2023-12




2010・12・25(土)新国立劇場 ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」初日

   新国立劇場  2時

 新国立劇場初の「トリスタンとイゾルデ」、しかも指揮は同劇場12年ぶり登場の大野和士となれば、盛り上がるのは当然であろう。客席は満杯、ロビーにも熱気が溢れた。

 この上演は大成功であった。
 成功の要因の第一は、やはり大野和士の指揮にある。
 彼の「トリスタン」を聴いたのは初めてだが、ここまで美しく、しかもエロティックな響きを備えた音楽をつくるとは、予想していなかった(もう少しクールに行くかと思っていたのだ)。ただしそれは、情緒に溺れたものではなく、殊更に濃厚なものでもない。極めてバランス感覚に富む音楽づくりなのである。

 特に気に入った部分をいくつか記しておきたい。
 第1幕では、トリスタンとイゾルデがこの「船」に乗ってから初めて正面から顔を合わせる場面(第5場)の長い管弦楽の個所。
 そして圧巻たる第2幕では、「愛の2重唱」全般での豊麗な柔らかい官能的な音色をはじめ、「ブランゲーネの警告」での管弦楽の夢幻的な転調の響き、さらに幕切れ近くトリスタンがイゾルデを「夜(死)の国」へ誘うくだりの沈潜し切った暗鬱な音色など――そこではすべて遅めのテンポが採られているために、よりいっそう陰翳の濃い音楽となっていた。
 また第3幕の「愛の死」前半および終結部分における管弦楽の耽溺的な柔らかい音色は、私が最近聴いた上演の中では、屈指の素晴らしいものであった。

 「トリスタン」の演奏において、こういう点がうまく行っていれば、それだけで私は、とりあえず満足してしまう。
 もちろん、大野の指揮は、起伏も大きい。第1幕最後の最後で船がコーンウォールの港に着く場面をはじめ、第2幕でのマルケ王たちの登場により恋人たちの「愛の夜」が崩壊する場面、そして第3幕「愛の死」の頂点の個所など、――いずれも作為的な劇的誇張はないが、しかしあくまで作品本来の性格にふさわしく、管弦楽は存分に昂揚している。

 これらをすべて含め、大野の「トリスタン」は、温かい人間性の表現に重点を置いたものであったことが聴き取れる。それは、疑いなく世界第一級の「トリスタン」解釈に属するものと言って良いだろう。

 今回は、東京フィルが見事な演奏をした。ホルンやトランペットに肝心な個所で綻びが無かったとは言えないけれども、これだけ緻密で豊饒な響きを聴かせてくれれば、まずは祝着ではなかろうか(しかも初日からこの水準に達していたというのは、概して立ち上がりの悪い新国のオペラ公演としては珍しい)。
 この劇場のピットで、わが国のオーケストラがこういう優しく美しい音を聴かせてくれた例は、少なくとも私の体験した範囲では、アルミンクと新日本フィルによるツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」(05年二期会公演)以来のことであった。

 歌手たちが手堅く、安定していたことも、この上演を成功に導いた要因の一つであろう。
 トリスタン役は、この数年来快調なシュテファン(スティーヴン)・グールド。歌唱は安心して聴けるタイプだし、それに容姿体格の面でも、漸く「騎士」らしい雰囲気のトリスタン歌手が出て来てくれたわけだ――他の某テノール歌手には失礼だが。
 イゾルデはイレーネ・テオリン。「愛の死」などで「叫ぶ」癖は未だ抜け切っていないけれど、以前に比べれば歌い方も女っぽくなって来たし、深い表情も加わって来ている。
 クルヴェナールはユッカ・ラシライネンで、今回はいつもより抑制して歌っていたようだが、力のある声である。ブランゲーネのエレナ・ツィトコーワは、成長著しい。
 マルケ王のギド・イェンティンスは、おそろしく老人に仕立てられていたのはともかく、歌はしっかりしていたとは言え、やや影の薄い印象だったのは否めまい。
 その他、メーロトに星野淳、牧童に望月哲也、舵取りに成田博之、船乗りに吉田浩之。

