2023-12

2011年5月 の記事一覧




2011・5・31(火)飯守泰次郎指揮関西フィルハーモニー管弦楽団
 ワーグナー:「ジークフリート」第1幕(演奏会形式)

    ザ・シンフォニーホール(大阪)  7時

 飯守泰次郎(前・常任指揮者)の桂冠名誉指揮者就任記念と銘打たれた定期公演。
 前半にモーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番ニ短調」が、ケマル・ゲキチ(当初の予定はイェルク・デムス)をソリストに迎えて演奏され、後半にワーグナーの「ジークフリート」第1幕が演奏会形式(字幕付)で、竹田昌弘(ジークフリート)片桐直樹(ヴォータン)二塚直紀(ミーメ)をソリストに演奏された。終演は9時半。

 「飯守のワーグナー」は、わが国のワーグナー演奏における一つの「定番」と言っていい。
 大阪でも、私はいくつか聴いた。あの関西二期会公演の「パルジファル」舞台上演をはじめ、関西フィルの定期での演奏会形式による「ワルキューレ」第1幕(09年3月)、「トリスタンとイゾルデ」第2幕(10年7月)など。どれも、この指揮者ならではの、滋味あふれるワーグナー演奏であった。

 今回も、いい味の演奏だった。
 概して近年の欧州では、乾いて殺伐としてさり気ないスタイルのワーグナー演奏が主流を占めているが、飯守の指揮には、それらが失ったヒューマンな情感といったものが未だ豊かに残っている。
 この第1幕など、やや断片的で、滔々と流れない音楽で構成されているため、下手をするとえらく散漫な印象になりかねない。にもかかわらず、このように瑞々しい雰囲気にあふれた音楽として聴けたのは、ひとえに飯守の感性と力量によるだろう。

 3人の歌手も、素晴らしい出来を示していた。
 竹田昌弘は、すでにパルジファルやジークムントやトリスタンで見事な歌唱を披露して来ている人だ。今回も(良い意味での)「少年ジークフリート」というイメージだが、「鍛冶の場」でも管弦楽の咆哮に屈することなく若々しい声を聴かせていた。
 ヴォータンの片桐直樹は、これはもう貫禄で、文句のつけようがない。さらに嬉しい驚きは、ミーメを歌った二塚直紀だ。これは一流のミーメである。

 舞台前面に立った彼らの声は、いずれもオーケストラに消されることなく明晰に響いていた。これは飯守のオーケストラの鳴らし方の巧さもあるだろう。もう一つ、このザ・シンフォニーホールの空間の容量が、歌とオケとのバランスに適しているためもあると思われる。サントリーホールやオーチャードホールだったら、オーケストラがこれだけ鳴れば、声は多分消されてしまうのではなかろうか。

 関西フィルの健闘は、言うまでもない。
 今日は16型の大編成。もともとこのオケは楽員数60名前後だから、かなりトラも入っているはず。したがって正直なところ、どこまでが関西フィルの実力なのか(失礼!)ということになるのだが、しかしとにかく渾身の演奏であったことに間違いない。
 飯守&関西フィルのこのワーグナー・シリーズには今後も期待したいが、「指環」は編成が大きいし、カネがかかってたまらないだろう。「さまよえるオランダ人」とか「ローエングリン」なら?(と、終演後にロビーで西濱事務局長と立ち話をしたのだが、彼の反応は「ウーン」)※。

 モーツァルトでは、前半はすこぶる陰々滅々(?)たる演奏だったが、第3楽章に至ってオーケストラはシャープな力感を加えた。
 ゲキチのソロは、念入りに一つ一つの音に没入するといった思索的なスタイルだ。アンコールに弾いたシューベルト~リストの「セレナード」(「白鳥の歌」第4曲)での、ポゴレリッチ並みの遅いテンポと凝りに凝ったアゴーギクともども、些か辟易させられた。こういう「もって回った」演奏には、最近は全く共感できなくなっている。
 「セレナード」など、先日のリーズ・ドゥ・ラ・サールの、あの率直なテンポによる清涼な演奏の、何と夢幻的で美しかったことか・・・・。

※コーラスや大勢のソリストが入れば更にカネがかかるではないか、とコメントを頂戴しました。ごもっともです! では、ソリスト5人と最少の女声合唱による「さまよえるオランダ人」第2幕でも。

2011・5・29(日)新国立劇場 モーツァルト:「コジ・ファン・トゥッテ」初日

   新国立劇場  2時

 ダミアーノ・ミキエレットの演出が、実にいい。

 ドラマの舞台は、若者が集まるキャンプ場で、オーナーのドン・アルフォンゾは「失恋の痛手を引きずる男」(プログラム掲載のミキエレットのコメント)という設定。
 もっともこういうコンセプトは、かつてピーター・セラーズが試みた「ベトナム戦争のストレスを引きずる男が経営するドライブイン」を舞台にした演出をはじめ、当節ではしばしば使われる手法で、珍しいものではない。
 しかし、舞台の雰囲気と登場人物の演技が極めて生き生きしていて、心理描写に富み、しかも音楽の雰囲気をブチ壊さない(これが大切だ)という、均衡を保った演出である点が、何よりも快い。

 大詰めは、当然ながらハッピーエンドにならない。あのようなタチの悪いトリックが繰り広げられたあとで、恋人たちの間に和解が成立するはずはない・・・・という終結の解釈は、今日では常識だが、この演出でも最後は全員が自己嫌悪に陥り、憎悪しあってバラバラに別れて行く――友人同士だった男2人も、姉妹2人も、である。

 悪戯の仕掛け人アルフォンゾも、激怒したデスピーナに愛想をつかされ、「とりあえず約束だから」と渡した(このあたりの演技も細かい)報酬の紙幣も破られて叩きつけられ、独り残される。友人たちの純なる愛を破壊した張本人はコイツだ、という幕切れだ。実に自然なカタストローフで、ここにいたるまでの舞台展開と演技が、鮮やかなほど明快につくられている。

 パオロ・ファンティンの舞台装置とアレッサンドロ・カルレッティの照明も良い。夜のキャンプ場の光景など、すこぶる雰囲気豊かなものであった。

 歌手陣は、今回、例の大震災と原発の余波で、3人が入れ替わった。
 だがその代役、第1幕では、マリア・ルイジア・ボルシ(フィオルディリージ)も、グレゴリー・ウォーレン(フェルランド)も不安定、ダリア・オール(デスピーナ)は個性に不足。がっかりさせられた。
 ところが第2幕に入ると、デスピーナを除く2人は、慣れたのか調子が出たのか、別人のように安定して、良い歌唱と演技とを示すにいたったのである。これなら、2日目以降は大丈夫かもしれない。

 当初から予定されていたその他の主役は、概ね冒頭から快調の出来を示してくれた。
 バイロイトの異色ベックメッサーで人気を集めたアドリアン・エレート(グリエルモ)は今回も達者だし、ダニエラ・ピーニも、好奇心満々の性格をもつ妹ドラベッラを生き生きと演じていた。
 ローマン・トレケル(アルフォンゾ)は、今回は少し控え目な演技であり、また一瞬声が裏返るという彼らしくない事故もあったものの、長身を生かして貫禄充分。

 第1幕で、一部の歌手が精彩を欠いたのは、これも代役で来た指揮者ミゲル・A・ゴメス=マルティネスの遅いテンポと、東京フィルのさっぱり覇気の感じられない、か細い音の演奏のせいもあるだろう。
 序曲からして全くメリハリが無いし、幕開きのあのヴィヴィッドなはずの音楽にさえ、活気も劇的な緊迫感も感じられない。第1幕冒頭ではトレケルやエレートが、自己の感情の盛り上がりを、指揮者の「我が道を往く」優雅な(?)テンポと合わせ切れず、走り気味になる個所がいくつかあった。要するに、舞台と演奏とが全く異質になってしまっている、ということだ。

 指揮者とオケの演奏には綺麗なところもあり、このオペラの音楽の叙情的要素を浮彫りにした側面もあったことは事実である。しかし、それならたとえばあの三重唱(第10番)の、夢のように美しいハーモニーの移り変わりなど、もっとオーケストラを明確に響かせて描き出すべきではなかったか。
 周知の通り、このオペラでモーツァルトが駆使したオーケストラの色彩感、転調の妙味、夢幻的な美しさは並外れて凄いものがあるのだが、それとてピットのオーケストラがもっと大きな音ではっきりと聞こえなければ、味わいようがない。

 当初の予定通りパオロ・カリニャーニが指揮していれば、もう少し何とかなったのではないかと思うのだが・・・・。まあしかしこれも、第2幕ではほんの少しは改善されていたから、2日目以降は「何とかなる」のかもしれない――。

 とはいうもののこれは、もし当初の予定通りのキャストと指揮者で上演されていたらベストだったろうと思われるプロダクションだ。基本的には成功作と言えるだろう。
 演出家の起用も成功した。近年の新国立劇場の新制作の中では、最も良く出来た舞台である。

2011・5・28(土)マルク・ゴレンシテイン指揮ロシア国立交響楽団

   サントリーホール  2時

 2002年からこのオーケストラの芸術監督・首席指揮者を務める、オデッサ出身のゴレンシテイン(公演表記の「ゴレンシュタイン」は独語読み。一柳さんの巻頭文での同表記も、編集者からの要請の結果らしい)の指揮。

 冒頭の「《ライモンダ》(グラズノフ)よりの3つの小品」が開始された瞬間、前日の演奏と比べ、まるで全く別のオーケストラであるかのように聞こえてしまった。
 ぎっしり目の詰まった緻密な響き、弦と管の絶妙なバランス、やや硬質だが艶のある音色、きりりと引き締まった表情――芸術監督が指揮している時だから当然だが、これこそがこのロシア国立響の本領であろう。
 ショスタコーヴィチの「チェロ協奏曲第1番」のソリストにはアレクサンドル・ブズロフが登場して、これも楽々と鮮やかな演奏を披露した。

