2009年12月 の記事一覧
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2009・12・23(水)ウィーン第4日 ヴェルディ:「運命の力」
2009・12・22(火)ウィーン第3日 サイモン・ラトル指揮「トリスタンとイゾルデ」
2009・12・21(月)ウィーン第2日 ヴェルディ:「マクベス」
2009・12・20(日) ウィーン第1日ニコラウス・アーノンクール指揮ウィーン・フィルフランツ・シュミット:オラトリオ「7つの封印の書」
2009・12・16(水)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団 B定期
2009・12・15(火)オスモ・ヴァンスカ指揮 読売日本交響楽団定期
2009・12・12(土)中村紘子 デビュー50周年記念ツァー・リサイタル
2009・12・12(土)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団 C定期
2009・12・11(金)ジェイムズ・デプリースト指揮東京都交響楽団「ジュピター」と「惑星」
2009・12・10(木)レニングラード国立歌劇場(ミハイロフスキー劇場)チャイコフスキー:オペラ「エフゲニー・オネーギン」
2009・12・6(日)飯森範親指揮東京交響楽団ヤナーチェク:歌劇「ブロウチェク氏の旅行」セミ・ステージ上演
2009・12・5(土)イルジー・ビェロフラーヴェク指揮日本フィルハーモニー交響楽団
2009・12・3(木)アダム・フィッシャー指揮オーストリア・ハンガリー・ハイドン・フィルハーモニー
2009・12・1(火)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団ショスタコーヴィチ・プロ
2009・12・23(水)ウィーン第4日 ヴェルディ:「運命の力」
ウィーン国立歌劇場
デイヴィッド・パウントニー演出のプロダクションだが、既にルーティン公演化している様子。
舞台全体に一種のタガの緩んだ雰囲気を感じさせる。
その上、この19日にハウス・デビューを行ったという2人の主役歌手――ドン・カルロ役のマルコ・ディ・フェリーチェおよびドン・アルヴァーロ役のフランチェスコ・ホンが、いずれも声は大変いいのだけれども、演技は「棒立ち・手拡げ」で、視覚的にもドラマとしての緊迫感がないのだ。
特に後者、韓国のソウル生まれでイタリアに学んだというホンは、終始――重傷を負ってベッドに伏している時だろうと、決闘している時だろうと――客席を向いて両手を拡げるか片手を差し延べて歌うという有様である。こういうのを見ていると、イライラを通り越して腹が立って来る。
どこでオペラを学んだのか、今回誰も彼に演技を教えなかったのか。
これならいっそ、たとえ視覚的に煩わしくても、人間が生きているムジークテアター系の演出の方がどれだけマシか、とさえ思ってしまう。
終幕では、カルロが舞台上で妹レオノーラを射殺し、息絶える。兄の死体に覆いかぶさって息を引き取る彼女を、グァルディアーノ神父とともに悼んでいたアルヴァーロは、やがて独り背景にとぼとぼと歩み去る。彼があたかも自殺へ向かうかのような演出だが、これは初版のイメージを折り込んだものだろう。もっとも、ホンの演技がなっていないから、寂寥感など全く出ないが。
指揮はパウロ・カリニャーニ。序曲(シンフォニア)から音符やフレーズの細部に精妙なアクセントを施し、オーケストラのバランスを巧みに制御しつつ、なかなか神経の行き届いた指揮を聴かせていた。
この人のオーケストラ・コンサートはこれまでにも何度か聴いているが、オペラを聴いたのは今回が最初だったような気がする。演奏にも起伏があって、かなり聴き応えがあった。
しかし、オーケストラそのものの演奏水準はあまり芳しくない。このところ何シーズンか、たった数個ずつの公演ではあるが聴いて来た印象に過ぎないけれども、ウィーン国立歌劇場管弦楽団のレベルは、かなり低下しているのではなかろうか?
主役2人は、演技こそお粗末だが、しかし声は若々しく素晴しく、特にホンの良く伸びる高音域は痛快なほどである。まともに演技を勉強すれば、屈指のテノールになれるだろう。アリアの後の拍手は、彼に対してのものが一番長かった。
レオノーラはニーナ・ステンメ。細かいニュアンスに富んだ歌唱で、私は結構気に入ったのだが、何故か拍手があまり来ない。
もっとも、これらの歌手のいずれも、グァルディアーノ神父役のフェルッチョ・フルラネットの歌唱――ヴェルディのオーケストラにぴたりと乗り、ぴたりとはまる、完全無欠といってもいいほどの歌唱の前には、やはりまだまだ異質の感を免れないだろう。
歌手では他に、メリトーネ神父を歌ったソリン・コリバンも良かった。
プレツィオシルラを歌ったナディア・クラステーヴァは、西部劇のカラミティ・ジェーンばりの、ピストルを腰に帯びたいでたち。短パンとブーツにスラリとした足がカッコよかったが、肝心の歌はそれほど上手くない。「戦争讃歌」を歌う場面では、自ら左腕を負傷した姿で無理して歌ってみせるという演出が施されていたが、今どきとしてはまあ手頃な解釈だろう。
カーテンコールでの拍手とブラヴォーは、ホンへのそれが随一。しかしたった一人、私の後ろでブーを飛ばしていたのがいた。演技に対してなのか、それとも人種的偏見なのかは判らない。
7時開演で、第2幕の後に休憩1回、10時終演。
かなり暖かくなった。市内の雪もほぼ消えたようである。
デイヴィッド・パウントニー演出のプロダクションだが、既にルーティン公演化している様子。
舞台全体に一種のタガの緩んだ雰囲気を感じさせる。
その上、この19日にハウス・デビューを行ったという2人の主役歌手――ドン・カルロ役のマルコ・ディ・フェリーチェおよびドン・アルヴァーロ役のフランチェスコ・ホンが、いずれも声は大変いいのだけれども、演技は「棒立ち・手拡げ」で、視覚的にもドラマとしての緊迫感がないのだ。
特に後者、韓国のソウル生まれでイタリアに学んだというホンは、終始――重傷を負ってベッドに伏している時だろうと、決闘している時だろうと――客席を向いて両手を拡げるか片手を差し延べて歌うという有様である。こういうのを見ていると、イライラを通り越して腹が立って来る。
どこでオペラを学んだのか、今回誰も彼に演技を教えなかったのか。
これならいっそ、たとえ視覚的に煩わしくても、人間が生きているムジークテアター系の演出の方がどれだけマシか、とさえ思ってしまう。
終幕では、カルロが舞台上で妹レオノーラを射殺し、息絶える。兄の死体に覆いかぶさって息を引き取る彼女を、グァルディアーノ神父とともに悼んでいたアルヴァーロは、やがて独り背景にとぼとぼと歩み去る。彼があたかも自殺へ向かうかのような演出だが、これは初版のイメージを折り込んだものだろう。もっとも、ホンの演技がなっていないから、寂寥感など全く出ないが。
指揮はパウロ・カリニャーニ。序曲(シンフォニア)から音符やフレーズの細部に精妙なアクセントを施し、オーケストラのバランスを巧みに制御しつつ、なかなか神経の行き届いた指揮を聴かせていた。
この人のオーケストラ・コンサートはこれまでにも何度か聴いているが、オペラを聴いたのは今回が最初だったような気がする。演奏にも起伏があって、かなり聴き応えがあった。
しかし、オーケストラそのものの演奏水準はあまり芳しくない。このところ何シーズンか、たった数個ずつの公演ではあるが聴いて来た印象に過ぎないけれども、ウィーン国立歌劇場管弦楽団のレベルは、かなり低下しているのではなかろうか?
主役2人は、演技こそお粗末だが、しかし声は若々しく素晴しく、特にホンの良く伸びる高音域は痛快なほどである。まともに演技を勉強すれば、屈指のテノールになれるだろう。アリアの後の拍手は、彼に対してのものが一番長かった。
レオノーラはニーナ・ステンメ。細かいニュアンスに富んだ歌唱で、私は結構気に入ったのだが、何故か拍手があまり来ない。
もっとも、これらの歌手のいずれも、グァルディアーノ神父役のフェルッチョ・フルラネットの歌唱――ヴェルディのオーケストラにぴたりと乗り、ぴたりとはまる、完全無欠といってもいいほどの歌唱の前には、やはりまだまだ異質の感を免れないだろう。
歌手では他に、メリトーネ神父を歌ったソリン・コリバンも良かった。
プレツィオシルラを歌ったナディア・クラステーヴァは、西部劇のカラミティ・ジェーンばりの、ピストルを腰に帯びたいでたち。短パンとブーツにスラリとした足がカッコよかったが、肝心の歌はそれほど上手くない。「戦争讃歌」を歌う場面では、自ら左腕を負傷した姿で無理して歌ってみせるという演出が施されていたが、今どきとしてはまあ手頃な解釈だろう。
カーテンコールでの拍手とブラヴォーは、ホンへのそれが随一。しかしたった一人、私の後ろでブーを飛ばしていたのがいた。演技に対してなのか、それとも人種的偏見なのかは判らない。
7時開演で、第2幕の後に休憩1回、10時終演。
かなり暖かくなった。市内の雪もほぼ消えたようである。
2009・12・22(火)ウィーン第3日 サイモン・ラトル指揮「トリスタンとイゾルデ」
ウィーン国立歌劇場
サイモン・ラトルが指揮するワーグナーは、これまでにもエクサン=プロヴァンス&ザルツブルクでの「指環」と、ここウィーンでの「パルジファル」を聴いて来たが、今回の「トリスタン」での指揮は、それらと些か趣を異にする印象であった。
もともと彼のワーグナーは、所謂「うねる」音楽ではないけれども、ここではそれに輪をかけて、非常に直線的な、極度にメリハリのついた演奏になっていた。
端的な例は、「ブランゲーネの警告」の音楽であろう。和声が夢幻的に移ろいながら滑るように転調して行くのではなく、2小節ごとに、はい次、はい次、とけじめをつけながら進んで行くといった感じなのである(こういう「トリスタン」は、昔ベルリン・ドイツオペラの日生劇場公演で、若きマゼールが指揮したのを聴いて以来の体験だ)。
彼がベルリン・フィルと演奏した「指環」では、巨巌のような剛直さの中にも極めて微細精妙なニュアンスを織り込んでいたものだが、この「トリスタン」では、むしろ細部にこだわらず、エネルギッシュに押し流して行くスタイルを採っていた。
しかもラトルは、オーケストラを、際限なく轟々と鳴らす。歌手の声が聞こえようと聞こえまいと、オーケストラをしてすべてのドラマを語らせる、といった調子なのである。
このようにオーケストラに主導権を持たせることは、ドイツの歌劇場では珍しくないが、それにしてもこれは極端だ。少なくとも1階平土間12列あたりで聴く限り、最強奏の際には、歌手の声は全滅である。
とはいうものの、たとえ物理的に声が聞こえなくても、すべて聞こえているような錯覚に陥るのが、この作品、この演奏の不思議なところなのである。――演奏の仕方が巧いのか、それともわれわれがこの作品を既に熟知している所為なのだろうか?
