2024-03

2011・5・29(日)新国立劇場 モーツァルト:「コジ・ファン・トゥッテ」初日

   新国立劇場  2時

 ダミアーノ・ミキエレットの演出が、実にいい。

 ドラマの舞台は、若者が集まるキャンプ場で、オーナーのドン・アルフォンゾは「失恋の痛手を引きずる男」(プログラム掲載のミキエレットのコメント)という設定。
 もっともこういうコンセプトは、かつてピーター・セラーズが試みた「ベトナム戦争のストレスを引きずる男が経営するドライブイン」を舞台にした演出をはじめ、当節ではしばしば使われる手法で、珍しいものではない。
 しかし、舞台の雰囲気と登場人物の演技が極めて生き生きしていて、心理描写に富み、しかも音楽の雰囲気をブチ壊さない(これが大切だ)という、均衡を保った演出である点が、何よりも快い。

 大詰めは、当然ながらハッピーエンドにならない。あのようなタチの悪いトリックが繰り広げられたあとで、恋人たちの間に和解が成立するはずはない・・・・という終結の解釈は、今日では常識だが、この演出でも最後は全員が自己嫌悪に陥り、憎悪しあってバラバラに別れて行く――友人同士だった男2人も、姉妹2人も、である。

 悪戯の仕掛け人アルフォンゾも、激怒したデスピーナに愛想をつかされ、「とりあえず約束だから」と渡した(このあたりの演技も細かい)報酬の紙幣も破られて叩きつけられ、独り残される。友人たちの純なる愛を破壊した張本人はコイツだ、という幕切れだ。実に自然なカタストローフで、ここにいたるまでの舞台展開と演技が、鮮やかなほど明快につくられている。

 パオロ・ファンティンの舞台装置とアレッサンドロ・カルレッティの照明も良い。夜のキャンプ場の光景など、すこぶる雰囲気豊かなものであった。

 歌手陣は、今回、例の大震災と原発の余波で、3人が入れ替わった。
 だがその代役、第1幕では、マリア・ルイジア・ボルシ(フィオルディリージ)も、グレゴリー・ウォーレン(フェルランド)も不安定、ダリア・オール(デスピーナ)は個性に不足。がっかりさせられた。
 ところが第2幕に入ると、デスピーナを除く2人は、慣れたのか調子が出たのか、別人のように安定して、良い歌唱と演技とを示すにいたったのである。これなら、2日目以降は大丈夫かもしれない。

 当初から予定されていたその他の主役は、概ね冒頭から快調の出来を示してくれた。
 バイロイトの異色ベックメッサーで人気を集めたアドリアン・エレート(グリエルモ)は今回も達者だし、ダニエラ・ピーニも、好奇心満々の性格をもつ妹ドラベッラを生き生きと演じていた。
 ローマン・トレケル(アルフォンゾ)は、今回は少し控え目な演技であり、また一瞬声が裏返るという彼らしくない事故もあったものの、長身を生かして貫禄充分。

 第1幕で、一部の歌手が精彩を欠いたのは、これも代役で来た指揮者ミゲル・A・ゴメス=マルティネスの遅いテンポと、東京フィルのさっぱり覇気の感じられない、か細い音の演奏のせいもあるだろう。
 序曲からして全くメリハリが無いし、幕開きのあのヴィヴィッドなはずの音楽にさえ、活気も劇的な緊迫感も感じられない。第1幕冒頭ではトレケルやエレートが、自己の感情の盛り上がりを、指揮者の「我が道を往く」優雅な(?)テンポと合わせ切れず、走り気味になる個所がいくつかあった。要するに、舞台と演奏とが全く異質になってしまっている、ということだ。

 指揮者とオケの演奏には綺麗なところもあり、このオペラの音楽の叙情的要素を浮彫りにした側面もあったことは事実である。しかし、それならたとえばあの三重唱(第10番)の、夢のように美しいハーモニーの移り変わりなど、もっとオーケストラを明確に響かせて描き出すべきではなかったか。
 周知の通り、このオペラでモーツァルトが駆使したオーケストラの色彩感、転調の妙味、夢幻的な美しさは並外れて凄いものがあるのだが、それとてピットのオーケストラがもっと大きな音ではっきりと聞こえなければ、味わいようがない。