 しかし、これらの快演も、プログラム後半のラフマニノフの「第2交響曲」での圧倒的な演奏の前には影が薄くなったほどだ。第3楽章における深い憂愁、終楽章大詰めでの怒涛のごとき昂揚など、見事の極み。久しぶりにこの曲の醍醐味に浸れたという感である。
 最後にアンコールのような形で、「被災者ニ捧ゲマス」というゴレンシテインの日本語挨拶とともに、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」が情感豊かに披露されたが、これはすこぶる「泣かせる」演奏だった・・・・。

 それにしても、ここに聴くロシア国立響は――昔スヴェトラーノフの指揮で何度も聴いたあの同じオーケストラとは、とても思えないほどである。
 あの大地の底から湧き上るような、轟くような重量感たっぷりの力感といったものは、もはや無い。
 メンバーも、当時から在籍しているのはもう数名しかいないとか(ゴレンシテインの話)。

 その代わり、明晰で機能的な、重苦しくはないが独特の陰翳を備えた音楽性が満ち溢れている。1990年代以降、ニュー・ロシアとなってからのあの国のメジャー・オーケストラは――プレトニョフ率いるロシア・ナショナル管などその嚆矢ともいうべき存在だが――多かれ少なかれ、そういった特性を備えはじめていた。この名門ロシア国立響も、スヴェトラーノフが去ったあと、同じ道を辿っているようだ。
 
  音楽の友7月号 演奏会評

2011・5・27(金)西本智実指揮ロシア国立交響楽団

   サントリーホール  7時

 かつてはエフゲニー・スヴェトラーノフが紅い扇風機を譜面台にくくりつけて指揮をしていたロシア国立交響楽団。1997年にそのスヴェトラーノフと来日して以来、14年ぶりのお目見え。

 今回は計10回の演奏会が組まれ、予定表によれば、芸術監督・首席指揮者マルク・ゴレンシテインが3回、「首席客演指揮者」(同響のHPには載っていないが何故か?)の西本智実が5回の演奏会を指揮、2人が分けあって指揮する演奏会が2回、となっている。
 今夜は西本智実の指揮で、チャイコフスキーのプログラム。「雪娘」から3曲、「ピアノ協奏曲第1番」(ソロがヴェドラーナ・コヴァーチ)、「交響曲第5番」、アンコールは「アンダンテ・カンタービレ」。

 「ロシアの弦」の豊かな響きが、何より印象的だ。16型(ただしチェロは10本ではなく12本!)ながら、それ以上の編成に聞こえるほど、たっぷりした厚みがある。
 西本は、この量感に富むロシア国立響を、全体にやや抑制気味に鳴らし、特にピアニシモの個所では、全体の音量をやっと聞こえるくらいの秘めやかなものに抑えて、作品の叙情的な要素を浮彫りにしていた。

 管楽器群が豊麗な弦の響きの中に包まれるようなバランスになっていたのもユニーク。色彩感も控えめであった。こうした特徴がこのオケの近年の変貌を示すものでないとすれば、それは彼女がこのオーケストラを独自のやり方で制御することに成功しているという証拠になるだろう。
 総じて今夜の演奏では、弱音の美しさがすべて。

2011・5・26(木)クリスティアン・アルミンク指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時15分

 大震災犠牲者追悼の意をこめたヒンデミットの「葬送音楽」で開始され、クルタークの「断章~ヴィオラと管弦楽のための」(日本初演)が続く。
 この2曲でのソリストはアントワーヌ・タメスティAntoine Tamestitで、鋭い切り込みを持った鮮やかなソロであった。

 そのあとに栗友会合唱団が登場してブラームスの「運命の歌」を演奏し、休憩。そして後半にシューマンの「交響曲第2番」。渋いプログラムだ。

 演奏はやはり、最初の近・現代作品の方が冴えていただろう。古典的な清澄さを持った小品「葬送音楽」での弦の透徹した音色は美しく、「断章」では管弦楽とヴィオラ・ソロとの息詰まる対話がスリルを生んだ。
 「運命の歌」も悪くはなかったが、冒頭の旋律――ブラームスが如何にメロディストだったかを証明する甘美な主題――での管がピン・ポイントで決まらず、旋律と和声の美しさをぼかしてしまう傾向があったのは残念だ。

 この曲から次の曲の第1楽章にかけては、何か緊迫感に不足する演奏で、些かある種の危惧の念を抱かされたが、――幸いに交響曲の後半は持ち直し、第4楽章はすべての陰鬱さを吹き払うような、高揚感に満ちた演奏で結ばれた。
 特にこのシューマンで、アルミンクと新日本フィルが念入りにつくり出していた、まろやかで緻密ではあるが一種の憂いを含んだ音色は、この作品の性格の一つの面を浮彫りにした表現として、印象深いものであった。

 こういう演奏を聴くと、やはり今の新日本フィルにとってはアルミンクという指揮者が必要な存在である、という思いを新たにさせるのではなかろうか。

 しかし、私の知人で、さる欧州系企業に勤務する音楽好きのビジネスマンのO氏が先日、こういう見解を聞かせてくれた。
 ――もしアルミンクが、あの騒ぎの期間中に欧州で入れてしまった指揮の仕事を「日本の被災者へのチャリティー・コンサート」とするとか、もしくはその時のギャランティを、あるいはキャンセル後の最初の日本での指揮のギャランティを被災者に寄付するとか、・・・・たとえばそんなことをすぐ発表していたら、新日本フィルとの空気や、日本の聴衆への印象も、もう少し違った方向を辿ったのではなかろうか――と。
 なるほど、一理ある。
 その方法がいいかどうかは別としても、アルミンクの周りに、だれかそういうことをアドヴァイスする知恵者がいなかったのか。

 まあ、知恵者がいるいないはともかくとして、アルミンク自身も――「自分には家族を守る責任がある」などという弁明もいいだろうけれど――日本で重要な仕事をしているからには、日本人の心情というものをもっと理解しようと努力することも必要ではなかったろうか? 
 若い彼は、これから世界のあちこちで仕事をして行くだろう。それぞれの国に合った人心掌握の術というものを、さらに学ばなくてはなるまい。

2011・5・23(月)ペトル・ヴロンスキー指揮読売日本交響楽団

   サントリーホール  7時

 来日キャンセルのズデニェク・マーツァル(マカル)に代わり指揮台に立ったのは、同じチェコの指揮者ペトル・ヴロンスキー。1987年に一度客演したことがあるそうだが、私は初めて聴く。
 プログラムはモーツァルトの「ピアノ協奏曲第24番」(ソロは清水和音)と、マーラーの「交響曲第5番」。

 「代役なのに」オケをギリギリ猛烈にしぼりあげると楽員がブーブー言ってる、とかいう話を事前に聞いたが、なるほどこれは相当細かいところまで念入りにつくり込む指揮者だ。演奏を聴いた感じでは、練習でもかなりうるさかっただろうと思う。
 オケは大変かもしれないけれども、たまにはこういう人に来てもらうのもいいンじゃないでしょうか? 
 最近ではむしろ稀なタイプの、重厚壮大志向の音楽をつくる指揮者である。

 マーラーでは、管のソロには、時々オヤと思うところもあり、合奏全体のバランスにも完璧でないところもあったが、少なくとも演奏の細部のニュアンスに関しては精妙緻密に仕上げられていた。たっぷりとした響きがつくられているため、管弦楽の咆哮も硬い絶叫にならず、音楽がヒステリックに陥ることがない。充分にスケールの大きな演奏の「第5番」であった。

 なお、今回は第3楽章でのオブリガート・ホルンは、その時だけ下手側後方、ホルン群の横に移動して、起立したまま吹いていた(なかなか壮烈なソロだった)。ここは、指揮者の横まで出て来て、ここだけコンチェルトのように立って吹くというケースもある。新しいマーラー協会版スコアは「何処に立て」とまでは指示していないようだが、いずれにせよ視覚的効果も含めて好悪の分かれるところであろう。変化があって面白いけれども若干気が散る、ということもある。

 そして、ヴロンスキーの採るテンポはかなり遅い。
 モーツァルトをあの遅いテンポで重々しく演奏されると、いかにハ短調の曲であっても、私にはどうにもついて行けないものがある。
 だが、これに続いて、演奏時間80分という遅いテンポのマーラーの「嬰ハ短調」を聴いてみると、そこに特別な意味も感じられるようになる。思えば、ヴロンスキーが慟哭にも似た表情の遅いテンポを採った第1楽章「葬送行進曲」こそ、この「第5番」の中心コンセプトなのであり、この一夜のプログラムの核ともなる存在だったのだ、と――。

2011・5・22(日)ユーリー・バシュメット指揮モスクワ・ソロイスツ

   東京オペラシティコンサートホール  2時

 バシュメットが指揮するモスクワ・ソロイスツ。弦4-3-5(!)-3-1の16人編成。
 この20年来、いろいろなメンバーが加わったり出たり、その都度演奏水準が乱高下したこともあった。が、現在の顔ぶれは、少なくとも今日の演奏を聴く範囲では、なかなか良いようである。アンサンブルの音色は明晰だし、バランスも安定している。

 今日のプログラムは、メンデルスゾーンの「ヴァイオリンとピアノのための協奏曲ニ短調」、パガニーニの原作をデニーソフがサイケデリックに編曲した「カプリース」から「21番」「9番」「24番」、パガニーニの「ヴィオラ協奏曲」、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」で、弦楽合奏の響きはどれも均整の取れたものであった。

