2024-03

2018・12・1(土)ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィル

     サントリーホール  6時

 バイエルン放送響が帰って行くと、入れ替わりに今度はミュンヘン・フィルがやって来た。いずれもアジア・ツアーの一環の由。

 こちらも負けず劣らず、素晴らしい演奏を披露してくれた。ゲルギエフも今やこのオーケストラを完全に手中に収めてしまったようである。3年前の、首席指揮者就任直後に聴いた時には、演奏にもまだ遠慮がちな雰囲気も残っていたので━━大概のオケならわけなくねじ伏せてしまうゲルギエフも、頑固なドイツのオケだけは、そう簡単に言うことを聞かせるわけには行かなかったらしいのである(ウィーン・フィルを相手の時にも、その微妙なせめぎ合いが面白かった)。

 今日は、前半にユジャ・ワンをソリストにブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」が、後半にはマーラーの「交響曲第1番《巨人》」が演奏された。
 ブラームスでは、たっぷりとした重厚な響きがつくられ、特に弦楽器群にはいかにもドイツのオケらしい、しっとりした音色が溢れていたが、その中にも僅かにゲルギエフらしい艶やかな表情が顔を覗かせている。第3楽章での陶酔的な瞑想を彩った美しいカンタービレなど、彼がオペラの指揮でいつも聴かせるゲルギエフ節ともいうべき歌に似ていたのが興味深い。

 ユジャ・ワンも、今回はブラームスとあって、抑制して几帳面に弾いていたようだが、随所に彼女らしい闊達な躍動、明るい解放感が現われるのが、これまた魅力を感じさせた。この相反する二つの要素が更にうまくバランスが取れるようになった時こそ、彼女のブラームスは独自の存在感を発揮するようになるのではないか。先年のNYフィルとの「1番」に続き、今回は「2番」に取り組んだわけだが、意欲的だ。

 なお彼女はそのあとソロ・アンコールとして、メンデルスゾーンの「無言歌作品67の2」と、ビゼーの「カルメン」の「ジプシーの踊り」(ホロヴィッツ編)を弾いた。ブラームスを50分間弾いたあとでこういう曲をやるというのも凄まじい。彼女にとってはこれも気分的な解放なのか。
 この間、ゲルギエフは袖に引っ込まず、いつものようにステージ下手の隅に立ったままじっと耳を傾けていた。オーケストラ・コンサートでソリストが2曲もソロ・アンコールを弾くのは過ぎたることと思えるが、多分これはゲルギエフが「けしかけた」ことなのだろう。以前、PMFオーケストラの東京公演で、カヴァコスがカーテンコールに出ていた時に、舞台袖でゲルギエフが「何か弾け、弾け」と身振りで煽っていたのを見たことがある。

 後半の「巨人」は、豪壮雄大で骨太な、滔々と流れるストレートな演奏構築。これがいかにもゲルギエフらしい。マーラーの神経症的な「悩める青年」的なイメージよりも、むしろ人生の確信に満ちたおとなの意気のようなものを感じさせる演奏だ。こういう演奏はCDで聴くと面白味に欠けるけれども、ナマで聴くとオーケストラの威力がものを言って、すこぶる迫力に満ちたものに感じられる。

 今回の「巨人」の演奏で印象深かったものの一つは、アッチェルランドの巧さだ。特に前半の二つの楽章では、徐々にテンポを速めつつクライマックスへ持って行くあたりの呼吸が実に見事であった。ゲルギエフのアッチェルランドの巧さには、以前のプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」の「氷上の戦い」で舌を巻いたことがある。そしてもう一つは、音色の多彩さだ。これはもう、彼のお家芸である。
      →(別稿)モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

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