2023-09

2023・9・29(金)ハインツ・ホリガー指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

       フェスティバルホール  7時

 ハインツ・ホリガー、今度は大阪フィルに客演して、またまた元気なところを見せた。

 第1部では、まずルトスワフスキの「オーボエとハープのための二重協奏曲」(約20分)を吹き振りし、続いてプログラムにはなかったルトスワフスキの「三つの断章」からの「マギア」という小品をハープ・ソロとの協演で吹き、さらにホリガー自身の作品「音のかけら」(約15分)を指揮。
 そして第2部では、シューベルトの「交響曲第8番《ザ・グレイト》」を、リピート指定を全て遵守しての60分をエネルギッシュな指揮ぶりで演奏する、という具合である。
 ハープのソロは平野花子、コンサートマスターは崔文洙。

 「二重協奏曲」は、打楽器群と小編成の弦楽器群との組み合わせによる作品。オーボエの音色もアンサンブルも非常に鋭角的で、衝撃的な打撃にも事欠かない。1980年の作で、初演したのもホリガー夫妻だったというから、彼にとっては特別な思いのこめられた曲であったろう。これは圧巻の演奏であった。
 また、自作の「音のかけら」は大編成の管弦楽作品だが、断片的なモティーフが頻繁な休止を挟みつつ閃き、呟き、交錯して行く。響きが多彩なので、散漫という印象は全くない。

 「ザ・グレイト」は14型編成が採られ、演奏は常にアニマート、活気にあふれて突進する。
 総じて速いテンポが採られていたが、第2楽章の後半、最強奏の頂点を築いたあとの個所で、まるで精神が疲れ切ったか、あるいは音楽の高潮の意味をもう一度考え直すか、とでもいったように、極度にテンポを落したのが意外で、興味深かった。
 ただしその後、以前のテンポに戻るあたりの呼吸に何となく自然さを欠き、もどかしさを感じさせたが、━━この辺りはオーケストラとの呼吸が未だ合っていないような感で、明日の公演ではもっとうまく行くかもしれない。

 この楽章半ばの、あの有名なホルンの個所でも、オーケストラのバランスに些か粗っぽさを生じさせていたこと、そして演奏全体の緊密度という点でも少々物足りないものがあったことなども、2日目に期待したいところだ。

 全曲最後のハ長調の和音には、稀なほどの大きなディミニュエンドが付されていた。「最後の部分は・・・・凱歌でもなんでもない。いわば疲れ果てた末の中断なのです」というホリガー自身のコメント(ソニークラシカルCD解説/プログラム冊子より引用)とともに、いろいろなことを考えさせる。

2023・9・27(水)藤村実穂子リサイタル

       東京文化会館小ホール  7時

 これは「プラチナ・シリーズ」の一環。満席の聴衆を集めて行われた。ピアノはヴォルフラム・リーガー。

 プログラムは、モーツァルトの「静けさは微笑み」「喜びの鼓動」「すみれ」「ルイーゼが不実な恋人の手紙を妬く時」「夕べの想い」で始められ、マーラーの「さすらう若人の歌」、ツェムリンスキーの「メーテルリンクの詩による6つの歌」、細川俊夫の「2つの日本の子守唄」と続く。アンコールで歌われたのはツェムリンスキーの「子守唄」「春の日」「夜のささやき」の3曲。

 藤村実穂子の歌唱が、歌詞に応じて、あるいは曲想に応じて、歌の表情が虹の色のように変化して行く素晴らしさには、ただもう感嘆するしかない。やはりこの人は、わが国の歌手の中でずば抜けた存在である。
 かつてワーグナーの作品を歌ってバイロイト祝祭劇場の空気をビリビリと震わせたあの名唱は今でも鮮明な記憶となっているが、あの頃もすでに彼女の歌唱には、ドイツ語の表現に見事なニュアンスが溢れていた。今では、それが歌曲を歌う時に、いっそう輝いて出るのだろう。

 この日、私にとって最も印象深かったのは、マーラーの「さすらう若人の歌」だった。オーケストラと違って、リーガーのピアノは伸縮自在、極度のリタルダンドをも随所に出現させる。それはもちろん彼女の解釈に基づくものだろうが、そこで示される沈潜した表現は、この歌曲の主人公の感情の複雑さを映して余すところがない。そこまでやられてはとても耐えられない、とまで思わせられるほどの微細な表現だったが、強烈である。

2023・9・25(月)庄司紗矢香~フランスの風

      サントリーホール  7時

 ヴァイオリンの庄司紗矢香を中心に、ピアノのベンジャミン・グローヴナー、それにモディリアーニ弦楽四重奏団が顔を揃えたステージ。
 ドビュッシーの「ヴァイオリン・ソナタ」、ラヴェルの「弦楽四重奏曲」、ショーソンの「ヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のための協奏曲」という素晴らしいプログラム。

 そして、この3曲の前に、武満徹の最初期のヴァイオリンとピアノのための小品「妖精の距離」と、「彼がその曲の作曲に当たって着想を得た」という瀧口修造の詩「妖精の距離」の朗読(大竹直)が置かれていた。

 詩の朗読から武満徹の作品の演奏へ移り変わる雰囲気もなかなかよく、更にその「妖精の距離」の音楽に滲むフランス風の曲想が、次のドビュッシーのソナタへの流れの中にぴたりと決まる。
 庄司紗矢香としては珍しい(私が聴いていなかっただけかもしれないが)フランスものの演奏が実に美しく、グローヴナーのピアノもドビュッシーの清楚な雰囲気を再現して、このあたり、快い陶酔に誘われた。