 とりわけ「弦セレ」がこのような小編成で演奏されると、極めて澄んだ音色になり、新鮮な趣きが出る。
 バシュメットはその小編成を生かして、まるでソロの演奏のようにテンポを動かしつつ念入りに、思い入れたっぷりに指揮した。が、こういう風にいじりたいという気持は解るけれども、いささか劇的誇張が過ぎたのではないか?
 「ヴィオラ協奏曲」では、御大自ら弾き振り。貫禄と老練さで君臨したが、さすがの英傑もやはり年齢を感じさせた・・・・という印象は拭えず、少々寂しくなる。

 前半2曲では、先年仙台国際音楽コンクールで優勝したヴァイオリンのアリョーナ・バーエワが、華やかなソロで気を吐いた。もともと上手い人ではあったが、今やスター性ともいうべき存在感が身について来たようで、今後がいっそう楽しみになる。
 なお1曲目でのピアノは、バシュメットの愛嬢クセーニャ。・・・・まあもともとこの曲ではピアノは分が悪い、という特徴もあるから・・・・。

 アンコールでは、武満徹の「他人の顔のワルツ」が濃厚な音色で演奏され、シュニトケの「ポルカ」が曲想にふさわしくアイロニカルに演奏されたあと、最後に「津波の犠牲者追悼の意をこめて」ヨハン・ベンダーの「グラーヴェ」が演奏された。
 このヨハン・ベンダーという人は、あのヨハン・フリードリヒ・エルンスト・ベンダーのことなのだろうか? それとも? こういう曲を書いているとは知らなかった(作曲者名は聞き違いでもなかったようだが、譜面を確認してみたいところだ)。

(追記)モーストリークラシック編集部のYさんから、この「グラーヴェ」は、ヤン・イルジー・ベンダの「ヴァイオリン協奏曲ト長調」第2楽章だとのご教示をいただいた。ありがとうございました。
 バシュメット編曲とのことで、YOU TUBEにも彼の演奏が何種類か出ている。協奏曲の全曲はナクソスからも出ており、そのデータによれば、ボヘミアの音楽一族ベンダ家の祖ヤン・イルジー・ベンダ(ヨハン・ゲオルグ・ベンダ、1686~1757)の作品とのこと。
 ただし、ナクソスのサイト掲載の作曲者プロフィールや、ニューグローヴ世界音楽大事典(講談社刊)をよく読むと、村楽師だった彼の経歴からして、彼の作品とは思えぬ向きもある。むしろ彼の次男である同名のヤン・イルジー・ベンダ(1713~52)――フリードリヒ大王の楽団のヴァイオリン奏者でもあり、ヴァイオリン協奏曲をも書いている――の作品ではないのかとも思えるのだが、どうか? 新たなご教示を待ちたい。

2011・5・21(土)ピオトル・アンデルシェフスキ・ピアノ・リサイタル

   サントリーホール  7時

 ピアノの傍にソファが三つ、テーブルが一つ。そこに平服を着たアンデルシェフスキが開演前から女性(実は招聘元のスタッフ)と寛ぎ、お茶を飲んでいる。開演時間になるとやおら立ち上がり、ピアノの前の事務椅子みたいなのに腰掛け、バッハを弾き始める――という趣向だ。

 これが音楽とどのような関係があるのかは考え方次第だが、たしかに、無人の舞台に明かりが灯り、演奏者が拍手に迎えられ登場し、いざおもむろに弾き始めるバッハを構えて聴くのと、ソファから立ち上がってピアノに向かった青年がそのまま弾き始めるバッハを聴くのとでは、そのバッハの音楽そのものすら違う雰囲気に感じられるという、心理的な効果というものは存在するだろう。

 ただ、リサイタルをそういった日常的な世界に引き戻すには、このサントリーホールは、明らかに立派過ぎ、大き過ぎる。
 演奏が始まってしまえばともかく、「非日常的な」会場の椅子に整然と着席した聴衆が、ソファでお茶を飲んでいる演奏家を見つめながらシーンとして開演を待っている図は、やはりアンバランスだ。その意味では、せっかくの企画も、効果半分といったところか。

 しかし、演奏は美しく、爽やかだ。コンセプトも決まっている。
 バッハの「フランス組曲第5番」で始まり、アンデルシェフスキ編曲によるシューマンの「ペダルピアノのための練習曲(6つのカノン風小品)」、ショパンの「作品59の3つのマズルカ」、バッハの「イギリス組曲第6番」というプログラミングは、大きく弧を描いて元に戻って来る飛行の航跡を見るよう。

 伸びやかではあるが比較的端正に演奏された前半の2曲のあと、ショパンのマズルカが緩急自在に演奏されはじめると、音楽が一気に解放に向かうような感がある。
 続いて切れ目なしに入ったバッハにすら、すでに明るい流麗な自由さが漲っているかのようだ。リズムにちょっとアクセントを付して、時に変拍子に感じさせる手法も使われる。「ドゥーブレ」のあとに長い間を置いて入った「ガヴォット」が、これほど愛らしく軽快に聞こえた演奏は、そう多くはないであろう。

 アンコールでの、シューマンの「森の情景」からの4曲―――これまた、美しく瑞々しかったが、本編のまとまりに比べると、やや添え物的な感も。

    月刊「ショパン」7月号

2011・5・20(金)クリスティアン・アルミンク指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団

   すみだトリフォニーホール  7時15分

 総統閣下のみならず、満都の(?)話題をさらった音楽監督が、やっと還って来た。
 ドヴォルジャークの「交響的変奏曲」、ブラームスの「二重協奏曲」、マルティヌーの「第3交響曲」というプログラムを組んだ定期である。

 幸いに客席からブーイングも飛ばず、何かしら静かな雰囲気ではあったけれど、無事に初日の幕が下りたのは、まず以って祝着である。演奏はよくまとまっていたし、特に今夜の目玉商品であるマルティヌーは満足すべき出来であった。
 とはいうものの、カーテンコールで垣間見えた指揮者と楽員との間の空気は、あまり芳しくないような。

 まあ、世の中には、個人的には非常に仲が悪くても素晴らしい演奏をしていた有名弦楽四重奏団の話もあるし、隣同士で座る首席フルートと首席オーボエが「お早うの挨拶もしないほど仲が悪い」にもかかわらず演奏は「互いに絶対突っ込まれぬよう意地でも合わせて」いたオケがあったというし、私生活では口も利かないほど犬猿の仲だった名漫才コンビが現実にいた例もあるし、・・・・楽屋裏と舞台とで全然事情が異なる例は、昔から珍しくはない。
 言い換えれば、プロたるもの、いったん舞台に上れば、断じてウラのゴタゴタを客に感づかれるようなことがあってはならぬ、という鉄則である。

 精魂こめて指揮棒を振ったアルミンクも、いい演奏を行なった新日本フィルも、その点ではプロの面子を示した。音楽の持つ魔力が、すべてを結びつけるという例であろう。

 だが、カーテンコールも、やはり舞台の上のこと。芸の本番のうちであって、楽屋裏ではない。
 その点で、新日本フィルの楽員の中には――これまでの過程は私も知っているし、気持は充分すぎるほど理解できるが――客の面前で些か大人気ない行動を示した奏者たちも少なくなかった、と見られても仕方ないだろう。

 終演後のロビーでのサイン会に現われたアルミンクの表情に、何か疲れたような、荒れた雰囲気が窺われたのは、・・・・こちらの思いすごしだったのならいいけれども。
 いずれにせよ、この修復には時間がかかるかもしれない。

 演奏の方は、ドヴォルジャークは何か乾いた演奏だったが、前述の如くマルティヌーの「第3交響曲」は秀逸で、昨年12月に聴いたフルシャと東京都響の演奏に劣らぬ出来を示した。清涼で、やや冷徹ながら多彩な音色を駆使、幕切れでは美しいカンタービレを利かせて、安らぎと救いのイメージを映し出していた。

 ブラームスでのソリストは変更になり、アリッサ・マルグリス(ヴァイオリン)とタチアナ・ヴァシリエヴァ(チェロ)が弾いた。彼女らの極度に濃厚な音色は、アルミンク=新日本フィルの個性とは少々アンバランスな傾向も。だがオーケストラの安定度は高く立派であり、剛直な響きを示していて、気に入った。

 演奏に関しての詳細は  音楽の友7月号演奏会評

2011・5・19(木)アレクサンドル・ヴェデルニコフ指揮NHK交響楽団

   サントリーホール  7時

 当初はチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第2番」が入っていたプログラム、滅多にナマで聴けない曲なので大いに楽しみにしていたのだが、ピアニストがシモン・トルプチェスキからアレクサンドル・メルニコフに変わったら、あっさりと「第1番」に変更になってしまった。
 名曲ゆえ喜んだ人もいたろうが、こちらは失望落胆。

 メルニコフとて、モスクワ生れだし、モスクワ音楽院で勉強した人なのだから、チャイコフスキーの2つの協奏曲くらい、わけなく弾けるはずだろうに。
 で、彼の実際の演奏はといえば、――第1楽章のアレグロ・コン・スピリートに入ったところで、スコアには指定のない強弱自在の表情を加え、スケルツァンドに弾いて行くなど、なかなか面白いとは思ったのだが・・・・。
 何故か今日は、CDで聴くほどの冴えはなかった。まあ、ちょっと変わった個性を持つピアニストであることは事実で。

 ヴェデルニコフの方は、冒頭のグリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲ではN響ともども当たり障りのない演奏であったが、第2部に置かれたラフマニノフの「交響的舞曲」の方は、N響の上手さもあって、かなり愉しめた。

