2023-12

2010年6月 の記事一覧




2010・6・30(水)デュフォー&ロジェ デュオ・リサイタル

   浜離宮朝日ホール  7時

 フルートのマチュー・デュフォーと、ピアノのパスカル・ロジェ。
 2人ともパリ生まれで、前者はリヨン音楽院、後者はパリ音楽院出身。

 それゆえ前半のフランス音楽プログラム――フォーレの「幻想曲」、デュティユーの「ソナチネ」、ドビュッシーの「シランクス」(フルート・ソロ)と「沈める寺」(ピアノ・ソロ)、プーランクの「フルート・ソナタ」は、文字通り極め付きのレパートリー。

 だが、デュフォーの骨太な、柔らかいけれども剛直さを備えた、しかも深みのある強大な響きのフルートは、それらの作品に強靭な性格をさえ与えてしまう。さすがシカゴ響首席としても活躍する彼の真骨頂である。後半のプログラム、プロコフィエフの「フルート・ソナタ」になると、デュフォーの音はまるでオーケストラ曲でのソロを思わせるようなスケールの大きさを示すにいたる。

 メイン・プロではやはりデュフォーが目立ってしまう結果になっていたが、まあ、ある程度は仕方のないところか。ロジェの方は12月にも来日してショパンとフランス印象派の作品をやるというから、それを楽しみに待とう。

2010・6・25(金)第4回仙台国際音楽コンクール ピアノ部門ファイナル初日
6・26(土)       同           ピアノ部門ファイナル2日目

  仙台市青年文化センター  6時30分(25日)、3時(26日)

 2001年に創設され、2年おきに開催されている仙台国際音楽コンクール。
 今月6日に終了したヴァイオリン部門はスケジュールの関係で聴けなかったので、せめてピアノ部門の本選だけでも、と駆けつけた。
 このコンクールを聴きに行くのはこれが2度目だが、ファイナルの2日間とも客席は一般のお客さんで埋めつくされ、地元からの支持も上々と見えたのは喜ばしい。若いコンテスタントたちが真剣に演奏に挑む姿に惹かれるお客さんも多いのだろう。
 市内のあちこちにもコンクールのポスターが見えるし、地下鉄の駅のBGMにもベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」などクラシック音楽が流れているという雰囲気もすばらしい。こういう雰囲気は、東京では考えられないものだ。

 今年のピアノ部門の応募者は、286名。過去最高だとか。
 そのうち39名が予選に出場して演奏し、セミ・ファイナル(第2次予選)を経て、残った6人が2日間のファイナル(本選)に出場した。
 私はその本選の模様を聴いたわけだが、結果として、初日に演奏した3人が第1位から第3位までを占めたのは、偶然だろうが面白い。

 というのは、この日はオーケストラ(山下一史指揮仙台フィル)が鳴り過ぎるきらいがあって、ピアノ・ソロの音がとかく打ち消され気味になり、「これじゃソリストが可哀相だ」という声がわれわれ取材班の中では多かったからである。
 だが、われわれとほぼ近い位置で聴いていた審査員(野島稔審査委員長らピアニストたち)が、オーケストラの咆哮にもかかわらずソリストの素質を見抜いたとすれば、やはりそれはピアノの音に鋭い耳を持つプロのゆえなのだろう。

 優勝はラフマニノフの「協奏曲第2番」を弾いたヴァディム・ホロデンコ(ウクライナ・23歳)で、自信にあふれて伸び伸びとした、将来何かやってくれそうな予感を抱かせる演奏が評価されたのだろう。
 第2位はプロコフィエフの「3番」を弾いたマリア・マシチェワ(ロシア・27歳)。音はオケに消されることもあったが、演奏には見事な勢いがあった。
 第3位はブラームスの「1番」を弾いたマリアンナ・プルジェヴァルスカヤ(スペイン、ただしロシア系女性・28歳)で、この人の音色は極めて美しい。

 そして同率第3位として、2日目の最後にラフマニノフの「2番」を弾いた佐藤彦大(22歳)が入ったが、演奏のまとまりとバランスの良さでは、6人中、おそらく彼が最上位だったのではなかろうか。だがその優等生的な出来が、逆に3位どまりの結果を招いた理由だったのかもしれない。
 以下、第5位にチャイコフスキーの「1番」を弾いたムン・ジョン(韓国・27歳)、第6位にシューマンの「イ短調」を弾いたクワン・イ(米国・25歳)という順。
 なにか「ロシア系」が「東洋系」を抑えたという感であった。

 表彰式後の記者会見でも述べられたことだが、審査は点数制が採られて決定され、いわゆる議論はほとんど行なわれなかったという。最近のコンクールはほとんどがそういう方式だ、と審査員の一人が述べていた。
 たしかに、プロの奏者が予選の段階から一貫して聴いていれば、コンテスタントの実力など一目瞭然見抜けるに違いないし、ことさら話し合わなくても以心伝心で結果を決めることができるのかもしれない。私はコンクールの実情などに関しては全くの素人だから、そういう説明に対してただ頷くのみだ。
 しかし――全く次元の違う話かもしれないが――私ども評論家が雑誌や新聞で、何か指揮者なり、ソリストなりの「選定」を行う時には、まず投票で選ぶのは事実だけれども、その上に大抵「討論」を加えて、推薦理由を互いにぶつけ合い、議論して練り上げるのが普通であって――。
 いや、それは本当に次元の異なる話なのかもしれない。素人が深入りするのはやめておこう。
 

2010・6・24(木)新国立劇場創作委嘱 池辺晋一郎:「鹿鳴館」初演

  新国立劇場中劇場  6時30分

 三島由紀夫の戯曲を原作に、池辺晋一郎が作曲した新作オペラ。

 力作だということは充分理解できる。
 だが、日本の創作オペラが昔から常に抱えて来た問題――長く引き延ばされて発音される言葉、日本語の抑揚とは全く異なる不自然な音程の跳躍など――は、やはり今回も解決されていない。
 それに、言葉を支えるオーケストラ・パートは、それぞれに応じてその都度多彩な響きを生んでいるのだが、それらが大きくドラマ全体の流れと起伏を構成するという形になっていないので、常に断片的な音楽が延々と続いて行くような印象を与えられる。正直いって、90分におよぶ長さの第1部(続けて演奏される第1・2幕)は、気分的に些かもたれるものであった。

 しかし、ストーリーが緊迫の度を増す第2部(第3・4幕 約70分)になると、音楽もだいぶ変わって来る。
 清原久雄(経種廉彦)と大徳寺顕子(幸田浩子)が愛を語らう場面では極度に甘美(!)な音楽が流れ、また影山伯爵(黒田博)が夫人・朝子(大倉由紀枝)への嫉妬も秘めて進める、政敵の清原永之輔(大島幾雄)への暗殺計画が展開するにしたがい、凶暴な色合いを加えた音楽が連続して流れるようになる。

 それは多分、作曲者の作戦だったのだろう。ワーグナーの「ラインの黄金」と「ヴァルキューレ」との関係のように、第1部を「序」、第2部を「破・急」と看做すべきなのかもしれない。
 第2部ではワルツが織り込まれるが、これはあたかもラヴェルの「ラ・ヴァルス」のように、デフォルメされた、かなりグロテスクな色合いのものである。ここに、作曲者のこの物語に対する考えが具体的に出ているだろう。ただし音楽はすべて、この作曲者らしく、極度に非「前衛」的な性格のものだ。

 沼尻竜典は、東京交響楽団を指揮して、この音楽を、出来得る限り鋭角的に響かせたのではないかという気がする。しかも、第2部冒頭の愛の場面では思い切り甘く――R・シュトラウスばりに――響かせ、その他の部分との対比を創り出したあたり、彼のオペラ指揮もいよいよ巧味を加えているなという感。

 演出は鵜山仁。さすがにこういう現代演劇的なテリトリーになると、先日観た「カルメン」などとは桁違いの切れ味を示す。
 群衆としてのコロスの動かし方にはもう一工夫あってもいいとは思うが、アイディアとしては優れたものだろう。
 特に、百鬼夜行的な虚飾の世界たる「鹿鳴館文化」を描くため、夜会場面では仮面を付けた群集にグロテスクな円舞を展開させた発想は納得が行く。そこにはまるで、かつてクプファーが演出した「さまよえるオランダ人」第3幕の舞踏のような、怪奇な雰囲気が生れていた。登場人物自らが言う「たとえ猿の踊り(=西洋への猿真似)と言われようと、われわれはやらねばならぬ」のイメージにはぴったりだろう。

 歌手陣は、脇役を含めた何人かに過度のヴィブラートが聞かれ、日本語の歌詞に対して著しい違和感を生んだが、主役たちは概して好演であった。
 その中でも、やはり黒田博が抜きん出た貫禄と風格だ。女中頭(永井和子)に迫るあたり、あるいは久雄を威嚇するあたり、あるいは朝子夫人との愛憎の場など、歌唱も演技も、充分に迫力があった。
 なお今回の公演では、Bキャストに与那城敬(影山伯爵)腰越満美(朝子)宮本益光(清原)安井陽子(顕子)ら、私の注目する有望な若手が顔をそろえていた。こちらも聴きたかったのだが、スケジュールが合わず残念。

 カーテンコールの最後に、舞台後方に故・若杉弘氏の遺影が映し出され、作曲者と出演者全員がそれに拍手を贈るという場面があった。
 この委嘱企画が若杉氏によって発案されたこと、この作品が今シーズン最後の上演曲であること、そしてこれが若杉氏の芸術監督としての任期最後のシーズン(健在であればさらに続いたであろう)であること――などを考えれば、それは適切な趣向であったろう。私の世代の人間からすれば、それは思わず目がジンとなるような瞬間だった。
 9時45分終演。


2010・6・21(月)イヴァン・フィッシャー指揮ブダペスト祝祭管弦楽団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 メイン・プログラムはブラームス。