 演出はデイヴィッド・マクヴィカー、美術と衣装はロバート・ジョーンズだ。
 殊更に奇を衒ったものではなく――水夫や王の部下たちの国籍不明の風体と、些か騒々しく煩わしい動きを除けばだが――ごく中庸を得た演出で、その意味では、安心して観ていられる舞台と言えようか。

 第1幕では、演技は非常に細かい。このドラマの重要なポイントである「愛の魔薬による恋人たちの解放」にいたる過程も、解りやすく描かれていた。
 たとえば、「かつて傷ついたトリスタンの前で、その眼差しに射られて金縛りに遭った」ことをイゾルデが回想する瞬間に、2人が万感迫る思いで抱き合ってしまうという演出設定など、すこぶる気が利いているだろう。
 また、「気が済むように自分を殺せ」とトリスタンに迫られたイゾルデが、言い逃れの口実――それではあなたの主君に申し訳が立ちますまい――を必死で考える演技なども、筋が通っている。

 だが概してこういった微細な演技は、2人の女性――イゾルデとブランゲーネのみによって行われていた感がある。
 テオリンの身体的演技は雄弁で、とりわけ眼の表情は物凄い。またツィトコーワの演技は更に微細精妙であり、常におどおどしつつ周囲に気を遣っている様子を実に巧みに表現していた。
 つまり、この2人の女性がドラマの深層心理を明快に描き出しているのに対し、トリスタンとクルヴェナールはどちらかというと無表情で茫漠とした演技の雰囲気に終始していたのだ。
 そのあたりに、不思議なアンバランスがこの演出には生じていた。それゆえ、第1幕と第2幕では比較的リアルに心理描写が行われているのに、女性の登場の少ない第3幕になると、人物の動きに何か曖昧なものが感じられるようになるというわけである。

 なお、第2幕での「ブランゲーネの警告」を、舞台上で歌わせたのは、多分演出家の考えによるものだろうが、これは声楽的にも大いに疑問が残る。ここは、彼女の警告でさえ恋人たちにとっては夢の中の響きのように聞こえるというのが、ワーグナーの音楽の狙いだったはずだ。それをあのように同一空間で歌わせては、非常にリアルな響きになってしまい、ニュアンスが変わってしまう。それにここでは、大野と東京フィルが、絶妙な夢の世界を描き出していたのだから、なおのこと均衡が失われる――。

 各45分の休憩2回を含み、終演は7時40分になった。6時間近い上演時間は、バイロイト並みだ(28日は開演が5時のはず。どうなるのだろう?)。
 坐骨神経痛が未だ完治せず、長時間同じ姿勢で座っていると焼け付くような激痛に襲われるため、その意味からは「長すぎるよねえ」と知人相手にぼやいていたことは事実だが、実際は、ほとんど長さを感じなかったのである。大野和士の指揮が良かったからだ。

2010・12・23(木)「バロック音楽とダンスで楽しむクリスマス」

  紀尾井ホール  4時

 「音楽の友」の「コンサート・ガイド」には、今日1日だけでも全国で「第9」が11公演、「クリスマス」をタイトルに入れたコンサートが25公演あると予告されている。

 その中で、私が向かったのは紀尾井ホール。「バロック音楽とダンス」と題し、ラモーの「優雅なインドの国々」の抜粋をやる、というのに釣られて。

 これはプログラムの第2部に置かれ、「プロローグ」と、第3幕の「花々――ペルシャの祭」および第4幕の「(アメリカの)未開人たち」が、抜粋の形で取り上げられた。
 おなじみの「未開人のエール(平和のパイプの踊り)」もちゃんと(?)演奏され、インディアンの扮装をしたダンサーたち(トーマス・ベアード、浜中康子他)によって踊られていた。  
 ただこの第2部は、やはり字幕がないと解りにくかろう。ナレーターとして林隆三が登場していたが、何となく「頼まれ仕事」的な雰囲気を感じさせ、ノリが悪い。

 なお第1部では、フィリドールの「ティンパニのための行進曲」からM・A・シャルパンティエの有名な「プレリュード」に続くという巧い組合わせに始まり、賛美歌やバッハのアリア、コレッリの「クリスマス協奏曲」などが演奏された。選曲は好い。