 この指揮者は、特に近年、「持って行き方」が極めて巧みになった。第1楽章や第3楽章における、テンポを次第に速めて行く部分での自然な呼吸などはその一例である。
 特に気に入ったのは、ワルツのテンポによる第2楽章だ。ここでの白々としたミステリアスな雰囲気の音色は、CDではなかなか味わえないものであった。

2011・5・18(水)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

  東京文化会館大ホール  7時

 都響の復調、漸く成る――と言ってもいいか。

 特にブルックナーの「第2交響曲」では、震災前に到達していたあの豊麗で壮大な均衡が、ほぼ完全に取り戻されていた。
 それがはっきりと感じられたのは、第1楽章が始まって暫くしたあたりからである。特に弦楽器群のふくよかな厚み、緻密な響きは、わが国のオーケストラの中では随一と言っても過言でなかったあの水準にまで、復帰していた。
 金管楽器群の音色も、楽章を追うごとに安定して行った。とりわけ第3楽章以降では、濃厚な弦の表情と呼応して、極めてスケールの大きな音楽がつくり出されていた。

 ここまで来れば、もう大丈夫だろう(と思いたい)。インバルがこのあと12月まで来ないのはちょっと気になるけれど、都響は震災前の半年間、他の客演指揮者の時にもがっちりした音楽をつくっていたから、今度も何とか水準が保てるのではないだろうか(と思いたい)。

 この「2番」、ブルックナーものにしてはコラール的な要素があまり無く、むしろ息の短い主題と細かいリズムで畳み掛けて行くといった性格が多く聴かれる作品だが、インバルという人は、どちらかというとそういう音楽の方を得意としているように感じられる。まとまりのない形式のこの第4楽章が非常に豪快な構築となっていたのも、インバルのそのダイナミックに畳み掛ける追い込みの巧さに由るところが大きいであろう。

 第1楽章の【H】から【I】にかけて、木管の歌謡風な旋律を支える弦楽器群が大きくざわめき、波打ちながら僅かにテンポを速めつつクレッシェンドして行く個所は、私が大変好きなところなのだが、今日の演奏でのインバルの「煽り」と、それに応える都響の弦の厚みのある音色と躍動と緊迫感は素晴らしかった。ここだけでももう一度聴きたい、と思ったほどである。
 ともあれ今日の「2番」、インバルと都響のブルックナーの中でも、昨年の「8番」や「6番」をしのぐ見事な演奏――と私には感じられた。

 なお前半には、プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」。そこでも都響は重厚な低音を基盤として、空間的な拡がりのある柔らかい響きを聴かせ、この曲の叙情的な側面を美しく出していた。ソリストは若い女性奏者ブラッハ・マルキンで、これも綺麗なプロコフィエフをつくる。

 いつだったかこのブログで、「日本の演奏会場の客席は暗すぎる、プログラムやスコアを見ながら聴けるくらいの照度は欲しい」と書いたことがあったが、あれは全面的に撤回する。
 東京文化会館大ホールの都響定期はいつも客席が非常に明るいが、今日は隣に座っていたオヤジサンが、プロコフィエフの間はのべつプログラムをパラパラとうるさくめくっては読み、ブルックナーの時にいたっては何と「写楽」を拡げ、頁をパチパチ繰りながら読み続けていた。こんな非常識なオヤジは見たことがない。客席が明るすぎるからこんなことをする奴が出て来るのだ、電力節減の時だというのに文化会館は何故こんなに照明を上げているのだ、と、内心八つ当たりを繰り返す。
 おまけに、前のオバサンは椅子から転げ落ちそうな勢いで舟を漕いで居眠りしているし、近くにはのべつ鼻をすすっている人がいるし、・・・・気が散ること夥しく、仕方なく目を閉じて必死に精神を音楽に集中しようと試みる。
 が、そんな中でも、今夜は充分演奏に浸れたのであった。インバル=都響のブルックナーが如何に見事だったか、ということであろう。

    モーストリークラシック8月号 公演Reviews

2011・5・17(火)リーズ・ドゥ・ラ・サール・ピアノ・リサイタル

   紀尾井ホール  7時

 美女リーズ・ドゥ・ラ・サールの演奏の特徴の一つは、その清楚な妖精のごとき容姿からは予想できぬほど鮮烈な、切り込むような鋭さにあるだろう。
 透徹した白色の光の中に煌きながら沸騰する音のエネルギーは、細身ながら強靭そのものだ。極度に明晰な隈取りを持った音が強烈な意志力を持って乱舞し、聴き手にも並々ならぬ緊張感を強いる。

 そうした特質は、今日の「全リスト・プログラム」の、特に第1部の4曲――「バラード第2番」「葬送」「愛の夢第3番」「ダンテを読んで」にも如実に示されていた。
 3曲目に置かれた「愛の夢」が、それまでの緊迫した雰囲気を和らげ、解放感を持たせるのかと思っていたら、さにあらず。一般的なイメージとは正反対の、攻撃的な「愛の夢」になっていて、聴き手はこの4曲(計1時間)がまさに統一された世界として構築されていたのを知ることになる。
 これが彼女のリスト観の一つの側面なのか、と唸ったり、感嘆したり。

 ところが、ドゥ・ラ・サールは、第2部に入ると、今度は編曲ものを通じて、リスト解釈のもう一つの側面を聴かせて来る。
 シューマンの「献呈」と「春の夜」、モーツァルトの「ラクリモーザ」、シューベルトの「セレナード」、ワーグナーの「イゾルデの愛の死」――この5曲の編曲版の演奏で彼女が紡ぎ出した叙情美は、驚異的でさえあった。
 特に「ラクリモーザ」における近代音楽的な複雑な音の組み立てや、「セレナード」における旋律と和音の素朴で微細な美、といったものを浮彫りにして行く透明感に満ちた演奏は、見事というほかない。

 「愛の死」は、この所いろいろなピアニストでよく聴く機会のある曲だが、これほど内声部の音の綾が美しく織り成された演奏は、稀だろう。やはり、ただものではないピアニストである。

 アンコールは、ショパンの遺作の「夜想曲嬰ハ短調」、ドビュッシーの「パックの踊り」、スカルラッティの「ソナタK.159(L104)」、ショパンの「夜想曲ホ短調作品72の1」。時に夢幻的な、時に神秘的な、時に軽快な、しかも清澄で洗練された演奏は、何とも快い。ここでは、第1部での激烈なリストの世界すら遠い昔のことのように感じられてしまう。

2011・5・15(日)クリスティアン・テツラフ・ヴァイオリン・リサイタル

   トッパンホール  2時

 前日にスダーン指揮の東響と鮮やかなメンデルスゾーンを協演したテツラフが、トッパンホールでも2回のリサイタルを行っている。
 もともとの予定は3回にわたるロンクィヒとのベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会だったのだが、ロンクィヒが「訪日は絶対イヤだ」と言い張って出演を中止(スダーンが直接電話し説得しても応じなかったとか)したため、予定通り来日したテツラフは無伴奏作品によるソロ・リサイタルに切り替えたという次第。偉い。

 で、今日テツラフが演奏したプログラムは、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番」と「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第1番」、それにバルトークの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」だった。
 鋭い透視力を示しながらも伸びやかで瑞々しいバッハの演奏ももちろん良かったが、圧巻だったのはやはりバルトークのソナタであろう。激烈さと、しなやかさと、精妙さを兼ね備えた演奏であり、聴き手は第1楽章冒頭から激しく揺さぶられ、引きずりまわされてしまう。

 満席の聴衆も同じ思いだったに違いない。バルトークが終った時の拍手は凄かった。当初予定のベートーヴェンももちろん聴きたかったが、このバルトークの「無伴奏」を聴けたことで、その埋め合わせは充分なものがあった。

2011・5・14(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団定期

   サントリーホール  6時

 シェーンベルクの「室内交響曲第2番」、メンデルスゾーンの「ヴァイオリンとピアノのための協奏曲ニ短調」、ベートーヴェンの「英雄交響曲」というプログラム。

 前半の2曲は、日本のオケの演奏会では滅多に聴けないものだ。こういうプログラムでもほぼ満席になっているのは、スダーンと東響のコンビの人気が今や定着しているからであろう。オケとそのシェフとの呼吸がぴったり合って、独特の個性を確立できているというのは、素晴らしいことである。

 冒頭のシェーンベルクなど、かなり渋い曲だが、これは実に緻密に堅固に、有機的に組み立てられた演奏で、面白く聴けた。
 二つの楽章の作曲年代は30年も離れているものの、基本的には初期の調性音楽の手法で纏められているだけに、聴き易いということもあろう。

 この重い雰囲気を一瞬にして振り払うのが、次のメンデルスゾーン。なかなか見事な選曲配列である。ピアノのアレクサンダー・ロンクィヒが「本人の判断により来日を取り止めた」ため、児玉桃が代役として出演していた。
 だがやはり、演奏での主導権を一手に握ったのは、ヴァイオリンのクリスティアン・テツラフであろう。もともとヴァイオリンの華やかな活躍が目立つ曲でもあるのだが、テツラフの伸びやかでありながら、どこか精妙に制御されたところもある鮮やかなソロで聴くと、いっそう魅力的な協奏曲に思えて来る。
 児玉桃はやや控え目で、テツラフの盛り立て役に回ったような演奏になっていたが、もう少し「図々しく出しゃばって」も良かったのではないかという気もする。

 後半は「英雄」。何と弦16型で、しかも第1楽章最後の例の第1主題におけるトランペットも最後まで全部吹かせるという、スダーンにしては意外な(?)方法を採っていた。
 大編成の弦には柔らかくたっぷりと弾かせるというスタイルなので、極めて豊麗な音色になる。これに対して楽譜通りの2管編成による管は――ホルン(3本+アシスタント)を鋭い響きで吹かせていたのを除けば、その他は「彼方の奥の方から」響かせるといったイメージに感じられた。

 とはいえ、フルートのソロもオーボエのソロも、要所では巧みに明確に浮彫りにされており、この辺はスダーンと東響の呼吸の良さだろう――1番オーボエの荒惠理子は、相変わらず凄い人気だ。カーテンコールの時に2階天辺から「ブラーヴァ、エリコ!」なんて叫んだ人がいたようだが? 