 次のモディリアーニ弦楽四重奏団のラヴェルもよかったが、やはり何と言っても、全員の協演で熱演が繰り広げられたショーソンの長大な協奏曲こそは、今夜の白眉であったろう。
 もともとナマではめったに聴ける機会のない作品だが、最初から最後までいささかの緩みもない濃密な構築と、瑞々しさと、美しさに満ちた今夜の演奏を聴いて、この曲の魅力を改めてじっくりと味わうことができた。モディリアーニ四重奏団が響かせるトレモロの素晴らしい力感。その上に屹立して音楽をリードして行く庄司紗矢香のヴァイオリン・ソロは雄弁で、ひときわ映えていた。
 この曲で、これほどスリリングな演奏を聴いたことはかつてなかった、という気がする。

2023・9・24(日)沖澤のどか指揮京都市交響楽団東京公演

         サントリーホール  2時

 前日の京都定期公演と同一プログラムで、ベートーヴェンの「交響曲第4番」と、フランスの現代作曲家ギョーム・コネソン(b1970)の「管弦楽のための《コスミック・トリロジー》」が演奏された。
 指揮は、今年4月に第14代常任指揮者に就任した注目の若手、沖澤のどか。コンサートマスターは石田泰尚。

 2曲とも、天馬空を行く感の小気味よい沖澤のどかの指揮で、楽曲構築のバランスの良さといい、オーケストラ制御の鮮やかさといい、舌を巻かされるほどの演奏となった。特にベートーヴェンの「4番」では、何の外連もない率直な音楽づくりだったが、それが決して素っ気ないものにならず、見事な推進性に富み、快さを感じさせるものになっていたのが印象的である。

 なお細かいことだが、「4番」の第1楽章の提示部の終り、1番カッコの2小節前の、普通はカットされるチェロとコントラバスによる4分音符のへ音が、珍しくスコア通り弾かれていたような気がしたが‥‥微かに聞こえたような気がしただけなので聞き違いかもしれないが、もし本当に演奏されていたのだったら、最近では珍しい例になろう。原典総譜に対する沖澤のどかの姿勢を知る上でも興味深いことである。

 「コスミック・トリロジー」は、昨日の京都公演での演奏が「日本初演」に当たっていた由。「アレフ」(2007、2009改訂)、「暗黒時代の一条の光」(2005)、「スーパーノヴァ」(1997、2006改訂)の3部分からなる。
 たとえばステファヌ・ドゥネーヴの指揮したCD(CHANDOS CHSA5076)ではこの順番で演奏されているが、今日の沖澤&京響の公演では、「スーパーノヴァ」「暗黒時代の一条の光」「アレフ」というように、作曲年代による順番で演奏された。聴いた感じでは、全曲の流れという点で、今回の配列の方が自然なものに思える。

 作曲スタイルとしては比較的保守的なものに属するような気がするが、大編成の管弦楽を駆使して、打楽器群にも特徴があり、すこぶる多彩な音色に富んだ作品だといえようか。
 沖澤と京響の演奏は明快そのもので、私の印象では、ドゥネーヴの指揮するCDで聴いた時よりも、遥かに作品に活気が感じられた。

 日本の若い指揮者がこのような現代作曲家の大作を手がけ、鮮やかな指揮で日本初演したというケースでは、遡る61年前、若き小澤征爾がN響を指揮してメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」を日本初演した快挙に匹敵するだろう。
 聴衆だけでなく、オーケストラの楽員がこの若い女性常任指揮者に向ける拍手も盛んであった(カーテンコールにおける京響の楽員たちの聴衆に向ける笑顔もいつもながら快い)。彼女の今後の活動に祝福がありますよう。

2023・9・23(土)ロレンツォ・ヴィオッティ指揮東京交響楽団
~2つの「英雄」~

      サントリーホール  6時

 前半にベートーヴェンの「英雄交響曲」、後半にR・シュトラウスの「英雄の生涯」。
 戦艦が2隻揃ってやって来たような重量感たっぷりのプログラムだが、ヴィオッティの速めのテンポが小気味よい迫力を生み出していて、これは大いに楽しめた。単なるタイトルの語呂合わせではなく、同じ変ホ長調で描き出されたとも言える「英雄」として、意味のある組み合わせの選曲と言えるだろう。

 ヴィオッティの指揮する今日のベートーヴェンの「英雄」は、第1楽章こそ細部に拘泥せず、勢いに乗って進めて行くような趣になっていたが、第2楽章のミノーレが再現したあたりから演奏は俄然ニュアンスの細やかさを感じさせるようになり、音楽全体が柔軟に息づき、多様な起伏を感じさせるようになった。
 ヴィオッティの音づくりが所謂カチッとしたものではなく、ある程度の自由さを持たせたアンサンブルなので、響きと音色に空間的な拡がりを生じさせる。それが音楽をしなやかなものに感じさせる一因だろう。

 聞けば、今回はリハーサルの時間が少なかったらしいが(彼の乗った飛行機にトラブルがあった関係とか)、それがむしろいい効果を生んでいたのかもしれない。

 いっぽう「英雄の生涯」では、ヴィオッティは長い総休止の多用や、「英雄の主題」再現の際のテンポの大きな矯めなど、かつてのティーレマンほどではないにしても随所に大芝居的な仕掛けを導入し、凝ったところを聴かせていた。
 笑いを誘われたのは「英雄の伴侶」のくだりで、コンサートマスターのグレブ・ニキティンが弾いて描き出す「伴侶」は、最初は手弱女の如くながら、間もなくヒステリックな猛妻となり、ついにはオーケストラの「英雄」が癇癪を起しかけるといった情景をまざまざと想像させていた。R・シュトラウスの自伝の音楽としては、当を得た解釈と言うべきか。