 演奏は上尾直毅指揮(バグパイプ・ミュゼットやオルガンも含む)の紀尾井バロック・アンサンブル、声楽ソロは鈴木准ら。

2010・12・20(月)ヤクブ・フルシャ指揮東京都交響楽団

   東京文化会館大ホール  7時

 プリンシパル・ゲスト・コンダクターのヤクブ・フルシャが指揮するもう一つの定期。

 演奏会は、リストの交響詩「レ・プレリュード」で始まった。この曲をナマで聴くのは本当に久しぶりだ。ディスクでも、最近は滅多に聴けなくなった曲だろう。
 要するにまあ、何てことも無い作品である。私自身、中学生の頃、どうしてあんなにこの曲に夢中になっていたのか、不思議に思えるくらいだ。

 2曲目のショパンの「ピアノ協奏曲第1番」では、フルシャ=都響は、すこぶる整然とした演奏を聴かせた。ゲスト・ソリストのニコライ・ルガンスキーはこの折り目正しい演奏に付き合ったが、アンコールの「幻想即興曲」でついに本性を現わし、奔放自在のファンタジーを奏でるにいたる。

 結局今夜は、フルシャ=都響の本領は、最後の曲目――マルティヌーの「交響曲第3番」で初めて発揮されたと言えるだろう。
 これは期待通り、本当に面白かった。聴きに行った甲斐がある。この曲がこんなに多種多様なニュアンスを持つものだったか――と感心したのは、今回が初めてだった。このホールでは、アコースティックの関係から、響きも蒸留水みたいなイメージになる傾向があるけれど、それでもなおオーケストラは見事に多彩な音色を表出していたのである。

 こういったナマの演奏で聴くと、たとえば第2楽章、同じモティーフが反復されながら次第に上行を重ねて行くあたりで、その周囲の和音の変化までが、空間的な拡がりを以って、実にリアルに聴き取れる。その結果、音楽には、幾分ミステリアスな雰囲気も生れて来るだろう。そこでの四方恭子をリーダーとする都響の弦楽器群は、まさに表情豊かで雄弁そのものだった。

 第3楽章の最後、穏やかな終結和音の中に突如としてピアノによる短い不協和音が脅かすように割って入る個所でも、フルシャの緊張感の作り方は鮮やかなものがあった。それは、亡命先のアメリカでこの曲を書いた第2次世界大戦末期のマルティヌーの――故国への挽歌と痛切な慟哭の念を、見事に表していたと思う。

 先日の定期の際にも感じたことだが、フルシャという人は、この若さにもかかわらず、オーケストラを実にバランスよく、がっちりと構築して行くことが出来る指揮者である(都響との相性もいいのだろう)。楽しみである。
 レパートリーについては詳しく承知していないが、この人にニールセンの交響曲などを振ってもらったら――特に「第5番」など、非常に厳しい造型の緊迫した名演になるのではないかという気がする。

2010・12・15(水)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団

   サントリーホール  7時

 神経痛で悩んでいる身にとっては、ショスタコーヴィチの交響曲は、些か辛いものがある。
 今夜の「第8交響曲」など、――健康体の時には、タコの交響曲の中では「4番」と並んで最も好きな曲の部類に入れていたのだが、こういう体調で聴くと、ピッコロや高音の弦の鋭い音がビリビリと体に響いて来て、何でこんなにギャンギャン喚いてくれるのかとたじろいでしまう。・・・・作曲者と演奏者に対しては、何とも申し訳ない話ではある。

 戯れ言はともかくとして、しかし、今夜のデュトワ=N響の「タコ8」は、実に立派なものだった。
 N響も、いったん本気になればかくの如し――という底力を見せつけた豪壮な演奏である。特に前半の3つの楽章でのスケール感と量感と力感に富んだ演奏は、さすがN響、というべきものであろう。
 各パートのソロもみんな上手い。とりわけコール・アングレ(池田昭子)のヒューマンな情感と美しさに満ちた長いソロは聴き手を魅了した。