 今日の「英雄」、スダーンとしては比較的ストレートに構築していたのではないかと思うが、どうか? 第1楽章など、綿密につくられてはいたが、何かあっさりと進められるので、少々意外でもあった。だが、第1楽章コーダでの追い込みや、スケルツォ楽章で弦と管が短く掛け合いをする個所でのアクセントの変化、その他第2楽章や第4楽章の一部などでも、スダーンならではの精妙な味が発揮されていた。
 最も完璧な出来を示していたのは、スケルツォであろう。また全曲大詰めのプレストでも、強力な弦楽器群の渦巻く響きが、壮麗な迫力と緊迫感とを生み出していた。

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2011・5・14(土)アレクサンダー・リープライヒ指揮
紀尾井シンフォニエッタ東京

   紀尾井ホール  2時

 韋駄天アレクサンダー、飛ばし屋リープライヒ。
 厭味で言っているわけではない。ベートーヴェンの、特に「第7交響曲」の第4楽章など、疾風怒濤の驀進テンポだ。この曲はそうした性格をも持っているし、演奏でも音楽の形は崩れていなかったから、結構であろう。オーケストラも奮闘した。

 紀尾井シンフォニエッタ東京のこの定期は、ベートーヴェン交響曲全曲ツィクルスの一環で、今日は序曲「コリオラン」に、交響曲の「第8番」と「第7番」というプログラムである。
 長身のリープライヒは、ステージに現われて答礼したかと思うと、振り向きざまに「コリオラン」の冒頭のユニゾンを振り下ろす。その小気味良いスピーディな動作がそのまま音楽にも反映し、速いテンポと鋭角的なリズムで畳み込んで行く、痛快極まるベートーヴェン演奏となった。

 だがリープライヒ、何が何でも一瀉千里という指揮ではない。「第7番」第1楽章再現部に入って間もなくの、音楽がリズムの乱舞を止めて陰翳を帯びる個所では、弦を大きく表情豊かに歌わせて憂愁感を出そうと試みる(これは故・朝比奈隆が92年の演奏で成功した手法だ)など、なかなか芸の細かいところも持っている。
 欲を言えば、あそこで弱音の木管群がピタリと決めてくれていれば、極めて感動的な一瞬になったと思うのだが・・・・どうやら今日の1番オーボエは、この指揮者との相性があまり良くなかったらしい(?)。

 弦8・6・6・4・2型、2管のオーケストラは、全曲目で大熱演。
 ただ、今回は2階席中央下手側前列で聴いたのだが、トランペットとフルートが高音域のフォルティシモを吹くと、オーケストラ全体がその二つの楽器にマスクされてしまい、すべてがダンゴ状の響きになってしまうという現象が感じられた。
 基本的に、全体に管が強く、弦が弱い。「7番」第4楽章など、極論すれば、「管ばかり聞こえる」という印象もあったのである。8型の弦に対する管のこの大音量というバランスは、基本的に無理ではなかったかという気もする。

 しかし、こういうバランスは、聴く位置によって異なるものだ。今回も1階席で聴いたとしたら、もっと弦がはっきり出て、管楽器との遠近感が明確になっていたかもしれない。
 いずれにせよ、このホールでのオーケストラのフォルティシモの難しさは、どうも未だ解決されていないようである。

2011・5・13(金)METライブビューイング ロッシーニ:「オリー伯爵」

   東劇(東京・銀座) 7時

 ロッシーニ最後のオペラ・ブッファ「オリー伯爵」――METでは今回が初めての上演の由。
 上映されたのは4月9日の上演(フランス語)ライヴで、指揮がマウリツィオ・ベニーニ、演出がバートレット・シャー。
 歌手陣は、オリー伯爵をファン・ディエゴ・フローレス、フォルモティエ城の伯爵夫人アデルをディアナ・ダムラウ、小姓イゾリエ(イゾリエロ)をジョイス・ディドナート、その他ステファーヌ・デグー、ミケーレ・ペルトゥージらといった顔ぶれである。

 とにかく、歌唱といい、演技といい、みんな上手いの何の。
 3人の主役たちの見事な歌唱と、ぴったり合った演技の呼吸は、そのままMETの上演水準の高さを物語るだろう。3人がベッド上で絡み合う場面など、秀逸である。
 これはもちろん新演出だが、旧い芝居小屋上演の形を取り入れ、小さな舞台を作って、舞台監督や裏方や効果係なども一緒に姿を現わし、演技に参加するという仕組みになっている。他愛ないストーリーを屈託なく愉しませるという点では、すこぶる手頃な演出と言えよう。

 フローレスは、例の如く見事な高音を連発して快調そのもの。尼僧に化けてアデルに迫るあたりの演技は抱腹絶倒だ。この上演の30分前に子供が生れたのだそうで、喜色満面、休憩時間でのインタビューの別れ際には「南米の皆さん、それに日本の皆さん」などと愛嬌を振りまいていた。
 ルネ・フレミングの案内も、ますます堂に入っている。このシリーズで進行役をつとめる何人かの歌手のうちでは、やはり彼女が圧倒的に巧く、観客を逸らさない。

 METは予定通り来てくれるが、今日はボロディナとカウフマンの来日中止が発表された。前者は体調不良で、欧州での公演もキャンセルらしいから仕方がないが、カウフマンは家族の猛反対で潰れたとか・・・・やれやれ。ダムラウは来てくれるらしいが・・・・。

2011・5・12(木)アラベラ・美歩・シュタインバッハー・ヴァイオリン・リサイタル

   東京文化会館小ホール  7時

 遠くから見れば楚々たる美女、近くで見れば妖艶な・・・・それはともかく、今日はブラームスの3つのソナタ。
 2番、1番、3番の順に並べられたプログラムで、アンコールにはブラームスの「スケルツォ」(例のF,A.E.ソナタからの)と、クライスラーの「愛の悲しみ」が演奏された。
 ピアノはいつものパートナー、ロベルト・クーレック。

 コンチェルトを演奏する時には、常にきりりと引き締まった毅然たる気品を示す彼女だが、今日はとりわけ端正かつ優麗な演奏。くっきりと隈取りされた美しい音色、正確なテンポ、落ち着きのある表情が印象的であった。
 ブラームスの叙情が、あふれるばかりのカンタービレで浮彫りにされていて、美しい。ただしそこには思いのほか陰翳というものがなく、常に明るい光に満ちた歌になっていて、それがブラームスの音楽を聴く上で、一種の物足りなさを感じさせる原因なのかもしれない。

 しかし、そうした端麗な音楽づくりの裡にも、「第3番」のフィナーレなどでは、こみ上げる感情の高まりをついに抑え切れず、決然たる昂揚に達して行く。昔の人がよく謂う「初めは処女の如く、終わりは脱兎の如し」か。
 彼女はコンチェルトの演奏の時によくそういうスタイルを採るが、このような一夜のリサイタルにおいても、プログラム全体にそのような構築設計による形式感を導入するとみえる。如何にも知性的だ。

 それにしても、身のこなしからして如何にも落ち着いて気品があり、悠揚迫らざる表情で端正な演奏をしていた美女ヴァイオリニストが一転、次第に激しい気魄を示しつつ直截剛直で切り込むような音楽をつくって行く「変身」の様子は、何か凄まじい迫力を感じさせる。聴衆の拍手は曲を追って高まり、「第3番」のあとでは、客席は沸きに沸いた。

2011・5・11(水)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

   サントリーホール  7時

 インバルが帰って来た。
 都響の建て直しへの救世主――と呼ぶのも変な話だが、大震災後の1か月に及ぶ演奏「自粛」のブランクのため錆びついてしまった都響のアンサンブルを叩き直すには、やはりこの人しかいない、という感もあるからだ。

 もちろん、4月定期におけるアツモン指揮のブラームスの「2番」の後半2楽章や、リントゥ指揮の「フィンランディア」での演奏は、震災前の演奏水準を蘇らせていたのは事実だが、それらは根本的な復旧とは些か言い難いものであった。・・・・それにしても、何年もかけて営々と築き上げたはずの「卓越した水準」が、1か月のブランクでかくも脆く崩れ落ちてしまうという、オーケストラというものの微妙さ、危うさ、恐ろしさ――それを痛感させられたのが、今回の都響のケースだったと言えよう。

 だが、何もない土地に新しく線路を敷設するのとは違う。錆びたレールでも、列車を走らせればすぐ錆が落ち、再び輝いてくれるだろう――と願うのが、音楽愛好者としての人情というものであろう。その期待がかかっていたのが、この5月定期だった。

 結論から先に言えば、今日の演奏、やはり流石はインバル――と讃えられてしかるべきであろう。
 前半はシューベルトの「交響曲第5番」。柔らかく清澄に仕上げられた都響の演奏には、久しぶりに美しさがあったが、何かメリハリに欠け、淡彩で、この程度なら、ちょっといいオケなら出来る範囲のものだろう。私が都響に期待するのは、それ以上のものである。従って希望は、後半の「英雄の生涯」にかけられる。

