2024-03

12・6(火)マーク・パドモアのシューベルト(3)「白鳥の歌」

   トッパンホール  7時

 前2回のリサイタルで、ティル・フェルナーは、パドモアの伴奏者として――いや、シューベルトの歌曲の場合にはピアノは「伴奏」どころではなく、歌と同等の存在であるはずなのだが、フェルナーは些か几帳面に端正に、控えめに過ぎていたかもしれない。
 パドモアがあまりに激情的に主人公の性格を表出するので、フェルナーはそれを引き締める役割を狙っていたのかも――という見方は、穿ち過ぎだろう。

 とにかく最後にそのフェルナーの見せ場もひとつ設けようということか、今日は最初に彼がソロでシューマンの「子供の情景」を弾いた。
 いかにも彼らしく、すっきりとした演奏である。淡白というわけではないのだが、何かしら覚めた生真面目さのようなものが演奏全体を支配している。馥郁と香るようなシューマンとは程遠い。

 こういうタイプのシューマンは、あまり私の好みではないが、たぶん手練手管の演奏に食傷したあとでこういう演奏を聴けば、極めて新鮮に感じられるだろう。
 いずれにせよ、休憩なしにシューベルトの「白鳥の歌」に移ったわりには、この2つの曲の相互の関連性といったものは、あまり明確には感じ取ることは出来なかった。

 「白鳥の歌」は、前2作と違って特定のストーリー性はない歌曲集だが、それでもすべての歌手が秘術を尽くして全14曲の流れをさまざまに構築する。
 パドモアは、多くの歌手が行なうように第8曲「アトラス」に全曲の頂点を置き、第13曲「影法師」で最後の暗い昂揚を築いた。

 それはそれで成功していたが、彼の歌唱スタイルがどれも共通したパターンの連続であるため、やや多彩さに不足するきらいもある。それにこの人、やはり基本的に「叫び過ぎ」ではないか? リサイタルを3回連続して聴くと、少々食傷気味になる。
 「影法師」が不気味な緊張で終わったあとに突如として出現する明るい曲想の「鳩の使い」など、浄化されたエンディングの性格か、あるいは解放感を持ったエピローグ的な性格を持って歌われたなら、全曲の――同時に「3大歌曲集」の締め括りとしていっそう感動的になっただろうと思うのだが・・・・。

 フェルナーも「アトラス」ではパワーを全開、パドモアの声を掻き消さんばかりのフォルティシモを叩きつけたが、些か唐突な感もある。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

https://concertdiary.blog.fc2.com/tb.php/1249-6b8cafcf
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | HOME |  »

























Since Sep.13.2007
今日までの訪問者数

ブログ内検索

最近の記事

Category

プロフィール

リンク

News   

・雑誌「モーストリー・クラシック」に「東条碩夫の音楽巡礼記」
連載中