演奏に、官能的な色合いが皆無だったというわけではない。
第3幕での、トリスタンがイゾルデの到着をひたすら待ち望むくだりの最後の部分、「Ach,Isolde,Isolde!」の個所や、大詰め「愛の死」で音が溶解して行くところなどでのオーケストラには、ハッとさせるような豊麗な音楽があふれていた。叙情的な部分での音楽の美しさは、あくまで失われていなかったのである。
歌手陣は、トリスタンがロバート・ティーン・スミス、イゾルデがヴィオレータ・ウルマナ、マルケ王がフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ、クルヴェナールがボー・スコウフス、ブランゲーネがイヴォンヌ・ナエフという錚々たる顔ぶれ。何を不服を言う必要があろう、と思えるほどの歌唱であった。
演出はギュンター・クレーマーで、この劇場の既に定番となっているプロダクションである。第1幕でブランゲーネが「愛の媚薬」を用意するくだり、飲み物を2つ用意していたが、彼女が差し出したのと別のグラスから2人が飲んでしまうという設定は、ちょっと捻ったアイディアに見えるものの、あまり理屈に合わないように思えるのだが如何だろうか。
第2幕冒頭での「松明の火」が、イゾルデが持参していた昔の許婚、故モロルトの人型をした甲冑の胴体部分から燃え上がっているのは、筋書きとしては象徴的だが、見た印象としては私には非常に不快だった。まるでモロルトの死体が燃えているように見えるのである。
第3幕では、トリスタンの苦悩を見かねた忠実なクルヴェナールは、牧童に偽りの角笛を吹かせ(たと思わせ)て、イゾルデが到着するかのように主人に錯覚させる。が、その後は現実と幻想の綯交ぜの世界で、このあたり、もう少し巧くやってもいいのではないかと思うが、そこがクレーマー、舞台づくりはあくまで渋く、ことさら明解さを避けたような手法だ。
「愛の死」のあと、イゾルデが片手でトリスタンの眼を、もう一方の手で自らの眼を覆ったまま立ちつくす幕切れは、いろいろな解釈を連想させて印象的であった。
なお今回は、第2幕の2重唱の前半に大幅なカットがなされていた。天下のウィーン国立歌劇場で、昔ならともかく、今でもこんなことが行なわれているとは情けない。ここの慣習か? しかし2003年にティーレマンがここで振ったライヴのCDでは、カットは施されていなかった。ラトルの発想か? それとも劇場の慣習に妥協したか?
5時半開演で、10時15分終演。今日あたりから晴天になって、気温も大分上がってきた。舗装道路といえど雪解けで、泥濘状態である。
サイモン・ラトルが指揮するワーグナーは、これまでにもエクサン=プロヴァンス&ザルツブルクでの「指環」と、ここウィーンでの「パルジファル」を聴いて来たが、今回の「トリスタン」での指揮は、それらと些か趣を異にする印象であった。
もともと彼のワーグナーは、所謂「うねる」音楽ではないけれども、ここではそれに輪をかけて、非常に直線的な、極度にメリハリのついた演奏になっていた。
端的な例は、「ブランゲーネの警告」の音楽であろう。和声が夢幻的に移ろいながら滑るように転調して行くのではなく、2小節ごとに、はい次、はい次、とけじめをつけながら進んで行くといった感じなのである(こういう「トリスタン」は、昔ベルリン・ドイツオペラの日生劇場公演で、若きマゼールが指揮したのを聴いて以来の体験だ)。
彼がベルリン・フィルと演奏した「指環」では、巨巌のような剛直さの中にも極めて微細精妙なニュアンスを織り込んでいたものだが、この「トリスタン」では、むしろ細部にこだわらず、エネルギッシュに押し流して行くスタイルを採っていた。
しかもラトルは、オーケストラを、際限なく轟々と鳴らす。歌手の声が聞こえようと聞こえまいと、オーケストラをしてすべてのドラマを語らせる、といった調子なのである。
このようにオーケストラに主導権を持たせることは、ドイツの歌劇場では珍しくないが、それにしてもこれは極端だ。少なくとも1階平土間12列あたりで聴く限り、最強奏の際には、歌手の声は全滅である。
とはいうものの、たとえ物理的に声が聞こえなくても、すべて聞こえているような錯覚に陥るのが、この作品、この演奏の不思議なところなのである。――演奏の仕方が巧いのか、それともわれわれがこの作品を既に熟知している所為なのだろうか?
演奏に、官能的な色合いが皆無だったというわけではない。
第3幕での、トリスタンがイゾルデの到着をひたすら待ち望むくだりの最後の部分、「Ach,Isolde,Isolde!」の個所や、大詰め「愛の死」で音が溶解して行くところなどでのオーケストラには、ハッとさせるような豊麗な音楽があふれていた。叙情的な部分での音楽の美しさは、あくまで失われていなかったのである。
歌手陣は、トリスタンがロバート・ティーン・スミス、イゾルデがヴィオレータ・ウルマナ、マルケ王がフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ、クルヴェナールがボー・スコウフス、ブランゲーネがイヴォンヌ・ナエフという錚々たる顔ぶれ。何を不服を言う必要があろう、と思えるほどの歌唱であった。
演出はギュンター・クレーマーで、この劇場の既に定番となっているプロダクションである。第1幕でブランゲーネが「愛の媚薬」を用意するくだり、飲み物を2つ用意していたが、彼女が差し出したのと別のグラスから2人が飲んでしまうという設定は、ちょっと捻ったアイディアに見えるものの、あまり理屈に合わないように思えるのだが如何だろうか。
第2幕冒頭での「松明の火」が、イゾルデが持参していた昔の許婚、故モロルトの人型をした甲冑の胴体部分から燃え上がっているのは、筋書きとしては象徴的だが、見た印象としては私には非常に不快だった。まるでモロルトの死体が燃えているように見えるのである。
第3幕では、トリスタンの苦悩を見かねた忠実なクルヴェナールは、牧童に偽りの角笛を吹かせ(たと思わせ)て、イゾルデが到着するかのように主人に錯覚させる。が、その後は現実と幻想の綯交ぜの世界で、このあたり、もう少し巧くやってもいいのではないかと思うが、そこがクレーマー、舞台づくりはあくまで渋く、ことさら明解さを避けたような手法だ。
「愛の死」のあと、イゾルデが片手でトリスタンの眼を、もう一方の手で自らの眼を覆ったまま立ちつくす幕切れは、いろいろな解釈を連想させて印象的であった。
なお今回は、第2幕の2重唱の前半に大幅なカットがなされていた。天下のウィーン国立歌劇場で、昔ならともかく、今でもこんなことが行なわれているとは情けない。ここの慣習か? しかし2003年にティーレマンがここで振ったライヴのCDでは、カットは施されていなかった。ラトルの発想か? それとも劇場の慣習に妥協したか?
