2024-03

2024・3・31(日)第13回音楽大学フェスティバル・オーケストラ

       ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 首都圏9音楽大学(上野学園大、国立音大、昭和音大、洗足学園音大、東京音大、東京藝大、東邦音大、桐朋学園大、武蔵野音大)からの選抜メンバーで編成されたオーケストラの演奏会で、今年はシルヴァン・カンブルランが指揮した。プログラムはマーラーの「第10交響曲」の「アダージョ」と、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」全曲だった。

 コンサートマスターは、前者が木立寛人(桐朋)、後者が竹中天音(国立)。なお後者には合唱がついたが、これも各音大から選抜して構成された合唱団(合唱指揮・阿部純)である。

 このフェスティバルを聴いたのは、私はこれが初めてだったのだが、若手たちの腕の良さたるや、予想はしていたものの、見事なものだ。響きが硬質だとか、演奏に情感が薄いとかいうことは━━特にマーラーの「アダージョ」ではそれが致命的な欠点にならざるを得なかったが━━作品の背景までを学ばせるという教育課程の問題になるだろう。それは重要なことだ。

 が、それを除けば、若い力の清新さが微笑ましくなる大演奏会だったと言えよう。「ダフニス」の後半の「全員の踊り」で聴かせた光彩陸離たる盛り上がりは、その音響の密度の濃い強大さも含めて、目覚しいものがあった。

2024・3・27(水)東京・春・音楽祭「トリスタンとイゾルデ」

       東京文化会館大ホール  3時

 「東京・春・音楽祭」の目玉シリーズ、ワーグナー・ツィクルスの一環。指揮は「いつもの」マレク・ヤノフスキで、NHK交響楽団(コンサートマスターは客演のMETオーケストラのコンマス、ベンジャミン・ボウマン)の演奏。
 トリスタンをスチュアート・スケルトン、イゾルデをビルギッテ・クリステンセン、マルケ王をフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ、クルヴェナールをマルクス・アイヒェ、ブランゲーネをルクサンドラ・ドノーセ、メーロトを甲斐栄次郎、牧童を大槻孝志、舵取りを高橋洋介、若い水夫を金山京介。男声合唱には東京オペラ・シンガーズが出演した。

 歌手陣は、イゾルデのクリステンセンにもう少し声の力強さが欲しいという物足りなさもあったものの、それ以外は粒の揃った強力な布陣である。
 トリスタンのスケルトンは第3幕の苦悩と憧憬のモノローグが劇的の極みだったし、クルヴェナールのアイヒェの強靭無比な声も献身的に主人に尽くす従者の気概をあますところなく表現していた。とりわけマルケ王のゼーリヒの貫禄充分の、重厚で悲劇性に富んだ声は理想的なマルケ像だろう。

 もちろんブランゲーネ役のドノーセも水準以上の出来だったが、2階上手側バルコン席で歌った「ブランゲーネの警告」での少々不安定な歌唱を聴くと━━贅沢な注文かもしれないが━━必ずしも満点とは言い難くなる。
 結局、脇役陣の日本勢の力強い歌唱を含め、今日は男声グループの充実度が際立っていたと言っていい。ただし、男声合唱は、それが作品の中で果たす性格上、あんなに強大な音量で響かせる必要はなかったように思う。

 マレク・ヤノフスキのテンポは、いつもながら速い。速いこと自体は悪くはないけれども、一瀉千里に淡々と押し流すあの音楽づくりでは、「トリスタン」の音楽に満ちあふれる和声の変化の妙味、登場人物たちの迷い、不安、躊躇い、焦燥感といった重要な要素が十全に描かれなくなるのではないだろうか? 
 たとえば第1幕で2人が薬を飲んだ瞬間や、第2幕大詰めで2人が「夜の国」への憧れを口にする場面、あるいは「愛の死」の最後で「トリスタン和音」が初めて解決される個所など、━━もう少し「矯め」とか「余韻」とか、深い感情表現とか、そういったものが必要なのではないか?

 ただその代わり、劇的な盛り上がりの迫力という点では充分で、第1幕幕切れの入港からマルケ王の登場(今回はここで本人が舞台に登場して来た)までの場面、第3幕のクルヴェナールと王の軍勢との戦いの場面の音楽などでは、息を呑むほどの緊迫感を生み出していたのは事実である。

 もう一つ、ブランゲーネに「警告」を客席で歌わせたのは、指揮者の意向かどうかは知らないけれども、賛成は出来かねる。聴衆の至近距離で歌ったのでは声が生々しくなり、聴衆は主人公たちが浸っている「夢幻の世界」を共有できなくなるからである。

 だがあれこれあっても、やはり私としては、ワーグナーの作品の中で、この「トリスタン」だけは、演奏会形式で聴く方がいい。もちろん舞台上演には舞台上演なりの良さがあり、━━先日の新国立劇場で大野和士が指揮した「トリスタン」も屈指の快演には違いなかった。が、演奏会形式上演のいいところは、演出の意味だとか、なぜあんな演技をするのだろうとかを考えて気が散らされることなく、ただ音楽に精神を集中できるところにある。
 いつぞやカンブルランと読響が演奏した「トリスタン」(☞2015年9月13日)の時と同様、今回もこの音楽の持つ凄まじい力に、ちょっと涙が出そうになったことも一度や二度ではなかった。「トリスタンとイゾルデ」は、やはりドイツ・オペラ最大の傑作であり、音楽史上でも三指に入る名作であることは間違いない。

 およそ30分の休憩2回を含み、終演は7時45分頃。

2024・3・25(月)川瀬賢太郎指揮名古屋フィル 東京公演

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 各都市オーケストラの東京公演が続く。昨日の飯森範親指揮による群馬交響楽団の東京公演(私は都合で聴けなかったが)に続く今日は、名古屋フィルハーモニー交響楽団の登場である。音楽監督・川瀬賢太郎の指揮で、レスピーギの「ローマ3部作」がそのプログラムだった。コンサートマスターは森岡聡。

 「ローマの噴水」「ローマの松」「ローマの祭」の3作からなるこの「ローマ3部作」、最初の「噴水」だけは叙情味が強いものの、いずれにせよ大管弦楽が咆哮する賑やかな作品に変わりはないので、これをこのオペラシティのコンサートホールで演奏するのは少々無理ではなかったかという気がするが━━しかしそれらの華麗な音の大爆発を抑制してしまってはこれらの曲の魅力も半減するだろう。川瀬と名古屋フィルは些かも手を緩めず、大音響を轟かせ、体当たり的な演奏を繰り広げた。