 とはいえ今日の2曲の演奏、どちらかといえば、ベートーヴェンの「英雄交響曲」の演奏の方がまとまりは良かったと思えたのだが如何。東京響の各パートは極めて冴えていた。

2023・9・23(土)トレヴァー・ピノック指揮紀尾井ホール室内管弦楽団

       紀尾井ホール  2時

 首席指揮者トレヴァー・ピノックとの紀尾井ホール室内管弦楽団(KCO)9月定期。
 今回はメンデルスゾーン・プログラムで、オラトリオ「聖パウロ」序曲、「詩篇第42番《鹿が谷の水を慕うが如く》」、後半に「交響曲第2番《讃歌》」という珍しい選曲である。
 協演の声楽陣は新国立劇場合唱団、ラゥリーナ・ベンジューナイテ(S)、マウロ・ペーター(T)、湯川亜也子(S)。コンサートマスターはアントン・バラホフスキー。

 「第2交響曲《讃歌》」は、不思議にこのところ、東京のコンサートで聴く機会が多い。私も今年、5月に沼尻竜典と新日本フィルが、8月に鈴木優人と東京響が演奏したのを聴いている。いずれもいい演奏だったけれども、トレヴァー・ピノックが指揮した今日のそれは、音楽全体における隙のない緊迫感という点で、際立った特徴を示しているだろう。

 祈りの音楽がとどまることなく陶酔的に盛り上がって行く演奏は、キリスト教徒ではない私にさえ、感情の昂揚をもたらしてくれる。もともとあまり好きではないこの曲なのだが、今日ほどドラマティックな性格を感じて驚嘆させられたことは、これまでになかった。

 ピノックがメンデルスゾーンの宗教曲系作品でこんな大技を示す人だったとは、実のところ今初めて認識した次第で、それだけに喜びも大きい。
 2人のソプラノの好演も印象的で、特にベンジューナイテの輝かしく気持の良い純な声が素晴らしい。彼女は「詩篇第42番」でも嘆きの感情を見事に歌い上げていた。

2023・9・21(木)ミハイル・プレトニョフ
ラフマニノフのピアノ協奏曲全曲演奏会 第2夜 

     東京オペラシティ コンサートホール 7時

 第2夜は、ピアノ協奏曲の「第3番」と「第4番」、それに「パガニーニの主題による狂詩曲」まで加えるという豪華なプログラム。休憩は「第3番」のあとに1回おかれただけ。協演は高関健が指揮する東京フィルハーモニー交響楽団。

 プレトニョフの弾く「3番」と言えば、もうかなり前のことになるが、彼が全曲冒頭の第1主題を、スコアの指定通りのスラー付きの弱音でありながら、静かに叩きつけるような音で弾きはじめた時に受けた強烈な印象が今でも忘れられない。
 特に最初のニ音が、弱音のまま、非常に鋭いアクセントを伴って響きはじめた瞬間の衝撃たるや、並みのものではなかった。プレトニョフの満々たる強靭な意志力が、この弱音の第1主題全体に漲っていたのが感じられたのである。そして、この「3番」全体がなにか巨大なものが沸騰するような、恐るべき力で満たされていたのだった。

 だからといって、今回、それと全く同じ演奏を期待していたわけではないけれども━━しかし、今日の演奏は、その燃焼度がどうも違い過ぎる。
 第1主題は、昔と同じように粒立った弾き方ではあったものの、なにか乾いた、素っ気ない音楽となってしまっていて、結局は全曲を通じてその印象が拭い切れないままになった。当時の彼が使用していたピアノと、近年使用しているピアノとの音色の違いもあろうかとは思うが、どうもそれだけではないような気がする。

 第3楽章のエンディングにさえ、オーケストラを含めて自然な昂揚感はあまり感じられず、不思議なほど散漫な終結となってしまっていた。オーケストラも音が薄くて粗っぽいところがあり、ソリストとの呼吸もなにかあまり一致していなかったのは、リハーサル不足だったのか?
 「3番」が終ったあとの休憩時間にロビーで顔を合わせた同業者に「何だか面白くないなあ」と愚痴をこぼしたら、彼も首をひねって「なんかおかしいよね。初日(1番、2番)は凄かったんだけどなあ」と呟いていた。

 「第4番」は、曲が曲だから、「3番」の出来をカバーするほどの演奏にはなり得ないだろう。ただ、救われたのは、最後の「ラプソディ」における演奏だったろうか。ここではプレトニョフにもオーケストラにも、寛いだ表情が聴かれた。例の有名な第18変奏の個所で、プレトニョフが突然「ここだけでも思い出に浸ろう」とでも言うかのように、たっぷりとしたカンタービレを聴かせていたのは意外であった。

2023・9・19(火)ハインツ・ホリガー オーボエ・リサイタル

       東京文化会館小ホール  7時

 ホリガーは1939年生まれだから、今年84歳である。
 だが彼もまた矍鑠として、椅子も使わず、全ステージを務め上げる。冒頭の1ヵ所か2ヵ所、音のふらつきはあったものの、それ以外では完璧なほどの安定感、驚くべき集中力が演奏を満たす。その音楽に湛えられた豊かな情感と深みは、驚異的というほかはない。渋いプログラムながらホールは満席。
 ピアノはアントン・ケルニャック。