5時半開演で、10時15分終演。今日あたりから晴天になって、気温も大分上がってきた。舗装道路といえど雪解けで、泥濘状態である。
2009・12・21(月)ウィーン第2日 ヴェルディ:「マクベス」
ウィーン国立歌劇場
今月7日にプレミエされたばかりのニュー・プロダクション。今夜が5回目の上演だが、甚だ芳しからざる――というよりむしろ、最低に近い出来。
当初予定されていたダニエレ・ガッティがダウン、代わりにギレルモ・ガルシア・カルヴォという人(ウィーン国立歌劇場のソロ・コレペティトーア)が振っているが、こんな平板でダラダラした指揮ではどうしようもない。音楽に緊迫感が皆無なのだ。
オーケストラもさっぱり締まらない。マクベス夫人の死の場面(第4幕第2場)冒頭のヴァイオリン群の粗雑極まる演奏には唖然とさせられた。こんなことも制御できない指揮者では困る。
ダンカン王の死を知ったマクダフが動転して駆け込んで来る場面や、マクベス夫人の惨忍な野心を描くくだりのオーケストラのリズムの、何と甘く、のんびりしていること! これほどつまらない演奏の「マクベス」は、かつて聴いたことがない。
それに加え、マクベス夫人役のエリカ・スンネガルドの歌唱も、冒頭の場面からしてこれまた平板そのもの、インパクトが全くなく、舞台の温度を早くも下げてしまう。
このスウェーデン出身の美人ソプラノは、先年METに「フィデリオ」のレオノーレを歌ってデビューした際に「彗星の如く現われた驚異の新人」とか言われてセンセーショナルな扱いを受けていたが、私はその舞台をラジオ中継録音で聴いて「そうかねえ」と首を傾げた記憶がある。そのあとMETでトゥーランドットを歌ったり、あちこちの歌劇場でキャリアを積んでいるらしいが、どうもあまり進境が見られない。
しかも、小奇麗な声ではあるものの、メリハリに乏しく、特定の音域では声が響かないという癖もある。
最大の問題は、歌唱の表情の変化に乏しいことだろう。マクベス夫人の野心も激情も絶望も、すべて同じ調子で歌ってしまうので単調極まりない。これでは気弱な夫を唆して大事を成し遂げさせるという凄みのあるキャラクターを描き出すことはとても不可能だ。
劇場で会った日本の知人たちが口を揃えて「下手ですねえ」と呆れていたが、同意せざるを得ぬ。しかし、拍手をしていた観客も大勢いた。
マクベスのサイモン・キーンリイサイドはきちんと歌っていたが、この役には少々線が細いか。ただし気弱な性格を巧く出している点は、役柄表現としては当たっているだろう。
他の歌手では、バンクォーのシュテファン・コチアン、マクダフのディミトリ・ピッタスが安定していた程度。合唱団も粗っぽい。かように声楽陣に気魄が希薄なのは、偏に指揮者の統率力の不足としか思えない。
演出はヴェラ・ネミロヴァだから、やることは大体予想がつく。現代スコットランドの兵士及び市民といった衣装で、物語そのものは読み替えていない。が、織り込まれる趣向は、なるほどと思わされるものよりも、あってもなくてもいいように感じられる要素の方が多い。
冒頭の魔女群は、カメラで盛んにフラッシュを光らせてマクベスたちを撮る。ダンカン王は躍りながら入って来て直ちに入浴。彼を暗殺したマクベスは妻とともにシャワーを浴びて血を洗い流す。マクベスがバンクォーの亡霊に怯えた宴会の場では、客の中に紛れ込んでいた反乱貴族たちが引き摺り出され射殺される。
気が利いているのは、魔女がマクベスに見せる幻影の中で、歴代の王が次々に暗殺されるシーンが描かれていることだろう。
苦笑させられたのは、織り込まれているバレエとは別に、登場人物たちが実によく踊ることだ(ダンスではない)。第3幕での魔女軍団は、ラジオ体操(健康体操?)をしながら歌う(困ったことに、これが音楽とよく合うのだ)。ダンカン王の一団は踊りながら登場するし、宴会の客も雑然と踊る。
バンクォー暗殺の一団は赤い風船を持ち、滑稽な踊りを繰り広げる――第2幕第2場のこの合唱のリズミカルな要素をここまでコミック化して演技に反映させた発想は、見事というべきか、やり過ぎと言うべきか。暗殺団はそのあとも、赤鼻のトナカイのようなメイクで踊りながら、バンクォーの息子を手招きする。「魔王」に似た発想だ。
まあ、ネミロヴァのことだから、このくらいは当然やるだろう。どんな可笑しな舞台でも、演奏さえ素晴しければ、ご愛嬌として上演に花を添えるもの。が、演奏が低調の場合には、さらに上演の足を引っ張ることになる。
指揮者とマクベス夫人に対して一声二声、僅かなブーイングも飛んだようだが、概して拍手とブラヴォーが――ただし盛大ではない――多い。ウィーンの観客が甘いのは、一見の観光客も多い所為なのか。私にはとても拍手など出来なかった。
プログラムには使用楽譜のクレジットがないが、パリ版を基本とし、大詰めにマクベスの死のモノローグを追加する――つまりアバドがDGGに録音している版と基本的に同じと見た。ただし、マクベスが死んだあとの合唱部分に少し違いがあるような気もしたが――こちらの時差ボケもあったから、はっきりとは言い切れない。
(付記)翌日「トリスタン」の時に客席で会った当地の事情に詳しい方の話によると、プレミエの日には「天地もひっくり返るほどの」ブーイングだった由。それも上演中から騒然としていて、まずダンカン王が踊りながら入って来て風呂に入る場面から観客の怒りが爆発、スンネガルドの歌の後には叱声まで飛んだそうな。
今月7日にプレミエされたばかりのニュー・プロダクション。今夜が5回目の上演だが、甚だ芳しからざる――というよりむしろ、最低に近い出来。
当初予定されていたダニエレ・ガッティがダウン、代わりにギレルモ・ガルシア・カルヴォという人(ウィーン国立歌劇場のソロ・コレペティトーア)が振っているが、こんな平板でダラダラした指揮ではどうしようもない。音楽に緊迫感が皆無なのだ。
オーケストラもさっぱり締まらない。マクベス夫人の死の場面(第4幕第2場)冒頭のヴァイオリン群の粗雑極まる演奏には唖然とさせられた。こんなことも制御できない指揮者では困る。
ダンカン王の死を知ったマクダフが動転して駆け込んで来る場面や、マクベス夫人の惨忍な野心を描くくだりのオーケストラのリズムの、何と甘く、のんびりしていること! これほどつまらない演奏の「マクベス」は、かつて聴いたことがない。
それに加え、マクベス夫人役のエリカ・スンネガルドの歌唱も、冒頭の場面からしてこれまた平板そのもの、インパクトが全くなく、舞台の温度を早くも下げてしまう。
このスウェーデン出身の美人ソプラノは、先年METに「フィデリオ」のレオノーレを歌ってデビューした際に「彗星の如く現われた驚異の新人」とか言われてセンセーショナルな扱いを受けていたが、私はその舞台をラジオ中継録音で聴いて「そうかねえ」と首を傾げた記憶がある。そのあとMETでトゥーランドットを歌ったり、あちこちの歌劇場でキャリアを積んでいるらしいが、どうもあまり進境が見られない。
しかも、小奇麗な声ではあるものの、メリハリに乏しく、特定の音域では声が響かないという癖もある。
最大の問題は、歌唱の表情の変化に乏しいことだろう。マクベス夫人の野心も激情も絶望も、すべて同じ調子で歌ってしまうので単調極まりない。これでは気弱な夫を唆して大事を成し遂げさせるという凄みのあるキャラクターを描き出すことはとても不可能だ。
劇場で会った日本の知人たちが口を揃えて「下手ですねえ」と呆れていたが、同意せざるを得ぬ。しかし、拍手をしていた観客も大勢いた。
マクベスのサイモン・キーンリイサイドはきちんと歌っていたが、この役には少々線が細いか。ただし気弱な性格を巧く出している点は、役柄表現としては当たっているだろう。
他の歌手では、バンクォーのシュテファン・コチアン、マクダフのディミトリ・ピッタスが安定していた程度。合唱団も粗っぽい。かように声楽陣に気魄が希薄なのは、偏に指揮者の統率力の不足としか思えない。
演出はヴェラ・ネミロヴァだから、やることは大体予想がつく。現代スコットランドの兵士及び市民といった衣装で、物語そのものは読み替えていない。が、織り込まれる趣向は、なるほどと思わされるものよりも、あってもなくてもいいように感じられる要素の方が多い。
冒頭の魔女群は、カメラで盛んにフラッシュを光らせてマクベスたちを撮る。ダンカン王は躍りながら入って来て直ちに入浴。彼を暗殺したマクベスは妻とともにシャワーを浴びて血を洗い流す。マクベスがバンクォーの亡霊に怯えた宴会の場では、客の中に紛れ込んでいた反乱貴族たちが引き摺り出され射殺される。
気が利いているのは、魔女がマクベスに見せる幻影の中で、歴代の王が次々に暗殺されるシーンが描かれていることだろう。
苦笑させられたのは、織り込まれているバレエとは別に、登場人物たちが実によく踊ることだ(ダンスではない)。第3幕での魔女軍団は、ラジオ体操(健康体操?)をしながら歌う(困ったことに、これが音楽とよく合うのだ)。ダンカン王の一団は踊りながら登場するし、宴会の客も雑然と踊る。
バンクォー暗殺の一団は赤い風船を持ち、滑稽な踊りを繰り広げる――第2幕第2場のこの合唱のリズミカルな要素をここまでコミック化して演技に反映させた発想は、見事というべきか、やり過ぎと言うべきか。暗殺団はそのあとも、赤鼻のトナカイのようなメイクで踊りながら、バンクォーの息子を手招きする。「魔王」に似た発想だ。
まあ、ネミロヴァのことだから、このくらいは当然やるだろう。どんな可笑しな舞台でも、演奏さえ素晴しければ、ご愛嬌として上演に花を添えるもの。が、演奏が低調の場合には、さらに上演の足を引っ張ることになる。
指揮者とマクベス夫人に対して一声二声、僅かなブーイングも飛んだようだが、概して拍手とブラヴォーが――ただし盛大ではない――多い。ウィーンの観客が甘いのは、一見の観光客も多い所為なのか。私にはとても拍手など出来なかった。
プログラムには使用楽譜のクレジットがないが、パリ版を基本とし、大詰めにマクベスの死のモノローグを追加する――つまりアバドがDGGに録音している版と基本的に同じと見た。ただし、マクベスが死んだあとの合唱部分に少し違いがあるような気もしたが――こちらの時差ボケもあったから、はっきりとは言い切れない。
(付記)翌日「トリスタン」の時に客席で会った当地の事情に詳しい方の話によると、プレミエの日には「天地もひっくり返るほどの」ブーイングだった由。それも上演中から騒然としていて、まずダンカン王が踊りながら入って来て風呂に入る場面から観客の怒りが爆発、スンネガルドの歌の後には叱声まで飛んだそうな。