 冒頭の「ハンガリー舞曲」(第7番=イヴァン・フィッシャー管弦楽編曲、第10番=ブラームス管弦楽編曲)の、あまりにユニークな、ロマ(ジプシー)音楽風の演奏に面食らっている間に、ヨーゼフ・レンドヴァイが登場して「ヴァイオリン協奏曲」を弾き始める。

 これがまた実に風変わりな演奏なので、呆気に取られたり、感心したりしながら聴き入った。
 風変わり――といっても、なるほどと思わされたところが多いのであって、つまりハンガリーの演奏家が、ブラームスの音楽の中にあるハンガリーあるいはロマの要素をふつう以上に浮彫りにしてみせた、ということなのである。ドイツ人が演奏するのとは全く異なった容貌のブラームスが立ち現れるのは当然であろう。

 レンドヴァイの奔放な演奏スタイルは、それを情熱的に、見事に語って行く。
 一見突拍子もない演奏に思えるけれども、ブラームスという作曲家が持っているある側面から見れば、決して勝手な作品歪曲でもなんでもないのだ。レンドヴァイがプログラム掲載のインタビュー(中村真人氏による)で語っていることを読めば、彼の演奏には確固たる根拠と信念があることをも理解できるだろう。
 規定概念を覆し、作品から新鮮な側面を引き出してくれるこのような演奏に出会えるから、コンサート通いは面白い。

 後半の「第4交響曲」も、前半の演奏を伏線として入ったかのように、フィッシャーの指揮もきわめてユニークなものだった。
 噴出する激しい感情を、かくも赤裸々に吐露した「第4番」の演奏も珍しいだろう。第4楽章でフルートのソロが消え、「TempoⅠ」に戻ったあとの、終結にかけての音楽の荒々しい殺到は、「人が変わったようなブラームス」とでも表現したらいいか。

 リズムもアクセントも、スコアに指定されているものより遥かに強烈で、刺激的でさえある。
 といって、それは決して野放図にはならないのだ。第1楽章終結で、激情のままに突進し、もはや歯止めが利かなくなるかと思わせながらも、最終のホ短調和音のフェルマータの最後で感情を抑制し、すっと力を抜いて終らせるあたりの芸の細かさたるや、見事なワザであった。

 こういう演奏のトドメとして、イヴァン・フィッシャーとオーケストラは、アンコールではロッシーニの「楽器の助奏を伴う変奏曲ヘ長調」と、バルトークの「ルーマニア民俗舞曲」の中の「ルーマニア風ポルカ」および「急速な踊り」を、実に派手に演奏してみせた。
 前者ではソロ・ヴァイオリン2本のパートを、コンマスの他に第1ヴァイオリン第2プルト外側の奏者と、同第4プルト外側の奏者、それにその時だけ飛び出して来たレンドヴァイ(弾き終わると袖に逃げ込み、聴衆を爆笑させた)にも順番に弾かせるという細かい演出。  
 そしてバルトークは、他の演奏家たちによるものとは全く異なる、激烈なリズムとアクセントをつけた多彩華麗な演奏。

 なおレンドヴァイは、協奏曲のあとでパガニーニの「パイジェッロの『水車屋の娘』の『わが心もはやうつろになりて』による変奏曲」を弾いたが、これも途中で主題が「さくらさくら」に変わるという新趣向の織り込まれた愉快なものであった。

2010・6・20(日)新国立劇場の「カルメン」

   新国立劇場  2時 

 2007年秋にプレミエされた鵜山仁演出のプロダクション。今回初めて観たが――。

 何とも間延びした舞台。マウリツィオ・バルバチーニと東京フィルの、生気のない、暗く重い演奏。
 それに、主役の3人――カースティン・シャヴェス(カルメン)、トルステン・ケルル(ドン・ホセ)、ジョン・ヴェーグナー(エスカミッロ)は、いずれもこれらの役柄には向いていないのではないか? 
 ケルルは、第2幕の最後に激怒した瞬間にだけ、「リエンツィ」で示したあの迫力を垣間見せた。ヴェーグナーは、やはりクルヴェナルなどワーグナー物の渋い役の方が向いている人だ。今日はおそろしく若作りで現われたが、歌の方は、とても粋な闘牛士という雰囲気じゃない。

 あまりに活気のない演出と演奏とにがっくりして、第2幕のあとで失礼してしまった。

2010・6・19(土)エリアフ・インバル指揮東京都響のマーラー「復活」

   サントリーホール  7時

 マーラーの第2交響曲「復活」。二期会合唱団、ノエミ・ナーデルマン(S)、イリス・フェルミリオン(A)との協演で行なわれた3回公演のうちの、今日は最終日。
 弦には引き締まった張りがあり、舞台裏のバンダを含めた金管群のソロも好調、合唱も特に男声のバランスの良さが印象に残った。
 東京都響の渾身の演奏と言うべく、機能的なまとまりの良さという点では、このインバルとのシリーズの中では、おそらく随一だったかもしれない。

 インバルは冒頭から鋭いリズム感で押し、スコアに綿密に指定されたスタッカートやアクセント、ニュアンス豊かなデュナーミクの変化などを遵守しつつ、メリハリのある鋭角的な響きをつくり出し、厳しい表情の音楽を展開させていった。特に低弦、トランペット、ティンパニの歯切れよさは、演奏全体を引き締めていたであろう。
 声楽陣も充実していたが、全曲大詰めの高潮個所では全力を挙げて吹くトランペット群の強力さに、2階正面の席で聴いた範囲では合唱が打ち消され気味の様相を呈してしまったのは惜しい。それはインバルの意図だったのだろうが、少々疑問がないでもない。

 今回は、P席2列目以降に合唱が、最前列に女声ソリスト2人が配置されていた。
 一般の演奏と少し趣きが異なっていたのは、練習番号【32】の個所で、ソプラノ・ソロを最弱音の合唱の中からゆっくりと浮かび上がらせる形でなく、かなり早い段階から際立たせる形を採ったことで、些か座りの悪さを感じさせた。ナーデルマンが勝手にフォルテで歌うわけもなかろうから、それもインバルの意図だったのか。
 名手フェルミリオンは、両手を胸の前に掲げ、あたかもオペラのような身振りで美しく歌っていた。

 総じて言えば、今回の「復活」は、技術的には極めて緻密にバランスよくつくられていたが、その一方、情感を抑制した、クールで冷徹で、厳格な表情を最後まで崩さない演奏でもあった。また、細部は完璧に仕上げられていたものの、全曲を大河の奔流のように押して行く一貫した力がやや希薄だったとも感じられる。
 やはりインバル、昔より淡白な指揮になったか。

2010・6・18(金)スウェーデン放送合唱団

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 ミュンヘン経由で成田に着いたのが午前10時少し前。
 時差ボケも満足に解消できていない時間に聴く演奏会としてはあまりに静謐な雰囲気のものではあったが、彼らがスウェーデン放送響と協演したモーツァルトの「レクィエム」が非常な名演であったと知人からメールで知らされていたので、せめて合唱団だけでも、と駆けつけた次第である。

 男声18人、女声17人のコーラス。指揮は首席指揮者のペーター・ダイクストラ。
 メイン・プログラムは、前半にバーバーの「アニュス・デイ」(例の「弦楽のためのアダージョ」と同じ曲である)とマルタンの「二重合唱のためのミサ曲」、後半にサンドストレームの「主を讃えよ」とプーランクの二重合唱のためのカンタータ「人間の顔」というものだった。

 これはもう、合唱の極致ともいえるものであったろう。1曲目ではソプラノの一部に粗さこそあったものの、2曲目以降でのハーモニーの鮮やかさと美しさ、サンドストレームでのリズム感の快さなども含め、陶酔的な世界に浸ることができた。
 以前に聴いたエリック・エリクソン室内合唱団の音色――私の好みは、どちらかといえばその方にあるのだが――とはやや性格を異にし、澄んだ透明な響きの中にも柔らかい温かさを感じさせるこの合唱団。

 しかし、スウェーデンの声楽(アバも含めてだが!)の、不思議な独特のクリスタルのような響きの魅力は、如何なる国のそれにも換えがたいものがある。

2010・6・16(水)旅行日記最終日  ウィーンの「タンホイザー」プレミエ

  ウィーン国立歌劇場  6時

 ワーグナーの「タンホイザー」、今シーズン注目の新プロダクションのプレミエ。
 クラウス・グートが演出、ウィーン国立歌劇場の次期音楽総監督フランツ・ウェルザー=メストが指揮。

 第1幕後半がホテル・オリエント、第2幕がウィーン国立歌劇場の上階ホワイエ、第3幕が精神病院――という場面設定だとの噂は少し前から聞いていた。その段階で、もう演出内容も見当がつこうというものである。

 タンホイザー(ヨハン・ボータ)は、既に早い時期から精神錯乱に陥っており、彼の妄想の中では、清純な少女エリーザベト(アニア・カンペ)と官能の女性ヴェーヌス(ミヒャエラ・シュスター)が瞬時に入れ替わったり(歌合戦の場)、同時に彼の前に現われていたり(ヴェヌスブルクの場)という具合に、愛する女性2人の存在が終始交錯し、錯綜する。
 タンホイザー自身も、自己の規範や意思とは異なる行動を取る己の分身(ヴェヌスブルクの場面)を目の当たりに見て混乱、やがてそれと一体になる。

 ヘルマン(アイン・アンガー)やヴォルフラム(クリスティアン・ゲアハーアー)ら彼の同僚たちは、第1幕ではホテル・オリエントで女たちと遊びに耽る「普通の男たち」であるにもかかわらず、歌合戦の場では突如、黒服を纏った中世の僧侶たちのような「倫理集団」に変身し、タンホイザーを非難し威嚇する――この場面はすべて情熱と倫理との板挟みの状態にあるタンホイザーの抑圧された心から生まれた幻想だが、周囲から迫り来る黒衣の人物たちが与える不気味な圧迫感は凄まじい。