 プログラムは、フランス音楽とホリガー自身の作品とを組み合わせたもの。
 まずラヴェルの「ハバネラ形式の小品」と「カディッシュ」、メシアンの「ヴォカリーズ・エチュード」と「初見視奏曲」が演奏され、ホリガー自身の作「ライフライン」「コン・ズランチョ」(休憩)「オーボエとピアノのためのソナタ」「ピアノのためのソナチネ」が続き、後半にジョリヴェの「オリノコ川の丸木舟を操る人の歌」、サン=サーンスの「うぐいす」、ラヴェルの「ソナチネ」(オーボエとピアノ版)が演奏された。

 このうち、「ライフライン」と「ソナチネ」はピアノ・ソロによる作品である。
 だがホリガーは、更にその上にアンコールとして、ブーランジェの「ノクテュルヌ」、ドビュッシーの「クラリネットのための小品」、ミヨーの「ヴォカリーズ・エチュード《エール》」を演奏するという凄いエネルギーであった。

 終演は9時10分頃になったが、さらにそのあと、CD購入者を対象にサイン会(これは終りまでは見なかったが、とにかくロビーは長蛇の列だった)をやったのだから、84歳のホリガーの元気さたるや、恐るべきものだ。

2023・9・18(月)ローレンス・レネス指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  2時

 オランダ系の指揮者レネス(53歳の由)が都響へ3度目の客演。
 前半にモーツァルトの「クラリネット協奏曲」をヴィオラ協奏曲に編曲した版がタベア・ツインマーマンをソリストに迎えて演奏され、後半には、レネス自身が抜粋構成したプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」が演奏された。
 コンサートマスターは矢部達哉。

 ヴィオラ協奏曲版は、だれの編曲かは不詳とのこと。私は初めて聴く機会を得たので期待していたのだが、どうも冴えない━━というのは、やはり楽器の音域、音色、パートの動きなどが、クラリネット・ソロで演奏される場合と異なり、オーケストラに対して際立つ効果が低いからではないかと思われる。もともとヴィオラ協奏曲として作曲されていない場合の管弦楽法との違いは、如何ともし難いのではないか。

 タベア・ツィンマーマンがインタヴューで自慢していた新しい楽器も、このコンチェルトでは、あまり真価を発揮できずに終ったようである。むしろアンコールで弾いたクルタークの無伴奏曲「イン・ノミネ」が、その新しいヴィオラの特色を━━これは実に凄味があった━━発揮していた。

 プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は、一般に知られている如何なる組曲とも異なる、レネス独自の構成・配列によるもの。
 このレネスという人は、私は6年前にN響の「MUSIC TOMORROW」(☞2017年6月9日)でしか聴いたことがなかったのだが、やはりいい指揮者だと思う。彼の指揮のもと、今日の都響は厚みと膨らみと奥行感に富んだ響きを聴かせ、このバレエ曲を、色彩感というよりはむしろ陰影豊かな音楽として再現してくれた。

2023・9・17(日)びわ湖ホール開館25周年記念オペラ ガラ・コンサート

       滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール  2時

 今春に第3代芸術監督に就任した阪哲朗のもとでのオペラ・シーズン始動。来年3月までの最初のシーズンに、彼は「フィガロの結婚」「こうもり」「ばらの騎士」(いずれも舞台上演)を指揮することになっている。

 今日はまず彼の指揮による「ガラ・コンサート」だ。
 ワーグナーの「タンホイザー」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、ヴェルディの「椿姫」「リゴレット」「運命の力」「ドン・カルロ」、J・シュトラウスⅡの「こうもり」、コルンゴルトの「死の都」、モーツァルトの「フィガロの結婚」、R・シュトラウスの「ばらの騎士」からのアリアや重唱、合唱、組曲抜粋などが演奏された。

 出演は、青山貴(ジェルモン、ザックス、フリッツ、ファーニナル)、宮里直樹(マントヴァ公爵、ドン・カルロ、テノール歌手)、船越亜弥(レオノーラ)、市川敏雄(ロドリーゴ、「死の都」のフランク)、藤木大地(オルロフスキー公爵、ケルビーノ、オクタヴィアン)、石橋栄実(マリエッタ、スザンナ、ゾフィー)、山本康寛(パウル)、澤畑恵美(アルマヴィーヴァ伯爵夫人、元帥夫人)。京都市交響楽団、びわ湖ホール声楽アンサンブル。

 歌手陣がみんな腕に縒りをかけて(?)歌唱を競っていたのは言うまでもない。それだけでも聴き応え充分だったが、ここでは阪哲朗の指揮の巧さを挙げておきたい。
 「こうもり」や「ばらの騎士」で、京都市響から引き出した柔らかい官能的な和声の美しさ、「運命の力」の「神よ平和を与えたまえ」で木管の和声に滲ませた不安に満ちた音色など、さすがドイツの歌劇場で長年にわたり仕事を続けて来た彼ならではのものがあり、びわ湖ホールの新しいオペラ路線に大きな期待を抱かせる。
 さしあたり来年3月の「ばらの騎士」(2日、3日)は、なかなか日本では発揮される機会のなかった阪哲朗の真価が今度こそ示される公演になるだろうと思う。

 なお、「ばらの騎士」の終り近く、ゾフィーとオクタヴィアンとが簡単に結びつくさまを見た彼女の父親ファーニナルが「若い人はこういうものなのかね」と嘆息し、若いオクタヴィアンへの想いを断ち切った元帥夫人が「ja,ja」と寂しく呟く感動的な場面がある。今日はステージの構成・演出を中村敬一が担当していたが、その場面でファーニナルがその言葉を娘に向かって言う設定にしていたのは、前後のストーリーの流れから考えると、これはやはり不自然なのではなかろうか。彼は来年の「ばらの騎士」の演出家でもあるが━━。