2009・12・20(日) ウィーン第1日
ニコラウス・アーノンクール指揮ウィーン・フィル
フランツ・シュミット:オラトリオ「7つの封印の書」
ムジークフェライン大ホール (午前11時開演)
「PARTERRE-Loge 1-1」――つまり1階ロージェ席の上手側舞台側最前列の1番は、「希望しても滅多に手に入らない席で、マニアなら狂喜乱舞する席」であるそうな。それが何と偶然にも手に入ってしまった。
ここはもう舞台上、ヴィオラなら5プルト目くらいにあたる場所で、テレビ中継でもあった日には、のべつ写されてしまう位置である(幸いに今日はカメラはなく、助かった)。こちらの席とはわずか飾り紐1本で隔てられたすぐ右側の舞台を、指揮者やソリストが通って出入りする。演奏中には、コントラバス奏者の弓に膝を突き刺されそうな感じになる――事実、私の膝とは2,3センチしか離れていない木製の手摺の角に弓がゴツンとぶつかったくらいだ。
それはいいとしても、コーラスやティンパニは、耳元で炸裂する。一方、向こう側にいる第1ヴァイオリンやホルンの内声部は、殆ど聞き取れない。そんな具合だから、オーケストラのバランスはさっぱり解らない。だから私にとっては欣喜雀躍どころか、知人でもいれば他の席と交換したいと思ったほどなのである。
しかし、いざ座ってみると、アーノンクールが赤鬼のような顔で指揮をしている姿が眼前数メートルの位置に見える面白さや、オケの中に居ながら聴いているような音響的な面白さは、たしかにある。
また、トランペットが大きな音で吹くたびに、前に座っているオーボエ奏者たちがその都度そっと片耳を抑えるといった「裏事情」も目の前に見える。というわけで、千載一遇の得がたい体験ができたことは確かであった。
そして、このホールの中で聴くウィーン・フィルは、いかなる席で聴いても音がいいものだ、ということをまたしても実感する機会となった。結果としては、大いに愉しんで会場を後にした次第である。だがいずれにせよ、この席に座る機会は、もう2度とないだろう。
フランツ・シュミットの「7つの封印の書(7つの封印を有する書)」は、ヨハネ黙示録を基にした歌詞内容にはあまり共感できないものの、とにかく音楽が凄い。
これは今年7月にも、アルミンクと新日本フィルの演奏をトリフォニーホールで聴いたばかり。何十年に一度しか演奏されないような曲を、たった半年の間に2度も聴けたというのは僥倖に違いない。
とりわけ71年前にこの曲が初演された、その同じムジークフェラインの大ホールで聴けるというのは、一種の縁というものだろう。
東京でのアルミンクの若々しい率直な指揮も決して悪くはなかったが、今日の演奏が根本的にそれと違う一点は、コーラス(ウィーン楽友協会合唱団)と声楽ソリストたちの発音の明確さと強いアクセント、しかも表情の強烈さから生まれる歌詞の劇的な迫力ではないかと思う。
特に合唱団の叩きつけるような強いドイツ語の発音は凄まじく、「第2の封印」における殺戮の合唱では、あの反復される同一リズムとともに身の毛のよだつような迫力を生み出す。
また、「第3の封印」の場で、母娘の嘆きを歌うドロテア・レッシュマン(ソプラノ)の歌唱の激烈さと深い情感は、涙を催させるほど見事なものであった。彼女のドラマティックな表情に満ちた嘆きの歌を聴けただけでも、この日の演奏を聴きに来た甲斐があったとさえ思えたほどである。
ソリストたちは他に、エリーザベト・クルマン(アルト)、ヴェルナー・ギューラ(テノール)、フローリアン・ベッシュ(バス)、ローベルト・ホル(バス、天の声)。みんな素晴しい。特にホルの底力ある低音は、ひときわ他を圧してそそり立っていた。
ヨハネ役はミヒャエル・シャーデ(テノール)。彼だけは他のソリストとは別に指揮者の傍に位置しており、そこは私の席からは真横に当たるため、その真価を聴くには不充分の角度だった。だが、長丁場をこなした歌唱は、おそらく見事なものだったはずである。
アーノンクールは、ヨハネのレチタティーヴォ風の「Und・・・・」という個所だけ常にテンポを遅く採る癖を除けば、今回は予想外にストレートな指揮である。「殺戮の場面」でのオーケストラのあのリズムが遠ざかり、消えて行く場面での扱いの巧さは、形容しがたい鮮やかさだ。全曲ひた押しに押す迫力と、最後の「ハレルヤ」の合唱での昂揚感も圧倒的なものがある。充実感にあふれた快演だった。
この席を出た所は、ほとんど楽屋といってもいいような廊下だ。
出た途端に思わずぶつかりそうになり、「失礼」と言ってよけながら見た相手は、この時期、国立歌劇場で「トリスタン」を指揮しているサイモン・ラトル。
雪は止んでいるが、一般道路は冠雪状態。歌劇場周辺の市街は残雪による凍結で歩きにくい。耳も凍りそうな冷たい空気である。気温はマイナス数度だろう。
「PARTERRE-Loge 1-1」――つまり1階ロージェ席の上手側舞台側最前列の1番は、「希望しても滅多に手に入らない席で、マニアなら狂喜乱舞する席」であるそうな。それが何と偶然にも手に入ってしまった。
ここはもう舞台上、ヴィオラなら5プルト目くらいにあたる場所で、テレビ中継でもあった日には、のべつ写されてしまう位置である(幸いに今日はカメラはなく、助かった)。こちらの席とはわずか飾り紐1本で隔てられたすぐ右側の舞台を、指揮者やソリストが通って出入りする。演奏中には、コントラバス奏者の弓に膝を突き刺されそうな感じになる――事実、私の膝とは2,3センチしか離れていない木製の手摺の角に弓がゴツンとぶつかったくらいだ。
それはいいとしても、コーラスやティンパニは、耳元で炸裂する。一方、向こう側にいる第1ヴァイオリンやホルンの内声部は、殆ど聞き取れない。そんな具合だから、オーケストラのバランスはさっぱり解らない。だから私にとっては欣喜雀躍どころか、知人でもいれば他の席と交換したいと思ったほどなのである。
しかし、いざ座ってみると、アーノンクールが赤鬼のような顔で指揮をしている姿が眼前数メートルの位置に見える面白さや、オケの中に居ながら聴いているような音響的な面白さは、たしかにある。
また、トランペットが大きな音で吹くたびに、前に座っているオーボエ奏者たちがその都度そっと片耳を抑えるといった「裏事情」も目の前に見える。というわけで、千載一遇の得がたい体験ができたことは確かであった。
そして、このホールの中で聴くウィーン・フィルは、いかなる席で聴いても音がいいものだ、ということをまたしても実感する機会となった。結果としては、大いに愉しんで会場を後にした次第である。だがいずれにせよ、この席に座る機会は、もう2度とないだろう。
フランツ・シュミットの「7つの封印の書(7つの封印を有する書)」は、ヨハネ黙示録を基にした歌詞内容にはあまり共感できないものの、とにかく音楽が凄い。
これは今年7月にも、アルミンクと新日本フィルの演奏をトリフォニーホールで聴いたばかり。何十年に一度しか演奏されないような曲を、たった半年の間に2度も聴けたというのは僥倖に違いない。
とりわけ71年前にこの曲が初演された、その同じムジークフェラインの大ホールで聴けるというのは、一種の縁というものだろう。
東京でのアルミンクの若々しい率直な指揮も決して悪くはなかったが、今日の演奏が根本的にそれと違う一点は、コーラス(ウィーン楽友協会合唱団)と声楽ソリストたちの発音の明確さと強いアクセント、しかも表情の強烈さから生まれる歌詞の劇的な迫力ではないかと思う。
特に合唱団の叩きつけるような強いドイツ語の発音は凄まじく、「第2の封印」における殺戮の合唱では、あの反復される同一リズムとともに身の毛のよだつような迫力を生み出す。
また、「第3の封印」の場で、母娘の嘆きを歌うドロテア・レッシュマン(ソプラノ)の歌唱の激烈さと深い情感は、涙を催させるほど見事なものであった。彼女のドラマティックな表情に満ちた嘆きの歌を聴けただけでも、この日の演奏を聴きに来た甲斐があったとさえ思えたほどである。
ソリストたちは他に、エリーザベト・クルマン(アルト)、ヴェルナー・ギューラ(テノール)、フローリアン・ベッシュ(バス)、ローベルト・ホル(バス、天の声)。みんな素晴しい。特にホルの底力ある低音は、ひときわ他を圧してそそり立っていた。
ヨハネ役はミヒャエル・シャーデ(テノール)。彼だけは他のソリストとは別に指揮者の傍に位置しており、そこは私の席からは真横に当たるため、その真価を聴くには不充分の角度だった。だが、長丁場をこなした歌唱は、おそらく見事なものだったはずである。
アーノンクールは、ヨハネのレチタティーヴォ風の「Und・・・・」という個所だけ常にテンポを遅く採る癖を除けば、今回は予想外にストレートな指揮である。「殺戮の場面」でのオーケストラのあのリズムが遠ざかり、消えて行く場面での扱いの巧さは、形容しがたい鮮やかさだ。全曲ひた押しに押す迫力と、最後の「ハレルヤ」の合唱での昂揚感も圧倒的なものがある。充実感にあふれた快演だった。
この席を出た所は、ほとんど楽屋といってもいいような廊下だ。
出た途端に思わずぶつかりそうになり、「失礼」と言ってよけながら見た相手は、この時期、国立歌劇場で「トリスタン」を指揮しているサイモン・ラトル。
雪は止んでいるが、一般道路は冠雪状態。歌劇場周辺の市街は残雪による凍結で歩きにくい。耳も凍りそうな冷たい空気である。気温はマイナス数度だろう。
2009・12・16(水)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団 B定期
サントリーホール
ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」と「左手のためのピアノ協奏曲」(ソロはニコライ・ルガンスキー)、ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」という面白いプログラム。
ではあったが、最初の2曲は、デュトワにしては意外に重く、洒落っ気にも不足気味で、さながらダンスで重い女性を懸命に振り回して踊っているようなもどかしさ。10年以上前、彼が初めてN響の常任指揮者になった頃には未だオーケストラの呼吸が合わず、そのフランスものの演奏ではよくそんなことがあったものだが、その頃に戻ってしまったのかしらん?
