2024-03

2006・8・27(日)バイロイト祝祭(終)「神々の黄昏」

     バイロイト祝祭劇場  4時

 前日の午後には、体調もほぼ復調した。だが今日、劇場で逢った何人かの日本人の知り合いたちが、何故かみんな私の「ラーメン事件」を知っていて、「大丈夫ですか」と冷ややかな笑いを浮かべながら話しかけて来るのには閉口した。
 若山弦藏さんなどは、遠くから手を挙げて近づきながら「なに、あそこのラーメン食って腹こわしたんだって? ワハハハハハ」という具合である。
 M氏のように「僕も昨夜、試しにそのラーメンを食べに行ってみたけど、何ともなかったよ」という剛の者もいた。やはり、私が食べたのは「試作品」だったとみえる。

 余談はともかく、今日は「指環」の最終日。
 オーケストラには、ホルンなどに少々の取りこぼし(これは「ジークフリート」でのホルンにもあった)が聴かれたものの、弦を中心に、その威力はやはり物凄い。
 特に感心させられたのは第2幕後半だ。特に「ホイホー・ハーゲン」や「グンターの帰還」の箇所などが予想外に抑制気味だったので、後半のブリュンヒルデの怒りを中心とするアンサンブルと三重唱の場面での轟々たるオーケストラが効果を発揮する。ティーレマンがここにクライマックスを持ってくるという構築を考えていたのは明らかで(勿論それはこの作品における必然的なコンセプトであったはずだが)それがまた見事に達成されていた。

 本プロダクションでは「間奏曲」としての性格を持たされた「葬送行進曲」でも、ティーレマンは、「死の動機」を含む箇所の長い4分音符をクレッシェンドさせて迫力を強調する。
 しかし更に圧倒的な感銘を受けたのは、「自己犠牲」の冒頭部分。限りない闇の空間に拡がっていくかのようなオーケストラの響きは、かつて耳にしたことがないほど壮大なものであった。ブリュンヒルデの声はオーケストラに埋没せず、同化もしていない。大波のごとき管弦楽の上に、すっくと立つ彼女の毅然とした姿が、まさしく音で表現された稀な瞬間である。

 それまでの3作では全くといっていいほど使わなかったあのG・Pを、ティーレマンはついに「黄昏」で多用した。特にヴァルトラウテの場面。ここではテンポも音量も落すことが多かったが、藤村実穂子がこれを堂々と持ち堪えたのも素晴らしい。クライマックスをつくる箇所と、その伏線となるべき箇所、そしてその両者間を移行する箇所、これらの設計におけるティーレマンの巧みさは、その表情が大きいだけに、レヴァインやバレンボイムよりも遥かに際立っている。

 歌手では、当初グートルーネに予定されていたガブリエーレ・フォンターナがエディト・ハラーという人に替わり、第1幕ではちょっと自信無げな歌唱に終始したが、第3幕では孤独感を表現する歌唱に力を増した。
 グールドも第2幕終り近くでは少し疲れ気味だったようで、例の「はしゃぎすぎ」の箇所では少々いい加減な歌い方になってしまったが、全体としては申し分ない。魔薬を飲まされた後の人格の変化を表現するにはまだとても無理な演技力のように見えるが、これは演出のせいでもなさそうだ(思えば、この場面でのルネ・コロの演技は絶品だった!)。いずれにせよこれからの課題だろう。
 彼がグンターに化けて岩山に押し入る場面では、ロボットのように言葉を一つ一つ区切って叩きつけるように歌うという手法を採った。おそらくティーレマンとの相談の上でだろうが、興味深い解釈である。それに彼は元バリトンだけあって、特に低音域の声が太いので効果的だ。

 リンダ・ワトソンは最後まで力を失わず、ブリュンヒルデとしての使命を完璧に果たした。ハーゲンのハンス・ペーター=ケーニヒはこの役にふさわしく豪力無双の趣きだが、独りになって悪の本性を剥出しにするはずのモノローグでは、意外に表現の幅が狭く、前プロダクションでのジョン・トムリンソンの底知れぬ凄味には遠く及ばない。
 総じて歌手の世代が若返っているためだろうが、そのパワフルな声にもかかわらず、歌にも演技にも陰影が乏しかったのは事実である。

 だがその中で、ヴァルトラウテを歌った藤村実穂子だけは暗いアルトの声を巧みに使って悲劇性を充分に表出していた。劇場の空気をびりびりと震わせる声━━という表現は誇張でも何でもない。彼女は本当に凄い歌手である。カーテンコールで素晴らしい称賛を浴びていたのも当然であろう。

 演出のドルスト━━神々の世界よりは人間を描く方が多少は上手いようだが、それでも散漫なイメージを拭えない。
 ギビフング家の階段に腰掛けて終始本を読んでいる男、ライン河(といってもこれは「ラインの黄金」で神々の世界だった「屋上」に「下水の排水溝」をしつらえた舞台で、乙女たちは今や下水道暮らしというわけだ)のコンクリートの堤防の上で涼んでいるカプル、走り回る子供━━こういう手合いがウロチョロしているので、大詰のカタストロフ場面で火事に慌てて荷物を抱え、子供を連れて館から逃げ出す連中の存在が、何となく曖昧になってしまうのである。

 このラストシーンはシェロー版をもっと乱雑にしたような光景で、せっかくの音楽から注意を逸らされてしまうほど原が立つものだ。それにまた、のべつ幕を下ろすのも気に食わない。なお岩山での炎の環は、「ヴァルキューレ」ではさほど気にならなかったものの、「黄昏」になると単に小さな魔法の円陣に見えてしまい、安物の演劇のイメージになってしまった。

 この演出、「神話」と「現代」が交錯するというアイディア自体は大いに結構である。「神々は今でもあらゆる場所を彷徨っている」というドルストの言葉を鍵として考えれば、現代のわれわれがいるこの場所で、現代人の目には見えぬ神話のドラマが繰り広げられており、ごく少数の感受性の鋭い、純粋な心を持った子どもたちだけがそれを視ることができるということになるのだろう。
 また、現代の日常に起こる様々な出来事が、今なお存在している神々の気まぐれや争いにより引き起こされる━━というギリシャ神話的発想が応用されているとすれば、この演出もいっそう面白く思われる。

 ただ、それにしては今回の舞台は、ただ神話と現代が何となく共存しているという印象もあって、それが甚だ雑然たるイメージを生んでいるのは事実だろう。今年がプレミエだから、まだ未整理の部分も多いかもしれない。来年以降、この面白いコンセプトがどう巧く練り上げられて行くか、それに期待をかけるしかなかろう。

 これで、今年のバイロイト旅行を終る。なお、9月23日の日本ワーグナー協会の例会(東京芸術劇場大会議室)では、私が舩木篤也さんおよび鈴木伸行さんとともにこの公演について詳細に報告した。

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