2023-10

2023・10・31(火)内田光子とマーラー・チェンバー・オーケストラ

      ミューザ川崎シンフォニーホール  7時

 内田光子の弾き振りで、モーツァルトのピアノ協奏曲の「第25番ハ長調K.503」と「第27番変ロ長調K.595」。その間にオーケストラのみでシェーンベルクの「室内交響曲第1番Op.9」が挟まれた。

 モーツァルトのコンチェルトは、良くも悪くも、まさに最初から最後まで、「ピアニスト・内田光子」の感性によって染め尽くされた演奏、と言ってよかっただろう。
 良くも悪くも━━などという言葉は、わが国の生んだこの大ピアニストに対してはあまり使いたくない表現なのだが、正直に言うと、私は今日のモーツァルトには、些か疑問を抱いたのである。

 つまり、コンチェルトには、ソロとオーケストラによる琴瑟相和す悦びという要素の一方、ソロとオーケストラとのせめぎ合いの面白さという面も大切だったはずではないのか、という思いが頭の中をよぎり続けていたのだ。
 もともと内田光子の音楽は、モーツァルトの快活さという側面よりも、その音楽の底に流れる精神の光と影、時には魔性的な感性までを強く浮き彫りにするといったタイプの演奏であり、特に近年はいよいよその傾向が強くなって来たと思われる。今日の演奏でも、特に「第27番」ではそれが強く感じられ、この曲の陰翳の濃さをこれほどまでに浮き彫りにした演奏は稀ではないかとさえ感じられた。その点では彼女のピアノに賛辞を惜しまない。

 だが、彼女の指揮のもと、オーケストラが単独で語る個所においてまで最弱音が強調されたり、大きなリタルダンドが繰り返されたりといった手法が使われるとなると、モーツァルトが書いた音楽の対比、変化、移行の妙味が失われてしまい、曲そのものが単調で一本調子の印象になってしまうという結果を招くのではないか、ということ。

 「第25番」の第1楽章でも、総譜に指定されている「アレグロ・マエストーゾ」という言葉に含まれる威容や快活さ(アニマート、あるいはブリオ)といった要素が全く感じとれず、━━まことに申し訳ない言い方だが、彼女の指揮でオーケストラが演奏し始めた瞬間、その沈んだ無表情な、単調な音楽にびっくりさせられてしまったのである。

 そもそもコンチェルトは、「オーケストラのオブリガート付のソロ・ソナタ」であっては面白くない。やはりこの場合は、ソロとの対比を形づくる指揮者がいてくれたらな、と思わざるを得ない。
 従ってこの2曲のコンチェルトでは、内田光子のピアノのパートのみが映えた演奏だった。特にカデンツァの個所は圧巻で、できるならこのまま彼女のソロだけ聴いていたいな、と思わせたほどだったのである。なお彼女のソロ・アンコールはシューマンの「告白」。これも良かった。

 マーラー・チェンバー・オーケストラの本領は、シェーンベルクで発揮された。緻密に入り組み、寸時も緊迫感を失わないこの音楽の構成の凄まじさを余すところなく再現したこの見事な演奏は、腕達者な彼らならではのものだろう。
 聴衆は沸き、カーテンコールは「25番」と同じ数の3回にわたり、拍手は「25番」の演奏のあとより大きかったほどだった。しかも「25番」のコンチェルトのあとでは聞かれなかった最上階席からのブラヴォーが、このシェーンベルクでは爆発したのである。川崎のお客さんの受容力の幅広さを示すものと言えようか。

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