2024-03

2008・5・11(日)旅行日記第3日
新制作 ワーグナー:「ジークフリート」

  ウィーン国立歌劇場

 快晴続きのベルリンからウィーンに移動、こちらも抜けるような青空で気温が高い。街は観光客であふれんばかり。
 5時よりワーグナーの「ジークフリート」。制作進行中の「指環」の第2作。4月27日にプレミエされたばかりで、今日が5回目の上演だ。これが今回お目当てのオペラだったが、期待に違わず、いや期待以上の満足すべき上演であった。
 席はPARKETT LINKS 9-15、これは中央通路側で、出入りには非常に便利な所だ。

 指揮はフランツ・ウェルザー=メスト。昨年12月の「ワルキューレ」の時にも感じたことだが、この次期音楽監督の人気は非常に高い。現音楽監督・小澤征爾の同国人たる我々にとってはいささか複雑な気持にさせられる。
 しかし残念ながら、このような独墺系のレパートリーにおいては、やはり音楽の味において、ウェルザー=メストに一日の長があることは認めなければならない。曰く言い難いが、聴き手を納得させるようなものが備わっているのである。
 彼がオーケストラから引き出す音楽は、決して派手ではなく、これ見よがしな作意もなく、ひたすら生真面目なものと称してよかろう。といって、無為無策でも愚直でもない。モティーフの扱いに関して特に演出的効果を狙うところもないが、しかし、言うべきことはすべて言い尽くされている。この演奏からは、ワーグナーの音楽の良さが十全に伝わって来る。

 特に感心させられたのは、全曲におけるデュナミークのバランスの良さである。第1幕など、前半はかなり抑制した音量で進めながらも鍛冶の場面にかけて次第に盛り上げ、第3幕でも序奏などでオーケストラをあまり劇的に咆哮させず、ブリュンヒルデの目覚めの場の音楽から最後の二重唱にかけて徐々に高揚させて行くという設定だ。
 ただ、スコアに忠実すぎるというのか、弱音を几帳面に使うので、クライマックスに向けての大きな怒涛の流れに不足するかもしれない。それもウェルザー=メストの意図のうちなのだろう。たとえば第3幕後半の二重唱など、もともと音楽自体に外面的な壮大さが目立ち、その結果空虚なものを感じさせる危険をはらむ箇所なのだが、今日の演奏ではそのような欠点が全く露呈せず、むしろ叙情的な美しさが際立つという結果になっていたのである。これは、この曲の演奏としては注目すべきものであるといって間違いない。

 演出はスヴェン=エリック・ベヒトルフ、舞台美術はロルフ・グリッテンベルク。
 特に奇抜ではないが、なかなか好い。少なくとも、現在進んでいるザルツブルク/エクサン・プロヴァンス共同制作プロダクションの舞台などより、格段に好い。

 全体を通じ、テクストのニュアンスがそのまま演技に反映されているのが目立つ。それもこれ見よがしではなく、自然なさりげない形になっているのが好ましい。神話的な「ワルキューレ」と、各キャラクターが日常的な動きをすることが多いこちら「ジークフリート」との違いが自ずから現われているのだろう。
 ワーグナーの作品では常にそうだが、セリフの多い、レチタティーヴォ的な要素の多い音楽の部分では、人物の動きがめまぐるしく、「芝居」としての性格が濃くなっている。「マイスタージンガー」全幕がそうだし、この「ジークフリート」の第1幕と第2幕がそうだ。ベヒトルフの演出も巧みにそこを衝いて、舞台上の芝居を面白く見せる工夫を凝らしているようだ。

 たとえば、ちょっとした身振りにユーモアを感じさせるところなども、特徴の一つであろう。ヴォータンとミーメの問答の場面(第1幕)では、ミーメがガイドみたいな本を調べ、「さすらい人」が大神ヴォータンその人であることに気がつく。ヴォータンが歌っている間にミーメは物珍しげに槍を手に取るが、それを取り落とした途端に轟く雷鳴に震え上がり、ヴォータン自身も呆気に取られるという寸法。オリジナルでは、ヴォータンが自ら槍を地に突き立てて威嚇する場面である。このくだりは軽い読み替えだが、一寸コミカルな解釈だ。
 ヴォータンとアルベリヒが大蛇ファーフナーを呼び出す場面(第2幕)も微笑を誘う。オタオタするアルベリヒに、ヴォータンはまるでこう言うかのような演技だ。「もっと大きな声で呼んでみろ! ばか者、俺に向かってじゃない、ファーフナーにだ!」

