2024-03

2012・10・26(金)クリスティアン・ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン

    サントリーホール 7時

 月曜以降、演奏会は、結石のため欠席していたが、漸く今夜から復帰。

 期待のティーレマンと、私の好きなオーケストラの一つであるシュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン・ザクセン州立歌劇場管弦楽団)の演奏会だ。プログラムは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」からの「前奏曲と愛の死」、およびブルックナーの「交響曲第7番」。
 なお後者は、プログラムには「ハース版」となっていたが、実際の演奏では第2楽章に打楽器が入っていたし、フィナーレではテンポの変動が大きいので、明らかに「ノーヴァク版」による演奏だったと言えるだろう。

 「トリスタン和音」の最初の音――それがふくよかな拡がりを以って響いた時には、果たせるかなティーレマン、さすがドレスデン、などと期待に胸をふくらませたのだったが・・・・そのあとがどうも拍子抜け。
 たしかに、「前奏曲」がうねりながら高まって行くあたりの強烈な集中力といい吸引力といい、かつその高まりが急激に崩壊したあとの空虚感といい、いかにもティーレマンらしい力量だと思われた部分もあったのだが、「愛の死」は予想外にどこか乾いた表情で、オーケストラの音にも隙間が感じられた。3年前、あのバイロイトの「指環」を聴いた時の魔性的なうねりのような音楽が、どうしても今夜の「トリスタン」の演奏からは聞き取れなかったのである。

 ブルックナーの「第7交響曲」でも同様だ。前半2楽章では非常に遅いテンポが採られ、それはそれでいいとしても、その遅いテンポの中には、何か音楽の豊かさと、表情の瑞々しさといったものが希薄だったように感じられてならない。
 但し後半の2つの楽章には、ティーレマンらしい良さも出た。特に第3楽章では演奏にも重量感が生じ、スケルツォ後半では嵐の如き緊迫感も漲っていた。第4楽章の第212小節のフェルマータ付休止は極度に引き延ばされていたが、ここで緊張が失われなかったというのも、昔のティーレマンと違うところだろう。

 最後の頂点に向け、渦巻く音塊をぐいぐいと結集させ、盛り上げて行くあたりには、ティーレマンらしい押しの強さが如実に現れていた。全曲最後の4部音符も、スコア指定と異なり、思い切り延ばされて結ばれる。
 ――という具合に、終りよければ全て好し、と言いたいところだが、しかし・・・・。

 ティーレマンへの期待が大き過ぎたか? だが、あの「指環」をナマで聴いたことのある人ならだれでも、今夜の演奏以上の出来を彼の指揮に期待していたのではなかろうか。
 オーケストラも、ホルンが「らしからぬ」演奏をしていたのをはじめ、どこか緊迫度が薄いように感じられてしまった。

 ティーレマンへのソロ・カーテンコールは2回。もちろん、彼のファンが熱狂を捧げるのは当然である。
 だが一方、「帝王ティーレマン神話」もいまや確立されつつある。彼に深い関心を持つ聴き手であれば、その演奏がたまたまその日は期待はずれの出来であっても、終ってみれば彼が「ティーレマンだった」ことを思い出し、熱狂的な拍手に巻き込まれてしまう、ということもあるだろう。私自身にも、そういうところがないともいえないのだが・・・・。

コメント

東条先生のご意見、なるほどと思いました。
ただ、ブロムシュテット&チェコ・フィルの「ブル8」の時と一緒で、私の意見は正反対ですが(笑)

私は、これまでティーレマンの実演に何度も接しています。ミュンヘンでのブルックナー、ウィーンでのシュトラウス、バイロイトの「指環」、ザルツブルクの「影のない女」などなど。(書いてみて気づきましたが、私は追っかけなのかもしれません。)特に「影のない女」の圧倒的な演奏は、音楽祭の歴史に刻まれるでしょう。日本の評論家が無視してしまったのは???