 「ローマの松」の「アッピア街道の松」と、「ローマの祭」の「チルチェンセス」では、2階席に金管のバンダを2本ずつ分散配置し、華麗なファンファーレを鳴り響かせる。
 私は2階のセンター席の中央やや右寄りで聴いていたのだが、驚くべきことにこれらの響きが━━「ローマの噴水」の「真昼のトレヴィの噴水」においてさえも━━実に均衡豊かな、壮麗で巨大な音の坩堝として聞こえたのだった。

 他の席ではどうだったか定かではないが、少なくとも私の席からは、川瀬賢太郎の音の構築のセンスの確かさと、名フィルの好調さ、といったものが感じ取れたのである。
 川瀬賢太郎、愈々自信満々のようである。頼もしい指揮者になった。

 なお今日は、コンサートマスターの一人、2001年4月からその任にあった日比浩一のラスト・ステージとのこと。アンコールの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲(マスカーニ)では、それまでトップサイドで弾いていた彼がコンマスの位置に座って演奏するという一幕もあった(しかもオルガン付きの演奏だった)。

2024・3・23(土)小澤征爾音楽塾「コジ・ファン・トゥッテ」

        東京文化会館大ホール  3時

 小ホールでの東京春祭マラソン・コンサート第1部が2時半に終ったので、予定通り、直ちに大ホールの「小澤征爾音楽塾」公演、モーツァルトのオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」の上演に向かう。

 デイヴィッド・ニース演出、ロバート・パージオーラ装置・衣装によるプロダクションで、━━以前に観たような気もするのだがあまり記憶が定かではなく‥‥と思いながらプログラム冊子を読んでいたら、プレミエは2014年7月18日・兵庫県立芸術文化センターとある。ということは、私も観た(☞2014年7月25日)「佐渡裕プロデュース・オペラ」の第10作として上演されたプロダクションと同じものだったということになる。
 今回の企画・制作のヴェローザ・ジャパンとの、その辺りの関連については、私にはよくわからない。

 とにかく演出は実にストレートなもので、ラストシーンにも所謂どんでん返しなどの読み替えは皆無である。10年前に観た時の日記では、この演出についてかなり不満を述べているけれども、あの頃は私も毎年のように欧米へオペラを観に行っていた時期だから、こういう「何も起こらぬ」演出には我慢できなかったのだろう。

 とにかく今回は、まずディエゴ・マテウス(小澤征爾音楽塾首席指揮者)の指揮が良かった。若い楽員たちで構成されている小澤征爾音楽塾オーケストラを指揮して、序曲から最初の場面あたりまでは音も硬く乱雑な響きが続いて先行きを危惧させられたものの、フィオルディリージとドラベッラの姉妹が登場したあたりから音色とアンサンブルがみるみる好転し、このオペラ特有の木管の和声の美しさが際立つ演奏となった。

 全く外連や劇的演出のない指揮なので、メリハリや起伏には不足したとはいえ、実に快く流れて行く演奏になっていたのである。流麗な音楽が、次から次へと繰り出される。こんなに美しい走馬灯のような音楽のオペラだったかこれは‥‥と驚いたが、その一方、こういう自然な演奏の方が、モーツァルトの音楽の本来の美しさが浮き彫りにされるのかもしれない、と思ったのも事実である。

 歌手陣が良かったことも特筆されるべきだろう。サマンサ・クラーク(フィオルディリージ)、リハブ・シャイエブ(ドラベッラ)、ピエトロ・アダイーニ(フェランド)、アレッシオ・アルドゥイーニ(グリエルモ)、バルバラ・フリットリ(デスピーナ)、ロッド・ギルフリー(ドン・アルフォンゾ)。
 ギルフリーは10年前の兵庫公演の時にも同じ役で出ていた。バルバラ・フリットリが今なお若々しく、軽快で明るいデスピーナを歌い演じていたのも嬉しい。

 今回の字幕(本谷麻子)は実に解り易く、文章も自然で、ドラマの内容を上手く伝えていた。なお本番の前に、小澤塾長に捧げるとして、モーツァルトの「ディヴェルティメントK.136」の第2楽章が演奏された。

2024・3・23(土)東京・春・音楽祭「《第9》への道」第1部

            東京文化会館小ホール 1時

 「東京春祭マラソン・コンサートvol.14」として、「《第九》への道━━《第九》からの道」と題し、「歓喜の歌(ベートーヴェン交響曲第9番)初演200年に寄せて」というテーマの3部からなるマラソン・コンサート。

 第1部は「死者もまた生きるのだ━━革命の熱気と混乱」と題されており、今日はこの第1部だけを聴く。ピアノ・ソロによる「第9」の第1楽章(ワーグナー編曲)、弦楽四重奏によるケルビーニのオペラ「水の運搬人」序曲(ルーフ編曲)、ピアノ・ソロによるワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」(クリントヴォルト編曲)、ピアノ・弦楽四重奏・合唱による「合唱幻想曲」(編曲者不詳)という興味深いプログラムだった。
 演奏はピアノが秋元孝介・岡田将・實川風、弦楽四重奏は白井圭・直江智沙子・瀧本麻衣子・門脇大樹、合唱は二期会合唱団のメンバー8人。解説は小宮正安。

 作品としてはケルビーニの「水の運搬人」序曲が珍しいものだったが、一方編曲の面白さも光っていた。最初の「第9」第1楽章を弾いたピアニストの割れんばかりの狂気じみた大音響には辟易させられたが、弦楽四重奏で聴く「水の運搬人」序曲の思いがけない美しさは印象的であった。一部90分の長さは手頃である。

2024・3・21(木)東京・春・音楽祭 ブッフビンダーのベートーヴェン

       東京文化会館小ホール  7時

 今年の東京・春・音楽祭では、オーストリアの名匠にして老練のピアニスト、ルドルフ・ブッフビンダーが、この15日から22日までの間に、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲を7回に分けて演奏している。
 今日はその第6日に当たる演奏会で、「第11番変ロ長調」「第20番ト長調」「第8番ハ短調《悲愴》」「第25番ト長調」「第21番ハ長調《ワルトシュタイン》」というプログラムが組まれた。