 第1幕の壁には、至る所に森の獣の剥製のようなものがへばりついている。しかもすべて逃走の姿勢を採っているのが面白い。ジークフリートが連れてくる設定の熊は映像で、彼の後ろにフワリと投影されるが、これは「ワルキューレ」で見られた狼の映像を思い起こさせる。第2幕最後、幕が閉まりかける直前に、背景に飛んでゆく小鳥の姿が映像で映るのは、ソプラノがすべて陰歌だっただけに、気が利いているだろう。
 大蛇の出現の場面でも、その映像手法が活用される。後方の壁が上がると、緑色の半円形の画面が現われ、これが爬虫類のよく動く、巨大で不気味な眼に変る。戦いになると、その眼の中にジークフリートの姿が投影される。大蛇が斃されるとその眼は消えるが、少し離れた地下からファーフナーが出現、その背の高さは見る見る6、7メートルくらいにも伸びて行く。彼は死ぬと再び地下に消えるが、その言葉をもっと聞きたがるジークフリートが彼を引き上げようとすると、出てきたのはすでに鱗(衣装)のみだった。
 また第3幕では、ヴォータンはスコップで穴を掘っており、その穴からエルダが出て来る段取りで、のちに槍を折られたヴォータンも、その穴の中へ姿を消す。が、ここは少々小細工に過ぎるだろう。岩山への場面転換では一旦幕が下り、音楽は間奏曲として扱われる。炎を潜って辿り着いたジークフリートはススだらけで、ヘトヘトになっている。

 この演出で特に気に入った点を一つ、特に挙げておきたい。ミーメの言葉の謎の部分(第2幕)だ。ここは小鳥の通訳によってミーメの本心が聞こえてくるというように解釈もできる(キース・ウォーナーの演出にはそれに近い表現があった)が、今日の演出ではむしろ、ミーメの言葉の間に響く小鳥のモティーフにジークフリートがハッと耳を澄ます演技が何度か挿入されており、これによって彼が小鳥の警告をその都度思い出すことを描いていると言えよう。これもまた、音楽が忠実に演技に反映している一例である。

 シュテファン・グールド(ご本人の意向だそうなので、こう表記する)のジークフリートは、歌唱と演技と容姿の3つの点に置いて、今や斯界ベストの存在になったといってもよいだろう。声を巧みにセーブし、ほとんど出ずっぱりのこの役を最後まで疲れを見せずに歌いきった。最後のブリュンヒルデとの心理的な演技も、かつてのルネ・コロのそれには及ばずとも立派なものである。
 ヴォータンのユハ・ウーシタロは絶好調、「ワルキューレ」の時にも増して風格を備えるに至っている。こちら「ジークフリート」では少し俗っぽいキャラクターだから、やや楽なのかもしれない。
 
 ブリュンヒルデはニーナ・ステンメが、「ワルキューレ」でのジークリンデに続いて登場。あのバイロイト・デビュー(94年)の時のフライア歌手がここまで強い個性と強い声を聞かせるようになるとは、誰が予想したであろう。最近だいぶ肉が付いて来たようだが、あまり女傑タイプにならぬよう願いたいものだ。なお、このプロダクションでは作品によって一部歌手を変えており、「黄昏」でのブリュンヒルデはエファ・ヨハンソンが歌う。来年の4部作チクルスでもその同じ方式で行われるらしい。
 ミーメはヘルヴィヒ・ペコラロという人。巧いが、胸に一物あるニーベルングを表現するにはもう一つ。アルベリヒのトマシュ・コニイチュニーも、あまり悪役の雰囲気を出していない。エルダのアンナ・ラーソンは純白の衣装が映えて美しく、実に舞台映えする姿で、歌唱も優れている。小鳥はイレアーナ・トンカという、若く愛らしいソプラノで、カーテンコールにのみ私服で現われる。以上、総じて満足できる歌手たち。
産経新聞5月25日 演奏会評

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