 冒頭の「英雄の主題」は思いのほか毅然と始められたが、その第1部と、続く「英雄の敵」――何か安定度のないアンサンブルと演奏に、やはり未だダメか、と落胆する。
 が、「英雄の伴侶」で矢部達哉が綺麗なソロを繰り広げたあとの、全管弦楽による陶酔の歌の個所から、オケが俄然、豊麗な音色に変わり始めた。そのあとは、もう大丈夫である。「英雄の戦い」での、ともすれば野放図に陥りがちな咆哮部分でも、オーケストラは均衡を保って鳴り響いていたし、「英雄の業績」「英雄の引退」と続く部分では、色彩感も甦っていた。
 インバルは比較的速めのテンポで、全曲の起伏を大きく弧を描くように構築して、特に中盤以降は緊迫感に富むドラマをつくり出して行ったが、これも充分に納得させられるものであった。

 13日の演奏の時には、さらに良くなるだろうと思う。

2011・5・10(火)チョン・ミョンフン指揮ソウル・フィルハーモニー管弦楽団

   サントリーホール  7時

 曲目が変更され、チャイコフスキー・プロとして「ヴァイオリン協奏曲」と「悲愴交響曲」が演奏された。

 協奏曲のソリストは庄司紗矢香。LFJも含め、このところあちこちで聴く機会がある。
 今夜のチャイコフスキーは、最近の彼女としては珍しく少しロマンティックな要素を感じさせた演奏だ。が、チョンの猛烈に煽るテンポに対して、あるいは16型のオーケストラの音量的猛攻に対して、一歩も譲らず渡り合う彼女の集中力は、さすがに物凄い。
 ここでは、見事なテクニックを示しながらも、それを決して単なる技術偏重のものとして感じさせず、作品が持つ目まぐるしい華麗な力の表現として印象づけるという、最良の意味でのヴィルトゥオーソ的な彼女の演奏が実現されていたのであった。
 しかも、カデンツァの個所に到るや、俄然いつもの彼女の切れ味鋭い、鮮烈な音楽が顔を覗かせる。この瞬間も面白い。

 「悲愴」は、弦を18型に増強させての大編成。しかもコントラバスは10本でなく、12本(!)である。
 今回は東京フィルから楽員を17人、およびチェロのトップにN響の木越洋を客員として加えたそうだが、そこまでしても大編成にしたいというチョンの考えなのだろうか。
 弦は協奏曲におけると同様、ガリガリ弾かせずに余裕を以ってたっぷり弾かせるという方法が採られていたため、響きは柔らかく豊麗なものとなっていた。

 かように、オーケストラは、全体に申し分なく壮麗で耳あたりが良い。しかし――それはいいのだが、演奏には、どうも心を打つものが感じられないのである。物理的には美しくても、「パテティーク――感情豊かに」でないこの交響曲の演奏は、ある種の空しさを感じさせてしまう。
 チョン・ミョンフンという人は、本来はこんな音楽をつくる指揮者ではなかったはずなのだが・・・・。

 アンコールには、チャイコフスキーの「第4交響曲」の第4楽章が、これも極めて快速なテンポで演奏された。あれこれ彼らの演奏について考え込みながら聴いていたせいで、うっかり聞き逃してしまったのだが、ロンドの第2部は、省略されてはいなかったろうか?

2011・5・8(日)小林愛実ピアノ・リサイタル

  東京オペラシティコンサートホール  2時

 前のコンサートが12時に終ったので、こちらのリサイタルを聴きに行く。直前に出たCDでのベートーヴェンのソナタが予想以上に良かったので、ではナマで聴いてみよう、と思った次第。

 シューマンの「子供の情景」、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」、ラヴェルの「ソナチネ」、ベートーヴェンの「熱情ソナタ」というのがメイン・プログラムだ。ラヴェル以外の3曲が、新しいCDにも入っている曲である。

 現在、満15歳。たしかに逸材と呼ばれるにふさわしく、この年齢にしては非常にスケールの大きい風格が演奏に備わっていて、音楽の骨格もしっかりしている。音色もまろやかで温かく、豊麗だ。
 妙な思い入れや小細工が全く感じられないのは、この年齢ゆえ非常に好ましいことだが、正確なテンポを保持することにこだわりすぎているのだろうか、演奏にもう少しスウィングするものがあってもいいように思われる。

 とにかく、すべてはこれからだ。早く世界を見て、幅広く学んで大物になって欲しい。それに、枝葉末節なことかもしれないが、あの少女っぽい、わっさわっさする感じの真っ赤なドレスは、そろそろ止めにしたら如何。「少女」を売り物にしていては、幅が狭まってしまう。

2011・5・8(日)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団 モーツァルト・マチネ第5回

   洗足学園音楽大学 前田ホール  11時

 ミューザ川崎シンフォニーホールが使用不可能状態のため、今回は前田ホールでの開催となった。

 私はこのホールへ行くのは初めてだが、何せTV「のだめカンタービレ」のロケ地だから、見たような光景があちこちにある。
 チラシには、溝の口駅から徒歩6分とあるが、無理だろう。意外に距離がある。駅の南口から出たところにフリップを持った若者が立っていて道を教えてくれたが、それには「モーツァルト・マチネ」と書いてあった。「洗足学園」ではなかった。何となく心が温まる。

 中ホール程度の規模だが、10型編成オーケストラによるモーツァルトには最適な空間だ。
 今日は「レクイエム」で、東響コーラスと、三宅理恵(S)中島郁子(Ms)経種廉彦(T)久保和範(Bs)が協演。
 スダーンの指揮は予想された如く、ここでも切り込むような鋭さで迫る。「怒りの日」における疾風のような進行に魔性的な凄まじさを感じ、慄然とさせられたのは、久しぶりの体験であった。前半の緊張感が後半の安息感へ次第に変化して行くあたりにも、スダーンの設計の巧みさが印象づけられる。

 この演奏会の主催は、ミューザ川崎シンフォニーホール(川崎市文化財団グループ)となっている。ミューザが使えぬ間、同ホール主催の演奏会は、この前田ホールやNEC玉川ルネッサンスシティホールなど、川崎市にあるホールを総動員して行なうそうである。
 秋のマゼール客演指揮演奏会も、とにかく昭和音大のテアトロ・ジーリオ・ショウワを使用して開催するとのことだから、とりあえずは祝着というべきか。客席数がミューザより少ないので採算上は苦しくなるけれど、「市内の」ホールでないと川崎市から補助金が出ない――という裏事情もあるらしい。

2011・5・7(土)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

  東京オペラシティコンサートホール  2時

 久しぶり、ユベール・スダーン。
 大震災直後の来日中止の理由については既に私も耳にしていたが、要するにイタリア在住オランダ人の彼は、訪日するつもりでパリまでは出て来たものの、イタリア・フランス・オランダの領事館(?)から渡航自粛の勧告(ほぼ強制的なものだったらしい)を受けた上、生命保険会社からは「渡日してガンになった場合には保険金を払わぬ」という免責まで通告され、挙句の果ては、乗るつもりだったエール・フランスからも強い勧告を受けて、動きが取れなくなってしまった、ということにあるのだそうだ。
 事務局の話では、ミューザ川崎シンフォニーホール内部の惨状を目の当りにしたスダーンは大きな衝撃を受けながらも、「大丈夫、私も皆と一緒に頑張る」と宣言し、オケを喜ばせたとのことである。

 そうしたもろもろの背景ゆえか、今日のコンサートは、定期ではないけれども、凄まじくリキの入った演奏であった。

 冒頭のラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲は、均整のとれた美しい立派な演奏ではあったが、何か几帳面すぎたような感がなくもない。

 だがスダーンの巧みな設計に驚き、感嘆させられたのは、次のブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」においてであった。
 そのオーケストラ・パートがこれほどシンフォニックで壮大で揺るぎなく構築された演奏をナマで聴いたことは、かつてなかった。録音ではカラヤンの指揮したのがそういう特徴を持っていたが、もちろんスダーンの指揮した今回の演奏は、あのような濃厚なスタイルとは違い、もっとスリムで筋肉質で、鋭い。

 ソロの個所ではオーケストラを沈ませつつ、テュッティの個所に到るや剛直に響かせ、その繰り返しを以って大きな起伏を巧みにつくって行く呼吸も鮮やかだ。
 東響がまた、彼の指揮に対して実に柔軟に反応している。第2楽章後半でソロに渡す直前の弦楽器群のディミヌエンドの、見事だったこと。

 こうしたスダーンと東響の精妙な構築に対し、ソリストのクララ・ジュミ・カンが、すこぶるスケールの大きな演奏でわたり合う。
 仙台とインディアナポリスのコンクールで昨年優勝を飾った彼女は今年まだ24歳だが、力強い粘りのある演奏が特徴で、この若さにしては非常に情感の豊かな音楽を奏でる人だ。昨年メンデルスゾーンやベートーヴェンの協奏曲を聴いた時には、その嫋々たる歌いぶりが少々情緒過多に感じられ、鼻につくところもあったけれど、今日の演奏ではあまり過度な思い入れも感じられなくなっていたのは、彼女の変化か、それとも作品への巧みな対応の表われか。

 なお彼女、Clara Jumi Kang、韓国系ドイツ人だから、「ジュミ」でなく「ユミ」と表記すべきではないかと思うのだが、どうなのでしょう? 
 アンコールはエルンストの「シューベルトの《魔王》による大奇想曲」。鮮やかだが、「魔王の囁き」の部分にはもう一工夫欲しいところ。6月1日の東京でのリサイタルが楽しみである。

 プログラムの後半は、ビゼーの「アルルの女」第1組曲と第2組曲。
 これまた、ポピュラー・コンサート風の長閑で田園的な「アルルの女」という演奏とは、全然違う。第1曲冒頭からして切り込むような強烈さで、時には内声部を際立たせて聴き慣れない複雑な響きを出す。
 スダーンの手にかかると、これは「品のいい通俗音楽の大関格」どころか、すこぶる立派な、緊迫感を備えたシンフォニーのような性格を持つに至る。特に第1組曲がそうだ。