 ブッフビンダーのベートーヴェンは、これまでザルツブルクや東京で何度も聴く機会があったけれども、ひと頃落ち着いたスタイルに変貌したと思われた彼の演奏も、不思議なことにまた昔の「アレグロ・コン・ブリオ」スタイルに戻ってしまったような感がある。
 それはそれでいいだろうけれど、例えば「ワルトシュタイン・ソナタ」第1楽章の中ほど、いったん沈潜した音楽(第140小節以降)が再現部に向かって再び豪快に蘇って行く(第146~153小節)個所での動きなど、ひと頃はもっと巨人的で英雄的な気魄を噴出させた演奏をしていたのではなかったか? 今日の演奏はあまりに素っ気なく何気なく、淡々としたものに聞こえてしまったのだが‥‥。

 第3楽章(ロンド)の冒頭にしても同様で、それまでのアダージョからアレグレットに入った瞬間など、まさに「楽譜通り」以外の何ものでもない坦々としたテンポと表情で演奏して行く。昔、ある人がいみじくも「静中の動、動中の静」と評したこの個所、何もそれを誇張して演奏してくれとは言わぬが、もう少し音楽に次第に明るさが増して行くことへの感動を滲ませてくれたら、と思ったのが正直なところであった。

 「第25番」第1楽章の、例のカッコーの声のような3拍子の4分音符(第59小節から)の動きも、全く弾ませることなく、むしろスラーがかったリズムで弾く(これは彼だけの手法ではないが)。確かに楽譜では、ここにスタッカートの指示は付いていないのだから文句は言えないけれども‥‥。

2024・3・20(水)小泉和裕指揮九州交響楽団東京公演

      サントリーホール  3時

 2013年から音楽監督を務めていた小泉和裕が、この3月で任期を終る。今月は鹿児島と熊本でベートーヴェンの「田園」「運命」を演奏、次いで本拠地・福岡の3月定期でベートーヴェンの「交響曲第2番」とR・シュトラウスの「英雄の生涯」を演奏した。その福岡と同じプログラムで開催されたのがこの東京公演である。 コンサートマスターは扇谷泰朋。

 いずれも弦16型の大編成で演奏されたこの2曲、壮大でシンフォニックな響きを存分に発揮した演奏となった。カラヤン・コンクールで優勝して以来、今日まで一貫してカラヤンの指揮のスタイルに共通した大編成の管弦楽によるスケールの大きなサウンドを標榜して来た小泉和裕の面目躍如たる指揮である。そして、「シンフォニーをちゃんと演奏できるようなオーケストラにする」という理想を掲げている彼らしい指揮でもあった。

 ベートーヴェンの「2番」には、近年は他の指揮者からはほとんど聴けなくなったような、分厚く重厚で強靭な響きがあふれていた。一方、「英雄の生涯」では、全く外連のない正面切った、かつ標題性をことさらに誇張するような表現を抑制したともいうべき演奏が繰り広げられた。この生真面目な、あくまで均衡を重視した演奏構築こそが、小泉和裕の昔からの信条だろう。

2024・3・18(月)マルク・ミンコフスキ指揮OEK東京公演

       サントリーホール  6時30分

 オーケストラ・アンサンブル金沢がマルク・ミンコフスキの指揮で、ベートーヴェンの「交響曲第6番《田園》」と「第5番《運命》」を引っ提げての第40回東京定期公演。
 これは3年前に金沢で演奏したものと同一のプログラムである。あの時は本当に圧倒的な、見事な演奏に震撼させられたものだった(☞2021年7月15日)。

 今回も基本的には同一のコンセプトによる演奏であり、「5番」での猛速テンポという点も同様だったが、━━しかし、どこか違う。金沢の時は、特に「5番」では、オーケストラの演奏がもう少し丁寧で、内声部の動きなどももっと明確に聞こえていたような気がしたのだが‥‥今回はひたすらエネルギーの面だけが強調されてしまい、曲の細部の均衡という点にはさほど神経を使っていなかった演奏のように思われる。聴きながら、「そんなに急いでどこへ行く」という昔のCMを思い出したりしていた次第だ。

 ただ、「田園」の方は、曲の性格が性格ゆえ、美しさもよく出ていただろう。感銘を受けたのは第2楽章だった。木管群の快い音色が常に浮き彫りにされ、ベートーヴェンはこの楽章ではやはり小鳥たちを主役にしていたのだろう、と思わせる演奏になっていたのである。

 「5番」の第4楽章の主部がプレスト(!)で、コーダがプレスティッシモ(!)で演奏され、とにもかくにも盛り上がったあとで、ミンコフスキは聴衆の拍手を鎮め、一昨日の金沢でのそれとほぼ同じ内容のスピーチを行ない、バッハの「アリア」を指揮した(これはしかし、冒頭でやってもらった方がよかっただろう)。

2024・3・15(金)ミンコフスキ指揮OEK「第9」

     石川県立音楽堂コンサートホール  7時

 夕方4時過ぎ、北陸新幹線を終点の金沢駅で降りると、そこは東京駅並みの大雑踏。駅前ではイヴェントも行われている。今日はJRの「サンダーバード」の金沢ラストラン、明日は北陸新幹線の敦賀までの延伸初日、ということで、撮り鉄軍団も参集しているらしく、駅の内外が沸き立っている。ある東京人が「それを記念して《第9》をやるというわけかね」などと呆けたことを言っていたが、それとこれとは別であろう。

 この演奏会は、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の第479回定期公演だ。桂冠指揮者のマルク・ミンコフスキが指揮するベートーヴェン交響曲ツィクルスの最終回にもあたる。合唱は東京混声合唱団、声楽ソリストは中江早希(S)、中島郁子(Ms)、小堀勇介(T)、妻屋秀和(Bs)。コンサートマスターはアビゲイル・ヤング。

 合唱団も、その最前列に位置する声楽ソリストも、最初から板付きである。ミンコフスキは登場するとスピーチを始めたが、それはもちろん北陸新幹線の話ではなく、能登の地震の犠牲者への追悼と、小澤征爾氏への追悼という内容であった。
 そしてバッハの「管弦楽組曲」からの「アリア」を荘重に演奏すると、そのまま切れ目なしにベートーヴェンの「交響曲第9番」の演奏を開始する━━このやり方は、あの東日本大震災の直後にメータがN響を指揮したチャリティ・コンサート(☞2011年4月10日)と同一だが、今日の「第9」にはあの時のような悲劇的でデモーニッシュな雰囲気を感じさせる要素は全くなく、あくまでも「歓喜への頌歌」を最後に付した「第9交響曲」という、音楽的な性格を重視した演奏だった、と言っていい。