 デュトワの個性からして、音楽には、悲劇的な凄愴さや、陰惨なアイロニーといった要素はそれほど多くは感じられない。むしろ壮麗な交響曲というイメージが先行した演奏だったと言えるだろう。そういうところに、ショスタコーヴィチの作品の演奏スタイルにおける議論の分かれ目があるかもしれない。
 しかし、ラルゴ楽章での流麗な沈潜は、デュトワの美点が発揮されたものと言うべきで、なかなか好い音楽となっていたと思う。

 プログラム前半には、ピエール=ロラン・エマールをソリストに迎えての、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」。これも前出の人気女性コール・アングレ奏者のソロも含めて、いかにもN響らしい豪華な演奏であった。
 昔はデュトワがいくら一所懸命振ってもオーケストラが重く、まるでダンスの時に重い女性を抱えて懸命に振り回しているような感じを得たものであったが、今のN響は違う。

 エマールのソロは、今夜は不思議におとなしい。しかしそれでもなお、一つ一つの音から洗練された洒落っ気が滲み出て来るという雰囲気を感じさせる。
 アンコールで彼が弾いた、人を食ったような小品――リゲティの「ムジカリテルカーナ第1番」という曲だそうだ――も、下手に弾けば滑稽な野暮ったい音楽と化する類のものだろうが、彼のセンスにかかると、いかにもエスプリとユーモアを感じさせる作品になるのであった。

2010・12・14(火)ヤクブ・フルシャ指揮東京都交響楽団

   サントリーホール  7時

 素晴らしい若手指揮者を聴くことができた。今年春に都響のプリンシバル・ゲスト・コンダクター(首席客演指揮者と日本語で言えばいいものを)に就任したヤクブ・フルシャは、チェコ生れ、未だ29歳。
 前回の客演(08年5月)の際にはこちらがウィーンから帰国したばかりの日だったため聴けなかったが、今日初めて彼の指揮を聴いて、その瑞々しい活力にすっかり惚れ込んでしまった。

 プログラムは――これがまた実に巧みな組合わせで――ボヘミアの愛国軍団フス教徒に縁のあるドヴォルジャークの序曲「フス教徒」とスメタナの交響詩「ブラニーク」、ナチスによる大量虐殺犠牲者を悼むマルティヌーの「リディツェへの追悼」、チェコ共和国建国10周年(1927年)に初演されたヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」。
 さながらチェコの「名刺」ともいうべき選曲で就任披露演奏会を行なったというわけだが、どれも見事な指揮であった。
 オーケストラを引き締まった響きで自在に制御し、しなやかなうねりと歯切れのいいリズムで、息もつかせぬほどの勢いで畳み込む。
 この若さにして、これほど全曲をバランスよく、かつ揺るぎのない構築でまとめられる指揮者は決して多くはないであろう。

 しかも、クライマックスへの持って行き方が実に上手い。「ブラニーク」の主題のうちのある個所でのリズムの際立たせ方など、ニヤリとさせられるほどだし、最後の追い込みも驚くほど手際がいい。
 最初の2曲を極めてブリリアントなイメージでつくり上げておき、一転して「リディツェへの追悼」では重厚で悲劇的な陰翳を打ち出し、最後の「グラゴル・ミサ」の、壮大ではあるが徒に誇張のない、ヒューマンな祈りの世界へ展開させて行くところなど、心憎いばかりである。

 都響は、良い指揮者を選んだものだ。近年の欧州指揮界は有望なライジング・スターを輩出させているが、フルシャもその一人であることは疑いない。日本フィルの首席客演指揮者となったインキネンとともに、大いに楽しみである。――といっても、その今後のフルシャの都響での出番は、思いのほか少ないのだが。今月(20日)もう1回指揮したあと、来年の12月(ドヴォルジャークのスターバト・マーテル)まで振る機会がないとは残念な。

 それにしても、このところの都響の演奏水準の高さは――少なくとも定期での演奏を聴く限り――目覚ましいものがある。
 今日の演奏でも、最初の2曲における木管群のバランスの良さをはじめ、全プログラムでのほとんど破綻のない金管群、ティンパニの安定感、量感としなやかさのある弦楽器群、といったように、まさに万全の構えだ。
 在京オーケストラのリーグ戦は、今や上位5団体がほとんどゲーム差無しで競り合っている状態――とでも言うべきか。