 第3幕では――ここが最も巧く読み替えられた部分だが――タンホイザーは既に精神病院の患者となっており、その介護に疲れ絶望したエリーザベトは「祈り」のあと、睡眠剤を大量に服用して自殺する。ヴォルフラムの「夕星の歌」は、彼女を悼む挽歌である。
 目覚めたタンホイザーはベッドから起き上がり「ローマ語り」を歌い、彼の狂気はいよいよ激しくなるように見える。だが、彼を必死に気遣う親友ヴォルフラムの「エリーザベト!」の一言が、彼を救い、正気に戻らせた。俺はこんな所にさっきまで寝ていたのか――と、タンホイザーは自分のベッドを見る。人々がエリーザベトの亡骸に花を捧げる合唱のさなか、タンホイザーは贖罪の死に至る。
 ――この場面には解釈の曖昧な要素もあり、特にヴォルフラムが病棟のベッドに入ってしまうところなど、親友タンホイザーに替って狂気に陥り始める彼を示すようにも見える。
 とにかくこの幕では、あの「巡礼の合唱」が、医師や看護婦に付き添われつつ散歩から帰ってきた入院患者たちによって歌われるくらいなのだ。

 こういう読み替え場面は、文章にすると狂気の沙汰に思えるが、実際の舞台を観ていると、きわめて自然に見えるものなのである。「巡礼の合唱」のあとにエリーザベトが「彼は帰って来ない・・・・」と絶望する歌詞なども、「彼の精神」そのものが既に遠い所へ行ってしまったのを意味していることが、実に自然に感じられるのだ。
 このグートの演出は、かなりよく考えられているのは事実だろう。ただ、ハンブルクの「指環」と同様、彼の舞台は、たいてい何かこう、地味で、湧き上がるような個性とか迫力に乏しい傾向があるような気がするのだ。折角の綿密な演出にもかかわらず、「やってくれたわ」というパンチに欠けるきらいがあるのが惜しいところである。

 一方、演奏の方は功罪半々というところだ。
 ウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏は、さすがにプレミエとなると昨夜のルーティン公演とはえらい違いで、重厚で緻密で轟くような響きを繰り広げていた。ティンパニがトロかったり、木管が1小節早く入るなどということもあったけれど、全体を傷つけるようなものでもない。
 ウェルザー=メストは例の如く情感のあまりない音楽づくりで、しかも例のごとく立ち上がりが悪いが、ここぞという個所では猛烈な勢いで盛り上げるという「持って行き方」の巧さがある。序曲のコーダや、全曲の大詰め個所など、あるいは第3幕でタンホイザーの狂気が高まって行く個所などでのドラマティックな迫力は特筆すべきものがあった。

 だが――これは必ずしも彼だけの責任ではないのだろうが――第2幕後半での、大カットはいただけない。あのピウ・モッソからの素晴しいアンサンブル120小節近くをバッサリとカットし、一気にピウ・モトへ飛んでしまった演奏には、またもやこのテかと頭に血が上り、拍手をする気も起こらなくなったほどである(以前、新国立劇場のプロダクションが「ウィーン版」と称して行なった時と似たカットだ)。
 先日観たラトル指揮の「トリスタンとイゾルデ」第2幕でも、いまどきこんな、と思わせるカットを行なっていたっけ。こういうところに、この名門歌劇場の旧い体質が未だに残っているのかもしれない。
 そのくせ、第2幕最初のエリーザベトとタンホイザーの二重唱は、ヴォルフラムの短い独白も含めてノーカットで演奏していたのだから、いくらスコアに複雑な問題が残っているこの作品とはいえ、コンセプトがチグハグではなかろうか。

 良かったのは、歌手陣であった。
 とりわけ、この日がウィーン国立歌劇場へのデビューだというゲアハーアー(この表記が一番モトに近いというアチラ在住の識者の意見だ)の巧さ。
 私は、オペラでの彼を観たのは初めてだ。第1幕では少々力み返っていた雰囲気もあったが、第3幕ではあのフィッシャーディースカウばりの、非常にニュアンスの細かい、心理表現に富んだ、しかも朗々たるダイナミックな発声でヴォルフラムの複雑な性格を描き出した。しかも、演技も意外に上手い(失礼)のである。
 リート歌手として既に名を為しているゲアハーアーだが、オペラにも素晴しい力を発揮する人であることがここでも証明されているだろう。彼への拍手とブラヴォーは、劇場をゆるがせるほど盛んだった。

 もう一人、アニア・カンペも(意外にも)この日が同歌劇場デビューだったという。こちらはエリーザベトとして、初日はまず無難な出来というところか。客席の拍手の反応も、まあそのへんのところ。ヴェーヌスを歌ったミヒャエラ・シュスターの方にやや拍手が多く集まったが、今回はエリーザベトとヴェーヌスは役柄からして瓜二つの姿にしてあるから、ちょっと混同したお客さんもいるかもしれない。

 題名役のヨハン・ボータは、例の巨躯と大音声を駆使して活躍。彼のこの役は、歌唱のスケールも大きく、予想していたよりも遥かに良かったと思う。もう少し演技が上手ければいいのだが、この難しい役を完璧にこなす人はなかなかいないだろう。
 「ヴェヌスブルクの場」では彼の影武者が登場するが、よくもまあそっくりの体型と風貌の男を選んだものである。しかし、「鏡の中の自分」のような形で互いに芝居をするからには、もう少し動きのタイミングをぴったり合わせるようにしたら如何なものか。その昔のドリフターズの鏡のギャグのビデオでも見せてやりたいくらいだ。

 最後のカーテンコールで登場したクラウス・グートら演出スタッフには、主として立見席から、適当量(?)のブーイングが飛んだ。してやったりの表情で、ニヤリと笑うグート。

 10時15分終演。これで今回の日程すべてを終了。明日、帰国の途に着く。

2010・6・15(火)旅行日記第10日 R・シュトラウス「カプリッチョ」

  ウィーン国立歌劇場  7時30分

 「言葉が第一か、音楽が第一か」という昔からのオペラ論議と、美人の伯爵令嬢をめぐっての詩人と作曲家との争いを重ね合わせたオペラ。

 昨秋、日生劇場で上演されたジョエル・ローウェルスによる第2次世界大戦中のパリに舞台を設定された読み替え演出を、私はいたく気に入っているのだが、2008年にプレミエされたこのマルコ・アルトゥーロ・マレッリ演出・装置・照明によるプロダクションではもちろんそのようなことはせず、きわめて優雅典麗な舞台に仕立て上げた。

 舞台美術は、大きな窓のある多数のパネルをさまざまに回転させ移動させ、時にはセリも使って部屋の光景を変えて行く手法で、その窓にきらきらと反射する灯りが目映く美しい。登場人物たちもクラシックな衣装で、演技も含めてト書に忠実な舞台づくりである。まさにこれは、「オリジナルの良さ」なるものを再現したものと言えるだろう。
 ただし、それは充分に壮麗であることはいうまでもないが、全曲休憩なし2時間半を統一する光景としては、些か単調に感じられることは否めまい。

 オペラの冒頭は、上手側と下手側にそれぞれ作曲家フラマン(ミヒャエル・シャーデ)と詩人オリヴィエ(アドリアン・エレート)が小机の前に座り、著作に耽っている光景で始まる。
 そして全曲幕切れでも、伯爵令嬢マドレーヌ(ルネ・フレミング)が退場したあと、前述の2人が同じ位置に戻って座り、降りた紗幕の向うでまずフラマンが、次いでオリヴィエが電気スタンドの灯りを消す、という段取りになる。
 ここで、短い和音に合わせてフラマンが灯りを消したのはいいが、オリヴィエは、最後の和音よりちょっと早く消した。わざとずらせたのかもしれないけれども、やはり最後の音にタイミングを合わせて消した方が、実にしゃれたエンディングになっただろうに――などと、異邦人は妙なことにこだわる。

 このライバル・コンビ、シャーデはなかなかエネルギッシュに舞台を飛び回ったが、エレートの方は、今日は不思議に冴えない。バイロイトのベックメッサーで魅せた同じエレートとは別人のごとき演技であった。

 さて、伯爵令嬢はおなじみ、METの名花ルネ・フレミングだが、――これがどうも違和感を抑えきれない。
 強くて細かいヴィブラートを利かせ、強弱やニュアンスに変化を付け過ぎる彼女独特の歌い方が、他の歌手たちと比較して声がまっすぐこちらに響いて来ない、という結果を生んでしまうのだ。往年のシュワルツコップもそういう歌い方をすることがあったが、彼女の場合には発音も発声も遥かに明晰だった。
 それに、フレミングの場合、高音域にかなり無理が出て来ているのではないか? 最後のモノローグでは、それが目立って感じられた(その代わり、瞬時だが聞かせた低音域は魅力的だった)。
 せっかくのヒロインのはずが、むしろクレーロンを歌ったアンゲリカ・キルヒシュラーガーの、さり気ない中にもパンチの利いた歌唱と演技にすっかり食われてしまったと言って過言ではあるまい。しかし、フレミングには熱狂的なファンがいるらしく、拍手と歓声は圧倒的なものがあった。

 歌手陣では他に、伯爵にモルテン・フランク・ラルセン、ラ・ローシュにヴォルフガング・バンクルら。

 指揮は、最近好調のペーター・シュナイダー――だったが、この人はやはりウィーンよりもドレスデンでの方が相性がいいのだろうか? 
 ウィーン国立歌劇場のオーケストラが奏でるR・シュトラウスの音楽なら――特に「弦楽六重奏」の個所なら、「月光の音楽」なら――と夢見たのがいけなかったか。何ともガザガサとして殺風景で、ルーティン上演での演奏丸出しという水準で、甘い期待は打ち砕かれた。
 此処のオーケストラのルーティン公演でいい演奏に出会ったためしがない。日本に来た時の方が、よほど見事な演奏をする。