 それにしても、このミンコフスキの「第9」の強烈だったこと! 全曲にわたって強烈な推進性に満ち、強靭な意志力を感じさせる演奏だった。
 第1楽章から速めのテンポで驀進しながらも、内声部の動きを明確に響かせ、ベートーヴェンの管弦楽法の巧みさを浮き彫りにして、音楽を実に表情豊かに描き出す。第3楽章の導入部で管楽器の入りに何か不思議なルバートを施してオヤと思わせた以外、特にこれといった外連味はなかったが。

 だが、第4楽章では、演奏の更なる盛り上がりに加え、こちらが呆気にとられるような新機軸も交って来る。最初のチェロとバスのレチタティーヴォのテンポの何と速いこと。OEKがよくこの猛速テンポをこなしたものだと思うが、下手側と上手側に2本ずつ分散配置された(!)コントラバスも、見事に「異議」を発言していた。

 OEKの演奏の巧さは、各楽章の主題が少しずつ引用される個所で、恰も「この主題では‥‥」と言いかけてハタと口を噤むかのような表情を生々しく漂わせていたところにも聴かれる。特にスケルツォ主題の引用のあとの個所でのこの呼吸が、何とも見事だったのには驚いた。そして、「歓喜の主題」が登場し、それが反復されつつ徐々に昂揚して行く一連の個所でも、これほど自然で一貫した流れを感じさせた演奏は稀であろう。このあたりのミンコフスキの音楽づくり、すこぶる巧妙を極める。

 妻屋秀和のバスのレチタティーヴォも、よくある取り澄ました歌唱でなく、まさに「生きた呼びかけ」という表情に富んだものだった。そのあと、テノールのソロのくだりで、小堀勇介が突然後ろを向いて雛壇を一段高い所に上り、そこで振り向いて朗々と歌い出したのには驚いたが、なるほどここは「若者が先頭に立って全員を鼓舞する」という内容の歌詞なので、理屈に合った演出だろうと思う。
 ここで椅子に腰を下ろしたまま(!)テノールに和していた合唱団が、続く激烈な演奏のオーケストラ(この演奏も目覚ましかった)に触発されたかのようにどっと立ち上がって「歓喜の主題」を爆発するように歌い出すあたりなど、視覚的にも壮烈だったが、純音楽的にも物凄い力を感じさせ、ミンコフスキの並外れた感性を示しているだろう。

 そのあとの祈りの部分も、ドッペルフーガの部分も、合唱の力はひときわ凄まじく、ベートーヴェンの夢見る全人類の調和という理想を謳い上げているかのようである。
 特にそれをさらに強く感じさせたミンコフスキの「音楽的演出」は、大詰めの熱狂的なプレストの個所で、楽譜上では歌わない4人のソリストたちにも共に最後まで唱和させていたことだ。だが、ここは本来、この方法が正しいのではないだろうか? 舞台上の全員が「歓喜への頌歌」に参加することこそ、ベートーヴェンの理想に合致することだったはずなのに、彼が何故そう楽譜に指定しなかったのか、私は以前から疑問に感じていた。今回のミンコフスキのやり方を見て、聴いて、やっと胸のつかえが下りた思いである。

 ともあれこの第4楽章、特に後半の圧倒的な力感は凄まじいものがあった。最後のオーケストラによるプレスティッシモが、ただ形だけの最高速でなく真の精神的な昂揚を感じさせてくれるような例は、滅多にないことだった。

 8時15分終演。これ1曲だけでも、わざわざ東京から聴きに出かけた甲斐はあったというものである。なお会場では、ミンコフスキの著書(岡本和子訳、森浩一・日本版監修、春秋社刊)が売られており、終演後にはそのサイン会に長蛇の列ができていた。帰りの新幹線の中でとりあえず飛ばし読みしてみたが、なかなか面白い。

 現地の知人たちと会食しANAホテルに一泊、翌16日朝に、この日からは金沢始発でなく、敦賀から来る(!)ようになった「かがやき」の客となる。金沢駅は昨日を上回る物凄い雑踏だ。延伸もまだ初日だというのに、もうこんなに観光客が?

2024・3・14(木)新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」初日

      新国立劇場オペラパレス  4時

 2010年暮にプレミエされたデイヴィッド・マクヴィカー演出、ロバート・ジョーンズ美術によるプロダクションの再演で、今日が初日。

 舞台は前回時(☞2010年12月25日)とほぼ同様だが、登場人物たちの演技の点では、今回は微細さが少し失われているような気がしないでもない。これは「再演」の宿命かもしれないが、再演演出家や歌手たちの感性によるところも大きいだろう。
 いずれにせよこの舞台は冷徹で厳粛で、ある種の暗い力に支配されているように見えるが、それは多分、このドラマに相応しいものだ。

 水夫たち━━いや、「水夫」の語は今では何故か御法度だというから━━船乗りたちの、つまりマルケ王の配下たちのいでたちたるや、何だか「アイーダ」にでも出て来そうな軍団で、それだけがいささか気になる。演じているのはすべて「助演」の人たちで、ほとんどダンス的なポーズを取って恋人たちを威嚇するが、これはこれで、ひとつの手法だろう。

 歌手陣は、当然ながら13年前とは全く変わっている。
 トリスタン役のゾルターン・ニャリとイゾルデ役のリエネ・キンチャは、いずれも当初予定されていた人の代役だった。前者はあまり英雄的な風格はないものの、苦悩のカタマリの騎士という雰囲気で押したと言えようか。声質はヘルデン・タイプではないが、第3幕での長いモノローグは充分に聴かせてくれた。キンチャは声量に少しムラはあるけれど、最後の「愛の死」では、これに全てを賭けていたと言わんばかりの絶唱で存在感を示していた。

 だが今回最も映えたのは、ブランゲーネを歌った我らの藤村実穂子と、マルケ王を歌ったヴィルヘルム・シュヴィングハマーである。藤村のドイツ語の明晰さと、昔ほどではないがよく透る美しい声は魅力で、控え目ながらも献身的に女主人に尽くすといったこの役柄を清楚に歌い演じていた。流石である。
 またシュヴィングハマーは、若手世代の歌手ながら恐ろしく老人的なメイクと身振りで、豊かなバスを駆使して「苦悩の老王」を見事に歌い演じた。ある意味では、彼が最も存在感が強かったと言えるだろう。

 クルヴェナールを歌ったベテランのエギルス・シリンスももちろん悪くなく、安定した歌唱で忠実無比の従者を演じていた。
 その他の協演陣は、メーロトを秋谷直之、牧童を青地英幸、舵取りを駒田敏章、船乗りの声を村上公太、といった人たち。いずれも手堅い。合唱はもちろん新国立劇場合唱団だが、今回は陰歌のようだったので、些か迫力を欠いた。よく聞こえない個所もあったので、これは2回目の上演以降に修正されるだろう。