 ガラ・コンサートは、ソロ歌手全員と合唱団が歌うウィンナ・オペレッタ「こうもり」からの「シャンパンの歌」で華やかに締められた。イタリア・オペラ「椿姫」の「乾杯の歌」でなかったところが阪哲朗らしくて、いい。

2023・9・16(土)マリオ・ヴェンツァーゴ指揮読売日本交響楽団

       東京芸術劇場コンサートホール  2時

 先日のは9月定期だったが、今日のは「土曜マチネーシリーズ」。昼間のコンサートは客の入りがいい。
 今日のプログラムは、オネゲルの「交響的運動第1番《パシフィック231》」と「同第2番《ラグビー》」、バルトークの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストはヴェロニカ・エーベルレ)、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」。コンサートマスターは長原幸太。

 オネゲルの2曲をナマで聴くのは久しぶりだ。「パシフィック231」は、なかなか全速力に達しない機関車という雰囲気の演奏だったけれども、制動のかかる寸前に達した暴走機関車的なオーケストラの咆哮はなかなかのもの。
 半世紀以上も前、NHKのラジオ番組でだれかが「パリで聴いた時には、なんて物凄い曲か、と思いましたよ」と語っていたのが妙に強く記憶に残っているのだが━━前述の僅かな瞬間に閃いた音響の力感がそれを思いださせてくれた。
 しかし、この曲に比べると、「ラグビー」という曲は‥‥やはり二番煎じの感を免れまい。

 エーベルレの弾くバルトークの協奏曲と、彼女がソロ・アンコールで弾いたニコラ・マッティスの「アリア・ファンタジア」を不思議なほど快く味わった後、ベートーヴェンの「5番」を楽しみにしていたが、先日のブルックナーの「4番」の時に比べると、期待したほどユニークな演奏ではなかったようだ。
 第1楽章では、8分音符をすべてテヌート(長さを充分に保って)気味に演奏させていたのが、現代流行りのスタイルとは正反対の音楽になっていて、これはこれで面白かったが━━あの有名な主題の中のフェルマータの最後をすべてフェイドアウト(漸弱)にするのは(そういう指揮者もたまにいるが)どうも気持が悪い。

2023・9・15(金)池辺晋一郎80歳バースデー・コンサート

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 池辺晋一郎の傘寿を祝う演奏会で、彼の作品によるプログラムが組まれた。

 「相聞Ⅰ」と「相聞Ⅱ」(1970)、「相聞Ⅲ」(2005)、オペラ「死神」(1971)から「死神のアリア」(1978追加)、オペラ「高野聖」(2011)から「夫婦滝」と「白桃の花」、「ピアノ協奏曲Ⅰ」(1967)、「シンフォニーⅪ(交響曲第11番)《影を薄くする忘却》」(2023、世界初演)。
 演奏には、広上淳一の指揮のもと、オーケストラ・アンサンブル金沢、東京混声合唱団、古瀬まきを(S)、中鉢聡(T)、北村朋幹(pf)が参加した。主催は東京オペラシティ文化財団。

 若い時期の作品から最新作までを組み合わせたプログラミングは、池辺晋一郎の作風の変遷、もしくは多様性を窺い知るために、大変興味深い。
 例えば「相聞」の3曲のように、最初の2曲と最後の1曲の作曲時期の間に35年もの開きがある場合、若い頃の作品の方が所謂「現代音楽っぽい」気負った作風が示されるのに対し、円熟期に入った3曲目では、穏やかな叙情美が優先されているのが判る。

 もっともそうは言っても、1971年のオペラ「死神」では、決して尖った作風になっていないところなどからすると、やはり彼は初期の頃からそれぞれの性格に応じた「使い分け」の巧い人だったのだろう。
 思いだしたが、比較的最近の何かの記事に、彼が「僕はいわゆるゲンダイオンガク的な手法は採りたくない」とかいったような━━正確な引用ではないかもしれないが━━ことをコメントしていたような記憶もあるのだが‥‥。

 最後に演奏された第11番の交響曲は、東京オペラシティ文化財団と、オーケストラ・アンサンブル金沢からの委嘱の由。「第10番」と同じように、優しさの中にも翳りの濃い、一抹の不安感をも滲ませた曲想も印象に残る。もしかしたら、シンフォニーにおいて、池辺晋一郎の作風が一種のジュンテーゼ(綜合)の域に達したことが示されているのだろうか、という気がしないでもない。

 なお、オペラはもちろん日本語の歌詞だが、中鉢聡の明快な歌詞の発音がオペラの内容を如実に伝えてくれた一方、古瀬まきを(若い妖艶な死神役)のほうは発音が不明確で、何を歌っているのかさっぱり聴き取れないのには困った。

 ほぼ満席のホール、池辺に寄せられるあたたかい拍手。これだけの祝典演奏会が開催されるのも、彼の親しみやすい個性と人徳ゆえだろう。

2023・9・12(火)マリオ・ヴェンツァーゴ指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時
  
 1948年チューリヒ生れのマリオ・ヴェンツァーゴが来日、スクロヴァチェフスキ(生誕100年記念)の「交響曲」と、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」(ノーヴァク版)を指揮。