ショスタコーヴィチでは、デュトワの流麗さがプラスマイナス両面に働いた。N響の演奏もすこぶる豪華で壮麗ではあったものの、この曲に必要な悲劇的な凄味が皆無なのである。第2楽章での皇帝軍による一斉射撃の殺戮場面など、リズムに緊迫感がないのは、腕を大きくなだらかに回すデュトワの指揮のせいなのだろうか?
葬送的な曲想部分での演奏は充分に美しいが、しかしこれももっと――かつてデプリーストやラザレフやゲルギエフやスクロヴァチェフスキが日本での演奏会で聴かせたような、哀切な感情と慟哭にあふれていなくては、この交響曲の標題に合致しないだろう。
ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」と「左手のためのピアノ協奏曲」(ソロはニコライ・ルガンスキー)、ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」という面白いプログラム。
ではあったが、最初の2曲は、デュトワにしては意外に重く、洒落っ気にも不足気味で、さながらダンスで重い女性を懸命に振り回して踊っているようなもどかしさ。10年以上前、彼が初めてN響の常任指揮者になった頃には未だオーケストラの呼吸が合わず、そのフランスものの演奏ではよくそんなことがあったものだが、その頃に戻ってしまったのかしらん?
ショスタコーヴィチでは、デュトワの流麗さがプラスマイナス両面に働いた。N響の演奏もすこぶる豪華で壮麗ではあったものの、この曲に必要な悲劇的な凄味が皆無なのである。第2楽章での皇帝軍による一斉射撃の殺戮場面など、リズムに緊迫感がないのは、腕を大きくなだらかに回すデュトワの指揮のせいなのだろうか?
葬送的な曲想部分での演奏は充分に美しいが、しかしこれももっと――かつてデプリーストやラザレフやゲルギエフやスクロヴァチェフスキが日本での演奏会で聴かせたような、哀切な感情と慟哭にあふれていなくては、この交響曲の標題に合致しないだろう。
2009・12・15(火)オスモ・ヴァンスカ指揮 読売日本交響楽団定期
サントリーホール
「ヴァンスカのベートーヴェン交響曲シリーズ」の第5回にあたるが、それとは別に、前半で日本初演されたカレヴィ・アホの「交響曲第7番」が、なかなかの人気を集めた。
オーケストラの編成はすこぶる大きく、演奏時間も約40分にわたる。「虫の交響曲」という副題があるのは、アホ自身のオペラ「虫の生活」をもとに編まれた交響曲であるためという。
6楽章からなり、各々は、蜂、蝶、フンコロガシ、バッタ、蟻、蜻蛉に関連づけられている。それらの虫たちを音で描写しているわけではないが、それを想像させる音楽も少なからず聞かれるのは確かだ。「蜂」は極めて刺激的で激烈な音楽だし、「蝶」はジャズのフォックストロット、「バッタ」はスケルツォ風、「蟻」は行進曲(労働と戦争)といった具合であり、「蜻蛉」が寂しく空しく終結するのも面白い発想である。
しかし、描写しているにせよ、そうでないにせよ、オーケストラの各楽器には機知に富んだ使用法が随所に聴かれる。そのため極めて多種多様な、色彩的な響きが全曲にわたり生み出されることになる。かりに標題がなかったとしても、それだけでこの華麗な奇抜な、万華鏡のような交響曲は、聴衆を楽しませるだろう。
一方、ベートーヴェンの「交響曲第7番」の方は、ヴァンスカらしく鋭角的なリズムでたたみかける情熱的な演奏になった。
そこでは、管楽器群のハーモニーをして弦楽器群の旋律的な動きを覆わせしめる、といったユニークな響きのバランスがしばしば採られる。聴き慣れたフシが浮かび上がって来ない、という演奏は、聴き手にスリルを与えるだろう。
しかもヴァンスカは、第1楽章コーダでのヴィオラ・チェロ・コントラバスのオスティナートに2小節単位の大きな漸強・漸弱を施したり、第2楽章のリズム主題では2小節ごとに最初の4分音符をやや強い音のソステヌートで演奏させたりという具合に、極めて精妙な設計を施していたのであった。
読売日響も、その要求に良く応えて熱演した。時に合奏の乱れを生じさせたのは惜しいが、全体から見れば小さな瑕疵に過ぎない。
「ヴァンスカのベートーヴェン交響曲シリーズ」の第5回にあたるが、それとは別に、前半で日本初演されたカレヴィ・アホの「交響曲第7番」が、なかなかの人気を集めた。
オーケストラの編成はすこぶる大きく、演奏時間も約40分にわたる。「虫の交響曲」という副題があるのは、アホ自身のオペラ「虫の生活」をもとに編まれた交響曲であるためという。
6楽章からなり、各々は、蜂、蝶、フンコロガシ、バッタ、蟻、蜻蛉に関連づけられている。それらの虫たちを音で描写しているわけではないが、それを想像させる音楽も少なからず聞かれるのは確かだ。「蜂」は極めて刺激的で激烈な音楽だし、「蝶」はジャズのフォックストロット、「バッタ」はスケルツォ風、「蟻」は行進曲(労働と戦争)といった具合であり、「蜻蛉」が寂しく空しく終結するのも面白い発想である。
しかし、描写しているにせよ、そうでないにせよ、オーケストラの各楽器には機知に富んだ使用法が随所に聴かれる。そのため極めて多種多様な、色彩的な響きが全曲にわたり生み出されることになる。かりに標題がなかったとしても、それだけでこの華麗な奇抜な、万華鏡のような交響曲は、聴衆を楽しませるだろう。
一方、ベートーヴェンの「交響曲第7番」の方は、ヴァンスカらしく鋭角的なリズムでたたみかける情熱的な演奏になった。
そこでは、管楽器群のハーモニーをして弦楽器群の旋律的な動きを覆わせしめる、といったユニークな響きのバランスがしばしば採られる。聴き慣れたフシが浮かび上がって来ない、という演奏は、聴き手にスリルを与えるだろう。
しかもヴァンスカは、第1楽章コーダでのヴィオラ・チェロ・コントラバスのオスティナートに2小節単位の大きな漸強・漸弱を施したり、第2楽章のリズム主題では2小節ごとに最初の4分音符をやや強い音のソステヌートで演奏させたりという具合に、極めて精妙な設計を施していたのであった。
読売日響も、その要求に良く応えて熱演した。時に合奏の乱れを生じさせたのは惜しいが、全体から見れば小さな瑕疵に過ぎない。
2009・12・12(土)中村紘子 デビュー50周年記念ツァー・リサイタル
東京文化会館大ホール
「女帝」中村紘子、いよいよ健在、意気軒昂の大活躍なのは祝着の極み。この分なら、70周年まで行けるだろう。この「デビュー50周年記念全国ツァー」は、昨年9月から来年7月あたりまで、毎月数回のペース(最大9回!)で展開されているというから、それ自体、物凄いエネルギーである。
東京文化会館大ホールは、文字通りの満席。ホールの内外ともに、凄い熱気だ。ただし、今夜は所用のため、前半のプログラムだけ聴かせてもらった。曲は、D・スカルラッティ=タウジヒの「パストラーレとカプリス」、ベートーヴェンの「悲愴」、シューマンの「謝肉祭」。
すべてエネルギッシュな演奏だ。この3曲それぞれに極度の異なった表情を付与して弾くところも、いかにも彼女らしい。
もっとも私としては、「謝肉祭」におけるような、あの激烈な表現には、どうも最近ついて行けなくなった、というのが本音である。
しかし、もしシューマンが声高に激昂してものを語るという作曲家であると読み替えるなら――オペラでは日常茶飯事のそのような「読み替え」を、コンサート作品においても試みるという考え方には、私は基本的には大賛成の立場である――これはすこぶる興味深い演奏解釈と言えるだろう。
「女帝」中村紘子、いよいよ健在、意気軒昂の大活躍なのは祝着の極み。この分なら、70周年まで行けるだろう。この「デビュー50周年記念全国ツァー」は、昨年9月から来年7月あたりまで、毎月数回のペース(最大9回!)で展開されているというから、それ自体、物凄いエネルギーである。
東京文化会館大ホールは、文字通りの満席。ホールの内外ともに、凄い熱気だ。ただし、今夜は所用のため、前半のプログラムだけ聴かせてもらった。曲は、D・スカルラッティ=タウジヒの「パストラーレとカプリス」、ベートーヴェンの「悲愴」、シューマンの「謝肉祭」。
すべてエネルギッシュな演奏だ。この3曲それぞれに極度の異なった表情を付与して弾くところも、いかにも彼女らしい。
もっとも私としては、「謝肉祭」におけるような、あの激烈な表現には、どうも最近ついて行けなくなった、というのが本音である。
しかし、もしシューマンが声高に激昂してものを語るという作曲家であると読み替えるなら――オペラでは日常茶飯事のそのような「読み替え」を、コンサート作品においても試みるという考え方には、私は基本的には大賛成の立場である――これはすこぶる興味深い演奏解釈と言えるだろう。
2009・12・12(土)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団 C定期
NHKホール (マチネー)
デュトワが1年ぶりに客演指揮。
ヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」が、さすがに聴きものだった。
予想外に抑制された響きで序奏が開始された時には少々腑に落ちなかったが、デュトワはむしろ、この作品の叙情的な側面を浮彫りにしようと試みていたのだろう。全曲にわたり鋭角的な響きを抑え、均整の取れた美しさを前面に押し出してまとめ上げていた。
協演は、東京混声合唱団と、メラニー・ディーナー(S)、ヤナ・シーコロヴァー(A)、サイモン・オニール(T)、ミハイル・ペトレンコ(Bs)。