 だが、それ以上に今回━━今回は更に、と言うべきか━━賛辞を捧げたいのは、東京都交響楽団を見事に制御し、豊潤で柔らかくてヒューマンな「トリスタン」の音楽をつくり出していた大野和士の指揮だ。第1幕前奏曲の冒頭から、あたたかい弦の響きがいっぱいに漲る(都響のこの弦は驚異的に見事だった)。
 管に出るあの「トリスタン和音」さえ、刺激的も闘争的にも響くことはない。その他、第2幕での愛の二重唱の個所、とりわけ「ブランゲーネの警告」の個所での豊麗で夢幻的な雰囲気をはじめ、第3幕前奏曲での深々とした苦悩の響きなども含めて、全曲にわたって「愛」の情感がモティーフになっている、といった演奏に感じられたのである。

 とかく攻撃的で荒々しいスタイルが多くなっている今日の「トリスタン」演奏の中で、このような夢幻的な「トリスタン」の表現は貴重であろう。その意味では、前回にも書いたことだが、これは第一級の「トリスタン」だと言って決して過言ではあるまい。
 それにしても都響はいい演奏だった。少し前、「新国のオケ(複数)はこれから変わりますよ」と宣言していた大野和士。オペラ部門芸術監督としての努力がいよいよ実を結んでいる。

 45分の休憩2回を含み、上演時間は5時間半(第2幕の二重唱の前半には慣習的なカットがあった)。このあと、17日、20日、23日、26日、29日と上演される。

2024・3・13(水)バッティストーニ&東フィル「カルミナ・ブラーナ」

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 東京フィルハーモニー交響楽団の東京オペラシティ定期シリーズで、首席指揮者アンドレア・バッティストーニが指揮、レスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」第2組曲と、オルフの「カルミナ・ブラーナ」を演奏した。コンサートマスターは依田真宣。後者での協演は新国立劇場合唱団と世田谷ジュニア合唱団、声楽ソリストはヴィットリアーナ・デ・アミーチス(S)、弥勒忠史(CT)、ミケーレ・パッティ(Br)。

 前者は演奏会ではめったに聴けない曲目で━━実は私もナマで聴いたのは初めてだ━━「第3組曲」ほど親しみやすい雰囲気の曲ではないけれども、貴重な機会だった。バッティストーニはこのような作品にも躍動的な活力を注入する。終曲「ベルガマスカ」の終結の個所での劇的な追い込みの見事さなど、バッティストーニの面目躍如たるものがあっただろう。

 「カルミナ・ブラーナ」を聴くには、このオペラシティのホールは狭すぎるかもしれない。だが、熱血バッティストーニの快速テンポを振りかざして猛烈に煽り立てる指揮により、胸のすくような勢いに富んだ演奏となった。あまりにも開放的で明るい表情のため、この曲に籠められたアイロニー感や、苦々しいユーモア性などはどこかに飛んでしまったという印象もなくはないものの、曲自体の面白さは充分に生きただろう。
 それに今回、3人の声楽ソリストが快調だった。就中デ・アミーチスが最後の「陶酔の最高音」を美しく響かせてくれたのは有難い。

2024・3・12(火)マリー・ジャコ指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時 

 東銀座の東劇でのMETライブビューイングが6時に終映したので、直ちに赤坂のサントリールに移動。フランスの新星女性指揮者マリー・ジャコが読響を指揮して日本デビューする演奏会がある。

 プロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」組曲、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(ソリストは小曽根真)、プーランクの「典型的動物」、クルト・ヴァイルの「交響曲第2番」という、実に多彩な、それでいてある面では一貫性のある流れのプログラムを指揮した。コンサートマスターは長原幸太。

 このジャコという指揮者、私はもちろん今回初めて聴く人だが、非常に才能豊かな指揮者のようである。プロコフィエフではこの作品の躍動的で色彩的な個性をよく再現して、荒々しくもあるが熱気にあふれた演奏を聴かせてくれた。このカラフルなオーケストラの響かせ方は次のラヴェルにも引き継がれる。
 休憩後のプーランクに至ると音色には少し落ち着きが増し、それが作品の皮肉気なユーモア感とよく合致するようになる。そして一転して、クルト・ヴァイルの交響曲での指揮では、このシリアスともつかぬ、アイロニーともつかぬ性格の作品を、実に引き締まった構築で再現していたのだった。見事な流れである。

 このプログラムの中に、この彼女の指揮の中に、さらに露・仏・独というお国柄の中に、斬新さを求めて沸き立っていた20世紀前半の音楽シーンの諸相、といったものが折り込まれていたのだった。

 小曽根真がこのラヴェルのコンチェルトにおけるジャズ的要素をいかに巧く浮き彫りにしてくれるか、と期待して聴いていたのだが━━そうした要素は皆無ではなかったものの、やはりどこかに遠慮があったのか? 綺麗な演奏ではあったけれど。ソロ・アンコールでは「A列車で行こう」を弾いたが、協演した大槻健のコントラバス━━いやベースは、楽器の角度のためもあって私の席ではあまりよく聞こえなかった。やはりPAがないと無理か。

2024・3・12(火)METライブビューイング 新演出「カルメン」

       東劇  2時20分

 久しぶりで面白い「カルメン」を観た。今年1月27日のメトロポリタン・オペラ上演ライヴ映像で、英国の女性演出家キャリー・クラックネルによる新演出である。舞台を現代アメリカに移し、煙草工場は軍需工場、エスカミーリョは闘牛士ではなくロデオのチャンピオン、密輸団は大型トラックで移動━━という設定にしている(但し歌詞はオリジナルのまま)。
 部分的にはちょっとチグハグな所もあるけれども、全体としては良くまとまっているし、例によって演技は非常に細かいので、結構愉しめる。

 それに歌手陣が良い━━カルメンを歌っているのはロシア出身のアイグル・アクメトチーナという27歳(!)のメゾ・ソプラノだが、これがあのネトレプコを丸顔にしたような明るいキャラで、かなり舞台映えする人なのである。2020年に新国立劇場でオルロフスキー公を歌っていたそうだが、私はあいにく観ていなかった。今後注目していい歌手だろう。

 また、ドン・ホセはピョートル・ベチャワ、ミカエラがエンジェル・ブルー、エスカミーリョがカイル・ケテルセンという腕利きの主役陣で、このあたりはもう、みんな文句ない歌唱と演技である。その他脇役は、スニガをウェイ・ウー、フラスキータをシドニー・マンカソーラ、メルセデスをブリアナ・ハンター、という人たちだ。