2011・5・5(木)ラ・フォル・ジュルネ ルネ・マルタンのル・ク・ド・クール

   東京国際フォーラム ホールC 8時

 フィナーレのガラ・コンサートとでもいうべきもの。
 ウラル・フィルハーモニー管弦楽団(日本人奏者のエキストラも一部に加わる)がステージに並び、ボリス・ベレゾフスキーや広瀬悦子ら「マルタンお薦めの」ソリストが協演して、コンチェルトの抜粋を弾くという趣向になっている。

 最初に山田和樹が客演指揮者として登場し、ブラームスの「ハンガリー舞曲第4番」を例の如く思い入れたっぷりに指揮したが、いったい練習をやったのか、やらなかったのか・・・・。

 そのあとはシェフのディミトリー・リスが指揮をはじめたが、これもまるでぶっつけ本番のような演奏である。庄司紗矢香とタチヤーナ・ヴァシリエヴァがブラームスの「二重協奏曲」の第1楽章を弾き終わって舞台転換となったところで、大体この演奏会の見当はついたと思い、失礼することにした。

 他の演奏会はもう終わっており、フォーラム内の広場は薄暗く、運営スタッフだけが行き来する閑散とした雰囲気。この「ホールC」のコンサートが終れば、今年の激動の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」も閉幕だ。
 何によらず、終わりには寂寥感が漂う。

2011・5・5(木)ラ・フォル・ジュルネ ペレス・リサイタル

   東京国際フォーラム G409 5時15分

 これだけはどうしても聴きたかった、というのがこのルイス・フェルナンド・ペレスのリサイタル。
 昨年ナントで聴いて以来、大ファンになってしまったピアニストだ。

 今回はブラームスの「4つのバラード」と「3つの間奏曲」およびリスト編曲によるワーグナーの「イゾルデの愛の死」というプログラムで、たしか同一プロで4回組まれていたはずの、これが最終公演である。
 しかし、絨毯張りの小さな会議室のような会場(客席153と号す)でもあるし、スタインウェイながら楽器の調律にも多少疑問があったし、というわけで、強靭な集中力と緊迫感が身上ともいうべきペレスのピアニズムが本領を発揮するには全く不向きな環境であろう。その意味では、ブラームスの落ち着いた作品の方に、美しさが感じられた。
 この人の演奏、もっと響きのいい大きなホールで聴きたいものである。

2011・5・4(水)ラ・フォル・ジュルネ プラジャーク弦楽四重奏団

    東京国際フォーラム ホールD7  6時45分

 221の客席を持つホール「D7」は満席。会場の壁は何とも牢獄のように冷たくて圧迫感があって、気分的にも耐え難いが、室内楽を聴くには、大きさも音響も悪くはない。

 プラジャーク弦楽四重奏団がまずシェーンベルクの「スケルツォ ヘ長調」を演奏、次にツェムリンスキー弦楽四重奏団のメンバー2人が加わって、ブラームスの「弦楽六重奏曲第1番」を演奏するというプログラム。巧い選曲構成だ。
 2曲とも極めて柔らかい、温かくて美しい演奏で、あたかもハイドンの世界にも似た端麗さをも感じさせる。

 ブラームスのこの六重奏曲へのアプローチの仕方は、彼のこの時代の作風を歴史的に考えれば当を得ていると思われるが、――どうも私は、あの半世紀前のルイ・マル監督の映画「恋人たち」で、切々と燃えるような愛の憧憬として使われた第2楽章の衝撃的な呪縛から未だに脱しきれない世代なので・・・・。
 客席は、沸いた。

2011・5・4(水)ラ・フォル・ジュルネ 兵庫芸術文化センター管弦楽団

   東京国際フォーラム ホールC  5時

 午前10時発のANA754便で帰京。午後から東京の会場を覗きに行く。

 こちらは、外国人演奏家の来日中止問題や、ホールの安全性に関する問題などの影響で、例年に比べ大幅に縮小されての開催となっている。「丸の内エリア・イベント」は28日から行われているものの、メイン・プログラムたる国際フォーラム内でのコンサート(3~5日)は、今年は僅かに5つのホールで行われるのみ。展示ホールでの関連イベントを含めても、やはり何か華やかさに不足し、寂しい雰囲気を拭えない。
 なまじ会場全体が巨大なだけに、いっそうそれが強く感じられるのかもしれない。規模は小さくても、あの「金沢」の方が、よほど素朴で明るい雰囲気にあふれていたように思える。

 しかし、コンサートのチケットそのものは、売れ行きはよろしいようである。
 ある筋からの依頼で聴いたのは、兵庫芸術文化センター管弦楽団が金聖響の指揮で演奏するブルックナーの「第7交響曲」だったが、「ホールC」はほぼ満席のように見えた。

 このオーケストラを東京で聴ける機会は、最近では、あまりなくなった。今回はどういうメンバーで構成されているのかよくわからないけれど、コンサートマスターは、あの錦糸町のオーケストラの、楽器を高く上げて「のだめカンタービレ」のオケみたいな弾き方をすることでもおなじみの、モジャモジャ頭のお兄さんが客演で務めていた。
 意外だったのは、このオケが、このホールで、こんなに綺麗な音を出すのか、ということ。1階18列(ほぼ中央)の上手側の一番端っこという席で聴いていたのだが、思いのほかの良好な音に驚いた。これまで西宮などで何度か聴いたこのオケの演奏のうちでは、最もバランスの良いものであったろう。
 金聖響の指揮するブルックナーは、極めてストレートで、なんの衒いもない、淡々としたものである。

2011・5・3(火)ラ・フォル・ジュルネ金沢 ウォンジュ・フィル

   石川県立音楽堂コンサートホール  8時

 このホールでのコンサートとしては、今日最後のプログラム。
 パク・ヨンミン指揮のウォンジュ・フィルハーモニーが、シューベルトの交響曲「ザ・グレイト」を演奏した。

 このオーケストラは10型編成で、ヴァイオリンはコンサートマスター以外、全員が女性だ。木管セクションの一部に弱点があるらしく、凡ミスがしばしば聞こえるのは惜しいけれども、オーケストラ全体として響かせる音には、かなりの強靭なエネルギーがある。
 演奏にメリハリが全然なく、生真面目にタッタカタッタカ音楽を進めるだけというのは昨夜のコンサートでも感じられたことだが、これはすべて指揮者の責任であろう。

 ただ、あれこれの弱点にもかかわらず、演奏には起伏があり、盛り上がって行く推進性も備わっている。それに加えて、とにかく真摯に一所懸命演奏しているということの快さ。
 1時間近いこの長い交響曲が結構面白く聞こえたことは、演奏が決して機械的なものではなかったということの証しであろう。客の入りは少なかったが、拍手は温かく、熱烈であった。

 今回は、2階席前方で聴いた。このホールの音響効果の良さに、またしても感嘆させられた次第だ。ウォンジュ・フィルの実力を貶めるつもりはないが、このオケが瑞々しい音で聞こえたのは、やはりこのホールのアコースティックの所為もあるのではないか。

 金沢駅と、隣接する県立音楽堂の周辺一体は、LFJのポスターとチラシでいっぱいである。この地なりに盛況のようだ。翌朝のTVニュースによれば、3日一日のLFJ参加者(人出)は44、600人で、これは「過去最高」である由。

2011・5・3(火)ラ・フォル・ジュルネ金沢 シャルリエと井上&OEK

   石川県立音楽堂  6時

 今回は、LFJ金沢取材のポイントを、このコンサートホールでオーケストラがどう響くか、ということに絞っていた。他の3つのホールでは、ライプツィヒ弦楽四重奏団やダルベルト、田部京子らが演奏し、またシューベルトの歌曲と能を組み合わせた独自企画のコンサートなども行なわれていたのだが、聴けずに残念でもある。

 1階席最後列で聴く。屋根の下に入った位置だが、それでも音が実に明晰に聞こえるのには感心した。やはりこのホールのアコースティックは並みのものではないようである。

 プログラムは、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」で、ソリストがオリヴィエ・シャルリエ。
 この人、スケールは大きいし、特にカデンツァの個所など、凄まじいばかりの集中力と推進性を持った演奏を聴かせる。音色は清澄で洗練されていると同時に、エネルギッシュな力感にも事欠かない。スリリングなほどだ。
 井上道義とOEKが、これまた隙なく緻密にがっしりと音楽を構築し、その一方、第2楽章では夢幻的な叙情感を出した。久しぶりで手応えのあるベーコンに接したという気がする。

2011・5・3(火)ラ・フォル・ジュルネ金沢 シンフォニア・ヴァルソヴィア

   石川県立音楽堂コンサートホール  4時

 再びゲオルグ・チチナゼ指揮の、シンフォニア・ヴァルソヴィアの演奏会。
 仲道郁代がベートーヴェンの「皇帝」を弾くためか、客席は、この日随一の入りである。3階のバルコン席までぎっしりつまっている。しかも、舞台上の後方にも一般客を2列に座らせていたのだから凄い。公演の「出演者一覧」の彼女の項には、「ピアノ界の永遠のアイドル」と記載されていたのである。なるほど、たしかに。

 ただ、ソリストとオーケストラとの呼吸は、此方で聴いていた範囲では、どうもあまりしっくり行っていたとも思えなかった。彼女が表情に大きく起伏を施し、ピアニッシモに落しているのにもかかわらず、ファゴットが無造作に吹き続けていたり、第1楽章の最後では彼女と指揮者のテンポが何かちぐはぐに聞こえたり、といった具合だ。両者とも比較的速いテンポで颯爽と進めているのだが、合わない。――少なくとも聴いている側では、そう感じられた。

