2024-02

2008・5・28(水)広上淳一指揮水戸室内管弦楽団

  水戸芸術館コンサートホールATM

 小澤征爾が、腰椎椎間板ヘルニアのため休演。
 あの17日の「悲愴交響曲」の時には、そんな体調を微塵も感じさせない凄い演奏だったが、終演後に私が楽屋を覗いた時には「痛くて立っていられないんだよ」と語るほど疲れきった表情で、見るからに痛々しかった。せめて元気づけようと、6月末のウィーン(国立歌劇場)の「スペードの女王」には行きますから、と言うと、「ありがとう。(6月は)3回しか振らないんだけど」と小声で答えていたのであった。だが、結局それもキャンセルになる可能性が強いらしい(ウィーンでは未だ発表されていない)。そしてその前、6月の水戸室内管弦楽団を率いての欧州演奏旅行も、休演になってしまった。腰の痛みがどれほど辛いものかは、経験した者でないとわからない。察するにあまりある。とにかく、1日も早い回復を切に祈るのみである。

 水戸室内管の定期では、急遽広上淳一が代わりに客演した。芸術館ではチケット代を割り引き、S席13,000円を8,000円に、B席8,000円を5,000円に、というように変更して、前売客には差額を返金する方法を採った。小澤より広上の方が出演料も廉いのはだれでも想像がつくことだから、お客に対しては正直で良心的であるのはたしかだが、広上に対してはかなり礼を失しているのも事実だろう。私自身も割引料金に変えてもらった手前、彼には申し訳なく思っている。

 しかし、その広上が指揮した演奏は、なかなか優れたものであった。初日のためか、両者の呼吸が今一つと感じられる部分は少なからずあったが、2日目以降は改善されたことと思う。
 プログラムは、モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」序曲に始まり、ラデク・バボラークのソロで同じく「ホルン協奏曲第3番」、児玉桃のピアノ・ソロで細川俊夫の「月夜の蓮」、最後にベートーヴェンの第4交響曲、アンコールにグリーグの「過ぎし春」というもの。
 最初の2曲では、いずれも出だしの音にガリガリした硬質の響きが感じられたが、数秒を出でずして、しなやかな広上のサウンドに変貌して行った。オケ側ではどう感じていたか知らないけれども、少なくとも聴いた側から言えば、広上によってこのオーケストラにこれまでとは異なった色合いが注入されたことには間違いなかろう。バボラークも例の如く巧い。そして「第4交響曲」は、まさに躍動的である。
 ただ、「月夜の蓮」だけは、一昨年12月に小澤征爾がこのオーケストラを指揮して日本初演した時の、あのすばらしい演奏に比較すると、残念ながら雲泥の差があるとしか言えぬ。オーケストラの音は濁り気味だし、しかも異様に拍節感が強く(広上の唸り?がいけない)、ピアノの音は打ち消され気味で、作品の性格とはおよそ様相を異にするものになってしまった。
  音楽の友8月号(7月18日発売)カラー頁

 ちなみに2006年12月9日、小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団の演奏による「月夜の蓮」を聴いた時のメモは、以下のようなものであった(この一部は「音楽の友」07年2月号に掲載した)。今回の演奏での印象は、これとは全く違う。

 ・・・・今日のハイライトは、細川俊夫の新作「月夜の蓮」日本初演である(世界初演は4月7日にハンブルクで、準・メルクルと北ドイツ放送響、児玉桃のソロで行なわれている)。
 22分ほどの作品で、モーツァルトの第23番協奏曲第2楽章の fisをキーワードにしたもの。ピアノが蓮の花、オーケストラが水と自然を象徴するという。静かな明るい月の夜に蓮の花は開花に向かってまどろむ、というのが基本のイメージだ、と作曲者は書いている。
 しかし、こちらにはいささか異なるイメージで聞こえた。この水面は決して静かで穏やかなものではない。それは常にざわめき、胎動し、時に荒々しく波立つ。池というより湖であろう。いや、湖よりも、海のようにも感じられる。細川が以前から多く書いて海をモティーフにした作品におけると同様、そのざわめきは不気味な深淵を感じさせ、慄然とさせるのだ。
 この人のざわめきは、なぜ、いつも翳りがあって、暗いのか。蓮は開くにしても、水の中にそのまま寂しく生き続け、生涯を終ることを自ら慟哭しているかのようである。
 最後にモーツァルトのこの楽章の主題がピアノに遠く遠く微かに2度ほど姿を見せるが、これは作品へのオマージュというよりも、過ぎし日の思い出がほろ苦く懐かしく夢の中を霞めていくかのようである。そして曲は、湖畔を渡る風のような響きで終る。
 こういった感じ方は、あるいは作曲者の意図したところとは違うかもしれぬが、それはそれでいいだろう。純粋に音だけで考えれば、これは fisを基盤にして浮遊し、また元へ戻るという構成の作品といえよう。いずれにせよ、これは細川俊夫の優れた作品の一つである。

コメント

水戸室内管の二日目

私は二日目に当たる30日の公演を聴きました。先ほど水戸へのドライブを終えて帰宅したところです。実は当初は予定していなかった公演でした。小澤はチケットが高いし。ところが広上淳一が振ると聞きつけて急に思い立ったのでした。有り難いことに安くなった五千円は、高速道路代の一部に補填しました。

細川作品を除いては、音楽の躍動と歓喜が広上の体全体から迸る思いがして、まことに痛快な演奏でした。オケも、弦には小澤人脈のすっかりご年配のエライ女性陣が多く、広上の躍動する指揮についていけるかなぁと案じましたが、男性陣は今が盛りの猛者揃い。いずれにしても広上にとっては、若い頃にさまざまなシーンで教えを請うた先輩音楽家を含んだオケです。昨年振ったサイトウキネンオケに至っては、広上にとって「師匠筋」ばかりだったそうです。

細川作品については、開演前にうっかりプログラムノートの作曲者による解説を読んでしまったが為に、妙なイメージがアタマに作られたまま演奏を聴く羽目になりました。実際に響いた音楽が、どこか陳腐に感じられたのはその所為もあったと思います。一方で広上の作りはかなり動的で、ピアニストやオケに対する指示がやけにテキパキしてし過ぎていたことも事実です。そうした指揮の動的な特性が、この静的とまでは括れないけれど、空間の上下裏表を巧みに掬うかような作風とは相容れなかったところがあったと思います。

他の曲に関しては文句を言うほうが罰が当たるというものです。個々の奏者、特にファゴット、ホルン、クラリネットの各奏者の表現力が実に豊かで、広上の望んだフレージングの妙が巧みに表現されていました。代役の広上に佳い仕事をさせていた水戸室内管でした。去年夏の松本を思い出した一夜でした。

因みに広上に代演依頼があったのは、公演初日の三日ほど前だったとのこと。広上にとっても「ピンチヒッター」が欲しかったことでしょう。終演後、広上は急ぎ帰京。新日フィルとのリハーサルを済ませてから、再び水戸へ取って返すそうです。指揮者人生で最も脂ののりきった50歳です。小澤征爾の50歳も精力的だった。

訂正とお詫び

上記のコメントで広上淳一が31日に水戸へ戻って指揮を執るというようなことを書きました。しかしそれは事実と異なり、31日の水戸室内官定期演奏会に限っては指揮者なしで行われたということでした。ヨーロッパツアーの代役指揮者が見つからず、結局指揮者なしで行うことになったために、予行演習を兼ねたコンサートとなったようです。間違いを訂正するとともに、事実に反することを御ブログに書き込んでしまいましたことを深くお詫び申し上げます。

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