この曲、ナマで聴くといつものことながら、ソリストの出番の回数に極端な差があるのには可笑しくなってしまう。ずっとスコアを目で追いながら座っていたペトレンコはほんの僅かしか歌わないし、半開きにしたスコアを手にしたまま身じろぎもせず客席を見つめて座っていたシーコロヴァーは、それこそ一瞬の出番しかない。もしこの公演のためにだけ来日したのなら、随分まあ効率の悪いことで――などとつまらぬことを考えて苦笑したのは終演後の話。
ともあれ、この曲をこれほど「快く」聴かせてもらったのは、久しぶりのことである。
前半は、アラベラ・美歩・シュタインバッハーがソロを弾くチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。
朗々と伸びやかに鳴るストラディヴァリウス「ブース」を駆使して、きりりと引き締まった演奏を聴かせた。こういう毅然たるチャイコフスキーは好い。
デュトワが1年ぶりに客演指揮。
ヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」が、さすがに聴きものだった。
予想外に抑制された響きで序奏が開始された時には少々腑に落ちなかったが、デュトワはむしろ、この作品の叙情的な側面を浮彫りにしようと試みていたのだろう。全曲にわたり鋭角的な響きを抑え、均整の取れた美しさを前面に押し出してまとめ上げていた。
協演は、東京混声合唱団と、メラニー・ディーナー(S)、ヤナ・シーコロヴァー(A)、サイモン・オニール(T)、ミハイル・ペトレンコ(Bs)。
この曲、ナマで聴くといつものことながら、ソリストの出番の回数に極端な差があるのには可笑しくなってしまう。ずっとスコアを目で追いながら座っていたペトレンコはほんの僅かしか歌わないし、半開きにしたスコアを手にしたまま身じろぎもせず客席を見つめて座っていたシーコロヴァーは、それこそ一瞬の出番しかない。もしこの公演のためにだけ来日したのなら、随分まあ効率の悪いことで――などとつまらぬことを考えて苦笑したのは終演後の話。
ともあれ、この曲をこれほど「快く」聴かせてもらったのは、久しぶりのことである。
前半は、アラベラ・美歩・シュタインバッハーがソロを弾くチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。
朗々と伸びやかに鳴るストラディヴァリウス「ブース」を駆使して、きりりと引き締まった演奏を聴かせた。こういう毅然たるチャイコフスキーは好い。
2009・12・11(金)ジェイムズ・デプリースト指揮東京都交響楽団
「ジュピター」と「惑星」
横浜みなとみらいホール
ジュピターと惑星――とは、何となくいま風の受けをねらった選曲みたいだが、そこはデプリースト、真正面からの正攻法で、がっちりと揺るぎなく演奏した。
モーツァルトの交響曲「ジュピター」ではそれが成功しており、すこぶる厳めしい「ハ長調」となっていたのが面白い。
ホルストの「惑星」でも、極めて正確で折り目正しい演奏が繰り広げられたが、こちらの方はおそろしく謹厳でコワモテの惑星群となって、立派だが少々堅苦しい。「水星」や「天王星」におけるスケルツォ的性格、「土星」や「海王星」における神秘的な性格といったような占星術的な幻想の世界の味は、いずれもかなり薄められてしまったようだ。
しかし、洒落っ気を一切取り去り、威儀を正した演奏でこの曲を聴くと、こういう音楽になるのか――と、何となく納得させられたことは事実。
このホールの1階15列中央あたりは、低音域があまり聞こえず、第1ヴァイオリンや打楽器の高域の硬い響きに直撃される場所のように思われる。オーケストラの音色が非常に生々しく、かつ鋭く聞こえたのであった。演奏に幻想的な雰囲気が不足していたと感じられたのも、あるいはそういうところから来ているのかもしれないが。
ジュピターと惑星――とは、何となくいま風の受けをねらった選曲みたいだが、そこはデプリースト、真正面からの正攻法で、がっちりと揺るぎなく演奏した。
モーツァルトの交響曲「ジュピター」ではそれが成功しており、すこぶる厳めしい「ハ長調」となっていたのが面白い。
ホルストの「惑星」でも、極めて正確で折り目正しい演奏が繰り広げられたが、こちらの方はおそろしく謹厳でコワモテの惑星群となって、立派だが少々堅苦しい。「水星」や「天王星」におけるスケルツォ的性格、「土星」や「海王星」における神秘的な性格といったような占星術的な幻想の世界の味は、いずれもかなり薄められてしまったようだ。
しかし、洒落っ気を一切取り去り、威儀を正した演奏でこの曲を聴くと、こういう音楽になるのか――と、何となく納得させられたことは事実。
このホールの1階15列中央あたりは、低音域があまり聞こえず、第1ヴァイオリンや打楽器の高域の硬い響きに直撃される場所のように思われる。オーケストラの音色が非常に生々しく、かつ鋭く聞こえたのであった。演奏に幻想的な雰囲気が不足していたと感じられたのも、あるいはそういうところから来ているのかもしれないが。
2009・12・10(木)レニングラード国立歌劇場(ミハイロフスキー劇場)
チャイコフスキー:オペラ「エフゲニー・オネーギン」
オーチャードホール
この何年間か、かなり「入り組んだ」演出の「エフゲニー・オネーギン」ばかり観続けて来たので、久しぶりにこのようなシンプルな舞台の上演を観ると、えらく新鮮で清々しく感じられる。
このプロダクションは、この劇場が初来日した――サンクトペテルブルクから来日した初の大規模オペラカンパニーだった――1991年秋に観て以来のものだ。
同劇場芸術監督スタニスラフ・ガウダシンスキー(現在は退任している)の演出で、舞台装置はほとんどカーテンのみと言ってよく、それが照明によって美しく映え、時には林の光景ともなり、また時には大広間の光景とも変わる。シンプルだが、非常に美しい。
演出は極めてストレートで、これもまた久しぶりに観るスタイルだ。第3幕冒頭の「ポロネーズ」もオリジナルのト書どおり、絢爛たる舞踏会の場面として演出されている。たまに観ると、これもなかなかいいものである。
このしっとりした雰囲気の舞台は、しかし、やはり本来はもっと小規模な劇場で上演されるように作られていると言っていいだろう――もっとも来日公演となれば、言っても詮無きことだが。
音楽監督・首席指揮者ペテル・フェラネツ指揮する歌劇場管弦楽団の演奏にしても同様、大劇場向きの派手なものではない。
ただ、フェラネッツの指揮は、どちらかといえば坦々と進めて行くスタイルであり、ドラマティックな音楽の起伏をつくることは、あまりない。第2幕でオネーギンとレンスキーの口論が次第に昂じ、緊張が高まっていくあたりの演奏には、どうも物足らないところがある。
第3幕の、オネーギンとタチヤーナの場面など、昔から「オペラの結末としては劇的な盛り上がりに欠ける」と指摘されるところでもあるのだが、フェラネッツの指揮ではまさにその点が露呈されてしまうのだ。ここをゲルギエフあたりが指揮すると、「盛り上がりに欠ける」どころではなく、まさに激烈な葛藤に満ちた人間のドラマとしての迫力が生まれるようになるのだが。
オネーギンを歌ったのは、アレクセイ・ラブロフという人で、今年同歌劇場に加わった新人。サンクトペテルブルク音楽院を卒業したかしないかという年齢のようだ。声が良く伸び、長身で舞台映えもする。これは有望株である。
タチヤーナはアンナ・ネチャーエワで、この人も若い。「手紙の場」など、まだ少し硬さはあるが、いいソプラノだし、美貌なので、将来有望だろう。
この歌劇場のソリストたちにも、若い世代の進出が目立つようだ。ロシアの音楽教育の健在を証明するかのようである。
この何年間か、かなり「入り組んだ」演出の「エフゲニー・オネーギン」ばかり観続けて来たので、久しぶりにこのようなシンプルな舞台の上演を観ると、えらく新鮮で清々しく感じられる。
このプロダクションは、この劇場が初来日した――サンクトペテルブルクから来日した初の大規模オペラカンパニーだった――1991年秋に観て以来のものだ。
同劇場芸術監督スタニスラフ・ガウダシンスキー(現在は退任している)の演出で、舞台装置はほとんどカーテンのみと言ってよく、それが照明によって美しく映え、時には林の光景ともなり、また時には大広間の光景とも変わる。シンプルだが、非常に美しい。
演出は極めてストレートで、これもまた久しぶりに観るスタイルだ。第3幕冒頭の「ポロネーズ」もオリジナルのト書どおり、絢爛たる舞踏会の場面として演出されている。たまに観ると、これもなかなかいいものである。
このしっとりした雰囲気の舞台は、しかし、やはり本来はもっと小規模な劇場で上演されるように作られていると言っていいだろう――もっとも来日公演となれば、言っても詮無きことだが。
音楽監督・首席指揮者ペテル・フェラネツ指揮する歌劇場管弦楽団の演奏にしても同様、大劇場向きの派手なものではない。
ただ、フェラネッツの指揮は、どちらかといえば坦々と進めて行くスタイルであり、ドラマティックな音楽の起伏をつくることは、あまりない。第2幕でオネーギンとレンスキーの口論が次第に昂じ、緊張が高まっていくあたりの演奏には、どうも物足らないところがある。
第3幕の、オネーギンとタチヤーナの場面など、昔から「オペラの結末としては劇的な盛り上がりに欠ける」と指摘されるところでもあるのだが、フェラネッツの指揮ではまさにその点が露呈されてしまうのだ。ここをゲルギエフあたりが指揮すると、「盛り上がりに欠ける」どころではなく、まさに激烈な葛藤に満ちた人間のドラマとしての迫力が生まれるようになるのだが。