 最後の和音が終るか終わらないかのうちに、常軌を逸したフライング・ブラヴォーを飛ばし、その後もカン高い絶叫を連発していた男がいた。狂信的な仲道ファンか。これほど騒々しくて酷いのは聞いたことがない。

 この「皇帝」の前には、オーケストラだけで、シューベルトの「イタリア風序曲」第2番が演奏された。これは、なかなか良かった。

2011・5・3(火)ラ・フォル・ジュルネ金沢 井上道義指揮OEK

   石川県立音楽堂コンサートホール  2時

 このホールで聴くOEKはいいものだ、と誰かが以前言っていたが、なるほど納得できるような気がした。
 ここで聴いてみると、OEKは、サントリーホールで聴く音色とはかなり異なり、形容しがたい独特の香気を放っているかのようである。このオーケストラはこのホールで育ち、音をつくっていったのだな、と思う。
 昨夜の「冬の旅」でもそうだったが、特に弱音でのふわりとした柔らかい音色は絶品だ。ホールは残響が豊かで、響きに奥行きと深みが備わり、しかも細部が混沌とならずに明晰に聞こえるという利点があるため、井上道義がダイナミックにオケを鳴らしても、それをバランスよく飽和させてしまうのかもしれない。

 聴く位置により若干の食い違いは出るだろうが、しかしとにかくこれは、ホールとレジデント・オーケストラの幸福な調和――という一つの例だろうと思う。

 この時間のコンサートは、シューベルト特集。
 最初の「交響曲第5番」では、やや自由な感興と躍動を伴った井上の指揮が、この曲の澄んだ叙情と気品とを申し分なく描き出した。木管の一部にいくつか不安定な個所があったのは惜しいが、しかし綺麗な演奏であった。
 そのあとには、「キリエ」の「ニ短調D.31」と「ヘ長調D.66」の2曲。いずれも合唱を伴った短い作品である。オーケストラ・アンサンブル金沢合唱団と、ソリストとして森岡紘子と志田雄啓。井上道義のいいテンポ。

 このコンサートは、HAB(北陸朝日放送)が生中継していた。終演後エスカレーターを降りて行くと、ちょうどナマ放送のクロージングのインタビューが行なわれていて、池辺晋一郎さんが喋っていたので、ちょっと笑わせてやろうかと近くへ寄ったが、当然ながら彼はカメラ目線であって、此方など見るはずはない。
 バカな計画は放棄して、すぐ隣のホテルに戻ってテレビをつけてみたら、まだ番組は続いており、今度はマエストロ井上が熱弁を振るっていた。それはともかく、TVの画像を見ると、先刻私が池辺さんをからかおうとした位置は、もしそんなことを本当にやっていたら、完全にカメラの枠の中に入ってしまうポジションだったのである。冷汗三斗。

2011・5・3(火)ラ・フォル・ジュルネ金沢 シンフォニア・ヴァルソヴィア

   石川県立音楽堂コンサートホール  12時

 邦楽ホールとコンサートホールは同じ建物の中にあるが、廊下を歩く距離が意外に長い。みなさん、走るのも無理はない。私は、走るほどにはまだ足が回復していない。だがコンサートホールでは、「開演時間を遅らせておりますからごゆっくりお入り下さい」と、会場整理スタッフが(比較的静かに)呼びかけていた。
 結局、「10分押し」くらいで始まったか。この調子だと、今日いっぱい、順番に押せ押せになる理屈だけど、どうするのやら。1560席のホール、わりによくお客さんが入っている。

 予定通り来日してくれたゲオルグ・チチナゼ指揮するシンフォニア・ヴァルソヴィアの演奏会。チチナゼはグルジア生まれだから「ゲオルギー」と呼んだ方がいいのではないかという気もするが・・・・定かではない。

 プログラムはベートーヴェンの「コリオラン」序曲で始まった。清楚で端整な演奏だが、力に満ちている。音色が澄んでいて、内声部の動きがくっきりと浮かび上がるのが好い。
 2曲目はベートーヴェンの「英雄交響曲」の第3楽章で、これだけ単独で取上げるのは何とも突飛な選曲だが、彼らのしっかりした演奏を聴いていると、そういうテもありかな、と思わされる。
 最後はシューベルトの「未完成交響曲」だった。久しぶりでこの美しい曲をじっくり聴かせてもらったな、という感。

2011・5・3(火)ラ・フォル・ジュルネ金沢 シューベルトのトリオ

   石川県立音楽堂邦楽ホール  11時

 「漸く賑やかになって来ましたよ。昨日はどうもね・・・・」と、現地スタッフのYさんが言う。
 たしかに今日は朝から音楽堂の内外、かなりごった返している。ただ東京の国際フォーラムと違い、会場整理スタッフがギャンギャン喚いて誘導する声があまり聞かれないのがありがたい(東京はあれが五月蝿くて閉口だ)。

 午前中に行なわれている4つのコンサートの一つは、庄司紗矢香(vn)、ミシェル・ダルベルト(pf)、タチアナ・ヴァシリエヴァ(vc)による、シューベルトの「ピアノ三重奏曲第2番」。
 720席の邦楽ホールは、ほぼ満員である。桟敷席などもある、邦楽の雰囲気充分の小屋(?)で聴くシューベルトもオツなものだ。
 残響ゼロの会場だから、ピアノはよく聞こえるものの弦にはかなり厳しいなと最初は感じられたが、流石は名演奏家たち、ほどなく3つの楽器のバランスは完璧に整って、緊密度の濃いシューベルトが聴けた(これは最後列で聴いた印象だが)。

 開演が何故か5分遅れたので、終演は11時55分近くになった。次の演奏会のため、慌てて飛び出して行く人も少なくない。私もカーテンコール1回分だけ拍手をして、あとに続く。

2011・5・2(月)ラ・フォル・ジュルネ金沢 オーケストラ版「冬の旅」

   石川県立音楽堂コンサートホール  8時

 ピアノのパートを、鈴木行一が小編成のオーケストラに編曲したシューベルトの「冬の旅」全曲。演奏は、ヴォルフガング・ホルツマイアー(Br)と井上道義指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)。

 この版はかなり前、ヘルマン・プライと岩城宏之指揮のOEKが演奏したのを、ライヴとCDとで聴いたような気がする。OEKのために作られたようなヴァージョンだから、今回のようなテーマの音楽祭には、うってつけの曲だろう。

 編曲の出来映えにはムラが感じられなくもないが、たとえば「旅篭屋」などのように息の長い旋律が奏される曲では、オペラの一節のような壮大さも生まれ、それはそれで面白い。井上がそれをまたロマンティックに表情も大きく、ここぞとばかり切々と歌わせるから、さらに効果的になる。
 ホルツマイアーの歌唱が、全曲を通じて非常に劇的で、激しく悲痛な感情を吐露するような表現にあふれていたのも、このオーケストラの性格とのバランスを考えてのことであろう。OEKの演奏も美しく、なかなか良いコンサートであった。

 当初のタイムテーブルには8時から9時まで、と表示されていたので、あるいは抜粋でやるのかと思っていたが、結局、全曲だった。
 終演は9時15分。ホール前のオープンカフェでは、まだ別のコンサートが続いていた。

2011・5・2(月)ラ・フォル・ジュルネ金沢 ウォンジュ・フィル

   石川県立音楽堂コンサートホール  6時

 GW名物のラ・フォル・ジュルネ(LFJ)、今年は来日演奏家の多数脱落により、当初発表の内容とはだいぶ変わってしまった。それならこちらもいっそ趣向を変えてみようと、金沢のLFJを探索してみることにした。

 当地のプログラムもかなり変更になってはいるが、もともと規模はそれほど大きくないので、東京のLFJほどには、「寂しくなった」とかいうイメージは感じられない。
 「ウィーンのシューベルト」というタイトルは当初どおりで、福井・富山でのいくつかのコンサートと合わせれば4月27日~5月4日の開催となり、その中でも核となるべき石川県立音楽堂の3つのホールおよび金沢市アートホールでのメイン・コンサートは、2~4日の開催となっている。この他、イベント広場やJR金沢駅構内、ANAやJALのホテルなど、あちこちで無料コンサートやキッズ・プログラムも行なわれる。
 ここの特徴と強みは、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)と、その音楽監督・井上道義が中心的存在となってフェスティバルのイメージを牽引していることにあるだろう。

 午後3時5分のANA755便で羽田を発ち、4時5分に小松空港に着く。到着便と連動している金沢駅西口行特急バス(4時10分発)に乗れば、5時前には駅の隣にある県立音楽堂に着いてしまう。羽田から2時間かかっていない。速いものだ。

 6時からのコンサートは、韓国のウォンジュ・フィルハーモニー管弦楽団の出演。
 常任指揮者パク・ヨンミンが、ベートーヴェンの「エグモント」序曲とシューベルトの「ロザムンデ」序曲とロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲を、また客演として井上道義がウェーバーの「オイリアンテ」序曲とロッシーニの「セヴィリャの理髪師」序曲を、交互に指揮した。

 パクの手堅いオーソドックスな指揮と、井上のフェスティバル的(?)な指揮との対比が面白い。特に井上の指揮した「セヴィリャの理髪師」など、ヴァージョンが違うのではないかと思えるくらい、派手で賑やかなつくりになっていた。彼のトークも、例の如くフェスティバル的というか、ハチャメチャで、何を言っているのか解らない時もあるけれど、楽しいことは確かである。
 ウォンジュ・フィルもまだ練れていない部分が多く、ソウルなどのオケと比較するとかなり差があるが、一所懸命やっているところは好い。

 7時ぴったりに終演。ホールの前の広場に作られたオープンカフェでも別の無料コンサートが行なわれており、料理なども用意されて、こちらも賑やかだ。

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