しかし、最も感銘を受けたのは、26日のブルックナーです。好きなタイプの演奏ではありませんでしたが。好悪を超越した説得力がありました。

>あのバイロイトの「指環」を聴いた時の魔性的なうねりといった音楽が、どうしても今夜の「トリスタン」の演奏からは聞き取れなかったのである

意外と勘違いしてる方が多いのですが、ティーレマンのワーグナーはもともとシュタインやホルライザー風の「カペルマイスタームジーク」で、結構淡々と進みます。音量もそんなに大きくはならない。いかにもドイツ風のバランス重視、朝比奈が言うところの「スケールの小さい音楽」なんです。バイロイトの「指環」については、野村三郎さんが「音楽之友」で、「雄大なワーグナーを期待していた聴衆は、肩透かしにあった気分だろう」と指摘していました。その通りだと思います。

あと、キツイお言葉かもしれませんが、ホルンのミスなんていうのはどうでもいいことです。アメリカと日本の人はよく「採点」しますが。…数年前、ゼンパーオパーでプレートル指揮のSKDを聴きましたが、その時の金管と言ったら(笑)天下のドレスデンがどうした?っていうレベルでしたよ。でも音楽は大変感動的で、聴衆は総立ちでした。

音楽の感じ方は人それぞれ。だから敢えて、正反対の意見を投稿しました。気分を害されたら、申し訳ありません。

ブルックナーは遅いテンポで80分近くかかったのではないでしょうか。過去のミュンヘンフィルとの来日公演(5、8番)と比べ、今回は作為的な感じが鼻について今ひとつ音楽に入り込めませんでした。おおらかで、素朴で、剛毅という一般のブルックナー像とは大きく異なって、正直、最近の都響・インバルの方が良かった気もします。
SKDは在京オケやアングロサクソン系オケのような輝かしさや、大音量や、名人芸はないものの、相変らず弦楽器がしなやかで良くまとまり、管楽器の音も弦に良く溶け込みますね。これからも来日公演は必聴でしょうか。

駄洒落から始まり、先生の無念さが伝わる文章。興味深く拝読させていただきました。
前回来日時、ミュンヘン・フィルとのブルックナー第8番のときは今回以上にホルンが安定しなかったのに、先生は高評価をくだされていました。鑑賞する側もまた、コンサートは心と体調に左右される、一期一会の体験ということでしょうか。
次は先生が良いティーレマン体験されますこと、お祈りしています。

届かぬ憧れ

私もトリイゾにはがっかりしました。先生ご指摘の通り、愛の死の最後の起伏と振幅はすばらしかったのですが。。。
前奏曲に象徴的なのですが、届かぬ憧れへの悶えのようなものが感じられず、聞き手をあのオペラの形而下な脱力感を伴うエロスの世界に誘ってくれないのです。期待が大きかっただけに残念。

その意味では、後半のブル7も同様でした。いつものように、聴き手を想像力の世界に遊ばせてくれない、演出過剰が目立つ演奏だった気がします。
ブルックナーに精神性を求める方には叱られそうですが、師匠のカラヤンの最後の録音の2楽章の老いてなおの艶と色気に涙する者にとっては、トリイゾ同様に「退廃」の香りに乏しい、やや「聴かせてやろう」的な演奏だった印象です。

ティーレマンは、叙事的な作品に向いているのかも。。。もちろん、席(オケの横)のせいもあったかもしれませんが…。

SKDのアンサンブルの「質」は、鑑賞眼の高い人ほど驚異的なものに映るでしょう。東条先生も指摘されていますが、例えば、近年のウィーン国立歌劇場管などは、ガサツな音を出すことが多いのです。(あの乾いた響きのオペラハウスのせいもありますが。)とくにメスト指揮のときは、単なる「爆裂系」の演奏に終始することが多い。…3月の「影のない女」のように、すべてがプラスに作用して、鮮烈な印象をもたらすこともあるのですが。…(あれこそ非ティーレマン型の名演!)

東条先生、ぜひ11月はゼンパーオパーで「ばらの騎士」を。私は仕事で行けません(笑)

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