 今夜の席は、16列という後ろから3列目の場所。このあたりは席の位置に傾斜があるので、前の大男に視角を邪魔される心配が少ない。
 だが斜め前に、猛烈にうるさい咳を繰り返す、見るからに成金的な肥ったオヤジがいた。独墺の会場では、そういうのに対して露骨に顰蹙するお客があまりいないようで、野放図な「咳男」や「咳女」がえらく多いのである。
 すると私の隣の中年カップルが、うしろからアメを差し出した。咳オヤジは手を振ってそれを謝絶したが、何とそれ以降は咳を全然しなくなったどころか、時に自分のポケットからアメらしきものを取り出し、音もさせずに紙を剥いて口に入れるのであった――。

 シッと制止したり、舌打ちする代わりに、アメを提供してそれとなくたしなめる、というのも、なかなか洒落た方法だ。今度日本でやって見ようかしらん。
 だが基本的には、演奏会場のマナーの点では、ヨーロッパより日本の方が、遥かに上である。これは間違いない。

 終演は、予告されていた時間を大幅に過ぎて、10時。
 これで今回の旅行日程も、明夜の「タンホイザー」プレミエを残すのみ。

2010・6・14(月)旅行日記第9日 ウィーン祝祭週間の「ルル」

  アン・デア・ウィーン劇場  7時


 ケルン空港からほぼ1時間半、昼少し過ぎにウィーンに着く。

 「ウィーン祝祭週間」の一つ、アン・デア・ウィーン劇場での「ルル」(アルバン・ベルク)は、ダニエレ・ガッティの指揮、ペーター・シュタインの演出。3回の上演のうち、今夜が2回目。2009年4月にリヨン・オペラでプレミエされた3幕版によるプロダクションを持って来たものだ。

 6列目9番という、ど真ん中の席ではあったが、前に座った男がやたら大きな奴だったため、舞台の3分の1、それも中央部分が見えないという悲惨な状況。平土間前方の席というのは、こういうことがよくあるから嫌いだ。
 第2幕からはこちらも開き直り、後ろの席の客に遠慮しながらも姿勢を少し高くしてみたが、さっぱりうまく行かぬ。最前列に座っていた知人の話によれば、舞台美術(フェルディナンド・ヴェーゲンバウアー)や衣装に日本の影響がいくつかあったそうだが、そんなものは見えればこそ。ルルがある場面でキモノを羽織っていたのが判ったくらいなものである。

 垣間見えた(?)範囲での舞台の印象を記せば、ペーター・シュタインの演出はすこぶるオーソドックスなもので、全体の解釈も個々の演技も、常識的なテリトリーから踏み出さない。これまで観て来た様々な「ルル」に比べ、何か新しい視点を提供してくれるといったものでもない(負け惜しみで言っているのではない)。
 極端に言えば、40年ほど前にこのオペラを初めて見たベルリン・ドイツオペラのルドルフ・ゼルナーの演出(あれは2幕版だったが)と大して変っていないと感じたくらいだ。

 その意味では、あまりややこしいことを考えず、寛いで観ていられるたぐいのものであろう。
 ただ、シェーン博士(つまり切り裂きジャックを兼ねる)役のスティーヴン・ウェストをはじめとして、歌手がしばしば客席を向いたまま歌うという類型的な仕種が多かったことだけは、いまどきどうかと思う。まさか、幕開きの口上を、本編の中でも応用しているとも考えられないし。
 総体的には、きっちりとは出来てはいるが、あまりノリのない、燃えない舞台という印象だ。先月見たリヨンの「チャイコフスキー3連発」の方がまだ良かったのでは、という気がする。

 ダニエレ・ガッティの指揮が聴きものだった。
 マーラー・チェンバー・オーケストラを思い切り鳴らし、歌手の声を消し気味だったのには多少問題もあろうが、まあこれだけ豊満な音色とカンタービレとを効かせた「ルル」の演奏も、珍しいだろう。
 あの何度となく繰り返されるルルのおなじみのモティーフも、実に「美しく、詠嘆的に、甘く、切なく」響いて、このオペラの情感的な要素――普通は滅多に出て来ない――を浮かび上がらせる。ガッティ流「ルル」というべきか。こういうアプローチも非常に興味深い。
 それにしても彼、バイロイトの「パルジファル」でもそうだったが、このところドイツ・オペラの領域にも己の個性を些かの躊躇もなく押し出して勝負するという姿勢にあるようで、ますます面白くなった。

 題名役のルルを歌い演じたのは、ローラ・アイキンである。シェーファーやプティボンのルルに比べると少々肉付きがよすぎるけれども、別にジュネーヴのオリヴィエ・ピイ(今年1月)演出のようにヘア・ヌードになるわけでもないから、まあよかろう。声には些か無理が感じられなくもないが、ガッティの大音量攻勢に対抗するには致し方ないだろう。
 その他、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢にナターシャ・ペトリンスキー、アルヴァにトーマス・ピフカ、シゴルヒ老人にフランツ・マズーラらが出ていた。

 最後の場面は、台本のト書通り、屋根裏部屋である。切り裂きジャックに殺害されたルルが上手側のドアから血塗れの上半身を覗かせて倒れ、同じく刺されたゲシュヴィッツが彼女に手を差し延べつつにじり寄り、オーケストラの音が残る間に、静かに幕が降りて来る。
 音が静かに消えた瞬間、上手バルコンから、音楽は此処でもう終ったんだぞ、みんな知らんのか、と言わんばかりに手を叩き始め、他の観客が悲劇的な終結を受け止めている間にもしつこく叩き続けていた奴が一人いた。悪質なフラインガー(?)はどこにもいるものだ。
 ちょうど11時に終演。


2010・6・13(日)旅行日記第8日 ケルンの「神々の黄昏」

 ケルン歌劇場  5時

 ライン河畔に権勢を張るギービヒ家の場面が、かつてヴォータンが君臨したヴァルハルの居間と同じ造り(模倣?)というアイディアには驚いたり、感心したり。
 赤色に白の横線の入った国旗もあり、国旗のポールが槍の役目をも果たす。一族の長グンターは勲章付の軍服を着用した司令官であり、私服のハーゲンは陰の実力者といった雰囲気を見せる。

 ラストシーンでは、この広間のあちこちに火炎が拡がり、それはゆっくりと舞台奥に遠ざかって行き(洪水もラインの女たちも出て来ない)、最後には舞台上からはあらゆるものが消滅するという展開になる。
 おそらくこの物語の中で最初と全く変らないのは、ゴミが散乱し続けるライン河畔(河は見えない)だけだろう。ラインの女たちは、物語冒頭と同じ、ホームレスのような姿のままである。もっともその光景の中で、ジークフリー トが子供の時に遊んだ玩具や揺篭がわりのボロ浴槽が棄ててあり、彼が一寸その中に入って見る、というシャレもあるのだが。

 演技の方は、もう少し論理的に作られている。第2幕でのハーゲン(マッティ・サルミネン)、グンター(アレクサンデル・マルコ=ブールメスター)、ブリュンヒルデ(エヴェリン・ヘルリツィウス)、ジークフリート(シュテファン・フィンケ)の、火花の散るような応酬の裡に複雑な心理の綾が描き出されるあたりは、なかなか細かい演出だった。

 もう一つ興味深かった新解釈は、ハーゲンに対するギビフング一族の反感が打ち出された点である。当主グンターを殺したハーゲンはただちに兵士たちに捕えられ、暴れながら室外に連れ出されてしまう――したがって彼の最後の言葉「指環に近づくな!」は、すでに闘争の局外者となった男が彼方で空しく放つ絶叫、という意味合いを持つことになる。ここは私が観たこれまでの演出の中では、最も論理的な解釈ではないかという気がする。
 カーセン演出、ケレンにあまりカネをかけられない部分を、精一杯アイディアで補った舞台といえようか。

 歌手陣は、他にオリヴァー・ツヴァルク(アルベリヒ)、アストリッド・ヴェーバー(グートルーネ)、ダリア・シェヒター(ヴァルトラウテ)ら。大部分は、シュテンツが轟々と響かせるオーケストラに声が霞みがち。
 フィンケは声こそ充分だが、表現に幅がなく単調になる傾向があるのが問題だ。ただし独特の発声が気に入らぬと文句を言うのはどうやら私だけらしく、客席は万雷の拍手とブラヴォーである。
 ヘルリツィウスも時々音程が不安定になるのは「ヴァルキューレ」の時と同様だが、しかしよく最後まで声を保たせた。「ブリュンヒルデの自己犠牲」の後半では一度幕が下ろされ、彼女が幕の前で歌うという演出が採られていて、これは歌手の声の疲れを良い形でカバーするという利点もある手法だろう。
 大ベテランのサルミネンは流石に少し年齢を感じさせるようになったが、やはり風貌にも声にも凄みがあり、千両役者であることには変わりない。

 マルクス・シュテンツの指揮は、これまでは殺風景以外の何物でもないなどと毛嫌いしていたのだけれど、今回「ニーベルングの指環」を通して聴いて、彼のワーグナー・アプローチもそれほど悪くないな、という印象に変って来た。
 いわゆる情感のうねりのない、禁欲的で素っ気ない演奏ではあるが、彼がオーケストラから引き出す音は明晰で、ワーグナーの響きを「夜と霧」的なものにせず、入り組むモティーフ群を冷徹に浮かび上がらせるという特徴を感じさせるのもたしかである。重厚さは皆無で、白色の光を浴びた現代建築のようなイメージを持つ音色のワーグナー、というところだろうか。

 彼が採るテンポは、遅い個所では極端に遅いが、速い所では相当速い。「ヴァルトラウテの物語」などエッティンガーなみの遅さだが、「ジークフリートのラインへの旅」などは嵐のように速い。
 しかしよく聴いてみると、ワーグナーの音楽上の劇的構成――昂揚と沈静の大きな周期での交替、それに呼応するテンポの「緩・急・緩」の交替という構成を、シュテンツもよく認識し、それなりに演奏を纏めていることが解る。

 序幕でジークフリートとブリュンヒルデが二重唱の最後の高音を朗々と引き延ばす(ここは2人とも良かった)瞬間に管弦楽が怒涛の如くクレッシェンドし、轟然と「ジークフリートのラインへの旅」に突入するあたりの呼吸などは、今回のシュテンツの指揮、すこぶる見事なものがあった。
 この長大な「神々の黄昏」を、決して長く感じさせなかったのは、これらの特徴を備えたシュテンツの指揮のためでもあろう、という認識に私も立ち至った次第である。それに加え、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の力量が何よりすばらしかった。

