の演奏構築の持って行き方、繰り返される起伏を以ってクライマックスに導いて行く手法など、実に巧いものだと思う。
 オーケストラの方も、第1楽章(彼の独自の研究に基づき、冒頭5~6小節目のクラリネットはカットされた)ではホールに少し馴染まないような感もあったものの、楽章を追うごとに緻密な響きを増して行った。

 藤原浜雄がソロコンサートマスターを務める弦楽器セクションも、第3楽章では瑞々しく美しいアンサンブルを聴かせてくれたし、オーケストラ全体がこの楽章での演奏を今日の白眉としていたような感さえあったのである━━終結個所における弦とホルンおよびワーグナー・テューバ群との対話も情感にあふれていた。他にオーボエの1番奏者もなかなか見事だったと思う。

2024・2・3(土)山田和樹指揮読売日本交響楽団

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 山田和樹は今シーズンで読響の首席指揮者を退任するので、今月の一連の演奏会が取りあえずその締め括りということになる。

 今日はその第1弾、2回にわたる「マチネーシリーズ」の初日で、グラズノフの「演奏会用ワルツ第1番」、ハイドンの「交響曲第104番《ロンドン》」、カプースチンの「サクソフォン協奏曲」(ソロは上野耕平)、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」というプログラムを指揮した。コンサートマスターは日下紗矢子。

 ハイドンの「ロンドン」が、弦16型編成、木管が倍管(各4本)という大編成で演奏されたのは近来稀なる出来事であろう。マエストロご本人の言によれば、「最近ああいうのはだれもやってないから、ちょっとやってみようと思って」とのこと。
 ピリオド楽器スタイルの中編成での演奏が主流になっている今日では、それは確かに「反時代的」な演奏スタイルではあるのだが、だからといって何が何でも流行に合わせる必要はないのであって、このような「大編成によるハイドン」も成立する権利を充分に持つだろう。あとは好みの問題である。

 というわけで、私としてもこの「懐かしい」━━まるでトマス・ビーチャムあたりが指揮したレコードを聴くような━━響きを充分に楽しんだ。重いし、厚ぼったい音だけれども、不思議に鷹揚な、実に威風堂々たるハイドン像である。「久しぶりに聴く」のも悪くない、という感。

 さらに面白かったのは後半の2曲である。
 ウクライナ出身のニコライ・カプースチンによる「サクソフォン協奏曲」(2002年モスクワ初演)は、ジャズの手法を存分に取り入れたもので、ドラムスやギター、ベースギターも使用された曲だが、上野耕平の鮮やかなソロにリードされて闊達に響きわたるこの音楽の、何というリズミカルな快さ。

 そして「ラ・ヴァルス」。しばらくはやや遅めのテンポで重々しく演奏されながら、後半ではぐいぐいと勢いを増し、最後の熱狂的な頂点に達して行くあたりの、山田和樹の設計の巧さと、読響のエネルギッシュで表情豊かな演奏。

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