オネーギンを歌ったのは、アレクセイ・ラブロフという人で、今年同歌劇場に加わった新人。サンクトペテルブルク音楽院を卒業したかしないかという年齢のようだ。声が良く伸び、長身で舞台映えもする。これは有望株である。
タチヤーナはアンナ・ネチャーエワで、この人も若い。「手紙の場」など、まだ少し硬さはあるが、いいソプラノだし、美貌なので、将来有望だろう。
この歌劇場のソリストたちにも、若い世代の進出が目立つようだ。ロシアの音楽教育の健在を証明するかのようである。
2009・12・6(日)飯森範親指揮東京交響楽団
ヤナーチェク:歌劇「ブロウチェク氏の旅行」セミ・ステージ上演
サントリーホール
愉快な家主の、月世界旅行(第1部)と、中世フス戦争時代へのタイム・スリップ(第2部)。酔って見た夢の話のような、あるいはホラ吹き男爵譚に似た話のような、荒唐無稽の物語。中世のプラハの街に紛れ込んだブロウチェクが、突然現われたフス教徒の軍人に怪しまれて脅かされるあたり、笑いを抑えきれない。
飯森範親と東京交響楽団の力演・快演。
予想をはるかに上回る演奏だ。
先月22日、山形から帰京する際、たまたま飯森範親と同じ新幹線に乗り合わせたが、彼は車中ずっとスコアを携え、ヘッドフォンをかけたままで、このオペラの上演の準備に没頭していた。
それはもちろん、彼にとっては、珍しくはないことなのだろう。だが、彼がそのように情熱的に打ち込んでいた作品の上演が、このように見事な成功を収めたことを喜びたい。
東京交響楽団も、経営的に苦しい自主運営オーケストラでありながら、かくも意欲的な企画をよくぞ成功させたと思う。
演奏も充実したものであった。音色の美しさもさることながら、弦楽器の響きなどには、まさに私たちが聴き慣れているヤナーチェク独特のそれが満ち溢れていたのには感心した。このオペラはこんなにもきれいな音楽だったのか――と、聴き手をして再認識させることは、すなわちその演奏が優れている証拠なのだ。
コンサートマスターは高木和弘。彼の功績も、大きなものがある。
東京響のこれまでのシリーズと同様に、セミ・ステージ形式の上演。そして演出も、これまでのヤナーチェク・オペラシリーズと同じように、マルティン・オタヴァが担当していた。わずかな小道具だけを使った簡素なものだが、内容は充分に理解できる。
歌手陣は主役たちがチェコ勢、脇役たちが日本勢。
ブロウチェクを歌ったヤン・ヴァツィークは、先年出たビェロフラーヴェク指揮のDGG盤でも同役を歌っていた人だが、威張りまくるが憎めない、そそっかしい法螺吹きの家主といった雰囲気の主役を、これ以上はないくらいすばらしく演じていた。
他にも、マリア・ハーン、ズデニェク・プレフら、同CDでも歌っていた歌手たちが参加していた。またヤロミール・ノボトニー、ロマン・ヴォルツェル、イジー・クビークといった、よく名を聞く人たちも加わっていた。
日本勢では、高橋淳と羽山晃生が、本場勢を向うに回して一歩も退かず歌った。P席に配置された東響コーラスは、いつものように暗譜。これも立派である。
愉快な家主の、月世界旅行(第1部)と、中世フス戦争時代へのタイム・スリップ(第2部)。酔って見た夢の話のような、あるいはホラ吹き男爵譚に似た話のような、荒唐無稽の物語。中世のプラハの街に紛れ込んだブロウチェクが、突然現われたフス教徒の軍人に怪しまれて脅かされるあたり、笑いを抑えきれない。
飯森範親と東京交響楽団の力演・快演。
予想をはるかに上回る演奏だ。
先月22日、山形から帰京する際、たまたま飯森範親と同じ新幹線に乗り合わせたが、彼は車中ずっとスコアを携え、ヘッドフォンをかけたままで、このオペラの上演の準備に没頭していた。
それはもちろん、彼にとっては、珍しくはないことなのだろう。だが、彼がそのように情熱的に打ち込んでいた作品の上演が、このように見事な成功を収めたことを喜びたい。
東京交響楽団も、経営的に苦しい自主運営オーケストラでありながら、かくも意欲的な企画をよくぞ成功させたと思う。
演奏も充実したものであった。音色の美しさもさることながら、弦楽器の響きなどには、まさに私たちが聴き慣れているヤナーチェク独特のそれが満ち溢れていたのには感心した。このオペラはこんなにもきれいな音楽だったのか――と、聴き手をして再認識させることは、すなわちその演奏が優れている証拠なのだ。
コンサートマスターは高木和弘。彼の功績も、大きなものがある。
東京響のこれまでのシリーズと同様に、セミ・ステージ形式の上演。そして演出も、これまでのヤナーチェク・オペラシリーズと同じように、マルティン・オタヴァが担当していた。わずかな小道具だけを使った簡素なものだが、内容は充分に理解できる。
歌手陣は主役たちがチェコ勢、脇役たちが日本勢。
ブロウチェクを歌ったヤン・ヴァツィークは、先年出たビェロフラーヴェク指揮のDGG盤でも同役を歌っていた人だが、威張りまくるが憎めない、そそっかしい法螺吹きの家主といった雰囲気の主役を、これ以上はないくらいすばらしく演じていた。
他にも、マリア・ハーン、ズデニェク・プレフら、同CDでも歌っていた歌手たちが参加していた。またヤロミール・ノボトニー、ロマン・ヴォルツェル、イジー・クビークといった、よく名を聞く人たちも加わっていた。
日本勢では、高橋淳と羽山晃生が、本場勢を向うに回して一歩も退かず歌った。P席に配置された東響コーラスは、いつものように暗譜。これも立派である。
2009・12・5(土)イルジー・ビェロフラーヴェク指揮
日本フィルハーモニー交響楽団
サントリーホール (マチネー)
首席客演指揮者ビェロフラーヴェクが、ブルックナーの「交響曲第5番」を指揮。
若い頃に比べると格段に風格のある音楽をつくるようになったビェロフラーヴェク、1999年にプラハ国民歌劇場来日公演で彼が指揮した「イェヌーファ」の見事さにも強い感銘を受けたが、久しぶりに彼の指揮を聴いたこのブルックナーも、予想をはるかに上回る出来であった。
冒頭、祈りにも似た遅いテンポで始まった演奏は、やがて毅然たる力強さで進む。ことさらに誇張や芝居気のないストレートな演奏である。先日のインバルのような強烈な個性には及ばずとも、その引き締まった構築は充分説得性に富むものだ。
日本フィルも、よく仕上げられた演奏を聴かせた。第3楽章は特に立派であり、終楽章の大詰めでの昂揚感もなかなかのものである。――ただ、何となく気になるのは、たいへん良い演奏をしているものの、オーケストラとしての自らの感情の奥底から湧き出るような覇気といったものに、今ひとつ不足しているのではないか、という点なのだ。
あくまで指揮者に引っ張られた通りに演奏し、あくまで真面目に昂揚しているといった感じなのである。良い意味での「我意」がもう少しあったら、と思う。
演奏が一旦軌道に乗ってしまっている時はまだいいのだが、たとえば第1楽章序奏で金管群が前面に躍り出る瞬間(第18小節など)や、第4楽章序奏でヴァイオリンが弱音でトレモロを開始する個所(第13小節)といったような、沈黙の中から最初に第1歩を踏み出すような個所では、何となく――あたりを見回して、おずおずと歩き始めるような雰囲気が感じられないでもないのである。
こんなところは、指揮者が合わせるとかどうとかいう問題ではなく、オーケストラ自身がアンサンブルをつくって自主的に堂々と始めるようになるべきではないかと思うのだが――いかがだろう。
そういう方が、演奏もずっと生き生きしたものになると思うのだけれど。
最後の金管群のコラール。これはバランスが良かった。ナマで聴いた最近の演奏の中では、出色のものではなかったかと思う。ティンパニも良い。
首席客演指揮者ビェロフラーヴェクが、ブルックナーの「交響曲第5番」を指揮。
若い頃に比べると格段に風格のある音楽をつくるようになったビェロフラーヴェク、1999年にプラハ国民歌劇場来日公演で彼が指揮した「イェヌーファ」の見事さにも強い感銘を受けたが、久しぶりに彼の指揮を聴いたこのブルックナーも、予想をはるかに上回る出来であった。
冒頭、祈りにも似た遅いテンポで始まった演奏は、やがて毅然たる力強さで進む。ことさらに誇張や芝居気のないストレートな演奏である。先日のインバルのような強烈な個性には及ばずとも、その引き締まった構築は充分説得性に富むものだ。
日本フィルも、よく仕上げられた演奏を聴かせた。第3楽章は特に立派であり、終楽章の大詰めでの昂揚感もなかなかのものである。――ただ、何となく気になるのは、たいへん良い演奏をしているものの、オーケストラとしての自らの感情の奥底から湧き出るような覇気といったものに、今ひとつ不足しているのではないか、という点なのだ。
あくまで指揮者に引っ張られた通りに演奏し、あくまで真面目に昂揚しているといった感じなのである。良い意味での「我意」がもう少しあったら、と思う。
演奏が一旦軌道に乗ってしまっている時はまだいいのだが、たとえば第1楽章序奏で金管群が前面に躍り出る瞬間(第18小節など)や、第4楽章序奏でヴァイオリンが弱音でトレモロを開始する個所(第13小節)といったような、沈黙の中から最初に第1歩を踏み出すような個所では、何となく――あたりを見回して、おずおずと歩き始めるような雰囲気が感じられないでもないのである。
こんなところは、指揮者が合わせるとかどうとかいう問題ではなく、オーケストラ自身がアンサンブルをつくって自主的に堂々と始めるようになるべきではないかと思うのだが――いかがだろう。
そういう方が、演奏もずっと生き生きしたものになると思うのだけれど。
最後の金管群のコラール。これはバランスが良かった。ナマで聴いた最近の演奏の中では、出色のものではなかったかと思う。ティンパニも良い。
2009・12・3(木)アダム・フィッシャー指揮