 スクロヴァチェフスキの「交響曲」は2003年の作で、同年ミネアポリスで初演されたものという。これが日本初演の由だ。
 第1楽章の開始部など、音楽が最弱音で動き始めたかと思うとすぐに総休止となり、それが何度も繰り返されるので、この調子でずっとやられたらたまらないなと不安にさせられたのは事実だったが、ほどなくして変化に富んだ刺激的な曲想が躍動し始め、多彩極まる管弦楽法に耳を奪われるに至った。そして、30分以上に及ぶ長さの交響曲は見事に完結してしまったのである。スクロヴァチェフスキの作曲家としての手腕に、改めて舌を巻いた次第であった。

 ブルックナーの方は、ヴェンツァーゴの指揮のユニークさに、これまた感心させられた。こういう素朴で飾り気のない、変な言い方だが「田舎のブルックナー」的な、良い意味で野暮ったさの横溢したブルックナーも面白い。しかし、それでいながら音楽の構築の隅々まで神経を行き届かせた指揮なのだから、聴く側でも納得させられてしまう。

 例えば第1楽章の第1主題の部分で、管が吹く主題の起伏に合わせて弦のトレモロのダイナミックスを微細に調整して行くといった細かい構築、あるいは第3楽章スケルツォの冒頭のトレモロの1小節目を爽やかな風が吹き始めるような音で響かせたユニークな発想、同じスケルツォのTempoⅠ以降(ブルックナー協会版総譜の88頁上段中央から)で、フルートをホルンの彼方からエコーのように━━それこそ森の奥から聞こえて来る木霊のように━━響かせた絶妙なバランス感(ここはしかし、1回目の方がうまく行っていた)など。

 それにしても、これらを含めて、指揮者の個性に対する読響の反応の見事さは、驚くべきものだった。コンサートマスターは林悠介。

2023・9・11(月)久石譲指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 2020年秋から新日本フィルのMusic Partnerを務める久石譲が、自作の「Adagio for 2 Harps and Orchestra」と、マーラーの「交響曲第5番」を指揮した。コンサートマスターは西江辰郎。客席はほぼ満席に近い。

 久石譲の指揮は、7年前にナガノ・チェンバー・オーケストラを指揮した演奏(☞2016年7月17日)以降、聴く機会を得なかったが、あの時の所謂「ロック調ベートーヴェン」のスタイルは、今でも彼の指揮の信条として貫かれているようである。

 今回のマーラーの「5番」も、この作曲家がこだわった音符の精緻なニュアンスの変化などには一切頓着せず、基本的にイン・テンポで驀進し、ひたすら強大な音響と、猛烈なエネルギー感を前面に押し出した演奏となっていた。
 どろどろした情念のしがらみ(?)のない、健康的で快活で、スポーツ的なマーラー像のみが抽出された━━といえば、それはそれで楽しめる人もいるかもしれない。だが、私にはこの演奏は、ひどく単調なものに感じられてしまった。

 「Adagio」は、新日本フィルの委嘱作品で、一昨日のトリフォニーホール公演での演奏が世界初演だった由。マーラーの「第5交響曲」の第4楽章「アダージェット」をモデルとして作曲されたようである。

2023・9・9(土)ヴェルディ:「2人のフォスカリ」

       新国立劇場オペラパレス  2時

 藤原歌劇団の公演(日本オペラ振興会主催)で、共催は新国立劇場と東京二期会。
 田中祐子の指揮、伊香修吾の演出。10日とのダブルキャストで、今日は上江隼人(ヴェネツィアの総督フランチェスコ・フォスカリ)、藤田卓也(その息子ヤコポ・フォスカリ)、佐藤亜希子(その妻ルクレツィア)、中桐香苗(その親友)、田中大揮(政敵ヤコポ・ロレダーノ)、及川尚志(その仲間バルバリーゴ)。東京フィルハーモニー交響楽団と、藤原歌劇団合唱部、新国立劇場合唱団、二期会合唱団。

 珍しいオペラを取り上げてくれたものだ。ヴェルディの初期の作品で、「ナブッコ」「十字軍のロンバルディア人」に続くオペラである。
 「2人のフォスカリ」とはフォスカリ父子のこと。15世紀に実在した人物で、ストーリーもほぼ歴史上の出来事に従っているが、主人公の父子を襲った救いようのない悲劇という形が採られているため、2人に同情的に描かれていることは当然だろう。物語がなかなか進展しないというピアーヴェの台本の拙さは感じられるものの、ヴェルディのシンプルながら美しい旋律と和声にあふれた音楽が快い。

 このヴェルディの音楽の良さを引き出した第一の功績者として、私はやはり田中祐子の指揮を挙げたい。彼女のオペラでの指揮はこれまで僅かしか聴く機会がなかったのだが、切れがよくて活気があり、メロディとハーモニーを生き生きと描き出して、今日の指揮でも特にストレッタの個所での緊迫感の豊かさが際立ち、それがヴェルディ初期の音楽の特徴をうまく生かしていたのではないかと思われる。東京フィルも好演だった。

 歌手陣では、まず佐藤亜希子の豊かな声による情熱的な歌唱が印象に残る。自らの夫を陥れた政敵への怒りに燃え、義父フォスカリに復讐を唆す第3幕での歌唱と演技などはすこぶる迫真力にあふれていて、その「煽り」がむしろ、打ちひしがれた老総督の精神をいっそう破壊させてしまうのではないか━━とハラハラさせられるような場面をもつくり出していたあたり、見事なものだった。

 父親フォスカリ役の上江隼人も滋味あふれる演技と歌唱で、今回は最初から苦悩に満ちた「老い」を感じさせる総督として描かれる存在だったが、父親と公務との板挟みになる役柄をうまく表現していたと言えよう。
 息子フォスカリ役の藤田卓也は、今日は声が必ずしも本調子でなかったのかもしれないが、ここぞという個所での伸びのいい歌唱は、流刑の憂き目には遭うものの、まさに「無実な青年」という純粋さを感じさせる表現をつくり出していただろう。