 10時25分演奏終了。ツィクルスの最後とあって、カーテンコールもそのあと15分近くに及んでいた。
 これで、ケルンでの全日程を完了。明日は再びウィーンに移る。

2010・6・12(土)旅行日記第7日 WDR響(ケルン放響)演奏会
首席指揮者ビシュコフ最後の定期

    ケルン・フィルハーモニー  8時

 ケルンの「ニーベルングの指環」の、中休み第2日。それを利用して、今日はケルン放送響のコンサートを聴きに行く。

 ケルン大聖堂とほとんど隣接する位置にあるケルン・フィルハーモニーは、大鉄傘の下に盛り上がるアルプス・スタンド(?)といった雰囲気の階段状客席をもつ、巨大だが美しく清潔なホールだ。
今回はDブロック13列という、ずっと下手側寄りの中段の位置の席だったが、かなり偏った場所にもかかわらず、音は良く響いて聞こえ、なかなかよろしい。

 おなじみのケルン放送交響楽団(これは日本での呼び名で、現地での現在の名称はWDR交響楽団・ケルン)の定期演奏会。1997年より首席指揮者のポストに在ったセミョン・ビシュコフは、今日の演奏会でその任期を終る。
 プログラムは、「トリスタンとイゾルデ」第2幕(演奏会形式)をメインに、シェーンベルクの「浄夜」(30分)、ガンサー・シュラーの「Where The Word Ends」(約27分)という長大なもので、終演は11時になった。

 少なくともこのホールの、この位置の席で今日の演奏を聴く限り、ビシュコフとWDR響がつくる音楽は、サントリーホールで聴くよりもずっと豊麗で剛直な印象である。上手側に並ぶコントラバスの正面にこちらの席がある(首席奏者・河原さんの顔も正面に見えた)せいか、低音部が力強く、オーケストラ全体を支えているように聞こえる。

 弦のみによる「浄夜」は、大きめの編成にもかかわらず、各声部の動きが明晰に交錯し、オリジナルの弦楽6重奏のイメージを蘇らせていた。
 たっぷりとした響きが広がる快さのわりに、何故かいわゆる陶酔的な味は感じられなかったが、このあたりが昔からのビシュコフの癖だろう。このホールの潤いのあるアコースティックなかりせば、もしかしたら乾いた「浄夜」に聞こえたかも――というのは意地の悪い見方か。

 シュラー(1925年ニューヨーク生れ)の作品は、非常に大きな編成を持つ豪壮な曲だ。昔の彼の「第3の流れ」からは既に離れ、完璧な「クラシック路線」の中に在るともいえる大規模な曲である。ボストン響125周年記念として2005年に作曲されたもので、これが欧州初演とかいう話だ。オーケストラに近いこの席からは、入り組んだ管弦楽のそれぞれの楽器群の動きが手に取るように聞き取れ、大いに愉しめた。作曲者自身も元気に顔を見せ、舞台に呼ばれて拍手を浴びていた。

 休憩後の「トリスタンとイゾルデ」第2幕では、オーケストラの響きはそれまでの2曲とは打って変わり、良い意味で飽和された豊麗なものとなった。
 ビシュコフの指揮も、彼がつい最近東京でパリ・オペラ座のオーケストラを指揮した演奏と、ほぼ同じイメージである。幕切れ近くの陰鬱な絶望感を描く部分の演奏にはこの指揮者らしい淡彩さもあるが、二重唱の沈潜した個所などではデュナーミクも丁寧につくられており、全体としては私は気に入った。
 席の位置の関係で、歌手の声を正面から聞けなかったので、今日は専ら「トリスタン」のカラオケ(?)――ワーグナーのオーケストラの幻想的な美しさの醍醐味を余す所なく堪能させてもらった次第である。

 なお歌手陣は、クリフトン・フォービス(トリスタン)、ヴィオレータ・ウルマナ(イゾルデ)、ペトラ・ラング(ブランゲーネ)、フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ(マルケ王)、サムエル・ユン(クルヴェナルとメーロトの2役)という錚々たる顔ぶれ。

 「遠くから聞こえるように」響くべき「ブランゲーネの警告」では、ラングがわれわれの席のすぐうしろで歌った。
 演奏会形式ではよくこのように客席のどこかで歌う方法が使われるが、いくら指揮者のいるステージからは「遠く」ても、客の方からすれば「すぐ近く」なのだ。夢の中から聞こえるような「警告」が近距離の大音声で歌われては、傍にいる客は、少なくともその瞬間は演奏に没入できない。そもそも演奏は誰に聞かせるために行なうものであるか、指揮者やプロデューサーは考え直すべきであろう。

2010・6・11(金)旅行日記第6日 ケルンの「ジークフリート」

   ケルン歌劇場  5時

 1日おいて、再びケルン・オペラの「指環」に戻る。
 が、その間に別の舞台と演奏のプロダクションが混入していたので、印象が錯綜して混乱して困った。
 とにかくあのクナーベ演出「ラインの黄金」があまりに賑やかな舞台だったし、ショルテスの指揮も豪壮華麗だったので、こちらケルンの上演は、何となく地味に感じられてしまう。

 「ジークフリート」第1幕は、オリジナルのト書どおりに、森の中のミーメの鍛冶工場。廃車になったキャンピングカーが寝場所になっているのが可笑しい。剣ノートゥングも、ちゃんとト書通り鍛冶で鍛えられる。
 第2幕も森の中。大蛇ファーフナーは、空中から下がって来た巨大なクレーンが開いたような口を以てジークフリートを威嚇する。だが、その怪物に対するジークフリートの戦いぶりは、何ともいい加減な演技だ。

 第3幕冒頭は、「ヴァルキューレ」第2幕冒頭と同じヴォータンの居間に設定されているのが面白い。当然ここは、ヴァルハル城の一室ということになるだろう。あの豪華な部屋は既に荒廃し、家具も白布に覆われ積み重ねられているのは、物語として当を得ている。エルダがヴォータンを愛しく想っている様子が描かれるのも珍しく、モップでリンゴの散らかった床を掃除しかけるのが一種のシャレか。
 とはいえ、ジークフリートがここを通りかかるというのは、どう見ても理屈に合わぬ。

 第3幕後半は、もちろん「ヴァルキューレ」第3幕に同じ。ヴァルハルに行けぬため放置されていた戦死者の遺体は、年月の経ったことを示して今は形も残らず、ただヘルメットや機銃の残骸が転がっている。が、ブリュンヒルデだけは変らず、美しい姿のまま眠っていた――。
 カーセン演出、この「ジークフリート」では、特に新味や、際立った個所はない。やはり8年前の演出だな、という感。

 マルクス・シュテンツの指揮は、今日は比較的ゆっくりしたテンポだ。オケの音は良いが、弱音個所で緊張感がやや落ちるのが問題か。もっとも、歌手陣が良いので、全体としては弛緩するほどではない。
 ただ、この指揮者、オーケストラの音の波の上に声を巧く浮き立たせる――というテクニックを、もう少し学んで欲しいものだと思う。

 ミーメのゲルハルト・ジーゲルがさすがに巧みで表情豊かだ。ヴォータンのグリア・グリムズリーも手堅い。
 ところが、ジークフリートがまたしても例のシュテファン・フィンケさまであって――。元気はいいが、だんだんと単調さを露呈して来るフィンケの歌は、この長い長いオペラに出ずっぱりのジークフリート役としては、どうも苦しいものがある。
 もっともブリュンヒルデのエヴェリン・ヘルリツィウスだって、妙にヴィブラートの強い、絶叫気味の歌いぶりなのが気になったが。
 そのほか、アルベリヒにオリヴァー・ツヴァルク、ファーフナーにアンテ・イェルニカ、エルダにヒルケ・アンデルセン、森の小鳥にアンナ・パリミナ。

 カーテンコールは例のごとく物凄い盛り上がりだが、指揮者と、フィンケをはじめ男声歌手陣と、ヘルリツィウスには大ブラヴォーが飛んだのに対し、エルダと小鳥には一つも声がかからないのは気の毒。お客も正直というか、なんというか。
 10時20分頃終演。

2010・6・10(木)旅行日記第5日 エッセンの「指環」~「ラインの黄金」

 エッセン・アールト音楽劇場  7時30分

 ケルンの「指環」の中休みを利用して、エッセン・オペラの「指環」の一つ、「ラインの黄金」を観に行く。ここの「指環」もいま制作が進行中。かなり話題を呼んでいるプロダクションの由。

 エッセンはケルンからICEで、デュッセルドルフとデュイスブルクを経てほぼ1時間の距離にある――日本に置き換えれば東京と静岡の歌劇場でそれぞれの「指環」を上演している理屈になるわけで、つくづくドイツのオペラの底力の凄さを感じさせる(この2都市の中間にはライン・ドイツオペラもあるし)。

 エッセン・アールト・ムジークテアターは、評判どおりの美しい、清潔な雰囲気の歌劇場だ。エッセン駅近くの公園の一角にあり、広大なホワイエを持つが、客席数そのものはあまり多くなく、このあたりが欧州の歌劇場のコンセプトを物語るだろう。
 今回は5列27番という、前方ほぼ中央の席に座ったが、椅子の良さと広さ、客席の傾斜が大きいことによる舞台の観易さ、音響効果の良さなど、観客の立場から見てもずば抜けたオペラハウスに感じられる。

 「ラインの黄金」は、2008年秋にプレミエされたプロダクション。
 指揮はこの劇場のインテンダントと音楽総監督を兼ねるシュテファン・ショルテス(ハンガリー生れ)。オーケストラはエッセン・フィル。
 ショルテスの指揮は、幕開きから凄まじく速いテンポだ。演奏時間も2時間15分、これは私がこれまで聴いた「ラインの黄金」の中では、空前の最速記録である。
 しかしエッセン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏が立派だし(トランペットだけは少々危なかったが)、ピットの響きと声楽の響きとが驚異的に良いこともあって、音楽は決して単調にならず、瑞々しさも失われていない。むしろ凝縮された痛快な演奏と言うべきか。