オーストリア・ハンガリー・ハイドン・フィルハーモニー
サントリーホール
ハイドン没後200年の今年。
しかし振り返ってみると、ハイドンの作品を聴く演奏会は決して多くなかった。
その中で最も強く印象に残っているのは、やはりブリュッヘン指揮新日本フィルの「ロンドン・セット」ツィクルスと、先日のミンコフスキ指揮ルーヴル宮音楽隊の演奏会である。そして――今夜のハイドン・プログラムもそれに加わるだろう。
首席指揮者アダム・フィッシャーが指揮するオーストリア・ハンガリー・ハイドン・フィルは、8・6・5・4・2の弦と2管ずつ、打楽器1の38人編成。
モダン楽器のオーケストラだから、ルーヴル宮音楽隊よりもずっと柔らかい音色だ。が、リズムは非常に明晰で鋭く、メリハリも強いので、音楽の緊迫感と躍動感に関しては前者に些かも引けをとらない。
交響曲では「時計」と「ロンドン」を演奏したが、後者ではメヌエットの最後の4小節のホルンとトランペットを割り気味の音色で強奏させたり、第4楽章のフォルツァートを要所で強調してリズムに大きな揺れをつけたり、といった具合に、かなり細かく音楽をつくり、起伏の大きな演奏としていた。
「トランペット協奏曲」では、往年のウィーン・フィルの名手ハンス・ガンシュがソロを吹いた。
懐かしい。独特のウィーン的な、官能美さえ匂わせる音色である。まだ56歳だから、あのくらい吹いても不思議はない。「もうトシだ」という人もいるが、華麗で完璧なテクニックを望むなら全盛期のモーリス・アンドレのディスクでも聴いていればよいのであって、ガンシュを聴く時にはむしろ、あの酸いも甘いも噛み分けた円熟の名匠の味を愉しむべきだろう。
もう1曲は、ヘルムート・シュミーディンガー(1969年生)の「ハイドンに関するメタモルフォーゼ」と題された、3楽章のヴァイオリン協奏曲。「委嘱初演」とクレジットされているが、詳細は定かならず。総じてあまり面白い曲ではないが、テンポの速い両端楽章は良い。小林響のソロも良かった。
ハイドン没後200年の今年。
しかし振り返ってみると、ハイドンの作品を聴く演奏会は決して多くなかった。
その中で最も強く印象に残っているのは、やはりブリュッヘン指揮新日本フィルの「ロンドン・セット」ツィクルスと、先日のミンコフスキ指揮ルーヴル宮音楽隊の演奏会である。そして――今夜のハイドン・プログラムもそれに加わるだろう。
首席指揮者アダム・フィッシャーが指揮するオーストリア・ハンガリー・ハイドン・フィルは、8・6・5・4・2の弦と2管ずつ、打楽器1の38人編成。
モダン楽器のオーケストラだから、ルーヴル宮音楽隊よりもずっと柔らかい音色だ。が、リズムは非常に明晰で鋭く、メリハリも強いので、音楽の緊迫感と躍動感に関しては前者に些かも引けをとらない。
交響曲では「時計」と「ロンドン」を演奏したが、後者ではメヌエットの最後の4小節のホルンとトランペットを割り気味の音色で強奏させたり、第4楽章のフォルツァートを要所で強調してリズムに大きな揺れをつけたり、といった具合に、かなり細かく音楽をつくり、起伏の大きな演奏としていた。
「トランペット協奏曲」では、往年のウィーン・フィルの名手ハンス・ガンシュがソロを吹いた。
懐かしい。独特のウィーン的な、官能美さえ匂わせる音色である。まだ56歳だから、あのくらい吹いても不思議はない。「もうトシだ」という人もいるが、華麗で完璧なテクニックを望むなら全盛期のモーリス・アンドレのディスクでも聴いていればよいのであって、ガンシュを聴く時にはむしろ、あの酸いも甘いも噛み分けた円熟の名匠の味を愉しむべきだろう。
もう1曲は、ヘルムート・シュミーディンガー(1969年生)の「ハイドンに関するメタモルフォーゼ」と題された、3楽章のヴァイオリン協奏曲。「委嘱初演」とクレジットされているが、詳細は定かならず。総じてあまり面白い曲ではないが、テンポの速い両端楽章は良い。小林響のソロも良かった。
2009・12・1(火)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団
ショスタコーヴィチ・プロ
サントリーホール
1曲目は、オペラ「鼻」からの「間奏曲」。
ところが、これが問題。招聘元を通じて届けられた「鼻」第2幕の前奏曲というインフォメーションを基に公演プログラムの解説を書いておいたら、実際に演奏されたのは、何と第1幕の中にある打楽器のみによる「間奏曲」だった。演奏が始まった途端に、仰天して慌てた。こちらの責任ではないけれども、責任が生じたような気がして困った。
もう一つ、3曲目に予定されていた「ムツェンスク郡のマクベス夫人」よりの「間奏曲」は、事前の情報では複数になっていたものの、たくさんある内のどの間奏曲をやるのかマリインスキーにいくら問い合わせても返事がないというので、一応その旨をプログラム解説に書いておいたのだが、これも何と、公演直前になってデニス・マツーエフが弾く「ピアノ協奏曲第1番」に変わってしまった。
大騒ぎして解説を書いた方としてはボヤキの種だが、しかしプログラムは一層華やかになり、マツーエフの超技とともに聴衆が沸きに沸いて、コンサートとしてはむしろ、この方が良かっただろう。良かったけれども、しかしプログラムは長大になり、オーケストラのアンコールなしだったにもかかわらず、終演は9時半を回った。
その他のプログラムは、2曲目に「交響曲第1番」、4曲目に「交響曲第10番」。
いずれも壮烈な演奏で、凝縮した力感ともいうべき音楽が創られた。そして、いずれも弱音の個所、あるいは旋律的な個所での陰翳に富む表情と、強い緊張感にあふれた演奏が印象に残る。
弦楽器の歌は艶があってしなやかだが、90年代のこのオーケストラに比べると、音色はやはり明るくなっている。ゲルギエフとこのオーケストラは、紛れもないロシアの楽団としての強い個性を残しつつも、旧いロシアとは訣別し、インターナショナルな特徴をも備える現代ロシアのオーケストラとしての性格を打ち出しているようだ。何よりゲルギエフ自身、その活動が西欧各地に拡がるにつれて、彼の個性も昔とは大きく変貌して来ているのだろう。
マツーエフは、協奏曲のフィナーレで猛烈高速テンポの演奏を披露して聴衆を沸かせたあと、シチェドリンの「ユモレスク」という小品を弾いた。
人づてに聞くところによると、彼はこの直前に突然ゲルギエフから「お前、いい経験になるからこのコンチェルトを日本で弾いてみろ」と言われ、急遽東京に飛んで来たのだそうな。ゲルギエフの腹の中には、前からそういう計画があったに違いない。いいアイディアが湧くとすぐに予定を変更してそれを実行してしまうのはゲルギエフのお家芸だ。サンクトペテルブルクの「白夜祭」ではそんなことは日常茶飯事で、予定はしばしば突然変更になる。
なお今夜、協奏曲でトランペットを吹いたのはチムール・マルティノフ。このオケの優秀な若手楽員である。
1曲目は、オペラ「鼻」からの「間奏曲」。
ところが、これが問題。招聘元を通じて届けられた「鼻」第2幕の前奏曲というインフォメーションを基に公演プログラムの解説を書いておいたら、実際に演奏されたのは、何と第1幕の中にある打楽器のみによる「間奏曲」だった。演奏が始まった途端に、仰天して慌てた。こちらの責任ではないけれども、責任が生じたような気がして困った。
もう一つ、3曲目に予定されていた「ムツェンスク郡のマクベス夫人」よりの「間奏曲」は、事前の情報では複数になっていたものの、たくさんある内のどの間奏曲をやるのかマリインスキーにいくら問い合わせても返事がないというので、一応その旨をプログラム解説に書いておいたのだが、これも何と、公演直前になってデニス・マツーエフが弾く「ピアノ協奏曲第1番」に変わってしまった。
大騒ぎして解説を書いた方としてはボヤキの種だが、しかしプログラムは一層華やかになり、マツーエフの超技とともに聴衆が沸きに沸いて、コンサートとしてはむしろ、この方が良かっただろう。良かったけれども、しかしプログラムは長大になり、オーケストラのアンコールなしだったにもかかわらず、終演は9時半を回った。
その他のプログラムは、2曲目に「交響曲第1番」、4曲目に「交響曲第10番」。
いずれも壮烈な演奏で、凝縮した力感ともいうべき音楽が創られた。そして、いずれも弱音の個所、あるいは旋律的な個所での陰翳に富む表情と、強い緊張感にあふれた演奏が印象に残る。
弦楽器の歌は艶があってしなやかだが、90年代のこのオーケストラに比べると、音色はやはり明るくなっている。ゲルギエフとこのオーケストラは、紛れもないロシアの楽団としての強い個性を残しつつも、旧いロシアとは訣別し、インターナショナルな特徴をも備える現代ロシアのオーケストラとしての性格を打ち出しているようだ。何よりゲルギエフ自身、その活動が西欧各地に拡がるにつれて、彼の個性も昔とは大きく変貌して来ているのだろう。
マツーエフは、協奏曲のフィナーレで猛烈高速テンポの演奏を披露して聴衆を沸かせたあと、シチェドリンの「ユモレスク」という小品を弾いた。
人づてに聞くところによると、彼はこの直前に突然ゲルギエフから「お前、いい経験になるからこのコンチェルトを日本で弾いてみろ」と言われ、急遽東京に飛んで来たのだそうな。ゲルギエフの腹の中には、前からそういう計画があったに違いない。いいアイディアが湧くとすぐに予定を変更してそれを実行してしまうのはゲルギエフのお家芸だ。サンクトペテルブルクの「白夜祭」ではそんなことは日常茶飯事で、予定はしばしば突然変更になる。
なお今夜、協奏曲でトランペットを吹いたのはチムール・マルティノフ。このオケの優秀な若手楽員である。