2024-03

2024・3・3(日)R・シュトラウス「ばらの騎士」

     滋賀県立劇場びわ湖ホール  2時

 びわ湖ホールのステイタス、春の「プロデュース・オペラ」のシリーズが、今年は新・芸術監督の阪哲朗の指揮で、「ばらの騎士」を以て、そして久しぶりの舞台上演形式で、2日と3日に開催された。この劇場としては、この「ばらの騎士」は沼尻竜典芸術監督の就任時に取り上げられて(☞2008年2月3日の項)以来の上演である。
 今回の演出は中村敬一、舞台装置は増田寿子、管弦楽は京都市交響楽団。

 主役陣はダブルキャストで、今日は田崎尚美(元帥夫人)、斉木健詞(オックス男爵)、山際きみ佳(オクタヴィアン)、𠮷川日奈子(ゾフィー)、池内響(ファーニナル)。
 また共演陣は2日間共通で、船越亜弥(マリアンネ)、高橋淳(ヴァルツァッキ)、益田早織(アンニーナ)、松森治(警部)、清水徹太郎(テノール歌手)、晴雅彦(公証人)、山本康寛(料理屋の主人)ほかの人たち。
 合唱はもちろんびわ湖ホール声楽アンサンブルだが、前出のソリストたちの中にはそのアンサンブルの登録メンバーも何人かいて、この合唱グループの活動の充実ぶりを実証している。

 演奏の面では、まず何よりも第一に、阪哲朗の指揮の素晴らしさを挙げなくてはならない。R・シュトラウスの音楽の官能的な、かつ叙情的な美しさをこれほど魅力的な語り口で見事に再現した指揮者は、日本の指揮者の中でも稀であろう。
 第1幕最後の元帥夫人の物思いの場面や、第3幕大詰めの三重唱と二重唱の場面での陶酔感に富んだ表情はもちろんのこと、第2幕と第3幕で大勢の人物が早口で応酬する部分でのオーケストラの起伏感、劇中で何度か意味ありげに「オクタヴィアンの動機」が再現する直前での微細な「矯め」など、彼の指揮の「もって行き方の巧さ」には、本当に感心した。

 この人はもともと一瞬の客演指揮で要領よく成果を上げるというタイプの指揮者ではなく、じっくり腰を据えて時間をかけ、丁寧に練り上げて良い演奏をつくり上げるという指揮者だから、このびわ湖ホール(もちろん山形響もそうだが)でのような制作体制の場所なら、彼の本領も最良の形で発揮されるはずである。であれば、初代芸術監督・若杉弘が基礎を築き、二代目芸術監督・沼尻竜典が発展させたびわ湖ホールのオペラ制作体制も、阪哲朗のもとで、これからも盤石であり続けるだろう。

 今回は京都市交響楽団の快演にも賛辞を捧げたい。いつぞやの「フィガロの結婚」とは天と地との違いだったと言っていい。第1幕の幕切れなどで、あのゆっくりした音楽を入魂の演奏で紡いでくれたのはうれしかった。(追記 No nameさん、そうですね、「フィガロの結婚」の時のオケの演奏、と書くのが正確ですね。京響さん、失礼しました)

 歌手陣は、みんな充実していた。初日(3月2日)の森谷真理、妻屋秀和、青山貴、石橋栄実、八木寿子の組も見事だったという噂を聞いたが、今日の人たちもそれぞれ良さを発揮していたと思う。田崎尚美は第3幕で元帥夫人としての気品と威厳を示し、斉木健詞は持ち前の長身と深みのある低音でオックスを厭味なく歌い演じていた。ファーニナルの池内響は、第2幕でのオタオタしている新興貴族から第3幕で元帥夫人に愛想よく腕を差し出す紳士への大きな変わりっぷりもいい。𠮷川日奈子もゾフィーを愛らしく歌い演じていた。
 そしてオクタヴィアン役の山際きみ佳は、今回の大収穫ではないかと思うが、素晴らしく魅力的なズボン役だ。以前にもこのホールでの「ドン・キホーテ」や名古屋での「ヴァルキューレ」で聴き、観たことがあるが、このオクタヴィアン役では、目覚ましい花形に成長していたと思う。

 演出は中村敬一で、手堅く、かなり微細なニュアンスを感じさせる演出で解り易い。歌手に客席の方へ顔を向かせて歌わせる手法や、怒った時に流し目を使わせる手法(今回はオクタヴィアンがやっていた)などには、あの大御所たる栗山昌良の影を感じさせて気になるけれども、それを除けば、好感が持てるオーソドックスなスタイルである。
 終り近く、元帥夫人は若い2人の結びつきを認めてやると、あとをも見ずに部屋を出て行くという「腹立たしい」表現の演技が展開されるのは特に珍しい手法ではない。だが今回は、最後に彼女が帰って行く時に差し出した片手を見てオクタヴィアンがむしろ躊躇うような様子を示し、その手にキスし終わる頃にはもうゾフィーの方を振り返っているという具合に、彼の関心がすでに元帥夫人から離れている様子が、はっきいと示されていた。この設定の演出は、面白かった。

 舞台装置は伝統的なスタイルだが、ファーニナル家の広間で、上手側に日本の端午の節句の兜や、ひな祭りの人形ひとつなどが飾られ、下手側には屏風も並んでいたのには笑いを誘われる。

 しかし最後に一言、字幕についてだけは些か不満を申し述べたい。特に第3幕後半など、登場人物の思惑が入り乱れるくだりなどでは、あの字幕では、ストーリーの進行さえ、解り難い。たとえば元帥夫人がオックス男爵に退去を命じる際の一種の詭弁的論理や自身の動揺などについても、もう少し観客の立場に立って文章をつくることが必要である。ドラマの本質が一目瞭然解るように伝えるのも字幕の使命なのだから━━。それに、「高身分」の人物みんなを「閣下」と呼ぶのは、不自然ではないか。ましてや元帥夫人までを。

«  | HOME |  »

























Since Sep.13.2007
今日までの訪問者数

ブログ内検索

最近の記事

Category

プロフィール

リンク

News   

・雑誌「モーストリー・クラシック」に「東条碩夫の音楽巡礼記」
連載中