 伊香修吾の演出は、シンプルで暗い舞台(二村周作の美術)により、暗黒政治の世界といった雰囲気をよく表現していたとは思うものの、父子への復讐に燃える政敵ロレダーノの存在をもっと不気味に描き出していれば━━特に第3幕において━━このドラマにおける人物構図がいっそう明らかになっていただろうとも思う。
 ただ、「十人委員会」の人物たちの動きは如何にも不器用で所在無げで表情に乏しく、これは演出の責任である(この連合合唱団、今回はアンサンブルを含め、あまり感心しなかった)。

2023・9・8(金)サッシャ・ゲッツェル指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  7時

 ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはネマニャ・ラドゥロヴィチ)と、コルンゴルトの「シンフォニエッタ」が演奏された。コンサートマスターは山本友重。

 ゲッツェルはとてもいい指揮者だと思うが、これまで日本で聴いた演奏ではその本来の特徴をつかみかねていたのが正直なところだった。だが今日の2曲での指揮を聴いて、やはりこの人は作品によって大きくスタイルを変える主義の指揮者なのだなと思った次第である。

 たとえば今日のベートーヴェン━━ソリストのラドゥロヴィチにぴたりと合わせたのだろうが、重厚な響きながらしなやかな構築で、主題それぞれの性格に応じてテンポを大きく動かすという、今どきとしては珍しいスタイルの演奏だったと言えるのではないか。
 いっぽう、第2部でのコルンゴルトでは━━彼はこの曲を8年前にも神奈川フィルとの定期で取り上げていた(☞2015年11月30日)から、余程愛着があるのかもしれない━━エネルギッシュな演奏構築に一転、作曲者若書きの作品の面白さを要領よく再現してくれた。都響の演奏は、ベートーヴェンのコンチェルトでの方が完璧だったような気がする。

 ところで、セルビア出身のラドゥロヴィチの演奏━━これは一種の反時代的な演奏スタイルともいうか、実に面白い。
 前述の如くテンポやアゴーギクの変化を大きく採り、緩急を変幻自在、あらゆる音符をじっくりと息づかせる。ちょっとやり過ぎじゃあないか、とも感じられるような演奏だが、それが決して20世紀前半の演奏家のような、これ見よがしの恣意的な演出を感じさせるような演奏にならず、むしろあたたかい語り口の音楽になっているところが魅力だろう。
 こういうスタイルのベートーヴェン演奏を今の時代に堂々と押し通すラドゥロヴィチの感性は興味深い。

 聴衆の人気も素晴らしく、拍手も爆発的であり、スタンディング・オヴェーションを行なう人々も少なくなかった。なお彼はアンコールにヤドゥランカ・ストヤコヴィッチの「あなたはどこに」という曲を弾いたが、こちらの曲の後では、拍手はさっきほど大きくなかった。

2023・9・7(木)林光:「浮かれのひょう六機織唄」

       俳優座劇場  7時

 オペラシアターこんにゃく座が上演する、林光作曲、若林一郎台本によるオペラ「浮かれのひょう六機織唄(はたおりうた)」。
 1977年に観世栄夫演出により中央会館で初演された作品だが、今回の上演は、こんにゃく座としてはほぼ45年ぶりの再演になる由。

 7日から10日まで、計6回の上演で、演出は大石哲史。主役陣はダブルキャストで、今日は金村慎太郎(ひょう六)、高岡由季(お糸)、川中裕子(お縫)、彦坂仁美(おっ母あ)、佐山陽規(庄屋)、他。演奏はピアノ(服部真理子)のみである。

 ストーリーはコミカルな人情噺で、女口説きを得意とする色男ひょう六が、庄屋に説得され、村の窮状を救うために他村の腕利きの機織娘・お糸を誘惑して拉致して来ようとするが、ものの見事に失敗。だが思わぬ展開によりハッピーエンドになるという流れになるという、いかにも民話的でヒューマンな2幕・90分ほどの長さの「歌芝居」である。

 お糸の見送りを受けてひょう六がお縫を連れていそいそと故郷へ戻るラストシーンでは、客席から拍手が起こる。いかにも民話オペラという感だ。不思議な懐かしさを呼び覚ますこの歌芝居を観ながら、私は何となく1973年に大分で観た清水脩の「吉四六昇天」(立川清登主演)のことを思い出していた。

2023・9・2(土)セイジ・オザワ松本フェスティバル
オーケストラ コンサート Bプログラム ジョン・ウィリアムズ・プロ

       キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 3時

 今年の人気目玉公演。
 通常のチケット購入システムでは大混乱必至と予想したフェスティバルの事務局は、それを抽選方式に切り替えた。混乱は避け得たが、その倍率は14倍に達したというから驚異的である。
 ジョン・ウィリアムズご本人はコンサートの後半のプログラムしか指揮せず、前半はステファヌ・ドゥネーヴが指揮するという演奏会なのだが、それでもこれだけの人気を集めるのだから、ジョン・ウィリアムズの音楽━━もちろん映画音楽だが━━の人気も大したものだ。

 今日ではウィーン・フィルさえ彼の作品による演奏会を開催し、アンネ・ゾフィー・ムターも彼の作品集をレコーディングするという時代である。
 かつてエーリヒ・コルンゴルトにより確立され、その後マックス・スタイナーらにより発展させられて来たハリウッドの「大編成のオーケストラを使った壮大でスペクタクルな映画音楽」というジャンル━━その最後の巨匠ともいうべきジョン・ウィリアムズの音楽がこれほどの人気を集めるというのは、映画音楽に対する世界の人々の好みを窺わせて興味深いものがあろう。

