2024-03

旅行日記 第5日
2007・12・10(月)「ボリス・ゴドゥノフ」

 ウィーン国立歌劇場

 今年5月の新制作上演に際し、山崎睦さんが「今シーズン最悪のプロダクション」とクソミソにけなしていたので、どれどれと思って再演を観に行ってみたのだが、なるほどこれじゃァ・・・・という感。
 ヤニス・コッコスの演出が何よりいけない。登場人物の演技が全く生き生きしていないし、群衆はまとまりなく右往左往するだけ。ロシアの民族衣装を着た舞台なら、一種の様式的な演出として名目も立ったかもしれないが、すべて現代的な服装とあっては、演劇的な要素の欠落が惨憺たる結果を生み出してしまう。群衆がひしめくプロローグの幕が開いた直後から、早くも退屈させられてしまった次第だ。

 ただ、ボリスを歌ったフェルッチョ・フルラネットに関してだけは、私は同情的だ。彼なりに一所懸命にやっていたように思える。いわゆる「ボリス・ゴドゥノフ」タイプとは全く異質なイメージの歌手だが、父親としての情感が強く、それゆえあまりに弱い性格のため破滅していく皇帝、という解釈も成り立たないこともないだろう。もっとも、対抗的存在としての群集があのようなお粗末さでは、それも生きてこないのだが。
 その他、歌手陣には、ロベルト・ホル(ピーメン)やハインツ・ツェドニク(聖愚者)も顔を見せていたけれど、その他の人たちは私にはなじみがない。みんなそれなりに手堅い歌いぶりではあったが・・・・。

 指揮は、春の上演を振ったダニエレ・ガッティではなく、セバスティアン・ヴァイグレが受け持っていた。これまた音楽的な魅力に欠け、つまらないこと夥しい。

 使用楽譜は、聴いた感じでは、1874年(1872年ともいう)版を基本として、初版(1869年版)を組み合わせ、そこから更にあっちこっち大幅なカットを施したものと見受けた。しかし特に理解しがたかったのは、最終場面で聖愚者と子供たちの一連のやり取りがない版が使われていたにもかかわらず、それを転収した版の聖ワシーリー寺院前の場面もすべて省かれていたことだ。どちらの版を上演してもいいが、あの愚者のシーンはこのオペラの中でも重要な意味を持つ個所だから、どちらかを生かすべきであったろう。

 なお舞台には、レーニンを思わせる「指導者」の後ろ向きの巨像が屹立、クロームイ近郊の森での暴動場面ではそれが引き倒されているが、群集が偽皇子ディミートリーの後について消えていく場面では、彼方に同じ巨像が復活して見える、という設定がなされていた。
 常に「強い指導者」を求める国(ロシアとは限らないだろう)を皮肉った描写で、この部分だけが唯一まともな演出であったといえようか。

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