 演出はティルマン・クナーベで、やたら騒々しく目まぐるしいが、やたら面白い。
 ユニークな特徴は、第一に、「ラインの黄金」における4つの世界がすべて舞台に設定され――
   神々の贅沢な居間(舞台下手側上層部)、
   巨人族の貧しい住処(上手側上層)、
   ラインの女たちの売春宿(下手側1階)、
   ニーベルング族の貧民窟(上手側1階・半地下)
しかも、それぞれの状況が最初から最後まで、同時進行で描かれることだ。従って、オリジナルの台本で描かれている場面と並行して、「これまで誰も知らなかった話」が、舞台のいろいろな場所で語られるのである。
 たとえばヴォータンとローゲがアルベリヒと応酬している間、巨人族に拉致された女神フライアがどんな目に遭っていたか――は、上手の上の方を見ていれば判明するわけ。

 とりわけ面白いのは、「その後のアルベリヒ」だ。神々に指環と全財産を強奪され、手に重傷を負ったアルベリヒが、尾羽打ち枯らした姿で貧民窟のニーベルハイムに帰り着き、弟ミーメからも嘲笑され虐待され、失意のどん底の日々を送る――という光景が、メインの場面とは別の場所で繰り広げられるのである。傑作中の傑作であろう。
 音楽に耳を固定して、目をあちこち動かすことに慣れていれば、こんな面白い舞台も無かろう。アルフレッド・ペーターの凝りに凝った装置も秀逸だ。

 ユニークな発想の第二は、登場キャラクターの相関図に新解釈を加え、徹底してあざとく描き出したこと。
 エルダと、ヴォータンの生真面目な正妻フリッカ以外は、すべてなんらかの知己関係にあることが、物語冒頭から舞台上で描かれる。ヴォータンは「ラインの女たち」(いわゆるラインの乙女)の誰かとのべつセックスをしている(本当にヴァルキューレの誰か一人くらいは彼女たちの間に出来た子供ではないか、と思わせるほどだ)。
 ラインの女たちも、「娼婦」として全篇にわたり、アルベリヒやらローゲやら、誰彼となく男を引き込んでいる。
 だがこれらはすべて、後にフリッカがヴォータンを非難して言う「あなたは夜となく昼となくうろつきまわっていかがわしいことを」の歌詞や、「あのラインの娘たちは何人もの男を引きずりこんで誘惑して」の歌詞を思えば、決して勝手な読み替えでないことが納得行くだろう。

 しかし、ややこしい突飛な解釈も数多い。ファーゾルトは最初の方で、柄の悪い神々のドンナーとフローに暴行を受け頭に重傷を負い、フライアに助けられて治療を受ける。これがのちのファーゾルトとフライアとの関係の伏線になるわけだ。
 ただしそのドンナーとフローが手のつけられない無頼者で、幕開きから上手側隅でしつこくホモ・セックスとSMプレイに耽っている設定だけは、必然性があるとは思えず、甚だ目障りで不快である。とはいえこのホモ2人が、後にローゲが「女の愛こそがこの世で一番」と語る傍らで馬鹿笑いし、フリッカにたしなめられるくだりなど、読み替えでも論理的には辻褄も合っている。

 演奏がしっかりしているので、こういう騒々しさも、むしろ上演を引き立てる。とはいえ、アルベリヒを捕えたヴォータン一族が、国連旗と星条旗とを並べて裁判の体裁をつくる場面は、笑えるけれども、相当なイヤミだろう。よくもまあ、いろんなことを思いつくものである。

 ヴォータンのアルマス・スピルパ、ローゲのライナー・マリア・レールをはじめ、歌手陣には、私にとってなじみのある名はあまり見当たらないが、大体みんな歌唱も安定しており、なにより芝居が巧い。ラインの女たち3人のプロポーションの良さが、舞台に妖しい華やかさを添える。

 中では、アルベリヒを歌い演じたトマーシュ・コニェチュニイ Tomasz Konieczny という若い(38歳)のバリトンが、圧倒的に見事だった。声は往年の悪役名歌手グスタフ・ナイトリンガーを思わせる強烈さであり、悪役メイクの顔は往年の名画「シャイニング」のジャック・ニコルソンそっくり。したがって、怖い。
 彼がニーベルハイムでヴォータンを威嚇する場面など、決して強がりではなく、この男ならいつか本当に軍勢を率いてヴァルハル城に猛攻をかけ、世界を支配するかもしれない――と(結局そうならないことを既に知っている)観客にさえ信じ込ませてしまうほどの凄まじさなのだ。
 ショルテスが速いテンポで轟々と鳴らすオーケストラが、それに輪をかける。
 演奏と演技によっては、のちに起こりえないストーリーまで観客に想像させることも可能だということの、これは稀有なケースといえよう。
 この場面一つだけでも、わざわざ遠くエッセンまで観に来た甲斐があった、という気がする。

 カーテンコールでは、このコニェチュニイが最後に答礼に現われた。大トリ扱いは、ゲスト歌手に敬意を示しての待遇か? それとも、このドラマの主人公はアルベリヒだということを示すためか? 然り、通常の上演では主人公として目立つヴォータンやローゲの代わりに、この演出と演奏においては、アルベリヒこそが真の主人公になっていたのであった。

 これが伏線となって展開するのなら、エッセンの「指環」は実に面白くなるだろうと思ったが、聞けば、4部作はそれぞれ演出家が異なるシステム(シュトゥットガルトの「指環」と同じ)だそうな。
 「ワルキューレ」と「ジークフリート」も、既にプレミエされている。が、ケルン在住の来住千保美さん(音楽学)の話によれば、「ワルキューレ」の演出はクルップ財閥の歴史とも絡められていて面白いけれど、「ジークフリート」の方はメルヘン・タッチと化してぐっと落ちる由。今年10月にプレミエされるバリー・コスキー演出の「神々の黄昏」が待たれるという。

 終演は9時45分。10時43分のICEに乗ってケルンに引き返す。11時37分ケルン着。駅を出た途端、目の前に聳える大ドームが何となく懐かしく感じられるようになってしまった。

2010・6・9(水)旅行日記第4日 ワーグナー「ヴァルキューレ」

  ケルン歌劇場  5時

 シーズン・プログラムではランス・ライアンと発表されていたジークムントが、既にシュテファン・フィンケに変更されており、落胆。このテノールは、往年のジョン・ヴィッカースを思わせる非常にアクの強い歌い方をする人で、「ヴェルゼ!」はもちろん、高音で張る個所は無理して声を張り上げるという感があり、些か辟易させられる。しかし、人気はすこぶる高いようである。

 フンディングとして予告されていたミハイル・ペトレンコも「病気」とかで、アルベルト・ペーゼンドルファーというバスに急遽変更されていたが、彼の方は、長身で声も迫力充分だったので、まあ良かろう。ヴォータンのグリア・グリムズレイと、フリッカのダリア・シェヒターは昨日と同様。
 ブリュンヒルデにはエヴェリン・ヘルリツィウスが登場した。もちろん良いのだが、シュテンツの速いテンポに煽られるのか、最高音のピッチが少し高く聞こえることが何度かあり、特に第3幕前半では慌しい絶叫に陥る傾向があった。
 むしろジークリンデを歌ったアストリッド・ヴェーバーという若いソプラノの方が、最初は何か野暮ったい歌唱という印象を受けたけれども、音程はよほど安定していたようである。
 しかしカーテンコールでは、どの歌手にも絶大なる拍手とブラヴォーが贈られていた。満員の観客は、とにかく何が何でも絶賛し、自らも愉しんでしまおうという雰囲気である。地元民の支持絶大、というところか。

 マルクス・シュテンツも、ここの音楽総監督だから当然かもしれないが、大変な人気である。
 相変わらず贅肉を削ぎ落とした指揮だ。音楽には、うねりも、渦巻きも、重量感も乏しい。情感や心理的な綾や悲劇性といった要素も、あまり感じられない。第1幕後半でのジークムントとジークリンデの愛の場面など、味も素っ気もない。
 ただ昨夜と同様、その素っ気ない指揮が、ワーグナーのスコアから清澄明晰な響きを引き出しているのも事実であり、たたみかける速いテンポが演奏を引き締めていたことも確かであった。
 それに聴く方も、空調のさっぱり効かないこの暑い劇場で、しんねりむっつりしたテンポで延々とやられたら、たまったものではない。
 ――こういう指揮は、ムジークテアター系の舞台には、よく合う。

 ロバート・カーセンのこのワーグナー演出は、私は初めて観たのだが、予想外に良く出来ている。もちろん伝統的な演出では無いが、読み替えというほどでもなく、したがって難解なところは無い。8年ほど前のプロダクションということもあって、今日ではむしろ中庸を得た部類に入るだろう。
 第1幕は、前奏曲開始とともに幕が上がり、降りしきる雪の中に、フンディングの部下たちが家に武器や弾薬を運び込んでいる光景が目に飛び込んで来る。

 第2幕冒頭は、どこやらの現代的軍服を着た司令官(?)ヴォータンの大きな居間で、軍人や武官たちが集って談笑している光景に始まる。前奏曲の後半で「ヴァルキューレの動機」のリズムが激しく轟き出すと同時に、銃を手にした兵士たちが一斉に警備体制を敷き始めるあたり、音楽と視覚的効果との見事な一致に感心させられた。ブリュンヒルデは女性兵士の姿でなく、普段着の活発な女のコという格好で、これは他のヴァルキューレたちも同様の設定。
 第2幕後半は雪原の場に変り、ジークムントとジークリンデは、乗って来たおんぼろジープが壊れて立ち往生している。このジープが第1幕冒頭でフンディング家への武器搬入に使われていたことを思い出し、なるほど、あれを乗り逃げして来たのかと、辻褄の合い具合に妙に感心させられることも。