2010・12・13(月)尾高忠明指揮読売日本交響楽団のブルックナー「8番」

   サントリーホール  7時

 秋の「ブル8競演4連発」の、これが千秋楽。

 今回の尾高=読響のは、ハース版による演奏である。これと高関=日フィルがハース版で、チョン=東フィルとスダーン=東響がノーヴァク版――と、きれいに分かれていたのも面白い。
 そういえば、春にも首都圏でティーレマン、スクロヴァチェフスキ、インバルのそれぞれ指揮による「ブル8」3連発があったが、あの時もハース版、ノーヴァク版、初稿版の3種に分かれていた。すべて偶然の鉢合わせだったとはいえ、なかなかうまい廻り合わせである。

 ところで、秋の陣。
 豪壮強大な音響という点では、やはりこの読響が一頭地を抜くだろう。音が大きければいいというわけではないが、ブルックナーの音楽の巨大な山脈のような威容を堪能できるという点では、やはりオーケストラが轟々と鳴り渡った方が面白い。

 とはいえ、今日の演奏が、ただ野放図に咆哮していたと言っているのではない。
 そこは尾高忠明のこと、音楽づくりは極めて丁寧で緻密で、バランス感覚にも富んでいて、読響をほぼ完璧に制御していたと言えるだろう。全体に中庸を得た、しかも安定したテンポが採られているので、演奏もすこぶる格調高いものとなり、スケールも大きくなる。
 全曲にわたってティンパニを歯切れ良く豪快に響かせるのが目立ち、特に第2楽章ではそれが素晴らしいメリハリをつくり出して成功していた。

 欲を言えば、第4楽章最後の、各楽章の主題が同時に鳴り響く大伽藍のごとき音楽のところで、既に爆発していた最強奏の力感の更なる積み重ねがやや保ちきれなかった感もなくはなかったのだが、――しかし、これだけ造型のしっかりした「ブル8」を聴けたのだから、文句は言うまい。
 最後の音が残響となって消えて行ってもなお、ホール内はなおしばらく静まり返っていた。それからおもむろに、拍手と歓声が沸き上がる。読響の定期会員は、ブルックナーを心得ている。尾高もソロ・カーテンコールを受けていた。
 

2010・12・11(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  4時

 1週間ぶりに現場復帰。まだ痛みは残るが、終演後に立ち上がってすぐ何とか歩けるようになっただけマシである。

 だが、今日の指揮者ピエタリ・インキネンも、かなり腰の具合が悪いと聞いた。確かに舞台を歩く姿勢が不自然で、腰をかばっている様子がありありと判る。身につまされる。あれで指揮をするのは非常に辛いだろう。若いから馬力で乗り切っているのだろうけれど、持病になってしまうと年とってから苦労する。自愛されたい。

 そのインキネンの指揮を聴くのは、ほぼ1年ぶりだ。首席客演指揮者として、東京定期では当面シベリウスとマーラーの組み合わせを指揮して行くとのこと。今日はシベリウスの組曲「クリスティアン2世」とマーラーの「巨人」だった。

 クールで緻密な指揮はこの人の持ち味のようだが、かりに腰の痛みがなければ、もう少し叙情的な情感のようなものも表出できたのではないか、という気がしないでもない。

 シベリウスの作品では、この作曲家特有のほの暗い陰翳がほとんど感じられないのが意外であった。愛らしいはずの「ミュゼット」など、随分とぶっきらぼうな演奏である。
 全体に整然として隙のない構築ではあったものの、温かい叙情的な雰囲気が全然ない演奏だったことは否定できまい。
 ただ、良き北欧の雰囲気を敢て取り去ったこういう強面スタイルが、インキネンの考えるシベリウス像なのかどうか。それを即断することは早計だろう。4月の「夜の騎行と日の出」を聴いてからの話だ。