 指揮はダニエレ・ルスティオーニ、最近はMETにもしばしば登場しているようだが、今回の「カルメン」ではすこぶる緊迫感のある指揮で、各幕の幕切れでの追い込み、盛り上げなどには聴かせるものがあり、成功を収めている。今回は、基本的にギロー版が使用されていた。
 なお休憩コーナーでは、彼が自らピアノを弾きながら聴きどころを解説するという一幕が折り込まれていて、これはなかなか面白い。この手はロイヤル・オペラのライブビューイングではよく行われていたものだが、METのHDでは珍しい試みである。

 上映時間は3時間37分。

2024・3・11(月)18世紀オーケストラのモーツァルトとショパン

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 かつてはフランス・ブリュッヘンの指揮のもとで、バロックや古典音楽を中心にピリオド楽器オーケストラの魅力を世界に伝えていた18世紀オーケストラ。今日は指揮者なしでモーツァルトの「交響曲第40番ト短調」を最初に演奏、次にショパンの作品を見事に演奏してみせた。使用ピアノは1843年のプレイエル。

 第1部でモーツァルトにすぐ続いて演奏されたのは、藤倉大の「Bridging Realms for fortepiano」という、第2回ショパン国際ピリオド楽器コンクールおよびKAJIMOTOの共同委嘱によるピアノ・ソロ曲(ソロは川口成彦)と、以下はオーケストラとの協演でショパンの「ポーランドの歌による幻想曲」(ソロ:同)、ショパンの演奏会用ロンド「クラコヴィアク」(ソロはトマシュ・リッテル)。そして休憩後にはショパンの「ピアノ協奏曲第1番」(ソロはユリアンナ・アウデーエワ)。

 モーツァルトの「40番」での鋭角的な演奏はブリュッヘン時代のそれを思い出させたが、あの頃の緻密で引き締まった表情はもはやなく、推進性に富んではいるが激しく荒っぽい演奏になっていた。第1楽章など、あんなに慌ただしく押しまくっては、モーツァルトの精緻精妙な和声の響きが疎かになってしまうではないか━━という気にもなる。
 モーツァルトはスコアに「モルト・アレグロ」と書き入れているのは事実だが、「プレスト」とも「アジタート」とも書いてはいないのだし‥‥などと思いつつ聴いていた。だがそれにもかかわらず、音楽のもつ力は些かも損なわれていないのだから、モーツァルトの音楽の凄さたるや、やはり尋常ではない。

 次にショパンのほう。ピリオド楽器オーケストラと1843年プレイエルのピアノで聴くショパンの音楽の新鮮さ━━ということはもちろん今日の関心事のひとつであり、18世紀オーケストラがショパンのコンチェルトをこんなにうまく演奏するのか、ということにも感心はしたが、それ以上にやはり、作品そのものの面白さ、素晴らしさと、3人のソリストたちのそれぞれの個性の違いによって生れるショパンの音楽の諸相━━といったことの方が印象に残る。

 川口成彦の演奏の並外れて瑞々しい、あたたかい語り口に魅了されたあとには、リッテルのユーモア感に微笑を誘われ、そして最後にアウデーエワのさすがの千両役者ぶり(?)に感心する。特にこのコンチェルトでは、彼女と18世紀オーケストラによる胸のすくような滔々たる流れの演奏に、快い体験を味わった。
 終演は9時半。

2024・3・10(日)番外編 東京大空襲

 すみだトリフォニーホールのホワイエに並んでいた展示物の中に、第2次世界大戦末期の1945年3月10日の所謂「東京大空襲」における「消失区域」の地図があった。恐るべき広さである。
 この日の午前0時過ぎ、米軍B29約300機以上東京湾より侵入し爆撃。下町地区一帯焦土と化し死者10万人以上━━という報道はよく知られているだろう。私自身は幼児だったし、鎌倉の七里ヶ浜に疎開していたから、そのような惨事を知る由もないが、当時帝大助教授で本郷の校舎で宿直をしていた父の日記に以下のような一節がある。「あの時代について語り伝える人間も少なくなった」と言われる今日、ブログの本来の主旨とは違うけれども、敢えてここに引用しておくのも無駄なことではないと思われる。

 ‥‥第一機、南方上空にあらはるるを見るに、未だかってあらざる低空にて(2千メートル位?)探照燈光に銀色を輝かせるB29、頭上を北に飛ぶ。高射砲の響き猛然たり。而して早くも焼夷弾を落したりと見え、(上野)広小路らしき方向に空の明るくなるを望見す。「又やった」と木口氏と語りつつ壕外に立つ内に、次で第二機、第三機と続き来る。この頃、情報放送は、敵が相当の多数なるを伝ふ。何れもかなりの低空にして巨大なる姿を現はしては、殆ど頭上を西南より東北進す。編隊は作らず、一機づつ交々来るなり。中には他の方向をとりて現はるるもあり。危険にて、壕外に長く立つ能わず。被弾も従来より一層多きが故に木口氏と交々南研の廊下室内など、敵機の頭上になき短時間をうかがひて馳せ廻り警戒す。
 其の内に西北方肴町辺らしき方に火の手上り、騒然たる火災の物音も聞え、又池の端方面の火事も速やかに拡大せりと見えて、東西の硝子窓、至る所赤色に明るくなり来る。敵機は益々頻りにして、防御砲火らしき音は愈々猛烈なり。風は強く、西北より盛んに火の粉を送り来る。それでも初めは概ね少数にて、地面にて少時にして消える程度なりしが、段々と雪の如く繁くなり、消えぬものも多くなり、危険増大す。空は黒煙に閉ざされ、高くは見えず。敵はその煙の内より爆音高く近づきては幽霊の如く煙霧中より現はれ、又去る。特に農学2号館の上、忽然と現はれては北進するもの何機なるを知らず。而してそれが何れも赤門の上か本郷三丁目あたりと思はるゝ所にて雨の如く焼夷弾を落し、その余塵の中空に残るが花火の如く見ゆ。何時農学部の構内に落つるか判定すべからず。他地区の事は想像も出来ざるも、とにかく敵はこの辺を集中攻撃をなすらしく、危機急増す(以下略)。