 文字通り満席となった今日のサイトウ・キネン・オーケストラの演奏会、前半ではドゥネーヴが「雅の舞」、「Tributes!(for Seiji)」、「遥かなる大地へ」組曲、「E.T」からの音楽を指揮した。
 因みに「雅の舞」は1993年のボストン・ポップス管弦楽団の日本公演のために書かれた曲。
 また「Tributes!(for Seiji)」はボストン交響楽団の首席奏者たちの肖像画集といった意味で作曲され、小澤征爾へ献呈された曲の由で、小澤自身を描いたものではないそうな(プログラム冊子掲載のジョン・バーリンゲイムによる解説)。曲想がバラバラだったのはそのためだったのか。この曲だけ、ジョン・ウィリアムズが、現代音楽作曲家としてのおれの腕を見ろ、といわんばかりに書いたような印象を与える。

 そして第2部では御大ジョン・ウィリアムズ自身が登場。91歳にもかかわらず足取りはしっかりしており、終始立ったままで指揮を続け、明晰な口調でユーモアに富んだスピーチをするという若々しさだ。
 彼が現れて「スーパーマン・マーチ」を振り始めた途端に、サイトウ・キネン・オーケストラの音色がガラリと変わり、柔かく美しく、バランスのいい響きになったのには驚いた。この第2部の曲目はドゥネーヴが下振りしてまとめていたという話だったが、それにもかかわらず本番の演奏でこのように響きが一変していたというのは、やはり指揮者の人柄が放射する不思議な魔力といったものの所為ではなかろうか。

 私自身も、こういったプログラムは「サイトウ・キネン・フェスティバル~セイジ・オザワ松本フェスティバル」の本道ではあるまい、と多少斜めに視ていたものの、いざ彼が指揮台に姿を見せ、そして「スーパーマン・マーチ」の軽快なリズムが響き出した時には、なるほど、こういう路線もありだな、と瞬時に気持が変わってしまったのだから、やはり彼の雰囲気と芸風の魅力には抗えないものがあったことになる。

 彼はそのあと、「ハリー・ポッター」、「シンドラーのリスト」、「スター・ウォーズ」からの音楽を指揮し、しかもアンコールとして「インディ・ジョーンズ」と「スター・ウォーズ~帝国への逆襲」からの音楽などをも指揮した。
 オーケストラは全てバランスの良い演奏をしていたが、ただその整然たる演奏は、何作も聴いていると、ドゥネーヴの八方破れの賑やかな指揮と比べ、多少単調な印象に感じられて来る傾向がなくもなかった━━。

 ジョン・ウィリアムズは、最後に舞台袖から車椅子に乗った小澤征爾総監督を呼び出し、客席もステージも、いっそう沸き返った。そこで演奏されたのが、悪役ダース・ヴェイダーの「帝国のマーチ」だったとは何とも可笑しかったが、ともあれこの最後の1シーンは、ジョンとセイジのボストン時代からの熱い友情を示すものとして、われわれ聴衆に感動を与えてくれたことは事実である。

 今年の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」は、このようにして「聴衆層の拡大」を見事に実現したイヴェントという意味で、30年の歴史にあたらしい、しかしユニークな1頁を刻んだことになるだろう。
 さて、来年は、また「本道」に戻るだろうか?

2023・9・1(金)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 山田和樹は、10年間ほど務めた日本フィルの正指揮者のポストからは既に離れているが、日本フィルは今でも秋のシーズン開幕定期を彼の指揮に委ねている。

 今回の定期は彼らしくユニークなもので、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、J・S・バッハの「シャコンヌ」(齋藤秀雄編曲)、ウォルトンの「戴冠式行進曲《宝玉と勺杖》」、同「交響曲第2番」というプログラムが組まれていた。
 彼のプレトーク(相変わらず面白い)によれば、「楽しさ」と「シリアス」が交互に出て来る流れになっている由。

 日本フィルの定期の通例として、初日の演奏は多少ガサガサしているものだが、それでも沸き立つような活気にあふれた演奏だったことは間違いないだろう。

 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」をオーケストラの定期でやるという例は、あまりない(とマエストロ・ヤマカズもプレトークで語っていた)。しかも今回は16型編成で演奏されたのだから、結構な迫力である。スピーディで勢いも良く、物々しい「アイネ・クライネ」にならずに済んだ。
 続く「シャコンヌ」のアプローチも面白い。通常は「マエストーゾ」(荘厳に)というイメージで演奏されることが多いが、今回はクレッシェンドも凄まじく、すこぶる劇的に、悲愴な情熱の爆発といった雰囲気で再現されていた。

 後半はウォルトンの作品2曲。「戴冠式行進曲」は私にとってはあまり面白い曲には感じられないけれども、山田和樹の指揮は「行進曲」というよりは「舞曲」といったような感の、飛び跳ねるようなイメージになっていたのが興味深かった。

 「第2交響曲」は、今夜の白眉であったろう。特に第2楽章の神秘的な曲想━━低音のリズムが遠くから忍び寄って来るあたりの幻想的な雰囲気は私の好きなところ。総じて、山田和樹の快活で弾力的な躍動に満ちた音楽づくりが素晴らしく、昨年9月定期での「第1交響曲」に続き、ウォルトンの音楽の良さを印象づけてくれた演奏であった。
 コンサートマスターは扇谷泰朋。

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