 一方「巨人」は、すこぶる骨太で剛直で、がっちりと組み立てられた演奏になった。
 マーラー特有のアイロニーやヒステリックな感情の揺れも、すべて厳しい造型の中に収めてしまうというタイプの解釈である。終楽章のクライマックス個所など、力感は物凄いが、狂乱といった要素は無い(その点、アルミンクのマーラーと共通した部分もある)。
 だが、それはそれで一つの方法だろう。どろどろした情念といったようなものを全く排した、若い世代の指揮者のマーラー観を、今後興味深く聴いて行きたい。

 日本フィルは、好演した。昨秋インキネンが客演した頃とは、既に全く音色が違う。最大音量で怒号した時にも、金管群に以前のような濁りやうるささが無くなったのは祝着の極みだ。しかもその咆哮の際にも、全管弦楽の響きに均衡が保たれるようになっているのは、この2年来のオーケストラみずからによる復調への努力のたまものであろう。
 トランペット首席のオッタビアーノ・クリストーフォリの音も、時にえらく粗っぽいところもあるが、パワー充分で痛快無類。このくらい勢い良く吹かれなければ、音楽にメリハリが生れないのである。
 

2010・12・5(日)ラドミル・エリシュカ指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   オーチャードホール  3時

 チェコの老巨匠ラドミル・エリシュカの東京フィルへの客演は、5年ぶりとのこと。
 今日指揮したのはスメタナの「売られた花嫁」から「3つの舞曲」、スークの組曲「おとぎ話」、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」と「スラヴ舞曲 作品72の7」(アンコール)。

 この中での最高の演奏は、疑いなく「おとぎ話」である。実に夢のような美しさにあふれた世界であった。これは、エリシュカが日本の聴衆に贈った最も素晴らしい演奏の一つと言っていいかもしれない。
 「売られた花嫁」の舞曲集もすこぶる温かい演奏で、リズムは少し重かったものの、良い雰囲気だった。3曲を完奏させずにセグエで上手く繋げるのもいい手法である。

 これに比べると、「新世界」は――いつもやり慣れている曲なのだからもっと感動的な演奏になるかと思ったのだが、ホルンの不安定さも足を引っ張って、何か鄙びた暗い交響曲というイメージになってしまった。演奏に郷愁が滲み出ていた第2楽章はいいとしても、第1楽章と第3楽章は不思議に重い。札響だったらもっとハートフルな演奏ができるだろうに――などという思いが、脳中をよぎる。

 むしろアンコールでの「スラヴ舞曲」の方に、揺れ動くリズムと和音の妙味が出ていて、これは「おとぎ話」に迫る快演であった。
 79歳のエリシュカ、ますます元気の様子。祝着である。

 先週は、火曜日のカルミニョーラとヴェニス・バロック、水曜日のゲルギエフ指揮ロンドン響、木曜日のワルシャワ・オペラの「魔弾の射手」を棒に振った。通院やらサポートの小道具やらを総動員し、少しは好転したかと思ってまたコンサート通いを再開した(土曜日の「ラ・カリスト」は、ダブルヘッダーを避けて残念ながら諦めた)が、長く座っているとやはり不可ない――。

2010・12・4(土)パーヴォ・ヤルヴィ&ドイツ・カンマーフィルのシューマン 第2日

   東京オペラシティコンサートホール  3時

 「マンフレッド」序曲で始まり、交響曲は第2番、第3番「ライン」と続く。

 前日の演奏にも劣らぬ、いや昨日を凌ぐ演奏だったと言っていいかもしれない。「マンフレッド」序曲の、普通なら引き摺るようなイメージを感じさせる冒頭のシンコペーションが切り込むような鋭さで開始された瞬間から、早くもスリリングな雰囲気が噴出して来る。

 だが圧巻は、「第2交響曲」だ。
 アダージョ楽章での深淵を覗くような暗さから、それを一気に吹き払うようにアレグロの終楽章へ突入する呼吸の鮮やかさは卓越したものだし、しかもこのフィナーレのひたすら押しに押す熱狂的な力たるや、尋常のものではない。
 シューマンの病む精神が最も率直に反映されているという見方もあるこの交響曲の演奏形態として、今回のフィナーレの表現が的を得たものであるかどうかには些か議論の余地もあろうが、しかしパーヴォとドイツ・カンマーフィルの演奏にあふれる緊迫、熱狂、均衡を保ったエネルギー、強靭無比な猛迫の推進力は、実に唖然とさせられるほど物凄い。
 この第3楽章と第4楽章だけ採ってみても、このツィクルスの意義は高い。