 ━━因みに、東京への大規模な空襲は、時たま誤解されることだが、この日1回のみではない。それは実際には1944年11月末頃から始まり、45年1月から激化し、5月末まで毎夜のように続いていた。東京は焼け野原となり、当時目黒にあった私の家も、5月25日早暁の「東京最後の大空襲」で焼けた。私もその頃は東京にいたが、夜空を圧するB29の大編隊の轟音の物凄さは今なお記憶に残っている。

2024・3・10(日)広響東京公演 下野竜也・音楽総監督ファイナル

      すみだトリフォニーホール  3時

 広島交響楽団の「創立60周年記念東京公演」。下野竜也が2017年4月から務めた音楽総監督としてのファイナル・コンサート━━という趣旨も兼ねた演奏会である。
 プログラムは細川俊夫の「セレモニー~フルートとオーケストラのための」(フルート・ソロは上野由恵)およびブルックナーの「交響曲第8番」(ハース版)。コンサートマスターは三上亮。満員の盛況だ。

 ブルックナーの「8番」は、下野が音楽総監督に就任した最初の定期公演で演奏した曲でもある(☞2017年4月16日)。そのメモを読み返してみると、その演奏スタイルが当時も今も一貫したものであることが判る。比較的遅いイン・テンポで、正面からこの大交響曲に挑み、そして成功を収めた、という印象を与える指揮だ。

 今日は席が1階最後列という位置で、しかも「屋根がかぶっている」場所であったため、音がどうもあまりストレートに響いて来ないようで、もどかしく思えることもなくはなかったが、それでも演奏に漲る壮大な気宇は、明確に感じることはできた。第4楽章の大詰めなど、その重量感と熱量の豊かさたるや驚くほど圧倒的で、まさにすべてが総合された大頂点という感であった。そしてこれは、広島交響楽団の演奏水準の高さをも如実に証明した快演だったと言っていいだろう。

 なお、先日の富士山静岡響との演奏会で高関健が施した第1楽章冒頭第5~6小節のクラリネットをカットする解釈(?)を、今日の下野竜也も「高関先生に教えを乞うて」(プレトークでのコメント)踏襲していた。「不自然だし、手稿譜には明らかに誰かがあとでそれを書き込んだような形跡もあるし」という主旨に基づくカットで、いかにも原典尊重を掲げる指揮者たちらしい考えだ。
 俗物の私などは、昔からずっとその「あり」の演奏で聴き慣れてしまっているから、それがないと何だか「合いの手」が抜けているようで物足りない、という気が未だにしているのだが━━。

 前半で演奏された細川俊夫の「セレモニー」は、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団とオーケストラ・アンサンブル金沢の共同委嘱作品として2022年に完成され、同年9月にチューリヒで初演されたものの由。演奏時間20分強の「協奏曲」だ。フルートのさまざまな音色を駆使した上野由恵のソロも見事で、細川特有の━━プログラム冊子に作曲者もそれについて書いているが━━「風の音」のイメージは、ここでも魅力的である。

 ともあれ、プログラミングの斬新さでも際立ち、広響に新しい世界をもたらした下野竜也音楽総監督の大活躍、お疲れさまでした。

2024・3・9(土)広上淳一指揮神奈川フィル 「わが祖国」

        横浜みなとみらいホール  2時

 神奈川フィルハーモニー管弦楽団(現在の音楽監督は沼尻竜典)の定期公演を久しぶりに聴きに行く。広上淳一がスメタナ(生誕200年)の「わが祖国」全曲を指揮した。コンサートマスターは石田泰尚。

 今回は、全6曲が休憩なしに続けて演奏された。
 この連作交響詩は各曲がそれぞれ強い個性と完結感を備えているので、CDでならともかく、生演奏では続けて聴くと著しく疲れるものである。かなり以前にも、まだ若かった頃の下野竜也がサイトウ・キネン・オーケストラをこのやり方で指揮したのを聴いた時も私はヘトヘトになったもので━━あのラドミル・エリシュカにそれを話したら「お察ししますよ」と笑っていたが━━今日も些かそれに似た気分になったのは、事実ではある。

 ただ今日は、ベテランの広上淳一が神奈川フィルを制御する気魄の並々ならず、それに応えて神奈川フィルも入魂の演奏を繰り広げていたので、意外に早く時間が過ぎてしまった感はあったが‥‥。

 実際、今日の「わが祖国」は、まさにこの曲は傑作だ、と改めて感じ入ったほど、素晴らしい演奏だった。特に「シャールカ」「ボヘミアの森と草原より」「ターボル」の3曲における演奏の熱量の高さは、絶賛に値するだろう。スメタナが既に聴力を失っていたにもかかわらず、かくも劇的な音楽の構築に秀でていたかということを、まざまざと示してくれる演奏である。

 最終曲「ブラニーク」でも、中間部あたりでのテンポの加速感の見事さ━━実際にはテンポはほとんど変わっていないのに、恰もアッチェルランドがかかっているかのように聴かせてしまう━━は、演奏そのものに強い昂揚感が備わっていたゆえだろう。ただその分、大詰め個所での追い込みの個所が、多少盛り上がり感が弱められた印象もなくはなかったけれど。

 それにもう一つ敢えて注文をつければ、「シャールカ」で、「ツティーラト軍が森の中を進んで行くと、樹に縛りつけられたシャールカの姿が見えて来る」個所での、彼女を表わすクラリネットのソロにもう少し「(男たちを欺くための偽りの)可憐な表情」が必要だったのではないか、ということも。

 だがいずれにせよこれは、神奈川フィルの演奏水準の目覚しい向上を示す演奏であった。昨夜のシティ・フィルと同じように、細部の技術的な問題や、アンサンブルの緻密さなどという点では今一つとしても、演奏におけるその熱気と昂揚は、すべての欠点を補って余りあるだろう。
 カナ・フィル、次の定期公演(4月20日)では、沼尻竜典の指揮でブルックナー(これも生誕200年)の「第5交響曲」をやるそうである。

2024・3・8(金)高関健指揮東京シティ・フィル マーラー5番

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 常任指揮者・高関健の指揮で、シベリウスの「タピオラ」とマーラーの「交響曲第5番」が演奏された。コンサートマスターは特別客演の荒井英治。

 完売満席の盛況である。しかも開演前のマエストロによるプレトークが始まる時からほとんどの人が席についているという、お客さんたちのこの熱心さ。シティ・フィルの定期演奏会もついにこのような状況に達していたのか、と嬉しくなった。カーテンコールでの盛り上がりも凄まじい。

