2024-03

2008・4・20(日)ザルツブルク音楽祭制作「フィガロの結婚」

  大阪フェスティバルホール

 今年は大阪国際フェスティバルの第50回記念に当るということで、ラインナップはかなり華やかなものになっている。オリジナル企画云々という面では些か問題もあるが、とりあえず今年はメジャーな顔ぶれが揃っていることはたしかである。

 そのフェスティバルの第4日、ザルツブルク音楽祭制作によるモーツァルトの「フィガロの結婚」を、東京公演に先んじて観た。
 クラウス・グートの演出で、人物相関に極度の読み込み(読み替えと言わないのは、このオペラの台本からはこういう解釈も充分引き出せるのだという理屈も立つからである)を施した舞台である。第2幕のラストシーンでケルビムが壁に映し出して見せるこの相関図たるや、それはもう一見して目がちらちらするほどの複雑なものだが、それはもちろん演技においても細密に描かれているものである。
 グートのこの着眼点は、正しいだろう。
 これを観て、しかも続編の「罪の母」を含むボーマルシェの三部作全体を考えれば、第2部に当る「フィガロの結婚」におけるこのダ・ポンテの台本とモーツァルトの音楽とが、どれほど的確に、しかも精妙かつ巧妙につくられているかということに、改めて感嘆しないではいられない。

 この複雑な人間関係は、すべて愛の天使ケルビムによって仕組まれ、操られているというのがグートの演出の狙いだ。
 だがこれは、たとえ不倫であっても、そのエロスが単なる低次元の欲望ゆえではないということの一種の「弁護」とも解釈できよう。「ドン・ジョヴァンニ」においてならともかく、流石に「フィガロの結婚」のような音楽からは、グートもそこまでどろどろしたドラマを発想することを避けたのかもしれぬ。

 しかし、私は思うのだが、ケルビムの助けをこれほど借りなくても、伯爵にしろ、ロジーナにしろ、スザンナにしろ、そのようなエロスの持ち主であることを充分に描き出すことは可能なのではないかしらん。
 その意味で、最初のうちはともかく、オペラが進むに従い、グートの演出が、いやに説明過剰に感じられて来るのだ。視覚的にも、何かというとしゃしゃり出て来るこのケルビムの存在が、だんだんと煩わしくなって来るのである。

 少壮ロビン・ティチアーティの指揮は、ザルツブルクでアーノンクールやハーディングが指揮した時に比べると、ずっとストレートで、妙に意図的な細工や誇張はない。
 その意味では基本的には好ましいものだが、ただ、この舞台に拮抗するためには、音楽的に些か迫力を欠く。エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団の演奏も、本来はもっと個性を感じさせるものだ。
 将来はともかく、今のティチアーティには、もう少し穏健な舞台との協演の方が似合っているだろう。

 歌い手たちは、まあ、手堅くやってくれていたというところか。いや、決して悪いということではない。しかし、こういう演劇性の強い舞台を成功させるには、やはりザルツブルク・プレミエの時のような、一騎当千のツワモノどもが顔をそろえていないとなかなか難しいのは事実だろう。
 特にスザンナ役の歌手に一種の魔性的な性格が備わっていることが、この舞台の意味を左右する最大のポイントとなるはずなのだが、それは言っても詮無きこと。

 話は変るが、この大阪フェスティバルホールは、今年12月で改築のため閉じられるという。同じ建物の中にあるグランドホテルは既に閉鎖され、何がなし廃墟の気配すら漂っている。ここには取材や収録のため、何度も訪れた。それらもつい昨日のように思われ、懐かしい。

 思えば、初めてこのホールを訪れたのは41年前。バイロイト音楽祭の日本公演「トリスタンとイゾルデ」と「ワルキューレ」を観に来た時だ。
 ビルギット・ニルソン(イゾルデ)、ヴォルフガンク・ヴィントガッセン(トリスタン)、ハンス・ホッター(マルケ)、アニア・シリア(ブリュンヒルデ)、テオ・アダム(ヴォータン)らが歌い、ブーレーズとシッパースがそれぞれ指揮した(オーケストラはN響)。いずれもヴィーラント・ワーグナーの演出であった。

 今とは時代が違い、客席は気の毒なくらいのガラガラの入り。天井桟敷の一番安い席を買って東京からやって来たわれわれ3人の仲間は、第3幕になる頃には、1階のグランドサークルの傍に座っていたほどだ。
 それにしても、あの舞台の何と強烈な印象であったろう! ワーグナーの巨大な「闇」の物凄さに、われわれは文字通り圧倒されたのであった。
 たとえば「ワルキューレ」の「死の告知」で、暗黒の中から長い時間をかけて少しずつ姿が浮かび上がってくるブリュンヒルデの姿。「ワルキューレの騎行」で、広い舞台のスクリーンいっぱいに渦巻く雲を背景に、体を左右に揺らしながら歌い続けるワルキューレたちのシルエット。「魔の炎の場面」では、そのスクリーンいっぱい、半円形にゆっくりと拡がって行くオレンジ色の、やがて深紅に変る炎を背景に、ヴォータンの姿がこれもシルエットで浮かび上がる。
 とりわけ震撼させられたのは、「トリスタン」の幕切れ、奥行きも知れない大きな暗黒の真ん中にたった一つ、イゾルデの上半身だけがスポットのように浮かんでいる「愛の死」の場面。その一点をじっと見つめていると、こちらの目が錯覚を起こし、いつのまにかイゾルデの姿が視覚の範囲全体に拡がっているような感覚になるのだ。オーケストラ・ピットにはバイロイト祝祭劇場同様に大きな覆いがかけられていたので、いっそうその暗黒の魔力が生きたというわけであった。

 終演後、われわれは「すごいね」「うん、すごいね」と、それだけ言葉を交わしただけで、あとはひたすら黙ったまま、深夜の街を大阪駅まで歩き続けた。口もきけなくなる、ということこそ、真の感動なのであろう。そんなことは一生に一度でもあれば幸せというものだろうが、あの時のわれわれは、まさにそういう状態にいたのである。

 その大阪フェスティバルホールを訪れる機会も、おそらく今回が最後。


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