 「ライン」では、第1楽章における各パートのリズムがずれながら進んで行く個所の響きを、バランスよく調和させるのではなく、むしろその奇妙さを強調して、シューマンの前衛性を浮彫りにするセンスがまず面白い。
 第3楽章の精緻な秘めやかさにも感心したが、しかしこの頃になると、座り続けて椅子に圧迫されていた太腿の裏に例の激痛が復活、そのせいか第4楽章の「厳かに」では、何か悲劇的な暗い力に脅かされるような幻想が突然起こって来たのには、われながら苦笑。

 そして、締めのフィナーレ。静かな音楽からアタッカで最後の快速部分へ飛び込み、それまでの緊張を一気に解放する「対比と転換」の巧さは、パーヴォとドイツ・カンマーフィルが今回のすべての交響曲で見事に示して見せた優れワザであった。

 アンコールは、あの「ハンガリー舞曲第5番」(ブラームス)と、またもや出たパーヴォお気に入りの「悲しきワルツ」(シベリウス)。しかし後者は、他のオケを指揮した時よりも、ずっと大胆で激しい起伏を持っていた。

2010・12・3(金)パーヴォ・ヤルヴィ&ドイツ・カンマーフィルのシューマン

   東京オペラシティコンサートホール  7時

 「シューマン交響曲全曲演奏会」。大阪いずみホールでの公演から東京に舞台を移しての、今日が第1日。「序曲、スケルツォとフィナーレ」のあとに交響曲「第4番」と「第1番 春」。

 「僕らは本能で突き進み、冒険を楽しむヒッピー楽団なんです」(12月1日朝日新聞夕刊)というパーヴォ・ヤルヴィの言葉は、最近快哉を感じたものの一つだ。
 もちろん彼はこれを、精神的な面について言っているのである。ドイツ・カンマーフィル・ブレーメンの演奏そのものは、オーケストラというものの基本姿勢を完璧に踏まえた上に展開されている。
 だが、その楽員たちが文字通り全身でスウィングしつつ「ノリに乗って」演奏している姿は、われわれを巻き込んでしまう。パーヴォの言葉のニュアンスは、例えばそういう点においても生かされているだろう。

 とにかく、これほど隙のない躍動感と緊迫感を漲らせた痛快な演奏によるシューマンは、他に多くその例を見ない。
 「春」の第1楽章コーダでのテンポの猛烈な加速は聴き手をわくわくさせるほどだし、「第4番」終曲での嵐のような進行も凄味を感じさせる。全合奏の上にホルンが際立って鋭いリズムを響かせ、音楽を尖った刺激的なものにするのは、パーヴォとこのオケのお家芸の一つだ。
 かつてはこれらの手法がいかにも「為にする」のが見え見えで、わざとらしさや騒々しさをも感じさせることも多かったが、今ではそれが板につき、作品の思いがけぬ側面を浮彫りにすることができるようになったのも、このコンビの成長を物語るだろう。

 しかし、演奏は決して力一辺倒でない。「春」第2楽章での叙情的な美しさを、これほどまでにねっとりと甘美に歌い上げた表現も稀だろう。同じく「春」の第3楽章の最後の部分、あるいは「第4番」第3楽章の最後の部分などでは、パーヴォはテンポを極端に落し、来たるべき解放や鳴動への伏線を実に巧みに、緊張を以って描き出して見せる。
 このあたりの起伏の見事さも、今のパーヴォとドイツ・カンマーフィルの大ワザだ。

 横浜での演奏を聴いて気に入った「序曲、スケルツォとフィナーレ」が今夜も聴けたのは幸いであった。アンコールは例の捻ったテンポによるブラームスの「ハンガリー舞曲第6番」。

 交響曲が終った瞬間、1階席後方で絶叫し拍手し、両腕を振り回して熱狂している人がいたのには驚いた。しかし、クラシックのコンサートであのくらい熱狂を行動に出せるというのも羨ましい。「ヒッピー楽団」ならではの吸引力か。

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