 第3幕も、岩山ではなく、根雪の上に戦死者の遺体が累々と広がっている雪原。
 最も印象的だったのは、「神々の世界」からの追放を言い渡されたブリュンヒルデが独り悄然と雪原の中に――ここではヴォータンは一度この場から立ち去っている――うずくまる光景で、それは音楽の哀切な寂寥感と完璧に合致していた。カーセンのセンスは、なかなかのものである。そして大詰めでは、背景の黒い幕が僅かに上がると、横一列に燃えさかる炎が出現するという趣向だ。

 かくして9時50分頃演奏終了。カーテンコールは前述の如く熱烈盛大を極めた。客のマナーが良いのは、観光客がほとんどいないせいであろう。

2010・6・8(火)旅行日記第3日 ワーグナー「ラインの黄金」

  ケルン歌劇場  7時30分

 ウィーンからルフトハンザでミュンヘンに飛び、ケルン行きに乗り継いで、午後市内に着く。どこもかしこも、かなり暑い。ここケルンは曇り空。暑いが、空気には爽やかさがある。

 ケルンの「ニーベルングの指環」は、既に何年も前から話題になっていたものだ。
 話題の中には、たった2日間で全4作を上演してしまうという奇想天外の企画もあったわけだが、決してキワモノではなく、なかなかよくまとまっているという評判が高かった。遅ればせながら、今回初めて観る機会を得た次第である。

 演出は、天下のロバート・カーセンだから、「信用度」(?)は充分に高い。
 前奏曲の途中から非常にゆっくりと幕が上がって行く「ラインの黄金」冒頭は、河だか何だか判らないけれどもゴミが猛烈に散乱する場所で、通行人が野放図にゴミを捨てながら通り過ぎる。自然破壊を皮肉っている演出意図は明らかだろう。
 音楽がクレッシェンドするのに並行して通行人の数が増え、彼らの歩く速度も上がって行く様子が、聴覚的効果と視覚的効果とを一致させたセンスで面白い。

 第2場は、竣工成ったヴァルハルに運び込む巨大なコンテナなどが並ぶ場所。
 神々の長ヴォータンは高級軍人といったいでたちで、秘密警察か召使のような、正装した男どもが彼に従う。
 巨人ファーフナーとファーゾルトは、ツナギを着た工事主任であり、同じ服装の大勢の工事関係者たちを従え、彼らの無言の圧力をも利用して神々を威嚇する。火の神ローゲは、ここでは特に赤い服を着て出て来るというわけではなく、黒いフロックコート姿で自転車に乗って飛び出して来る設定だ。

 地下の「ニーベルングの世界」は当然ながら薄暗い場面だが、特に地下の工場を思わせるような大道具は無い。
 うごめくニーベルング族どもは、聞いた所によると、以前は軽犯罪の受刑者たちがエキストラで演じていたそうだが、今でもそうなのかしらん? 彼らは「拍手」を受けることが嬉しいので、更生にも大いに役立つとかいう話だったが――。

 最終場面、雷神ドンナーが嵐を呼ぶためにハンマーを振り回す仕種は、あたかもゴルフのスウィングのようで笑わせる。しかし、舞台奥の黒い幕が上がると、そこは深々と降り続く雪の光景が開ける。
 「ヴァルハル入城の場面」では、神々の一族は夜会服に着替え、部下たちの給仕でシャンパンか何かを飲みながら、その雪の中を通って奥へ消えて行く。あとには軍人たちや、「新居」へ運び込む家具などを持った使用人(?)たちが続く。最後の和音に合わせて幕が降りる――という段取りである。

 ロバート・カーセンの演出アイディア自体は、今日ではさほど珍しいものではない。が、カネをあまりかけない簡素な舞台(パトリック・キンモス美術・衣装)としては非常に良くまとまったものと思う。日常的な世界に設定された舞台は、以前ヴィースバーデンで観たジョン・デューのそれに共通するところもあるが、それよりはスケールも大きく、センスも良い。

 ラストシーン、昨夜ウィーンの「オネーギン」を観たばかりの目には「また雪か」と苦笑させられたが、カーセンの場合には要所で1回だけ降らせる手法――サイトウ・キネン・フェスでの「イェヌーファ」での雨も同様で、素晴しく効果的だった――なので、美しく感じられる。上下の縦線に降る雪と、奥へ縦線で動いて行く人物との対比が、視覚的にも絶妙に感じられるのだ。この幻想的な光景一つとっても、観客の熱狂的な拍手を受けるにふさわしいのではないかと思う。

 指揮はマルクス・シュテンツ。この人の指揮は何度聴いても味も素っ気もない音楽なので閉口していたが、今日はなかなか良く聞こえた。冷たい響きの音楽であることには変りないけれど、ワーグナーのスコアのテクスチュアが実に明晰に浮かび上がって、冷徹な叙情性といったものさえ感じさせたのである。この「ラインの黄金」の場合は、その指揮が良い方に作用するだろう。
 オーケストラはケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団で、全体としてはクリヤーな響きを出していた。

 歌手陣では、情報不足の私には、ファーゾルトの老練クルト・リドル以外、なじみの名前が見つからない。しかし全員が安定して手堅く、ドイツ各都市の歌劇場の水準の高さを感じさせる。
 ヴォータンのグリア・グリムズレイ Greer Grimsleyはまだ若いようだが、たいへんしっかりした歌唱と演技だ。アルベリヒのオリヴァー・ツヴァルク Oliver Zwargも聴き応えがあり、しかも第3場では散々に投げ飛ばされたりして大熱演である。フリッカのダリア・シェヒター、エルダのヒルケ・アンデルセンも悪くない。
 他の歌手はここでは省略するが、あとになって物知りたちに「あの時に出ていたじゃないか」と、突っ込まれることが起りそうな気もする。

 10時終演。観客は沸いて、カーテンコールはかなり長かった。シュテンツもここではたいそうな人気である。


2010・6・7(月)旅行日記第2日 チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」

  ウィーン国立歌劇場  7時

 本来ならこれは、小澤征爾が音楽監督としての最後の指揮を執るはずの公演だった。
 私も、10年に亘る彼の労を労い、楽屋を訪ねて「おめでとうございます」と声をかけるために、今夜のチケットを手配していたのである。しかもこのファルク・リヒター演出によるプロダクションは、先年「東京のオペラの森」で、ほかならぬ彼の指揮によりプレミエされたものだったのだ。
 得意の演目を用意したにもかかわらず、病のため有終の美を飾れなかったことには、彼も地団太踏む思いであったろう。われわれにとっても、痛恨の出来事であった。

 思えばウィーン国立歌劇場では、結局彼が最も得意とするレパートリーを取り上げる機会もほとんどなく、彼の本領を発揮できる機会もごく少なかった。
 彼がこの歌劇場の音楽監督に就任するという話を聞いた時には、学生時代から彼の熱烈なファンだった私は、ひそかに「兄貴、何ちゅうことを」と歯噛みしたものである(これは当時の「音楽の友」の座談会でも発言したことだ)。
 彼が最高の演奏を聴かせ得る作品――ベルリオーズやプーランク、メシアンなどフランスもの、近代・現代ものなど、つまりサイトウ・キネン・フェスティバルで絶賛を呼んだレパートリーにほかならない――は、所詮ウィーン国立歌劇場の性格からして主流たりえないであろうことは、少しオペラ事情に詳しい者であれば、誰でも予想できたことであった。

 むしろフランスの、たとえばパリ・オペラ座なり、リヨン歌劇場なりで、彼の十八番のレパートリーを指揮していた方が、どれだけオザワの世界的声価を高めたことかと思う。
 同じワーグナーの作品を指揮しても、パリ・オペラ座で指揮した「タンホイザー」が如何に絶賛されたかは、周知の通りだ。
 私もバスティーユでその演奏を聴いた。聴衆が彼に寄せる拍手と歓声を聞きながら、「小澤さんがもしこっちでポストを持てていたら、どんなによかったことか」と、長嘆息せざるを得なかったのである。
 あえて言えばこの10年、彼は貴重な時間を、実りのほとんどないウィーンのために空費してしまった、と称して過言ではない。
 だが、まだ時間はある。健康とともに、セイジ・オザワ本来の輝きを取り戻す時間は。

 それはひとまず措いて。
 代わりにこの一連の公演を指揮したのは、ほかならぬキリル・ペトレンコだった。
 今日、代役としてこれ以上の指揮者は考えられないだろう。これまでの公演でも、観客からもオーケストラの楽員からも絶賛を浴びたと聞く。

 私もつい1ヶ月前にリヨンで彼の指揮する「エフゲニー・オネーギン」に接したばかり。しかし、一層量感のあるこちらウィーン国立歌劇場のオーケストラを指揮すると、その音楽の雄弁さがより明確に発揮されるだろう。
 あの時には叙情的な美しさという側面が目立ったが、今夜はむしろ音楽の劇的な起伏の大きさがより印象づけられた。タチヤーナやレンスキーの感情がみるみる激して行く様子を、チャイコフスキーが音楽で如何に巧妙に描き出しているか――ペトレンコはテンポを自在に駆使して、それを見事に再現していたのである。

 タイトルロールを歌ったのは、ディミトリ・ホロストフスキー。彼のロシアものでの歌い方には、ますます独特の癖が濃くなっているようにも感じられるが、当代一の当たり役であることは疑いない。
 タチヤーナには、オリガ・グリャコーワ。この人も、リヨンでのリーザやマリヤにおけると同様、成熟著しい。
 出色の出来だったのは、レンスキーを歌い演じたパーヴォル・ブレスリクで、声もよく伸びるし、舞台姿もスマートで映える。

 グレーミン公爵はフェルッチョ・フルラネットが歌ったが、今回の歌手の中では並外れて凄まじい声量だ。この歌劇場では、パルケット最後列で聴くと、歌手が舞台最前方で歌った場合には声がまるでPAでもかけたような大音量で木霊する傾向があるらしい。それもあって、彼一人だけ歌手陣のバランスを崩していたと言えないこともなかった。
 オリガを歌ったのは、ナディア・クラステーワ。このオペラでは、声楽的にさほど目立つ存在ではない。

 演出は前述のように、ファルク・リヒター。背景に雪が猛烈に降り続ける、あの舞台である。第1幕では、雪はすべての場面に一瞬たりとも止まずに降る。
 東京ではその物量に呑まれたものだが、改めて観てみると、この雪は、何だかおそろしく煩わしい。劇の起伏に関係なくのべつワンワン降っていられると、視覚的にも気分的にも単調になって、劇的効果も皆無になってしまうのである。
 ただし、随所に現われる氷柱の舞台装置とともに、この雪が主人公たちの冷えた心象を表現するという点で優れた効果を挙げていることだけは、間違いなかろう。

 その他、第1幕での背景には数組の常に抱擁したカップルが佇立、タチヤーナの淡い恋が破れると同時に男が女を残して去って行くという象徴的な演出などは、概して東京と同じだろう。ただ、第1幕と第2幕での踊りがあんなに粗野なアクロバットだったかどうかは、記憶が定かではない。
 また今回は、第3幕冒頭、「ポロネーズ」のあとに夜会の客たちがオネーギンを指弾する重要な場面がそっくりカットされていたが、東京でもそうだったかしらん?