 当初の予定通りパオロ・カリニャーニが指揮していれば、もう少し何とかなったのではないかと思うのだが・・・・。まあしかしこれも、第2幕ではほんの少しは改善されていたから、2日目以降は「何とかなる」のかもしれない――。

 とはいうもののこれは、もし当初の予定通りのキャストと指揮者で上演されていたらベストだったろうと思われるプロダクションだ。基本的には成功作と言えるだろう。
 演出家の起用も成功した。近年の新国立劇場の新制作の中では、最も良く出来た舞台である。

コメント

今日常識の、和解し合わない、ラストの合唱を皮肉にしてしまう結末だと、ミもフタもない低レベルの話に終わってしまい、私は好みません。オチのない落語みたいに思えます。モーツァルトのオペラは、やはり許し合うという18世紀的な余裕あってこそです。今の価値観に合わせる必要なんかないと思います。フィオルディリージの一幕の「岩のように...」のアリアが不発でとても残念に思いました。男二人の変身ぶりには笑えました。

ばらの騎士公演での日本人歌手の奮闘が記憶に新しいのに、「外人、外人!」と代役探しをする新国にはがっかりです。
「観客のニーズに合わせました」と言われたら、それまでですけれど。

はじめまして
 詳しい方は、厳しい意見なものなんですね。いい意味で感心しました。
 私、同じ日に見ました。生のオペラは、まだ2回目です。でも、ドラベッラのアリアをアリアを娘が、声楽で歌っていたので、いろいろと読んで、ストーリーを熟知した状態で娘と鑑賞しました。
 おもしろかったです。cosi fan tutteとはこういうものと思い込んでいましたが、心地よく見せてもらいました。夏のキャンプ場というシチュエーションを生かした明かりの使い方が上手だと思います。なんといって、キャンプ場ならではの恋愛にオープンになる心情が分かりました。男女共に。ラストも、納得です。あれで試されたと言われても、腹が立つのは分かります。
 2回目のオペラもよかったので、また、行きます。
 幼い感想で失礼しました。

判りやすい細かな演出、装置が廻り舞台の中に凝縮したものがあって、面白かったです。
残念だったのは、デスピーナ。舞台装置の凝縮さに、個性が押しつぶされてしまって。可哀想。良い歌手だと思ってますけど。
けど、この演出。再演となると、かなり再演にあたってのハードルが高くなりそう。
フェランドとグリエルモの人間関係がこじれたものになっていく細かな心理とその演技。公証人になってデスピーナが変装する前の、ドンアルフォンソとのなんとない厭らしいねちっとした仕草。

このコシ、ピリオド奏法を採用する指揮者を起用すると、よりこの演出の鋭さが浮かび上がること、確信します。なぜなら、音が鋭くなるから。細かな描写の多い演出に。直情的な人間関係ともとれる心理描写が浮かび上がると思うから。

2日目(6月2日)を見に行きました。2日目も指揮者のテンポと歌手の歌いたいテンポが合わずじまいだったようです。唯一、フィオルディリージの第2幕のアリアだけは何故か納得できるテンポで、マリア・ルイジア・ボルシも熱唱を聞かせていました。第1幕では、デスピーナが果敢にテンポアップに挑戦?したみたいですが失敗。カリニャーニが来日出来なくなって、代わりの手当てが上手くいかなかったということかもしれませんが、日本人でも良い指揮者はいるのでは?と感じました。(決してA.ゴメス=マルティネスが悪い指揮者ということではありません。ヴェルディなどでは良い演奏を聞かせそうな指揮者だと思います。)舞台の構成、色彩等と比べてそのテンポ感のアンバランスが妙な感じでしたが、全体のプロダクションとしては最近の新国立劇場のヒット作だとおもいます。特に、「らしくない」緑を基調とした色彩はとても新鮮でした。再演の時は是非、古楽系のピットでお願いしたいと思います。

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