 演奏の方は、「タピオラ」から「第5交響曲」の第2楽章の前半あたりまではアンサンブルもやや荒っぽく、気負いばかりが先行しているような印象もあったけれど、同楽章途中からはミューズの神が突然大きな翼を広げたかのように、音楽に瑞々しい壮大さがあふれ始めた。高関の指揮にも強烈な推進性が漲っていたが、これに応えるシティ・フィルの演奏も、体当たり的な勢いである。

 第3楽章でのソロ・ホルンはステージ前面、指揮者とコンサートマスターの間に位置し、下手後方のホルン群とともに強力な歓呼を響かせ、これは聴きものであった。熱演のマーラーである。
 今回の使用楽譜は国際マーラー協会の批判校訂譜2002年版(ペータース版)とのことだったが、ハープが2台使われていたのが注目された。

2024・3・3(日)R・シュトラウス「ばらの騎士」

     滋賀県立劇場びわ湖ホール  2時

 びわ湖ホールのステイタス、春の「プロデュース・オペラ」のシリーズが、今年は新・芸術監督の阪哲朗の指揮で、「ばらの騎士」を以て、そして久しぶりの舞台上演形式で、2日と3日に開催された。この劇場としては、この「ばらの騎士」は沼尻竜典芸術監督の就任時に取り上げられて(☞2008年2月3日の項)以来の上演である。
 今回の演出は中村敬一、舞台装置は増田寿子、管弦楽は京都市交響楽団。

 主役陣はダブルキャストで、今日は田崎尚美(元帥夫人)、斉木健詞(オックス男爵)、山際きみ佳(オクタヴィアン)、𠮷川日奈子(ゾフィー)、池内響(ファーニナル)。
 また共演陣は2日間共通で、船越亜弥(マリアンネ)、高橋淳(ヴァルツァッキ)、益田早織(アンニーナ)、松森治(警部)、清水徹太郎(テノール歌手)、晴雅彦(公証人)、山本康寛(料理屋の主人)ほかの人たち。
 合唱はもちろんびわ湖ホール声楽アンサンブルだが、前出のソリストたちの中にはそのアンサンブルの登録メンバーも何人かいて、この合唱グループの活動の充実ぶりを実証している。

 演奏の面では、まず何よりも第一に、阪哲朗の指揮の素晴らしさを挙げなくてはならない。R・シュトラウスの音楽の官能的な、かつ叙情的な美しさをこれほど魅力的な語り口で見事に再現した指揮者は、日本の指揮者の中でも稀であろう。
 第1幕最後の元帥夫人の物思いの場面や、第3幕大詰めの三重唱と二重唱の場面での陶酔感に富んだ表情はもちろんのこと、第2幕と第3幕で大勢の人物が早口で応酬する部分でのオーケストラの起伏感、劇中で何度か意味ありげに「オクタヴィアンの動機」が再現する直前での微細な「矯め」など、彼の指揮の「もって行き方の巧さ」には、本当に感心した。

 この人はもともと一瞬の客演指揮で要領よく成果を上げるというタイプの指揮者ではなく、じっくり腰を据えて時間をかけ、丁寧に練り上げて良い演奏をつくり上げるという指揮者だから、このびわ湖ホール(もちろん山形響もそうだが)でのような制作体制の場所なら、彼の本領も最良の形で発揮されるはずである。であれば、初代芸術監督・若杉弘が基礎を築き、二代目芸術監督・沼尻竜典が発展させたびわ湖ホールのオペラ制作体制も、阪哲朗のもとで、これからも盤石であり続けるだろう。

 今回は京都市交響楽団の快演にも賛辞を捧げたい。いつぞやの「フィガロの結婚」とは天と地との違いだったと言っていい。第1幕の幕切れなどで、あのゆっくりした音楽を入魂の演奏で紡いでくれたのはうれしかった。(追記 No nameさん、そうですね、「フィガロの結婚」の時のオケの演奏、と書くのが正確ですね。京響さん、失礼しました)

 歌手陣は、みんな充実していた。初日(3月2日)の森谷真理、妻屋秀和、青山貴、石橋栄実、八木寿子の組も見事だったという噂を聞いたが、今日の人たちもそれぞれ良さを発揮していたと思う。田崎尚美は第3幕で元帥夫人としての気品と威厳を示し、斉木健詞は持ち前の長身と深みのある低音でオックスを厭味なく歌い演じていた。ファーニナルの池内響は、第2幕でのオタオタしている新興貴族から第3幕で元帥夫人に愛想よく腕を差し出す紳士への大きな変わりっぷりもいい。𠮷川日奈子もゾフィーを愛らしく歌い演じていた。
 そしてオクタヴィアン役の山際きみ佳は、今回の大収穫ではないかと思うが、素晴らしく魅力的なズボン役だ。以前にもこのホールでの「ドン・キホーテ」や名古屋での「ヴァルキューレ」で聴き、観たことがあるが、このオクタヴィアン役では、目覚ましい花形に成長していたと思う。

 演出は中村敬一で、手堅く、かなり微細なニュアンスを感じさせる演出で解り易い。歌手に客席の方へ顔を向かせて歌わせる手法や、怒った時に流し目を使わせる手法(今回はオクタヴィアンがやっていた)などには、あの大御所たる栗山昌良の影を感じさせて気になるけれども、それを除けば、好感が持てるオーソドックスなスタイルである。
 終り近く、元帥夫人は若い2人の結びつきを認めてやると、あとをも見ずに部屋を出て行くという「腹立たしい」表現の演技が展開されるのは特に珍しい手法ではない。だが今回は、最後に彼女が帰って行く時に差し出した片手を見てオクタヴィアンがむしろ躊躇うような様子を示し、その手にキスし終わる頃にはもうゾフィーの方を振り返っているという具合に、彼の関心がすでに元帥夫人から離れている様子が、はっきいと示されていた。この設定の演出は、面白かった。

 舞台装置は伝統的なスタイルだが、ファーニナル家の広間で、上手側に日本の端午の節句の兜や、ひな祭りの人形ひとつなどが飾られ、下手側には屏風も並んでいたのには笑いを誘われる。

 しかし最後に一言、字幕についてだけは些か不満を申し述べたい。特に第3幕後半など、登場人物の思惑が入り乱れるくだりなどでは、あの字幕では、ストーリーの進行さえ、解り難い。たとえば元帥夫人がオックス男爵に退去を命じる際の一種の詭弁的論理や自身の動揺などについても、もう少し観客の立場に立って文章をつくることが必要である。ドラマの本質が一目瞭然解るように伝えるのも字幕の使命なのだから━━。それに、「高身分」の人物みんなを「閣下」と呼ぶのは、不自然ではないか。ましてや元帥夫人までを。

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