 オネーギンとレンスキーの親友同士の決闘場面で、2人の心理の変化を如何に描き出すかはこのオペラの見せ所の一つだが、リヒターの演出では、最後の瞬間にレンスキーが後悔するかのようにオネーギンに駆け寄ろうとするものの、一瞬早くオネーギンのピストルが火を吹く――という設定になっていた。
 幕が降りる寸前、オネーギンは、レンスキーの頭を抱いて慟哭する。

 その決闘場面(第2幕最後)までが、続けて一気に上演された。1時間45分ほどだったが、随分長く感じられた。
 近年はこの3幕構成を2部に分けて上演するやり方が流行っているが、その切り方にもいろいろあり、決闘の前で第1部を終るという上演もあった。要は、第3幕冒頭の「ポロネーズ」をどう扱うかによって、決闘の場と第3幕とを続けるか否かが決まって来る。
 たとえば、オリジナル台本通りの「数年後の舞踏会」にするか(ペーター・シュタイン)、「オネーギンの変身」の場面とするか(ロバート・カーセン)、「オネーギンの幻想的狂態」にするか(ペーター・コンヴィチュニー)、――この辺を見比べるのも楽しみの一つであろう。

 9時45分頃終演。

2010・6・6(日)旅行日記初日 ワーグナー:「ローエングリン」

  ウィーン国立歌劇場  5時30分

 ウィーンは快晴、猛暑。オペラ座の周辺、特にケルントナー通りは観光客でごった返す。

 「ローエングリン」は、2005年12月にプレミエされたプロダクションで、バリー・コスキーのちょっと風変わりな演出が話題を呼んでいた。
 噂によると、あまり評判がよろしくなかったらしいが、今夜はべつだんブーイングが出るわけでもなかった。もっともウィーンではブーイングはプレミエの時以外は滅多に出ないらしいし、それにそこまで前衛的な演出でもない。しかし、たしかに舞台は少々解り難いし、しかも何となく不燃焼的な印象をも受ける。

 エルザを盲目の女性に仕立てたところが、この演出のポイントなのかもしれない。エルザの幻想を描くのがねらいとすれば、それは絶好の手段になるだろう。
 第2幕での、白鳥(作り物)が浮かぶ小さな池、此処彼処に散らばる玩具や遊園具、絵本に出て来るような雲、可愛らしい黄色の小さな家(両側の壁が持ち上がると教会に化ける造りが面白い)など、見るからにエルザの少女っぽい夢といった雰囲気だ。
 エルザを歌うソイレ・イソコスキが小柄だし、頼りなげなキャラクターを実に野暮ったく巧みに表現しているので、ますます同情を呼ぶだろう。

 オルトルートは概してエルザに同情的な行動を示しているが、ローエングリンに対してのみあからさまに敵対心を燃やし――彼女は彼を以前どこかで見たことがあるらしい――これをワルトラウト・マイヤーがまた見事に演じていた。彼女のいつもながらの絶妙かつ巧妙な演技がこの舞台に唯一の求心力をもたらしていたと称しても間違いではない。

 だがそれでも、ラストシーンで空中から黒い円形の物体に入った胎児のようなものが降りて来る――以前の舞台写真では幼児だったが、今夜の舞台では既に成長した少年のように見えた――ところなど、些か解釈に苦しむところである。
 この「胎児」に、オルトルートが明らかに思い当たる身振りを示すのは当然だろうが、ここにエルザとローエングリンとオルトルートとの関わりがもっと明確に示さていたなら、結構興味深い心理ドラマになっていたかもしれない。

 演奏は、なかなか聴き応えがあった。
 指揮は読売日響への客演指揮でもおなじみのレイフ・セゲルスタム。彼の指揮するオペラを聴くのは、実は今回が最初だ。
 極めてごつごつした剛直な音楽をつくる。「第1幕前奏曲」など、弦の内声部の各所に強いアクセントをつけ、ワーグナーの管弦楽法の荒々しい面を浮かび上がらせるという演奏で、豊麗さとか壮麗さとかいったものとは程遠い代わりに、スリリングな迫力がある。
 しかもオーケストラを豪壮無類に轟かせるので、第1幕や第2幕の幕切れの個所や、第3幕の場面転換の行進曲の個所など、もともとピットの位置の高いこの歌劇場の管弦楽団はそれこそホールを揺るがせんばかりに咆哮するという具合だ。
 オーケストラが主導権を持つワーグナーやR・シュトラウスのオペラでは、やはりこうでなくては面白くない。しかもセゲルスタムのこの大河の奔流のごとき指揮は、音楽が決して乾燥したものにならず、どこかに温かみさえ感じさせる佳さを持っているのである。

 歌手では、前述のワルトラウト・マイヤーが圧倒的な存在感だ。この人のオルトルートは、もう何種類かのプロダクションで観たり聴いたりして来たが、いつもその巧さに感心させられる。声はもう峠を越しているだろうが、これだけ説得力のある歌唱と演技を示せる歌手は、そう多くあろうとは思えない。
 その他、エルザのソイレ・イソコスキ、ローエングリンのペーター・ザイフェルト、国王のアイン・アンガー、テルラムント伯爵のヴォルフガング・コッホ、伝令官のマルクス・アイヘ、いずれも揃って安定している。

 ザイフェルトは「はるかな国に」など、何かヤケッパチに怒鳴りまくるという雰囲気がないでもなかったが、考えてみるとこのオペラでは、ローエングリンは何かしら常に怒り、イライラしている場面が多いわけで――エルザに「私の名を訊くな」と因果を含める個所など、エルザがあまりに無頓着に返事をするので苛立つのだ――、その意味ではザイフェルトの表現も当を得ているだろう。

 合唱は少し粗いが強力だ。男女とも全員が黒づくめの服装で、騎士や軍団や侍女としての演技の場面はほとんどなく、むしろコロスに近い役割を果たす。
 休憩2回を含み10時05分頃演奏終了、同15分頃終演。
 外は相変わらず蒸し暑い。

2010・6・3(木)クリスチャン・ツィメルマン・ピアノ・リサイタル


   サントリーホール  7時

 札幌から倉敷まで、1ヶ月間15回にわたる演奏会で構成された日本ツァーの、今日は10日目。ショパンの作品によるプログラム2種のみ――といっても1曲だけが異なるプログラムなのだが――で廻るスケジュールだという。
 今日はAプロで、「ノクターン作品15の2」「ソナタ第2番」「スケルツォ第2番」、休憩を挟んで「ソナタ第3番」と「舟歌」。アンコールはなし。8時50分には終演となった。

 ショパン・イヤーの上半期。あれこれ奇怪な(?)ショパンや、戦闘的な(!)ショパンを聴いて来た耳には、静かに開始されたツィメルマンの「ノクターン」が、なんとバランスのいい演奏に聞こえたことか。やはりこれこそ真打の登場か、とさえ感じてしまったくらいである。
 明晰に張りつめた響きではあるものの、ある音域にくぐもった音色を漂わせて、それが西欧の最近の若手のピアニストの演奏からは聴けないような、翳りのあるショパン像となって立ち上がって来る。

 彼のショパンが成熟した世界に達していることは、どこからみても疑いはない。
 だが、――なぜこう、聴いているうちに、何かほかのものを求めたくなって来るのだろう?

2010・6・1(火)ファビオ・ルイジ指揮ウィーン交響楽団

   サントリーホール  7時

 ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」と、交響曲第5番「運命」の2曲がプログラム。
 今回の日本公演でこの曲が取り上げられるのは、第6日に当る今日が初めてらしい。リハーサルをどのくらいやったのかは知らないけれども、少々即興的な(?)雰囲気が感じられないでもない。協奏曲ではソリスト(河村尚子)との呼吸が今一つといった感があったし、交響曲では第1楽章の再現部あたりからやっと音に重厚さが加わって来るという具合だった。

 どこと言って欠点のない演奏ではあるのだが、聞き手に向かって強烈に語りかけて来るベートーヴェン特有のエネルギーがさほど感じられないのは、彼らの個性のゆえんか、スケジュール(東京・大阪・福岡・名古屋・東京と連日休みなし)による疲れの所為か。
 アンコールは、「ウィーン気質」「雷鳴と電光」「ピチカート・ポルカ」。

 「皇帝」を弾いた河村尚子には、満腔の期待を寄せていたのだが、何かいつもの彼女の演奏と雰囲気が違う。抑制しているというか、指揮者との呼吸を探っているというか。ピアノの音色にも妙なくぐもりが感じられ、音楽がまっすぐ飛んで来ないというもどかしさが続いていたのである。かりにこれが彼女のドイツ音楽に対するアプローチの手法だったとしたら、少々解せないのだが・・・・。

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